地域の枠を超える動き

子どもたちの間で、スマートフォンやゲーム機などを利用したコミュニケーションでトラブルが増えています。その対策に頭を悩ませている学校は多いと思いますが、具体的な対策がとれていないのが現状のようにも思います。そんな中、保護者向けのネット講習会を企画したPTAと学校があります。家庭と学校が協力して対応していこうという試みです。この問題は1校だけの問題ではありません。市全体で取り組むべきだと考え、市内の全中学校を会場にして講習会を行うことを企画しました。急な話に「なぜ、今」と思う学校もあったようです。私には一刻を争うほど喫緊の課題になっていると思えるのに、意外な反応でした。
企画した学校からすれば、他の学校のことまで考えることは負担以外の何物でもありません。実際、市内の全中学校を会場として行うには外部の講師を手配する余裕も予算もありません。そこで、講師研修会を開いてPTAや地域の方、教師、自分たちで講師を務めようということになりました。自校のことだけを考えるのではなく、市全体のことととらえ、互いに協力して自分たちの手で子どもたちを守り育てていこうという姿勢に、これからの地域と学校のあり方の方向性が見えるように思います。

素晴らしいのが、この講師研修会を他の地域の方にも参加を許したことです。自分たちの負担でつくり上げたものを無償で提供するのです。行政主体であれば、予算の出どころのこともあり、このようなことは難しいと思います。しかし、行政ごとにそれぞれが一からつくりだすことは時間と予算のムダです。よいこと、必要とされることはそういった枠を超えて互いに共有すべきです。そのあたりまえのことをあたりまえのように実行されたことに頭が下がります。かく言う私も、参加を申し込みました。どの学校もネットの問題には頭を悩ませているようです。たくさんの地域学校からぜひ参加したいという声が上がってきました。
1つの地域、学校の試みをその枠を超えて提供し合い共有する。今回の研修会がきっかけとなって、このような動きが広がっていくことを期待したいと思います。

理科の授業で考える(長文)

先週末は中学校で理科の授業アドバイスを行いました。

授業者は今年この学校に異動して来た教職7年目の先生です。2年生の動物の分類の導入の授業でした。
授業者は笑顔をつくり、言葉も明瞭です。子どもたちにプリント配ったりするときには、「ありがとう」の言葉も出ます。子どもの発言をよく受容しようとしています。この学校で取り組んでいることを意識しています。しかし、子どもたちはあまり集中しているようには見えません。決して授業者の話を聞いていないわけではないのですが、このことが気になります。

子どもたちの興味づけのために動物の名前あてクイズを行います。電子黒板に動物の写真を写し、名前を答えさせます。電子黒板に子どもが集中します。しかし、動物の名前をあてることは、単なる知識です。そこに理科として何があるのかがよくわかりません。最初は「ハシブトガラス」です。子どもたちは何を答えていいのか少し戸惑っているようでしたが、さすがに「カラス」としか答えは出てきません。「ナメクジ」の次の「アマガエル」の時です。子どもたちの戸惑いが大きくなりました。「アマガエル」「カエル」、どちらを答えていいのかわからないからです。授業者は、「気にしなくていい」と「カエル」で答えてくれればいいと言います。この言葉でこのクイズは何のためのものかわからなくなってしまいました。「アマガエル」と「カエル」で悩ませることから分類の意味を考えるのかと思ったのですが、どうやら違ったようです。「カエル」と言った時に思い浮かべるのはどんな「カエル」と問い返すことで、カエルを分類する必然性を意識させることができたはずです。分類しなければ、「ヒキガエル」も「アマガエル」も同じものです。ちなみに英語では、”toad”と”flog”と区別されています。「カエル」の違いは誰にでもわかりますが、「カラス」は「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」という分類を知らなければ、両者とも同じ「カラス」としか認識されません。こういうことを考えることで、分類の意味が分かってくるはずです。
授業者は、先ほどのカラスは「ハシブトガラス」だと説明します。「気にしなくていい」と言いながら、薀蓄を語ることはかえって子どもたちを混乱させます。「アゲハチョウ」「マンボウ」と続き、この日の課題、「この5種類の動物を2つに仲間分けする」が提示されました。ここまでにかなりの時間を使っていますが、分類のための材料提示の意味しかないのならもっとテンポよく進めるべきだったでしょう。

ワークシートを配った後、理科的でなくていいので、自由な発想で仲間分けをするように指示します。この活動の意味が分かりません。目標と評価基準がないため、ただ作業するだけになってしまうからです。条件がないため、かえってどこから手をつけるか、取っ掛かりがありません。分類後の話し合いは根拠のない空中戦になることが必至です。
仲間分けの作業の指示を電子黒板で行いますが、子どもたちの視線は電子黒板と手元のワークシートとばらばらです。作業の結果を書くのはワークシートなのですが、ワークシートの使い方の説明はありません。子どもたちが戸惑うことが想像できます。
個人作業に入った途端、かなりの子どもが鉛筆を持てずにいました。男女で隣り合っているのですが、何をするのか、どこに何を書けばよいのか聞き合っています。子ども同士の関係がよいことは見て取れます。授業者は、指示が不明確だったことに気づいて、ワークシートに何を書くか黒板に黙って書きはじめました。指示が通ってないと判断したのなら、いったん作業を止めて説明し直さなくてはいけません。今回の課題であれば、まず仲間分けの指示をし、電子黒板を使ってワークシートの説明をするべきだったでしょう。説明が終わったあとにワークシートを配り、すぐに作業に入るのです。
なんとなく子どもが授業者の話を集中して聞かない理由がわかったような気がします。授業者の指示が不明確だったり、説明を聞いてもよくわからなかったりすることがあるので、集中して聞かなくなったのではないでしょうか。聞いていなくても、今回のようにわからなければ追加で指示があるので困らないのです。また、わかっていれば、追加の説明を聞く必要がないので、聞く聞かないを自分の判断で勝手に行うようにもなっていくのです。

取り敢えず分類ができた子どもは、することがなくなっています。しかし、思いつかない子どもは、なかなか手がつきません。授業者は机間指導しながら、具体的なヒントを言ってまわりますが、全体はよく見えていないようです。終わっている子どももたくさんいるのに時間を延長しました。子どもたちがだれてしまいます。できない子どもができるようになる手立てを明確にしないまま延長することはナンセンスです。課題の方向性がはっきりしていないことが、手がつきにくい原因ですが、早めにいくつかの具体例を子どもに発表させ、それを共有してから再度取り組めば、また違ったと思います。

作業を止めるように指示しますが、まだ手が動いている子どもがいるのに話し始めます。こんなところにも、子どもたちが集中しない理由があるようです。
グループでの活動で、画用紙に動物の写真のカードを貼ることを説明します。面白かったのが、画用紙とカードという具体物を提示しとたんに子どもたちの集中力が上がったことです。具体物を見せることの効果もありますが、使い方がわからないと活動できないので聞く必然性があることも大きな要素だと思います。
授業者の説明の声ははっきりしていますが、単調です。大切なことを話す前に間をあける、大切なことはちょっとトーンを落として、ゆっくり話すといった工夫がないのです。情報に軽重がなく、また余分な情報、ノイズが多いようにも思います。しゃべりすぎなのです。その理由の一つが、自分の中で課題の目的や目標が明確になっていないことが挙げられます。整理できていないと、簡潔に説明できないのです。

グループで2種類の分類をつくることが課題です。男子、女子同士が隣同士で並んでいます。当然のように同性同士で話しはじめます。2つなので、お互いの意見を聞き合う必然性もありません。自分の思ったことを言うだけで根拠は必要ないのですから、テンションは上がります。意見を言って、どちらかに決めてしまえばもうすることはありません。今度はスーッとテンションが下がります。しばらくするとまたテンションが上がってきます。することがなくなったので、雑談が始まったのです。

各グループで1つずつ、分類した画用紙を貼りだしますが、子どもたちはその間雑談をしています。評価する基準がないので、見る意味があまりないからです。各グループの発表に対して、「同意できるか」で拍手をさせます。評価基準がないので恣意的です。もちろん拍手した理由を問うこともしませんし、問うこともできません。この活動が何の意味があるか子どもたちにはわからないままです。「飛ぶ」かどうかと「羽があるか」で分類すると同じように分かれます。「分け方が違う」と教師が解説をします。「分け方が同じ、違う?」と問いかけません。子どもが考える場面がないのです。
発表の後、昔からみんなと同じようにして分類が考えられてきたとまとめますが、分類が満たすべき要件は押さえていません。
せめて、「客観的に判断できる(だれがやっても同じ仲間になる)基準」であることを条件にし、その確認として授業者が別に用意した動物をその基準で分類する、といった課題であるべきでしょう。

教科書を読ませて、理科では「進化」をもとに分類することを伝えます。しかし、子どもたちは「進化」で分類するとはどういうことかはわかりません。自分たちの分類方法と何が違うのかもわかりません。その必然性も。
子どもたちに生物の設計図は何かを問います。これは知識です。「骨」という答が出て扱いに困ります。結局「DNA」だと授業者が答を言います。授業者は質問が悪かったと一生懸命フォローします。知識を問うことをするとこういうことになるのです。質問に対して子どもたちがじっとしていることから、日ごろ知識を問うても、調べさせることをしていないことがわかります。せめて教科書や資料集を調べさせることを日常的にするべきでしょう。

「スズメバチ」のような虫(「トラフカミキリ」)を見せて、「ハチ」かどうかを問います。考えても答えはわかりません。「カミキリムシ」と言われても、確認のしようがありません。クイズとしては面白いのですが、学習にはなりません。子どもたちに考えさせるのであれば、「スズメバチ」と、「カミキリムシ」の両者と比べてどちらの仲間かと問えばいいのです。色(や動き)は「スズメバチ」に似ているが、翅や体の形は「カミキリムシ」です。体の構造はカミキリムシに近いのです。こういった観察がなければ、理科ではないのです。

理科では、脊椎があるかどうかで分類をすることを言います。脊椎を背骨と言い換えます。骨があるかどうかという表現もしました。理科の用語としては、「脊椎」を明確に定義する必要があります。もっというと進化と言う点では、神経系に注目しているのですから、脊椎の中には神経が通っていることは押さえておきたいところです。
動物に脊椎があるかを知るためにはどうすればよいかを問います。レントゲンという言葉を子どもから何とか引き出しますが、レントゲンに気づくことにあまり意味はありません。理科として何を問い、考えさせるのが大切か不明確なのです。
最後にまた、クイズです。「イグアナ」や「カエル」「ヒトデ」「ミミズ」「ヘビ」などに背骨があるかどうか、写真を見せながら問います。背骨があるとどのような特徴がみられるかといった考えるための根拠がないので、なんとなく想像で答えるしかありません。
答え合わせはレントゲン写真を一つひとつ見ながら、(背)骨あるかどうかを全員で確認します。「ミミズ」などは、「一生懸命探したけれど、なかなかいい写真が見つからなくてごめん」と言い訳しながら提示します。しかし、聞きようによっては頑張ったことを伝えたいようにもとれます。授業の内容に直接関係ない情報が多すぎる、しゃべりすぎているように感じます。皮肉なことに、子どもたちが一番真剣に見ていたのが、わかりにくい写真の「ミミズ」でした。わかりにくいから真剣に見るのです。わかりやすいことが決してよいことではないということです。
脊椎動物かどうかの分類を考えるのであれば、最初からレントゲン写真を見せて、脊椎動物と非脊椎動物に分類する作業をすればよかったのではないかと思います。その写真がどの動物の物かは、最後に簡単に確認すればいいのです。
結局最後まで、理科として何を学んだのかわからない授業になってしましました。

授業後、空き時間で簡単な検討会を行いました。授業者は、「ある程度経験を積んだので、今までなんとなくこなすことはできるようになっていた」と振り返ります。しかし、不十分であったことをわかってくれたようです。「このような授業研究は経験がなかった。授業をもっと改善しなければいけない」と、素直で前向きな言葉が出てきます。残念ながら、授業をしっかりと見合い、学び合うことができていない学校もたくさんあります。その必要性を実感してくれただけでも大きな進歩だと思います。きっと自分の授業をしっかりと振り返り、新たな一歩を踏み出してくれることと思います。今年度はもうこの先生の授業を見る予定はないのですが、何とか時間をやりくりして時間を取りたいと思います。きっと、進化した姿を見せてくれることと期待しています。

学校全体の授業力の高まりを感じた検討会

昨日は中学校で授業研究に参加してきました。学び合いを大切にしている学校です。

1年生の理科、水に溶けた物質はどうなるかを考える時間でした。
最初に前回に行った各グループの実験結果を発表させます。子どもの表情が少しかたいことが気になります。授業者の緊張が伝わっているのかもしれません。子どもの発表に対して、足りないことを「どちらが濃かった」と直接聞き返します。同じという答に対しては、聞き返しません。これでは子どもは教師の求めることを言わなければと思ってしまいます。足りないことがあれば、「もう少し詳しく聞かせてくれる」「グループの人、足すことはない?」と教師の質問に答えるのではなく、自分で気づいたことを発表させるようにしたいところです。「同じ」ということを許せば、「同じ」で思考停止してしまいます。「あなたの言葉でもう一度聞かせてくれる」と必ず自分の言葉で言わせることが大切です。全く同じことを言うことは稀です。違いがあれば、「言葉を足してくれた」「違う言い方をしてくれたね。それってどういうこと?」とそのことを評価し、深めていくことが大切です。
子どもたちの一部は教師が板書する各グループの結果を写します。それが大切だからというよりも、することがないからのように見えます。そもそも、なぜこの実験をしたのか、実験から何を知ろうとしたのかという実験の目的を確認しないままに進んでいきます。実験結果をどう活かすのかもはっきりしません。グループに間の結果の違いも取り上げることはしません。何のための発表かわからないのです。
また、机をコの字の形にしているのですが、授業者が話していても子どもの体は横を向いたままで視線はそちらに向かいません。しかし、授業者は気にする様子がありません。顔を上げて自分を見てくれることを望んでいないのです。指名して返事がない子どもに対して、しばらく厳しい表情で黙ることで返事をするようプレッシャーをかけます。子どもが気づいて返事をしても、それに対して反応しません。子どもに無用の緊張を強いるだけです。しかも、最初の2人くらいには返事を求めましたが、後の子どもには求めませんでした。子どもたちは授業者が恣意的にしか注意をしないのを知っているのでしょう。だれも指名されても自ら「はい」と返事をしません。普通は2人注意をされればその後の子どもは気をつけるようになるものです。そうならないことが気になります。子どもが授業者を見ないことと関係があるように思えます。他の場面ではどうかはわかりませんが、少なくとも授業場面では子どもとの人間関係ができていないようです。笑顔でうながし、返事をしてくれれば「ありがとう」と一言そえるだけで、子どもたちの態度は変わっていきます。子どもをチェックする目ではなく育てる目で見てほしいと思います。

「溶けた物質はどのようになるのか」推測するのが課題です。まず個人でワークシートに書かせます。根拠も書くように指示しますが、「溶けること」と「どのようになるのか」ということの論理的な関係が曖昧です。溶けるということをどう定義するのか、予め定義されている溶けた状態の時に物質はどうなっているか、どちらを聞いているのかよくわかりませんでした。後で確認したところ、溶けているとは透明になる状態と定義していたようです。そうであるのなら、「溶けている時は透明になっているんだったね。その時溶けた物質はどこにあるの。どんな状態なの」ともう少し具体的に問いかけた方が、子どもが考えを整理しやすかったと思います。推測したこととその根拠となる実験結果を、必ず対にして書くように指示をすれば、実験との関係も明確になったと思います。
子どもたちは自分の推測を書くのですが、根拠を明確には書くことはしません。感覚的にわかっているのでしょうか。子どもたちが書き終った後、グループでの話し合いです。ここでの指示の言葉が気にかかりました。友だちの話を聞いて「まとめる」というのです。これはこの場面で使うべき言葉ではありません。というより、活動の目的がずれてしまっているのです。みんなの意見をまとめるのではなく、「物質が溶けている状態」を科学的に推測するのが目的です。友だちの考えも参考にして、「確かにそう思える」とみんなが納得する根拠の基づく推測にするのです。
グループになった時に、子どもの表情が大きく変わりました。笑顔がたくさん生まれます。今までの受け身の緊張状態から解放されたという感じです。子どもたちの素晴らしいところは、伸びをしたり、ムダ話をしたりせずに、すぐに話し合いに入っていったところです。弛緩してしまわないのは、グループ活動に対して気持ちが積極的になっているということです。この学校での日ごろのグループ活動がよいものである証です。
子どもたちはしっかり話を聞き合っています。しかし、中には友だちの話を聞いていない子どもがいます。ところが、自分が話す順番になるとしっかりと話しています。きっと優秀な子どもなのでしょう。答えを知っているので友だちの意見を聞く価値がないと考えているようです。一通り意見が出た後は、にこやかに雑談しています。その姿が印象的でした。授業者はグループの間を回りながら、個別に話をしています。全体の様子をきちんと把握していません。あと5分と言った時点でかなりのグループが話し合うことがなくなっていました。意見を聞いてまとめるのという課題なので、友だちの話を聞けばそれでまとめの作業に入れます。議論する必要はないのです。ここで時間を与える意味はあまりありません。子どもたちはひたすら書き始めていたのです。時間が来てもまだ書いている子どもがたくさんいます。授業者は時間がほしいか聞き2分延長しました。これもムダな時間です。グループ活動の時間ではなく単なる作業時間なのです。
各グループの発表者を決めるように指示してすぐに発表に入ります。これもムダなことです。発表のために予め準備をする必要があってその時間を与えるのならいざ知らず、すぐに発表するのであれば、発表者以外の子どもが気を抜いてしまいます。教師がその場で指名して答えさせればいいのです。もし、うまく答えられなくてもグループの友だちに助けてもらえば問題はありません。

最初の発表は、子どもたちがしっかりと発表者を見て聞こうとしていました。ところが、途中で授業者が発表の内容を板書し始めました。折角友だちを見ていたのに、子どもたちは黒板を写しだします。授業者も子どもたちを見ていません。板書の内容も、子どもの言葉を教師がほしいところだけつまみ食いをしたものです。子どもの発表の微妙な違いが、教師のフィルターにかけられほとんど同じになってしまっています。これでは、すべてのグループで発表する意味がありません。最後の指示は、全部のグループの発表を「まとめる」でした。みんなから出た考えを評価し、より科学的な推測に高めることが全体での発表のねらいであるべきです。子どもたちから出た、「均一」といった言葉が何を表わしているのか深めることもありません。「均一」という言葉が理科の言葉に高まっていません。また、何を根拠として「均一」なのかも明確にされません。そのことを確かめるのにどのような実験をすればよいかを考える場面もありませんでした。
子どもたちも自分たちの活動が何だったのかわからないままの1時間でした。最後まで、理科として何を学んだのか明確にされないままでした

検討会では、理科として何を目指しているのかを知りたいという質問が出てきます。若手からは発表を板書したために子どもを見ていなかったことがもったいないといった指摘があります。ベテランからは、子どもの発表を順番にするのではなく、同じ考えや同じ根拠、また違う考えをつないでいくとよいと、具体的な場面を例にアドバイスがされます。みなさんの意見から学校全体としての授業レベルが上がっているのを感じます。この授業で私が感じたことは、ほとんど皆さんから出てきました。私からは、理科に限らず日常用語をどう教科の用語に高めていくかを意識してほしいことをお話ししました。今回の授業でいえば「溶ける」という日常用語を理科の用語として、どう子どもたちの共通の言葉にするかを意識してほしかったのです。
そして、これだけ皆さんの授業の質、授業を見る目が高まっているのですから、それをいかに共有するかを意識してほしいとお願いしました。日ごろから互いに授業を見あって、よいところを学び合ってほしいのです。きっとみなさんの授業がもう1段レベルアップすると思います。

検討会終了後、授業者と話す時間をいただけました。
子どものできないところを見るのではなく、できていることを見る。できないことを減らすのではなく、できることを増やす。そういう視点で、子どもとの関係づくりを授業で進めてほしいこと。
自分の教えたい知識を結論として与えるのではなく、子どもが科学的なものの見方・考え方を身につけることで、自分たちで気づくような授業を組み立ててほしいこと。
教科書をもっと読み込むことで、理科としてどのような力を子どもたちにつけるのかを明確にしてほしいこと。
このようなことをお願いしました。

まだまだこれからの若い先生です。まわりに手本となるよい先輩たちがたくさんいる、授業力をつけるためにとてもよい環境の学校です。今後どのような成長をしてくれるか楽しみにしたいと思います。

アンケートの対応も比べられる

秋は行事が多い季節ですが、最近はそれに伴いアンケートの季節とも言えるように思います。学校評価に関連してアンケートを取る機会が増えているのです。特に行事は終了後時間が経っていると記憶があいまいになるので、できるだけ早く実施することが望まれます。ではその結果の保護者へのフィードバックはどうでしょう。学校側の都合でいえば、反省と次年度の計画までに集計しておけばいいのでしょうが、保護者としてみれば1月も経ってからその結果見せられても、自分がどう答えたかも覚えていないということになります。

そこで最近はOCR(マークシート方式)やWEBのアンケートシステムを使って素早く実施・集計する学校が増えてきました。行事の翌週にはホームページにアンケートの速報が載っている学校も珍しくなくなってきました。とはいえ、結果を知らせるだけであればアンケートの意味はありません。その結果をどのよう評価し学校としてどう対応するかを伝える必要があります。しかし、結果はICTを活用して素早くできるとしても、分析や対応はすぐにできるわけではありません。以前に「保護者はホームページを通じて校長比べをしている」という言葉を伝えましたが(他校の取り組みをどう見るか参照)、このアンケート結果への対応も「校長比べ」の重要な要素のように思います。

結果を公表してもその内容についてのコメントがなければ、保護者の信頼は得られません。特に自由記述欄に意見を書いた方は、それに対する反応を期待しているはずです。公表するだけでは、かえって無視したようにもとられてしまいます。その意見を今後どのように扱かっていくのか、結果の公表とあわせて明確に伝えることが大切です。「こういう理由で対応することは難しい」「次年度に向けて検討する」このことを伝えるだけでも随分印象は変わります。意見を書いた方もそれがそのまま通るとは思っていません。きちんと説明されれば納得していただけるのです。もちろん、検討するといったことは次年度きっちりその結果を伝えなければいけないことは言うまでもありません。

ホームページも毎日更新することから、その発信内容の質が問われています。アンケートも素早く実施・集計することから、一歩を進んでその対応の質が問われてきているように思います。保護者の目には、学校間、校長間の格差がますます大きくなっているように見えているのではないでしょうか。

子どもたちが一生懸命だから課題が見える

昨日の日記の続きです。

国語の授業研究は批評文を書く前の自分の考えを持つ場面でした。
授業は最初から4人グループの形です。グループ活動が意識された授業だとわかります。授業者は笑顔で子どもたちと接しています。子どもたちも先生の期待に応えようと一生懸命に授業に参加していました。

題材となる詩をもとに個人で「15歳の定義」を書く。その定義についてグループで意見交換をして「客観性について理解を深める」というこの授業の流れを説明します。大きく2つに分かれる活動の指示をまとめてします。定義を書くといった活動の指示はするのですが、具体的に何を書けばよいのか明確になりません。その根拠も考えるように指示をします。そもそも「定義」という言葉の定義が曖昧です。続いて、意見交換の進め方の説明に入ります。授業者が例として「20歳の定義」を示します。「まだまだ子どもだ」という定義に対して、子どもに客観的かどうかを問います。根拠として「食品冷凍庫で寝ている姿をツイッターで発信する」ことをあげました。子どもからは「普通の人はそんなことはしない」と客観的でないという意見が出ます。このようなやりとりの中で、「一般的でない」という言葉がでてきます。今回の「15歳の定義」は一般的なものを目指すのかもよくわかりません。再び定義の話に戻り、詩を参考にしてその内容と関係のあるものにするように説明します。しかし「15歳の定義」という言葉は詩には出てきません。最初にあげた「客観性について理解を深める」こととこの定義の関係も不明確です。目標となる「客観性について理解を深める」という言葉も子どもが理解できる言葉ではありません。教師の考える目標であって、子どもが目指す目標にはなっていないのです。授業を聞いている私たちも、何をすればよいのかわかりません。

子どもから、「15歳の定義」は主観的なものにすればいいのですかという質問が出てきました。授業者は「20歳の定義」として主観的なもの例とし、それに対して客観的かどうかを議論しました。「客観性について理解を深める」というねらいなので、主観的な定義をすることで客観性を議論しやすくするのだと考えたのでしょう。授業者はできるだけ客観的に書けばいいと説明しましたが、この活動の目的は不明確のままでした。
子どもが教師の指示に対して問い返す場面には意外に出会えません。あったとしても、このような的を射た質問は稀です。子どもが優秀だということもあるのでしょうが、子どもたちと授業者の関係がよいことが安心して指摘できる大きな要素だと思います。授業者は質問してくれたことを子どもに感謝していました。このような姿勢がこの学級の雰囲気をつくっているのだと思います。

説明の時間が長かったのですが、子どもたちはよく話を聞いていました。個人作業になった途端子どもの声があちこちから聞こえてきます。緊張が弛んだのではありません。今から何をすればいいのか確認し合っているのです。子ども同士でわからないことを聞き合えるよい関係です。子どもたちの姿から、何をやればいいのか理解できていなかったことがよくわかります。指示が簡潔に整理できていなかったこともそうですが、授業のゴールが不明確だったことが一番の理由のように思いました。
それでも、子どもたちは一生懸命に課題に取り組みます。しかし、子どもたちが何をすればいいのかよくわかっていないので、授業者は何度も追加の指示や説明をします。しかし、作業を止めないので、子どもたちの集中を乱すだけです。

意見交換の時間になりました。すぐに始まるのかと思うと、ここでまた説明が入ります。ならば、活動ごとに目標を明確にして、その都度指示をした方が効率的です。意見交換が終わって時間が余ったグループは、「より伝わる」ようにするにはどうすればいいのか話し合うように指示をしました。「より伝わる」という言葉が唐突に出てきました。これが目標なのでしょうか。ならば、客観性ではなく「相手に伝わる、納得してもらう」を目標とすべきでしょう。授業の足元が揺れています。
それでも、子どもたちは積極的に意見交換しようとします。しかし、この場面での「客観性」が明確でないので、根拠を持った話し合いにはなりません。予想通り子どもたちは自分の考えを主張しますが、互いにかみ合いません。「おれはそうは思わない」から客観的でない。客観性にこだわるあまり、どんどん自分の思いが削られていく。「元の詩を参考にして」という言葉に引っ張られ、客観性が元の詩に書いてあるかどうかということになっている。共通の基盤がないため空中戦になってしまいます。当然子どもたちのテンションは上がっていきます。深く考えるのではなく、思いついたことを言いあっているのです。

授業者は最後に1人を指名して、その子の考える定義と根拠を発表させました。かなりの長文をとうとうと話します。言葉は明確ですが、ただ読んでいるだけで間もありません。相手に理解してもらおうという話し方ではありませんでした。確かに中学生としてはしっかりしたことを言っているようなのですが、正直私には何を言いたいのかよくわかりませんでした。聞いている子どもたちも同様だと思います。授業者はそのグループの子どもたちが納得して何も言えなかったと評価しました。もし本当にそうなら、どこで納得したか聞き返すべきです。まず、答えられなかったはずです。どの子ども「なんかすごいことを言っているようだ」と思うだけで、本当に理解しているわけではありません。もし、この意見を取り上げるのであれば、全員が発表を理解できるようにもう一度じっくり聞き直すべきです。途中で止めて、ここまで理解できたかを確認しながら共有すべきなのです。コミュニケーションは伝わることが一番です。自分の考えを伝えることを、それこそ「よく伝わる」ためにどのようにすればよいかを学ぶよい機会だったのです。長くて難しそうなことがよい意見だという価値観を持たせてはいけないのです。この意見を聞いていた先生の中には、すごい子がいると感心していた方もいるようでしたが、「どのような意見だったか言ってください」と問い返されたら答えられなかったと思います。そんな発表をそのままよいものだと評価してはいけないのです。意見のどの部分がよかったか、どこで納得したのかきちんと評価してはじめて意味があるのです。
発表して終わるのなら、なぜこの子を指名する必要があったのか疑問です。最後に、このような発表をさせたために、この授業の目標がますますわからないものになってしまいました。子どもたちは一生懸命活動しましたが、何を学んだのかがよくわからない、どこに到達したのかもわからないミステリーツアーになってしまいました。

授業検討会では、それぞれの先生が見ていた子どもの事実が固有名詞でしっかりと語られます。子どもたちをとてもよく見ています。小規模の小中一貫校なので、小学校の先生も中学生をよく知っていることが子どもを把握しやすくしているのかもしれません。小中一貫校のよさでしょう。
語られた事実から、「子どもたちが『定義』として何を書けばいいのかよく理解していなかった」「ここでいう『客観的』とはどういうものか明確でないまま意見交換をしていた」といったことが浮かび上がってきます。時間の関係でそこで検討は終わって私の助言になってしまいました。本当はそこから先生同士で、「ではどうすればよかったのか」を話し合えれば、私の話よりもよほど多くのことが学べたと思います。とても残念でした。限られた時間しかない検討会です。授業者の反省といったことを省略して、子どもがどうであったか、その原因やどうしていけばよいのかといったことを話し合うことに時間を割くことが大切だと改めて思いました。

端的に言えば、今回の授業は子どもにどうなってもらいたいかという目指す姿が明確になっていないものでした。批評文を書くというゴールに対して、どういう位置づけの時間かを子どもに伝えることが必要だったのです。
批評文は、その対象となる文章を正しく理解した上で、その文章で主張されることに対して自分はどのように考えるか明確にし、読み手に納得させるような根拠を示します。授業の前提としてその構造をまず全員で共有する必要があります。
その上で、今回の教材であれば、「詩の作者は15歳とはどういう時だと書いているか」「その言葉でどのようなことを伝えたいと思っているのか」をしっかりと押さえる必要があります。批評文の構造の最初の部分にあたるところです。
それに対して、「自分の考える15歳とはどういう時かを伝える言葉」が、今回の「15歳の定義」です。その言葉で「自分の考えが伝わるかどうか」を聞き合うのが「意見交換」の場です。「伝わるかどうかを決定する要素」が今回の授業でいうところの「客観性」です。これが批評文の構造の後半に対応します。
たとえばこのように授業の軸を再構成することで、同じような流れでも子どもたちの活動の中身は大きく違ったのではないかと思います。この時間で考えたことをもとに批評文を書くことも意識できたはずです。

今回の授業では、子どもたちが一生懸命に取り組んでくれたことと、先生方の子どもを見る目の確かさのおかげで授業の問題点がとても明確になりました。学びの多い授業研究だったと思います。学校として授業を見あうことをとても大切にしていることと無関係ではないでしょう。学校全体の授業力の向上が期待できると思います。次回は小学校を中心に授業を見させていただく予定です。今からとても楽しみです。

小中一貫校で考える

昨日は小中一貫校の現職教育に参加しました。まず学校全体の様子を1時間ほど見て回りました。その後の授業研究は中学校3年生の国語でした。

2回目の訪問ですが、前回同様子どもたちの表情は柔らかく、教師の笑顔もたくさん見られました。ただ、教師が教えようとする姿勢がまだ強く、どうしても教師がしゃべりすぎる傾向にあります。
この日目についたのは子どもの作業中に教師が追加の指示をしたり、一部の子ども対象の説明をしたりすることです。教師が子どもの集中を乱しているのです。指示は整理して簡潔に伝えることが大切です。追加の指示が必要ならいったん作業を止めて全員に確実に伝えなければなりません。中途半端な状態で指示を出すことが続くと子どもが指示を聞かなくなります。また、子どもが作業中に個別に教師に質問をします。それに対して教師が丁寧に対応します。指示を聞いていなくても個別に答えてくれるのならますます指示を聞かなくなります。もし全体に対して指示した内容であれば、まわりの子どもに聞くように促すことが大切です。子どもの個別の質問に対して、全体で取り上げるべきものなのか、まわりの子どもとつなげばいいことなのか、それともその場で教師が対応すべきものなのかをきちんと判断するよう意識してほしいと思います。

子どもに対して、今は何をする時かを明確にできていない場面を目にします。板書を写す時なのか話を聞く時なのか。顔を上げて聞く時なのかプリントを見て聞く時なのか。子どもにしっかりと伝えることが授業規律の確立につながっていきます。
また、何をするのか活動の指示が明確でも、目標がはっきりしていないこともよくありました。子どもが自分で評価できる具体的な基準を示すことが大切です。

予定の時間が来ても作業が終わらない子どもが数人いると、どのくらい時間がほしいか聞いて延長する傾向が先生方にあります。単純作業であればある程度プレッシャーをかけ、時間内にできるようにさせる必要があります。時間内にできなくても延長してもらえるとわかっていれば、子どもはのんびりと作業をします。これでは授業がだれてしまいます。考えることが必要な作業であれば、時間を与えればできるのかどうかが問われます。解決の手段が与えられなければ、結局時間がムダに過ぎていくだけです。わからなければ友だちに聞くというのが一番簡単な解決方法です。そのためには、子どもたちが「わからないから教えて」と安心して言えるようにすることが大切です。また、無理して延長するぐらいなら作業を止めて、できていない子どもにどこで困っているかを聞くことから始めてもいいのです(子どもの作業が終わっていないときにどうするか参照)。

子どもたちが次の作業に移るときにムダなおしゃべりをしたり、伸びをしたりする場面にも出会いました。子どもたちがよい姿勢であっても決して集中しているとは限りません。受け身で緊張を強いられている場合もあります。緊張は長くは続きません。必ずどこかで弛緩することになります。次の作業に移るときは子どもたちにとってそのチャンスなのです。子どもは正直に行動で教えてくれるのです(集中と緊張参照)。

どの先生方も子どもに対して、丁寧な対応を心がけています。そのことが子どもとの関係のよさにつながっています。しかし、一つ間違えると甘えとなってしまうこともあります。授業で徹底したいことは何かを具体的にし、学校全体で共有することで、小中一貫校のよさを活かして大きく進化できると思います。

授業研究については明日の日記で。
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