研究指定校で授業アドバイス(長文)

昨日は視聴覚関係の研究指定を受けている小学校で3人の先生の授業アドバイスをおこなってきました。共通していたのが、子どもを受容しようとする態度です。どの授業も子どもと教師との関係は良好でした。

1年生の国語の授業は、形や色、様子などを元に石に名前をつけ、その理由を言うという活動でした。授業者は子どもをよく見ていて、子どもの状況に柔軟に対応する力がありました。
たとえば、教科書の写真から好きなものを選んで名前をつけさせ、その理由を言えるようにした後の発表場面でのことです。名前を発表させた後、同じような名前をつけた子どもをつなぎます。ここで、「わけを言って」と理由を求めました。ところが、子どもは自分のつけた名前を言いたくてしょうがありません。指名された子どもは、理由ではなく名前を発表します。それでも授業者は子どもを否定しません。しっかりと受容して、黒板に書き加えます。次の子どもを指名する前にわけを言うように再度指示をしますが、先ほどの子どもが名前を言ったので、やはり名前を言ってしまいます。似たやり取りを何度か繰り返した時点で授業者は理由を聞くことをあきらめて、「別の石で練習しよう」とリセットしました。ここでデジタル教科書の「石の名前は(  )です。(  )からです。」という話型のページを提示します。子どもを指名したときに、空欄を指さすことで、子どもに発表すべきことを意識させました。名前を言わせた後、理由の欄を指さすことで子どもたちはちゃんと理由を発表してくれました。見事な切り替えでした。この話型のページは、ペアで発表し合うときに利用しようと予定していたものですが、とっさにこの場面で利用したのです。素早く表示を切り替えることができるデジタル教科書のよさがいきていました。
子どもが写真ではなく実際の石を使って活動する時のために、表面の質感を意識させる場面を用意していました。教科書の写真の中からつるつるした石を選んで名前をつけさせたのです。黒い石なので「くろくん」といった、色に注目した名前が続きます。しかし授業者は無理やり誘導しようとはしません。あくまでも、子どもから自然に出るのを待っています。「つるちゃん?」と表面がつるつるであることに注目して名前をつけた子どもが発表してくれたので、用意していたつるつるの石を子どもに見せました。今回たまたま発表する子どもがいましたが、いなければいないでそのまま進めるつもりのようでした。せっかく準備したので無理にでも使いたくなるところですが、そこを柔軟に対応しようとする姿勢は見事です。
発問の後、集中していない子どもがいました。ところが、隣の子どもが声をかけた後、勢いよく挙手しました。この子を指名してみたいなと私が考えていたところ、授業者はすかさず指名しました。同じように子どもを見ていたのでしょう。また、子どもの集中力が切れて、テンションが上がりかけた場面がありました。これ以上テンションが上がると収拾がつかなくなりそうだと思った時、授業者は子どもたちに声をかけ姿勢を正させました。まるで私の心を見透かしているようでした。外から見ている私と同様に冷静に子どもたちの状況を判断しているのです。
学習規律に関しても、ルールをうまく作って対応しています。プリントを配るときに、「プリントをもらったら何をしますか」と問いかけます。もう定着してきたからいいだろうと教師が弛む時期ですが、ちゃんと確認しています。ルールを子どもたちに徹底させることを意識しています。「聞く姿勢」「話す姿勢」といった言葉で、子どもがすぐに姿勢を正せるように指導しています。
また、1人支援の必要な子どもがいました。授業に関係ないことを突然話したり、立ち歩いたりします。授業者は過度に意識せずに、他の子どもの迷惑にならない範囲であればある程度自由にさせています。限界が近づいたと思えば、その子どものそばに行って、それとなく接して落ち着かせます。立ち歩けばそばによって自分の手の届く範囲にとどめておきます。他の子どもたちは、その子どもが自分たちのじゃまになるようなことはないので悪感情を持ちません。優しく接してくれるようです。この対応もなかなかのものです。
カードに自分の選んだ石の絵を描かせ、色をつけ、考えた名前を書く活動でのことです。指示はカード配る前にしています。ちゃんと基本を押さえています。黒板に「えをかく」→「いろをつける」→「なまえをかく」と指示を書きました。しかし、カードが配られて作業を始めようとした時、カードのどこに何を書けばいいのか混乱する子どもがいました。ここは、実物投影機を使って実際のカードを見せながら指示をするか、黒板にカードの絵を描いて指示をするべきだったでしょう。このことを私が指摘するまでもなく自分で気づいていました。自分の授業を冷静にとらえています。
同じ石を選んだ子ども同士をつなぎながら発表を進めるのですが、その石を選ばなかった子どもは発言の機会がないので、次第に集中力を失くします。その石を選ばなかった子どもに対して、その場で「名前を考えてみて」と参加できるように働きかけたり、理由を説明できなかった子どもがいたときに、「助けて」と代わりに説明させ、本人に確認したりしていました。このようなつなぎ方をもっと使えば子どもたちの集中力がもう少し持続したかもしれません。
ペアで、自分のつけた名前とそのわけを発表し合いました。こういった場面では聞く側の役割を明確にする必要があります。低学年なので、言っていることがわかったら「うなずく」、「サインを出す」というレベルでもいいでしょう。話型を意識させるために、「私の考えた名前は」・・・「です」、「そのわけは」・・・「からです」の形でちゃんと言えたかどうかチェックさせてもよいでしょう。
ここに書かなかった素晴らしい場面はまだまだたくさんあります。授業技術と判断力がとても素晴らしい先生でした。まだ教職10年目くらいの方です。この先生が今後どのような進歩していくのかとても楽しみです。

2年生の国語は2年目の先生でした。漢字の同じ部分に注目させて、部首やつくり、漢字の成り立ちにつなげる教材です。授業者は今まで習った漢字を仲間分けするという導入を考えました。しかし、自分でも今一つしっくりいっていなかったようです。今まで習った漢字を使うという発想はなかなかよかったのですが、子どもが混乱する漢字が多く混じっていたのです。日と目、口などは口を同じ形として仲間と言えないこともありません。どう説明してよいか授業者自身も悩んでいたのです。この後学習する、部首やつくりにつなげていくことを考えれば、混乱しないような例で仲間分けをすべきだったと思います。辺やつくりといった漢字の構成要素を意識した部分で仲間分けをするのです。授業者の用意した漢字では、「石」と「名」が同じ仲間となっていたのですが、これも問題があります。「石」の口は口の形をしていますが体の口ではありません。石を表す象形です。「名」の口は体の口です。ですから部首も異なります。「石」と「口」です。漢字の構成要素として同じもので仲間分けをするべきです。教科書の例ではすべてそうなっています。こういう教材研究が少し不足していたようです。教科書を点で見るのではなく、学年間のつながりも意識した、線で見ることもしてほしいと思いました。
導入の仲間分けがすっきりしていなかったことが授業者の表情にも表れていました。かたいのです。おそらく日ごろはもっと柔らかい表情で子どもと接していることと思います。
もう一つ気になったことがハンドサインです。子どもがほぼ全員挙手をする中で、数人手が挙がりません。ところが、発表の後「いいです」と全員ハンドサインを出すのです。手が挙がらなかった子どもの一部は自信がなかっただけなのかもしれませんが、いつも最後にハンドサインを出す子どもなどは、本当にわかっていたのか不安です。ハンドサインは慎重に使ってほしいと思います。(「意味のある確認をする」「ほとんどの子が挙手するとき」参照)
学習規律はかなりよいのですが、わかった子ども、挙手した子どもと教師だけで授業が進むので、参加できない子どもの集中力が持ちません。困っている子ども、わかっていない子どもを参加させる工夫が必要です。(「子どもの言葉で授業をつくるときに注意したいこと」参照)
またペアをうまく活用する方法がよくわからないと質問してくれました。こういう課題を持っていることはとてもよいことです。ペアは相手意識が大切なので、一方がしゃべって、片方が聞くだけといった活動ではいけません。相手がしゃべったことに対して受け手が反応する。その反応に対してもう一度何かをしゃべる。こういう活動であれば、最初に一方的に話して終わりということはありません。相手の反応を受け止める必要があるからです。会話が一往復半するような活動を心がけるとよいでしょう。また、互いの考えを伝えあうような活動では、ペアの人の意見を発表させたりすることで聞く役割を明確にするという方法もあります。(「ペア活動の特性を意識する」参照)

4年生の社会は、放置自転車が禁止される理由を考える活動でした。デジタル教科書で放置自転車を整理している写真を写します。しかし、このとき子どもたちの手元の教科書も広げられています。かなりの数の子どもがスクリーンではなく手元の教科書を見ています。子どもたちの顔を上げることをねらうのであれば、教科書は閉じておいた方がいいでしょう。
ここで、デジタル教科書の写真を使いましたが、この学校のすぐそばに駅があります。その駅の様子を写真にとって映すといった工夫があってもよいと思いました。どこか知らないところの写真よりもはるかにリアリティが増すからです。デジタル機器のよさの1つに、身近なものを簡単に教材化できることがあります。自分たちの身の周りから題材を選ぶことでリアリティのある教材をつくることができるのです。
子どもたちに発表させる場面では、「なるほど」「いい意見だね」と受け止め評価します。子どもとの関係はよさそうです。しかし、「すばらしい意見だ」と評価をしてもどうしてすばらしいのか、その基準は不明確です。これでは子どもは教師の求める答を手探りしていくだけです。「先生はどこがすばらしいと思ったかわかる?」と問いかけるなどして、価値を共有化することが必要です。
授業者はうなずきながら発表を聞いていますが、その表情は少しかたいままです。発表者をしっかり見ているのですが、他の子どもたちの様子は目に入っていません。子どもたちも友だちの発言をしっかり聞こうとはしていません。また、発表が終わるとすぐに言葉を足しながら説明をします。1人発表するとその3倍は説明をしているのです。子どもたちは発表したことには満足している様子ですが、ほめられても表情があまり変わらないことが気になりました。意見を言っても結局教師が自分の言葉で説明するので、認められたと感じられないからでしょう。
発表が続くとだんだん挙手が減っていきます。それとともに子どもたちの集中力も下がっていきます。子ども同士の意見がつながることがないので、聞く意欲も高まりません。子ども同士のかかわりを意識することが求められます。

主に3人の授業しか見ませんでしたが、この学校に共通なこととして、教師の笑顔や子どもたちをポジティブに評価することが少ないことが挙げられそうです。子どもは発表することには意欲的ですが、わかった子どもと教師で授業が進むため、わからない子どもは参加できず、集中力が続きません。また、一問一答が基本なので、子ども同士の考えがつながることがなく、子どもは教師の求める答探しをすることになってしまう。こんなことも言えそうです。

校長とはこの日の授業のことや研究の進め方についていろいろ話すことができました。校長として決断することもあったようです。この学校の状況が悪いわけではありません。課題が明確に存在するということはそれをどう解決していくかを考えればよいのです。どうすればうまくいくのか、うまくいかないのか。そのことを明らかにすれば立派な研究になると思います。これからの動きがどうなるか楽しみです。今後もできるだけのお手伝いをさせていただきたいと思っています。

若手教師の進歩を感じる(長文)

昨日は小学校で若手への授業アドバイスをおこなってきました。前回の訪問から2週間も経っていませんが、子どもたちへの指示はずいぶん徹底できていました。どの先生も前回のアドバイスを意識して授業に臨んでいます。また、今回私がアドバイスしようと思ったことと先生方の課題意識が一致していたのには感心しました。子どもたちをしっかり見ることができているようです。

2年生の体育の授業では、集合から準備運動まで子どもたちだけで進めていました。なかなかできないことです。その間授業者は授業の準備をしていました。体育が苦手と思われる子どもがときどき手を抜いています。準備運動も終わりに近づくころに、授業者が戻ってきました。横の方から子どもたちの様子を見始めると、先ほどの子どもがしっかりと体を動かし始めます。他の子どもたちも明らかに集中度が上がりました。面白い場面です。また、活動の説明の場面でも似たようなことがありました。1グループは授業者のまわりに集まり、もう1グループは実演をさせるために縦に長く伸びています。近くのグループはしっかり集中して聞いていますが、もう1つのグループは明らかに集中度が低いのです。それも授業者から遠いほど。授業者の目が届くかどうかが子どもたちの集中度に大きく影響することがわかります。
準備運動のランニングでは、授業者は先頭を走っています。体育館の中なので、小さな円になりますが、授業者は何度も後ろを振り返りながら子どもたちを見ています。子どもたちを見ることを意識していることがよくわかります。だからこそ、見ていない時の集中度が落ちるのです。子どもたちだけで活動する時に、互いに注意をさせるという方法を取ったこともあるようですか、長続きしなかったようです。発想を変えて、しっかりできている子どもを評価することをアドバイスしました。子どもたちに、頑張った子どもを発表させるのです。見学者にその役割を与えてもよいでしょう。
また、授業者はこの日の活動量が少なかったことを反省していました。待っている時間が長かったのです。活動量を増やすためには体を動かす以外の活動を意識するとよいことを話しました(体育で大切にしたい活動参照)。

社会科の授業でのことです。社会見学に向けて、その施設で何を聞くかを考える場面です。授業者は、まず「何を知りたいか?」と問いかけました。何を言ってもよいのですから子どもたちが積極的に発言してくれそうです。ところが子どもたちは戸惑っています。漠然と「何を知りたいか?」では答えようがないのです。授業者はすぐに「何を知らないか?」と発問を変えたのですが、次に指名した子どもが「知りたいこと」を発表してしまい、うまくリセットできませんでした。子どもの様子に気づいて発問を変えたことはよい判断だったのですが、まず、変更を徹底させるべきだったでしょう。いったん挙手をやめさせて、発問し直すのです。
子どもたちに考えさせるためには、そのための足場になるものは何かを意識する必要があります。今回の場合、「知りたいこと」が明確になるには、「知らないこと」が何かがわかることが必要です。「知らないこと」を知るためには、「知っていること」が何かを明確にする必要があります。具体的には見学する複数の施設について、「何を知っている?」と知っていることを出させます。施設によって知っていることの違いもありますから、知らないことが浮き上がってきます。そこを足場にして、「じゃあ、知らないことは何?」と知らないことをたくさん取り上げます。ここで、「何を知りたい?」と続ければ、今度は選んだ理由を問うこともできます。その上で、施設の方に聞きたいことをグループで決めさせるというステップを踏むことになります。学年によっても違いますが、「聞きたいこと」の前に「聞かなくてもわかること」を入れてもよいでしょう。事前に施設のパンフレットを手に入れておいてそれを見せる。インターネットで調べる。聞かなくてもわかることを聞く必要はありません。裏を返せば、調べてもわからないことは聞くしかない、わからないから聞きたいとなるのです。常にこのステップを指示する必要はありません。子どもたちが経験を積んでくれば、自分たちでこのステップを踏むようになります。こういう考え方を身につけさせることが大切になります。
また、子どもたちにこの一連の活動のゴールが見えていないことも気になりました。教師が出す一つひとつの課題に取り組みますが、それがどこに向かっているかはっきりしていないのです。ミステリーツアーです。見学した後、わかったことを発表することをしっかり意識させておくことが必要です。聞いた人に、「あっ、知らなかった」「勉強になった」と言わせようといった子ども目線の目標も先に与えておきます。そうすれば、聞くことを決める段階で、「このことを聞けば、勉強になったと言ってもらえそう」といった根拠を持って考えることができます。子どもたちが経験を積めば、この目標を自分で設定することもできるようになります。

国語の授業で、インタビューの時にどんなことが大切かを発表している場面がありました。授業者は椅子に座って指名していきます。穏やかな表情で発表者を見て、うなずきながら発言を聞いています。板書もしません。そのため、子どもたちは聞くことに集中します。発言者の方を向いて聞けている子どももたくさんいます。子どものテンションを上げすぎないことを意識していることがよくわかる授業でした。意識して授業をしているので次の課題も明確になります。
落ち着いた雰囲気で進んでいくのですが、意見を発表できない子どもは次第に集中力を失くします。授業者もこのことには気づいています。子どもをつなぐことが必要なのですが、具体的どのようにすればいいのかがよくわからないようです。このような時は、子どもの発表に対して「同じような意見の人はいる?」と同じ意見の人を確認し、何人か指名します。自信のない子どもも友だちが発表した後なので、話しやすくなります。発表しなくても、手を挙げるだけで受け身の時間が減ります。「今の意見になるほどと思った人いる?」と問いかけることで、考えを持てていない子どもも参加できます。「どこでなるほどと思った」と問いかければ、発言につなげることもできます。
また、授業者は発表者をずっと見ています。発表者はどうしても教師に向かって発言するようになります。教師も他の子どもの様子を見ることができません。耳を発表者の方に向けてうなずきながら聞くようにすれば、全体を見ることができます。この他にも、うなずきながら首を振るなどの工夫をすれば発表者に聞いていることを伝えながら全体を見ることができます。教師が発表者を見続けないので、みんなの方を向いて話すことを意識させやすくなります。教師が全体を見ることで、他の子どもたちの反応をとらえることもできます。うなずいている子ども、首をかしげる子どもがいれば、「うなずいてくれたけど、どういうこと?」「首をかしげていたね。何かわからないことあった?」と発言をつなぐきっかけになります。
1人、面白い発言をする子どもがいました。まわりの子どもたちが揶揄するような態度を見せます。どうやらその子どもは思いが多すぎて整理できず、説明が回りくどくなるようです。だらだらと言葉が続くので、よいことを言っていても子どもたちにはよくわからないのです。発表した子どもは、授業者がしっかり聞いてくれるので満足するのですが、子ども同士がつながっていきません。この場合、いったん発表させた後、もう一度ゆっくりと説明させるとよいでしょう。今度は途中で止めながら「言っていることがわかった?」と整理しながら発表させることでまわりが理解してやすくなります。「○○さんの言いたいことを代わりに説明できる人いるかな」と他の子どもに言わせてもよいでしょう。自分の考えを友だちが説明するのを聞くことで、どのように説明すれば伝わるのかを知ることができます。このとき、「あなたの言いたかったことはこういうこと?」と本人に確認をすることを忘れないようにします。

別の授業で、子どもたちが礼状を書いている場面がありました。気になったのが、礼状を書くにあたっての目標は何か、そのためにどういうことを意識しているのかが明確になっているかどうかです。ひょっとしたらノートなどにまとめられていたのかもしれませんが、私が見ている範囲では、何かを参考にしている様子はありませんでした。ある学級では、「ていねいに」「最後までうめる」といった目標を黒板に書いているのですが、これは物理的なものです。内容に関する目標が必要です。読んでくれた人がどう思うといった、相手を意識したものが求められるのです。そして、その目標を達成するための要素を整理し、まとめておく必要があります。教科書には載っているのでしょうが、子どもたちが意識している様子はあまりありませんでした。何も見ずに黙々と書いているのです。

ある算数の授業で気になったことは、わかった子どもの発言や教師の説明だけで授業が進んでいくことです。わからない子どもはなかなか参加できません。板書も結果だけしか残っておらず、考え方が残っていないのです。わからない子どもが参加できる、わからない子どもがわかるようになる活動が意識されていないのです。答や手順を示せば子どもがわかるわけではありません。わかるためのステップがあるのです。そのことを意識してほしいと思いました。

3年目の教師の算数の授業はとても素晴らしい雰囲気で進んでいました。教師も子ども笑顔にあふれ、やる気が感じられるものでした。教師が体全体で子どもを受容していることが大きな要因でしょう。板書も色チョークをうまく使ってポイントがわかりやすくなっています。そういう授業でも、集中力を失くしたり、再び取り戻したりと変化の激しい子どもが何人かいることが気になります。よく見ていると、各場面で最初の発言や説明は集中していますが、そのあと一気に集中力が落ちるのです。どうやらよくできる子どものようです。一度聞いて理解して、もう聞く必要がないのです。授業者もよくできる子どもにどのような課題を与えればよいか悩んでいるようでした。きちんと自分の授業の課題を見つけているのはとても素晴らしいことです。
できる子どもに対しては、「他の説明を考える」「みんながわかる説明をする」「友だちの考えをみんながわかるように説明する」といったことを課題とするよいことを話しました。特に、教師ではなく「みんな」がわかるということは、子どもの視点を大きく変えてくれます。自分が解ければいいという考えを変えて、友だちにわかってもらおう、友だちを理解しようという態度を育てることで、学級の人間関係も変わってくるはずです。次は、彼らが1時間集中し続ける授業を目指してくれることと思います。

若手の教師が授業参観する時間をつくるために、教務主任が代わりに授業をしてくれました。素晴らしい姿勢です。その際自分の授業も見てくれるよう頼まれました。その向上心にも頭が下がります。
社会科の授業でした。パッカー車の写真を見せて疑問に思ったことをドンドン発表させます。子どもたちの発言を「いい疑問だね」と受容します。ベテランらしい見事な授業技術で進めていきます。子どもに出させた15の疑問の中で「1番素晴らしい疑問」は何かを問います。最初は列指名でつぎつぎ発表させ、その上で今度は、挙手で理由と共に発表させます。先にいろいろな考えがあることを確認しているので、理由を聞く必然性もでてきます。こういう進め方が自然にできるのは素晴らしいと思いました。
しかし、飛び込み授業なのですから、授業者の価値基準を子どもたちは知りません。授業者の言う「いい」疑問がどのようなものかはわかりません。「素晴らしい疑問」とはなんでしょう。このことを明確にする必要があります。つきつめれば、社会科の授業で子どもたちに身につけさせたい力はどのようなものかをはっきりさせることが求められます。この授業で身につけさせたいことは、その中のどれでしょうか。その力を身につけさせるために何を「いい」「素晴らしい」と価値づけるのでしょうか。授業者にこのようなことを伝えたところ、とても素直にかつ前向きに受け止めてもらえました。ベテランだからこそもっと授業が上手くなりたいのです。私の若手へのアドバイスを自分のことのように一生懸命聞いてくれます。このような教務主任ですから、この学校の授業力はきっと上がっていくことと思います。

先生方からは、たくさんの疑問や悩みを聞くことができました。どの先生も前向きに授業に取り組んでいることがよくわかります。わずかな時間に学級の様子が変わっていることからもそのことが伝わってきます。学習規律が確立してきたので、今回は教科の内容について多く話すことができました。先生方の進歩の速さをとてもうれしく思いました。
また、教育実習生がこの日1日、私と一緒に授業を見学し、授業の見方が変わったと感想を述べてくれました。これもうれしいことです。よい実習となることを願っています。

次回は全員の先生の授業を見せていただけます。どのようなことが学べるのか、また若手の教師がどのような成長を見せてくれるのか。今からとても楽しみです。

子どもとかかわるということ

学校で教育実習生に出会う季節になりました。真剣な目で授業を見つめる姿からやる気が伝わってきます。この中から、これからの学校現場を支えてくれる人材が育ってくれることを期待しています。彼らについていろいろなことが耳に入ってきます。その中で、難しい問題だと感じるのが、子どもとのかかわり方です。

定期考査の終わったあとです。成績が振るわなくて落ち込んでいた子どもが教育実習生に勉強を教えてほしいといってきました。特定の問題を教えてくれというのではなく、定期的にいろいろな教科の勉強を見てほしいというのです。教育実習生は子どもに頼られたのでうれしくてしょうがありません。早速指導の先生に許可を求めました。先生は、「自分の教科ならばともかく他の教科を教えるということは、どういうことだと思う」とそれぞれの先生の教え方や考え方がわかってもいないのに勝手に担当以外の人間が教えることの問題を伝えました。「実習期間が終わっても、教えてほしいといったらどうする?その子どもが、あなたがいなくなったから成績が下がったと言ったらどうするの。責任を取れるの?」と問いかけました。大切なことはどう行動すればよいかを子どもに考えさせ、行動をうながすことです。それも指導の先生と相談しての上です。子どもが教えてほしいと言ったのは、教育実習生に甘えたかっただけだということを、指導の先生はよくわかっていました。事前に相談してくれてよかった。もし、勝手に教え始めたらその後始末が大変だった。そう語っていました。

教育実習生は何も責任を取ることができません。子どもと深くかかわることは避けなければいけません。裏を返せば、教師は子どもに対して常に責任を持って接しているということです。今回のことで、この教育実習生はこのことを学んでくれたでしょうか。
教師を目指す学生ですから、子どもと触れ合いたいと思うのは当然です。だからこそ、将来しっかりと子どもと触れ合うために、今学ぶべきことは何かを考えてほしいのです。それは、ままごとのように、無責任に子どもとかかわり合う体験をすることではありません。教師が何を考え、どのように子どもと接しているのか、その背中から学ぶことです。
彼らが学校現場で多くのことを学び、何年かの後、立派な教師となった姿を見せてくれることを楽しみにしています。

授業研究から学ぶ

前回の日記の続きです(子どもたちの変化を見る参照)。授業研究は1年生の英語と2年生の数学でした。ともに1学級を2つに分割した少人数授業でした。

私が主に見たのは、3年目の先生の英語の授業でした。大勢の参加者がいる中で子どもたちはやや緊張気味でしたが、柔らかい表情で集中して授業に参加していました。この雰囲気をつくっていたのが授業者の笑顔です。終始笑顔を絶やさず、発言を復唱してしっかり受け止めるので、子どもたちも安心して授業に集中できるのです。
前半に ”This is 〜.” を ”Is this 〜?” と疑問文にする文法的説明を教師主導でおこないました。子どもたちは10数分の間、受け身の状態にもかかわらず集中力を切らさずに聞いていました。これはすごいことですが、その間子どもの活動がない事は問題です。教師と子どもたちの人間関係がよいときに落ちる落とし穴です。子どもが集中して聞いてくれるので教師はついしゃべりすぎるのです。子どもの活動量を増やすことを大切にしてほしいと思います。
“Is this your 〜?” と問いかけることで、授業者が一部を隠した絵が何の絵か当てるクイズをおこないます。こういうクイズ形式の課題は子どもたちの興味を引くのにはよいのですが、当てることが目的になりやすいという問題があります。この表現を使わずに単語だけで答える生徒がいました。授業者はこの表現を使うように指示して言い直させました。正しい指導です。しかし、これが子ども同士のペア活動だとなかなか修正できません。本来の目的とずれた活動になる危険性があります。またこの練習は名詞部分を置き換えるだけのものです。situation として単純なので、次の対話文の布石として、thisと that 、my と your を入れ替えるような situation に変えるべきでしょう。
主の活動は、事前に子どもたち一人ひとりがそれぞれ好きな色を塗ったペンや本のカードをランダムに配り、“Is this your 〜?”を使って持ち主を見つけるものです。本人の物であったときと違うときで対話文の流れが変わるように工夫されています。”Yes, it is.” ”No, it isn’t.” 終わってしまうとyes か no かを聞けばいいだけです。相手に話すことが目的化します。しかしこの授業では、”Yes, it is. That’s my pen.” “Here you are.” “Thank you.” “You’re welcome.” という流れと、”No, it isn’t.” “I’m sorry.” “That’s OK.” という2つの流れがあるために、相手の答をしっかり聞くことが求められます。この種の活動は子どもが自分のパートを話すことばかりに意識がいき、ムダにテンションが上がることが多いのですが、声も大きくならず、落ち着いた状態で進みました。とてもよい姿でした。
検討会で子どもの声がもっと大きくなってほしいといった意見が出ましたが、通常ペアで話をする時に声が大きいということは会話が成立していない時です。互いに相手を説得しようとしている時やけんかになっている時に声が大きくなります。この学校で子どものテンションが上がりやすい原因が見えたような気がしました。
子どもたちは集中して真剣に取り組んでいましたが、対話中に黒板をちらちら見る姿が目につきました。2つの流れの対話文が、自然なものとして身についていないのです。困った時のために意図的に対話文を残しておいたのかもしれませんが、あえて黒板に残さないという選択もあったでしょう。対話文をしっかりと自分のものにする時間がもう少し必要だったのかもしれません。そういう意味で、前半の教師の説明とクイズに時間を取られすぎたということが言えるでしょう。
教師と子どもの関係がしっかりできている、学習規律がしっかりしているからこそよい意味で課題がたくさん見つかった学びの多い授業でした。

数学は連立方程式の導入部分を「さっさ立て」を使っておこなうというものでした。釣った魚を一方のボックスには2匹ずつ、もう一方のボックスには1匹ずつ入れたとき、どちらに入れたかはわからないが、全部で何回入れたかでそれぞれの数を当てるという問題です。どうやって見つけるかという課題にグループで取り組んでいる場面を見ました。塾などで学習している子どもがいるグループでは、これから学習する連立方程式で解いています。表を使っているグループや奇数、偶数の関係を使っているグループもありますが、手のつかないグループもあります。この時、授業者はわからなければ席を立って他のグループに聞きに行ってもいいという指示を出しました。いろいろな考えがあるとは思いますが、これをすると今あるグループを壊すことにつながります。グループを使うねらいの一つに、課題を解決する過程で聞き合い相談することで、たまたまグループになった者同士が互いに学びあえる人間関係をつくることがあります。これが授業でつくる人間関係です。この授業に限ったことでなく、学校全体でグループのあり方を一度振り返ってみてほしいと思います。
子どもたちが発表した後、授業者はいろいろなやり方があったがどれを使いたいかと子どもたちに問いかけました。ほとんどの子どもが「方程式を利用する」に挙手しました。連立方程式で解いたグループもありますが、このやり方でいつも解けることを確認したわけではありません。1元方程式で解いたグループがあったかどうかを私は確認できていませんが、連立方程式との違いが押さえられているとも思えません。「さっさ立て」だけを考えるのであれば、小学校の算数の方がはるかに簡単で速いはずです。子どもたちが方程式と言ったのは、数学の授業だから答は方程式のはずだ。教師の求める答は方程式だろう。そう考えたからです。自分で考えよう、自分の考えを持とうというのではなく、教師の求める答を探すことをしているのです。この日の課題は、一つの問題を考えるのにもいろいろなアプローチがあることと、それぞれのよさを知るためのものです。数学は解き方の手順を覚える教科ではなく、問題をどうとらえ、どのように解決していくかその考え方を身につける教科です。子どもたちの答が「方程式を利用する」では、この1時間の授業はあまり意味を持たないものだったことになります。授業の進め方だけでなく、もう一度教科のあり方から振り返ってほしいと思います。

検討会では、子どもたちの事実に焦点を当てた気づきが発表されました。とてもよいことです。しかし互いの学びを深めるためには、「子どもの学びがいつ深まったのか」「学びが成立していたのはどの場面か」「子どもが学びから離れた場面はどこか」といった視点を明確にして話し合うことが必要です。このことをもう少し意識できるとよいと思いました。その上で、どのような手立てが有効なのかを話し合えるとより多くのことが学べることと思います。

検討会の最後は教科指導員がコメントをします。学校訪問でのこの地区のスタイルです。英語の教科指導員のコメントを聞かせていただきましたが、的確な指摘でどれもなるほどと納得させるものでした。しかし、当然のことながら教科指導員ですので教科の視点から授業を見ています。もちろん他教科の者にとっても有意義な話ではあるのですが、中学校では教科を超えたところにスポットを当てたいところです。教科指導員のコメントは教科部会を中心におこない、全体ではもう少し違った形での進め方を考えた方がよいのではと思います。この地区の学校訪問に数多く立ち会っているのですが、教科指導員のコメントがよければよいほどその思いを強くします。

教育委員会の方から、前回訪問時より子どもたちの表情や学級の雰囲気がよくなっているとのコメントがありました。そのような印象を持っていただけたことをとてもうれしく思いました。先生方が意識をしている証拠です。学校をよくしようと素直に取り組む先生がとても多いことがよくわかります。授業が成立するための基本ができつつあります。だからこそ新たな課題がたくさん見つかってきます。それぞれの課題に真摯に取り組むことで、着実に成果が上がってくるはずです。今後の学校の変化が本当に楽しみです。

子どもたちの変化を見る

昨日は中学校の学校訪問に同席しました。研究指定を受けている学校で、午前中は公開授業、午後からは授業研究でした。
前回訪問から1月あまりの時間が経っています。子どもたちの変化の様子が気になります。

3年生は、以前と同じく人間関係のよさが感じられる場面が多くありました。子どもたちの笑顔もたくさん見られたように思います。
前回授業研究をされた英語の先生の授業です。飲み物や食べ物を勧める文を中心としたグループで会話文をつくるという、前回と同じような場面で、子どもたちのテンションが落ち着いていたことに気づきました。習っていない文も自分たちで調べながらつくろうとしています。いろいろな飲み物や食べ物がたくさん例として用意されています。その場面を直接見た訳ではないのですが、おそらく子どもたちは例から選べるので、会話の中身をつくることに時間をかけずに、英文をつくることに集中できていたのではないかと想像します。自分でつくれない文があるとまだ先生に質問する子どももいますが、授業者は自分で調べるように促していました。明らかに前回の授業研究が活かされていることがわかります。「アレルギーがあるから食べられない」というような文を自分たちで調べて発表してくれたグループもあったそうです。授業者も手ごたえを感じていました。
また、社会科の人口ピラミッドをもとに人口問題を考える授業で、ある子どもが「老人の医療費をカットすれば、老人の数も減る」といったことを発表しました。ちょっと怖い発言です。授業者はそれでも、まず受け止めて、「・・・してきた人たちだけど、それでもカットする」と返しました。子どもは「しない」と自分で発言を訂正しました。教師が否定するのではなく、その子ども自身に訂正させたのはとてもよい判断です。次は、授業者が直接返すのではなく、他の子どもにつないで、友だちの意見で考えを修正することを目指してほしいと思います。友だちの考えを受け入れて考えを変えたことを評価することで子ども同士の関係もよりよいものにすることができます。
また、このような倫理的にちょっとと思うような考えが発表できるというのは実は素晴らしいことです。受けねらいというわけでなくこのような発表ができるというのは、安心して発表できる学級だということです。教師を含め学級の人間関係もちゃんとできているということです。授業者は「子どもたちがまとめを『ガリガリ』書いてくれる。たくさん、しかもていねいな字で」とうれしそうに話してくれました。ありがとうという言葉をたくさん使うように心がけてきたそうです。子どもたちがしっかり応えてくれるようになったと語ってくれました。
お二人ともベテランです。にもかかわらず、他者のアドバイスを受け入れるその姿勢は、見習うべきものです。いつも言うことですが、ベテランだからこそちょっとしたことを意識するだけで授業が大きく進化するのです。お二人の笑顔がとても印象に残りました。

3年生に共通することですが、グループ活動でかかわれない子どもが依然見受けられます。またそれとは別に、授業のじゃまはしないのだが参加しない子どもが各学級で目立つようになってきました。授業内容がわからない、ついていくことをあきらめた。そのように見えます。このような子どもが目立つようになるのが中間考査の終わった時点というのは、少し早いように思います。授業だけで何とかしようとするのは難しいかもしれません。個別に1・2年生の復習、やり直しの課題を与えるといった対応が必要でしょう。

1年生は、子ども同士の関係もよく、よい雰囲気で授業が進んでいきます。前回の訪問時と比べて子どもの表情が柔らかくなっているのが印象的でした。聞く体制ができるまで待ってから話すので、子どもたちの集中力もなかなかのものです。ただ緊張感が薄れたのか、集中するまでに少し時間がかかるように感じます。柔らかさが緩さにつながっているのかもしれません。このよい雰囲気を残しつつ、素早く切り替えができると素晴らしいと思います。
また、このよい人間関係が学級活動や行事でつくられているのではないかと感じさせる場面がありました。グループ活動やペア活動で作業が終わった、活動が止まったときに、授業と関係ない雑談をしている姿が目につくのです。友だちと和んでいるといってもよいかもしれません。日常の班活動と同じメンバーがグループになっていることと関係があるように思います。授業中、特定の友だちとだけでなく、学級のだれとでかかわり合えるようにすることを意識してほしいと思います。

昨年度授業アドバイスをした若手は以前よりしっかり子どもたちを見ていました。投げかける言葉も細かいところまで意識しています。子どもたちがしっかりと集中して授業に参加していることが廊下の反対側からも見て取れます。指摘されたことを素直に実行し続けていることが、子どもの姿からよくわかります。この教師に限らず、子どもたちが授業に真剣に取り組むようになってくると教科としての課題や活動内容が問題になります。この時間、この教材を通じて子どもたちにつけたい力は何かについて、もっともっと明確にする必要があると思います。ねらいが明確になれば、自然と評価も明確になります。授業が終わった時点での子どもの姿、振り返りの内容で授業がどうであったかよくわかります。そこには次の授業の改善へのヒントがあります。毎日地道に繰り返すことで教科力がついてきます。同じ教科の仲間で学び合うことで向上するところでもあります。全体での授業研究と平行して力を入れてほしいところです。

2年生は、ごく一部ですが、授業中に教室から出て行くような生徒がいるため学年全体が落ち着かないと感じました。先生方は怒鳴ったり、力で押さえたりしようとはしていません。そのため、教室の雰囲気が決定的に悪くなるような事態にはなっていません。先生たちがチームワークで頑張っていることがよくわかります。子どもたちも集中して課題に取り組むなど場面場面でよい姿を見せてくれます。とはいえ、どうしても集中力が続かないと感じることが多くなります。特に教師が説明して子どもが受け身になるような場面では、顕著です。こういう場面で授業の内容に直接関係ないことで子どもが声を出します。彼らも息を抜きたいのでしょう。高めのテンションで教師に声をかけます。子どもっぽい行動ですが、教師と関係が悪くないので起こる行動です。ここで無視をすると、エスカレートしていくことを知っているのでしょう、教師はその言葉に反応します。こういうことをきっかけに学級全体のテンションがおかしくなっていきます。こういった光景が目につくのです。また、教師の方からムダな話を振ることもあります。子どもの目先を変えて集中力を回復させたいという思いでしょう。しかし、一度上がったテンションを下げるのは難しいことです。この学年に限らず、この学校の生徒はテンションが上がりやすい傾向があります。テンションを上げることよりも、積極的に取り組める活動を増やすことで集中力を持続させるようにするとよいでしょう。テンションを上げ気味の生徒に対しては、ちょっと落ち着いた瞬間をとらえて「おっ、落ち着いたね。いいよ」とほめる、ペアレンタルトレーニングの手法が有効でしょう。

今回授業を参観して学校全体で感じたことは、個人での作業にこだわりすぎることです。まず個人で作業をしてから、グループやペアの活動に入るという形を取っているのです。自分の考えがなければグループ活動でも積極的に参加できないからという理由も想像がつきます。しかし、個人作業の段階で手がつかない子どもはその時間のうちに集中力を失くしてしまう恐れもあります(個人作業にこだわりすぎない参照)。
授業を見ていると、友だちの手元を見たり、相談を始めたりしています。子どもたちは、自分から相談できるようになっています。であれば、「どうしてもわからなければまわりの人に聞いてもいいよ」と相談することを許可したり、最初からグループの隊形で個人作業を始めて、相談しやすくしたりすることも視野に入れた方がよいと思います。

グループ活動では、子どもが考えるために必要な知識や情報は何かが意識されていない課題が多いように感じました。一部のグループが行き詰って活動が止まっているときに、教師がヒントを出しに行ったりしていますが、そうすると、結局安直に教師を頼るようになってしまいます。必要な知識や情報が意識されていれば、グループ活動に入る前に、見通しを持たせておくこともできます。途中で一旦活動をやめて、どのように取り組んでいるか過程を共有することで、必要な知識や情報を整理することもできます(グループ間格差をどうする参照)。
また、特定の子ども(班長?)が場を仕切っているように感じることがよくあります。わかっている子がこうだと一方的に教えている、説明している場面が目につきます。「わかれ」という説得型の活動です。そうではなく、「教えて」と聞く方が主体となって「わかろう」とする、納得型の活動を目指すことが必要です。「わからせる」ことではなく「わかろうとする」ことにより大きな価値を見出すのです。うまく説明できた、教えることができたということよりも、友だちの説明で理解できた、わかったことを高く評価するのです。

子どもが学び合うための土台が少しずつできてきたように感じます。土台をより強固なものにすると同時に、その上に何を立てるかという教科の課題や目標が問われるフェイズになってきました。これからが、本当に先生方が知恵を絞り工夫をするときです。学校のこの後の変化が楽しみです。

授業研究については日を改めて(授業研究から学ぶ)。

教科、分野の「見方や考え方」を明確にする

各教科で身につけさせたい力に、その教科における「見方や考え方」があります。授業を見ていて、その「見方や考え方」を意識した発問や活動になっていないと感じることがよくあります。教科の「見方や考え方」とはどのようなものか明確にして教材研究する必要があります。

たとえば理科の実験で身につけさせたい科学的な見方や考え方はどのようなものでしょうか。知りたいこと、疑問を解決するためには、どのような実験をおこなえばよいのか考える。仮説があれば、どのような結果が出るか予想する。結果から何が言えるか、言えないか考察する。その結果新たな疑問が見つかれば、その疑問を解決するためにどんな実験をすればいいのか考える。こういったものです。
地理的な見方や考え方であれば、国や地方の人々の生活や活動を地形、気候、時には歴史的な背景と関連付けて考えるといったことです。

その上で、教材を通じてこのような「見方や考え方」を身につけるために、どんな発問や活動が必要かを考えることが必要です。これらは、教材ごとに異なるのではなく、その教科、分野ごとにある程度共通のものにできるはずです。
一部の例ですが、理科の実験であれば、「どんな実験をすればこのことが確かめられる」「このほかにどんな実験をすればいい」、地理であれば、「どうしてこの地方ではこのような生活をしているのだろう」「同じような地理的条件のところに共通するものはなんだろう」、また数学であれば、「いつも成り立つの」「どうすればそのことが言える」「成り立たないのはどんなとき」、国語であれば、「本文のどこに書いてあるの」「この表現で筆者が伝えたいことは何」といった発問とそれに伴う活動です。

各教科の授業を通じていろいろな「見方や考え方」を身につけさせることが求められています。まず教科、分野ごとに身につけさせたい「見方や考え方」は何かを明確にし、それを身につけるための発問や活動を具体化してほしいと思います。教科、分野を通じて軸となる発問や活動ができることで、教材研究もよりスムーズに進むようになると思います。

「チェックする目」から「育てる目」へ

私が教師時代に生活指導を担当していた時期があります。女子のスカートの丈、靴下、男子の制服のボタン、生徒とすれ違うときには必ず服装をチェックしていました。もちろんルール違反がれば指摘をして直させます。私の姿を廊下の端で見つけると隠れる生徒もいました。いつの間にか私の目は、生徒を「チェックする目」になっていました。

学校を訪問して、笑顔が少ないと感じることがあります。その場合、かなりの確率で教師の子どもたちを見る目が、この「チェックする目」になっているのです。別の言い方をすれば、「悪いとこみつけ」です。規律を守れていない、できていない子どもを注意しようとする姿勢です。「チェックする目」はどうしても表情がかたくなります。教師の表情がかたければ、子どもたちも笑顔になりません。
「できない子どもを減らすのではなく、できる子どもを増やす」という発想を持ってほしいと思います。できる子どもを増やそうとすると子どもをほめることになります。できた子ども、できている子どもをポジティブに評価することで、他の子どももほめられようとまねをしてよい行動が広がっていきます。ほめることが、できる子どもを増やすのです。

学級の規律でいえば、できていない子どもより、できる子どもの方が多いはずです。たくさんの子どもをほめる機会があります。たとえできていなかったとしても、できるようになればほめることができます。できる子どもを増やそうとすれば、自然に多くの子どもがほめられ、学級の雰囲気がよくなっていきます。一方、できない子どもを減らそうとすると、特定の子どもばかり注意されることになります。できるようになるまで、集中的に注意をされることになります。できる子どもも友だちが注意をされる場面を見せられるのであまりよい気持ちにはなりません。学級の雰囲気が悪くなります。

「できない子どもを減らすのではなく、できる子どもを増やす」という発想で、子どもたちのできていないところを「チェックする目」から、できているところを見つけて「育てる目」に変えてほしいと思います。

教師が頑張ること

「今年の1年生は例年よりも学習に対してやる気がある。私たちも頑張ろう」という声がある学校から聞こえてきました。先生方もやる気を出しているのはよいことだと言えそうな気もしますが、何かしっくりきません。「子どもたちのやる気がなければ教師は頑張れないのか?」「そもそも子どものやる気のあるなしで教師のやることが変わるのか?」そんなことを考えました。

子どものやる気がなければ、やる気を引き出すために頑張って工夫する。教師の仕事とはそもそもそういうものです。そういう工夫をしなくても、最初からやる気があるのならそれはとてもよいことです。そうであれば、子どもたちをより伸ばすために次の工夫を頑張ってすれればいいのです。常に子どもたちの状況に応じて、必要なことをするだけです。もちろん子どもが意欲的だと教師も確かにやる気がアップすることは理解できます。そのやる気で何を頑張るかが実はよくわからないのです。

子どもの授業に対する集中力が高ければ、同じ授業でもより学力がつくことは容易に想像できます。そこに教師が頑張る要素は感じられません。子どもが意欲的なので演習量を増やすことができるのかもしれません。これも教師の頑張りを必要とすることではありません。やる気があるから宿題の量を増やしてもこなしてくれるかもしれません。ここで頑張るのは宿題の印刷なのか、それとも宿題のチェックなのでしょうか。子どもが頑張ることはいくらでも想像できるのですが、教師が今まで以上に頑張ることはなかなか見えないのです。子どものやる気に対して、量的な面で子どもを頑張らせることを教師の頑張りに置き換えているのであれば、それは違うように思います。

もし教師が頑張るべきことがあるのなら、子どものやる気を活かす授業を工夫することのように思います。子どもが集中して考えてくれるからこそ、より力のつく課題を考える。これは量的な発想とは次元の違うものです。教師が頑張らなければできることはでありません。また、ちょっと頑張ったからといってすぐに見つかるものでもありません。

子どものやる気に応えようという気持ちは決して悪いことではありません。しかし、安直に量的な面で子どもを頑張らせることに走るのではなく、やる気を活かすような課題を工夫するといった質的な面で応えてほしいと思います。

小学校で授業アドバイス

先週末は小学校で授業アドバイスをおこなってきました。今年度4回訪問させていただくことになりました。20代の若手を中心におこないます。

今回は空き時間の方と一緒に解説も交えて授業を参観しました。共通していたのは次のようなことでした。

・指示がまだ通っていないのに次の場面に進む。
・作業中に追加の指示をするので、徹底しない。
・友だちの意見を聞くことを意識させていない。
・作業が早く終わった子どもへの指示が予め用意されていない。
・一つひとつの場面で、子どもにどうあってほしいか意識できていない。
・挙手指名だけで進むので、わかった子どもしか参加できない。
・一問一答が多い。
・子どもの外化を評価しない。
・ほめる言葉が少ない。
・・・

授業規律がまだ十分に確立していないようでした。子どもたちも落ち着いていますので、今の時期であれば教師が意識をすればまだ簡単に改善できます。子どもをほめることで授業規律をつくるようお願いしました。

いくつかの面白い場面や気になる場面がありました。
授業中に前の席の子どもが身を乗り出して水槽を見ています。時々先生の方を見ます。授業者はそれに気づきました。ここで、すぐに注意をするかと思いました。この先生は、できていないことをチェックする視点で子どもたちを見ていたからです。しかし、何も言わずにその子どものそばに行きました。授業者の顔が笑顔になりました。飼育していた蝶が羽化していたのです。子どもはそのことを伝えたかったのでしょう。しかし、声を出して授業を中断するわけにはいきません。そこで先生に気づいてほしいとサインを送っていたのでしょう。授業者の笑顔がその子どもにはとてもうれしいものだったに違いありません。
授業者は中断しようかどうか少し悩みましたが、列ごとに素早く見るように指示をしました。私たちが授業を見ているので、あまり中断させたくなかったのでしょう。早く席に戻るように指示をします。「ちゃんと見えた?よかったね」「じゃあ、席に戻ろうか」と、まず見ることができたかを確認してあげてから、戻るように指示をする。こうすることで子どもたちも納得してもう少し素早く動けたかもしれません。
この先生には笑顔を増やすことと同時に、「できない子どもを減らそうとするのではなく、できる子どもを増やそうとする」ことをお願いしました。私の言いたいことはすぐに理解していただけました。とてもよい感覚を持っている方です。本人もきっと子どもをもっとポジティブな視点で見たいと思っていたのでしょう。
その日あった道徳の時間で意識して笑顔をつくってみたところ、子どもたちがとても集中してくれた。余裕を持つことができて、授業時間が短く感じられた。あとで、こう報告してくれました。すぐに実行する、とても素直な方です。よい手ごたえを得てくれたことをとてもうれしく思いました。

他の地区からこの学校に移ってこられた先生がいました。とても柔らかい表情でうなずき、子どもたちをとてもよくほめます。以前勤務されていたところは、生活指導面で大変な時期があった学校だったようです。その学校はそれを乗り越える過程で子どもたちを受容することを大切にしてきたのでしょう。この先生の姿はそのことの現れのように思いました。
子どもが発言する場面では、子どもをしっかりと見ながら話を聞きます。しかし、発言者だけを見ていて、他の子どもを見ることはしていません。子どもたちも先生を見ていて発言者を見ていません。子ども同士をつなぐことを意識して、学級全体を見るようにお願いしました。子どもたちとの関係をしっかりつくることができる方なので、視点を変えればすぐにできるようになると思います。

子どもたちが積極的に参加している国語の授業がありました。説明文の構成を考える場面で子どもたちが自分の考えを発表します。一生懸命考えたのでしょう。しっかりと友だちの発表を聞いています。授業者も、同じ考えの子どもがいるか確認をしているので、指名されなかった子どもも認められたと感じているのか集中力を切らしません。いくつかの考えが出てきました。どれが正しいのだろうと、子どもたちは真剣です。ここで授業者は説明を始めました。「・・・だから、これは・・・でなければいけない。だから、これは×」と一つの考えに大きく×をつけました。子どもたちの中から何ともいえない空気が漂ってきます。一緒に授業を見ていた先生は、一言「悲しい」とつぶやきました。子どもの気持ちになっての言葉でしょう。とてもよい感覚を持っている方です。説明が続くにつれて、今まで集中していた子どもの意欲がみるみる下がっていきました。ネガティブな評価は子どもたちの意欲を低下させることがよくわかります。
時間がかかるかもしれませんが、考えの異なる点を焦点化しながら子どもたちに説明させ、自分たちで結論を出させるようにしたいところです。友だちの説明を聞いてなるほどと思えば考えを変えてもいい。考えを変えたことを評価すれば、間違えていた子どもも決してネガティブな気持ちにはなりません。とはいえ、このような進め方は決して簡単ではありません。次の課題でしょう。

6年生の社会科で、遣唐使に関する川柳をつくる授業がありました。なかなか挑戦的な試みです。つくった川柳をグループで1つに絞り黒板に書かせます。書き終わったところで時間がなくなってしましました。川柳をつくらせたねらいを授業者にたずねると、出てきたキーとなる言葉を子どもたちに問い返しながら、知識の確認をしたかったようです。この授業は学年で共通に取り組んでいるようでした。よいチームワークだと思います。
川柳をつくるには遣唐使に関する知識が必要で、それを教える時間とつくる時間が必要なので時間が足りなくなった。どうすればよかったのかと質問をいただきました。ポイントは、知識は原則「教える」か「調べる」かしかないということです。どちらを選ぶかの判断が大切です。川柳をつくるのは子どもが主体の作業です。教師主体の「教える」ではなく子どもが主体となる「調べる」作業と一体化することで時間を節約することができます。ここで大切となるのは調べる必然性を、川柳をつくる作業の中に組み込むことです。たとえば、「教科書や資料集にある用語を必ず入れるように」といった条件をつくるのです。評価の基準も「用語をうまく使っていて、なるほどと納得できるもの」というように用語を意識したものにします。グループで一つに決めるということはせずに、「たくさん集める」「自分が一番いいと思ったものを選ぶ」「自分が選んだものに使われている用語を説明できるようにする」といったものにすることで、知識の獲得と川柳が結びつくと思います。発表も個人でおこないながら「同じ用語を使った人」とつなげていき、その用語がどこにあるか他の子どもに調べさせたりすることで全員が参加することが可能になります。このような展開を考えました。私にとっても学びの多い授業でした。

以前この市の他の小学校でも授業アドバイスをさせていただいたことがあります。その学校でも、初めて授業を見たときに基礎的なことができていないと感じる部分が多くありました。しかしその後、みるみる進歩していきました。先生方がとても素直で前向きだったことが印象に残っています。この学校の先生方もその点は全く同じでした。この市の先生方の特徴なのかもしれません。きっと同じように大きな進歩を見せてくれることと思います。次回の訪問が今からとても楽しみです。

いつものことながら、授業から大いに学ぶ(長文)

昨日の続きです。印象に残った授業がいくつかありました。
3年生の数学で、53×47を(50+3)(50−3)と和と差の積に直して計算する問題の答を発表する場面でした。指名された子どもが黒板に(53−3)(47+3)と書いてわからなくなってしまいました。授業者は誰か助けてくれないかと子どもたちに声をかけますが、反応がありません。子どもに助けを求めるのはよい対応なのですが、この場合どうすれば助けられるのか、答がわかっている子どもも戸惑っていたのだと思います。「助ける」が難しいときは、「気持ちをわかる」という問いかけが有効です。「○○さんがこの式を書いた気持ちわかるかな」と問いかければ、「50をつくりたかった」といった言葉が出てきたのではないかと思います。このキーとなる50を考えることで、正しい答を導くことができたのではないでしょうか。
授業者は誰に助けてほしいか聞きました。子どもに逆指名させようというわけです。これはかなり酷な判断を強いることになります。絶対大丈夫と思える友だちしか指名できません。そうでなければ、自分が指名した友だちに恥をかかせることになります。苦渋の判断は「先生」でした。子どもの気持ちがよくわかります。授業者は「先生は困るな・・・」と結局自分で指名しました。この時点で指名された子どもは「助ける」のではなく「正解を発表する」ことは想像できます。ここは「(50+3)ってどういうこと?」とか「(50+3)はいくつ?」「(50−3)は?」と問い返してあげるといった対応をしたかったところです。おそらく授業者は思いつかなったのでしょう。
案の定、指名された子どもは正解を板書し、「・・・すると、いい感じの数(字)になって・・・」としっかり説明しました。教師はよい説明をしてくれたのに子どもの反応が薄いことが不満でした。「よければ拍手するんだよ」と子どもたちに言います。この言い方では、教師がこの説明は拍手に値するから拍手をしろという強要になります。まばらな拍手が起こりました。なぜ子どもが拍手しなかったのかを考える必要があります。「助けて」という問いかけに、「正解」を説明したのでずれを感じたのかもしれません。それとも、説明がよくわからなかったのかもしれません。拍手をしない子どもたちに、「どう、納得した」「なるほどと思った」「どこがわからない」と問いかける必要があります。この拍手というのは、注意しなければいけない行為です。自分の確固たる意志のもとに拍手をさせないと、なんとなくみんながするからと考えなしに拍手するようになります。拍手をしたら必ず、その理由を問いかけないと、無責任な行為となります。「たくさん拍手してくれたね。理由を聞かせてくれる。○○さん」「よかったから」「どこがよかったの?」と迫ることで、しっかり自分で判断するようになります。拍手された方も形式的でなく、ちゃんと評価されたと感じます。こういった問いかけなしに拍手をするのであれば、しない方がましです。「いわんや、強要をや」です。
結局、最初の子どもの板書は虚しく残されたままで、だれにも助けてもらうことはできませんでした。心の中に何が残ったでしょうか。授業者の思いとは裏腹に冷たい授業になってしまいました。救いは、最初の子どもが席に戻った時に隣の生徒がすぐに身を乗り出して、説明していたことです。その光景は子どもたちの人間関係のよさを教えてくれました。
拍手の後、授業者は「いい感じの数」を取り上げました。ここからが数学です。どう展開するかと期待しましたが、あっさり次の問題に進んでしまいました。「いい感じの数ってどんな数」「いつもそうなるの」「どういうとき」と数学の授業の決まり文句で問いかけることで、2数のかけ算は必ず2乗の差にできること、2数の平均が「いい感じの数」になれば簡単に計算できることに行き着きます。感覚的な言葉をより明確な数学の言葉に昇華させる。常に成り立つことなのか、特別な場合だけなのか考える。数学的なものの見方・考え方を育てるよい機会でした。数学の授業に共通する問いかけをまだしっかり持っていないようでした。
笑顔で接する姿に、子どもたちを受容し活躍させたいという授業観が伝わってきます。このことは大いに評価できます。この授業観にそった授業を展開するための技術を身につけてほしいと思います。一方数学の教師としては、もう一度数学とはどういう教科なのかを問い直してほしいと思います。これからに期待したいところです。

教職2年目の社会の授業は、交通機関の発達を考える授業でした。導入で子どもに「どこへ行きたい?」と問いかけます。無責任に答えられる質問なので、どんどん声が上がります。子どものテンションは一気に上がります。いつものことなのでしょう。テンションを上げていく生徒がいる一方で、冷めた表情の子どもが目立ちます。特に女生徒が多いようです。時間をかければかけるほど状況は悪くなるのですが、5分以上も意味のないやり取りを続けます。一部の子どもがはしゃぐことが楽しい授業だと錯覚しているのです。主発問などは子どもが考えるような工夫をしています。こういうムダを切り詰めればじっくり考える時間をたくさん取ることができるのですが、残念です。こういう授業観を崩すのはなかなか難しいことです。
それに対して、ベテランの授業は対照的でした。ルネサンスの3大発明と当時の事件との関係を問います。「活版印刷は何と関係ありそう」という質問に、何人も声が上がります。子どもたちは「宗教改革」とつぶやきますが、決してテンションは上がりません。テンションを上げなくても、教師が取り上げてくれることを知っています。また、必ず理由を聞かれることも知っています。活発ではあるが、落ち着いて全員が参加する授業でした。

3年生の社会で挑戦的な授業に出合いました。太平洋戦争で「いつ戦争をやめれば原爆は投下されなかったか」という課題でした。子どもたちは考えることができるのだろうかと思って見ていましたが、しっかりと友だちと考えを伝えあっています。どんな考えが出るだろうと思って発表の場面を見ていました。「開戦時」「ポツダム宣言」以外にもいろいろな考えが発表されます。「レイテ沖海戦」が出てきたのにはびっくりしました。私の想像を超えていました。なかなかしっかりした根拠を述べてくれました。説明を聞きながら資料集のレイテ沖海戦のところを見ている子どももいます。発表の後、「同じところの人」と聞いたところ数人の手が挙がりました。その子どもの意見も聞きたいところですが時間が足りませんでした。黒板には整理しやすいように時間軸が引いてあり、開戦と終戦が書き込まれています。理由を書く欄もあります。しかし、あえて板書しませんでした。ここはしっかり友だちの話を聞いて考えてほしいと思ったからでしょう。子どもたちに考える力をつけようとしていることがよくわかります。少しずつ子どもが育ってきている手ごたえを感じます。今回は、なかなか全員がすぐに自分の考えを持てないような課題です。ここは途中でいったん発表させ、いくつかの考えを焦点化してから再度考えさせるとよかったかもしれません。そうすることで考えを持てなかった子どもに手がかりを与えられますし、持てた子どもも友だちの考えと比較しながらより深く考えることができるからです。授業者にはこのことを伝えました。少しでもよい授業がしたいという授業者の思いが伝わりました。どのように進歩していくか今年もっとも楽しみにしている先生の一人です。

理科の葉緑体の観察の授業でした。授業者は葉緑体の説明をした後、実験の説明に入ります。顕微鏡を使ってオオカナダモを400倍で観察すると葉緑体が見えることを伝えて観察にはいりました。子どもたちは机を移動してグループになり顕微鏡の準備をします。しかし、どうにも動きが遅いのです。理由はわかります。意欲がわかないのです。観察する前からその結果はわかっています。観察から新たな何かを見つける、知ることはありません。教科書や資料集に載っている写真を見ることと何ら変わりないのです。
「葉っぱは緑だけれど、中まで全部緑?本当?」と問いかけ、「どうすれば正しいかわかる?」と予想から実験や観察を考える。「観察していくつのことに気づけるかな」と課題を与え、「みんなが見つけたことから何が言えるかな?」と問いかける。このような理科的なものの見方や考え方を意識した展開を考えてほしいところです。授業者もちゃんとそのことに気づいて反省していました。自分で気づく力があるから大丈夫です。毎日の授業を大切にし続ければきっと大きく進歩することでしょう。

2年生の酸化銅の実験でした。子どもたちの様子が落ち着きません。雑然としているのです。4人グループですが2人ずつ横一列に並んでいます。その間には水詮があります。2+2に分離しているのです。実験器具は一方に置いてあります。当然のことながら実験器具のない方の生徒の集中力がありません。多くは女子生徒でしたが、授業に関係のないムダな話をしています。教室全体に緊張感がありません。実験の注意や指示はどこにも書いてありません。おそらくワークシートか実験ノートのようなものを使っているのでしょう。しかし、子どもたちはそれをしっかり見ながらやっているようには見えません。「事故が起こってもおかしくありませんね」と同行していた先生にこえをかけようとした時です。「熱っ」という女子の声が聞こえました。試験管の熱した側をうっかり持ってしまったのです。授業者はそれを見て「熱いに決まっている」と言っただけでした。今度は反対側を持って試験管の中の酸化銅を取り出そうとします。ところが中身をだそうと試験管の先を机にあてたところ、試験管が滑って熱いところをつかんでしまいました。思わず試験管を放り出しました。試験管に残っていた酸化銅が床にこぼれました。試験管を放り出したのでよかったですが、割ってはいけないとしっかり持てばやけどをするところでした。授業者は雑巾で床をきれいにするように指示をしました。女生徒は2人で床を拭きます。その指示を出したすぐあと、実験をやめて前を向くように全体に伝えました。全員が前を向いてから、まだ掃除をしている2人に席につくように指示しました。ちょっと驚きです。今年初めて教壇に立つ講師ですが、それにしてもなんと冷たい対応でしょう。そのことに気づかないのでしょうか。ちょっと悲しくなりました。直接話す時間は取れませんでしたが、準備室にいた先輩にこのことを伝え指導をお願いしました。講師の場合、初任者のような研修の機会はほとんどありません。安全に配慮の必要な教科は特に何らかの指導や研修の機会を設けることが必要だと強く感じました。

英語の授業で面白い場面に出合いました。T1とT2が教室の前後でペアの会話をチェックしていたのですが、子どもたちの様子が大きく違っていたのです。T2のところでは、子どものテンションが上がってうるさいくらいです。とにかく声を出すことしか意識していません。一方、T1の方では子どもは教師にきちんと聞いてもらおうと集中して取り組んでいます。どこが違うのでしょうか。T1は柔らかい表情で子どもたちの一言一言にうなずいています。先生がちゃんと聞いていることが子どもたち伝わります。教師が子どもを見る、受け止めることの大切さがよくわかる場面でした。このT1の机間指導も特徴があります。歩きながら何度も後ろを振り向くのです。死角をなくす。子どもたち全員を見る。そのことを徹底しているのです。5年目の教師ですが、ベテランでもなかなかできないことです。若手の成長を見ることができることはとてもうれしいことです。

1年生の英語で、thisとthatを学習する場面でした。ボールなどを使いながら、”This is my ball.” ”That is your ball.”とsituationを英語で表現します。日本語で”this”は「これ」、”that”は「あれ」などとは説明しません。子ども自身に気づかせようとしています。とてもよい指導だと思います。一人の生徒が「わかった」と言いました。「近いときが”this”だ」という説明にみんな納得です。子どもの集中度がぐっと上がりました。とてもよい場面でした。しかし、英語の授業としては、日本語で説明させるよりsituationごとに正しく言えるか確認するにとどめた方がよかったかもしれません。それを見せることで他の子どもにも自力で理解する機会を与えることができるからです。残念だったのは、”this”と”that”の違いがわかった後、教師がボールを持って”This is my ball.”といった後、子どもたちにも”This is my ball.”と言わせたことです。ここは”That is your ball.”と言わせたいところです。とはいえ、英語を日本語に直して理解するのではなくsituationで理解させようとする姿勢は立派だと思います。聞けば、GDMの講座に参加したりもしているそうです。学ぶ意欲のある方です。今後に期待したいと思います。

毎月訪問している学校ですが、毎回学ぶことがたくさんあります。いつものことですが、授業は奥深いことをあらためて感じさせられます。このような機会を得られることに、感謝です。

授業参観で面白い場面に出会う

昨日は中学校で授業参観とアドバイスをさせていただきました。中間試験も終わり、校外行事等を控えて子どもたちが浮つきやすい時期です。ゴールデンウイークのころと比べて子どもたちがどう変わっているかとても楽しみでした。

3年生はさすがに落ち着いているのですが、授業によっては一部の生徒の集中力が落ちていたり、意欲が感じられなかったりする光景を目にしました。もう少し後から頑張ればいいと考えているのでしょうか。それとも、ついていけなくなっているのでしょうか。一時的なものならよいのですが、今後どのように変わっていくのか気になるところです。

2年生は4月のころの、1年生のような新鮮な気持ちで授業に向かっている姿は見られなくなっていました。新しい先生にも慣れて授業によって見せる姿が変わってきています。教師が一方的に説明する授業では、明らかに聞いていない、集中力を失くしている子どもが目立ちました。説明の多い先生はテンションが上がりやすく、テンションが上がると子どもが見えなくなります。そのことも関係しているのでしょう。

1年生ですが、面白い場面にいくつか出会いました。
子どもたちが板書を写さず先生の話を聞いている場面を目にしました。今何をするべき時かきちんと伝わっていると感心しました。ところが集中力の変化が激しいのです。全員顔をしっかり上げて聞いていたかと思うと、下を向いたりボーっと視線が泳いだりします。その理由はすぐにわかりました。先生が黒板の方を向いて話すと集中力が下がるのです。似たような傾向は説明中心の授業に多く見られました。外からであればこのことはよくわかりますが、授業者は死角で起こることなので気づきにくく、見過ごされやすいことです。子どもたちのこの行動はちょっと気になります。目立つほどに切りかわるのは、教師の顔色をうかがう傾向があるのかもしれません。もしそうであれば、教師の見ていないところでトラブルを起こしやすい可能性があります。

異なる3つの学級での書写の時間です。黒板には何も書かれていないのでどのような指示があったのかはわかりませんが、子どもたちは淡々と書きつづけています。集中力が続かない子どもも出てきます。子どもたちの書に向かう姿勢はばらついています。明確な目標や途中での評価がないと、なかなか集中は維持できません。ところが1つの学級は非常に集中度が高いのです。たまたま授業の前半だからなのだろうと思ってようすを見ていると、案の定集中力を失くす子どもが出てきます。最初はそろっていた子どもたちの姿勢がバラバラになっていきます。他の学級と同じ状態になるかと思っていると、スーッと集中力が戻っていくのです。気がつくと最初の状態に戻っています。これはすごいことです。試験の成績もよい学級ということですが、これはこれでちょっと怖い気もします。先ほどの場面などとあわせて考えると、やはり教師の顔色をうかがっている可能性があります。いや、それはちゃんと空気が読めているのだからいいという考えもあります。否定はしません。しかし、教師の働きかけや影響下で育ってきた結果でないとすると、何かあった時に教師がコントロールできない可能性があります。この学級がこの後どうなっていく気になるところです。次回の訪問時には集中して見てみたいと思います。

また、ある学級で授業による子どもの姿の違いに面白いものがありました。担任の授業ではほぼ全員が挙手します。答えやすい問題だったのかもしれませんが、どの子も笑顔で参加しています。次の授業では、同じく多くの子どもがわかっているはずなのに挙手は数人です。とはいえ、先ほどの授業ほどではないにせよ、それほど表情は悪くありませんでした。ところが3つ目の授業は、子どもたちの表情も悪いのです。面白くなさそうで集中していません。この違いは何でしょう。担任の授業では、人間関係ができているので子どもは安心して参加しています。次の授業は、おそらく挙手して発言することに安心感がないのです。教師が正解不正解を判断する一問一答式であることが影響していそうです。3つ目は教師が一方的に説明している場面だったので、受け身の時間が長いことが原因でしょう。ここで気になるのは、このような姿の違いに授業者は気づけないことです。3つ目の授業でも子どもたちは表面的には落ち着いています。比べてみなければ、特に問題と感じない可能性が高いのです。早目に修正していかないと学級経営、学年経営に支障をきたすことになります。

多くの先生が入れかわっても、「子どもたちを活躍させよう」「できるだけ受け身にさせないようにしよう」という授業を目指す先生がまだまだ多い学校です。そういう授業が一定数あると、説明中心の授業は子どもにとってなかなか受け入れられないものです。説明中心のスタイルでやってきた先生にとっては、今までやれたことが上手くいかない、やりにくいと感じる学校です。この日一緒に回った先生の一人もそのように感じていました。しかし、難しく考える必要はありません。

・子どもに身につけさせたい知識と考えさせたいことを明確に分ける。
・知識は教えるか調べさせる。
・考えさせたいことは教師が説明するのではなく、できるだけ子どもの発言で進める。
・その時間をつくるために、子どもから出てきたことを教師が再度説明しない、まとめようとしない。
・子どもが安心して発言できるように、正解不正解の判断を教師がしない。間違えても本人に修正させる。
・子どもの「うなずく」「首をかしげる」「つぶやく」といった反応をとらえて、「いまうなずいてくれたね。どういうことかな。聞かせてくれる」というように発言につなげる。

こういうことを意識すればいいのです。子どもたちはそういう授業に対する慣れがあるので、ある程度経験のある教師であれば、その気にさえなれば意外とできるものです。要は挑戦してみようとすることが大切なのです。

前回訪問時の現職教育では、子どもの発言の途中で板書をしないといった基本的なことを話しました。うれしいことにその時話したことを意識して取り組んでいるという言葉を何人もの先生から聞くことができました。素直で前向きな先生方です。授業による子どもたちのブレがよい方に揃っていくことが期待できそうです。

個々の授業で感じたことは明日にでも。

ホームページから学校経営の姿勢を知る

ある市の研修の講座の担当者からメールをいただきました。その担当者の所属は、私が5年間授業アドバイスをしている学校でした。今年度はまだおじゃましていないので、今どんなようすなのだろうとホームページを覗いてみると、そこには子どもたちの笑顔があふれていました。特別な日ではなく、日々の学校生活の中での光景です。うれしくなって、気がつけば今年度のすべての記事をチェックしていました。1日に何度も更新されているので結構な量ですが、写真が中心なのでそれほど時間はかかりません。アクセス数もかなりの数です。私が見ても楽しいのですから保護者ならなおのことでしょう。

この学校に初めておじゃました時のことを今でも覚えています。朝から1日中学校を回って授業を参観しましたが、笑顔には1つか2つしか出会えませんでした。子どもも先生も難しい顔、厳しい顔をしています。笑顔のない、俗にいう荒れた学校でした。そんな学校が今では子どもも教師も笑顔にあふれています。偶然のシャッターチャンスに頼っていては、これほどのたくさんの笑顔は撮れません。明るい学校に変わったことがよくわかります。先生方の努力が実を結んだのです。

子どもたちの姿だけでなく、校長の式辞やメッセージもたくさんあります。オープンスクールでは、事前に見どころも紹介しています。訪問していなくても学校のようすが手に取るようにわかります。昨年の9月にリニューアルしてから半年余りで素晴らしホームページになっていました。
これだけ短期間で充実したホームページをつくり上げることができたのは、担当者をはじめ、校長や多くの先生方の努力があったのはもちろんですが、某有名校のホームページを参考にしたことも大きいようです。よいと思うものはためらわず取り入れる。そんな学校経営の姿勢が伝わってきます。昨日の日記(他校の取り組みをどう見るか)に書いたように、他校のよい取り組みを積極的に取り入れることで、スピード感のある学校経営が可能になります。妙に自校の独自性にこだわるより、いろいろな学校のよい取り組みを取り入れることで、よほど個性的な学校に生まれ変わると思います。

ホームページは学校経営のための大きな武器であると同時に、そこから学校経営の姿勢も読み取れるものだとあらためて気づかされました。7月にこの学校でおこなわれる市の算数数学教育研究会の授業研究に参加します。子どもたちと先生のどんな笑顔に出会えるか今からとても楽しみです。

他校の取り組みをどう見るか

研究指定校でなくても、新しい取り組みをしている学校がたくさんあります。よい取り組みであれば、他校の保護者は自分の学校でもと願い、学校関係者は自校でもやれそうなことであればやってみようと思う。そこに矛盾はないようなのですが、保護者と学校関係者では若干とらえ方が違うようなのです。

以前は学校の取り組みを他の学校の保護者が知ることはほとんどありませんでした。ところがネットの発達で状況が変わってきました。ホームページを見ればその学校がどのようなことに取り組んでいるのかすぐにわかります。ある方が教育長時代に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」とおっしゃっていたことを思い出します。市町を超えて、面白い学校のホームページを見ている方が増えてきているように思います。毎日のアクセス数が保護者の数を超えている学校もあります。電子メールなどを使っての保護者同士の情報交換もあたりまえのことです。さて、こうなってくると「よい取り組みを我が校でも」というプレッシャーが学校にかかってくることになります。これは学校にとってよいことのように思います。学校側だけで考えるより、保護者からこうしてほしいと言ってもらえた方が、同じ土俵で学校運営を考えることもでき、協力体制がとりやすくなるように思えるからです。何もすべて取り入れる必要はありません。学校ごとに状況は異なるのですから、取り入れるべきは取り入れ、無理なことであれば無理といえばいいのです。要はしっかりと説明責任を果たせばよいことです。ところが、なかなかそうはいかないようです。学校には慣性力が大きく働くので変化への抵抗が未だに強いのかもしれません。保護者や外部からの圧力で変わることへの抵抗感があるのかもしれません。

どうやら後者の方が要素として大きいのではないかと最近は思うようになりました。というのは、よい取り組みを自ら取り入れようとする学校が増えているように感じるからです。ある学校で見た取り組みをよその学校でも目にすることがよくあります。よい取り組みがあれば紹介してくださいということもよくお願いされます。今の時代、学校は変わらなくてはいけなという意識は高くなっているのです。
では、外部の圧力で変わることへの抵抗感があるというのはどういうことなのでしょうか。私がこう感じる理由は、冗談交じりで「○○さん(いろいろと新しいことに挑戦している校長)、もう少しのんびりやってよ」といったことを聞くからです。研究指定校にはどんどん先進的に取り組むように言う教育長でも、自主的な取り組みに対して、市町全体のバランスを考えてほしいということをにおわせることもあります。
自分たち主導で変わることはいいのですが、外部からのプレッシャーはどうも好ましくないようです。外部の圧力で変われば、どんどん要求が増えてくる。理不尽なものも出てくるのではないか。そう考えるのかもしれません。確かに、マスコミの情報や中途半端な知識で流行の教育法を取り入れてほしいといった要求があることもあります。その学校にとっては取り入れ難いことでもきちんと説明して、代替案を示せば間違いなく納得していただけます。取り敢えず意見を聞いて試してみて、その結果を一緒にきちんと検証してもよいでしょう。保護者をうまく巻き込み、協力体制をつくれば、学校としてもメリットが多いはずです。

新しい取り組みが成果を上げ、取り入れる学校がどんどん広がっていくことはとてもよいことです。学校が自ら取り入れるのか、保護者からの願いで取り入れるのかといったことはどうでもよいことのように思います。それは単なるきっかけであり、いずれにしても保護者の合意を得、巻き込みながら進めていくことが求められるはずです。新しい取り組みを応援し合い、互いに参考にしながらすべての学校がよりよい方向に向かっていくことを願います。

教師のねらいに近い考えをどう深めるか

子どもが発表した考えが不完全ではあるが教師のねらいに近いものだったとき、どう対応しますか。気をつけてほしいのは、教師が足りないことをつけ足しながら自分で説明しないことです。たとえその子どもの考えをほめても、子どもはそれが教師の求める答に近いからほめられたのであって、発言は教師の求める答かどうかをチェックされる場だと感じてしまいます。自分の考えを発言することに価値を見出さなくなり、教師の求める答探しを始めるようになってしまいます。
大切なことは、子どもたちでその考えを深めさせていくことです。そうすることで、子どもたちの自己有用感が高まり、授業への参加意識も高まります。そのためには子どもの言葉で考えを発表させていくことが必要になります。では具体的にどのようにしていけばよいのでしょうか。

大きくは2つの方法があります。本人に返すか、他の子どもにつなぐかです。いずれにしても、まず子どもの発言をしっかりと受容する必要があります。その上で、発言をどう判断するかです。本人の言葉や考えがまだ明確になっていない、整理できていないと感じたときは、その点について「○○ってどういうことかな。もう少し聞かせてくれる」と問い返します。本人の言葉で考えが明確になれば、「なるほど。みんな今の考えどう思った。納得した」と全体につないでいきます。注意してほしいのが、考えが整理できなくて教師のねらう考えに近づかなくても執拗に問い返し続けないことです。子どもは教師の期待する答があるのだと感じ、自分の言葉がそれとずれていると気づきます。結果、教師の求める答えを探すようになり、自分の考えを言わなくなってしまいます。無理をしないことが大切です。

発表者の考えが明確になっている時や、これ以上問い返しても追いつめるだけだと判断した時は、他の子どもにつなぐことになります。最初の発言者の考えを深める方向の意見が出るように意識することが必要です。この時、「他の人はどう」というような聞き方は、注意が必要です。子どもたちが育っていなければ、違う考えを言わなければいけないと思うからです。もとの意見を深めるためには、「同じように考えた人いる」と近い考えの人に意見を求めるのが基本となります。ここで「○○さんはどう」と指名した時に、子どもが「同じです」と答えるときがあります。「同じです」という答えは原則として許さないことが大切で。「同じです」を許すと漠然と同じだなと思うだけで、自分の考えはどうであるか整理されないままになってしまいます。その時は、「もう一度言ってくれる」と自分の言葉で言い直すよう求めます。全く同じことを言うことはまずありません。少し違った表現や、言葉が足されることが起こります。そこをとらえて、「○○さんは、・・・と言ってくれたね」「・・・と付け加えてくれたね」と教師が評価したり、「○○さんは少し付け加えてくれたと思うんだけど、どう」と他の子どもに異なっているところや付け加えたことを発表させたりします。
ここで、発表者の考えを明確にさせるために、「同じです」に対して、「どこが同じか教えてくれる」と問い返してもよいでしょう。その上で「違うところはある」と違いを意識させるのです。こうすることで、たとえ同じようでも、自分の考えと友だちの考えをきちんと比較して整理するようになります。
こういった方法の問題は、「同じように考えた人」しか発言できないことです。近い考えを出させたいときは「今の考えなるほどと思った人」と問いかける。反対意見が出ることも視野に入れた上で「今の考えどう思ったか聞かせてくれる」と広く意見を求める。このような問いかけを使うことも必要になります。
また挙手だけに頼らず、子どもの表情や反応を見て指名することも大切です。うなずく子どもがいれば、「今うなずいていたよね。どういうことか教えてくれる」と問いかければ、間違いなく関連した何かを話してくれます。指名された子どもは教師が自分を見てくれていることを知り、安心して授業に参加するようにもなります。
意見をつなげていくことで、全体が考えを深めてきたと感じる時は、周りで意見を聞き合うことや、グループにすることも有効です。自分の考えが深まってくると発言したくなるものです。挙手や指名では一部の子どもしか発言できないので、どの子どもも発言できる機会をつくるのです。

いずれの方法にしても、子どもの発言のよい部分や足りないところを焦点化しながら、子どもたちの言葉で整理し深めていくことが必要になります。

教師のねらいに近い考えだからこそ、子どもたちに自身で深めさせたいものです。どの方法が正解というわけではありません。発言の内容や子どもの状況によって選択することが大切です。そのためには、教師が対応の方法をいくつか持っていることが求められます。日ごろから子どもの考えを深める方法を意識して授業にのぞんでいただきたいと思います。

子どもは教師を見透かしている

昨日仕事でお会いした方から面白い話をお聞きしました。
その方は小学校の早い段階で、授業でほとんど発言しなくなったそうです。その理由を聞くと次のようなものでした。

授業で先生の質問に対して、先生の求める答を言わなければならないというプレッシャーがある。たとえ先生が間違いと言わなくても、表情から「ああ、先生のほしい答じゃなかったんだ」とわかる。その表情を見ると何も言えなくなってしまう。

先生は間違いと否定せず、子どもが安心して発言できるようにしているつもりなのでしょうが、子どもには見抜かれているようです。どんな発言に対しても、いつも笑顔でうなずくことの大切さがわかります。子どもの間違いを含む多様な発言を楽しむ、喜ぶ姿勢が求められるということです。

また、このようなことも話されました。

授業参観や他の先生が見に来るようなときは、いつもは指名しない子どもにも発言の機会を与える。ああ、今日は特別なんだなと思う。いろいろな子どもの意見を聞くことはいいことだけど、普段はめんどくさい、進むのにじゃまだと先生が思っていることがよくわかる。そんな特別なときでも、いつも何を言っているのかよくわからなくなる子はやっぱり指名しない。先生は、その子が授業のじゃまになると思っていると感じた。

どうでしょう。何も反論できません。こうして子どもは教師を信頼しなくなっていくのです。学校の勉強は嫌いだったと言われる理由がよくわかります。この方が特別なのではありません。どの子も同じように感じていたようです。
教師は子どもには自分の思惑はわからないと高を括っているのかもしれませんが、子どもは教師のことを見透かしているのです。あたりまえのことですが、子どもだからと見くびらず誠実に対応することがとても大切なのです。子どもにとって保護者以外に接する大人は教師以外ほとんどいません。その大人の代表が子どもに見透かされるような態度をとっていては、大人全体や社会が子どもの信頼を失くしてしまいます。
子どもは私たちが思う以上にちゃんと教師を見ている、気持ちを見抜いていることを忘れてはいけません。このあたりまえのことを改めて気づかせていただきました。

最近の授業アドバイスへの思い

子どもが全員聞く体制になってから話をしましょう。
友だちが発言しているのに板書を写している子どもには、書くのをやめてしっかり聞くように指導しましょう。
黒板を見て話をしない。子どもを見て話をしましょう。
子どもが作業しているときは、しっかりその様子を見ましょう。
子どもの発言はきちんと評価しましょう。
子どもの発言は、笑顔で受容しましょう。

これはこの1月あまりの授業アドバイスの内容です。新人か若手へのアドバイスに思えますが、実はそうでもないのです。ベテランでもこのようなことがきちんとできない人が目立つのです。これはどういうことなのでしょうか。基本的なことができていないままに経験年数だけが増えたのでしょうか。これは私の想像ですが、経験の中で話術といった授業技術をそれなりに身につけてきたので、こういった基本をきちんとしなくても、とりあえず子どもが席についておとなしく授業を受けてくれるようになったからではないでしょうか。指示一つとっても、きちんと確認するには少し待つ必要があります。限られた時間の中できるだけ早く授業を進めたい。そういう気持ちが、その少しを待てなくしているのです。4月5月の時期は基本的な学習規律を確立する時です。ここを雑にすると、今はよくてもちょっとしたことですぐほころびが出ます。ベテランでも例外ではありません。たまたま今まではうまくいっていたとしても、今年は崩れるかもしれないのです。
この傾向は、学校がそれなりに落ち着いているところで目立ちます。子どもたちに手がかかる学校では、こういった基本をおろそかにするとすぐに授業は成立しなくなります。手は抜けません。時間をかけて立て直した学校でも、喉元過ぎて熱さを忘れてしまっていることもあります。
基本的なことをきちんとしておかないと、教室の雰囲気はじわじわと緩んできます。学校全体が落ち着かなくなるのは突然ではありません。その前兆として、あたりまえのようにできていた基本的なことができなくなってきます。子どもがあたりまえのことができなくなるその裏には、教師が基本的なことに手を抜いているという事実があるのです。

私のアドバイスは先生方の耳に届いたでしょうか。そんなこと気にしなくても、ここの子どもたちは大丈夫。いざとなればちょっと締めればなんとかなる。そんなことを思われていないことを祈るばかりです。

家庭での子どもの居場所づくりを考える

「子どもの居場所をつくる」ということがよく言われます。安心して過ごせる場所があることは、子どもが安定した精神状態で暮らすためにはとても大切なことです。当然のことながら、学校にも家庭にも居場所があることが望まれます。学校では、不登校対策という側面も含めて子どもの人間関係をつくることや子どもの自己有用感を高めることを意識するようになってきました。授業で子どもの発言や反応を受容し、たとえ不正解でもポジティブに評価して子どもが安心して参加できることを目指す教師も増えてきました。一方家庭ではどうでしょうか?

私が思春期の子育てについて講演をするとき必ずお願いするのが、家庭での居場所をつくるために子どもの自己有用感を高めることです。
子どもがよい成績を取ると「よい成績でうれしい」とほめる。成績が悪かったり、失敗したりした時に、「あなたはダメだ」と叱る。一つ間違えると、親の期待に応えることが愛情を得られる手段だと考え、子どもはプレッシャーを感じます。自己実現が親の期待に応えることになってしまうと、期待に応えられない自分を否定的にとらえてしまいます。「頑張れ」という励ましもかえって子どもを苦しめることにつながります。大切なのは、「何があっても、あなたを大切に思っている、愛している」と伝えることです。間違いや失敗を指摘し、叱ることはとても重要です。しかし、子どもの人格そのものを否定してはいけません。何があってもその子どもの味方であるというメッセージを送ってほしいのです。

子どもに家族の一員であること実感させることも大切です。そのためには家族の中で自分の役割があることが大切です。最近ではあまり聞かなくなりましたが、「あなたの仕事は勉強だよ」というのは、勉強でしか評価しないというプレッシャーにしかなりません。風呂掃除1回につきいくらというのも、間違っています。自分の行為がお金という価値に置き換わってしまうからです。家族のために役立っているという自己有用感にはつながりません。サボっても家族が困るとは考えません。お金がもらえないだけなのです。
食べ終わったあとの食器を流しまで持っていくことでもいいのです。それに対して、「助かるわ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることが大切なのです。家族の一員として自分が役に立っているという自己有用感が必要なのです。

また、保護者に求められるのは子どものよき聞き手になることです。もうそろそろ大人に近づいたのだから「自分で考えなさい」と突き放すのも、まだまだ子どもだから「こうしなさい」と指示するのもちょっと違います。子どもの言葉をしっかり受け止め、「どうしようかな」と一緒に考える姿勢が必要です。叱るときも「あなたの・・・がいけない」とYOUメッセージではなく、「あなたのしたこと残念、悲しい」とIメッセージで伝えるようにすることを意識することが大切です。

こういったことをお話しするのですが、ありがたいことにとてもよい反応・評価をいただけます。しかし、これは私が伝えるまで保護者の方が意識してこなかったことなのでしょうか。もしそうだとすればこれは問題です。学校は家庭に子どもの居場所があることを願っているはずです。であれば、そのための働きかけをするべきではないでしょうか。家庭の問題だから学校がかかわることではないと考えているのでしょうか。「子どもの居場所をつくってあげてください」とただお願いすれば、それでよいと思っているのでしょうか。
私は、子どもの居場所をつくるための具体的な方法を伝えることの大切さを先輩から学びました。まだ子どももいない私でしたが、担任として保護者の方にここで述べたようなことを、失礼を承知でお願いしてきました。

家庭と連携して子どもを育てるとよく言います。であれば、学校として子育てを応援するためのことをもっと意識してもよいのではないでしょか。子どもとの会話のきっかけになる話題の提供。親が子どもを認め、ほめるために、一人ひとりのよいところを通知表や通信で伝える。こういうことが求められると思います。
ホームページで子どもたちの頑張りやよさを発信する。校長通信や学級通信を使って、固有名詞で子どものよいところを紹介する。学級担任だけでなく教科担任や部活動の顧問が、子どもたち一人ひとりの「いいとこ見つけ」をして、それを一人ひとりに印刷して配る。保護者面談で、子どものよいところをたくさん伝える。具体的な方法はたくさんあると思います。
学校での居場所だけでなく、子どもたちの家庭での居場所づくりを学校にもっと意識してほしいと思います。

文部科学省で審査員を務める

昨日は文部科学省に「学校の総合マネジメントの強化に関する調査研究」の審査員としておじゃましました。応募者の説明を聞き、質疑応答を終日おこなったのですが、とてもよい経験をさせていただきました。

感心したのが審査員に対する準備です。筆記用具や付箋、メモ用紙も机上に用意されています。付箋はサイズの違うものが、筆記用具も色違いのボールペン、鉛筆に消しゴムもあります。こういったことは当たり前のことで特筆すべきことではないのかもしれませんが、相手意識を持った対応だと思いました。見習いたいことです。

審査の内容については詳しく書けませんが、学校マネジメントといっても、本当にいろいろな視点、切り口があるのだと思いました。また、応募者の属性によっても受ける印象が異なることも面白く感じました。大学の研究者はその調査研究に対しての思い入れが強く感じられます。シンクタンク系はクールで、その必要性を論理的に伝えようとします。企画書としては後者の方がわかりやすいのですが、前者も訴えるものがあり、どちらがよい、悪いというものではありません。研究者の世界にもいろいろなスタイルがあるということです。
他の審査員の方の質問やコメントも私にはない視点がたくさん含まれていて、とても勉強になりました。

この審査を通じて感じたのは、文部科学省の思いです。この調査研究が現場の学校マネジメントの強化に役立つかどうかを一番に考えています。そこには自分たちが指導して学校を変えてやるといった上から目線ではなく、現場の役に立つという支援の姿勢が感じられました。担当者の方も、学校現場の大変さを知っている、知ろうとしていることが言動の端々から伝わります。私が現場の教員であったときに感じた文部省のイメージとは全く異なる姿です。組織として感じることと個人の印象の違いなのかもしれませんが、実際に私がお会いする文部科学省の方々に共通する印象です。現場の先生方の文部科学省に対するイメージは、今でも私が感じていたような「上から押しつけてくる」といったものだと思います。このギャップが埋まってほしいと思いました。

この日1日、いろいろなことを考え学ばせていただくことができました。このような機会を得られたことに感謝です。

読み物資料を活かした道徳授業を考える

先週末、本年度第1回の教師力アップセミナーに参加してきました。貝塚市立木島小学校長川崎雅也先生の「共感・感動で心をはぐくむ」というタイトルの読み物資料を活かした道徳授業のお話でした。

川崎先生の、「心は具体的な行動によって見える」という考え方は大いに納得できるものでした。登場人物の行動からその心に迫るという手法は、読み物資料を活かすための大切な視点だと思います。
 川崎先生の考える道徳授業の流れは、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」「道徳的問題点とその変化を考える」、最後に「生き方を考えることにつなげる」というものです。読み物資料を活用する基本は、主人公(登場人物)があることをきっかけに生き方(ありよう)が変わる場面を中心にその心の変化を深く掘り下げることにあります。そのためには、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」といった資料の読み取りの部分はできるだけ時間をかけず、主人公の変化を考えることに時間を使うということを強く主張されました。しかし実際には、まるで国語の授業のように読み取りに時間をかけ、肝心の主人公の変化を深く考える時間がほんのわずかしかない授業に多く出会います。深読みすれば、子どもたちに深く考えさせることができないので、そこに時間をかけてもすぐに終わってしまうからなのかもしれません。

川崎先生は、この主人公の気持ちが変化する場面でかかわる登場人物を助言者と呼んでおられました。この助言者とのかかわりを通じて、主人公の気持ちを問いかけ、子どもの考えを深めていきます。この時、子どもの考えは、大きく3つに分類できます。
1つは、自分の行動の反省(過去)、次に他者(助言者)への気持ち(現在)、3つ目が次の行動(未来)です。特に最後の「次の行動を考える」ことが、子どもたちに自分がどう生きるかを考えさせることにつながる一番大切な部分です。子どもたちにそこまで考えさせなければ、道徳の授業としては薄いものになってしまいます。
また、子どもたちに深く考えさせるためには、映像でなく読み物であることが大切だと言われます。読み物は書かれていないことを想像するよさがあります。登場人物の表情が書かれていないからこそ、子どもたちはその時どんな表情をしていたのか考えます。これが絵やビデオであれば、顔が見えてしまえば終わりです。子どもによって異なる考えも生まれません。リアルなだけにかえって表面的になってしまうのです。読み物資料の「書かれていない姿が見える」よさを活かそうと意識して授業をつくることが大切であると感じました。

川崎先生は読み物資料のよさを活かしながら、子どもたちの考えを深める場面を見事に模擬授業で示してくださいました。どんな意見も「いいですね」とほめしっかり受容します。順番に指名しながら時には、「えー、○○じゃないの」と突っ込んで、より多くのものを引き出します。受けと切り返しの技術の素晴らしさに感心しました。ほめることで、どの子も安心して発言できる雰囲気がつくられます。順番に指名することで次は自分の番だとプレッシャーをかけ子どもたちに考えざるを得ない状況をつくります。たくさんの考えを聞かせることで、一人ひとりの考えを深めていきます。ここぞというところでは、教師が説明するのではなく切り返すことで、子どもたちの言葉で考えを深めていきます。教師が迫ることで、まさに「主人公の着ぐるみを着て」考えさせる授業になっていました。

川崎先生の見事な模擬授業に、この授業を実践したいと思う若手の教師も数多くいると思います。しかし、ほとんどは子どもたちの考えをこれほど深めることはできないのではないかと思います。この授業を成立させている要因は、授業者の資料に対する深い読みとその上での子どもへの切り返しの技術です。子どもの発言を受け止めて次の子どもを指名するのか、切り返すのか。切り返すのなら何を問いかけるのか。その判断と返しの言葉は、はたで見ているよりもはるかに高度なものだからです。
川崎先生は、教師と子どもとの1対1のやり取りをもとに授業を進めていきます。そのため、教師の力量が大きく問われます。経験の浅い教師にはハードルが高いのではないでしょうか。こういう場合は、子ども同士をつなぐことを意識するとよいと思います。「同じように思った人いる?」とつなげば、子どもが考えを足してくれます。「今の考えを聞いてあなたはどう思った」と問いかければ考えが深まっていきます。教師がうまく切り返せなくても、つなぐこと意識すれば子どもたちで深めていくことは可能だと思います。こんなことを考えました。

また、「主人公の気持ちを深く考えることで子どもたち自身の生き方を考えさせる」というのが道徳としてのねらいなのですが、時として、他人事になってしまい自分に引き寄せられない子どももいるかもしれないと思いました。このことをたまたま参加していた知り合いの校長に話したところ、資料を使う前にそのテーマに関したことを子どもに問いかけておき、最後にもう一度同じことを問いかけることで自分に引き寄せることができるのではないかと教えていただけました。なるほどと思いました。こういう進め方もよいかもしれません。

川崎先生が提案された道徳の授業のあり方が非常にレベルの高いものだっただけに、講演の間、ずっといろいろなことを考え続けました。読み物資料を使った道徳の授業に私が長い間感じていた疑問の多くを解決していただけました。本当に有意義な時間でした。川崎先生、ありがとうございました。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこなってきました。学級経営を中心にこの時期チェックすべきことをお話しする予定でした。講演に先立ち学校全体の授業の様子を1時間参観させていただきました。

全体の印象は目指すべき授業規律を教師が具体的に意識できていないということでした。教師が黒板に向かって話す。子どもが板書を写しているのに話していたり、教科書を開くように指示しても全員がまだ開いていないのに指名したりといった場面を目にしました。子どもの話を聞く姿勢も気になりました。教師の方をしっかり見ている生徒が少なく、体が反っている子ども、取り敢えず体は起きているが教師の方を向いていない子どもが目立ちます。いわんや友だちの方を向いて話を聞いている姿はほぼ皆無です。子どもたちが話を聞くことに価値を見出していないことがよくわかります。一問一答形式で授業が進み、子どもが答えた後、すぐに教師が説明し、続いて板書します。最終的に板書を写せば困らないのですから、聞くことに意味がないのです。
先生方にやる気がない、いい加減というのではありません。どなたも一生懸命に授業に臨んでいることは伝わります。しかし、目指す子どもの姿が曖昧なまま授業を進めてしまっているのです。漠然と子どもが話を聞いてくれることを意識はしているのですが、子どもがどのような姿になっていればよいのかが明確になっていないのです。

今年度「生徒が主体的に活躍できる場を保障し、存在感や自己肯定感を育てる」ことを目標とされたそうですが、目標を達成する手立てもまだ共有化できていないと感じました。
そこで、講演は当初予定していた「この時期にチェックすべきこと」についての話を減らして、子どもが活躍できる場をどうつくるか、自己肯定感をどう育てるかについての基本的な部分をより多く話させていただきました。

まず第一歩は、安心して暮らせる学級をつくることです。その基本は学習・生活規律が守られていることです。そして、子どもが教師からも仲間からも認められことです。ここで気をつけなければいけないのは、教師が話して聞かせば規律が確立する、注意をすれば守られるようになるわけではないことです。ほんの少しでもできたことを認め、一人でもできればそれをチャンスととらえ広げる。足りないところを指摘するのではなく、進歩をほめる。こういう姿勢で臨むことが必要になります。また、教師だけでなく、友だちに認められる場面をつくることも大切です。
認められる場面をつくるには、子どもが外化してくれなければ話になりません。そのためには外化をうながすと同時に、外化したことに対してポジティブに評価することが必要です。常に、「わかった人」と問いかけられれば、わかった子どもしか答えられません。わからない子どもが発言できるような工夫が必要です。「困った人いない?」とわからない子どもに寄り添うことや、「今の○○さんの意見を聞いて、なるほどと思った人」と、わからなくてもちゃんと聞いていれば参加できるような問いかけが大切です。また、子どもが意を決して発言しても、誰も聞いていない、評価されなければ否定されたと感じます。まずは、子どもの発言をしっかり受け止めて、受容する雰囲気を学級全体につくる必要があります。子どもの発言に、教師が笑顔で「なるほど」とうなずく。指名する時も、「○○さん答えて」ではなく、「○○さんの考えをみんなで聞こう」と友だちの考えを聞くことをうながし、仲間が聞いてくれる環境をつくる。こういうことが大切になります。

時間の関係もあり、基本となることだけに絞りましたが、こういったことを意識するだけで子どもたちの表情は変わっていくはずです。まずは教室に安心感が生まれることを期待しています。

講演終了後、教頭と懇談する時間をいただけました。授業参観の時に同行いただいたのですが、その際に私が指摘したことに関することや講演の内容を具体化するための視点などをたくさん質問いただきました。また、担当教科が国語ということで、国語の授業の進め方についてもお話することができました。いろいろな研究会や研修に積極的に参加されている方です。私にとっても参考となる話をたくさん聞かせていただきました。今年度の異動で赴任されたのですが、この学校に新しい刺激を与えてくださることと思います。

次回訪問時に、学校にどのような変化が起こっているかとても楽しみです。学校の中に教師の笑顔も子どもの笑顔も増えていることを願っています。
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