算数の「数と計算」分野で大切にしたい問いかけ
算数では、四則演算を正の、整数・小数・分数で何年もかけて学習します。年をまたぐ継続的な指導です。6年間の指導で一貫性があることが望まれます。「数と計算」分野で共通した問いかけについて少し考えてみたいと思います。
まず意識してほしいのは、算数での四則演算の基本になっているのが10進法だということです。今私たちが通常使っている計算は、10進表記をもとに方法が考えられているのです(よく知られているようにコンピュータの世界は2進法です)。10進表記の優れている点は、0から9までの数字だけを使って数を表わしていることです。このことを意識して学習を勧めることが大切です。 71の「7」と17の「7」は同じ数字の「7」でも、位が違うので表わす数は異なります。70と7です。しかし、「7」という数字が使われているということは何かが7あることを表しています。そこで、大切な問いかけは、「何が○つのなの」です。71であれば「71の7は何が7つあるの?」となります。筆算の考え方もこういう問いかけを日ごろからしていると明確になってきます。72と63を足すとき、7は10のかたまりが7、6は10のかたまりが6です。同じ10のかたまりだから足せるわけです。こう考えることで必ず1桁の計算に帰着できます。かけ算であれば10のかたまりを何倍すると考えればいいわけです。 小数であれば、「0.2の2は何が2つあるの?」です。こうすれば0.2+0.5は、0.2は0.1が5つ、0.3は0.1が3つとなるので、5つと3つを足すことに帰着できます。0.1が8つあるから0.8という説明が自然になります。小数点をとるという考え方をした子どもにたいしては、「小数点をとった2は何が2つなの」とその意味を問い返せば混乱せずにすみます。分数であれば、2/3は2は1/3が2つと考えればいいのです。では、分母はとなります。分母の3は「(2を)3つに分けた」を表わします。3等分する3なのです。ちょっと違いますね。 ここでもう1つ大切な問いかけがあります。分数や比、割合、単位で大事になるものです。それは「基準」です。何のいくつ分と言った時の「何」にあたるもの、分数で言えば単位分数、先ほどの「位」も1つの基準です。割り算で言えば割る数です。 先ほどの分数の分母も、基準をあらわすととらえればいいのです。分数の足し算は、分母が同じであれば、基準が同じですから、分子を足せばいい。分母が異なればそれぞれの基準が違うわけですから、基準を同じにしなければいけない。だから通分だという発想です。基準が同じだとまとめられる例はたくさんあります。かけ算でも2×3+2×4は2×(3+4)とまとめられます。 比の値を考える時も、「基準は何?」と問いかけることで、分子と分母の混乱が避けられます。比の値が等しいことを扱う問題では、この問いかけをすることで基準を間違えなくなります。単位の変換でも同様です。 このように、一見違うことのようですが、少し広い概念でくくることで、一気に世界がつながっていきます。算数の「数と計算」分野では、「何がいくつ」「何が基準」という問いかけを大切にすることで、6年間の学習のつながりがとても明確になるのです。このことを意識して授業を組み立てると、とても教えやすくなると思います。 1時間の授業から多くのことを学ぶ(長文)三角形の等積変形を使って問題を解く場面した。授業の最初は前時の復習です。授業者は教科書、ノートを閉じた状態で進めたいのですが、何人かの子どもがノートを開いていました。ちゃんと準備ができていることをほめてから、閉じるように指示をしました。ちょっとしたことですが、子どもを認めようとする姿勢で接していることがよくわかります。 前時に学習した等積変形について子どもたちに問いかけます。まわりと相談する時間を少し与えてから、指名していきます。相談している子どもたちから聞こえてくる言葉が気になりました。「底辺と高さが等しければ面積は同じだよね」というように、「底辺」と「高さ」という言葉がよく登場するのです。「底辺の長さ」と「高さ」が同じ三角形は面積が等しいのは当たり前です。このこと自体は三角形の等積変形と直接関係のない性質です。三角形の等積変形は、底辺が共通で、底辺にない頂点を通って底辺と平行な直線上に頂点がある三角形の面積は等しいというものです。高さは証明(説明)の根拠としては出てきますが、等積変形ということでは必要のない言葉です。このことから、子どもたちは等積変形と、その根拠が混乱していることが見て取れます。案の定、子どもたちの発表は、前時に学習した事柄がトピック的に出てくるばかりで、等積変形をきちんと説明する言葉は皆無です。授業者は、ただ受け止めるだけで次々指名していきます。「三角形で」と考えている対象を明確にしてくれる子どももいますが、授業者は評価しません。授業者自身も「三角形の等積変形」と言うべきところを「三角形の」を落として単に「等積変形」と言っています。数学の教師としては言葉が雑です。頂点と高さが混乱した子どももいます。言葉が足りなくて、何を言っているのかよくわからない発言もあります。友だちの意見がバラバラで収束していかないので、何が正解なのか子どもたちも不安になっていきます。だからこそ集中して聞いています。集中することはいいのですが、これでは三角形の等積変形がどういうものか定着しません。子どもの言葉を切り返して深めたり、足りないところを他の子どもに補わせたりして、しっかりと押さえなければいけません。子どもが発言するだけでつながらないのです。「確かに底辺の長さがと高さが等しいと三角形の面積は等しくなるね。確かに、そんな話をしました。よく覚えていたね。それって等積変形とどういう関係があったんだっけ」と切り返したり、答えられなければ「だれか助けてくれる」とつないだりする必要があります。 授業者は「みんなの説明に共通した言葉があったけど・・・」と共通の言葉をキーにして進めようとしました。「底辺」「平行」を取り上げて、黒板に図を描きながら説明を始めました。子どもたちは、混乱しているのとわかりたいとの両方で真剣に黒板を見ています。その中で1人、黒板を全く見ない子どもがいました。先ほどの復習の場面では指名されても「わからない」と発言しなかった子どもです。この時間は、この子ども(仮にA君とします)を中心に見ようと決めました。 底辺が「共通」と言葉を足し、頂点を通って底辺と平行な直線を描き、底辺が共通で平行線上に頂点のある三角形を描いて、2つの三角形の面積が等しいことを確認します。もう1つ同様に描いて、これも面積が等しいことを確認して、形が変わっても面積が等しいと説明をしました。 三角形の等積変形を用語として使っているのですから、明確な定義も必要です。黒板には図だけで、平行といった条件などは何も残っていません。これでは、論理的な思考ができるようにはなりません。因果関係が明らかになっていないのです。 教科書を見ると等積変形という用語はありません。「底辺が共通の三角形」としてまとめてあります。 1つの直線上の2点A、Bとその直線と同じ側にある2点P、Qについて、 1) PQ‖ABならば、△PAB=△QAB 2) △PAB=△QABならば、PQ‖AB ここで注目しなければいけないのは、2)は1)の逆であることです。1)は三角形の等積変形を表わしていますが、逆も押さえたいので、等積変形というまとめ方をしていないのです。 授業者はこのことをあまり意識していません。そして、このことが本時の課題の解決に決定的な影響を与えたのです。 本時の課題は最初の図にあるような四角形の土地の境界線ABCを、点Aを通る線分ADにあらためるというものです。教科書は点Dを与えているのですが、授業者は、あえて線分ADを与えずに、境界線だけの図を描いたワークシートに、大きく「等積変形を利用して面積の等しい図形を作ろう!」とタイトルをつけ、「ア、イそれぞれの土地の面積を変えないで、点Aを通る直線をひくとき、どのようにひけばよいでしょうか」としました。授業者は、等積変形を使うとことを前提にしています。思考がそこからスタートします。つまり先ほどの1)を使うということです。教科書は「図のように、折れ線ABCを境界とする2つの土地ア、イがあります。それぞれの土地の面積を変えないで、境界を、点Aを通る線分ADにあらためるとき、点Dの位置は、どのように決めればよいでしょうか」となっています。 続いて「考え方」として、「求める点Dがとれたとすると」としています。もしそのような条件を満たす点があればと帰納的な発想をしているのです。このとき、△ACB=△ACDとなることから、AC‖BDが言えます。先ほどの2)を使うのです。ここから平行線を使って作図できることを導こうというアプローチです。欄外の枠の中にも「逆向きにみる―求める点がとれたとして考える 見方・考え方」としてあります。この違いが、どう子どもたちの思考や活動に影響を与えるのでしょうか。 授業者は、ワークシートを配って課題を読みますが、子どもはワークシートを目で追っているだけです。課題を把握できているか確認もなく、すぐに個人作業に入りました。固まっている子どもとすぐに手が動く子どもに分かれます。この問題の解き方を知っていると思しき子どもはすぐにAとCを結び、点Bを通って線分ACと平行な直線を引きます。一方、そもそも何をすればいいかわからない子どもは、手が全く動きません。課題がよくわかっていないのです。教科書は、境界という言葉を使い、ていねいに説明しています。一方授業者は、言葉をずいぶん削っています。その分課題把握に時間をかけなければいけないのですが、そこをしなかったのが原因です。また、タイトルの「面積を等しい図形を作ろう」に引っ張られてアとイの面積を等しくするのかと勘違いしている子どももいたようでした。 「土地の境界がまがっていると使いにくいじゃない。そこで境界を直線にしたいんだよ。ただ、点A通るようにしたいんだ。できるかな。あっ、もちろん境界線を変えたからといって、それぞれの面積が変わっちゃったら怒るよね。境界線は変えてもそれぞれの面積は変わらないようにしてね」といった補足をしたり、「点Aを通る線分を境界にする」「それぞれの面積を変えない」ことを子どもに確認したりすることで、課題をしっかり把握させたいところです。 わかっていると見えた子どもの中には、点Aを通る線分ではなく、点Cを通る線分を引く者もいました。やり方は知っているので、パターンで線分を引いてしまったのでしょう。これも課題をしっかり把握していなかった証拠です。 すぐに答がでた子どもは、手持ち無沙汰にしています。そこで、授業者はグループになるように指示しました。できた子どもがいるグループは、できている子どもが教え始めます。自分から教えてと言えない子どもが何人もいるのですが、できている子どもは一生懸命に教えようとします。おせっかいな感じではなく、わかってもらいたいという素直な気持ちに見えます。ただ、4人で話すというよりは、1対1になっています。そのため、うまくかかわれない子どもも出てきます。しかし、よく見ると説明している子どもの手元の図を見たりしています。どの子もわかりたいという気持ちはあるのです。先ほどのA君は、女子2人が話し合っている時に参加できませんでした。しかし市松模様の座席なので、その様子はよくわかります。気にはなっています。顔が上がらないのですが、やはり目は女子のワークシートを見ていました。A君がこんな線になるのではないかと引いた線が、女子の書いた線とよく似ています。女子2人の話が一段落ついた時、声をかけました。自分の線が似ていたので聞こうという気持ちになったのかもしれません。この後、女子2人に交互に教えてもらうことで、自分なりに納得できたのでしょうか。笑顔を見ることができました。 一方できた子どもが1人もいないグループは、手詰まりです。問題把握もしっかりできていないので、意味なく線を引く姿が見えます。なかなか相談しながら先に進むことができません。そもそも、何をどうすればいいのか、手がかりがないのです。中には定規を点Aに当てて、回転させながら、どんな線になるか考えている子もいましたが、そこから先には進みません。この子どもの活動を取り上げて、「点Aを通る線分を探しているんだ。いいね」と評価し、「どのあたりになりそう」「この線が正しかったとして、何が言えそう」と全体に問いかけることで教科書の流れに持っていくこともできました。授業者はこの子どもの動きは気づいていたのですが、自分の考えていた方向性とは違うのでこの動きを活かすことは思いつかなかったようです。 半分のグループが行き詰っていました。そこで授業者は活動を止めました。よい判断です。この時、授業者は「ヒントを出してもらおう」と言いました。ヒントという言葉はあまりよい言葉ではありません。答がわかっている者が上から目線で出すのがヒントだからです。「ヒントを言って」と授業者が指名して子どもに言わせれば、その延長上に正解があるということにもなります。これが「正解」と言うことと同じです。しかし、授業者は、「最初に何をしたか教えて」と聞きました。初手を聞くのは、行き詰まっている子どもにとっては、動き出すよいきっかけになります。しかも事実を聞くだけですので、正しいかどうかの判断は子ども自身に任せることになります。よい聞き方です。であれば、最初のヒントという言葉は余分だったように思います。 「三角形をつくる」が出てきました。しかし、行き詰まっている子どもはよくわかりません。授業者は他のグループにも聞きましたが、やはり「三角形をつくる」です。三角形をつくることが面積を変えずに境界を引き直すこととどうしても結びつかないのです。ここがポイントだったのです。授業者はどうして三角形をつくるのかとは問い返しませんでした。ある意味賢明だったように思います。グループでのその子どもの説明は「等積変形を使うのだから、三角形を作らなければならない」だったからです。ワークシートのタイトルがここで効いているのです。授業者は意識していたのかどうかはわかりませんが、解き方を誘導していたということです。この説明を聞けば、行き詰まっている子どもはますます苦しくなります。なんで等積変形を使えばいいのかが今度はわからなくなるからです。「こうしろと指示されたから納得できなくてもやる」「こうやれば解けるから解き方を覚える」という割り切りのできない子どもほど行き詰まりやすいからです。そうでなければ、最初から等積変形を使おうとしているはずです。 授業者は、「具体的にしよう」と問いかけ、AとCを結んで△ABCを作りました。求める線が引けたら、全員が説明できるようになってと、グループに戻しました。等積変形を使えば点Aを通る線分で△ABCと面積の等しい三角形がつくれます。取り敢えずほとんどのグループは正解をつくることができました。しかし、ここから子どもたちの苦戦が始まります。2つの三角形の面積が等しいことは言えるのですが、そこから、それがどうして土地の面積を変えないことになるのかうまく説明できない、というか自分でも納得できないのです。互いに説明し合うのですが、すっきりとしないようでした。 ここで教科書が、「線分ADが引けたとして」と、帰納的な発想をした意図が見えてきました。土地の面積が変わらないなら、2つの三角形の面積も変わらないことに気づきやすいからです。演繹では、三角形をつくる必然性が見えません。三角形の等積変形を使って解くからという理由しか見つからないのです。そうでなければ、三角形をつくることを解き方として知っているからでしかないのです。誘導されて解くことで、解き方を知識として手に入れることはできますが、誘導なしで問題を解く力をつけることはできません。教科書は問題解決の手段の1つとして、帰納的な発想を身につけさせようとしていたのです。 解き方を理解していた子どもは、ほとんど考えることはしませんでした。彼らにとってこのままでは何も学ぶことはない1時間になります。彼らの学びの期待がかかるのが、全体での説明の場面でした。うまく説明できない子どもを納得させることができるかどうかが、彼らにとっての大きな課題です。 指名された子どもたちは、前に出て一生懸命に説明します。言っていることは間違いではないのですが、論理の因果関係が明確になっていない上に、一つひとつの説明にまとまりがありません。途中で立ち止まることなく話が続きます。説明を聞いている子どもたちはわかりたいと真剣なのですが、よく理解できません。表情はさえません。発表者は、理解してもらえていないことがわかるので、何度も同じ説明を繰り返します。授業者は、黙って見ているのですが、いったん説明を止めて他のグループに交替させます。次のグループも同じ状態になったところで時間となりました。 授業者は子どもたち同士で理解させたいと思い、じっと我慢をしていたのでしょう。子どもの説明に続いて自分が説明を始めなかったのは立派です。しかし、子どもの説明は必ずしも他の子どもにすんなりと受け入れられるわけではありません。聞き手のわからないところを確認して、説明の足りないところを補ったり、整理したりさせる必要があります。ここが教師の出番です。子ども同士をつなぐのです。1回説明させれば、子どもの考えはわかります。そこで、「まだ納得できていない人がいるようだね。もう1度説明してくれる」ともう1度説明をさせるのです。説明の流れはわかっているので、教師が意識的に区切って整理をさせます。「ちょっと待って、みんなここまで納得できた」と途中で止め、大事なところは他の子どもを指名して確認したり、「今説明してくれたこと、あなたの言葉で言ってくれる」と説明を求めたりして共有させます。また、説明が不足していると思えば、「どう、今のところもう少し詳しく聞かせてくれる」とより詳しい説明を求めてもいいでしょう。 こうすることで、子どもたちは友だちの説明をじっくりと理解できますし、説明する子どもは、自分の考えをどのように整理して説明すれば伝わるのかを学ぶことができます。 授業者は子ども同士で考えること、わかり合うことを大切にしたいと考えていることがよくわかります。その方向は間違っていません。しかし、それは教師がただ黙って見ているだけでいいということではありません。適切なかかわり方が必要なのです。切り返して深めることや言葉をつないで共有していくことが教師に求められます。授業者はそのことはわかっているのですが、教材の理解が不足しているので、どう切り返し、どの言葉をつなぐのかがよくわからないのです。 この授業でいえば、三角形の等積変形は何がポイントなのか、そして課題を解くために子どもつまずくのは何かをしっかり考えていなかったのです。そして、教科書が「底辺が共通の三角形」の性質をなぜあのようにまとめているのか、なぜ帰納的な発想で進めようとしているのかを理解できていなかったのです。そのため、子どもの様子を見て授業を修正することや、子どもへの働きかけを変えることができなかったのです。 授業者はこの日体調を崩し、午前中は休みを取って医者に行っていたそうです。にもかかわらず、授業は明るい雰囲気で、そのことを感じさせないものでした。また、言われたことをきちんと実行しようとする素直な気持ちを持っています。授業者にとって課題である教科の力は、身につけようとしても授業技術と違ってすぐに結果が見えません。しかし、この授業者ならば、きっと地道に努力を続けてくれると思います。次に会う時にどのような成長を見せてくれるか、とても楽しみです。 昨日の日記に書いたように、私もいろいろと教材や課題について考えていましたが、授業を見て子どもの実態をわかっていなかったと反省させられました。すぐにできる子どもとできない子どもに分かれることは想像通りだったのですが、正解を作図できた子どもでも、これほど説明ができないとは思っていませんでした。「境界に道路を作りたいのだが、入り口を別の場所にしたい」という、点Aではなく、辺上の他の点を通る境界線を引くというジャンプの課題を考えたのですが、この日の子どもたちに、いきなり提示するのは現実的ではないと感じました。もしこの課題を使うのであれば、まず、三角形の面積が同じであれば土地の面積が変わらないことを全員に納得させる必要がありそうです。そう考えると、教科書は子どもの実態を実によくとらえて展開が考えられているのです。完敗です。教科書の課題を安易に変えている授業をよく見ますが、まずは教科書をしっかり読みこんで理解してからのことです。若い教師は、とにかく1度はそのまま教えることをしてほしいと思います。実際にやってみることで教科書の意図がわかってくると思います。その上でアレンジもできるのです。 授業検討会は、グループでの検討です。どのグループも子どもたちが説明に苦しんでいるのを見て、課題の与え方や展開の仕方、ヒントの内容といった教科の問題に深く入り込んで話し合っていました。全体での検討は教科の問題にあまり深く入り込んでも他の教科の先生にとっては得ることが少ないのですが、先生方は教える側の視点ではなく、子どもの視点で課題や展開を考えていたので、これならば意味のある話し合いになったのではないかと思います。子どもの視点を意識することはどの教科にも共通して大切なことだからです。しかし、具体的にどうすればいいのかを全体の場でそれ以上話し合ってもあまり意味はありません。それこそ、教科の先生がじっくりと話し合うべきことです。そこで、各グループの発表の後、司会者は「子どもの様子はどうでしたか」と視点を子どもに切りかえました。とてもよい判断です。すると、私が注目していたA君や日ごろ参加できない他の数人の子どものことが話題になりました。「この授業では、彼らが参加できていたことに驚いた。自分の授業ではなかなか参加できない」「どういったことが参加できる要因なのだろうか」といった発言が出てきました。このことに話題にして再びグループで話し合いました。「彼らにもできるようなことをやらせたいが、他の子どもがそれでは満足できない」「自分からは『教えて』と聞こうとしない。友だちが教えようと声をかけてくれるが、なかなかうまくかかわれない。どう支援していいかよくわからない」といった意見がでてきました。 このことに関連して、私からは、先生方は子どもたちをとてもよく見ているが、子どもに対して評価が少ないことをお話ししました。今回の授業であれば、授業者もA君がしっかり参加できていることに気づいていました。しかし、そのことを認めてほめるような声かけはありません。大切なことは、その子なりの進歩をしっかりと評価してよい行動を後押しすることです。課題のレベルが高くても、その子が活躍できるところはきっとあるはずです。今回の課題であれば、「点Bを通る直線は線分ACとどんな関係の直線だった?」と友だちの説明の確認を求める。「どことどこを結んだ?」「どんな図形を作った?」ともっと簡単なことでもよいのです。誰でも聞いていれば答えられるようなことでも、「そうだね。よく聞いていたね」と評価するのです。グループ活動であれば、友だちに何を教えてもらったかを聞いてもいいでしょう。「どんなことを聞いたの」「いいことを聞いたね」とほめるのです。答えられなかったら、「どんなことを話したかもう一度伝えて」とグループの子どもに助けてもらい、自分の口でそのことを言わせ、「ちゃんと聞けて、答えられたね」と評価するのです。 すぐに参加できるようにはならないかもしれませんが、少しでも参加できる時間を増やすことが大切です。子どもたち一人ひとりの何をほめるか、ほめる場面をどのようにつくるかを常に意識してほしいと思います。 検討会終了後、校長、教務主任と来年度に向けての話をさせていただきました。この学校で育った若手が今後どんどん異動していくことになります。新しく異動してくる先生も増えてきます。そのような状況ですから、「学校全体で共通で取り組むべき最低限のことを明確にして、全員で確認をすること」、また、「これまでの積み重ねをもう一歩先に進めるために、教科の内容について互いに学び合う空気をつくること」の2点を特にお願いしました。人事的には厳しい状況が続きますが、きっとこの壁を乗り越えてくれると思います。 この日は、1時間の授業からとても多くのことを学ぶことができました。子どもたちがわかりたいと真剣に授業に取り組み、苦しんでくれたからこそ気づけたのです。いいかげんな授業態度であれば、わからない原因が課題や授業の進め方にあるのか、子どもたちのやる気のせいかわかりません。子どもたちをこのような状態にした、授業者を含むこの学校の先生方のおかげです。子どもたちと先生方に感謝です。 研究授業の教材を検討する
昨日は、本日参観予定の数学の研究授業の指導案の教材について少し検討していました。日ごろはポイントを確認し、子どもたちがどのような動きをするだろうかを想像するくらいで、あとは実際の授業を観察してアドバイスを考えます。教材について事前にはそれほど深く考えないのですが、グループでの活動の課題が、解き方を知っている子どもがいればその子が教えて終わってしまうようなものだったので、さすがにこれではちょっとまずいなと思い、どうしたものかを考えていたのです。
解き方を知らない子どもの思いつきをつぶしたくない。では、そういう子どもたちはどんな考え方をするだろうか。子どもの気持ちになって考えてみます。そして、その考えはどう評価すればいいだろうか。活かすことはできるだろうか。 また、教科書の課題を活かして、子どもたちの考えを広げるような課題はできないだろうか。塾などで問題を解いたことがある子どもも一緒になって考える課題となるだろうか。その課題は、考える必然性をあるものにできるのだろうか。教材研究の基本を改めて思い出すことになりました。 代案となる課題や進め方はいくつかできたのですが、実際の子どもの様子を見てみないと、それが適当なものかどうかは判断できません。極端な話、解き方を知っている子どもがほとんどいなくて、グループ活動がかかわり合いのあるよいものになる可能性もあります。逆に、子どもたちはほとんど全員が解き方を知っているかもしれません。提示する課題は、子どもたちの状況に合わせて考えなければなりません。今回は私自身が教材研究を少ししたので、いつも以上に子どもたちの様子を見るのが楽しみです。 私がどのような代案を考えていたのかは、授業の様子と合わせて明日の日記で報告したいと思います 「楽しく授業研究しよう」第11回公開 |
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