提案性の高い授業研究
前回の日記の続きです。
授業研究は採用2年目の先生の理科でした。単元は1年生のいろいろな物質です。 カルメ焼きを用意して、食べて見せます。「作りたいですか」と問いかけると子どもたちは「作りたい」と反応します。つかみはOKです。カルメ焼きが「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」からできることを伝えて、自作の作り方のビデオを電子黒板で見せます。子どもたちの姿勢から画面に集中しているのがよくわかります。ビデオを見せ終わって課題を提示します。6種類の粉のラベルが取れてどれがどれかわからなくなった。カルメ焼きの原料である、「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」を見つけるというものです。見つけたグループからカルメ焼きをつくるという、動機づけもあります。ICTをうまく活用しテンポよく進めていきます。 試料をグループに配ります。この指示も的確です。グループの誰が取りにくるかを指定しているのです。子どもたちは、興味を持っているので試料をすぐに覗き込みます。砂糖などは見ただけでもわかりそうですが、どの試料も細かく砕いてあり、外見からは区別できないようにしてありました。ちょっとしたことですが、子どもたちが考えるための仕掛けが施してあります。しかし、この後グループ活動の指示をすることを考えると、先に試料を配ることは、子どもたちが授業者の話に集中しない危険性があります。 授業者は「注目」と声をかけます。子どもたちはすぐに授業者の方に体を向け、しっかりと聞く態勢を取ります。授業規律がしっかりできています。これならば、先に試料を与えても問題ないでしょう。この場面以外にも授業規律がしっかりしていると感じる場面がたくさんありました。印象に残ったのは、授業者の話を聞く姿勢になるのに数人が少し遅れた場面でした。全員が集中するのを待っていた授業者は、最後の数人が集中した時にそっと「ありがとう」と言ってから話し始めました。小さな声ですが、最後に顔を上げた子どもたちには聞こえたはずです。こういうことを積み重ねて、学習規律をつくり上げたのだと思います。 電子黒板を使って、試料は「砂糖」「炭酸水素ナトリウム」「食塩」「デンプン」「石灰石」「ホウ酸」の6種類であることを提示し、一つひとつを子どもたちに確認して、どんな物質だったか思い出させます。しかし、ここでは詳しくは説明しません。課題を解決する過程で復習すればいいからです。「ホウ酸」の説明でゴキブリ団子の話をして、なめる方法は使えないことを伝えます。細かいところまでよく考えています。 ここで、子どもたちに見分ける方法を1つ以上ノートに書くように指示します。子どもたちはすぐに取りかかります。ノートに書かせるのもよい指示です。漠然と「考えて」ではなく、書かせることで、全員参加させやすくなります。また、「1つ以上」と言うことで、できた子どもを遊ばせないことを意識しています。 授業開始から5分ほどでこの活動に入っています。子どもたちが活動するまでに時間がかかる授業が多いのですが、ムダのない導入でした。 2分ほどで、作業を止めます。子どもたちはすぐに授業者を見ます。ここで、「どうせなら早く見つけて、早く食べたいでしょ」と、「より少ない方法で」と条件を足しました。条件をつけることで、ただ答が見つかって終わりではなく、考えを深めることをねらっています。 ここでは、ノートの内容を発表させませんでした。いくつか発表させて、その実験から何がわかるかを明確にし、どのようにすれば見つけることができそうか、課題解決の方向性を確認しておいてもよかったかもしれません。 グループの考えをまとめるプリントの説明を、実物を見せながら行います。配る前に説明するのはよいのですが、実物ではちょっと小さすぎました。わからない人と確認をしましたが、子どもたちからは反応はありません。見ればわかるのかもしれませんが、ちょっと不安な場面でした。ここは、電子黒板にプリントを映して説明したいところです。 グループ活動に入ります。座席が男子同士、女子同士ならんでいるので、話し合いはどうしても2人ずつに分かれてしまいます。また、プリントがグループに1枚なので、プリントを手元に引き寄せて書き込む子どもが主導権を握ります。座席については市松模様にすることを検討してほしいと思います。プリントは1枚ずつ持たせて各自で書かせるか、小型のホワイトボートとペンを何本か用意し、複数が同時に書きこめるようにするといった工夫をしてもよいでしょう。 グループを回りながら、「食べる」と書いてあるグループに、「ホウ酸もあるよ」と声をかけます。「ホウ酸」の説明をしてあるので、全体で取り上げる必要はありません。この対応で問題はないのですが、「食べても大丈夫?」とグループの子どもに声をかけて、かかわりをうながしたいところです。 子どもたちは、炭酸水素ナトリウムの性質をまだ学習していません。当然困るはずです。いくつかのグループの動きが悪くなります。1つのグループが資料集を調べ始めました。この動きを待っていたのでしょう。しばらくして、作業を中断させました。「困っていることない?」と子どもたちに問いかけます。「何が何か、見た目でわからない」ということが出てきました。これに対して授業者は答えません。他の子どもから考えが出るのを待ちます。「炭酸水素ナトリウムはわからないけど、砂糖はわかる」という意見が出ます。それに対して、「砂糖はどれ?」と聞き返します。「F」という答に、子どもたちから「えぇ、違うよ」という声が上がります。それを受けて、「バラバラだね。わからないから実験するんだね」と返します。なかなかうまい対応です。ここでは、理科の実験で大切な、誰がおこなっても同じ結果にならなければいけないという、「再現性」や「客観性」についても、押さえるとよかったもしれません。 「炭酸水素ナトリウムの性質がわからない」という声が上がります。授業者は「どうする、解決策はない?」と子どもたちに聞き返します。授業者は調べていたグループからの声を期待していたようですが、なかなか声が上がりません。「調べていた人がいる。ちょっと探してみよう」と子どもたちに調べることを示しました。ここでは、「炭酸水素ナトリウムの性質はみんなわかっていた?困らなかった?」と、困ったことを全体できちんと共有したいところです。その上で、「どうした?」「そこのグループは何をしていた?」とたずねてもよかったかもしれません。 子どもたちに調べさせて、見つけた結果を発表させます。「これがわかればいけそう」と再びグループに戻しました。 困ったことを聞いて、みんなで考えることを普段からやっているようです。授業者に教えてもらうのではなく、自分たちで考えることが自然にできていることからそう感じました。 資料集を調べることに気づいたので、子どもたちは試料の性質をいろいろと調べます。調べることが主になって、話し合いが止まるグループがでてきます。話し合いも「少ない」ではなく、どんな実験をするかが中心です。 ある班から「有機か無機かわからない」という言葉が出てきました。この言葉を拾って全体で問いかけます。こういう扱いもなかなかです。ここで、「それってどういうこと」と炭酸水素ナトリウムが有機か無機かにこだわった理由を共有しておきたかったところです。 いくつの実験でできるか全体に問いかけます。「3つ」という声が上がります。どんな実験するかを問います。「水に溶かす」という発表に対して「何とかいけそう」と返しますが、ここは、具体的に何がわかるか確認した方がよかったでしょう。「もう1つくらい」と聞きますが、挙手はありません。ある班を指名して、「熱する」を引き出します。この2つで「見通し持てそう」と問いかけ、「もう1回考えてみよう」とグループに戻しました。 ここでは、どんな実験をすれば「砂糖」と「炭酸水素ナトリウム」を見分けられるかの確認を先にきちんとするべきだったと思います。理科としては、どのような実験で何がわかるかを整理することの方が少ない実験で行うことより大切です。どの実験を組み合わせれば少なくてすむかは、理科というよりは論理の問題だからです。 最後に、いくつになったか確認します。もう1枚プリントを渡して、何を実験すればよいかを整理させて時間となりました。実験は次の時間に持ち越し、感想を書かせて終わりました。子どもたちは書くことに慣れているようです。どの子もしっかり書いていましたが、感想というのは少し引っかかります。単に「面白かった」「難しかった」では学びにつながらないからです。しかし、この時間で自分が考えたこと、わかったことを書いている子どもがたくさんいました。指導はされているのでしょう。 時間切れで、この時間での学びが明確にならないまま終わったことは残念でした。子どもたちから出てきた「溶かす」「燃やす」などの簡単な実験だけでも、全体の場で確認してもよかったかもしれません。 とはいえ、前回見せていただいた時と比べてとても進歩しています。授業の基本がとてもしっかりしていました。アドバイスされたことを、素直に日々実践していたことが子どもたちの様子から見て取れます。今後がとても楽しみです。 検討会では、子どもたちのグループ活動の様子を中心に意見が交換されました。各グループにリーダーとなる子どもが1人入るようにしています。確かに意見を言い合うことはできるのですが、一部の子どもが仕切ってしまい、聞き合い深めることにはつながっていないように思います。このことに気づいている先生もいらっしゃるようでした。私からは、わかる子ども、リーダー中心で進むのではなく、わからない子ども、困っている子どもが中心となって、「どうすればいい」「わからないから聞かせて」と言える学級をつくることが大切であることをお話ししました。 学校全体で、「活動することが主となっていて、その目標や評価が不明確であること」や「わかった子ども、発言できる子どもが中心となって授業が進んでいること」をお話しさせていただきました。 前回もですが、他の授業と比べて研究授業の質がとても高いことに驚きます。多くの先生が協力して授業をつくり上げていることがよくわかります。特別な授業ということに賛否両論あるとは思いますが、提案性の高い授業研究を行えることはとても素晴らしいと思います。今回の授業は現在の学校の課題を解決する方法を示唆してくれました。前回の授業研究の結果、今回学校の雰囲気が変わっていたのと同様に、次回の訪問でもきっと学校全体によい変化が見られると思います。今からとても楽しみです。 中学校の古文の授業で考える
昨日の日記の続きです。
2年目の先生の国語の授業のアドバイスを行いました。徒然草の仁和寺の法師の段の2時間目です。 復習で徒然草の序段の音読をします。暗唱できる子は暗唱をします。授業者は、「せえの」と予備動作を入れますが、子どもは反応してくれません。出だしがそろわないのです。2回読みましたが、2回ともです。音読はそろって読むことが目標だったのでしょうか、それともすらすら読むことでしょうか。暗唱できる子ども、できない子ども、それぞれ目標は同じなのでしょうか。活動の目標が明確になっていないことが原因のように思います。 中学生にとって古文を読むことは、英語を初めて耳にする小学生と同じ状態です。わからない言葉が混じっているので、音節を正しく認識できないのです。英文は単語に分かれていますが、教科書で目にする古文は、句読点こそありますが文節までは区切ってはありません。きちんと文節に分けられることが、古文理解の第一歩です。ですから、音読もきちんと文節で区切って読めることが大切なのです。すらすら読めるということも、文節を分けることができてこそのことなのです。このことを意識した上で、目標を明確にしてほしいと思います。 音読の間、授業者は机間指導をしていますが、その理由がわかりません。なんとなく歩いているだけです。何を指導するのか意識されていたのでしょうか。それよりも、子どもたち全体をしっかり見て、全員参加できているか、声が出ているかなどに気を配ることの方が大切です。 法師の失敗についてワークシートの空欄を埋めます。作業終了後、挙手で進めます。ほとんどの子どもが書けているのに挙手しません。4人ほどしか挙手しないのに授業者は指名し、それでいいかと全体に確認します。すると、ほとんどの子どもが挙手をします。最初挙手をしなかったのは、自信がないからか、指名されるのが嫌だったのかはわかりません。しかし、子どもたちが積極的に発言しようとしていないことは事実です。挙手指名に頼らず、全員が参加できる授業にすることを考えてほしいと思いました。 法師が失敗した理由を本文から抜き出し、その現代語訳を書くのが次の作業です。ワークシートを埋めてグループで話し合うように指示をします。子どもたちがグループの形になると、すぐに話し声が聞こえます。これはどういうことでしょうか。授業者はまず自分でワークシートを埋めるように指示をしています。それなのにかなりのグループで声がするのです。子どもたちが、自然に相談しながら作業をするようになっていたのでしょうか。それならば、互いにかかわっているよい場面とも考えられるのですが、どうもそうではありません。子どもの体は前に傾いていません。テンションも高いのです。どうやら受け身の状態から解放されて、気を抜いているのです。しばらくすると、全体が落ち着き、個人での作業が始まります。今度はなかなか子ども同士が相談する姿が見られません。グループ活動の前に、わからなかったら助けてもらうように授業者が言ったので、自力でできた子どもはかかわる必要を感じなかったのかもしれません。また、グループの机が離れているのも目立ちます。男子同士、女子同士が隣り合っているので男女で溝ができているグループもあります。子どもたちの人間関係がまだできていないのかもしれません。 課題について話し合っているグループはあまり多くはありません。授業者は話し合いが成立しているグループのところにいって、アドバイスをしたり話を聞いたりしています。それよりも、子ども同士に話し合うようにうながすことが大切です。 グループ活動終了後、グループごとに発表させます。最初に発表させたのは、授業者が長い時間かかわっていたグループでした。無意識の行為かもしれませんが、授業者が一番状況をわかっているグループです。全体を観察していて、結論が出ているのか、まだ出ていないのか、グループごとの状況が把握できていれば、また進め方は変わったかもしれません。例えば、結論が出ていないグループに対して「どんなことを話していたか聞かせて」と状況を聞けば、いくつかの考えが出てきます。それに対して、「同じように悩んでいるグループ」「悩んだけれど結論が出たグループ」というようにつなぐことで、考えを深めていけます。 授業者が予想しなかった意見がでてきます。授業者は、それぞれを認めて板書していきますが、どれが正しいかを議論させません。正解が発表された後、それを引き取って結論をつけました。結局子どもはその答を写すだけで、何を間違えていたのか、どうすれば正解が導けるのかはわからないままです。自分の考えを修正することはできていません。自分の結論が正解だった、不正解だったということを知っただけで、何も学習していないのです。授業者は、いろいろな考えが出た時、どのように働きかければ子どもたち自身で正解を導き出せるかを考えていなかったのです。 それ以前に、そもそもこの課題自体が国語として意味があったのかも問われます。仁和寺の法師が失敗したのは単に石清水八幡宮を知らなかった、勘違いをしたということです。背景をいえば、当時の石清水八幡宮がとても立派で、山下にあった極楽寺・高良社も相当立派なものだったので間違えたということです。 授業者は「神へ参るこそ本意なれと思ひて」を理由の正解としていますが、これはそう思わなければ石清水八幡宮を参拝することできたかもしれないというだけのことです。正解とは言えないように思います。「法師が石清水八幡宮を知らなかったことが本文のどこでわかるか」という問いの答であればまだ納得できますが、もしそうであれば、まず失敗の理由をきちんと共有してから問うことが必要です。いずれにしても、現代語訳を読んだ後で考えるのであれば、あまりに稚拙な問いです。 内容を読み取るのであれば、当時の石清水八幡宮に対する常識を伝えたうえで、この話は当時の人にとって何がおかしいのかを問うべきでしょう。時を超えて当時の人たちと交流することが古文を学習することの目的の一つです。古文の解釈を通じて当時の人の考え方や暮らし、文化などを理解することが大切です。 古文の授業でどのような学力をつけるのをもう一度考え直してほしいと思います。 いろいろと書きましたが、授業者は子どもを受容し、認めようとしています。正解という言葉を使わずに、子どもたちで判断させようとしています。授業で大切なことを意識し実行しようとしていることはよくわかります。だからこそ、全員を参加させ、正解にいたる道筋や学力をつける過程を明確にしていかなければ、一部の子どもが活動しているだけで、すべての子どもに学力をつける授業にならないのです。 よりよい授業をつくることに向かって大事な一歩を踏み出しています。新たな課題をしっかり受け止めることで、さらに次の一歩を踏み出すことができると思います。これからの成長が楽しみです。 授業研究については、次回の日記で。 学校の変化と課題
一昨日は、中学校で授業アドバイスと授業研究に参加してきました。今年度より訪問している学校です。今回が3度目の訪問で、全体にお話しするのは2回目になります。
1時間かけて学校全体の様子を観察しました。先生方が子どもたちを受容しようという雰囲気が出てきているように感じました。先生方の表情も柔らかくなったように思います。先生方の意識の変化を感じます。最近開かれた学校評議員会でも、その変化が認められたようです。素直な先生が多いように思います。 一方、子どもの発言をしっかり受容しようとするあまり、発表者だけをしっかりと見て、他の子どもを見る余裕のない先生が目立ちます。また、挙手した子ども指名することで授業が進んでいきます。子どもたちにつなごうとする方もいますが、同じ考えの子どもに挙手で確認させたり、発表させたりするだけで、違う考えの子どもや挙手しない子どもにつないで参加させようとしません。結局一部の積極的な子ども、教師とかかわりたい子どもだけで授業が進んでいきます。しかし、子どもたちは参加しなくても困りません。授業者は子どもから自分のねらう答に近いものが出れば、すぐに引き取って説明します。その結果を板書するので、参加していない子どももそれを写せば何も困らないのです。 授業規律でも気になることがあります。指示をして、子どもたちが指示に従うまで待とうとするのですが、待ちきれなくて指示が徹底できないのです。子どもが鉛筆を離していない、顔が上がっていないのに話し始める先生が目立ちます。 また、グループを活用しようとしていますが、何をするかの指示だけで目標や評価がはっきりしません。活動すればいいという活動主義に陥っています。この活動で教科として何を目指しているのか、どのような学力を形成しようとしているのかがシャープになっていません。教師自身がこの目標をしっかり意識できていないのです。当然、子どもたちにわかる形では提示できていませんし、子どもたちが自己評価する基準も明確になっていないのです。 この学校では、伝え合う授業づくりを大切にしようとしていますが、それは手段にすぎません。どのような手段を取るかにかかわらず、どのような学力を形成するかは授業者が明確にしておかなければなりません。手段に目を奪われて、そのことがおざなりになっていません。 とはいえ、先生方が新しいことに挑戦しようとしているのはとても立派なことです。いつも言っていることですが、何かに挑戦する、何かができるようになればより多くの課題が見えてくるのです。それを一つひとつ解決していくことで前に進んでいきます。そのための一歩を踏み出したということです。 予定にはなかったのですが、前回ちょっと厳しい話をした初任者の授業を見せていただきました。授業終了の数分前でしたが、その変化に驚きました。3年生女子の跳び箱の授業でしたが、子どもたちの様子に、違う先生の授業を見ているのかと思ってしましました。子どもたちは互いの演技を見あっています。前回と比べて子ども同士のかかわりが見えます。集合した後、座らせて話をしますが子どもたちの視線が授業者に集まっています。 実技テストが近いようです。授業者が何に注意して演技をしたのかを子どもに確認しています。実技テストに向けてワークシートをどう活用するかを明確に伝えています。この間、子どもたちの集中は途切れません。授業者は夏休みをはさんでわずかな期間に大きく成長していました。 授業後、話を聞く機会があったのですが、「子どもたちと視線が合うようになった」「活動のポイントが何かを明確にして、子ども同士がそのことを意識して互いの活動を見あうようにさせている」といった、意識していることをいくつも話してくれました。今は完璧でなくても、意識して授業に臨んでいれば精度が上がっていきます。この先も成長が期待できます。 課題として、集合の時、ムダなことをしているわけではないが、子どもたちが歩いている。走って集合し、言われる前に整列することを求めてほしいこと。確認の場面で、子どもの発言を全体で共有してほしいこと。ワークシートの活用の説明といった時、子どもが書いていることを例として取り上げるなど、できるだけ具体的にしてほしいことなどを話しました。 また、「2年生で、ほとんどの子どもが協力して準備をしてくれるのだが、一部の子どもがなかなか協力してくれない。どうすればいいのか」という質問をしてくれました。こうすれば絶対うまくいくという方法があるわけでありませんが、子どもたちのかかわり合いを使うことを提案しました。具体的は、よく働いてくれる子どもたちに、「一生懸命やってくれるのはうれしいけれど、あなたたちが頑張るから準備に参加しない子どもが出てきちゃう。その子たちにも仕事をさせてあげて。一緒に準備をするように声をかけてくれないかな」といったことを話すのです。今まで準備しなかった子どもが少しでも手伝えば、「準備を手伝ってくれてありがとう」とほめます。もちろん声をかけてくれた子どもにも後でありがとうと感謝の気持ちを伝えておきます。教師が直接指導して解決するのではなく、子ども同士のかかわりをうまく使って解決するという発想も持つと、指導の幅が広がります。そのようなことを話させていただきました。 授業アドバイスと授業研究については明日以降の日記で。 研究会でPTAと学校の信頼が生まれるために必要なことを学ぶ
先週末は愛される学校づくり研究会に参加してきました。今回のメインはホームページを通じてPTAの立場から学校を応援している保護者と会員である校長との対談でした。
この「PTAの部屋」では、保護者や地域の方へのPTA活動の報告に留まらず、学校への応援、時には保護者の立場で意見も発信されています。もはや学校のホームページの付属ではなく、独立した一つのホームページとなっています。 このホームページの管理を任されるようになったきっかけは、学校のことはすぐにアップされるのにPTAの活動の様子がなかなかアップされないということだったようです。アップされてもタイムラグがあるので、記事の鮮度は落ちます。PTAの関係者は残念に思っていたようです。このことから、皆さんがPTA活動に積極的に取り組んでいるということがわかります。そうでなければ、記事がすぐにアップされないことを残念に思ったりしないからです。とはいえ、PTA関係の窓口で「PTAの部屋」の管理も担当している教頭に、記事を早くアップしてくださいとはとても言えません。教頭がとても忙しいという学校側の事情もよくわかっているからです。非常にバランス感覚のある方たちだということがわかります。 そこで、コンピュータに関する知識もあるので、自分が記事をアップすると学校側に申し出たそうです。学校側としては願ったりかなったりで2つ返事かというと、そうはなりません。負担になっては申し訳ないと、教頭は「気持ちはありがたいが、大変だからやめたら」と返事をします。それでも、管理人となったということは、自分たちの活動をもっと多くの方に伝えたいという思いが強かったということだと思います。PTAの役員以外の方に、PTAの活動をよく理解していただけていないと感じていたのかもしれません。 私もこの「PTAの部屋」を欠かさず見ていますが、管理人が保護者に代わってからしばらくは、PTA活動の簡単な報告が主でした。ポイントは当然そのアップの速さです。管理人が全部の委員会や活動を記事にすることはできません。委員会の担当者にデジカメか携帯で撮った写真を簡単なコメントと共に送ってもらい、それをアップするのです。一方、管理人が直接書く記事は、そのボリュームも内容も違います。そこには単なる報告に留まらず、管理人が保護者に伝えたいことが詰まっています。校長がその思いを発信している。ならば私もと、「学校や子どものことに無関心な保護者に少しでも関心を持ってもらいたい」「自分の子どもしか見えていない保護者にもう少し広い視野で教育をとらえてほしい」と、自分の思いを発信したのです。 これだけでもすごいと感じていたのですが、次第にアップされる記事に変化が見えてきました。ホームページでの学校や校長の発信に対して、保護者の立場でコメントをするようになってきたのです。その理由について校長がたずねます。「先生たちは頑張っている。しかし、学校の頑張り、校長先生の思いが、保護者には伝わっていないと思った」というのがその理由です。学校みずから、自分たちは頑張っているとは言いにくいものです。校長には校長の立場があります。ストレートに言えないこともあるのです。そのことを察して、保護者の立場からバックアップしようとしたのです。すごい保護者です。でも、それだけではこのような発信にはつながりません。学校が頑張っているからこそ、校長がその思いを発信しているからこそ、そのことを受け止めバックアップをしてくださるのです。学校と校長への信頼がなければ、このようなことは起こりえないのです。我が校にもあのような保護者がいればと思う校長もいるでしょう。たまたまこの学校に保護者としてこの方がいたから起こったことなのかもしれません。しかし、記事の内容が変わっていったのは必然なのです。このことは、この後の記事の変化にも言えることです。記事は学校に対する応援という側面が強くなっていくのですが、保護者の視点からの学校への意見や要望といったものもアップされるようになっていきます。これは学校批判とは違います。学校が自分たちの意見や要望を聞く耳があると思うからこそ、信頼しているからこそ発信できることなのです。たとえ要望したことが「難しい」と実現しなくてもそのことを真摯に受け止めてくれれば納得できるのです。学校とのやり取りの中で、そのような信頼が育ってきたのです。 発信を続けるにはエネルギーがいります。そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。保護者からの反応は予想したほどではなかったそうです。しかし、真剣に学校や子どもと向き合っている保護者からは反応があったそうです。使命感といったものが強いのではという話の中で、会場から「面白くなければ続かない」という意見がでてきます。確かにその通りでしょう。自分の考えを受け止めてくれる、それに対して保護者や学校も反応してくれる、このことは理屈抜きに面白いことだと思います。明言を避けられましたが、きっとそういう手ごたえがあるから続くのだと思います。 では、この保護者が学校からいなくなったら、校長が変われば、「PTAの部屋」はどのようになるのでしょうか。おそらくは別の形になっていくと思います。それでいいのです。今の形に縛られる必要はありません。その時、そこにいた人たちでつくっていけばいいのです。 しかし、このような発信が起こった要因を人の問題だけに帰してはいけないと思います。校長が赴任してすぐに、新しいことを始めたいとPTAに相談し、そこで決まったことを即実行したことに驚いたと話されました。保護者からこのような発信が起こってきたのは、まず学校が、校長が保護者を信頼して相談したこと、聞く姿勢を見せたこと、そのことを素早く実行したことが、その根底にあったのです。 PTAに対して、学校で決定したことを協力してほしいとお願いするだけでは、やらされている感しか残りません。「困っているから一緒に考えてほしい」と互いに寄りそう姿勢を見せて初めて、共に子どもを育てるという協力関係が生まれます。このような関係があればこそ、保護者向けのネット講習会(「地域の枠を超える動き」「PTAや地域と学校の信頼が育つ様子を見る」参照)といった企画が可能になるのです。 今回の対談は、ホームページを通じてのPTAの発信のことだけでなく、PTAと学校の信頼関係が生まれるために大切なことを教えてくれました。 とてもよい学びをすることができました。去り際に「○○○○な校長をよろしく」という言葉を残されました。この言葉にPTAと学校の強い絆を感じました。 この後、来年2月のフォーラムについての準備や検討が行われました。着々?と準備は進んでいます。もうしばらくすれば、詳しいことをお知らせすることができると思います。参加を検討されている方、今しばらくお待ちください。 この日も充実した研究会になりました。皆さんに感謝です。 今年も野口芳宏先生から大いに学ぶ
本年度第4回の教師力アップセミナーに参加してきました。12年連続の野口芳宏先生の講演です。野口先生の元気な姿とお話に出会うことが毎年の楽しみです。
午前は作文指導のお話です。 現在の指導要領では「話す・聞く」の順番になっている。「話す」は表現で、「聞く」は理解だ。表現が先になっているが、理解してから表現するのが本来の順番だ。近年、表現力が重視されているが、基本は聞く力である。聞く力、「傾聴力」を大切にするべきだ。という主張から入ります。その上で、「書く」ことについてのお話です。 書くことは言語活動で一番高度で、作文力は国語の学力の総決算でとても大切なものだ。それなのに一番行われていない。書かせれば読まなくてはいけない。読むと腹が立つ。あれだけ指導したのに、漢字を使っていない、仮名遣いが間違っている。「一番いいのは書かせない」となってしまう。だから「読まない」というのが野口流です。 野口先生の作文指導の原則は「多作」「楽作」「基礎基本」の3つです。 たくさん書かせるというのが「多作」です。好きにするというのは理想だが、それは求めないでとにかく書かせる。欠席をすれば「僕の欠席した1日」を書かせる。とにかく書くことを日常化させる。それもただ書かせるのではなく、意識的、自覚的、目的的に書かせることで力をつける。いかにも野口流です。「鍛える」という言葉がこれほどふさわしい方はいません。 この多作のための方法が「日直作文」です。日直が15分早く来て、自分の書いた作文を黒板に書きます。子どもたちは、必ず「評価」の視点で日直の作文を読みます。日直に望ましい読み方で読むように指示し、間違いはその場で指導します。こうすることで教師が手間をかけなくても、子どもたちはおかしな文を書かないようになるというわけです。子どもたちに書いたものを提出させ、よいものは保存に値すると評価して年度末に傑作集として文集にする。こうすることで、子どもの意欲も高まります。 子どもが面白がって書くというのが「楽作」です。「苦作」に対する野口先生の造語です。嫌なことは続かない。苦を楽にするという発想です。作文指導はネタが大切というわけです。子どもが一番喜んで書いたのが「野口先生の欠点」。なるほど、これなら作文嫌いの子どもでも喜んで書きそうですね。子どもが作文を書かないのは、作文力がないのではなく、ネタと題が悪いということです。 例えば、子どもが自分の大好きなものになったつもりで書く「なりきり作文」。自分の好きなものになるので、どうしてもその対象は持ち主である自分自身に向かいます。不思議と自分の悪いことを書くそうです。自分を見つめ直すのです。その後で、「僕から○○へ」と返事を書かせれば反省する。道徳的効果もあるのです。 「多作」「楽作」で子どもたちの作文の活動量は増えますが、それだけで力がつくかというと、そうではありません。ただ活動するだけでは、ある程度の力は着きますが、それ以上はつきません。工夫改善が必要です。「基礎基本」を教えないと崩れた「多作」「楽作」が続くことになります。そのために、野口先生は「作文ワーク」をつくられました。例えば、「段落」を学ぶのであれば、「試し」の文章を段落に分けるという作業をします。段落を分けるのはどういう時かを、ヒントの形でまとめてあります。こうして「段落」という文章を書くための基本を教えるのです。欄外には、どのような学力が形成されるかという「形成学力」と子どもが学ぶ「学習用語」が書かれています。野口先生がいつも主張されている、国語でどのような学力を形成するのかを意識し、子どもたちが学習すべき用語を明確にしています。子どもたちにつける力はどのようなものか、教えることは何かという授業の基本がきちんと守られています。野口流は、いつもぶれることなく、授業の基礎・基本がきちんと押さえられています。 さて、問題はこうして子どもたちに作文の活動をさせていくと、読まなければいけない量が増えていくことです。最初に述べたように、ここで「読まない」のが野口流です。 では、具体的にどのようにするのでしょうか。 ポイントは、褒めて、読まないことです。読むと腹が立つ。読まないで返すと親が怒る。読まないで見る。見たとたんに○をつけて評価をするのです。○は大サービス。ちゃんと書いてあれば三重丸、ちょっとどうかは二重丸。「うまい」と書いて、細かい批評はしないのです。それでも気になるところがあれば、そこには線を引く。これだけでいいと言うわけです。教師が読むことよりも、子どもがどんどん書くことの方が、作文の力をつけるためには大切なのです。 とはいえ、誤字は気になるものです。しかし誤字を直しても子どもは見ないものです。子どもの間違いは、普段の国語の授業が貧しいからそれが反映しただけだというわけです。個別に対応するではなく、こういう間違いがあったといって授業で取り上げて全体で指導すべきだということです。 いかに作文力をつけるかを、具体的、現実的な方法で示していただけました。私が日ごろ主張している、「先生が頑張ったからといって子どもの力がつくわけではない。子どもが頑張ることが大切」にもつながるお話だと勝手に解釈して喜んでいました。 さて、参加された先生方どのように野口先生のお話を聞かれたでしょうか。早速明日から実行しようと思われたでしょうか。セミナーでよいお話を聞いた、勉強したと満足するだけでは授業は変わっていきません。実行しようと思っても、実際にやらなければ何の意味もありません。何か一つでも実際に試していただきたいと思います。 午後の前半は、中学校の国語の授業(国語の授業撮影参照)のダイジェストビデオを見ての、野口先生の講評です。 野口先生はいきなり核心に迫ります。「この授業で子どもたちに形成したい学力は何だったか」と問います。 野口先生は、学力形成の判定を次のように整理されています。 1 入手・獲得 2 訂正・修正 3 深化・統合 4 上達・進歩 5 反復・定着 6 活用・応用 今回は、この1から4にそって検証されました。このように学力形成の観点から分析することで曖昧だったものが明確になっていきます。授業者にとってはごまかしがきかない、厳しい指導です。しかし野口先生がこのような指導をされるということは、授業者がそれに耐えられると判断したからだと思います。セミナー終了後の反省会では、授業者にとても温かく接していたことが印象的です。公的な場と私的な場をきちんと区別して接してくださいます。そこも野口先生の魅力です。 授業での問いに関連して、質問と発問の違いを示されます。 子どもに聞くのが「質問」。正解があって、そこにいたる道筋があるのが「発問」。「考えることができる」と問うのであれば、考えればいいのであって、その質は問われません。「正しく読み取る」ことを求める必要があります。 そういう意味で、今回の授業は活動主義であると評価されました。 いつものことながら、明確です。参加された方、授業者ともに多くのことを学べたと思います。正解にいたる道筋を明確にしておくことは、どの教科でも大切なことです。その道筋を子どもたちが見つけていく活動をどのようにつくっていくのかが、授業づくりのポイントであることを再確認することができました。 最後の講演は、「日本の誇り」という視点で皇室について話されました。 私たちは、自分たちの国「日本」に誇りを持てているのだろうかという問いかけから始まります。自分の出自である日本という国に誇りを持ってほしい。日本には世界に類を見ない長い歴史を持った国です。その象徴として皇室があります。昭和天皇のエピソードをもとに、皇室は私たち日本人が世界に誇れるものだということを話されました。 いつも思うことですが、いろいろな考えがある中で、批判を恐れずに自身の考えを主張する姿勢はとても立派です。よい悪い、正しい正しくないは別にして、批判されることがわかっていて主張することには勇気がいります。自分はあれだけ堂々と自分の考えを公の場で主張できるかと考えると、いささか心もとなくなります。 今年も野口先生のお話とその姿勢から多くのこと学ぶことができました。毎年お会いしていても、もうこれで十分だということがありません。今から、来年お会いできることを楽しみにしています。 「見えない相手とのコミュニケーション」をテーマに介護関係者向けに研修
先日、介護関係者向けのコミュニケーションに関する研修をおこなってきました。
今回は「見えない相手とのコミュニケーション」について、電話応対を例として考えていただきました。 最初に、相手から見えなくてもこちらの態度は伝わることを実感してもらうために、椅子にふんぞり返って謝ってもらいました。申し訳ないと思っている雰囲気を声で伝えようとしても、横柄な態度だとなかなか難しいことがわかります。こちらの態度や様子と声は連動するのです。電話オペレーターの方が鏡を見ながら対応するという話も納得できます。相手にどのような気持ちを伝えたいか、相手の顔が見えないからこそ意識したいものです。 逆に相手の声の調子からだけでは相手の人となりがわからないこともよくあります。とても誠実そうに電話してきた相手が、詐欺師だったということも珍しくもありません。相手の口調に惑わされず、きちんと伝えるべき情報を伝え、得るべき情報を意識して応対することが求められます。 また、きちんとした言葉づかいができなければ、相手に値踏みをされてしまいます。仕事上の電話では、知らない相手ほどその対応でどのような人物か、会社かを知ろうとします。服装や建物といった他の要素がないだけに、話し方から相手に関する情報を得ようとするのです。 結局、見えない相手とのコミュニケーションで意識することは、実は普通のコミュニケーションでも大切なことです。相手にきちんと伝える、相手からきちんと情報を得る。服装や態度と同じように、相手にどのような印象を持たれるか気をつける。ただ、コミュニケーションの手段が電話であれば声だけだったり、メールであれば文章だけだったりと限定的なので、そのことがより強く求められるのです。 電話は突然の対応が求められることがよくあります。とっさのことに、うまく対応できないこともよくあります。電話応対は苦手という人もいるのではないでしょうか。私もかつてそうだったのでよくわかります。電話が鳴ると、誰か出てくれないかとまわりを見たり、それとなく席を立って手洗いに行ったりしたこともありました。しかし、逃げてばかりいても応対は一向に上手くはなりません。経験を積むことが大切です。しかし、自信がなくて電話に出られないから経験が積めないのです。堂々巡りです。私の場合は、頭の中で「今電話がかかってきたらどう応対するか」のシミュレーションをするようにしました。電話をかける時は、まず一連の応対を頭の中で想像してから、受話器を取るようにしました。こういった意識的な訓練が必要だと思います。 最後に苦情電話に対するロールプレイをしていただきました。「デイサービスで送迎の車が予定時刻を過ぎても来ない。仕事があるのに出かけられない」といった状況設定です。皆さんととても一生懸命に取り組んでいただきました。経験豊富な方は、さすがと言う対応をされます。 謝ることも大切ですが、まず相手が困っていることに寄り添うことが求められます。「それはさぞお困りでしょうね」と、相手の気持ちを受け止めることが必要です。その上で、謝罪することよりも、どうすればいいか、どうすれば相手が困っていることを解消できるかを一緒に考えることを第一にすることが求められます。「これこれ、このように対応することでいかがでしょうか」と相手に確認をしてから対応するのです。とはいえ、なかなか簡単なことではありません。自分で対応できないと思えば、すぐに対応できる方と電話を替わることが大切です。対応を間違えてこじらせてからでは、修復は難しいのです。「それはお困りでしょうね。担当のものにすぐに替わりますので、お待ちいただけますか」といった言葉が出るように日ごろから頭の中で訓練しておくとよいでしょう。 私からは、ちょっと難しいですが、「ご連絡いただき、ありがとうございます」とお礼を言う方法もあることを伝えました。「おかげで、他の利用者の方にも連絡を取って対応ができます」といったことを相手に伝えるのです。苦情を言う方も決して喜んで言っているわけではありません。嫌われるのではないかと思いながらも、仕方がないので連絡しているのです。その気持ちを和らげるには、「ありがとうございます」という言葉はとても有効なのです。 今回、グループでの活動を多くしましたが、皆さんの意見を取り上げて、気づきを共有することがあまりできませんでした。見えない相手とのコミュニケーションも、普通のコミュニケーションと基本は同じであることを伝えきれなかったように思います。電話応対の中途半端なノウハウのようになってしまいました。私自身が何を第一に伝えたいかが明確でなく、活動を中心に研修を組み立ててしまったことが原因です。授業と同じですね。 私のいたらなさにもかかわらず、参加された方々はとても熱心に学ぼうとされていました。言い訳になりますが、私からの学びは少なかったかもしれませんが、互いから多くを学んでいただけたのではないかと思います。 次回からは、「介護におけるコミュニケーション」をテーマに研修を行っていきます。私が皆さんからヒアリングしたことをもとに執筆した、介護従事者の方のためのコミュニケーションに関する小冊子をもとに進めていきます。今回の反省をもとに、皆さんに参加してよかったと思っていただける研修を目指したいと思います。 小学校の理科の授業研究で考える
昨日の日記の続きです。
授業研究は教職2年目の先生の小学校3年生の理科でした。ゴムを使って車を動かし、目標の場所に止めるためにどのように工夫するかが課題です。 子どもたちは教室の前方にグループごとに座っています。教室の後ろには実験の準備が整っています。授業者はこの日の実験の説明をします。「みんなに遊園地に行ってもらいます」という言葉が出ると、子どもたちは「遊園地」という言葉に反応してテンションが上がります。後ろを振り向かせて反対側の壁が車のゴールであることを確認して、前を向かせます。ここで、何人かの子どもが後ろを向いたままです。それでも、授業者は説明を続けました。気になるところです。 スタート地点からコンビニとPAに寄って遊園地に行くという設定です。それぞれ決められた場所にピッタリ車を止めるためには、どのようにすればいいかが課題です。授業者は一連の実験の流れを一気に説明します。子どもたちはこれで活動できるのかちょっと不安です。ここで、子どもから質問が出ます。実験内容について子どもから質問が出ること自体はよいことです。授業者は質問をした子どもに答えます。他の子どもはその間よそ事をしています。自分の問題ではないのです。授業者は質問が全体で取り上げるべきものであれば共有化して、全員に対して説明する必要があります。すでに説明した内容であれば、授業者ではなく聞いていた子どもに説明させるようにします。個人的な質問であれば、その場で答えずに、後で個人的に答えるべきです。このような質問場面が、この授業では何度かありました。子どもたちは、しっかり聞いていなくても、よくわからなくても後で聞けばいいと考えているようです。授業者は、子どもたちへの指示や説明をきちんと整理できていないように感じました。そのため少ししゃべりすぎです。基本的なことですが、指示の説明はできるだけ簡潔に、そして確認することが大切です。 いったん全員で後ろへ移動して、車を使って実演しながら具体的に説明します。子どもの意欲が高まるのを感じます。ここですぐに実験に入るのかと思いきや、また前に戻って説明の続きです。せっかく意欲が高まったのにだれてしまいます。 授業者は課題を、途中のコンビニやPAにうまく止めながら遊園地にいくのに「どのようにすればいか」と提示しました。しかし、この言葉がぶれまくります。「どのように引っぱる」「どのくらい引っぱる」「どれだけ引っぱる」「どのくらいの強さで引っぱる」・・・。場面ごとに言葉が目まぐるしく変わるのです。 子どもたちから出てくる言葉ならいいのです。これらの言葉を整理する過程で、理科として考えさせたい「ゴムの性質」「ゴムを引っぱる量と力の関係」などに気づくことができます。しかし、教師自らが混乱していると、子どもはわけがわからなくなります。言葉の意味の違いを意識しないで使うようになってしまいます。 この授業では、「車を動かすには力を与える必要があること」「力の強さと車の進む距離には関係があること」「ゴムを引っぱる力が強いとたくさん伸びること」「ゴムは戻るときに引っぱった方向と反対の力を出すこと」「強く引っぱれば、車に与える力が強くなること」などを子どもの言葉から引き出していきたいところです。 例えば、「強く引っぱるとたくさん進む」といった言葉が出てくれば、「何が強い」のか問いかけ、力が強いことを明確にします。また、たくさん進むことは、強い力で押したということです。「ゴムをつかわない時は、どうすればよかった?」と問いかけることで。引っぱったのに押された。強い力で引っぱると強い力がでることを明確にします。 こういうやり取りをすることで、思考を整理するのです。 記録の取り方にも疑問がありました。コンビニにうまく止まった時と比べて「少し小さく」「かなり小さく」「すこし大きく」「かなり大きく」引っぱった、の4つに分類し、それぞれに対応した色のシールを、車が進んだ距離に応じて記録シートの目盛りに貼って記録します。スタート地点とコンビニの距離より近いコンビニとPAの間は「小さく」のシールばかりが貼られます。より遠いPAと遊園地の間は「大きく」のシールがばかりが貼られます。子どもは近ければ小さく、遠ければ大きくすることを先験的にわかっているので、同じ色のシールばかりが貼られます。情報としては意味がありません。また、この「小さく」「大きく」引っぱるというのも曖昧な言葉です。わざと曖昧な言葉にしているのであれば、「小さく」とはどういうことか子どもに明確にさせる場面があるはずでが、どうもそのことを意識していなかったようです。 グループで話し合う必然性を持たせるために、全員がコンビニにピッタリ止まってから、次のPAに向かうというルールです。しかし、たまたま1回で上手くいった子どもは、アドバイスするものも持っていません。上手くいった子どもがただ待っているだけというグループもありました。もちろん、どこまで引っぱるか目盛りを見ながら試しているグループもあります。しかし、全体で共有する場面がありません。早く遊園地までたどり着いたグループの中には勝手に遊びだすものもいます。テンションがどんどん上がり、かなりうるさい状態になってしまいました。 授業者は、説明の時には一度も実験という言葉は使いませんでしたが、「実験して」という言葉で開始しました。細かいことですが、こういうことも気になります。実験とはどういうものか定義できているのでしょうか。 この実験のゴールはわかっていますが、実験で何を知りたいのか、何を確認したいのかが明確ではありません。実験には目的があるはずです。実験開始前に、コンビニを基準として、「小さく」引っぱるか、「大きく」引っぱるか予想させますが、先ほど述べたようにその「小さく」「大きく」がどういうことか明確にしていないので、それが何を知ることにつながるのかわかりません。そのため、実験終了後、「どんなことがわかった」という問いに、子どもの鉛筆はなかなか動きませんでした。 ゴムの性質を考えるのであれば、まず「コンビニに全員が100発100中で止まるようにしよう」といった課題に挑戦させればよいと思います。最初はゴムを使わずに手でやらせて、それからゴムを使って挑戦です。100発100中ですから、1度成功したからといってそれで終わりではありません。偶然では次にはうまくいきません。再現性を意識すると、手でやるよりも、ゴムを使った方が上手くいきます。力の強さは可視化しにくいですが、ゴムを使うとその引っぱった長さで可視化できるからです。100発100中にするには、何らかの形で記録することも必要です。そこで、どこまで引っぱったかに注目するようになるはずです。ゴムは同じだけ引っぱれば同じだけの力を出すといったことにも気づくはずです。 ここでいったん実験を止めて、どうやって100発100中にしたか、その結果だけでなく、その過程を問います。ここに科学的な思考があるからです。時間をかければ先ほど述べたような子どもに期待したい言葉がきっと引き出せると思います。これで、充分にこの授業の目的は達成できるはずです。 あとは、法則を見つけることのよさを実感するために、子どもたちが気づいたことから、次のPA、遊園地に行くにはどのくらいまで引っぱればよいか具体的な目盛りの値で予想して実験させます。目盛りを指標として使うことで客観的な記録もとれますし、予想が正しいかどうかも明確に判断できます。もちろん、定量的な関係を扱う必要はありません。ここでは、気づいた法則性を使うことで、より簡単に達成できることを子どもたちが実感してくれればそれでよいと思います。 このような展開であれば、最後の考察(まとめ)で、わかったことをたくさん書いてくれるのではないかと思います。 指導案を見ると、この授業に向けていろいろな先生からアドバイスを受けていると感じました。残念なのは、授業者がその内容を消化しきれていなかったことと、基本的な授業技術がまだ身についていなかったため、子どもたちにきちんと伝えるべきことを伝えられなかったことです。 検討会は、前回と同じく子どもたちの様子がしっかりと報告されました。グループでのかかわり方や、まとめでわかったことを書く時の戸惑っていた様子も詳しく聞かせてもらえました。とても参考になります。ベテランからは私が指摘しようと思ったことがたくさん語られました。これならば、私の助言は必要ないのではと思うほどでした。私からは、理科における課題や活動のあり方とこの日見た他の授業とも共通している、活動のゴールと評価についてお話ししました。 授業者は検討会終了後の私からの個別の指摘をとても素直に受け止めてくれます。この学校の先生方は本当に素直な方が多いのに驚きます。個人の資質の問題なのか、それとも何か学校に秘密があるのか、興味のあるところです。 授業者は経験の少ない、まだまだこれからの先生です。今回の授業と検討会から学んだことを次に活かして大きく伸びてくれることを期待します。 3学期にもう1度訪問する機会をいただいています。この日の3人の先生方がどのような進歩をみせてくれるか、今からとても楽しみです。 若い教師の授業でいろいろと考える(長文)
先週末に、小中一貫校の現職教育に参加しました。この日は小学校の若手2名の授業アドバイスと現職教育の授業研究でした。
教職4年目の先生の授業は、4年生の音楽でした。日ごろは特別支援の担当なのですが、通常学級の授業も進んで受け持つようにしているそうです。その姿勢からも前向きさがわかります。 復習でしょうか、最初に笛の合奏をしていました。授業者は立って伴奏をしています。子どもたちを見ようとする意識があります。しかし、残念ながら子どもを見ていない時間もかなりありました。伴奏しながら見ることは技術的に難しい部分もあるのでしょうが、せっかくですからもっと見るようにしたいと思いました。ほとんどの子どもは一生懸命にできているのですが、時々うまく演奏できなくて集中力がなくなる子どももいます。そういった子どもたちに視線を投げかけるだけでも、様子は変わっていくと思います。 演奏終了後に、「OK」と子どもたちを評価しますが、これでは何が評価されたのかわかりません。具体的にどこがよかったのかを伝えることが大切です。また、せっかく子どもたちの演奏の様子を見ているのですから、「○○さん、譜面を見ないで演奏していたね」というように個人をほめることも意識してほしいと思います。友だちがほめられるのを見て、自分も頑張ってみようと思うものです。 この時間は、「飛べ飛べとんび」の最初の時間です。とんびが飛ぶ様子を子どもたちに歌で表現させようという授業者の思いが前面に出ている授業です。とんびはどのように飛ぶかその様子を体で表現するように求めます。しかし、とんびの飛んでいるところを見たことがない子どもは参加できません。友だちの発表を見ても、それをどう受け止め評価していいかわかりません。勉強はあまり得意でないが、サッカーは詳しいといった子どもを活躍させるためにサッカーの知識を問うといった、日ごろ活躍できない子どもを活躍させるねらいがないのであれば、知識を問うことは避けた方がよいでしょう。 とんびが飛ぶ映像を見せて、全員に体で表現させる。CDを聞いてとんびがどのように飛んでいるように感じたかを子どもに言葉や体で表現させ、「みんなの合唱を聞いた人がどんな風に感じてくれるかな」と活動のゴールを意識させる。このようなことを考えてみてほしいと思います。 この場面に限らず、発表した子どもは自分の発表が終わると集中力を失くします。姿勢が大きく崩れる子どももいます。一度発表すれば自分の出番は当分ないことを知っているからです。子どもたちは、発表は先生に聞いてもらうことだと思っています。だから、先生に向かって一生懸命に話します。先生も発表をしっかり聞いてあげなくてはと発表者ばかりを見ます。そうではなく、子どもたちの様子を見て、発表者の意見についてどう思ったか問いかけることが大切です。「同じ意見の人」と挙手させるだけでは、最初に発表できなければもう発表の機会はありません。同じ意見の人にも、「あなたの言葉で言って」と発言の機会を与える。「今の意見聞いて、なるほどと思った人」と挙手をさせて、「どこでなるほどと思った」と聞いている子どもに活躍の機会を与える。こういうことが大切です。子どもたちに、自分の意見がみんなに「伝わったかどうか」「どう伝わったのか」と意識させてほしいのです。一人ひとりの子どもの発言を、まず全員が理解して共有することから始めるのです。 この日の主となる活動は、歌詞からとんびの飛ぶ様子を想像して絵に描き、その後、その絵の様子を表現するためにどのように歌うかを考えさせるものです。 子どもに絵を描かせる指示の場面で、何のために絵を描くのかという目的が明確ではありませんでした。「飛べ飛べとんび」の一連の学習でどのようなことを目指すのかと、そこにいたる過程で、今の活動がどのような位置づけにあるのかを明確にすることが必要です。「聞いている人に、とんびの飛ぶ様子が浮かぶように歌おう」、そのために「どのような様子を伝えたいかを絵にしてみよう」、「絵の情景を伝えるために、どのような歌い方の工夫をするといいか考えよう」といったことを伝えておく必要があります。 発表は、全体で自分の描いた絵の情景を授業者が用意したとんびの絵を切り抜いた紙を使って表現し、その後自分の考えた歌い方の工夫を説明するという順番です。発表を聞いている子どもは、聞く必然性があまりありません。まず、歌い方の工夫を発表させて、その工夫をして歌うとどのような様子が伝わるかを聞いている子どもたちに考えさせる。聞いている子どもを指名して、絵を切り抜いた紙を使って表現させて、発表者に自分の伝えたいことが伝わっているかを確認する。こういう構成を意識しないと、子どもたちは聞くことに積極的にはなれません。 また、譜面に書いてあるクレッシェンドや強弱といった音楽記号と自分たちの考えとを比べてみることも面白いでしょう。自分たちの詞の解釈と作曲者の解釈が同じだなと共感できたり、違うところはどう解釈したのだろうかと考えたりすることができます。鑑賞する力をつけることにもつながります。 全員の考えを発表して集約することは時間的にも難しいですが、グループ等を活用して聞き合うことで、自分の考えを発表する機会をつくることができます。自分たちの合唱をつくることを意識するのであれば、こういった場面も必要になってくると思います。 子どもたちに、表現することを意識させた合唱をさせようとする授業に積極的に挑戦してくれました。そのおかげで私も表現を意識した音楽の授業について多くのことを考えることができました。 教職3年目の先生の授業は、5年生の国語でした。「大造じいさんとガン」の大造じいさんの気持ちの変化を大造じいさんの言葉を抜き出して考える場面でした。 子どもたち全員で音読をさせます。一人が「。」で区切られた1文を読むごとに交代し読んでいきます。いわゆる「。読み」です。ちゃんと文章を目で追っていないと自分の順番が来た時に困ってしまうので、集中を続かせることがねらいです。しかし、5年生くらいになると中には、しばらく順番が来ないことがわかっていれば気を抜いて、近づくとどこを読んでいるかを目で探す子どももいます。注意をするためではありませんが、子どもたちの様子を見ることが必要です。子どもたちの様子を見てどのように対応するかを決めるためです。授業者が教科書に視線を落としている時間が多かったのが気になります。子どもがつかえた時やうまく読めなかった時は先生が助けます。ここは、「まわりの人、助けてあげて」と子ども同士で助け合えるようにしたいところです。最終的には、教師が何も言わなくても子ども同士で自然に助け合えるようになってほしいのです。 ここで、音読をする目的が明確になっていないように思いました。子どもたちは指示されて音読するのですが、何のために、どのようなことに気をつけるといったことが意識されていません。当然、評価も明確ではありません。ただ、指示された通りに活動しているだけなのです。活動の目的や目標、評価が明確でないのは、この学校のどの授業でも共通のように思います。これらのことを子どもたちにわかりやすい形で伝えることがこの学校の課題の1つに思います。 子どもたちの発表の場面は、常に挙手した子どもを指名して進みます。挙手が数人でもすぐに指名します。それを受けて、授業者が説明をします。子どもを指名できないので、挙手が少ない時ほど授業者がしゃべる量が増えていきます。授業者が説明することがわかっているので、子どもたちは真剣に自分で考えることをしなくなってしまいます。指名に頼らず、子どもたちに授業に参加することを求めることが大切です。まわりと相談させる。指名した子どもの発言を、他の子どもに復唱させる。子どもの発言を全員で共有して、そこを足場にして考えることを求める。こういう姿勢を見せなければ、いつまでたっても子どもは自分の考えを積極的に発言しようとはしなくなります。自信がある時、根拠を求められない場合だけ、一生懸命に挙手をして指名してもらおうとするのです。 この日の課題は「大造じいさんの言葉から気持ちの変化を読み取る」です。一番の問題は、なぜ「大造じいさんの言葉」に注目するのか、読み取りにおける根拠がないことです。また、気持ちの変化を読み取ることをなぜ物語では重視するのかを子どもたちが理解している必要もあります。国語の授業で培いたい読解力は、筆者が伝えたいことをその表現から正しく理解する力です。物語では主人公の心の変化を通じて伝えることが一般的ですから、そこを大切にして読み取ろうとします。そのためには、その変化をどのような表現で伝えようとしているかを意識することが求められます。 この場面では「大造じいさんの言葉」ですが、授業者が注目しなさいと与えるのではなく、子どもたちに気づかせることが大切です。どのような表現に注目するかは物語によって違います。子どもたちの中に、その視点をたくさん育てていかなくてはなりません。「○○を読んだときは、△△に注目したね。この物語では、何に注目するといいだろう」「この物語では、何がたくさん出てくるかな。たくさん出てくるというのは作者がこだわっているということだね」「たくさん出てくるけど、どこが同じでどこが違うかな。比べてみようか」というような言葉で、読み取るための視点を整理することが大切です。新しい物語に出会うたびに恣意的に「○○に注目しよう」と教師が指示しても、読解力はつかないのです。 子どもたちがワークシートに作業をしている時に、授業者は書いたものに○をつけます。自信を持って発表させたいのでしょうが、全員に○をつけるわけではありません。逆に言えば○をもらえない子は、自分の考えはダメだと思う可能性もあります。○つけをするのなら、全員に○をつけることが大切です。 大造じいさんの言葉を手がかかりにして、気持ちを発表させますが、どこが根拠となる表現で、その表現からどのよう気持ちがわかるのかがきちんと切り分けられていません。子どもたちは、なんとなく読み取ったことを発表していきます。根拠と読み取りの関係が不明確なので、友だちの意見をもとに考えが深まりません。一人発表しても、それに関係なく自分の意見を言おうとします。発言がつながっていかないのです。 授業者は子どもの発言に対して「なるほど」と受容の言葉を返すことがありますが、これも恣意的です。発言させてすぐ次の子どもを指名する時もあります。教師が説明するきっかけになりそうな発言だけをとりあげ、そうでない発言は軽く扱うのです。もちろん、どの発言も同じように取り上げれば時間がなくなってしまいます。しかし、まずは全員受容して何らかの評価をすることが必要です。取り上げるべき意見は教師がすぐに解説するのではなく、子どもたち自身でその意見をきちんと理解する時間を与える必要があります。その上で、その意見に対する子どもの考えを問いかけながら深めていくのです。常に教師が説明することがわかっていれば、子どもたちは友だちの意見を聞いて考えようとはしなくなるのです。 子どもたちは、教師の指示に従って活動しますが、その活動が何のためか、どのような力をつけようとしているのかよくわかっていません。瞬発力をつけようとしているのか、持久力をつけようとしているのかもわからずに、ただ、走れと言われて走っているようなものです。教師が質問するからそれに答えているだけなのです。この授業に限らず、学習活動を通じてどのような力をつけようとしているのかを子どもたちに意識させるようにしてほしいと思います。 お昼休みに、2人とお話しする時間を少しいただけました。2人ともとても素直で、アドバイスを前向きに受け止めてくれます。きっと大きく成長していくことと思います。 同席していただいた教務主任が、私の説明のいたらないところをフォローして、わかりやすく言い直してくれました。とても力のあることがわかります。一緒に授業を見ていただいたのですが、実によく子どもたちを見ています。ご自身で学級経営に関する著作もあるような方です。その目で見たこと、感じたことを若い先生方にどんどん伝えていただければ、皆さんの成長に大きく役立つことと思います。私がアドバイスする必要などないと思うほどです。今回、この先生にお会いできたことも大きな収穫でした。 授業研究については、明日の日記で。 PTAや地域と学校の信頼が育つ様子を見る
先日、保護者向けのネット講習会の講師養成講座に参加しました。地域の保護者に子どもたちのネット利用の問題を考えてもらう講習会の講師を養成する講座です。この企画は保護者、地域コーディネーター、学校が力を合わせて地域の子どもを守り育てていこうというものです。
その前の仕事が押していたため15分ほど遅刻してしまいました。会場に入って驚いたのが、参加者の多さです。講習会は市内全部の中学校を会場にしておこなうのですが、会場ごとにその地区の方と学校が中心となって運営します。地区ごとに講師が必要となるので参加者が多いのです。それだけではありません、この市以外からも多くの学校の先生が特別参加されています。子どもたちのスマホやSNSなどのネット利用の問題が深刻であり、また有効な対策が打てていないことの表れだと思います。もちろん、この市の学校の先生もたくさん参加されていますが、管理職の方が少ないように思いました。管理職の方が忙しいのはよくわかりますが、他地区からの参加者は管理職の割合が多かったのと対照的でした。 途中から参加したため、講師の大学の先生の話が、当日の講習をなぞっているのか、講習をするための基礎知識を話しているのかよくわかりません。ちょうど良いタイミングで、主催している学校の校長が割って入って、ここまでの説明の位置づけを確認してくれました。この後も程よいタイミングで介入して、整理し、まとめてくれるので参加者はとても助かったことと思います。 本番の講習会と同じようにグループで子どものネット利用に関する問題点や見聞きしたこと、どうすればいいのかを話し合います。私のグループはほとんどが先生でしたが、その知識や問題点の認識にはかなりの差がありました。スマホや携帯電話でなくても、ネットにつながる携帯音楽プレーヤーや携帯ゲーム機を使えば電話機能やSNSを利用可能で、小学生のトラブルが急増しています。この実感があまりない方もいらっしゃいました。 講師の先生から示された、「18歳未満の子どもたちがネットで被害にあった時期は、スマホなどを持ち始めて1年未満が約3/4」という資料は、私にとっても少なからずショックなものでした。ネットに関する教育は、「ぼつぼつしていけばいい」では手遅れなのです。情報端末を与える前にしておくことが大切です。とはいえ、ほとんどの子どもは携帯ゲーム機などの端末をすでに持っています。すぐにでも対応していくことが求められます。この危機感をすべての学校で共有してほしいと思います。今回参加した他地区の学校もきっとすぐに何らかの動きをしてくれることと思います。 会を締める最後のあいさつは、地域コーディネーターの方でした。学校長ではありません。このことがこの会の性格を表わしています。学校に頼まれたから協力しているのではなく、地域が主体的にかかわっているのです。そのことは、挨拶の文言からも伝わります。講習会の内容もそうですが、そこに参加された方々の子どもたちのために何かをしようとするエネルギーに触れることができたことが何よりの収穫でした。 主催している学校の校長から、講座終了後に行われた、本番に向けての打ち合わせに誘っていただけました。今回の講座の内容を聞いて参加された方がすぐに講師ができるか疑問を感じていたことと、何よりこの企画を立案実行しているメンバーの方々に興味があったので、渡りに船でした。 打合せは、本番の流れの確認をしながら、誰がどの部分を担当するかを決めていきます。PTAや地域の方はこういった講師には慣れていません。不安もたくさんあると思いますが、それよりも自分たちで何かを創りだすことに挑戦する楽しみが勝っているように見えました。積極的に考えを述べていきます。決して受け身ではありません。そのエネルギーがあってこそ、市全体を巻き込む企画となったのだと思います。 会場から出た意見をつないでいくのは、プロでなければできないと校長は教師に割り振ります。さり気なくプレッシャーをかけながら、教師の活躍の場も用意します。ここで、「さすが先生は違う」と言われるようでなければいけません。割り振られた先生からは、期待に応えようという気持ちを感じることができました。 私からは、次のことを参加者の皆さんに気づいてもらう、お伝えするようにお願いしました。 家庭でルールをつくるといっても、親子が日ごろから話し合える関係がなければそれもかないません。また、ネットに関する知識を伝えることは大切ですが、この分野の進歩、変化は激しく、すぐに陳腐化してしまいます。常に新しい情報を手に入れ続けなければ対応できません。しかし、どのように環境が変化しても、親子で一緒に話し合い考えることができればトラブルに対応できます。被害にあった子どもの多くはまわりの大人に相談できずに、問題が深刻化していると聞きます。そういう点からも、子どもをネットのトラブルから守るためには親子が話し合える関係をつくることが一番なのです。 最終的に、スライドの順番を入れ替えたり、内容を精選したりと大きくブラッシュアップすることになりました。他の地区の講師のことを考えても、しっかりした台本が求められます。その台本をつくるという一番大変な作業は、もちろん校長の仕事です。PTAと地域の方が、翌日は県外に出張して時間がないという校長に、往復の新幹線で原稿を書くと宣言させました。「新幹線では眠ってしまうのではないですか」と明るく校長をからかう姿に、PTAや地域と学校の関係のよさを感じました。学校の活動を力強くバックアップし、また自分たちの考えもしっかり伝える。学校もそれにしっかりと応える。互いに信頼し、協力し合う関係をうらやましく思いました。 もちろん台本は、新幹線の中で書き上げられ…ることはなく、翌日朝までかかってやっと完成されたようです。その台本を私もいただくことができましたが、さすがに素晴らしいものになっていました。これならば、きっとどの会場でも中身の濃いものになると思います。私も大いに参考にさせていただきます。 打合せ終了後、先生方が真剣に自分たちの担当部分をどうするか話し合っていました。校長のプレッシャーが効いたようです。先生方の担当部分もきっと素晴らしいものになるでしょう。こういう姿をPTAや地域の方が見ることが、学校への信頼も増すことにつながります。 PTAや地域と学校が一緒になって一つの企画を実現していくことで互いの信頼が育っていく様子を間近に見ることができました。私にとってはこのことが一番勉強になりました。みなさん、ありがとうございました。 少経験者への授業アドバイス(長文)
前回の日記の続き、少経験者の授業アドバイスです。
初任者の数学の授業は3年生の2次関数の授業でした。以前と比べて子どものことを見ることができるようになっていました。子どもを見ることを意識できているのですが、まだ子どもをチェックする目で見ています。友だちの発表を聞いていなかった子どもに、何と言っていたかたずねます。指名された子どもは困ってしまいます。「わかりません。聞いていません」と答えるしかありません。それに対して、ある子どもが「聞いとけよ」と非難しました。授業者がお仕置きのために聞いていない子どもを指名したことがわかったので、それに乗じて攻撃的な言葉を発したのです。言われた子どもは反発せずに「はい」と返事をしましたが、表情はあまりよくありません。 このようなやり取りは、教師と子ども、子ども同士の人間関係を悪くしてしまいます。「聞いとけよ」という強い言葉ではなく、せめて「聞こうよ」という言葉であってほしいと思います。これが正解という対応があるわけではありません。たとえば、素直に「聞いていた?」とたずねて、聞いていなかったと答えれば、「いい意見だったのに、もったいないことをしたね」「○○さん、もう一度聞かせてくれるかな。みんなしっかり聞こう」といった対応が考えられます。再度聞いた後、先ほど聞いていなかった子どもに復唱させて、「今度はしっかり聞けたね」とほめて終われば、否定的な気持ちにさせずに済みます。 「制動距離」とはどういうことか問いかけたのですが、これは知識です。しかも数学の知識ではありません。理科で習っているはずだそうですが、ここで発表させる意味はあまりありません。最終的に、理科としてのきちんとした定義はしません。であれば、数学として必要なことに絞って授業者が押さえればいいのです。2次関数の例として出すのですから、何と何が関係しているかをしっかり押さえる必要があります。制動距離は、制動を始めた時の速度の2乗に比例することを言います。「不思議だね」と授業者は言いますが、ここで使うべき言葉ではないでしょう。「(高校の)理科の時間でその理由がわかるからね」と理科の学習への橋渡しをしておく方がよいと思います。また、数学としては必要な条件ではありませんが、やはり一定の力でブレーキをかけた時という条件は付けておいてほしいと思います。 「比例は今までに何回もやったから、自分で考えてごらん」と指示します。しかし、ここでは2乗に比例するという表現です。スモールステップで、まず比例の復習をして、その上で何と何が比例するかを明確にして、y=ax2の形に表せることを示したいところです。授業者は、この形を2次関数の一般式(一般形の間違い?)と言いました。一般形という表現は中学校では使わないはずです。使うのならばその定義をしっかりとしておく必要があります。また、2次関数の一般形は、y=ax2+bx+cです。用語を雑に使っていることがとても気になりました。 y=ax2となることを言った後、「比例定数は何かわかっていませんね」と続けます。「何がわかれば、制動距離と(制動を始めた時の)速度との関係がわかる?」というように子どもに問いかけたいところです。また、「比例定数」という言葉を使いましたが、2次関数ではx2の係数のことを比例定数とは言いません。この時、x2に比例すると考えれば「比例定数」ということもできるということです。説明もなしに使うことで、子どもたちが混乱する可能性があります。くどいですが、数学では用語や言葉の使い方にこだわる必要があります。 2年目の教師の社会の授業は、江戸時代の三都(江戸、大坂、京都)が繁栄した理由を考えるものでした。教科書にそって教えるのではなく、課題を工夫して子どもに調べたり、考えさせたりすることを大切にしています。先輩の先生からよい影響を受けているようです。 導入時に子どもたちの興味を引こうと工夫をするのですが、無責任に答えられるような質問や直接授業に関係ない話も多く、テンションが上がる子どもが出てきます。一方、そのテンションについていけずに白けている子どもも目立ちます。授業が始まった時点で、子どもたちの様子が分かれているのが気になります。この状況が固定化しているのでしょう。できるだけ、テンションを上げないように注意し、導入は短く終わるようにすべきです。 子どもたちが作業に取り組み始めてから、追加の指示をすることが何度かありました。いつも言うことですが、作業中に指示はしないようにすることが大切です。もし、する必要があるのなら、必ず作業を止めてから、全体にきちんと通るようにしなければなりません。また、一部の子ども作業に入っても手をつけようとしません。授業者は机間指導をしながら、途中で何分も一人の子どもにかかわります。当然その間他の子どもの様子は見ることができません。やらない子どもは、授業者がそばに来ると鉛筆を持ってやるふりをしますが、死角になるとすぐに遊びだします。全体を見て、どのような働きかけをするべきかを考えてほしいと思います。 全体での発表も、子どもの発言を黒板にまとめていくために、発言を聞かずに写す子どもが目立ちます。板書を控えて、子どもたち自身でまとめさせることを考えるとよいと思います。 初任者の国語の授業は、最後の晩餐についての説明文でした。毎回おこなう漢字の学習の場面では、全体をよく見ています。しかし、この日の課題に入っていくと、余裕がないため子どもを見ることができません。顔を上げていない子どもがいるにも関わらず、話しはじめます。指示の確認をして、「OK?」と聞きますが、反応がありません。仕方がないので、そのまま続けます。一つひとつの場面で、徹底すべきことができていないことが気になります。作業を開始すると、席を立ってカーテンを閉める子どもがいます。よくない行動は修正する必要がありますが、そのままになってしまいます。 最後の晩餐の修復前と後の違いを対比して抜き出すように指示しましたが、なぜそのことが必要となるのかが示されません。子どもたちは授業者の指示に従って作業をするだけです。 説明文は事例をもとにその根拠を挙げ、筆者の主張する結論が導かれます。それぞれの段落がどの位置づけにあり、互いにどのような関係にあるのかという文章構成を理解することが大切です。教材の文章を例として、説明文の構成に着目して筆者の主張を正しく理解する方法を学ぶことが説明文の単元の大きな目標です。今回の授業であれば、まずこの段落がどのような位置づけかを明確にさ、その構成上の役割を意識した時、何に着目すべきかを考えさせることが大切です。その上で、この段落では修復前と後を対比して述べていることから、このことが筆者の主張を理解する鍵となりそうだと気づかせるのです。その結果、対比して整理する必然性が生まれてくるのです。 授業を組み立てる時に、説明文であれば説明文の、物語であれば物語の共通した考え方を意識することが大切です。それを「この前やった説明文では、説明文を読むときにどんなことが大切だとわかった?」と積み上げていくのです。そのためには、まずは授業者自身の中に国語として説明文は、物語は何を学ばせるのかが明確になっている必要があります。授業者には、このことを意識するようお願いしました。 新任の理科の講師の授業は、進化についてでした。ガラパゴス諸島の生物の分化について話すのですが、教科書の写真を見ながらなので、子どもたちの顔が上がりません。こういう場面では、ICTを積極的に活用してほしいと思いました。ICTの環境的には厳しい学校ですが、移動式の電子黒板もあるので、ぜひ活用してほしいと思います。 子どもの発言を素晴らしいと評価するのですが、その後自分でしゃべってしまいます。子どもから見れば、素晴らしいとは、教師がその発言をきっかけに自分の言いたいことを説明できるような発言ということになってしまいます。これでは、子どもたちは教師の求める答探しを始めてしまいます。 授業者は、「同じ種類」のものが島ごとに独自の進化を遂げると話をしますが、そもそも「同じ種類」とは理科の用語としてどう定義されているのかあいまいです。それぞれの島の生物は、互いに異なった種類なのか、同じ種類で形態が違うのかどちらなのでしょうか。説明を聞いていてよくわからなくなりました。教科書を見てだらだら説明されても、子どもにとってよくわかりません。子どもにもっと活動させることを考える必要があります。子どもが受け身になって集中力が落ちていきます。教科書の写真を見る必要がない場面でも、顔が上がらなかったのが印象的でした。 初任者の体育の授業は1年生のソフトボールでした。 最初に気になったのが2人の見学者の態度です。道具の移動をさせられた後、活動場所から少し離れたところに座ってずっと2人でしゃべっていました。新しいことの説明の時にもそこから離れません。次回参加する時に困ってしまいます。見学者も授業に参加させることを考えることが大切です。 まずいつも通りペアでキャッチボールをするように指示をします。ペアの一方がボールを取りに行き、グランドのそれぞれの活動場所へ移動します。子どもが素早く移動しません。ボールを上に投げるといった、余計なことしている子どもが目立ちます。 キャッチボールを始めても、いつも通りとはどうすることなのかがわかりません。子どもたちの様子がバラバラなのです。ボールを放す位置が頭の上だったり体の横だったりして、一人ひとり違います。グラブを構える位置も一定しません。また、声も出ません。「ナイス」という言葉は一度しか聞き取れませんでした。 授業者はちゃんと指導してきたというのですが、子どもたちからはそれが何かは伝わってきません。途中でボールの投げ方、グラブの使い方を指示しますが、グランドに広がっている子どもたちにはよく聞こえません。このようなことが続くと授業者の指示はますます聞かなくなってしまいます。まずは、いったん集合させてから再度指示からやり直す必要があります。 「いつも通り」と言って指示するのであれば、「どのようなことに注意をすればよかった?」と子どもたちに確認しておくことが必要です。ペアでの活動なのですから、互いにチェックポイントを意識して、それができているかどうか会話しながら活動する。しゃべりながらが危険であれば、評価し合う時間をつくる。そういう工夫が必要です。活動の目標と子どもたち自身でできる評価を常に意識することが大切です。 子どもたちを集合させて、この日初めてする活動の説明を始めます。遠目にも一部の子どもの頭が揺れるのが見て取れる状態で説明を始めます。バットを使う活動ですが、授業者が一人で延々と説明をします。子どもは受け身の状態が続き集中力がなくなっていくのが、頭の揺れでわかります。 一番驚いたのが、ベースの位置でした。グループごとに何か所かに分かれてプレーするのですがホームベースがすぐ隣り合っています。ノックをするバッター同士はそばに立っているのですが、向きが違うので互いに見えません。もしバットがすっぽ抜けたらよけることができません。ベースの位置はずらすのが基本ですが、このことを知らないのかと不安になりました。授業者に確認したところ知ってはいたようです。知っているのならきちんとしなければいけません。 この日の授業は事故が起こらなかったのが僥倖に思えるものでした。 この日見た授業は、ほとんどが若手でした。わずかな年数の差でも大きな違いがあります。短い期間でも確実に進歩していることがわかります。これからますます若い教師が増えてくると思います。彼らが確実に成長し続けるためには、互いの授業を見合い学び合う環境が必要です。今以上にその環境が充実されていくことを願っています。 中学校で授業アドバイス
昨日は中学校で授業アドバイスを行いました。
この日は1年生の数学と英語、および少経験者の授業を観察しました。 1年生の英語はリスニングの場面でした。授業の大きな流れはどの授業者でも共通です。英語科は自分の授業のやり方にこだわることが多いのですが、この学年はよいチームワークを見せてくれます。 CDからの英語を聞いて教科書のメモ欄にチェックをします。留学生の簡単な自己紹介です。どこから来たのか、どこに住んでいるのか、どんなことが好きで、いつ練習しているのかといった内容です。 リスニングで問題になるのが答え合わせの場面です。解答を確認し合っても間違った子どもは、「ああ、自分は聞き取れなかった」と思うだけで、聞き取れるようにはなりません。聞き取れなかったことや、違って聞こえた個所も、こう言っているのかもしれないと思いながらもう一度聞き直すと、意外と聞き取れるものです。そこで、 ペアで答を確認して、相手の答を書き込む。その上でもう一度聞き直して、答を書き直す。聞き取れていた子どもにその英文を言わせて、それから聞き直させてもいいでしょう。子どもが聞き取れない文は速度を落として授業者が言い直す。 このようにして、わからなかった子どもも含めて、自分が聞き取れたという達成感を全員に味あわせてほしいのです。 また、英文をノートに書く場面で学級間に差がありました。英文をほぼ全員が一気に書く学級と、1文字1文字写している子どもが何人もいる学級があるのです。一気に書ける学級の授業者に聞いたところ、全員がその文を暗唱できるようにしているからではないかということでした。なるほど、と納得です。「できるだけ見ないで写す」といった目標や「見る回数」という評価指標を与えることも子どもが積極的に取り組むためには必要です。教師がすべてを評価することはできないので、自己評価できるようにすることを大切にしてほしいと思います。 会話文のペアでの練習も、決まった文を言うのではなく、返答を変えることで対応を変えるようなものにすることを意識してほしいと思います。ペアで活動しているのに、相手の言葉を聞かなくても困らないというのは、子ども同士の関係づくりやコミュニケーションの点でも問題があると思います。 1年生の算数は、見た場面も違いましたがそれぞれのやり方で授業が進んでいました。 ベテランの授業は、比例の導入場面でした。子どもの言葉を「素晴らしい」と柔らかい表情で評価します。授業者はうまく子ども惹きつけています。 実際に線香を燃やして見せて、「ともなって」という言葉を使って2つの量の関係を記述させます。式で表わされる静的な関係ではなく、関数という動的な関係を意識させようとしています。さすがベテランです。この「ともなって」という用語を子どもに定着させるのに2時間使ったということです。 この後、途中の展開を見ていないので的を外しているかもしれませんが、比例の定義のy=axの部分が板書されてはいたのですが、せっかくこだわっていた「ともなって」と、この定義の関係についての記述はありませんでした。また線香を燃やすという課題は定義域と値域を考えることや連続量を意識したものです。このあたりの押さえも見ることができませんでした。ちょっと残念です。 この後の演習の場面ですが、できた人には次の作業の指示もされています。さすがです。子どもたちに○つけをするのですが、できた子どもが手を挙げて教師の○つけを待っています。最初のうちはまだいいのですが、何人も手が挙がると大変です。TTでやっているのですが追いつきません。子どもは先生に○をもらいたいのでテンションを上げて待っています。その間、当然次の問題には取り組みません。ムダな時間が流れます。このやり方は、○をもらえない子ども、わからない子どもを見落とします。志水廣先生が提唱する「○つけ法」のように、全員を順番に○つけする。できていない子どもには、できているところまでを部分肯定して○をつけ、簡単に指示をする。必ず全員に○をつけるといったことを意識してほしいと思います。 問題演習の場面では、こうするといいという指示が目立ちました。特にT2は子どもへの指示説明が多すぎるように感じました。授業者は、学年が上がるにつれて次第に子ども自身できるようにしようとしているそうです。子ども自身という言葉の中には子どもが「一人で」という意識も感じます。基本、教師対子どもの関係で授業をつくっています。一方、子ども同士のかかわりを大切にして学ぶことをすると、できない子どもは他者とのかかわりを通してできる喜びを知ります。できる子どもは他者を教えることでさらに深く理解し、他者の役に立つことで自己有用感も味わえます。非常に力のある先生ですので、この子ども対子どもの関係をうまく使って授業をつくるようにすれば、大きく進化すると思いました。 5年目の先生の授業は、問題演習の場面でした。終始笑顔でわからない子どもたちが参加できるようにすることを意識した授業です。6%はいくらになるかを確認する場面で、1列全部の子どもに6/100を言わせます。子どもたちは一生懸命答えます。こんな簡単なことを何度も言わせるのは一見ムダに見えるのですが、6%が6/100であるということは大切なことです。くりかえすことで全員に定着させたいのです。力のない子どもでも答えられるので、意欲がわきます。そのあと、子どもたちの表情がよくなったことがとても印象的でした。 説明の場面で板書を写していることどもに、「メモは後でいいよ」と優しく言います。問いを勘違いして答えた子どもが、勘違いしていた部分を自分で説明して修正したあと、「みんなそれなら納得」とまわりとつなげます。子どもに寄り添おうとする姿勢が感じられます。 寝ている子どもを何とか参加させようと優しく起こしますが、その子どもに対するまわりの子どもたちの反応が冷たいのが気になります。多くの子どもがかかわり合って授業が進むのですが、わからないできない子どもが、友だちとかかわり合えず孤立を深めていっています。この学級だけでなく1年生全体でそのような場面が目につきました。 濃度の問題の解き方を上手に教えるのですが、これは濃度の問題にしか通用しない解き方でもあります。このままでは塾と変わりません。 量に着目する。方程式が利用できるのは、等しい関係のものがある時。等しい関係の物が見つかれば方程式が使える可能性がある。等し関係が見つかれば、それを知りたいもの、未知数を使って表わすことができるか。できれば、方程式が完成して、それを解いてみればいい。 このような数学的なものの見方・考え方とリンクさせながらこの問題の解き方を整理すると、他の問題にも通用する考えに広がっていくことをアドバイスしました。 3年目の先生の授業は、比例の定義前の具体例の表から、比例につながる性質を見つける場面でした。授業者は子どもの言葉を活かして授業をしようとしています。子どもに問いかけながら授業を進めています。とてもよい姿勢です。表を見て気づいたことを何でもいいから言うように指示します。この「何でもいい」は曲者です。何でもいいというのは自由に発言できて子どもが意見を言いやすそうですが、実はなかなか言いにくいのです。何でもいいからといって、「表が上下2段」などということを言えば外すことは間違いありません。数学の時間なのだから数学的でなければいけないはずと考えます。かえって漠然として答えにくいのです。子どもたちは表を初めて利用したわけではありません。小学校から何度も利用しています。今までどのような視点で見てきたかを整理しておくことが大切です。縦に見る、横に見るといった言葉を引き出すだけでもよいでしょう。逆に気づいたことから視点を整理することも大切です。増分(差分)に注目する。ある数を基準にして、何倍かした値で対応するものを見る。次々に何倍かする。縦の対応の関係を見る。視点を整理して、次に表を使う時に活かせる形にするのです。過去に学習したこと、これから学習すること。現時点の教材を両者の橋渡しにすることが大切です。 子どもたちは気づいたことを発言してくれますが、中にはわかりにくい説明もあります。授業者は一生懸命その言葉を理解しようとします。発言に対して「今の、わかりましたか」と子どもたちに問いかけます。子どもの発言を活かそうという気持ちが伝わります。友だちの発言をわかった人に確認をしますが、それだけではわからなかった子どもは活躍できません。わからなかった子どもに、どこがわからないか、どこで困っているかを聞くことが必要です。子どもの説明がわかりにくい時は、授業者が言い変えることもあります。子どもは自分の言った言葉と違う言葉に置き換えられると、怪訝な顔をします。子どもは、授業者は自分の言いたいことを言うきっかけに、自分の発言を利用していると感じます。子どもの発言を大切にして活かそうとしても、わかった、できた子の発言と先生の説明だけで授業が進んでいきます。発言に参加できる子どもは何度も活躍できますが、そうでない子は蚊帳の外です。わかる、できる子どもはどんどん活発に参加しますが、そうでない子どもは孤立感を深めます。 このことは1年生の他の教科の授業でも起こっています。子どもの発言を大切にするのですが、挙手した子どもの発言だけで進んでいくので、かえって他の子どもが授業から離れていくのです。 わからない子どもの困ったところをみんなで共有し、解決していく。わからなくても授業に参加すれば、発言の機会がある、わかるようになる、活躍できる。そういう授業にすることを意識してほしいと思います。とはいえ、この3年目の先生が、子どもたちに笑顔で接し、子どもの発言をうながし、受け止められるようになったのは大きな進歩です。これからますます成長してくれることを期待します。 少経験者の授業については、次回の日記で。 授業研究で学校が進化していることを感じる(長文)
昨日の日記の続きです。
授業研究は1年生の国語の授業でした。話を楽しんで読むという授業で、だれがどのように現れて、何をしたか、動作化で確認するというものです。 一番に感じたのは教室にあふれる子どもたちの安心感でした。どの子どもも柔らかい表情で、伸び伸びと育っているように思いました。授業者は豊かな、そして柔らかい表情で子どもたちをしっかり見守って育てています。 導入部分で今まで学習したことを確認します。子どもたちは教科書やノートを見ないでしっかりと答えます。本文の内容をしっかり理解していることがよくわかります。「りっちゃんは、大きな こえで いいました」という一文の「大きな こえで」に着目して、大きな声だとどんな気持ちかを問います。子どもたちは「早く食べてほしい」「おいしいですよ」と思い思いに答えます。1年生ということもあり、ここではあまり根拠を追求せずに、作者が表現で伝えようとしていることを読み取ろうとする態度を育てています。どの子どもの発言も授業者しっかり受け止めていました。もちろん、「正解」といった言葉は全く聞かれません。 この日学習する段落を「。」で区切って交代で読ませます。授業者が事細かに指示をしなくても、最初に読む子どもと次に読む子どもが起立します。こういうルールが徹底できているのもよいことです。一人の子どもがうっかりして自分の順番を忘れていました。起立はしたのですが、どこを読んでいいかわかりません。この時授業者はしかったりせずに、しかしここから読みなさいと指示もしないで、優しく見つめています。子どもたちは少人数なので、授業者を中心に扇形に座っています。この日は子どもたちに大きな声を出させたいということで、いつもより教壇から離れて座っていたそうです。少し距離があるのですが、隣の子どもが体を乗り出して教えてくれました。授業者は子ども同士で動けることを信じて待っていたのでしょう。こうしたことの積み重ねが、子どもたちが安心して生活できる学級へとつながります。 ここで、気になるのが音読の目的です。国語の授業では、いろいろな形で音読をさせるのですが、その目的と目標・評価がはっきりしないことが多いのです。読み方ごとに、目標が決まっているのならいいのですが、そうでなければ明確にしておく必要があります。また音読は子どもが自己評価しにくいので、ペアで読ませるといったことも必要になります。評価基準を明確にして、子どもの活動を評価することを常に意識してほしいと思います。 グループで役割を決めて音読した時、最後に一人の子どもだけが読んでいる状態になりました。その時、他のグループの子どもが身を乗り出して、友だちの読む姿を応援する目で見ていました。子ども同士の人間関係のよさも感じました。とてもよい学級経営ができていると感じました。 子どもたちに「アフリカぞうの登場の仕方」「アフリカぞうがいったこと、したこと」をワークシートにまとめさせます。まとめるといっても、ワークシートは穴埋めです。どこに書いてあるかを考えるのではなく、ワークシートに書かれている言葉をキーワードとして本文から探して、見つかった文を「写す」作業になっていました。課題で考えさせたいことと、ワークシートでの作業がずれています。どの言葉に注目すれば見つかるのかとキーワードを考えたり、どの部分が該当するか教科書に線を引いて聞き合ったりする活動が大切だと思います。 子どもたちは作業を頑張るのですが、個人差があります。予定の時間になってもまだできていないので延長しました。単純に急かすのがよいこととは言いませんが、作業であれば早くすることを子どもたちに求めなければ、いつまでたっても素早くできるようになりません。考えることであれば、時間を与えたからと言って解決しません。解決の方法を与えることが大切です。また、時間を延長するのであれば、早く終わった子どもに対する指示をしておかなければだれてしまいます。少人数なので、早くできた子どもへの指示は個別にすることも可能です。そのためか、作業を終わったあとの指示が明確でないことが学校全体で目立ちました。 「とつぜん、キューン、ゴー ゴー、キューと いう おとが して、ひこうきが とまると、アフリカぞうが せかせかと おりて きました」 この一文を取り上げ、動作化をさせます。まず、前半の飛行機の様子から始めます。「キューン、ゴー ゴー、キュー」がどのような様子かを言葉で説明させます。子どもは拙いながらも一生懸命に説明します。授業者は復唱をしながらしっかりと子どもを受容します。子どもは友だちの意見に関係なく、自分の言葉を重ねます。こういう擬音は、感覚的なので自分の言葉で話したいのです。動作化も一緒です。表現したいが先に立ち、表現することが目的となってしまいます。テンションは上がりますが、思考は思ったほどしていないのです。 ここで注意したいのは、この擬音を一連のものとして一括に扱うかどうかです。一つひとつの言葉にこだわることも必要です。「とつぜん」という言葉にも注意を払わなければなりません。 「キューンという音がするのはどんなもの、どんなとき」という発問で、「電車が目の前を通り過ぎる」「早く動く」といった言葉を引き出し、「キューン」では「速い」を表現していることに気づかせる。 「キューンは飛行機が飛んでいる時、地面についた時?」と聞くことで、まだ飛んでいる時だと気づかせる。 動作化の前にこういうことを考えるのです。 同様にして、「ゴー ゴー」とくりかえしているのは、減速に時間がかかっていることを、「キュー」というのは急激に止まっていることを表現していることに気づかせたいところです。 「とつぜん」という言葉とあわせて、すべて急いでいることにつながっていることを押さえることが必要です。 続いてアフリカ象の動作化です。子どもたちが象に持っているイメージは「ゆっくり」です。それに引きずられて「せかせか」の意味が混乱しています。「せかせか」が「ゆっくり」に近いものとしてとらえられています。ここは、いったん象から離れて、「○○がせかせか歩くってどんな様子?」と象以外の物をいくつか例に出して、「せかせか」が表現するものが急いでいる様子だと気づかせます。その上で、象は「ゆっくり」歩くものなのに、「せかせか」と見えたんだという言葉を子どもから引き出したいところです。 国語の授業で動作化をおこなうのは、上手く動作化することが目的ではなく、筆者が表現しようとしていることを理解して、そのように動作化しようとすることが目的です。ここでは、急いでいることがわかるように動作化しようとすればいいのです。そのためには、「みんなにどう見えればいいの?」「急いでいることが見ている人に伝わるようにやろう」「みんな急いでいるように見えた?」といった目標・評価が必要になるのです。 アフリカ象が急いでいた理由を考えさせ、最後に象が油と塩と酢をかけて混ぜる動作を全員でやって時間となりました。 自分の考えを発表する場面で、発表したい人を全員立たせます。この日初めて積極的に発表しようとした女の子は、元気のいい男子3人が立ったので、発表を譲って座ってしまいました。授業者は座った女の子も含めて一緒に発言させました。みんな同じ答です。女の子に「同じだった」と確認します。授業者が聞いてくれたので、女の子は嬉しそうにうなずきました。こういう細かい気づかいができているのはとても素晴らしいことです。 しかし、この一連の活動の中に、最初に発表することに価値がある、同じ意見は言えないという価値観が見て取れます。「同じ意見の人、もう一度言ってくれる」「ちょっと違う言葉で言ってくれたね」「足してくれたね」「どこを足してくれたか、わかる人」というようにつなげば、発表したい子どもが何人もいても困らないのです。譲るといったことも必要ないのです。ちょっと発想を考えていただければと思いました。 最後の動作は、「アフリカぞうは、サラダに あぶらと しおと すを かけると、スプーンを はなで にぎって、力づよく くりん くりんと まぜました」という一文です。 ここでも「くりん」がくりかえされています。この教材は、くりかえし表現が多用されています。そのことを意識させることは、子どもたちに表現にこだわって読む力をつけさせることにつながります。「くりんと まぜました」と「くりん くりんと まぜました」はどう違うかを問うことで、くりかえし表現を意識できます。比較をすることで見えてくることがあります。くりかえすことで作者が表現しようとしていることに気づかせる一つの方法です。 子どもの活動を中心に見ると、授業者と子どもの関係のよさがとても光っている授業です。授業者は動作化をとても見事に子どもに見せます。素晴らしい役者です。子どもをあっという間に惹きつけます。素晴らしい力、芸があるからこそ、それに頼らず発問や授業の組み立て、教科としての知的好奇心で子どもを惹きつけてほしいのです。もしうまくいかなければ、その時は今まで使っていたものを使えばいいのです。あえてそれを封印することで、一段と高いところへ行けるのです。 教科としてどのような力をつけるのか、ついたのか。そのことを強く意識して授業に臨んでいただきたいと思います。 授業検討会では、この授業のよさを先生方がたくさん話してくださいました。なかなか気づきにくい、黒板の横の掲示物に注目してくれる方もいらっしゃいました。そこにはこの単元で出てきた語句の意味が貼ってあったのです。子どもたちが友だちを温かい目で見ていた場面など、子どもたちのよい姿もたくさん見つけてくれました。子どもたちのよい姿を見つけることは、実はそれほど簡単なことではありません。よい姿を具体的にし、その姿を見たいと思って授業をしていない人には、なかなかよいところが見えません。自分が意識していないものは、他人の授業でも見ることができないのです。もちろん授業技術なども同じことです。先生方によいところを見つける目ができてきているということは、一人ひとりの授業のよいところも確実に増えているのです。学校が進化していることの証です。 検討会終了後、授業者と少しお話する時間がありました。 「登場の仕方」という言葉を使っていることについて少しお話をしました。小学校1年生には「登場」「仕方」は難しい言葉です。教科書では、「出て きましたか」「どんなことを したか」といった表現を使っています。この言葉を使ったことがいけないわけではありません。私はこういう言葉はどんどん使うべきだと思っています。ただし、教師が無自覚で使ってはいけません。子どもに正しく意味を理解させて上で、生きた場面で使えば子どもの語彙力が増えます。しかし、何も考えずに使ってしまえば、子どもは混乱してしまうかもしれません。また、一度説明して終わりではなく、機会があるごとにどういう意味か子どもに問い直すことも必要です。そのようなことをお伝えしました。 子どもたちとの関係はとてもよく、授業規律もしっかりしています。土台ができているので、その上にどのようなものを建てるのかとても楽しみです。2月に訪問する時の学級の様子が今から楽しみです。 いつものように、いやいつも以上に多くのことが学べた1日でした。先生方と子どもたちに感謝です。 小規模小学校で多くのことを学ぶ(長文)
昨日は小規模小学校で授業研究と授業アドバイスをおこなってきました。
2年生の教室の様子が気になりました。まわりとうまくコミュニケーションができない子どもが一人目立ちます。先生の注意を引きたいのでしょう、盛んに話しかけます。授業者がこの子どもをしっかり受け止めなければと考えていることがよくわかります。その子どもの話をできるだけ聞いてあげようとしているのです。授業に関係した言葉は、「○○さんが、△△と言ってくれた」と他の子どもに伝えます。授業者は他の子どもとのバランスをとってかかわろうとしているのですが、その子どもとかかわっていると、他の4人の子どもたちを見ることがなかなかできません。その時の他の子どもたちの態度がとても気になりました。集中が切れるというか、自分たちとは関係のないことだというようにしているのです。特に1人の女の子の落ち着きがなくなります。声をかければ少し落ち着くのですが、授業者が気になる子どもにかかわるとまた元に戻るようです。1年生の後半は少し落ち着いていたのですが、また少し不安定になっているようです。先生を取られているように感じているのかもしれません。 少人数なので、一人ひとりにきちんと対応しなければ、またできるはずだと思っておられるのかもしれません。しかし、どうしても気になる子どもにかける時間が相対的に多くなってしまいます。他の子どもたちは、今まで先生と直接かかわれる時間が少人数なのでたくさんあったのに、その時間をその子に奪われていると感じてしまいます。普通規模の学級であれば、それだけ多くの時間を特定の子どもに割くことはできませんが、小規模だから可能に見えてしまうのです。そのため、必要以上の時間、エネルギーをかけてしまい、余裕がなくなってしまうのです。まじめで熱心だからこそ起こることなのです。 他の4人に時間をしっかりかけてあげて、その余力で相手をするくらいでいいのかもしれません。少人数ですので、気になる子どもに手が届く範囲に立って、他の子どもを見ながら授業をすることもやりやすいように思えます。その子どもがよくない態度を取っている時は無視をして、黙ったりよい発言をしたり望ましい行動をとった時にほめるといった、ペアレント・トレーニングを意識する。言葉で対応するのではなく、手や目線でその子どもに合図を送る。そのようなことをやってみてもよいのではとアドバイスさせていただきました。 3年生は初任者の算数の授業でした。前回訪問時に私が算数でいろいろな指摘をしたので、もう一度算数を見てほしいということだったのだと思います。 子どもが余りのある割り算の問題の解答したところでした。2人の答が書かれています。計算の式は同じなのですが、答が「…人に分けられる」「1人…個ずつ分けられる」と2つあります。どちらが正しいか子どもたちに問いかけます。指名された子どもが、「教科書は○人で分けると何個ずつになるか聞いているので・・・」と説明をしてくれます。授業者はわかったかどうか確認して、「こちらがいいですね」と○をつけました。わかった子ども、正解者が主導して教師が判断するという形になっています。そうではなく、間違えた子どもが自分で修正して全員が正しい答になる授業を目指してほしいのです。 この場面では、式の数字をもとに、「何がいくつなの?」と問いかけてみるとよかったと思います。答の数が何を表わしているかに気づいていけば、自分で間違いを修正できると思います。「正解を納得させるのではなく、間違いを修正させる」という発想が、子どもたちの困った感に寄り添うことにつながると思います。 授業者は子ども同士のかかわりを大切にしたいと言ってくれます。しかし、いつも発表者を見ています。子どもたちがかかわっているかどうかを大切にするのなら、発表を聞いている子どもたちの様子を見ることが求められます。聞いている子どもの反応を見ることが、どのくらい理解できているか、どの子とつなげるかといった判断をするための材料になるからです。このことを意識してほしいと思います。 「『何がいくつ』という問いかけを算数では大切にするといい」という私の前回のアドバイスを参考にして授業をしたところ、子どもたちが位どり記数法をよく理解してくれたといううれしい報告をしてくれました。素直にアドバイスを取り入れようとする姿勢は素晴らしいと思います。あせらずに、一つひとつ課題をクリアしていってほしいと思います。 4年生は国語の授業でした。登場人物の気持ちが書かれている部分を抜き出し、その気持ちを考えるという課題です。子どもたちはとても集中して取り組んでいました。 しかしそれに反して、子どもたちは発表の場面では友だちの発表を今一つ集中して聞いていません。友だちの方を向いて聞いていた子どもも、授業者が子どもの言葉を板書し始めると、前を向いてしまいます。中には鉛筆を持って書き始める子どももいます。子どもたちがあまり友だちの発言を聞かない理由がわかりました。先生がまとめて板書してくれるから聞く必要がないのです。発言者も先生にわかってもらえればいいので、友だちにわかってもらおうという意識があまりありません。相互指名をするのですが、友だちの発言とはあまりつながりません。友だちの一言一言をしっかり受け止めていないからです。 授業者もこのことに気づいています。友だちの発言をしっかり聞かせたい。子どもをもっと見なければいけないと思っていたのです。板書するのをやめて、発言をまとめずに進めていいのかどうかと悩んでいました。 一人ひとりの発言を教師が板書してまとめるのではなく、子どもたちに「今○○さんの言ってくれたこと聞いていた。納得できた」と理解したか確認します。同じ考えの人、納得した人に発言を求めてつないでいきます。意見が大体収束してくれば、「だれかまとめてくれる」と子どもにまとめてもらえばいいのです。教師の板書を子どもたちは無批判で受け止めてしまいます。それ以上深めようとはなかなかしません。板書をしないことで、言葉が足されやすくなり、考えも深まっていきます。必要であれば、その時点で子どものまとめの言葉を板書すればいいのです。また、まとめを子どもがワークシートに書くという方法もあります。回収してコメントを入れてもいいですし、上手にまとまっているものを次の時間に配って、具体的にどうまとめればいいかを教えてもいいでしょう。 このようなことをアドバイスさせていただきました。 5年生は、国語の授業でした。資料を読んで考えたことを書くためのメモを書く場面です。子どもたちはグループの形で一生懸命に取り組んでいます。時々聞き合ったりしています。とてもよい関係です。授業者が作業を終えて、前を向くように指示をします。遅い子がいてもしっかり待って、全員が前を向いてから説明を始めます。授業規律がきちんとしています。説明もていねいなのですが、少ししゃべりすぎのように思いました。まず、友だちのメモを読んで付箋紙でよいところ、こうするといいというアドバイスを書くことを具体的に指示します。続いて、よいというのはどういうことかを説明します。よいとはどういうことかを押さえているのは立派です。何がよいのかの判断基準がなければ活動そのものが根拠のないものになってしまうからです。先ほどの活動の前に板書してあったポイントを使って「引用した話を明確にする」ことがよいことだと説明します。しかし、ここで教師が説明する必要はありません。このことを意識して子どもたちに作業させていたのですから、子どもたちに聞いて答えさせればいいのです。子どもたちで答えられることは、できるだけ子どもに言わせるようにしてほしいのです。このことを意識するだけで、子どもたちの受け身の時間はずいぶん減ると思います。 説明の順番も、「友だちのメモのよいところと、こうするといいところを伝える」というこの活動の全体像を示してから、よいところとはどういうことかを子どもたちに聞き、その上で、最後に作業の具体的な方法を示すとよいでしょう。この順番が逆になると、具体的に何をするのかを忘れてしまう子どもが出てきて、もう一度説明しなければいけなくなったりします この学級にもコミュニケーションがうまく取れない子どもが1人います。授業者はその子どもにぴったりくっついて対応しています。面白いのはそのグループの子どもたちが別の場所に行き、そこで作業をしていたことです。どの子どもも明るい笑顔で活動しています。まるで、「先生がその子の面倒を見てくれているので安心して自分たちの作業ができる」、そう思っているようです。 なかなか難しい子どもであることは授業者から聞いています。4年以上一緒にいて、子どもたちもその関係が固定化して、互いにうまくかかわれなくなっているようです。その子どもを教師が引き受けることで、学級全体のバランスが保たれ、子どもたちに安寧をもたらしているように見えます。だからこそ、もう一歩先に進むために、双方に課題を与えることが必要になると思います。「相手はどのようなことを考えている」「どのようにかかわってあげればいい」といろいろな場面を双方の立場で考える、ソーシャルスキルの訓練をするとよいと思います。また、教師が一手にその子を引き受けてしまわずに、子ども同士がかかわれるようにするための働きかけをしてほしいのです。 難しい注文だとは思いますが、そのことをお願いしました。 6年生は非常に研究熱心な先生が担任です。この日は社会科の授業でしたが、どの教科の知識も豊富で、「子どもたちをここまで引き上げたい」という思いに溢れた授業をいつもされます。そのため、子どもの作業やメモに対して、より高いところに上がるためのアドバイスをします。できる子どもは上に行けるのですが、ちょっと苦しい子どもはなかなか上がってはいけません。伝えたいことの中から、この時間で全員に身につけてほしいことは何かを明確にし、それを第一の目標にしてほしいのです。その上で、引っぱり上げるのではなく、押し上げる気持ちで接してほしいのです。子どもが理解していくのを下から支えるのです。具体的には、子どもの気づいたことを共有し、それをもとに全員がわかることを一つひとつ積み上げていくのです。 グループで活動しているのですが、活発な女子2人が並んで、もう1人の男の子は反対側にいます。どうしても女子2人での活動になって、男子はそこに参加できません。話を聞いてわかろうとするのですが、なかなかついていけないのです。授業者は女子の話を「わかった?」と男子に確認するのですが、わかったという言葉出てきません。この学級に限らず、この学校のできる子どもたちは、自分の考えを一気にしゃべります。教師がしっかり聞いて理解してくれ、必要に応じてまとめてみんなに伝えてくれるので、友だちにわかってもらおう、伝えようという意識があまりないのです。少人数で授業をするので、教師に聞いてもらえるチャンスが多いこともその理由の一つでしょう。一度最後まで話させた後、「よくわからなかった人もいるようだね。いい意見だから、もう一度聞かせてくれる」ともう一度発表させます。今度は、途中で止めながら「ここまでどう、納得できた」と確認しながら進めることで、子どもの言葉で伝わるようになります。発表者も、自分の言葉が伝わることを意識するようになります。「納得した人、あなたの言葉で説明してくれるかな」と、聞いていた子どもを評価する機会をつくることも大切です。このようなことを意識してほしいとお願いしました。 全体的に学校は落ち着いています。温かい雰囲気が学校に感じられます。授業規律もずいぶんよくなったと思います。だからこそ、新たな課題が見つかってきます。この学校が大きく進化しようとしている局面なのだと思います。 今回、あらためて気づいたのですが、この学校では小規模にもかかわらず発達障害が疑われる子どもが多いように思いました。友だちとのコミュニケーションがうまく取れないのです。しかし、先生とは上手くコミュニケーションをとれているように思えます。ということは、発達障害というよりも子どものソーシャルスキルの問題のような気もします。小さいころから同年齢の子どもとかかわることが少なく、先生や大人が相手をしてくれるために、友だちとのコミュニケーションを取らなくても何とかなっていく。また、人間関係が固定化しているので、友だちもそれになり対応してくれる。その結果がソーシャルスキルの欠如につながっているように思えるのです。小規模校ではこのようなことが起こりやすいのかもしれません。このことについては、もう少し考えてみる必要がありそうです。 授業研究については、明日の日記で。 地域の枠を超える動き
子どもたちの間で、スマートフォンやゲーム機などを利用したコミュニケーションでトラブルが増えています。その対策に頭を悩ませている学校は多いと思いますが、具体的な対策がとれていないのが現状のようにも思います。そんな中、保護者向けのネット講習会を企画したPTAと学校があります。家庭と学校が協力して対応していこうという試みです。この問題は1校だけの問題ではありません。市全体で取り組むべきだと考え、市内の全中学校を会場にして講習会を行うことを企画しました。急な話に「なぜ、今」と思う学校もあったようです。私には一刻を争うほど喫緊の課題になっていると思えるのに、意外な反応でした。
企画した学校からすれば、他の学校のことまで考えることは負担以外の何物でもありません。実際、市内の全中学校を会場として行うには外部の講師を手配する余裕も予算もありません。そこで、講師研修会を開いてPTAや地域の方、教師、自分たちで講師を務めようということになりました。自校のことだけを考えるのではなく、市全体のことととらえ、互いに協力して自分たちの手で子どもたちを守り育てていこうという姿勢に、これからの地域と学校のあり方の方向性が見えるように思います。 素晴らしいのが、この講師研修会を他の地域の方にも参加を許したことです。自分たちの負担でつくり上げたものを無償で提供するのです。行政主体であれば、予算の出どころのこともあり、このようなことは難しいと思います。しかし、行政ごとにそれぞれが一からつくりだすことは時間と予算のムダです。よいこと、必要とされることはそういった枠を超えて互いに共有すべきです。そのあたりまえのことをあたりまえのように実行されたことに頭が下がります。かく言う私も、参加を申し込みました。どの学校もネットの問題には頭を悩ませているようです。たくさんの地域学校からぜひ参加したいという声が上がってきました。 1つの地域、学校の試みをその枠を超えて提供し合い共有する。今回の研修会がきっかけとなって、このような動きが広がっていくことを期待したいと思います。 理科の授業で考える(長文)
先週末は中学校で理科の授業アドバイスを行いました。
授業者は今年この学校に異動して来た教職7年目の先生です。2年生の動物の分類の導入の授業でした。 授業者は笑顔をつくり、言葉も明瞭です。子どもたちにプリント配ったりするときには、「ありがとう」の言葉も出ます。子どもの発言をよく受容しようとしています。この学校で取り組んでいることを意識しています。しかし、子どもたちはあまり集中しているようには見えません。決して授業者の話を聞いていないわけではないのですが、このことが気になります。 子どもたちの興味づけのために動物の名前あてクイズを行います。電子黒板に動物の写真を写し、名前を答えさせます。電子黒板に子どもが集中します。しかし、動物の名前をあてることは、単なる知識です。そこに理科として何があるのかがよくわかりません。最初は「ハシブトガラス」です。子どもたちは何を答えていいのか少し戸惑っているようでしたが、さすがに「カラス」としか答えは出てきません。「ナメクジ」の次の「アマガエル」の時です。子どもたちの戸惑いが大きくなりました。「アマガエル」「カエル」、どちらを答えていいのかわからないからです。授業者は、「気にしなくていい」と「カエル」で答えてくれればいいと言います。この言葉でこのクイズは何のためのものかわからなくなってしまいました。「アマガエル」と「カエル」で悩ませることから分類の意味を考えるのかと思ったのですが、どうやら違ったようです。「カエル」と言った時に思い浮かべるのはどんな「カエル」と問い返すことで、カエルを分類する必然性を意識させることができたはずです。分類しなければ、「ヒキガエル」も「アマガエル」も同じものです。ちなみに英語では、”toad”と”flog”と区別されています。「カエル」の違いは誰にでもわかりますが、「カラス」は「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」という分類を知らなければ、両者とも同じ「カラス」としか認識されません。こういうことを考えることで、分類の意味が分かってくるはずです。 授業者は、先ほどのカラスは「ハシブトガラス」だと説明します。「気にしなくていい」と言いながら、薀蓄を語ることはかえって子どもたちを混乱させます。「アゲハチョウ」「マンボウ」と続き、この日の課題、「この5種類の動物を2つに仲間分けする」が提示されました。ここまでにかなりの時間を使っていますが、分類のための材料提示の意味しかないのならもっとテンポよく進めるべきだったでしょう。 ワークシートを配った後、理科的でなくていいので、自由な発想で仲間分けをするように指示します。この活動の意味が分かりません。目標と評価基準がないため、ただ作業するだけになってしまうからです。条件がないため、かえってどこから手をつけるか、取っ掛かりがありません。分類後の話し合いは根拠のない空中戦になることが必至です。 仲間分けの作業の指示を電子黒板で行いますが、子どもたちの視線は電子黒板と手元のワークシートとばらばらです。作業の結果を書くのはワークシートなのですが、ワークシートの使い方の説明はありません。子どもたちが戸惑うことが想像できます。 個人作業に入った途端、かなりの子どもが鉛筆を持てずにいました。男女で隣り合っているのですが、何をするのか、どこに何を書けばよいのか聞き合っています。子ども同士の関係がよいことは見て取れます。授業者は、指示が不明確だったことに気づいて、ワークシートに何を書くか黒板に黙って書きはじめました。指示が通ってないと判断したのなら、いったん作業を止めて説明し直さなくてはいけません。今回の課題であれば、まず仲間分けの指示をし、電子黒板を使ってワークシートの説明をするべきだったでしょう。説明が終わったあとにワークシートを配り、すぐに作業に入るのです。 なんとなく子どもが授業者の話を集中して聞かない理由がわかったような気がします。授業者の指示が不明確だったり、説明を聞いてもよくわからなかったりすることがあるので、集中して聞かなくなったのではないでしょうか。聞いていなくても、今回のようにわからなければ追加で指示があるので困らないのです。また、わかっていれば、追加の説明を聞く必要がないので、聞く聞かないを自分の判断で勝手に行うようにもなっていくのです。 取り敢えず分類ができた子どもは、することがなくなっています。しかし、思いつかない子どもは、なかなか手がつきません。授業者は机間指導しながら、具体的なヒントを言ってまわりますが、全体はよく見えていないようです。終わっている子どももたくさんいるのに時間を延長しました。子どもたちがだれてしまいます。できない子どもができるようになる手立てを明確にしないまま延長することはナンセンスです。課題の方向性がはっきりしていないことが、手がつきにくい原因ですが、早めにいくつかの具体例を子どもに発表させ、それを共有してから再度取り組めば、また違ったと思います。 作業を止めるように指示しますが、まだ手が動いている子どもがいるのに話し始めます。こんなところにも、子どもたちが集中しない理由があるようです。 グループでの活動で、画用紙に動物の写真のカードを貼ることを説明します。面白かったのが、画用紙とカードという具体物を提示しとたんに子どもたちの集中力が上がったことです。具体物を見せることの効果もありますが、使い方がわからないと活動できないので聞く必然性があることも大きな要素だと思います。 授業者の説明の声ははっきりしていますが、単調です。大切なことを話す前に間をあける、大切なことはちょっとトーンを落として、ゆっくり話すといった工夫がないのです。情報に軽重がなく、また余分な情報、ノイズが多いようにも思います。しゃべりすぎなのです。その理由の一つが、自分の中で課題の目的や目標が明確になっていないことが挙げられます。整理できていないと、簡潔に説明できないのです。 グループで2種類の分類をつくることが課題です。男子、女子同士が隣同士で並んでいます。当然のように同性同士で話しはじめます。2つなので、お互いの意見を聞き合う必然性もありません。自分の思ったことを言うだけで根拠は必要ないのですから、テンションは上がります。意見を言って、どちらかに決めてしまえばもうすることはありません。今度はスーッとテンションが下がります。しばらくするとまたテンションが上がってきます。することがなくなったので、雑談が始まったのです。 各グループで1つずつ、分類した画用紙を貼りだしますが、子どもたちはその間雑談をしています。評価する基準がないので、見る意味があまりないからです。各グループの発表に対して、「同意できるか」で拍手をさせます。評価基準がないので恣意的です。もちろん拍手した理由を問うこともしませんし、問うこともできません。この活動が何の意味があるか子どもたちにはわからないままです。「飛ぶ」かどうかと「羽があるか」で分類すると同じように分かれます。「分け方が違う」と教師が解説をします。「分け方が同じ、違う?」と問いかけません。子どもが考える場面がないのです。 発表の後、昔からみんなと同じようにして分類が考えられてきたとまとめますが、分類が満たすべき要件は押さえていません。 せめて、「客観的に判断できる(だれがやっても同じ仲間になる)基準」であることを条件にし、その確認として授業者が別に用意した動物をその基準で分類する、といった課題であるべきでしょう。 教科書を読ませて、理科では「進化」をもとに分類することを伝えます。しかし、子どもたちは「進化」で分類するとはどういうことかはわかりません。自分たちの分類方法と何が違うのかもわかりません。その必然性も。 子どもたちに生物の設計図は何かを問います。これは知識です。「骨」という答が出て扱いに困ります。結局「DNA」だと授業者が答を言います。授業者は質問が悪かったと一生懸命フォローします。知識を問うことをするとこういうことになるのです。質問に対して子どもたちがじっとしていることから、日ごろ知識を問うても、調べさせることをしていないことがわかります。せめて教科書や資料集を調べさせることを日常的にするべきでしょう。 「スズメバチ」のような虫(「トラフカミキリ」)を見せて、「ハチ」かどうかを問います。考えても答えはわかりません。「カミキリムシ」と言われても、確認のしようがありません。クイズとしては面白いのですが、学習にはなりません。子どもたちに考えさせるのであれば、「スズメバチ」と、「カミキリムシ」の両者と比べてどちらの仲間かと問えばいいのです。色(や動き)は「スズメバチ」に似ているが、翅や体の形は「カミキリムシ」です。体の構造はカミキリムシに近いのです。こういった観察がなければ、理科ではないのです。 理科では、脊椎があるかどうかで分類をすることを言います。脊椎を背骨と言い換えます。骨があるかどうかという表現もしました。理科の用語としては、「脊椎」を明確に定義する必要があります。もっというと進化と言う点では、神経系に注目しているのですから、脊椎の中には神経が通っていることは押さえておきたいところです。 動物に脊椎があるかを知るためにはどうすればよいかを問います。レントゲンという言葉を子どもから何とか引き出しますが、レントゲンに気づくことにあまり意味はありません。理科として何を問い、考えさせるのが大切か不明確なのです。 最後にまた、クイズです。「イグアナ」や「カエル」「ヒトデ」「ミミズ」「ヘビ」などに背骨があるかどうか、写真を見せながら問います。背骨があるとどのような特徴がみられるかといった考えるための根拠がないので、なんとなく想像で答えるしかありません。 答え合わせはレントゲン写真を一つひとつ見ながら、(背)骨あるかどうかを全員で確認します。「ミミズ」などは、「一生懸命探したけれど、なかなかいい写真が見つからなくてごめん」と言い訳しながら提示します。しかし、聞きようによっては頑張ったことを伝えたいようにもとれます。授業の内容に直接関係ない情報が多すぎる、しゃべりすぎているように感じます。皮肉なことに、子どもたちが一番真剣に見ていたのが、わかりにくい写真の「ミミズ」でした。わかりにくいから真剣に見るのです。わかりやすいことが決してよいことではないということです。 脊椎動物かどうかの分類を考えるのであれば、最初からレントゲン写真を見せて、脊椎動物と非脊椎動物に分類する作業をすればよかったのではないかと思います。その写真がどの動物の物かは、最後に簡単に確認すればいいのです。 結局最後まで、理科として何を学んだのかわからない授業になってしましました。 授業後、空き時間で簡単な検討会を行いました。授業者は、「ある程度経験を積んだので、今までなんとなくこなすことはできるようになっていた」と振り返ります。しかし、不十分であったことをわかってくれたようです。「このような授業研究は経験がなかった。授業をもっと改善しなければいけない」と、素直で前向きな言葉が出てきます。残念ながら、授業をしっかりと見合い、学び合うことができていない学校もたくさんあります。その必要性を実感してくれただけでも大きな進歩だと思います。きっと自分の授業をしっかりと振り返り、新たな一歩を踏み出してくれることと思います。今年度はもうこの先生の授業を見る予定はないのですが、何とか時間をやりくりして時間を取りたいと思います。きっと、進化した姿を見せてくれることと期待しています。 学校全体の授業力の高まりを感じた検討会
昨日は中学校で授業研究に参加してきました。学び合いを大切にしている学校です。
1年生の理科、水に溶けた物質はどうなるかを考える時間でした。 最初に前回に行った各グループの実験結果を発表させます。子どもの表情が少しかたいことが気になります。授業者の緊張が伝わっているのかもしれません。子どもの発表に対して、足りないことを「どちらが濃かった」と直接聞き返します。同じという答に対しては、聞き返しません。これでは子どもは教師の求めることを言わなければと思ってしまいます。足りないことがあれば、「もう少し詳しく聞かせてくれる」「グループの人、足すことはない?」と教師の質問に答えるのではなく、自分で気づいたことを発表させるようにしたいところです。「同じ」ということを許せば、「同じ」で思考停止してしまいます。「あなたの言葉でもう一度聞かせてくれる」と必ず自分の言葉で言わせることが大切です。全く同じことを言うことは稀です。違いがあれば、「言葉を足してくれた」「違う言い方をしてくれたね。それってどういうこと?」とそのことを評価し、深めていくことが大切です。 子どもたちの一部は教師が板書する各グループの結果を写します。それが大切だからというよりも、することがないからのように見えます。そもそも、なぜこの実験をしたのか、実験から何を知ろうとしたのかという実験の目的を確認しないままに進んでいきます。実験結果をどう活かすのかもはっきりしません。グループに間の結果の違いも取り上げることはしません。何のための発表かわからないのです。 また、机をコの字の形にしているのですが、授業者が話していても子どもの体は横を向いたままで視線はそちらに向かいません。しかし、授業者は気にする様子がありません。顔を上げて自分を見てくれることを望んでいないのです。指名して返事がない子どもに対して、しばらく厳しい表情で黙ることで返事をするようプレッシャーをかけます。子どもが気づいて返事をしても、それに対して反応しません。子どもに無用の緊張を強いるだけです。しかも、最初の2人くらいには返事を求めましたが、後の子どもには求めませんでした。子どもたちは授業者が恣意的にしか注意をしないのを知っているのでしょう。だれも指名されても自ら「はい」と返事をしません。普通は2人注意をされればその後の子どもは気をつけるようになるものです。そうならないことが気になります。子どもが授業者を見ないことと関係があるように思えます。他の場面ではどうかはわかりませんが、少なくとも授業場面では子どもとの人間関係ができていないようです。笑顔でうながし、返事をしてくれれば「ありがとう」と一言そえるだけで、子どもたちの態度は変わっていきます。子どもをチェックする目ではなく育てる目で見てほしいと思います。 「溶けた物質はどのようになるのか」推測するのが課題です。まず個人でワークシートに書かせます。根拠も書くように指示しますが、「溶けること」と「どのようになるのか」ということの論理的な関係が曖昧です。溶けるということをどう定義するのか、予め定義されている溶けた状態の時に物質はどうなっているか、どちらを聞いているのかよくわかりませんでした。後で確認したところ、溶けているとは透明になる状態と定義していたようです。そうであるのなら、「溶けている時は透明になっているんだったね。その時溶けた物質はどこにあるの。どんな状態なの」ともう少し具体的に問いかけた方が、子どもが考えを整理しやすかったと思います。推測したこととその根拠となる実験結果を、必ず対にして書くように指示をすれば、実験との関係も明確になったと思います。 子どもたちは自分の推測を書くのですが、根拠を明確には書くことはしません。感覚的にわかっているのでしょうか。子どもたちが書き終った後、グループでの話し合いです。ここでの指示の言葉が気にかかりました。友だちの話を聞いて「まとめる」というのです。これはこの場面で使うべき言葉ではありません。というより、活動の目的がずれてしまっているのです。みんなの意見をまとめるのではなく、「物質が溶けている状態」を科学的に推測するのが目的です。友だちの考えも参考にして、「確かにそう思える」とみんなが納得する根拠の基づく推測にするのです。 グループになった時に、子どもの表情が大きく変わりました。笑顔がたくさん生まれます。今までの受け身の緊張状態から解放されたという感じです。子どもたちの素晴らしいところは、伸びをしたり、ムダ話をしたりせずに、すぐに話し合いに入っていったところです。弛緩してしまわないのは、グループ活動に対して気持ちが積極的になっているということです。この学校での日ごろのグループ活動がよいものである証です。 子どもたちはしっかり話を聞き合っています。しかし、中には友だちの話を聞いていない子どもがいます。ところが、自分が話す順番になるとしっかりと話しています。きっと優秀な子どもなのでしょう。答えを知っているので友だちの意見を聞く価値がないと考えているようです。一通り意見が出た後は、にこやかに雑談しています。その姿が印象的でした。授業者はグループの間を回りながら、個別に話をしています。全体の様子をきちんと把握していません。あと5分と言った時点でかなりのグループが話し合うことがなくなっていました。意見を聞いてまとめるのという課題なので、友だちの話を聞けばそれでまとめの作業に入れます。議論する必要はないのです。ここで時間を与える意味はあまりありません。子どもたちはひたすら書き始めていたのです。時間が来てもまだ書いている子どもがたくさんいます。授業者は時間がほしいか聞き2分延長しました。これもムダな時間です。グループ活動の時間ではなく単なる作業時間なのです。 各グループの発表者を決めるように指示してすぐに発表に入ります。これもムダなことです。発表のために予め準備をする必要があってその時間を与えるのならいざ知らず、すぐに発表するのであれば、発表者以外の子どもが気を抜いてしまいます。教師がその場で指名して答えさせればいいのです。もし、うまく答えられなくてもグループの友だちに助けてもらえば問題はありません。 最初の発表は、子どもたちがしっかりと発表者を見て聞こうとしていました。ところが、途中で授業者が発表の内容を板書し始めました。折角友だちを見ていたのに、子どもたちは黒板を写しだします。授業者も子どもたちを見ていません。板書の内容も、子どもの言葉を教師がほしいところだけつまみ食いをしたものです。子どもの発表の微妙な違いが、教師のフィルターにかけられほとんど同じになってしまっています。これでは、すべてのグループで発表する意味がありません。最後の指示は、全部のグループの発表を「まとめる」でした。みんなから出た考えを評価し、より科学的な推測に高めることが全体での発表のねらいであるべきです。子どもたちから出た、「均一」といった言葉が何を表わしているのか深めることもありません。「均一」という言葉が理科の言葉に高まっていません。また、何を根拠として「均一」なのかも明確にされません。そのことを確かめるのにどのような実験をすればよいかを考える場面もありませんでした。 子どもたちも自分たちの活動が何だったのかわからないままの1時間でした。最後まで、理科として何を学んだのか明確にされないままでした 検討会では、理科として何を目指しているのかを知りたいという質問が出てきます。若手からは発表を板書したために子どもを見ていなかったことがもったいないといった指摘があります。ベテランからは、子どもの発表を順番にするのではなく、同じ考えや同じ根拠、また違う考えをつないでいくとよいと、具体的な場面を例にアドバイスがされます。みなさんの意見から学校全体としての授業レベルが上がっているのを感じます。この授業で私が感じたことは、ほとんど皆さんから出てきました。私からは、理科に限らず日常用語をどう教科の用語に高めていくかを意識してほしいことをお話ししました。今回の授業でいえば「溶ける」という日常用語を理科の用語として、どう子どもたちの共通の言葉にするかを意識してほしかったのです。 そして、これだけ皆さんの授業の質、授業を見る目が高まっているのですから、それをいかに共有するかを意識してほしいとお願いしました。日ごろから互いに授業を見あって、よいところを学び合ってほしいのです。きっとみなさんの授業がもう1段レベルアップすると思います。 検討会終了後、授業者と話す時間をいただけました。 子どものできないところを見るのではなく、できていることを見る。できないことを減らすのではなく、できることを増やす。そういう視点で、子どもとの関係づくりを授業で進めてほしいこと。 自分の教えたい知識を結論として与えるのではなく、子どもが科学的なものの見方・考え方を身につけることで、自分たちで気づくような授業を組み立ててほしいこと。 教科書をもっと読み込むことで、理科としてどのような力を子どもたちにつけるのかを明確にしてほしいこと。 このようなことをお願いしました。 まだまだこれからの若い先生です。まわりに手本となるよい先輩たちがたくさんいる、授業力をつけるためにとてもよい環境の学校です。今後どのような成長をしてくれるか楽しみにしたいと思います。 アンケートの対応も比べられる
秋は行事が多い季節ですが、最近はそれに伴いアンケートの季節とも言えるように思います。学校評価に関連してアンケートを取る機会が増えているのです。特に行事は終了後時間が経っていると記憶があいまいになるので、できるだけ早く実施することが望まれます。ではその結果の保護者へのフィードバックはどうでしょう。学校側の都合でいえば、反省と次年度の計画までに集計しておけばいいのでしょうが、保護者としてみれば1月も経ってからその結果見せられても、自分がどう答えたかも覚えていないということになります。
そこで最近はOCR(マークシート方式)やWEBのアンケートシステムを使って素早く実施・集計する学校が増えてきました。行事の翌週にはホームページにアンケートの速報が載っている学校も珍しくなくなってきました。とはいえ、結果を知らせるだけであればアンケートの意味はありません。その結果をどのよう評価し学校としてどう対応するかを伝える必要があります。しかし、結果はICTを活用して素早くできるとしても、分析や対応はすぐにできるわけではありません。以前に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」という言葉を伝えましたが(他校の取り組みをどう見るか参照)、このアンケート結果への対応も「校長比べ」の重要な要素のように思います。 結果を公表してもその内容についてのコメントがなければ、保護者の信頼は得られません。特に自由記述欄に意見を書いた方は、それに対する反応を期待しているはずです。公表するだけでは、かえって無視したようにもとられてしまいます。その意見を今後どのように扱かっていくのか、結果の公表とあわせて明確に伝えることが大切です。「こういう理由で対応することは難しい」「次年度に向けて検討する」このことを伝えるだけでも随分印象は変わります。意見を書いた方もそれがそのまま通るとは思っていません。きちんと説明されれば納得していただけるのです。もちろん、検討するといったことは次年度きっちりその結果を伝えなければいけないことは言うまでもありません。 ホームページも毎日更新することから、その発信内容の質が問われています。アンケートも素早く実施・集計することから、一歩を進んでその対応の質が問われてきているように思います。保護者の目には、学校間、校長間の格差がますます大きくなっているように見えているのではないでしょうか。 子どもたちが一生懸命だから課題が見える
昨日の日記の続きです。
国語の授業研究は批評文を書く前の自分の考えを持つ場面でした。 授業は最初から4人グループの形です。グループ活動が意識された授業だとわかります。授業者は笑顔で子どもたちと接しています。子どもたちも先生の期待に応えようと一生懸命に授業に参加していました。 題材となる詩をもとに個人で「15歳の定義」を書く。その定義についてグループで意見交換をして「客観性について理解を深める」というこの授業の流れを説明します。大きく2つに分かれる活動の指示をまとめてします。定義を書くといった活動の指示はするのですが、具体的に何を書けばよいのか明確になりません。その根拠も考えるように指示をします。そもそも「定義」という言葉の定義が曖昧です。続いて、意見交換の進め方の説明に入ります。授業者が例として「20歳の定義」を示します。「まだまだ子どもだ」という定義に対して、子どもに客観的かどうかを問います。根拠として「食品冷凍庫で寝ている姿をツイッターで発信する」ことをあげました。子どもからは「普通の人はそんなことはしない」と客観的でないという意見が出ます。このようなやりとりの中で、「一般的でない」という言葉がでてきます。今回の「15歳の定義」は一般的なものを目指すのかもよくわかりません。再び定義の話に戻り、詩を参考にしてその内容と関係のあるものにするように説明します。しかし「15歳の定義」という言葉は詩には出てきません。最初にあげた「客観性について理解を深める」こととこの定義の関係も不明確です。目標となる「客観性について理解を深める」という言葉も子どもが理解できる言葉ではありません。教師の考える目標であって、子どもが目指す目標にはなっていないのです。授業を聞いている私たちも、何をすればよいのかわかりません。 子どもから、「15歳の定義」は主観的なものにすればいいのですかという質問が出てきました。授業者は「20歳の定義」として主観的なもの例とし、それに対して客観的かどうかを議論しました。「客観性について理解を深める」というねらいなので、主観的な定義をすることで客観性を議論しやすくするのだと考えたのでしょう。授業者はできるだけ客観的に書けばいいと説明しましたが、この活動の目的は不明確のままでした。 子どもが教師の指示に対して問い返す場面には意外に出会えません。あったとしても、このような的を射た質問は稀です。子どもが優秀だということもあるのでしょうが、子どもたちと授業者の関係がよいことが安心して指摘できる大きな要素だと思います。授業者は質問してくれたことを子どもに感謝していました。このような姿勢がこの学級の雰囲気をつくっているのだと思います。 説明の時間が長かったのですが、子どもたちはよく話を聞いていました。個人作業になった途端子どもの声があちこちから聞こえてきます。緊張が弛んだのではありません。今から何をすればいいのか確認し合っているのです。子ども同士でわからないことを聞き合えるよい関係です。子どもたちの姿から、何をやればいいのか理解できていなかったことがよくわかります。指示が簡潔に整理できていなかったこともそうですが、授業のゴールが不明確だったことが一番の理由のように思いました。 それでも、子どもたちは一生懸命に課題に取り組みます。しかし、子どもたちが何をすればいいのかよくわかっていないので、授業者は何度も追加の指示や説明をします。しかし、作業を止めないので、子どもたちの集中を乱すだけです。 意見交換の時間になりました。すぐに始まるのかと思うと、ここでまた説明が入ります。ならば、活動ごとに目標を明確にして、その都度指示をした方が効率的です。意見交換が終わって時間が余ったグループは、「より伝わる」ようにするにはどうすればいいのか話し合うように指示をしました。「より伝わる」という言葉が唐突に出てきました。これが目標なのでしょうか。ならば、客観性ではなく「相手に伝わる、納得してもらう」を目標とすべきでしょう。授業の足元が揺れています。 それでも、子どもたちは積極的に意見交換しようとします。しかし、この場面での「客観性」が明確でないので、根拠を持った話し合いにはなりません。予想通り子どもたちは自分の考えを主張しますが、互いにかみ合いません。「おれはそうは思わない」から客観的でない。客観性にこだわるあまり、どんどん自分の思いが削られていく。「元の詩を参考にして」という言葉に引っ張られ、客観性が元の詩に書いてあるかどうかということになっている。共通の基盤がないため空中戦になってしまいます。当然子どもたちのテンションは上がっていきます。深く考えるのではなく、思いついたことを言いあっているのです。 授業者は最後に1人を指名して、その子の考える定義と根拠を発表させました。かなりの長文をとうとうと話します。言葉は明確ですが、ただ読んでいるだけで間もありません。相手に理解してもらおうという話し方ではありませんでした。確かに中学生としてはしっかりしたことを言っているようなのですが、正直私には何を言いたいのかよくわかりませんでした。聞いている子どもたちも同様だと思います。授業者はそのグループの子どもたちが納得して何も言えなかったと評価しました。もし本当にそうなら、どこで納得したか聞き返すべきです。まず、答えられなかったはずです。どの子ども「なんかすごいことを言っているようだ」と思うだけで、本当に理解しているわけではありません。もし、この意見を取り上げるのであれば、全員が発表を理解できるようにもう一度じっくり聞き直すべきです。途中で止めて、ここまで理解できたかを確認しながら共有すべきなのです。コミュニケーションは伝わることが一番です。自分の考えを伝えることを、それこそ「よく伝わる」ためにどのようにすればよいかを学ぶよい機会だったのです。長くて難しそうなことがよい意見だという価値観を持たせてはいけないのです。この意見を聞いていた先生の中には、すごい子がいると感心していた方もいるようでしたが、「どのような意見だったか言ってください」と問い返されたら答えられなかったと思います。そんな発表をそのままよいものだと評価してはいけないのです。意見のどの部分がよかったか、どこで納得したのかきちんと評価してはじめて意味があるのです。 発表して終わるのなら、なぜこの子を指名する必要があったのか疑問です。最後に、このような発表をさせたために、この授業の目標がますますわからないものになってしまいました。子どもたちは一生懸命活動しましたが、何を学んだのかがよくわからない、どこに到達したのかもわからないミステリーツアーになってしまいました。 授業検討会では、それぞれの先生が見ていた子どもの事実が固有名詞でしっかりと語られます。子どもたちをとてもよく見ています。小規模の小中一貫校なので、小学校の先生も中学生をよく知っていることが子どもを把握しやすくしているのかもしれません。小中一貫校のよさでしょう。 語られた事実から、「子どもたちが『定義』として何を書けばいいのかよく理解していなかった」「ここでいう『客観的』とはどういうものか明確でないまま意見交換をしていた」といったことが浮かび上がってきます。時間の関係でそこで検討は終わって私の助言になってしまいました。本当はそこから先生同士で、「ではどうすればよかったのか」を話し合えれば、私の話よりもよほど多くのことが学べたと思います。とても残念でした。限られた時間しかない検討会です。授業者の反省といったことを省略して、子どもがどうであったか、その原因やどうしていけばよいのかといったことを話し合うことに時間を割くことが大切だと改めて思いました。 端的に言えば、今回の授業は子どもにどうなってもらいたいかという目指す姿が明確になっていないものでした。批評文を書くというゴールに対して、どういう位置づけの時間かを子どもに伝えることが必要だったのです。 批評文は、その対象となる文章を正しく理解した上で、その文章で主張されることに対して自分はどのように考えるか明確にし、読み手に納得させるような根拠を示します。授業の前提としてその構造をまず全員で共有する必要があります。 その上で、今回の教材であれば、「詩の作者は15歳とはどういう時だと書いているか」「その言葉でどのようなことを伝えたいと思っているのか」をしっかりと押さえる必要があります。批評文の構造の最初の部分にあたるところです。 それに対して、「自分の考える15歳とはどういう時かを伝える言葉」が、今回の「15歳の定義」です。その言葉で「自分の考えが伝わるかどうか」を聞き合うのが「意見交換」の場です。「伝わるかどうかを決定する要素」が今回の授業でいうところの「客観性」です。これが批評文の構造の後半に対応します。 たとえばこのように授業の軸を再構成することで、同じような流れでも子どもたちの活動の中身は大きく違ったのではないかと思います。この時間で考えたことをもとに批評文を書くことも意識できたはずです。 今回の授業では、子どもたちが一生懸命に取り組んでくれたことと、先生方の子どもを見る目の確かさのおかげで授業の問題点がとても明確になりました。学びの多い授業研究だったと思います。学校として授業を見あうことをとても大切にしていることと無関係ではないでしょう。学校全体の授業力の向上が期待できると思います。次回は小学校を中心に授業を見させていただく予定です。今からとても楽しみです。 小中一貫校で考える
昨日は小中一貫校の現職教育に参加しました。まず学校全体の様子を1時間ほど見て回りました。その後の授業研究は中学校3年生の国語でした。
2回目の訪問ですが、前回同様子どもたちの表情は柔らかく、教師の笑顔もたくさん見られました。ただ、教師が教えようとする姿勢がまだ強く、どうしても教師がしゃべりすぎる傾向にあります。 この日目についたのは子どもの作業中に教師が追加の指示をしたり、一部の子ども対象の説明をしたりすることです。教師が子どもの集中を乱しているのです。指示は整理して簡潔に伝えることが大切です。追加の指示が必要ならいったん作業を止めて全員に確実に伝えなければなりません。中途半端な状態で指示を出すことが続くと子どもが指示を聞かなくなります。また、子どもが作業中に個別に教師に質問をします。それに対して教師が丁寧に対応します。指示を聞いていなくても個別に答えてくれるのならますます指示を聞かなくなります。もし全体に対して指示した内容であれば、まわりの子どもに聞くように促すことが大切です。子どもの個別の質問に対して、全体で取り上げるべきものなのか、まわりの子どもとつなげばいいことなのか、それともその場で教師が対応すべきものなのかをきちんと判断するよう意識してほしいと思います。 子どもに対して、今は何をする時かを明確にできていない場面を目にします。板書を写す時なのか話を聞く時なのか。顔を上げて聞く時なのかプリントを見て聞く時なのか。子どもにしっかりと伝えることが授業規律の確立につながっていきます。 また、何をするのか活動の指示が明確でも、目標がはっきりしていないこともよくありました。子どもが自分で評価できる具体的な基準を示すことが大切です。 予定の時間が来ても作業が終わらない子どもが数人いると、どのくらい時間がほしいか聞いて延長する傾向が先生方にあります。単純作業であればある程度プレッシャーをかけ、時間内にできるようにさせる必要があります。時間内にできなくても延長してもらえるとわかっていれば、子どもはのんびりと作業をします。これでは授業がだれてしまいます。考えることが必要な作業であれば、時間を与えればできるのかどうかが問われます。解決の手段が与えられなければ、結局時間がムダに過ぎていくだけです。わからなければ友だちに聞くというのが一番簡単な解決方法です。そのためには、子どもたちが「わからないから教えて」と安心して言えるようにすることが大切です。また、無理して延長するぐらいなら作業を止めて、できていない子どもにどこで困っているかを聞くことから始めてもいいのです(子どもの作業が終わっていないときにどうするか参照)。 子どもたちが次の作業に移るときにムダなおしゃべりをしたり、伸びをしたりする場面にも出会いました。子どもたちがよい姿勢であっても決して集中しているとは限りません。受け身で緊張を強いられている場合もあります。緊張は長くは続きません。必ずどこかで弛緩することになります。次の作業に移るときは子どもたちにとってそのチャンスなのです。子どもは正直に行動で教えてくれるのです(集中と緊張参照)。 どの先生方も子どもに対して、丁寧な対応を心がけています。そのことが子どもとの関係のよさにつながっています。しかし、一つ間違えると甘えとなってしまうこともあります。授業で徹底したいことは何かを具体的にし、学校全体で共有することで、小中一貫校のよさを活かして大きく進化できると思います。 授業研究については明日の日記で。 |
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