教科の根っこをしっかりと押さえることの大切さを感じた授業

小学校で授業アドバイスを行ってきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は4人の若手の授業アドバイスと全体に対してお話をさせていただきました。

4年生の理科の授業は、空気の圧縮の実験でした。
前時は空気鉄砲の実験でした。復習から授業は始まります。空気鉄砲で、前の玉が飛ぶ理由を子どもに確認します。指名された子どもの説明を他の子どもがうなずいて反応します。よい姿です。しかし、授業者は子どもの発言や聞く態度を評価せずにすぐに自分で説明をします。子どもたちはよく育っていますが、授業者は余裕がなかったようです。
授業者は続いてすぐに、「閉じ込めた空気に力を加えると、空気の体積と手ごたえはどうなるか」というこの日の課題を示します。子どもたちにとっては、特に疑問を感じていることでもありません。これでは子どもの課題になりません。「空気鉄砲の玉の出口を押さえたらどうなると思う?」と問いかけたりして疑問を持たせてから、課題につなげたいところです。

授業者は注射器の口をふさいでピストンを押し込む実験の手順の説明に入りましたが、子どもは実験の必然性がないまま、作業の指示を聞くことになります。
子どもたちに実験の結果を予想させます。これはとてもよいことなのですが、子どもたちに明確な根拠はありません。予想なのであまり時間をかける意味はないのですが、グループで話し合わせます。グループはほとんどが5人です。見ているとどうしても端の子どもが1人参加できなかったり、2人と3人に分かれてしまったりしています。5人でのグループは子どもでは難しいようです。
子どもの予想は、感覚的なものと数値で示すものに分かれます。「何目盛りというと、わかりやすいね。誰にでもよくわかるね」というように、その違いを評価し価値付けすることが大切です。

実験後子どもたちに結果を聞きます。子どもからは色々な表現が出てきます。一人ひとりの発言をしっかりと受け止めるのですが、それを深めたり広げたりする場面がありません。同じような結果を何人にも言わせたり、意見が分かれた場合は、もう一度実験して確認したりする必要があります。そういった場面がないのです。子どもの意見に対して、授業者がすぐに説明をします。
手を放してピストンが元のところより少し手前までしか戻らないという意見と元に戻るという意見があった時に、すぐに「誤差」という子どもがいました。理科では「誤差」の概念は大切ですが、簡単に「誤差」で切り捨てることは危険です。戻る時は誤差と言えますが、押し込める量の違いは「誤差」ではなく、加える圧力の違いです。「なぜ誤差だと思った?」と「誤差」がどうかの判断をする場面もつくりたかったところです。また、子どもの「手ごたえが重くなる」という表現を授業者が「固くなる」と言いかえました。ここは、何人かの子どもに発言させて、子どもからよい言葉を引き出したいところです。

グループで実験の結果を書く作業をさせます。その時、結果の書き方のポイントを授業者が一方的にしゃべります。以前にもこういった機会はあったはずですから、「何が大切だった?」「何に注意する?」と子どもたちに問いかけて、子どもに言わせたいところです。
まとめを書く子どもは限定されています。中にはその作業に参加しない子どももいます。子どもたちはあまり考えずに作業をしているので、テンションが上がっていきます。また、グループでまとめてしまうと、結果の違いが埋もれてしまいます。大切なのは違いがなぜ起こるのかを考え、場合によってはもう一度実験して確かめることです。

各グループの代表の発表では、足りない言葉を足す場面や、同じ結果になったのかを全体に確認する場面がありません。子どもの活動に対する価値付けや評価、共有がないのです。
発表の後で、「何か気づくことはありませんか?」と問いかけますが、子どもたちはこれまで何も考えずにただ実験していただけです。実験することがこの日の目標になっていました。すぐに答えられるはずはありません。挙手は一人だけです。せめて先ほどのグループ活動の時に課題として与えておけば、また違ったと思います。
「空気は中身があるの?」という質問に、「空気の限界までいった」というつぶやきが聞こえてきました。面白い発想ですが、授業者は拾うことができませんでした。そもそも授業者は何を根拠として「空気に中身があるかどうか」を説明するつもりだったのでしょうか?子どもが課題を解決するために必要なことやステップが意識できていませんでした。そのため、子どもの言葉を拾って、考えをつなげていくことができません。「空気は中身があるのか?」がこの日の課題であれば、最初に提示して予想させ、どのような実験をすればわかるのかから考えさせるべきだったでしょう?

最後に、中に空気の入った星形の樹脂?を注射器に入れ「星の大きさが変わります」とピストンを引いてみせます。星が大きくなるのを見て子どもたちが興味を示します。この日一番子どもたちが意欲的になった場面でした。子どもたちは勇んで自分の道具で実験をしました。しかし、なぜ最後にこの実験をしたのか子どもたちにはわかりません。せめて、星形の樹脂が力を加えると変形することを見せておく必要があったでしょう。押すと縮む、引っぱると伸びることを確認してから、「どうなると思う?」とこの日の実験結果から予想させたいところでした。

授業者は、子どもたちを受容しよい関係をつくれています。学級の雰囲気もとてもよいと思います。次の課題は、「子どもの発言や活動をどう評価、価値付けするか」「子どもの考えを子どもに返しながらどう深め、つなげ、広げていくのか」ということです。
今回の授業では、理科としてこの単元で何を子どもたち考えさせるのか、どのような理科的なものの見方・考え方を身につけさせるのかといった、教材研究や単元観がしっかりしていませんでした。もっと言うと、理科はどういう教科なのかがわかっていないということです。これはこの授業者に限ったことではありません。小学校の教師は全教科を一人で教えるのでとてもたいへんだと思います。だからこそ、その根っこの部分をしっかりと意識して授業に臨んでほしいと思います。
授業者は基礎的な力はついてきていると思います。だからこそ、より高度なことが求められるのです。これからの成長に期待したいと思います。

この続きは次回の日記で。

愛される学校づくり研究会で考える

先日、愛される学校づくり研究会がありました。

第一部は2月6日(土)に開かれる「愛される学校づくりフォーラム 2016 in東京」の午前の部に関連して“「チーム学校」で示された地域連携担当は何をすべきか”というテーマで3人の地域コーディネーター経験者のお話をうかがい、それをもとに会員で話し合いました。
改正された教育基本法の、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」を具体化するために、学校・家庭・地域が一体となって地域ぐるみで子どもを育てる体制として、学校支援地域本部が設置され、地域とのパイプ役として学校に地域連携担当の職員を置くことが求められます。今回は、地域コーディネーターの側から見た学校との連携の問題をきっかけに、本音の意見が飛び交いました。
「学校側は窓口になる先生以外、地域との連携に積極的であるように思えない」「学校によっては地域とのかかわりを求めていない」「地域が何を協力しているのか、どんな活動が行われているのか、知らない、興味を持たない先生が多い」という意見が出されます。「ボランティアに『ごくろうさん』という声かけがされる。『ありがとう』という感謝の気持ちが感じられない。そもそも、助けてもらっているという感覚はあるのだろうか?」と学校はボランティアが助けてくれて当たり前と思っているのではないかという指摘もあります。「学校だから、子どもたちのためだから、ボランティアは協力するのだ」という意見を、学校は重く受け止める必要があると思いました。
一方、会員の学校では地域の協力で助かっているという声がたくさん聞かれました。立場上地域とかかわる方が多いからでしょう。私個人としては、地域の方がどのように感じているのかが気になります。子どものために学校に協力しているのですが、それに対してきちんとフィードバックがされているのでしょうか?学校からお願いされるばかりで、自分たちの思いが実現できているのでしょうか?一方の学校は、本当に地域の方と協力したいと思っているのでしょうか?学校は地域の思いの上に成り立つべき存在であると学校の教職員が思わなければ、担当職員をおいても地域連携は進まないと思います。
体制整えるばかりではなく、学校側の意識を変えることが重要なカギになると強く思いました。

第二部は、会員の推薦の方に模擬授業をしていただき、授業検討を行いました。こちらもフォーラム関連して、午後の部の進行のリハーサル的な要素もありました。
授業は小学校一年生の道徳です。「はしのうえのおおかみ」という話をもとに、親切について考える授業でした。
冒頭に親切という言葉を取り上げます。優しくされた経験について問いかけます。低学年なのでこれもいいように思いますが、最初にどんな話か、何について考えるかがわかると子どもは最初からそのように思って授業を受けます。子どもたちの思考を誘導してしまう心配があります。
授業者は、表情豊かでとても受容的です。子ども役の大人でもすぐに惹きつけられます。
ペープサート(紙の人形劇 Paper Puppet Theater)でお話を見せます。オオカミが一匹しか通れない狭い橋の上で出会ったウサギを追い返して、いい気持ちになります。それが面白くて、タヌキやキツネといろいろな動物を追い返して意地悪をします。ある日、クマと出会い、自分ではかなわないと引き返そうとしますが、クマがオオカミを抱きかかえて橋の上でぐるりと回転してうまくすれ違うことができました。オオカミは次にウサギに出会った時にクマと同じようにして、いい気持ちになりました。
話し方も上手で、演じている間も子ども役から視線が離れません。日ごろから子どもをよく見ていることがわかります。

登場した動物を確認します。指名した子ども役が答えると「よく覚えていましたね」と必ず受容や称賛の言葉を返します。その言葉も多彩です。この先生の学級は暖かい雰囲気だろうと想像がつきます。ただ、一問一答形式になるきらいがあります。実際の子どもであれば、「先生大好き」「先生聞いて」という気持ちが強くなり、先生と子どもの関係が強くなりすぎる可能性があります。場面にもよりますが、他の子どもに同意を求めることや同じ考えでも言葉にさせることをしないと、子ども同士のかかわりができなくなる心配があります。

「おおかみさんを中心に考えてもらいます」と宣言します。ちょっと唐突な気がしました。あえて、オオカミを中心に考えることを宣言しなくても、そのままオオカミの気持ちを問いかけていけばよかったように思います。大人だったせいもあったのでしょうが、一瞬子ども役が戸惑ったというか、身構えたようになったような気がしました。
子ども役にウサギを追い返したときのオオカミの気持ちを問いかけます。子ども役からの意見をなるほどとしっかりと受容し、時には聞き返して言葉を足させます。個への対応としては素晴らしいのですが、やはり授業者一人ですべてを受けてしまいます。子どもの意見を先生が説明する場面もありました。「似た意見の人いる?」「同じように考えた人?」とつないであげるとよいと思います。「先生に聞いてもらいたい」から「友だちに聞いてもらいたい」に変えていくことが必要です。子ども役の先生方も、発表者の方を向かなくなりました。授業者が中心となっているからです。

オオカミがクマと出会ったときの気持ちを問いかけます。子ども役からは、「強そう、まずいな」という意見が出ます。授業者は、板書する時に「まずいな」を落としました。ここは、何がまずいのかを確認したいところでした。
続いて、クマに親切にされた時の気持ちを答えてもらいます。子ども役からは、「きゅ〜んとした」「渡れてうれしい」「くまさんはやさしいな」といった言葉が出てきます。ここで授業者は子どもたちからどんな気持ちを引き出し共有したかったのかがよくわかりませんでした。ここは、「きゅ〜んとしたって気持ちわかる?何にきゅ〜んとしたんだろうね?」「○○さんは、くまさんのことをやさしいと思ったんだ。他の人はどう思ったと思う?○○さんと同じ?」というように「親切にされたオオカミがどのように感じたのか?」「クマに対してどのような気持ちになったのか?」を子どもの意見をつなぎながら焦点化したかったところでした。

クマと同じようにしてウサギを通してあげた時のオオカミとウサギの気持ちを聞いていきます。ここでも、子ども役の意見を「素敵な意見」と上手に評価する場面がありました。よい雰囲気で、子ども役の意見を聞きだすことができます。ただ、この時間で子どもたちがどのような変容をするのかを考えてみると、この教材に最初に触れて感じた以上に深まる場面があまりなかったように感じました。「親切にされるとうれしい」「親切にすると気持ちがいい」と強く感じる場面がほしかったように思います。
オオカミがクマと出会うところでいったん話を止めて、「ここでオオカミはどんな気持ちでどう行動するだろうか?」ということをたくさん言わせるというやり方もあると思います。「どうしてそう思のか?」といったことも聞けるとよいでしょう。自分が意地悪していい気持ちになったとことと関連づけておくと、クマの対応から、親切にすると自分も相手も気持ちがよいことに気づいてくれると思います。ただ、一つ間違えると、「くまさん賢い」「そういう手があったのか」と違う方向に行ってしまう可能性もあります。そんな時は「くまさんに出会う前にこのやり方に気づいたとして、おおかみさんはそのように行動しただろうか?」と切り返すといったことが必要になるでしょう。このあたりは難しいところだとは思います。

「親切にしてよかったなあ」と思ったことを子ども役に言わせます。過去に親切にしてよかったという経験がない子どもにとっては、なかなか厳しい問いかけになります。道徳では、過去のことよりもこれからどのように行動するかを大切にするとよいと思います。親切という言葉ではなく、「人にどんなことをすると気持ちがいいかな?相手も気持ちがいいと思ってくれるかな?」と子どもたちに考えたり言わせたりして終わるというやり方もあるでしょう。
最後に、一人ひとりのよい行動をほめるカードを全員に配って終わります。授業者の人柄を感じることができるとても素敵な授業でした。ただ、こういったことがすべて授業者と子どもたち一人ひとりとの関係を強化することにつながり、相対的に子ども同士のかかわりが弱くなることが気になります。低学年では、教師が中心になって子どもをコントロールすることが必要な場面が多いのですが、子ども同士のかかわりもバランスよく授業に組み込んでほしいと思いました。

検討会は、検討する授業の質が高かったので学びの多いものになったと思います。それと同時に、道徳の難しさも考えさせられました。また、フォーラムでは参加者は見ているだけになりますので、その方々に満足していただけるために検討会をどのように進めるとよいのか、当日使用する授業検討システムの活かし方を含めてコーディネーター役の先生は悩むことになると思います。きっと工夫が感じられるものになると期待しています。
「愛される学校づくり研究会」は、2月のフォーラムに向けての動きが加速しています。詳細は12月に発表できると思います。毎年楽しみにしてくださっている方、もうしばらくお待ちください。

授業への思いと現実の差をどう埋めるのか考える

前回の日記の続きです。

初任者の数学の授業研究は多角形の内角の和の公式の問題でした。授業者がしゃべりすぎて子どもの活躍場面が少ないという前回の私の指摘を意識した指導案でした。

まずこの日の学習に必要なことを復習します。三角形の内角の和を確認し、内角はどこかも押さえました。しかし、すぐの自分で説明してしまうのが残念でした。四角形の定義も確認しますが、角が4つ、辺も4つと説明します。定義と性質、角や辺といった用語がきちんと整理されていません。授業者自身がこういうことをきちんと意識する必要があります。この日の授業で利用する性質、内角の和がそれぞれ180°、360°であることを確認しますが、「いつでも」「どんな」といったことを押さえません。三角形の内角の和が180°であることが、「いつでも」成り立つ、「どんな」三角形でも言えるのかを問いかけて、子どもたちにこのことを常に意識させることが必要です。
子どもたちから言葉を引き出さそうと問いかけてはいるのですが、挙手する子どもとだけで進んでいきます。一部の子どもの顔が上がりません。この場面は自分が参加しても困らないと考えているようです。授業者が発言を受けてすぐに説明するのではなく、他の子どもにつなぐことが必要です。

四角形の内角の和が360°であることの説明を子どもたちに確認します。この時、「三角形の内角の和が180°を使っていたね」と一番肝心のところを自分で言ってしまいます。ここは「どうやったら説明できる?何を使う?」と子どもたちに問いかけ、反応が少ないようであればまわりと確認させるといったことが必要です。
ここで、「角が1個増えた」というつぶやきがありました。授業者は上手くひろえませんでしたが、これを取り上げても面白かったでしょう。「三角形の角を一つ増やして、四角形にしてみて。内角の和はどうなった?」と作業をさせると、角が一つ増えると内角が三角形一つ分増えることに気づくことができるはずです。
授業者は対角線を引くという考えを受けて、「どういう線?」と問い返します。用語の確認をするのはよいことです。その後、「例えば?」と子どもに図に書き込ませました。内角の和を考えるのに対角線を引いた図を示すのはよいのですが、対角線の定義はそれでは明確になりません。きちんと定義の確認をすることは必要でしょう。面白かったのが、指名された子どもが前で線を引く場面では顔が下がっていた子どもの顔が上がったことです。子どもの活躍場面を増やすことが、他の子どもの参加も促すことになることがわかります。

多角形の内角の和を考えようという課題を提示したあと、どうやって調べればいいかを問いかけます。まずしなければいけないのは、五角形や六角形でも内角の和はいつも一定かどうかの確認です。そうしなければ、一つ調べればよいということになってしまいます。子どもたちからは出ませんでしたが、分度器で測るといった考えが出てきた時に、一般化の必要性につなげることができません。
授業者は五角形に切り取った紙を何枚か用意して配り、「各頂点で折り曲げて」と考え方を指定しました。「頂点で折り曲げる」という方針についてはきちんと共有していません。授業者が一方的に指示してしまっています。子どもに考えさせたい、活動させたいと思っているのですが、教師のねらっている考えに最初から誘導してしまっています。子どもから出てきたものを価値付けしながら焦点化したいところです。初任者なのでまだまだ仕方がないのですが、このことを意識してほしいと思います。また、五角形も同じものばかりなのが気になります。何種類か用意できるとよかったでしょう。
知っている子どもたちは、内角の和が540°になることをすぐに確認して動きが止まってしまいます。できるだけたくさんの考え方を見つける、誰もやらないような折り方といった条件を付加することも必要でしょう。

子どものかいた「一つの対角線で四角形と三角形に分けた」「一つの頂点から引いたすべての対角線で三角形に分けた」「五角形の内部で交差する2つの対角線で四角形と三角形に分けた」図を黒板に示して、すぐに本人に計算式を言わせます。ここで大切なのは、五角形の内角がどこにあって、それらの「和」がどのような角を合わせたものかを明確にすることです。ここをしっかりと押さえずに、計算式を言わせてもあまり意味はありません。「360+180」であれば、360°と180°がそれぞれ図のどこの角の和となっているのかを押さえる必要があります。計算式も図をかいた本人に言わせるのではなく、他の子どもに言わせて説明することで、より理解が進みます。特に、交差する対角線では、内部の角の和360°を引くことが必要ですが、本人に言わせて先生が説明しました。このことは他の子どもたちから出させたいところでした。
授業者が3つの異なる考え方を取り上げたのはとてもよいことなのですが、それぞれのよさをきちんと価値付けしていません。どちらかと言えば、これらを比較して「一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割する」方法に収束させようとしています。
四角形と三角形に分割したのであれば、既に知っている三角形と四角形をもとに考えたことを価値付けすることが必要です。「これで五角形もわかったね。なるほど〜。六角形はどうなのかな?」というように、漸化式的な発想を意識させるような言葉を発するとよいでしょう。
一つの頂点から対角線をすべて引くとムダなく三角形に分割できることを押さえ、対角線は何本引けるか、三角形はいくつできるのかを意識させることも必要です。対角線を1本ずつ引きながら、「三角形が一つできたね」「この頂点からは対角線はもう引けない?」「三角形はいくつになった?」というようなやりとりもあってもよいでしょう。
交差する対角線であれば、「どこの角をたせばいいの?」「どこの角だったら大きはわかる?」といったやり取りをしながら、「余分をひく」という発想の素晴らしさを価値付けしたいところです。
このやり方の説明で、子どもから「三角形が3つ」という言葉が出てきました。授業者はすぐに「3つあるね」と黒板で説明します。物わかりがよすぎます。三角形は他の三角形を含む大きなものも考えられます。「どの三角形?みんなわかる?」と問い返したり、わざと違う三角形を示したりすることが必要です。子どもを揺さぶることで考えさせたいところです。

続いて同じように六角形の紙を与えて作業に入ります。五角形の時には手がつかなかった子どもが、こんどは一生懸命に作業に取り組みます。五角形の説明で何をすればよいのかわかったようです。課題がきちんと理解されていなかったのです。下位と思われる子どもも一生懸命に取り組んでいます。また答がすぐにわかる子どもも、五角形で違ったやり方を見ることで、他のやり方に挑戦しています。子どもたちが活動的になりました。
六角形の発表に入るのですが、一部の子どもが自分のやり方に熱中して顔が上がりません。授業者はそのまま話し始めました。ここは、きちんと作業を止めてしっかりと集中させたいところでした。六角形で対角線がたくさん引けることもあり、子どもたちは多様なやり方をしています。ここでは「もっと角の数が大きい多角形でも使えそうなやり方」といった一般化を意識させてから取り組ませた方がよかったかもしれません。

授業者はいくつかのやり方を確認した後、「このやり方に決定します」と統一しました。多様な考え方を価値付けした後、一般化しやすいという視点で子どもたちから出させた結論ならまだよいのですが、一方的に授業者が決めてしまうのなら子どもたちは自分たちのやってきたことは何かわからなくなってしまいます。結局「先生の求める答探し」をすることになります。この後、表を埋めながら一般化をするのですが、表を与える時点で考え方を固定化させています。授業者は多角形の角の数と分割してできる三角形の数の規則性に気づかせようとしていますが、表に頼らず「対角線に対して三角形がいくつできるかで考える」「角が一つ増えると、内角の和が180°増える規則から考える」といったことも当然あってよいはずです。内部で交差する対角線の考えを拡張して、内部の1点から頂点に引いた線分で三角形に分割することに気づかせることもしたいところです。「余分なものを引けばいい」発想で、角の数と同じ数の三角形の内角の和から、内部の360°引くというやり方です。子どもたちからでた考え方の先にはこんなに素晴らしい世界が広がっているのです。せっかくの多様性を発展させるのではなく、一つに切り捨ててしまったのは、数学的にとても残念でした。

「多角形の内角の和の求め方は、一つの頂点から引いた対角線で三角形に分割して考える」が授業者の考えるこの時間のまとめでした。授業者は、まだ、答を出すこと、解き方を教えることが授業のゴールのように思っています。数学を通じて論理的な思考力を育てることをもっと意識してほしいと思います。この時間であれば、問題の解決の方法として「すでに知っている知識(三角形や四角形の内角の和)を利用することを考える」「うまくいったやり方(対角線の引き方)と同じようなやり方を他の場面でもやってみる」といったメタなことを子どもたちがまとめとして書けるようにしたいところです。

授業者は子どもたちを活躍させたいという思いは強く持っています。しかし、まだまだ教師としてスタートしたばかりです。そのために必要な、子どもの言葉を活かしたり、つないだりするための技術、数学に対する知識や理解が不足しています。自分に足りないことを一つずつ埋めていくことが必要です。私からの指摘を素直に受け止めることのできる先生です。きっとこれからも努力し続けてくれると思います。今後の成長を期待したいと思います。

理科の単元の導入について考えさせられた授業

中学校で授業アドバイスをしてきました。市内の全小中学校での授業アドバイスの一環です。この日は、若手の理科と数学の授業研究でした。

理科は2年生の「音の正体を考える」という、音の単元の導入の授業でした。
授業者の表情はよく、子どもたちも安心して授業に参加していました。子どもたちは指示に素早く従えます。授業者が、大太鼓や音叉、モノコードで音を出してみせます。ワイングラスに水を入れてふちをこすることで音を出してみせると(グラスハープ)、子どもたちの目は、やりたいという意欲を見せます。子どもたちを意欲的にする仕掛けとしてはよかったと思います。
この日の課題「音の正体を探ろう」を提示して、教師が準備した物を使って、音が鳴っている時の共通点を見つけることを指示しました。なかなか考えた導入なのですが、課題が天下りなのが残念です。また、音の正体を探るという課題と、音が鳴っている時の共通点を見つけるという目標の関係も明確でありません。課題の解決の方法を教師が指示をしたのも気になります。どんなことに着目すればよいかは、子どもたちから出させたいところでした。この道具を使って、どんなことをすれば音の正体を探ることができるのか、いろいろと意見を言わせたいところです。

子どもたちは、音を出すことに意識が集中していました。共通ということはあまり意識できていません。モノコードの絃を指で押さえて鳴らす子どもや、ワイングラスの水面の様子を見ている子どももいますが、そういった行動やそこで気づいたことが共有される場面がありませんでした。
ここでいったん活動を止めさせました、子どもたちに実験を止めて授業者に集中するように優しく促します。柔らかでよい指示です。子どもたちに発表をさせますが、挙手は3人です。指名した子どもが「音が大きい方が、振動が長い」ということを言いました。なかなか面白い意見ですが、授業者はすぐにこの「振動」を拾って、「震えている」という言葉で説明しました。「どうも振動している」と子どもたちに確認してから、「どこが振動している?」と新たな課題を与えて再び実験をさせました。「2段階で実験するとよい」という私のアドバイスを受け入れてくれたのはとてもうれしいのですが、あまりに急ぎすぎでした。まず、発言した子どもは、音が大きいと音が長く持続することを伝えたかったのですが、その伝えたかった部分は無視されてしまいました。発言した子どもは釈然としなかったと思います。また、他の2人の子どもや挙手しなかったけれど何かを見つけた子どもたちの意見は取り上げられません。先生は振動のことを言ってほしかっただけなんだと、子どもたちは思ったに違いありません。
ここは、「同じようなことに気づいた人はいない?」と持続時間のことを確認し、他の2人の子どもの意見を聞き、それから「振動という言葉が出てきたけれど、それってどういうこと?」「どれも振動していた?」と最初の「共通」という視点で整理、焦点化するとよかったでしょう。「音と振動は関係あるのかな?」「振動していないと音はでないの?」と子どもたちに問いかけてから、「振動に注目してみようか。何を、どこを見ればいい?」と実験観察の視点を子どもたちに考えさせてから、再度実験をすればすっきりしたと思います。

子どもたちは、それぞれの音源のどこが振動しているのか観察をします。グループでまとめますが、今度はかかわり合いが出てきます。太鼓にこだわり、叩いた反対側が振動していることを確認して、太鼓の中も振動しているはずだと考える子ども、ワイングラスの水が波打っていることに気づき、振動しているのはガラスか水かと考えている子ども、面白い発言がたくさん聞かれます。子どもたちが発表用のまとめを書きますが、どこが振動しているのかはグループによって微妙に違います。この違いを発表でどのように扱うかが授業のポイントになります。各グループが黒板に貼ったまとめに、授業者は余計なコメント加えずになるほどと認めていきます。授業者は他のグループが書かなったことを「やってみよう」と子どもたちに再度やらせて確認させました。これはとてもよい姿勢です。子どもたちもとても真剣に取り組みます。ワイングラスについては、水が振動していることに対して、水なしでも音が出るかどうかをやらせます。とてもよいことなのですが、こういった指示が常に授業者から出てくることが気になります。「水とガラス」「水」「ガラス」どこが振動しているのか、「どうやって調べる?」と子どもたちに問いかけることが必要です。常に先生が判断して指示するのではなく、自分たちで考えて実験をするという姿勢をつくりたいところです。
「振動が上から下へ伝わっている」ということを書いているグループもあります。上も下も振動しているのではなく、「伝わっている」という言葉を使っているところに、理科としてはこだわりたいところです。「どういうこと?」と聞くことで、「叩いたところではないところ」が振動したこと、そこから「伝わった」と考えられるという推論を明確にできたと思います。

最後は、教師が「振動で音が生じている」とまとめましたが、これも残念なところです。ここでは、導入なので無理にまとめる必要はありません。振動で音が「生じている」というところまではこの日の実験からは言えません。逆に「地震って音がする?」「地面が振動しても音が出る?」などと揺さぶっておきたいところでした。子どもたちにとって、「実験」と実験から「考えること」が分離しています。教師がその時間の内容をまとめてくれるのであれば、子どもたちは考えなくても困りません。せいぜい教師の求める答探しをするだけです。「音と振動は関係がありそうだね」くらいにしておくか、子どもたちが気づいたことをまとめさせて、たくさん発表して終わるだけで十分だと思いました。

授業者だけでなく、理科の担当の先生方が一緒になってつくった指導案のようです。とても意欲的な授業だったと思います。この活動を活かす流れについて考えたくなるものでした。次のような流れを考えてみました。
「音って何?」「音って見える?」といったことを子どもたちに気軽に答えさせます。知識のある子どもが「振動」などと言った時には、腰を振って「振動しているけれど音がする?」と揺さぶります。「よくわからないことがあるね」と疑問を持たせておき、「これから音について学習して、こういったことに答えられるようになろう」と単元の目標を設定します。その上で、どんな実験をすればよいかを子どもたちに考えさせて、「すべてができるかどうかはわからないけれど、音を出せるものをいくつか用意したからこれらを使って音の正体に迫って」とすると、より子どもたちの課題となったと思います。
実験で使う音源についても、グラスハープの鳴らし方の説明程度に抑えてできるだけ早く実験に移ります。全員が実験をしたと思われるところで、一度どんなことをしたかと、その結果を中間発表させます。ここが難しいところですが、子どもから出てきたことを、いくつかの視点で整理していきます。「振動」「伝わる」「大きい・小さい」「高い・低い」といったことから、もう一度視点を定めて実験をさせ、最後に子どもたちの実験結果をできるだけ多く発表させます。その上で、みんなが見つけたことをきちんと説明できるように、これから音の学習をしていこうとして、導入の時間は終わるのです。
子どもたちから出てきたことはまとめておいて、いつでも取り出せるようにしておきます。この後の学習に合わせて、この実験で見つけたことを説明するという課題を与えることで導入が活きてくると思います。

意欲的な授業のおかげで、私が今まで考えていなかった理科の導入の形を見つけることができたように思います。私にとっても学びの多い授業でした。

数学の授業研究については、次回の日記で。
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