中学校で授業アドバイス

昨日は中学校で授業アドバイスを行いました。

この日は1年生の数学と英語、および少経験者の授業を観察しました。

1年生の英語はリスニングの場面でした。授業の大きな流れはどの授業者でも共通です。英語科は自分の授業のやり方にこだわることが多いのですが、この学年はよいチームワークを見せてくれます。
CDからの英語を聞いて教科書のメモ欄にチェックをします。留学生の簡単な自己紹介です。どこから来たのか、どこに住んでいるのか、どんなことが好きで、いつ練習しているのかといった内容です。
リスニングで問題になるのが答え合わせの場面です。解答を確認し合っても間違った子どもは、「ああ、自分は聞き取れなかった」と思うだけで、聞き取れるようにはなりません。聞き取れなかったことや、違って聞こえた個所も、こう言っているのかもしれないと思いながらもう一度聞き直すと、意外と聞き取れるものです。そこで、
ペアで答を確認して、相手の答を書き込む。その上でもう一度聞き直して、答を書き直す。聞き取れていた子どもにその英文を言わせて、それから聞き直させてもいいでしょう。子どもが聞き取れない文は速度を落として授業者が言い直す。
このようにして、わからなかった子どもも含めて、自分が聞き取れたという達成感を全員に味あわせてほしいのです。
また、英文をノートに書く場面で学級間に差がありました。英文をほぼ全員が一気に書く学級と、1文字1文字写している子どもが何人もいる学級があるのです。一気に書ける学級の授業者に聞いたところ、全員がその文を暗唱できるようにしているからではないかということでした。なるほど、と納得です。「できるだけ見ないで写す」といった目標や「見る回数」という評価指標を与えることも子どもが積極的に取り組むためには必要です。教師がすべてを評価することはできないので、自己評価できるようにすることを大切にしてほしいと思います。
会話文のペアでの練習も、決まった文を言うのではなく、返答を変えることで対応を変えるようなものにすることを意識してほしいと思います。ペアで活動しているのに、相手の言葉を聞かなくても困らないというのは、子ども同士の関係づくりやコミュニケーションの点でも問題があると思います。

1年生の算数は、見た場面も違いましたがそれぞれのやり方で授業が進んでいました。
ベテランの授業は、比例の導入場面でした。子どもの言葉を「素晴らしい」と柔らかい表情で評価します。授業者はうまく子ども惹きつけています。
実際に線香を燃やして見せて、「ともなって」という言葉を使って2つの量の関係を記述させます。式で表わされる静的な関係ではなく、関数という動的な関係を意識させようとしています。さすがベテランです。この「ともなって」という用語を子どもに定着させるのに2時間使ったということです。
この後、途中の展開を見ていないので的を外しているかもしれませんが、比例の定義のy=axの部分が板書されてはいたのですが、せっかくこだわっていた「ともなって」と、この定義の関係についての記述はありませんでした。また線香を燃やすという課題は定義域と値域を考えることや連続量を意識したものです。このあたりの押さえも見ることができませんでした。ちょっと残念です。
この後の演習の場面ですが、できた人には次の作業の指示もされています。さすがです。子どもたちに○つけをするのですが、できた子どもが手を挙げて教師の○つけを待っています。最初のうちはまだいいのですが、何人も手が挙がると大変です。TTでやっているのですが追いつきません。子どもは先生に○をもらいたいのでテンションを上げて待っています。その間、当然次の問題には取り組みません。ムダな時間が流れます。このやり方は、○をもらえない子ども、わからない子どもを見落とします。志水廣先生が提唱する「○つけ法」のように、全員を順番に○つけする。できていない子どもには、できているところまでを部分肯定して○をつけ、簡単に指示をする。必ず全員に○をつけるといったことを意識してほしいと思います。
問題演習の場面では、こうするといいという指示が目立ちました。特にT2は子どもへの指示説明が多すぎるように感じました。授業者は、学年が上がるにつれて次第に子ども自身できるようにしようとしているそうです。子ども自身という言葉の中には子どもが「一人で」という意識も感じます。基本、教師対子どもの関係で授業をつくっています。一方、子ども同士のかかわりを大切にして学ぶことをすると、できない子どもは他者とのかかわりを通してできる喜びを知ります。できる子どもは他者を教えることでさらに深く理解し、他者の役に立つことで自己有用感も味わえます。非常に力のある先生ですので、この子ども対子どもの関係をうまく使って授業をつくるようにすれば、大きく進化すると思いました。

5年目の先生の授業は、問題演習の場面でした。終始笑顔でわからない子どもたちが参加できるようにすることを意識した授業です。6%はいくらになるかを確認する場面で、1列全部の子どもに6/100を言わせます。子どもたちは一生懸命答えます。こんな簡単なことを何度も言わせるのは一見ムダに見えるのですが、6%が6/100であるということは大切なことです。くりかえすことで全員に定着させたいのです。力のない子どもでも答えられるので、意欲がわきます。そのあと、子どもたちの表情がよくなったことがとても印象的でした。
説明の場面で板書を写していることどもに、「メモは後でいいよ」と優しく言います。問いを勘違いして答えた子どもが、勘違いしていた部分を自分で説明して修正したあと、「みんなそれなら納得」とまわりとつなげます。子どもに寄り添おうとする姿勢が感じられます。
寝ている子どもを何とか参加させようと優しく起こしますが、その子どもに対するまわりの子どもたちの反応が冷たいのが気になります。多くの子どもがかかわり合って授業が進むのですが、わからないできない子どもが、友だちとかかわり合えず孤立を深めていっています。この学級だけでなく1年生全体でそのような場面が目につきました。
濃度の問題の解き方を上手に教えるのですが、これは濃度の問題にしか通用しない解き方でもあります。このままでは塾と変わりません。
量に着目する。方程式が利用できるのは、等しい関係のものがある時。等しい関係の物が見つかれば方程式が使える可能性がある。等し関係が見つかれば、それを知りたいもの、未知数を使って表わすことができるか。できれば、方程式が完成して、それを解いてみればいい。
このような数学的なものの見方・考え方とリンクさせながらこの問題の解き方を整理すると、他の問題にも通用する考えに広がっていくことをアドバイスしました。

3年目の先生の授業は、比例の定義前の具体例の表から、比例につながる性質を見つける場面でした。授業者は子どもの言葉を活かして授業をしようとしています。子どもに問いかけながら授業を進めています。とてもよい姿勢です。表を見て気づいたことを何でもいいから言うように指示します。この「何でもいい」は曲者です。何でもいいというのは自由に発言できて子どもが意見を言いやすそうですが、実はなかなか言いにくいのです。何でもいいからといって、「表が上下2段」などということを言えば外すことは間違いありません。数学の時間なのだから数学的でなければいけないはずと考えます。かえって漠然として答えにくいのです。子どもたちは表を初めて利用したわけではありません。小学校から何度も利用しています。今までどのような視点で見てきたかを整理しておくことが大切です。縦に見る、横に見るといった言葉を引き出すだけでもよいでしょう。逆に気づいたことから視点を整理することも大切です。増分(差分)に注目する。ある数を基準にして、何倍かした値で対応するものを見る。次々に何倍かする。縦の対応の関係を見る。視点を整理して、次に表を使う時に活かせる形にするのです。過去に学習したこと、これから学習すること。現時点の教材を両者の橋渡しにすることが大切です。
子どもたちは気づいたことを発言してくれますが、中にはわかりにくい説明もあります。授業者は一生懸命その言葉を理解しようとします。発言に対して「今の、わかりましたか」と子どもたちに問いかけます。子どもの発言を活かそうという気持ちが伝わります。友だちの発言をわかった人に確認をしますが、それだけではわからなかった子どもは活躍できません。わからなかった子どもに、どこがわからないか、どこで困っているかを聞くことが必要です。子どもの説明がわかりにくい時は、授業者が言い変えることもあります。子どもは自分の言った言葉と違う言葉に置き換えられると、怪訝な顔をします。子どもは、授業者は自分の言いたいことを言うきっかけに、自分の発言を利用していると感じます。子どもの発言を大切にして活かそうとしても、わかった、できた子の発言と先生の説明だけで授業が進んでいきます。発言に参加できる子どもは何度も活躍できますが、そうでない子は蚊帳の外です。わかる、できる子どもはどんどん活発に参加しますが、そうでない子どもは孤立感を深めます。
このことは1年生の他の教科の授業でも起こっています。子どもの発言を大切にするのですが、挙手した子どもの発言だけで進んでいくので、かえって他の子どもが授業から離れていくのです。
わからない子どもの困ったところをみんなで共有し、解決していく。わからなくても授業に参加すれば、発言の機会がある、わかるようになる、活躍できる。そういう授業にすることを意識してほしいと思います。とはいえ、この3年目の先生が、子どもたちに笑顔で接し、子どもの発言をうながし、受け止められるようになったのは大きな進歩です。これからますます成長してくれることを期待します。

少経験者の授業については、次回の日記で。

授業研究で学校が進化していることを感じる(長文)

昨日の日記の続きです。

授業研究は1年生の国語の授業でした。話を楽しんで読むという授業で、だれがどのように現れて、何をしたか、動作化で確認するというものです。
一番に感じたのは教室にあふれる子どもたちの安心感でした。どの子どもも柔らかい表情で、伸び伸びと育っているように思いました。授業者は豊かな、そして柔らかい表情で子どもたちをしっかり見守って育てています。
導入部分で今まで学習したことを確認します。子どもたちは教科書やノートを見ないでしっかりと答えます。本文の内容をしっかり理解していることがよくわかります。「りっちゃんは、大きな こえで いいました」という一文の「大きな こえで」に着目して、大きな声だとどんな気持ちかを問います。子どもたちは「早く食べてほしい」「おいしいですよ」と思い思いに答えます。1年生ということもあり、ここではあまり根拠を追求せずに、作者が表現で伝えようとしていることを読み取ろうとする態度を育てています。どの子どもの発言も授業者しっかり受け止めていました。もちろん、「正解」といった言葉は全く聞かれません。

この日学習する段落を「。」で区切って交代で読ませます。授業者が事細かに指示をしなくても、最初に読む子どもと次に読む子どもが起立します。こういうルールが徹底できているのもよいことです。一人の子どもがうっかりして自分の順番を忘れていました。起立はしたのですが、どこを読んでいいかわかりません。この時授業者はしかったりせずに、しかしここから読みなさいと指示もしないで、優しく見つめています。子どもたちは少人数なので、授業者を中心に扇形に座っています。この日は子どもたちに大きな声を出させたいということで、いつもより教壇から離れて座っていたそうです。少し距離があるのですが、隣の子どもが体を乗り出して教えてくれました。授業者は子ども同士で動けることを信じて待っていたのでしょう。こうしたことの積み重ねが、子どもたちが安心して生活できる学級へとつながります。
ここで、気になるのが音読の目的です。国語の授業では、いろいろな形で音読をさせるのですが、その目的と目標・評価がはっきりしないことが多いのです。読み方ごとに、目標が決まっているのならいいのですが、そうでなければ明確にしておく必要があります。また音読は子どもが自己評価しにくいので、ペアで読ませるといったことも必要になります。評価基準を明確にして、子どもの活動を評価することを常に意識してほしいと思います。
グループで役割を決めて音読した時、最後に一人の子どもだけが読んでいる状態になりました。その時、他のグループの子どもが身を乗り出して、友だちの読む姿を応援する目で見ていました。子ども同士の人間関係のよさも感じました。とてもよい学級経営ができていると感じました。

子どもたちに「アフリカぞうの登場の仕方」「アフリカぞうがいったこと、したこと」をワークシートにまとめさせます。まとめるといっても、ワークシートは穴埋めです。どこに書いてあるかを考えるのではなく、ワークシートに書かれている言葉をキーワードとして本文から探して、見つかった文を「写す」作業になっていました。課題で考えさせたいことと、ワークシートでの作業がずれています。どの言葉に注目すれば見つかるのかとキーワードを考えたり、どの部分が該当するか教科書に線を引いて聞き合ったりする活動が大切だと思います。
子どもたちは作業を頑張るのですが、個人差があります。予定の時間になってもまだできていないので延長しました。単純に急かすのがよいこととは言いませんが、作業であれば早くすることを子どもたちに求めなければ、いつまでたっても素早くできるようになりません。考えることであれば、時間を与えたからと言って解決しません。解決の方法を与えることが大切です。また、時間を延長するのであれば、早く終わった子どもに対する指示をしておかなければだれてしまいます。少人数なので、早くできた子どもへの指示は個別にすることも可能です。そのためか、作業を終わったあとの指示が明確でないことが学校全体で目立ちました。
「とつぜん、キューン、ゴー ゴー、キューと いう おとが して、ひこうきが とまると、アフリカぞうが せかせかと おりて きました」
この一文を取り上げ、動作化をさせます。まず、前半の飛行機の様子から始めます。「キューン、ゴー ゴー、キュー」がどのような様子かを言葉で説明させます。子どもは拙いながらも一生懸命に説明します。授業者は復唱をしながらしっかりと子どもを受容します。子どもは友だちの意見に関係なく、自分の言葉を重ねます。こういう擬音は、感覚的なので自分の言葉で話したいのです。動作化も一緒です。表現したいが先に立ち、表現することが目的となってしまいます。テンションは上がりますが、思考は思ったほどしていないのです。

ここで注意したいのは、この擬音を一連のものとして一括に扱うかどうかです。一つひとつの言葉にこだわることも必要です。「とつぜん」という言葉にも注意を払わなければなりません。
「キューンという音がするのはどんなもの、どんなとき」という発問で、「電車が目の前を通り過ぎる」「早く動く」といった言葉を引き出し、「キューン」では「速い」を表現していることに気づかせる。
「キューンは飛行機が飛んでいる時、地面についた時?」と聞くことで、まだ飛んでいる時だと気づかせる。
動作化の前にこういうことを考えるのです。
同様にして、「ゴー ゴー」とくりかえしているのは、減速に時間がかかっていることを、「キュー」というのは急激に止まっていることを表現していることに気づかせたいところです。
「とつぜん」という言葉とあわせて、すべて急いでいることにつながっていることを押さえることが必要です。
続いてアフリカ象の動作化です。子どもたちが象に持っているイメージは「ゆっくり」です。それに引きずられて「せかせか」の意味が混乱しています。「せかせか」が「ゆっくり」に近いものとしてとらえられています。ここは、いったん象から離れて、「○○がせかせか歩くってどんな様子?」と象以外の物をいくつか例に出して、「せかせか」が表現するものが急いでいる様子だと気づかせます。その上で、象は「ゆっくり」歩くものなのに、「せかせか」と見えたんだという言葉を子どもから引き出したいところです。
国語の授業で動作化をおこなうのは、上手く動作化することが目的ではなく、筆者が表現しようとしていることを理解して、そのように動作化しようとすることが目的です。ここでは、急いでいることがわかるように動作化しようとすればいいのです。そのためには、「みんなにどう見えればいいの?」「急いでいることが見ている人に伝わるようにやろう」「みんな急いでいるように見えた?」といった目標・評価が必要になるのです。

アフリカ象が急いでいた理由を考えさせ、最後に象が油と塩と酢をかけて混ぜる動作を全員でやって時間となりました。
自分の考えを発表する場面で、発表したい人を全員立たせます。この日初めて積極的に発表しようとした女の子は、元気のいい男子3人が立ったので、発表を譲って座ってしまいました。授業者は座った女の子も含めて一緒に発言させました。みんな同じ答です。女の子に「同じだった」と確認します。授業者が聞いてくれたので、女の子は嬉しそうにうなずきました。こういう細かい気づかいができているのはとても素晴らしいことです。
しかし、この一連の活動の中に、最初に発表することに価値がある、同じ意見は言えないという価値観が見て取れます。「同じ意見の人、もう一度言ってくれる」「ちょっと違う言葉で言ってくれたね」「足してくれたね」「どこを足してくれたか、わかる人」というようにつなげば、発表したい子どもが何人もいても困らないのです。譲るといったことも必要ないのです。ちょっと発想を考えていただければと思いました。

最後の動作は、「アフリカぞうは、サラダに あぶらと しおと すを かけると、スプーンを はなで にぎって、力づよく くりん くりんと まぜました」という一文です。
ここでも「くりん」がくりかえされています。この教材は、くりかえし表現が多用されています。そのことを意識させることは、子どもたちに表現にこだわって読む力をつけさせることにつながります。「くりんと まぜました」と「くりん くりんと まぜました」はどう違うかを問うことで、くりかえし表現を意識できます。比較をすることで見えてくることがあります。くりかえすことで作者が表現しようとしていることに気づかせる一つの方法です。

子どもの活動を中心に見ると、授業者と子どもの関係のよさがとても光っている授業です。授業者は動作化をとても見事に子どもに見せます。素晴らしい役者です。子どもをあっという間に惹きつけます。素晴らしい力、芸があるからこそ、それに頼らず発問や授業の組み立て、教科としての知的好奇心で子どもを惹きつけてほしいのです。もしうまくいかなければ、その時は今まで使っていたものを使えばいいのです。あえてそれを封印することで、一段と高いところへ行けるのです。
教科としてどのような力をつけるのか、ついたのか。そのことを強く意識して授業に臨んでいただきたいと思います。

授業検討会では、この授業のよさを先生方がたくさん話してくださいました。なかなか気づきにくい、黒板の横の掲示物に注目してくれる方もいらっしゃいました。そこにはこの単元で出てきた語句の意味が貼ってあったのです。子どもたちが友だちを温かい目で見ていた場面など、子どもたちのよい姿もたくさん見つけてくれました。子どもたちのよい姿を見つけることは、実はそれほど簡単なことではありません。よい姿を具体的にし、その姿を見たいと思って授業をしていない人には、なかなかよいところが見えません。自分が意識していないものは、他人の授業でも見ることができないのです。もちろん授業技術なども同じことです。先生方によいところを見つける目ができてきているということは、一人ひとりの授業のよいところも確実に増えているのです。学校が進化していることの証です。

検討会終了後、授業者と少しお話する時間がありました。
「登場の仕方」という言葉を使っていることについて少しお話をしました。小学校1年生には「登場」「仕方」は難しい言葉です。教科書では、「出て きましたか」「どんなことを したか」といった表現を使っています。この言葉を使ったことがいけないわけではありません。私はこういう言葉はどんどん使うべきだと思っています。ただし、教師が無自覚で使ってはいけません。子どもに正しく意味を理解させて上で、生きた場面で使えば子どもの語彙力が増えます。しかし、何も考えずに使ってしまえば、子どもは混乱してしまうかもしれません。また、一度説明して終わりではなく、機会があるごとにどういう意味か子どもに問い直すことも必要です。そのようなことをお伝えしました。
子どもたちとの関係はとてもよく、授業規律もしっかりしています。土台ができているので、その上にどのようなものを建てるのかとても楽しみです。2月に訪問する時の学級の様子が今から楽しみです。

いつものように、いやいつも以上に多くのことが学べた1日でした。先生方と子どもたちに感謝です。

小規模小学校で多くのことを学ぶ(長文)

昨日は小規模小学校で授業研究と授業アドバイスをおこなってきました。

2年生の教室の様子が気になりました。まわりとうまくコミュニケーションができない子どもが一人目立ちます。先生の注意を引きたいのでしょう、盛んに話しかけます。授業者がこの子どもをしっかり受け止めなければと考えていることがよくわかります。その子どもの話をできるだけ聞いてあげようとしているのです。授業に関係した言葉は、「○○さんが、△△と言ってくれた」と他の子どもに伝えます。授業者は他の子どもとのバランスをとってかかわろうとしているのですが、その子どもとかかわっていると、他の4人の子どもたちを見ることがなかなかできません。その時の他の子どもたちの態度がとても気になりました。集中が切れるというか、自分たちとは関係のないことだというようにしているのです。特に1人の女の子の落ち着きがなくなります。声をかければ少し落ち着くのですが、授業者が気になる子どもにかかわるとまた元に戻るようです。1年生の後半は少し落ち着いていたのですが、また少し不安定になっているようです。先生を取られているように感じているのかもしれません。
少人数なので、一人ひとりにきちんと対応しなければ、またできるはずだと思っておられるのかもしれません。しかし、どうしても気になる子どもにかける時間が相対的に多くなってしまいます。他の子どもたちは、今まで先生と直接かかわれる時間が少人数なのでたくさんあったのに、その時間をその子に奪われていると感じてしまいます。普通規模の学級であれば、それだけ多くの時間を特定の子どもに割くことはできませんが、小規模だから可能に見えてしまうのです。そのため、必要以上の時間、エネルギーをかけてしまい、余裕がなくなってしまうのです。まじめで熱心だからこそ起こることなのです。
他の4人に時間をしっかりかけてあげて、その余力で相手をするくらいでいいのかもしれません。少人数ですので、気になる子どもに手が届く範囲に立って、他の子どもを見ながら授業をすることもやりやすいように思えます。その子どもがよくない態度を取っている時は無視をして、黙ったりよい発言をしたり望ましい行動をとった時にほめるといった、ペアレント・トレーニングを意識する。言葉で対応するのではなく、手や目線でその子どもに合図を送る。そのようなことをやってみてもよいのではとアドバイスさせていただきました。

3年生は初任者の算数の授業でした。前回訪問時に私が算数でいろいろな指摘をしたので、もう一度算数を見てほしいということだったのだと思います。
子どもが余りのある割り算の問題の解答したところでした。2人の答が書かれています。計算の式は同じなのですが、答が「…人に分けられる」「1人…個ずつ分けられる」と2つあります。どちらが正しいか子どもたちに問いかけます。指名された子どもが、「教科書は○人で分けると何個ずつになるか聞いているので・・・」と説明をしてくれます。授業者はわかったかどうか確認して、「こちらがいいですね」と○をつけました。わかった子ども、正解者が主導して教師が判断するという形になっています。そうではなく、間違えた子どもが自分で修正して全員が正しい答になる授業を目指してほしいのです。
この場面では、式の数字をもとに、「何がいくつなの?」と問いかけてみるとよかったと思います。答の数が何を表わしているかに気づいていけば、自分で間違いを修正できると思います。「正解を納得させるのではなく、間違いを修正させる」という発想が、子どもたちの困った感に寄り添うことにつながると思います。
授業者は子ども同士のかかわりを大切にしたいと言ってくれます。しかし、いつも発表者を見ています。子どもたちがかかわっているかどうかを大切にするのなら、発表を聞いている子どもたちの様子を見ることが求められます。聞いている子どもの反応を見ることが、どのくらい理解できているか、どの子とつなげるかといった判断をするための材料になるからです。このことを意識してほしいと思います。
「『何がいくつ』という問いかけを算数では大切にするといい」という私の前回のアドバイスを参考にして授業をしたところ、子どもたちが位どり記数法をよく理解してくれたといううれしい報告をしてくれました。素直にアドバイスを取り入れようとする姿勢は素晴らしいと思います。あせらずに、一つひとつ課題をクリアしていってほしいと思います。

4年生は国語の授業でした。登場人物の気持ちが書かれている部分を抜き出し、その気持ちを考えるという課題です。子どもたちはとても集中して取り組んでいました。
しかしそれに反して、子どもたちは発表の場面では友だちの発表を今一つ集中して聞いていません。友だちの方を向いて聞いていた子どもも、授業者が子どもの言葉を板書し始めると、前を向いてしまいます。中には鉛筆を持って書き始める子どももいます。子どもたちがあまり友だちの発言を聞かない理由がわかりました。先生がまとめて板書してくれるから聞く必要がないのです。発言者も先生にわかってもらえればいいので、友だちにわかってもらおうという意識があまりありません。相互指名をするのですが、友だちの発言とはあまりつながりません。友だちの一言一言をしっかり受け止めていないからです。
授業者もこのことに気づいています。友だちの発言をしっかり聞かせたい。子どもをもっと見なければいけないと思っていたのです。板書するのをやめて、発言をまとめずに進めていいのかどうかと悩んでいました。
一人ひとりの発言を教師が板書してまとめるのではなく、子どもたちに「今○○さんの言ってくれたこと聞いていた。納得できた」と理解したか確認します。同じ考えの人、納得した人に発言を求めてつないでいきます。意見が大体収束してくれば、「だれかまとめてくれる」と子どもにまとめてもらえばいいのです。教師の板書を子どもたちは無批判で受け止めてしまいます。それ以上深めようとはなかなかしません。板書をしないことで、言葉が足されやすくなり、考えも深まっていきます。必要であれば、その時点で子どものまとめの言葉を板書すればいいのです。また、まとめを子どもがワークシートに書くという方法もあります。回収してコメントを入れてもいいですし、上手にまとまっているものを次の時間に配って、具体的にどうまとめればいいかを教えてもいいでしょう。
このようなことをアドバイスさせていただきました。

5年生は、国語の授業でした。資料を読んで考えたことを書くためのメモを書く場面です。子どもたちはグループの形で一生懸命に取り組んでいます。時々聞き合ったりしています。とてもよい関係です。授業者が作業を終えて、前を向くように指示をします。遅い子がいてもしっかり待って、全員が前を向いてから説明を始めます。授業規律がきちんとしています。説明もていねいなのですが、少ししゃべりすぎのように思いました。まず、友だちのメモを読んで付箋紙でよいところ、こうするといいというアドバイスを書くことを具体的に指示します。続いて、よいというのはどういうことかを説明します。よいとはどういうことかを押さえているのは立派です。何がよいのかの判断基準がなければ活動そのものが根拠のないものになってしまうからです。先ほどの活動の前に板書してあったポイントを使って「引用した話を明確にする」ことがよいことだと説明します。しかし、ここで教師が説明する必要はありません。このことを意識して子どもたちに作業させていたのですから、子どもたちに聞いて答えさせればいいのです。子どもたちで答えられることは、できるだけ子どもに言わせるようにしてほしいのです。このことを意識するだけで、子どもたちの受け身の時間はずいぶん減ると思います。
説明の順番も、「友だちのメモのよいところと、こうするといいところを伝える」というこの活動の全体像を示してから、よいところとはどういうことかを子どもたちに聞き、その上で、最後に作業の具体的な方法を示すとよいでしょう。この順番が逆になると、具体的に何をするのかを忘れてしまう子どもが出てきて、もう一度説明しなければいけなくなったりします
この学級にもコミュニケーションがうまく取れない子どもが1人います。授業者はその子どもにぴったりくっついて対応しています。面白いのはそのグループの子どもたちが別の場所に行き、そこで作業をしていたことです。どの子どもも明るい笑顔で活動しています。まるで、「先生がその子の面倒を見てくれているので安心して自分たちの作業ができる」、そう思っているようです。
なかなか難しい子どもであることは授業者から聞いています。4年以上一緒にいて、子どもたちもその関係が固定化して、互いにうまくかかわれなくなっているようです。その子どもを教師が引き受けることで、学級全体のバランスが保たれ、子どもたちに安寧をもたらしているように見えます。だからこそ、もう一歩先に進むために、双方に課題を与えることが必要になると思います。「相手はどのようなことを考えている」「どのようにかかわってあげればいい」といろいろな場面を双方の立場で考える、ソーシャルスキルの訓練をするとよいと思います。また、教師が一手にその子を引き受けてしまわずに、子ども同士がかかわれるようにするための働きかけをしてほしいのです。
難しい注文だとは思いますが、そのことをお願いしました。

6年生は非常に研究熱心な先生が担任です。この日は社会科の授業でしたが、どの教科の知識も豊富で、「子どもたちをここまで引き上げたい」という思いに溢れた授業をいつもされます。そのため、子どもの作業やメモに対して、より高いところに上がるためのアドバイスをします。できる子どもは上に行けるのですが、ちょっと苦しい子どもはなかなか上がってはいけません。伝えたいことの中から、この時間で全員に身につけてほしいことは何かを明確にし、それを第一の目標にしてほしいのです。その上で、引っぱり上げるのではなく、押し上げる気持ちで接してほしいのです。子どもが理解していくのを下から支えるのです。具体的には、子どもの気づいたことを共有し、それをもとに全員がわかることを一つひとつ積み上げていくのです。
グループで活動しているのですが、活発な女子2人が並んで、もう1人の男の子は反対側にいます。どうしても女子2人での活動になって、男子はそこに参加できません。話を聞いてわかろうとするのですが、なかなかついていけないのです。授業者は女子の話を「わかった?」と男子に確認するのですが、わかったという言葉出てきません。この学級に限らず、この学校のできる子どもたちは、自分の考えを一気にしゃべります。教師がしっかり聞いて理解してくれ、必要に応じてまとめてみんなに伝えてくれるので、友だちにわかってもらおう、伝えようという意識があまりないのです。少人数で授業をするので、教師に聞いてもらえるチャンスが多いこともその理由の一つでしょう。一度最後まで話させた後、「よくわからなかった人もいるようだね。いい意見だから、もう一度聞かせてくれる」ともう一度発表させます。今度は、途中で止めながら「ここまでどう、納得できた」と確認しながら進めることで、子どもの言葉で伝わるようになります。発表者も、自分の言葉が伝わることを意識するようになります。「納得した人、あなたの言葉で説明してくれるかな」と、聞いていた子どもを評価する機会をつくることも大切です。このようなことを意識してほしいとお願いしました。

全体的に学校は落ち着いています。温かい雰囲気が学校に感じられます。授業規律もずいぶんよくなったと思います。だからこそ、新たな課題が見つかってきます。この学校が大きく進化しようとしている局面なのだと思います。
今回、あらためて気づいたのですが、この学校では小規模にもかかわらず発達障害が疑われる子どもが多いように思いました。友だちとのコミュニケーションがうまく取れないのです。しかし、先生とは上手くコミュニケーションをとれているように思えます。ということは、発達障害というよりも子どものソーシャルスキルの問題のような気もします。小さいころから同年齢の子どもとかかわることが少なく、先生や大人が相手をしてくれるために、友だちとのコミュニケーションを取らなくても何とかなっていく。また、人間関係が固定化しているので、友だちもそれになり対応してくれる。その結果がソーシャルスキルの欠如につながっているように思えるのです。小規模校ではこのようなことが起こりやすいのかもしれません。このことについては、もう少し考えてみる必要がありそうです。

授業研究については、明日の日記で。

地域の枠を超える動き

子どもたちの間で、スマートフォンやゲーム機などを利用したコミュニケーションでトラブルが増えています。その対策に頭を悩ませている学校は多いと思いますが、具体的な対策がとれていないのが現状のようにも思います。そんな中、保護者向けのネット講習会を企画したPTAと学校があります。家庭と学校が協力して対応していこうという試みです。この問題は1校だけの問題ではありません。市全体で取り組むべきだと考え、市内の全中学校を会場にして講習会を行うことを企画しました。急な話に「なぜ、今」と思う学校もあったようです。私には一刻を争うほど喫緊の課題になっていると思えるのに、意外な反応でした。
企画した学校からすれば、他の学校のことまで考えることは負担以外の何物でもありません。実際、市内の全中学校を会場として行うには外部の講師を手配する余裕も予算もありません。そこで、講師研修会を開いてPTAや地域の方、教師、自分たちで講師を務めようということになりました。自校のことだけを考えるのではなく、市全体のことととらえ、互いに協力して自分たちの手で子どもたちを守り育てていこうという姿勢に、これからの地域と学校のあり方の方向性が見えるように思います。

素晴らしいのが、この講師研修会を他の地域の方にも参加を許したことです。自分たちの負担でつくり上げたものを無償で提供するのです。行政主体であれば、予算の出どころのこともあり、このようなことは難しいと思います。しかし、行政ごとにそれぞれが一からつくりだすことは時間と予算のムダです。よいこと、必要とされることはそういった枠を超えて互いに共有すべきです。そのあたりまえのことをあたりまえのように実行されたことに頭が下がります。かく言う私も、参加を申し込みました。どの学校もネットの問題には頭を悩ませているようです。たくさんの地域学校からぜひ参加したいという声が上がってきました。
1つの地域、学校の試みをその枠を超えて提供し合い共有する。今回の研修会がきっかけとなって、このような動きが広がっていくことを期待したいと思います。

理科の授業で考える(長文)

先週末は中学校で理科の授業アドバイスを行いました。

授業者は今年この学校に異動して来た教職7年目の先生です。2年生の動物の分類の導入の授業でした。
授業者は笑顔をつくり、言葉も明瞭です。子どもたちにプリント配ったりするときには、「ありがとう」の言葉も出ます。子どもの発言をよく受容しようとしています。この学校で取り組んでいることを意識しています。しかし、子どもたちはあまり集中しているようには見えません。決して授業者の話を聞いていないわけではないのですが、このことが気になります。

子どもたちの興味づけのために動物の名前あてクイズを行います。電子黒板に動物の写真を写し、名前を答えさせます。電子黒板に子どもが集中します。しかし、動物の名前をあてることは、単なる知識です。そこに理科として何があるのかがよくわかりません。最初は「ハシブトガラス」です。子どもたちは何を答えていいのか少し戸惑っているようでしたが、さすがに「カラス」としか答えは出てきません。「ナメクジ」の次の「アマガエル」の時です。子どもたちの戸惑いが大きくなりました。「アマガエル」「カエル」、どちらを答えていいのかわからないからです。授業者は、「気にしなくていい」と「カエル」で答えてくれればいいと言います。この言葉でこのクイズは何のためのものかわからなくなってしまいました。「アマガエル」と「カエル」で悩ませることから分類の意味を考えるのかと思ったのですが、どうやら違ったようです。「カエル」と言った時に思い浮かべるのはどんな「カエル」と問い返すことで、カエルを分類する必然性を意識させることができたはずです。分類しなければ、「ヒキガエル」も「アマガエル」も同じものです。ちなみに英語では、”toad”と”flog”と区別されています。「カエル」の違いは誰にでもわかりますが、「カラス」は「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」という分類を知らなければ、両者とも同じ「カラス」としか認識されません。こういうことを考えることで、分類の意味が分かってくるはずです。
授業者は、先ほどのカラスは「ハシブトガラス」だと説明します。「気にしなくていい」と言いながら、薀蓄を語ることはかえって子どもたちを混乱させます。「アゲハチョウ」「マンボウ」と続き、この日の課題、「この5種類の動物を2つに仲間分けする」が提示されました。ここまでにかなりの時間を使っていますが、分類のための材料提示の意味しかないのならもっとテンポよく進めるべきだったでしょう。

ワークシートを配った後、理科的でなくていいので、自由な発想で仲間分けをするように指示します。この活動の意味が分かりません。目標と評価基準がないため、ただ作業するだけになってしまうからです。条件がないため、かえってどこから手をつけるか、取っ掛かりがありません。分類後の話し合いは根拠のない空中戦になることが必至です。
仲間分けの作業の指示を電子黒板で行いますが、子どもたちの視線は電子黒板と手元のワークシートとばらばらです。作業の結果を書くのはワークシートなのですが、ワークシートの使い方の説明はありません。子どもたちが戸惑うことが想像できます。
個人作業に入った途端、かなりの子どもが鉛筆を持てずにいました。男女で隣り合っているのですが、何をするのか、どこに何を書けばよいのか聞き合っています。子ども同士の関係がよいことは見て取れます。授業者は、指示が不明確だったことに気づいて、ワークシートに何を書くか黒板に黙って書きはじめました。指示が通ってないと判断したのなら、いったん作業を止めて説明し直さなくてはいけません。今回の課題であれば、まず仲間分けの指示をし、電子黒板を使ってワークシートの説明をするべきだったでしょう。説明が終わったあとにワークシートを配り、すぐに作業に入るのです。
なんとなく子どもが授業者の話を集中して聞かない理由がわかったような気がします。授業者の指示が不明確だったり、説明を聞いてもよくわからなかったりすることがあるので、集中して聞かなくなったのではないでしょうか。聞いていなくても、今回のようにわからなければ追加で指示があるので困らないのです。また、わかっていれば、追加の説明を聞く必要がないので、聞く聞かないを自分の判断で勝手に行うようにもなっていくのです。

取り敢えず分類ができた子どもは、することがなくなっています。しかし、思いつかない子どもは、なかなか手がつきません。授業者は机間指導しながら、具体的なヒントを言ってまわりますが、全体はよく見えていないようです。終わっている子どももたくさんいるのに時間を延長しました。子どもたちがだれてしまいます。できない子どもができるようになる手立てを明確にしないまま延長することはナンセンスです。課題の方向性がはっきりしていないことが、手がつきにくい原因ですが、早めにいくつかの具体例を子どもに発表させ、それを共有してから再度取り組めば、また違ったと思います。

作業を止めるように指示しますが、まだ手が動いている子どもがいるのに話し始めます。こんなところにも、子どもたちが集中しない理由があるようです。
グループでの活動で、画用紙に動物の写真のカードを貼ることを説明します。面白かったのが、画用紙とカードという具体物を提示しとたんに子どもたちの集中力が上がったことです。具体物を見せることの効果もありますが、使い方がわからないと活動できないので聞く必然性があることも大きな要素だと思います。
授業者の説明の声ははっきりしていますが、単調です。大切なことを話す前に間をあける、大切なことはちょっとトーンを落として、ゆっくり話すといった工夫がないのです。情報に軽重がなく、また余分な情報、ノイズが多いようにも思います。しゃべりすぎなのです。その理由の一つが、自分の中で課題の目的や目標が明確になっていないことが挙げられます。整理できていないと、簡潔に説明できないのです。

グループで2種類の分類をつくることが課題です。男子、女子同士が隣同士で並んでいます。当然のように同性同士で話しはじめます。2つなので、お互いの意見を聞き合う必然性もありません。自分の思ったことを言うだけで根拠は必要ないのですから、テンションは上がります。意見を言って、どちらかに決めてしまえばもうすることはありません。今度はスーッとテンションが下がります。しばらくするとまたテンションが上がってきます。することがなくなったので、雑談が始まったのです。

各グループで1つずつ、分類した画用紙を貼りだしますが、子どもたちはその間雑談をしています。評価する基準がないので、見る意味があまりないからです。各グループの発表に対して、「同意できるか」で拍手をさせます。評価基準がないので恣意的です。もちろん拍手した理由を問うこともしませんし、問うこともできません。この活動が何の意味があるか子どもたちにはわからないままです。「飛ぶ」かどうかと「羽があるか」で分類すると同じように分かれます。「分け方が違う」と教師が解説をします。「分け方が同じ、違う?」と問いかけません。子どもが考える場面がないのです。
発表の後、昔からみんなと同じようにして分類が考えられてきたとまとめますが、分類が満たすべき要件は押さえていません。
せめて、「客観的に判断できる(だれがやっても同じ仲間になる)基準」であることを条件にし、その確認として授業者が別に用意した動物をその基準で分類する、といった課題であるべきでしょう。

教科書を読ませて、理科では「進化」をもとに分類することを伝えます。しかし、子どもたちは「進化」で分類するとはどういうことかはわかりません。自分たちの分類方法と何が違うのかもわかりません。その必然性も。
子どもたちに生物の設計図は何かを問います。これは知識です。「骨」という答が出て扱いに困ります。結局「DNA」だと授業者が答を言います。授業者は質問が悪かったと一生懸命フォローします。知識を問うことをするとこういうことになるのです。質問に対して子どもたちがじっとしていることから、日ごろ知識を問うても、調べさせることをしていないことがわかります。せめて教科書や資料集を調べさせることを日常的にするべきでしょう。

「スズメバチ」のような虫(「トラフカミキリ」)を見せて、「ハチ」かどうかを問います。考えても答えはわかりません。「カミキリムシ」と言われても、確認のしようがありません。クイズとしては面白いのですが、学習にはなりません。子どもたちに考えさせるのであれば、「スズメバチ」と、「カミキリムシ」の両者と比べてどちらの仲間かと問えばいいのです。色(や動き)は「スズメバチ」に似ているが、翅や体の形は「カミキリムシ」です。体の構造はカミキリムシに近いのです。こういった観察がなければ、理科ではないのです。

理科では、脊椎があるかどうかで分類をすることを言います。脊椎を背骨と言い換えます。骨があるかどうかという表現もしました。理科の用語としては、「脊椎」を明確に定義する必要があります。もっというと進化と言う点では、神経系に注目しているのですから、脊椎の中には神経が通っていることは押さえておきたいところです。
動物に脊椎があるかを知るためにはどうすればよいかを問います。レントゲンという言葉を子どもから何とか引き出しますが、レントゲンに気づくことにあまり意味はありません。理科として何を問い、考えさせるのが大切か不明確なのです。
最後にまた、クイズです。「イグアナ」や「カエル」「ヒトデ」「ミミズ」「ヘビ」などに背骨があるかどうか、写真を見せながら問います。背骨があるとどのような特徴がみられるかといった考えるための根拠がないので、なんとなく想像で答えるしかありません。
答え合わせはレントゲン写真を一つひとつ見ながら、(背)骨あるかどうかを全員で確認します。「ミミズ」などは、「一生懸命探したけれど、なかなかいい写真が見つからなくてごめん」と言い訳しながら提示します。しかし、聞きようによっては頑張ったことを伝えたいようにもとれます。授業の内容に直接関係ない情報が多すぎる、しゃべりすぎているように感じます。皮肉なことに、子どもたちが一番真剣に見ていたのが、わかりにくい写真の「ミミズ」でした。わかりにくいから真剣に見るのです。わかりやすいことが決してよいことではないということです。
脊椎動物かどうかの分類を考えるのであれば、最初からレントゲン写真を見せて、脊椎動物と非脊椎動物に分類する作業をすればよかったのではないかと思います。その写真がどの動物の物かは、最後に簡単に確認すればいいのです。
結局最後まで、理科として何を学んだのかわからない授業になってしましました。

授業後、空き時間で簡単な検討会を行いました。授業者は、「ある程度経験を積んだので、今までなんとなくこなすことはできるようになっていた」と振り返ります。しかし、不十分であったことをわかってくれたようです。「このような授業研究は経験がなかった。授業をもっと改善しなければいけない」と、素直で前向きな言葉が出てきます。残念ながら、授業をしっかりと見合い、学び合うことができていない学校もたくさんあります。その必要性を実感してくれただけでも大きな進歩だと思います。きっと自分の授業をしっかりと振り返り、新たな一歩を踏み出してくれることと思います。今年度はもうこの先生の授業を見る予定はないのですが、何とか時間をやりくりして時間を取りたいと思います。きっと、進化した姿を見せてくれることと期待しています。

学校全体の授業力の高まりを感じた検討会

昨日は中学校で授業研究に参加してきました。学び合いを大切にしている学校です。

1年生の理科、水に溶けた物質はどうなるかを考える時間でした。
最初に前回に行った各グループの実験結果を発表させます。子どもの表情が少しかたいことが気になります。授業者の緊張が伝わっているのかもしれません。子どもの発表に対して、足りないことを「どちらが濃かった」と直接聞き返します。同じという答に対しては、聞き返しません。これでは子どもは教師の求めることを言わなければと思ってしまいます。足りないことがあれば、「もう少し詳しく聞かせてくれる」「グループの人、足すことはない?」と教師の質問に答えるのではなく、自分で気づいたことを発表させるようにしたいところです。「同じ」ということを許せば、「同じ」で思考停止してしまいます。「あなたの言葉でもう一度聞かせてくれる」と必ず自分の言葉で言わせることが大切です。全く同じことを言うことは稀です。違いがあれば、「言葉を足してくれた」「違う言い方をしてくれたね。それってどういうこと?」とそのことを評価し、深めていくことが大切です。
子どもたちの一部は教師が板書する各グループの結果を写します。それが大切だからというよりも、することがないからのように見えます。そもそも、なぜこの実験をしたのか、実験から何を知ろうとしたのかという実験の目的を確認しないままに進んでいきます。実験結果をどう活かすのかもはっきりしません。グループに間の結果の違いも取り上げることはしません。何のための発表かわからないのです。
また、机をコの字の形にしているのですが、授業者が話していても子どもの体は横を向いたままで視線はそちらに向かいません。しかし、授業者は気にする様子がありません。顔を上げて自分を見てくれることを望んでいないのです。指名して返事がない子どもに対して、しばらく厳しい表情で黙ることで返事をするようプレッシャーをかけます。子どもが気づいて返事をしても、それに対して反応しません。子どもに無用の緊張を強いるだけです。しかも、最初の2人くらいには返事を求めましたが、後の子どもには求めませんでした。子どもたちは授業者が恣意的にしか注意をしないのを知っているのでしょう。だれも指名されても自ら「はい」と返事をしません。普通は2人注意をされればその後の子どもは気をつけるようになるものです。そうならないことが気になります。子どもが授業者を見ないことと関係があるように思えます。他の場面ではどうかはわかりませんが、少なくとも授業場面では子どもとの人間関係ができていないようです。笑顔でうながし、返事をしてくれれば「ありがとう」と一言そえるだけで、子どもたちの態度は変わっていきます。子どもをチェックする目ではなく育てる目で見てほしいと思います。

「溶けた物質はどのようになるのか」推測するのが課題です。まず個人でワークシートに書かせます。根拠も書くように指示しますが、「溶けること」と「どのようになるのか」ということの論理的な関係が曖昧です。溶けるということをどう定義するのか、予め定義されている溶けた状態の時に物質はどうなっているか、どちらを聞いているのかよくわかりませんでした。後で確認したところ、溶けているとは透明になる状態と定義していたようです。そうであるのなら、「溶けている時は透明になっているんだったね。その時溶けた物質はどこにあるの。どんな状態なの」ともう少し具体的に問いかけた方が、子どもが考えを整理しやすかったと思います。推測したこととその根拠となる実験結果を、必ず対にして書くように指示をすれば、実験との関係も明確になったと思います。
子どもたちは自分の推測を書くのですが、根拠を明確には書くことはしません。感覚的にわかっているのでしょうか。子どもたちが書き終った後、グループでの話し合いです。ここでの指示の言葉が気にかかりました。友だちの話を聞いて「まとめる」というのです。これはこの場面で使うべき言葉ではありません。というより、活動の目的がずれてしまっているのです。みんなの意見をまとめるのではなく、「物質が溶けている状態」を科学的に推測するのが目的です。友だちの考えも参考にして、「確かにそう思える」とみんなが納得する根拠の基づく推測にするのです。
グループになった時に、子どもの表情が大きく変わりました。笑顔がたくさん生まれます。今までの受け身の緊張状態から解放されたという感じです。子どもたちの素晴らしいところは、伸びをしたり、ムダ話をしたりせずに、すぐに話し合いに入っていったところです。弛緩してしまわないのは、グループ活動に対して気持ちが積極的になっているということです。この学校での日ごろのグループ活動がよいものである証です。
子どもたちはしっかり話を聞き合っています。しかし、中には友だちの話を聞いていない子どもがいます。ところが、自分が話す順番になるとしっかりと話しています。きっと優秀な子どもなのでしょう。答えを知っているので友だちの意見を聞く価値がないと考えているようです。一通り意見が出た後は、にこやかに雑談しています。その姿が印象的でした。授業者はグループの間を回りながら、個別に話をしています。全体の様子をきちんと把握していません。あと5分と言った時点でかなりのグループが話し合うことがなくなっていました。意見を聞いてまとめるのという課題なので、友だちの話を聞けばそれでまとめの作業に入れます。議論する必要はないのです。ここで時間を与える意味はあまりありません。子どもたちはひたすら書き始めていたのです。時間が来てもまだ書いている子どもがたくさんいます。授業者は時間がほしいか聞き2分延長しました。これもムダな時間です。グループ活動の時間ではなく単なる作業時間なのです。
各グループの発表者を決めるように指示してすぐに発表に入ります。これもムダなことです。発表のために予め準備をする必要があってその時間を与えるのならいざ知らず、すぐに発表するのであれば、発表者以外の子どもが気を抜いてしまいます。教師がその場で指名して答えさせればいいのです。もし、うまく答えられなくてもグループの友だちに助けてもらえば問題はありません。

最初の発表は、子どもたちがしっかりと発表者を見て聞こうとしていました。ところが、途中で授業者が発表の内容を板書し始めました。折角友だちを見ていたのに、子どもたちは黒板を写しだします。授業者も子どもたちを見ていません。板書の内容も、子どもの言葉を教師がほしいところだけつまみ食いをしたものです。子どもの発表の微妙な違いが、教師のフィルターにかけられほとんど同じになってしまっています。これでは、すべてのグループで発表する意味がありません。最後の指示は、全部のグループの発表を「まとめる」でした。みんなから出た考えを評価し、より科学的な推測に高めることが全体での発表のねらいであるべきです。子どもたちから出た、「均一」といった言葉が何を表わしているのか深めることもありません。「均一」という言葉が理科の言葉に高まっていません。また、何を根拠として「均一」なのかも明確にされません。そのことを確かめるのにどのような実験をすればよいかを考える場面もありませんでした。
子どもたちも自分たちの活動が何だったのかわからないままの1時間でした。最後まで、理科として何を学んだのか明確にされないままでした

検討会では、理科として何を目指しているのかを知りたいという質問が出てきます。若手からは発表を板書したために子どもを見ていなかったことがもったいないといった指摘があります。ベテランからは、子どもの発表を順番にするのではなく、同じ考えや同じ根拠、また違う考えをつないでいくとよいと、具体的な場面を例にアドバイスがされます。みなさんの意見から学校全体としての授業レベルが上がっているのを感じます。この授業で私が感じたことは、ほとんど皆さんから出てきました。私からは、理科に限らず日常用語をどう教科の用語に高めていくかを意識してほしいことをお話ししました。今回の授業でいえば「溶ける」という日常用語を理科の用語として、どう子どもたちの共通の言葉にするかを意識してほしかったのです。
そして、これだけ皆さんの授業の質、授業を見る目が高まっているのですから、それをいかに共有するかを意識してほしいとお願いしました。日ごろから互いに授業を見あって、よいところを学び合ってほしいのです。きっとみなさんの授業がもう1段レベルアップすると思います。

検討会終了後、授業者と話す時間をいただけました。
子どものできないところを見るのではなく、できていることを見る。できないことを減らすのではなく、できることを増やす。そういう視点で、子どもとの関係づくりを授業で進めてほしいこと。
自分の教えたい知識を結論として与えるのではなく、子どもが科学的なものの見方・考え方を身につけることで、自分たちで気づくような授業を組み立ててほしいこと。
教科書をもっと読み込むことで、理科としてどのような力を子どもたちにつけるのかを明確にしてほしいこと。
このようなことをお願いしました。

まだまだこれからの若い先生です。まわりに手本となるよい先輩たちがたくさんいる、授業力をつけるためにとてもよい環境の学校です。今後どのような成長をしてくれるか楽しみにしたいと思います。

アンケートの対応も比べられる

秋は行事が多い季節ですが、最近はそれに伴いアンケートの季節とも言えるように思います。学校評価に関連してアンケートを取る機会が増えているのです。特に行事は終了後時間が経っていると記憶があいまいになるので、できるだけ早く実施することが望まれます。ではその結果の保護者へのフィードバックはどうでしょう。学校側の都合でいえば、反省と次年度の計画までに集計しておけばいいのでしょうが、保護者としてみれば1月も経ってからその結果見せられても、自分がどう答えたかも覚えていないということになります。

そこで最近はOCR(マークシート方式)やWEBのアンケートシステムを使って素早く実施・集計する学校が増えてきました。行事の翌週にはホームページにアンケートの速報が載っている学校も珍しくなくなってきました。とはいえ、結果を知らせるだけであればアンケートの意味はありません。その結果をどのよう評価し学校としてどう対応するかを伝える必要があります。しかし、結果はICTを活用して素早くできるとしても、分析や対応はすぐにできるわけではありません。以前に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」という言葉を伝えましたが(他校の取り組みをどう見るか参照)、このアンケート結果への対応も「校長比べ」の重要な要素のように思います。

結果を公表してもその内容についてのコメントがなければ、保護者の信頼は得られません。特に自由記述欄に意見を書いた方は、それに対する反応を期待しているはずです。公表するだけでは、かえって無視したようにもとられてしまいます。その意見を今後どのように扱かっていくのか、結果の公表とあわせて明確に伝えることが大切です。「こういう理由で対応することは難しい」「次年度に向けて検討する」このことを伝えるだけでも随分印象は変わります。意見を書いた方もそれがそのまま通るとは思っていません。きちんと説明されれば納得していただけるのです。もちろん、検討するといったことは次年度きっちりその結果を伝えなければいけないことは言うまでもありません。

ホームページも毎日更新することから、その発信内容の質が問われています。アンケートも素早く実施・集計することから、一歩を進んでその対応の質が問われてきているように思います。保護者の目には、学校間、校長間の格差がますます大きくなっているように見えているのではないでしょうか。

子どもたちが一生懸命だから課題が見える

昨日の日記の続きです。

国語の授業研究は批評文を書く前の自分の考えを持つ場面でした。
授業は最初から4人グループの形です。グループ活動が意識された授業だとわかります。授業者は笑顔で子どもたちと接しています。子どもたちも先生の期待に応えようと一生懸命に授業に参加していました。

題材となる詩をもとに個人で「15歳の定義」を書く。その定義についてグループで意見交換をして「客観性について理解を深める」というこの授業の流れを説明します。大きく2つに分かれる活動の指示をまとめてします。定義を書くといった活動の指示はするのですが、具体的に何を書けばよいのか明確になりません。その根拠も考えるように指示をします。そもそも「定義」という言葉の定義が曖昧です。続いて、意見交換の進め方の説明に入ります。授業者が例として「20歳の定義」を示します。「まだまだ子どもだ」という定義に対して、子どもに客観的かどうかを問います。根拠として「食品冷凍庫で寝ている姿をツイッターで発信する」ことをあげました。子どもからは「普通の人はそんなことはしない」と客観的でないという意見が出ます。このようなやりとりの中で、「一般的でない」という言葉がでてきます。今回の「15歳の定義」は一般的なものを目指すのかもよくわかりません。再び定義の話に戻り、詩を参考にしてその内容と関係のあるものにするように説明します。しかし「15歳の定義」という言葉は詩には出てきません。最初にあげた「客観性について理解を深める」こととこの定義の関係も不明確です。目標となる「客観性について理解を深める」という言葉も子どもが理解できる言葉ではありません。教師の考える目標であって、子どもが目指す目標にはなっていないのです。授業を聞いている私たちも、何をすればよいのかわかりません。

子どもから、「15歳の定義」は主観的なものにすればいいのですかという質問が出てきました。授業者は「20歳の定義」として主観的なもの例とし、それに対して客観的かどうかを議論しました。「客観性について理解を深める」というねらいなので、主観的な定義をすることで客観性を議論しやすくするのだと考えたのでしょう。授業者はできるだけ客観的に書けばいいと説明しましたが、この活動の目的は不明確のままでした。
子どもが教師の指示に対して問い返す場面には意外に出会えません。あったとしても、このような的を射た質問は稀です。子どもが優秀だということもあるのでしょうが、子どもたちと授業者の関係がよいことが安心して指摘できる大きな要素だと思います。授業者は質問してくれたことを子どもに感謝していました。このような姿勢がこの学級の雰囲気をつくっているのだと思います。

説明の時間が長かったのですが、子どもたちはよく話を聞いていました。個人作業になった途端子どもの声があちこちから聞こえてきます。緊張が弛んだのではありません。今から何をすればいいのか確認し合っているのです。子ども同士でわからないことを聞き合えるよい関係です。子どもたちの姿から、何をやればいいのか理解できていなかったことがよくわかります。指示が簡潔に整理できていなかったこともそうですが、授業のゴールが不明確だったことが一番の理由のように思いました。
それでも、子どもたちは一生懸命に課題に取り組みます。しかし、子どもたちが何をすればいいのかよくわかっていないので、授業者は何度も追加の指示や説明をします。しかし、作業を止めないので、子どもたちの集中を乱すだけです。

意見交換の時間になりました。すぐに始まるのかと思うと、ここでまた説明が入ります。ならば、活動ごとに目標を明確にして、その都度指示をした方が効率的です。意見交換が終わって時間が余ったグループは、「より伝わる」ようにするにはどうすればいいのか話し合うように指示をしました。「より伝わる」という言葉が唐突に出てきました。これが目標なのでしょうか。ならば、客観性ではなく「相手に伝わる、納得してもらう」を目標とすべきでしょう。授業の足元が揺れています。
それでも、子どもたちは積極的に意見交換しようとします。しかし、この場面での「客観性」が明確でないので、根拠を持った話し合いにはなりません。予想通り子どもたちは自分の考えを主張しますが、互いにかみ合いません。「おれはそうは思わない」から客観的でない。客観性にこだわるあまり、どんどん自分の思いが削られていく。「元の詩を参考にして」という言葉に引っ張られ、客観性が元の詩に書いてあるかどうかということになっている。共通の基盤がないため空中戦になってしまいます。当然子どもたちのテンションは上がっていきます。深く考えるのではなく、思いついたことを言いあっているのです。

授業者は最後に1人を指名して、その子の考える定義と根拠を発表させました。かなりの長文をとうとうと話します。言葉は明確ですが、ただ読んでいるだけで間もありません。相手に理解してもらおうという話し方ではありませんでした。確かに中学生としてはしっかりしたことを言っているようなのですが、正直私には何を言いたいのかよくわかりませんでした。聞いている子どもたちも同様だと思います。授業者はそのグループの子どもたちが納得して何も言えなかったと評価しました。もし本当にそうなら、どこで納得したか聞き返すべきです。まず、答えられなかったはずです。どの子ども「なんかすごいことを言っているようだ」と思うだけで、本当に理解しているわけではありません。もし、この意見を取り上げるのであれば、全員が発表を理解できるようにもう一度じっくり聞き直すべきです。途中で止めて、ここまで理解できたかを確認しながら共有すべきなのです。コミュニケーションは伝わることが一番です。自分の考えを伝えることを、それこそ「よく伝わる」ためにどのようにすればよいかを学ぶよい機会だったのです。長くて難しそうなことがよい意見だという価値観を持たせてはいけないのです。この意見を聞いていた先生の中には、すごい子がいると感心していた方もいるようでしたが、「どのような意見だったか言ってください」と問い返されたら答えられなかったと思います。そんな発表をそのままよいものだと評価してはいけないのです。意見のどの部分がよかったか、どこで納得したのかきちんと評価してはじめて意味があるのです。
発表して終わるのなら、なぜこの子を指名する必要があったのか疑問です。最後に、このような発表をさせたために、この授業の目標がますますわからないものになってしまいました。子どもたちは一生懸命活動しましたが、何を学んだのかがよくわからない、どこに到達したのかもわからないミステリーツアーになってしまいました。

授業検討会では、それぞれの先生が見ていた子どもの事実が固有名詞でしっかりと語られます。子どもたちをとてもよく見ています。小規模の小中一貫校なので、小学校の先生も中学生をよく知っていることが子どもを把握しやすくしているのかもしれません。小中一貫校のよさでしょう。
語られた事実から、「子どもたちが『定義』として何を書けばいいのかよく理解していなかった」「ここでいう『客観的』とはどういうものか明確でないまま意見交換をしていた」といったことが浮かび上がってきます。時間の関係でそこで検討は終わって私の助言になってしまいました。本当はそこから先生同士で、「ではどうすればよかったのか」を話し合えれば、私の話よりもよほど多くのことが学べたと思います。とても残念でした。限られた時間しかない検討会です。授業者の反省といったことを省略して、子どもがどうであったか、その原因やどうしていけばよいのかといったことを話し合うことに時間を割くことが大切だと改めて思いました。

端的に言えば、今回の授業は子どもにどうなってもらいたいかという目指す姿が明確になっていないものでした。批評文を書くというゴールに対して、どういう位置づけの時間かを子どもに伝えることが必要だったのです。
批評文は、その対象となる文章を正しく理解した上で、その文章で主張されることに対して自分はどのように考えるか明確にし、読み手に納得させるような根拠を示します。授業の前提としてその構造をまず全員で共有する必要があります。
その上で、今回の教材であれば、「詩の作者は15歳とはどういう時だと書いているか」「その言葉でどのようなことを伝えたいと思っているのか」をしっかりと押さえる必要があります。批評文の構造の最初の部分にあたるところです。
それに対して、「自分の考える15歳とはどういう時かを伝える言葉」が、今回の「15歳の定義」です。その言葉で「自分の考えが伝わるかどうか」を聞き合うのが「意見交換」の場です。「伝わるかどうかを決定する要素」が今回の授業でいうところの「客観性」です。これが批評文の構造の後半に対応します。
たとえばこのように授業の軸を再構成することで、同じような流れでも子どもたちの活動の中身は大きく違ったのではないかと思います。この時間で考えたことをもとに批評文を書くことも意識できたはずです。

今回の授業では、子どもたちが一生懸命に取り組んでくれたことと、先生方の子どもを見る目の確かさのおかげで授業の問題点がとても明確になりました。学びの多い授業研究だったと思います。学校として授業を見あうことをとても大切にしていることと無関係ではないでしょう。学校全体の授業力の向上が期待できると思います。次回は小学校を中心に授業を見させていただく予定です。今からとても楽しみです。

小中一貫校で考える

昨日は小中一貫校の現職教育に参加しました。まず学校全体の様子を1時間ほど見て回りました。その後の授業研究は中学校3年生の国語でした。

2回目の訪問ですが、前回同様子どもたちの表情は柔らかく、教師の笑顔もたくさん見られました。ただ、教師が教えようとする姿勢がまだ強く、どうしても教師がしゃべりすぎる傾向にあります。
この日目についたのは子どもの作業中に教師が追加の指示をしたり、一部の子ども対象の説明をしたりすることです。教師が子どもの集中を乱しているのです。指示は整理して簡潔に伝えることが大切です。追加の指示が必要ならいったん作業を止めて全員に確実に伝えなければなりません。中途半端な状態で指示を出すことが続くと子どもが指示を聞かなくなります。また、子どもが作業中に個別に教師に質問をします。それに対して教師が丁寧に対応します。指示を聞いていなくても個別に答えてくれるのならますます指示を聞かなくなります。もし全体に対して指示した内容であれば、まわりの子どもに聞くように促すことが大切です。子どもの個別の質問に対して、全体で取り上げるべきものなのか、まわりの子どもとつなげばいいことなのか、それともその場で教師が対応すべきものなのかをきちんと判断するよう意識してほしいと思います。

子どもに対して、今は何をする時かを明確にできていない場面を目にします。板書を写す時なのか話を聞く時なのか。顔を上げて聞く時なのかプリントを見て聞く時なのか。子どもにしっかりと伝えることが授業規律の確立につながっていきます。
また、何をするのか活動の指示が明確でも、目標がはっきりしていないこともよくありました。子どもが自分で評価できる具体的な基準を示すことが大切です。

予定の時間が来ても作業が終わらない子どもが数人いると、どのくらい時間がほしいか聞いて延長する傾向が先生方にあります。単純作業であればある程度プレッシャーをかけ、時間内にできるようにさせる必要があります。時間内にできなくても延長してもらえるとわかっていれば、子どもはのんびりと作業をします。これでは授業がだれてしまいます。考えることが必要な作業であれば、時間を与えればできるのかどうかが問われます。解決の手段が与えられなければ、結局時間がムダに過ぎていくだけです。わからなければ友だちに聞くというのが一番簡単な解決方法です。そのためには、子どもたちが「わからないから教えて」と安心して言えるようにすることが大切です。また、無理して延長するぐらいなら作業を止めて、できていない子どもにどこで困っているかを聞くことから始めてもいいのです(子どもの作業が終わっていないときにどうするか参照)。

子どもたちが次の作業に移るときにムダなおしゃべりをしたり、伸びをしたりする場面にも出会いました。子どもたちがよい姿勢であっても決して集中しているとは限りません。受け身で緊張を強いられている場合もあります。緊張は長くは続きません。必ずどこかで弛緩することになります。次の作業に移るときは子どもたちにとってそのチャンスなのです。子どもは正直に行動で教えてくれるのです(集中と緊張参照)。

どの先生方も子どもに対して、丁寧な対応を心がけています。そのことが子どもとの関係のよさにつながっています。しかし、一つ間違えると甘えとなってしまうこともあります。授業で徹底したいことは何かを具体的にし、学校全体で共有することで、小中一貫校のよさを活かして大きく進化できると思います。

授業研究については明日の日記で。

次の課題が見えた授業研究(長文)

前回の日記の続きです。

授業研究は1年生の国語の文法の授業で行われました。接続語の学習です。授業者は今年小学校から異動になった7年目の先生です。
授業者は最初に授業の流れとゴールを明確にしました。「教科書を読む」「教科書の内容をワークシートにまとめる」「ワークシートの問題を個人で解く」「問題ができたら短文をつくる」「グループの全員が問題を解けたらグループで答えを確認する」という流れを簡潔に説明します。この場面だけでなく、授業のどの場面でも指示が簡潔で明快でした。ゴールも短文を全員がつくれると明確なのですが、ちょっと気になることがあります。それは、国語の授業として短文つくれることが目標でいいのかということです。そのことを意識しながら授業を見せていただきました。

授業者の話に小さくうなずく子どもが何人もいます。子どもがしっかりと反応してくれます。日ごろから、子どもに反応をうながし、評価していることがわかります。ワークシートの説明場面では、ワークシート見ている子どもと授業者を見ている子どもがいます。授業者としてはどちらの姿を望んでいたのでしょうか。実物投影機を簡単に利用できる環境であれば、おそらく全員の顔が上がるように指導していたのだと想像します。プリントを使う場面ではICTの環境が整ってほしいと改めて思いました。

授業者は範読している時に一度読み間違えました。理由は、視線を子どもたちと教科書との間を行き来させていたからです。この場面に限らず、子どもたちを見ることを常に意識しています。子どもたちがいつもよく集中している理由がわかります。
ペアでの音読では「記憶に定着させてください」と目標をはっきりとさせています。しかし、その目標に対して評価が明確ではありません。このことを意識するととてもよい授業になっていくと思います。ペアでの音読は、間違えたところを教え合っている姿も目にします。互いに向き合っているよい関係のペアをたくさん見ることができる反面、前を向いたままのペアも目立ちます。この学級に限らず、この学校ではだれとでもかかわれる人間関係をつくることが難しいように感じます。授業の中で子ども同士の関係をつくることをもっと意識する必要があると思います。

授業者はあまり机間指導をしません、しかし、子どもたちを非常によく見ています。机間指導よりも、全体を見ることの方が大切にしています。ペアの音読終了後、教え合っていた子どもたちのことを具体的にほめていました。ありがとうという言葉も、よく聞かれます。ポジティブな評価を大切にしていることがわかります。子どもたちとの関係のよい理由がわかります。

続く作業の指示も明確でした。確認をした時に、多くの子どもが反応します。当然、子どもたちは素早く作業に移ります。ムダのない進み方です。子どもたちに与えた時間は8分です。この時間は子どもたちが集中しないとできない時間なのでしょう。どの子ども集中して取り組んでいます。日ごろから、子どもたちが頑張らないとできない時間を設定しているのだと思います。時間が来てもまだ終わっていない子どもも何人かいますが、延長しません。問題を解いた後の時間にやっておくように指示します。安易に延長しないことも、子どもたちが集中する理由でしょう。
ここで、問題になるのは写すことの意味が何かです。子どもたちは教科書を写すことに慣れているのでしょう。目が教科書を追いながら一定のリズムで写しています。しかし、先ほどの音読と同じく記憶することがねらいなら、そのことをもっと意識した作業にすべきでしょう。音読の評価とあわせて、教科書を見ないで写す。接続語ごとに、一度でまとめて写すといった指示をするとよいでしょう。
子どもの作業に対して、丁寧に書いているといった評価も忘れません。しかし、国語の授業としてのねらいを評価する具体的な基準がないために、行動面での評価しかできません。

問題を個人作業で解かせます。個人作業ですが、わからなくて友だちに聞いている子どももいます。そういう関係ができているのであれば、最初からグループで個人作業を行ってもよいと思います。わからない時にわかるための方法を持たせていなければ、わからない子どもはそこで止まってしまいます。そのための一番簡単な方法が友だちに聞くことです。
授業者は接続語を選ぶにあったて、根拠を説明できるようにと子どもたちに求めます。根拠を大切にしていることがよくわかります。
グループでの答え合わせは、子ども同士がしっかり聞き合えていると感じました。しかし、この時間で学習した「順接」「逆説」「並列」といった国語の用語を使って説明しているグループはあまり多くはありません。子どもたちの活動だけを追えば自然につながったよい授業に見えるのですが、国語としてみると個々の活動がきちんとつながっていないのです。日常的な言葉を、定義や概念が明確な用語に置き換えて話すことでより正しく伝わります。それが用語を学習する目的の一つです。ここでは、そのことを意識してほしいのです。「この日学習した用語を使って説明しよう」という条件をつける。答え合わせの途中でいったん止めて、用語使って説明していたグループに発表させて、そのことを評価して全体で共有する。このような、働きかけをしてほしいのです。

全体での確認場面では、各グループで答の確認ができていた問題を「1番は全員ができている」ととばしました。よい判断だと思います。子どもたち全員が正解を確認できている問題の解答をしてもだれるだけです。
全体での説明の場でも、子どもたちから出てきた用語は「順接」「逆接」「付加」だけでした。国語の授業としては、用語使って説明したことを評価することが大切です。「他の例も用語使って説明して」とつなげていけばよかったと思います。

2文をつなぐ接続語を入れる問題で、接続語を1つ入れてから「何の仲間」と問いかけて、他の接続語を導き出していました。実はこれは論理としては逆なのです。2文の関係から「順接」や「逆接」といったことがわかります。そこから、入れるべき接続語が決まるのです。感覚で選んだ接続語をもとに考えるのはおかしいのです。現代文は私たちの母語ですから感覚で答を出すことができます。そうではなく、文法をもとに正しく伝わる文にする、解釈することが文法の学習の目的の一つです。試験で解けることだけを考えて感覚で答えることを教えては、高等学校で古文に出会った時に困ってしまいます。

問題の中に、「順接」「逆接」どちらも入るものが用意されていました。「頑張った」「結果が2位」という文をどうつなぐかです。「どちらかなのか」「どちらでもいいのか」子どもたちに説明させます。「順接」の場合は、今まではあまりよい結果でなかったので2位がよい結果と思える。「逆接」の場合はもっと上を目指していたので、2位が悪い結果と思えると何人かが説明をします。子どもの説明の後、「どうですか」と授業者が聞き、「いいです」と子どもたちが答える場面がありました。他の子どもに「もう一度、○○さんの考え説明してくれる」「同じような考えだった人いる?あなたの考えを説明してくれる」とつなぎたい場面でした。
子どもたちはそれぞれの場合の説明をしましたが、「だからどちらでもいい」という言葉は出てきませんでした。しかし、授業者は「どっちでもいい理由を言ってくれたね」とつないでしまいました。おそらく授業者は意識していないのですが、結論を自分が出してしまっています。子どもに根拠を持って発言させるのですが、正解かどうかの判断を授業者がしている場面が目立ちました。これでは「教師が根拠を求めるから、根拠を言う」ことになってしまいます。根拠をもって話すのは、みんなに納得してもらうためだという価値観を持たせることが必要です。子ども同士がかかわる活動を大切にしているのですが、教科の内容に関しては、教師とつながっているだけで、子ども同士はつながっていないのです。

接続語を選ぶことで伝わることが変わることもあることは押さえましたが、接続語を学んだことの国語としての意味は明確になっていません。この日扱った問題は、接続語がなくても2文の関係がわかり意味が通じるものがほとんどです。あたりまえです。だから、接続語を選べるのです。とはいえ、接続語を入れることで2文の関係がより明確になります。読み直したりしなくても、意味がよく伝わるのです。ですから、説明文では接続語に注目して読むことが大切になります。おそらく日ごろそのようなことは指導しているはずです。その根拠が明確になる場面でもあるのです。

最後に子どもがつくった短文を発表させました。子どもたちに使われている接続語が適切かどうか考えて聞くように指示をしました。とてもよい指示です。聞くことを大切にしていることがよくわかります。しかし、発表の後「いいよね」と授業者が適切かどうか判断してしまいました。これでは子どもが聞く意味がありません。判断を子どもに委ねることを意識してほしいと思いました。

検討会では、子どもたちの授業に取り組む姿、授業規律のよさが評価されました。目指す姿がはっきりしていて、それを徹底していることがクローズアップされます。その通りです。問題はその方法です。個性はあっていいのですが、できていないことを指摘するのではなく、できていることをほめるようにしてほしいことを皆さんにお願いしました。
今回の授業はこの学校が目指す授業の姿の中間地点を教えてくれるものだったように思います。授業者は「話し合い」ではなく「聞き合い」が大切であることを子どもたちに意識させています。子どもたちはしっかり聞き合うことができています。集中して授業に取り組んでいます。だからこそ、教科としてどのような学びがあったのか、どのような学力をつけたのが問われるのです。そのことを問うに足る授業を見ることができたのはとても素晴らしいことです。
授業者は自分では子どもの活動を全部見ることができないので、子どもの振り返りでは、自分の頑張ったことだけでなく、友だちの頑張りやよかったことを書くこと大切にしています。とてもよい発想です。子ども同士の関係づくりにはとてもよいことです。しかし、そこに留まってしまってはいけません。教科として学んだことは何かを子どもに明確に意識させることが大切です。逆に言えば子どもたちが何を書いてくれればよいのかを授業者が意識して授業に臨むことが大切なのです。今回の授業は、そのことを少し意識するだけで大きな進歩をすると思います。

検討会終了後、国語科の先生方とお話しする時間がありました。全体ではあまり話ができなかった教科のことを中心に話させていただきました。
授業者から学級経営と授業に関して迷いがあるという話を聞くことができました。自分の学級に学校に来られない子どもがいる。自分の学級経営や授業に問題があるのではないかというのです。謙虚に自分を振り返ることができるからこそ、あれだけの子どもたちを育てることができているのだと思いました。
教師と子どもの人間関係と比べて、子ども同士の関係が弱いように感じました。簡単に答を出せることではありませんが、ここに原因があるのかもしれません。子どもの発言や活動の評価を子ども同士でさせることを意識するとよいのではないかとアドバイスしました。

いつも言っていることですが、基本がしっかりできているから、指摘することや課題もそれだけ多いのです。授業規律が守られ、子どもの聞く姿勢ができているからこそ、教科の力をどうつけるかという課題が明確になってくるのです。この学校がたどり着こうとしているところと次の目的地を示してくれた授業でした。授業者だけでなく、学校全体にとって、そして、もちろん私にとっても学びの多い授業研究でした。

研究発表会は分岐点

昨日は来月末に研究発表会が開かれる中学校の現職教育に参加してきました。授業研究とそれに先立つ1時間授業の様子を観察させていただきました。

1年生は子どもと教師の人間関係のよさを感じます。教師の表情が柔らかいとそれに合わせて子どもの表情も柔らかくなります。裏を返せば、教師の表情が厳しい時は子どもの表情も硬くなります。授業者の話もよく聞いているのですが、姿勢がちょっと緩いように思いました。一般的に、子どもたちは話を漫然と聞いている時は体が少し後ろに反り、集中度が上がると身体が前に傾きます。背筋がしっかりと伸びている時は、集中よりは緊張が強い時です。そのいずれとも違い、体が傾いていたり、肘をついていたりといった姿勢が目立つのです。しかし、決して話を聞いていないのではありません。いや、むしろよく集中しているのです。この事実をどう解釈するかは難しいのですが、おそらく、集中するしないとは別に、緊張する場面が学校生活の中にはっきりあるのではないかと思います。子どもと教師の人間関係はよいので、教師が柔らかい表情で接してくれる授業では、緊張が過度に緩んでしまうのではないでしょうか。是非先生方でその答を見つけてほしいと思いました。

2年生は以前と比べて落ち着いているように感じました。子どもと教師の関係はよくなってきていると思います。教師の話を聞く雰囲気が出てきました。しかし、気になることがいくつかあります。研究授業の時間は該当する学級以外は自習なのですが、その最初の様子を見ると授業中よりも集中度が高いぐらいなのです。これもどう解釈すればいいのか悩むところです。先ほど述べたことと矛盾するようですが、まだ教師との人間関係に課題があるのかもしれません。生活面などで子どもが強制されているように感じる指導があるのかもしれません。子どもを認める場面をもっと増やしていくことが必要なのではないかと思いました。というのも、授業者が子どもをよく見ていて、ポジティブに評価し、「ありがとう」の言葉かけをたくさんしている学級では、子どもの集中力が高く雰囲気が違っていたように感じるからです。生活指導上の問題もあるので簡単に論ずることはできませんが、子どもをチェックするのではなく、見守る、育てる姿勢で接すること大切にできるとよいと思います。
もう一つ気になったのが、机に伏せっている子どもが目立ったことです。このこと自体よりも、まわりの子どもがその子どもにかかわろうとしていないことが問題なのです。グループ活動をしている時でも、伏せっている子どもに誰も声をかけないのです。グループ活動そのものを目的とするのではなく、子ども同士の関係をつくることを意識する必要があります。また、こんな場面もありました。指名された子どもが答えられなくて困っている時、ほとんどの子どもが無関心で他人事のような態度を取っていたのです。伏せっている子どもの問題と根っこが同じように思います。

3年生は子どもの表情もよく、意欲的に学習に取り組んでいるのですが、受験に関係のない教科ではちょっとテンションが上がり気味に見えました。子どもたちが教科によって態度を変えてなければよいのですが、どうなのでしょう。もう少し多くの授業を見る必要がありそうです。
ほとんどの子どもたちがよい表情で授業を受けているのにもかかわらず、授業に参加できない子どもがいることが気になりました。やってもダメだとあきらめているように見えます。まわりの子どももその子どもを支え切れなくなっているのでしょうか。難しいことだとはわかっていますが、何とか学級の子どもたちが苦しい子どもを支えられるような関係にもっていってほしいと思います。

全体的に子どもたちと教師の人間関係はよいようです。授業規律もかなり確立できているように思います。ただ、学習課題が子どもにとって必然性のあるものになっていないことが多くあります。教師の説明がまだまだ多すぎると感じる授業が目立ちます。そのため、子どもが受け身になっていると感じることが多いのです。子どもとの関係をさらによくして、子どもの言葉を活かした授業を目指してほしいと思います。そのためには、子どもが安心して発言できる教室をつくり、子どもの発言や反応をポジティブに評価し、子どもの言葉を他の子どもにつないでいくことが大切になります。
学校としてできていることが増えているから、課題もより多く見つかってきます。この課題を一つひとつ丁寧に解決していこうとすることが大きく進歩するきっかけとなります。研究発表会はゴールではなく、学校が進化していく過程のチェックポイントの一つです。これをきっかけにさらに大きく前へ進むか、それともできたことに満足してそのまま停滞するのかの分岐点です。この日の授業研究はまさにそのことを象徴するようなものでした。

授業研究については次回の日記で。

「楽しく授業研究をしよう」第7回公開

「愛される学校づくり研究会」のWEBサイトで、教育コラム「楽しく授業研究をしよう」の第7回2つの授業検討法の課題が公開されました。

ぜひご一読ください。

研究発表会の季節が近づく

秋分も過ぎ、秋らしい日が増えてきました。研究発表会の案内が届いてきます。秋は研究発表会の季節でもあります。私がかかわらせていただいている学校でも、この秋に研究発表会を開くところがいくつかあります。どのような発表になるのか、案内を見ながら思いを巡らします。
どの学校も研究を通じて得たことがあると思います。授業公開する学校では、素晴らしい子どもの姿が見られ、その姿はどのようにしてつくられたのか参加者に明らかになるようなものであれば素晴らしいと思っています。

発表会によっては、「こんなにいい学校になりました。どうぞ見てください」という成果だけが目について、何がこの学校のよさをつくり出したのかよく伝わらないことがあります。「こんなことをやりました」とやったことだけをたくさん伝えられ、一つひとつがどのように有効だったのか、どこに改善点があったのかがわからないこともあります。参加された方が、自分の学校に取り入れようとした時に知りたいと思うことを伝える努力が必要です。時には、実際に行った改善策などよりも、それを学校全体に広めるためにどのような体制をつくったのか、先生方の関係をどう作り上げたのかといったことを発表する方が、参加者には参考になることもあると思います。
講演をお願いされた学校に対して、講演の代わりに研修主任や何人かの先生方とのパネルディスカッション(座談会?)を提案することがよくあります。それは、「どんなことが学校を変えるきっかけになったのか」「うまくいくためのポイントは何か」といった参加者が知りたいと思うことを私が代わって聞き出すことの方が、私の拙い講演よりもよほど参加者の役に立つことだと思うからです。

私のアドバイスは、学校によってかなり異なっていると思います。もちろん子どもと教師の関係、授業規律の問題など、共通してお話することもありますが、基本的にそれぞれの学校が目指すところによってアドバイスの内容は大きく違います。発表会に参加される方やその所属する学校も、それぞれ目指すものや状況は異なります。「どのような課題があり何を目指したのか」「どのような学校にとって有効なことか」が端的に伝わることが大切だと思います。そうすることで、参加者が研究のどこを参考にすればいいのかがよくわかるからです。「やっと、ここまでです」「まだまだこんな課題があります」「こうするとうまくいきません」「こんな失敗をしました」といったことを隠さず伝える方が参加者にとっては有益なこともあると思います。

研究発表会は、自分たちの研究の成果を発表する大切な場です。だからこそ、「こんな成果が出ました」「こんなに頑張りました」と多くの方に知ってもらいたい、伝えたいという気持ちが前面に出ます。しかし、研究で得たことをできるだけ多くの学校に役立ててもらうことこそが本当に大切なことだと思います。参加者の立場に立って、「何をどう伝えれば、より自分たちの研究を活かしてもらえのるか」という視点を発表に加えてほしいと思います。

この秋、いくつかの研究発表会に参加する予定です。そこでどのようなことを学べるのか今からとても楽しみです。

体育大会で子どもたちの成長をみる

先週末は学校評議員を務めている学校の体育大会に、来賓として参加させていただきました。
いつものことですが、子どもたちがどのような成長を見せてくれるかとても楽しみです。

開会式では、子どもたちの視線が印象的でした。しっかりと壇上を見つめています。端の列の子どもたちが体を自然に内側に向けているのに気づきます。とても素晴らしい姿勢です。
例年、聞く姿勢や集団行動面で差があるので、1年生がどの集団かすぐにわかるのですが、今年はよく見ないとわかりませんでした。かろうじて体の大きさの違いでわかる程度です。学年の差が縮まったようにおもいます。というか、高いところで揃ってきたという感じです。
何人も交代で話が続くので集中力が切れやすいのですが、最後までしっかりと保てていました。中でも校長の話の時の集中力はとても高いものでした。校長の話ということもありますが、やはり指導力も大きいと思いました。受け身の状態を変えるために、子どもたちに声を出させます。大きな声が出せるようになってから、「次は挨拶をします」と宣言し、子どもに心の準備をさせます。とてもよい挨拶になるのは当然です。こういうことが自然にできるのは流石です。集団に対する指導の上手さは、専門教科が体育であるからかもしれません。よい勉強をさせていただきました。

一方、係の子どもたちですが、今年は特にやらされている感が少ないように思いました。しっかり指導されてきちんとやっているというより、自分で一生懸命考えてやっているという雰囲気です。ただ、国旗掲揚や進行の係は、旗を揚げることやアナウンスに意識がいってしまい、自分たちが見られているという意識があまりありませんでした。公的な場であることを意識し、背筋を伸ばして美しい姿をつくろうとしてほしいところでした。最近はそこまでは指導しないのかなと思いましたが、聞けば今年は、教師の口出しをできるだけ減らし、子どもたちに考えさせ自分たちでつくる大会を意識させたそうです。いろいろな意味で納得できる話でした。
子どもたちの係の中でとても印象に残っているのが、トラックの審判です。1レースごとに違反がないか旗を揚げて知らせるのですが、例年は旗を揚げる時に顔が下がったままの子どもが目立ちます。無理もありません。暑い中、選手の足元を見ながら淡々と旗を揚げ続ける仕事です。モチベーションを維持するだけでも大変です。しかし、今年の審判は、どの子どもも背筋を伸ばし、顔を上げ、肘を伸ばしてまっすぐに旗を揚げます。とても気持ちのよい姿でした。見ていて感心しました。大会を支える地味な仕事ですが、自分に与えられた大切な仕事としてとらえていることがよくわかりました。

体育大会では競技している子どもではなく、観戦している子どもたちの様子を見るのが私の常です。昨年は、自分の学級の友だちが参加している時だけ集中して、他の学年の競技の時にはまわりとおしゃべりしているような姿も目につきましたが、今年は違います。どの学年もどの競技でもしっかりと観戦し、声援をおくっています。
スタートの準備の笛が鳴ると、運動場全体に緊張がみなぎります。該当学年でなくても全員の視線がスタートラインに集中しています。昨年と比べて大きく進歩していました。

クラスマス(ゲーム)で、とても素晴らしい姿を見ることができました。全員が運動場の正面に座り各学級の演技を見るのですが、午前は1、2年生だけで3年生の演技はありません。その3年生が各学級の演技の見せどころで自然に拍手をするのです。それにつられて各学年からも大きな拍手が起こります。自分たちの出番がないところで、見る姿勢で下級生を引っぱっていました。これが最上級生ということなのでしょう。

時間の関係で、午前中で失礼しましたが、子どもたちの成長した姿をたくさん見ることができ、とても幸せな時間を過ごせました。いろいろ指導したいこともあるでしょうが、その気持ちを抑え、先生方が子どもたちに多くを任せ、考えさせたことが成長の原動力のように思いました。先生方に見守られて子どもたちが生き生きと頑張っていました。この日の空のように、さわやかな気持ちで学校を後にしました。

研究授業と検討会で考える

前回の日記の続きです。

授業研究は小学校6年生の国語の授業でした。意見文を書いてスピーチをする単元の第2時です。「平和のとりでを築く」という文をもとに平和について考えるという時間でした。
授業者はちょっと緊張気味でしたが、それでも笑顔をつくろうとしているのがよくわかります。子どもの発言をポジティブに評価しようとする姿勢も見られます。また、日ごろから板書を写す時間を明確にしていることにも気づきました。子どもたちは指示があるまで写すことをしません。集中して話を聞いています。授業規律を意識して学級経営をしていることがよくわかります。

前半は前時の復習に続いて題材となる文の内容の確認です。教科書をペアで音読させます。ペアでの読み方の指示は明確ですが、何を目的としているのかが明確ではありません。ただ交互に読んでいるのです。活動とねらいの関係が不明確なことが気になります。
筆者が原爆ドームの世界遺産登録を不安に思っていた要因を個人作業で本文から3つ抜き出させます。挙手した子どもを指名して、正解であればそれを板書していきます。戦争の悲惨さを伝えるものであること、過去の世界遺産と比べて規模が小さく、歴史が浅いことを抜き出します。後半に時間を使いたかったのでしょう。一問一答に終わっていました。であれば、個人作業をする意味はあまりありません。全体に問いかけながら確認していくので十分でしょう。せっかく作業をしても一問一答で終わるのであれば、「正解探し」をしただけです。このようなことが続くと子どもたちは根拠を持って考えることをしなくなってしまいます。個人で作業をさせるのなら、きちんと根拠を持って子どもが互いに納得して答を見つけていく過程が必要です。
筆者は原爆ドームと他の世界遺産とを具体的には比べていません。そこで授業者はタージマハルやモヘンジョダロの写真をスクリーンに映してその規模や時代を示します。最後に原爆ドームのデータを映して比較しました。他の世界遺産と比べて規模が小さく、歴史が浅いといっても子どもたちにその知識がないからです。ICTを自然に活用してムダな時間を減らそうとしていました。しかし、それでもかなりの時間を使っています。「平和のとりでを築く」という筆者の平和への思いをもとに子どもたちに「平和について考えさせる」のがこの時間の目的です。「戦争の悲惨さを伝えるもの」に対して、「規模や歴史の問題」はこの文章に関してはあまり大きな意味がありません。だから筆者はこのことを詳しく記述していないのです。数点の遺跡とその写真に比較できるように原爆ドームを同じ縮尺で重ねるなどの工夫をすればもっと時間を減らすことができると思います。

筆者は原爆ドームが世界遺産に選ばれたことから、最初の不安の裏返しで世界の人々の平和への思いを確認しています。授業者はその部分を抜き出させますが、きちんと不安との関係は押さえませんでした。この部分は筆者の主張につながる部分なので不安の要因よりはこちらに時間をかけたかったところです。続いて、筆者の主張「原爆ドームは平和のとりで」を抜き出しそれに賛成か反対かを子どもたちに決めさせます。それをもとに話し合いをしようというわけです。
ここで大切なのは「原爆ドームは平和のとりで」とはどういうことか、その考えの根拠となっているのはどのようなことかをしっかり押さえておかなければ、それをもとにして平和について考えることができないことです。1時間で平和について考えるところまで進めるのであれば、できるだけムダを排してこのことに時間を割くべきだったと思います。そのためには、前時に説明文の構成をしっかり意識して本文を読み、どこに筆者の主張があり、どこにその根拠となる事実や具体例があるかを押さえておくことが必要です。日ごろから説明文の読み方をきちんと意識して学習していれば比較的短時間でできることだと思います。メタな知識が必要になるのです。

子どもたちの意見は1人を除いて賛成ばかりでした。その状況で自分の考えをグループで話させます。しかし、話すことの目的や意味を明確にはしていません。考えが変わった人と聞きますが、ほとんどが賛成では変わりようがありません。授業者は子どもたちを揺さぶろうと自分は反対だと言います。反対の子どもを孤立させないためだったのかもしれません。しかし、そもそも賛成か反対かで意見を言い合う必然性が子どもたちにないのです。
コの字型にして全体で意見を発表します。コの字型といっても真ん中は空いていません。教師が中に入ることはできません。教師がコの字の中を移動することで子どもたちの視線を発表者に誘導したり、発表者のそばに行って発言を引き出したりといったことができません。この形がうまく機能するためには子どもが発表したりや聞いたりする姿勢ができていることが前提です。最初に指名された子どもが立ち上がると子どもたちの視線が集中します。しかし、着席したまま発言させたので多くの子どもの視線の行き場がなくなってしまいました。子ども同士の距離が近いので、友だちの体が視線を遮るのです。それでも、友だちの意見を聞こうとする姿勢は崩れません。しっかり聞こうとしています。聞く姿勢ができつつあります。
授業者は、最初の子どもの発表をしっかり考えながら言葉を発していたと評価し、子どもたちに拍手を要求しました。具体的に評価していることはよいことです。続いて他の子どもの挙手を待って指名します。今度は具体的に評価せずに拍手を求めました。次の子どもの発言の後は拍手を求めませんでした。何人かの子どもは拍手の準備をしていましたが、拍手を求められないので少し戸惑った表情をしていました。拍手することの是非は置いておいて、形式的に拍手するのなら全員にすべきでしょう。そうでないのなら、評価の基準を明確にすべきだと思います。
都合6回ほどの発言の間に2人の子どもが2回ずつ発言しました。一部の子どもたちだけで進んでいます。最初は集中していた子どもたちも次第に集中力を失くしていきました。一人ひとりの発言をきちんと全体で共有してつないでいかないので、何を話しているのかわからなくなっているのです。挙手はしないが友だちの発言に反応する子どももいます。「うなずいていたね。どういうことか聞かせてくれる」とそういう子どもにつなぐことが大切です。また、今自分たちがどこに向かっているのか子どもたちがわかっていないことも、このような状況をつくっている原因の1つです。
子どもたちの活動場面はいくつもあったのですが、その活動の目的や目標が明確でなかったことが問題でした。最終的に子どものどんな姿が見たいのか、そのためにどのような活動や知識が必要かをしっかり考えて授業を構成していなかったのです。

検討会はグループを活用した「3+1授業検討法」で行われました。教務主任が市内の他の学校で行なわれていたのを見て取り入れたようです。簡単に説明して始めたのですが、参加者にはゴールがよく見えなかったようです。よいところを3つ、改善点を1つと言っても、1人ずつ「3+1」で話すのか、1つずつ話し合って最後に「3+1」にまとめるのかよくわかっていなかったようです。司会者がよいところをどんどん話してくださいと言っても、なかなか活性化しません。ほとんどのグループが改善点や疑問点を中心に話し合っていました。ネガティブを話していると雰囲気は暗くなります。改善点を話しても自分の授業は改善されません。このような状況はあまり建設的ではないのです。よいところを互いに聞き合うことで、自然に自分もやってみようとする気持ちになっていくものです。他者の授業から学ぶ雰囲気を育てることが大切です。そういう雰囲気をつくるための検討法なのですが、見ただけ、聞いただけでは理解できないことがよくわかりました。授業検討法を伝えることの難しさも改めて感じました。

検討会終了後、この日一緒に授業を参観した若手の先生方とお話をしました。とても素直な先生方ばかりです。私の指摘を皆さん前向きに聞いてくれました。また、質問もいくつかいただきました。

子どもの学力差が大きく、課題や作業をこなすスピード差が大きくて困っている。早くできる子には読書をしてもいいとまで言っているということです。できない子どもに教えてもらうように働きかけることをするように話しましたが、なかなか自分から声をかけられないようです(作業スピードの差をどう埋めるか参照)。日ごろから子ども同士の関係をつくることを心がけるようにお願いしました。また、全員ができるのを無理に待つ必要がないこともお話ししました(時間を与えることの意味参照)。全体で「わかった」から始めずに、「わからない」「困った」から始めて、彼らがわかる、できるようになること目標とする方法もあるのです(「わからないところ」から始める参照)。

子どもたち(特に女子)からの相談が少ないことから、子どもとの関係が上手くいっていないのではないかと悩んでいる方もいました。同じ学年の他の担任と比較していそう感じているようです。担任が学級全員の相談相手になれるわけではありません。昔の担任や他の学級の担任でも相談できる相手がいれば問題ありません。情報交換をしっかりすればいいだけです。ただ、気をつけるべきことがあるとすれば、子どもでも保護者でも相手の言っていることは、たとえネガティブなことでもまず受け止め共感することです(悩み事の相談参照)。質問者はこの点に思い当たることがあったようです。このことを意識してくれれば、子どもたちとの関係もよりよい方向へ変わっていくことと思います。

今年度予定していた4回の授業アドバイスが終わりました。若手を中心に授業がよい方向に変わってきていますが、勝負はまだまだこれからです。今年度どれだけ先生方が意識して授業改善に取り組んでいくかで、来年度のスタートが大きく変わります。このことを教務主任も意識しています。どのように変化していくかとても楽しみです。来年度訪問する機会を持てることを期待しています。
私も4回の訪問でたくさんのことを学べました。ありがとうございました。

学校の変化の兆しを感じる

昨日は、小学校で現職教育に参加し、授業研究の合間に若手教師と一緒に学校全体の授業を参観しました。小学校では学級担任は学級に拘束されている時間が多く、1時間とはいえなかなか授業参観の時間を取ることはできません。教務主任は若手の教師が授業参観する時間をつくるために、担任のかわりにいくつも授業に入ってくれました。若手に勉強する機会を与えようという姿勢に感心しました。

教務主任の働きかけの影響もあるのでしょう。子どもたちへの指示が徹底できて、授業規律が保たれている学級が増えているように感じました。指示が徹底できるということは、子どもたち全員をよく見ているということでもあります。そのような学級では子どもと教師の間に良好な人間関係が築かれているように思いました。

今回、特に若手の授業で感心したのは子どもたちの挙手が少ない場面での対応でした。以前は挙手した子どもの誰かをすぐに指名していたのですが、ペアやまわりの子どもと相談するように指示します。するとほとんどの子どもが話し合います。子どもたちはまわりと相談することに慣れているようです。考えを持っているのに自信がなかったりしたのでしょう。このことは、まだ一問一答や「正解」という言葉を教師が発したりすることが多いことも関係しているように思います。
もう一度問いかけるとかなりの数の子どもの手が挙がります。ここで挙手指名してもいいのですが、できれば友だちとしっかり話し合っていた子どもを指名して答えさせたいところです。自信がなくて答えられないようであれば、「しっかり聞いていたね。どんなことを話していたか聞かせてくれる」と答でなくその過程を聞いてあげるといいでしょう。なかなか挙手できない子どもにも発言の機会を与え、自信をつけさせることを意識してほしいと思います。最初に手を挙げた子どもが指名させる機会を逃して不満持つようであれば、何人かに聞いた後、「○○さんは最初に手を挙げてくれたけれど、同じ考え?」と最後に確認すればいいでしょう。「すごいね、すぐにわかったんだ」とほめれば納得すると思います。

算数の授業で気になる場面がありました。授業の最初に子どもたちにめあてを写させるのですが、「あまりのある割り算」という言葉がありました。子どもが写し終わると授業者は導入の問題を提示しました。ここで、「あまり」という言葉が問題です。「あまり」はこの時間に初めて出てくる言葉です。それをめあてとして出されても子どもは理解できません。めあてを理解できないのにそのまま写させるようなことを続けると、めあてが形式的なものになってしまいます。導入部分で「あまり」が出てきた時に示すべきだと思います。後で授業者と話をしたところ、本人もどちらにするか悩んでいたようです。めあてを最初に明確にしておきたいのであれば、「『あまりのある割り算』って初めの言葉だね。この授業が終わるときにみんなが『あまりのある割り算』を説明できるようになろう」というような言葉を補うとよいことをお話ししました。

調べ学習に向けての説明をしている場面がありました。歴史と関係の深い地元の街道について調べるものです。子どもたちが集中して聴けるように机を片付けて黒板の前に椅子を丸く並べて座らせていました。そのこともあって子どもたちはとても集中していました。ところが、数人が教科書を見て何か話しています。今回の調べ学習に直接関係のない話とは思えません。後で授業者にたずねたところ、どうしたものか判断に迷い、あえて注意をせずに見守っていたということです。対応をどうするかは別にしてちゃんと気づけています。この授業者に限らず、若手の授業で気になる子どもの様子について話をすると、みなその場面のことをしっかりと把握していました。子どもを見ることができています。まずは、子どものことに気づいていなければ話になりません。基本ができてきています。
この例のように授業に関係ありそうなことを話しているようであれば、すぐに注意をするのではなく、「なにか話しているね。どんなことを話していたか聞かせてくれる」と全員に共有させるとよいでしょう。私的な話を公的なものに変えるのです。みんなに話せないようであれば、それは子ども自身が私的なものだと認めたわけですから、「じゃあ、話の続きは後にしようね」と言えばいいのです。その場で取り上げる価値のあるものであれば、「じゃあ、今の意見についてみんなで考えてみよう」、この場で取り上げるのはふさわしくないと判断すれば、「なるほど、これは後からみんなで考えることにしようね。じゃあ先生の話を続けるね」というように対応すればよいと思います。子どもの私的活動はすぐに注意をするのではなく、公的なものとして取り上げるべきことなのか、私的なものとして止めるべきことなのかを判断して対応することが大切で。

私的な言葉を公的にするという場面が他の教室でありました。子どものつぶやきを授業者がうまく拾ったのですが、それを言い直して伝えたのです。公的なものにしたのはいいのですが、子どもの言葉とは違ったものになっていました。つぶやいた本人は教師に聞いてもらえたとは思うのですが、教師が言い直してしまえば自分の言葉が公的にみんなに伝わったと思いません。私的に教師とかかわったことに留まるのです。子どもの言葉をそのまま復唱するか、「今いいこと言ってくれたね。もう一度みんなに聞かせてくれるかな。みんな、○○さんの話を聞こう」というように、本人の手で公的なものにさせるといった対応をするとよいでしょう。

全体的に教師が子どもの言葉を受け止めることはできているのですが、その言葉を他の子どもにつなげることができていません。「同じ意見の人」と挙手を求めるのですが、その子どもたちにもう一度発言を求めることはしません。子どもも、友だちに聞いてもらう。友だちに伝えるという意識を持っていません。発言して教師が受け止めてくれればそれで満足です。一問一答をやめて、何人も指名する。「今の意見、なるほどと思った人いる」「ああ、いるね。○○さんの考えが伝わったね」「□□さん、どこでなるほどと思った」というように、考えが他者に伝わったかどうか、どのように伝わったかを意識させるような教師の働きかけが必要です。また、子どもの聞く態度を評価することをもっと積極的にして、子ども同士のかかわり合いをうながすようことを大切にしてほしいと思います。

もう一つ、活動の目標や評価の具体的な基準がはっきりしないことが気になりました。子どもへの活動の指示が明確でわかりやすいので、子どもがしっかり活動できている場面をたくさん目にします。ところが、自己判断できる評価の基準が示されていないので、子どもたちは活動して満足しています。たとえばペアで相手に伝える場面であれば、伝わったかどうかを確認して評価する場面が必要です。活動主義になっているのです。一つ間違えば、「活動あって学びなし」の状態になってしまいます。
6年間を通じてどのような子どもの姿を目指すのか。この学年では、この教科では、この単元では、この時間では、この場面ではと、常に目標を明確にし、そして個の活動場面では子ども自身が自己評価できるような基準を伝えることが大切です。個の活動では教師が一人ひとり全員を評価することはできません。子ども自身が「やった」「できた」と自己評価できることが自己有用感につながっていくのです。

いくつかの課題がありますが、それはクリアした課題があるからこそ見えてくるものです。今年度最後の訪問でしたが、この先この学校が大きく変化していく兆しを感じることができました。

授業研究と、若手の先生方との懇談については次回の日記で。

子どもたちの姿から、数学との出会いを思い出す

先日、児童館のサマーナイトスクールへボランティアとして参加しました。算数・数学自由研究作品コンクールへ応募する子どもたちへのアドバイスをするというものです。立体図形に関して面白いことをしている子どもがいると聞き、興味を持ち参加させていただきました。

驚いたことに8名もの中学生が参加していました。数学に興味を持っている子どもがこれほどいることをとてもうれしく思いました。アドバイスをする大人も6人と多く、個別の対応が可能でした。
私がアドバイスさせてもらった中学3年生は、立方体を、各面を底面とする合同な6つの四角推に分割し、それを裏返して(元の立方体の面と四角推の底面を重ねる)できる立体が菱形多面体(合同なひし形で構成される多面体)になることに気づいたそうです。これがおもしろくて、同様のことを他の正多面体でもできないかと、模型を作って試したということです。結論から言うと菱面多面体は現れなかったのですが、このような姿勢はとても素晴らしいと思いました。数学的には、できない理由やできるための条件を示して証明できるとよいのですが、そこまでを求めるのはちょっと酷でしょう。高校生になって空間図形や三角関数を学習し道具を手に入れた時に、このことを思い出して挑戦してくれることを期待します。今回のことをきっかけにして、多次元空間や内積空間など、本格的に数学に興味を持ってくれたらとてもうれしく思います。
本題のコンクールへのレポートは、最初の立方体と菱形多面体の関係をきっかけに他の正多面体ではどうなのか興味を持ったこと。模型をつくることで確かめてみたこと。その結果わかったことと予想したことまでをできるだけわかりやすい写真をつけて書くようにアドバイスしました。彼がレポートを書くための参考になれば幸いです。

ここで子どもたちが挑戦していた内容は、大人や専門家からみれば数学的には大した意味がないと思われることかもしれません。しかし、こうしたことがきっかけとなって数学の世界に興味を持ち、知識の海に漕ぎ出そうとしてくれるかもしれません。実際、彼らが興味を持ったことを突き詰めていけば、必ず数学的に意味のある課題にたどり着くことに気づきます。子どもたちにそのような機会を与えるという意味でも、このような場をつくることはとても意味のあることだと思います。
子どもたちの姿から、私自身が数学に出会うきっかけとなった小学生や中学生の頃のいくつかの出来事とその時の気持ちを久しぶりに思い出すことができました。子どものころのように純粋に数学と向き合う時間をつくりたい。そのような気持ちにさせられました。昔の自分と出会うきっかけをつくってくれた子どもたちと企画者に感謝です。

介護関係者向けの研修

先週末に、介護関係者向けのコミュニケーションに関する研修をおこなってきました。

今回は自分の行動が相手にどう受け止められるか、どう伝わるかを意識してもらうために、挨拶について考えるものとしました。コミュニケーションの方法にこれが正解というものはありません。このことをまず参加者の皆さんに伝え、何を言っても大丈夫だという安心感を持ってもらうことに努めました。
今回の研修では道徳の授業の手法を取り入れました。いろいろな挨拶の場面を想定し、自分はどのように感じるか、相手はどのように考えていたのか双方の気持ちをグループで聞き合うことを中心にしました。互いに聞き合うことでいろいろな視点や考えに触れることができ、自身を振り返ってもらうきっかけにしてもらうのです。

・挨拶は相手にいろいろなことを伝える。
・同じ挨拶でも人によって感じることは違う。
・全く違う気持ちでも、同じような行動になることがある。
・服装からも伝わることもある。

各場面の活動で、このようなことに気づいていただけたと思います。

参加者は同じ事業所でない方が混じっているので、最初は少しかたい雰囲気でした。学校での子どもたちの挨拶を例として話しながら、参加者の表情の変化やちょっとした反応をとらえて、ポジティブに評価して場を柔らかくしました。少し場があたたまったところで、グループ活動を入れました。最初は少し緊張していましたが、次第に打ち解けていきます。最初のグループ活動の後は、どのようなことを話し合ったかできるだけ丁寧に聞いていきました。すべての発言をポジティブに評価することで、安心感を与えると同時に正解を探すことを目的としていないことを実感していただくことを心がけました。グループ活動をするたびに参加者の笑顔が増えていきます。最初は少し距離を置いていた方もしだいにグループの輪の中に引き込まれていきました。時間の関係でグループ活動を止めるのがもったいないと感じるほどでした。

最後に、「挨拶でどんな気持ちを伝えたいと思うか?」「そのためにどのような挨拶を心がけるか?」について、それぞれの考えを聞き合ってもらいました。今までの活動の中でそれぞれに思うことがあったようです。自分の考えを聞いてもらおうという気持ちが伝わります。聞く方もうなずきながらしっかりと聞いていました。

研修終了後、何人かの方から「いろいろな考え方があることを知った」「自分も意識せずにやっていた」「見直すきっかけになった」といった言葉をいただきました。研修を前向きにとらえていただけたことをとてもうれしく思いました。
皆さんとても素直で前向きな方ばかりです。私も、皆さんの参加の様子から授業と同じようにとても多くのことを学ぶことができました。次回以降、またお会いするのがとても楽しみです。それと同時に、皆さんの学びが多い内容にしなければというプレッシャーもかかります。しっかり準備して次回に臨みたいと思います。

実りの多い授業研究

前回の日記の続きです。

英語の授業研究は3年生の、丁寧にたずねる表現 ”Would you like … ?” の学習でした。授業者は講師の方です。今年度の英語科の授業研究のトップバッターです。講師の方が最初に授業研究に挑戦してくださるその意欲に、まず感心しました。

「食事を勧める」という ”situation” で授業は進んでいきました。授業者は、「丁寧な」たずね方ということを強調して”Would you like …?” を説明します。そのこと自体はよいのですが、丁寧でない言い方と比較することでコントラストをつけることが必要と感じました。「丁寧な」と「食事を勧める」というだけでは ”situation” はうまく伝わりません。「友だち同士はどうたずねればいい」というような、使い分ける場面をつくればよかったように感じました。
ピクチャーカードを使いながら全体練習をするのですが、どうしても口が開かない子どもがいます。3年生ともなると学力差がかなりついていて、全員の口を開かせることはとても大変なことです。しかし、教師が全員参加を目指していることを活動の中で子どもたちに伝えなければ、参加できない子どもは見捨てられと感じてしまいます。このことを意識してほしいと思いました。
子どもたち同士で会話をする場面がありました。一方が “Would you like some more?” と自分のカードに描いてある食べ物の絵を見せて勧めます。それを受けて、”Yes, please.” 、“No, thank you.” のどちらかで答えます。相手を変えて次々練習をします。授業者の意図は、決まりきった言葉を言うのではなく、好き嫌いなど自分の考えで答を選ばせることをさせたいということでした。また、答を聞くことで友だちの嗜好がわかるといったコミュニケーションも意識していたようです。子どもはカードを見せて “Would you like some more?” と言った後、返事を聞くとすぐに次に移ります。中には、返事をろくに聞かない子どももいます。子どもたちのテンションも上がり気味です。この会話に相手の言葉を聞く必然性がないことが原因のように思われます。絵を見れば、相手の言葉を理解しなくても返事ができる。返事を聞かなくてもそれで会話は終わり。聞かなくても活動は成立します。自分の言うべきことを言えば済むので、あまり考える必要がありません。テンションも上がってしまうのです。
このことについて検討会でも話題になりました。ある先生は、ただ ”Yes, please.” 、“No, thank you.” だけでなく、もう1文 “I like … very much.”、”I’m full.” などをつけてはどうかという意見が出てきました。話す内容を高度にして考える必然性を高めようということです。こういう工夫は大切です。授業者も同様のことを考えたようですが、子どもたちの実情を考えると、もう1文を付け加えさせるのは難しいと判断したそうです。大切なのは、文の内容を高度にするよりも、簡単な文章でいいので聞く必然性を高めることだと思います。勧めるものは事前に決めておいてもいいので、絵を見せずに “Would you like some more … ?” と聞かなければ答えられないようにする。相手の答に合わせて、”Oh, you like ….”、”Oh, you don’t like ….” と返す。これだけでも、充分に相手の言葉聞く必然性が出てきます。” Oh, you don’t like …, do you?” として、”Yes. I’m full.” などと、子どもの力に応じて発展させることも可能です。また、勧められる側の子どもに、お客様か友だちか相手との関係を選ばせてもよいかもしれません。それによって “Would you” と丁寧に聞くかどうかを選ばせるのです。
面白かったのは、先ほど口を開かなかった子どもが、この活動のあととてもよい表情をしていたことです。実際にうまく活動できたかどうかは観察できなかったのですが、友だちと何らかのかかわりを持てたことは間違いありません。子ども同士の人間関係がよいことがうかがえます。

この時間の主課題は、食事を勧める場面で5文の会話文をつくるというものです。子どもに会話文をつくらせるというのは授業者にとっては初めての試みだったそうです。こういう挑戦をしてくださることはうれしいことです。授業研究を通じて互いに学び合うことができます。
子どもたちは、会話文をつくろうと一生懸命なのですが、微妙にテンションが上がっていきます。本来のねらいである英文をつくる以前に、会話そのものをつくることにエネルギーが使われているのです。こういう状況はテンションが上がる傾向があります。
このことについても、検討会で話題になりました。子どもが会話文をつくりやすいように、“situation” を具体的にすることに時間をかけているという方がいらっしゃいました。子どもたちがその “situation” にしっかりと浸ることで、自然に言葉が生まれてくるということです。そうすれば、その言葉を英文に直そうという意欲もわいてきます。スキットも体を使ったとてもリアルなものになるそうです。なるほど、納得させられる話です。慣れないうちは、具体的に ”situation” を与えておくのも手です。紙芝居を用意して、会話の部分を空白にしておく、音声をカットしたビデオを見せるといったやり方です。その ”situation” にふさわしい会話文をつくらせるのです。

子どもたちがグループで発表し合います。楽しそうにはしているのですが、ただ発表して終わりのようです。互いの活動を評価し合う視点が明確になっていないのです。
この点について、子どもたちの英語活動の何を評価するかを明確にする必要があることが、楽しい授業という今回の授業者の目指す授業像とあわせて話題となりました。「『楽しい』にはレベルがある。そのレベルを上げていくことが大切である。そのためにも、授業者が子どもたちの活動を積極的に評価する必要がある」という意見が出されました。その通りだと思います。これに関連して、子どもたちがグループに分かれて活動している時にどのようにして全体を評価すればいいのかも話し合われました。教室の真ん中に入って見るという意見に対して、斜め前から見るという考えが若手から出てきました。全体を見て、必要に応じて移動するというその説明に皆さん納得されたようです。とてもよい話し合いでした。
何を評価するかについて、できれば学校全体で共通のものが持てるとよいと思いました。授業者毎ではなく、共通のものにすることで子どもたちはどの教師が担当になっても安心して参加することができます。教師も毎年1から指導する必要がなく、学校全体に継続性が生まれます。今回の話し合いをきっかけにこのことが継続的に議論されていくと素晴らしいと思いました。

授業検討会は、司会者が上手に話題を振ることで、たくさんのことが学び合えました。もちろん授業者が積極的に挑戦してくれたからこそ、よい話題が生まれたわけです。今後もこのような充実した授業研究がおこなわれていけば、英語科全体の力量が上がっていくことと思います。私もよい勉強をさせていただきました。ありがとうございました。

子どもの姿から学校の課題を考える

昨日は中学校で授業参観と英語科の授業研究に参加してきました。

夏休み明けということで、子どもたちの夏休みボケが気になるところですが、どの教室も子どもたちは落ち着いて授業に参加していました。
3年生は受験生という自覚があるのでしょう。苦手な子どもからも何とかついていこうという気持ちが伝わってきます。しかし、残念ながら何人かの子どもはその気持ちが折れかかっているように見えました。また、授業によっては子どもたちが教師の説明をあまり聞いていない場面がありました。やる気がないのではありません。むしろやる気があるのです。友だち同士で聞き合っていて、教師の説明よりもそちらを優先しているのです。このことをどう評価するか難しいところです。

2年生も全体的によい状態だと感じたのですが、授業中に完全に寝ている(倒れている)状態の子どもがいる教室が目につきました。まわりの子どもはその子どもを無視しています。寝ている子どもが本当に疲れているので、そっとしておこうというのならまだよいのですが、ちょっと気になる状況です。別の教室では、寝ている子どもを教師がちょっと厳しい表情で起こしました。しかし、起こされた子どもは少し反発をします。外部から軽々しく言ってはいけないことですが、授業が楽しくないから寝ているんだと態度で伝えようとしているように感じました。

1年生も教室は落ち着いているのですが、授業によって子どものやる気が大きく違います。このことも問題ですが、子どもたちが集中している授業で気になる場面を何度も目にしました。全員が集中している中、手のつかない子どもがいるのです。鉛筆を持って取り組もうとするのですが、すぐに止まってしまいます。教師の説明が始まると聞く姿勢を見せるのですが、途中で顔が下がってしまいます。似たような子どもを教室に1人か2人見かけます。1年生でも子ども同士聞き合う姿はよく見られますが、このような子どもは友だちに聞くこともできません。わかりたいという気持ちがあるのですが、自分一人ではどうにもできない状態のようです。一人で苦しんでいるように見えました。学びから脱落するかどうかの危ういところにいます。
また、ちょっと残念な場面に出合いました。教師が説明した後、「わかった、できた人」に挙手を求めました。勢いよく手を挙げる子どもいます。ほとんどの子どもの手が挙がりました。授業者は彼らをほめ、「90%の人ができている。素晴らしい学級だ。自分たちで自分をほめてあげましょう」と拍手をさせました。残りの10%の子どもはどんな気持ちだったのでしょうか。わからない、できない子どもが孤立感を深めていきます。
TTの授業で、気になることがありました。T2が監視者になっているのです。T1が説明している時に、自分で解いている子どもや友だちに教えている子どもがいました。その子どもに対して強制的に話を聞くように指導します。そのこと自体は間違ったことではないのですが、自分たちでやろうとしている子どもの意欲を認めることなく、問答無用という感じで注意をします。別の教室では、T1の説明中に姿勢の悪い子どもがいました。T2は手でその子どもの姿勢を正しました。T2がその場を離れた後、子どもは机に突っ伏しました。言葉にならない反抗です。しかし、T1と子どもたちは楽しい雰囲気で授業をしています。友だちの楽しそうな声を聞いて、すぐによい姿勢になり、笑顔で授業に参加してくれました。その子どもの表情に救われた気がしました。TTだからこそ、T2には子どもたちに寄りそう姿勢を大切にしてほしいと思いました

この日の学校の様子から、課題が明確になってきているように感じました。
全体として子どもたちは教師と良好な関係を築いています。子どもを受容する姿勢で接する教師が多いからです。多くの子どもは友だちと自然に聞き合うことができます。友だちと相談する、聞き合う場面を組み込んでいる授業が多いからです。この状況であれば、先生方は授業を進めるのに苦労はしません。危機感がないため、授業をもっとよくしようという、授業に対する向上心が全体的に下がっているのです。
また、授業者によって見せる子どもたちの姿は異なります。どのような子どもの姿を目指すのかが、教師間で共有されていないからです。共有されていなくても、取り敢えず授業が成り立つので、特に困らないのです。そのため、子どもは授業者によって態度を変えていきます。教師に対応するのです。この違いは学年が上がるにつれて薄れていきます。学年が上がるにつれて、友だちと学ぶことを覚えていき、教師に頼る部分が相対的に減っているからのように感じます。しかし、今後もそうなるという保証はありません。子ども同士のかかわり合いを大切にする教師の割合が減っていけば、逆の方向に揃っていくからです。
そして、一番気なることが、「わかった」からスタートしている授業が多いことです。できた子ども、わかった子どもの気づきから、授業が進んでいくのです。困っている子ども参加できる仕組み、わからない子どもがわかるようになる過程が授業から抜け落ちているのです。「子どもの困った感に寄り添う」「わからないからスタートする」がいつの間にか学校の中から薄れています。子ども同士で聞き合う姿がどの教室でも見られるので安心しているのかもしれません。しかし、わからないのに友だち聞けない、友だちとかかわれない子どもがどの教室にもいるのです。この子どもたちに目を向けてほしいのです。

教務主任や研修担当の先生もこのことは感じていたようです。今後どのように対応していくか真剣に考えていただけそうです。この学校が今後どのように進化していくか、その過程を共有できることをとても幸せに感じます。次回以降の訪問が楽しみです。

英語の授業研究については、次回の日記で。
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