参加者の質の高い研修会(長文)

先日、市主催の授業力向上研修会の講師を務めました。夏休みに模擬授業を行なったところを実際に授業し、検討会を行うものです。

指導案を見ると、前回からの進歩が見えます。教務主任が指導するとともに、学年の先生方も協力してこの授業をつくってくださったそうです。教務主任は検討会を含めてこの研修に熱心に参加してくださいました。
授業は平行四辺形の面積の1時間目です。いろいろなやり方で平行四辺形の面積を求める場面でした。
授業規律を意識しています。板書を写し終わった時などに子どもたちのよい姿勢をほめます。ほめて規律を徹底させようという姿勢はとてもよいと思います。ただ、ここで意識してほしいのは、子どもに何を求めるかということです。板書を写す時は、早く書けた子どもが待っています。速く作業できる子どもはいつも割りを食っているように思います。だとすれば、遅い子どもに速く書くことをうながすことも大切になります。そのためには、姿勢ではなく早く書けたことをほめることも必要です。そして、遅い子どもには「待っててもらってよかったね」と、待ってくれていた子どもたちには「待っててくれてありがとう」という言葉かけをすることで、作業の速い子どもが遅い子どもに対して負の感情を持たなくなります。
前時までの復習で、三角形の面積の公式どのようにして求めたかを確認します。子どもの挙手が少ない状態で指名することが気になります。実際にはほとんどの子どもが何かしら覚えているはずです。それを、教師が引き出してあげればいいのです。復習なので、挙手に頼らずどんどん指名すればよかったと思います。
教室の前には、三角形の面積を求めた時のやり方が掲示されています。考え方のヒントとなるように考えてのことでしょう。しかし、その掲示を見る場面はあったのですが、具体的にほとんど触れませんでした。この時間は、いろいろなやり方で平行四辺形の面積を求めます。であれば、具体的に今までどのようなことをしたかを復習しておくことが、考える手がかりになります。実際の活動場面では、この掲示を見て参考にしている子どもはほとんどいませんでした。この掲示が今ひとつ活かされていないのが残念でした。
また、三角形の面積の公式を全員に暗唱させた場面では、子どもたちはとても大きな声で言うことができました。ただ、底辺×高さ÷2という言葉だけでなく、「底辺って何?」「高さってどこ?」といった言葉の定義や意味の確認をすることが大切になります。この時間ではどこまで確認する必要があるのかは別として、公式を式だけでなく、そこで使われる用語や公式の意味を確認する習慣をつけてほしいと思います。

この日のめあては、平行四辺形の面積を求めることだと伝えます。平行四辺形の紙を示して、子どもたちから「平行四辺形」という言葉を引き出します。そこですぐにめあてに移るのですが、ここは「平行四辺形だと、どうしてわかるの?」と定義や性質を確認したいところでした。算数に限りませんが、常に子どもたちに根拠を求める姿勢を忘れないようにしてほしいと思います。
子どもたちに、面積の求め方をたくさん考えてほしいと課題を伝えます。平行四辺形を切り抜いて使えるようなお助けカード、考え方を整理するためのワークシートを配ります。ワークシートには、「まず、」「次に、」「最後に、」「式」」「答え」と説明のための話型が書かれています。算数では「まず、」「次に、」「最後に、」といった話型にこだわるより、手順として、順番を意識させることの方が大切に思います。しかし、国語の発表の仕方という視点では、こういう言葉も意味があります。何を大切にしたいかの問題でしょう。
今までに、似たような操作活動をしていたのでしょう。多くの子どもたちは、すぐに作業に移れます。しかし、すぐに手の着かない子どももいたようです。想像ですが、たくさん「考えてほしい」という言葉がわかりにくかったのかもしれません。求め方をたくさん「見つけてほしい」とより具体的にした方がよいかもしれません。
子どもたちの作業中に授業者は机間指導をしながら声をかけていきます。子どもたちをほめる言葉がたくさん聞かれます。しかし、少し声が小さいように思いました。大きな声で、ほめたり、「長方形をつくって求めたんだ」「三角形をつくったんだ」と具体的にどこがよいのか指摘したりするとよいでしょう。そうすることで、手詰まりになっている子どもに手がかりを伝えられます。また、声かけだけでなく、○をつけることも子どもたちのやる気を引き出すのに有効です。
気になったのが、1つやり方を見つけた後、手が止まっている子どもが目立ったことです。「たくさん考えてほしい」ではなく、「いくつ見つけるか」「目標○個」と数を意識させるとよかったかもしれません。できた子どもには「自信を持って」説明できるようにノートの整理「でも」するようにと指示します。「自信を持ってと」はどういうことでしょうか。友だちにわかってもらえるといった、相手を意識した言葉に変えたいところです。また、「でも」という言葉を使うことで、この作業があまり大切でないという印象を持たせます。「友だちに伝わりやすいように、説明の言葉を考えよう」といった言葉にしたいところです。また、たくさん考えようと言っているのですから、「たくさん」をあくまでも活動の中心にしたいところです。

自分の考えをペアで説明し合います。複数見つけた子どもは、説明しやすいもの、伝えたいと思うものでやるように指示します。ペアの活動の目的が不明確です。評価基準が子どもたちにないのです。子どもたちは、自分の説明をしてすぐに交替します。少なくとも、わかったかどうかを伝える。よくわからないことを聞き返す。そういうかかわりが必要なのですが、ほとんど見ることはできませんでした。また、いくつから選んだのであれば、本当はその理由を聞きたいところです。課題や指示と活動が少しずつずれているのです。

全体発表の場面では、子どもたちは友だちの発表をしっかり聞いています。最初に発表した子どもは、対角線で2つの三角形をつくりました。「合同な関係」という言葉を使ってくれました。授業者は「いい言葉を使ってくれた」と評価しました。とてもよい対応です。ここで、「どこがいいのか」ということを子どもたちと確認したかったところです。「合同ってどういうことだっけ?」「同じとどう違う?」「合同だったら何が言える?」こういう問いかけをしたいところです。
2つの三角形が合同なので、底辺×高さ2倍して、2で割るという説明です。式の÷2がわからないと焦点化します。ここで、他の子どもに説明をさせます。その説明を聞きいていて「あっ、逆だった」と最初の発表者が気づきました。ここで、すぐに訂正させます。説明をしてくれていた子どもの発言は途中で終わってしまいました。ここは、「○○さんの説明で、間違いに気づいたね。ありがとう」とちゃんと説明を終わらせてから、訂正させたいところでした。式を訂正して、全体に挙手で確認をして次に移りました。ここは、正しい式を書き直し、もう一度他の子どもに説明させるなど、きちんと確認したいところでした。
子どもの発表は、小さなホワイトボードにノートの内容を写させてから行うのですが、その時間が結構かかります。待っている間にせっかくの集中が切れてしまいます。ここは実物投影機の出番だと思いましたが、あえて実物投影機を使わなかったようです。実物投影機を使うと前の発表が残せないので、ホワイトボードを使ったのです。しかし、小さいために後ろの方の子どもは見にくかったようです。実物投影機で説明をさせたあと、「○○さんの考えもう一度説明できる人?」と問いかけ、その説明に従って、授業者が黒板に再現していけばいいのです。こうすれば、友だちの考えの確認もできます。ムダな時間を削れるので十分に可能なはずです。スクリーンと黒板を使い分ける1つの方法です。

子どもが前に出ての発表では、「みんな見ている?」と発表者を見ることを意識させます。しかし、子どもたちは前に出て発表しない時は教師に向かって話します。それは、授業者が子どもにつなぐことをあまり意識せずに、発表者の言葉を受けてすぐに説明する、その意見が他の子どもにわかったかどうかを具体的に発言させて確認しない、といったことが原因のように思います。基本的に挙手した子どもしか活躍しません。「○○さんの考えがわかった?」と確認したときに、半数ほどしか手が挙がらなければ、自分で説明を付け加えます。そうではなく、まわりと相談させたりすることで、子ども同士のかかわりの中で解決するようにしたいところです。また、ほとんどの子どもがわかったと挙手すれば、次に進みます。こういう時こそ、手が挙がらない子どもに寄り添って、全員参加、全員理解を目指してほしいのです。

子どもの説明に対して、「5×6はどこ?」といった問い返しをします。式と図を結びつけて考えさせるとてもよい対応です。ただ、授業者は式が図形のどこと関係しているかをいつも問うわけではありません。「この式の5は図のどこにある?」というように、子どもたちに式と図の関係を意識させる指導をいつも心がけることが大切です。

子どもたちから出てきた説明を評価する場面ありませんでした。子どもたちは、いくつものやり方を見つけましたが、それがいったいどういう意味があるのかは、きちんと算数・数学的に評価しませんでした。「すぐに面積が計算できるから、三角形をつくったんだ」「計算の簡単な長方形をつくろうとしたんだ」といった評価が必要です。子どもたちからこういう言葉を出させたければ、「なんで三角形をつくろうと思ったの」「長方形を見つけようとしたのはどういうこと」といった問い返しも必要です。算数の授業で何を大切にしなければならないかをもっと意識してほしいと思いました。

最後に子どもたちに感想を書かせます。「いいなと思った説明」を書くように指示していましたが、感想という言葉では、ただ「○○がよかった」ということしか書かない可能性があります。どこがどのようにいいかを明確にすることが大切です。何がわかった、何ができるようになったという、この時間で獲得したことを意識するような言葉にしたいところです。
2名の子どもに発表させます。「前回習ったことを使って・・・」という発表に対して、「前回習ったことって何?」を聞き返すことはしませんでした。「前回習ったこと」は授業者にとっては明確でも、子どもたちが共通の物をイメージしているとは限りません。また、「簡単な長方形にして・・・」という発表にしては、「式が簡単でわかりやすい」とまとめましたが、式について子どもは一言もしゃべってはいません。子どもの言葉をしっかりと聞き返し、子どもたちに深めさせるということを忘れないでほしいと思います。教師が勝手に解釈して説明すれば、子どもは「結局、先生はこのことが言いたかったんだ」と思います。自分たちの発表は先生が言いたいことを言うためのきっかけでしかないと思うようになります。

いろいろと指摘はしましたが、前回の模擬授業と比べると大きな進歩です。指摘する内容のレベルがずいぶん上がりました。

授業検討会では、参加者の質の高さに驚きました。グループでの検討は手慣れたものです。よかったこと、改善点を焦点化しながらどんどん深めていきます。今回私が指摘しようと思ったことのほとんどが、参加者の発表に含まれていました。
そこで、一つひとつの指摘を確認しながら、ポイントを再整理していきました。中でも、「平行四辺形の面積を求めることを通じて、どのような算数・数学的なものの見方・考え方を学ばせるのか」ということをきちんと整理して授業にのぞむこと。特に「公式等の学んだ結果、知識」、「どのようにして解いたかという、方法、考え方」を利用するという2つのアプローチを意識して授業を組み立てるとよいことを伝えました。また、ホワイトボードが小さくて見にくかったことについては、実物投影機と黒板をどのように活かすかという視点で整理しました。変化するものはスクリーンに、固定する、残しておきたいものは黒板という原則も伝えました。
前回私が授業者に伝えた「友だちの考えを代わりに説明させる」という手法を使った場面を取り上げて、前回の学びを活かしていたことを評価したグループもありました。このことに気づけるということは、彼らが他者への指摘を自分のこととして意識しているということです。ここにも参加者の質の高さが感じられました。

毎年参加者を入れ替えながら続いている研修です。年々参加者の質が上がっていることが、この市全体のレベルが上がっていることの証です。私にとってもとてもよい刺激になっています。この市のレベルの向上に私が少しでもお役に立っているのならこんなうれしいことはありません。来年も続けて講師をさせていただけるそうです。いまからとても楽しみです。

地域と学校が一体となって子どもを育てる

先週の日曜日に、私が関わっている中学校で行われた「地域ふれあい学びフェスティバル」を見学してきました。このフェスティバルを見学するのも今年で10年目です。あいにくの雨という、いつもと違う状況での準備の様子を見たいと思い、早めに会場を訪れました。最初に気づいたのが例年以上に地域の支援者の姿が目立つことです。どこのブースにも地域の方の姿が見られました。しかし、子どもたちは決して大人の指示で動いているわけではありません。フェスティバルが学校行事と位置付けられて4年目、最近では子どもが主体となって動くようになってきているのです。そのことは、大勢が同時に作業している、模擬店の食材の準備をしている場面を見るとよくわかります。ぱっと見には子どもだけしかいないようですが、よく見るとちゃんとたくさんの大人が参加しています。大人の姿が目立たないのです。以前は大人が仕切って子どもに指示を出していたのでたとえ少人数であっても目立っていました。数が増えても子どもたちと同じ立場で一緒に働いてくださっているので目立たないのです。子ども主体という趣旨をよく理解していただいていることと、指示しなくてもちゃんと子どもが動けるようになっているということです。子どもたち主体が定着してきています。子どもたちの経験値も上がってきているのです。

足場が悪い中、来場者を心配していたのですが、かえって出足が早いくらいでした。子どもだけでなく大人の姿も目立ちます。男性の姿もたくさん目にします。家族で来られている方もたくさんいらっしゃいます。OBらしき高校生にも出会います。雨だったからこそ、地域の行事として定着していることを実感することができました。

先生方の姿が会場のあちらこちらで見られます。昨年までは担当ブースにいる方が多かったのですが、今年は廊下でよくすれ違います。子どもたちに安心して任せられるようになったのでしょう。こんな感想を持ちながら、模擬店の様子を見に行きました。どのお店にも大人の姿が見えますが、主役は子どもたちです。大人はアシスタントに徹しています。子どもたち同士会話しながら、どの子どももしっかりと働いています。やらせている感は全く感じません。子ども主体の行事となってからのフェスティバルをずっと経験している子どもたちです。そのことが、子どもたちの様子に反映していると思います。子どもたちの中に伝統行事として受け継がれるものになりつつあるのを感じました。

今回気づいた細かな変化は実は用意周到に仕組まれたものであることが、校長のお話をうかがってわかりました。子どもたちの人数が減っていく中、あえてブースの数を一挙に倍増させたのです。子ども主体ですので、一人当たりの責任は一気に増えます。子どもが今まで以上に頑張ることにつながります。しかし、子どもたちが育っていなければかえって混乱します。子どもたちの成長を信じているからできたことです。とはいっても、絶対的に人手が足りません。そこで地域の方の協力を今まで以上にお願いすることになります。だから、地域の支援者の数が増えていたのです。しかし、このことは町内会の役員の方をはじめとする地域の方の協力があって初めて可能なことです。このフェスティバルが地域のものとしてしっかりと根付いていることの証です。また、ブースが倍増するということは、教師の担当ブースも倍になるわけです。当然一か所にじっとしているわけにはいきません。自然に教師が会場内を移動し子どもたちの様子を見ることにつながります。教師が一々指示を出してコントロールすることも不可能です。子どもたちに任せることが加速するのです。

毎年顔を出すたびに、何かしら進化していることに気づけます。それは、この行事が地域と学校・子どもたちの交流の場というだけでなく、子どもたちを鍛え成長させる場でもあると位置づけられているからです。子どもたちの成長に合わせて、常に次の成長を見据えた仕掛けがされていきます。しっかりとしたビジョンに基づき、子どもたちを育てるために、PTA・地域の大人や教師がしっかりとそれぞれの役割を果たしているのです。地域と学校が一体となって子どもを育てることはどういうことかを改めて教えていただけました。

子育て支援地域交流会で講演

先週末に、子育て支援地域交流会で保護者や地域の方向けに「みんなで子どもを育てよう‐子どもの自己有用感を育み居場所をつくる‐」と題した講演を行ってきました。
「家庭で保護者の方に大切にしてほしいこと」と「保護者・地域の方と学校のかかわり方」の大きく2点に分けてお話しさせていただきました。

子どもは保護者だけ育てることはできません。多くの人とかかわることで育っていきます。保護者、地域、学校それぞれに役割があります。保護者にお願いしたいのが、家庭に子どもの居場所をつくることです。そのために、「あなたが私の子どもでよかった」と無条件に子どもを愛していることを伝えてほしいのです。「勉強を頑張った」から、「親の言うことを聞いた」から愛されているのだと子どもが思えば、親の期待に応える「よい子であること」によって親の愛情を得られるのだと思います。自己実現が親の期待に応えることになってしまいます。親の期待に応えられなかったら自分は愛されない、家庭に居場所がなくなると思うのです。
自分の存在が家族にとって意味のあるものだと思えるようにすること、「自己有用感」を持たせることも大切です。小さな子どもでも家族のためにできることがあります。役割を与えることが必要です。茶碗を流しにもっていくだけでもいいのです。お小遣いという対価をあげることはよいことではありません。それよりも、「とても助かったわ。手伝ってくれてありがとう」と家族の役に立って感謝されていると伝えることが大切なのです。家庭の中に自分の居場所ができることで、子どもは安定するのです。
しかり方にも注意が必要です。「だから、あなたは・・・」とYOUメッセージで「子ども」を否定すると自己有用感はなくなってしまいます。否定するのはその「行動」でなければいけません。
また、言葉にも気をつける必要があります。この子はこういう子だとレッテルを貼ってしまうとその言葉に縛られてしまいます。「わがままな子」と言われると本当にわがままな子になってしまうのです。わがままに思える行動にも必ず理由があるはずです。その理由を子どもによりそって考えることが大切です。また、わがままな面があっても、必ずそうでない面もあります。そういった場面を見つけ、そのことをほめて、よい行動を増やすようにするのです。

子育てはチームワークです。家庭は我が子に愛情を注いで育てる場所です。学校は子どもを他者とのかかわりの中で次代の担い手に育てるところです。学力をつけるところでもありますが、社会性を育てるところでもあります。視点が少し違うのです。保護者からすれば自分の子どもが一番大切かもしれませんが、学校はどの子も同じように大切です。また、子どもは子ども同士でかかわり合いながら成長していきます。我が子の成長のためにも他の子どもも成長することがとても重要です。このことを忘れないでほしいと思います。互いが主張し合うのではなく、子どもの成長を願うという思いを共有し、聞き合い、一緒に子どもを育てようとする姿勢が大切です。
PTA活動なども、お願いされたから協力するのではなく、この活動が子どもたちの成長にどう役に立つのかを意識できれば充実感につながるはずです。子どもたちの成長にどのように役立てようとしているのかを伝え、その結果をきちんとフィードバックすることが必要です。

子どもを育てるためには、地域が子どもに場を与えることが大切になります。地域の一員として責任ある役割を持たせ、活躍できるチャンスを与え、地域の大人と子どもが同じ目標に向かって活動することで関係をつくるのです。一緒に活動し責任を持たせるから、大人が子どもを「しかる」ことができるようになります。親や教師でない大人から「ありがとう」と「感謝」の言葉をもらえることで、子どもの「自己有用感」は大きく高まります。一緒に活動するからこそ、「大人のすごさ」を目の当たりします。こんな大人になりたいと「憧れ」を持つことが子どもの成長のエネルギーとなります。
具体例として、ある中学校区の地域フェスティバル(「地域と学校が一体となって子どもを育てる」参照)と学校と家庭が協力して開いた保護者向けのネット講習会(「地域の枠を超える動き」、「PTAや地域と学校の信頼が育つ様子を見る」参照)を取り上げました。これらの例では、学校と保護者・地域との信頼関係があることがうまくいった要因として挙げられます。信頼関係をつくるためには、「学校がネガティブを含めて情報を公開すること」「保護者や地域が本音を伝えること」「学校が前向きに受け止め、たとえできないことでもきちんと理由を伝えること」が大切です。この基本がしっかりできていたのです。

主催者側からすぐにアンケートの結果もお知らせいただけました。その中で、保護者向けのネット講習会の内容をもっと知りたかったという意見がありました。ネットに関する話は今回の講習会の趣旨から外れるので、その内容についてあまり触れませんでしたが、PTAの方がつくられたわかりやすい資料を配布させていただきました。その資料を見てもっと知りたいと思われたのだと思います。この地区でも、ネットに関する講習会が開かれるようになることを期待します。

講演終了後、保護者の方から質問を受けました。保護者向けの講演を行うと必ずと言っていいほど相談を受けます。それだけ、子育てに悩まれる方が多いのでしょう。そういう方のお役に少しでも立つことができたのなら幸いです。
主催者側の細やかな気づかいのおかげでとても気持ちよく講演を行うことができました。とてもよい機会を得られたことに感謝します。

介護関係者向けの研修

先週末に、介護関係者向けのコミュニケーションに関する研修をおこなってきました。今回は、「利用者と接する姿勢」をテーマに行いました。具体的な場面に即して、どのような対応をすればよいのか、参加者の皆さんと一緒に考えるというのがこの研修の基本的なスタンスです。これが正解と言えるものはありません。同じような状況でも相手によって何がよいかは変わってきます。グループでの活動を中心に、いろいろな考えに触れることで、参加者の対応の幅が広がることをねらっています。

利用者と接する姿勢には、「してあげる」「させていただく」「いっしょに」の3つが考えられます。「してあげる」というのは上から目線で相手のプライドを傷つけます。「させていただく」というのは、接客業の視点です。自分のことを考えてくれているようには感じません。「いっしょに」というのは、相手に「寄り添う」姿勢です。この「寄り添う」という視点を大切にする必要があります。
具体的な介護の場面では「サポート」と「ヘルプ」という2つの視点を意識する必要があります。「サポート」は「本人のしたいことを一緒になってできるようにお手伝いする」、「ヘルプ」は「本人のしたいことを代わりにする」ことです。介護では、その人がその人らしく生きる「お手伝い」をするという姿勢が大切です。利用者ができることは本人にやってもらうことが前提であるべきでしょう。一人ではできないことを一緒に解決するという「サポート」の視点です。とはいえ、できないことは「ヘルプ」しなければいけません。相手がしてもらいたいことは何か理解する、何をするか「一緒に」考えることが大切です。自分がどうするかではなく、あくまでも利用者に「代わって」実行するという姿勢が求められます。

利用者と接するうえで大切になるのが表情です。人は、自分に負い目があると表情に敏感(過敏?!)になります。体が不自由になり、ちょっとしたことで失敗をしたりすると、とても情けなく思います。そのような気持ちの時には、相手のかたい表情が、非難したり、ばかにしたりしているように思えるものです。そのために、常に笑顔を意識することが大切になります。しかし、相手が何か失敗したり、思わぬことをした時、困ったり、戸惑った時に笑顔はでてきません。このような時に笑顔になるには、意識して笑顔をつくる「訓練」が日ごろから必要なのです。笑顔になれば、自然に口調が優しくなります。相手も優しい気持ちなります。笑顔になることでこちらの気持ちに余裕ができます。相手も安心して余裕がでてきます。利用者と接する時の基本の表情は笑顔なのです。

具体的な場面を設定して、どのように対応するかを考えてもらったり、実演したりしていただきました。現場経験が豊富な方たちですので、どの対応も納得させられるものばかりでした。私もたくさんのことを学ばせていただきました。
挨拶の時の笑顔がとても素晴らしい方がいらっしゃいました。笑顔で挨拶することを意識すると、笑顔をつくって頭を下げます。しかし、顔を上げた時には表情が戻っていることが多いのではないでしょうか。相手からはその笑顔が見えません。その方は、顔を上げた時に笑顔をつくられました。なるほど、これならばきちんと笑顔が相手に伝わります。ちょっとしたことですが、とても大切な視点だと思いました。

日ごろは子どもの教育という視点でコミュニケーションを考えているのですが、介護という別の視点から見ることで気づかされることがたくさんあります。また、あらためてコミュニケーションの基本は何かに気づかされることもあります。利用者の自立を支援するという、介護における「サポート」の姿勢は、子どもたちの教育にも通じます。介護に従事する方々と接することで、多くのことを学ぶことができます。介護関係者向けの研修をさせていただくことは、私にとってとても有意義なものです。このような機会をいただけたことに感謝です。

教科力が問われる段階にきた授業

昨日の日記の続きです。

数学の授業研究は、1年生の比例・反比例の応用でした。
子どもたちと授業者の関係はとてもよいことがわかります。授業者は笑顔を絶やしません。どの子ども真剣に話を聞いています。この日の課題は、大量の紙を数えるにはどうすればいいかです。子どもからは1枚当たりの重さを測るといったアイデアがでるのですが、授業者はそれを取り上げることはしません。実際に紙と秤を持ってきているので、その子どもに測らせたいところです。そうすることで、ある程度の量を測る必然性が出てきます。比例定数と1枚当たりの重さの関係も見えてきます。比例定数が比の値だと気がつきますし、y=axという式との関連も明確になるのです。

30枚で130gなので、2760枚は比で解けるという考えが出てきます。しかし、黒板に書きとめるだけでそれ以上は取り上げません。予定した進め方にこだわってしまいました。自ら「表にしてみようか」と表を書きます。子どもからアイデアが出てくるのを待つことができませんでした。その上で、いくつか紙の重さを測って表を埋めます。表から比例という言葉を出させようとするのですが、数学的にはあまり正しいアプローチではありません。いくつか表に値を埋めただけでは、比例の関係が常に成り立つことは言えません。最初に子どもから出た1枚当たりの重さが常に一定であること、つまり比の値が一定であることがポイントなのです。

また、子どもから出てきた比で解くことを活かしてもちゃんと比例の関係につなげることができます。そもそも関数を利用して問題を解くよさがなければ、比でなく関数を使う意味がありません。2760枚は求められる。では、3000枚は、3200枚はといろいろな場合を考えると、毎回解くのは大変です。そこで、関数を使う必然性が出てくるのです。ここで、毎回解かずに済ますにはどうすればいいのかという視点で、関数ではなく比で解くことを発展させるのです。「じゃあどうすればいい?」「いろいろ変わるのは何?枚数?」「それならばx枚の時何グラムになるか考えればいいね」とすれば関数の考え方が自然に出てきます。重さをygと置けば、比の式30:x=130:yから、比例の関係y=(13/3)xがでてきます。関数の考え方の復習と、比と比例の関係を同時に扱うことができます。

日ごろから、数学的なものの見方・考え方を意識して授業をしていくことが大切です。関係を見つけるのに表を使う、図を描く、グラフにしてみる、特別な値を試してみる。いつも成り立つか、他の場合にも使えるかと考える。こういう視点を常に問うことが大切です。今回でいえば、比の考えを拡張していくことで、ちゃんと比例にたどり着けるのです。

子どもが数名しか挙手しない時にすぐに指名してしまいます。発表に対して他の子どもたちに理解できたかどうかを確認するのはよいのですが、挙手の確認だけで終わってしまいます。手が挙がらない子どもがいるのですから、その子どもを納得させることが必要です。まわりと確認する。何人かを指名して確認する。こういう活動が必要です。わかった子どもだけで進むのではなく、わからない子どもがわかるようになるにはどうすればよいかを考えてほしいと思います。全員参加を常に意識することが大切です。
また、指名した子どもの説明に対して、「どう、納得した」と確認したときに、一部の子どもが大きな声で「いいです」と応えます。このテンションの高さが少し気になりました。再度説明を求められることがないので、無責任に「いいです」と言っている可能性があるのです。挙手や声だけでなく、具体的な説明を求めることが必要でしょう。

今回の授業で気になったことは、子どもから一番引き出したいことを教師がしゃべってしまう場面が多かったことです。表を使うこともそうです。枚数と重さをそれぞれxとyとするということも授業者から出しました。xに数を「入れる」とyの値がわかるということは子どもから出てきますが、「代入」という言葉はでてきません。子どもに、「数学の言葉で言うとどうなる」というように、数学の用語を意識させることが大切です。授業者は「代入する」と言い変えましたが、そのことを用語としてはきちんと押さえませんでした。

基本となる子どもとの関係はしっかりつくることができています。数学の教師としてはここからが勝負です。数学として何が大切なのかをしっかりと考えて授業を組み立てるのです。問題の解き方を教えることはそれほど重要ではありません。数学的な知識や、ものの見方・考え方が身についた結果、問題が解けるようになる。問題を解くことを通じてそのような力をつける。そのためにどのような授業を組み立てればいいかを考えるのです。
比例の学習であれば、関数の考え方を2年生3年生でどのように広げていくのかを考える。2つの変量の関係を文字で表すことは連立方程式につながっていくことを意識して、何を押さえる必要があるのかを考える。そうすることで単元を通じて大切にしなければいけないポイントや常に問いかけるべきことが見えてくるはずです。「x(一方)が決まるとy(他方)が決まる」「いつも成り立つ関係?」「xに入るのはどんな値?(変域)」「関係は式に表せる?」「式からどんなことがわかる」「グラフから何がわかる?」「表から何がわかる?」「グラフのどこに注目する」「表のどこに注目する?」・・・。

数学科で検討会を行いました。授業規律といった基本的なことはできているので、安心して教科についての検討ができます。ベテランから教材の持つ意味や、数学として何を大切にするべきかという視点での意見が出てきます。授業者はよい気づきができたことと思います。若い先生が多い学校です。1時間の授業という点についての議論だけでなく、教科部会として関数はどのようなことを大切にして授業を組み立てるのか、1年生で押さえておくことは何かといったより広い視点話し合うことができるとよいと思いました。なかなかまとまった時間を確保することは難しいかもしれませんが、ベテランと若手が日常的に授業について会話できるようになってほしいと思います。

若手が立派に育ってきました。教科力が問われる段階に到達したと思います。ここからは、地道な教材研究の積み重ねで力をつけていくしかありません。それなりに授業ができるようになっていますので、手を抜いても何とかなります。しかし、その時点で成長は止まるのです。歩みを止めずに、ゆっくりでいいので前に進み続けてほしいと思います。

子どもの姿と教師のかかわり方の関係について考える

先週末は中学校で授業アドバイスと数学の授業研究に参加してきました。

1年生と2年生を中心に校内を参観しました。
2年生は子ども同士の関係のよさを感じる場面がたくさんありました。特に印象に残ったのが、暗幕を雑に引っぱってカーテンレールから落としてしまった子どもを教師が注意した場面でした。授業者はちょっと厳しく注意をしています。その時、他の子どもたちの視線がその子に向いているのです。非難するような目ではありません。大丈夫かなと心配するような、温かな視線なのです。こういう場面では、自分には関係のないことだと手遊びしたり、よそ事をしたりしている子どもが目立つものですが、そのような子どもはいませんでした。失敗した子どもが暗幕をたたんでいる時に、そばの子どもが手伝ってくれました。「ごめん、ありがとう」という声が聞こえました。授業者もたたみ終った子どもに「ありがとう」と声をかけていました。厳しくしかったからこそ、この「ありがとう」の一言が効いてきます。授業者はその後、その子どもと一緒に暗幕を取り付けたそうです。教室の雰囲気のよい理由がわかったように思いました。
英語でのペア活動でも、相手の読みのチェックをとても真剣にやっていました。子ども同士がしっかりかかわれるようになってきたように思います。その一方で、教師が一方的に説明をしている場面では、子どもの姿が分かれます。うれしそうに反応しながら聞く子がいますが、集中力を失くして顔が上がらない子ども目立つのです。反応してくれる子どもがいるためつい見落としがちですが、参加していない子どもを意識してほしいと思います。この学年の子どもたちは、充分にかかわり合えるので、できるだけそれを活かすようにしてほしいと思いました。

1年生は、前回と比べると授業に参加できない子どもの絶対数は少ないように思いました。しかし、欠席者も目立ちました。簡単に評価を下すことができません。気になるのはうまくかかわり合えない子どもとそれに対するまわりの子どもの対応です。まわりと相談することや、グループでの活動も積極的に行える子どもたちでも、かかわり合いが苦手だと思われる子どもには、ちょっと声をかけて反応がないと無視してしまうのです。一人席の子どもが教科書を忘れていました。そこで、教師が斜め前に座っている子どもの座席を横に持ってきて見せてもらえるようにしました。教科書を差し出され、少しうれしそうな反応がありました。全くかかわれないというわけではないのです。ところが、別の時間にその学級のグループ活動の様子を見たところ、他のグループは積極的に活動しているのですが、その子どものいるグループだけまったくと言っていいほどかかわり合いがありません。似た傾向は他の学級でも見られました。友だちとかかわることが苦手な子どもがいることだけが問題ではなさそうです。その他の子どものかかわり方にも問題があるように思います。グループ活動などは、よくかかわれているように見えるのですが、どうも表面的な気がするのです。聞いているようで聞いていないというか、テンションがすぐに上がる傾向があるのです。基本的なコミュニケーションに関して、欠けていることがあるように思います。それに加えて、小学校ではミュニケーションが苦手な子どもに対して、教師が手厚くかかわっていたのではないかと想像します。そうであれば、子どもたちはその子に関しては、教師に任せておけばいいと思ってしまい、積極的にかかわろうとしなくなるからです。ソーシャルスキル・トレーニングや特に構成的なグループ・エンカウンターを日常的に取り入れることが必要に思えました。
また、教師が指名した子どもの発言を聞いている時に、かなりの子どもが他人事のようにしています。教師が自分を見ている時の姿はいいのですが、黒板に向かっている時や、他の子どもに視線がいっている時には、集中力が薄れてしまいます。どの授業でもそうかというと、これが教師によって態度が大きく変わります。以前から感じていた、教師を見て態度を変える傾向がまだ改善されていません。教師が授業規律を徹底することを意識できているかどうかとの関係も大きいように思いました。どこまで学年として足並みをそろえられるかが課題のように思いました。

1年生の英語の授業ではヒアリングの進め方を工夫していました。1度聞いた後、子どもたちに聞き取れたことを単語一つでもよいので、発表させます。中には意見が分かれることもあります。その上で、もう一度聞かせます。先ほどよりも集中力が上がっているのを感じます。友だちの意見を参考に何とか聞き取ろうという姿勢が見えるのです。どうしても聞き取れない部分は、そこだけを何度も聞かせたり、最後は授業者が少しゆっくりと話したりと対応しています。ヒアリングが難しいのは、シチュエーションの絵などは用意されていますが、基本は音だけなので実際の会話より情報量が少ないのです。そこで、絵を指さしながら誰がしゃべっているのかを伝えるといったことをするとよいのではと、アドバイスをしました。毎回授業に何らかの工夫が見られます。一つひとつは小さいことでも、着実に力をつけることにつながっていると感じました。

3年生の社会科の授業は、消費税の増税について考えさせるものでした。子どもたちは授業に積極的に参加してくれます。所得税や相続税、入湯税などいくつかの税を取り上げます。その税がどのようなものかを子どもたちに問いました。早く進めたかったのか、それともしっかりと押さえたかったのかがはっきりしない場面でした。早く進めたければ、一部の子どもに説明させるよりも、授業者がポイントを絞って説明した方が効率的です。そうでないのなら、子どもたち調べさせるなど全員が参加できるようにする必要があります。授業のねらいと活動の関係をはっきりさせると、授業にムダがなく、一番大切な活動に時間をかけることができます。

1年生の理科で音の伝わり方の実験の場面を見ました。糸電話や音叉を使って実験をします。実験をすることで何を知るかという目的が子どもたちにシャープになっていませんでした。何と何を比べれば、どのようなことを確かめれば、何を知ることができるのか。それがはっきりしていないので、子どもたちは楽しそうに指示された実験をしているのですが、その結果をもとに考えることをしません。すぐにテンションが上がってしまいました。実験を通じて何を考えるのかを明確にしておくことが大切です。

2年生の理科は真空放電の実験と考察でした。気になったのが、放電が起こるためにはどの程度真空にしなければいけないのかを問う場面でした。子どもたちは知識がないのでやってみなければわかりません。教科書や資料集で調べるのであれば、全員に見つけさせることが必要です。そのどちらでもなく、資料から見つけた子どもを指名して、その数値をもとに授業を進めました。気体の圧力と密度の関係も明確にしないまま、1気圧と比較をして進めます。この場面で理科として大切なことは何だったのでしょうか。電子が飛ぶためには抵抗となるものがあるとダメなことなのでしょうか。それとも単に真空であることが放電の条件であることを知ることなのでしょうか。また、そのことを知るための理科的なアプローチは何だったのでしょうか。残念ながら私が見た場面からはそのことが伝わりませんでした。授業規律はしっかりとしてきたので、教科としてどうであるかが余計に気になるのです。

3年生の数学は相似の学習でした。証明問題を穴埋めで解かせていました。証明の書き形を学ぶには穴埋めというのも有効な方法だと思います。しかし、なぜその角が等しいことを示す必要があるのかといったこと理解できなければ、指示に従って等しいものを探すだけです。正解はわかったが証明はわからないということになってしまいます。証明の最初の1行を書くまでに、数学的なものの見方・考え方があるのです。まず、自分たちはどのような知識を持っているのか。今まで学習したことを使えそうなアプローチは何か。穴埋めを始める前にそのことを全体で共有しておいてほしいのです。教師は基本的に答を知っています。だからこそ、答を知らない子どもがどうすればそこにいたることができるのかを明確にしておいてほしいのです。それが、数学の教材研究なのです。

授業研究については明日の日記で。

視線を送る

子どもが集中して教師の話を聞いている。集中して作業をしている。このような授業には共通の特徴があります。それは、教師が子どもたちをよく見ていることです。ところが、同じように教師が子どもを見ているようなのですが、集中力が途切れがちな授業にも出会います。子どもたちが違うからなのでしょうか。それとも、他に何か大切な要素があるのでしょうか。このことについて考えてみたいと思います

作業中に子どもの集中力が切れると、視線が手元から離れます。そのとき必ずと言っていいほどまわりを見ます。このことに教師が気づかないと、子どもはしばらく集中力が切れたままです。教師があとから気づいて注意をしても、なかなか集中力は戻らないものです。特に机間指導をしていて教師の視線が机から机へと移動しているようなときには、死角が増えて子どもの様子に気づけません。私は教室の斜め前から子どもたちを見るようにお願いしています。この位置であれば、全員の手元がよく見えるからです。子どもの集中が切れてもすぐに気づくことができます。
全体に説明している時も同様に子どもたち全員を見ることが大切です。視線だけを動かすことでも見ることができるのですが、子どもたちに「先生は君たちを見ているよ」と伝えるためには体を動かした方がよいようです。

ところが、最初に述べたように子どもたちをちゃんと見ているように見えても、集中力が続かない授業があります。そのような授業では教師は子どもを眺めているのです。漠然と見ていると言ってもよいかもしれません。子どもから見れば、教師の視線が自分の上を通り過ぎているだけです。「自分のことを見てくれている」とは思いません。
一方、集中力が続く授業では、教師は視線を子どもに送っています。視線が一定の速度で流れているのではなく、子どもたちのところで一瞬止まるのです。子どもから見れば、教師の視線と自分の視線が交わります。「自分のことを見てくれている」と感じます。
作業中に集中力を失くしている子どもであれば、視線を送って、笑顔でそっとうなずくのです。そうするだけで、子どもはすぐにまた作業に戻ります。教師がいつも自分を見てくれている、見守ってくれていると感じていれば、集中力は切れなくなります。結果的に教師と子どもの視線が交わることはなくなります。この状態ができあがると、教師が見ていることと、集中力が持続することの因果関係は見えなくなってしまいます。しかし、子どもたちの集中力が続くのは、確かに教師が子どもたちを見ているからなのです。

子どもたちを見ることはとても大切です。その上で「視線を送る」ことを合わせて意識してください。そうすることで子どもたちの集中力は確実に上がるのです。

小学校で視聴覚の研究大会

昨日は、ICT機器を活用した授業をテーマにした視聴覚の研究大会に参加しました。会場となった小学校へは1学期の末以来の訪問です。

1時間の授業公開が全学級でありました。ICT活用は日常的な使い方が意識されていました。肩に力の入らない使い方に思えます。とはいえ、どのような場面で利用するとよいのか、みなさんずいぶん悩んだのではないでしょうか。何をスクリーンに映すのか、板書との住み分けをどうするかを考えた跡が見られます。ここに至るまで、模擬授業等を通じて互いに学び合ってきたのだと思います。
しかし、ICTの活用に焦点を合わせていたので、授業そのものについては、まだまだ厳しい面もたくさんありました。課題であった授業規律の徹底については、まだまだと言わざるを得ません。一朝一夕でできることではないことも承知しています。今後、学校として授業規律を意識し続けられるかが勝負だと思います。それができれば、次年度は大きな成果が出るはずです。
また、ICTの活用方法は決して間違ってはいないのですが、1時間の授業をどうつくるのかという根本の教材研究は、もっともっと追究する必要があります。ICT活用の場面は点でしかありません。資料をわかりやすく見せる、みんなの意見をデジタル教科書に書き込む。こういったことが、授業を通じてどのような力をつけたいのか、教科としてどのような目標を達成するのかという視点で見たときに、どう活かされているのかがはっきりとしていないのです。ICTの活用としては○でも、1時間の授業としてみたときに?なのです。

この日の講師は玉川大学教職大学院教授の堀田龍也先生です。通常、こういう発表会の講演だけは引き受けられない方です。その気持ちはとてもよくわかります。一度も指導していない学校の発表会で、その研究内容に焦点の合った講演は簡単なことではないからです。堀田先生は午後からの本番に先立ち、3時間目から校内の授業の様子を参観されたそうです。公開授業ではなく、通常の授業を見ることでより的確に学校の状態をつかむことができるからでしょう。公開授業開始前に少しお話をする機会がありましたが、この学校の状況を見事に把握されていました。その上でどのような講演をなさるのか、とても楽しみです。

講演は「子どもに力をつけるICT活用にするために」という演題です。
最初に演題の説明をされました。そこに堀田先生のICT活用に対する考え方が凝縮されています。「活用」ということは、「利用」とは違います。活かすこと、つまり力をつけることにつながらなければ意味がないのです。そして、活用「する」という動詞の主語はもちろん教師です。ICTが勝手に子どもたちに力をつけてくれるわけではありません。あくまでも、教師が主体となって子どもに力をつけるのです。同じようにICTを使っても、教師の授業力でその結果は大きく違うということです。

堀田先生の見事なところは、伝えたい内容をできるだけその学校の事例をもとに組み立てるということです。多くの学校にかかわっておられる方です。話の内容にふさわしい具体例はたくさんお持ちです。それをその場で入れ替えて講演をつくられるのです。
ICTは注目させる、強調するための道具でスクリーンに映されるものは変化していく。一方、黒板は発言など消えていくものを残すための道具で、固定化し蓄積していく。このことを意識して使い分ける必要がある。その事例としてこの学校の授業場面を切り取って説明されました。
よい事例として講演の中に組み込まれることで、その学校の先生方は自分たちが評価されたと感じます。この日を迎えるまでにどの先生もご苦労があったはずです。たとえいたらないところがあると自覚していても、そのことをストレートに指摘されて、素直に受け止められる方はそれほど多くはありません。「いいとこ見つけ」の精神で学校を元気づけようとしているのです。とはいえ、理屈はわかっていてもなかなかできることではありません。もはや芸の域に達していると言えるでしょう。

厳しい指摘もされます。授業規律が確立していなければICTを活用しても効果はないと、その大切さを述べた後、さりげなく「この学校でも、他の学校でも」と笑顔で付け加えられます。ソフトな語り口ですが、聞きようによってはとてもシビアです。堀田先生はわかる人だけわかればいいとおっしゃいます。それは、話の中からそのことをかぎ分けられない方には、ストレートに言っても伝わらないと考えられているからでしょう。
最後のまとめも視聴覚の視点であることを強調されます。授業をトータルで見れば話すべきこと、指摘することは他にもあります。そのことを暗に伝えていると感じました。それは何だろうかと各自で考えてくださいというメッセージに聞こえました。
発表会だけの特別なものでは、どれほど素晴らしい実践でも続きません。継続可能であることが大切です。一人のICTにたけ方が頑張っていても学校としてはどうでしょう。誰にでもできることが大切です。この継続と普及という2つの軸で考えれば、効果のある活用であることよりも簡便な活用であることの方が大切だというのが堀田先生の変わらない主張です。効果のある素晴らしい実践を否定しているわけではないと思います。この2つの要素を満たしたその先のことだと考えられているのでしょう。

いつものことながら、時間通りにしっかりと伝えたいことをまとめて降壇されました。堀田先生のお話をめあてに参加される方がいらっしゃることがよくわかります。私にとっても新しい気づきのあった講演でした。

この日を迎えるまでに、先生方には色々とご苦労があったことと思います。今は研究発表という枷が外れた開放感を味わわれていることでしょう。ちょっと一息入れたその後で、何に取り組むかが勝負だと思います。ICT活用だけでなく、授業規律といった凡事徹底も大切です。ICTを真に活用するためには教材研究も重要です。この学校にとって何が今必要なことなのかを全体でしっかりと共有して新たな一歩を踏み出してほしいと思います。

ベテランに伝えてほしいこと

以前、ベテランが変わるきっかけについて述べました(ベテランが変わるきっかけを考える参照)。そういうきっかけとは関係なく、常に自身の授業を見直し前に進み続けている方もいらっしゃいます。私が訪問している学校でも、今年で定年を迎えるにも関わらず、日々授業に工夫をされている方が何人もいます。お会いするたびに、工夫をすることで子どもたちがこんな風に変わったと報告してくださったりもします。こういうベテランから若手が学ぶ機会をどのようにつくるかということは、学校にとってとても重要な課題です。授業を見てその技術を自分のものにすることも大切なことですが、一番学んでほしいのがその授業に対する姿勢です。子どもたちを育てることを第一に考えた時、足りないことは何で、それをどのようにしてできるようにするのか。謙虚に自分を振り返り、より進歩しようと工夫をする姿勢です。この姿勢を持ち続ければ、教師として確実に成長し続けることができるのです。

先日次のようなことがありました。
低学年の学級です。先生が気なる子どもにかかわりすぎて、それ以外の子どもがその間集中力を失くしていました。先生をその子に取られたと感じているようです。子どもとの関係が上手くいってないことをそのベテランの先生にお話ししましたが、そのことをなかなか納得はしていただけませんでした。先生が子どもたちに向き合っている時に見せる姿は、決して悪くはないからです。私からは、「こんなやり方もありますよ」と、参考になりそうなことを伝えましたが、釈然とされないようすでした。上手く伝えることができなかったと反省していました。
それからしばらくして、その学校の教頭からメールが来ました。その日、そのベテランの先生は、職員室で不満を口にされていたそうです。しかし、何日かして、私の言ったとおりやってみたら、ほんとにうまく行くようになったと教頭に伝えたそうです。これからも、もう少し他の子どもたちを大切にするとのことでした。
私のアドバイスがよかったという話ではありません。納得していなくても、子どもがよくなる可能性があるのなら、素直に受け入れて実行したその姿勢が素晴らしいのです。実力のある方です。関係がうまくいっていないと言っても、平均点以上の状態です。それでも、子どもたちのために変わってみようと思われたことに、私は感激しました。

校長となって授業をする機会がなくなっても、授業にこだわり自身の授業力の向上を常に目指している方がいます。一方、5年にも満たない経験で、自分はそこそこできるようになったと、努力や工夫をせずに漫然と授業に向かう方もいます。逆に、自信を失くして、努力することをあきらめてしまう方もいます。この姿勢の違いが教師としての成長を大きく左右します。いくつになっても、授業に対して正面から向き合うことを忘れないでほしいのです。

教師としてのどのような姿勢でありたいかを共有することが大切だと思います。そのために、ベテランには単に授業を見せ、授業について語るだけではなく、教師としての自分の歩いてきた道をぜひ後進に伝えてほしいのです。その歩みの中から、前向きな姿勢を持ち続けることができた理由をきっと見つけてくれるはずです。
日ごろの交流の中でそのような機会があるのが一番ですが、可能ならば時間を取って全体の場で話していただけるとよいと思います。教務主任や中堅の先生が対談形式で聞きだすというのも面白いと思います。

ベテランから学ぶ、ベテランが伝えるべきことは、技術や経験以上に、教師としての姿勢なのです。

次への一歩が見えてきた研究発表会

先週、授業アドバイスをさせていただいている中学校の研究発表会に参加しました。

発表会前に3年生による合唱を2曲聞かせていただきました。子どもたちの歌声も素晴らしかったのですが、何より子どもたちの一生懸命な姿が印象に残りました。来客に対して自分たちの歌声でもてなしたい。そのような気持ちが伝わってくるように感じました。3年生は先生や友だちとの人間関係が特によいと感じていましたが、日ごろ見せてくれるよい姿が本物だと感じさせるものでした。

研究内容の発表は成果を強調するというよりも、子どもたちにどうなってほしいと願っていたのかという自分たちの研究への思いと今後何を大切にしたいと考えているかという次への展望を中心としたものでした。研究の成果をアピールしてそれで研究は終わり。数年経つと何も残っていないという学校も珍しくありません。研究の先をしっかり見つめ、歩み続けようという姿勢をとてもうれしく思いました。
目指す姿の中に「ありがとう」という言葉がキーワードとして出てきました。教師と子ども、子ども同士の人間関係を大切に考えていることが伝わってきます。このことが基本となって、はじめて子どもたちの学力が形成されていくものだと思います。

1時間の公開授業がありました。多くの学級の授業が公開されていましたので、駆け足での参観となりましたが、どの学年でも、どの学級でも、子どもたちの柔らかい表情、笑顔を見ることができました。多くのお客様がいらっしゃる場です。子どもたちにかたい表情、まじめな顔をさせることはプレッシャーをかければ簡単にできます。しかし、柔らかい表情や笑顔は日ごろの人間関係がなければこのような場では見ることができません。少し心配していた2年生もよい表情をたくさん見ることができ、うれしく思いました。1月前に訪問した後も、子どもたちとの人間関係の構築にエネルギーをかけ続けたのだと思います。
とはいえ、すべての子どもがしっかりと授業に参加できていたわけではありません。よい姿がたくさん見られるからこそ、そうでない子どもも目立ちます。この学校が生徒指導上の困難を抱えていることを何人かの知り合いの先生方から指摘されました。その通りです。だからこそ、この学校が授業において教師と子ども、子ども同士のかかわり合いを大切にしていこうとしているのです。まだまだ道半ばですが、先生方がこのことを意識し続けていけば、このことは何年かのちにきっと笑い話になっていることと思います。

子どもたちが積極的に授業に参加してくれるようになってきたので、課題や活動内容の質が問われるようになってきました。この課題で子どもたちにどのような力を身につけさせようとしているのだろうか。この活動で子どもたちに本当に力がつくのだろうか。このことが気になるのです。人間関係づくりと並行して教科の研究をもっと深めていくことが必要になってきていると思います。気の置けない先生からは、授業内容に関して厳しい指摘をたくさんいただきました。学校全体として取り組むことはもちろんなのですが、教科としてどのように授業をつくっていけばいいのかを教科部会でもっと論議していく必要があるでしょう。
そんな中でうれしい場面もいくつかありました。中でも、若手の英語の授業でとてもよい子どもの姿を見ることができました。電話応対のペアでのやりとりをもう1組のペアが身を乗り出して真剣に聞いているのです。どのグループも同じように素晴らしい集中でした。言葉につまったら助けてあげる。どこがよかったのかを評価する。そういう役割をしっかり与えられていることがわかります。付け焼刃ではなく、しっかりと実践していることがわかる場面でした。
このような工夫を教科や学校全体で共有していくことで、次のステップへの道筋がきっと見えてくることでしょう。課題と共に次につながる明るいものが見えてきたように思います。

記念講演は、名城大学教職センター准教授の曽山和彦先生の「学びを支える人間関係づくり」でした。
現代の子どもの特徴として、「ソーシャルスキル」と「自尊感情」がないことを挙げられました。子どもたちの社会性が弱まっていることが、「相手を消す(いじめ)」か「自分が消える(不登校)」につながるという指摘はとても納得できるものです。自尊感情の低下は自分自身のみならず他者の受け入れも困難にしている。このことも、いじめや不登校につながっているというのもその通りだと思います。問題は、どうやって解決するかということです。
曽山先生はそのことについて具体的に示されました。

学級を子どもの居場所にするためには、まずは安心・安全な学級づくり。つまり、学級に規律があること。そして、所属意識を持つことや受容されることにより愛情や自尊感情を持たせることだと主張されます。つまり人間関係づくりです。この人間関係は教師と子ども、子ども同士、よく言われる縦糸と横糸で「関係を紡ぐ」ことです。特に子どもとの関係づくりでは、愛されていることを伝えることが大切になります。伝わる言葉の「番付」として具体的な方法を紹介されました。

東の横綱「いいところ探し」
子どものよいところを探して、貯めておく。「ほめる」「勇気づける」「認める」。そしてちょっとしたことでも「ありがとう」の言葉をかける。Iメッセージの大切さを何度も説明されました。

西の横綱「対決Iメッセージ」
望ましくない行動を相手の行動をいけない(YOUメッセージ)と注意するのではなく、自分が困っている(Iメッセージ)ことを伝えることで相手の行動を変える。
相手の行動を具体的な事実として伝える⇒その結果どのような影響が出ているかを伝える⇒私が困っていることを伝える。このような流れです。例えば、授業中におしゃべりしている子どもがいれば、「あなたがおしゃべりしていると」⇒「話がしにくくて」⇒「困るんだ」と伝えるということです。この方法は、私も意識して使ったことがないのでとても参考になりました。

東の大関「リフレーミング」
同じことでも見方を変えることで違って見えます。短所を長所に置き換えるのです。「優柔不断」を「思慮深い」「慎重」というように置き換えるわけです。日ごろからそういう見方を意識していないとできないことですね。

西の大関「例外探し」
どんなものにも例外があります。上手くやれていること(例外)はきっとあるはずです。日ごろ言葉づかいが悪い子どもでも、よい言葉を使うことがあります。その理由を見つけることで、子どもと接するヒントが見つかるということです。

子ども同士の関係づくりには、「ソーシャルスキル・トレーニング(Social Skill Training)」と「構成的グループ・エンカウンター(Structured Group Encounter)」を紹介されました。
ソーシャルスキル・トレーニング、教えることになじむ「行動の教育」です。説明して、やって見せて、やらせて、評価する。話の仕方や、聞き方を具体的に教えるのです。
一方の構成的グループ・エンカウンターは教えることになじまない「感情の教育」です。互いに相手の気持ちや考えを聞き合うことで、気づきをうながします。
この「教える」「気づく」に境目があることを指摘されます。10歳前後だということです。この10歳前後は、子どもの自意識が育ってくる時だと私は認識していました。「みんないいね」と「みんな」でほめても自分のことだと思ってくれなくなる、ペアよりもグループの方がなじみやすくなる、そういう時期です。根っこは同じなのかもしれませんが、新たな視点をいただけたように思います。曽山先生は、「YOUメッセージ」と「Iメッセージ」の有効性の境目も同じようにこのころだと言われました。たしかに「みんな」も「YOU」につながります。これもおおいに参考になりました。

学びを支えるには人間関係づくりが大切だという曽山先生のお話は、私の日ごろの思いを代弁してくださっているように感じました。私も意を強くして、このことを伝えていきたいと思います。そして、人間関係ができているからこそ教材研究がより大切になることも合わせて伝えたいと思います。

研究発表後すぐに、今後も授業アドバイスをお願いしたいという、ありがたい依頼がありました。研究会が終わっても歩みを緩めない姿勢をとてもうれしく思います。これからこの学校がどのように進化していくかとても楽しみです。

自分たちが活かされていると感じた学校評議員会

先日、中学校の学校評議員会に参加してきました。
例年より早く、1年の中間のこの時期に第1回が開催された意味がよくわかるものでした。

今年度から取り組んでいることの中間報告、全国学力・学習状況調査の結果と学校評価アンケートの話が中心でした。
いつも感心するのが、できるだけ生の情報を私たち伝えようとしていることです。今年度より、研究授業の際に他の学級の子どもたちを下校させずに自習することにしました。子どもたちがちゃんと自習してくれるか心配する声もありますが、子どもたちを信じて実施したのです。担任の先生方には、研究授業に集中して学級の様子は見に行かないようにお願いしたそうです。そこで校長が担任に代わってこっそり子どもたちの様子を撮影したそうです。その映像を見せていただきました。中には寝ている子どももいますが、事実としてそのことも示していただけました。もちろん全体としては、真剣に取り組んでいます。わからないことを相談している子どももいます。そういうよい場面だけでなく、気になる場面も示していただけることで信頼を持つことができます。

今年度創設した朝の読書タイムの姿も、全学級の様子をていねいに映像で見せていただきました。そこにも、気になる子どもの姿がありますが、それ以上によい姿をたくさん見ることができました。この読書タイムは昨年までのアンケート調査で、子どもたちは読書が好きなのに実際には本を読む時間が少ないという、一見矛盾した結果がでたことをもとに考えられたものです。今の子どもたちが忙しいことや、読書以外にもオンラインゲームといった時間を使ってしまうものがまわりに多いことの現れなのでしょう。
最初はなかなか集中できなかった子どもいたようですが、今ではほとんどの子どもが落ち着いて読書をしています。国語力をつけることよりも、子どもたちが落ち着いて授業の開始を迎えることを重視しているようです。とても納得でき、かつ評価できることです。

学力・学習状況調査やアンケートの結果もていねいな報告がされます。アンケートは学校目標の達成度評価ときちんとリンクしています。中には教師にとってショックな結果もありました。しかし、この時期に実施したからこそ、何らかの対策を取ることができます。年度末に再度調査することで、その対策が有効であったかどうかの評価もできます。たとえ良い結果が出なくてもそこから得られる知見は、次年度以降に必ず役立つはずです。先生方の頑張りが積み上がっていく仕組みになっていると思いました。
アンケートの結果に関連して、保護者の方から他の保護者から聞いた学校へのマイナス評価の話が伝えられました。こういう場で現役の保護者がマイナスのことを伝えるのはなかなか勇気のいることです。それを伝えられるということは、学校を信頼していることの証だと思います。ネガティブも隠さず見せる学校の姿勢があってのことでしょう。

どう考えればいいか、どう解決していいのかすぐに答がでない問題がいくつもあります。それを参加されたみなさんで共有して考える場を持てたことにとても意味があると思います。どなたも真剣に考えていただいていたと思います。自分たちの問題として認識できているので、この後の経過と結果がどうなるかとても気になります。どうすればよいのか真剣に考える気持ちになるのです。

ともすれば形式的になりがちなこの種の会で、情報をきちんと公開しPDCAの仕組みを取り入れることで、参加者全員にとって意味のある会になったと思います。学校評議員会を学校にとってより有効なものにしようとする姿勢を強く感じました。聞く耳を持っている学校です。このことがいかに信頼を得ることにつながるのか、とても実感できました。
先生方のこの後の取り組みがどのようなものでどのような結果につながるのか。今まで以上に次回が楽しみです。

算数の授業研究で1年生の教材の深さを感じる(長文)

昨日の日記の続きです。

授業研究は1年生の大きさ比べでした。授業者は今年度他地区から異動して来られた担任です。地区が異なると雰囲気も違います。授業規律の考え方が違ったりするので戸惑うことも多かったと思います。そんな中での授業研究ですが、今までのやり方にこだわらず、この学校のやり方を取り入れようとしていました。ある程度経験を積むとなかなか自分のやり方を変えることは難しいのですが、立派な姿勢だと思います。

前時の復習からのスタートです。
端をそろえて、直接比較する。テープに長さを移して、それを比較する。前時にやった長さの比べ方を子どもたちに確認します。子どもたちはとても落ち着いています。安心して見ていられる授業です。子どもは発表の後に「どうですか」をつけます。この学校に来た当初は、ハンドサインを使っていたようですが、形式的なものになりやすいのでこの学校では使わなくなっています。そのことを受け入れてやめられたようです。「どうですか」は、そのころのなごりのようです。授業者は子どもの発言の後、すぐにしゃべります。たとえハンドサインをやめたのであっても、「どうですか」に対して子どもたちの反応を少し見てあげる余裕がほしいと思います。うなずくなどの反応をしている子どももいるのです。ハンドサインを出さないかわりに外化することを求め、うなずくなどの反応をした子どもに「どう、それでいい?納得した?」と確認する。一問一答で終わるのではなく、挙手に頼らず指名して数人に答えさせる。こういう工夫がほしいところです。この授業者だけの問題ではありませんが、数人しか手を挙げないのにすぐに指名してしまう傾向があります。手を挙げない子どもをどう参加させるか意識してほしいと思います。ヒントとなる言葉を挙手した子どもに言わせる。まわりと確認させる。全員参加を目指してほしいと思います。

「○○さんの意見につけ足しですが、・・・」という話型も耳にします。このこと自体は悪いことではないのですが、聞いていて何がつけ足されたのかはっきりしないことがありました。同じように思った子どももいると思います。まだ1年生なので、「・・・がつけ足されたね」と教師が確認したり、「何がつけ足されたかわかった?」と子どもたちに問い返したりすることも必要です。時には「つけ足したのはどこ?」と発言者に確認してもいいでしょう。

これもこの授業者だけのことではありませんが、一人の子どもがつぶやいたことを拾って、そのまま全体に話す場面がありました。まずプライベートな発言をオフィシャルなものすることが必要です。「○○さん、今言ったこともう一度みんなに聞かせてくれる」「○○さんがいいことを言ってくれたから、みんな聞こうね」と全体に対して発言し直させるのです。まだ1年生ですので、全体に対してうまく言えない時は、「○○さんが・・・と言ってくれたんだけれど」と授業者が代わりに説明してもいいと思います。この時、できるだけ本人の言葉をそのまま使って、必ず「○○さん、これであっている?」と確認をするようにしてください。自分の言葉を教師が都合のよいように変えていると感じてしまうと、子どもが発言しなくなっていくからです。

机の縦と横はどちら長いかを身近なものを単位として比べることがこの日の課題です。実物投影機を上手に使って、課題をディスプレイに映します。縦と横に色違いのテープを貼ってわかりやすくしています。ここで、どちらが長いか子どもたちに問いかけます。もちろん子どもたちはほぼ全員、横に手を挙げます。間違えた子どもはおそらく縦と横が混乱しているのではないかと思います。ここで、任意単位を使う必然性が大切なのですが、見れば大体わかってしまいます。比べる必然性に乏しいのです。実物投影機で真上から映していますが、斜めから映して、縦と横が比べにくいように見せるといった工夫も必要です。
テープが貼ってありましたが、前時の学習が子どもたちに定着していれば、テープで比べるのが自然な発想だと思います。そのことを子どもたちから出させたうえで、任意単位の必然性を与えたいところです。ジャストアイデアですが、「斜めから撮った写真を送ったら、どちらが長いかわからない。どうやって伝えよう」といったものです。

授業者は教科書の絵を使ってどうやっているのかを問います。手を広げた長さや鉛筆でいくつ分あるかを調べていることを、実際にやってつたえます。おそらく、この時間で初めて「いくつ分」という言い方が出てくるのですが、授業者は特に説明することなく使いました。「いくつ分」はかけ算につながるとても大切な用語です。用語としてきちんと意識して使うことが大切です。
手を広げた長さといった、毎回「同じ」長さになりにくいものは、基準にしづらいことも押さえておくとよいでしょう。「同じ」ものと「いくつ分」ということを一組として意識させたいところです。
授業者は子どもたちに基準となるものを選んで比べさせます。比べた後、ペアで自分の比べ方を伝えさせますが、友だちに言うだけではペアで活動する意味がありません。聞き手に役割が必要です。相手の言った比べ方を聞いて自分もやってみて確認して、同じ結果になったかを伝え合う。発表も自分のではなく友だちのやり方を説明させる。ペアで活動するならこのような工夫が必要になります。

実物投影機を使って、子どもに発表させます。こういう使い方はとてもうまいと思います。子どもは消しゴムなどを使って測ってくれます。消しゴムのように小さなものはやりにくいのですが、1回ごとに印をつけていき、印と印の間が消しゴム1個分の長さになることを確認し、「同じ」長さであることを強調するとよいでしょう。「消しゴム」が「何個分」と「何の」「いくつ分」という組み合わせを意識させたいからです。また、「同じ」というキーワードを強調することと印をつけることで、この後のマス目を数える問題につなげていくことができます。

ここで気になる言葉づかいがありました。長さはピッタリ何個分にはなりません。そこで授業者は、4つ「半」といった言い方をするのです。確かに日常ではそのような言葉づかいをしますが、「半」という言葉を使うといろいろな意味で混乱します。「半」は算数用語として時刻で使われます。この時の「半」は「半分」のことです。ここでは、「半分」ではありません。非常にあいまいな言葉なのです。例えば、4つ分と「余り」があるというように、算数用語の「余り」を使うといった方法があります。このとき押さえておかなければいけないのは、「余り」は1つ分よりも小さいことです。「4つ分と余りがあるね。余りは1つ分よりも?」「小さい」「そうだね。だから4つ分よりも大きく、5つ分よりも小さいね」というようなやり取りをしてほしいと思います。気づいた方もあると思いますが、この長さ比べが割り算の導入へつながる活動にもなっているのです。

子どもたちに次々と発表させますが、ここではただ発表するのではなく、「○○さんの消しゴム、△個分」という言葉で確認をしていくことが大切です。同じ消しゴムで比べても、大きさが違えば、いくつ分は変わります。「同じ」ものを基準にしなければならないことを意識させるためにも、「○○さんの」という言葉をつけておきたいところです。

授業者は大切なことを黒板にまとめて写させます。突然大切なことが出てきました。子どもたちは何が大切かを意識していたわけではありません。指示されたことをこなしていただけです。算数として考える部分は、教師から突然降って来て与えられているのです。活動と算数・数学的な価値、大切なことが結びついていません。
子どもたちの発表の時に、意図的に「同じ」「いくつ分」「いくつ分あるかを比べる」といった大切な言葉を強調しておいた上で、比べる時に何が大切かを子どもたちに問いたいところです。子どもたちの言葉をつなぎながら、大切なことを子どもの言葉を使ってまとめるのです。

作業を終わった子どもに姿勢を正させます。この時、「○○さん早い、1番」、「△△さん、2番」「3番」・・・とできた子どもに順位をつけていました。素早い行動をうながすのは大切ですが、順位とはなじみません。3番と4番に差があるわけでもありません。最後まで順位がつけられるわけでもないので、「早いね」だけでよいように思います。

練習問題に入ります。マス目に鉛筆が置いてあります。鉛筆の端はずらしてあります。ここで授業者は、「この問題意地悪だね」と言います。時間があまりなかったせいか、授業者は端がそろっていないことを説明し、自分でどんどん進めていきます。ここは、今まで学習した3つの比べ方を子どもたちに言わせて、「端をそろえる」のは絵を切ればできるね、テープがあれば比べられるねとそれぞれのやり方を評価させたうえで、今日やったやり方は使えるかを問いたいところです。ポイントは「同じ」ものが「いくつ分」ですから、「鉛筆や消しゴムのように測るのに使えそうなもの」を子どもたちから引き出すのです。マス目が「同じ」だから使えそうだと子どもに言わせたいのです。この言葉が出たら「やれそう?」と確認して「どちらが長いか調べて説明してね」と発問するのです。

授業者は、「マス目を数えればいい」と結論を出して、マス目を数えるように指示を出します。これでは、単なる作業になってしまいます。○つけをするのですが、その途中に「できた人は、説明を考えよう」と追加で指示を出します。○を待っている子どもは、じっと待ったままです。授業者は最後に「まだ○をもらっていない人」と確認をしました。よい対応ですが、○をもらっていないのに手を挙げていない子どももいたようです。○つけはもらいたいと思うような声かけがポイントです。「いいね」「ばっちり」と大げさなくらいほめ言葉をかけることで○をもらいたいという意欲が高まります。このことを意識してほしいと思います。
○つけが終わった時点で、追加で指示されたことができている子どもがどれだけいるか不安です。授業者は作業を止めて、子どもたちにマスの数ではなく説明を求めます。これはアンフェアです。時間の関係もあったのかもしれませんが、ここを問うのであれば、最初から「説明すること」を課題にすべきです。「ノートに鉛筆の長さがマスのいくつ分か書いて、どちらが説明できるようにしてね。マスの数を○つけするからね」といった指示をすべきでしょう。

最後に、「よく頑張ったね」と子どもたちをほめていましたが、何を頑張ったのでしょう。このことを明確にして算数の活動としての価値づけをしてかないと力は着きません。子どもは指示された作業をこなせば頑張ったことになると思ってしまいます。教師の指示に従う子どもをつくるにはよいのですが、学年が進むにつれて、子どもは教師の指示に従わなくなります。低学年の内は教師がほめてくれれば頑張れますが、自我が発達してくるとともに、自分にこんな力がついたという達成感を与えなければ、頑張れなくなっていくのです。このことも意識してほしいと思います。

いろいろと書きましたが、基本的なことができているので教科のことがこれだけ指摘できるのです。私は小学校の算数については直接教えた経験がないので、授業を見せていだくことで子どもたちの姿から学ぶよりほかありません。そういう意味で、今回の授業から私自身が一番勉強させていただきました。感謝です。

授業検討会はグループを活用した「3+1授業検討法」で行われました。この学校では2回目ですが、とてもよい雰囲気で進みました。若手の先生が積極的にグループの考えをまとめていたのが印象的でした。この学校の授業検討スタイルとして定着しそうです。取りまとめの教務主任も的確に意見をまとめていました。教務主任の中に目指す授業の方向性がはっきりしていると感じました。
先生方に、「教師と子どもの関係」について、「どのようなかかわり方をすべきか」という視点が育ってきていることが発表から伝わってきます。「子ども同士」という視点がこれからもっと出てくることで、より進歩していくと思います。その前提として、「全員参加」ということを常に意識してほしいことをお話ししました。また、学校全体として子どもたちの学習を支える基本的なことがずいぶんできるようになってきました。昨日の日記でも触れましたが、教材研究の重要度が増しています。教科の視点を深めていくことも次の課題だと思いました。

この日も終日よい学びをさせていただきました。次回の研究授業の授業者が、授業中に私のそばに立って解説を熱心に聞いてくれました。授業研究を自分が伸びるチャンスと、とても前向きにとらえていることが伝わってきます。次回の訪問も今からとても楽しみです。

小学校の算数の授業で考える(長文)

先日、昨年からおじゃましている小学校で算数の授業アドバイスと授業研究の助言をおこなってきました。

初めて担任を持った若手の授業は2年生の九九でした。フラッシュカードを使って九九の練習をします。子どもたちは一生懸命大きな声で練習をします。授業者は「大きな声」を評価基準にしているからです。大きな声を出していることを評価するので、子どもたちはますますテンションを上げていきます。大きな声を出させるのはなぜでしょうか。それは自信がないと大きな声が出ないので、自信を持てているかの確認です。しかし、一部の子どもの大きな声は、一つ間違えると声を出していない子どもや声の小さい子どもの声をかき消してしまいます。過度にテンションを上げることはマイナスなのです。フラッシュカードを使う時は、声の大きさだけに頼らず、どの子どももしっかり参加できているか口元を見ることが大切です。授業者はフラッシュカードを胸元に置いて、笑顔で子どもたちを見ています。とてもよい表情です。子どもたちが一生懸命頑張る理由がよくわかります。面白い子どもが一人いました。みんなが声を出している間、集中できずに本を読んだりしています。授業者の視線は縦に移動します。その後で少し横にずらしてまた縦に移動します。視線の移動が読めるのです。先ほどの子どもは見事にその視線の移動を読んで、自分に視線が来る時にはちゃんと声を出すのです。先生にはちゃんと見てもらいたいのです。視線は常に全体を見ることを意識してほしいと思います。また、子どもたちを見てはいるのですが、一人ひとりとしっかり視線を合わせていないと感じることが多くありました。子どもの集中力を高めるには、ただ見るだけでなく、一人ひとりに視線を送ることも大切なのです。このことを意識してほしいと思いました。
子どもたちは九九をしっかり言えているのですが、何度も同じ順番で繰り返させます。九九は大きな声で順番に言えるようになることがゴールではありません。3×4を見ればすぐに「さんしじゅうに」と出てくることが大切です。テンポを速くしていく。逆の順番にする。ランダムにする。ゴールを意識してフラッシュカードの提示に変化をつけることが必要になります。傍から見ていると、子どもたちが指示に従って活動してくれるのがうれしくて、何度も同じことやっているようにも見えます。
1学期はなかなか授業規律が保てなかったと聞きます。そのことを思うと今はとてもよい状態です。子どもたちがきちんと授業に集中できる状態をつくることができるようになったのですから、次のステップを目指してほしいと思います。

2年生のもう1つの学級は、今年異動してこられたベテランの担任です。
子どもの発言をしっかり受け止めようとしています。発言者も先生に聞いてもらおうと一生懸命に話します。しかし授業者の視線が発言者の方に固定されことが気になります。発言者も授業者の方を向いたままです。他の子どもたちは発言を聞こうと発言者の方を向くのですが、子どもたちの視線は交わりません。前に出て説明をする時でも、子どもたちの視線はしっかりと発表者を見ているのに、発表者は黒板の横で見てくれている授業者の方を向いて話します。ちょっともったいないと思いました。授業者が子ども同士をかかわらせることを意識して、「みんながしっかりと聞いてくれるから、みんなの方を向いて話そうね」と声をかけ、「しっかり聞いてくれているね」と聞く姿勢をほめることで、子ども同士によい関係をつくることができます。
子どもの発言を黒板に書きとめるはよいことなのですが、時々子どもの発言の途中に板書することがあります。すると、せっかく友だちの言葉を聞こうとして集中していた子どもたちの視線が、黒板に移動してしまうのです。発言が終わってから板書するようにしたいところです。
気になる子どもなのでしょう。一人だけ黒板の横に座席がつくられています。本人は先生との距離が近いので気に入っているようにも見えます。いろいろと先生に話しかけます。授業者は友だちの発表の時には無視をしましたが、その後で発言の機会を与えました。なかなか上手な対応だと思います。ただ、先ほどのこととも関係しますが、子ども同士のかかわりが持ちにくくなるので、どこかで次のステップに移行する必要があります。前の座席にして、その横に立って授業者が全体に話をするといった対応も考えてほしいと思いました。
この学校に異動していろいろ戸惑っていたようですが、授業を変えることを意識されています。ベテランにとってはなかなか難しいことなのですが、立派な姿勢だと思います。これからどのように変わっていかれるかとても楽しみです。

3年生のベテランの担任の授業は、二等辺三角形の角の性質でした。
授業者は常に明るく優しい表情で授業を進めます。子どもたちは先生の説明にとてもよく反応します。問いかけに「はい」と反応を返してくれる子どももいます。こういうよい反応があるのですから、それをもっと広げて授業に活かすとよいと思いました。「反応してくれたね。ありがとう」とほめて広げる。「今うなずいてくれたね。それってどういうこと」と指名して考えを聞く。こういう対応をすることで、子どもたちがより積極的に参加してくれるようになります。
二等辺三角形の角を調べることがこの日の活動のねらいであることを示してから、作図の説明に入ります。
底辺の長さ、1辺の長さを黒板の図で指示します。続いて残りの辺の長さを示します。ここは、二等辺三角形の定義の復習を兼ねて「これで描ける?」と問いかけてもよかったと思います。「描ける」といった子がいれば、「○○さんは描けるといったけど、その理由がわかる?」と問いかけ、二等辺三角形の定義をもう一度意識させるのです。
簡潔でわかりやすい指示で、こどもたちはすぐに作業に入ります。ここで、この図を使って角を調べることをもう一度押さえておきたいところでした。そうすることで、図を描き終った子どもの中から、どうやって調べるのか考えてくれる者が出てくるからです。もちろん、描き終ったあとの課題としてもいいでしょう。
描き終った後、子どもたちに角を調べるのにどうすればいいのか問いかけます。よい進め方です。子どもからは「もう一個つくる」という考え出ます。授業者はこの考えを活かしませんでしたが、ちょっともったいないと思いました。「もう一個つくるってどういうこと」と聞き返せば、「同じのをつくる」「重ねてみる」といったキーになる言葉が出てくるはずです。
「調べる」はどの教科でもよく出てくる用語です。このことの算数・数学的、図形領域における意味を意識させたい場面でもあります。「今から角を調べるんだけど、どうするの?」「それで何がわかるの」と問いかけることで、大きさが「同じ」かどうか「比べる」というキーワードを引き出すことができます。「同じ」だけでなく「違う」も引き出しておくと、次の正三角形の学習でこのことを活かして、二等辺三角形との違いを意識させることができます。
子どもから「切る」が出てきました。授業者の指示に従って、子どもたちは素早く切って比べ始めます。ここで、まず三角形のまわりを切り取っている子どもがいました。切り抜いてから、辺にそって切ろうというわけでしょう。その子どもに対して補助の先生が辺にそって切るように指示していました。子どもなりの考えを聞いてから判断してほしいところです。子どもに寄り添うことを意識してほしいと思います。
授業者は子どもが作業している時に、かなりの時間を作業が遅い子どもについていました。どうしても全体の様子を見ることができません。できれば補助の先生にお願いして、自分は全体の様子を見るようにしてほしいと思いました。実は、この子どもの隣の子どもはかなり早く作業を終えます。先生がいない時、心配そうに見守って時々声をかけています。この子どもを活かすことを考えてもよいと思いました。「助けてもらおう」「助けてね」とつなぐのです。この子どもに限らず、この学級の子どもはしっかりかかわり合えると感じました。
実物投影機を使って子どもたちに説明させます。同じように2つに折っているのですが、その説明がみんな違います。実に言葉が豊かです。「辺を合わせる」「角を合わせる」「真ん中で2つに折る」、見かけの結果は同じですが、すべて違う発想です。授業者が日ごろから子どもたちの言葉を受容しているので、結果にとらわれず自分の考えを発表できるのです。残念だったのは、この違いを二等辺三角形の定義や性質と結びつける教師の働きかけがなかったことです。「辺の長さが同じだからぴたり重なる」「真ん中で折ると同じ形になる」と対称性を意識した言葉を子どもから引き出しておきたいところでした。
子どもの反応や言葉が豊かなので、それを活かして授業を組み立てることを意識すれば、素晴らしい授業になっていくと思います。

3年生のもう一つの学級は、三角形の仲間分けの授業でした。長さを色で区別したひごを使って三角形をつくる場面でした。子どもたちに画面と同じ三角形ができたかを確認しながら進めています。三角形は向きがいろいろです。子どもたちに目で確認させますが、これでは算数としては不十分です。同じで三角形であることをどうやって確認するか考えさせることが必要です。赤が2本、緑が1本というように長さを抽象化した色を使って確認させることで、この後の仲間分けにつなげていくのです。
授業者は、「○cmが○本・・・のひごでできる三角形」と話型を使い、長さで三角形を規定します。これでは長さを抽象化して色に置き換えた意味がありません。何cmであるかが問題ではなく、同じ長さのものがあるかないかに着目せるために色を使ったのです。
実物投影機などを上手に使って工夫をした授業でした。だからこそ、教科書の意図を理解して授業をつくる必要があります。教材研究が大切であることをわかっていただけたらと思います。

特別支援が2学級あります。
1つ目の学級の担任はベテランの先生です。優しい表情で2人の子どもと接しています。九九の問題を頑張ってやっていたのですが、わからなくなったのでしょう、途中で集中力が切れた子どもがいました。授業者は答につながる九九の表を指さすのですが、集中力は戻りませんでした。一度その問題から離れて、できる問題、できた問題をやらせ、そこでしっかりほめてやる気を出させる。九九の表を読ませるといった目先を変える工夫が必要なのかもしれません。
もう1つの学級は、若手が担任でした。笑顔で子どもに指示をします。指示したことができるまで根気よく子どもに指示を出しつづけます。ずっと子どもにしゃべっているのです。なんとか子どもは指示に従ってくれるのですが、そこで次の場面へと移ってしまいます。指示したことができた時は、大いにほめることが必要です。よい行動を強化する視点を忘れてはいけません。
特別支援の子どもは言語処理が苦手な子どももいます。言葉が頭の中でガンガン響いてパニックを引き起こす子どももいます。指示を板書することで、処理する余裕ができるので落ち着いて指示に従えることもあります。また、視覚処理の方が得意な子どもは、図で示すことでよくわかることもあります。こればかりは一人ひとりの特性があります。いろいろと試しながら、子どもの特性を理解して対処を工夫することをお願いしました。

初めて担任を持った方、この学校に異動したばかりの方もいました。戸惑うこともたくさんあったと思いますが、前向きに子どもたちと向き合っていただけていると感じました。どの学級も子どもたちが落ち着いていたことが印象的でした。算数と言う視点でいえば、教材研究の大切さを感じる場面が多くありました。個人で考えるのではなく、学年で相談するといったチームで教材研究することが必要に思います。

授業研究については、明日の日記で。

研究発表を控えた学校で考える

先日、来月に研究発表を控えた中学校の授業アドバイスをおこないました。この日は特定の授業ではなく、学校全体の様子を見せていただきました。

まず気になったのは子どもたちが落ち着いていないことです。寝ている子どもも目につきます。授業に集中していないように見えます。話を聞いていないのです。板書を写すことや、作業はするのですが顔がなかなか上がりません。その原因はいくつかありますが、一つは授業規律の徹底ができていないことです。子どもに聞くように指示しても、全員が聞く態勢をとるまで待ちきれずに話し始めてしまいます。友だちの発言を聞くことを意識させていません。授業者は発言者ばかりを見て、子どもたちの聞く様子を見ようとはしていないのです。これ以外にも子どもを見ることができていないと感じる場面が多くありました。子どもたちに音読させている時、授業者は教科書に目を落としながら教室の中を歩きます。自ら死角をつくっています。授業者は何かを指導しようとはしていません。世に言う机間散歩です。
教師自ら集中力を乱す場面にも出会います。子どもが作業をしている時に追加で指示を出したり、説明をしたりします。いったん作業を止めて全員が授業者に注目してからならいいのですが、そのままの状態で話します。子どもが作業に集中したなと感じた時に、追加の説明をした先生がいました。子どもが静かになったので話を聞かせられると思ったのかもしれません。説明が終わったあと、せっかくの集中が切れてしまったのは言うまでもありません。
作業が終わった子どもへの指示もありません。終わった子どもがざわつきます。そこで、次の作業の指示をしても、作業中の子どもは聞きません。今の自分には関係ないからです。作業が終わっても、聞いていなかったのですることがわかりません。すぐに教室はざわついてしまうのです。作業を始める前に、終わったあとの指示をしておく。次の作業の指示は常に黒板の決められた場所に書いておくようにする。こういったことが大切になります。
また、子どもたちは作業の指示がわからなければ気軽に教師に聞きます。教師はそれに答えます。たとえ全体の場であっても、個人的に答えてしまうのです。質問の内容が個人的なものであれば、「あとで」と個人的に対応すればいいのです。全体で取り上げるべきものであれば、「今の質問、みんなに聞かせて」「○○さんがいい質問をしてくれたから、みんなで聞こう」と共有化してから、説明するなり、みんなで考えるなりすればいいのです。既に説明したことを聞いていなかったのであれば、まわりの子に聞くように指示すればいいだけです。子どものつぶやきや発言は、プライベートに対応すべきものかオフィシャルなものとして全体で共有すべきかを判断することが大切です。

もう一つの理由は、授業がわかった子ども、発言したい子どもだけで進んでいることです。基本的に挙手で指名していきます。4人ほどしか手が挙がらないのにすぐに指名する先生もいます。発言した子も、その後は集中力を失くします。「今の意見に納得した」とつなごうとしていても、肝心の意見を言った本人が聞いていないということもありました。子どもが友だちの発言を聞き、意見を重ねることで考えが深まり、友だちの説明に納得して終わるといったことはありません。子どもが意見を言っても、最後は教師が説明します。子どもたちは、自分たちの発言は教師が説明するきっかけ、子どもから意見が出たというアリバイ作りにすぎないということを知っているのです。教師のまとめる板書を写しておけば困りません。友だちの発言は他人事です。聞く価値はないのです。だから発言者も自分の言葉がみんなに伝わったか気にしません。聞く方も発言者の方を見ようとしないのです。

子ども同士の人間関係も気になります。
グループ活動で、机をピッタリつけない子どもが目立ちます。話し合っているように見えても、参加しない子どもがいること気になります。参加できていない子どもが各グループに1人いるような学級もありました。どうやら、授業での人間関係がきちんとできていないようです。活動に子ども同士かかわる必然性が薄いことがその原因の一つです。一人でもできるような課題であればかかわる必要はありません。
活動の目標がはっきりしないこともよくありました。例えば「気づいたことを書いて、友だちと話し合う」といった課題です。気づいたことですから何を言ってもいいわけです。友だちの意見を聞く意味もありません。考えることが具体的に何も求められていません。目標や評価基準が明確でなく、話せばそれで目標達成になってしまうのです。これではグループ活動はリラックスタイムになってしまいます。過去どんな点に着目してきたか。どのようなことに注目すると価値ある気づきができたのか。そのようなことを意識させ、教科の学びにつながる気づきを求める必要があります。「みんなが、これは大切だと納得してくれるようなことを見つけよう」といった目標を活動に対して設定することも必要です。そして、子どもたちの気づきを教科の視点で評価していくことが大切なのです。
英語の授業でのペア活動も気になりました。互いに決められた英文を言い合うだけです。言えばいいのでテンションは上がっていきますが、相手の言葉をきちんと聞く必要がありません。伝え合ってはいません。子ども同士の関係をかえって悪くする活動になっています。
子ども同士の関係で気になる場面がありました。指名されて答えられなくて困っているのに、他の子どもがその子どもを心配している様子がないのです。自分には関係のないことだと、他のことをしているのです。人間関係ができていれば大丈夫かと様子を見ているはずです。まわりの子は助けようとします。そいう姿が見られなかったのです。授業者も「まわりの人、助けてあげて」とかかわり合いをうながすように働きかけをしませんでした。

授業以外での人間関係も気になりました。休み時間に子どもたちが教室をでて廊下にたむろするのです。特別教室への移動かと間違うほどです。歩くのにじゃまになるくらいでした。教室の友だちとかかわろうとしない、他の学級の友だちとかかわろうとしている子どもが多いのです。学級の中で人間関係がうまく形成されていないように思われます。行事が終わったこの時期でこのような状態はちょっと想像できません。いろいろ聞いてみると、どうやら行事が縦割りでおこなわれていることと関係がありそうに思えます。3年生が2年生と1年生を指導するので、学級内で葛藤やぶつかり合いが起きにくくなります。学級でのかかわり合いが弱いので、人間関係が形成されにくくなっているのです。縦割りを止めろということではありません。縦割りには縦割りのよさがあります。それを補完する活動が必要なのです。
その一つが係活動です。係がしてくれたことを学級全体で「ありがとう」と感謝し合うのです。互いに「ありがとう」と認め合うことで人間関係をつくっていくのです。(係活動の指導参照)

いろいろと問題点を挙げましたが、うまくいっていないことばかりではありません。授業によっては、子どもたちはとてもよい表情を見せてくれますし、しっかりかかわり合ってもいます。授業者によって見せる姿が変わっているのです。このことは、学校がよい方向に変わっていく途中によく見られることです。しっかり受容して互いに認め合えるような授業を経験すると、今まであまり差がなくて気にならなかった授業がつまらなく感じてしまうのです。そのため、落ち着かなくなったり集中力を失くしたりしやすくなるのです。
今一度、学校全体で目指す子どもの姿を明確にし、そのために何をすればいいのか、全体で何に取り組めばいいのかを共有することをしてほしいと思います。

授業後、何人かの先生とお話しすることができました。
ワークシートに書かれた指示に従って作業するだけの活動が目立ちます。毎回指示をするのではなく、今までの経験で指示がなくても作業ができるように育てることが大切です。例えば、白地図に川や山脈、産物や工業地帯などを書き込む作業があります。最初の内は何を書き込むかの指示が必要ですが、いくつかの地域を経験すれば、授業者が指示をしないでも自分で何を調べて書き込めばいいのかわかるはずです。ワークシートには白地図だけ用意しておけば、あとは子どもたち自身で作業ができるように育てるのです。

調べたことを書き込むだけのことに、時間をかけて答え合わせをしている授業もありました。調べるのであれば、全体で答え合わせをする必要はありません。どこで調べたかをグループで共有しながら作業をすれば、特に答え合わせは必要ないはずです。それに対して、子ども同士の答が違ったらどうすればいいのかと質問されました。それはとても喜ばしいことです。全体で考えを深めるよい機会だからです。
考えが一致しなかたグループに、どんなことを話し合ったか発表してもらいます。それぞれの考えを学級全体で共有し、子どもたちで結論を出させればよいのです。グループの中で答が異なった問いだけに絞れば、充分にその時間は取ることができるはずです。
このようなことを話させていただきました。

「研究指定を受けると学校が荒れる」という都市伝説があります。学校がよくなっていく過程で、その変化への対応に時間差ができ、子どもも教師も状態が安定せずに揺れてしまうことがよくあります。そのような状態が起こることを言っているのかもしれません。その揺れをいい形で収束させれば学校は間違いなくよくなっていきます。大切なことはその揺れに動揺することなく、前へ向かって進み続けることなのです。研究発表はゴールではありません。研究発表時に完成している必要はありません。単なる通過点でしかないことをしっかり心に刻んでおいてほしいと思います。

提案性の高い授業研究

前回の日記の続きです。

授業研究は採用2年目の先生の理科でした。単元は1年生のいろいろな物質です。
カルメ焼きを用意して、食べて見せます。「作りたいですか」と問いかけると子どもたちは「作りたい」と反応します。つかみはOKです。カルメ焼きが「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」からできることを伝えて、自作の作り方のビデオを電子黒板で見せます。子どもたちの姿勢から画面に集中しているのがよくわかります。ビデオを見せ終わって課題を提示します。6種類の粉のラベルが取れてどれがどれかわからなくなった。カルメ焼きの原料である、「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」を見つけるというものです。見つけたグループからカルメ焼きをつくるという、動機づけもあります。ICTをうまく活用しテンポよく進めていきます。

試料をグループに配ります。この指示も的確です。グループの誰が取りにくるかを指定しているのです。子どもたちは、興味を持っているので試料をすぐに覗き込みます。砂糖などは見ただけでもわかりそうですが、どの試料も細かく砕いてあり、外見からは区別できないようにしてありました。ちょっとしたことですが、子どもたちが考えるための仕掛けが施してあります。しかし、この後グループ活動の指示をすることを考えると、先に試料を配ることは、子どもたちが授業者の話に集中しない危険性があります。
授業者は「注目」と声をかけます。子どもたちはすぐに授業者の方に体を向け、しっかりと聞く態勢を取ります。授業規律がしっかりできています。これならば、先に試料を与えても問題ないでしょう。この場面以外にも授業規律がしっかりしていると感じる場面がたくさんありました。印象に残ったのは、授業者の話を聞く姿勢になるのに数人が少し遅れた場面でした。全員が集中するのを待っていた授業者は、最後の数人が集中した時にそっと「ありがとう」と言ってから話し始めました。小さな声ですが、最後に顔を上げた子どもたちには聞こえたはずです。こういうことを積み重ねて、学習規律をつくり上げたのだと思います。

電子黒板を使って、試料は「砂糖」「炭酸水素ナトリウム」「食塩」「デンプン」「石灰石」「ホウ酸」の6種類であることを提示し、一つひとつを子どもたちに確認して、どんな物質だったか思い出させます。しかし、ここでは詳しくは説明しません。課題を解決する過程で復習すればいいからです。「ホウ酸」の説明でゴキブリ団子の話をして、なめる方法は使えないことを伝えます。細かいところまでよく考えています。
ここで、子どもたちに見分ける方法を1つ以上ノートに書くように指示します。子どもたちはすぐに取りかかります。ノートに書かせるのもよい指示です。漠然と「考えて」ではなく、書かせることで、全員参加させやすくなります。また、「1つ以上」と言うことで、できた子どもを遊ばせないことを意識しています。
授業開始から5分ほどでこの活動に入っています。子どもたちが活動するまでに時間がかかる授業が多いのですが、ムダのない導入でした。

2分ほどで、作業を止めます。子どもたちはすぐに授業者を見ます。ここで、「どうせなら早く見つけて、早く食べたいでしょ」と、「より少ない方法で」と条件を足しました。条件をつけることで、ただ答が見つかって終わりではなく、考えを深めることをねらっています。
ここでは、ノートの内容を発表させませんでした。いくつか発表させて、その実験から何がわかるかを明確にし、どのようにすれば見つけることができそうか、課題解決の方向性を確認しておいてもよかったかもしれません。
グループの考えをまとめるプリントの説明を、実物を見せながら行います。配る前に説明するのはよいのですが、実物ではちょっと小さすぎました。わからない人と確認をしましたが、子どもたちからは反応はありません。見ればわかるのかもしれませんが、ちょっと不安な場面でした。ここは、電子黒板にプリントを映して説明したいところです。

グループ活動に入ります。座席が男子同士、女子同士ならんでいるので、話し合いはどうしても2人ずつに分かれてしまいます。また、プリントがグループに1枚なので、プリントを手元に引き寄せて書き込む子どもが主導権を握ります。座席については市松模様にすることを検討してほしいと思います。プリントは1枚ずつ持たせて各自で書かせるか、小型のホワイトボートとペンを何本か用意し、複数が同時に書きこめるようにするといった工夫をしてもよいでしょう。
グループを回りながら、「食べる」と書いてあるグループに、「ホウ酸もあるよ」と声をかけます。「ホウ酸」の説明をしてあるので、全体で取り上げる必要はありません。この対応で問題はないのですが、「食べても大丈夫?」とグループの子どもに声をかけて、かかわりをうながしたいところです。

子どもたちは、炭酸水素ナトリウムの性質をまだ学習していません。当然困るはずです。いくつかのグループの動きが悪くなります。1つのグループが資料集を調べ始めました。この動きを待っていたのでしょう。しばらくして、作業を中断させました。「困っていることない?」と子どもたちに問いかけます。「何が何か、見た目でわからない」ということが出てきました。これに対して授業者は答えません。他の子どもから考えが出るのを待ちます。「炭酸水素ナトリウムはわからないけど、砂糖はわかる」という意見が出ます。それに対して、「砂糖はどれ?」と聞き返します。「F」という答に、子どもたちから「えぇ、違うよ」という声が上がります。それを受けて、「バラバラだね。わからないから実験するんだね」と返します。なかなかうまい対応です。ここでは、理科の実験で大切な、誰がおこなっても同じ結果にならなければいけないという、「再現性」や「客観性」についても、押さえるとよかったもしれません。
「炭酸水素ナトリウムの性質がわからない」という声が上がります。授業者は「どうする、解決策はない?」と子どもたちに聞き返します。授業者は調べていたグループからの声を期待していたようですが、なかなか声が上がりません。「調べていた人がいる。ちょっと探してみよう」と子どもたちに調べることを示しました。ここでは、「炭酸水素ナトリウムの性質はみんなわかっていた?困らなかった?」と、困ったことを全体できちんと共有したいところです。その上で、「どうした?」「そこのグループは何をしていた?」とたずねてもよかったかもしれません。
子どもたちに調べさせて、見つけた結果を発表させます。「これがわかればいけそう」と再びグループに戻しました。
困ったことを聞いて、みんなで考えることを普段からやっているようです。授業者に教えてもらうのではなく、自分たちで考えることが自然にできていることからそう感じました。

資料集を調べることに気づいたので、子どもたちは試料の性質をいろいろと調べます。調べることが主になって、話し合いが止まるグループがでてきます。話し合いも「少ない」ではなく、どんな実験をするかが中心です。
ある班から「有機か無機かわからない」という言葉が出てきました。この言葉を拾って全体で問いかけます。こういう扱いもなかなかです。ここで、「それってどういうこと」と炭酸水素ナトリウムが有機か無機かにこだわった理由を共有しておきたかったところです。

いくつの実験でできるか全体に問いかけます。「3つ」という声が上がります。どんな実験するかを問います。「水に溶かす」という発表に対して「何とかいけそう」と返しますが、ここは、具体的に何がわかるか確認した方がよかったでしょう。「もう1つくらい」と聞きますが、挙手はありません。ある班を指名して、「熱する」を引き出します。この2つで「見通し持てそう」と問いかけ、「もう1回考えてみよう」とグループに戻しました。
ここでは、どんな実験をすれば「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」を見分けられるかの確認を先にきちんとするべきだったと思います。理科としては、どのような実験で何がわかるかを整理することの方が少ない実験で行うことより大切です。どの実験を組み合わせれば少なくてすむかは、理科というよりは論理の問題だからです。

最後に、いくつになったか確認します。もう1枚プリントを渡して、何を実験すればよいかを整理させて時間となりました。実験は次の時間に持ち越し、感想を書かせて終わりました。子どもたちは書くことに慣れているようです。どの子もしっかり書いていましたが、感想というのは少し引っかかります。単に「面白かった」「難しかった」では学びにつながらないからです。しかし、この時間で自分が考えたこと、わかったことを書いている子どもがたくさんいました。指導はされているのでしょう。

時間切れで、この時間での学びが明確にならないまま終わったことは残念でした。子どもたちから出てきた「溶かす」「燃やす」などの簡単な実験だけでも、全体の場で確認してもよかったかもしれません。
とはいえ、前回見せていただいた時と比べてとても進歩しています。授業の基本がとてもしっかりしていました。アドバイスされたことを、素直に日々実践していたことが子どもたちの様子から見て取れます。今後がとても楽しみです。

検討会では、子どもたちのグループ活動の様子を中心に意見が交換されました。各グループにリーダーとなる子どもが1人入るようにしています。確かに意見を言い合うことはできるのですが、一部の子どもが仕切ってしまい、聞き合い深めることにはつながっていないように思います。このことに気づいている先生もいらっしゃるようでした。私からは、わかる子ども、リーダー中心で進むのではなく、わからない子ども、困っている子どもが中心となって、「どうすればいい」「わからないから聞かせて」と言える学級をつくることが大切であることをお話ししました。
学校全体で、「活動することが主となっていて、その目標や評価が不明確であること」や「わかった子ども、発言できる子どもが中心となって授業が進んでいること」をお話しさせていただきました。

前回もですが、他の授業と比べて研究授業の質がとても高いことに驚きます。多くの先生が協力して授業をつくり上げていることがよくわかります。特別な授業ということに賛否両論あるとは思いますが、提案性の高い授業研究を行えることはとても素晴らしいと思います。今回の授業は現在の学校の課題を解決する方法を示唆してくれました。前回の授業研究の結果、今回学校の雰囲気が変わっていたのと同様に、次回の訪問でもきっと学校全体によい変化が見られると思います。今からとても楽しみです。

中学校の古文の授業で考える

昨日の日記の続きです。

2年目の先生の国語の授業のアドバイスを行いました。徒然草の仁和寺の法師の段の2時間目です。

復習で徒然草の序段の音読をします。暗唱できる子は暗唱をします。授業者は、「せえの」と予備動作を入れますが、子どもは反応してくれません。出だしがそろわないのです。2回読みましたが、2回ともです。音読はそろって読むことが目標だったのでしょうか、それともすらすら読むことでしょうか。暗唱できる子ども、できない子ども、それぞれ目標は同じなのでしょうか。活動の目標が明確になっていないことが原因のように思います。
中学生にとって古文を読むことは、英語を初めて耳にする小学生と同じ状態です。わからない言葉が混じっているので、音節を正しく認識できないのです。英文は単語に分かれていますが、教科書で目にする古文は、句読点こそありますが文節までは区切ってはありません。きちんと文節に分けられることが、古文理解の第一歩です。ですから、音読もきちんと文節で区切って読めることが大切なのです。すらすら読めるということも、文節を分けることができてこそのことなのです。このことを意識した上で、目標を明確にしてほしいと思います。
音読の間、授業者は机間指導をしていますが、その理由がわかりません。なんとなく歩いているだけです。何を指導するのか意識されていたのでしょうか。それよりも、子どもたち全体をしっかり見て、全員参加できているか、声が出ているかなどに気を配ることの方が大切です。

法師の失敗についてワークシートの空欄を埋めます。作業終了後、挙手で進めます。ほとんどの子どもが書けているのに挙手しません。4人ほどしか挙手しないのに授業者は指名し、それでいいかと全体に確認します。すると、ほとんどの子どもが挙手をします。最初挙手をしなかったのは、自信がないからか、指名されるのが嫌だったのかはわかりません。しかし、子どもたちが積極的に発言しようとしていないことは事実です。挙手指名に頼らず、全員が参加できる授業にすることを考えてほしいと思いました。

法師が失敗した理由を本文から抜き出し、その現代語訳を書くのが次の作業です。ワークシートを埋めてグループで話し合うように指示をします。子どもたちがグループの形になると、すぐに話し声が聞こえます。これはどういうことでしょうか。授業者はまず自分でワークシートを埋めるように指示をしています。それなのにかなりのグループで声がするのです。子どもたちが、自然に相談しながら作業をするようになっていたのでしょうか。それならば、互いにかかわっているよい場面とも考えられるのですが、どうもそうではありません。子どもの体は前に傾いていません。テンションも高いのです。どうやら受け身の状態から解放されて、気を抜いているのです。しばらくすると、全体が落ち着き、個人での作業が始まります。今度はなかなか子ども同士が相談する姿が見られません。グループ活動の前に、わからなかったら助けてもらうように授業者が言ったので、自力でできた子どもはかかわる必要を感じなかったのかもしれません。また、グループの机が離れているのも目立ちます。男子同士、女子同士が隣り合っているので男女で溝ができているグループもあります。子どもたちの人間関係がまだできていないのかもしれません。
課題について話し合っているグループはあまり多くはありません。授業者は話し合いが成立しているグループのところにいって、アドバイスをしたり話を聞いたりしています。それよりも、子ども同士に話し合うようにうながすことが大切です。

グループ活動終了後、グループごとに発表させます。最初に発表させたのは、授業者が長い時間かかわっていたグループでした。無意識の行為かもしれませんが、授業者が一番状況をわかっているグループです。全体を観察していて、結論が出ているのか、まだ出ていないのか、グループごとの状況が把握できていれば、また進め方は変わったかもしれません。例えば、結論が出ていないグループに対して「どんなことを話していたか聞かせて」と状況を聞けば、いくつかの考えが出てきます。それに対して、「同じように悩んでいるグループ」「悩んだけれど結論が出たグループ」というようにつなぐことで、考えを深めていけます。

授業者が予想しなかった意見がでてきます。授業者は、それぞれを認めて板書していきますが、どれが正しいかを議論させません。正解が発表された後、それを引き取って結論をつけました。結局子どもはその答を写すだけで、何を間違えていたのか、どうすれば正解が導けるのかはわからないままです。自分の考えを修正することはできていません。自分の結論が正解だった、不正解だったということを知っただけで、何も学習していないのです。授業者は、いろいろな考えが出た時、どのように働きかければ子どもたち自身で正解を導き出せるかを考えていなかったのです。
それ以前に、そもそもこの課題自体が国語として意味があったのかも問われます。仁和寺の法師が失敗したのは単に石清水八幡宮を知らなかった、勘違いをしたということです。背景をいえば、当時の石清水八幡宮がとても立派で、山下にあった極楽寺・高良社も相当立派なものだったので間違えたということです。
授業者は「神へ参るこそ本意なれと思ひて」を理由の正解としていますが、これはそう思わなければ石清水八幡宮を参拝することできたかもしれないというだけのことです。正解とは言えないように思います。「法師が石清水八幡宮を知らなかったことが本文のどこでわかるか」という問いの答であればまだ納得できますが、もしそうであれば、まず失敗の理由をきちんと共有してから問うことが必要です。いずれにしても、現代語訳を読んだ後で考えるのであれば、あまりに稚拙な問いです。
内容を読み取るのであれば、当時の石清水八幡宮に対する常識を伝えたうえで、この話は当時の人にとって何がおかしいのかを問うべきでしょう。時を超えて当時の人たちと交流することが古文を学習することの目的の一つです。古文の解釈を通じて当時の人の考え方や暮らし、文化などを理解することが大切です。
古文の授業でどのような学力をつけるのをもう一度考え直してほしいと思います。

いろいろと書きましたが、授業者は子どもを受容し、認めようとしています。正解という言葉を使わずに、子どもたちで判断させようとしています。授業で大切なことを意識し実行しようとしていることはよくわかります。だからこそ、全員を参加させ、正解にいたる道筋や学力をつける過程を明確にしていかなければ、一部の子どもが活動しているだけで、すべての子どもに学力をつける授業にならないのです。
よりよい授業をつくることに向かって大事な一歩を踏み出しています。新たな課題をしっかり受け止めることで、さらに次の一歩を踏み出すことができると思います。これからの成長が楽しみです。

授業研究については、次回の日記で。

学校の変化と課題

一昨日は、中学校で授業アドバイスと授業研究に参加してきました。今年度より訪問している学校です。今回が3度目の訪問で、全体にお話しするのは2回目になります。

1時間かけて学校全体の様子を観察しました。先生方が子どもたちを受容しようという雰囲気が出てきているように感じました。先生方の表情も柔らかくなったように思います。先生方の意識の変化を感じます。最近開かれた学校評議員会でも、その変化が認められたようです。素直な先生が多いように思います。

一方、子どもの発言をしっかり受容しようとするあまり、発表者だけをしっかりと見て、他の子どもを見る余裕のない先生が目立ちます。また、挙手した子ども指名することで授業が進んでいきます。子どもたちにつなごうとする方もいますが、同じ考えの子どもに挙手で確認させたり、発表させたりするだけで、違う考えの子どもや挙手しない子どもにつないで参加させようとしません。結局一部の積極的な子ども、教師とかかわりたい子どもだけで授業が進んでいきます。しかし、子どもたちは参加しなくても困りません。授業者は子どもから自分のねらう答に近いものが出れば、すぐに引き取って説明します。その結果を板書するので、参加していない子どももそれを写せば何も困らないのです。

授業規律でも気になることがあります。指示をして、子どもたちが指示に従うまで待とうとするのですが、待ちきれなくて指示が徹底できないのです。子どもが鉛筆を離していない、顔が上がっていないのに話し始める先生が目立ちます。
また、グループを活用しようとしていますが、何をするかの指示だけで目標や評価がはっきりしません。活動すればいいという活動主義に陥っています。この活動で教科として何を目指しているのか、どのような学力を形成しようとしているのかがシャープになっていません。教師自身がこの目標をしっかり意識できていないのです。当然、子どもたちにわかる形では提示できていませんし、子どもたちが自己評価する基準も明確になっていないのです。
この学校では、伝え合う授業づくりを大切にしようとしていますが、それは手段にすぎません。どのような手段を取るかにかかわらず、どのような学力を形成するかは授業者が明確にしておかなければなりません。手段に目を奪われて、そのことがおざなりになっていません。
とはいえ、先生方が新しいことに挑戦しようとしているのはとても立派なことです。いつも言っていることですが、何かに挑戦する、何かができるようになればより多くの課題が見えてくるのです。それを一つひとつ解決していくことで前に進んでいきます。そのための一歩を踏み出したということです。

予定にはなかったのですが、前回ちょっと厳しい話をした初任者の授業を見せていただきました。授業終了の数分前でしたが、その変化に驚きました。3年生女子の跳び箱の授業でしたが、子どもたちの様子に、違う先生の授業を見ているのかと思ってしましました。子どもたちは互いの演技を見あっています。前回と比べて子ども同士のかかわりが見えます。集合した後、座らせて話をしますが子どもたちの視線が授業者に集まっています。
実技テストが近いようです。授業者が何に注意して演技をしたのかを子どもに確認しています。実技テストに向けてワークシートをどう活用するかを明確に伝えています。この間、子どもたちの集中は途切れません。授業者は夏休みをはさんでわずかな期間に大きく成長していました。
授業後、話を聞く機会があったのですが、「子どもたちと視線が合うようになった」「活動のポイントが何かを明確にして、子ども同士がそのことを意識して互いの活動を見あうようにさせている」といった、意識していることをいくつも話してくれました。今は完璧でなくても、意識して授業に臨んでいれば精度が上がっていきます。この先も成長が期待できます。
課題として、集合の時、ムダなことをしているわけではないが、子どもたちが歩いている。走って集合し、言われる前に整列することを求めてほしいこと。確認の場面で、子どもの発言を全体で共有してほしいこと。ワークシートの活用の説明といった時、子どもが書いていることを例として取り上げるなど、できるだけ具体的にしてほしいことなどを話しました。
また、「2年生で、ほとんどの子どもが協力して準備をしてくれるのだが、一部の子どもがなかなか協力してくれない。どうすればいいのか」という質問をしてくれました。こうすれば絶対うまくいくという方法があるわけでありませんが、子どもたちのかかわり合いを使うことを提案しました。具体的は、よく働いてくれる子どもたちに、「一生懸命やってくれるのはうれしいけれど、あなたたちが頑張るから準備に参加しない子どもが出てきちゃう。その子たちにも仕事をさせてあげて。一緒に準備をするように声をかけてくれないかな」といったことを話すのです。今まで準備しなかった子どもが少しでも手伝えば、「準備を手伝ってくれてありがとう」とほめます。もちろん声をかけてくれた子どもにも後でありがとうと感謝の気持ちを伝えておきます。教師が直接指導して解決するのではなく、子ども同士のかかわりをうまく使って解決するという発想も持つと、指導の幅が広がります。そのようなことを話させていただきました。

授業アドバイスと授業研究については明日以降の日記で。

研究会でPTAと学校の信頼が生まれるために必要なことを学ぶ

先週末は愛される学校づくり研究会に参加してきました。今回のメインはホームページを通じてPTAの立場から学校を応援している保護者と会員である校長との対談でした。

この「PTAの部屋」では、保護者や地域の方へのPTA活動の報告に留まらず、学校への応援、時には保護者の立場で意見も発信されています。もはや学校のホームページの付属ではなく、独立した一つのホームページとなっています。
このホームページの管理を任されるようになったきっかけは、学校のことはすぐにアップされるのにPTAの活動の様子がなかなかアップされないということだったようです。アップされてもタイムラグがあるので、記事の鮮度は落ちます。PTAの関係者は残念に思っていたようです。このことから、皆さんがPTA活動に積極的に取り組んでいるということがわかります。そうでなければ、記事がすぐにアップされないことを残念に思ったりしないからです。とはいえ、PTA関係の窓口で「PTAの部屋」の管理も担当している教頭に、記事を早くアップしてくださいとはとても言えません。教頭がとても忙しいという学校側の事情もよくわかっているからです。非常にバランス感覚のある方たちだということがわかります。
そこで、コンピュータに関する知識もあるので、自分が記事をアップすると学校側に申し出たそうです。学校側としては願ったりかなったりで2つ返事かというと、そうはなりません。負担になっては申し訳ないと、教頭は「気持ちはありがたいが、大変だからやめたら」と返事をします。それでも、管理人となったということは、自分たちの活動をもっと多くの方に伝えたいという思いが強かったということだと思います。PTAの役員以外の方に、PTAの活動をよく理解していただけていないと感じていたのかもしれません。

私もこの「PTAの部屋」を欠かさず見ていますが、管理人が保護者に代わってからしばらくは、PTA活動の簡単な報告が主でした。ポイントは当然そのアップの速さです。管理人が全部の委員会や活動を記事にすることはできません。委員会の担当者にデジカメか携帯で撮った写真を簡単なコメントと共に送ってもらい、それをアップするのです。一方、管理人が直接書く記事は、そのボリュームも内容も違います。そこには単なる報告に留まらず、管理人が保護者に伝えたいことが詰まっています。校長がその思いを発信している。ならば私もと、「学校や子どものことに無関心な保護者に少しでも関心を持ってもらいたい」「自分の子どもしか見えていない保護者にもう少し広い視野で教育をとらえてほしい」と、自分の思いを発信したのです。
これだけでもすごいと感じていたのですが、次第にアップされる記事に変化が見えてきました。ホームページでの学校や校長の発信に対して、保護者の立場でコメントをするようになってきたのです。その理由について校長がたずねます。「先生たちは頑張っている。しかし、学校の頑張り、校長先生の思いが、保護者には伝わっていないと思った」というのがその理由です。学校みずから、自分たちは頑張っているとは言いにくいものです。校長には校長の立場があります。ストレートに言えないこともあるのです。そのことを察して、保護者の立場からバックアップしようとしたのです。すごい保護者です。でも、それだけではこのような発信にはつながりません。学校が頑張っているからこそ、校長がその思いを発信しているからこそ、そのことを受け止めバックアップをしてくださるのです。学校と校長への信頼がなければ、このようなことは起こりえないのです。我が校にもあのような保護者がいればと思う校長もいるでしょう。たまたまこの学校に保護者としてこの方がいたから起こったことなのかもしれません。しかし、記事の内容が変わっていったのは必然なのです。このことは、この後の記事の変化にも言えることです。記事は学校に対する応援という側面が強くなっていくのですが、保護者の視点からの学校への意見や要望といったものもアップされるようになっていきます。これは学校批判とは違います。学校が自分たちの意見や要望を聞く耳があると思うからこそ、信頼しているからこそ発信できることなのです。たとえ要望したことが「難しい」と実現しなくてもそのことを真摯に受け止めてくれれば納得できるのです。学校とのやり取りの中で、そのような信頼が育ってきたのです。

発信を続けるにはエネルギーがいります。そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。保護者からの反応は予想したほどではなかったそうです。しかし、真剣に学校や子どもと向き合っている保護者からは反応があったそうです。使命感といったものが強いのではという話の中で、会場から「面白くなければ続かない」という意見がでてきます。確かにその通りでしょう。自分の考えを受け止めてくれる、それに対して保護者や学校も反応してくれる、このことは理屈抜きに面白いことだと思います。明言を避けられましたが、きっとそういう手ごたえがあるから続くのだと思います。

では、この保護者が学校からいなくなったら、校長が変われば、「PTAの部屋」はどのようになるのでしょうか。おそらくは別の形になっていくと思います。それでいいのです。今の形に縛られる必要はありません。その時、そこにいた人たちでつくっていけばいいのです。
しかし、このような発信が起こった要因を人の問題だけに帰してはいけないと思います。校長が赴任してすぐに、新しいことを始めたいとPTAに相談し、そこで決まったことを即実行したことに驚いたと話されました。保護者からこのような発信が起こってきたのは、まず学校が、校長が保護者を信頼して相談したこと、聞く姿勢を見せたこと、そのことを素早く実行したことが、その根底にあったのです。
PTAに対して、学校で決定したことを協力してほしいとお願いするだけでは、やらされている感しか残りません。「困っているから一緒に考えてほしい」と互いに寄りそう姿勢を見せて初めて、共に子どもを育てるという協力関係が生まれます。このような関係があればこそ、保護者向けのネット講習会(「地域の枠を超える動き」「PTAや地域と学校の信頼が育つ様子を見る」参照)といった企画が可能になるのです。

今回の対談は、ホームページを通じてのPTAの発信のことだけでなく、PTAと学校の信頼関係が生まれるために大切なことを教えてくれました。
とてもよい学びをすることができました。去り際に「○○○○な校長をよろしく」という言葉を残されました。この言葉にPTAと学校の強い絆を感じました。

この後、来年2月のフォーラムについての準備や検討が行われました。着々?と準備は進んでいます。もうしばらくすれば、詳しいことをお知らせすることができると思います。参加を検討されている方、今しばらくお待ちください。

この日も充実した研究会になりました。皆さんに感謝です。

今年も野口芳宏先生から大いに学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーに参加してきました。12年連続の野口芳宏先生の講演です。野口先生の元気な姿とお話に出会うことが毎年の楽しみです。

午前は作文指導のお話です。
現在の指導要領では「話す・聞く」の順番になっている。「話す」は表現で、「聞く」は理解だ。表現が先になっているが、理解してから表現するのが本来の順番だ。近年、表現力が重視されているが、基本は聞く力である。聞く力、「傾聴力」を大切にするべきだ。という主張から入ります。その上で、「書く」ことについてのお話です。

書くことは言語活動で一番高度で、作文力は国語の学力の総決算でとても大切なものだ。それなのに一番行われていない。書かせれば読まなくてはいけない。読むと腹が立つ。あれだけ指導したのに、漢字を使っていない、仮名遣いが間違っている。「一番いいのは書かせない」となってしまう。だから「読まない」というのが野口流です。

野口先生の作文指導の原則は「多作」「楽作」「基礎基本」の3つです。
たくさん書かせるというのが「多作」です。好きにするというのは理想だが、それは求めないでとにかく書かせる。欠席をすれば「僕の欠席した1日」を書かせる。とにかく書くことを日常化させる。それもただ書かせるのではなく、意識的、自覚的、目的的に書かせることで力をつける。いかにも野口流です。「鍛える」という言葉がこれほどふさわしい方はいません。
この多作のための方法が「日直作文」です。日直が15分早く来て、自分の書いた作文を黒板に書きます。子どもたちは、必ず「評価」の視点で日直の作文を読みます。日直に望ましい読み方で読むように指示し、間違いはその場で指導します。こうすることで教師が手間をかけなくても、子どもたちはおかしな文を書かないようになるというわけです。子どもたちに書いたものを提出させ、よいものは保存に値すると評価して年度末に傑作集として文集にする。こうすることで、子どもの意欲も高まります。

子どもが面白がって書くというのが「楽作」です。「苦作」に対する野口先生の造語です。嫌なことは続かない。苦を楽にするという発想です。作文指導はネタが大切というわけです。子どもが一番喜んで書いたのが「野口先生の欠点」。なるほど、これなら作文嫌いの子どもでも喜んで書きそうですね。子どもが作文を書かないのは、作文力がないのではなく、ネタと題が悪いということです。
例えば、子どもが自分の大好きなものになったつもりで書く「なりきり作文」。自分の好きなものになるので、どうしてもその対象は持ち主である自分自身に向かいます。不思議と自分の悪いことを書くそうです。自分を見つめ直すのです。その後で、「僕から○○へ」と返事を書かせれば反省する。道徳的効果もあるのです。

「多作」「楽作」で子どもたちの作文の活動量は増えますが、それだけで力がつくかというと、そうではありません。ただ活動するだけでは、ある程度の力は着きますが、それ以上はつきません。工夫改善が必要です。「基礎基本」を教えないと崩れた「多作」「楽作」が続くことになります。そのために、野口先生は「作文ワーク」をつくられました。例えば、「段落」を学ぶのであれば、「試し」の文章を段落に分けるという作業をします。段落を分けるのはどういう時かを、ヒントの形でまとめてあります。こうして「段落」という文章を書くための基本を教えるのです。欄外には、どのような学力が形成されるかという「形成学力」と子どもが学ぶ「学習用語」が書かれています。野口先生がいつも主張されている、国語でどのような学力を形成するのかを意識し、子どもたちが学習すべき用語を明確にしています。子どもたちにつける力はどのようなものか、教えることは何かという授業の基本がきちんと守られています。野口流は、いつもぶれることなく、授業の基礎・基本がきちんと押さえられています。

さて、問題はこうして子どもたちに作文の活動をさせていくと、読まなければいけない量が増えていくことです。最初に述べたように、ここで「読まない」のが野口流です。
では、具体的にどのようにするのでしょうか。
ポイントは、褒めて、読まないことです。読むと腹が立つ。読まないで返すと親が怒る。読まないで見る。見たとたんに○をつけて評価をするのです。○は大サービス。ちゃんと書いてあれば三重丸、ちょっとどうかは二重丸。「うまい」と書いて、細かい批評はしないのです。それでも気になるところがあれば、そこには線を引く。これだけでいいと言うわけです。教師が読むことよりも、子どもがどんどん書くことの方が、作文の力をつけるためには大切なのです。
とはいえ、誤字は気になるものです。しかし誤字を直しても子どもは見ないものです。子どもの間違いは、普段の国語の授業が貧しいからそれが反映しただけだというわけです。個別に対応するではなく、こういう間違いがあったといって授業で取り上げて全体で指導すべきだということです。

いかに作文力をつけるかを、具体的、現実的な方法で示していただけました。私が日ごろ主張している、「先生が頑張ったからといって子どもの力がつくわけではない。子どもが頑張ることが大切」にもつながるお話だと勝手に解釈して喜んでいました。
さて、参加された先生方どのように野口先生のお話を聞かれたでしょうか。早速明日から実行しようと思われたでしょうか。セミナーでよいお話を聞いた、勉強したと満足するだけでは授業は変わっていきません。実行しようと思っても、実際にやらなければ何の意味もありません。何か一つでも実際に試していただきたいと思います。

午後の前半は、中学校の国語の授業(国語の授業撮影参照)のダイジェストビデオを見ての、野口先生の講評です。
野口先生はいきなり核心に迫ります。「この授業で子どもたちに形成したい学力は何だったか」と問います。
野口先生は、学力形成の判定を次のように整理されています。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

今回は、この1から4にそって検証されました。このように学力形成の観点から分析することで曖昧だったものが明確になっていきます。授業者にとってはごまかしがきかない、厳しい指導です。しかし野口先生がこのような指導をされるということは、授業者がそれに耐えられると判断したからだと思います。セミナー終了後の反省会では、授業者にとても温かく接していたことが印象的です。公的な場と私的な場をきちんと区別して接してくださいます。そこも野口先生の魅力です。

授業での問いに関連して、質問と発問の違いを示されます。
子どもに聞くのが「質問」。正解があって、そこにいたる道筋があるのが「発問」。「考えることができる」と問うのであれば、考えればいいのであって、その質は問われません。「正しく読み取る」ことを求める必要があります。
そういう意味で、今回の授業は活動主義であると評価されました。
いつものことながら、明確です。参加された方、授業者ともに多くのことを学べたと思います。正解にいたる道筋を明確にしておくことは、どの教科でも大切なことです。その道筋を子どもたちが見つけていく活動をどのようにつくっていくのかが、授業づくりのポイントであることを再確認することができました。

最後の講演は、「日本の誇り」という視点で皇室について話されました。
私たちは、自分たちの国「日本」に誇りを持てているのだろうかという問いかけから始まります。自分の出自である日本という国に誇りを持ってほしい。日本には世界に類を見ない長い歴史を持った国です。その象徴として皇室があります。昭和天皇のエピソードをもとに、皇室は私たち日本人が世界に誇れるものだということを話されました。
いつも思うことですが、いろいろな考えがある中で、批判を恐れずに自身の考えを主張する姿勢はとても立派です。よい悪い、正しい正しくないは別にして、批判されることがわかっていて主張することには勇気がいります。自分はあれだけ堂々と自分の考えを公の場で主張できるかと考えると、いささか心もとなくなります。

今年も野口先生のお話とその姿勢から多くのこと学ぶことができました。毎年お会いしていても、もうこれで十分だということがありません。今から、来年お会いできることを楽しみにしています。

「見えない相手とのコミュニケーション」をテーマに介護関係者向けに研修

先日、介護関係者向けのコミュニケーションに関する研修をおこなってきました。

今回は「見えない相手とのコミュニケーション」について、電話応対を例として考えていただきました。
最初に、相手から見えなくてもこちらの態度は伝わることを実感してもらうために、椅子にふんぞり返って謝ってもらいました。申し訳ないと思っている雰囲気を声で伝えようとしても、横柄な態度だとなかなか難しいことがわかります。こちらの態度や様子と声は連動するのです。電話オペレーターの方が鏡を見ながら対応するという話も納得できます。相手にどのような気持ちを伝えたいか、相手の顔が見えないからこそ意識したいものです。
逆に相手の声の調子からだけでは相手の人となりがわからないこともよくあります。とても誠実そうに電話してきた相手が、詐欺師だったということも珍しくもありません。相手の口調に惑わされず、きちんと伝えるべき情報を伝え、得るべき情報を意識して応対することが求められます。
また、きちんとした言葉づかいができなければ、相手に値踏みをされてしまいます。仕事上の電話では、知らない相手ほどその対応でどのような人物か、会社かを知ろうとします。服装や建物といった他の要素がないだけに、話し方から相手に関する情報を得ようとするのです。
結局、見えない相手とのコミュニケーションで意識することは、実は普通のコミュニケーションでも大切なことです。相手にきちんと伝える、相手からきちんと情報を得る。服装や態度と同じように、相手にどのような印象を持たれるか気をつける。ただ、コミュニケーションの手段が電話であれば声だけだったり、メールであれば文章だけだったりと限定的なので、そのことがより強く求められるのです。

電話は突然の対応が求められることがよくあります。とっさのことに、うまく対応できないこともよくあります。電話応対は苦手という人もいるのではないでしょうか。私もかつてそうだったのでよくわかります。電話が鳴ると、誰か出てくれないかとまわりを見たり、それとなく席を立って手洗いに行ったりしたこともありました。しかし、逃げてばかりいても応対は一向に上手くはなりません。経験を積むことが大切です。しかし、自信がなくて電話に出られないから経験が積めないのです。堂々巡りです。私の場合は、頭の中で「今電話がかかってきたらどう応対するか」のシミュレーションをするようにしました。電話をかける時は、まず一連の応対を頭の中で想像してから、受話器を取るようにしました。こういった意識的な訓練が必要だと思います。

最後に苦情電話に対するロールプレイをしていただきました。「デイサービスで送迎の車が予定時刻を過ぎても来ない。仕事があるのに出かけられない」といった状況設定です。皆さんととても一生懸命に取り組んでいただきました。経験豊富な方は、さすがと言う対応をされます。
謝ることも大切ですが、まず相手が困っていることに寄り添うことが求められます。「それはさぞお困りでしょうね」と、相手の気持ちを受け止めることが必要です。その上で、謝罪することよりも、どうすればいいか、どうすれば相手が困っていることを解消できるかを一緒に考えることを第一にすることが求められます。「これこれ、このように対応することでいかがでしょうか」と相手に確認をしてから対応するのです。とはいえ、なかなか簡単なことではありません。自分で対応できないと思えば、すぐに対応できる方と電話を替わることが大切です。対応を間違えてこじらせてからでは、修復は難しいのです。「それはお困りでしょうね。担当のものにすぐに替わりますので、お待ちいただけますか」といった言葉が出るように日ごろから頭の中で訓練しておくとよいでしょう。
私からは、ちょっと難しいですが、「ご連絡いただき、ありがとうございます」とお礼を言う方法もあることを伝えました。「おかげで、他の利用者の方にも連絡を取って対応ができます」といったことを相手に伝えるのです。苦情を言う方も決して喜んで言っているわけではありません。嫌われるのではないかと思いながらも、仕方がないので連絡しているのです。その気持ちを和らげるには、「ありがとうございます」という言葉はとても有効なのです。

今回、グループでの活動を多くしましたが、皆さんの意見を取り上げて、気づきを共有することがあまりできませんでした。見えない相手とのコミュニケーションも、普通のコミュニケーションと基本は同じであることを伝えきれなかったように思います。電話応対の中途半端なノウハウのようになってしまいました。私自身が何を第一に伝えたいかが明確でなく、活動を中心に研修を組み立ててしまったことが原因です。授業と同じですね。

私のいたらなさにもかかわらず、参加された方々はとても熱心に学ぼうとされていました。言い訳になりますが、私からの学びは少なかったかもしれませんが、互いから多くを学んでいただけたのではないかと思います。
次回からは、「介護におけるコミュニケーション」をテーマに研修を行っていきます。私が皆さんからヒアリングしたことをもとに執筆した、介護従事者の方のためのコミュニケーションに関する小冊子をもとに進めていきます。今回の反省をもとに、皆さんに参加してよかったと思っていただける研修を目指したいと思います。
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