そのありようを見直す時期が来たように思ったフェスティバル

先日、学校評議員をさせていただいている中学校で行われた「地域ふれあい学びフェスティバル」を見学してきました。このフェスティバルを見学するのも12年目です。訪れるたびに、いろいろな変化を感じます。

今年一番感じたのは、子どもたちの表情や雰囲気の変化です。子どもたちは「与えられた」自分の役割を果たしています。しかし、それは傍から見ていると作業をただこなしているように見えるのです。以前に感じた、「自分たちの仕事だ」「お客様をもてなそう」といったエネルギーを感じないのです。表情も乏しいように思います。積極的にこのフェスティバルにかかわっているように見えないのです。子ども時代に強制的に校区のゴミ拾いをやらされた時のことをふと思い出しました。
一緒に活動している地域の方も、子どもたちのサポートに回るというよりも、子どもたちの代わりに前面に出なければいけなくなっているように感じました。地域の方と子どもとのコミュニケーションも弱くなっているように見えました。

どうも子どもたちの当事者意識が弱くなっているように思います。子どもたちの希望者と地域との共催から、学校行事として全員参加に変わってかなりの時間が経ちました。地域が一歩引いた形になったのですが、学校の先生の中にも当事者意識が感じられない方が目に付きます。子どもたちと同じように自分に割り当てられた仕事をこなしているだけに見えるのです。先生方がこのフェスティバルの教育的な意義や目的を意識していないように感じます。地域の方も、自分たちの立ち位置が見えなくなっているように思います。
フェスティバルは無事に運営され、来客者も楽しんでいただけていますが、その主体がどこにあるのかよくわからなくなってきているように思うのです。ただ、お店や展示があって人が集まっている。その核となるのは何なのか、このフェスティバルを通じてかかわる人がどうありたいのか、どうなってほしいのかが伝わってこないのです。

時が経ち、子どもたちも先生方も変化しています。このフェスティバルの存在そのものを根本的に見直すべき時が来たのではないかと思います。学校と地域が、子どもたちを育てるという視点で、フェスティバルは「どうあるべきか?」「どうしたいのか?」をゼロベースで話し合うべき時が来たように思います。
以前のような、時にはぶつかりながらも子どもたちと地域が一つのものをつくっていくエネルギーを感じたいと思うのは、年寄りの感傷なのでしょうか?

教師力アップセミナーで小笠原先生のファンになる

本年度第6回の教師力アップセミナーは中部大学准教授の小笠原豊先生の「子どもが夢中になる理科の授業」と題した講演でした。

スタートから小笠原ワールド全開です。現役小学校校長時代のエピソードに、思わず跳びあがってしまいました。小学校の修学旅行で神主に化けて子どもたちを出迎えたり、また別の年は舞子さんに扮して子どもたちを驚かせたりと、その時の子どもたちの驚きの表情が目に浮かびます。子どもたちと撮った記念写真をフレームに入れて、修学旅行から帰った時に全員に配ったそうです。子どもたちは、家族にその写真を見せながら、修学旅行の思い出を一生懸命に話したことでしょう。単なるパフォーマンスではなく、子どもたちに一生残る思い出をつくってあげたいという、小笠原先生の強い思いを感じます。
実は小笠原先生とは、先生が中学校の校長時代に一度お会いしています。その時は、まさかこんなパフォーマンスをする方だとは知りませんでしたが、ちょっと型破りで、とても懐の深い方だと印象に残っていました。今回の再会で、一気に先生のファンになってしまいました。

小笠原流「子どもが夢中になる授業」を実演しながら解説されます。その一番のポイントは、子どもに「あっ」「えっ」「わっ」と声を出させ、「何で?」「どうして?」と疑問や問題意識を持たせて、「やりたい!」と達成欲求を持たせることです。そのために、同じものを見せるにしても演出や仕掛けが大切です。特に小笠原先生は、「演出」(先生の言うところの「小芝居」)が素晴らしいので、大人でも引き込まれてしまいます。しかし、いくらパフォーマンスが素晴らしくても、理科として大切なところに子どもたちの興味を引き付ける仕掛けがなければ話になりません。単なるおもしろ実験をしただけでは、子どもたちにこれからの社会を生き抜くための資質・能力が身につくわけでもありません。その点、小笠原先生は、子どもたちが身につけるべき力を意識した単元構成をしっかりされています。

理科の探求学習の「ある科学的な知識を獲得するための探求(概念獲得型)」「ある科学的な概念を獲得するための探求(概念活用型)」という2つの分類を元に、小学校と中学校での探求学習の視点を整理されます。小学校では獲得する概念が少なく、活用するほどの知識・技能が乏しいので「概念獲得型」が、中学校では学習塾などで既習の子どももいることや、知識・技能が増えて深い追究が可能になっていることから、学びの有用性が時間できるような「概念活用型」が適しているということです。こういう視点を持つことで、理科の授業の構成がしやすくなると思いました。
この視点からすれば、小学校では単元の導入で子どもたちに強い問題意識や達成意欲を持たせる「仕掛け」が、中学校では、子どもたちにとって「リアリティのある課題」が大切になります。小笠原先生が実演・紹介された事例は、どれもその点でなるほどと納得させられるものでした。
具体的な例は先生の著書「mini 探求学習 RECIPES」を参考にしていただけたらと思います。

講演終了後も小笠原先生からたくさんの興味深いお話を聞かせていただきました。セミナーの運営にかかわっているものの特権です。その中に、こんなお話がありました。
あるところで講演の際、先ほどの「mini 探求学習 RECIPES」を販売したそうです。興味を持たれた先生が手に取ってパラパラめくっていたのですが、「これでは使えない。トークは書いていないんですか?」と聞かれたそうです。この本には、単なるネタではなく、学習のねらいやポイント、展開例もついています。授業をするために必要な情報は詰まっています。トークの部分は、それぞれ先生の個性で考えるべきものです。小笠原先生と同じトークをしても、キャラクターが違いますから上手くいくとは限りません。そこすら自分で考えられないのかと思うと、ちょっと驚いてしまいました。
かつて、若手も交えた勉強会で理科の実験の授業ビデオを見た時のことを思いだしました。小笠原先生と同じく、「しゃべり」が上手く、「小芝居」で子どもを引き付ける方の授業です。どこで心が動いたかを聞いたところ、ベテランは子どもの発言に対する受けや返し、つなぎの部分に集中したのですが、若手はその「しゃべり」や「小芝居」のところにひかれました。授業の本質よりも、話し方や演出といったパフォーマンスに目が行くようです。
授業で大切なことを伝える難しさを改めて感じさせられる話でした。

小笠原先生からとても多くのことを学ばせていただきました。素晴らしい先生と出会えたことに感謝です。

学級会も、大切なポイントは普通の授業と同じ

昨日の日記の続きです。

学級会の授業研究は、若手の2年生担任の学級で行われました。
子どもたちはとてもよい表情で、いい雰囲気の学級です。担任と子どもたちの人間関係がよいことがわかります。
「最高のクラスに向かって」という学級の掲げるテーマを確認して、この日の目標を「一人1回は意見を言う」と設定しました。この目標は悪いことではありませんが、この学級会自体の目標が明確ではありません。学級会を開きたかったのは担任なのでしょうか、それとも子どもたちだったのでしょうか。担任に確認したところ、「最近子どもたちが少し緩んできていると感じたので、子どもたちにもう一度自分たちの行動を考えてほしいと思った」とのことでした。担任の口から説教するのではなく、子どもたち自身で考えてほしいと思い、学級会の形を取ったのでしょう。であれば、子どもたちにもっと学級をよくしたいという気持ちを持たせる場面が必要になります。

最初に、学級のよくなったところを子どもたちに発表させます。よくないことを言わせるのではなく、よいことを言わせるという発想はなかなかです。「悪いところを直しましょう」ではなく、よいところを確認して、「もっとよくするためにどうするとよいかを考えましょう」という展開です。
子どもたちを指名して答えさせます。「3分前着席。三役以外が声かけしている」「どんな行事でも全力で取り組める」「明るい」「切り替えができる」と子どもたちから出てきますが、一つひとつを学級全体に確認しません。すぐに「他にあります?」と進めますが、ここは全員で自分たちのよいところを共有したいところでした。
続いて、「学級のよいところを元に、素敵なキャッチフレーズをつくろう」という課題を提示します。4人グループで相談して一つに決めて発表させます。これはちょっと唐突です。何のためにキャッチフレーズをつくるのかが明確でないのです。担任としては、なかなか発言できない子どもに機会を与えたかったようですが、目標が明確でないため、思いつきで発言します。子どもたちのテンションは上がっていきました。楽しそうにグループで考えたキャッチフレーズを発表していましたので、雰囲気づくりには役に立ったようには思います。

ここで、「今回は、いいところをさらによくするための学級会をします」と子どもにバトンタッチをして学級会が始まりました。「さらによくする」必然性が見えてきません。学級のテーマである「最高のクラス」というキーワードを元に、必然性を持たせる必要があったと思います。4月当初に「最高のクラス」とはどのようなものか具体的にしているはずですから、その確認をして、「いいところをたくさん言ってくれたけれど、最高のクラスになったかな?」と子どもたちに問いかけて、もう一息であることを気づかせてから、学級会に移るとよかったと思います。

司会の子どもたちが、今よりも最高のクラスに近づけるように挨拶、掃除、仲間の3つのテーマについて話し合っていくことを伝えます。最初に最高の挨拶をするために普段から心がけていることをワークシートに書いて発表をします。担任は机間指導をしながらよい意見に○つけや朱書きをして発表しやすいように支援します。ここで気になるのは、子どもたちが考えて発表するのが「今やっていること」ということです。これは一つ間違えるとやっていない子どもに「同じようにやりなさい」と強制することにつながります。そうなると、学級が息苦しくなる子どもが出てくる可能性があります。
子どもたちは自分の心がけていることを理由も含めて発表します。「教室移動の時にすれ違った先生に挨拶をする。理由はそうするとまわりの人も挨拶するから」「相手よりも先に挨拶をする。相手の挨拶をしたい心を揺さぶるから」……といった、他者への影響を意識している発言がいくつか出てきます。中に、「友だちと挨拶の声の大きさを競うのがいいと思います」という発言がありました。これはもう、自分のやっていることではなく、学級のみんなへの提案です。一人ひとりが個人としてやっていることを聞きあって、自分もやろうと思ってもらう場面なのか、学級全体として何かをやろうとしているのかがはっきりしません。また、とても素晴らしいことをいう子どもがいると、ささやかなことだと言いづらくなってしまいます。特定の子どもに発言が偏りだしました。ところが、仲間に対しての発表ではちょっと様子が違っていました。先ほどまでと違った子どもたちが挙手します。担任が積極的に声をかけ朱書きをしたこともあるのでしょうが、仲間に関することは挨拶や掃除と違って、自分が意識していることを言いやすかったように思います。「ありがとうを言うようにしている」「相手に悪いことをしたらすぐにあやまる」「たくさんしゃべる」といった、飾らない言葉がたくさん出てきました。

担任は、子どもたちの発表の様子を教室の隅から見守っています。発表者に向かって笑顔でうなずいて、子どもの発表を後押します。こういったところに、この学級の子どもたちと担任の関係のよい理由があるように思いました。

最後に子どもたちから出てきた、日ごろ心がけていることの中から、学級として心がけることを一つずつ多数決で決めます。「相手よりも先に挨拶する」「責任を持って掃除をする」「自分から積極的に仲間と話す」に決まりました。
最後は多数決で決定しましたが、それでよかったのか疑問が残ります。自分が心がけていることを紹介したのであって、必ずしもそれをみんなにやってほしいと思って発表したわけではありません。一つひとつの活動が微妙にずれているように思います。明日からの子どもたちの行動を変えさせたいのであれば、学級で取り組むことを決めることよりも、友だちの発表を聞いて自分にやれそうなことを一つでもいいから実際に実行することの方が、意味があるようにも思います。多数決ではなく、自分が明日からやれそうなことを宣言するといった終わり方もあったと思います。

こうして学級会を見せていただいて思うのは、例え子どもが司会するのであっても、大切なポイントは普通の授業と変わらないということです。授業者が学級会を通じて子どもにどうなってほしいのか意識して、子どもたちのゴールを設定し、活動を組み立てる必要があります。活動のゴールや目標を明確にし、見通しを持たせることができれば、例え子どもが司会をするのであっても、話し合いが成立すると思います。この研究授業を通じて、大切なことを学ぶことができました。

授業検討会では、担任の支援やテーマ、授業の進め方についてしっかりとグループで話がされました。先生方が子どもたちの様子をよく見ていると思いました。
私からはこの授業についてのコメントの他に、昨日の日記にも書いたように、子どもたちが落ち着いて授業に参加できるようになったからこそ、次の段階に向かって授業を工夫してほしいことを伝えました。

この日は、懇親会にも招待していただきました。多くの先生方から授業についての質問や相談、そして子どもたちの様子についての報告をいただきました。先生方が自分の授業をよくしたいと強く思っていることが伝わってきます。先生方の前向きなエネルギーに触れて、たくさんの元気をいただきました。このような機会をいただきうれしく思います。ありがとうございました。

子どもとの人間関係ができたからこそ、次のステップを目指してほしい

中学校の現職教育で講師を務めました。今回の授業研究は特別活動の「学級会」でした。学級会での授業研究は私も初めての経験でとても楽しみでした。
授業研究に先立ち全体の様子を参観させていただきました。手の空いている先生方も同行してくれます。気軽に互いの授業を見あうことができるのはとてもよいことです。子どもたちの様子を中心に、今教室がどのような状態なのか説明させていただきました。

全体として子どもたちは落ち着いています。基本的に先生方との人間関係も良好です。一方的な授業をしても、子どもたちはちゃんと指示に従い作業をします。ただ活動しているだけで、どんな力がついているのかよくわからない授業も目にします。しかし、子どもたちの状態がよいため、授業が成立していると思っているようです。もちろん、子どもたちが考え、活動するような場面をつくっている授業もあります。そのような授業では子どもたちはとてもよい姿を見せてくれますが、人事異動等の影響もあり、残念ながら絶対的に少なくなっていることが現状です。学校全体で、子どもたちが主体的に取り組む授業を目指してほしいと思います。
具体的には、「課題を先生が一方的に提示するのではなく、子どもたちが疑問を持つような場面をつくる」「わからない子どもがわかるようになる活動場面をつくる」「全員参加を心がける」「授業で大切なことを子どもたちに言わせるようにする」といったことを意識して、授業を組み立てることです。特に1時間の授業で、子どもたちがわかるようになるためには、どのような問いかけをして、どのような活動をすればいいのかを工夫してほしいと思います。
例えば、音楽でソナタ形式の説明の場面がありました。授業者は同じ「形」が出てくると説明しましたが、「形」という言葉ではそれがどのようなことを意味するのかよくわかりません。「形」をわからせるために、楽譜をいくつかのブロックに分けて、似た形を探させるといった活動をすることが必要です。Aとその一部が異なるA’を重ねて見せたりすると音符がつくる形が似ていることに気づくと思います。それを演奏することで、視覚的な理解が聴覚での理解へと進んでいくはずです。一つの例ですが、こういったことを考えてほしいのです。
また、黒板には答や結論、まとめだけが書かれていることが多く、思考の過程や根拠が残されていません。答だけを発表させて、課程や根拠を問わない、共有しない授業も目にします。わからない子どもはただ答を受け入れるしかありません。
例えば英語のQ&Aでは、聞き取れなかった子どもは、友だちの正解を聞いても「そうなの」と思うだけで、できるようにはなりません。できるようになるためには「質問の英語を聞き取ること」「その意味がわかること」「質問の答えを考えること」といくつかの課程があります。それを意識して授業を組み立てる必要があります。いきなり答を聞くのではなく、「どんな言葉が聞き取れた?」「どんな文があった?」と問いかけ、その上で再度聞かせることで今まで聞き取れなかった言葉が聞き取れるようになります。こういった活動を授業の中に組み込むのです。

学年ごとの子どもたちの変化は面白いものがありました。特に驚いたのが3年生です。この学年は入学した時からその様子が気になった子どもたちでした。小学校で学級崩壊を起こしたことがあったそうです。そのためか、子どもたち全体に教師に対する不信感のようなものがあるように感じたのです。生徒指導上で苦労も多かったようですが、一部の子どもにかかわりすぎないようにし、普通の子どもたちとの関係をつくることを一番にお願いしました。学級崩壊を起こした時には、先生方は一部の子どもに手を取られて、多くの子どもたちは先生にかかわってもらうことがなかったと思われるからです。
昨年から、子どもたちと先生の関係がよくなってきました。その様子を見ていて、離れていた子どもが学級に戻ってくるようになりました。そして、この日見た3年生の様子は、どの学級も小学校のように笑顔があふれていました。先生も子どもも授業が楽しくてしょうがない。そんな風に見えました。この時期になると入試のプレッシャーで苦しい表情の子どもも目に付くのですが、こんな能天気で大丈夫かと思うくらいでした。厳しい表情で教壇に立っていた先生の姿を思い出すと、まるで別世界です。先生方と子どもたちでとてもよい学年をつくりあげることができたようです。この素晴らしい経験を学校全体に広げていってほしいと思います。この日あった懇親会の席である先生がこんなことを話してくれました。学校から離れかけていた生徒が、今年は行事があるたびに「今日は3年間で一番楽しかった!」とうれしそうにするというのです。とてもうれしい話でした。

2年生は、相対的に問題が少ない学年ですが、授業で子どもたちが受け身になる場面が目立ちました。先生方が子どもたちを信じて、もっと高いことを求めてほしいと思います。求めればそれに応えることができるはずです。学年全体で目指すところを共有して授業に臨んでほしいと思います。

1年生は、以前訪問した時に、先生と子どもの関係ができる前に子ども同士の関係ができつつあるように感じました。そこで、子どもとの関係をつくることを意識してほしいとアドバイスをしました。先生と子どもの関係はよくなっているのですが、授業中に子どもが先生に対してなれあっているように感じる場面が目立ちました。先生方は子どもの言葉をよく拾います。しかし、授業に関係のない言葉にも一々反応して、相手をしてしまっているのです。こうなると、子どもは調子に乗って不規則発言が目立つようになります。結果として、学級全体のテンションが上がり、授業規律が損なわれたり、集中力を失くしたりしてしまいます。子どもとの人間関係は悪くないので、収拾がつかないといった状況ではないのですが、活気があるというのとは違います。また、一部の女生徒などは、このテンションについていけてないことにも注意が必要です。子どもの言葉を拾い、受容するのは大切ですが、授業と関係のないことは取り上げないようにすることが必要です。けじめをつけることを意識してほしいと思いました。

この学校は、何年かかけて子どもたちと先生の人間関係をつくることができました。だからこそ、そこで止まるのではなくその先に進むことが必要です。授業を工夫すればそれにみあうだけの結果が伴う状況ができました。子どもとの人間関係がよく、授業で困らないことで満足せずに次のステップに挑戦してほしいと思います。

授業研究については、明日の日記で。

授業の構成を意識したかった道徳の授業

前回の日記の続きです。

授業研究は4年生の道徳で、勇気を出して行動することを考える授業でした。
授業の最初に勇気とは何かを子どもたちに問いかけます。子どもからは「強い心」「強い奴と対戦」といった言葉が上がってきます。授業者は「勇ましい気持ち」という言葉に対して、それはどういうことかと子どもに問い返してつないでいきました。「立ち向かうこと」「チャレンジする」といった言葉が出てきます。子どもの答は「何に対して」が抜けています。この日の授業で、ここに焦点を当てておくとこの後の展開やまとめの視点が定まったように思いました。授業者はこの後、「本当の勇気」についてこの時間考えることを伝えて、資料に向かいました。聞いていて「本当」という言葉は唐突に感じました。子どもたちから出てきたものは、本当の勇気ではなかったのかという疑問が起こります。「本当」という言葉は、ここでは必要なかったように思いました。

子どもには資料を与えず、授業者が資料を範読します。子どもたちは集中して聞いています。途中で止めて、場面を表わす絵を黒板に貼ります。子どもたちがよその家の柿を落とそうと石を投げているところに、主人公とその友だちが出くわした場面です。この時、この2人がどう思ったかをたずねます。子どもたちは友だちの発表をしっかり聞こうとしています。授業者は子どもの考えをていねいにつないで、いろいろな言葉を引き出します。「ばれなかったら……」という意見に対して、「人にあたるからダメ」といった言葉が子どもたちから返ってきます。道徳的にどうかと思われるような本音も屈託なく言えるのは、何を言っても安心な学級の雰囲気があるからです。ダメと意見を否定されても、自分は否定されないという安心感があるのです。このやり取りがあっても教室の雰囲気は悪くなりません。むしろ柔らかくなりました。
このことは、授業者が子どもの発言をしっかりと受け止めて信頼関係をつくっているだけでなく、子ども同士をつなぐことをして子ども同士の関係もしっかりとつくっているからだと思います。ただ、子どもの発言を大事にできるようになると、今度はどんな意見も等価に扱おうとするようになることが多いように思います。どの意見もていねいに扱うだけでなく、場面に応じてはテンポよく次々に指名していくといったことも必要です。道徳であれば、どの場面で子どもたちに考えることを迫るのかということです。授業者は先ほどの場面に時間をかけましたが、ここは「いけない」「おもしろそう」といった言葉を出させて、登場人物の気持ちに入り込ませるだけで十分です。もっと軽く扱ってもよかったでしょう。

この2人がこの後どうするかを問いかけてから、資料の範読に戻りました。予想させることで、次の展開を真剣に聞こうとします。よい問いかけだったと思います。
最初は一緒に石を投げるのを止めようとしていた主人公の友だちが、誘いにのって石を投げてしまいます。この時の主人公の気持ちを問いかけます。子どもの様子をよく見て、反応している子どもを指名することもできます。ただ、ここでも主人公の気持ちをあまりていねいに考える必要はなかったように思います。この資料では主人公は一人になっても止めて、結局仲間外れになってしまいます。いけないことはいけないというべきだという、道徳の時間の常識的な答を揺さぶるのですから、子どもたちの考えをここで深めることはそれほど意味がないのです。それよりも、仲間外れになったときの気持ちを考えさせることに時間を使いたいところです。

仲間外れになった主人公の気持ちから、どうすればよかったかを問いかけます。ここで授業が大きくずれ始めました。「いっしょにやるけれど、石を投げるふりをして投げない」といった、仲間外れにならない対策や、どう対処するかといったことを考えます。テンションが上がり始めました。無責任なアイデアコンテストの様相を呈してきました。
授業者は、方向をうまく修正できず、最後に「誰が、勇気がある?」と問いかけました。最初に提示した「本当」の勇気はどこかへ行ってしまいました。

一つひとつの場面を点で見ると、子どもとのやり取りも上手で、子どももよく考えています。しかし、全体としてはそれらがきちんとつながっていないので、子どもたちの変容を促すことができませんでした。どのようにして子どもたち迫るのか、授業の構成がはっきりしていないのです。
主人公に寄り添って考えさせるのであれば、「主人公は、後日別のグループの子どもが同じように石を投げているのを見たら止める?」といった、この後の行動を考えさせるとよかったと思います。子どもたちの意見はおそらく分かれると思います。その理由を聞き合うことで、子どもがより深く考えてくれると思います。その上で、じゃあ「君たちならどうする?」と子どもに迫ることで、この時間のねらいに近づけたのではないかと思いました。

授業検討会は、グループで行われました。どのグループも学級の雰囲気、授業者と子どもたちのやり取り、子どもをつなぐことなどの学ぶべき点を具体的に取り上げていました。「雰囲気がよい」といた言葉だけでなく具体的な子どもの姿で語ることができたり、どういう技術を使って子どもをつないでいるのかを具体的なやり取りをもとに示したりできています。先生方の授業を見る力があるということだけでなく、それを実践できていたり、このことを意識することで今後できるようになったりするということです。学校全体の授業力が高まりつつあるということだと思います。
道徳の授業については、どうすれば本来のねらいに近づけたかについて話し合われていました。よい視点だと思います。具体的な提案も聞くことができました。
私からは、道徳で子どもたちに考えさせるための問いかけの視点について少し説明させていただきました。「誰」「いつ」という軸でマトリックスをつくるということです。「主人公」「相手」「第三者」「子どもたち自身」の、「過去」「現在」「未来」の「行動」「気持ち」「それらの理由」を問いかけるのです。このマトリックスを考えると選択肢が広がり、その授業にしっくりとくる問いかけが見つかると思います。
今回の授業で私が考えた「主人公は、後日別のグループの子どもが同じように石を投げているのを見たら止める?」であれば、「主人公」の「未来」の「行動」で考えたのです。授業者の問いかけは、仲間外れになった時を起点とすれば、「主人公」の「過去」(友だちを止めた)の「気持ち」と「主人公」の「現在」(仲間外れになった)の「気持ち」を問いかけていますが、この2つを対比させなければ揺さぶられません。この2つの「気持ち」を元に授業を組み立てるのであれば、「気持ち」は「変わったのかどうか」を問いかけることが必要です。私の考えた問いかけは、「気持ちの変化」を「行動」によって明らかにさせようとして「未来」を選んだということです。
道徳の問いかけを考えるヒントとしてもらえれば幸いです。

参観した授業、授業検討の様子から、学校全体のたしかな進歩を感じさせてくれました。今後の変化が楽しみな学校でした。

ICT機器を使うことが授業者のよさを損なうこともある

昨日の日記の続きです。

5年生の若手の授業は国語の「大造じいさんとガン」の大造じいさんの残雪に対する気持ちの変化をとらえる場面でした。
授業者はよく素材研究を行っていたようです。おそらく同じ5年生の担任の先輩からいろいろと教えてもらっているのだと思います。素材研究をしっかりするとどうしても伝えたいことが増えてきます。それがこの授業には表れてしまいました。
子どもとの関係もよく、子どもたちの授業に対する参加意欲も高い学級です。子どもからの発言も出やすい雰囲気です。しかし、今回授業者は子どもから自分の望む発言が出てくると、「そうだね」と受容した後、自分で解説してしまいました。子どもが一言つぶやくだけでも、すぐにそれを拾って解説し始めます。子どもの発言をきっかけに、授業者の講談が始まってしまうのです。「今言ったこと、どういうこと?みんなに説明してくれる」と子どもの考えをまず全体で共有して、気づかなかった子どもにも考える時間を与える必要があります。
説明が終ると次の質問をしますが、子どもたちは一方的に入ってくる情報についていくのがやっとです。次第にやり取りに参加できない子どもが増えてきます。積極的に参加できる子どもと授業者だけでどんどん授業が進んでいきました。
教材研究の段階で、「子どもに絶対言わせたいこと、考えさせたいこと」をまず絞ることが大切です。その上で「子どもから出てくれば取り上げること」を考えます。それ以外は基本的に受容するだけで軽く扱うという姿勢で臨みます。こういったことを考え、判断するためには、この作品を通じてどのような国語力をつけるのかという単元を通じたねらいが明確になっている必要があります。例えば、「登場人物の心情の変化をとらえるのに、『発言』『行動』『情景』といった表現に注目して『対比』する視点を身につけさせる」といったことです。
今回の授業では、以前の場面での大造じいさんの心情とそれを表わす表現を事前に整理しておくとよかったでしょう。例えば残雪に対する呼び方が視点として整理されていれば、「ガンの英雄よ」という言葉に着目することができます。こういった視点がないまま、授業者の質問に答える形で授業が進んでいったのが残念でした。
指名して答えられなかった子どもに挽回の機会を与えるといったこともきちんとできます。失敗を笑いとばせる明るい学級をつくっています。昨年と比べても授業力は確実に進歩しています。こうして次の課題が明確になったので、次の機会には一段と進歩した姿を見せてくれると思います。

もう一人の5年生の担任は中堅の先生です。社会でこれまで学習したことをもとに、カルタをつくる場面でした。
カルタのサンプルを、タブレットを使ってディスプレイに映しながら説明をしますが、教卓の上に置いて使っています。授業がしっかりとできる方でも、新しいICT機器の活かし方は、すぐにはわからないようです。このことはICT機器の導入に関連して頭に入れておかなくてはいけないことでしょう。
今まで学習したことをもとに、読み札のキーワードを子どもたちに見つけさせます。キーワードを入れることがこのカルタつくりのポイントです。ディスプレイ上でキーワードの色を変えて見やすくします。視覚に訴えるのはよいことです。ただ、今押さえるべきことが何かを意識していないとポイントがずれてしまいます。この場面ではキーワードを見つけることが大切なのですが、カルタづくりでは自分でキーワードを考えてそれを入れ込んだ読み札をつくることがポイントです。この押さえが甘くなっていたように思います。日ごろの授業者の実力からいって、おそらく、タブレットを使わなければ、こういったことにはならなかったと思います。
カルタをつくる作業の説明に入ります。絵札はどのようにすればいいのかの説明で、ICT機器が威力を発揮します。ディスプレイに映すことで一目瞭然です。視覚的にすぐにわかることですが、どうしても口頭で説明したくなります。言葉での説明に時間を使ってしまいました。しかし、この授業は社会です。絵札にエネルギーを使ってほしくはありません。簡単に説明をして、子どもたちから質問がなければすぐに作業に入ればいいのです。
作業がはじまってからも、ディスプレイには絵札が映し出されていました。これも注意が必要です。ディスプレイに何か映っているとどうしてもそこに目がいってしまいます。絵札が映っていれば、絵札をつくることに意識が向いてしまいます。必要が無くなればディスプレイは消しておくべきです。逆に、作業中に意識させておきたいことをずっと映しておくという使い方もあります。この場面であれば、読み札をつくるポイントをディスプレイに整理して残しておくのです。実験などでは、手順などを映しておけば、黒板を広く使うことができます。
社会の授業としてみると、カルタをつくることそのものが目標の活動になってしまいました。カルタをつくる目的はこれまで学習したことを整理することです。「読み札を読むと、学習したことのポイントが思い浮かぶものをつくる」といったことを目標にするとよいでしょう。ちなみに、図画工作の授業であれば、「絵札を見れば読み札の内容が想像できるものをつくる」といったものになるでしょう。
タブレットを使ったために授業者の持っているよさが損なわれてように感じました。タブレットの使い方についてアドバイスをしましたが、もともとの力はある方です。次の機会には素晴らしい活用をした授業を見せてくれることを期待しています。

ICT機器の活用については、学校全体に対してアドバイスする機会を持てればと思っています。

道徳の授業研究については次回の日記で。

教師と子どもとの関係ができた後の課題

小学校で授業アドバイスを行ってきました。1年生と5年生の各2学級の授業参観と4年生の道徳の授業研究でした。
授業参観は、1時間に2学級ずつ見たのですが、1年生と5年生が組み合わされていました。同じ学年で互いの授業を見あえるようになっています。アドバイスも2人一緒です。学年をチームとしてとらえていることがわかります。ちょっとしたことですが、こういったことが小学校では大切になると思います。

1年生の若手の道徳の授業は、勇気を持って行動することを考える授業でした。
勇気を出して言えた経験を子どもたちに問います。一人の子どもが「言ったけれどダメだった」と話しました。授業者は「悲しかったね」とその時の子どもの気持ちに寄り添います。席に着いた子どもがほほ笑んだことが印象的でした。
子どもたちは友だちの方を向いて発言を聞いています。よい授業規律がつくられています。中に数人、体を向けない子どもがいます。一々注意をする必要はありませんが、この子どもたちが参加できることを意識して進める必要があるでしょう。いきなりその子どもを指名すると「お仕置き」のようになりますので、友だちの発言にかかわることを別の子どもに発表させた後に、気になる子どもを指名するといったことが必要でしょう。
一人ひとりの発言をしっかりと受容することができているので、子どもたちと授業者の関係は良好です。しかし、授業者は発言者ばかりを見すぎる傾向があります。発言者と授業者の二人だけで完結する場面が多いように感じます。他の子どもの様子も見て、発言をつなぐことが必要です。
また、子どもの発言をいつもていねいに聞きますが、軽重がありません。考えさせたい場面であれば全体で考えを共有し、他の子どもにつないで深めることが必要です。そうではなく、単なる復習や確認など、早く次の場面に進みたい場面であれば、発言を受容だけしてテンポよく次々に指名し、子どもたちの発言したい欲求を満たせば十分です。隣同士で聞き合うのも意外と時間短縮になります。
子どもたちが思いついたことをすぐに口にする場面がありました。授業者がつぶやきを拾うので不規則な発言が増え、子どもたちのテンションが上がってきました。どうなるかと思いましたが、授業者は発言を止めさせ落ち着かせました。1年生はこういったけじめをつけにくいのですが、しっかりと授業規律を維持することができています。
子どもに自分ならどうするかを問いかけたとき、「大きな声で言えない」という意見が出ましたが、その理由を聞いてもうまく表現できませんでした。そこで「○○さんが言いたかったことは何?」とまわりと相談させました。授業者はこの気持ちをみんなに考えさせたいと思ったのでしょう。子ども同士に相談させることはよい指示だと思います。しかし、先ほどの発言がうやむやで終わってしまったので、「言いたかったことは何?」では、子どもたちには何を相談すればよいか、課題が明確になっていませんでした。言いたかったのは「大きな声で言えない」ということだと考えている子どももいました。ここは、「○○さんは『大きな声では言えない』と言ってくれたけれど、どうしてかその気持ちを考えてくれるかな?」と具体的にしてから活動させる必要がありました。
○○さんの言いたかったことを子どもたち発表させますが、本人に確認するような場面はありませんでした。本人を差し置いて話が進むのはちょっと危険です。「○○さんは大きな声では言えないといったけれど、同じように思った人いる?」と同じ考えをつないでから、「大きな声で言えないのはどうしてだろうね?」と同じ考えの子どもに聞いたり、まわりと相談させたりする方法もあったと思います。
子どもたち一人ひとりとの関係はできているので、子ども同士をつなぐことを次の課題にしてほしいと思いました。

もう一人の1年生の担任はベテランの先生です。国語の「じどう車くらべ」の授業で、比較して文を読む場面でした。
列単位で音読をさせます。子どもたちに何を意識させて読ませているのかよくわかりませんでした。読み終わった後、「大変元気よく読めました」と評価します。低学年なので、全体で評価しても、自分に言われたと思ってくれるので悪くはないのですが、「元気よく」というのは国語の目標としてはちょっと気になります。具体的にどのようなこと(間、声の大きさの変化など)を意識させたいかを明確にして読ませ、列ごとにどこがよかったかを具体的に評価したいところです。
「問いがいくつありました?」と確認して、全体で答えさせます。大きな声が出ていますが、口を開かない子どもも目に付きます。全員の口が開かないのであれば、個別に指名して確認することも必要です。
質問に対して、友だちが答を言った時に「言われちゃった」という声が聞こえてきました。授業者は、質問に対する子どもの答えに対して「正解」と判断することがよくあります。一問一答になっています。そのため、他の子どもに答を言われると同じ答の子どもは発言の機会がなくなります。それで、「言われちゃった」という声が挙がったのです。子どもたちは指名されようとテンションが上がっていきます。友だちの発言が正解かどうかが関心事なので、友だちの方を見ずに授業者の方ばかりを見ます。授業者は「正解」という言葉は使わずに、「なるほど」と受容し、何人も指名するようしたいところです。一問一答か全体で答える場面が多く、子ども同士をつなげる場面が少なかったのが残念です。
この学校では教師用のタブレットが導入されたばかりでしたが、早速これを利用しているのには感心しました。教科書の本文をディスプレイに映し、子どもの視線を上げています。しかし、せっかくのタブレットですが、まだ慣れていないのでしょう。中央にある教卓の上に置いて、下を向いて操作しています。時々顔を上げるのですが、ちゃんと写っているかどうか心配なのか、ディスプレイを見てしまいます。授業者はその場で説明をするので、子どもたちはどちらを見ていいのか困ってしまいます。タブレットを使わない場面ではしっかりと子どもを見ることができる方です。ICTがかえって足を引っ張ってしまいました。聞いたところでは、機器は導入されたがその授業での活用についての研修などはまだ開かれていないということでした。導入してその操作方法を伝えるだけでは、活かされません。その活用法についてもしっかりとした研修を計画することが大切です。
タブレットを手に持って、子どもたちを見ながら授業をする。子どもの視線を惑わさないためにディスプレイのそばに立って説明する。体がディスプレイと重なると見にくいので、指示棒などを利用する。こういったことをお伝えしました。ちょっと説明するだけで、すぐにその意味することをわかっていただけました。次回はこういったことを意識して活用すると前向きな言葉を聞くことができました。新しいことに挑戦する意欲とアドバイスを受け入れる素直さは見習いたいものです。

この続きは明日の日記で。

自分の目指すものを同僚に聞いてもらうことも大切

介護関連の研修で講師を務めました。今回は、介護制度の変化の中で、これから自分はどうしていけばいいのか、どうしたいのかを、参加者の皆さんに考えていただきました。

自分がこれからどのようなことを意識して仕事をするか、キャリアアップをどう考えているのかをグループ内で発表してもらいました。職場の同僚にこういったことを話すのは気恥ずかしいものです。無理に発表しなくてもよいとことを伝えました。これまでの研修を通じて、自分の考えを受け止めてもらえると感じているのでしょう。皆さん、自分の考えをしっかり発表してくれました。それぞれの仕事、立場で目指すものは異なりますが、皆さんうなずきながら受け止めていただいていました。なるほどと、納得しながら聞いていることが伝わってきます。互いに支え合える関係ができてきているように感じました。仲間の目指すものを理解し応援できるようになってくれることを期待します。

学校では会議や打ち合わせといった仕事面や、授業研究の検討会での話し合いは持たれますが、自分が教師としての力量をどのようにして向上させたいといったことを伝え合うような場はあまりありません。個人の問題と言ってしまえばそうなのですが、若い先生方の中には、自分の力量向上について一人で苦しんでいるように見える方が少なからずいらっしゃいます。互いに悩みを話し合ったり、どのようにすれば目指すところにたどりつけるのか同僚と一緒に考えたりする場がもっと必要に思います。管理職やリーダーは、こういった場が自然にできるのを待つのではなく、積極的につくることを考える必要があると思います。
私は現場にいたころ、子どもたちを複数で面接することをよくしました。学習面などで頑張っていることや目指していることは仲のよい友だちに対してでもなかなか言いづらいものです。それを教師がグループ面接で聞き出すことで、互いに話しやすい雰囲気をつくるのです。先生方を子どもたちと同列に扱うわけではありませんが、若手に対する授業アドバイスを少人数のグループで行うと、個別に行うよりも効果があるように感じます。同僚に自分の課題を知られることは抵抗があるかもしれませんが、同じようなことで苦しんでいることを知ると、仲間意識も生まれてきます。上手く関係をつくることができると、互いに学び合えるようになっていくのです。

介護の研修を通じて、学校における研修のあり方や場のつくり方についても考えることができました。仕事の内容にかかわらず、共通することがたくさんあることを改めて実感しました。

何を押さえなければいけないのかを考えさせられた授業

前回の日記の続きです。

1年生の数学での授業研究は、若手の先生の比例のグラフの導入場面でした。
授業者は比例のグラフが直線になることを子どもたちに納得させることを強く意識していました。そのために、ICT機器も活用しています。

導入で、2つの点を与えて、点と点を結ぶ線を自由に引くことを子どもたちにさせます。子どもから「直線でないといけませんか?」という質問が出ました。授業者は意識してないと思いますが、ちょっと厳しい口調で「自由です」と返しました。子どもは質問を否定されたように感じたかもしれません。ここは、「『直線でないと』といってくれたね、直線以外の線もあるんだね?自由だからね」と子どもの発言を認めてから、自由であることを強調したかったところです。しかし、授業者は、全体的には受容的で子どもをとてもよく見ています。子どもに対して肯定的な声かけもできています。
個人作業をさせてから、子どもたちを指名して、黒板にかかせます。点と点を線分で結んだところで、線分、直線の説明をしました。その説明にうなずく子どもに対して、「○○さん、うなずいとったけど……」と指名して書かせます。子どもの反応をよく見て活かそうとしていることがわかります。
点と点を結ぶ「直線」はどのようなものかを「点を通す……」と説明します。ちょっと言葉が雑に思います。これでは直線の定義ではなく、書き方の説明です。どこまでも伸びているといった言葉で説明する必要があります。
指名された子どもたちによって黒板にかかれた線を、ワークシートに写している子どもがたくさんいます。必要性や意味を考えることなく板書を写すことが日常化しているようです。これはこの授業だけの問題ではなく、この学校全体の問題のように思います。
ここまでにかなりの時間を使ってしまいました。授業者はそのことを反省していましたが、問題はそこではありません。一番の問題は、グラフは「結ぶものだ」という前提で授業が組み立てられていることです。「結ぶ」というのは結果であって、条件を満たす点の集まり(集合)が線になっているという、グラフの定義から押さえておくべきことがすっぽりと抜け落ちているのです。
関数のグラフを考えるのに絶対に外せないのは変域(定義域)です。この1時間で変域という言葉は一度も出てきませんでした。全く意識されていないことがわかります。
グラフを考えるのに整数値で表をつくりますが、数値の間が縦線で区切られています。中学校では縦線で区切らないのが普通です。連続的に変化することを意識しているからです。そもそも、変域が整数となるようなものであれば、グラフの点を結んではいけません。こういったことが抜け落ちて、表の値をもとに点を取ったあと「どうやって結べるか?」と線となることが前提で課題に取り組ませます。関数の本質を外してしまっているのです。

表の値を元にグラフ上に点を取らせる作業をさせます。正解をパワーポイントのスライドで見せて、合っていたかどうかを挙手で確認します。子どもたちはほとんどスクリーンを見ていません。この程度の問題であれば見なくても子どもたちは困らないのです。常に授業者が正解かどうかを判定して説明しますが、子どもたち任せることも必要です。隣同士の確認で十分な場面でした。

グラフとはどういうものかの確認がないままで、点を結ぶことをさせます。授業者が曲線で結んだり、同じx座標に対して2つの点があったりするようなグラフを見せてこれではいけない理由を考えさせます。
そもそも、比例のグラフが直線になることの論理的な説明は中学校レベルでは無理です。ダメな理由の説明はできないこともありませんが、「おかしな点に対して、その座標の値を関数の式に代入して成り立たない」「関数であればxの値が決まればyの値は一意に決まる」といったことをよりどころにするか、比例の性質を上手く使うかしかありません。こういった視点の整理をしないまま、ばらばらに理由を積み重ねても得るところはありません。「点を通るかどうかは座標の値を式に入れて(代入して)成り立つかどうかでわかる」「関数であれば、同じx座標の点は1つしかない」「x座標の値が2倍になったら、y座標の値も2倍になる」「x座標の値が一定の値だけ増加したら、y座標の値も一定の値だけ増加する」といった関数のグラフの定義や性質、比例の性質を整理し、まとめていきたいところでした。
子どもたちからは、「増えていない」「他の値が出ちゃう」といった言葉がダメな理由として出てきます。言葉が足りませんが、この言葉をきっかけにして、考えを整理していくことができます。うまく言葉にできない子どもが多いので、全体で発表させるのではなく、子ども同士で相談させてもよかったでしょう。
特定の子どもたちの発言が続き、他の子どもたちはただ聞いているだけです。発言する子どもも、授業者に向かって説明をします。授業者も発言者に切り返すだけです。一部の子どもだけで授業が進んでいきます。発言の内容を全員でまず共有する。それに対して、発言者だけなく、全体に対して切り返す。発言者には、みんなに納得してもらうことを意識させる。こういったことが必要です。
結局、最後はパソコンを使って値を細かくとって見せて、直線になることを視覚的に納得させました。しかし、なぜ細かくする必要があるのか、できるのかの説明はありません。最後まで、変域を押さえることができませんでした。「調べてみると直線になる」といって結論づけましたが、子どもたちにとってこれまでの活動が何であったかはよくわかりません。これでは、教師の提示する結論を受け入ることが数学の授業ということになってしまいます。

比例係数の違う3つのグラフをかかせて特徴を見つけることが次の課題です。こういった課題では特徴を考えるための視点を意識する必要があります。「何が異なるか(ここでは比例係数)」を明確にして、「共通のこと」を見つける、「共通でないこと」と「異なるもの」の関係を見つける(例えば、比例係数が正であれば右上がり)といったものです。これまでの特徴を考える場面で整理できていたのなら、そのことを確認してから課題に取り組めばよいでしょう。これが初めての場面であれば、子どもたちから出てきた特徴に対して、その視点を価値付けすることが必要です。こういったことをしないと、数学的なものの見方・考え方は育っていきません。
気になったのが、特徴として「一直線で引ける」ことが取り上げられたことです。確かに特徴なのですが、比例のグラフは必ず直線になることをどこでどう押さえるのかです。表を元に3つのグラフをかいても、一直線になることの説明にはなりません。1つのグラフをコンピュータでかいて直線になることの確認をしただけで、他のグラフについてはまだ不明です。比例定数が変わっても、常に直線になることの説明をどうするかはむずかしい問題となります。直線のグラフをy軸方向に何倍かしても直線になるといった説明が必要になります(この説明はあくまでも感覚でしかありませんが……)。
3つのグラフで共通だからといって、すべての比例のグラフに共通であるかどうかはわかりません。このことをきちんと押さえていなかったことも残念です。原点を通るという共通性は、x=0の時、比例係数がどんな値でもyは必ず0になることで確認してほしかったところです。比例係数の正負と右上がりか右下がりかの関係についても説明が曖昧なままでした。

いろいろと工夫は見られたのですが、結局は、子どもたちは結論をワークシートに写してそれを覚えることになります。子どもたちとって問題を解くための知識を覚えることが学習の目的になってしまうのです。それ以上に、数学として、定義や論理の方向性(因果関係)を授業者がきちんと理解していなかったために、せっかく工夫したこともピントはずれになってしまっていたことが残念です。

授業者は、教科書がグラフの導入の最初に変域に触れていたことを不思議に思っていたようですが、私と話すことでその意味に気づいてくれました。自分なりに疑問を持っていたのですが、それを解決することができていなかったのです。教科の先生同士でそういったことを話し合うこともなかなか難しいようでした。授業について気軽に話し合える状況ができてほしいと思います。
授業者は、子どもをよく見て受け止めることができます。次の課題は、子ども同士をつないで、全員参加できるようにすることです。まだまだ、これからの若い先生です。数学の教師として、数学の基本をきちんと学ぶことと合わせて、全員が参加し考えることを意識すれば、授業は大きく変わっていくと思います。これからが楽しみです。

最後に若手の先生方に集まっていただいて、お話をする機会をいただきました。
自分の授業を通じてどうなってほしいのかという、目指す子どもの姿を明確にすることで、授業規律やグループ活動などで何を求めるかがはっきりしてきます。望ましい行動や姿がはっきりするので、そういったこと見つけて、ほめることや価値付けすることができるようになります。子どもたちは、具体的にどうすればいいのかがわかりますので、よい行動が広がっていきます。子どもたちを受容して人間関係をつくることと合わせて、授業づくりの基本としてほしいと思います。
また、結果ではなく、根拠、思考の過程を大切にすることもお願いしました。結論だけ与えられても、わからない子どもはできるようにはなりません。結果を覚えるしかありません。そうではなく、常に子どもたちに根拠をたずね、どのようにして考えたのかその過程を共有し、板書を見ればその課程を振り返れるようにしてほしいのです。
残念なことですが、解き方や知識を覚えることが勉強だと思っているように見える先生にも出会います。これまで、社会人として学習したことを活かす必要に迫られていなかったのかもしれません。これからの子どもたちには、単に教科の知識だけでなく、それを活かすことができる力が求められます。このことを意識してほしいと思います。

ほぼ全員の授業を見ることができ、学校としての課題を知ることができました。私にとっても大変よい学びの機会になりました。こういった課題を具体的にどのように解決していくのか、どのような歩みをしていくのか、今後がとても楽しみな学校でした。

子どもが落ち着いているからこそ考えたいこと

中学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は公開授業が設定されていて、ほぼ全員の授業を見せてもらうことができました。おかげで学校全体の傾向をつかむことができました。「共に学び、考える場面」を授業に組み込むことを意識して指導することになっていたようです。

この学校に限らずこの市の子どもたちは落ち着いています。この市の先生方が異動する地域では子どもたちが落ち着いてない学校も多いので、そういった学校での勤務経験のある方はとても授業がしやすいと思っていることでしょう。しかし、困難を感じないために、旧態然とした、授業者が一方的に話す場面も多く見ました。子どもたちは受け身でもそれなりに落ち着いています。けれども、よく見るとそういった場面では子どもたちの集中力が落ちています。子どもたちの顔が上がっていないのに授業者が話し始めることもよくあります。顔を上げて目を合わせて聞いてほしいとは思っていないのです。これに限らず、「落ち着いて授業に参加しているからいい」と先生方が子どもたちにより高いものを求めていないことが問題です。求めれば子どもたちはそれに応じてくれるはずです。また、授業に参加していると言っても、本当に集中して参加しているのかどうかは疑わしいところもあります。先生の問いかけに対して挙手が少ない授業が目立ちます。数人が挙手で指名し、一問一答で進んでいきます。子どもたちの姿からは、挙手しなくても先生の説明を聞くなり、板書を写すなりして答がわかればいいという気持ちがうかがえます。

わからない子どもたちがわかるようになる、できるようになる場面を意識している授業が少ないようにも思いました。相談する場面などをつくっても、子どもたちが聞きあい、考える必然性のある課題かどうかはあまり吟味されていないように思います。また、グループ活動中に先生がグループ内の子どもと個別に話をしたりしている場面も目につきます。グループ活動における教師のかかわり方のポイントが学校で共有されているようには見えません。
話し合いの結果を発表させることはあっても、その発表を共有し、広げ、深める場面がありません。やり方がよくわかっていないのかもしれません。意見を聞いたりしても最後は先生がまとめてしまいます。これでは子どもたちは自分で考えようとはしません。板書も答やまとめが多く、思考の過程が残るものは少ないように思いました。結局、先生の求める答探しの授業になってしまいます。

また、どの授業もワークシートを多用する傾向にあります。一概にワークシートを否定することはできませんが、ワークシートがあると子どもたちはその穴を埋めることを授業の目的にしがちです。自分で考え理解できなくても、ワークシートの穴が埋まっていれば安心、試験はそれを覚えればいいという子どもが育ってしまう危険性があります。ワークシートを使う根底に、作業するものを明確にしておけば子どもはごそごそしないという発想があるように思います。とりあえず授業中おとなしくさせておくための手段としてのワークシートに見えます。確かに落ち着かない学校ではそういった工夫も必要でしょうが、この学校には必要ないと思います。そうではなく、子どもたちを信じてもっと自由に考えさせる場面を増やしてほしいと思います。少なくとも、先生の示す正解を書きこむためのものではなく、一人ひとりの考えや学びの軌跡が残るワークシートにしてほしいと思います。

うれしかったのが、まだ経験年数の少ない先生方の授業で印象的な場面に出会えたことです。積極的にICT機器を使い子どもの興味や集中を引き出している国語の授業がありました。授業者はまだICT機器に慣れていなくて、小さい文字を拡大することができませんでした。しかし、そのようなことはこれから覚えればいいことです。それよりも、ディスプレイではなく子どもたちをよく見て、しっかりコミュニケーションをとっていたことが素晴らしいと思いました。
まだ、考えさせたいところで先生が余分な説明をすることがありましたが、”situation”を与えて、子どもたちに考えさせることを意識した英語の授業もありました。
特別支援で、子どもたちをとてもよく受容できている先生もいました。
経験年数の少ない先生方でしたが、これからの成長を期待させるものがたくさんありました。

もちろんベテランの先生方にも素晴らし点はたくさんあります。家庭科の授業で、子どもをしっかりと受容しうまく言葉を引き出しているベテランがいました。教室に安心感があふれています。子どもの言葉を活かしながら、他の子どもに上手くつなげていきます。さすがというべきものでした。こういった授業を見ることで、多くのことが学べると思います。
この他にも、多くの先生にこれは素晴らしいという場面がたくさんありますが、学校として共通と感じるものがありません。目指す子どもの姿を共有して、そのためにどうすればいいのか互いの実践から学び合うことが大切だと思います。目指すものが「共に学び、考える」ということであれば、「互いに学んでいる、考えている」というのは子どものどういう姿でわかるのか、具体例をたくさん挙げて共有することが必要です。そのイメージが持てると、目標が明確になり上手くいったかどうかの評価ができます。具体的にどうすればいいのかが明確になってきますので、授業研究などでそれを共有することができます。また、合わせて、子ども同士のかかわり促すための基本的な授業技術を研修することも必要でしょう。
残念なのは、こうした学校として目指す方向がまだしっかりと共有されておらず、その実現へのステップが明確になっていないように感じたことです。今後こういった点を意識して授業改善に取り組んでいただけたらと思います。

数学の授業研究等、この続きは次回の日記で。

実力を発揮できなかったが、よい学びにつながった授業

市主催の授業力向上研修会で講師を務めました。今回は夏休みに行った模擬授業の本番です(本番が楽しみになる模擬授業参照)。子どもたちの反応が楽しみです。

授業は小学校5年生の算数、平行四辺形の面積の求め方でした。
授業者はちょっと緊張気味でした。子どもたちもそれに影響されていたかもしれません。それでも、一生懸命に授業に参加しています。授業規律はしっかりとしています。作業が終わったかどうか「姿勢で教えて」と声をかければ、すぐに反応してくれます。これまでの復習で、どんな図形の面積を求めることができるか問いかけます。「長方形」「正方形」「三角形」と発表されるたびに「賛成」と子どもたちが大きな声で反応します。こういった声やハンドサインは授業者にとっては安心材料なのですが、全員が本当にわかっているのかははっきりしません。この場面に限らず、授業者は子どもの発言をしっかりと聞くのですが、子どもたちが賛成の意志を示すとそれでよしとして、進めてしまいます。声やハンドサインだけに頼らず、個別に何人も指名するといったことをして、しっかりと共有することが必要です。

三角形の面積はどんな形の三角形でも求められるかを確認しますが、口頭の確認で終わっています。いくつかの三角形を図示して、個別に確認をする必要があります。これをするのかしないのかが後で効いてきます。
「長方形」「正方形」の他にどんな四角形があるのかを子どもたちから言わせて、どの四角形の面積を求めるかを考えます。当然「平行四辺形」以外にも「台形」や「一般の四角形」も挙がります。子どもたちに考えさせた以上、「平行四辺形」にする理由が必要ですが、明確にできません。たとえ授業者が決定するにしても、その理由はある程度明確にしたいところです。「今まで学習したことを上手く使うのが算数では大切だよね。今まで学習して四角形に近いのは何かな?」と問いかけ、この日は「平行四辺形」を扱うことにするといった流れを考えておく必要があったと思います。
子どもたちにこの日のめあてを考えさせます。「平行四辺形の求め方を考えて友だちに説明しよう」が出てきます。「何の」求め方かが抜けていましたが、そこは確認しません。「説明しよう」が子どもからすぐに出てくるということは、こういった課題の時は必ず説明することがめあてとなっているのでしょう。ただ、「説明する」ことだけではなく、友だちに「わかる」「伝わる」を意識させることも必要でしょう。「みんなが考えてくれた……」とこれをこの日のめあてとしましたが、一人しか発表していないのに少々強引な進め方です。

平行四辺形について知っている性質、続いて三角形の面積の公式を確認します。ここで大切なのは、公式の「底辺×高さ÷2」ではなく、どうやって公式を考えたのかと「底辺」「高さ」はどこの長さのことかです。前者は、「切る」「(面積の求め方を)知っている形をつくる」といった面積を求めるための方法の確認、後者は三角形に分割した時「どこを底辺として考える?」ということを意識させるために重要です。
授業者は「底辺」と「高さ」を一般的な鋭角三角形で確認しただけで、続いて「線を引いたり、切ったりしていいよ」と、子どもたちに平行四辺形が方眼の上にかかれているプリントを何枚か配ります。ここは、鈍角三角形や直角三角形などで「どこが底辺?」と聞いて、どこでも「底辺」となり得ることを押さえておきたいところです。「線を引いたり、切ったり」も子どもから出させたいところでした。大切なことを無意識に授業者が言ってしまいます。算数・数学の授業では特に見方・考え方が重要なのですが、どうしても答を出すことを優先してしまう傾向があります。学校現場を回っていて、ここを変えるのは思った以上に難しいことを痛感しています。

子どもたちはすぐに対角線を引くのですが、鈍角三角形をつくってしまった子どもは、対角線を「底辺」にして考えてしまい「底辺」と「高さ」の長さがわからずに困っていました。この授業のねらいからすると、ここは困らせたいところではありません。先ほどの三角形の面積の公式を復習する場面で、この三角形と同じ形の三角形で「底辺」と「高さ」を確認しておきたいところでした。
すぐに平行四辺形の面積がわかった子どもは、なかなか次の方法を考えません。「できるだけたくさん見つける」「友だちが考えないようなやり方はない?」「どんな形の平行四辺形でも大丈夫なやり方?」といった目標を子どもたちに応じて与えることが必要でしょう。

ペアで自分のやり方を伝え合います。伝え合いのルールを授業者が説明しますが、何度もやっているはずのことなので、子どもの口から確認したいところです。また、説明する側の視点でのルールでしたが、「うなずきながら聞く」といった聞く側の役割をはっきりとさせたいところです。ただ説明するのではなく、相手に伝えたいという気持ちになるような工夫が必要でしょう。例えば、この後の発表では、説明をペアの相方がするといった方法も考えられます。
子ども同士が上手くかかわれていないペアもあります。授業者は全体を見ながら、そういったペアへ必要な支援をできるようにしてほしいと思います。

指名した子どもに、黒板に自分の考え方の図と式を示させます。ここは答を共有するのではなく、考え方を共有したい場面です。式を書かせずに、「○○さんは、この図からどんな式をつくったと思う?」と、自分とは違うやり方も考えさせるようにするというやり方もあります。同じ図でも違う式ができる場合もあります。子どもたちからこういったことが出てくるような工夫が必要です。
本人の代わりに式の説明をさせる場面をつくります。「伝え合う」という視点ではとてもよいことですが、挙手が2人だけなのにすぐに指名してしまいました。考えをしっかり共有したいのであれば、ここで指名してはいけません。まわりと相談させるといった活動が必要です。
指名された子どもの説明に、「賛成」のハンドサインが出ます。これは、聞いていた子どもが判断すべきことではありません。まず、式を書いた本人にこれでいいのかどうかを確認する必要があります。聞くのなら、「今の説明で○○さんのやり方が納得できた?」と後から聞くべきだったと思います。
子どもの説明に不備が多いことが気になります。式に出てくる数が「底辺」「高さ」とは説明しますが、それが図のどこになるかを示しません。そもそもどの三角形かも確認しません。復習のところの押さえが甘かったことがその原因の一つですが、説明して伝えるために何が大切かも意識できていないことも大きいように思います。「どの三角形?」「底辺ってどこ?」とその場で聞き返すことが必要です。授業者が聞き流すので、子どもたちもペアの活動で聞き流してしまうのです。
子どもたちは一生懸命に説明するのですが、その価値付けはありません。ハンドサインの「賛成」で終わってしまうのです。ここで「式の数が図のどこのことかを言ってくれたからわかりやすかったね」というような価値付けをきちんとしないと、説明する力がつきません。説明のどこがよいのかを意識して聞くことが説明する力をつけるためには必要です。

対角線の引き方で上手くいかなかった子どもは、答はわかりましたが困った感は解消されません。この授業全体が、わかった子ども目線で進んでしまいました。わからない子どもがわかる場面がなかったことが残念です。

実は、ここで私が指摘したことのほとんどは、指導案ではしっかりと意識されていたのです。例えば、発表の場面では図だけをかかせて、式は他の子どもに考えさえることになっていたのです。緊張していたのでしょう。せっかく考えたことが活かせなかったのは少し残念でしたが、参加した先生方にとってはよい学びの材料となりました。
検討会では、相変わらず質の高い意見が交換されます。「どのような活動をさせればねらいが達成できたのか?」「困っていた子どもたちをどのようにすればよかったのか?」とよい視点での検討ができていました。

授業者は、普段できていたことができなかったことを悔しく思っていました。研修終了後に話をした時に、「子どもたちは頑張ってくれていたのに、申し訳ない」という言葉も出てきました。子どもたちに対する思いが根底にあるからこそ、こういう言葉が出てくるのです。この姿勢であれば必ず授業はうまくなります。この授業が失敗ということではありません。授業者が今後進歩するきっかけとなれば、大成功なのです。今後が楽しみな先生とまた出会えました。

企業の方との勉強会で学ぶ

先月末に授業と学び研究所と企業とで、これからの学校におけるICT活用に合同勉強会が行われました。

今回は学校にあるデータをどのようにして活用するかが主な話題になりました。現在全国に校務支援システムが普及してきましたが、その先にどのようなものがあるのを学校に近い私たち研究所のフェローとシステムを提供する側との双方の視点から意見交換をしました。

企業の方は全国の学校から様々な要望をいただいています。その要望をできるだけよい形で取り入れようとしています。私も学校の事情はよくわかっているつもりですが、こうしていろいろな地域や学校の要望を聞くと、本当に学校の置かれている状況は様々であることを実感します。企業としては、できればすべての要望を実現したいと考えますが、当然そのようなことは現実的ではありません。また、こうしてほしいと言われたからといって、その通りにするのがよい解決策であるとも限りません。なぜそうしたいのか、どこに問題があるのかをきちんと理解して、よりよい解決策を考えることが大切です。この勉強会では、そういう視点で本質的な意見交換ができたのではないかと思いました。

今回この勉強会を通じて感じたのは、企業の方が真摯に学校の持つ課題の解決に役立ちたいと考えられていることです。また、学校からの要望が、今自分たちが直面している目先のことに関するものが多いことが印象的です。これからの学校には何が必要なのかを考え、新しいシステムを導入することで教育を変えようというような発想が少ないのです。そういった長期的なビジョンを学校現場が持つ余裕がない、またはそういう視点がないということなのでしょう。

こういった状況を踏まえて、私たち研究所に求められるのは、これからの学校教育をよりよくする、提案性の高い企画を考えることだと思います。現状を改善するという視点だけでなく、全く新しい発想で学校教育の進化を後押しするようなものが提案できればと考えます。今までにないものを考えるには、こういった私たちと違う立場で学校とかかわっている方との勉強会は貴重な場となります。今すぐに企画や提案が形になるわけではありませんが、近い将来私たちの考えたものが学校現場で先生方のお役に立つ日が来ることを願って、今後もいろいろな方と協力していきたいと考えます。
私にとって、とても充実した勉強会になりました。このような機会を持てたことに感謝です。

何を目指して授業をつくるか考えてほしい

昨日の日記の続きです。

初任者の1年生の理科の授業は飽和水溶液と再結晶についての場面でした。
前時での実験の確認を2人の子どもに発表させます。2人の意見を「いっしょ」と授業者が判断しますが、全く同じ発言ではないので同じかどうかは少なくとも本人たちに判断させたいところです。子どもに意見を言わせた後、授業者がすぐに説明することも気になります。復習の場面なので子どもたちに活躍させたいところです。
結晶の定義を「いくつかの平面で囲まれた、規則正しい(形状の)個体」と確認しますが、子どもたちにピンときません。形状と言った言葉が抜けているので余計わかりにくくなっていますし、針状の結晶に対しても上手く説明できません。この程度の定義であれば、何種類もの結晶をディスプレイで見せて、子どもたちに特徴を言わせて、定義に使う「規則正しい」といった言葉を拾いたいところです。

実験からわかったことをもとに、子どもたちと物質が水に溶ける時の性質をきちんと整理し、それを受けてから、溶解度の定義をしたいところですが、天下りでの定義になってしまいました。水の量を変えたら溶ける量がどう変わるのかを子どもたちに問いかけて考えさせ、同じ温度であれば、溶ける量は水の量に比例することをきちんと押さえておくことが必要です。基準となる水の量に対してどれだけ溶けるのかを知っていれば、水の量が変わっても溶かせる量がどれくらいかわかることを確認して、基準となる水の量として100gを選んだということを伝えるのです。こうすることで溶解「度」という言葉になることも理解できるはずです。用語が出てくる必然性を理解した上で、自然に定義したいものです。

授業者はパソコンとディスプレイを使って、溶解度曲線などの資料を提示します。しかし、パソコンとディスプレイを離して手元で操作するので、子どもたちの視線が授業者かディスプレイか定まりません。授業者はパソコンを操作する時は下を見て、説明はディスプレイを見てしまいます。子どもたちの様子を見ることができていません。ワイヤレスマウスなどを利用してパソコンから離れ、指示棒などを上手く使うことで子どもの顔を見るようにしたいものです。

子どもたちに硝酸カリウムと塩化ナトリウムの溶解度曲線を見せて、ここからわかることを言わせようとしますが、なかなか反応が出てきません。正解を言わなければならないと思っているために、発言しにくいのかもしれません。発言しなくても、最後は先生が答を言って説明するから参加しなくても問題ないと思っているのかもしれません。理科の資料を見る力や考察力が育っていないのかもしれません。資料の読み取りでは、変化のあるなし、その特徴(増加、減少、一定か否か)、比較といった視点を整理しておくことが必要です。日ごろからこのようなことを意識しておくことが必要です。
子どもたちは受け身の時間が長くなってきて集中力が落ちてきます。授業者の問いかけに何を答えていいのかわからなくなってきたようです。授業者が子どもたちから言葉を引き出そうとして「硝酸ナトリウムと塩化ナトリウムの違い」「何がわかる?」と問いかけの言葉を変えているのも子どもたちを混乱させる原因です。この状態で無理やり指名して答えさせたり、授業者が自分で説明したりすれば、ますます反応しなくなります。隣同士やまわりと相談させるといった活動が必要になります。

「練習する前にまとめます」と授業者がまとめを板書します。子どもは結局それをワークシートに写すだけです。穴埋めの多いワークシートを使っていましたが、子どもたちは穴を埋めて完成させることで満足感を得ます。考えることより穴を埋めることを優先します。課題を解決したいという気持ちが前面にでるようにしたいものです。この時間の課題ではありませんが、溶解度について考えたいという気持ちになるような展開を考えたいものです。
「一番甘い砂糖水(シロップ)ってどのくらい甘いだろう?どうすればつくれる?」と問いかけ、「どんどん溶かそう。あれっ、もう溶けなくなっちゃった。これが一番甘い砂糖水かな?誰か舐めてみる?」と、子どもたちから「温めればもっと溶ける」という言葉を引き出し、「本当?溶ける?やってみようか?」と温度で溶け方が違うことを確かめ、「でも熱くて飲めないね。さまして飲もう」と冷して再結晶をすることを見せて興味を持たせます。じゃあ「一番辛い塩水は?」というようにして、水に物質がどのくらい溶けるのかを考えたい気持ちにさせるといった導入も考えられます。これはほんの思いつきですが、こういった工夫もほしいと思います。

溶解度曲線から、どれだけ溶けるかを読み取らせようとしますが、溶解度曲線の意味がよくわかっていません。最大どれだけ溶けるかの押さえが弱いのです。「○°Cの水に、50g溶ける?60gは?」と、このグラフから何がわかるのかをまず、きちんと練習することが大切です。
授業者は子どもたちが理解するためのステップをとばし、練習問題を解くために必要な情報をヒントとして教えます。「問題を解くためにどんな情報をグラフから読み取る必要があるのか」を考える力をつけることが一番大切なのですが、問題の解き方を教えることにまっしぐらです。これは、理科という教科を通じて子どもたちにどんな力をつけたいかという授業観の問題でもあります。一度原点に戻って、このことを考えてみてほしいと思います。

子どもたちはどんどん反応しなくなっていきます。授業者は溶けるとはどういうことかを問いかけますが、過去に学習したことなのに、だれもノートや教科書を調べませんでした。
授業の中に子どもたちがわかるという場面がありません。授業者の結論をそのまま受け入れるだけで、考えることがないのです。理科は実験や観察、事実がもとになって成り立つ教科です。実験から考えることがとても大切なのですが、子どもたちにとっては実験より先生の説明、まとめが重要になってしまっています。

まだまだ、経験の浅い初任者です。いろいろな先生の授業を見て、自分が目指す授業像、子ども像をつくっていってほしいと思います。この学校の理科は、30代以降の先生がいないようです。これはなかなか厳しい状況です。教科の先生で互いに学び合うことはもちろんですが、他教科の授業も見ることや、できれば他の学校のベテランの理科の授業を見たり、セミナーなどに参加したりして視野を広げてほしいと思います。憧れる授業が見つかればきっと大きく進歩すると思います。

英語がわかる、できるようになる授業はどのようなものか考える

前回の日記の続きです。

1年生の英語の授業は電話の応対の場面でした。小学校から異動してきた先生です。
小学校での経験からか、子どもたちを非常に上手に受け止めています。子どもたちの表情がよいことが印象的です。失敗しても笑い飛ばせる明るい雰囲気があります。しかし、小学校英語の影響でしょうか、授業が活動中心に構成されているように思います。一つひとつの活動のねらいやそれが達成できたかという評価が授業を見ていてはっきりとしないのです。

フラッシュカードを使うのは読みの練習なのか、リスニングの練習なのか、単語を覚えることなのか、よくわかりません。フラッシュカードはそのどれにも活用できるので優れているのですが、ただいつも同じように授業者が発音して、子どもが繰り返すのでは中途半端で力がつきません。読むことを意識するであれば、カードを見せるだけで授業者は発音する必要がありません。リスニングを意識するのであれば、カードは見せずに聞かせる必要があります。子どもが発音してから、カードを見せるべきですが、その時何を見せればよいのかは難しいところです。言葉を覚えるのであれば日本語を使わずに”situation”から理解させることが大切です。その点から言えば、”situation”や名詞であればその物を表わす絵を見せるという方法があります。その逆に、絵で表わしたものを見せて、言葉を言わせるという方法もあります。言葉の本来の意味を理解した後であれば、読みの確認として英語を見せればいいでしょう。どれが正解と言うのではなく、授業の組み立の中でねらいを明確にして活用してほしいと思います。

単語の意味を子どもたちに問いかけます。知っている子どもしか答えられません。復習であれば、その時使われた英文を聞かせ、思い出させてから問いかけたいところです。また、言葉の意味を教科書の例文の使われ方で教えるのも気になります。例えば”free”を「ひま」と教えます。「拘束されていない状態」という”root sense”で教えたうえで、子どもたちから「ひま」という言葉を出させたいところです。
一人の子どもが発言すると、その後授業者の説明が続く一問一答形式で進みます。授業者に続いて”repeat”しているか、こういった一問一答の受け身の時間が多く、英語が話せるようになる活動や場面はどこなのだろうと考えてしまいます。

この日の主課題は電話での応対ができるようになることです。電話でのやりとりはその”situation”を伝えにくいのが難点です。電話をかける前に、「○曜日にパーティをしよう」「だれを呼ぼうか?」「○○さんは暇かな?」「電話してみよう」「電話にでるかな」といった気持ちを吹き出しに絵で表わしておくといったことをしておきたいところです。その上で会話を聞けば、かなり理解度が変わってきます。田尻悟郎先生風に、この部分を口に出してから、英語を話すといったやり方もあるでしょう。
電話での会話の”repeat”に教科書を見せています。目で文を見ながら耳で聞くので簡単に”repeat”ができます。丸暗記するならいいのですが、言葉として覚えるのにはただ繰り返すのは有効ではありません。目は文を読むためでなく”situation”を理解することに使いたいのです。先ほど用意した絵を指さしながら、”repeat”させると言った工夫がほしいところです。

読む目標を「感情を込める」として、練習させます。指名した子どものテンションは上がります。楽しい活動を目指すのは理解できるのですが、英語の技能には直接結びつきません。それよりも正しく理解して、正しい発音で英語が使えるようにすることが優先です。小学校の英語活動ではないのです。読む練習をしますが、そうではなく話せるようになる練習が先だと思います。どうしても紙の試験への対応が優先された授業構成になってしまいます。大学入試を含め英語の試験のあり方が変わらないとなかなか変われないのかもしれません。

一方が友だちを誘い、他方がその誘いを受けるか受けないかを答えるという練習をペアでします。文をつくるのに「後ろと協力して」と子ども同士のかかわりも持たせています。こういった発想はとてもよいと思います。ただ、かかわれていない子どもも目に付きます。授業者は全体を見て、かかわれていない子ども同士をかかわらせるような動きをしてほしいと思います。
どのようなお誘いなのか、相手の言っていることを聞かなければわからないので頭を使った会話が成立しそうですが、実際の活動を見ているとそうはなっていません。電話なので直接目が合う必要はないとはいえ、誘う方は自分のワークシートに書いておいた文を読んでいます。一方、受け手は、誘いを受けるか受けないかの返事をすればいいので、とりあえず、相手の誘いの内容がわからなくても返事が可能です。また、ちゃんとできているのかどうかの判断、評価ができません。自分のことで手一杯だからです。やはり活動だけで学びが少ないのです。
オリジナルの文をつくると言っても、実際には”situation”をつくっているだけです。そこに時間をかけるのはちょっともったいないように思います。誘う内容の例を絵などで黒板に用意しておくといいでしょう。それをもとに、各自複数の文をつくって、どのようなことを誘うか選べるようにしておきます。一方で受けるかどうかの判断をするために、曜日の表をつくり、忙しい日を決めて印をつけておきます。ここで、授業者が指示した後ろとの協力を、バディとしてより積極的に活用します。バディで互いの文を確認し合い、ペアでの会話はバディにワークシートを預けて、何も見ないで言わせます。ここで言葉に詰まるようであればバディが助けるのです。評価もバディがすることができます。誘いを受ける方は、自分の予定が決まっているので、相手の誘いを聞き取ればすぐに答は決まります。好きなこと嫌いなことを事前に決めさせておくなどすれば、より高度な判断を必要とするやり取りにできます。

一通り活動が終わった後に、挙手で誘う役の子どもを指名して前でやらせます。相手役を決めて実演させますが、ペアの時と同じく誘う役の子どもはワークシートを読んでいます。2人のやり取りを見ている子どもたちは、ただその寸劇もどきを楽しんでいるだけです。そのやり取りの終了後、評価を子どもたちに挙手でさせます。笑い飛ばせる雰囲気の学級だからそれほど気にはなりませんでしたが、友だちに良し悪しを決められるのはあまりうれしいことではありません。いくつかの視点を予め与えておいて、子どもにその視点に沿ってよいところを言わせるといった発想をしてほしいと思います。
聞く側の子どもにしっかりと聞かせるためには、やり取りが終わった後に、”When do(will) they play soccer?”というように、会話の内容について問いかけるといったことが必要です。お客さんにしないような工夫が大切です。

一見活動量が多いように見えるのですが、英語としての活動量は少ない授業でした。英語がわかる、使えるようになるためにどのような活動が必要なのかを考えてほしいと思います。
授業者は、子どもたちを動かす力があります。子どもたちとの関係もとてもよいように思います。だからこそ、英語科の教師として一つひとつの場面で何を目指すのかを明確にして、ていねいに授業を組み立ててほしいと思います。このことを意識すれば、大きく成長する先生だと思います。またぜひ授業を見せてほしいと思う方でした。

最後の授業研究については明日の日記で。

何を根拠として考えさせるか意識することが大切

中学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は3人の若手の授業アドバイスをさせていただきました。

3年生の理科の授業は、力と運動の関係を考える場面でした。
授業者は笑顔も多く、子どもたちとの関係が良好でした。子ども同士の関係もよく、失敗を笑って済ませられる雰囲気のある学級でした。
前時までの復習で力を加えると何が変わるのかの確認から入ります。子どもたちの挙手は半分くらいです。「速さ」「向き」が出てきます。大切なことなので、具体的な例をもとに隣同士で確認させるといったことが必要だと思います。
続いてこの日のめあて「運動と力の関係について理解する」がすぐに示され、教科書に載っている写真の運動を分類するという課題に取り組ませます。子どもたちは、授業者が指示をすればすぐに従って活動します。そのため、意欲づけや動機づけをあまり意識していないように思いました。子どもたちに、疑問を持たせたり、知りたいと思わせたりする場面から授業を始めることを意識するとよいでしょう。
運動は、「静止している」「加速度運動している(加速と減速)」「等速直線運動」ものがありますが、これらをどう分類するかはいろいろな考え方ができます。しかし、教科書の下には運動のようすの視点からまとめると、「静止している物体」「動いていて、速さが変わらない物体」「動いていて、速さがおそくなる物体」「動いていて、速さが速くなる物体」と分類できると書いてあります。教科書を見て取り組ませても、どうしてもその記述に影響されます。教科書を使わず、運動の様子が書かれたカードのようなものを準備して考えさせるとよかったでしょう。グループで相談させますが、どれが正しいと根拠を持って言えないものなので、深まるようには見えませんでした。
いくつに分類したかを聞きますが、数を聞くことは意味がありません。可能性は何通りもあるのです。授業者は、どのように分類したかを指名した子どもとやり取りしますが、他の子どもにつなぐことはしません。発表者とだけでやり取りが進みます。早く4つに分類したいのです。子どもたちに相談させるように問いかけもできます。そうすれば子どもたちはよく話し合います。しかし、全体では一問一答で進めてしまいます。もったいないと思います。子どもたちの活躍の場面をもっと増やすことを意識するとよいでしょう。

子どもから出てきた「速さが一定」という言葉に対しては、切り返す必要があります。「速さが一定?どうやったらわかる?速さはどのくらい?」と速さの絶対値を意識させておいて、止まっているもの指して「速さはどのくらい?」と問いかけるのです。「速さが0」が出てきた時に、「なるほど、速さは0なんだ。速さは0から変わっている?」と切り返して、静止も速さが一定に気づかせることが大切です。止まっているのは別に分類するという意見も出るでしょう。子どもたちがそのことにこだわるなら、それを採用すればいいだけです。「止まっているものと動いているものに分類するんだ」と2種類に分類できると押さえ、その上で、「まだ分類したい?」と動いているものをどう分類するかを考えさせるのです。教科書はそういう視点で分類しています。この視点をきちんと子どもたちに意識させることが大切です。速さの変化に注目すると、「速さが変わらないもの(静止を含む)」「速さが変わるもの(加速・減速)」の2つに分類できることも押さえておくと、力と運動の関係を理解しやすくなると思います。この視点を活かして授業をつくるのであれば、最初に力を加えないとどうなるかという「慣性の法則」を復習しておきたいところでした。
一つの予定した答に向かうとする活動になっていました。それよりも運動をいろいろな視点で見ることを通じて、どこに注目するかで分類も変わることなどを子どもたちに気づかせたいところでした。理科を通じて身につけさせたいものの見方です。

速さが一定の時、合力が0か0でないかを問いかけます。ここで合力がいきなり出てくることが気になります。力が加わっているのかどうか以外に、合力という概念を理解していることも求められるからです。合力を使うのであれば、もう少し丁寧に合力を復習しておいてから、問いかける必要があったと思います。
「進む力」という言葉が出てきます。「進むということはどちらかの力が必要だから……力がいる」という意見は子どもにとって素直な感覚です。ここを焦点化していくことで、この日のねらいの「力と運動の関係」を明確にすることができるのですが、授業者は先に進むことを優先して、すぐに結論を自分で説明しました。多くの子どもは結論を知っているかもしれませんが、このことをきちんと説明できるようには見えませんでした。子どもたちともう少しやりとりをして、子どもたちの言葉で納得させたいところでした。せめて、物体に力を加えて「動き出した。速さはどうなった?」、続いて「今、力は加えている?」「動いている?」「速さはどうなっている?」と問いかけて、子ども自身に気づかせて修正させたいところでした。また、この場面で「慣性の法則」が、子どもからも授業者からも出なかったことが気になりました。やはり、復習の時点押さえておくべきだったように思います。

先ほど分類した運動に対して物体に働く合力を作図で考えることが主課題です。ここで、合力を作図する上で大切なことを確認しません。特に子どもたちがよく間違える垂直抗力については、復習しておきたいところでした。個人で考えた後グループでまとめますが、子どもたちの議論のよりどころがはっきりしません。重力や抗力、摩擦力などの力が加わっているはずだからと書き込んでいくのか、速さの変化から合力はこうなるはずだと考えるのかよくわからないのです。ねらいである「力と運動の関係」を物体に働く力を書き込んでその合力がどうなるかから考えさせるのか、物体は力を加えた方向に増えるように速さが変化するという「力と運動の関係」を前提に考えさせるのかといった、論理の方向が不明確なのです。後者であれば、先ほどの分類の時に、しっかりとこのことを整理しておく必要があります。
斜面を落ちていく物体に働く力を考える時に、合力が斜面と平行でなければならないことが意識せずに作図をしている子どももいます。また抗力が接触面と垂直に働くことが理解できていない作図も目立ちます。これまでに抗力について学習していたようですが、定着していないのです。授業者が「抗力は重力と反対に働く」という言葉を使ったことも気になります。水平面に物体が載っている時に使ったのですが、不用意にこういう言葉を使うと混乱する原因になります。抗力はどうして起こるのかという説明は中学生ではまず理解できません。そもそも上手く説明がつかないのです。現象として、物体が面に接触している時、面と平行に摩擦力が、面と垂直抗力が働くと教えるしかないと思います。であれば、そのことをきちんと教えておかなければ、こういった問題に答えることはできないのです。
また、スライディングをしている人物に加わる力で、摩擦力を進行方向に向かっていると書いているグループがありました。力の向きが加速の向きであることがよく理解できておらず、進むためには推進力がいると勘違いしていたのです。摩擦力がどう働くのかを体感させて考えさせるか、減速していることをきちんと押さえて減速させるためにはどんな力が働くのかを考えさせるアプローチがあります。正解のグループもあるのですから、子どもたちに議論させてもいいのですが、結局は後者の視点で授業者が説明をしました。力は加速に影響するといった、考えるためのよりどころが整理されていないので、子どもたちが発表する答えに対して、最後は常に授業者が正解かどうかを判断し説明することになります。教師が求める答探しになっていました。

考えの根拠となるべき法則や現象は何かを、授業者は意識していません。因果関係がはっきりしないまま、恣意的な説明になっています。子どもは指示に従って作業に取り組みますが、根拠を持って考えることはできていません。結果として子どもたちは課題の答を写して、覚えることになってしまいます。子どもが授業に集中して参加できるからこそ授業の組み立てがとても大切になるのです。
授業者は、私の指摘を前向きに受け止めてくれます。残念なことに、この学校には若手の理科教師しかいません。互いに学び合うにしても限界があります。市内の理科教師が集まって学び合うような機会をつくることが必要だと思いました。

この続きは次回の日記で。

子どもたちにどうあってほしいかを意識することの大切さを感じた授業

中学校の体育の授業アドバイスを行ってきました。

授業者は、3年目の若手です。3年生の女子の跳び箱の授業を2つの学級で1時間ずつ見せていただきました。
どの学級も子どもたちは落ち着いています。ただ、ランニングや準備運動など、緩いと感じる場面もあります。ただやっているという感じです。この活動で意識してほしいことが明確になっていません。準備運動のラジオ体操はしっかりと体を曲げる、伸ばすができていません。授業者が見本で意識的に動かしているところはまだいいのですが、私から見て授業者も流していると見えるところは、子どもの動きがだらだらしています。準備運動なのでそれほど気合を入れなくてもいいのかもしれませんが、どんな時もしっかり運動しようという意識は持たせたいと思います。
面白いのが、準備運動を見ているだけでも、学級間の運動能力の差を強く感じたことです。実際に、跳び箱を跳ぶ活動ではその差が顕著に現れます。学級の状況に応じて活動内容を変えることは大切なのですが、現実には難しいものがあります。こういった差に対応するのは、どの教科でも悩ましい問題です。

子どもたちは挨拶の時はよい姿勢なのですが、体育委員が出欠の報告をする場面では緩みます。授業者の意識は報告者に向いていて、首が動きません。他の子どもたちに今どうあってほしいかが意識されていないのです。この場面に限らず、授業者が子どもの姿を意識していない時には子どもたちの集中力が落ちたり緩んだりする傾向がありました。常に全体を見ようという意識が少し弱いようです。体育の教師にとって全体を見ることはとても大切です。説明をする時にも、子どもの顔が上がっていないのにしゃべる場面が何度かありました。気づいた時は集中するように指示しますが、全員の視線が上がるまで待てませんでした。

授業者は「腰を高く持っていくよ」と口で説明しますが、跳び箱のような種目は言葉で言ってもなかなかわかりません。ビデオなどで見せる、演示する、子どもにやらせるなどして視覚に訴えた上で、「どうだった?」と子どもの言葉で言わせることが必要です。こうすることで、視覚的なイメージと言葉が結びついていきます。今度はその言葉を使うことで、イメージが浮かぶようになるのです。体育では、活動だけでなくこういった言語活動も大切になります。

子どもの活動の様子を「はい、いいね」とほめますが、なんとなくほめているだけではよいものは広がっていきません。具体的に何がどのようによいのか伝えなければ、まねをしてはくれません。活動をさせますが、できるようになるために何を意識させればよいのかがはっきりしません。何となくやっているうちにできたというパターンになりそうです。前時までにやったことを復習でやらせるような場面でも、「この前説明したように」とやったことだからと端折ります。せめて、「どんなことをやった?」「ポイントは何だっけ?」と問いかけ子どもたちに言わせることではっきりと意識させたいところでした。

子どもたちの活動の隊形に対して授業者の立ち位置が気になります。長方形の短辺側に立ちます。後ろの方はどうしても見にくくなります。また、授業者の視線が手前に落ちることも気になりました。班ごとに跳び箱を跳んでいる場面で子どもたちに声かけをするのですが、すべて手前の班に対してだけです。跳べなかった子どもが手前にも奥にもいたのですが、奥の子どもにはアドバイスはありませんでした。
途中で班を回って補助に行くのですが、全体が見えない方向に体が向いていました。後で聞いたところによると、利き手の関係で反対側からは上手く補助ができなかったそうです。子どもに補助をさせるのは難しいのですが、上手く手伝わせて、自分は全体を見ることを意識してほしいと思いました。補助に専念するのではなく、途中でまわりを見るようにすべきだったでしょう。
できない子どもに対して、授業者が個別に指導することには限界があります。できないのが一人ならいいですが、何人もいれば手は回りません。特に体育は個別指導に手をかけすぎると事故の危険が増します。活動を工夫し、子ども同士のかかわりの中でできるようになる仕組み考えること大切です。

全員が一斉に同じ活動をしている時の活動量は多いのですが、跳び箱を跳ぶ活動では、順番を待つのでどうしても活動量が減ります。ただ跳んでいるだけでは、上手いかないところを修正できないので、なかなか上達しません。待っている時にどんな活動をさせるかが大切です。できる子どもは、友だちの跳ぶ様子を観察してよいところを真似しようとしたりしますが、漫然と待っている子どもが大多数です。バディを組ませるなどして互いによいところ、課題を伝え合うといったことが必要なります。
そのためには、ポイントをきちんと意識させなければいけませんが、授業者が一方的に説明することがほとんどです。子どもの目で見させて、子どもの言葉に直させることが大切です。
子どもの演技で拍手をさせますが、形式的になっています。どこがよかったのかを具体的にしないのでよさは広がりません。中には口を開いている子どもいるのでどこがよかったのか聞きたいところですが、授業者は演技者しか見ていませんでした。子どもの活躍の場面をもっとつくってあげたいところでした。

最後に、子どもたちに跳ぶためのポイントは何かを考えさせます。指名して発表させますが、子ども同士をつなぐことはまだできません。手前の子どもを指名した時には、授業者ではなく後ろを向いてみんなにしゃべるように指示しましたが、一番端の列の真ん中あたりの子どもを指名した時には、授業者の方を向いて発表しても向きを変えさせませんでした。授業者も発表者をずっと見ているので、子どもたちが発表者の方を向いていないことに気づかなかったのでしょう、見るように促しませんでした。
子どもたちの発表を受けて、授業者が解説をして終わります。子どもたちの言葉でたくさん言わせて自分のイメージを持てるようにすることが、できるようにするためには大切です。少ししゃべりすぎです。一番問題なのは、この場面が授業の最後だということです。ポイントを意識できても、実際にやってみる時間はありません。次の時間に思い出させても、せっかくのイメージは消えています。しかも今回、次の時間は別の技に入ります。
子どもからでたポイント「踏み切り」を受けて、そうだね「踏み切り」が大切だねと、「踏み切り」を正解として黒板にまとめとして書き、写しておくように指示しました。定期試験に出すから最後にまとめたように感じてしまいました。

授業研究を、跳び箱という「できた」「できなかった」がはっきりわかる種目で行ったことは立派だと思います。女子の場合、跳び箱を跳べない子どもも多いのですが、ほとんどの子どもが跳べるようになっていました。跳べるようになるためのステップを意識した活動ができていたように思います。ベテランの教科指導員のアドバイスがあったそうです。体育はできるようになるためのステップがはっきりしていて、それが蓄積されている教科です。よき先輩から素直に学んでいることは素晴らしいと思います。
個々の子どもたちとの関係もとてもよいと思います。ただ、授業の中で、できていないことを注意してしつけているように感じました。子どもたちのよいところを具体的にほめて、他の子どもがまねしようとすることで、よい行動を増やすことを意識してほしいと思います。

授業者はとても素直で、前向きです。指摘されたことを自分のものしようという意識が強く感じられました。子どもたちができるようになるためにどのような活動が必要なのか、それはどこがポイントで、子どもたちにどう意識させるのかを考えることで、大きくレベルアップすると思います。検討会では、教科指導員の先生ともご一緒できました。私にとっても参考となるアドバイスをたくさん聞くことができました。とても学びの多い時間でした。このような機会を得られたことに感謝です。

子どもの発言を引き出すことの難しさを感じた授業

昨日の日記の続きです。

3年生担任の初任者の国語の授業は、「ちいちゃんのかげおくり」で主人公の気持ちを考える場面でした。
参観者がいるせいでしょうか、子どもたちの集中度が低いことが気になります。授業者も黒板に向かってしゃべったりと、子どもをしっかりと見ることができていません。子どもたちの状況に関係なく授業を進めてしまいました。授業者もちょっと緊張してしまったようです。

前時に何をやったか復習しますが、子どもの発言を「そうだね」と受け止めるだけで、「どんな意見があった?」「あなたは、どんな考えだった?」といったことを聞いたりはしませんでした。この日は、前時にまとめたことをもとにグループで考えを伝え合う活動をします。一度中断しているので、考えたことを思い出させることが必要になります。

グループで「ちいちゃんに4つのかげが見えた理由」を話し合う活動をします。グループでの話し合いのルールを授業者が確認します。ルールを明確にするのはよいことですが、この時期ですので子どもたちに言わせるか、確認をしなくてもできるようになっていてほしいところです。また、班に司会者がいることも気になります。自然に聞きあえるようにしたいところです。
授業者が話せなければ書いたことを読んでもいいと言ったためか、ほとんどの子どもが読んでいます。その時考えたことを思い出せないことも原因としてあると思います。そのため、発表する子どもは下を向いてしゃべるので、子ども同士の視線が合いません。友だちの発表を全く無視している子どもも目立ちます。子ども同士の関係がまだできていないように感じました。また、話し合うためには、根拠を明確にすることが必要ですが、授業を通じてあまり意識されていません。結局しゃべっただけで終わってしまいます。子ども同士がかかわるためにどのようなことが必要かを考える必要があります。

発表をさせる前に「いっぱいいい意見があったよ」と、子どもたちの発言意欲を高めようとしますが、子どもには響きません。3年生ぐらいになると自我が発達してきますから、こういう言い方をされても、自分の書いたものがいい意見と言われたのだとは思いません。また授業者の「いい意見」というはどういうものか子どもたちにはよくわかりません。リアリティがないのです。具体的に伝える必要があります。個別に作業しているのであれば、机間指導の時に線を引いたり○をつけたりしながら、「○○がいいね」とどこがどのようによいのかわかるようにほめておくといったことが必要です。グループの時は、聞くことを大切にするためにも、「なるほどと思った意見を教えてくれる?」と友だちの考えを言わせたり、「どんな意見があった?」グループの話し合いの内容を発表させたりするとよいでしょう。

挙手指名で進め、子どもの発言を共有することなくすぐに板書するので、子どもたちは友だちの話を聞きません。また、子どもが理由を含めて話していても、授業者は結論だけを板書します。根拠を共有するという発想がないのが残念です。一問一答で進み、子ども同士をかかわらせるような場面がありませんでした。

子どもたちは授業者の指示にしたがって教科書を見たりはするのですが、それが発言にはつながりません。発言をすることに価値を感じていないのです。子どもたちの発言をポジティブに評価していないことがその一番の理由のように思います。「教科書の本文から考えてくれたんだ」といった評価もするのですが、子どもにとってはほめられたようには感じません。「本文に書いてあることをもとに考えることはとても大切だね。素晴らしい」とはっきりとほめ、「そこの文をみんな読んでみて。そこからどんなことが言えるかな?」というようにつないでいくことが大切です。
また、それまで考えさせていなかったことを子どもたち問いかけますが、突然問いかけられても、すぐには反応できません。考えたり、相談したりする時間が必要です。授業者は子どもの発言を引き出せないので、一部の子どものつぶやきと発言をもとにどんどん説明します。ほとんどの子どもは置いてきぼりです。子どもたちにとって全体追求の場面は他人事になってしまいます。

最後に「家族に会えて、ちいちゃんはほんとうにうれしかったのか」を考えさせました。授業者は単に「家族と会えてうれしい」という読みにならないようにしたいと考えていましたが、ちいちゃんの気持ちが読み取れる本文の記述は、「きらきら笑っている」という記述しかありません。ここは、ちいちゃんの気持ちではなく、「夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が空に消えました」という記述をもとに、作者が伝えたい思いを考えさせたいところでした。

授業者は子どもの発言を引き出して授業をしたいと考えています。とてもよい姿勢だと思います。そのためには、子どもの発言を受容し、ポジティブに評価することで、たとえ間違えても恥ずかしくないという雰囲気を学級につくる必要があります。ちょっと「首をかしげた」「うなずいた」、そういった反応を見逃さずポジティブに評価して、発言につなげていくことも大切になります。まずは、ここから始めてほしいと思います。もちろん教科の内容についての勉強も欠かせませんが、基本となるのは安心安全な学級づくりです。あせらず、一つずつ課題をクリアしていってほしいと思います。

全体に対しては、子どもたちと先生方の関係が良好なこと、基本的な授業規律は問題ないことを伝えて、次の課題として「子ども同士をつなぐこと」「教科としてどのような力をつけるのかを意識して授業を組み立てること」をお願いしました。
また、課題を子どものものとするためには、天下り的に授業者が課題を提示するのではなく、子どもを揺さぶったり疑問を持たせたりすることが大切なことを、具体的な例をもとに話させていただきました。

この学校だけでなく、この市の小学校全体で先生方の基礎的な力が上がってきているように感じます。素直で前向きな先生が多いのだと思います。ここからは、これまでのように急激に進歩が見えるとはいかないでしょう。地道な努力を続けて少しずつ変化を実感できるレベルだと思います。あせらずに、学校全体で授業改善を続けてほしいと思います。

成長と同時に課題が見えた授業

昨日の日記の続きです。

5年生の授業は国語の「大造じいさんとガン」で、大造じいさんの残雪に対する気持ちがどこで変わったかを考えるものでした。

授業者も子どもたちもとてもよい表情です。人間関係のよさを感じます。
これまでの段落で、大造じいさんの残雪への気持ちが現れている言葉を全体で言わせます。子どもたちはよく反応してくれますが、反応できない子どもが気になります。個別に指名して何人にも答えさせたり、その一文を抜き出して言わせたりすることで、全員を巻き込むことが必要でしょう。

挙手指名で順番に音読させますが、大造じいさんの気持ちが変化したところはどこかを考えながら読むことを目標にします。目標を持たせることはいいのですが、「音読」そのものは日ごろどのようなことを意識しているのかよくわかりませんでした。この授業は6/7の位置づけですが、子どもたちの音読の声の大きさや間の取り方がまだまだという感じです。漢字の読みでつかえたり、間違えたりもよくあります。音読での目標を明確にして練習させる必要を感じました。
また、授業者は音読中、教科書に目をやっている時間が多く、できればもう少し教室全体の様子を見るようにしてほしいと思います。読み終ると、よかったことを評価し、最後に「ありがとう」の言葉が自然に出てきます。子どもたちの挙手が増えていきます。友だちが認められるのを見て、安心するのでしょう。音読そのもの目標を明確にし、評価がそれとしっかりと連動するとぐっとよくなると思います。

大造じいさんの残雪への気持ちが変わった場面を抜き出すのが課題です。
子どもたちはワークシートに本文を抜き出し、理由を書くのですが、ここに何を書くのかが子どもたちでバラバラです。「気持ちがこの場面でどのように変わったか」と「その理由」が混在しているのです。ここを整理して区別しておくとよかったでしょう。
これまで学習した場面での残雪に対する「賢い」といった評価を活動の前に確認しておくとよかったかもしれません。そうすることで、この場面での残雪の行動が「勇気」そして「気高さ」といった言葉につながって、対比しやすくなったと思います。
子どもたちは一生懸命に理由を含めて書いています。日ごろから鍛えてあることがわかります。予定の時間になってもまだ書いている子どもが多いので時間を少し延長しました。この判断自体は悪くないのですが、一部の書き終っている子どもへの指示がほしいところでした。

次にグループでの交流です。子どもたちは素早くグループの隊形になります。日ごろのグループ活動が子どもたちにとってよいものであることを感じさせます。友だちの考えを聞いて、なるほどと思ったことをメモしています。子どもたちはよい姿勢で聞き合っていました。

全体での交流は、子ども同士をかかわらせることを大切にしていました。
ほとんどの子どもたちは、発表者の方にすぐに体を向けて、よく聞いています。授業者は発表が終わると意見をすぐに板書するのですが、子どもたちがしっかりと聞けているのでその必要はないでしょう。そのままつないでいって、意見が大体出尽くしてから、必要に応じて板書すればいいと思います。
残雪が身を挺しておとりのガンを助けるところが子どもたちから出てきます。おとりのガンを仲間のガンといった子どもに対して、「このガンは仲間?」と聞き返しますが、すぐに「仲間のガンととらえますか」と自問自答して結論を出してしまいます。このことを焦点化するのであれば、時間を取って考えさせる必要があります。そうでなかっとしても授業者が根拠なく決めるのはちょっと気になる進め方です。時間を気にしてのことだと思いますが、中途半端な取り上げ方でした。
この場面は、ほとんどの子どもたちが抜き出しているので発言はたくさん引き出せます。しかし、授業者のねらいはここではなく、残雪が傷ついた体でどうどうたる態度で立ち向かおうとする場面です。この場面を取り上げた子どもは少数です。
「なぜ?」「どういう状況?」と問いかけ、全体で言わせますが、ここはほとんどの子どもが気づいてない場面ですから、個々に指名して言わせるなど、時間をかけて共有することが必要です。
こういう状況であれば「(逃れようと)さわがない?」というように、ここからは授業者が主導していきます。子どもに問いかけて答えさせますが、子どもたちは自分の考えを持てていませんから、目は発言者を見ていません。授業者の板書に意識が行ってしまいます。
結局、授業者がまとめて終わってしまいました。一番深めたかった場面です。少なくとも何人かの子どもが気づいていたのですから、子どもの言葉で進めたいところでした。

身を挺して仲間を救おうとした場面は、多くの子どもが気づけているので、テンポよくたくさん指名して発言させながら、「勇気」「仲間を思う気持ち」といった言葉を引き出しておけばいいでしょう。もう一つのどうどうたる態度で立ち向かう場面では、「本当?ここで、気持ちが変わる?」と問いかけ、まわりと相談させるとよかったでしょう。もし、時間があればもう一度グループに戻すとよい場面でした。この子どもたちであれば、そうすることでたくさんの言葉を引き出すことができたと思います。

授業者は以前に見た時と、本人も教室の雰囲気も大きく違っていました。最初の内しばらく私の知っている先生かどうかわからなかったほどです。子どもを受容する、認めることが自然にできています。日ごろから子どもの活動量を増やし、発言を活かそうとしていることがわかります。子どもたちにとって安心して暮らせる学級をつくっていました。子どもたちの姿から、授業者の成長がよくわかりました。いろいろな面で努力をし続けてきたのだと思います。先生のこのような成長した姿を見ることができるのが、この仕事をさせていただく上で一番の楽しみです。
次の課題は、その授業で大切にしたい内容をあつかう場面で、子どもたちの発言を引き出し、かかわらせながら深ていくことです。また、そのために必要な布石は何かを考えることです。1時間1時間の教材研究はよくやれていると思いましたが、単元を通じた授業構想をしっかりと考え、授業と授業をどうつないでいくのかがまだ弱いように思います。わずかな期間でここまで成長したのですから、次に会う機会があれば、また別人のような姿を見せてくれることと楽しみです。

最後の授業研究は、明日の日記で。

単元で教えるべき概念を理解することが大切

前回の日記の続きです。

1年生の授業は算数の大きさ比べの場面でした。直接比べることのできない物の長さを、テープを使って比べる活動です。

授業者は緊張しているのか表情が少しかたくなっています。そのせいか、子どもたちも今一つ落ち着かず、教科書を開かせた後なかなか話を聞く態勢になりません。しかし、授業者はその状態のまま話し始めました。また、結局この時間の最後まで教科書を使う場面はありません。なんとなく指示を出していることが気になります。

前時の復習で何を使ったかをたずねます。ここで大切なのは、「何をつかった」ではなく「どのようにして」です。鉛筆やテープを使ったようですが、鉛筆のいくつ分、より大きい小さいという使い方をしたのであれば基準をもとに考える、単位につながる発想です。同じ長さのテープで比べるという使い方であれば他の物に長さを写して(対応させて)比べる半抽象化につながるものです。前時にどのようなことを押さえたかわかりませんが、復習ではこういったことを意識した言葉を引き出すことが大切です。ただ、「鉛筆」「テープ」を使ったでは復習にはならないのです。
長さを比べる時のポイントを子どもたちに確認します。「はしをそろえる」「ぴんとのばす」「テープをつかう」です。ここで大切なのは、比べるもの長さと同じ長さのものを使って比べることです。この長さが「同じ」というところを押さえずに、ただやり方のポイントを教えては意味がありません。解き方を教えるのと同じ発想です。別のものに長さを写すという算数・数学的な考え方を押さえてほしいのです。また、言葉の混乱もあります。長さを「比べる」と「測る」の両方の言葉が出てきます。ここでは、まだ「測る」という概念は明確になっていません。あくまでも、比較しやすいもの、同じものに長さを写して「比べる」という半抽象化の段階です。

この日の課題は、教室の端にある机を出入り口から運び出すことができるかどうかです。どうすればいいのかを考えますが、ここで大切なのは、何と何の「長さを比べれば」いいのかを明確にすることです。ここをきちんと押さえていないので、子どもからは授業者が期待した答えが出てきません。机を動かすことを考える子どももいます。「動かせないものの長さはどうやって比べればいいのかな」と後からこの課題のポイントを授業者が言ったり、「『これ使うといいんじゃない』というものはない」と問いかけたりして、子どもからテープを使うという答を出させようとしますが、なかなか上手くいきません。
箱を使って比べるという意見が出てきます。子どもは机を運び出すので、面でとらえたのです。とても素直でよい発想だと思います。しかし、授業者はそれを評価することができません。「そのやり方もあるねえ」と受け止めたように見せますが、やり方「も」といった時点で、他の答を求めていることが子どもに伝わります。また、子どもが友だちの発言に対して、「正解だと思います」といった反応をすることも気になります。授業のいろいろな場面から、日ごろから正解探しの授業になっていることが伝わってきます。
授業者の期待しない答であっても、「なるほど」と認め、「いいね、どんどんみんなの考えを聞こう」と他の子どもに意見を出させて、それをもとに後から修正していけばよいでしょう。
「どれがいいと思う」と子どもに問いかけますが、一人ひとりの意見を全体で共有していません。どんな考えがあったのかの整理もしていませんので、子どもたちはどの意見と答えることはできません。子どもからは「ノート何冊分」という新しい意見が出てきます。面白いのですが、それがどういうことなのかをきちんと確認しません。ノートの辺の長さで考えているのか、ノートを面として考えているのかがわからないのです。子どもたちは、とにかく自分のアイデアを言いたいばかりです。ブロックをつなげるという意見も出てきますが、どこの長さとどこの長さを比べようとしているのか明確にならないまま、何を使うのかのアイデア勝負になってきました。何が課題なのかが焦点化されないままどんどん拡散してしまいました。

「授業者は一番ちゃんと『測れる』のは?」と問いかけますが、言葉も混乱していますし、「ちゃんと」というのはどういうことか明確にしていないので、根拠を持った話し合いになりません。子どものテンションは上がるばかりです。「ちゃんと」ということを、「固いもの」にすればよいと考えた子どももいます。これは子どもにとっては自然なことです。ピアニカのケースを使うという意見が出てきます。「測る」と「固い」の2つの視点で考えたのでしょう。ピアニカのケースでは長さが足りないことを指摘すると、他のも使ってと一所懸命に説明をしますが、他の子どもは聞いていません。
授業者は、机のこの部分を「測りたい」と説明を始めます。机の「大きさ」という言葉も使ってしまいます。今まで子どもたちがやってきたこととつながらない言葉です。こうなると、子どもたちがこれまで考えてきたことと、この後がつながらなくなってしまいます。

では、どうすればよかったのでしょうか。課題の提示の場面で、まず、「机を運び出したいけれど、出入り口のところまで持っていってから運び出せないじゃ困るね」と動かさずに運び出せるかどうかを考えたいことを明確にします。その上で、机をどの向きで運び出せばよいかを簡単に確認し、どこの長さとどこの長さを比べてどうなれば運び出せるかをはっきりとさせておきます。そして、「どうやって比べればいいだろう」とするのです。
この課題のねらいは、何を使うのかではなく、直接比べられない場合は、長さを別の同じ長さのものに写せばよいことに気づくことです。「同じ長さ」をキーワードにして、話し合いは進めればよかったのです。

結局、授業者がテープを使うのがよいことを説明して、子どもたちに机の長さを写し取らせます。こうなると、子どもたちはただ自分がやりたいばかりです。しかし、机は一つなので全員がやることはできません。指名された子どもだけです。指名してもらおうと、子どもたちのテンションは上がるばかりです。こういった活動は、全員がやれるものにしたいところです。少なくとも、友だちがやっている時に、何に注目すればよいのかが明確でなければ、ほとんどの子どもは集中して様子を見ることもしません。全員参加の工夫が必要です。

最後は、グループでテープを使って測りたいものを決めます。子どもたちの活動の目的がいつの間にかテープで「測る」ことになって、ねらいがずれてきています。こうなると「測る」という概念が混乱してきます。教科書はこういったことを意識して用語の登場の順番や使い方を考えていますが、授業者は理解できていなかったようです。結局子どもたちは、算数・数学的には何も学ぶことなく終わってしまいました。

授業者は、子どもを受け止めることや、授業規律の基本的なことはできるようになっていました。ちゃんと進歩しています。しかし、いつも言うことですが、だからこそ、教材研究がとても大切になるのです。この単元ではどんな概念を身につけさせるのかがわかっていません。この授業で、何を思考させるのか、どんな言葉が出てくればねらいにつながるのかといったことが明確ではありません。そのため、自分の考える答を引き出そうと子どもを誘導することばかりになってしまいました。子どもから出てこないと、結局は自分で答を言うことになってしまいます。この壁を破ることはそれほど簡単ではありません。各教科・単元で身につけさせることは何かをきちんと理解し、子どもの視点で教材を見直すことで、子どもの言葉で授業を組み立てることができるようになります。ここまで着実に進歩していているのですから、あせらずに、このことを意識して毎日の授業に取り組んでほしいと思います。そうすることで、必ず結果は後からついてきます。これからも努力を続けてほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

教科の根っこをしっかりと押さえることの大切さを感じた授業

小学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は4人の若手の授業アドバイスと全体に対してお話をさせていただきました。

4年生の理科の授業は、空気の圧縮の実験でした。
前時は空気鉄砲の実験でした。復習から授業は始まります。空気鉄砲で、前の玉が飛ぶ理由を子どもに確認します。指名された子どもの説明を他の子どもがうなずいて反応します。よい姿です。しかし、授業者は子どもの発言や聞く態度を評価せずにすぐに自分で説明をします。子どもたちはよく育っていますが、授業者は余裕がなかったようです。
授業者は続いてすぐに、「閉じ込めた空気に力を加えると、空気の体積と手ごたえはどうなるか」というこの日の課題を示します。子どもたちにとっては、特に疑問を感じていることでもありません。これでは子どもの課題になりません。「空気鉄砲の玉の出口を押さえたらどうなると思う?」と問いかけたりして疑問を持たせてから、課題につなげたいところです。

授業者は注射器の口をふさいでピストンを押し込む実験の手順の説明に入りましたが、子どもは実験の必然性がないまま、作業の指示を聞くことになります。
子どもたちに実験の結果を予想させます。これはとてもよいことなのですが、子どもたちに明確な根拠はありません。予想なのであまり時間をかける意味はないのですが、グループで話し合わせます。グループはほとんどが5人です。見ているとどうしても端の子どもが1人参加できなかったり、2人と3人に分かれてしまったりしています。5人でのグループは子どもでは難しいようです。
子どもの予想は、感覚的なものと数値で示すものに分かれます。「何目盛りというと、わかりやすいね。誰にでもよくわかるね」というように、その違いを評価し価値付けすることが大切です。

実験後子どもたちに結果を聞きます。子どもからは色々な表現が出てきます。一人ひとりの発言をしっかりと受け止めるのですが、それを深めたり広げたりする場面がありません。同じような結果を何人にも言わせたり、意見が分かれた場合は、もう一度実験して確認したりする必要があります。そういった場面がないのです。子どもの意見に対して、授業者がすぐに説明をします。
手を放してピストンが元のところより少し手前までしか戻らないという意見と元に戻るという意見があった時に、すぐに「誤差」という子どもがいました。理科では「誤差」の概念は大切ですが、簡単に「誤差」で切り捨てることは危険です。戻る時は誤差と言えますが、押し込める量の違いは「誤差」ではなく、加える圧力の違いです。「なぜ誤差だと思った?」と「誤差」がどうかの判断をする場面もつくりたかったところです。また、子どもの「手ごたえが重くなる」という表現を授業者が「固くなる」と言いかえました。ここは、何人かの子どもに発言させて、子どもからよい言葉を引き出したいところです。

グループで実験の結果を書く作業をさせます。その時、結果の書き方のポイントを授業者が一方的にしゃべります。以前にもこういった機会はあったはずですから、「何が大切だった?」「何に注意する?」と子どもたちに問いかけて、子どもに言わせたいところです。
まとめを書く子どもは限定されています。中にはその作業に参加しない子どももいます。子どもたちはあまり考えずに作業をしているので、テンションが上がっていきます。また、グループでまとめてしまうと、結果の違いが埋もれてしまいます。大切なのは違いがなぜ起こるのかを考え、場合によってはもう一度実験して確かめることです。

各グループの代表の発表では、足りない言葉を足す場面や、同じ結果になったのかを全体に確認する場面がありません。子どもの活動に対する価値付けや評価、共有がないのです。
発表の後で、「何か気づくことはありませんか?」と問いかけますが、子どもたちはこれまで何も考えずにただ実験していただけです。実験することがこの日の目標になっていました。すぐに答えられるはずはありません。挙手は一人だけです。せめて先ほどのグループ活動の時に課題として与えておけば、また違ったと思います。
「空気は中身があるの?」という質問に、「空気の限界までいった」というつぶやきが聞こえてきました。面白い発想ですが、授業者は拾うことができませんでした。そもそも授業者は何を根拠として「空気に中身があるかどうか」を説明するつもりだったのでしょうか?子どもが課題を解決するために必要なことやステップが意識できていませんでした。そのため、子どもの言葉を拾って、考えをつなげていくことができません。「空気は中身があるのか?」がこの日の課題であれば、最初に提示して予想させ、どのような実験をすればわかるのかから考えさせるべきだったでしょう?

最後に、中に空気の入った星形の樹脂?を注射器に入れ「星の大きさが変わります」とピストンを引いてみせます。星が大きくなるのを見て子どもたちが興味を示します。この日一番子どもたちが意欲的になった場面でした。子どもたちは勇んで自分の道具で実験をしました。しかし、なぜ最後にこの実験をしたのか子どもたちにはわかりません。せめて、星形の樹脂が力を加えると変形することを見せておく必要があったでしょう。押すと縮む、引っぱると伸びることを確認してから、「どうなると思う?」とこの日の実験結果から予想させたいところでした。

授業者は、子どもたちを受容しよい関係をつくれています。学級の雰囲気もとてもよいと思います。次の課題は、「子どもの発言や活動をどう評価、価値付けするか」「子どもの考えを子どもに返しながらどう深め、つなげ、広げていくのか」ということです。
今回の授業では、理科としてこの単元で何を子どもたち考えさせるのか、どのような理科的なものの見方・考え方を身につけさせるのかといった、教材研究や単元観がしっかりしていませんでした。もっと言うと、理科はどういう教科なのかがわかっていないということです。これはこの授業者に限ったことではありません。小学校の教師は全教科を一人で教えるのでとてもたいへんだと思います。だからこそ、その根っこの部分をしっかりと意識して授業に臨んでほしいと思います。
授業者は基礎的な力はついてきていると思います。だからこそ、より高度なことが求められるのです。これからの成長に期待したいと思います。

この続きは次回の日記で。
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