単元で教えるべき概念を理解することが大切

前回の日記の続きです。

1年生の授業は算数の大きさ比べの場面でした。直接比べることのできない物の長さを、テープを使って比べる活動です。

授業者は緊張しているのか表情が少しかたくなっています。そのせいか、子どもたちも今一つ落ち着かず、教科書を開かせた後なかなか話を聞く態勢になりません。しかし、授業者はその状態のまま話し始めました。また、結局この時間の最後まで教科書を使う場面はありません。なんとなく指示を出していることが気になります。

前時の復習で何を使ったかをたずねます。ここで大切なのは、「何をつかった」ではなく「どのようにして」です。鉛筆やテープを使ったようですが、鉛筆のいくつ分、より大きい小さいという使い方をしたのであれば基準をもとに考える、単位につながる発想です。同じ長さのテープで比べるという使い方であれば他の物に長さを写して(対応させて)比べる半抽象化につながるものです。前時にどのようなことを押さえたかわかりませんが、復習ではこういったことを意識した言葉を引き出すことが大切です。ただ、「鉛筆」「テープ」を使ったでは復習にはならないのです。
長さを比べる時のポイントを子どもたちに確認します。「はしをそろえる」「ぴんとのばす」「テープをつかう」です。ここで大切なのは、比べるもの長さと同じ長さのものを使って比べることです。この長さが「同じ」というところを押さえずに、ただやり方のポイントを教えては意味がありません。解き方を教えるのと同じ発想です。別のものに長さを写すという算数・数学的な考え方を押さえてほしいのです。また、言葉の混乱もあります。長さを「比べる」と「測る」の両方の言葉が出てきます。ここでは、まだ「測る」という概念は明確になっていません。あくまでも、比較しやすいもの、同じものに長さを写して「比べる」という半抽象化の段階です。

この日の課題は、教室の端にある机を出入り口から運び出すことができるかどうかです。どうすればいいのかを考えますが、ここで大切なのは、何と何の「長さを比べれば」いいのかを明確にすることです。ここをきちんと押さえていないので、子どもからは授業者が期待した答えが出てきません。机を動かすことを考える子どももいます。「動かせないものの長さはどうやって比べればいいのかな」と後からこの課題のポイントを授業者が言ったり、「『これ使うといいんじゃない』というものはない」と問いかけたりして、子どもからテープを使うという答を出させようとしますが、なかなか上手くいきません。
箱を使って比べるという意見が出てきます。子どもは机を運び出すので、面でとらえたのです。とても素直でよい発想だと思います。しかし、授業者はそれを評価することができません。「そのやり方もあるねえ」と受け止めたように見せますが、やり方「も」といった時点で、他の答を求めていることが子どもに伝わります。また、子どもが友だちの発言に対して、「正解だと思います」といった反応をすることも気になります。授業のいろいろな場面から、日ごろから正解探しの授業になっていることが伝わってきます。
授業者の期待しない答であっても、「なるほど」と認め、「いいね、どんどんみんなの考えを聞こう」と他の子どもに意見を出させて、それをもとに後から修正していけばよいでしょう。
「どれがいいと思う」と子どもに問いかけますが、一人ひとりの意見を全体で共有していません。どんな考えがあったのかの整理もしていませんので、子どもたちはどの意見と答えることはできません。子どもからは「ノート何冊分」という新しい意見が出てきます。面白いのですが、それがどういうことなのかをきちんと確認しません。ノートの辺の長さで考えているのか、ノートを面として考えているのかがわからないのです。子どもたちは、とにかく自分のアイデアを言いたいばかりです。ブロックをつなげるという意見も出てきますが、どこの長さとどこの長さを比べようとしているのか明確にならないまま、何を使うのかのアイデア勝負になってきました。何が課題なのかが焦点化されないままどんどん拡散してしまいました。

「授業者は一番ちゃんと『測れる』のは?」と問いかけますが、言葉も混乱していますし、「ちゃんと」というのはどういうことか明確にしていないので、根拠を持った話し合いになりません。子どものテンションは上がるばかりです。「ちゃんと」ということを、「固いもの」にすればよいと考えた子どももいます。これは子どもにとっては自然なことです。ピアニカのケースを使うという意見が出てきます。「測る」と「固い」の2つの視点で考えたのでしょう。ピアニカのケースでは長さが足りないことを指摘すると、他のも使ってと一所懸命に説明をしますが、他の子どもは聞いていません。
授業者は、机のこの部分を「測りたい」と説明を始めます。机の「大きさ」という言葉も使ってしまいます。今まで子どもたちがやってきたこととつながらない言葉です。こうなると、子どもたちがこれまで考えてきたことと、この後がつながらなくなってしまいます。

では、どうすればよかったのでしょうか。課題の提示の場面で、まず、「机を運び出したいけれど、出入り口のところまで持っていってから運び出せないじゃ困るね」と動かさずに運び出せるかどうかを考えたいことを明確にします。その上で、机をどの向きで運び出せばよいかを簡単に確認し、どこの長さとどこの長さを比べてどうなれば運び出せるかをはっきりとさせておきます。そして、「どうやって比べればいいだろう」とするのです。
この課題のねらいは、何を使うのかではなく、直接比べられない場合は、長さを別の同じ長さのものに写せばよいことに気づくことです。「同じ長さ」をキーワードにして、話し合いは進めればよかったのです。

結局、授業者がテープを使うのがよいことを説明して、子どもたちに机の長さを写し取らせます。こうなると、子どもたちはただ自分がやりたいばかりです。しかし、机は一つなので全員がやることはできません。指名された子どもだけです。指名してもらおうと、子どもたちのテンションは上がるばかりです。こういった活動は、全員がやれるものにしたいところです。少なくとも、友だちがやっている時に、何に注目すればよいのかが明確でなければ、ほとんどの子どもは集中して様子を見ることもしません。全員参加の工夫が必要です。

最後は、グループでテープを使って測りたいものを決めます。子どもたちの活動の目的がいつの間にかテープで「測る」ことになって、ねらいがずれてきています。こうなると「測る」という概念が混乱してきます。教科書はこういったことを意識して用語の登場の順番や使い方を考えていますが、授業者は理解できていなかったようです。結局子どもたちは、算数・数学的には何も学ぶことなく終わってしまいました。

授業者は、子どもを受け止めることや、授業規律の基本的なことはできるようになっていました。ちゃんと進歩しています。しかし、いつも言うことですが、だからこそ、教材研究がとても大切になるのです。この単元ではどんな概念を身につけさせるのかがわかっていません。この授業で、何を思考させるのか、どんな言葉が出てくればねらいにつながるのかといったことが明確ではありません。そのため、自分の考える答を引き出そうと子どもを誘導することばかりになってしまいました。子どもから出てこないと、結局は自分で答を言うことになってしまいます。この壁を破ることはそれほど簡単ではありません。各教科・単元で身につけさせることは何かをきちんと理解し、子どもの視点で教材を見直すことで、子どもの言葉で授業を組み立てることができるようになります。ここまで着実に進歩していているのですから、あせらずに、このことを意識して毎日の授業に取り組んでほしいと思います。そうすることで、必ず結果は後からついてきます。これからも努力を続けてほしいと思います。

この続きは明日の日記で。

教科の根っこをしっかりと押さえることの大切さを感じた授業

小学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は4人の若手の授業アドバイスと全体に対してお話をさせていただきました。

4年生の理科の授業は、空気の圧縮の実験でした。
前時は空気鉄砲の実験でした。復習から授業は始まります。空気鉄砲で、前の玉が飛ぶ理由を子どもに確認します。指名された子どもの説明を他の子どもがうなずいて反応します。よい姿です。しかし、授業者は子どもの発言や聞く態度を評価せずにすぐに自分で説明をします。子どもたちはよく育っていますが、授業者は余裕がなかったようです。
授業者は続いてすぐに、「閉じ込めた空気に力を加えると、空気の体積と手ごたえはどうなるか」というこの日の課題を示します。子どもたちにとっては、特に疑問を感じていることでもありません。これでは子どもの課題になりません。「空気鉄砲の玉の出口を押さえたらどうなると思う?」と問いかけたりして疑問を持たせてから、課題につなげたいところです。

授業者は注射器の口をふさいでピストンを押し込む実験の手順の説明に入りましたが、子どもは実験の必然性がないまま、作業の指示を聞くことになります。
子どもたちに実験の結果を予想させます。これはとてもよいことなのですが、子どもたちに明確な根拠はありません。予想なのであまり時間をかける意味はないのですが、グループで話し合わせます。グループはほとんどが5人です。見ているとどうしても端の子どもが1人参加できなかったり、2人と3人に分かれてしまったりしています。5人でのグループは子どもでは難しいようです。
子どもの予想は、感覚的なものと数値で示すものに分かれます。「何目盛りというと、わかりやすいね。誰にでもよくわかるね」というように、その違いを評価し価値付けすることが大切です。

実験後子どもたちに結果を聞きます。子どもからは色々な表現が出てきます。一人ひとりの発言をしっかりと受け止めるのですが、それを深めたり広げたりする場面がありません。同じような結果を何人にも言わせたり、意見が分かれた場合は、もう一度実験して確認したりする必要があります。そういった場面がないのです。子どもの意見に対して、授業者がすぐに説明をします。
手を放してピストンが元のところより少し手前までしか戻らないという意見と元に戻るという意見があった時に、すぐに「誤差」という子どもがいました。理科では「誤差」の概念は大切ですが、簡単に「誤差」で切り捨てることは危険です。戻る時は誤差と言えますが、押し込める量の違いは「誤差」ではなく、加える圧力の違いです。「なぜ誤差だと思った?」と「誤差」がどうかの判断をする場面もつくりたかったところです。また、子どもの「手ごたえが重くなる」という表現を授業者が「固くなる」と言いかえました。ここは、何人かの子どもに発言させて、子どもからよい言葉を引き出したいところです。

グループで実験の結果を書く作業をさせます。その時、結果の書き方のポイントを授業者が一方的にしゃべります。以前にもこういった機会はあったはずですから、「何が大切だった?」「何に注意する?」と子どもたちに問いかけて、子どもに言わせたいところです。
まとめを書く子どもは限定されています。中にはその作業に参加しない子どももいます。子どもたちはあまり考えずに作業をしているので、テンションが上がっていきます。また、グループでまとめてしまうと、結果の違いが埋もれてしまいます。大切なのは違いがなぜ起こるのかを考え、場合によってはもう一度実験して確かめることです。

各グループの代表の発表では、足りない言葉を足す場面や、同じ結果になったのかを全体に確認する場面がありません。子どもの活動に対する価値付けや評価、共有がないのです。
発表の後で、「何か気づくことはありませんか?」と問いかけますが、子どもたちはこれまで何も考えずにただ実験していただけです。実験することがこの日の目標になっていました。すぐに答えられるはずはありません。挙手は一人だけです。せめて先ほどのグループ活動の時に課題として与えておけば、また違ったと思います。
「空気は中身があるの?」という質問に、「空気の限界までいった」というつぶやきが聞こえてきました。面白い発想ですが、授業者は拾うことができませんでした。そもそも授業者は何を根拠として「空気に中身があるかどうか」を説明するつもりだったのでしょうか?子どもが課題を解決するために必要なことやステップが意識できていませんでした。そのため、子どもの言葉を拾って、考えをつなげていくことができません。「空気は中身があるのか?」がこの日の課題であれば、最初に提示して予想させ、どのような実験をすればわかるのかから考えさせるべきだったでしょう?

最後に、中に空気の入った星形の樹脂?を注射器に入れ「星の大きさが変わります」とピストンを引いてみせます。星が大きくなるのを見て子どもたちが興味を示します。この日一番子どもたちが意欲的になった場面でした。子どもたちは勇んで自分の道具で実験をしました。しかし、なぜ最後にこの実験をしたのか子どもたちにはわかりません。せめて、星形の樹脂が力を加えると変形することを見せておく必要があったでしょう。押すと縮む、引っぱると伸びることを確認してから、「どうなると思う?」とこの日の実験結果から予想させたいところでした。

授業者は、子どもたちを受容しよい関係をつくれています。学級の雰囲気もとてもよいと思います。次の課題は、「子どもの発言や活動をどう評価、価値付けするか」「子どもの考えを子どもに返しながらどう深め、つなげ、広げていくのか」ということです。
今回の授業では、理科としてこの単元で何を子どもたち考えさせるのか、どのような理科的なものの見方・考え方を身につけさせるのかといった、教材研究や単元観がしっかりしていませんでした。もっと言うと、理科はどういう教科なのかがわかっていないということです。これはこの授業者に限ったことではありません。小学校の教師は全教科を一人で教えるのでとてもたいへんだと思います。だからこそ、その根っこの部分をしっかりと意識して授業に臨んでほしいと思います。
授業者は基礎的な力はついてきていると思います。だからこそ、より高度なことが求められるのです。これからの成長に期待したいと思います。

この続きは次回の日記で。

愛される学校づくり研究会で考える

先日、愛される学校づくり研究会がありました。

第一部は2月6日(土)に開かれる「愛される学校づくりフォーラム 2016 in東京」の午前の部に関連して“「チーム学校」で示された地域連携担当は何をすべきか”というテーマで3人の地域コーディネーター経験者のお話をうかがい、それをもとに会員で話し合いました。
改正された教育基本法の、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」を具体化するために、学校・家庭・地域が一体となって地域ぐるみで子どもを育てる体制として、学校支援地域本部が設置され、地域とのパイプ役として学校に地域連携担当の職員を置くことが求められます。今回は、地域コーディネーターの側から見た学校との連携の問題をきっかけに、本音の意見が飛び交いました。
「学校側は窓口になる先生以外、地域との連携に積極的であるように思えない」「学校によっては地域とのかかわりを求めていない」「地域が何を協力しているのか、どんな活動が行われているのか、知らない、興味を持たない先生が多い」という意見が出されます。「ボランティアに『ごくろうさん』という声かけがされる。『ありがとう』という感謝の気持ちが感じられない。そもそも、助けてもらっているという感覚はあるのだろうか?」と学校はボランティアが助けてくれて当たり前と思っているのではないかという指摘もあります。「学校だから、子どもたちのためだから、ボランティアは協力するのだ」という意見を、学校は重く受け止める必要があると思いました。
一方、会員の学校では地域の協力で助かっているという声がたくさん聞かれました。立場上地域とかかわる方が多いからでしょう。私個人としては、地域の方がどのように感じているのかが気になります。子どものために学校に協力しているのですが、それに対してきちんとフィードバックがされているのでしょうか?学校からお願いされるばかりで、自分たちの思いが実現できているのでしょうか?一方の学校は、本当に地域の方と協力したいと思っているのでしょうか?学校は地域の思いの上に成り立つべき存在であると学校の教職員が思わなければ、担当職員をおいても地域連携は進まないと思います。
体制整えるばかりではなく、学校側の意識を変えることが重要なカギになると強く思いました。

第二部は、会員の推薦の方に模擬授業をしていただき、授業検討を行いました。こちらもフォーラム関連して、午後の部の進行のリハーサル的な要素もありました。
授業は小学校一年生の道徳です。「はしのうえのおおかみ」という話をもとに、親切について考える授業でした。
冒頭に親切という言葉を取り上げます。優しくされた経験について問いかけます。低学年なのでこれもいいように思いますが、最初にどんな話か、何について考えるかがわかると子どもは最初からそのように思って授業を受けます。子どもたちの思考を誘導してしまう心配があります。
授業者は、表情豊かでとても受容的です。子ども役の大人でもすぐに惹きつけられます。
ペープサート(紙の人形劇 Paper Puppet Theater)でお話を見せます。オオカミが一匹しか通れない狭い橋の上で出会ったウサギを追い返して、いい気持ちになります。それが面白くて、タヌキやキツネといろいろな動物を追い返して意地悪をします。ある日、クマと出会い、自分ではかなわないと引き返そうとしますが、クマがオオカミを抱きかかえて橋の上でぐるりと回転してうまくすれ違うことができました。オオカミは次にウサギに出会った時にクマと同じようにして、いい気持ちになりました。
話し方も上手で、演じている間も子ども役から視線が離れません。日ごろから子どもをよく見ていることがわかります。

登場した動物を確認します。指名した子ども役が答えると「よく覚えていましたね」と必ず受容や称賛の言葉を返します。その言葉も多彩です。この先生の学級は暖かい雰囲気だろうと想像がつきます。ただ、一問一答形式になるきらいがあります。実際の子どもであれば、「先生大好き」「先生聞いて」という気持ちが強くなり、先生と子どもの関係が強くなりすぎる可能性があります。場面にもよりますが、他の子どもに同意を求めることや同じ考えでも言葉にさせることをしないと、子ども同士のかかわりができなくなる心配があります。

「おおかみさんを中心に考えてもらいます」と宣言します。ちょっと唐突な気がしました。あえて、オオカミを中心に考えることを宣言しなくても、そのままオオカミの気持ちを問いかけていけばよかったように思います。大人だったせいもあったのでしょうが、一瞬子ども役が戸惑ったというか、身構えたようになったような気がしました。
子ども役にウサギを追い返したときのオオカミの気持ちを問いかけます。子ども役からの意見をなるほどとしっかりと受容し、時には聞き返して言葉を足させます。個への対応としては素晴らしいのですが、やはり授業者一人ですべてを受けてしまいます。子どもの意見を先生が説明する場面もありました。「似た意見の人いる?」「同じように考えた人?」とつないであげるとよいと思います。「先生に聞いてもらいたい」から「友だちに聞いてもらいたい」に変えていくことが必要です。子ども役の先生方も、発表者の方を向かなくなりました。授業者が中心となっているからです。

オオカミがクマと出会ったときの気持ちを問いかけます。子ども役からは、「強そう、まずいな」という意見が出ます。授業者は、板書する時に「まずいな」を落としました。ここは、何がまずいのかを確認したいところでした。
続いて、クマに親切にされた時の気持ちを答えてもらいます。子ども役からは、「きゅ〜んとした」「渡れてうれしい」「くまさんはやさしいな」といった言葉が出てきます。ここで授業者は子どもたちからどんな気持ちを引き出し共有したかったのかがよくわかりませんでした。ここは、「きゅ〜んとしたって気持ちわかる?何にきゅ〜んとしたんだろうね?」「○○さんは、くまさんのことをやさしいと思ったんだ。他の人はどう思ったと思う?○○さんと同じ?」というように「親切にされたオオカミがどのように感じたのか?」「クマに対してどのような気持ちになったのか?」を子どもの意見をつなぎながら焦点化したかったところでした。

クマと同じようにしてウサギを通してあげた時のオオカミとウサギの気持ちを聞いていきます。ここでも、子ども役の意見を「素敵な意見」と上手に評価する場面がありました。よい雰囲気で、子ども役の意見を聞きだすことができます。ただ、この時間で子どもたちがどのような変容をするのかを考えてみると、この教材に最初に触れて感じた以上に深まる場面があまりなかったように感じました。「親切にされるとうれしい」「親切にすると気持ちがいい」と強く感じる場面がほしかったように思います。
オオカミがクマと出会うところでいったん話を止めて、「ここでオオカミはどんな気持ちでどう行動するだろうか?」ということをたくさん言わせるというやり方もあると思います。「どうしてそう思のか?」といったことも聞けるとよいでしょう。自分が意地悪していい気持ちになったとことと関連づけておくと、クマの対応から、親切にすると自分も相手も気持ちがよいことに気づいてくれると思います。ただ、一つ間違えると、「くまさん賢い」「そういう手があったのか」と違う方向に行ってしまう可能性もあります。そんな時は「くまさんに出会う前にこのやり方に気づいたとして、おおかみさんはそのように行動しただろうか?」と切り返すといったことが必要になるでしょう。このあたりは難しいところだとは思います。

「親切にしてよかったなあ」と思ったことを子ども役に言わせます。過去に親切にしてよかったという経験がない子どもにとっては、なかなか厳しい問いかけになります。道徳では、過去のことよりもこれからどのように行動するかを大切にするとよいと思います。親切という言葉ではなく、「人にどんなことをすると気持ちがいいかな?相手も気持ちがいいと思ってくれるかな?」と子どもたちに考えたり言わせたりして終わるというやり方もあるでしょう。
最後に、一人ひとりのよい行動をほめるカードを全員に配って終わります。授業者の人柄を感じることができるとても素敵な授業でした。ただ、こういったことがすべて授業者と子どもたち一人ひとりとの関係を強化することにつながり、相対的に子ども同士のかかわりが弱くなることが気になります。低学年では、教師が中心になって子どもをコントロールすることが必要な場面が多いのですが、子ども同士のかかわりもバランスよく授業に組み込んでほしいと思いました。

検討会は、検討する授業の質が高かったので学びの多いものになったと思います。それと同時に、道徳の難しさも考えさせられました。また、フォーラムでは参加者は見ているだけになりますので、その方々に満足していただけるために検討会をどのように進めるとよいのか、当日使用する授業検討システムの活かし方を含めてコーディネーター役の先生は悩むことになると思います。きっと工夫が感じられるものになると期待しています。
「愛される学校づくり研究会」は、2月のフォーラムに向けての動きが加速しています。詳細は12月に発表できると思います。毎年楽しみにしてくださっている方、もうしばらくお待ちください。

授業への思いと現実の差をどう埋めるのか考える

前回の日記の続きです。

初任者の数学の授業研究は多角形の内角の和の公式の問題でした。授業者がしゃべりすぎて子どもの活躍場面が少ないという前回の私の指摘を意識した指導案でした。

まずこの日の学習に必要なことを復習します。三角形の内角の和を確認し、内角はどこかも押さえました。しかし、すぐの自分で説明してしまうのが残念でした。四角形の定義も確認しますが、角が4つ、辺も4つと説明します。定義と性質、角や辺といった用語がきちんと整理されていません。授業者自身がこういうことをきちんと意識する必要があります。この日の授業で利用する性質、内角の和がそれぞれ180°、360°であることを確認しますが、「いつでも」「どんな」といったことを押さえません。三角形の内角の和が180°であることが、「いつでも」成り立つ、「どんな」三角形でも言えるのかを問いかけて、子どもたちにこのことを常に意識させることが必要です。
子どもたちから言葉を引き出さそうと問いかけてはいるのですが、挙手する子どもとだけで進んでいきます。一部の子どもの顔が上がりません。この場面は自分が参加しても困らないと考えているようです。授業者が発言を受けてすぐに説明するのではなく、他の子どもにつなぐことが必要です。

四角形の内角の和が360°であることの説明を子どもたちに確認します。この時、「三角形の内角の和が180°を使っていたね」と一番肝心のところを自分で言ってしまいます。ここは「どうやったら説明できる?何を使う?」と子どもたちに問いかけ、反応が少ないようであればまわりと確認させるといったことが必要です。
ここで、「角が1個増えた」というつぶやきがありました。授業者は上手くひろえませんでしたが、これを取り上げても面白かったでしょう。「三角形の角を一つ増やして、四角形にしてみて。内角の和はどうなった?」と作業をさせると、角が一つ増えると内角が三角形一つ分増えることに気づくことができるはずです。
授業者は対角線を引くという考えを受けて、「どういう線?」と問い返します。用語の確認をするのはよいことです。その後、「例えば?」と子どもに図に書き込ませました。内角の和を考えるのに対角線を引いた図を示すのはよいのですが、対角線の定義はそれでは明確になりません。きちんと定義の確認をすることは必要でしょう。面白かったのが、指名された子どもが前で線を引く場面では顔が下がっていた子どもの顔が上がったことです。子どもの活躍場面を増やすことが、他の子どもの参加も促すことになることがわかります。

多角形の内角の和を考えようという課題を提示したあと、どうやって調べればいいかを問いかけます。まずしなければいけないのは、五角形や六角形でも内角の和はいつも一定かどうかの確認です。そうしなければ、一つ調べればよいということになってしまいます。子どもたちからは出ませんでしたが、分度器で測るといった考えが出てきた時に、一般化の必要性につなげることができません。
授業者は五角形に切り取った紙を何枚か用意して配り、「各頂点で折り曲げて」と考え方を指定しました。「頂点で折り曲げる」という方針についてはきちんと共有していません。授業者が一方的に指示してしまっています。子どもに考えさせたい、活動させたいと思っているのですが、教師のねらっている考えに最初から誘導してしまっています。子どもから出てきたものを価値付けしながら焦点化したいところです。初任者なのでまだまだ仕方がないのですが、このことを意識してほしいと思います。また、五角形も同じものばかりなのが気になります。何種類か用意できるとよかったでしょう。
知っている子どもたちは、内角の和が540°になることをすぐに確認して動きが止まってしまいます。できるだけたくさんの考え方を見つける、誰もやらないような折り方といった条件を付加することも必要でしょう。

子どものかいた「一つの対角線で四角形と三角形に分けた」「一つの頂点から引いたすべての対角線で三角形に分けた」「五角形の内部で交差する2つの対角線で四角形と三角形に分けた」図を黒板に示して、すぐに本人に計算式を言わせます。ここで大切なのは、五角形の内角がどこにあって、それらの「和」がどのような角を合わせたものかを明確にすることです。ここをしっかりと押さえずに、計算式を言わせてもあまり意味はありません。「360+180」であれば、360°と180°がそれぞれ図のどこの角の和となっているのかを押さえる必要があります。計算式も図をかいた本人に言わせるのではなく、他の子どもに言わせて説明することで、より理解が進みます。特に、交差する対角線では、内部の角の和360°を引くことが必要ですが、本人に言わせて先生が説明しました。このことは他の子どもたちから出させたいところでした。
授業者が3つの異なる考え方を取り上げたのはとてもよいことなのですが、それぞれのよさをきちんと価値付けしていません。どちらかと言えば、これらを比較して「一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割する」方法に収束させようとしています。
四角形と三角形に分割したのであれば、既に知っている三角形と四角形をもとに考えたことを価値付けすることが必要です。「これで五角形もわかったね。なるほど〜。六角形はどうなのかな?」というように、漸化式的な発想を意識させるような言葉を発するとよいでしょう。
一つの頂点から対角線をすべて引くとムダなく三角形に分割できることを押さえ、対角線は何本引けるか、三角形はいくつできるのかを意識させることも必要です。対角線を1本ずつ引きながら、「三角形が一つできたね」「この頂点からは対角線はもう引けない?」「三角形はいくつになった?」というようなやりとりもあってもよいでしょう。
交差する対角線であれば、「どこの角をたせばいいの?」「どこの角だったら大きはわかる?」といったやり取りをしながら、「余分をひく」という発想の素晴らしさを価値付けしたいところです。
このやり方の説明で、子どもから「三角形が3つ」という言葉が出てきました。授業者はすぐに「3つあるね」と黒板で説明します。物わかりがよすぎます。三角形は他の三角形を含む大きなものも考えられます。「どの三角形?みんなわかる?」と問い返したり、わざと違う三角形を示したりすることが必要です。子どもを揺さぶることで考えさせたいところです。

続いて同じように六角形の紙を与えて作業に入ります。五角形の時には手がつかなかった子どもが、こんどは一生懸命に作業に取り組みます。五角形の説明で何をすればよいのかわかったようです。課題がきちんと理解されていなかったのです。下位と思われる子どもも一生懸命に取り組んでいます。また答がすぐにわかる子どもも、五角形で違ったやり方を見ることで、他のやり方に挑戦しています。子どもたちが活動的になりました。
六角形の発表に入るのですが、一部の子どもが自分のやり方に熱中して顔が上がりません。授業者はそのまま話し始めました。ここは、きちんと作業を止めてしっかりと集中させたいところでした。六角形で対角線がたくさん引けることもあり、子どもたちは多様なやり方をしています。ここでは「もっと角の数が大きい多角形でも使えそうなやり方」といった一般化を意識させてから取り組ませた方がよかったかもしれません。

授業者はいくつかのやり方を確認した後、「このやり方に決定します」と統一しました。多様な考え方を価値付けした後、一般化しやすいという視点で子どもたちから出させた結論ならまだよいのですが、一方的に授業者が決めてしまうのなら子どもたちは自分たちのやってきたことは何かわからなくなってしまいます。結局「先生の求める答探し」をすることになります。この後、表を埋めながら一般化をするのですが、表を与える時点で考え方を固定化させています。授業者は多角形の角の数と分割してできる三角形の数の規則性に気づかせようとしていますが、表に頼らず「対角線に対して三角形がいくつできるかで考える」「角が一つ増えると、内角の和が180°増える規則から考える」といったことも当然あってよいはずです。内部で交差する対角線の考えを拡張して、内部の1点から頂点に引いた線分で三角形に分割することに気づかせることもしたいところです。「余分なものを引けばいい」発想で、角の数と同じ数の三角形の内角の和から、内部の360°引くというやり方です。子どもたちからでた考え方の先にはこんなに素晴らしい世界が広がっているのです。せっかくの多様性を発展させるのではなく、一つに切り捨ててしまったのは、数学的にとても残念でした。

「多角形の内角の和の求め方は、一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割して考える」が授業者の考えるこの時間のまとめでした。授業者は、まだ、答を出すこと、解き方を教えることが授業のゴールのように思っています。数学を通じて論理的な思考力を育てることをもっと意識してほしいと思います。この時間であれば、問題の解決の方法として「すでに知っている知識(三角形や四角形の内角の和)を利用することを考える」「うまくいったやり方(対角線の引き方)と同じようなやり方を他の場面でもやってみる」といったメタなことを子どもたちがまとめとして書けるようにしたいところです。

授業者は子どもたちを活躍させたいという思いは強く持っています。しかし、まだまだ教師としてスタートしたばかりです。そのために必要な、子どもの言葉を活かしたり、つないだりするための技術、数学に対する知識や理解が不足しています。自分に足りないことを一つずつ埋めていくことが必要です。私からの指摘を素直に受け止めることのできる先生です。きっとこれからも努力し続けてくれると思います。今後の成長を期待したいと思います。

理科の単元の導入について考えさせられた授業

中学校で授業アドバイスをしてきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は、若手の理科と数学の授業研究でした。

理科は2年生の「音の正体を考える」という、音の単元の導入の授業でした。
授業者の表情はよく、子どもたちも安心して授業に参加していました。子どもたちは指示に素早く従えます。授業者が、大太鼓や音叉、モノコードで音を出してみせます。ワイングラスに水を入れてふちをこすることで音を出してみせると(グラスハープ)、子どもたちの目は、やりたいという意欲を見せます。子どもたちを意欲的にする仕掛けとしてはよかったと思います。
この日の課題「音の正体を探ろう」を提示して、教師が準備した物を使って、音が鳴っている時の共通点を見つけることを指示しました。なかなか考えた導入なのですが、課題が天下りなのが残念です。また、音の正体を探るという課題と、音が鳴っている時の共通点を見つけるという目標の関係も明確でありません。課題の解決の方法を教師が指示をしたのも気になります。どんなことに着目すればよいかは、子どもたちから出させたいところでした。この道具を使って、どんなことをすれば音の正体を探ることができるのか、いろいろと意見を言わせたいところです。

子どもたちは、音を出すことに意識が集中していました。共通ということはあまり意識できていません。モノコードの絃を指で押さえて鳴らす子どもや、ワイングラスの水面の様子を見ている子どももいますが、そういった行動やそこで気づいたことが共有される場面がありませんでした。
ここでいったん活動を止めさせました、子どもたちに実験を止めて授業者に集中するように優しく促します。柔らかでよい指示です。子どもたちに発表をさせますが、挙手は3人です。指名した子どもが「音が大きい方が、振動が長い」ということを言いました。なかなか面白い意見ですが、授業者はすぐにこの「振動」を拾って、「震えている」という言葉で説明しました。「どうも振動している」と子どもたちに確認してから、「どこが振動している?」と新たな課題を与えて再び実験をさせました。「2段階で実験するとよい」という私のアドバイスを受け入れてくれたのはとてもうれしいのですが、あまりに急ぎすぎでした。まず、発言した子どもは、音が大きいと音が長く持続することを伝えたかったのですが、その伝えたかった部分は無視されてしまいました。発言した子どもは釈然としなかったと思います。また、他の2人の子どもや挙手しなかったけれど何かを見つけた子どもたちの意見は取り上げられません。先生は振動のことを言ってほしかっただけなんだと、子どもたちは思ったに違いありません。
ここは、「同じようなことに気づいた人はいない?」と持続時間のことを確認し、他の2人の子どもの意見を聞き、それから「振動という言葉が出てきたけれど、それってどういうこと?」「どれも振動していた?」と最初の「共通」という視点で整理、焦点化するとよかったでしょう。「音と振動は関係あるのかな?」「振動していないと音はでないの?」と子どもたちに問いかけてから、「振動に注目してみようか。何を、どこを見ればいい?」と実験観察の視点を子どもたちに考えさせてから、再度実験をすればすっきりしたと思います。

子どもたちは、それぞれの音源のどこが振動しているのか観察をします。グループでまとめますが、今度はかかわり合いが出てきます。太鼓にこだわり、叩いた反対側が振動していることを確認して、太鼓の中も振動しているはずだと考える子ども、ワイングラスの水が波打っていることに気づき、振動しているのはガラスか水かと考えている子ども、面白い発言がたくさん聞かれます。子どもたちが発表用のまとめを書きますが、どこが振動しているのかはグループによって微妙に違います。この違いを発表でどのように扱うかが授業のポイントになります。各グループが黒板に貼ったまとめに、授業者は余計なコメント加えずになるほどと認めていきます。授業者は他のグループが書かなったことを「やってみよう」と子どもたちに再度やらせて確認させました。これはとてもよい姿勢です。子どもたちもとても真剣に取り組みます。ワイングラスについては、水が振動していることに対して、水なしでも音が出るかどうかをやらせます。とてもよいことなのですが、こういった指示が常に授業者から出てくることが気になります。「水とガラス」「水」「ガラス」どこが振動しているのか、「どうやって調べる?」と子どもたちに問いかけることが必要です。常に先生が判断して指示するのではなく、自分たちで考えて実験をするという姿勢をつくりたいところです。
「振動が上から下へ伝わっている」ということを書いているグループもあります。上も下も振動しているのではなく、「伝わっている」という言葉を使っているところに、理科としてはこだわりたいところです。「どういうこと?」と聞くことで、「叩いたところではないところ」が振動したこと、そこから「伝わった」と考えられるという推論を明確にできたと思います。

最後は、教師が「振動で音が生じている」とまとめましたが、これも残念なところです。ここでは、導入なので無理にまとめる必要はありません。振動で音が「生じている」というところまではこの日の実験からは言えません。逆に「地震って音がする?」「地面が振動しても音が出る?」などと揺さぶっておきたいところでした。子どもたちにとって、「実験」と実験から「考えること」が分離しています。教師がその時間の内容をまとめてくれるのであれば、子どもたちは考えなくても困りません。せいぜい教師の求める答探しをするだけです。「音と振動は関係がありそうだね」くらいにしておくか、子どもたちが気づいたことをまとめさせて、たくさん発表して終わるだけで十分だと思いました。

授業者だけでなく、理科の担当の先生方が一緒になってつくった指導案のようです。とても意欲的な授業だったと思います。この活動を活かす流れについて考えたくなるものでした。次のような流れを考えてみました。
「音って何?」「音って見える?」といったことを子どもたちに気軽に答えさせます。知識のある子どもが「振動」などと言った時には、腰を振って「振動しているけれど音がする?」と揺さぶります。「よくわからないことがあるね」と疑問を持たせておき、「これから音について学習して、こういったことに答えられるようになろう」と単元の目標を設定します。その上で、どんな実験をすればよいかを子どもたちに考えさせて、「すべてができるかどうかはわからないけれど、音を出せるものをいくつか用意したからこれらを使って音の正体に迫って」とすると、より子どもたちの課題となったと思います。
実験で使う音源についても、グラスハープの鳴らし方の説明程度に抑えてできるだけ早く実験に移ります。全員が実験をしたと思われるところで、一度どんなことをしたかと、その結果を中間発表させます。ここが難しいところですが、子どもから出てきたことを、いくつかの視点で整理していきます。「振動」「伝わる」「大きい・小さい」「高い・低い」といったことから、もう一度視点を定めて実験をさせ、最後に子どもたちの実験結果をできるだけ多く発表させます。その上で、みんなが見つけたことをきちんと説明できるように、これから音の学習をしていこうとして、導入の時間は終わるのです。
子どもたちから出てきたことはまとめておいて、いつでも取り出せるようにしておきます。この後の学習に合わせて、この実験で見つけたことを説明するという課題を与えることで導入が活きてくると思います。

意欲的な授業のおかげで、私が今まで考えていなかった理科の導入の形を見つけることができたように思います。私にとっても学びの多い授業でした。

数学の授業研究については、次回の日記で。

子どもたちが見せる姿の変化から学ぶ

中学校で授業アドバイスを行ってきました。2時間かけて学校全体の様子を見せていただき、その後学年と懇談、個別のアドバイスをさせていただきました。

3年生はそろそろ受験が近づいてきたこともあり、全体的に落ち着いていました。しかし、授業者の問いかけに積極的に参加できる子どもと、できない子どもがはっきりしているように感じました。参加できない子どもも決してやる気がないわけではありません。むしろわかるようになりたいと思っているはずです。ただわからなくて参加できない子どもも結構いるように思います。どの子どもも参加できる、わかる、できるようになる場面をつくることが大切です。挙手だけに頼らず、聞いていれば答えられることを意図的に指名して発言させ、ポジティブに評価するといったことを繰り返すことが必要です。
学年団から進路指導面で悩んでいる子どもへの対応を相談されました。学年全体に対しては、進路面での悩みを「みんな苦しいことがあるよね」と個人のものとせずに共有することを意識してほしいと伝えました。一人ひとりの目標を達成するために、互いに支え合える関係をつくることが大切になります。
個々の子どもの悩みには、面談等で対応することになります。成績面での不安や悩みに対しては、下手に励ますのではなく、負の感情も含めて子どもの苦しさに寄り添う姿勢で接することが大切です。すぐにアドバイスしたり、安易に気持ちがわかるといった言葉をかけたりしないよう注意が必要です。「だめかもしれない」といった言葉に「大丈夫」といった言葉を返すと、自分の苦しさはわかってもらえないと心を閉ざすことにつながります。「そうか、だめかもしれないと思っているんだ。それは苦しいね」とまず気持ちを認めることから始めます。その上で、そう思う理由や気持ちを聞いてあげることをします。焦ってアドバイスする必要はありません。まずは気持ちをしっかりと受け止めることが大切です。その上で、どうすればいいのかを一緒に考えることをします。大切なのは、どうすればいいのかに自分で気がつくことです。子どもの口から言わせるようにするのです。1回の面談で結論を出すことはありません。無理をせずに、継続的に話ができる関係をつくることを優先してほしいと思います。また、担任がすべて引き受けようとする必要もありません。相性というものがありますから、気軽に他の先生とも話すようにさせてほしいと思います。担任にこだわらず、学年全体で対応するという姿勢で臨むようにお願いしました。

2年生は、気なる場面にたくさん出会いました。子どもたちの集中度や表情、態度が授業によって大きく変わるのです。子どもの活動量が多い授業では、とてもよい表情で一所懸命に先生や友だちの話を聞いています。逆に、先生が一方的に説明している授業では、顔も上がらずじっと我慢している状態です。子どもたちの持っているエネルギーは大きいのですが、それが内にこもっているように見えます。その反動が休息時間や放課後、校外などで表れることが心配です。授業中にいい形でエネルギーを使わせてほしいと思います。
同じ教科でも授業者によってスタイルが大きく違います。同じ子どもたちでも、授業者によって見せる姿が異なります。参考となる授業がたくさんあるのに、互いに学び合っていないように思います。先生の個性を否定するわけではありませんが、この学校で広がりつつあった、子どもの言葉を活かし、子どもを活躍させる授業スタイルが減ってきているように感じます。
また、同じ授業時間内でも、集中力が大きく変わることもありました。英語の授業で電話での会話を学習している場面のことです。ALTが英語でこの会話の”situation”を説明します。視覚的な情報もなく一方的にALTがしゃべっても”situation”は伝わりません。子どもたちは、ただボーっと聞いているだけでした。ところが、ALTと授業者2人で電話を掛ける場面になると、子どもたちの姿勢が変わります。体が前に乗り出し真剣に集中して聞き始めたのです。動きが出てきたので、内容を理解できそうになったからです。やる気がないのではないことがよくわかります。わからなければ、参加しない、参加できないのです。
先生方には、互いに授業を見合い、子どもたちの姿を見てほしいと思います。子どもたちのよい姿をみることで、何が大切なのかがわかってくると思います。

1年生は、以前に教師と子どもの関係ができる前に子ども同士の関係ができつつあることを指摘しました。そういう意味では、先生方が子どもとの関係を大事にしてきたことはわかります。子どもは気軽に先生に話しかけます。しかし、授業に直接関係ないことが多いのです。一部の子どもの無責任な発言を受け止めすぎる場面に多く出会います。そうなると子どもたちのテンションは上がっていきます。当然それについていけない子どもは、白けていきます。一人ひとりの子どもをよく見ることが必要です。また、子どもたちが主導権を握ろうとしている授業も目につきます。子どもとの関係をつくるのと、何でも受け止めることとは違います。授業に関係ない発言は無視をすることも必要です。子どもの発言や行動をきちんと評価し、よい発言や行動を増やすようにして、学級内の規律を確立することが大切です。子どもたちが楽しい学級より、安心・安全な学級をつくることが優先です。このことを意識してほしいと思います。

一つひとつの授業をじっくり見ることはできませんでしたが、面白い場面や考えさせられる場面をたくさん見ることができました。
理科のイカの解剖の実験で、子どもたちがとても集中している学級がありました。直接解剖をしていない子どもも真剣に見ています。ところが、結果をスケッチする場面になると集中力が落ちてしまいました。子どもにとっては、解剖することが目的化していたのかもしれません。教師から一方的に課題を与えられても、なかなか自分のものにはなりません。疑問や興味を持たせる工夫が必要です。イカの解剖であれば、「イカの内臓を見たことある?」「心臓はあった?」「どこ?」といったことを問いかけます。真剣に考える必要ありませんから、気軽に答えさせます。そこで、「じゃあ、イカの体の中にどんな臓器がどこにあるかかいて?」と子どもたちにイカの内臓がどのようになっているかをかかせます。知識なので考えてもわかりませんから、これもあまり時間をかける必要はありません。ただ、外部から見える口などを手掛かりに考えさせるといったことはしてもよいでしょう。グループで見せ合ってもいいでしょうし、全体で何人か紹介してもいいでしょう。ここで、「誰のが正解か、どうすればわかる?」と問いかけ、「一番確かなのは自分の目で見ることだ」と子どもたちと確認して、解剖に入るのです。こうすれば、子どもたちはこの課題に集中して取り組むと思います。また、「イカにも個性があるかな?みんな同じような構造だろうか?」と問いかけ、雄雌があるのかといったことも意識させることでスケッチの必然性を与えることもできます。
子どもたちが集中していたので、こんな展開を思いつきました。

同じ学級の違う授業、同じ教科、単元で異なる授業者の授業を比較して見ることができたので、たくさんのことに気づくことができました。私にとっても、学びの多い時間でした。研究発表が終わってから時間が経ってきました。これから人の入れ替わりも多くなると思います。この学校がこれからどういった方向に進んでいくのか、岐路に立っていると思います。今一度、互いに学び合うことを意識してよい方向に進んでほしいと思います。

資料を活かす授業展開の大切さを感じる

昨日の日記の続きです。

2つ目の授業研究は4年生の社会科の交通事故をなくすために何ができるかを考える授業でした。
前時の復習で、交通事故を減らすのにどんな取り組みがあったかを聞きます。ノートを見てもいいと指示をしたのですが、全員の手が挙がりません。授業者の指名の声がちょっと強いのも気になりました。何となく圧力を感じてしまいます。こんなことも子どもの挙手が思ったより少ない原因があるのかもしれません。とはいえ、教室全体は授業規律もしっかりして、学級経営は上手くいっているように見えました。
講習会という答に対して、その内容を聞いたのですが発言者は答えることができません。他の子どもからもなかなか出てきませんでした。子どもたちは、まとめとして板書されたものしか意識していないように思います。注意が必要です。
子どもの発言をしっかり受容することはできるのですが、発言する子どもとだけで授業が進んでいきます。また、板書をする時に勝手に言葉を足す場面もありました。先生の求める答探しの授業になる危険性があります。言葉が足りなければ子どもたちから出させるようにする必要があります。一問一答を止めて、同じ質問に何人にも答えさせることが大切です。

子どもたちに交通事故件数のグラフを見せて、読み取れることは何かを聞きます。「気づいたこと」ではなく、「読み取れる」という言葉を使ったのは社会科の視点を意識しています。子どもからは、「○○年が一番多い」「……ちょこっとずつ減っている」「……より増えている」といったことが出てきます。よい読み取りができています。残念なのが、こういった子どもたちのよい読み取りを価値付けしていないことでした。授業者が、「一番多いところに目をつけたんだ」「『ちょこっとずつ』と変化の仕方まで読み取ってくれたね」(これはグラフの見せ方でも変わって見えるので、別の機会にそのことに触れることが必要でしょう)「……年と比較したんだね。他の年と比べるとどうかな?」といった言葉を返すことが必要です。子どもたちが育ってくれば、「今の意見は、何に注目して読み取ったのかな?」と子どもに視点を言わせるとよいでしょう。子どもたちに資料の読み取り方を身につけさせてほしいと思います。また、「同じことに気づいた人いるかな?」と挙手させたり、「同じでいいから読み取ったことを聞かせて?」と発言させたり、「どう、今の意見に納得した?」と気づかなかった子どもに納得するかどうかを問いかけたりすることも必要です。一部の子どもとだけで授業が進まないように意識してほしいと思います。

どんな時に交通事故が起きやすいかを子どもに問いかけます。「急いでいる時」「赤信号で渡る」といった意見が出てきます。授業者は子どもの意見を受け止めますが、深めることはしません。ここは、「急いでいるとどうして交通事故が起きやすいの?」「赤信号で渡るのはどんな時?どうして?」と交通ルールを守ること心情との関係を押さえておくとよいでしょう。前の時間にやった取り組みと結びつけて、講習会といったものがどうして事故対策としてあるのかに気づかせてもよかったでしょう。
ここで授業者は、子どもの原因別事故件数の資料を見せました。まずは、歩行中です。この資料から読み取ったことを発表させます。原因を子どもの側から見た資料で、「違反がない」ことが一番多いのがわかります。授業者としては、自分は違反していなくても事故にあうことに着目させたかったのですが、当然子どもからはそれ以外にも色々なことが挙がってきます。中に、表の一番数が少ない項目を「○○が一番少ない」と答える子どもがいました。表には「その他」の項目もあります。授業者は子どもの間違いを否定しなかったのですが、「その他」の意味をきちんと教えておく必要がありました。
続いて、自転車での同様の資料を見せて、今度はグループで情報交換させました。それぞれが自分の意見を言った後、動きは止まります。情報交換してという指示ではそれ以上動かないのです。あまり意味のないグループ活動でした。次第に子どものテンションが上がっていきます。ここでは、歩行中より自転車の事故が圧倒的に多いことに気づかせたいところですが、ほとんどのグループではそのことは出ていませんでした。2つの資料を比較する意見が発表される場面があったのですが、授業者は価値付けしませんでした。もったいないと思いました。

ここまでに多くの時間を使ってしまいました。事故を減らす、事故にあわないためにどうすればいいのかを資料から「考える」ことがこの授業のねらいです。読み取りよりも考えることに時間を使いたいところです。早く問題を焦点化することが必要でした。
この授業であれば、どんな時に交通事故が起きやすいかを聞いた時に、交通ルールを守ることが事故防止に大切だということを意識づけておいて、「じゃあ、君たち子どもの事故原因で多いのは何だと思う。信号無視?……」と資料にある原因のいくつかを例示して、子どもに言わせることや、「君たちは普段歩くことが多い?自転車に乗っていることが多い?事故が多いのはどちらかな?」と予想させることをしておくとよかったでしょう。その上で資料を見せれば細かい読み取りは必要なく、ルールを守っても事故にあうことをすぐに焦点化できます。「じゃあどうすれば事故を減らせるのだろうか?」とせまれば、この日の課題に子どもたちは深く入ることができたと思います。ここでグループ活動にすれば、かなり動きは違っていたでしょう。

授業者はこの後、校区の写真を子どもたち見せて、気をつけることはあるかと問いかけます。子どもたちは意見を出すのですが、資料と関連づけた意見ではありません。資料を見ながら、この場所ではどんな事故が起きやすいかといったことをまず出させて、それからどんな対策をするとよいかを考えさせてもよかったでしょう。これまでの学習と関連づけて、「ミラーをつける」「○○注意の看板を立てる」といったことが出てくると思います。
この後、グーグルマップを使って学校からの道をストリートビューで見せながら、どこで注意が必要かを子どもたちに言わせました。活動としては面白いのですが、ねらいとつながる活動なのかは疑問です。最後は子ども目線でのまとめでした。子どもたちだけの問題ではなく、社会としてどう対応するかが問題です。前時にやった社会の取り組みと関連づけて、もう一度見直すことが必要だったと思います。

この学級の雰囲気のよさを感じる場面がありました。事故につながりそうな経験を子どもたちたずねた時に、信号無視したことを話してくれる子どもがいました。その発言に対して、子どもたちは批判的な反応を示しません。何を話しても安心な学級づくりができているように思いました。

資料や活動はなかなか面白かったのですが、この時間を通じて柱になることは何か、ゴールはどこかということが明確でなかったために、子どもたちはただ指示に従って活動するだけでした。社会科としての力がついたのかはちょっと疑問です。資料を活かす授業展開を考える必要がありました。授業者にはこういったことを指摘しながら、ここで示したような流れを参考として提示しました。授業者はスッキリしたと言ってくれました。学級の基盤がしっかりしてこその授業ですが、その点、この先生は問題ないと思います。だからこそ、深い教材研究、授業研究が求められます。このことを意識して、これからも努力を続けてくれることと思います。これからが楽しみな先生でした。

全体にお話しする時間をいただきました。
全体として授業規律や、子どもたちとの関係は良好です。個々の子どもたちの発言を受容することもできています。課題は、子どもの発言をつないで、広げ、深めることです。また、授業の課題が子どもたちのものになっていないように感じる場面も多くありました。そこで、「アクティブ・ラーニング」についての解説と合わせて、子どもたちが自分で課題を持つためにどのようなことを意識すればよいかといったことをお話しさせていただきました。
2年間で4回訪問させていただきましたが、学校全体の力が上がっているように思います。先生方が、努力されていることがよくわかります。次の課題もきっとクリアされることと期待しています。

教材研究の大切さを強く感じる

小学校で授業アドバイスをしてきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は学校全体の授業の参観と、若手2人の授業研究でした。

全体として子どもたちは落ち着いて授業に参加しています。先生方との関係のよい学級が多く、授業規律の心配もなさそうです。ただ、授業者と子どもとの個の関係で授業が進む場面が目立ちました。全体の場で子ども同士のかかわり合う場面が少ないのです。また、課題が子どものものになっていないと感じる場面が多くありました。教師から与えられた課題を指示に従って取り組んでいるのですが、解決したいという意欲があまり感じられないのです。
この学校も、次の段階に移ってきているように思います。授業規律や教師と子どもの基本的な関係は問題がないので、子どもが自ら課題をみつけ、主体的に取り組み、子ども同士がかかわり合って学ぶ授業を目指してほしいのです。これがまさに今言われているところの「アクティブ・ラーニング」だと思います。

授業研究の1つは、4年目の教師の3年生の算数の授業でした。結合法則の学習場面でした。
子どもたちの授業規律はとてもよく、授業者との関係も良好です。子どもたちは先生のためにも頑張ろうとしているのがよくわかります。「問題文を読みたい人?」という問いかけに、たくさんの子どもが挙手しました。指名された子どもが読むと、全員が読み手をしっかりと見ます。そのようなルールになっているのでしょう。徹底されていることがよくわかります。読み終ると拍手がありますが、これは形式的になっているように思われます。読み終った子どもの表情がうれしそうにならないからです。授業者が具体的によいところを評価してあげたいところでした。

2mの雲梯があって、木はその3倍の高さ、校舎はその木の2倍の高さです。この校舎の高さを求める2つの方法をもとに、結合法則を考えるのがこの日の課題です。
前時にやった、2つの計算のやり方を復習します。子どもたちの手が半分ほど挙がります。微妙な数です。授業者は指名で答えさせ復唱し、すぐに板書します。これでは、本当にわかっているか確認できません。「順番に計算する」という答そのものが大切ならば、すぐに板書せずに、挙手した、しなかったにかかわらず何人も続けて指名し、定着させることが必要です。また、その内容が大切ならば、「順番に計算する」を何人かに確認した後、「最初に何を計算する?」「次に何を計算する?」と具体的に計算を確かめていきます。「2×3」が出てくれば、「何を計算したの?」と問い返します。出てこないようであれば、「2って何?」「3って何?」ともっと細かく聞くのです。復習として最初に課題とは別の問題を1題やってもよいでしょう。
続いて、もう一つのやり方をたずねます。「先に何倍かを考える方法」と一人が答えると、やはりすぐにそれを板書します。ここで「まず何倍……」と「先に」が「まず」に置き換わっていました。もし、「まず」に直させたいのなら子どもに訂正させることが必要です。ここでは、その必要はありませんから、そのまま「先に」を使えばいいのです。「まず」に置き換えることで、子どもは「先生は、まずと言ってほしかったんだ」と思ってしまいます。先生の求める答探しを始めるようになっていきます。できるだけ、子どもの言葉をそのまま使うようにしてほしいと思います。
「順番にやる」と同じように確認をした後、結合法則の布石として、どちらのやり方でも「答は同じ」ことをしっかりと押さえておくことが大切です。

ワークシートには「ひなたさん」と「たいちさん」の考えの図が書いてあり、それぞれの下に、□×□=□と穴埋めの式が2段積み重なっています。授業者は2人のやり方がどちらかを確認します。挙手で指名した子どもの答に、他の子どもが「賛成」と声を出します。しかし、全員がきちんとわかっていっているわけではありません。不安な様子が見てとれます。個々に言わせて確認することが必要です。
この場面では、子どもはやり方を確認する意味がよくわかっていません。図から式はつくれます。「順番にやる」「まず何倍か考える」といった「やり方」をなぜ先に考えるのかよくわからないのです。授業者が「やり方」にこだわったのは、このあと2つの式を一つにするための布石となる、考え方の説明を書かせるのに、「順番にやる」「まず何倍か考える」というやり方を意識させるとよいと思ったからでしょう。式を書かせた後、これも説明のための布石として、式に単位を書き込ませます。気持ちはわかりますが、この一連の活動はあまり意味があるとは思えませんでした。また、ここで、倍を単位として書き込みました。倍は単位ではありません。「×□」が□倍です。ここが混乱していると、何倍の何倍がわかりにくくなってしまいます。

授業者としては充分準備ができたので、やり方の説明を書くように指示をします。ワークシートにはそれぞれ「まず、木の高さを計算します」「まず、校しゃの高さがうんていの高さの何倍かを計算します」と書いてあるので、その続きを書くのです。子どもたちは「説明」と聞いたとたん嫌な顔をしました。何を書いていいのかわからないのです。先生の期待に応えたいのに答えられない、どうしようという思いのように見えます。いきなり説明しろと言われても、個々の作業がバラバラでどうつながっているのかわからないのです。どうしていいかわからない子どもがほとんどで、なかなか手がつきません。結局、発表では挙手が数人で、指名された子どもの答を聞いても子どもはよくわからない表情です。授業者はここで「説明は後にする」と、説明にこだわることをあきらめました。それなりによい判断なのですが、ここで式の意味をきちんと押さえていないので、次の2つの式を一つにすることが、またわからなくなってしまいました。
ここは、いきなり説明を書かせるのではなく、どのようなことを言えばいいのか、実際にやって見せることが必要です。単位ではなく、式の意味をいろいろな形で言わせるのです。「2×3=6」からは、「2×3は何を計算したの?」「2は何?」「3は何?」「6は何?」と聞いたり、「×3ってどういうこと?」と3「倍」を押さえたりするのです。数字の上に、「うんてい」「木」と書くことで、「うんてい」の高さの3倍が「木」の高さと言葉で説明できます。同様に「木」の高さの2倍が「校しゃ」の高さと言葉にすればよいのです。もし、書かせることにこだわるのであれば、「今の説明をワークシートに書いて」と指示すれば書けるはずです。3倍の2倍も、同様にして、「うんてい」の高さの6倍が「校しゃ」の高さといった言葉を引き出すのです。

ここで、図に2つのやり方を書き込むとよいでしょう。「木」のところに「うんていの3倍」「2×3」と書き込み、「校しゃ」のところに「木の2倍」「6×2」と「順番にやる」やり方を書き込みます。「まず何倍か考える」方法は、「うんてい」と「木」、「木」と「校しゃ」を結ぶ矢印を2倍、3倍に対して、「うんてい」と「校しゃ」を矢印で結んで「(3×2)倍」と書き込みます。そして、式と図、言葉を自由に行き来できるように、「式を見ながら言葉にする」「図を見ながら言葉にする」「式を見ながら図を指さす」こういったことを子どもたち何度もさせるのです。このようにして頭の中を十分に耕しておけば、式を一つにすることはそれほど難しくないはずです。
授業者は、2つの式で同じものがないかを注目させようとしますが、数字では属性が落ちているので、値が同じでも同じものとは意識できません。先ほどのように数の意味するものを意識させておけば、様子はかなり違ったでしょう。

式を一つにするのにかなりの時間を使いました。授業者は子どもの的外れな答もしっかり聞くことができます。好感が持てるのですが、なんとか正解を言わせようと「そうじゃなくて……」と発言を否定するような言葉を使ってしまいます。その場で視点を変えて新たに考えさせようとしても無理です。ここは、「なるほど」と受け止めて、次に進めばいいのです。
最後は教師主導で式を一つにして、計算の順番が違っても答えが同じことを「多くの数をかけるとき、順を変えても同じなります」とまとめました。かなり無理があります。一つの例でしか確認していないのに、常に成り立つことは納得できることではありません。せめて、値を変えて確認したり、図を使ってこのことが数値に影響されないことを確認したりすることが必要です。同様に、「多くの数」も確認が必要です。4つ以上の数でも成り立つことを子どもが納得することが必要です。残念ながら、算数・数学の本質的なところを押さえきれていない授業でした。

この授業者は学級経営や授業規律といった点ではよく頑張っています。だからこそ、教科の中身の理解、教材研究が強く求められるのです。説明で全く手がつかなった子どもも、練習問題では一生懸命に取り組みます。わかる、できるようなりたいとどの子どもも思っているのです。だからこそ、子どもたちがわかる、できるようになるための手立てを教師がしっかりと持たなければいけないのです。教師としての力がついてきたからこそ、次に求められるものは大きいのです。
授業後、とても素直に自分の授業を振り返ってくれました。自分でも、子どもたちがわかっていなかったことは痛いほど感じています。だからこそ、どうすべきだったのに気づけた時に、スッキリとしたと言ってくれました。日々の教材研究を大切にして、一歩ずつ前に進んでほしいと思います。

この続きは、明日の日記で。

私学で子どもたちのポテンシャルを感じる

私立の中学高等学校で、授業アドバイスと研修を行ってきました。

全体的には、よい状態が続いています。子どもたちが積極的に授業に参加している姿をたくさん見ることができました。また、若手の先生方が何を意識して授業しているのかがよくわかる場面にたくさん出会えました。授業をよくしようという意欲を感じることができます。

体育の授業をいくつか見ることができました。
高校1年生の男子のバスケットボールの授業では、子どもたちは積極的に体を動かしていました。しかし、グループでの活動でかかわり合いが少ないと感じました。互いにアドバイスをしたり、上手くいった時に「ナイス!」といった声をかけたりしないのです。授業者はその点に気づいて声を出すように指示をしましたが。その時はやれるのですが、すぐに元に戻ってしまいました。プレイにおける具体的な目標や、ポイントを意識させると同時に、チームとしての目標を明確にしておくことが大切でしょう。まだ1年生ですので、これからいろいろな場面でこのことを意識して、子ども同士のかかわり合いをふやすようにしてほしいと思います。
高校3年生の男子のバレーボールは、試合の場面でした。さすがに3年生です。それなりに試合になっています。感心したのはよく声が出ていることでした。また、ミスをした子どもに対して、笑い飛ばせる雰囲気があったことも素晴らしいと思いました。つまらないミスが出ると、勝ちたい気持ちの強い子どもからブーイングや心無い言葉が出ることがあります。そういった言葉を子どもたちから聞くことはありませんでした。よい学級だと思いました。後から授業者に聞いたところ、人間関係も考慮してチーム編成をしているとのことでした。こういった細かい心配りが、試合の雰囲気をつくっていたのだと感心しました。

高校2年生の英語で、探査機はやぶさについての教科書の本文を使った発表会を参観しました。グループで、教科書の本文から1章をピックアップして発表するのですが、その内容に合わせたスライドをつくって、それを見せながら読み上げます。英語によるプレゼンテーションです。授業者は自ら英語でMCをして、雰囲気を盛り上げます。子どもたちは緊張しながらも一生懸命です。まだまだたどたどしいのですが、終わった時のやり終えた感が伝わってきます。空き時間の先生方が何人も参観していました。授業者が発表会をやることを伝えて参観をお願いしたそうですが、それに応えてくれる先生がいたことをとても感激していました。もちろん子どもたちも、多くの先生方が見に来てくれてやりがいを感じていたように思います。
素晴らしいと思ったのが聞いている子どもたちの態度でした。とても真剣です。発表が終わった者、これからの者も関係ありません。友だちの発表が終わると緊張が弛むのが伝わってきます。それだけ集中していたということです。友だちの発表の簡単な評価をすることだけでは、このような集中は生まれません。授業者に聞くと、事前にいくつかのグループで合同の事前発表会をして、改善点などを意見交換したそうです。グループ同士でかかわり合ったのでの、発表に集中したのかもしれません。子どもたちのよい姿を見せてもらいました。

英語は一部習熟度別を取り入れています。2年生の下のクラスの授業でとても興味深いことが起こっていました。一部の習熟度の高いクラスでは、高校生向けに英語で書かれた小説をテキストにして、自分たちで要約するという課題を与えていました。下位のクラスではとてもそんなことはできないと思っていたそうですが、試しにと同じような課題を与えてみたそうです。読みを助けるために、単語や語句の意味、ポイントをまとめたものも一緒に与えました。上位のクラスよりも、手厚いものを用意したようです。驚いたことに、子どもたちはわき目もふらずに課題に取り組んだそうです。辞書を引くことも困難な子どもたちですが、助けになるものがあれば集中して取り組むことができるのです。この日はその2回目でした。私の目にも集中して取り組んでいるのがよくわかります。最初だけかと思ったそうですが、そんなことはなかったようです。中に一人、手持ち無沙汰にしている子どもがいました。「やはり手のつかない子どももいるんだなあ」と思ったのですが、驚いたことに、その子どもは既に与えられたところをすべて読み終っていたそうです。次の課題がまだ準備できていなかったので、することがなかったのです。子ども同士で要約を見あったりさせることで、かかわり合って活動を始めました。
この授業者と子どもたちの関係といった特別な要因がこのクラスにあったからこのようなことが起こったのかもしれないと思ったのですが、そうではなかったようです。他の先生が担当している下位のクラスでも同じ課題を与えたところまったく同じような状態だったようです。彼らでは無理だというのは先生の思い込みで、実際には課題等を工夫し、条件させ整えればしっかりと学習に取り組むのです。具体的な要因としては、子どもたちが面白いと思える内容の話だったこと、読み解くために必要な材料があらかじめ用意されていたことが大きいと思います。また、子ども同士が気軽に聞きあえる関係が、英語だけに限らずいろいろな場面で育っていたことも大きいでしょう。できない、やる気がないように見える子どもたちも、「やってもできない」と思っているから無気力になっているだけなのです。「やれそうだ」「おもしろうそうだ」と思えれば、集中して取り組むのです。課題ややり方を工夫することで、子どもは全く違った顔を見せてくれるのです。先生方はあらためて子どもたちのもつポテンシャルに気づいたようです。とてもよいものを見せていただきました。

この日は、先生方の空き時間に、希望者を対象に「アクティブ・ラーニング」の研修を行いました。前回参加した方も今回初めての方もいらっしゃったので、簡単に「アクティブ・ラーニング」の考え方を説明し、子どもが自ら課題を見つける、主体的に取り組むといったことについて社会科を例にしながら、具体的にお話させていただきました。多人数での研修ではないので雑談めいたものになりましたが、いっそのこと先生方が今取り組んでいること、悩んでいることなどを相談し合う場にすればよかったと反省しています。授業改善に取り組んでいる先生方も増えているので、そういった情報交換も含めて、先生同士で気軽に授業について話ができる雰囲気づくりを今後目指したいと思います。

学校の中でいろいろな変化がどんどん起こっています。その変化が子どもたちのよい姿につながっているように思います。この日も、子どもたちの姿からたくさんの元気をもらいました。先生方と子どもたちが一緒に成長しているように感じます。これからどのようなよい変化が見られるのかとても楽しみです。

介護の研修で、経営という視点を考える

介護関連の研修で講師を務めました。今回は、介護制度の変化に事業所としてどのよう対応していけばよいのかを、参加者の皆さんに考えていただきました。研修を通じていろいろなことに気づくことができました。

これから、ボランティアといった、専門職でない方も介護にかかわることが予想されますが、そんな中で自分たちがプロとしての差別化ができなければいけないことをしっかりと意識していただけたように思います。現場で働いている人の視点での意見をしっかり聞くことができました。また、事業所としてはリハビリテーションや認知症の対応などの相対的に介護報酬が高い、技術を必要とする分野に積極的に対応することも大切になります。先ほどのプロとしての差別化にも関連しますが、プロ意識を持って、質の高い介護技術を提供しなければ、介護事業所も生き残れない時代になっていくことをわかっていただけたようです。
この事業所では、訪問介護、訪問看護、弁当宅配などの訪問型、デイサービス、老人ホームなどの施設型のサービスを行っています。しかし、グループとしてこういったいくつものサービスを複合的に行っていることの意味については、あまり意識されていなかったようです。安定して事業を継続するためには、利用者の囲い込みこという発想も必要です。こういった発想は経営者の発想ですから、なかなか現場の方にはピンとこないことかもしれません。

こういった研修を通じて感じる課題の多くが学校現場にも通じます。例えば、先生方は学校経営という視点で自分たちの仕事を見ることはなかなかできていません。学校を取り巻く状況は非常に速いスピードで変化しています。以前と比べて学校に求められることは質も量も大きく異なっています。21世紀型学力、グローバル人材、センター試験廃止、地域連携、チーム学校、アクティブラーニング、道徳の教科化、小学校英語の教科化……と、最近耳にするキーワードだけでもものすごい量になります。先生方がこれらをただ受け身で、現場に降りてきてから考えようとしていては、学校経営は成り立ちません。先生方一人ひとりが、これからの学校はどのように変わらなければならないのかを考え、今からそれに対する準備をしておくことが必要です。「日々の仕事に追われてそんな余裕はない」という声が聞こえてきそうですが、先生方がどう対応するかは、よくも悪くもすべて子どもたちに還元されていきます。子どもたちのためにも、これからの学校ではどのようなことが大切になり、それを実現するためにはどのようにしなければいけないのか、ほんの少しでよいので、考えてほしいと思います。

野口芳宏先生から心地よい刺激を受ける

今年度第5回の教師力アップセミナーは野口芳宏先生の講演と道徳の授業の実践発表でした。

午前の部は、宮沢賢治の「やまなし」の模擬授業をもとにして、野口流の国語授業のつくり方をたっぷりと教えていただきました。
「間違いは正さなければいけない。間違いをした子どもを落ち込ませるのではなく、間違いを知って正すことで成長したことを喜べばいい」「判断は誰でもできるが根拠が大切」といった素晴らしい言葉が次々と野口先生の口から語られます。
「一人ひとりの子どもが相手にされることが大切」という言葉に、野口先生の授業の底に流れる全員参加の考え方が現れています。「やまなし」であれば、舞台となっているのは「朝か昼か夜か」といったことを子どもたちに発問し、全員の考えを確認しなければ情景をきちんとイメージできているかどうかわからないということです。実際に参加した先生方でも答が違っていたことが印象的でした。

さて、今回取り上げた「やまなし」は40年以上にわたって光村図書の小学校6年生の教科書に掲載されていますが、難解な教材として定評があります。難解ですがこれだけ長い期間にわたって採用されているということは、それだけの魅力のある教材だということでしょう。「理屈の世界ではわけがわからない」と野口先生はおっしゃいます。この教材は、宮沢賢治の素晴らしい表現からイメージを描かせること中心にあつかいたいという提案です。
文学作品は、「内容と形式の調和」であり、その本質は美の追究であるとおっしゃいます。「内容美」は「理(知的価値)」「相(イメージ、様子……)」「情(感情理解)」、形式美は「体(構成、構造)」「律(リズム)」「語」からなるという整理の視点はなるほど納得するものがあります。心にとめておきたいことです。

「否定は大切」ということも野口先生の一貫した主張です。世の中の流れが否定ではなく、肯定、ほめることを大切にする方向に流れても、安易にそれに迎合しない野口先生の姿は凛としています。私自身、否定をしない、肯定的な表現をすることが大切だと考えています。しかし、野口先生の言う「否定することで次に進める。新たなものを得ることができる」という「否定の生産性」を間違いだとは思いません。その通りだと思います。私が大切にしたいのは、他者に否定されるのではなく、自分自身で間違いに気づけることです。だからこそ、野口先生と同じように根拠を明確にして、子どもが考える授業を大切にしたいのです。客観性のある議論をすることで、結論を一方的に受け入れるのではなく、自身で修正して正しい結論にたどり着いてほしいのです。
子どもは「不備」「不足」「不十分」の「三不」というのも、いかにも野口先生らしい言葉ですが、この子どもの中に潜在している「三不」をレントゲンのように浮き上がらせるのが「発問」だというのも、すばらしい「発問」のとらえ方です。

授業づくりについて話されます。「まずは『素材研究』。一人の大人として作品と向き合う。その上で一人の教師として『教材研究』。その先に授業者として『指導法』を考える」というのもいかにも野口先生です。特に「素材研究」を一番にするべきだというのは、まったくその通りだと思います。これは数学でも同様です。例えば関数の学習をするのに、「関数とは何であるのか?」「一次関数とは?」といった数学としての根本がわかっていなければ、本質を外した授業になってしまいます。その上で、教科書は何を、どこをねらっているのか「教材研究」していくのです。

全体の様子を描写する「括叙」(抽象的)に対して、個々の様子を描写する「細叙」(具体的)により、イメージ化ができる。最近は教えることが流行っているが、こういったことを教えることが大切であるというのも野口先生らしいのですが、何を教えて、何を考えさせるのかという選別が大切だと思います。基本知識は教えるか調べるかありません。そういったことまで子どもたち気づかせようとしている授業を野口先生は見たのでしょうか。今言われている授業のあり方は、野口先生のものと大きく乖離しているようには思えないのですが、どうでしょうか?

読み取りを進めるのに、「川の深さは何mだろうか?」「カニの大きさは何cmくらい?」と「数値」を問うのも、野口先生がよく使われる方法です。漠然と浅い深いといったことではなく、数値で答えようとすると根拠となるものを本文からしっかり探さなければいけません。子どもたちに深い読みをさせるための有効な方法です。
また、「ねむらない」と「ねむれない」の違いや、「遠めがねのような両方の目をあらんかぎりのばして」とあるその行動の裏にある感情を問うといったことも、非常に参考になる発問のあり方でした。

細部を読み進んだ後、題名が「やまなし」なのはなぜかを問います。「かわせみ」でも「かに」でもない。その理由を考えることが、この作品が何を言いたいのかを考え読み解くことになるという考えです。この授業の構成にはなるほどと思いました。「題名」の理由を考えるというのはよくあるやり方なのですが、私の中では、一読した後に問いかけ、作品全体を大掴みさせてから細部に入るという流れしかありませんでした。このように最後に作品全体をとらえるための発問にしたことは、とても新鮮に感じられました。
「やまなし」という難解な教材のあつかい方を通じて、国語授業のつくり方について、多くのことに気づき、学ぶことができました。

午後は、運営委員の学校の若手教員の道徳授業(道徳の授業撮影参照)のビデオをもとに、道徳の授業の視点を深める時間を取り、それを受けた形で、野口先生から道徳の教科化に伴う指導要領の改訂に関連してお話しいただきました。「考える道徳」「議論する道徳」に対してのお話も伺えました。第1回授業深掘りセミナーでも話題になったところ(第1回授業深掘りセミナー(その1)参照)ですが、まだまだ試行錯誤が続いていくのだろうと思いました。
それよりも道徳に関連して印象に残っているのは、懇親会で野口先生に質問させていただいたことに対するお答でした。「道徳でこういった行為はよくないというような話をする時、子どもの親がそういった行為をしていることもある。子どもが親を否定することにつながらないかと二の足を踏むことがあるがどう考えればよいか?」という質問でした。野口先生は、「元徳」という言葉を出されました。「徳の中で最も根本となるもの」という意味ですが、その「元徳」の一つは「親を敬う・大切にする」ことだというのです。だから、何があっても「親を敬う・大切にする」ことは忘れてはいけない。そう教えるというのです。今の時代、この考え方にすべての人が賛成するとは思えません。しかし、その言葉に野口先生のぶれない強さを感じました。おいくつになられても心地よい刺激を与えてくださる野口先生です。今年もとても素晴らしい、幸せな時間を共にすることができました。感謝です。
12月に第2回「教育と笑いの会」でお会いできるのが今からとても楽しみです。

ゼミでの学生の姿から考える

授業深掘りセミナーの後の会場で、玉置ゼミが開かれました。せっかくですので、少しゼミの様子を見学させていただきました。授業と学び研究所の小西克哉所長からの就活と最近の大学生気質についての話、フェローの神戸和敏先生の模擬授業でした。

小西所長の話は、学びの本質に迫るものでした。学びは一生涯続くもので、学び続けることができる人を企業は求めている。学ぶことを楽しめることが大切である。「学力」は「楽力」に通ずる。また就職は、自分がその企業で仕事をすることを通じてどのようになりたいかを思い描けなければうまくいかない。こういった主旨の話でした。
教員志望がほとんどで、一般的な就職活動には縁のない学生たちなので、どのような反応をするのか興味がありましたが、だれもが真摯な態度で話を聞いていました。素直に学ぼうという姿勢は好感が持てました。

神戸先生の1時間の模擬授業は2部構成でした。後半は次回の授業深掘りセミナーで行う模擬授業を試しに行うものです。前半は、なんと落語をアニメ化したものを見せました。「時そば」です。最初はなぜ落語を見せるのかその意図がわかりませんでした。アマチュアの域を超える落語家の玉置先生のゼミの学生にしては意外なことに、あまり「時そば」を知らないようでした。
神戸先生は「時そば」を見せ終わった後に、そばがいくらだったかを問いかけました。「16文にきまってらあ」という言葉の意味がわかっているかの確認です。「二八そば」から「16文」ということに気づいている学生は少なかったようです。どうやら神戸先生は、日常に潜む数や数学的な視点に気づく感性を持ってもらいたいことを伝えるのに、「時そば」を選んだようです。
落ちの「今何刻でぇ」「四つでさぁ」というところも、よくわかっていなかったようです。江戸時代の時刻が0時を「九つ」として、半日を2時間ごとに(正確には日の出を暁六つ、日の入りを暮れ六つとして計算)、「八つ」「七つ」「六つ」「五つ」「四つ」としていたことを知らないと、「九つ」より少し早かったために「四つ」で大失敗したということがわかりません。こういったお話を楽しむためにも、数の感覚が大切です。教師として、幅広い視点を持つこと、算数・数学を教えるためには日常に潜んでいる算数・数学的なものを見つける、見つけようとする姿勢が大切なことを伝えられました。「時そば」を当たり前のように楽しんでいた私には、このような教材として利用することは思いもつきませんでした。神戸先生の教材を見つける感覚に脱帽です。

後半の模擬授業については、次回の授業深掘りセミナーでのお楽しみにして、その時の学生たちの姿から感じたことを少し述べたいと思います。
非情に素直に課題に取り組みます。しかし、ある事柄の持つ特性や属性を分析したり、そのことをもとに推論したりするといった力が今一つです。日ごろから、身の回りのことを「なぜそうなっているのだろうか?」「他にはないのだろうか?」と原因や必然性を論理的に解釈しようとすることをしていないようです。答を出せた学生も、どうやって考えたのか、論理的に筋道立てて説明することが上手くできません。たまたまであったにせよ、そこにある必然性を見つけようとする姿勢が大切なのですが、そういう習慣はついていないようです。先ほどの「時そば」で感じたことと一致します。
このことは彼らのだけの問題ではありません。多くの小学校の先生の算数の授業で感じるのがこれなのです。解き方を知っていてそれを教えるだけの授業が多いのです。「なぜそうやると解けるのか?」「他にやり方はないのか?」「その必然性は?」といった視点が授業に欠落しているのです。解き方を教えるのは塾に任せて(塾に失礼ですね)、解き方を見つける力を子どもたちにつけてほしいのです。それが、算数・数学で目指したい力です。
そのためには、先生方がきちんとその問題の本質を理解して、論理的に解き方を説明できることが必要です。その上で、直接教えるのではなく、子どもたち自身で気づけるような授業構成をすることが求められるのです。
この日の神戸先生の模擬授業からは学生たちにそのことを気づかせたいという思いがあふれていました。これは、神戸先生の算数・数学の授業に共通する思いでもあります。
ゼミ生のみなさんには、これから教壇に立つまで、立ってからもこのことをいつも自身に問い続けてほしいと思います。

第1回授業深掘りセミナー(その3)

昨日の日記の続きです。

第1回の「教育情報知っ得コーナー」は授業と学び研究所フェローの後藤真一さんの「アクティブ・ラーニング」についての情報提供でした。このコーナーは10分ほどで簡単に最近の教育に関する情報を提供し、その後皆さんから質問を受け付けるというものです。

「アクティブ・ラーニング」は、もともとは大学の授業改革から出てきたもので、当初の定義では、「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」と学習者が活動していれば何でも「アクティブ・ラーニング」という広いとらえ方でした。
ところがこれが、次期学習指導要領の改訂では小中高大共通のキーワードとなるとともに、その意味するところが変わりそうです。中教審教育課程部会資料「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」諮問の概要では、次のように示されています。
「子どもたちが厳しい挑戦の時代を乗りこえるために(少子高齢化・グローバル化・技術革新)」は「新しい時代に必要な力(資質・能力)を育てる(自立・協働・創造)」が必要となります。そのために、「新しい教科の設立」「目標・内容の見直し」と共に学び方の転換が求められます。それが「アクティブ・ラーニング」(課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び)です。
ここで注目してほしいことは、「アクティブ・ラーニング」が「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」とされていることです。先ほどの定義とはかなり変わってきているということです。
「中教審教育課程企画特別部会 資料1 論点整理(案)」では、いわゆる「アクティブ・ラーニング」として、「創造」「協働」「自立」というキーワードに対応させ、次のように説明されています。

1.習得・活用・探究という学習プロセスの中で、問題発見・解決を念頭に置いた深い学びの過程が実現できているかどうか。
2.他者との協働や外界との相互作用を通じて、自らの考えを広げ深める、対話的な学びの過程が実現できているかどうか。
3.子供たちが見通しを持って粘り強く取り組み、自らの学習活動を振り返って次につなげる、主体的な学びの過程が実現できているかどうか。

また、「小学校・中学校の『優れた実践』を、高校につなぐ」として、「一斉授業」ではなく「ペア活動」「ホワイトボードを使って話し合う」「付箋を使って話し合う」、「先生が説明する」のではなく「生徒が説明する」「ポスターなどを作成して発表する」「立場を決めて議論する」といった例が挙げられています。
高等学校の授業改革を意識しているようにもうかがえます。

「アクティブ・ラーニング」をどのようなものとしてとらえていいのか、今一つよくわかりませんね。「教育課程企画特別部会(第13回、平成27年8月5日)における主な意見」によれば、専門家の見方もいろいろであることがわかります。

【ゆるい・広い定義】
一斉講義式の授業や生徒が黙々と問題演習をするというような授業でないもの、能動的な活動が入っているものは全てアクティブ・ラーニング

【厳しい・狭い定義】
協働学習や問題解決を行う、しかも高次の問題解決を行うという相当厳しい条件がついたもの、これをアクティブ・ラーニング

ちょっと混とんとしてきますが、「アクティブ・ラーニング」で大切になってくるのは、学習指導の「型」でなく、実践のプロセスを伝えることです。「中教審教育課程企画特別部会 資料1 論点整理(案)」では、次のように言っています。

○こうした指導方法を焦点の一つとすること〜狭い意味での授業の方法や技術の改善に終始する〜本来の目的を見失い、特定の学習や指導の「型」に拘泥(こうでい)する事態を招きかねない〜

○ 「〜めざすのは、特定の型を普及させることではなく、〜下記のような視点で学び全体を改善し、〜指導や学習環境を設定すること〜、教員一人一人一人が〜研究を重ね〜工夫して実践できる〜」

現在学習指導要領の改訂に向けて論点整理がされていますが、おそらく1〜2年でどのようなものになるかがはっきりしてくるでしょう。最後に鍵を握るのは、「課題の発見・解決に向けて」「主体的・協働的に学ぶ」「アクティブ・ティーチャー」だと思われます。

このように「アクティブ・ラーニング」にかかわる論点を、「中教審教育課程企画特別部会」の資料を中心にわかりやすく伝えてくれました。見たことがある資料でも、こうして整理しまとまった形で提示・解説してもらえると、とてもよく理解できると思います。「アクティブ・ラーニング」といっても、「何をすればいいのかよくわからない」「今までやってきたことと何が違うのか?」といった疑問を持たれている方も会場にはたくさんいらっしゃったと思いますが、かなり理解が進んだのではないでしょうか。

次回は私が「教育情報知っ得コーナー」の担当ですが、かなりハードルが上がった気がします。「反転授業」についてお話しするつもりです。興味のある方はぜひご参加ください。

第1回授業深掘りセミナーは、非常に密度の濃いものになりました。授業と学び研究所のフェロー、レギュラー講師陣共に、次回以降さらに内容の濃いものを目指していきたいと思っています。ご期待ください。

第1回授業深掘りセミナー(その2)(長文)

昨日の日記の続きです。

2つ目の模擬授業は、和田裕枝先生の小学校5年生の算数です。かける数が小数の計算で、およそで大小関係がわかることをねらう授業でした。
最初に80×2.3はおよそいくらになるかをたずねます。「160より大きい」「240より小さい」といった答えに対して、どうしてかを問います。「80×2より大きい」「80×3より大きい」とかける数に注目させていきます。
黒板にリボン図で80×1を表わします。それを伸ばそうとして止め、その下に新たに80×3のリボン図をかき、3つに区切ります。80×1が基準となっていることがよくわかる図です。
「80×2と80×3の間」という答に対して、「どっちに近い?」と問い返します。「80×2に近い」ことの説明を、「2.3が2に近い」と手を使いながらする子ども役がいました。それに対して「いい手の動きだね」とほめ、「○○君見える」と他の子どもにも注意を促します。「○○君見なさい」と言わないところがポイントです。和田先生は決してネガティブな表現を使いません。必ずポジティブな言葉に言い換えます。また、同じことを何度も子どもたちに言わせ、同じことでも違った表現をした時にはほめます。子どもたちに広げたいこと、授業で大切にしたいことを意識して、繰り返し答えさせ、ほめています。何でもほめるのではなく、手の挙げ方がよくなった、うなずきながら聞いていたといったしつけたい授業規律に関することと、その日の授業のねらいにつながることを中心にしています。言い換えれば、繰り返し問われることをきちんと理解し身につければ、子どもたちは授業規律が身につきこの日の授業のねらいを達成できるわけです。子どもたちにとっても、わかりやすい授業の構造です。

この日の授業の主課題は、テープの代金をもとに考えるものです。1m150円のテープを5人の子どもがそれぞれ、0.5m、0.8m、1m、1.5m、2m買います。代金が150円より多くなるのは誰かを問います。つぎつぎに指名していきますが、1mを買った「かいと」さんを入れる答とそうでない答に分かれます。「かいと」さんの代金が150円になることを押さえて、「より」多くなるのだから「かいと」さんは違うという子ども役の説明を引き出し、その説明に納得したかを全体で確認します。個人に問い返して深めたことを全体に確認することで、全員がわかるできるを大切にしていることがわかります。

ここからが和田先生の本領発揮です。1.5mと2mを買った2人の代金が150円より多いことの説明を求めます。子ども役からは「1mより多い」という言葉が返っていきます。ここで、多くの先生は「そうだね」と説明を始めますが、和田先生は「何が?」と問いかけます。「長さが」という答が返ってきます。子ども役を何人も指名して、「長さ」が「1m」より多いことを何度も言わせ、「1m」を強く印象付けます。最初の80×2.3を考える時に80×1を意識させる図をかきましたが、こういう場面への伏線となっています。
ここから、長さが「かける数」であり、「かける数」が1より大きければ答はかけられる数より大きくなることを子どもの言葉をつなげながらまとめていきます。見ていてぞくぞくする場面です。代金を求める計算が何かを確認します。「かけ算」という答に対して、「言ってみてくれる」と式を言わせ板書します。長さの部分を縦にきちんとそろえて書きます。1mの時には150円であることは、「かいと」さんが150円より多いかどうかの時に押さえてあるので、150は黒板に書かれています。150だけが代金として明示されています。1mが基準となって、上下に分かれていることが視覚的に表現されています。
長さが1mよりも大きいとかけられる数150円よりも大きくなることが子ども役から出てきます。この場面でも、何が150円より大きくなるのかを確認します。かけられる数の150と答の150の違いを「代金」が150円より大きくなるとして、明確に区別させます。式の「結果」の大小に注目させる発問です。
また、子どもの発言に対して「絶対に?」と揺さぶります。算数・数学では「絶対」「いつでも」はゆさぶりのキーワードです。この言葉が、論理的な説明や証明の必要性につながるのです。指名された子どもは手を動かしながら、説明をします。すかさず「手がついとるよ。みんな見て」と注目させます。子ども役は大人ですが、和田先生のペースに完全に巻き込まれていました。次々に指名されるだれもが手を動かしながら答えていました。望ましい行動をほめることで全体に広がることがよくわかる場面でした。子ども役の説明には、「ぴったし」よりも、「下に行くほど」、「だんだん」多くなる、といった言葉が足されていきます。和田先生は、同じことでも違った表現を黒板の同じところに書いていきます。子どもの言葉を大切にし、子どもの感覚で理解することを意識しています。これも立派な言語活動です。
子どもに「かける数」が1より大きいかどうかを意識させるために、「どこを見た?」と問いかけます。「0.5」「0.8」といったかける数を見ると「代金」(=かけ算の結果)がわかることを子どもから引き出していきます。短い問いかけで、ねらった言葉、考えを引き出す技術はさすがです。

この時間で気づいたこと、わかったことを子ども役の言葉で整理していきます。「1より大きい、1より小さい、ぴったりかで……」という発言の後、指名された子ども役が「同じ」と答えます。同じでもいいからと自分の言葉で話すことを促します。「かける数が1より小さいと……」という発言に、すかさず「同じじゃない。かける数を付け加えて言えた」と評価します。子どもの言葉を自分に都合のいいように聞いて、言ってもいない言葉を足す先生には決して気づくことができません。一人ひとりの発言をどれだけ大事にしているかよくわかります。
子どもの発言の中に「変わる」という言葉が出てくれば、「いい言い方だね」と価値付けをします。「1が基準」という言葉にも「基準という言葉を言ったのは、あなたが初めて」とすぐに反応して板書します。「1だとぴったしで、……」に対しては、「何とぴったし?」「かけられる数」というように進めます。「かける1が大事」という発言に対しては、「なぜ大事か言って」と返し、「境目」といった言葉を引き出します。何ともない言葉に思えますが、数学的には「不等式」や「極値」につながっていく、とても意味のある言葉です。この時点で子どもたちはそんなことに気づきもしませんが、このようなやり取りを通じて子どもたちの数学的な見方や考え方の土壌が耕されていくのです。和田先生が数学的な価値の視点をとても多く持っていて、それにつながる言葉に敏感だからこそ、こういった言葉を引き出すことができるのです。外から見ているので私でもそのことに気づくことができますが、実際に授業をしていたならば、とっさに反応することはできないと思います。なかなかまねをすることができないところです。
また、和田先生の授業は常に「テンポがよい」と評価されますが、その秘密の一つにこの価値の視点が豊富であることがあります。そのため、何を強調するのか、どこを聞き返すのか、また軽く受け流ししたらいいのかの判断が早いのです。和田先生のテンポだけを真似しようとすると、まず失敗します。授業や教科、教材への深い知識があってのことです。

最後に「この時間でみんなが気づいたことが教科書の○○ページに書いてある。自分たちで気づけたんだよ」とこの日の活動を評価して終わりました。自分たちが頑張ってすごいことをしたんだという自己有用感を感じさせる終わり方でした。

さて、「深掘りトークセッション」の司会は玉置先生です。まずは、この模擬授業を参観していたゼミの学生を指名します。3名のゼミ生は「和田先生のほめ方」「最後のまとめ方」「指名の仕方」「テンポのよさ」などを具体的に指摘します。初任者レベルでは気づけないことまで気づいています。パネラーも真っ青です。学生にこれだけのコメントをされてしまうと、プレッシャーがかかります。こうなると座った席が問題です。一番端にいる私は発言が最後になります。私が話すことを残してくれるか心配です。予想通り、「子どもとの言葉を大切にしていることやその授業技術の解説」「常に根拠を問う姿勢は国語と同じだという深い指摘」「テンポのよさについての解説」などあらかた言われてしまいました。学生の素晴らしいコメントもありましたので、そこを「深掘り」してプロらしいところ見せようと思い、「ほめる」技術について次のようなコメントをしました。

子どもたちをほめると言っても、ほめる行動をしてくれなければほめることができません。和田先生は、今子どもにどうなってほしいかの基準が明確で何をしたらほめるのかがはっきりしています。子ども側からすれば、何をすればほめられる、認められるかがよくわかるので、そういう行動を取りやすいのです。だからたくさんほめてもらえるのです。もう一つ大切なことは、まねをしてよい行動をとった子どもも認めてほめることです。一問一答の授業では、指名されて最初に正解した子どもだけが認められます。そういう授業を受けている子どもたちは、最初にやった者しか認めてもらえないと思っています。和田先生の授業では、まねをしてもほめられます。同じ質問に何人も指名され、同じ内容でも言葉を足したり、違う表現をしたりすれば認められます。こういったことが下地としてあるから、子どもたちによい行動が広がるのです。

和田先生がこれほどの技術をどのようにして身につけたかが聞かれます。単純に言えることではないでしょうが、子どもが、何がわかっているのか、何がわかっていないのか、その理由はと常に問い続けていることがその一つのようです。実際の授業での子どもの振り返りノートのコピーが配られましたが、そこから子どもがどのくらい抽象的な概念(ものの見方・考え方)を身につけることができたかを読み取っています。「よくわかっている子どもは、具体的な数が出てこない。理解度が低い子どもほど具体的な数で説明している」という視点は、とても大切な指摘だと思います。

和田先生の授業技術についての深掘りが続きましたが、ここで玉置先生から「不満がある」という問題発言が出てきました。「子どもたちをほめて認めているが、算数・数学的な価値付けはされていないのではないか?」というのです。「え〜?!玉置先生それってどういうこと?」という指摘です。これを私に振ってきます。どうやら道徳のセッションと同じく盛り上げようという腹のようです。それを受けて、「そんなことはない。『これは算数的に価値がある』と直接には価値付けしていないが、価値のあることを繰り返し言わせたり、1について『基準』『ぴったし』といった言葉をたくさん板書に残したりしている。しっかりと価値付けしている」と反論しました。玉置先生に乗せられて、ついつい熱く話してしまいました。やられました。

和田先生から、今日の子ども役は優秀過ぎて授業の進め方を変えたことが話されました。150円より多いかどうか聞けば、必ず計算する子どもがいるはずだというのです。なのに、この日の子ども役からはそれが出てこなかったのです。黒板には150×0.5、0.8、1.5、2の計算結果は書いてありません。そのため、かける数が1より大きいかどうかに注目させることができたのですが、計算の結果から説明する子どもがでてきても計算結果は板書しないということでした。子どもの発言を何でも板書するのではなく、きちんと意図を持って選択していることに納得です。
私からは、教科書にない和田先生独自の導入部分で、「およそいくらになる」という課題を与えたことが、計算して答を出した子ども役がいなかった理由だと指摘しました。子どもたちにできるだけ計算させないようにした布石に、子ども役の先生方が誘導されてしまったのです。こういった布石があっても、実際には子どもたちは計算してしまうようです。子どもらしい発言を上手にしていた先生方です。この布石がなければきっと計算した方がいたはずだと思います。

このトークセッションを通じて、和田先生の素晴らしい模擬授業をしっかりと深掘りできたと思います。進行役と素晴らしい参加者のおかげで多くのことを学ぶことができました。

この模擬授業に子ども役で参加された方が、答えられない子どもの気持ちがわかったとSNSに書き込まれていました。子ども役には一定の作法があります。対象学年の子どもになって答えるという暗黙の了解がありますが、この方は一般の方なので、どのように子ども役として答えていいかわからなったようです。また、答え方のルールなどもわからないので、戸惑ったのでしょう。この方が授業中にうまく反応ができていなかったのが気になっていたのですが、その理由がわかりました。この方は、この経験をわからない子どもの気持ちがわかったと前向きにとらえていらっしゃいました。こういうメンタリティは素晴らしいと思います。若い先生もたくさん参加してくださるので、子ども役に授業者の教室のルールなどを事前説明することも必要だと気づかされました。ありがとうございます。

続いて、「教育情報知っ得コーナー」ですが、それについては明日の日記で。

第1回授業深掘りセミナー(その1)

第1回授業深掘りセミナーが行われました。

1つ目の模擬授業は授業と学び研究所のフェローで岐阜聖徳大学教授の玉置崇先生の道徳の授業でした。
玉置先生は自ら新しい授業に挑戦すると宣言して模擬授業を開始しました。題材は「手品師」です。売れない手品師が、さびしい子どもとの手品を見せるという約束を優先して、大舞台に立つという夢をかなえるチャンスを断るという話です。この題材を使った授業の展開は「手品師は子どもとの約束を優先したが、あなたならどうする?」と自分の判断を考えさせたり、「友人からの大舞台の誘いを受けた時の手品師は、どんなことを考えただろう?」「子どもとの約束を守って手品をしている時の手品師は、どんな気持ちだろう?」と手品師の気持ちに寄り添って考えさせたりするものがほとんどです。大舞台へのチャンスが来たところで話を止めて、「あなたらどうする?」と問いかける展開もよく目にします。
それに対して玉置先生は、最後まで資料を読んだあと、自分がそうするかどうかは別にして、手品師がとりえる行動にはどんなものがあるか、「ありったけ」書き出すように指示しました。「ありったけ」といった言葉を使うところが玉置流です。「たくさん」ではなく「ありったけ」ということで、子どもによい意味でプレッシャーをかけ、集中力を上げるのです。
一人一つずつ発表させます。「自分なら」とか、「どうあるべきか」といった条件がないので、子ども役からは無茶な意見を含め多様な意見が出ます。とはいえ、教室で見る子どもたちの意見と同じく、何とか自分の夢を実現させることを優先して、その上で約束を破ることになる子どもに対してどうフォローするかを考えるものがほとんどです。玉置先生はそれらを一つひとつ板書していきます。17ほどの意見が出てきました。この展開はいわゆる「とりえる行動の選択」の授業のように見えます。この後、よくある「あなたならどれを選ぶ?」と問いかける展開だと話が発散していくのではないかと思いました。それでは面白くありません。ところが玉置先生は、その後、この中から「自分なら絶対にしない」というものを(複数)選ぶように指示しました。これには意表を突かれました。「自分ならどうする?」では、他者の意見に、「それもあるかな」「自分はしないな」と第三者的に見てしまうところが、「絶対にしない」という条件を突きつけることで、否応なしに自分の立場をはっきりせざるを得なくしたのです。
子ども役に絶対取らない行動を選ばせた後、挙手で確認していきます。意見が分かれる行動がいくつかあります。玉置先生は「申し訳ないが自分に選ばせて」と「代わりの人に行ってもらう」という行動を取り上げて、「絶対にしない」理由を聞いていきました。「代わりはあり得ない」ときっぱりとした言葉が出てきます。「縁があって自分がやることを約束したのだから」といった意見を受けて、考えが変わったかどうか確認します。変わった子どもを評価し、子どもの考えを受容しながら他の意見も引き出します。意見に対して、「納得できる?」と全体に問いかけ、「代わりはあり得るのか、ありえないのか?」と焦点化していきます。こういうどの教科にも共通する授業技術もとても参考になります。
「約束は守れないことはある」「子どもはたださびしかっただけなんだから、その手品師でなくてもいい」といった意見も出てきます。玉置先生は、それぞれがよく考えていることを評価しどの考えも認めていくので、子ども役に迷いが出てきます。そのことが、結果として深く考えることにつながりました。意見がある程度出たところで、隣同士で意見交換させます。明確に意見が違っていたペアの一方を指名して、どんなことを話したかを聞きました。指名もその意図がはっきりしています。ここで時間となり、子ども役がいろいろな視点で話してくれたことを評価して授業は終わりました。

続いては、このセミナーの売りの一つの「深掘りトークセッション」(参加者の斎藤早苗さん命名)です。この授業についての進行役は私が務めました。新鮮な気持ちで考えようと指導案を見ていませんので、どのように進めていくかの方向性は事前に決めていません。いつものように、授業を見てのぶっつけ本番です(自分的は、このライブ感が楽しいのですが……)。
最初に、玉置先生にどこが挑戦だったのかを話していただきます。改訂学習指導要領の道徳の解説で、「・・・答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、 向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図るものである」とあるのを受けて、「考える道徳」、「議論する道徳」への挑戦ということです。子ども役が、「考え」「議論」したという点では満足のいくものだったが、時間もなかったので最後どのようにまとめていけばよかったのかを皆さんと考えたいということでした。パネラーは、伊藤彰敏先生(一宮市立尾西第一中学校教頭)、神戸和敏先生(授業と学び研究所フェロー)、野木森広先生(岩倉市立岩倉中学校校長)、和田裕枝(豊田市立小清水小学校校長)です(五十音順)。いずれも授業の達人として定評がある方ばかりです。何を振っても答えてくださるという方々なので、安心して進めることができます。
まずは、授業を見ての感想から聞いていきます。野木森先生は、このとりえる行動に対して「絶対やらない」ものに焦点を当てるという方法は、子どもが議論するにはよい方法だと評価しました。その上で、議論はしていたのだが、最後に何らかのまとめの場面をつくって道徳としてのねらいを押さえたいという意見です。この題材は「誠実」をテーマに授業をすることが多いのですが、確かにこの授業ではそこの部分がはっきりしないように思えます。続いての和田先生からは否定的な意見は出ませんでしたので、その次の伊藤先生はあえて飛ばして、神戸先生にお願いしました。神戸先生からは子どもが安心して自分の意見を話せるために使っていた玉置先生の授業技術に触れていただけました。若い先生とってはとても大切なことです。ここで伊藤先生に戻ります。伊藤先生は道徳の授業としてはこれではダメではないかと反対意見を出されました。肯定的な意見が続くと議論が深まらないので、反対意見がほしいという気持ちを伝えるために、最後に回したのですが、ちゃんと意図を汲んでくださいました。議論して互いの考えを知ったからといって道徳的に何が変わったのかはっきりしない。これでは道徳ではないという考えを示されました。玉置先生からは、子どもたちが先生の言ってほしいと思っていることを予想して、決められたゴールに向かっていくような道徳の授業が多い中で、こういった子どもたちが考え議論する授業は意味があるという主張を展開します。白熱した展開になります。玉置ゼミの学生も参加していましたが、日ごろと違う先生の姿にはびっくりしたかもしれません。別に事前に打ち合わせしていたわけではありませんが、皆さん役者なので盛り上げようとバトルを演出していたのです。
とはいえ、このままで終わるわけにはいきません。そろそろ着地点を探すことが必要です。模擬授業で玉置先生は意見が違うペアの一人を指名しましたが、そのもう一人の方に話し合った感想を聞くことにしました。考える、議論することを通じてどのような変容が起こったのかを知ることで、道徳としてどう進めていけばよいのかのヒントが出てくると思ったのです。出てきたのは、意見が違うことを否定的にとらえるのではなく「いろいろな考え方がある」という多様性を認める考えと、「行動が違っても、その底には同じ気持ちがある」という共感でした。期待以上の素晴らしい言葉が出てきました。まず前者に関連して、神戸先生に、「多様な考えを子どもたちから引き出すために、具体的にどのようなことを意識すればよいのか?」と質問しました。その前に和田先生に一言、「次、あてますからね」と声をかけておくのを忘れません。神戸先生から、日ごろから子どもたちが安心して発言できるために、教師が子どもの言葉を受容し、ペアやグループ活動を活かして子ども同士が互いの発言を認め合えるようにすることの大切さを説明していただきました。
さあ、ここで和田先生の出番です。ずばり、「この後、この授業をどう進めますか?」と聞きました。和田先生はその質問をしっかりと予想されていました。「やっぱり」と、「行動は違っても、手品を見せる約束した子どものことを思いやっていることが共通にあるので、そういった部分を子どもたちから引き出し、共有することで道徳としてのねらいにつなげることができる」と誰しもが納得する進め方を示していただけました。
「とりえる行動」を子どもたちからできるだけたくさん引き出し、それに対して「絶対しない」ことは何かと焦点化することで、子どもたちに当事者意識を持たせて議論を焦点化する。「考え」「議論」させることを通じて、多様な考え方の底に「共通」する、「誰もが大切にしていること」を引き出すことで道徳としての「ねらい」をクローズアップする。このような新しい道徳の授業の進め方を模擬授業とトークセッションを通じて提案することができたと思います。阿吽の呼吸で、私の意図を読んで対応してくださる先生方のおかげで、何とか私の役割は果たせたようです。

後で振り返ってみると、玉置先生が中途半端な形で授業を終えたのはこのようなトークセッションの展開を意図してのことだったと思います。見事に玉置先生の掌の上で泳がされていたようです。

この続きは、明日の日記で。

授業検討システムの改善点について検討

先週末、授業深掘りセミナーに先立って授業と学び研究所の会議が行われました。
授業深掘りセミナーの最終確認のあと、授業検討システムを使用しての感想や改善点について話し合いました。
私ともう一人のフェローが実際に使ってみて、共に、非常に可能性のあるシステムだという感想を持ちました。以前のシステムと比べてねらった場面をピンポイントで再生が可能で、その場面を見つけるのもずいぶんとやりやすくなりました。いろいろな面で使いやすくなったので、細かい点で、こうしてほしいという要望がたくさん出てきました。一つひとつは些細なことなのですが、そのちょっとしたことで使い勝手が大きく異なってきます。もともとは1時間の授業研究を意識してつくられたものを、今回、私たちが1時間にいくつもの授業を見るために利用したので、使い勝手で気になる点が出てきたのです。面白かったのが、私ともう一人のフェローの指摘がほとんど同じだったことです。利用目的が一緒だったこともありますが、きっと同じような視点で授業を見ているのだろうと思いました。

具体的にこうしてほしいという要望がありますが、それをそのまま実装してもらったからといってよいものになるわけではありません。なぜそのような要望を出すのかを開発担当者に伝えることで、逆にもっとよい提案していただけることもあります。そういったことを踏まえて、直接開発担当者と話をする機会を持つことになりました。今後こういった意見交換を繰り返すことで、よりよいものになっていくと思います。

私学で打合せ

私立の中高等学校で、打ち合わせと授業見学を行ってきました。

授業を見て感じるのは、子どもたちはわかるようになりたい、できるようになりたいと思っていることです。特に高校3年生は昨年の同時期と比べて、学習に前向きな子どもが多いように感じました。ただ一部の子どもは、やる気はあるのですが、やってもできないと自信ややる気を失くしてしまっているようです。教科によっては、最初からあきらめている子どもが目立つことが気になります。入学した時点で既に苦手意識を持っている子どももいます。この子どもたちに気持ちをリセットさせることが大切だと思います。今年度入学の高校1年生には中学校の内容を含めて基礎の徹底を図っています。このことが上手く機能してくれるとうれしいのですが。

何人かの先生から学校の現状と対策について意見をうかがいました。大学入試の改革が視野に入ってきました。子どもたちに求められる力が変化してきていますが、一部の先生を除いてそれに対応していこうという積極的な動きが見られません。全体の流れが見えてから対応しようとしても、それまでにベースとなるものを培っていないのですぐにはできません。具体的にどうすればいいのかはっきりしたものが見えなくても、目指すべき目標に向かって進んでいこうとすることが大切です。子どもたちに求められる資質・能力を意識した授業へと改善していこうという気持ちになってほしいと思います。
次回の訪問時に、希望者を対象にこういった新しい動きとそれに対応して具体的にどのように授業をつくっていくのかについてお話させていただくことにしました。子どもたちがどのように育っていくのかがわかるような授業の映像を準備したいと思います。

今年度実施の授業評価についても打ち合わせを行いました。これについては、しばらくは経年変化を見るために項目を固定することになりました。学年ごとに昨年との比較をすることでいろいろなことが見えてくるのではないかと期待しています。

授業改善へのエネルギーを感じる

昨日の日記の続きです。

3年生の若手の英語は、教科書のまとめの問題に取り組んでいる場面でした。本文の内容をもとに英文の質問に答える問題を、個人でノートにやっています。早い子どもは次の作業が指示されているので時間をムダにはしていません。子ども同士聞き合っている姿も見られ、よい場面に見えますが、どうにも気になります。本文の内容を理解していれば答えられる問題ですが、逆に言えば教科書の本文の該当箇所を見て写せばそれで解答できてしまいます。学習した英語を使えるようにするためには、本文を見ないで即答させることの方が有効だと思います。このことを授業者に伝えました。授業者もそういった疑問は持っていたようです。質問を授業者が英語で問いかけ、全体や個人で何度か答えさせてそれをノートに書く。こういった活動に変えると時間のムダも減って、密度の濃い活動になると思いました。

1年生の若手の英語は、工夫がたくさんありました。
フラッシュカードを使って英文を読ませます。復習なのでしょう、子どもたちだけで読ませます。リピートの場面では、発音をていねいに指導しています。ねらいがよくわかります。
教科書の文章の内容が描かれた1枚の絵を使って、その状況を英語で話させます。”situation”を英語に直すことを意識して授業が組み立てられています。残念だったのが、全員が反応できていないのに次に進んでしまうことです。個別に指名して確認したり、もう一度全員に言わせたりといったことが必要でしょう。また、フラッシュカードや絵を持った時に視線が正面に固定される癖があることも気になりました。全体の反応を見ながら進めることができるともっとよくなるでしょう。
各場面で子どもたちに何を求めているかが明確になってきました。同じ学年担当同士で、いろいろと工夫しながら授業づくりをしています。チームワークのよさを感じます。英語科は若手が多いのですが、こうやって互いに学び合うことがとても大切です。この半年でずいぶんよい方向に変化していると思います。これからの成長が楽しみです。

2年目の英語の先生の授業研究は、三人称単数現在の”s”の定着場面でした。絵を見せてその場面を英語で言わせます。指名した子どもが答を言った後、全員に言わせます。間違えた時も自分で正解を言わずに、他の子どもを指名して答を聞かせ自分で修正する機会を与えます。子どもたちが、友だちの発言を一語一語うなずきながら聞いていました。集中度の高さを感じます。
授業者が全員できるようになってほしいと強く願っていることがよくわかります。力のない子どもも指名します。答えられなくても他の子どもや全体で言わせることで、自分で修正できるのを待っています。授業研究などでは答えられない子どもはあえて指名しないこともよくあるのですが、授業者はそのようなことを全く考えていないようでした。子どもたちに対する誠実さを感じます。教師として一番大切な資質を持っているように思います。ただ、残念だったのが、できない子どもを何度も指名しすぎたことです。もう少し間を開けて、同じ内容の確認を別の場面で行うといったやり方もあります。できない子どもを意識過ぎて、他の子どもたちがその子どものための活動場面のように感じることも心配です。
グループでの活動場面で、ちょっと落ち着きのない子どもが間違ったことを言っているグループがありました。その子どもには困らされていることもよくありそうでしたが、子どもたちは一所懸命に声をかけ、間違いを直させようとしていました。よい学級がつくられていると感じました。
まだ、2年目の先生ですが、会うたびに何かしらの進歩を感じさせてくれます。今後の成長が本当に楽しみです。

3年生の数学は変化の割合の場面でした。前回授業を見てほしいと声をかけてくれた若手の授業を中心に見せていただきました。
一言で言うと、何を押さえたいか、大切にしたいかがわからなくなっていました。その迷いが授業に出ています。余裕が無くなっています。
1次関数を使って変化の割合の復習をします。「変化の割合を表わしているのは何か?」と子どもたちに聞きます。傾きと比例定数という言葉がでてきました。比例定数は間違いなので授業者は修正しようとします。どういうことか聞き返し、”a”という言葉を引き出しますが、そのあとy=ax+bのaであると確認して、これは比例定数ではなく傾きだと説明してしまいました。間違えた子どもは、1次関数の「比例部分」という言葉が印象に残っていたので、比例定数という言葉を使ったのでしょう。であれば、「比例部分の定数のことを言ったんだね。1次関数ではこのことをなんて言ったっけ?」と本人に修正させたいところでした。
子どもの言葉を受け止めて、うまく返すこともできるようになっていたのですが、この日は自分で説明してしまっていました。
変化の割合を定義した後、y=x2で変化の割合を、表を使って考えます。増分を1にして確かめますが、割合だからxの増分で割ることを確認しなければいけません。しかし、xの増分が1だからと、何も言わずにyの増分だけに注目しました。次の例題は増分が1ではありません。今度は定義からxの増分で割らなければいけないと説明します。一部の子どもが、モヤモヤした表情を見せていました。
変化の割合が一定でないことを押さえるだけで、これが何を意味しているかは押さえません。グラフ上の点を結んでその2点間の傾きを意識させる図を描きますが、その図と変化の割合の関係を押さえることをしません。変化の割合が増えるとその線分を延長した直線よりもグラフは上になります。変化の割合が増えていくということは、どんどん上に向かって急なグラフになるということです(x>0で考えていた)。これは、前にやったy=x2のグラフの特徴を説明するものです。こういったところを押さえなければ、子どもたちは何で変化の割合を調べるのかわかりません。変化の割合からグラフの概形がわかることは、高等学校で学習する微分にもつながる大切なことです。
授業者はこの日の授業を、子どもたちが全く考えていない授業だったと、自ら振り返っていました。自分でもモヤモヤしていると素直に本音を語ってくれました。ある程度子どもたちとやりとりができるようになって、その後少し成長が止まっていました。しかし、じぶんで壁に気づいてくれました。教材研究が不足していることが一番の原因ですが、子どもの姿からそのことに気づいてくれました。自らその壁を壊そうと動き出したのです。このことはとてもうれしいことです。毎回私が教材の解説をするわけにはいきません。自分で何とかしていかなくてはなりません。しかし、頼りになるベテランもこの学校にはいます。自分で勉強し、わからないことは同僚に聞く。この姿勢を大切にするように伝えました。すぐに結果がついてくるとは言えません。遅々とした歩みになるかもしれませんが、前に進み続ければいつか必ず目的地に着くはずです。まずは、次の成長への第一歩を踏み出したことを喜びたいと思います。

2年生の数学は方程式のグラフと連立方程式の関係の場面でした。
1次方程式のグラフをかくのに、yについて解いていました。そのことの意味は少なくとも板書には押さえていませんでした。1次式だから1次関数と見ることができるということが大切です。もっと言うと1次方程式のグラフは直線であることをきちんと押さえれば、グラフのかき方はもっとシンプルにできます。また、方程式のグラフは解の集まりであることをどこにも押さえていません。「方程式のグラフの通る点=方程式の解(を座標とする)」を明確にし、連立方程式の解は「同時に成り立つ」解と合わせて、グラフの交点という関係を整理しなければいけません。
根本的なところを整理せずに、問題を解いていては色々なことが出てきてわけがわからないということになってしまいます。子どもたちが関数に苦手意識を持ってしまうのです。他の単元で学習したことを関数的な視点で整理し直すということをもっと大切にしてほしいとおもいます。

特別支援学級の授業は国語の授業でした。
6人ほどが同じ内容を学習しています。特別支援でこの人数を同時に教える場面を見ることはあまりありません。子どもたちの関係も含めて興味を持って見ました。友だちとかかわったり、フォローできたりする子どももいます。こういった子どもが活躍している場面を見ることができました。もちろんコミュニケーションを上手く取れない子どももいます。そういう子どもを中心に授業者は支援していきます。授業者は子どもに寄り添うように接していますが、その間、課題ができた子どもは手持ち無沙汰です。学力差があるので仕方がないのですが、個別に追加の課題を準備できるとよいように思いました。

この日も、授業に前向きに取り組んでいる先生方の姿をたくさん見ることができました。若い先生を中心に授業をよくしようというエネルギーを感じることができることは本当に幸せなことです。このエネルギーを授業の進歩、子どもたちの成長という結果に変えるお手伝いをすることが私の役割です。そのような機会をいただいていることをとてもうれしく思います。

保健と体育の授業で考える

中学校で授業アドバイスを行ってきました。
学校の様子は、1年生については前回と比べて大きな変化は感じませんでしたが、3年生の教室では落ちつきが少し増しているように感じました。2年生は授業者による態度の変化が小さくなっていたように感じました。少し見ただけなので何とも言えませんが、何か変化するきっかけがあったのかもしれません。次回訪問時にじっくり見て見たいと思います。

この日は保健・体育の授業をたくさん見せていただきました。体育はどの授業でも子どもたちの集団行動がしっかりできていると感じました。授業者は座っている子どもに対して目線を下げて、視線を合わせることを意識しています。こういったことが子どもたちとの関係にもよい影響を与えていると思いました。

1年生男子のハンドボールの授業は全員がシュートを打つという目標で、オフェンスチームとディフェンスチームに分かれての練習でした。目標はわかりやすかったのですが、子どもたちがその目標を達成するためにどのようなことに注意をすればいいのか、意識できていません。「前が空いていてすぐにシュートができる状態であれば、パスを求める」「ボールを持っていない者が、パスの指示をする」といった場面が見られませんでした。球技ではボールを持っていない時の動きが大切ですが、ボールを持ってから次のプレーを考えています。どこかで指導するとよいでしょう。チームごとに作戦会議の時間があるのですが、中にはすぐに終わって遊んでいるチームもありました。考える糸口がないのかもしれません。「シュートにつながるパス」「指示の声をだす」といった、子どもたちに意識してほしい行動を目標に組み込むことも必要かもしれません。
また、授業の最初にウォームアップもかねてパスの練習をしていましたが、きちんとできていない子どもがたくさんいました。最初にパスの指導をした時にはポイントを押さえていたと思いますが、定着していないようです。例え以前に指導したことでも、定着するまで毎回確認をすることが必要です。
振り返りを授業の最後に個人個人で書かせますが、団体競技なのでチームとしての振り返りが必要です。チームとしてこの時間でできるようになったこと、次回にできるようになりたい目標などを書かせることで、授業者も次の時間の構想を立てやすくなるはずです。

1年生の女子のサッカーの授業は、初めてのゲーム形式の練習でした。身体接触のあるサッカーを女子は嫌うそうです。しかし、シュートを決めた時の喜びようを見ると、達成感を持たせることで、好きになるのではないかと思いました。1時間の授業が終わった時に進歩したと実感できるようにすることが大切です。そのためには達成したかどうかがわかりやすい目標設定と、達成するために具体的にどのようなことを意識すればよいのかを明確にすることが求められます。
授業者は子どもたちを集めてポイントの説明をしていますが、言葉による説明が主になっていました。身体的な動きを言葉で説明されても、その競技に精通して技術が身についてこないと、理解することができません。一部の子どもたちの頭が下がってきます。ところが、授業者が実際に動いて見せるとすぐに顔が上がります。視覚的な要素が大切になることがよくわかります。位置取りの説明であればホワイトボードを使って見せる。体を使った動きなら、子どもを前に出させてやらせてみる。そういうことが大切になります。
インターバルにチームでうまくできたことや反省点を話しますが、なかなか言葉が出てきません。プレーに一生懸命で客観的に見ることができていないのでしょう。シュートをどれだけ打ったかの記録をとる係が各チームに2人います。シュートのチェックはしているのですが、相手チームが攻めている時はすることがないのでボーっとしたり雑談をしたりしています。ゲームでのチェックポイントを意識して観察させ、仲間にアドバイスをする役割を持たせるとよかったでしょう。チェックシートをつくっておくのも一つの方法です。
ボールを奪う練習を鬼ごっこの形式でやったりボールを使わずに動きの練習をしたりと、基礎的な練習にも工夫がみられましたが、男子のハンドボールと同じく基本的なことが定着していません。ドリブルもパスもトーキックが主体で、インサイドキックやインスッテプキックを使い分けることができません。女子にとっては難しいことなのでしょうが、こういったことを意識させないと結局ゲームを楽しむこともできなくなります。子ども同士で指摘し合えるような工夫がほしいところでした。

2年生の男子のダンスの授業は、とても興味深いものでした。
体育でのダンスの主流はヒップホップになっています。男子でも楽しく踊れるものです。子どもたちは横何列かで向き合って踊っているのですが、一生懸命に体を動かし、友だちと動きが上手く合った時などはとてもうれしそうにしています。
この時間は次時以降で行う創作を意識して、ダンスバトルを取り入れていました。2人が向き合って交互に相手の方に進んで自由にいろいろな動きをするというやり方でした。いろいろな動きをすることが創作につながるというわけです。子どもを1人前に出して、授業者と2人で実際にやって見せます。子どもたちは楽しそうにかつ真剣にその様子を見ています。代表の子どもが授業者の動きに対してなかなか見事に切り返すので、子どもたちはやってみたいという気持ちになったようです。上手く子どもたちに意欲を持たせることができました。
全員でダンスバトルに挑戦する前に、今までやってきた動きを上手く使うことを意識させましたが、実際にやってみると、子どもたちは、基本的な体をゆする動きを交互に繰り返すだけで、なかなか他の動きをすることができません。今までやってきた動きをするといってもとっさには出てこないものなのです。ちょっと時間はかかりますが、ダンスバトルを始める前に今までやってきた動きを実際にやって見せることが必要だったようです。
体育に限らず、それまで学習してきたことはできる前提で授業を進めることが多いのですが、授業者が思っているほど定着していないものです。次の活動に必要なことは実際にやって見せるなどの確認が必要になるのです。とはいえ、どの子も一生懸命にダンスバトルに取り組んでいました。とてもよい姿を見ることができました。

2年生の女子の保健は2学級に分かれ、若手2人がそれぞれ授業を行なっていました。環境問題で3R(Reduce Reuse Recycle)について考える授業でした。
どちらの学級も授業規律は良好です。子どもたちにごみ(廃棄物)の種類を考えさせましたが、これに時間をかけることにあまり意味はありません。考える問題というよりも知識の問題だからです。子どもたちに活動をさせたかったのであれば、調べる活動にすべきだったでしょう。授業者は2人とも手元に板書計画を持って授業をしていました。板書には3Rの説明が書かれています。しかしこの授業では環境問題に対する対策として3Rを教えることよりも、自分たちにどのようなことができるかを考えさせることの方が大切です。資料をもとに、どのような対策をとればいいのかを考えるのです。「ごみの量」「ごみ処理場の数」「不法投棄の件数」などの年度ごとの変化がわかるグラフを準備するとよかったでしょう。「人口は増えていないのにごみが増えているのはどういうことか?」といった疑問を持たせながら、原因と対策を考えるのです。3Rが直接出てくるかどうかはわかりませんが、子どもたちの考えを整理し分類しながら、それらを「リデュース」「リユース」「リサイクル」と言うことを教えればいいのです。板書計画は立てることはとてもよいことですが、板書する内容を教えるのではなく、子どもから出させることを意識してほしいと思いました。

他の授業については明日の日記で。

社会科の授業力を高めるための講演

市の社会科の研究発表会で講演を行ってきました。私の講演の前に若手の研究発表が2つありました。どちらも子どもたちを主体的に活動させたいという意欲を感じる取り組みでした。子どもたちに自主的に取り組ませるためには、課題や資料をどのようなものにするかがとても大切になります。2つの発表からいくつかのヒントをいただけました。ありがたいことです。

私の講演は、「授業力を高めるために意識したいことは何か」という題で社会科の授業で大切にしてもらいたいことについて、今後の教育課程の動きと具体的に社会科としてはどのようなことを考えればよいのかについてお話ししました。
最初に、教科を越えて今後子どもたちつけるべき「資質・能力」について、中教審関係の資料をもとに説明しました。一部の社会科の授業では知識を教えることが主体となっていますが、そうではなく主体的に課題を見つけ、協働的に課題を解決する力や学んだ知識を活用する力をつけることが求められています。アクティブ・ラーニングもそのための手段です。そのことを前提としたうえで、社会科の視点として「事実を手掛かりに考える」「史実を手掛かりに考える」「自分たちの生活から考える」「因果を考える」といったことを意識してほしいことを伝えました。
社会科を通じて身につけさせてほしい「資質・能力」に関連して、「資料を見る力」「資料を活用する力」について、「気づいたこと」といった発問では子どもたちは考えられないことや資料の活用には「見つける」「読み取る」「資料をもとに考える」という3つのステップを意識する必要があることをお伝えしました。
また、子どもたちが主体的に考えるためには、ただ「考えよう」といった課題や資料を調べてまとめるといった活動ではなく、考えなければいけないような仕掛けを組み込むことが必要です。資料を探せば答が見つかるものではなく、「もし、○○がなければ?」「○○が起こらなければ?」といった資料には絶対ないことを問うのも一つの方法です。
また、子どもに疑問を持たせるために、演繹と帰納の2つの考え方を使うとよいでしょう。例えば米作りに関する授業であれば、「米作りに適した地理的条件を考えさせ、米作りが盛んなところを予想させて、実際との違いに疑問を持たせる」という演繹的な進め方と、「米作りの盛んなところを調べて、そこから米作りに適して地理的条件を考えさせる」という帰納的な進め方があります。米が本来温かいところでの耕作に適していることと、実体の違いに子どもたち自身で気づくことで、主体的に課題を見つけてくれると思います。
地理的分野であれば「人の営みと地理的な要素の関係を考える」、歴史的分野であれば「歴史的な事件や事実をつながりとしてとらえる」、公民的分野であれば「総合的・多面的にとらえる」といった視点で考えると、課題を作りやすいと思います。

子どもたちの活動の結果で共有すべきことは、結論や結果ではなく、その「過程」や「根拠」であることを強調させていただきました。特に「課程」はメタな技能としてつけてほしい力の大切な一つです。また、教師が結論を板書でまとめると、子どもたちは結局教師の答を正解として受け止めてしまします。教師の求める答探しをし始めるのです。自分の考えで答を見つけるためにも、まとめは子ども自身で行わせる必要があります。このことも強くお願いしました。

与えられた時間を勘違いしていたため駆け足でのお話になってしまい、話が散漫になってしまいました。申し訳ないことをしました。
教科についてのお話を依頼されることはあまり多くないので、私にとってはとてもよい学びの機会となりました。このような機会をいただけたことを感謝します。
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