企業内検定の企画

学校関係の企業での研修の一環として、検定制度を企画しています。学校や教育関係の基礎知識や業務上必要な知識の簡単なテキストをつくり、検定はそこから選択問題で出題するというものです。落とすための検定ではなく、学んでもらうきっかけとしての検定です。
学校関係のものは私がその企業向けに連載している学校情報のコラムからテキストをつくります。コラムそのものは長いので、それを担当の方に要約していただくのですが、書いた本人ではないのでなかなか難しいものがあります。特に難しいのは、コラムを単に要約するのではなく、その企業の社員にとってどのような情報が大切なのかの判断です。実際の現場を知っているわけではなく、また私がポイントをうまく伝えられなかったため、苦労されていると思います。
今後いろいろな方のご意見をうかがいながら、完成に近づけていきますが、こういった企画にかかわることで、改めて先生の仕事のたいへんさ、複雑さを実感します。

先生方の研修はOJTが中心となりますが、充実しているとは言い難い状況のように思います。もちろん市販の書籍等で個人的に勉強されている方もありますが、日常の仕事に追われ、なかなかその時間が取れない方が多いというのが実際でしょう。検定制度という訳ではありませんが、先生方が手軽に学べるようなアイテムや機会が必要だと思います。インターネットでは、学校教育に関する情報もたくさんありますので、定期的にそういったものを閲覧することもお勧めします。

第2回 教育と笑いの会

昨年末に開催された「第2回 教育と笑いの会」は、前回に引き続き大盛況となりました。今回私は「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」というコーナーの司会という大役でした。

開始5分ほど前から玉置崇先生が会場を温めます。さすが落語会を数十年にわたって運営してきた方です。開会する時には、すっかり観客の皆さんが話を聞く雰囲気になっていました。
まずは、「野口芳宏・玉置崇の教育漫才」です。
玉置先生が事前にネタの打ち合わせを野口先生にお願いしたところ、その必要はないとの返事だったそうです。しかし、さすがに台本なしではと思い、玉置先生はどのように進めようかと前日の晩はろく眠れなかったそうです。当日は、さすがに野口先生も不安になったのか、「ちょっと打ち合わせをしておこうか」と言われたそうです。いかにも野口先生らしい、とぼけたお話しです。
玉置先生が野口先生にあこがれていた時の出会いや、昨今の教育事情のネタは教師の枠を超えて笑えるものでした。ぶっつけ本番とは思えないほどのできでした。

続いては、志水廣先生の教育漫談です。
さすがは関西出身者、「綾小路きみまろ」ならぬ「綾小路しみまろ」として、服装から髪型まで、ここまでやるかという演出。前の方に陣取った志水先生ファンならずともしっかりと笑わせていただけました。

池田修先生の「『こんな時どう言い返す』ユーモア返答術講座」は、ワークショップ形式で、こんな時どう言い返すか、参加者の方にも考えていただきました。皆さん隣の方と楽しそうに言いあっていらっしゃいます。しかし何といっても面白かったのは、池田先生が関西の先生方から聞かれた切り返しの例です。言葉ではうまく説明できませんが、いかにも笑いの本場関西と言えるものです。また、それを見事に再現する池田先生。関西出身でないとは信じられないほどです。
まじめな子どもにこんな言葉で言い返したら、怒ってしまいそうな例もありますが、先生と子どもとの人間関係によってその効果は変わってくるのだろうと思います。ユーモアは相手との関係に大きく影響されるものであることを改めて意識させられるワークシップでした。

ここからは、落語が2席続きます。協賛してくださっているEDUCOMのスッタフの皆さんが準備してくれた見事な高座で、本格的な落語を楽しみます。
1席目は、「校長もできる落語家月の輪熊八」こと小林幹政先生の「黄金の大黒」。
いやあ、びっくりしました。どこから見てもプロの落語家。声といい間といい、ほれぼれします。この後、プロの桂雀太師匠はやりにくいのではないかと思うほどです。すっかり先生の落語のファンになりました。

2席目は、昨年もお願いした桂雀太師匠の、「代書屋」です。
さすが、プロ。エネルギッシュでそれでいて細やかな、「これが雀太です。個性とはこういうものです」と主張しているような一席でした。一気に師匠の世界に引き込まれました。次の自分の出番も忘れて、噺を楽しんでしまいました。

最後は、「故・有田和正先生の授業におけるユーモアを学ぶ」と題した、野口先生、志水先生、桂雀太師匠、玉置先生に、有田先生から多くを学び、これからの社会科教育をけん引する一人である佐藤正寿先生を加えて、ユーモアとその効用に関して語り合うコーナーです。
最初に、「愛される学校づくりフォーラム2013 in東京」での有田先生の模擬授業を20分ほどに編集したビデオを皆さんに見ていただきました。有田先生の絶妙のユーモアと素晴らしい授業内容に皆さんが引き込まれているのがよくわかります。
ビデオを見終わってから、いよいよ本番です。登壇者にお話を聞く前に、この日有田先生の体調はとても悪く、フォーラム終了後すぐに入院することになったにも関わらず、模擬授業では終始笑顔を絶やされなかったことを紹介させていただきました。ビデオの音声に注意すると、有田先生が舞台を移動する時に苦しい息遣いをしているのが聞こえてきます。胸に迫るものがありました。
話の口火は、佐藤先生にお願いしました。「1時間の授業の中に笑いがない教師は警察に逮捕させろ」という名言がある有田先生から、教材研究や授業技術だけでなく、ユーモアの大切さも学ばれました。佐藤先生の授業は常に笑顔を絶やしません。有田先生のユーモア精神は、次の世代の多くの先生に引き継がれているように思います。
志水先生からは、筑波大学附属小学校時代の同僚としてのエピソードを披露していただきました。授業だけでなく学年主任として保護者に対してお話しする時もそのユーモアで場の雰囲気を和ませていたそうです。
玉置先生に助けていただきながら、「緊張と弛緩」という視点が明確になっていきました。質問の答や課題を考え緊張している時、笑いで場が弛む、ほっとして教室の雰囲気が和む、これがユーモアの効用であり、意識すべきことです。
笑いのプロである雀太師匠からは、有田先生の笑いを「いやらしい」という言葉で評されました。その真意は、自分の笑いやその間をよくわかっていて、確実に笑いを起こすことができるので、ちょっと「いやらしい」ということでした。また、笑わせようとしてはダメだという言葉に、プロとしての笑わせることの難しさと奥深さを感じました。
笑いは子どもとの関係性が大切になるということに関連して、野口先生からは、「笑いは残酷なものである」という話がされました。「失敗するからおかしい。失敗して笑われる者はつらい」、だから笑いは残酷なのです。みんなが笑えるということは、笑われる立場の者も含めて笑える関係になっていなければなりません。笑いのある教室をつくるということはそういう人間関係をつくることと同じなのです。「失敗しても笑われない学級づくり」の一歩先にある「失敗を笑い飛ばせる学級づくり」です。
拙い司会でしたが、すばらしい登壇者のおかげで、有田先生を偲びながらユーモアについていろいろと考え学ぶことができました。

裏方を引き受けてくださったEDUCOMのスタッフのみなさんの協力のおかげで、プログラムは滞りなく修了しました。参加された方々の満足そうな表情に一安心でした。
「来年も開催しましょう」という野口先生の一言で、第3回の開催も決定しました。詳細が決まり次第、この日記でお伝えしたいと思います。

「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」で、「授業アドバイスツール」をモニター希望者に無料貸出し

愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の午後の部「楽しく、手軽に授業改善しよう」では、愛される学校づくり研究会で企画した「授業アドバイスツール」が紹介されます。

このツールは、タブレットや携帯端末を使って授業を動画で記録しながら、画面をタッチすることで、静止画と共にそのポイントを記録するものです。従来のビデオで授業を記録する方法では、見たい場面、共有したい場面を再生するのに手間がかかり、せっかく動画を撮ってもなかなか活用されません。このツールを使うことで、授業後、授業者や参観者と共に、その場面を簡単に共有し振り返ることができます。ハイビジョンで記録されますので、子どもたちの様子も細かい部分まで確認することができ、子どもの事実を元に授業を振り返ることができます。

今回、この「授業アドバイスツール」が「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」に参加された方を対象に、開発元の(株)EDUCOMよりハードと共に無償でモニター希望者(学校)に貸し出されることになりました。モニターの条件等の詳細は、当日フォーラム会場で発表されます。興味のある方はぜひ、「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」にご参加ください(申込みはこちら)。
もちろん「授業アドバイスツール」以外にも見どころはたくさんありますので、モニターを希望されない方も是非ご参加ください。決して損はさせません。

学校におけるICT活用のあるべき姿について研究会で考える

昨年のことで恐縮ですが、愛される学校づくり研究会で、会員の岐阜聖徳大学の芳賀高洋先生の「考え続けるICTの『迷い』と『希望』」という講演を元に、会員で話し合いを持ちました。

芳賀先生は、インターネットの黎明期から今日までの学校におけるICT活用について眺めた上で、社会的なインフラとなっているICTが学校では未だに教具としてとらえられ、その枠の中での活用しか議論されていないことへの苛立ちを露わにされます。既に社会は、ICTやネット環境があることが前提となって動いています。簡単な例で言えば、学校で行われている原稿用紙に鉛筆での文章作成は、現実社会では一部の作家だけでのものでしょう。私自身、原稿用紙を前にして作文しろと言われても、数行書くにも四苦八苦しそうです。ワープロを使わずに文章を書くことはもう考えられない状態です。また、学校では子どもたちはごく一部の時間でしかインターネットを活用しませんが、家庭ではスマホでネット検索は当たり前の状態です。

芳賀先生の主張される、ICTは道具でありそれがいつでも使えることを前提とした教育を考えるべきだという考えは、その通りだと思います。しかし、他の会員との話し合いではなかなか議論がかみ合いません。現実に学習指導要領の枠の中で子どもたちに一定の学力を保障することが命題として与えられている先生方にとって、じゃあどうすればいいのかという具体的な対応が見えてこないのです。学力をつけることが目標である授業の中で、教具として有効な部分はどんどん使えばいい。このことはだれしもすっきりと腑に落ちます。しかし、道具として自由に使わせることを考えた時に、今ある授業の構造とは全く異なる学習形態が求められます。子どもたちにつける学力は何かということから違ってきてしまうように思います。
OECDの調査でも日本の子どもたちの学力は非常に高いものがあります。それを維持しつつ新しいパラダイムに移行する道筋は、まだだれも明らかにしてくれていません。ここに大きな断絶があると思います。この溝を埋めていくことが、大切でないかと思います。
「教具論」と「道具論」が対立してそれぞれの立場に固執するのではなく、互いがつながっていくための道筋を模索していくことが必要だと思います。

研究会では今後もこの問題は継続して検討していく予定です。また、2月6日(土)に開催される「愛される学校づくりフォーラム2016 in東京」の午前の部「愛される学校づくり“公開”研究会」の「テーマ4:授業における『真のICT活用』とは」でもこの問題が議論される予定です。まだ申込みは間に合いますので、興味のある方はぜひご検討ください。

短期間で大きく成長された先生

2学期末に中学校で体育の授業のアドバイスを行ってきました。授業者は2か月前に授業アドバイスをした方です(子どもたちにどうあってほしいかを意識することの大切さを感じた授業参照)。どのように変化しているのかが楽しみでした。

3年生の担任であるのに、この時期に研究授業をやろうという意気込みに感心しました。授業力向上を真摯に望んでいることがよくわかります。
この日は創作ダンスの授業で、前回と同じく3年生の2つの授業を見せていただきました。
どちらも前回と同じ子どもたちなのかと思うくらい様子が変化していました。視線がしっかりと授業者に向いて、表情もとても明るく感じられます。集合してまわりと話していた子どもも、授業者が口を開くとすぐに口を閉じて集中します。自然で柔らかい雰囲気なのですが、行動もとても速くなっています。準備運動のランニングも列が短くなっています。体育において大切な授業規律が格段によくなっていました。
この状況をつくっているのは、明らかに授業者です。顔が上がるまで、笑顔で子どもたちを待てます。顔が上がれば視線を合わせて笑顔でうなずいています。ランニング中も子どもたちから視線を外しません。柔軟運動をしている時の動きもなかなかでした。補助をする時もできるだけ全体を見られる位置を意識し、顔がよく動いています。支援が必要な子どもに素早く気づけています。常に学級全体がどのような状態であるかをしっかりと把握できていました。子どもたちをよく見ること以外にもいろいろと意識していたはずです。何秒で集合したとホワイトボードにメモしたりして目標を持たせることもしていたそうです。すでに素早い行動が定着したのでそういったことも必要なくなったようです。2ヶ月の間にそこまでになっていたのです。
前回、この学校の子どもは緩いという評価をしましたが、私の見誤りでした。授業者が求めれば、規律のあるしまった行動をとれる子どもたちです。

授業の課題は「とぶ」をテーマに2分ほどのダンスをグループで創作することです。最初に「とぶ」から湧くイメージをワークシートに書かせます。「とぶ」と漢字にしないことでイメージを広げようとしたのでしょう。何人かの子どもたちに発表させてから、手順を説明します。テーマとイメージを線でつなげ、今度はそこから連想されるものをつないで樹形図をつくっていくのです。このイメージを広げる作業を全体でやって見せます。子どもたちの発言をしっかりと受容し、言葉が出てこない子どもに対しても笑顔で待つことができています。子どもたちもとても集中しています。
迷うところではありますが、最初のイメージを書かせる前に「とぶ」という言葉をもう少し耕しておいてもよかったかもしれません。例えば「『とぶ』には、どんなとぶがある?」と問いかけることで、「飛」「跳」と漢字を出させ、「飛翔」「飛躍」「跳躍」といった言葉につなげておくのです。こうすることで、具体的なダンスにつなげやすいイメージが出やすくなるように思います。
イメージの樹形図を元に、「はじめ→なか→おわり」のストーリーをつくることを指示します。クライマックスを工夫するようにと伝えますが、具体的にどのようにすればよいのかを考えるための方法がはっきりしません。「明るい⇔暗い」「高い⇔低い」「動⇔静」「強い⇔弱い」「速い⇔遅い」「平面⇔空間」「直線⇔曲線」「集まる⇔散る」といった変化のキーワードを意識させたいところです。時間があれば、途中でどのようなことを考えているかを発表させてキーワードを共有させるという方法もありますが、今回のように発表までを1時間で終わるのであれば、活動の前にどのような変化があるのかを子どもたちに考えさせる時間をとるとよかったでしょう。

「やることをわかった人?」と確認をして手を挙げさせます。ただ確認するのではなく外化させているのも指示を徹底するために必要なことです。子どもたちは、グループに分かれた後、素早く活動を開始します。口頭の指示だけでなく実際に全体でやって見たことで何をすればいいのかよく理解できていたようです。

振り付けを考えている時に一部の子どもがグループから離れていました。授業者はそのことに気づいて素早くその子どもたちに声をかけました。声をかけられた子どもたちは、すぐに輪の中に入っていきました。よく子どもたちの状況を見ていました。
子どもたちはよくかかわりながら活動していましたが、残り時間がそろそろ気になってきます。全体に対して残り時間を伝えることで、せっかく集中して活動している子どもたちの動きをとめたくなったのでしょう。直接グループのところへ行き、タイミングを見計らって残り時間を伝えます。なかなかの対応だと思います。

発表の順番をじゃんけんで決めますが、意外と時間がとられます。こちらで指示したり、あらかじめ一定の規則を決めておいたりする方がよいかもしれません。
発表にあたってタイトルとどのようなストーリーなのかを伝えさせます。時間がないので難しいのですが、そのストーリーがどのような課程で決まったのかを共有することができると今後の創作の参考になったと思います。
授業者は、発表者と見ている子どもたちの両方を見られる位置に立っています。しかし、実際には両方を同時にはなかなか見られません。どちらを見ればよいのか困っているようでした。口頭での発表であれば、聞いている子どもを見ていても話の内容を聞くことができますが、動きを見る発表ではそうはいきません。基本的に発表者を見ることが中心になります。見ている子どもたちの様子はチラチラと素早く集中しているかを確認することでよいと思います。気になる子どもがいるのであれば、その子どもを意識的に見るようにします。

子どもたちは、「空飛ぶ絨毯」「コンサート」「カエルに返る」……とユニークで面白いストーリーをつくっていました。中には体操服を脱いで印象を変えたり、光のあるところで演技をしたりと演出に工夫をするグループもあります。しかし、ストーリーをつくることや演出にばかり意識が行ってしまい、創作ダンスの表現としては中途半端なものになっていたように思います。ストーリーとダンスの動きをつなげるための手立てがはっきりしていなかったことがその要因として挙げられます。先ほど述べたような変化のキーワードを意識させておくことが必要だったように思います。
授業者はワークシートに「体全体(表情・指先)で伝えよう!」と書いておいたのですが、あまり意識されているように見えません。授業者がこの活動を通じてどんな力をつけたいのかが明確になっていないために、子どもたちも意識できていないのです。「構成力」なのか「表現力」なのかどちらだったのでしょうか。「構成力」であるならば、「はじめ」「なか」「おわり」それぞれがどのような「ストーリー」なのか、「クライマックス」はどこかを明確にさせる必要があります。「表現力」であれば、それをどのような動きで表現するのかです。もちろん両方でもよいのですが、それをキチンと意識させ、評価することを授業に組み込む必要がありました。「はじめ」「なか」「おわり」「クライマックス」に分けてストーリーをつくり、それぞれに「速い」「回転」「上下」といったダンスの動きにつながる「キーワード」を決めさせといったことをするとよかったかもしれません。こうすることで、単なる感想ではなく、「構成」や「表現」がどうだったのか、具体的に評価することもできたと思います。

子どもたちはとても集中して互いの発表を見ていました。真剣に自分たちが取り組んだからこそ他のグループの演技も気になるのでしょう。
一方の学級でおもしろい出来事がありました。一人だけ顔が上がらない子どもがいたのです。後で聞いたところ、なかなか教室に入れない子どもだそうです。しかし、グループの活動の時は、積極的でないにしろ友だちとかかわりながら参加していました。とはいえ、発表の場面ではやはり他のグループの発表を見ていません。ところが、自分たちの発表が終わった後、顔が上がり他のグループの発表を笑顔で見ていたのです。きっとグループの一員として発表できたことがうれしかったのでしょう。とてもよいものを見ることができました。
また、授業終了後授業者が何も言わないのに使った黒板をきれいに消している子どもがいました。さすが3年生といったところです。

体育の教師にとって特に大切な授業規律や指示の徹底はかなりできていました。前回と比べて大きく進化しています。短い期間にこれだけの変化があったということは、素直に自分の授業を見なおして改善したということです。また、基礎となる力がしっかりとあったということでもあります。私のアドバイスという、ちょっとしたきっかけで大きく進歩するということは、逆に言えばそのような機会がこれまでなかったということです。
次の課題は、「できる」ようになるためにどのような「活動」が必要なのかを明確にすることです。「できる」ようになるための「手立て」を授業者がはっきりとわかっていなければいけません。当然、何をできるようにするのかという「ゴール」がシャープになっている必要もあります。これが教材研究です。授業規律や指示の徹底と違ってそう簡単なことではありません。体育の教師としての力量が問われるところです。しかし、意識して毎日の授業に臨み、子どもたちの事実から学んでいけば必ず力はついていきます。素直で、前向きな方なので、きっと着実に進化していかれることと思います。

授業者からは、教室での保健の授業をどうすればよいのか困っているということを相談されました。どうしても知識を一方的に教え、板書を写させることになってしまうようです。知識と考えさせたいことをきちんと分けて授業を構成する必要があります。機会があれば、またアドバイスさせていただきたいと思います。

若い先生の成長を間近で見ることができ、とてもうれしく思いました。この仕事をやっていてよかったと思えた時間でした。ありがとうございました。

日記の更新について

都合のより、しばらくの間日記の更新を不定期とさせていただきます。

2月には、通常の更新間隔に戻る予定です。楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

相手との関係を意識したコミュニケーション

昨年末に行なった介護関連の研修の話です。今回は、当初の予定を変更して、相手との関係を意識したコミュニケーションについて考えていただきました。

きっかけとなったのが、中学生の新聞の投書でした。バスで高齢者に席を譲ろうとしたら「ふざけるな」と怒鳴られてしまったという内容で、「モンスター老人」の話題としてその後に大きな反響があったものです。こちらの言ったことや思いを相手に上手く伝えることの難しさについて考えてもらいたいと思い、話題がホットなうちに取り上げさせていただきました。

この話に関連して私が親しい同僚として尊敬していた先輩との話をさせていただきました。彼は当時流行っていた芸人と下の名前が同じだったので、親しみを込めてその芸人が呼ばれていたように「○○ちゃん」とちゃん付けで呼んでいました。決してバカにしているつもりも、下に見ているつもりもなかったのですが、ある日「私は君の先輩だよ。ちゃん付けは失礼じゃないのか」と厳しい表情で諫められました。彼には私が尊敬している気持ちは通じているものだと思っていたので、大きな衝撃を受けました。私は親しい「同僚」と思っていたのですが、彼は親しい「後輩」と思っていたのです。
また、知り合いの学校出入りの図書教材を扱う会社の社長の話もお話しました。当時学校に行くと先生方から、「おい、○○」と呼び捨てにされていたそうです。笑顔で「はい」と答えていたが、悔しくて悔しくてしょうがなかったそうです。自分がサービスを受ける側であれば、相手が例え年上であってもぞんざいな口調なってしまうことがあります。言われた方は相手より立場は下なので我慢していますが、自分の方が年上なのにと腹の中では悔しく思っているのかもしれません。
このように互いに相手の関係をどのように思っているかを意識しないと表面上は問題ないように見えても、その裏で軋轢が起こっていることもあるのです。それが別の場面で噴出することもあります。このことを理解してコミュニケーションを取ることが必要になります。

このような例も踏まえた上で、参加者の皆さんには、プライベートを含めて自分とかかわる人たちを具体的に書きだしていただきました。自分は相手をどのように見ているか、上か下か、それとも対等かを書き足してもらい、その上でその相手は自分をどう見ているかを想像してもらいました。この後、グループで感じたことを聞きあっていただきました。普段何気なく接している方との関係をこうやって見直してみると、相手が必ずしも自分が思っているのと同じような関係だと見ているわけではないと気づかれたようです。
参加者は、素直に自分の感じたことを話していただけます。こうして研修を含め自分の思っていることを気軽に話し合える関係は素晴らしいのですが、だからこそ、他の方々との関係も同じように思って接してしまうと思わぬトラブルになることもあります。コミュニケーションのあり方を見直すきっかけになっていただけたのではないかと思います。

会を継続する難しさを感じる

昨年の話で恐縮ですが、学校評議員をしている中学校のおやじの会の忘年会に参加させていただきました。この日も楽しい時間を過ごさせていただきましたが、いろいろと考えさせられることがありました。

このおやじの会は、メンバーが現役だった10年ほど前から続いていますが、なかなか新しい方が入ってこられません。現役の保護者が上手く参加できない内に、OBと現役のつながりが弱くなったのかもしれません。また、現在のメンバーが学校と地域のパイプ役を担うなど積極的に学校にかかわり続けているので、敷居が高くなっているのかもしれません。
メンバーは現役世代の方に子どもたちや学校ともっとかかわってほしいと願っていますが、自分たちの存在がかえってそのじゃまとなっているのではないかとも悩んだようです。そこで現役の方中心のおやじの会をつくってもらおうと、おやじの会の名前を返上することに決めたそうです。自分たちの活動は変えずに名称だけを変えるようですが、こういった活動の継承の難しさを感じずにはいられませんでした。

おやじの会が設立されてとてもよい活動をしていたのに、その中心となるメンバーが現役を離れると、一気に停滞したという話もよく聞きます。また、活動が活発なためにとてもそこまではやれないと、参加をためらう方もいるようです。自分にできる範囲で気軽にかかわれるような会であるはずですし、またそれ以上のことを強制するようなことはまずないと思いますが、なかなかそうはいかないというのが現実なのでしょう。こういった会が継続的に活動し続けることの難しさを感じます。

こうすればうまくいくといったことは言えませんが、少なくとも「この会はこうあるべき」という「べき論」の活動ではなく、参加して楽しい、見ていて楽しそうだなと思えるものであることが大切だと思います。私は「役立ち感」が楽しさにつながるのではないかと思うのですが、楽しいと感じることが多様になっているのかもしれません。

とはいえ、この会の皆さんはこの事態を後ろ向きにとらえているわけではありません。今後、子どもたちや学校に積極的にかかわる保護者が増えることを楽しみにしておられます。この日もたくさんの元気をいただくことができました。ありがとうございました。

先生方の思いを感じる

私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。今回も先生方と一緒に授業参観をさせていただきました。

この日は、公共交通機関でおじゃましたのでこの学校の生徒さんたちの登校の様子を見ることができました。てっきりスマホを見ながら歩いている生徒が多いと思っていたのですが、まったくと言っていいほどそのような姿を見ることはありませんでした。交通ルールもしっかりと守れていて、とても感心しました。先生方が通学の様子をチェックしているわけでもないのに、このような姿であることは、子どもたちが自制できるということです。この子どもたちであれば、授業でもっと高いことを求めても十分に答えてくれると思いました。先生方が彼らの可能性をもっともっと信じてあげることを願います。

校内を回って感じるのが、先生方の授業の幅が広がってきていることです。子どもたち自身による活動が中心の授業もあれば、授業者が黒板に向かってしゃべり続けている授業もあります。講義型の授業でも、子どもたちを上手く引き付けて集中させている授業もあります。もちろん同じ子どもたちでも、その姿は授業によって変わってきます。この日は冬休みまであと1週間ほどの時期だったので、気の緩みもでるころだと思っていましたが、その要素よりも授業のありようの差の方が子どもたちの姿に大きく影響しているように感じました。
子どもたちは柔軟かつ功利的です。ノートを取っておくだけでよいと思えば、それ以外のことにはエネルギーを割きません。やりたいと意欲的になれば、自分たちで考え続けることもできます。子どもたちは、自分たちでかかわりながら学習することをいくつかの授業で経験し、そういった授業のよさやかかわり方を学んできています。そのため、授業者がそのような授業を目指せば、子どもたちはすぐに対応できるようになっています。子どもたちの授業を受けるための基盤はかなりできているのです。授業においても多様性は大切ですが、大きな方向性は学校の中で共有できるとよいと思います。今の子どもたちの状態であれば、よい方向に一気に変わっていくと思います。

また、グループ活動といった子どもたちがかかわり合う授業では、次の課題に先生方気づき始めているように思います。子どもたちはグループで相談するように指示すれば、きちんとかかわれます。しかし、その課題が曖昧なものであったり、結論を出すための客観的な指標がなかったりすれば、でてくる結論は発散してしまいます。そういうことに気づいている先生が増えてきています。ただ、子どもたちが話し合うことに満足するのではなく、その結果、問題解決ができたのか、ねらいを達成することができたのかということを求めるようになってきているのです。今後、確実に授業力が上がっていくことが期待できると思います。

この日一緒に回った先生方には、子どもたちをしっかりと見ていただくことができたと思います。特に子どもたちとまっすぐに向き合う熱心な先生からは多くの質問もいただき、私にとってもとても充実した時間となりました。この先生は、過去の経験からでしょうか、子どもたちはあまり能力が高くないので、教えてやらなければ、きちんと指導なければ力がつかないと思っているようでした。しかし、子どもたちが非常に集中して課題に取り組む姿を見て、素直に子どもたちのポテンシャルを感じ取ってくれたように思います。ただ、子どもたちに考えさせる時間を多くとろうとすると、どうしても進度が遅れるのではと心配になるようです。高等学校は特に学習内容が多いために進度が気になるのはよくわかります。大切なことは、すべての問題や内容を網羅することではなく、何を重点的にやればよいか選択することです。ポイントとなることをきちんと学習すれば、後は子どもたち自身で学習することができるはずです。その選択をして子どもたちの課題とすることが、これからの教師に求められる力だと思います。子どもたちをとても大切にしている先生です。目指すべきところは理解していただけたと思います。きっと子どもたちを信じて授業を工夫してくださると思います。今後がとても楽しみです。

国際バカロレア(IB)に関する研修を受けた方が、その目指すものにとても関心を持たれたようでした。今すぐこの学校をIB認定校にするという選択肢はないかもしれませんが、そのカリキュラムの一部でも取り入れることができないかと話されました。私自身もIBについては勉強しようと思っていますので、認定校でなくてもそのよさを活かすことを先生方と一緒に考えたいと思います。よい刺激をいただけました。

発達障害の子どもたちの対応についても担当者とお話させていただきました。この方の働きかけもあり、発達障害についての理解は深まっているようですが、具体的にどう対応すればよいのか先生方に戸惑いがあるようです。マニュアルのようなものがあれば動きやすいと考える方もいらっしゃると思いますが、個人差があるので一律に対応することは難しいと思います。発達障害の基本を共通で理解した上で、実際の子どもの様子をもとに情報交換、相談して対応を探っていくことが基本です。手間がかかるように思えますが、チームで対応を考えて経験していくことで、個人の対応力も上がってくるはずです。このことを先生方に理解していただくことが大切でしょう。こういった方面でもアドバイスをさせていただくことを考えたいと思います。

今年度は、先生方と個別に話をする機会が増え、この学校の先生方の子どもたちに対する前向きな思いにたくさん接することができました。こういった思いを具体的な子どもたちの姿で表現し共有することで学校がよい方向に大きく変わると感じています。来年度に向けて、この点を考えていきたいと思います。

子どもの考えを共有し、つなげ、深めることが課題

昨日の日記の続きです。

3年生の図画工作の授業はアートカードを使った鑑賞の授業でした。授業者は中堅の先生で、話術が上手く、子どもを引き付ける魅力のある方です。
最初にサンプルのカードを見せてイメージを表現させます。子どもの発言を「あーあ、なるほど」としっかりと受け止めます。子どもの言葉を受けてイメージを膨らませるような話をするのですが、ちょっとしゃべりすぎのようにも思いました。子どもの発言意欲が高いので、とりあえずどんどん指名して発言させてもよかったのではないでしょうか。
ユニバーサルデザインを意識されているのでしょう。黒板の左にはこの授業の流れがわかりやすく示されています。
この日の中心となる活動はグループに配られたアートカードを「明るい」「暗い」「軽い」「重い」のキーワードで分類するものです。活動の説明をしながら、反応した子どもには「うなずいてくれたね」、伏せっている子どもには「見ててくれる」と声をかけます。子どもたちをとてもよく見ています。
説明の中で、話を聞く時に相手を見てうなずいたり、「なるほど」といった受容の言葉をかけたりといったソーシャルスキルについても、きちんと指導しています。ワークシートの説明も配る前にするなど、基本がしっかりとしています。5人グループで一人だけ机が離れている子どもがいると、「お誕生日席にしてあげて」と声をかけ、「OKです。ありがとう」と指示が徹底できているかの確認と「ありがとう」と子どもを認めることもできています。よい雰囲気の学級である理由がよくわかります。

4つの分類の視点は、「明るい」「暗い」と「軽い」「重い」では軸が異なります。おなじ絵に対して「明るい」と「暗い」では大きく意見が分かれることはないでしょうが、「明るい」と「軽い」で分かれる可能性はあります。意図的に分かれやすいようにしたのかもしれません。そう感じた理由を具体的に言うように指示していることと合わせて、子どもたちの視点が広がることが期待できそうです。ただ、ワークシートには分類の結論しか書くところがありません。理由を何らかの形で残すとよかったと思います。「色」「形」といった選んだ理由の視点を書き留めるというのも一つの方法だと思います。
子どもたちは一通り分類が終わるとテンションが上がってきます。分類が終わった後の指示もしておくとよかったでしょう。

全体で、グループごとにカードの分類を発表させます。横にカードの番号、縦に分類を書いた表を黒板に貼って、授業者が該当するところにシールを貼っていきます。カードの番号ではどのような絵だったかはすぐにわからないので、発表を聞いてもあまり意味はありません。子どもたちの集中力が落ちてきます。ここに時間をかけたのはちょっともったいないと思います。
実物投影機でいくつかカードを映して、授業者が同じ絵でも意見が分かれることを話しますが、ここは意見の分かれるカードを焦点化して話し合わせたいところでした。実物投影機を使って具体的にこの絵のどこでそう思ったかを全体で共有して、考えが変わったかどうかを聞き合うと面白かったと思います。

続いて、自分が気に入ったものを「今日の1枚」として選んで、紹介文を書くという作業の指示をします。この時子どもたちの視線が先生に集中していなかったことが気になりました。ディスプレイに絵が映されたままだったことも影響しているようです。
紹介文を聞き合ったあと、全体で何人かに発表してもらいます。絵をディスプレイに映して発表するのですが、子どもたちの視線は最初ディスプレイに向きますが、説明が始まると発表者に向いたままです。発表者を見ることはとてもよいのですが、説明と絵を関連づけては見ていないということです。指示棒を使うなどして、絵のどの部分について言っているのかを示しながら発表させるとよかったでしょう。発表が終わるとすぐに拍手で終わりますが、形式的な拍手ではなく、具体的にどこがよかったのかを価値付けする場面がほしいところでした。

子どもたちはよく活動していましたが、共有し、深めることが不十分だったように思います。どこに注目して分類したのかを整理し、同じ視点で分類した子どもをつないで、同じように感じたのか、それとも違うように感じたのかを発表させたり、自分が気づかなかった視点でもう一度見直させ、感じ方が変わったかを発表させたりしたいところでした。

この日は4つの授業を見ましたが、どの先生も子どもとの関係がきちんとできていて、よい学級経営ができていることに感心しました。少経験者も含めて学級間でぶれが少ないということは、学校全体がよい雰囲気で授業ができていることの証だと思います。
共通の課題として感じたのは、子どもの考えを共有し、つなげ、深めることがまだあまりできていないことです。授業者が子どもの発言をすべて受けて説明するのではなく、子どもたちの言葉をつないでいくような授業に変えていくことが必要です。学校全体でこの課題を共有できれば、きっと大きく進歩すると思います。この学校のこれからが楽しみです。

本質を見極めることが大切

昨日の日記の続きです。

4年生の算数の授業は少し年配の初任者によるもので、小数倍を考える場面でした。一生懸命さが伝わる授業です。
導入で両親と子どもが餃子を食べる場面を想定します。ていねいに紙でつくった餃子を使って問題を示します。1皿6個で、3皿分を家族で分け、お父さんはお母さんの「いくつ分?」、子どもは……と問いかけます。整数でいくつ分を考えることで導入としようとしたのでしょうか?それとも、いくつ分の計算が割り算になることを確認したかったのでしょうか?
続いて、4色の長さの異なるテープを示し「気づいたことは何ですか?」と問いかけます。あまりに関連がなさ過ぎます。そもそも離散量の餃子でいくつ分かを考えた後に、連続量のテープで何倍かを考えるのは子どもたちを混乱させるだけです。この授業は「何倍」を考えることが課題で、「いくつ分」では上手くつながりません。導入の意図がよくわかりません。凝った餃子をつくったエネルギーは買いますが、この導入はムダとしか思えませんでした。
また、基本的に「気づいたこと」という問いかけは避けるべきです。よほど子どもたちが育ってなければ、何を答えてよいのかよくわからないからです。子どもたちに相互指名をさせますが、形式的に行っているだけで、なぜそうする必要があるのかよくわかりません。相互指名のねらいをこの場面からは感じることができませんでした。

授業者は「○○が一番長い」といった子どもたちの発言を受容しますが、ねらった言葉はうまく出てきません。結局授業者が「テープの長さを比べましょう」と言葉を足しますが、「比べる」という言葉をきちんと押さえません。差を考えても、一番長いものを見つけても「比べる」ことになります。子どもたちは、なかなか授業者の期待する言葉を発してはくれません。ここはきちんと「何の何倍か」を提示する必要がありました。
授業者は自分に都合のよい言葉が出てくるとそれを受けてすぐに説明します。よくわからず反応できない子どもに対して、「○○さんはわからないかなあ」「どこらへんがわからないかなあ」と否定的な言葉「わからない」を重ねます。子どもの表情が悪くなります。「困ったこと」といった否定的なニュアンスが少ない言葉を使うようにする必要があります。
結局授業者の期待することを上手く察することのできる一部の子どもとだけで進んでいきます。発言をきちんと共有することもしないので、他の子どもはついていけず、発言者の方を見ようともしません。授業者も発言者ばかり見て、他の子どもたちの様子を見ることはできていませんでした。
赤(20cm)は白(10cm)の何倍かを考えさせ、ワークシートの穴を埋めさせます。答が2倍になる理由が、20÷10だからと説明されます。形式的に教えています。答を出すための手順が理由に置き換わっています。これでは、算数は答の出し方を覚える教科になってしまいます。何倍はかけ算です。白の何倍だから「白×○(倍)が赤になる」ことが本筋です。この日は小数倍を考える授業なのですから、ここを導入で押さえておくことが必要でした。

子どもたちに「わかりましたか?」と問いかけますが反応がありません。混乱が始まっています。こうするとよいと「比べる数÷元になる数」と書いた紙を貼りますが、理由はわからないまま解き方を教えることになります。自分なりの理由を考えていた子どももいましたが、結局はワークシートには先生の答を書きこむことになります。先生の求める答を探しなっていきます。
ここまでにかなりの時間を使っていましたが、単なる復習です。ムダな時間を使いすぎています。

続いて、青(16cm)は白(10cm)の何倍かを問います。元になる数を確認しますが、子どもたちは混乱しています。「少ない方だから白」「小さいほうが元になる数」「割り切れないから青にしました」とずれた答が続きます。「倍にならないから」という言葉も出てきます。整数倍にならないのはおかしいと考えたのですが、まさにこの部分を修正して小数倍を考えるのがこの授業のねらいです。16÷10という式が出たとしても、その答は1余り6でもよいわけで、小数で答える必然性がわかりません。授業者にとっては16÷10は1.6に決まっているのかもしれませんが、子どもにとっては決してそうではないのです。導入の餃子で「いくつ分」を考えたことも、小数の答ではおかしいように感じている子どもが多くなった原因となっています。結局、白×○(倍)という何倍の意味をきちんと押さえていないことがこのような状態をつくってしまいました。
授業者は子どもの言葉で進めることをあきらめて自分で説明を始めました。ここで、元になる数の説明に「いくつ分」を使ってしまいました。結局元になる数は「白になる」という結論だけを強調することになりました。

ここでグループにして何倍になるかを求めさせます。この場面でグループにする意味がよくわかりません。「比べる数÷元になる数」と元になる数が白であることを与えているのですから、16÷10の式はほぼ問題なくつくれます(本当にその意味がわかっているかどうかは別にして)。子どもたちは相談する必然性があまりないのです。とはいえ、16÷10の答はそれこそばらばらです。概数で答える子どもが続出です。小数倍なのか整数倍にするのかを焦点化してから、グループで相談させることでこの授業のねらいに近づけたのではないかと思います。

授業者はグループの中に入って個別に説明を始めます。それではグループにする意味がありません。解き方だけを教えても意味がないことがよくわかる授業でした。
特に割り算は同じ式になっても、何を解決するのかで答のありようは変わります。果物を同じ数の分ける問題では割り算の式ができますが、必要な皿の枚数と何人に分けられるかでは余りの処理は異なります。図書館の本の貸し出し数の平均を考える時は、本であるにもかかわらず割り算の答は○.○冊と小数で考えます。平均の意味をしっかりと考えなければその理由はわかりません。今回の単元であれば、小数倍を考えやすいように教科書はテープの長さという連続量を題材にしたのです。

授業者の意欲は伝わる授業でしたが、導入で餃子を使う、何倍の意味を押さえなかったなど教材について本質を外していることが問題でした。また、指名の仕方やグループの活用などが形式的だったことも気になります。授業技術の本質を見極めて活用してほしいと思います。子どもを安易に引き付けようとすることより、教材研究にエネルギーを使う。個々の授業技術はどのような意味があるのかをきちんと理解する。ここから始めてほしいと思います。意欲のある方なので、方向性さえ間違わなければ確実に進歩すると思います。

この続きは明日の日記で。

子どもが安心して意見を言えるからこそ、教師の対応が大切

昨日の日記の続きです。

5年生の理科は再結晶の実験でした。
前時までにミョウバン、食塩を水に溶かす実験をしています。物質や温度によって溶け方が違うことを穴埋めで復習しました。ほぼ全員の手が挙がりますが、挙手しない数名の子どもが気になります。今回の授業では教科書やノートは使わないようなので、確認する手段がありません。ほとんどの子どもの手が挙がっているからこそ、手の挙がらない子どもを参加させることを考える必要があります。まわりの子どもとちょっと確認・相談する時間を与えるだけで子どもの動きは違ってくると思います。

前時で使った溶解度曲線のグラフを黒板に映して、ミョウバンは冷すと取り出せるかと問いかけます。「取り出せる」という言葉がいきなり出てくることに違和感を覚えます。なぜ「取り出せる」かどうかが課題となるのかが子どもたちにはよくわかりません。「温めると溶けたけれど冷えたらどうなる?」と素朴に疑問をぶつけるような問いかけもあります。

ワークシートを配り、ミョウバンと食塩について「取り出せる」「取り出せない」を考えさせます。ここで問題になるのは、前提を明確にしていないことです。飽和水溶液(または、冷したら過飽和になるもの)を使わなければ、再結晶はしません。どのくらい溶かしたものかを伝えずに考えさせているのです。これで授業を進めると子どもたちは、温度で溶解度が大きく変わるものは無条件に冷やすと再結晶すると覚えてしまう可能性があります。小学校では特に定性面を重視するので、その危険性が高まります。ミョウバンが溶け残っている水溶液を温めて完全に溶かすのを見せてから、問いかけると言ったことが必要です。また、このことを逆手に取る方法もあります。ミョウバンの濃度が異なるものを用意してグループによって実験結果が異なるようにし、「どういうこと?」と考えさせるのです。

授業者はよい姿勢の子どもをほめたりして、子どものよい行動を増やす形で授業規律をつくっています。グループで意見を聞き合うように指示をすると、素早く動くことができます。
「疑問があれば質問する」「同じ考えには下線を引く」「いいなと思ったらメモをする」といったルールが明確になっています。意見を聞く視点が意識できるのでよいと思います。しかし、子どもたちが自分のワークシートに書いたことを読んでいるのが気になります。聞いている子どもたちの顔も上がりません。「ワークシートを見ずに話す」「話し手の顔を見て聞く」「聞き終ってから質問をする」「最後にメモを取る」といった流れを指示してもよいかもしれません。また、班長がいることもちょっと気になります。少人数のグループなので、自然にかかわり合いながら進めることができるのではないかと思います。

全体で考えを聞きます。ここは、グループで相談して意見が変わった子どもの考えを聞いてみたいところですが、授業者は特にそういった条件なしに指名します。子どもたちの考えは思った以上に分かれます。
「溶けてもなくなっていないから取り出せる」という意見が出ます。また、「塩は海水に溶けていて、取り出せる」と海水から食塩がつくられているという知識から答を出している子どももいます。こういった意見が出てくる背景には、ワークシートが「取り出せる」かどうかだけを答える形になっていることが挙げられます。前提となる「冷して」がきちんと押さえられていないので、「なくなっていないのだから取り出せるはずだ」という考えにつながったのです。「なくなっていないから、取り出せそうだね。冷せば取り出せそう?」と「冷やす」を強調して、再度考える時間を取ってもよかったかもしれません。「逆のことをすると取り出せる」という言葉も出てきます。可逆性を考えるとてもよい発言ですが、授業者はその言葉を取り上げることはしませんでした。「それってどういうこと?」「逆のことってどういうこと?」と聞き返すとよかったと思います。
「食塩は水に溶けやすいから」といった言葉も出てきます。溶解度曲線のグラフの高温のところを指さして「ミョウバンはもっと溶けやすいよ」と揺さぶるといったことをすると、子どもから言葉が足されるでしょう。

グラフを使って説明する子どもがいました。飽和水溶液という前提がはっきりしない中、グラフの溶解度の差で説明します。溶解度は溶ける量の最大ですが、このことが押さえられないまま説明が進みます。これでは中学校で再度溶解度について学習する時に混乱する恐れがあります。授業者はこの子どもの説明だけは、時間をかけて全員に理解させようとしています。この説明が正解だと暗に教えることになっていました。
理科は、どんな説得力のある説明でも実験結果がそれを裏付けなければ意味がありません。子どもたちの考えを一通り聞いてから、「いろいろな意見や説明があったね。実験するとどうなるかな?」とまず実験を行い、その結果を元にもう一度理由を検討した方がよかったと思います。

いよいよ実験ですが、実験の方法を授業者は言葉で説明します。理解できずに間違えてしまった子どもが何人かいました。実験方法は具体的に見せることも大切です。
子どもたちの実験に対する意欲はあまり高くはありませんでした。先ほどの説明で結果が想像ついたからでしょうか。驚きや感嘆の声が上がりませんでした。時間がないため、結果の考察は次時に持ち越されました。

子どもたちからは、多様な意見が発表されました。これは、どんな意見でもバカにされない安心な学級づくりができている証拠です。だからこそ、その意見をどうつなぎ、深めていくのかが問われますが、子どもたちの意見のうち都合のよいものを取り上げて、最終的には授業者が説明してしまいました。一人ひとりの考えの共通点や相違点を明確にして焦点化し、相違点を意識して実験に取り組ませることが大切です。その結果を受けて子どもたち自身で納得するような授業であってほしいと思います。
理科の授業では、「根拠をきちんと説明し全体で共有すること」「その考え(モデル)が正しいかどうかはどのような実験をすればいいのかを考えること」「その考え(モデル)を使って他の事象を説明したり、別の実験の結果を予想したりすること」が大切です。こういった授業の構造をきちんと意識できていなかったことも残念でした。また、「この課題を通じて理科としてどのような力をつけたいのか」、そして「それをより一般的な力にどうつなげていくのか」、このことを事前にしっかりと考えておくことも必要です。このことが子どもの考えを評価・価値付けすることにつながっていきます。
これらのことは一朝一夕でできることではありません。焦らずに、こういったことを意識することを少しずつ心がけていただきたいと思います。

この続きは明日の日記で。

多様な意見を活かす難しさを感じた授業

2学期末に小学校を訪問しました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は少経験者を中心に4人の授業アドバイスを行いました。

初任から2年目の2年生の担任の授業は算数の九九の授業でした。
子どもたちと授業者の関係は良好です。子どもたちはよく集中して参加していました。この日の授業は九九の表からきまりを見つけることが課題です。九九の表にはかける数、かけられる数とかかれています。授業者は表を見せて、かける数、かけられる数の確認をします。ここで、指名した子どもが間違えてしまいました。授業者は否定せずに、上手に受け止めます。授業者は本人に修正させようとしますが、なかなかうまくいきません。これは知識ですので考えて修正できるものではありません。「2に3をかけると2×3」と説明し、「だから、かけているのは?」と日本語で考えさせるという方法もあります。また、九九の表の意味の確認を兼ねて、表の段と数字を指さして「にさんがろく」と読ませるといった活動を事前にすることで整理させておくという方法もあります。いずれにしても、ここは子どもが混乱しないように知識としてきちんと押さえることが必要です。

この日の課題は「2つの表から九九のひみつを見つけよう」というものです。
九九の表と式表示の表が書かれた2枚のワークシートを子どもたちに配ってから、活動について指示をします。この時子どもたちはどうしても手元のワークシートを見てしまいますので、配る前に指示をすることを心がけてほしいと思います。気になるのが、「ひみつ」という言葉です。ワークシートには「きまり」という言葉もタイトルに使われています。「ひみつ」という言葉は意欲的にさせる言葉ではあるのですが、何を答えたらいいのかわからなくなることもあります。授業者は「何でもいいからね」と言いますが、これではよくわかりません。こういった時には、過去の経験を思い出させて視点を与えたり、全体で一つ「ひみつ」を見つけて、どんなものを見つければいいのかを具体化したりするとよいと思います。
個人でひみつを見つける活動に取り組みますが、手が止まっている子どもが目立ちます。ここは、予定した時間にとらわれずに早目に作業を止めて、他の子どもとかかわらせたり、全体でいくつか発表させたりするとよいでしょう。

授業者は活動を止めてペア活動に移る指示を出します。子どもたちに指示内容を復唱させて確認をするといったこともできます。しかし、指示が「もっとないかペアで相談しましょう」と言った後に、「自分の考えを互いに言いましょう」と順番が逆になってしまいました。授業者はすぐに気づいて修正しましたが、子どもたちは混乱してしいるようです。また、ワークシートには「友だちが見つけたひみつ」を書く欄があるのですが、このことについても指示がありませんでした。ワークシートの作業についてもよくわかっていないようでした。ちょっとしたことですが、指示の順番や確認はとても大切なことがよくわかります。
子どもたちはこういった相談に慣れているようで、よくかかわれていました。「ほんとだ」と言った声が聞こえてきます。個人作業と違って、子どもたちの手がよく動いています。
授業者は「表を指さして説明している子、わかりやすいね」とよい行動を広げようとしています。こういった評価はとても大切です。この活動では、表のどこを見たのかを明確にすることを指示しておくとよかったでしょう。表を指さすことを含めて、根拠となるものを意識させることで説明の力がつきます。
互いにかかわり合うことで、子どもたちの気づきは想像以上に多様なものになっています。とてもよいことなのですが、全体での発表ではどう整理して、焦点化し、価値付けしていくのか授業者の力が問われます。

全体追求の場面は、子どもたち全員が鉛筆を置くのをきちんと確認してから始まりました。こういった授業規律もしっかりとできていました。
子どもたちから出てくる意見は、授業者の想像を少し超えていたようです。「全部2個ずつあった」という発言がありあます。これは交換法則につながる発言です。しかし、授業者は2個ずつあるということを確認して次にいってしまいます。とっさにどう対応すればいいのかわからなかったようです。「全部?」「必ず?」「じゃあ、これと同じのは?」と表を指して問いかけていくことで、交換法則に気づくことができます。
表の右上と左下に同じ9があるのに、左上と右下は1と81で違うことをいう子どもがいます。面白い気づきです。しかし、授業者はその事実を確認して次の子どもを指名します。つないだり、深めたりすることができません。「本当だね。同じようなことに気づいた人はいない?」とつないだり、「左下の9の式は?右上は?」と返したりすると、交換法則や表の対称性につなげていくことができたはずです。
「1×1、2×2は答が一つ」という意見を発表する子どもがいますが、どういうことか上手く説明できません。子どもからは「ああー」という声も出てきますが、授業者が自分の言葉で説明してしまいました。本人はその説明に今一つ納得できていないようです。ここは、「ああー」と言った子どもに説明させて、本人に確認させていきたいところでした。この「答が一つ」というのは交換法則で同じ答のものがあるが、2乗しているものは同じだからないということを言っています。左上から右下を結ぶ線に対して九九の表は対称になっていることにつなげることもできます。
「かける数とかけられる数を反対にしてもいっしょ」ということが出てきます。「ああ、なるほど」と受けて、このことを子どもたちに確認します。こういった予定している発言に対しては、子どもたちに返すといったことができていますが、多くの子どもの発言が点のままでつながっていないのが残念です。
表のかける数のところを見て、「1つずつとばすと2の段ができる」という意見もでてきます。子どもたちの発想は実に豊かで面白いものです。「2つとばしだと?」と聞いても面白いですし、「1つとばすといくつ増える?」と聞き返してもいいでしょう。かけ算と足し算の関係に気づくことができます。これを受容だけで終わらしたのはもったいないと思いました。
最後に出てきた発見がとても面白いものでした。「9の段を縦に見ると18を反対にした81があって、27を反対にした72があって、……」というのです。その説明を聞いて子どもたちから「おー」「すげー」という声が上がります。授業はすごいということで終わったのですが、せめて「他の段でも成り立ちそう?」と返して、「9の段だけだね。9の段にはすごいひみつがあったね」と9の段に固有の性質であることを押さえておくと、学年が進んで9の倍数の性質についての問題を考える時に役立つかもしれません。また、「9の反対はないの?」と返して81の次は「90」になることに気づかせても面白かったかもしれません。

最後に「わかったこと」を書かせて終わりましたが、この授業では「こうやって表を見たんだ?」「こういうことを調べたんだ?」と視点や考えの過程を評価したり価値付けしたりする場面がありませんでした。確かに子どもたちは色々なことに気づきましたが、意見を発表し聞き合うことでもう一つ上のものに昇華することができませんでした。
子どもたちはよく育っていて、互いにかかわり合い多様な意見が出てきます。そこで終わらずに、それを価値付けして再現性のある力に変えていくことが大切です。その日の課題を通じてどのような力をつけたいのかを意識し、子どもたちの発言に対してその場で対応することが必要です。事前に子どもたちの発言を予想していても、思わぬものも出てきます。それに対応することは、ベテランでもそう簡単なことではありません。毎回の授業で、子どもたちの発言にたいしてどう対応すればよかったのかを振り返りながら経験を積むことが必要です。まだ2年目の授業者にそれを求めるのは酷ですが、逆に言えばこのことを意識しなければいけないレベルに力をつけてきているということです。これは素晴らしいと思います。これからどのように成長していくのかとても楽しみです。

この続きは、明日の日記で。

年末年始のお休み

明日より1月3日までお休みをいただきます。
今年のお仕事で、まだ日記にアップできていないものがいくつかありますが、日記もお休みをいただき、1月4日(月)より再開いたします。

今年も1年おつきあいをいただき、ありがとうございました。

幾何ツールの研究会で授業の奥深さを実感する(その2)

前回の日記の続きです。

2回目の授業は、導入から全く異なったものになっていました。どうやら授業者は当初の指導案を完全に捨てたようです。証明のための戦略を考える授業に変えたようです。
まずは、子どもたちに九点円に興味を持たせることから始めました。ユーモアを交えて子どもたちとやりとりしながら進めていきます。授業者の個性が活きています。三角形の形を変えても、いつも9つの点が同じ円周上にありそうだと気づかせます。
続いて、同じ円周上にあることを言うためにはどんなことが言えればいいのかを聞いていきます。「何とかして円周角を……」といった言葉が出てきます。子どもの言葉を受けて授業者がすぐに言葉を足して説明します。時間がないということもあったのでしょうが、どうも物わかりがよすぎます。子どもたちが優秀なのか、かなり不十分な説明でも疑問を持たずに過ぎていきます。数学としては押さえるところはきちんと押さえておきたいところでした。「内接四角形を探す」「対角(の和)が180°のものを見つける」といった言葉が続き、「どんなのでもいい?」という問いかけに「長方形」「正方形」といった言葉が返ってきます。ここで「4つは見つかる」とまとめます。「(9つはいきなり無理でも)4つ(の点が同じ円周上にあるの)は見つかる」ということなのでしょうが、ちょっと言葉が雑です。もう少していねいに押さえておきたいところでした。

「どうしたらいい?」と子どもたちに問いかけると、「9つの(点)を3つずつ重ねる」という意見が出ます。授業者はうまく処理できませんでしたが、「それってどういうこと」ともう少しこの考えも聞いてみたいところでした。おそらく、「3つの点であれば外接円をかけるから、それが一致することを言えばいい」と考えたのだと思います。上手くいくかどうかは別にしてこれも立派な方向性ですから評価したいところでした。
「4つ適当にとる」という意見も出ます。「適当」に反応して「ある程度適当にとる」という言葉も出てきます。「仲間の点(垂線の足、垂心と頂点を結ぶ線分の中点、各辺の中点)を3つ結んで三角形を3つつくる」といったアイデアもあります。子どもたちからいろいろ意見が出たのですが、「どういう風にしたら内接四角形ができる?」と授業者が方向性を決めてしまったのが残念でした。子どもたちで方向性を決めさせたいところでした。

ここでiPadの登場です。今回は、だれもiPadを立てません。下に置いて額を寄せ合って見ています。先ほどの授業とは全く様子が違います。子どもたちの課題となっていたのです。幾何ツールをまだ使い慣れていないのか上手く線分をひけません。悪戦苦闘をしながらいろいろな図をかいています。とてもよい姿です。ここで、長方形を見つけたグループのiPadをスクリーンに映します。長方形になっていたのですが、結ぶ点が違っていたため三角形を変形すると崩れます。するとあるグループが声を上げます。言いたくてしょうがないという様子です。このグループの図は崩れないのです。授業者が取り上げ、この図の三角形を変形して見せ、いつでも長方形になっていることを示しながら「すごくなーい」と子どもたち問いかけます。幾何ツールのよさが実感できます。検討会で確認したところ、きちんとできているグループがあることを知っていて、あえて上手くいかないグループを先に発表させたようです。なかなかインパクトのある演出でした。

子どもたちから、もう一つの長方形に気づく声が出てきます。対角線が「重なっている」「同じ」といった説明に、「なんでー?」といった声が返ってきます。重なっている対角線を示して出てきた「直径」という言葉に、今度は「すごいじゃん」と反応します。子どもたちが真剣に授業に参加し、心が動いていることがよくわかります。6点が同一円周上にあることが言えることがわかり、「残り3点はどうなのか?」を次の課題として投げかけました。ここで残り15分です。かなり時間的に苦しいと思ったのですが、ここからの子どもたちの頑張りは目を見張るものがありました。それぞれがワークシートの図を見ながら考えているのですが、残り3点ではなく、その前にきちんと長方形になる証明をしなければとこだわっている子どももいます。どの子どもも真剣です。友だちに語りかけるともなく「○○じゃない?」というつぶやきが聞こえてきます。それに対して、自分のことに集中していると見えた子どもが反応します。個別に活動しているように見えるのですが、見事にかかわり合っていました。

残り3点について、全体の場でわかった子どもが説明します。説明を聞きながら「あー本当だ」「言えてる」といった声が上がります。子どもたちが素早く理解できているのは、幾何ツールを使っていろいろ試した時間が効いているように思いました。しかし、全員がすぐに理解できてはいないので、ここで少し止めて、まわりと相談、確認をさせたいところでした。子どもたちから、つぶやきが出てくることはとてもよいのですが、まだまわりとはすぐに相談しません。自然に相談できるようにしたいところです。
九点円の証明の流れをほぼ子どもたちが理解できたところで、時間となりました。ここで、「長方形になることを言わないといけない。説明したい」という子どもが出てきました。どうしたものかと授業者が思案しましたが、他の子どもたちも聞きたいという姿勢を見せます。授業者は延長する覚悟を決めました。説明を聞く子どもたちの姿は真剣そのものです。視線が発表者に突き刺さるようです。一つの三角形で説明し終わったあと、「もう片方も同じでいける“はず”」と言葉をつなげました。素晴らしい発言だと思います。“はず”という言葉には、必ず言えるという確信があるということです。この言葉を評価して、数学的な価値を伝えたいところでした。
最後に授業者が「これで9点全部について証明できたことになったのかな?」と問いかけ、子どももたちから「はい」という返事が返ってきました。「ここまでできると思っていなかった。すごい」と子どもたちをほめると自然に拍手が出て終わりました。
子どもたちは九点円の証明が理解できてスッキリしたように見えました。しかし、授業後一部の子どもが黒板の前で話しています。説明がまだ理解できていなかった子どもたちが、相談していたのです。何となくではなく、きちんと最後まで理解したいという気持があるからこそ、こういった姿が見られるのです。子どもたちの課題になっていたということです。とても素晴らしいと思いました。

この授業だけを見ていたら、おそらく「子どもたちが素晴らしい」といった感想を持って終わったでしょう。しかし、先ほどの授業を見ているから、子どもの質ではなく授業のあり方で子どもの姿が変わることにはっきりと気づくことができました。この研究会にはずいぶんと長い間かかわってきましたが、これほど大きく指導の内容を変え、これほど大きく子どもたちが変わったことは初めての経験でした(子どもたちの様子が劇的に変わった例はありますが、指導の内容は大きくは変わっていませんでした)。

2回目の検討会では、子どもたちの様子が劇的に変わったことを中心として、何がよかったのかについて多くの時間が割かれました。
授業者はある意味居直って、どこまでいけるかわからないが子どもたちに任せる気持ちになったようです。最後まで証明ができるとは少しも思っていなかったようです。子どもたちに任せようとした結果、授業者の個性が活かされ、うまく子どもたちの言葉を引き出すことができました。子どもたちが集中して授業に参加した大きな要因だと思いました。
参加者からは、「図を動かしてみせたりして、子どもたちに『あれ?』と疑問を持たせたことが、子どもたちの課題となった大きな要因だ」「子どもたちが額を寄せ合ってiPadを操作していてことから、子どもたちの課題となっていたことがわかった」「幾何ツールを操作することで、課題が深まり思考を促した」「子どもたちの課題となっていたから、自然にかかわり合うことができていた」といった意見がたくさん出ました。この2つの授業から多くのことを学んでいただけたと思います。

最後に各グループの活動のビデオ撮影などで参加してくれた学生さんたちにも感想と意見を聞かせてもらいました。授業者の「指導案を捨てる」という言葉が印象に残ったようで、指導案を捨てることが時に大切だということを学んだという発言がたくさん出てきました。「指導案を捨てて、子どもたちに柔軟に対応すること」はとても大切です。しかし、今回の授業はそういったものではありません。予定していた指導案は捨てましたが、代わりの指導案は書かないまでもある程度頭にはあったはずです。というか、それまでいくつも指導案を考えてきたからこういった対応も可能になったのです。「指導案を捨てた」と一言で言えることではないのです。学生さんたちがもしこれをやってしまえば、十中八九授業は迷走すると思います。このことに気づいてほしかったのですが、時間の関係もあり指摘する意見を拾うことはできませんでした。申し訳ないことをしました。

同じ題材やツールを使っても、授業の構成によって子どもたちの姿は大きく異なってしまいます。課題の見せ方、与え方で子どもたちのツールの使い方も大きく異なります。教師が素材や道具をどのように活かして組み立てるかで、授業は全く別のものに変わります。授業の奥深さを改めて実感しました。

幾何ツールの研究会で授業の奥深さを実感する(その1)

幾何ツールを使った中学校数学の授業研究会で、検討会の司会を務めてきました。この授業研究会の特徴は、一度授業を行って検討会をした後、それを受けてもう一度別の学級で修正した授業をすることです。授業者にとってはとても厳しく、参加者にとってはその変化からとても多くのことを学べるものです。

今年のテーマは九点円(三角形の各頂点から辺におろした垂線の足、垂心と頂点を結んだ線分の中点、各辺の中点の計9点を通る円がかける)を題材にしたものでした。
最初の授業では、辺の中点と垂心と頂点を結んだ線分の中点の6点が同一円上にあることの証明を一つのゴールとしました。6点のうちの4点を組み合わせた3つの四角形が長方形になることに気がつかせ、それを証明させようというものです。
授業者が問題となる図をスクリーンで説明をします。点の条件が示されますが、一つひとつをきちんと理解する前に次の点の説明となるので子どもたちはついていけないように見えます。また、なぜこのような点を取るのか、必然性がよくわからないため集中力が落ちているように感じます。この点を見てどんな図形なると問いかけますが、これでは答えようがありません。授業者は円と答えてほしいのでしょうが、点は点です。子どもの言葉を拾って、「円になりそう?」と全体に返しますが、一部の子どもはどういうことかちょっと戸惑ったのではないでしょうか。円になるのはどういう条件だったか聞きますが、「同一円周上に点がある」と正しく表現してほしいと思います。このように言葉を雑につかうことが、子どもの混乱を助長しているように見えました。

点が円周上にある条件を確認していきます。3点を通る円は、「点と点をつないだ線の垂直二等分線の……」と指名された子どもが説明しますが、授業者は「点と点をつないだ線分」と修正しません。子どもたちも言葉を雑に使っていることが気になります。「4つの点が同一円周上にある」を「4つの点を結んだ四角形がどうなるか?」と置き換えます。「内接する四角形になる」という答が返ってきました。これも、別の用語で置き換えたのですが、これに限らず子どもの発言を評価しません。四角形が円に内接する条件を確かめて終わりましたが、もう一度「4つの点が同一円周上にある」ことを言うには、「4つの点で作られる四角形の向かい合う内角の和が180°になる」ことが言えればいいと整理しておいた方がよかったでしょう。また、「特定の2点と他の2点を結んだ線分で作られる2つの角の大きさが等しい」というのもよく使われる条件ですから、四角形だけにこだわるというのはちょっと誘導しているようにも思えて気になりました。内接する四角形(向かい合う角の和が180°)になる四角形にどのようなものがあるかを問いかけ、正方形、長方形といった言葉を引き出し、iPadを使って長方形を見つけることを課題として提示しました。

ここまでの導入がかなり長かったため、子どもたちの集中力が落ちています。グループに一つのiPadで幾何ツールを使うことで子どもたちがどのように活性化するのかに注目しました。
子どもたちの動きは、思ったほど活性化しません。iPadを立てて使うグループが目立ちます。当然一部の子どもしか操作できませんし反対側の子どもは画面を見ることもできません。しかし、参加できない子どもはさほど気にしていないようすでした。子どもたちにとって、課題が自分のものとなっていない、この課題を解決したいと思っていないということなのでしょう。
「長方形を一つ見つけたグループがある」と紹介しますが、子どもたちはあまり反応しません。結果を知らされてもそれが自分たちの活動にどう活きるかよくわかりません。その後の見通しがはっきりしないので、次第に子どもたちの意欲が落ちていきます。続いて「もう一個みつかった」とみんなに知らせますが、長方形をたくさん見つけることが課題なのか、何を目指しているのかが子どもたちにははっきりしません。
授業者が「長方形になる証明をしてみよう」と課題を子どもたちに提示しますが、子どもたちにして見れば、全体の見通しがないまま次々に課題を与えられているだけです。子どもたちは幾何ツールを通じて自分の課題を見つけたわけではありません。授業者の指示に従ってただ問題を解いているだけなのです。最初からこの図を与えて、「長方形になることを証明しなさい」というのとほとんど変わらないのです。

子どもたちは、証明に取り組みますがなかなか手がかりが見つかりません。この前の場面で幾何ツールを使ったことがここにつながっていません。子どもたちは単に長方形となる四角形を見つけようとしただけで、各点はどのような条件ものか意識して活動はしていません。三角形を変形しても変わらない性質を見つけることも意識していないので、証明の手掛かりになるようなものを見つけていないのです。ワークシートにはあらかじめ図がかかれているので、ますます点の条件を意識しないのです。中には、自分で図をかくところから始めている子どもがいます。こうすることで課題の条件をしっかりと把握できます。こういった行動を評価したいところです。
授業者は机間指導をしながら、グループの中に入って話をします。授業者があまりかかわりすぎるとせっかくグループにした意味がなくなります。子どもたちに任せることが必要です。「だめだ!頭がまわんない」と声を出す子どもがいます。この子どもに対してグループの他の子どもがかかわりません。子どもたちが個別に問題を解いているといった状況です。グループである意味がよくわかりません。このような状態であれば、一旦活動を止めて、どこで行き詰っているのか、どんなことをやったのかといった過程を全体共有することが必要だったと思います。
授業者は、机間指導の合間に「いろいろ見えてきた」と声を出しますが、こういった曖昧な言葉はかえって子どもの思考を混乱させます。具体的にどこに注目しているといったことを伝えた方がよいでしょう。

指名した子どもに発表をさせます。説明中でキーになる三角形が出てきました。それをきっかけにいくつかのグループが動き始めました。説明を聞かずに自分で考え始めます。しかし、授業者はそのまま説明を続けさせます。とてももったいないと思いました。多くの子どもがゴールにたどり着いていない時には、いきなり最後まで説明させるのではなく、どの三角形に注目したといったことを発表させて、もう一度子どもたちに取り組ませるとよいのです。
何人かの子どもに説明をさせますが、証明の形で板書をし始めると多くの子どもが友だちの説明を聞かなくなってしまいました。結局先生の代わりをわかった子どもが務めただけで、答を教えられる授業になってしまいました。

この後の1時間の授業検討を経て、授業者は別の学級で再度同じ授業に挑戦します。いつもは、先生方に自由に発言していただきながら授業の課題を焦点化して改善へのヒントにするのですが、今回はこの手法だと指摘が拡散して授業者がどこを改善していけばいいかがはっきりしないで終わる危険性があります。司会者が方向性を事前に決めることはあまりしたくないのですが、あえて「この授業で数学としてどういう力をつけたかったのか?」「幾何ツールを使う意味はあったのか?」「グループで活動する意味はあったのか?」と3つの視点に絞って検討をお願いしました。授業者には反論をする機会を与えませんでした。論客ぞろいの参加者です。下手に反論してそこでいろいろと言われるよりも、まずいろいろな意見を聞いてもらい、答は次の授業で出してくれればよいと考えたからです。

「この授業で数学としてどういう力をつけたかったのか?」という視点では、九点円を題材として、「証明をするには何と何を証明できればいいという全体を見通す力(戦略)をつけるのか」、それとも「特定の4点でつくられる四角形が長方形になることを中点連結定理の応用としてきちんと証明するような力をつけるのか」という2点に集約されました。1時間の授業では時間が足りないので、すべてを証明することは無理でしょう。だからどちらかに絞ることになるというわけです。授業者はどちらかと言えば後者を選んだのですが、そうであれば九点円という題材が活かされ、課題が子どもたち自身のものになるような場面が必要だったのではないかといった指摘もありました。これは次の「幾何ツールを使う意味はあったのか?」という視点ともつながります。子どもたちは単に長方形を見つけるために幾何ツールを使っただけで、課題の発見や課題の解決には利用していません。子どもたちが何らかの発見をする道具として活かしたいという意見と共に、実際に幾何ツールで円をかかせてみるといった具体的な活用方法もいくつか示されました。とはいえ、短い時間で用意した図を大きく変更させることはできません。今ある図を活かすような活動がどのようなものかを考えることが求められます。
「グループで活動する意味はあったのか?」ということについては、子どもたちはグループ活動に慣れていないという指摘がありました。iPadを使う時に一部の子どもが独占していたことや、長方形になる証明の時に子ども同士がかかわり合っていなかったことからの指摘です。課題が自分のものとなっていないので、友だちと相談してでも解決しようという思いが弱かったとも言えると思います。かかわる必然性がないと言い換えてもいいでしょう。子どもたち自身の課題となることがカギになると思われました。そのために、「どういった場面で幾何ツールを使うのか」「そもそもこの授業で何をねらうのかといったことが改めて問われます。授業者は次の授業でどのような判断をするのか、非常に興味の湧くところです。

この続きは次回の日記で。

企業との勉強会で、よいものを開発し普及させる難しさを感じる

授業と学び研究所と企業とで、これからの学校におけるICT活用に合同勉強会が行われました。前回の続きで、その際に話し合えなかったことが話題の中心でした。

今回は学校と家庭をICTでどのように結ぶのかが主な話題となりました。学校にICT活用サービスを提供している企業の多くは、「こんなことができます」と一見するとなかなかよさそうで使えそうに見える機能を提唱します。しかし、多くの場合、それらは学校のかけるコストに見合うだけのものを得られていないように思います。中には、それを実行することで、かえってマイナス面が増えるようなものもたくさんあります。家庭向けサービスについて言えば、一部の特別な学校や家庭でしか望まれていないものや、既存のものと置き換えることや並行して提供することで家庭の利便性が見込めるがそのサービスを提供することが本来の学校のねらいとずれてしまうようなものがたくさんあるということです。

話し合いでは、企業の方からいろいろなサービスの可能性を提案していただきましたが、私たちから見るとそのようなあまり意味のないものが多いように感じました。しかし、よく聞いて見ると、彼らもそのサービスがよいと感じているのではないというのです。それらはほとんどがライバル企業の提案しようとしているものなのです。ならばそれらの企業のサービスが学校現場に導入されないだけで問題がないように見えるのですが、それほど単純ではないのです。機能がたくさんあって、なんとなくよさそうであれば、いやそうであるほど導入される率が高いというのです。機能がないよりあった方がよいと考えたり、ちょっと見であると便利そうと思えたりすることが重要で、本当に使われるかどうか、そのサービスを提供することが本当に意味のあることなのかの検討は真剣になされないようです。理由の一つに、導入の決定が学校現場のことがよくわからない行政の担当者によって進められることがありそうです。彼らが決していい加減というわけでなく、どうしても行政サービスと同じような感覚で学校を見てしまうからです。提供を受ける家庭が満足すればいいのではなく、最終的に子どもたちの教育にとってそれがどれだけ良い効果をもたらすかが問題なのです。現場からの意見も大切にされますが、現場でICTに詳しい方と学校の経営にたけた方が一致しないことも多く、なかなかよい方向に議論が進んでいかないことも目にします。

企業の方は、「このサービスは意味がない、いやない方がいい」と考えても、その機能がないことが導入の障壁になってしまうのは避けたいと思っています。それは企業として当然です。だからこそ、それらの機能やサービスを学校現場にとって意味のあるものにしたい。本当に必要なものを学校に提案したいと真摯に考えて、私たち授業と学び研究所のフェローに相談してくださっているのです。私たちは純粋に学校にとって必要なこと、意味のあると思えることを提案しますが、企業はそれを単純に形にすればいいというわけではないのです。

この勉強会を通じていくつかの方向性が見えてきたように感じます。それが具体的にどのような製品サービスとなっていくのかとても楽しみです。学校現場にとって意味のあるものが提供され、普及していくことに私たちが少しでも役に立てればこれほどうれしいことはありません。

第2回授業深掘りセミナー(その3)

前回の日記の続きです。

今回の「教育情報知っ得!コーナー」は私の担当です。「反転授業」について参加者の皆さんと一緒に考えさせていただきました。
最初に「反転授業」という言葉を知っているか会場にたずねたところ、意外と少なく2/3に満たないほどでした。そこで少していねいに「反転授業」の定義を説明しました。その上で、「反転授業」は効果がありそうか皆さんに考えてもらいました。
子どもが喜んで予習してくれて、効果のある動画が用意できればこれは魅力的だと思えます。しかし、それは誰が準備してくれるのでしょうか?先生方につくれというのでは負担は半端ありません。これが大きな問題です。また、全員が予習をしていればいいのですが、してこなかった子どもがいた時にはどうすればいいのでしょうか?もう一つ、子どもたちが事前に予習をして公式や基礎知識を学んできたとすれば、今まで授業でやっていたことのかなりの部分を既に学習していることになります。その時、何を授業でやればいいのでしょうか?事前に学習したことを活かした活動を行わなければ意味はありません。それは具体的にどのようなことでしょうか?
このような疑問や問題点が見えてきます。

具体的な授業場面で考えていただきました。
台形の面積の求め方を従来の授業でやるとすると、紙を切ったりといった活動をして考える時間を取り、どのように考えたかを発表するといった流れになると思います。一方、CGなどを使った動画を見て子どもたちが予習をしてくると、学習してきたことをもとに求め方の説明をするといった活動や演習で定着させる時間になると思います。前者は子どもたちが自分で求め方を考えることが主になり、後者は教えられた知識を伝えたり定着させたりするものになっています。どちらがよいとかではなく、子どもたちにつくであろう力が違ってきます。

今すぐに「反転授業」が普及するとは思えませんが、いくつかの条件をクリアすればよりよい授業につながる可能性はあると思います。
魅力的な動画がつくられて、子どもたちがそれを見てくれるのであれば、学習時間が増えるだけでも効果があると思います。しかし、それだけではもったいないと思います。これからの子どもたちに求められる資質や能力は、単に知識を獲得し、それを説明したり、定着させたりすることではないはずです。友だちとかかわり合いながら、より考えを深め、問題解決をする力をつけることが求められると思います。
子どもたちが「疑問を持ったり、課題を見つけたりする」「自分の考えを伝えたい、友だちの考えを聞きたいと思う」ような動画が用意されることで、学校ではその子どもたちの疑問や課題、聞き合いたいという意欲を活かして、学びを深めるような授業が実現できると思います。この条件を満たすような動画やソフトがこれから少しずつ蓄積されてくるのではないかと期待しています。この時、教師に求められる力は、今までとはずいぶん変わってくると思います。アクティブラーニングを行う時に求められる力と近いものがあるように感じています。

第2回授業深掘りセミナーも盛況のうちに終わりました。参加された方も私たちと一緒にたくさんのことを考え、学ばれたことと思います。次回は、国語と理科の提案授業を深掘りする予定です。まだ定員には達していませんので、興味のある方はお早目に申込みをお願いします(申込みはこちらから)。

第2回授業深掘りセミナー(その2)

前回の日記の続きです。

2つ目の提案模擬授業は神戸和敏先生(授業と学び研究所フェロー)による中学校数学の発展的学習でした。
3×3の魔方陣を扱った授業です。今回は魔方陣が見つかった次の時間という設定です。「どうしてそうなるの?」「本当に?」「絶対?」といった言葉にこだわった授業です。
簡単に魔方陣の説明をした後、できあがった魔方陣を見せて、「どうしてこうなったのか?」を説明することを課題として提示します。30分という短い時間なので、いきなり何に注目したのから始めます。大人だからついていけるかと思いましたが、意外と戸惑っている様子です。「真ん中の数が5になる」「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」が出てきますが、魔方陣をつくる作業をしていないので、今一つピンときていません。すぐに「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」説明をしてくれた子ども役がいましたが、なるほどと軽く受け流します。他の子ども役が十分考えていないところで正解を説明されても困るからでしょう。ただ、なんで軽く流されたのかがわからないと発表者はちょっと不満に思うかもしれません。「○○さんは、もう説明できそうだね」といった言葉を足してもよかったでしょう。
ここで、ペアで相談させます。「どうしてそうなるの?」に対して、「真ん中の数が5になる」「縦、横、斜め、それぞれの合計が15になる」がどうつながるのかがよくわからずに、モヤモヤしているペアがあるように見えました。神戸先生は「わからない」というペアが「わかればいい」と、「わかった」ではなく「わからない」から出発します。「真ん中の数が決まると、上下に入る数が決まってくる」という意見に対して、「納得しました」と返ってきます。それに対して「どういう風に?」と返します。「はさむ数が決まる」と少し言葉が変わって返ってきました。「はさむ」というのは「上下」よりも広い言葉です。真ん中が決まれば「上下」「左右」「斜め」の4組の組み合わせが決まることに気づいた(気づきつつある)ということです。私ならば、「はさむ」という言葉を取り上げて「どういうこと?」と聞き返して、このことを確認します。これをしないところに、神戸先生らしさを感じます。
真ん中の数が決まれば、4組の組み合わせが決まることは、「縦、横、斜めの合計が15になる」ことから決まります。そこでどうして15になるかに焦点化します。「15じゃなければいけないの?」と揺さぶります。神戸先生は、ヒントとなることをあえて言わないようにしています。子どもたち自身で手がかりを見つけて考えさせたいからです。ただ、子ども役の方は魔方陣をつくる作業をしていないので、「1から9までの整数をすべて使って」という条件を意識できていません。「1から9までの整数をすべて使って縦、横、斜めの合計を同じ数にしようと思うと、15じゃなければいけないの?」と言葉を足すという方法もあったかもしれません。

「3マスだから3の倍数」といった面白い(?)考えが出されます。最初に説明できていた子ども役の方をここで活躍させてもよかったかもしれません。
合計が15になるというのは、全部のマスを合計すると1から9までの合計が45になるので、各列の和は45÷3となるからですが、「ななめはどうなるの?」という声が出てきます。必要条件と十分条件がわかっていません。もし、魔方陣がつくれるとすれば、各列の合計は15にならなければいけない。魔方陣の定義から斜めの合計も15にならなければいけない。こういう論理展開です。このことを説明したくなるところですが、ここもあえて神戸先生は口を出しません。子ども役をつなぐことや揺さぶりはしますが、自分からは説明はしないのです。簡単なことに見えてこれはなかなかできることではありません。この我慢が素晴らしいと思いました。

「(合計が)奇数なので残り2マスは15=□+奇数+□で合計が偶数」ということが出てきます。奇数、偶数という感覚はおもしろのですが、真ん中の奇数がどういうことかよくわかりません。どうやら、真ん中は5ということが前提で考えているようです。ここでも、余計な切り返しをせずに、子ども役につなぐことを続けます。「5が基準にあれば、1と9、2と8、……と上手くいく」という意見が出ます。これは十分条件です。真ん中が5でなければいけないという必要条件にはなっていません。「真ん中が5より小さいと残りの合計が10より大きくなる。1とペアになる数がない。5より大きいと残りの合計が9より小さくなるから9のペアがない」といった説明が出てくればいいのですが、そこにはなかなかつながりません。「5には相手がいない」と言った言葉は出てくるのですが、そこから進みません。私なら「5でなければいけないの?6だったら?」といった言葉をだして気づかせたいという気持ちになっていたところです。

「5は4回使う」という言葉が出てきます。これは縦、横、斜め(2つある)の4組の合計をすると、真ん中の5は4回使われることになるということに気づいたということです。他の数は1回ずつですから。15×4は1から9までの合計45に5を3回足した60になっていると言いたいのでしょう。この説明ではあくまでも十分条件ですから、論理的には真ん中の数がわからないという前提で考える必要があります。真ん中の数をxとすると15×4=(1+2+・・・+9)+3xという方程式になります。これを解けば5が出てきます。しかし、「4回使う」という発言に対して、神戸先生は「だって」とここでも子どもに戻すだけにします。

ここで時間切れとなりました。子ども役にとっても、まわりで見ている方にとっても結論の出ないスッキリしないものになったようです。しかし、休息時間になってもまだこの課題に取り組んでいる人がたくさんいます。知りたい、わかりたいという思いがあふれています。このことが、この授業を読み解くカギだと思います。

「深掘りトークセッション」では、結論が出なかったことや課題が子ども役にとってのものになったかどうかが話題になりました。この授業は、子どもたちに考える力をつけるためにどうすればいいのかを提案した授業だと思います。1つ目の佐藤先生の授業を「電車道」とするならば、その真逆の授業に見えます。しかし、教師がヒントを出すことや説明することをできるだけしないというのは、思考力をつけるための「電車道」なのかもしれません。この授業では時間がなかったためその場面がありませんでしたが、「どういうところに目をつけたか」「どうやって考えたか」ということを価値付してメタ認知する場面が必要だと思います。ただ思考する経験を積むのではなく、それを思考の方法として意識することが思考力につながっていくからです。正解が示されると「当たった」という子どもがいますが、こういった子どもは思考を意識していません。自分は考えたのだということを意識させたいと思います。和田裕枝先生(豊田市立小清水小学校長)は「私は答を聞きません。『何考えたか聞かせてくれる?』と聞きます」と発言されました。子どもの思考力をつけることを意識したやり方だと思います。

ゴールが何で、そのためのステップとして今回の課題があるという全体像が意識されていなかったことが、子ども役にとっての課題になりきっていなかった一因のように思います。時間が短かったことと、子ども役が自分で魔方陣をつくる作業をしていなかったことも、影響しているでしょう。しかし、子ども役が授業後もこの課題に取り組んでいたということは、解決したいという気持ちになったからです。それは、神戸先生があえて解決への道筋を見せなかったことが大きく影響していると思います。教師が教えずに我慢して子どもに任せることの意味がよくわかったのではないでしょうか。子どもたちが考える授業の一つのあり方を見せてくれたと思います。

小学校なら、統計的な切り口で子どもの課題にするという意見が和田先生から示されました。子どもたちがつくった魔方陣はいくつかの種類がある(回転や対称を考えると本質的には一つ)はずだが、どれもみんな真ん中が5だということに気づかせて、その理由を考えさせるというのです。なるほどと思いました。単にこうするというのではなく、「統計的」という視点を示されたことに感心しました。

司会の玉置先生(授業と学び研究所フェロー)から、「先生方の授業が、子どもたちが考えるのではなく、答えや解き方を教えるものになってしまうのはなぜか?どうすればいいのか?」という質問をいただきました。私は、あえて「先生方に考える力がないからだ」と挑発的な言葉を発しました。先生方は、授業で扱う問題の解き方を知っています。知っているから教えようとします。しかし、先生方も解き方を知らない問題にぶつかるとそう簡単には解けません。知らない問題を解く力がない、意識できていないのです。「解き方を知らなければどうやって考えるだろう」「どんな課題を与えれば子どもたちは解き方を見つけることができるだろうか」と考えて授業を組み立てることが必要です。子どもたちの様子や反応をよく見て、どのようなかかわり方をすればよいかを考えて毎日の授業をつくっていくことが、進化につながると思います。

神戸先生の授業は一見するとその本質や価値がわかりにくい授業だったかもしれませんが、玉置先生の司会とパネラーの考察で深掘りされることで、参加者の皆さんに十分にその意味が伝わったのではないかと思います。

最後に、「教育情報知っ得コーナー」で反転授業について私からお話をさせていただきました。これについては、次回の日記で。

第2回授業深掘りセミナー(その1)長文

第2回授業深掘りセミナーが開かれました。

1つ目の模擬授業は、岩手県奥州市立常盤小学校副校長の佐藤正寿先生の小学校社会科の選挙についてでした。
いつも通り笑顔いっぱいの授業です。参加された子ども役の方も楽しく授業を受けられます。反応が鈍い時は、「(こういう時は)うーんて、うなずくんですよ」と笑いを誘いながら、どんな行動を求めているのかを伝えます。「○○しなさい」と注意をする先生も見かけますが、行動を是正するにもこういった伝え方があることを知ってほしいと思います。
デジタルのフラッシュカードを使って知識の確認のクイズを行いますが、いつもとテンポが違います。子ども役の反応が今一つよくないのです。間違えてはいけないと考えすぎているのかもしれません。佐藤先生はここで無理にテンポを上げようとしませんでした。ていねいに対応して、授業に全員が参加できることを優先します。
クイズを使って期日前投票、不在者投票といった用語を押さえます。佐藤先生の模擬授業は場面ごとのねらいがわかりやすいのが特徴です。この場面は、初めて出会う子ども役とのアイスブレイクと用語の確認です。教えるべきことはきちんと教え、その上で考えさせるという流れになっています。

続いて選挙について知っていることを聞きます。子どもに活躍の場を与え、受容し称賛することで、発言者以外の子どもの参加意欲も高まります。
続いて、歴史の知識の確認です。最初の選挙は1890年に行われ、「21歳以上の男子で一定額以上の納税者による制限選挙」で、国民の1%しか有権者がいなかったことを押さえます。ここで、子どもが相談する場面を入れました。子ども役の反応が鈍いので、動きを入れたのかもしれません。相談するといっても知識の問題です。誰かが知っていなければ答は出てきません。佐藤先生はほんの十数秒で相談を止めさせます。こういった時間感覚は見事です。うっかり時間を取ってしまうとムダ話を始めてしまうこともよくあるのです。続いて1925年に「25歳以上の男子普通選挙」が、1945年に「20歳以上の男女の普通選挙」が実施されたことを確認します。初めて選挙が行われてから完全な普通選挙になるまで55年以上かかっていること、そして、今年18歳以上に改正されるまで70年間選挙制度が変わっていなかったことを押さえます。子どもたちはまだ10年余りしか生きていません。数字で時間を表現することで、歴史がいかに長い時間をかけて流れていくものかを実感させることができます。年号を点としてではなく、こういった変化を理解するための標として使っているのはさすがです。

知識の確認が終わって、いよいよ子ども役に考えさせる場面です。国政の投票率の変化のグラフをスクリーンに映します。PCを操作するためにどうしてもキーボードや画面を見る必要があります。そういう時でも、ちらっと目線を上げて子ども役の様子を確認しています。子ども役は大人なので心配はないのですが、日ごろ身についている習慣なのでしょう。常に子どもに意識を向けています。
グラフでは投票率はどんどん下がっていますが、2005年の郵政選挙、2009年の政権交代で上昇傾向になっています。そこまでを見せた上で、昨年の衆議院議員選挙の投票率が52%であったことを示します。投票率が低くなっていることを強く印象付けます。年齢別の投票率も同じように年代ごとに見せていくことで、高齢者が高く、若年層が低いことが強調されます。ここで思ったことを子ども役に言わせますが、当然「投票率が低くなっている」「若い人が投票しない」ということが出てきます。「みんなが18歳になったらどうなるかなあー」と投げかけ、「何とかしなければいけません」と「投票率が低い理由」を考えさせます。こういったところが流石(あざとい?)です。「若い人が投票しない」と言っても子どもからすれば他人事です。そこを「みんなが18歳になったらどうなるかなあー」とさりげなく子どもの課題として、「何とかしないといけません」と投票には行かなければいけないということを子どもたちに意識づけています。これもある種の「ヒドゥンカリキュラム」でしょう。
考えさせている時には、PCの画面をスクリーンから消します。子どもの注意をそらさないために、必要ではない時はスクリーンには何も映さないのが原則です。こういったことがさり気なくできているのは、さすがにICTを使い慣れていると感心します。

子ども役を指名するのに「縦にいく」と宣言します。心の準備をさせることで答えやすくし、テンポアップがはかれます。逆に指名方法を宣言しても、ゆっくり進めすぎると指名される予定のない子どもが当分自分は当たらないとゆるんでしまうこともあります。細かいことですが、こういうことを意識するかしないかで授業の様子は変わっていくのです。
子ども役からは、「めんどう」「自分の意見が反映されない」「権利意識が低い」「政治に関心がない」といった意見がでます。佐藤先生は最初の「めんどう」は板書しましたが、それ以外はしっかりと受容するだけで、すぐに板書しません。テンポアップするのと子どもたちの注意を板書ではなく発言に向けるためです。とはいえ、子ども役の方々は大人なので、前を向いて聞いています。ちょっと面白いと思いました。
1列が発表しを終わると出てきた意見を板書します。ここで、それとなく意見を選別するのが佐藤流です。今回はそれほどではありませんが、時としてバッサリと落として必要なものだけを板書します。書かれなかった子どもが傷つく心配がありますが、落とされるような意見を言う子どもは意外と自分の言ったことは忘れていて、ケロッとしているものです。もちろん実際には子どもたち一人ひとりのことはよくわかっているので、必要なフォローはできるはずです。また、そういったことがないように発言した時にきちんと受容していたのです。

「何とかしないといけない」「皆さんもそう思いますか?」と問いかけ、「そう思う」という反応を引き出して、「投票率を上げる案」をグループごとに考えさせます。
この授業では、「何とかしないといけない」という理由については触れません。ある意味当然のこととして進めます。小学生にそのことを考えさせるのはまだ無理だという判断でしょう。中学生であれば、ここに焦点を当ててもおもしろい授業になると思います。意図的であるかどうか別にして、「何とかしなければいけない」ことに疑問を持たせないような進め方をしていました。

「一ついいアイデアを考えてください」と一言足しますが、ここで問題は、どんなアイデアがいいのかがよくわからないことです。各グループでは子どもになりきっているのかどうかはわかりませんが、楽しそうに話し合っています。どのようにして「いい」アイデアかどうかを判断しているのかが気になります。
出てきて意見は、「投票すると券がもらえて、集めるとメリットがある」「投票日にはレジャー施設などを休業にして出かけるところをなくす」「デーマパークなどで投票する」「罰金を科す」といったものです。佐藤先生は罰金を科している国もあることを伝えます。さり気ない一言ですが、こういった知識は教師としては必要なものです。流石だと思いました。
「ナイスなアイデア」といった抽象的な評価はあったのですが、はっきりとした価値付けがなかったことが気になります。ここで出たアイデアは政治に関係ないメリットやデメリットで投票させようというものばかりです。本質的に投票行動をとらせるような意見はありません。これらの意見を「めんどう」といった理由を解消しようとしていると評価し、その上で、「『自分の意見が反映されない』『権利意識が低い』『政治に関心がない』といったことを解決するアイデアは無いでしょうか?」と揺さぶりたいと思いました。実際の小学生にこのことを考えさせることができるかどうかはわかりませんが……。

佐藤先生は、「なぜ実行しない?」と問いかけて、実現可能性や本来の民主的な選挙の観点からより深く考えさせようとしたのですが、残念ながら最初の場面で時間を取られ過ぎたためにここで時間切れになってしまいました。お金がかかるといったことを確認して、民主的な選挙の条件、「普通選挙」「平等選挙」「秘密選挙」「直接選挙」を説明して終わりました。

「深掘りトークセッション」は玉置崇先生(授業と学び研究所フェロー)の司会で進みます。パネラーは伊藤彰敏先生(一宮市立尾西第一中学校教頭)、野木森広先生(岩倉市立岩倉中学校校長)、和田裕枝先生(豊田市立小清水小学校校長)と私です。佐藤先生の授業のよさが語られますが、伊藤先生は、一言「電車道の授業」(この日のキーワードになりました)と評します。相撲で言う立ち合いから一直線に押し出したり寄り切ったりすることに例えられました。なるほどと思いましたが、その詳しい説明は後に回されます。私は「あざとい(小聡明い)」と評しました。ここで述べたように、子どもたちが自分の考えている方向に自分の意志で向かうように、色々と仕掛けているからです。あまりいい言葉ではありませんが、挑発気味の方が議論が面白くなると思ったからです(佐藤先生、失礼な表現をお許しください)。
伊藤先生の説明は、目指すところに子どもたちを一直線に連れていっているということです(電車道だけれど、あちこちと曲がっていると注釈を加えますが……)。資料を見て自由に考えさせるのではなく、グラフの見せ方など、子どもの視点をねらったところに誘導しているというのです。
司会の玉置先生は、ここまで反論しようと手を挙げる佐藤先生に発言の機会を与えません。やっと発言の機会を得た佐藤先生は、まずは「電車道」の授業ができなければ話にならないと反論します。佐藤先生は模擬授業では特に「わかりやすい授業」を目指されます。参加した方がすっと納得するものでなければ参考にならないことをよくわかっているからでしょう。私の「あざとい」も漢字で「小聡明い」と書くことから、「聡明」ということでほめ言葉と受け取るとうまく返していただけました。とても疲れるセッションですが、こういったやり取りは楽しいものです。

今回の授業を例にどのようにして授業をつくっていくのかを佐藤先生に話していただきます。
「問題意識のあるテーマ」にしようと考えて、「現実社会の問題」を扱おうと考えられたそうです。授業を考えるのに先行実践を大切にされています。インターネットではなく書籍や雑誌が中心です。インターネットは資料等を探すのには有効ですが、実践などは評価の視線にさらされていない無責任な質の低いものもあり玉石混淆です。それよりは上質な資料として書籍や雑誌を優先するということです。毎月の書籍や雑誌の購読に数万円を使っているという話は、力のある先生に共通のことのように思います。このような話を聞く度に自分の不勉強を反省します。
今回は「投票率をアップさせよう」という雑誌の記事を、話し合いのテーマの参考にしたそうです。小学校の社会の教科書は、公民分野では「社会の仕組み」を知ることが中心です。それを一歩前に進めるために、まず考えさせることを今回の模擬授業ではねらいとし、正解のないことを話し合わせたいと考えたということです。「問題解決についての話し合いで、原因とその解決策の関係を明確にするべきでは?」という私の指摘は、佐藤先生のねらいとはずれていたのかもしれません。
いろいろな資料が使われましたが、零票確認の写真以外はすべて教科書の資料だったそうです。今回はデジタル教科書を利用されましたが、教科書の資料であれば実物投影機を使っても簡単に見せることができます。面白い資料を見つけることもよいのですが、まずは手元にある教科書を上手く使って授業をつくることから始めてほしいというメッセージだと受け止めました。

「模擬授業職人」とも称される佐藤先生です。参加者に授業で大切なことをわかりやすく伝える達人です。来年もこの「授業深掘りセミナー」に登壇いただきますが、次回はわかりやすさよりも、佐藤先生のやりたいことを優先した授業を見せていただけたらと思っています。このセミナーの司会者とパネラーならば佐藤先生の授業のねらいを参加者にちゃんと伝えることができると思うからです。佐藤先生いかがですか?

この続きは、次回の日記で。
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