若手の模擬授業による夏期研修(その2)

昨日の日記の続きです。

2つ目の模擬授業は「ふらっと九州」というタイトルで、地理の九州地方の学習の導入場面でした。タイトルを板書して、子ども役に写させます。その際に机間指導をしました。書いていない子ども役に書くように指示をします。気になる子ども役に対して個別に指導しようという気持ちが感じられます。どうしても、チェックに行ってしまうのです。机間指導をするならチェックするのではなく、よいところをほめてほしいと思います。タイトルを写すだけですから、机間指導まですると時間がムダになってしまいます。よい行動を増やす発想で、全体を見て早い子どもをほめるようにすればいいでしょう。気になる子どもに対して何かしたいのであれば、隣同士で確認するというやり方があります。ここではそれ以上のことを無理にしようとすると、時間ばかりがムダに過ぎます。100%を目指すのですが、気になる子どもに対してかかわりすぎるのも問題です。

九州のイメージについて、子どもたちに考えさせます。行ったことのない人も想像して答えるように指示しました。考える時間を取って挙手をさせたところ、1人しか手が挙がりません。指名したところ「暑い」と答えました。授業者が対応に困ったことが表情からわかります。すぐに言葉が出てきませんでした。授業者としては自然に関することを言ってほしかったのですが、気候についてでてきたので困ってしまったのです。この対応で発言者は外したと感じます。他の子どもは、こういうことは言ってはいけないんだと教師の意図を探り出します。ここは、「なるほど、寒いでなくて暑いイメージなんだ。同じようなイメージの人いる」としっかりと受け止めてあげることが必要です。そうすることで次の挙手が増えるはずです。
次に指名しようとした時も挙手は1人でした。ここで授業を止めて、子ども役にどうして手を挙げなかったのか聞いてみました。「イメージと言われて、何を答えていいかわからない」と発問の曖昧さを指摘する方や「他の子ども役がどんなことを言うか聞いてからにしよう」と空気を読んでいる方もいました。実際の授業でもおそらく子どもたちは同じようなことを考えるでしょう。よい気づきだと思います。どう答えたらいいのかわかる場面、子どもが安心して答えられる雰囲気をつくる必要があります。今回であれば、まわりの人と聞き合わせれば、気楽に考えを言えますし、「ああこんなことを言えばいいのか」と自信を持つことができます。このあとであればかなり挙手が増えるでしょう。「どんなことを話し合った?」と聞けば、答えやすくなります。挙手しない子どもでも指名できます。一人ひとりの発言を肯定的に受け止めれば、子どもたちは次第に挙手してくれるようになるでしょう。

ここで、できない子ども役の先生から、「できない子どもの気持ちになってみたら、九州はどこだろうと思った。そうなるとどうにも参加できない」という意見が出ました。その通りです。先生は子どもたちに知識がある前提で発問をすることがよくあります。当然こんなことは知っていると思って授業を進めると、思わぬところでつまずいてしまいます。授業で最低限必要となる知識をきちんと確認することが大切です。この授業であれば、日本地図で九州はどこか確認してから発問すべきだったでしょう。ICT環境が整っていれば、Google Earthを使って日本全体を見せ、そこから九州にズームインしてもおもしろいかもしれません。衛星写真を見ることで、授業者の意図した自然に視点がいくかもしれません。

授業者は、自然について考えてもらうといった説明するのですが、途中で産業、名産品といった言葉も出てきます。聞いている方は混乱してしまいます。発問や説明は簡潔にして、ブレがないようにする必要があります。
「○○の数」と板書して、九州の県名、学校のある県名と単位のない数が書かれた表を書いて写させます。この数を写すのに意味があるのならいいのですが、そうでなければムダな時間です。手元にある必要があるのなら印刷して配ればいいのです。九州の県は4,000台、2,000台、1,000台と大きな数が並びますが、学校のある県は100台です。地図を資料として渡してグループで考えさせます。地図の記号を見て発電所だという声が上がります。そんなに多いわけないだろうと次第にテンションが上がるグループが出てきます。当然です。答を出すための根拠となるものが何もないのです。地図の上の方に吹き出しで「九州には火山が多く、温泉も・・・」といった記述があるので、そのことに気づいた子どもは温泉地の数とわかるかもしれません。しかし、これでは根拠を持って考えたというより、教師のねらいを想像しただけにすぎません。意味のないグループ活動です。子どもたちが考えるための材料や知識がない活動がどれだけムダかを実感していただけたと思います。
温泉を子どもたちから出させたければ、火山の数や河川の数といったいくつかの県別のデータを与えて、そのデータと表のデータとの相関性から火山に関係があると気づかせるといった活動が必要になります。

先生方が子ども役になりきって授業を受けてくれたので、子どもの気持ちがよくわかったと思います。今回の模擬授業が子どもの視点で授業を見るきっかけになれば幸いです。

最後に先生方からいくつかの質問をいただきました。

「遊びにならないグループ活動にするためのポイント」
子どもたちに「ゴールはどこか」「そのために何をすればいいか」を明確にして活動を行うことが大切です。目標をはっきりさせ、子どもが自分で達成できたと判断できるような具体的な評価規準を与えることです。何をすればいいかという手段は、あらかじめ与えておくか、活動の途中でどのようなアプローチをしているかを進んでいるグループに発表させて共有し、再度グループ活動をさせるとよいでしょう。

「身近な話題を出そうとすると知識の差が大きい」
知識をもとに考えることが大切です。身近な話題でも、考えるための知識はできるだけ早く共有する必要があります。この課題を考えるために必要な知識は何かを明確にして、それを与えるのか調べさせるのかといった共有手段を考えておけば、知識の差はあまり気にする必要はないと思います。

「学力のない子どもをどう授業に参加させるか」
授業に参加できるための基礎的な力が不足しているのであれば、授業中に何とかしようというのはとても難しくなります。教師の負担が大きいのですが、参加できるための力を授業外でつけることを考えることも必要になります。授業後に補充をする。次の単元で必要となる基礎知識をまとめたものを準備して課題として与える。こういう対応が求められます。
また、わかった人と答を聞いたり、知っている人しか答えられないような知識をたずねたりしていては、学力のない子どもは参加できません。「今、○○さんの言ったこともう一度言ってくれる?」「なるほど思った?」、まわりの人と相談させて「どんなことを話し合ったか聞かせてくれる?」といった、聞いていれば参加できるような問いかけをすることも大切です。もし、答えられなかっても、「聞けなかった?もたいなかったね。○○さん、いいことを言ってくれたから、もう一度聞かせてくれるかな」と再度機会を与えたり、「まわりの人助けてくれる?」と友だちに助けてもらって答えさせたりすることで、必ず最後はほめて終わるようにします。その子なりに参加できる場面を意識することが大切です。

半日の研修でしたが、若い先生が積極的に模擬授業に挑戦してくれたのでとても充実したものになりました。2人とも自分なりの工夫をいろいろしてくれたので、授業において大切なものがより明確になったように思います。参加した先生方も、素直に子どもの気持ちになって子ども役をやってくださり、とても明るく楽しい雰囲気で研修を終わることができました。よい学びの機会をいただき、とても感謝しています。ありがとうございました。

若手の模擬授業による夏期研修(その1)

昨日は、中学校の夏期研修で講師を務めました。先生方全員が子ども役になって、社会科の若手の講師2人がそれぞれ導入部分の模擬授業を行なってくれました。その模擬授業を止めながら授業技術や授業構成について解説しました。
学力下位と上位の子ども役をそれぞれ2名ずつ決めて、開始です。

最初の授業は、下位の困った子ども役の指導で授業者が苦戦しました。前を向くのを待っているのですが、なかなか向いてくれません。後ろの子ども役が注意をしてくれているのですが、それをうまく活かすことができません。「○○さんが声をかけてくれてよかったね。○○さんありがとう」といった声をかけると、態度が変わったかもしれません。
「今日は何日?」と先ほどの気になる子ども役に質問します。「わからん」と答えました。ここで授業の進行を止めてその理由を確認しました。何の意味があるかわからない質問です。わざわざ自分に質問するということは、意図的なものを感じたのです。授業者は、この子どもでも答えられる質問をして参加させようとしたのですが、子どもから見るとバカにされている、狙い撃ちをされているように感じるのです。
こういった子どもを参加させるためには、復習などの場面でその子どもにあたるような列指名をします。正解が出ても、正解と言わず何人にも聞きます。同じ質問をその子どもにすれば、かなりの確率で答えてくれるはずです。みんなと同じ条件での参加をうながす工夫が必要です。

「全員が先生の目を見るまで話さない」と宣言して、子どもに顔を上げさせようとする場面がありました。この言い方では、命令のように聞こえます。反発する子どもは意地でも前を向かないかもしれません。「大切なことを話すから、先生を見てくれるかな」と軽く指示し、「○○さん、目が合ったね、素早いね、ありがとう」「△△さんも、□□さんも、ありがとう」と声をかけ、よい行動を増やそうとするとよいでしょう。授業者は、子ども役が全員前を向くと話し始めますが、その前に一言もありません。最後の一人に向かって「○○さん、見てくれたね、ありがとう」「みんな待っててくれてありがとう」「○○さん、待っててもらってよかったね」といった言葉がほしいところです。すぐに効果があるとは限りませんが、よい行動を増やす発想が大切だと思います。

朝食に何を食べたかを聞きます。子ども役にていねいに聞いていきますが、このこと自体は考えることでもありません。テンポよくやる必要があります。挙手などさせずに、順番にどんどん指名していけばいいのです。授業の本質に関係ない場面はできるだけテンポアップして、時間をかけない工夫が必要です。
この日のめあてを板書しますが、子ども役の方を振り返りません。子ども役はノートに写したり、板書を見たりとバラバラです。授業者は何も言わなくてもノートに写してほしかったようです。自分の授業では、そういうルールになっていたとしても、子どもの方を見て確認することが必要です。そうすれば、この状況に気づいて書くように指示することもできたはずです。

「○○の秘密」というめあてですが、その中に何が入るかを考えさせます。といっても考えるための手がかかりもありません。こういうことに時間をかけるのはムダです。授業者は納豆のパックの写真をみせてこれが何か子ども役に聞きます。納豆を食べない子どももいます。知らない子どもは答えられません。「これ何か知っている」「納豆」「はい、正解」と簡単に済ませればいいのです。
○の中に納豆と書き込みました。下位の子ども役が「読めん」と声を出します。白と赤のチョークしかなかったので赤で書いたのですが、たしかに赤では読めません。「ごめん、ごめん」と言って書き直します。下位の子どもがこういったことを言ってくれたのであれば、「板書を読もうとしてくれたんだね。ありがとう。書き直すね。読める?」と指摘してくれたことをポジティブにとらえた評価をするとよいでしょう。

「3つの質問を考えてもらいます」と言って「Q1 最近1〜2年の納豆の変化は何でしょう」と板書をして写させます。実は、納豆の「たれ」を袋に入れなくてもいいように工夫していることに気づかせ、その理由を考える展開をしたいのです。とすれば、そこに気づくのに時間をかける意味はありません。できるだけ早く次に移ることを考えるべきです。
授業者は、A4に印刷した、2枚の納豆のパックの中身の写真を見せて変化を聞きます。資料が小さくて見えないと不満の声が上がります。たまたまなのか、いつもなのかはわかりませんが、資料は大きなものを見せる必要があります。また、子ども役から、「どちらが古いの?」というつぶやきがあります。「どっちも新しい」という声も上がります。これは取り上げるべきつぶやきですが、授業者はひろうことができませんでした。今回の資料を見る視点は変化ですが、日ごろから納豆を食べていない子どもには基準となるものがありません。この資料はどちらも最近ものでした。すると以前のものの資料を準備しておくことが必要です。
子ども役の言葉をひろって「いいこと言うね。資料を見る時はそれがいつかを知ることは大事だね」と評価すれば、資料を見る視点を共有することができます。どっちも新しいといった子どもに、どこでわかるか聞けば、すぐに工夫を引き出すことができます。子どもの言葉を活かすことを意識してほしいと思います。

いずれにしても比較の対象を明確にしておけばすぐに出てくることです。ある子ども役の先生が、自分の見つけたことをとても言いたかったと教えてくれました。手を汚れないような工夫をしていることが絶対正解に違ないと思ったからです。しかし、授業者はこの場面ではきちんと指名もせず、なんとなく意見を言わせていました。おそらく自分に都合のいいつぶやきが出るのを待っていたのだと思います。この授業では、この発問に時間をかける必要がありませんが、一般的にはたくさんの子どもが意見を言いたい状況であれば、ペアやまわりと意見の交換をさせることで、かなり満足させることができると思います。
子ども役の先生から、納豆の「変化」では納豆に目がいってしまし、何を答えていいかわからないという指摘もありました。確かにそうです。「納豆をつくる人の工夫」といった表現の方がよかったかもしれません。

ここで時間となりましたが、授業者はこのあとなぜこのような変化があったのかを考えさせる予定でした。授業者は、原油価格が高騰したので材料費を減らそうとしたという理由を出させたかったようですが、視点が明確でないと手を汚さない工夫しか出てこないと思います。以前に商品をつくる側の工夫をやっていたのなら、その時の視点を思い出させる。今回が初めてであれば、「商品をつくる側はどのような工夫をしているかな」といった予備の発問をして、「買ってもらえるようにする」「おいしくする」「簡単に食べられるようにする」「安くする」といった言葉を引き出すとよいでしょう。商品の「質」と「価格」といった視点にまとめてもいいでしょう。もちろん、こういったやり取りをしないで、子どもたちから出た意見を整理する過程で、キーワードとしてまとめるといった方法もあります。この授業であれば、コストカットから原油の高騰にまでつなげたかったので、事前にキーワードを出した方が時間を短縮できるのでよかったと思います。

授業者は、子どもたちの興味関心を引くような授業を意図してくれていました。だからこそ、本質でないところに時間をかけないようにする必要があります。興味を引き付けるためだけに、考えても意味のないことに時間を使っては、肝心のことを考える時間がなくなってしまいます。導入はできるだけコンパクトにするべきなのです。
何を考えさせるのか、そのために必要な知識は何か、その知識は教えるのか調べさせるのか。こういったことを考えて授業を組み立てる必要があります。

もう一つの模擬授業については明日の日記で。

学校力向上研修

昨日は、市の学校力向上研修に参加しました。対象は教務、校務主任や学年主任、研修担当者です。模擬授業の後に実際に研究協議をしていただき、それを受けて私が授業検討の進め方について解説をしました。授業者と研究協議の司会は今年度新任の教務主任にお願いしました。授業者は昨日まで野外教室に出かけておられ、大変お疲れのところ無理にお願いすることになりました。

授業は小学校5年のメダカの観察でした。授業開始にあたり協議会の司会者が、授業を見る視点を確認しました。授業の目標(指導案上)が達成できたかどうかを子どもの目で考える、子どもの様子で判断するというものです。こういった視点を確認するのはその後の協議を焦点化するためにとてもよいことです。

子ども役には上位、下位が決めてあり、見る側もどこを見るかが決められていました。子ども役は子どもになりきろうと意識していました。授業者の話を、顔を上げて聞かない。指示への対応が遅れる。こういった場面がたくさんありました。しかし、授業者はこういった授業規律に関してあまり頓着しませんでした。授業規律は、本来日常的に指導するものなので、スポットで行う模擬授業では意識されなかったのかもしれません。
生まれたばかりのメダカのスケッチをする場面は、スケッチのポイントを子どもたちに確認する場面がありませんでした。実際の授業では子どもがどのようにスケッチするかで、確認が必要だったかどうか判断できますが、メダカを準備できなかったこともあり、子ども役のスケッチからは判断できませんでした。ここが模擬授業の限界でしょう(授業者が意識できていれば、「子どもは説明しなくてもできるようになっている」と事前に伝えておくことで、確認の必要がないことがわかるのですが・・・)。
3人で1匹のメダカという前提でした。待っている時、見終わった後どうするかという指示がありません。子どもたちの集中力がなくなることは明らかです。当然、後出しの指示が多くなります。作業を止めずに指示を出したり、一部の子どもの問いかけにその場で答えたりします。この模擬授業を通じて、作業を止めて指示をしたのは1回だけでした。
グループの活動中の机間指導も気になりました。授業者が子どもの中に入り込んで全体の様子を見ていないのです。
卵の変化の様子について今までの観察をもとに気づいたことを書くことが主課題ですが、その4つの視点(目、血液、心臓、体の形)は観察が終わったあとから提示されました。今までの観察でこの視点が出ているのなら、観察の前に子どもたちと確認をしておく必要があります。押さえておくべきことが明確になっていないのです。
グループでまとめる作業に入りますが、司会者も決めて話型を書いた紙を配ります。この活動は意見をまとめるための根拠がありません。それぞれの観察記録があるとしても、一人ひとり書いてあるものが違うのですから、水掛け論にしかなりません。模擬授業ですから、それもないので、どう評価していいか困ってしまいます。実際の授業であれば、観察ごとにポイントを共有して全員の観察記録が共通の根拠として活用できるようになっている必要があります。そういった前提を与えてくれていればまた違ったかもしれません。
実際の授業であれば、毎回、全員が納得できる観察記録を選んでデジタルデータとして記録しておき、それを根拠として映し出してもよいでしょう。いずれにしても、観察記録を根拠として話し合うことを明確にしておくべきだと思います。
司会者を決めて話型をもとに進めるので、子ども役の顔は紙から上がりません。こういうコミュニケーション活動は問題があります。話すことばかりに意識がいって聞くことがおろそかになります。結論をまとめようとすると意見が分かれた時に納得できない子どもが出てきます。根拠となるものが明確でない場合はなおさらです。友だちの意見を聞いて納得したら自分のものにつけ足すといった発想が必要です。
全体での発表では、子ども役は授業者の方を見て発表します。他の子ども役も発表者を見ません。また、発表の途中で授業者が板書をする場面もありました。こういうところも気になります。意見の確認をするのにも根拠となるものが提示されないので、子ども同士で確認し合うことができません。結局、授業者のまとめがそのまま正解ということになってしまいます。ある子ども役が、体の形の変化を言うのに前に出て絵を描きました。その時何人かの子ども役が「ほう」と声をあげました。とてもよい場面ですが、授業者はこの「ほう」を取り上げませんでした。おそらく予定時間を過ぎていたので焦っていたのでしょう。「今声を出した人、それってどういうことかな?」と聞くことで、子どもたち評価させ、共有させたいところでした。

授業者の反省を受けて、グループでの協議になりました。この時、グループの司会者役を決めました。教師集団の場合、司会者がいてもあまり問題はないのですが、協議の様子を見ているとグループによっては司会者が議論の方向性を決めていたように見えました。
今回の協議は目標を達成できていたかについて話し合うのですが、グループによって結論はバラバラで、視点もかなり違っていました。しかし、時間がなかったので、司会者は「質問はありませんか?」と聞くだけで、参加者からは質問は出ませんでした。いくつものことを続けて発表するグループもあります。司会者は発言を整理したり、コントロールしたりする必要があります。その上で、「今の意見どうですか、似たようなことを話し合ったグループはいますか?」「この場面について話し合ったグループは、どのような意見が出ましたか」とつなぐといったことも必要です。
司会者は、授業の目標が達成できたかどうかについてたくさん話し合ってもらうのが目的で、全体発表についてはあまり重視していないようでした。この発想は決して間違いではありません。授業について話し合うだけでも学ぶことはたくさんあります。今回は授業の目標に焦点化したので、授業規律やグループや全体発表の進め方といった部分についてはほとんど触れられませんでした。私が気づいたことに気づいている方はたくさんいるように思います。しかし、授業の目標と直接関係しないので議論されませんでした。要はその学校で話題にすべきものが何かです。少なくとも、今回のような授業が予想される(授業規律などが確立できていない)学校であれば、授業目標の達成以外についての視点も用意すべきです。参考になること、改善点というような別の軸の視点を取り入れること(教育コラム「楽しく授業研究をしよう」【 第4回 】グループを活用した「3+1授業検討法」参照)や、授業者の反省の代わりに、困ったところといった議論してほしい場面を指定してもよいでしょう。
授業を見て焦点化すべき内容、場面を司会者が意識する必要があります。日ごろの学校における授業の課題も含めて、司会者は何が課題かを把握していることが求められるのです。この日の授業であれば、何を根拠にして子どもたちに考えさせるか、どうそれを意識させるかということと、グループ活動のあり方だったと思います。根拠が求められるのはグループ活動の場面だったので、結局そこに集約されます。グループ活動の場面を中心に議論すれば、各グループの話し合いの中で課題が焦点化できたと思います。
私のようなアドバイザーの立場であれば、どうするとよいといったことを指摘することもできますが、司会者がそれをしてはおかしくなります。課題を明確にしたうえで、どうすればよかったのか皆さんに考えてもらうことが大切です。例えば、話型にこだわると聞くことができないことに子どもの姿から気づければ、聞くことをもっと意識して活動を行う必要があるという課題が浮かび上がってきます。具体的にどうすればいいという対応策が出なくても問題ありません。学校全体の課題として、継続的にみんなで考えればいいのです。次からの授業研究の授業者がそのことを意識して授業をしてくれれば、次第にどうすればいいかが明確になってきます。
また、グループで議論した後、全体で深める時間がなかなか取れないということもよく聞きます。各グループで議論の内容を紙にまとめてもらい、まず黒板に貼るというやり方もあります。それを見ながら全体で共通している意見については軽く済ませ、議論が分かれるところ、焦点化すべきところについて意見を発表してもらうことで、効率的に進めることができます。

今回の研修は私にとっても新しい試みで、たくさんのことを考えることができました。時間配分や進め方など反省点は多々ありますが、ここから学んだことを次に活かしたいと思います。忙しい中、授業者と司会者を引き受けてくださったお二人の先生と、参加者の皆さんに感謝です。

中学校の校内研修会に参加

先週末は中学校の研修会で講師を務めました。学校外の研修施設を使って終日で行われました。私の担当は、授業ビデオを元にした子どもたちの見方の研修と、午後の教科別の話し合いのアドバイスでした。

授業ビデオは前回の訪問の後、この研修に合わせて急遽撮影し、編集していただいたものを利用しました。理科、英語、技術の3教科です。子どもを中心に撮影したものと、授業者を中心に撮影したものの2つを用意してもらいました。先生方に子どもだけを撮影したものを見て、子どもたちの行動の原因を考えてもらい、必要に応じてその場面で授業者がどういう行動をしていたかを授業者が写っているビデオで確認しようという意図です。機材の関係で両方を映すことができなかったので、子どものビデオだけで研修を進めました。

理科の授業は実験でした。実験の進め方の確認を各班で行っている場面での子どもたちの様子はとても面白いものでした。一部の子どもたちはかかわり合っていますが、友だちとふざけている子どももいます。また、確認が終わって何もすることがないのかそのままじっとしている子どももいます。子どもの様子はバラバラでした。この時授業者は何をしていたかたずねたところ、撮影の機材の設定をしていたそうです。授業者の視線が子どもに向いていないために、子どもの集中度合がバラバラになっていたようです。
ふざけている友だちに目をやったあと、何も言わずにじっと座っている子どもの姿が気になりました。注意をするか、声をかけてほしいところですが、無視をしています。個人主義的なものをその子どもからは感じました。こういう子どもが他にもいそうです。子ども同士のかかわりをつくることを意識する必要があるでしょう。
授業者が実験の説明を始めます。子どもたちは授業者の方に顔を向け、集中します。授業者が「・・・実験をしてください」と話した後、すぐにまた注意事項の説明を始めました。この後、明らかに子どもたちの集中力が落ちました。これから実験に移ると思った時に、また説明が始まったからです。ここは、集中を戻すために、全員が授業者を見るまで間を置く必要がありました。この説明が特に大切なものなら、なおのことです。どうしても、教師の説明が続く場面があります。そういう時でも、「どうするといいかな?」と子どもに問いかけたり、「何をすればいいかわかったかな。誰かに聞こうか」と確認したりする場面をつくり、少しでも受け身でない時間をつくるようにすることで、子どもたちの集中力を持続させることができます。
ある場面で、画面に映っている子どもの中でだれが気になるかをたずねました。この授業の最初から、実験道具で遊んだり、集中力を失くしたりする子どもいました。日ごろから皆さんが気にしている子どものようです。この場面でも、集中力を失くしていました。ほとんどの方がその子どもに目がいっていました。しかし、別の場所でも集中力を失くしてごそごそしている子どもがいたのですが、気づきませんでした。どうしても、日ごろから気になる子どもに目がいってしまいます。そうではなく、目立たない子どもにも目を向けることが大切です。ごそごそしている子どもを注意しろというのではありません。その子どもの様子をちゃんと認識していなければ、適切な対応ができないからです。
実験が開始されたときに、先ほどの日ごろから気になる子どもが実験に関して友だちに発言しましたが、すぐに遊びだしました。この子どもの様子を「よい」と考えるか「よくない」と考えるかを挙手で確認しました。同じくらいに分かれました。授業とすればとても面白い場面です。「よい」と考える方は、日ごろ授業に参加できないのに、ここでは参加できたから、「よくない」と考える方は参加したことは評価するが遊んでいるのはよくないからというのが理由です。同じ場面でもどこを重視でするかで評価は分かれます。このことを皆さんに気づいてもらいたかったのです。いずれにしても、授業に参加したことは「よい」と評価しているので、そのことを認めてほめてあげたいところです。しかし、授業者にはできませんでした。理由は、この時他の班にかかわっていたため、この班が死角になって見ることができなかったからです。たまたまなのですが、できるだけ死角をつくらず常に全体を見ることの大切がわかる場面でした。

英語の授業では、子どもたちの体調を聞く場面で面白い姿を見ることができました。一部の子どもが起立していて、その子どもたちに授業者が問いかけています。起立している子どもはとてもよい表情で、授業者の質問に答えようとしています。授業者と子どもの人間関係のよさがわかります。ところが、着席している子どもたちは一部を除いて勝手なことをしています。授業者も、起立している子どもも見ていません。自分たちには関係ないと思っているのです。決して授業に参加する気がないのではありません。この場面では、座っている子どもの参加する余地がないのです。これは、誰かが発言している場面でも同じことです。聞いている子どもが参加する仕掛けが必要になります。
フラッシュカードを使って単語の練習をする場面がありました。ある単語で授業者は何度も子どもたちに繰り返し練習させます。声が小さかったからでしょうか、重要な単語だからでしょうか、それとも発音に問題があったからでしょうか。何がいけなかったか子どもたちはわかりません。ただ何度も発音するだけです。目標や評価規準が子どもにわかるような活動にする必要があります。
列ごとに最初に問題を解けた子どもがミニティーチャーになる場面がありました。ちょっと苦しそうな子どもが教えてもらって、うれしそうな顔をしていました。よい場面です。自分から友だちに聞けない子どもには、ありがたいことです。しかし、わかった子どもが教えに行くというのは、必ずしもよい方法ではありません。自分で考えたい子どもにとっては大きなお世話です。わからなければ、自分で聞けるようにすることが大切です。授業のいろいろな場面で、わからなければ聞くようにうながしてほしいと思います。また、聞かれた子どもに対しては責任を持ってわかるまで教えるようにさせることが必要です。わからない子どもではなく、わかっている子どもにプレッシャーをかけるのです。

ベテランの技術の授業は、作業の説明場面でした。子どもたちはとても集中しています。授業者が映っていなくても、どこにいるかが子どもの視線でわかります。授業者は、子どもを集め、板を見せ、上手に間を取りながら説明します。板をどの子どもにもよく見えるように持ち替えながら、首を動かして子どもたちを見ています。ここでも子どもたちはとても集中していました。子どもたちが集中する理由を先生方にたずねました。「実物を見せているから」「教師のまわりに小さく寄せているから」「ちゃんとした作品を作りたいと思っている。聞いていなければできないから」「子どもをよく見ているから」といろいろな考えを言っていただけました。どれもとてもよい視点です。子どもたちが集中するための条件がよくわかったと思います。

ビデオを30分くらい用意してあったのですが、すべてを見ることはできませんでした。見ることができなかった場面にも面白い子どもの姿があったそうで、申し訳ないことをしてしまいました。先生方はとても集中して参加してくださいました。終わったあと初任者に感想を聞いたところ、見る視点が自分と全然違っていたと話してくれました。同じ子どもの姿を見ても、視点によって見え方が違うことに気づいてくれたようです。

午後は、まず学習アンケートの結果報告があり、それに続いて、「自学ノート(仮称)」についての提案がありました。自学ノートは個人の学習の目的に合わせて自分で何に取り組むかを決め、1日1ページ(以上)、家庭で学習するというものです。白紙の状態では何に取り組めばいいのかわからないだろうから、参考となるような「家庭学習の進め」を各教科で作成することも考えられています。そこには、学校の宿題や塾での課題など、与えられたことを受け身でするのではなく、自分で考えて学習をする習慣をつけてほしいという願いが込められています。それに対して何人かの方から、質問、意見がありました。共通していたのは、「今でも宿題をこなすのが苦しい子どもがいる。下位の子どもには、教師に指導されるネタが増えるだけだ。負担増になって苦しめることにはならないか」ということです。確かにその通りです。下位の子どもたちにも目を向けることはとても素晴らしいことです。そこで失礼ながら割り込ませていただき、次のような私見を述べさせていただきました。

下位の子どもに、上位、中位の子どもと同じことを求めることは難しいだろう。とはいえ、何もしなくては彼らがわかる、できるようになることない。負担になることではなく、彼らにできること、やる気の出ることをさせ、力をつけることが大切ではないか。一律の課題であれば難しいことだが、この自学ノートという方式なら、彼らにあった学習をさせることができる。上位、中位には自分たちで考えさせ、下位の子どもにはピンポイントで学習内容を与えてもいい。是非、下位の子どもに取り組ませるべきことを考えてほしい。

この後、各教科での話し合いでしたが、それぞれ15分ずつ私なりのアドバイスをさせていただきました。皆さんとても真剣に考えておられ、よい刺激を受けました。

この日は、子どもだけを撮影したビデオを使って授業について参加者と考えるという、新しい試みをすることができ、とてもよい勉強になりました。また「自学ノート」という、下位の子どもにとっても可能性のある提案を聞けてとても参考になりました。皆さん以上に私が多くのことを学べた1日でした。このような機会をいただけたことに感謝です。

個別指導の落とし穴

グループ活動をしている時に、ちょっと気ななる場面に出会うことがあります。グループの中に他の子どもとかかわれない子どもが1人だけいるのです。子どもたちがグループ活動に慣れていない、人間関係が上手くつくられていない学級では珍しいことではないのですが、子どもたちの関係もよく、その子以外はとても上手にかかわり合える学級だったりすると気になります。どうやらこのことは、個別指導と関係があるようなのです。

こういった子どもは学力が低い傾向があります。教師は日ごろからそういった子どもに気をつけて、授業中に個別指導をします。グループ活動の時でも、みんなについていけないからと個別に対応することがよくあります。こういうことが続くと子どもたちは、「あの子は先生が面倒見るからいい」と考えて、別に無視するつもりはなくてもかかわらなくなってしまうのです。当人も、先生が助けてくれるのを待つので、他の子どもにかかわろうとはしないのです。

教師は個別指導が支援の一番よい形だと思いがちですが(個別指導が最良の方法ではない参照)、決してそうではないのです。困っている子どもに対して、わからなければ他の子どもに聞くようにうながして、友だちに教えてもらえる関係をつくることも大切なのです。教師が常にその子どもに張り付いているわけにはいきません。特に中学校では、小学校と比べて進度が速くなります。個別指導の時間は限られてしまいます。子どもが他の子どもとかかわれるようにしておくことが大切になるのです。個別指導が、子ども同士のかかわり合いを阻害する要因になることも意識しておいてほしいと思います。

私立の中高等学校と授業改善、授業評価について打ち合わせ

昨日は私立の中高等学校と授業改善、授業評価について打ち合わせをおこなってきました。

この学校の生徒は、先生のかかわり方で大きく変化する可能性のある層に属しています。先生方が求めればそれに答えてくれるはずです。最初から子どもたちの力はこんなものだと決めつけるのではなく、可能性を信じて伸ばそうとする姿勢が必要です。

そこで、大きく2つの提案をしました。1つは子どもたちに100%を求める学習活動を学校全体で取り組むことです。具体的には、教科ごとに最低これだけは子どもたち身につけさせたいというものを決めて、各学級で帰りの会の時間などを利用して取り組むのです。高度なことを要求しません。これが定着してなければ授業についていけない、これが定着すれば自学できるといったものです。小学校や中学校の内容でもいいのです。やればいいのではありません。100%にする。結果を求めるのです。そして、個人の達成度を見える化します。自分の力がついたという達成感を与えるのです。ポイントは教科でなく、学年・学校全体で取り組むことです。教科を越えて子どもたちを伸ばそうという姿勢を子どもたち伝えるのです。

もう1つが授業改善です。といっても、難しいことをしようというのではありません。基本的なコミュニケーションを大切にする。子どもたちの活躍の場をつくる。授業規律を確立する。そういうことです。とはいえ、一方的な講義形式の授業が身についた先生方にとってそのスタイルを変えることはそれほど簡単ではありません。一気に全体という発想ではなく、起点となる先生を何人か選んで、まずその方に自分たちの授業の課題を子どもの姿で理解してもらい、具体的にどうすればいいのかを一緒に考えていただくことから始めるつもりです。

この学校ではアンケートによる授業評価をしています。今年度からこの仕事も依頼されているのですが、授業評価の一部を今回の提案を意識したものに少し変えていただくようにお願いしました。学校から、評価のポイントの低い点についてどのようにすれば改善できるのかを具体的に教えてほしいというリクエストがありました。今まで外注していたところは、結果を報告して、ポイントの低いところを「頑張ってください」とはげますだけだったそうです。それでは、何のための評価かわかりません。授業を見てのコメントではないので一般論になりますが、できるだけ具体的にお話をすることを約束し、そのために報告の時間を延長していただきました。

管理職、事務長共に学校をよくしたいという気持ちを非常に強く感じさせられる学校です。仕事でなくても応援したくなる学校です。先生方この提案をどのように受け止めて、どのように動くかわかりませんが、精一杯お手伝いさせていただきたいと思っています。

授業改善の書籍のプロットとサンプル原稿の執筆

昨日は授業改善の書籍のプロットとサンプル原稿の執筆に追われていました。月末までの約束ですが、今日明日と出張で時間が取れないため昨日のうちに仕上げたかったのです。

伝えたいことはたくさんあるのですが、それをわかりやすい形に整理することは結構手間のかかることです。皆さんの授業を見せていただく時のことを思いだしながら、どこをどのように見ているのか、自分自身の視点を整理しながら、どのように伝えようか悩んでいました。子どもたちのどこを見れば、自分の授業の課題が見えるのか、それに対してどのようにすれば改善されるのか。そんなことを伝えることができたらと思っています。

原稿を書いていると、いろいろな授業の場面が浮かんできます。その授業で起こったことや別の授業であった似た場面などを思い出しながら、多くの授業に共通する例をあげることを意識しました。私の授業を見る視点を育ててくれたのは、間違いなく授業を見せてくださった先生方と子どもたちです。年間数百時間もの授業を見せていただいていることのありがたさを、あらためて実感します。
先生方の授業改善のお役に立てるような本になるよう、この夏の空いた時間は執筆に全力を傾けたいと思います。

「楽しく、手軽に授業改善をしよう」第4回公開

「愛される学校づくり研究会」のWEBサイトで、教育コラム「楽しく、手軽に授業改善をしよう」の第4回「ICTを活用した『授業検討ツール』の課題と可能性」が公開されました。

ぜひご一読ください。

授業を考えるよい材料となった模擬授業

昨日は小学校の現職教育に参加してきました。昨年度若手を中心に授業アドバイスを行った学校です。夏休みなので授業を見ることができませんから、模擬授業を行なっていただきました。教務主任が自ら授業者をかってでてくださいました。

社会科の明治時代の学制に関する授業でした。江戸時代の藩校の絵など興味深い資料を用意して大型ディスプレイを使って全体にわかりやすく提示しました。しかし、授業者のねらいがよくわかりません。資料を見せて気づいたこと話し合わせようとしますが、すぐにヒントを言ったりします。ヒントを言うということは、教師が求める答があるということです。こういうことには気をつける必要があります。また、子どもから期待した答が出てくると、すぐその後を引き取って解説してしまいます。これも、よくあることです。事前に教材研究をしているからどうしても話したいのです。ここをぐっと押さえて、「今の意見どう思う」と他の子どもにつなぎたいところです。

資料の読み取り方はきちんと指導しておく必要があります。「気づいたことは?」という発問ではなかなか気づくことができません。「どんな人がいる」「場所はどこ」と資料の基本情報を共有してから考えさせる。「今と比べて、何が同じ、何が違う」と比較の基準を与えるといったことも必要です。資料を使うたびにこういった視点をまとめておき、次に資料を見る時に「資料を見る時に大切なことはなんだっけ」と問いかけていくことで子どもたちの資料を読み取る力は育っていきます。「気づいたことは?」と発問するだけで答えることができる子どもになります。

子ども役が、3つの資料に対して長い意見を言う場面がありました。授業者はさえぎることなく話を続けさせますが、その間発表者を見ています。発表者も前を見ながら話しします。メモを取っている子ども役もいますが、何人かの集中力が落ちていきます。しかし、授業者は気づけません。授業者には常に全体の様子を把握することが求められます。長い説明は他の子どもが途中でついていけなくなります。途中で止め、そこまでを納得したか確認して、全体で共有する必要があります。

グループで話し合いをする場面で、授業者に質問した子ども役がいました。ここで、授業者は個別に対応しました。内容にもよりますが、全体に伝えるべきことであれば、みんなに対して質問を発表させ共有させる必要があります。個別の質問であれば、教師が答えるのではなく、グループの仲間で解決させるようにする必要があります。また、個別に対応しているとどうしても全体が見えなくなり、活動が止まって教師の支援が必要なグループに気づけなくなります。すぐに全体が見渡せるような位置取りを意識することも大切です。

教科書に載っている藩校について調べた文章を読んで、藩校で教えていたことに線を引くように指示ました。子ども役に発表させる場面で指名された子ども役以外の顔が上がりません。教科書をディスプレイに表示するだけで、子ども役の顔をあがったはずだと思います。授業者は儒学について補足の説明をしますが、そこでも子ども役の顔が上がりません。授業を止めて、子ども役に何を考えていたかたずねてみました。「どこに書いてあるのだろうと探していた」「ここには書いていないけれど礼儀も教えていたんじゃないかと考えていた」とバラバラです。聞いているようで意外と聞けていないものです。補足説明をしっかり聞かせたかったかどうかは別として、聞かせるためにはいったん話し手に対して集中させる必要があるということです。

最後に明治時代の学校についての動画を見せました。当時の授業風景を再現したりと、とても興味深いものでしたが、子どもには長いすぎるかもしれません。また、見る前に目的や目標を伝えなかったので漫然と見てしまうかもしれません。長い動画は後からポイントとなる場面を確認することが難しくなります。見終わったあとに質問しても、見逃した子どもには確認の手段がありません。結論を聞かせるだけになってしまいます。見る前に、どんな質問をするかを伝えておくといったことが必要になります。

社会科として、この日は何を考えさせたい、どのようなことに気づかせたい、どのような力をつけさせたいかが今一つはっきりしませんでした。子ども役から出てきたことから広げたかったのかもしれませんが、収束地点があまりはっきりしていなかったと思います。どのような意見を焦点化する、深めるといったことや、気づかせるための追加の発問などを考えておくためにも、ゴールを明確にしておくことが必要になります。

授業者がどこまで、意図的だったかを確認する時間がなかったのですが、資料や動画を使う授業やグループ活動での注意点を明確にすることのできる、授業を考える材料としてはとても素晴らしいものでした。参加された先生方が他人事ではなく、自分の授業でも同じような場面があると気づいてくだされば、とても学びの多いものになったと思います。

研修終了後、昨年アドバイスをした若手の2人が質問に来てくれました。今年の新任2人と一緒に話をする時間を持てました。今年1年生の担当になった方は、昨年のアドバイスを意識して学級経営をしたところ、落ち着いた学級になったとうれしい報告をしてくれました。また、今困っていることとして、学級活動で子どもの意見が対立した時の対処法をどうすればいいかという質問をしてくれました。互いが主張ばかりするようです。こうすればうまくいくという保証はできませんが、理由を発表させた後、賛成するかどうかは別にして、その意見に反対の人に言っていることが理解できたか確認する場面をつくるようにアドバイスしました。低学年では自分の意見を通したいと、相手の意見にかまわず自分の考えを言う傾向があります。そこで、いったん自分の考えではなく相手の考えを理解する場面をつくるのです。相手の考えや気持ちを理解しようとすることで、妥協点を見つけることができる可能性があります。
もう1人の若手からは、子どもに考えさせる場面をつくると授業のテンポが悪くなってだれてしまう。時間も足りなくなる。どうすればいいかという質問をされました。じっくり考える時間を与えるのは悪いことではありません。それで困るということは、テンポが単調になっている可能性があります。復習や確認の場面などテンポアップできるところでペースを上げ、逆にじっくり考えるべきところは、テンションを下げて時間を取るようにとアドバイスしました。どこでテンポアップするか、どこでじっくり考えるかは教材研究をしっかりしなければできません。そのことに気づいてくれたようです。
新任2人は先輩の話を、メモを取りながらしっかり聞いてくれました。前向きさを感じます。この日の研修と合わせて、どのようなことを学んで実践してくれるか楽しみです。次回の訪問の楽しみが一つ増えました。

楽しい懇親会

先日、学校評議員をしている学校のおやじの会の懇親会に参加させていただきました。いつものように楽しいお話で盛り上がりました。

地域の力を活かした学校経営といったテーマでもお話しさせていただくことがよくありますが、その際に頭に浮かぶのがこの方々のお顔です。子どもたちと一緒に何かを創る。児童館で放課後の子どもたちの居場所づくりをしている。コーディネーターとして地域と学校を結んでいる。そういう方々です。子育ては終わっても、それぞれの立場、視点でその地域の子どもたちを育てることに積極的にかかわろうという人たちです。そのような方の姿は学校の中だけにいてはなかなか見ることはできません。存在すら意識できていない先生もたくさんいらっしゃるのではないかと思います。こういう方々はどの地域にもいらっしゃるはずです。彼らをどのように顕在化し、学校経営に活かすかということがこれからの校長教頭には求められると思います。

また、こういう方々のネットワークは校区を超えて市内に広がっています。学校の抱えている問題をいろいろな視点で知ることができ、とてもよい勉強になります。学校と保護者や地域が協同して行っている活動に関しても、それぞれの立場で感情的な問題が起こることもあります。学校側の思いが、微妙にずれて受け取られることもあります。私たちでは気づけないこういった問題についても、情報をいただくことでいろいろと対応を考えることができます。学校の思いと地域の思いが完全に一緒になるのが理想でしょうが、そんなことはまずあり得ません。だからこそ、本音のところを伝え、理解し合うことが必要です。しかし、互いに遠慮し合って本当のところを伝えられていないのが現実です。
ありがたいことに、私は学校評議員という立場でこういった方々の思いを学校に伝える機会を持っています。学校経営にうまく活かしてもらえるように働きかけるのも私の仕事だと思っています。

とはいえ、楽しいお話とおいしい料理、お酒で、かたいことはすっかり忘れいい気持ちになって帰路につきました。仕事を超えて楽しい時間を過ごせる方がいることの幸せをいつも感じさせてもらっています。誘っていただけて感謝です。また、声をかけてくださいね。

私学で夏休みの研修の打ち合わせ

夏休みは、授業を見ることはありませんが研修の依頼が多くあります。一方的にお話をするだけの講演はたとえよい評価をいただいても、現場がそれで変わったということはあまりないように思います。そこで、できるだけ学校やその市のニーズに合った研修内容を先生方と一緒に考えるようにしています。その結果、多くの場合は模擬授業を行なって、その授業を元に参加者で話し合ったり、私が解説したりするものとなっています。

模擬授業のよいところは、普通の授業では絶対できない、授業を途中で止めることややり直したりすることができることです。最近は授業研究の方法として取り組む学校が増えてきたので、説明もずいぶん楽になりましたが、まだ、模擬授業をやったことがない学校や研修そのものがあまり活発でない学校ではそのイメージを理解してもらうのにも時間がかかります。

先日、私立の中高等学校で夏休みの研修について打ち合わせを行いました。規模が大きいことと先生方の予定の調整のこともあり、2回実施し、どちらかに参加してもらうことになりました。今までこういった研修を行ってこなかった学校なので、どのぐらいの方が参加されるのか心配していたのですが、かなりの方の参加をいただけほっとしています。もちろん初めてのことなので、どんなことをするのか様子を見てみようという物見遊山的な発想もあるかもしれません。次回どれだけの方が参加してくださるかで、本当のところはわかると思います。
そのことを校長、研修担当もよくわかっておられるのでしょう。模擬授業をもとにしたワークショップ形式の研修ですが、疑問点などを細かく質問して、不安な要素を減らそうとしてくださいました。通常よりも時間をかけて打ち合わせを行いました。
私は、実際の模擬授業の内容や子ども役の反応を見てその場で判断して進め方を考えるのが常なので、事前の打ち合わせはあまり丁寧には行いません。たいていは大筋の流れを決めて、あとは私の方で対応しますからと言って打合せが終わります。研修担当の方はきっと不安な気持ちでいっぱいだと思います。それでも、私を信じて任せていただいているのだと思うとありがたい気持ちになります。
この学校では、模擬授業は初めての試みなので、最初に子ども役へのお願いや進め方についての話を少し丁寧にすることにしました。余計なことを考えずに子どもになりきって授業を受け、どんなことを感じた、考えたかを素直に話し合ってもらえばいいことをしっかりと伝えておきたいと思います。どの研修でもそうですが、授業について考える、話し合うことは楽しい、研修は楽しいものだ、そう思っていただけるものを目指します。

研修担当者には申し訳ありませんが、私自身この研修がどのような展開を見せるかよくわかりません。どうなるかわからない、そのドキドキ感を楽しんでいるといってもいいでしょう。ライブ感覚と言ってもいいかもしれません。次回も参加したいと思っていただける研修になるよう努力したいと思います。

読み物資料を使った道徳授業の進め方を伝える授業

昨日の日記の中学校では校長自らが道徳の授業を公開しています。この授業を参観させていただきました。

読み物資料を使った道徳授業の基本的な進め方を自校の教師に伝えようという目的がよくわかる授業でした。指導案に代えて「道徳授業づくり 研究メモ」と題した2枚の印刷物が用意されていました。読み物資料を活用するポイントである主人公の心の変化を想像させることを意識して資料を選び発問を考えたこと。また授業の評価のための発問を準備していることがわかります。読み物資料を範読するポイントを意識した上で、考える時間を確保するために資料の一部をカットしています。そのカットの場所からも、読み物資料では主人公の気持ちを想像することに重点を置くというポイントが見えてきます。板書計画も主人公の気持ちの変化を明確にすることを意識したものになっています。このメモを見ることで読み物資料を使った道徳の授業の構成のポイントが見えてきます。

この日の資料は、看護師になって3年目の主人公が、母校の「卒業生に学ぶ会」で自分の仕事について話をしたあと、自分の仕事を美化しすぎたのではないか、これでよかったのかと思ったが、いろいろ振り回された気難しい患者が「あんたのような看護師でよかった」と言っていたことを知り、もう一度在校生に話をしたいと思うようになったという話です。
授業者は、この授業で主人公の気持ちを「思いっきり想像して」と前置きしてから、範読します。資料は渡しません。資料を渡すとざっと読んで内容をわかった気になることがよくあります。そうではなく、自分の話に集中させて、子どもたちの心に資料の内容を焼付けようというのです。
「次だよ」と次の文章が大切だということを示してから読んだり、途中で止めて主人公の気持ちを考えるポイントとなる、「優等生」や「美化」という言葉がどういうことかを何人にも確認したりします。途中まで下を向いていてあまり真剣に聞いていないように見えた子どもも、こういうやり取りの後、しっかり顔を上げて聞くようになりました。主人公の心が現れている「今日はこれでよかったのだろうか」という言葉が出た時に板書します。全部読み終ってから、子どもたちに内容の確認をする道徳の授業に出会いますが、時間がもったいないと思うことがよくあります。その場でポイントを板書することで、子どもたちは内容をしっかりと理解できます。国語では自分で本文から読み取る力をつけることが大切になりますが、道徳は国語ではありません。いかに早く資料の内容を理解させるかがポイントです。
手に余る患者さんとのやり取りの場面に入る前には、「ああ、何か起こるんだなあ」と予告します。大切な場面なので集中させようというのです。「あんたのような看護師でよかった」という言葉を聞く場面では、「受け入れられる」「明るくなった」というキーワードを強調します。
これらのことは簡単なことに思えますが、資料を読みこんで、どこがポイントか、どの言葉がキーワードかをしっかり教材研究していなければできないことです。
範読が終わった時点で、子どもたちの内容の理解はほぼ完璧です。ここまでの時間は授業開始から10分少々です。子どもたちが考える時間はたっぷりあります。

子どもたちに主人公の心の変化の理由を問いかけます。子どもたちはすぐに鉛筆を持ちますが、鉛筆の動きは速くありません。真剣に考えているから、すぐには動かないのでしょう。道徳では、鉛筆がなかなか動かなかったり、途中で止まったりする方がより深く考えているように思います。
「途中でもいいから」と止めてから、全体での話し合いに入ります。まだ書いている子どもがいるからとだらだら引き延ばすよりも、これから考えを深めたいので、そちらに時間を使うことを優先したのです。
8人の話を聞いてから話し合いに入ります。この学校の子どもたちはとてもよく育っています。自分の考えを発表することに慣れています。しっかり聞くこともできます。誰もメモを見ないで、自分の言葉で発表していることが印象的でした。中には、論点が少しずれている子どももいます。整理できずに長々としゃべる子どもがいます。授業者は無理やりまとめたり整理したりせずに、しっかり受け止めて次に進みます。ここは、考えるための呼び水なので、内容を整理したりまとめたりすることにこだわらなかったのでしょう。8人が発表し終わったところで、「違う、加えたい人いる?」と聞いて、「すごい視線で見ていた」と具体的にほめてから一人の子どもを指名しました。よく子どもを見ています。

この患者さんと出会って変わったという意見に対して、看護師を3年間やってきて変わらなかったのに、ドラマみたいにそんな短期間で変わるといったことは起こらないという意見が出てきました。授業者はこの意見の違いを論点とすることに決めたようです。このAさんの意見と他の子どもをつなぐことにしました。「Aさんの考えが理解できた人は○、そうではないという人は△を書きなさい」と指示して挙手させます。それぞれの立場を明確にすることで、全員参加させようというわけです。
「患者との人間関係について考えていないはずはない」「いや深く考えていないだけだ」といった意見のやり取りが続きます。授業者はこの患者さんとの「出会い」をキーワードとして「出会わなければ、もう一度在校生に話したいと思わなかったか」と発問し、まわりと意見交換させました。「一生懸命にしゃべっていた○○さん」とここでも子どものよさを具体的にほめて指名します。子どもたちを本当によく見ています。
「出会いによって変わっているけど、出会わなくても変わっているはず」という意見に対して、再び意見を交換します。「3年間そこに気づけなかったが、(母校の在校生に)話すことで振り返ったからきっと変わった」「その仕事場の経験で変わっていくもの」「好きな仕事だから嫌いな部分がある。そんな気持ちがかわるにはきっかけがいる」と意見がつながっていきます。子どもの話を聞く姿勢から、どんどん集中していくのがわかります。どうしても自分の意見を言いたくなって挙手した子どもは、この主人公のことを自分のこととして話していました。
「出会ったから変わる」「出会わなくても変わる」どちらかに結論づける必要はありません。当初授業者がねらっていた、働くことの意義とは違うところにいってしまいしたが、子どもたちの心は十分耕されたように思います。

授業の評価として、「次に在校生に話すとしたら、こんなことを話す」ということを書かせました。子どもたちは深く集中していました。
全員に一つずつ発表させます。ほとんどが、患者さんとの「出会い」に関することでした。この仕事をやっていてよかった、苦しいこともあるけれど人の役に立てているといった仕事の意義や自己有用感に関することはあまり出ませんでした。しかし、子どもたちの書いたものにはちゃんとそういうことが書かれていたようです。一つずつとしたので、出てこなかったようです。授業者は「前の人と違うことを言って」とすればよかったかもしれないと言っていました。この授業でねらったことは達成できていたようです。

子どもからたくさんの言葉を引き出し、その言葉を活かそうとする授業でした。思わぬ子どもの言葉を受けて発問や流れを変えていけるのは、授業者に力量があるからです。その部分をすぐにまねすることはできないかもしれませんが、読み物資料を使った道徳授業の流れやポイントは参観者に伝わったのではないかと思います。まさに、わかりやすく「伝える授業」でした。こういう授業を参観する機会を日常的に得ることができるこの学校の先生方はとても幸せだと思います。私が授業を見るプロなら、この校長は見せるプロです。とてもよい学びをさせていただいたことに感謝です。

国語の授業とは何かを問い直したい授業

教師力アップセミナーで野口芳宏先生にご指導いただくための授業撮影を中学校で行いました。一人の若手教師が同じ国語の授業を2つの学級で行いました。

市全体で学び合いを進めています。子どもたちは人の話を集中して聞くことができます。どんな先生でも落ち着いた授業が成立します。それだけに子どもたちにどれだけの力をつけたかが問われます。
授業者は「言葉の力」と板書して、言葉の力とはどんなことか「予想」させます。予想ですので根拠のあることを話すわけではありません。筆者の言う「言葉の力」とはどういうことかを課題として読み進めるのであるなら別ですが、興味を持たせるためだけのものであるならば、テンポよく進めたいところです。しかし、他の場面とまったく同じように時間をかけます。
本時の学習のめあて「1段落の要点をまとめよう」を板書しながら、顔上げ1回で書くように指示します。板書の間、子どもたちを見ていません。指示する前に写している子どもがほとんどです。何のための指示なのかよくわかりません。また、このめあてを強く意識させたいということなら、これに続く活動もそのことを意識したものになってしかるべきですが、どうもそういうわけでもなさそうです。

全文を教師が範読します。途中、ページをめくらないように指示します。桜から桜色の染料取り出したという記述まで読んだところで、色をどのようにして取り出したかを「予想」させます。そのために答えが書かれているページを読まないように指示したのです。わざわざめくらないようにと注意をしたので、一生懸命読んでいる子どもがいたのはご愛嬌です。ここでも予想です。予想することで答の意外さを感じさせたいのでしょうが、国語の力とは何の関係もありません。それとも、文章を読みながら次はどう展開するか予想しながら読む力をつけたいのでしょうか。こういう力も必要なことはわかりますが、それにしても根拠なく予想させてもあまり意味がありません。想像しているだけです。わざわざ取り上げるのだから意外なことが答のはずだと樹皮を予想させようというのでしょうか。国語という教科は、数学と同じように論理的な教科だと思っています。読書とは違うのです。授業者は想像を根拠に基づいて考えることと勘違いしているのでしょうか。国語という教科をどうとらえているのか聞きたいところです。
子どもたちは何を意識して授業者の範読を聞けばよかったのでしょうか。この活動が「1段落の要点をまとめる」ということとどうつながるのかよくわかりません。本来要約や要点は該当箇所だけから読み取るべきものです。他の部分を受けたり、つなげたりすることもありますが、1段落では受けることはありません。1段落の内容を理解するのに後から出てくる具体例を使おうという展開もありえるのですが、そうではありませんでした。

読み終わったところで、この文のジャンルを問います。「説明文」という答に「ちょっと違う」と返します。なぜ説明文と考えたのか、なぜ違うのか根拠がまったく問われません。随筆という答が出たころで、正解となります。なぜ随筆なのかという根拠は説明されませんでした。別の学級では、数人指名して「説明文」という答が続いた後、「他にはどんなものがあったか」と問い返し、「随筆」という答が何人かでたところで、授業者が随筆だと断定しました。これでは、子どもは教師の求める答探しをしているだけです。わかる、できるようになる手立てがありません。愕然としました。

続いて、形式段落の数を問いかけます。形式段落の定義がわかっていれば小学生でもすぐにできることです。しかし、このことにも時間をかけます。ここまで、子どもたちは、国語の力をつけるための活動を何一つしていません。
1段落の内容を読み取るために、各自で音読させます。子どもたちは恐るべき速さで読みます。私でもこの速さで音読して内容を理解できるとは思えません。授業者は日ごろから早く読むことを求めているのでしょうか?活動の目的がわかりません。
読み終わった後で、1段落で言っていることがわかるかどうか問いかけます。めあてと微妙に異なっています。野口先生方式で、わかる人は○、わからない人は×を書かせ確認します。わからない人がほとんどです。そもそも、筆者が言っていることがわかるとはどういうことなのでしょうか。説明文であれば要旨を正しくまとめることができることと言えますが、この文章の場合はどうとらえればいいのでしょうか。わかっているかをどう確認するのでしょうか。それとめあてとの関係はどうなのでしょうか。そんな私の疑問をよそに、唐突に「1段落に表現技法が使われている。気づいた人」と問いかけます。わかることと何の関係があるのかわかりません。せめてどんな表現技法があるか、それはどういうものかを整理してから問いかければ、少しは意味のある活動になったのですが、それも無しに、ただまわりと相談させます。挙手させますが数人です。結局、気づいた子どもが答を伝えて終わりです。そのあと、擬人法について説明します。擬人法とめあてにどういう関係があるか最後までわかりませんでした

1段落でどの文が一番大切かを問いかけ、擬人法が使われている第4文であることを確認して、1段落を「要約」させます。「要点をまとめる」ということは要約のことだったようです。国語の教師は言葉を大切にすることが求められますが、非常に雑に言葉を使います。要約にするにあたって、「ムダなものを省いて、膨らませる」といったとんでもないことを言います。筆者の書いていることを簡単にまとめるのであって、勝手に言葉を足すというのはあってはならないことです。読書ではないのです。感想でもないのです。読解です。こういう授業を日ごろからしているのでしょう。子どもたちは本文とは直接関係のない言葉を勝手に足します。世に言う空中戦です。子どもたちの勝手な解釈で話は進みますが、授業者は「意味がわかってきた」と評価します。意味がわかるとはどういうことなのか授業を止めて聞きたいと思いました。最後に、子どもたちにもう一度言っていることがわかったか確認します。ほとんどの子どもがわかったと手を挙げます。本当にわかっているのでしょうか。そう思っているのなら恐ろしいことです。高校では、根拠なく文章を自分勝手に解釈する子どもたちに閉口するということをよく聞きますが、こうやって作られているのかもしれません。もし、わかっていないのにわかったと言っているのなら、授業者への気遣い、礼儀なのかもしれません。いずれにしても、活動あって学びなしという授業でした。国語という教科はどういう教科か問い直してほしいと思いました。

子どもたちがとてもよい状態なだけに、「もったいない」という言葉が頭から離れません。この学校の校長が「鍛える」ということを意識するのは当然です。しかし、その思いはなかなか伝わらないようです。校長の苦しみが伝わってくるような授業でした。
後日聞いたところ、授業者も自分の授業を変えなければと反省しているようです。まだ若い先生なので、これからいくらでも変わっていけると思います。成長を待ちたいと思います。
また、私がこの授業者を直接指導するとすれば、どうアドバイスすればいいのだろうかと、とても悩みます。不謹慎なことですが、野口先生がどのような指導をされるかとても楽しみです。今年も野口先生のセミナーからたくさんのことが学べることと期待しています。

若手の授業で考える(その2)

前回の日記の続きです。

6年生の国語は同じ部分と同じ音を持つ漢字(形声文字)の学習でした。
授業者は明るい表情で、子どもたちを受容する雰囲気があります。パソコンをフラッシュカードとして利用して漢字の読みの練習をします。上手な使い方なのですが、パソコンにくっついて操作していることが気になります。ワイヤレスマウスを活用したいところです。
同じ部分を持つ漢字が入る穴埋め問題に取り組ませます。子どもはそのことを意識していません。手詰まりになった子どもは集中力が落ちます。そこで授業者がヒントを出すことで子どもの集中力は戻りました。全体で1問解いて、共通点を意識させてから取り組むとよかったかもしれません。
同じ部分や同じ音を持つ漢字を調べようという課題ですが、授業者は部首やつくり、音や訓という国語の用語をきちんと確認していません。また、これまで学習した漢字の成り立ちと関連付けていません。形声文字という言葉を最初に出す必要があるかどうかは別にして、どこかで押さえたいところです。
授業者は指示を出した後、ちゃんと確認していました。「早い人がいますね」とほめることも意識しています。しかし、6年生ともなると自我が発達していますから、漠然とほめても自分がほめられたとは意識しません。「○○さん早いね」と固有名詞でほめるようにするとよいでしょう。
男子のテンションが上がり気味です。授業者が反応を受け止めてくれるのでつい調子に乗るようです。男子のテンションに反比例して女子のテンションが下がります。何でも受け止めるのではなく、授業に生かせることは、全体の場で公的に発言させ、そうでなければ無視をすることも必要だと思います。
教科書の問題を解いた後、グループで穴埋め問題を作ります。漢字辞典を全員に配ります。漢字辞典を使う必然性があるよい課題です。漢字辞典の音訓索引を使うとよいとヒントを言います。ここでも音訓という用語をきちんと押さえませんでした。グループの代表を集めて発表用の用紙を配り、どのように使うかの指示をします。この間他の子どもは何もすることがありません。たとえ代表が書記の仕事をするにしても、全員が理解しておく必要はあると思います。全体に説明すればよいのです。
グループで発表するといっても、みんなで考える必然性はありません。どの問題がよいかという評価基準もありません。どうしても子どもたちのテンションは上がってしまいます。それぞれが作った問題がちゃんと条件にあっているか確認をするといった役割を互いに持つことが必要だと思います。
子どもたちは音訓表を見るだけで問題を作っています。一つひとつの漢字を調べてはいません。全体で一度、漢字辞典にどのような情報が載っているかを確認するとよかったでしょう。「形声」という漢字の成り立ちの種類も書かれています。音、訓、部首といった情報もあります。それぞれの用語を確認すれば、形声文字について理解でき、辞典を引く必然性がより大きくなったと思います。音と訓を混乱して、「会」うと「合」うで問題を作っている子どももいましたが、こういった勘違いも減ったと思います。
各グループが作った問題を全体で解くのですが、正解かどうかを授業者が行っていました。これは出題者にさせたいところでした。
授業者は子どもとの関係がよく、しっかり受け止めることができますが、まだ発言者や反応する子どもにしか視線がいきません。全体をよく見て、全員が参加できることを意識してほしいと思います。

授業研究は5年生の社会科の授業で行われました。日本の米作りの課題について考えるものでした。
子どもたちに朝食で何を食べたかをたずね、パンを食べている家庭が多いことに気づかせます。そこで、田んぼの一部が休耕田となっている写真をディスプレイに表示させ、気づいたことを発表させました。稲が植えられていないという発言に対して、授業者はうなずきながら「なるほど」としっかり受け止めます。何人かに意見を聞きますが、どの意見に対してもきちんと受容ができています。なかなかのものです。友だちの意見に対して、鳥がたくさんいることを付け加えた子どもがいました。授業者はその意見もちゃんと受け止めたのですが、最後に「みんな同じことを言ってくれた」とまとめました。みんな同じと言われると、違うことを言ったつもりの子どもにとっては、自分の意見が認められなかったと感じてしまいます。ここは、「共通して言っていることがあったね」とまとめるとよかったでしょう。
授業者はなぜ米を作らないのかという疑問を持たせた後、「三ちゃん農業」という言葉を表示しました。もちろん何のことか子どもにはわかりません。授業者はこの授業でわかるようになると、子どもたちに意識をさせるだけにして先に進みました。「三ちゃん農業」がキーワードとなって、この言葉を理解することがこの授業のねらいにつながるのなら、こういう提示もあると思います。
子どもたちにワークシートを配ります。ワークシートには「年齢別農業人口のうつり変わり」「農家数のうつり変わり」「米の生産量・消費量と古米の在庫量のうつり変わり」のグラフが印刷されています。資料を見て気づいたことをワークシートに書かせます。「気づいたこと」という発問では、よほど鍛えていないとなかなか資料を読み取ることができません。資料を読み取るための視点を明確にしておく必要があります。「グラフを見るときは、どこに注目すればよかった?」と問いかけ、今までの学習から「一番大きいところ、小さいところ」「増えているか減っているか」「変化の大きいところ、少ないところ」といったことを事前に整理しておきます。また、資料に使われている用語の意味などの確認も必要です。読み取るための足場を作っておくことが大切です。
授業者は気づいたことと言いながら、活動に入る前に「日本の農業のかかえている問題点の本質」を考えてほしいと付け加えます。資料を読み取ることと、読み取ったことをもとに考えることは別のステップです。今はどちらの活動かを明確にしないといけません。できた子への指示というのならよいのですが。
グループで気づいたことを聞きあうのですが、その活動の目標がはっきりしません。友だちの意見を聞いて自分のものに付け足すのか、意見を出し合って、その上で何かを考えるのかといったことが明確でないので、ただワークシートを読みあっています。子どもの目線が交わりません。
資料が3つなので時間が足りなかったようです。子どもたちから時間がほしいという声が上がりましたが、授業者は予定の時間で切り上げました。資料の読み取りがこの日の主課題ではないので、よい判断です。
子どもに気づいたことを発表させますが、子どもの言葉が足りなくても授業者がまとめて板書します。発表者も、他の子どもも授業者を見ています。授業者がまとめるので、聞く必要がないのです。授業者は「同じような意見の人」とつなごうとしますが、一部の子どもが手を挙げるだけでなかなかつながりません。気づいた結果だけを発表するので、つながらないのです。どこでそう考えたのか、資料に戻ることが大切です。その根拠を共有することで、「納得した?」「そう言える?」と気づかなかった子どもにも参加をうながせますし、「資料の同じところから別のことに気づいた人いる?」とさらに深めていくこともできます。
一人の子どもが、手元の資料を見ながら長い説明をしてくれました。しかし、ただ聞いていても何が言いたいのかよくわかりません。授業者は受容だけして、次の子どもを指名しました。これでは、子どもたちは友だちの考えを理解しようとしなくなります。本人を前に出させ、資料を一つひとつ確認しながら説明させてほしいと思います。
授業者は農業従事者が老齢化していることを押さえて、「三ちゃん農業」の説明をしました。ここでこの日の主課題「今後、米作りは必要なのでしょうか?」に取り組ませます。「日本の未来を考える」ことにつながると言いますが、子どもにとってはどういうことかわかりません。また子どもたちから出てきた疑問でもありません。「このままいったら、誰も米を作らなくなる?」「休耕田があったけれど、農家の人は米を作りたくないの?」といった揺さぶりをしてから、課題を提示したいところです。
さて、ここまで資料から読み取ったのは、農業人口が減っていること、老齢化していること、米の生産量も消費量も減っていることです。この日の主課題を考えるには、内容的にはかなり偏っています。輸入や自給率についての資料も必要です。子どもたちは資料をもとに考えをまとめることはできません。グループで活動しますが、客観的な根拠がないので、テンションが上がります。
子どもたちに考えを発表させます。「米を作らないとおすし屋がつぶれる」「米のパンを作れるから、米を作ればいい」といった面白い意見も出ますが、思いつきの域を超えていませんでした。授業者はここで、米の輸入のグラフを見せます。授業者がおいしいところを持っていきます。どんな資料がほしいかを聞いてから出すのならいいのですが、あとから出すくらいなら最初から出してほしいと子どもは思います。ここからは、まったく考えていなかった視点からの展開なので、多くの子どもは話し合いについていけません。手遊びが増えていきます。課題を焦点化してもう一度グループに戻して考えさせたいところですが、その時間も深めるための資料もありませんでした。授業者は、「(米作りを)変えていかなくてはならない」とまとめましたが、何が問題かは明らかにならないままでした。
最初に3つもの資料の読み取りをしないで、どれかひとつに絞って、先ほど述べたように、「誰も米を作らなくなるんじゃないの?」と問いかけ、おすし屋がつぶれるといった言葉を引き出し、そこから「米を輸入すればいい」「売ってくれないと困る」とつなげ、「米を作りが必要」「不要」についてそれぞれ何が問題なのかを資料をもとに考えさせればよかったように思います。
社会科の授業として何を考えさせたいのか、そのためにどのような資料が必要なのか、こういったことを意識して授業を組み立ててほしいと思います。

授業検討会では、この授業をもとに資料の使い方、グループ活動における必然性や目標、評価基準を明確にすることなどをお話しました。また、全体に共通なこととして、全員参加を意識してほしいことなどもお話しました。
皆さんとても前向きに話を聞いていただけました。この日お伝えしたことを何か1つでもいいのでやってみようと思っていただければ幸いです。

若手の授業で考える(その1)

今週の頭に、小学校で若手中心に4人の授業アドバイスをおこなってきました。市内の全小学校での授業アドバイスの一環です。この学校で一巡しました。

2年生の算数の授業は、dLの導入の場面でした。授業者は私たちが見ているのでかなり緊張しているようでした。落ち着かない子どもや支援の必要な子どもがいますが、授業者はこの子どもたちにかなりエネルギーをとられていました。机間指導も気になる子どもたちのところを回って指導をして終わってしまいます。そのため、他の子どもとのかかわる時間が少なくなっていました。
子どもたちが勝手に発言する場面が目につきますが、授業者はその発言をすぐに拾ってしまいます。きちんと全体に対して発言させ、共有することが必要でしょう。
1Lを10に分けた1つ分を1dLと定義します。1Lますに色水を途中まで入れて、目盛りを確認させます。小さくて見にくいので全員を前に並ばせて順番に見せましたが、時間のムダです。実物投影機があるのですから、ここは活用したいところでした。授業者が前に座って○付けをしました。順番待ちの間子どもが落ち着きません。○をもらった後、席のところでごそごそして他の子どもの集中を乱している子どももいます。授業者は○付けに集中して全体を見ることができていないので、適切な指導ができませんでした。教師が全員を回って○付けをするようにした方がよいでしょう。
与えた厚紙を1Lとみて、dL単位の目盛りを書かせるために、目盛りを9個書くように指示しました。子どもから「9目盛り?」という声がでました。納得できる疑問です。しかし、授業者は取り上げませんでした。発言した子ども以外にも同じ疑問を持った子どももいるはずです。子どもたちは指示されたとおりに活動することを求められていると感じてしまいます。これでは、次第に考えることをやめてしまう危険性があります。
1L=10dLとLとdLの関係を確認し、大切だから覚えるように指導しました。1Lを10に分けた1つ分を1dLと定義したのですから、そこから出てくる性質です。定義から導き出すことが必要です。大切だから覚えることではないのです。
授業者は授業後の全体会ではとてもよい表情を見せてくれました。緊張していたためいつものように授業を進められなかったようです。悪い言い方ですが、気になる子どもはちょっと放って置いて、まず大多数の子どもたちとの関係をしっかりつくることをお願いしました。2学期からもう一度関係を作り直すことをしてほしいと思います。

1年生の授業は音楽でした。
授業者はピアノを立って弾くことで、子どもたちの活動をよく見ていました。音楽が専門教科ということですが、納得させられます。
子どもたちはとても楽しそうに集中して活動します。全員がしっかり参加しています。1年生とは思えないほどです。
授業者は前でしゃべらずに子どもの中に入って指示をすることがあります。子どもとの距離を縮めようとしているのでしょう。死角に入る子どもたちは姿勢を変えて授業者を追いかけようとします。ところが、途中で追いきれなくなって集中力をなくします。これに限らず、黒板を向いている時など、授業者が子どもを見ていないと集中力が落ちます。そのため、板書を終わって前を向いた後すぐの活動は、必ずといっていいほど子どもたちがばらばらになります。活動に入る前にちょっと間をおき、集中させる必要があります。教師が見ていないと集中力が落ちるのは、教師がプレッシャーをかけていることが多いのですが、この授業者の場合はそうではありません。子どもは授業者との関係がよいので、見てくれている時に一生懸命に頑張ろうとしています。しっかり集中しているので、その反動で見ていない時は力を抜くのです。このことは悪いことではありません。ずっと集中することは、低学年では無理があります。授業者が理解して適切に対応すればよいのです。
一問一答の場面が多いことが気になりました。子どもたちは指名されたいので一生懸命に手を挙げますが、指名されないとがっかりします。ため息も聞こえてきます。子どもは友だちの発言をあまり聞いてはいません。授業者がすぐに発言を板書するからです。また、板書をしている間は先ほど述べたように集中力が落ちます。他の子どもにつなぎ、発言の内容を全体で共有し、もし板書するならその後にするとよいでしょう。また、たくさんの子どもが挙手をする場面でも1割くらいの子どもは手を挙げません。ここで指名しても数人しか活躍ができませんし、挙手しなかった子どもは参加することはありません。このような時は、隣同士やまわりで確認させるとよいでしょう。子どものしゃべりたいという欲求を満たすことができますし、わからなかった子どもも友だちの答えを聞くことでわかるようになります。
言葉にリズムつける活動で、子どもたちに好きな言葉を選ばせました。テンションが上がります。字数の制限などをつけるとテンションの上がりすぎを抑えることができます。思いつくままの活動はテンションが上がりやすいことに気をつけることが必要です。
リズムを手で打ちながら言葉を言うのですが、友だちの発表がよくわからないことがありました。授業者は「どう」と聞きますが、反応はいまひとつでした。そこで授業者は「タン」「タ」と書いた丸い色紙を言葉の下に貼りました。リズムを視覚化することで子どもたちは一気に集中が戻りました。うまい方法です。
この活動の途中で、支援を必要とする子どもが「言えない」と軽いパニックになりました。これまでは短い言葉だったのでリズムをとって言うことができたのですが、長い言葉になってうまくできなくなったのです。授業者は子どものそばに行って落ち着かせました。あまり長くかかわると他の子どもが嫌になってしまうので、きりをつけて先に進みます。よい判断だと思います。次は今まで練習していたいくつかの言葉を続けてリズムをとる活動です。4つの言葉の順番を子どもに決めさせます。指名した子どもは一番長い言葉を最初にしました。この活動のとき先ほどの子どもは気を取り直して参加しました。一生懸命にリズムを取ろうとしたのですが、長い言葉の途中で挫折してしまいました。結果論ですが、最初は短い言葉から順番に言うように授業者が指示して活動すれば、その子ども最初はうまくやれて気分が変わったかもしれません。支援を要する子どもの対応は難しいのですが、どのような活動なら参加できる、どれくらいまで相手をしなくても我慢ができるかといったことを把握し、学級全体とのバランスを意識してあまりかかわり過ぎないようにすることが大切です。
授業者は子どものつぶやきをうまく拾います。「○○さん、いいことを言った。みんなに言って」と全体に対して言わせます。できれば、「言って」ではなく、「聞かせて」とIメッセージにした上で、「みんなで聞こう」と全体に声をかけたいところでした。
子どもが間違えたことを発言したときに、「ちょっと違う、おしい」とフォローして座らせましたが、発言した子どもの表情は少し暗くなりました。しばらく顔が上がりません。次の問いに移るまでちょっと沈んでいました。こういう場面は、「なるほど、・・・と考えたんだね」と受容して、他の子どもを指名します。子どもの考えを対比して、間違えた子どもに再度確認し本人に修正させるのです。間違えたままにせず、最後は必ず自分で修正したことをほめて終わるようにします。低学年では子どもの立ち直りは早く、この子どもも次の問いには元気よく手を挙げていましたが、自我が発達してくる中学年以降は間違えることを嫌がるようになります。このようなことが続くと積極的に挙手をしなくなるので注意が必要です。
音楽教室からの移動は番号順に整列してから授業者が先導して行います。学校のルールか授業者のルールかわかりませんが、低学年では必要なことだと思いました。
授業者は、経験年数は少ないのですが、基本的なことがよくできていました。その分、指摘すべきことがたくさん見えます。とても前向きな方なので、アドバイスをしっかりと受け止めてくれたように思います。あせらず、できそうなことから試してみてほしいと思います。

残り2人の授業については次回の日記で。

介護研修で、コミュニケーションスキルの共通性を考える

先週末に、介護技術の研修をおこなってきました。今回は「排泄介助」がテーマです。実務担当者の助けを借りながらの研修です。

排泄は非常にプライベートな行為です。他と比べてもより利用者の気持ちに配慮した介助が求められます。また、老化や病気などにともない、失禁といった排泄の失敗はどうしても起こってしまいます。排泄の失敗は精神的にもこたえます。よく観察し予見することで、できるだけ未然に対応したいものです。そのためには、何が原因でどのようなことが起こるかの知識は欠かせません。失禁一つとっても様々な原因が考えられます。介護職員の方には多くの知識が求められることを改めて感じました。

今回は、おむつ交換のポイントを、訪問介護のエキスパートの方に実演しながら教えていただきました。その技術もさることながら、利用者とのコミュニケーションの取り方に感心しました。オムツ交換は、利用者にとっては恥ずかしい気持ち、申し訳ない気持ちなどが混じって精神的な負担の多いものです。利用者の精神的な負担を少しでも軽くするような声かけに感心しました。同じことを伝えるのにもちょっとした言葉の使い方で、命令に聞こえたり、こちらの意向を聞いてくれているように感じたりします。利用者の「嫌だ」という言葉に対しても、「そうだね」と受容して、「できるだけ早くするから、きれいにしましょうね」と前向きな言葉をかけます。そして、協力に対して「ありがとう」の言葉を忘れません。
このような接し方は、教師の子どもに対する接し方とも共通するものがあります。子どものよい面を引き出し、よい行動を増やしていくことは、「○○しろ」という命令では決してできません。「○○しよう」「やってみよう」と、子どもに寄り添い、一緒にやろうという姿勢が大切です。
コミュニケーションスキルには、仕事や対象にかかわらず共通のものがあることを、いつものことながら感じさせられました。

今回、利用者役も訪問介護のエキスパートの方がやってくださいました。なるほど、利用者はこういう反応をするのかと納得させられます。毎回、実務担当の方の力添えのおかげで、私のような素人でも研修が成り立っています。皆さんの協力に感謝です。

チームで考える英語科

先週、私立の中高等学校で授業アドバイスを行ってきました。

夏休み前ということで、子どもたちの様子が気になります。朝から集中力を失くしている子どもが目立つ学級と、ほぼ全員が集中している学級があります。1年生のように学年全体が比較的よい状態であっても、学級差があるのです。実はこの学級差は教師の差でもあります。授業者が一方的にしゃべっている授業では子どもは厳しい状態です。この学校の子どもたちは、受け身の時間が長いと集中力が持たないのです。国語科の若手がグループを使った授業に挑戦していました。まだ、始めて2回目ということでしたが、子どもたちはよく参加していました。グループ活動の有効性を実感してくれたようです。グループ活動のポイントはまだわかっていませんでしたが、前向きな姿勢が評価できます。ゴールや目標、評価基準を意識し、グループになる必然性のある活動を目指すことで、きっと大きく進歩していくと思います。

気になる子どもが何人かいるために授業が進めにくいという学級を観察しました。確かに目につく子どもがいますが、この日は、たまたま落ち着いていたということで、それほど問題となる状態ではありませんでした。それよりも、意欲のある子どももたくさんいるのに、その子どもたちが活躍する場面があまりないのが気になりました。受け身の時間が続き、次第に集中力が落ちてきます。活動を小刻みにして、作業を適宜入れるといった変化を与えることが、この子どもたちの集中力の持続に効果的だと思います。便覧などを使って活動をさせようと思っても、手元に準備していない子どもがその度にロッカーに取りに行きテンポが悪くなります。実物投影機などを使うことで解決できる問題ではありますが、各教室ですぐに利用できる状況ではないので、なかなか活用が進みません。この点を改善できるように働きかけたいと思います。
気になる子どもは、先生が注意をすると、かえってその後まわりの子どもに声をかけたりしてじゃまをします。ペアレントトレーニングの発想で、気になる行動でも他者に影響を与えないものはできるだけ無視して、その行動が収まった時にほめ言葉をかけることを提案しました。やる気のある子どもがたくさんいる学級なので、その子どもたちにとってよい授業をまず目指すことが大切だと思います。

この日は英語の授業のアドバイスが主目的でした。授業前に英語科の先生からGDMについて質問が出ました。以前に紹介したことがあったのですが、今回は非常に熱心です。学力は全般的に低いのに英語力だけが非常に高い子どもがいて、聞いてみると中学校時代はGDMで学習していたというのです。この子どもにこれだけの力をつけるということは本物だと興味を持ったのです。同じ学校の出身者が何人かいるようですが、英語力はみな高いようです。子どもたちから授業で使っていたワークシートを手に入れたりもしていました。英語科で話を聞きに行きたいと非常に前向きです。先生方は授業スタイルがよくわかっていなかったために、ワークシートが主体だと思われていたようです。私から、授業のスタイルを説明した上で、次回訪問時に資料をお渡しし、概略を理解していただいた上でこの先どうするかを決めることにしました。
高校1年生の授業は、前回私が提案したバディ(相棒)を活用したグループ活動が中心でした。
子どもたちは英語の授業に期待感があるのでしょう。復習問題をやっている時でも、集中力が違います。この日のグループ活動は、友だちのプロフィールを聞きあって、そのプロフィールを元に紹介文をつくるというものです。ペアで会話をし、質問する側の子どものバディはプロフィールを聞き取りメモして渡します。授業者は「しっかりメモしてあげないとバディの人が紹介文をつくれなくて困っちゃうよ」とプレッシャーをかけます。「大変だあ」という声が上がります。子どもたちは決して後ろ向きな姿勢になったわけではないのですが、「しっかり助けてあげてね」といった前向きな表現で伝えたいところです。この活動で気になるのが、プロフィールを質問される子どものバディに明確な役割がないことです。4人のうち1人が手持ち無沙汰になってしまいます。授業者は会話の時の視線や表情などにも注意をするように指示していたので、バディのよかったところを伝えるといった役割を与えるとよかったでしょう。
中には活動にうまくは入れない子どもがいます。授業者はその子どものところに行き声をかけます。ここで意識してほしいことは子ども同士をつなぐことです。参加できない子どもだけに声をかけると、他の子どもたちはその子どもは先生がかかわってくれるから自分たちには関係ないと思う危険性があります。こうならないために、必ず他の子どもにも声をかけ、一緒に活動するように働きかけてほしいと思います。
子どもたちは、積極的に活動しますが、テンションが高めなことが気になります。この活動の評価基準が明確でないため、活動そのものが目的化していることが原因のようです。このことにも注意が必要です。
早く終わっているグループが遊び始めています。授業者はいったん活動を止めて、追加でオリジナルの質問を考えるように指示をしました。ところが、子どもたちはなかなか集中しません。いったん集中が途切れてしまったことと、とりあえずやるべきことは終わっているからと気持ちが弛んでいることが原因です。最初からオリジナルの質問までをゴールにして、進め方を、まず用意された質問をする、次にオリジナルの質問をすると2段階にするとよいでしょう。途中でも第1段階が終わっていれば、紹介文をつくる活動に移ることができます。子どもたちは、遅くても待っていてもらえると安心しているところがあります。そうではなく途中で終わることもあると意識させて、素早く進めなければと集中力をアップさせることも必要なのです。
授業者は、最後に「バディを頑張った人」と聞いて挙手させました。高校生ともなるとなかなか自分で頑張ったとは手を挙げません。ここは、「バディがいて助かった人」と聞きたいところです。この他にも評価の視点をたくさん用意しておいて「バディが○○できていた人」といくつも聞いてあげれば、バディの仕事の必然性も生まれてきます。

空き時間の英語科の先生が何人も参観していました。授業後も手の空いている先生方が集まって一緒にアドバイスを聞こうとしてくれます。この学校の英語の授業をよくしていこうとチームで考えています。これはとても素晴らしいことです。今はグループを活用することで子どもたちの授業への参加を促していますが、一歩を進んで英語力をどうつけていくかに悩んでいます。その突破口としてGDMが使えないかというわけです。GDMが活かせるかどうかは別にして、こういう前向きな姿勢であれば、必ずよいものが生まれてきます。この学校にあった英語の授業メソッドがきっとできることでしょう。私もできるだけのお手伝いをしたいと思っています。

子どもの姿と授業のずれを感じた中学校

先週、8月に現職教育を予定している中学校へ授業参観と打ち合わせに出かけてきました。ご存知の方も多いかと思いますが、私は学校での講演は原則として授業を見せていただかなければ引き受けないことにしています。子どもたちの様子を見ないでお話をしても、学校の実態に合った話ができないからです。今回も講演を依頼されたのですが、現職教育の内容として講演がよいのかどうかの検討も含めて授業参観をお願いしたところ、すぐに快く承諾していただけました。ありがたいことです。

子どもたちを見た第一印象はとても落ち着いていることです。この市の公立校への訪問初めてですが、なかなかのものだと思いました。ところが、教室を回っているうちに違和感を覚えました。子どもたちの状態と先生方の授業にずれがあるのです。
先生方は子ども一人ひとりを見ていません。音楽の授業では、伴奏をしている教師は譜面ばかりを見ていました。授業規律の徹底も意識されていません。子どもたちに鉛筆を置いて顔を上げるようにと指示をしても、全員の顔が上がらないのに話し始めます。また、子どもたちの発言をポジティブに評価する場面にも出会えませんでした。なるほどと受容できる人はいるのですが、教科としての価値づけがなされないのです。
このような授業ばかりだと、ふつうは子どもたちの状態はあまりよいものにはなりません。今はまだよくても、秋ごろには崩れる学級が出てきてもおかしくありません。しかし、この学校ではそのようなことは起こらないというのです。端的に言うとこの学校は子どもたちの質がよいということです。市内でも1、2を争う学力の子どもたちで、地区も落ち着いているそうです。市内には生徒指導上問題を抱えている学校もあるようですが、そういった心配のない学校なのです。ですから、先生方が特に意識をしなくても子どもたちは前を向いて落ち着いて授業を受けてくれます。先生方からは子どもたちにこうなってほしいという思いが感じられません。この学校に対する感想は一言、「もったいない」です。

校長は私と全く同じ思いをこの学校に赴任してきてすぐに感じたそうです。子どもたちに望めば、もっと高いところに到達できるのに、現状で満足しているのが残念です。特に何かしなくても子どもたちは落ち着いているので、授業に工夫が見られません。それどころか、本来忘れてはならない基本もおろそかになっています。体育のプールの授業では、子どもたちが泳いでいるところちゃんと見ていない場面がありました。事故の危険性のある体育ではあってはならないことです。子どもがちょっと羽目を外してふざけている時でもどの先生も注意をしませんでした。また、このままではこの学校しか経験のない若い先生が次の学校に異動した時に苦労することが見えています。私にお声がかかった理由がわかった気がしました。この危機感を管理職や教務主任、研修主任は共有できているようです。具体的にどのようにしていくかが課題です。

この学校にはユニークな授業研究のシステムがあります。教科・年齢の違う3人を組みにして、一緒に指導案をつくり、その授業を互いに見合うのです。このシステムには講師の方も参加します。講師の方の研修をどうするかが課題となることが多いのですが、一つの解決の方法だと思います。
この日はたまたま研修主任のチームの理科の講師の授業研究が行われていました。研修主任と一緒にこの授業をじっくり見せていただきました。酵素の働きの学習で、酢豚に入っているパイナップルがたんぱく質を分解することを実験するというものです。導入でパイナップルの入っている酢豚の写真を見せます。子どもたちは興味を示します。授業者はお店の話を交えながら酢豚にパイナップルが入っている理由を考えさせます。ワークシートに答を書かせますが、ムダな時間です。考えようにも根拠となる知識や資料がないので、思いつくことを書くだけです。そして、それを発表させて板書もします。ここまでは理科の授業としては何の意味もない時間です。そんなことに10分も使ってしまいます。しかも、板書には酸味を抑えるといったことが並ぶばかりで、この授業のねらいにつながるような「肉を柔らかくする」といった意見は出できません。それなのに授業者は、「今日はみんなに実験をしてもらう」と言って、コラーゲンにパイナップルをつぶした汁をかけて様子を見るという実験のやり方を説明します。何のための実験かは伝えません。そもそも、子どもたちは思いついたことを言っただけで特に疑問を感じているわけではありません。突然実験をすると言われても何がなんだかよくわかりません。発想は面白いのですが、理科の授業として何が大切か、どこに重点を置くべきかといった構想力に欠けていました。
パイナップルの入っている酢豚を見せて興味を引き、「何でパイナップルを入れているのかな」と全体に質問し、思いついたことを何人かに言わせます。「実は、肉を柔らかくするということを聞いたことがあるんだけど、みんなどう思う?本当だと思う人は○、そんなことはない嘘だと思う人は×をノートに書きなさい」と野口芳宏先生方式で進め、「○の人も×の人もいるね。こじゃあみんな、この時間は理科の時間だから、自分の意見が正しいと科学的に証明してほしいと思います。どんな実験をすればいいか考えてください」とすれば、導入は5分もかかりません。子どもたちに少し時間を与えて個人で考えてもいいし、グループで相談させてもいいでしょう。肉をパイナップルの汁につけるといった意見を出させてから、肉ではわかりにくいから、肉がタンパク質でできていることを確認した上で、たんぱく質の一種であるコラーゲンを使うとして実験を説明します。ここで、○×それぞれが正しいと証明されるには実験結果がどうなればいいのかを確認しておけば、結果がどうなるか興味を持って参加できると思います。
授業者は、子どもたちに背を向けて手順を板書し始めます。だれも黒板を見ません。子どもたちの集中力は一気に落ちます。あたりまえです。ワークシートには同じことが書いてあるからです。あらかじめ黒板に書いておいて隠しておく、紙に印刷しておいて貼る、ディスプレイに映す、いろいろ方法が考えられます。意味のないことに時間を使わないようにするべきです。子どもたちを授業者に集中させたいなら、ワークシートを配ってはいけません。手元に意識がいってしまうからです。こういったところにも配慮が必要です。
子どもたちは実験の手順を知らされただけで、目標も評価の基準も明確ではありません。一部の子どもだけがパイナップルをすりつぶしていますが、それを見ていればまだしも、ぼうっとしている子どもが多数います。当然と言えば当然ですが、子どもたちが落ち着いているといっても集中しているわけではないのです。
研修主任は実際に子どもたちの姿を見ることで、このことを理解してくれました。自分の数学の授業でこの視点を意識して子どもを見たところ、落ち着いているが集中していない子どもが結構いることに気づいたそうです。また、教科の視点で価値づけすることが必要だという私の話を聞いて、子どもの考えを数学的に評価してみたところ、評価された子どもはとてもうれしそうな表情をしてくれたようです。時間がなくて次の時間に持ち越したそうですが、授業後に子どもたちが黒板の前で説明を聞き合っている姿が見られたそうです。こんなことは初めてだと驚いたそうです。驚いたのは私です。その日のうちに試してみるというのはなかなかできることではありません。素直で前向きな証拠です。また、子どもたちも先生が望めばとても素晴らしい姿を見せてくれるということです。このことに気づいていただければ学校は大きく変わっていくと思います。

研修部の先生と教務主任を交え8月の現職教育をどうするか打ち合わせを行いました。実際の授業の子どもたちの様子を定点で撮影したビデオ用意して、それをみんなで見ながら私が解説するというのはどうだろうかといったユニークなアイデアも出てきました。その案も含めどのように進めるか、先生方で企画を練って提案してくださるそうです。講師におまかせというのではなく、自分たちにとって有意義なものにしようと考える姿勢はとても素晴らしいと思います。どのような形の研修になるか、私にとっても新鮮なものになることと期待しています。

学校からの現職教育の依頼は口コミが多いのですが、今回はどういう経緯なのか全くわかりませんでした。校長にお聞きしたところ、実はこの日記を数年前から読んでくださっていて、機会があればと考えていたそうです。以前の学校は生徒指導上の困難を抱えていてその機会がつくれなかったが、この学校に異動になって実現したということです。とてもうれしい話でした。校長は子どもたちの問題も教師の問題も実によく把握されていました。日ごろから校内の様子をよく観察されています。学校の課題解決に校長としてどのように取り組むかのビジョンが感じられます。いろいろな意味で楽しみな学校です。次回の訪問も私にとって多くのことが学べる1日になると思います。素敵な出会いに感謝です。

授業の進め方について考えさせられた1日(その2)

前回の日記の続きです。

6年生の算数は3年目の先生で、拡大縮小の授業でした。
子どもたちとの関係をつくることのできる方です。子どもたちが話を聞く姿勢になるのを待ち、最後の子どもの顔が上がった時に笑顔でうなずきました。経験年数の少ない方でこういったことが自然にできる方にはなかなか出会えません。ワークシートを配る時には「ありがとう」を言って子どもたちに手渡します。子どもたちも互いに受け取る時にありがとうを言います。よい習慣ですが、全員がありがとうを言えていないことが気になりました。おそらく最初は全員が言えていたと思いますが、しだいにゆるくなってきたのでしょう。先ほどの笑顔のように、何らかの評価をしてよい行動を強化維持することが必要です。
子どもたちに方眼紙を使わずに拡大縮小をするために「使えそうな道具」を考えさせます。前の時間に合同な三角形の描き方の復習をしたそうですが、もう一度最初に確認しておきたいところです。その日の授業で使う知識は最初に復習や確認をして、子どもたちの足場をそろえておくことが大切です。この授業であれば、拡大縮小の性質も押さえておきたいところです。
指名された子どもが「定規」と答えると、それに対して「いいです」と返ってきます。自分と同じ答だからいいではなく、算数的な根拠を意識させたいところです。数学の作図における定規は、直線を引くものです。長さを測るというのは、また別の使い方です。小学校ではあまりこだわる必要はありませんが、何に利用できるかは押さえておく必要があります。コンパスも、円を描く、同じ長さをつくるという2つのことを押さえておきたいところです。授業者は「定規」「コンパス」「分度器」以外の答も受容しますが、黒板には書きませんでした。受容はしているけれど結果的には無視です。それぞれがどういう理由で必要なのかといった根拠を元に、その道具がなくてもよさそうだと納得させる必要があるように思います。
指定した三角形の3倍の拡大図を個人で描かせます。途中で、できた子どもには他の描き方に挑戦するように指示します。最初に指示をしておくか、作業を中止させてから指示をすべきでしょう。授業者は3パターンあるという表現をしましたが、パターンという言葉が子どもたちどう伝わったかが気になります。元の三角形は、3つの辺の長さ、3つの角の大きさがすべて与えられています。従って、基本的に描き方は7通りになります。できるだけたくさんの方法で描かせて、それをパターンに分類することが算数的な見方・考え方を鍛える活動になります。授業者は、無意識に自分の考える結論に誘導しようとしていました。
続いて、グループで描き方を話し合うのですが、その活動の目標がはっきりしません。子どもたちは、自分の描き方を説明します。違うやり方の友だちに、自分の描き方をわからせようとテンションを上げる子どもの姿を目にします。できる子どもが自分の考えを友だちに教えることが目標のようになっていました。明確なゴールがないので、次第に子どもたちのテンションがおかしくなってきました。どの描き方がいいのかを話しているグループがありましたが、意味のない議論です。根拠がありませんから、テンションばかりが上がっていました。
指名した子どもが前に出て図を描きます。授業者は「描き方があっているか見ていてあげて」と子どもたち声をかけます。「あっているか」という表現はチェックの視点です。「自分の描き方と比べてみて」「同じかどうかよく見て」といった表現にしたいところです。
指名された子どもは、授業者の指示に従って基準となる長さを大き目にとって作図を始めたのですが、黒板での作業はとても時間がかかります。しかも、基準が長すぎて計算した長さにコンパスが開かなくて立ち往生してしまいました。授業者は事前に基準となる長さどのくらいとればよいかチェックしていなかったようです。焦った授業者は子どもを席に帰し、「○○さんと同じやり方で描く」と言って作図をしましたが、描き終ったあとに本人にこれでよかったか確認をしませんでした。○○さんと同じと言った以上、確認することが必要です。
大きく描くことは子どもたちにとってはとても難しいことです。実物投影機を使える環境にあったので、これを利用するとずいぶん状況が違ったと思います。
続いて他の描き方に移りましたが、今度は子どもに指示を出してもらって授業者が描きました。先ほどの子どもにもそうすればよかったところです。子どもの指示は決して正確ではありません。時間がなかったせいもありますが、授業者はとても物わかりのよい教師になっていました。「片方に角を・・・」と言われると子どもが思っている方に角を取ります。ここは、子どもたちに考えさせるためにも、物わかりの悪い教師になって、わざと角の場所を間違えたりしてほしいところです。反転した図や斜めの図を描いたりして、これではダメなのと聞き返すことで、子どもたちの視野も広がります。また、子どもたちのほとんどは、底辺を元に作図していましたが、こういった揺さぶりをすることで、他の辺を基準にしても描けることに気づいてくれたと思います。
時間がなかったせいもあり、拡大縮小の性質と、合同な三角形の作図を組み合わせて考えることの算数的な価値づけをすることができませんでした。授業のねらいを明確にし、そこを軸にして授業の構成や時間配分を調整することが大切です。算数の授業の基本的な進め方をもう一度勉強してほしいと思いました。
授業者の基本的な授業技術がかなりしっかりしていたので、教科の内容についてじっくりと考えることができた有意義な1時間でした。

もう一つの6年生の授業も算数で、表を使ってすべての場合を調べて考える単元でした。7年目の先生です。
前時の復習で、表を使うとわかりやすいということを子どもたちから引き出しました。しかし、「わかりやすい」がどういうことか明確になっていません。いろいろな場合がある時やすべての場合を調べなければいけない時に、過不足なく調べるためには表を使うとわかりやすいことを押さていません。おそらく、前時も「これで全部」「もう他にはない」といった揺さぶりをしていないのだと思います。
この日の課題は、与えられた数の板で地面を囲って花壇をつくったとき、面積を最大にするにはどうすればよいかというものです。問題文を読んでから教科書を閉じさせ、グループで問題の要素を確認させて問題把握をさせますが、この活動は覚えられなかった子どもは参加できません。友だちに聞いたからと言って正しいかどうかも判断できません。あまり意味のないグループ活動です。
挙手指名で子どもに発表させました。問題文の「面積」という言葉が足りなかった発言に対して、その言葉を足してくれた子どもを「すばらしい」とほめました。覚えていることをほめることは、算数の評価としてはあまり意味のあるものではありません。問題文を1回読んで覚えることができた子ども、挙手する子ども、一部の子どもだけで授業が進んでいきます。また、この問題は、要素を言葉でまとめても、状況がどういうものかを図に描けなければ理解できません。実際に板を用意して花壇をつくってみることが大切です。教科書のイラストで課題を把握してもいいですが、読み取る力をつけたいのであれば、問題文だけを見ながら、どういう状況か図に表わす作業を全員参加でていねいにするべきでしょう。
花壇の形は縦と横が変化すること、その面積は縦×横になることを授業者が説明します。全員が問題把握をできていないのに、一番肝心なところは全部授業者が教えていました。
変化するものを表にしなければいけないからと、「縦」「横」「面積」と項目が書きこまれた表を全員に配ります。表の項目をどうすればいいのかを考えるのが大切なのですが、これも教師が与えます。子どもは何も考えずに表を埋めるだけなのです。表の横の欄の数が1つ少なかったと訂正をしました。過不足のない表を最初から与える予定だったということです。「これで全部」「もう他にはない」といった発問は考えられていないということです。
表を埋めた後、グループになります。答の確認のために板の代わりのひごをグループに与えました。この道具は問題把握の場面で使いたかったところです。表から気づいたことを話し合うというのですが、答以外に何を話していいかわかりません。単なる作業の報告です。友だちの話を聞かずにひごで遊んでいる子どもいます。答の確認が終われば子どもたちはすることがありません。ムダ話をしている子どもとひごで遊んでいる子どもが目につきました。
この課題で何を考えさせなければいけないのか、課題解決に必要な力は何かを授業者は理解していませんでした。授業者の指示通り作業して答を出す時間になってしまいました。
答えが出ればいい。できるだけ間違えずに答を出せるように指示をして作業をさせることが大切。そんな授業観に感じる算数の授業によく出会います。自分で考え、困ったり、間違えたりすることを通じて、わかった、できた喜びを感じさせるような授業を目指してほしいと思います。

授業技術ではなく授業の進め方、教材研究について考えさせられた1日でした。教材研究はこうすればうまくいくというものを提示することがなかなかできません。「教科書をよく読んで」といっても、理解する力がなければ何ともなりません。私が単元すべてを一つひとつ解説するわけにもいきませんし、「自分で勉強して」と突き放してもなかなか難しいものがあります。仲間で学び合う風土をつくるくらいしかよい手が浮かびません。大きな課題を突き付けられたように思いました。

授業の進め方について考えさせられた1日(その1)

先日、小学校で若手中心に4人の授業アドバイスをおこなってきました。市内の全小学校での授業アドバイスの一環です。

5年生の外国語活動の時間は3年目の教師でした。
”How many 〜?”を使った表現の学習時間でした。復習で、フラッシュカードを使って子どもに数を英語で言わせます。1〜10まで、11〜20までをそれぞれ順番に、次に逆順で言わせます。子どもは元気に声を出していますが、授業者が子どもの口元をしっかり見ていないのが気になります。また、常に順番なので数と英語が直接結びついているのか気になります。フラッシュカードをランダムに使えって練習すれば時間もかからずいいのですが、いったん止めてフラッシュカードを黒板に貼りはじめました。それから指さした数の英語を言わせる活動を行いました。カードを黒板に貼っている時間がムダですし、その間子どもたちの集中力が下がっていくのがわかりました。また、ここでも授業者は黒板に貼ったカードばかりを見て、子どもたちを見ることができていませんでした。
子どもたちは、思った通り、数と英語がダイレクトにつながっていません。先ほどと違って素早く反応できません。数と英語が結びつくようになる活動が必要です。ボールやブロックなどの実物を用意して、その数を英語ですぐに言わせる。英語で言った数を指で示すといった活動をもっと行うべきでしょう。
デジタル教材のチャンツを使って“How many 〜?”で数を聞いて答える練習を行います。一通り練習してから、”How many 〜?”の意味を問います。挙手、指名して「いくつ」という日本語を言わせましたが、あまり意味のあることではありません。自信がないのかほとんどの子どもが挙手をしません。答えたのは知識のある子どものようでした。せっかくチャンツを行った後なのですから、具体的な場面で子どもたちに質問して答えさせれば、意味がわかっているかどうかは確認できます。子どもに活動をさせながら、自分でわかったという感覚を持たせたいところです。
授業者、”How” “How”、“many” “many”と区切って読んだ後、”How many” “How many”と言わせるなど、いろいろとリズムを変えて練習します。工夫をしているように見えるのですが、本質がよくわかっていないようです。短く区切るのは、一つひとつの単語の発音を確認するため、連続するのはイデオムとして一続きの言葉と認識させるためです。子どもの反応や口元を見ながらスピードやリズムを変えるのが普通ですが、授業者は子どもを見ずに、なんとなく恣意的にリズムを変化させていたようです。”How many”としっかり言えているのに、また区切って練習させていました。
この日の主活動は、”How many apples?”を使ったビンゴです。悪しきビンゴの活用がこの市では蔓延しているようです。
複数形をまだきちんと学習していなかったのでしょうか。意図的かどうかわかりませんが、授業者は”How many apple?”と”s”を落としていました。ワークシートを配って活動の手順を説明します。自分の決めた数だけ、かごに入ったりんごの絵を赤く塗ります。塗ることの意味が今ひとつわかりません。英語活動の本質に関係ないことに時間を使いすぎているように思います。10までの数と、11〜20までの数の2回ビンゴを行います。授業者は数の表現の練習をたくさんしたかったと言いますが、子どもたちは何度も”How many apple(s)?と同じ質問をし、決まった数を答え続けるだけです。授業者は私に指摘されてこの事実に初めて気づいたようでした。
この時間で授業者が子どもたちを具体的にほめる場面がほとんどありませんでした。私たちが見ているので緊張していたのでしょうか。笑顔もほとんどありません。それでも、子どもたちのよい表情をたくさん見ることができました。休み時間に一緒に遊んだりして、授業以外の場面で子どもたちとのコミュニケーションがとれているようです。このことは決して悪いことではありませんが、授業の中でしっかりとコミュニケーションをとれないと、子どもたちは授業に集中しなくなっていきます。このことを意識してほしいと思いました。

初任者の算数の授業を見ました。2年生の担任です。
テープ図を使っていくつ数が増えたかを考える場面です。ちょっと緊張気味でしたが、明るく子どもたちと接しています。1人、気になる子どもがいました。授業の最初、体を机の上に投げ出してごそごそしていました。指示されても教科書のページをすぐに開きません。授業者が気づいてページをめくってあげます。また、プリントを配る時におかしな行動をとります。この子どもは自分の分のプリントを取らずに後ろに送ります。授業を拒否しているのかと思いましたが、どうやらそうではありませんでした。あとから、授業者に申し出てプリントをもらっているのです。先生にかまってほしい子どものようです。どこまで授業中にこの子どもとかかわるべきかの判断は個別の状況がわからないので何とも言えませんが、あまりかかわりすぎないように注意をする必要があると思います。
花が昨日は8個、今日が25個咲いていて、何個増えたかという問題を、テープ図を使って解きます。テープの長さをどれだけにするかを子どもたちに確認します。目盛りがついている台紙の上で8の長さはこれでいいかを子どもたちたずねます。長いテープを見せると子どもたちはダメだと言いますが、その理由がわかりません。基準の長さを示していないので判断はできません。子どもたちは台紙の目盛りを元に判断したのでしょう。続いて台紙の4目盛り分の長さを示した時「いいです」「ダメです」に分かれました。しかし、授業者はこれでいいと進めてしまいました。「ダメです」と言った子どもは目盛りの数が違うからそういったのでしょう。算数の指導としての是非はともかく、意見が分かれれば子どもたちに発表させ納得させなければいけません。基本的な姿勢に疑問を感じます。そもそもテープ図に目盛りをつけないのは、目盛りがあればそれを読むことで答を見つけることができてしまうからです。テープの関係に目をつけて、求める部分の長さはどのような演算で求められるかを考えるためのものです。目盛りを使うのであれば、ブロックでよいのです。授業者は、子どもが図を写すための目安として目盛りを用意したのですが、その意図は子どもにはわかるはずはないのです。子どもの混乱を誘発します。
続いて、8の長さを今日のところにそのままおろして書くように指示します。なぜ8をそこに書くのか子どもはわかりません。言われて作業をするだけです。中には、長さがおかしくなっている子どももいます。授業者は教科書の図に8(個)が書きこまれているので、同じ図にするために書かせたのかもしれませんが、思考の過程が全くわかっていません。続いて25を書きこむように指示しましたが、8の横に25としてしまう子どもが出てきます。この間違いは授業者が誘発しています。もし、8個を基準として考えさせるのであれば、「昨日は8個だったんだね。それが1個咲いて9個になって・・・」とテープを伸ばしながら、「・・・どんどん咲いて、何個になったんだっけ?」と問いかけ、「25個」「そう、25個になったんだね」とテープを貼って、「どこからどこまでが25個?」と確認すればいいのです。
または、「今日はいくつ?」と聞いて、昨日の8(個)の下に25の長さのテープを貼って、25(個)とした後、昨日と今日を比べて、「増えたのはどこ?」とたずねて、8個の長さを線で下につなぐか、移動して重ねれば関係はすぐにわかります。1年生でやった「違い」を考える時の発想です。
いずれにしても、1年生で引き算をどのように学習してきたかを踏まえて、授業を組み立てるべきです。しかし、授業者1年生の教科書を見てはいませんでした。経験のあるものでも、どのように学習してきたかを教科書で確認するのは当たり前です。初任者ならなおさらのことです。高いものではないので、小学校の6年分の教科書、できれば中学校の3年分も手元に置いておいてほしいと思います。
机間指導も中途半端なものでした。子どもたちの何を見るのかを自分の中で明確になっていません。自分でポイントを意識していないと漫然と見ることになります。間違えている子どもを見つけると個人指導に入ります。まず、どのくらいの子どもが間違えているかを判断しないと、手が回らなくなってしまいます。
厳しいことを書きましたが、子どもにとっては担任が初任者かどうかは関係ありません。1人の教師として責任を持って指導しなければなりません。授業者は私の指摘を真摯に受け止めてくれたように見えました。もうすぐ夏休みです。気分をリフレッシュさせ、2学期に向けてどのように授業をつくっていけばいいのか、もう一度基本からじっくり考え直してみてほしいと思います。

残り2人ついては、次回の日記で。
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