実りの多い授業研究

前回の日記の続きです。

英語の授業研究は3年生の、丁寧にたずねる表現 ”Would you like … ?” の学習でした。授業者は講師の方です。今年度の英語科の授業研究のトップバッターです。講師の方が最初に授業研究に挑戦してくださるその意欲に、まず感心しました。

「食事を勧める」という ”situation” で授業は進んでいきました。授業者は、「丁寧な」たずね方ということを強調して”Would you like …?” を説明します。そのこと自体はよいのですが、丁寧でない言い方と比較することでコントラストをつけることが必要と感じました。「丁寧な」と「食事を勧める」というだけでは ”situation” はうまく伝わりません。「友だち同士はどうたずねればいい」というような、使い分ける場面をつくればよかったように感じました。
ピクチャーカードを使いながら全体練習をするのですが、どうしても口が開かない子どもがいます。3年生ともなると学力差がかなりついていて、全員の口を開かせることはとても大変なことです。しかし、教師が全員参加を目指していることを活動の中で子どもたちに伝えなければ、参加できない子どもは見捨てられと感じてしまいます。このことを意識してほしいと思いました。
子どもたち同士で会話をする場面がありました。一方が “Would you like some more?” と自分のカードに描いてある食べ物の絵を見せて勧めます。それを受けて、”Yes, please.” 、“No, thank you.” のどちらかで答えます。相手を変えて次々練習をします。授業者の意図は、決まりきった言葉を言うのではなく、好き嫌いなど自分の考えで答を選ばせることをさせたいということでした。また、答を聞くことで友だちの嗜好がわかるといったコミュニケーションも意識していたようです。子どもはカードを見せて “Would you like some more?” と言った後、返事を聞くとすぐに次に移ります。中には、返事をろくに聞かない子どももいます。子どもたちのテンションも上がり気味です。この会話に相手の言葉を聞く必然性がないことが原因のように思われます。絵を見れば、相手の言葉を理解しなくても返事ができる。返事を聞かなくてもそれで会話は終わり。聞かなくても活動は成立します。自分の言うべきことを言えば済むので、あまり考える必要がありません。テンションも上がってしまうのです。
このことについて検討会でも話題になりました。ある先生は、ただ ”Yes, please.” 、“No, thank you.” だけでなく、もう1文 “I like … very much.”、”I’m full.” などをつけてはどうかという意見が出てきました。話す内容を高度にして考える必然性を高めようということです。こういう工夫は大切です。授業者も同様のことを考えたようですが、子どもたちの実情を考えると、もう1文を付け加えさせるのは難しいと判断したそうです。大切なのは、文の内容を高度にするよりも、簡単な文章でいいので聞く必然性を高めることだと思います。勧めるものは事前に決めておいてもいいので、絵を見せずに “Would you like some more … ?” と聞かなければ答えられないようにする。相手の答に合わせて、”Oh, you like ….”、”Oh, you don’t like ….” と返す。これだけでも、充分に相手の言葉聞く必然性が出てきます。” Oh, you don’t like …, do you?” として、”Yes. I’m full.” などと、子どもの力に応じて発展させることも可能です。また、勧められる側の子どもに、お客様か友だちか相手との関係を選ばせてもよいかもしれません。それによって “Would you” と丁寧に聞くかどうかを選ばせるのです。
面白かったのは、先ほど口を開かなかった子どもが、この活動のあととてもよい表情をしていたことです。実際にうまく活動できたかどうかは観察できなかったのですが、友だちと何らかのかかわりを持てたことは間違いありません。子ども同士の人間関係がよいことがうかがえます。

この時間の主課題は、食事を勧める場面で5文の会話文をつくるというものです。子どもに会話文をつくらせるというのは授業者にとっては初めての試みだったそうです。こういう挑戦をしてくださることはうれしいことです。授業研究を通じて互いに学び合うことができます。
子どもたちは、会話文をつくろうと一生懸命なのですが、微妙にテンションが上がっていきます。本来のねらいである英文をつくる以前に、会話そのものをつくることにエネルギーが使われているのです。こういう状況はテンションが上がる傾向があります。
このことについても、検討会で話題になりました。子どもが会話文をつくりやすいように、“situation” を具体的にすることに時間をかけているという方がいらっしゃいました。子どもたちがその “situation” にしっかりと浸ることで、自然に言葉が生まれてくるということです。そうすれば、その言葉を英文に直そうという意欲もわいてきます。スキットも体を使ったとてもリアルなものになるそうです。なるほど、納得させられる話です。慣れないうちは、具体的に ”situation” を与えておくのも手です。紙芝居を用意して、会話の部分を空白にしておく、音声をカットしたビデオを見せるといったやり方です。その ”situation” にふさわしい会話文をつくらせるのです。

子どもたちがグループで発表し合います。楽しそうにはしているのですが、ただ発表して終わりのようです。互いの活動を評価し合う視点が明確になっていないのです。
この点について、子どもたちの英語活動の何を評価するかを明確にする必要があることが、楽しい授業という今回の授業者の目指す授業像とあわせて話題となりました。「『楽しい』にはレベルがある。そのレベルを上げていくことが大切である。そのためにも、授業者が子どもたちの活動を積極的に評価する必要がある」という意見が出されました。その通りだと思います。これに関連して、子どもたちがグループに分かれて活動している時にどのようにして全体を評価すればいいのかも話し合われました。教室の真ん中に入って見るという意見に対して、斜め前から見るという考えが若手から出てきました。全体を見て、必要に応じて移動するというその説明に皆さん納得されたようです。とてもよい話し合いでした。
何を評価するかについて、できれば学校全体で共通のものが持てるとよいと思いました。授業者毎ではなく、共通のものにすることで子どもたちはどの教師が担当になっても安心して参加することができます。教師も毎年1から指導する必要がなく、学校全体に継続性が生まれます。今回の話し合いをきっかけにこのことが継続的に議論されていくと素晴らしいと思いました。

授業検討会は、司会者が上手に話題を振ることで、たくさんのことが学び合えました。もちろん授業者が積極的に挑戦してくれたからこそ、よい話題が生まれたわけです。今後もこのような充実した授業研究がおこなわれていけば、英語科全体の力量が上がっていくことと思います。私もよい勉強をさせていただきました。ありがとうございました。

子どもの姿から学校の課題を考える

昨日は中学校で授業参観と英語科の授業研究に参加してきました。

夏休み明けということで、子どもたちの夏休みボケが気になるところですが、どの教室も子どもたちは落ち着いて授業に参加していました。
3年生は受験生という自覚があるのでしょう。苦手な子どもからも何とかついていこうという気持ちが伝わってきます。しかし、残念ながら何人かの子どもはその気持ちが折れかかっているように見えました。また、授業によっては子どもたちが教師の説明をあまり聞いていない場面がありました。やる気がないのではありません。むしろやる気があるのです。友だち同士で聞き合っていて、教師の説明よりもそちらを優先しているのです。このことをどう評価するか難しいところです。

2年生も全体的によい状態だと感じたのですが、授業中に完全に寝ている(倒れている)状態の子どもがいる教室が目につきました。まわりの子どもはその子どもを無視しています。寝ている子どもが本当に疲れているので、そっとしておこうというのならまだよいのですが、ちょっと気になる状況です。別の教室では、寝ている子どもを教師がちょっと厳しい表情で起こしました。しかし、起こされた子どもは少し反発をします。外部から軽々しく言ってはいけないことですが、授業が楽しくないから寝ているんだと態度で伝えようとしているように感じました。

1年生も教室は落ち着いているのですが、授業によって子どものやる気が大きく違います。このことも問題ですが、子どもたちが集中している授業で気になる場面を何度も目にしました。全員が集中している中、手のつかない子どもがいるのです。鉛筆を持って取り組もうとするのですが、すぐに止まってしまいます。教師の説明が始まると聞く姿勢を見せるのですが、途中で顔が下がってしまいます。似たような子どもを教室に1人か2人見かけます。1年生でも子ども同士聞き合う姿はよく見られますが、このような子どもは友だちに聞くこともできません。わかりたいという気持ちがあるのですが、自分一人ではどうにもできない状態のようです。一人で苦しんでいるように見えました。学びから脱落するかどうかの危ういところにいます。
また、ちょっと残念な場面に出合いました。教師が説明した後、「わかった、できた人」に挙手を求めました。勢いよく手を挙げる子どもいます。ほとんどの子どもの手が挙がりました。授業者は彼らをほめ、「90%の人ができている。素晴らしい学級だ。自分たちで自分をほめてあげましょう」と拍手をさせました。残りの10%の子どもはどんな気持ちだったのでしょうか。わからない、できない子どもが孤立感を深めていきます。
TTの授業で、気になることがありました。T2が監視者になっているのです。T1が説明している時に、自分で解いている子どもや友だちに教えている子どもがいました。その子どもに対して強制的に話を聞くように指導します。そのこと自体は間違ったことではないのですが、自分たちでやろうとしている子どもの意欲を認めることなく、問答無用という感じで注意をします。別の教室では、T1の説明中に姿勢の悪い子どもがいました。T2は手でその子どもの姿勢を正しました。T2がその場を離れた後、子どもは机に突っ伏しました。言葉にならない反抗です。しかし、T1と子どもたちは楽しい雰囲気で授業をしています。友だちの楽しそうな声を聞いて、すぐによい姿勢になり、笑顔で授業に参加してくれました。その子どもの表情に救われた気がしました。TTだからこそ、T2には子どもたちに寄りそう姿勢を大切にしてほしいと思いました

この日の学校の様子から、課題が明確になってきているように感じました。
全体として子どもたちは教師と良好な関係を築いています。子どもを受容する姿勢で接する教師が多いからです。多くの子どもは友だちと自然に聞き合うことができます。友だちと相談する、聞き合う場面を組み込んでいる授業が多いからです。この状況であれば、先生方は授業を進めるのに苦労はしません。危機感がないため、授業をもっとよくしようという、授業に対する向上心が全体的に下がっているのです。
また、授業者によって見せる子どもたちの姿は異なります。どのような子どもの姿を目指すのかが、教師間で共有されていないからです。共有されていなくても、取り敢えず授業が成り立つので、特に困らないのです。そのため、子どもは授業者によって態度を変えていきます。教師に対応するのです。この違いは学年が上がるにつれて薄れていきます。学年が上がるにつれて、友だちと学ぶことを覚えていき、教師に頼る部分が相対的に減っているからのように感じます。しかし、今後もそうなるという保証はありません。子ども同士のかかわり合いを大切にする教師の割合が減っていけば、逆の方向に揃っていくからです。
そして、一番気なることが、「わかった」からスタートしている授業が多いことです。できた子ども、わかった子どもの気づきから、授業が進んでいくのです。困っている子ども参加できる仕組み、わからない子どもがわかるようになる過程が授業から抜け落ちているのです。「子どもの困った感に寄り添う」「わからないからスタートする」がいつの間にか学校の中から薄れています。子ども同士で聞き合う姿がどの教室でも見られるので安心しているのかもしれません。しかし、わからないのに友だち聞けない、友だちとかかわれない子どもがどの教室にもいるのです。この子どもたちに目を向けてほしいのです。

教務主任や研修担当の先生もこのことは感じていたようです。今後どのように対応していくか真剣に考えていただけそうです。この学校が今後どのように進化していくか、その過程を共有できることをとても幸せに感じます。次回以降の訪問が楽しみです。

英語の授業研究については、次回の日記で。

今の私の学びの原点

ありがたいことに、研修や講演などでお話しさせていただく内容や対象の範囲が増えてきています。親御さん向けの子育てに関するものや、企業の社員研修、介護関係者向けの研修なども依頼されます。これらの研修を通じて私自身が学ばせていただくことはとても多いように思います。授業に関することでも、日ごろあまり接点がない栄養教諭や養護教諭の方を対象にするものは、いつも以上に学ぶことが多いと感じます。
私自身、数学以外に専門と呼べるような知識や技量があるわけではありません。その数学とて、数学者を名乗るには程遠いレベルです。そんな私だからこそ、他者から学ぶしかありません。授業についていえば、多くの素晴らしい先生の授業づくりのお手伝いをし、その授業を見せていただき、一緒に考えたことが今の私の基礎にあります。そうやって学んだことを私の言葉で皆さんに伝えているだけです。

自分自身が経験したことがないようなことについても、依頼をされれば原則お引き受けすることにしています。野口芳宏先生がよくおっしゃる、「『はい』か『Yes』しかない」を身近で実践されている方が多いため、いつの間にかその影響を受けてしまっているようです。そのため無謀とも思える仕事を引き受けてしまうこともあります。そのような時は、相手の方に教えてもらう、聞きだすことで何とか対応していきます。この経験がとても貴重なものです。必ずと言っていいほど自分自身の世界が広がるのを感じます。学ぶとはこういうことなのだと実感できます。教師時代、先輩や同僚からたくさんのことを学びましたが、一番多くを教えてくれたのは子どもたちだったように思います。いつも、子どもの「わからーん」という言葉をきっかけに、教師として大切なことを学んできように思います。子どもたちの「わからない」と向き合うことは、自分自身の「わからない」と向き合うことと同じです。「わからないことは、相手から引き出そう。教えてもらおう」という今の私の考え方はそこから始まったように思います。

意外に思われる方があるかもしれませんが、一方的に話すことの多い講演や講義は実はあまり好きではありません。なかなか機会がないのですが、一つのテーマを何回かに分けて一緒に考えながらじっくり進める授業がやはり一番性に合っているように思います。今回、月1回の研修を半年ほど引き受けることになりました。一貫したテーマで連続して行えるので、講義ではなく授業に近い形で行なえそうです。授業することを通じて学ぶことが今の私の原点であることを再確認させていただけそうです。
参加した皆さんからどのような考えが出てくるでしょうか。私も含め互いにかかわり合うことでどのように深まっていくのでしょうか。とても楽しみです。

見学者の指導を考える

体育の時間など、授業に参加できない見学者がいることがあります。夏のプール指導の時には、特に女子の見学が目立ちます。時にはちょっと気になる姿を見ることがあります。見学者に対してどのように指導すればよいのでしょうか。

見学者同士が授業に関係のない雑談をしていたり、一人でポツンと座ってぼんやりとみんなの活動を1時間眺めていたりする姿に出会うことがあります。見学者だからといって全く活動しないというのはおかしなものです。授業者も見学者がどのような状態か気にかけている様子はありません。見学者は学級の一員ではないような扱いです。また、みんなと離れて、体育器具庫の掃除などをしていることもあります。役割を与えることはいいのですが、授業内容と関係ない作業で友だちと切り離されています。授業者が作業の様子を気にしていても、サボらずにやっているかチェックしているように感じることもあります。見学者にとっては、懲罰的な作業と感じることもあり得ます。
これらに共通しているのは、今友だちの受けている授業内容と見学者が切り離されていることです。

そこで授業内容に関連した課題を個別に与えていることもあります。授業の観察記録や感想を書いて授業後に提出するといったものです。確かに、授業内容とはかかわりがあります。しかし、友だちの活動とは直接のかかわりがありません。このことを意識すると、見学者への指導が変わってくるはずです。

たとえば、インターバルのタイムを測ってみんなに笛を吹いて知らせる。友だちのタイムを測る。みんなの役に立つ仕事を割り振ります。アシスタント的な役割です。もっと、積極的に授業内容と関係する役割を与える方法もあります。個人やグループの活動を見ながら、声かけをしたり、フォームをチェックしてアドバイスをしたりするのです。直接体を動かさなくても友だちと一緒に活動できます。目で見て言葉で外化することで理解することもできます。友だちの役に立つだけでなく、学ぶこともできるはずです。見学者でも、授業に参加してみんなと共に学ぶことができます。参加意欲を持たせることができるのです。

たとえみんなと一緒に体を動かすことができなくても、授業に参加して仲間の輪に入れるような、「○○さんありがとう」と授業が終わったあと友だちに声をかけてもらえるような、そんな役割を見学者に与えてほしいと思います。また、役割を持たせることで、次に参加する時に友だちの中に入りやすい状態をつくることや、早くみんなと一緒に活動したいと思えるようにすることも意識してほしいと思います。

中学校の現職教育に参加

昨日は中学校で現職教育に参加してきました。若手を中心に授業を観た後、3つの研究授業とその検討会の様子を見せていただき、最後に全体に対して私がお話をさせていただきました。

全体的に感じたのは、どのような子どもの姿を目指しているのかがよく伝わらないことでした。子どもの活動はあるのですが、それが何をねらっているのか、目的や目標が明確でありません。子どもたちの発言が少なく、教師の一方的な説明が続きます。簡単な問いにも挙手があまりありません。子どもたちが発言することに価値を見出していないことが気になります。
子どもたちに対する指示が不明確だったり、確認がきちんとされていない、指示に全員が従っていないのに教師が次の行動をとったりすることも目立ちます。授業を進めることに、より意識がいっているように感じます。子どもが教師を見ていない状態でも話をしている場面に多く出会いました。
また、子どもが作業中に追加の指示やヒントを話すことも常態化しています。子どもが集中をし始めた時に、教師自らが集中を乱す行動をとります。作業が終わったあとの指示もされていないことがほとんどです。終わった子どもが集中力を失くして、雰囲気を悪くしています。

グループでの活動も聴き合うことが中心に置かれていないと感じます。ムダにテンションが上がる場面に多く出会います。子ども同士の人間関係も気になります。かかわれない子どもが目立ちます。男子同士、女子同士で席がくっついていることもあり、男女間のかかわりが少ないのです。子どもたちが、単に解答を求めているだけで、その過程を共有して考えを深めることを意識していません。わかった子ども、できる子どもが仕切る構造になっています。
グループ活動に限らず、子どものわからない、できないから出発していないので、わからない子どもは授業に参加できません。教師が与える答を写しているだけです。一方わかっている子どもは、自分はできるので積極的に参加する必然性がありません。教室全体に参観意欲が感じられないのです。子どもの外化に対してポジティブな評価がまったくと言っていいほどないことも、その原因の一つでしょう。

そこで、全体でのお話は、当初予定していた内容よりも、子どもたちが安心して参加できる授業づくりに比重を置いたものに変えました。まず何よりも、教師が子どもの言葉を聴く姿勢を持つこと。目指す子どもの姿を意識して、そのためにどのような活動が必要か、授業規律はどうあるべきかを考えること。子どもたちに反応を求め、積極的に評価すること。このようなことをできるだけ具体的にお話しました。
先生方にとっては厳しめの話でしたので、反応が気になりましたが、思った以上に前向きに聞いていただけたと感じました。授業中には見られなかった笑顔もたくさん見ることができました。今回の内容は、意識するだけで簡単にできることがほとんどです。この日の若手の体育の授業で、子どもたちがしっかりと先生の方を見て話を聞いている姿を見ることができました。あとで聞いたところ、子どもたちが全員自分を見るまでは話さないようにしているということでした。これだけで、ちゃんと子どもは集中してくれるのです。先生方が少し考え方を変えてみよう、授業の進め方をちょっと工夫してみようとするだけで、子どもたちはきっと大きく変化すると思います。今回のお話がそのきっかけになれば幸いです。

全体の会の終了後、授業を見せていただいた若手の先生方とお話をしました。どんなことを思っているかを一人ひとりに話していただきました。どなたも、私の全体での話を自分のこととして聞いていたことがよくわかりました。とても素直な方たちです。あまり素直に反省の言葉が出るので、かえって心配になるくらいです。大切なことは明日からどうしていくかです。一度にたくさんのことをしようとせず、とりあえず一つでいいので意識して実行してほしいと思います。授業を見られることに慣れていないのか、私が見たみなさんの授業は表情がとてもかたいという印象がありましたが、こうしてお話をしてみるととても素敵な笑顔を見せてくれます。まず、授業中にこの笑顔をたくさん子どもたちに見せることをお願いしました。

先生方が、どんな子どもたちの姿を目指そうか、どんな授業をつくっていこうかともう一度考えてみるだけで、この学校は大きく変わる可能性があると思います。また訪問する機会があることを楽しみにしています。

学び合いを中心とする授業づくりを考える

先週末、本年度第3回の教師力アップセミナーに参加してきました。三重大学教育学部教授岡野昇先生の「身体技法を通したワークショップ形式による学び合いを中心とする授業づくり」でした。

子どもを見ることが大切だと言われますが、子どもを見る視点を変えることで教師に見える子どもの姿は変わってきます。まずそのことからお話が始まりました。子どもを変えるのではなくその環境を変える、子どもを見るのではなくその関係を見るという発想はとても共感できました。
失敗を「笑わない学級」ではなくて、失敗を「笑いとばせる学級」という言葉もとても納得のできるものでした。授業は失敗や間違いから出発していくもので、それらが価値のあるものだという考えがその根底にあります。参加された先生方は自分の学級で具体的にどのようにしていこうと考えられたでしょうか。また、「許せないラインを明確にすること(明確なルールの設定)」ということを強調されていたことも流石でした。学級づくりの一番の基本、「安心・安全」につながることです。

私たちが持っている以下のようなパラダイムについて、

・学校は楽しい(学校観)
・失敗を笑わない学級(学級観)
・主体的に取り組む学習(学習観)
・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
・一人ひとりを大切にする指導(指導観)

「解す」「触れる」「委ねる」「任せる」「察する」「引き出す」というキーワードをもとに、身体的活動を通じて見直しました。

「解す」に関連して
人は失敗を笑うもの、失敗を楽しむことから始めればいい。できないことに挑戦する子どもをつくることが大切。失敗から出発して「理」を「解き解す」ことが理解。失敗を笑い合える、許し合える関係を学級につくることが求められる。

物理的な距離の持つ意味
子どもとの物理的な距離感も大切。距離が離れると関係性が薄れる。教室の後ろと教室の前では赤の他人の距離(公衆距離)になってしまう。だからコの字の机の配置、4人(互いに程よい距離を保てる人数)でのグループ活動。教師は子どものそばに行くことで子どもとつながることを大切にしてほしい。

「触れる」に関連して
「触れる」は「見る」「聞く」「触る」などと違って、双方向的である(主体と客体を入れ替えることができる)。私が机に触れる。⇔机が私に触れる。この相互に立場(主体と客体)が入れ替わる関係が大切。「教える」「教えられる」という相互主体(相互依存)の関係を重視する必要がある。他者とだけでなく、学ぶ対象(モノ)や自己においても双方向性が大切である。問題は、どのようにして双方向性をつくり出すかが問題。

「委ねる」に関連して
「助ける(力を上げる)力」と「助けを求める(力をもらう)力」が必要。一人ではできない課題であること、かかわらざるを得ない状況をつくることが、双方向の関係をつくる。学習の定着率は他者に教えることが一番高い。できる子どもは教えることで、実は大きな利益を得ている。この互恵の関係が大切。

「任せる」に関連して
「問題のない」学校・学級であろうとするのではなく、「問題を共有できる」学校・学級であってほしい。互いに問題を引き受けることが大切。そのためには、しっかりとした軸(ビジョン)を共有できていることが必要。

「察する」に関連して
コミュニケーションは、言語:非言語=3:7と言われる。相手の気持ちを察すること、受け容れる気持ちを持つことが大切。「他者の声を聴く」「聴き合う関係」が重要。大きな声で言い直させるよりは、聴き取ろうとすることを大切にしたい。テンションを下げ、「しなやかさ」と「集中」を重視する。

「引き出す」に関連して
「選手の力を引き出し、目標を達背する手助けをする」というコーチングの考え方はまさに教師の仕事そのもの。引き出すとは、「きく」こと。「聴くこと(同調して話させる)」「訊くこと(怪しい部分を訊ねる)」。そして、「タイミング(関心のあるその時に伝える)」「気づかせる(自分で見つけさせる)」「信じる(フランクな関係をつくる、絶対味方であることを伝える)」が大切。

パラダイムを次のように変えるべきではないかという岡野先生の主張が、ワークショップや具体例を通じて実感することができました。

・学校は楽しい(学校観)
→安心して落ち着いて学べる場

・失敗を笑わない学級(学級観)
→失敗を笑いあえる(許し合える)学級

・主体的に取り組む学習(学習観)
→受動的(客体的)=積極的受動性(聴く・訊く)+能動的(主体的)な相互主体(相互依存)の学習

・自分の力でやりとげる子ども(子ども観)
→仲間の力を借りて背伸びする、ジャンプする子ども

・一人ひとりを大切にする指導(指導観)
→関係を変えることによる、一人ひとりが大切にされる指導

そのためには、

・まずは教師が聴くこと(受容)から始める。
・聴き合う関係を丁寧につくる
・わからなさを授業の真ん中に置く

ことの3つを毎日心がけてほしいというお話は、全く同感です。
また、「わからなさを伝える」「聞かれたらわかるまで伝える(逃げない)」という2つのルールは学び合いの基本です。最後にこのことを強調されました。

岡野先生のお話は、参加者に方向性を示していただけたと同時に、教室で具体的にどう実践していくかという課題を突きつけるものでもありました。私にとっても自分の考えを整理し見直すとてもよい機会となりました。岡野先生、ありがとうございました。

学習とはどういうことか伝えてほしい

昔からあることなのかもしれませんか、子どもたちが学習するとはどういうことかよくわかっていないと感じることが増えています。
たとえば問題を解くときに、どこから手をつけていいかわからない、何をやればいいのだろうかと悩み考える時間が必要です。この時間が学力をつけるためにとても大切な時間です。しかし、答を知ることが目的の人にとっては全くムダな時間です。解答を見るか聞けばいいからです。たとえば宿題の計算ドリルを提出することを考えれば、解答を見てそのまま写すのが一番簡単で早い方法です。当然のことながら計算力は全くつきません。これは極端な例ですが、似たようなことをしているのです。
試験で点を取るためには、解き方のパターンや試験に出そうな知識をだけを覚えておけばいい。悩むのは時間のムダだ。多くの子どもたちが、そのように考えているように見えます。授業でも、友だちの説明と自分の考えを比べながら聞くよりも、絶対正しことを言うはずの教師の答を待つ方がムダがない。いや、そもそも自分でいろいろ考えるより、最初から正しい答を覚えた方が早いと考えているふしがあります。しかも、その教師の説明を聞くより、板書された正解を写すことを優先します。
ネットの普及で、知識や情報も簡単に手に入ります。わからない問題もネット上で質問すれば誰かがピンポイントで答えてくれたりします。聞くことが悪いことではありませんが、自分で考えずに答を知っても、その問題を考える過程で身につくはずの力がつかないことが問題のです。

学習は答探しではありません。知識を身につけるだけでもありません。身につけた知識を使って、問題を解決する。問題解決の経験を、問題を解決するためにはどのようなアプローチをすればいいかといったメタな知識に変えていく。知識を知恵に変えていく過程です。その過程を省いては意味がないのです。

たとえ正解にいたらなくても時間をかけて悩み考えることに価値がある。その過程そのものが学習であること。悩み考えたからこそ、答がわかる、理解できたことに喜びを感じること。先生方には、問題を出して、その答を教える、説明することよりも、こういったことを伝える、経験させることを大切にしてほしいと思います。

何度も説明することはプレッシャーになる

指名した子どもがよく理解できてない時や全体に問いかけた時の子どもの反応がよくなかった時、どのように対応すればよいでしょうか。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが理解できていないと判断した時、よく目にするのが、もう一度初めから説明し直すというものです。説明をもう一度聞かせればわかってくれるはずだという気持ちはわかりますが、これは子どもに対してプレッシャーがかかることです。同じ説明をするということは、「説明は悪くない。わからない方が悪い」と言われているように感じたりします。したがって、同じ説明をするのであれば、子どもの精神的な負担を軽くすることを意識する必要があります。「どこで困っている」と聞き返し、ピンポイントでつまずいているところをもう一度説明するというように、子どもの困り感に寄り添ってあげることが大切です。とはいえ、どこで困っているか答えられないのもよくあることです。そういう時は、「なるほど、困っているね、いいよ。じゃあ確認するね。ここまでは、どうかな」というように、わからないことは悪くないことを伝え、スモールステップで進めるとよいでしょう。
先ほどの説明でわからなかったのだから、別の説明をしようという発想もあります。教材研究でいろいろな説明を考えていた時であれば、とっさに別の説明をすることもできます。これは、同じ説明をする時と比べれば子どもにプレッシャーはかかりません。しかし、まだ最初の説明を理解しようと考えている子どもは、次の説明にすぐには頭を切り替えることができません。混乱してしまうことになります。教師の説明が多いほど子どもが理解しなければいけないことが増えてしまうことに注意が必要です。

教師の説明は「わかりなさい」というプレッシャーがかかりやすいので、子どもに説明させるという方法があります。どこで困っているか聞いた後、「○○さんと同じところで困っている人いるかな」「何人かいるね、誰か助けてくれるかな」と子どもに説明させるのです。わからない子どもの数が多いようであれば、グループやまわりで相談させるという方法もあります。教師から同じ説明を聞くより、友だちの言葉で説明を聞くことでわかることがよくあるのです。どこで困っているかがわからないようであれば、「○○さんがどこで困っているか、わかる人」と聞いてみるのも手です。自分が困ったことを思い出して、答えてくれる子どもがいるものです。「ここまでどうかな」と教師が確認しながら進めてもいいですが、つまずきがわかれば子どもに助けてもらうようにします。

また、算数などでは、言葉で説明する代わりに、説明の過程で行なった活動を再度させるという方法もあります。数図ブロックの操作などをやらせるのです。言葉の説明よりも、具体的な操作や活動を何度かすることで理解できることもよくあるのです。

子どもが理解できないとき、教師が頑張って何度も説明すると子どもにとっては「わからなければいけない」というプレッシャーになることがあります。それよりも子どもに説明させたり、活動させたりする方がうまくいくことがあります。このことを頭の片隅に留めておいてほしいと思います。

フラッシュカードの利用のポイント

教室への電子黒板やプロジェクターの普及もあり、デジタルのフラッシュカードの活用も増えてきました。デジタルとアナログの比較も合わせて、フラッシュカードの利用のポイントについて考えてみたいと思います。

フラッシュカードを利用する時に大切になるのがそのめくるタイミングです。子どもたちがすぐに答えられるような問題であれば、集中力を落とさないように速いテンポでめくって次々子どもに答えさせることが必要です。
一方、英単語を覚えるような場面であれば、最初は教師が読んでその後を子どもが繰り返すことになります。全員が覚える(理解する)ためには、1枚のカードを何度か読むことも必要です。この時はわからない子どもが理解する時間を確保するために、少し間を置くことが必要です。1回り終われば、次は少しテンポを上げます。子どもが覚えたと思えば、教師が言わずに子どもだけで答えさせます。教師は、全員がきちんと言えているかどうかを確認することが必要です。言えてなければ何度も繰り返します。友だちの声を聞くことで、繰り返せば必ず全員が言えるようになるはずです。
このように、タイミングをコントロールすることと同時に全員が言えているか確認することが大切になりますが、紙の場合はカードを持つ位置が重要になります。時々目の前にカードを持ってくる方がいますが、これでは子どもを見ることができません。声の大きさだけでは全員の口が開いているか確認できません。頭の上か、顔の横に持ってくるとよいでしょう。
デジタルのフラッシュカードを使う時にも、いくつか気をつける点があります。ワイヤレスマウスやタブレットPCでコントロールすれば、タイミングの調節がしやすくとても使いやすいのですが、有線でつながったPCで操作することになると、これがとても難しくなります。子どもを見る余裕もなくなります。かといって一定のタイミングで切りかえるように設定すると、子どもの実態とずれてしまうことになります。また、デジタルのフラッシュカードの場合、教師が次に何が出るか覚えていないと子どもと一緒に画面を見ることになります。よほど素早く見ないと子どもの実態を把握できないのです。この点タブレットPCは視線の移動も素早くできるので、フラッシュカードを使うのに適しています。紙であれば、手前からめくって前に出すことでカードの裏を見ることができるのでこのような問題は起きません。

全員が理解できているか確認するために、一人ずつ指名したり、列で順番に指名したりすることがあります。適度な緊張感を与えるのによい方法と思えるのですが、誰かが指名された時点で弛んだり、列指名であればその列以外の子どもは集中力を失くしたりします。このようなことを避けるために、誰を指名しても必ず続いて全員が答えるようにするという方法もあります。こうすると、友だちの答を確認しようとするので集中が切れません。また、もし指名した子どもが間違えても、全体の答を聞かせたあと再度指名すれば自分で修正できるので、教師が間違いを訂正しなくて済みます。リズムを崩さずに続けることができます。

アナログの持つよさに、使ったカードをそのまま黒板に貼って利用できるということがあります。カードを子どもたちと一緒に、規則動詞と不規則動詞に分けたり、使った性質やルールで分類したりしながら貼っていくのです。また、紙であれば、単語の変化(活用)したところに線を引くなど、直接書き込むこともできます。次に使う時にまた作り直す必要があるので、ちょっともったいない気もしますが、今、練習したばかりのカードを使うことでよりわかりやすくなると思います。デジタルのフラッシュカードでも、電子黒板やソフトによっては書きこむことができますが、分類して同時に表示したり、動かしたりしながらの作業は紙ほど簡単にはできません。

フラッシュカードは子どもたちの知識の定着や練習量の確保に有効な道具です。デジタルやアナログの特性も理解した上で、上手に使ってほしいと思います。

授業力向上への道のりを考える

この夏休みの間に、研修や研究会で20回ほど模擬授業を見せていただきました。少経験者から達人級までいろいろでした。学校の通常の授業研究ではこれほどを幅広い層の授業に出会うことはありません。達人級は管理職となってしまい、子ども相手の授業をする機会がないことが多いからです。模擬授業とはいえ、達人級と少経験者の授業を比べる機会を得て授業力向上への道のりについて考えました。

少経験者と達人級の授業とではその質に大きな差があるのは当然です。しかし、少経験者でもこれはと思う授業には、達人級の授業と共通点があることに気づきます。何かというと、目指す授業の姿、子どもの姿がはっきりしていることです。実際にその姿が実現されているかどうかの精度には差がありますが、例外なく授業から目指すものが伝わるのです。

たとえば、子どもの言葉を活かしたいという先生は、当然子どもに発言させようとします。うまく引き出せなくても、引き出そうと努力します。子どもから出た言葉を何とか他の子どもにつなごうとします。達人級との差は、「対応力」「受け」の技術の差です。
子どもに興味・関心を持たせたいという先生は、課題や発問に工夫をします。その課題や発問が授業のねらいにうまくつながっていないこともよくありますが、子どもを惹きつけようとする姿勢が見られます。達人級との差は子どもが興味・関心を持つために必要な条件を知っているか、その具体例をどれだけ持っているかという「知識」「経験」の差です。

この差が大きいと言ってしまえばそれまでですが、達人級も初めは目指す姿を実現したいという思いからスタートしたはずです。そのことにあらためて気づけたのです。経験があればだれでも達人級になれるわけではありません。目指す姿があって、それに向かって経験を積むから進歩していくのです。目指す子どもの姿があるから、その姿が見られるかどうか真剣に子どもたちを見ます。毎日の授業が学びにつながるのです。子どもたちの姿から足りないことに気づくから、学ぼうとするのです。
目指す姿が明確でないまま経験を積んでも、自分の授業を評価する基準がないため何がよいのかどこを直せばいいのか気づくことができません。ただ経験しただけで、その経験が積み上がっていかないのです。
目指す姿が明確だからこそ、それを実現するための、課題や発問をつくる力といった「授業の構成力」や子どもへの対応力、受けや切り返しといった「授業技術」が身につくのです。

少経験者に対して、どんな授業を目指すかという問いをよく発します。これに対して、だらだらと抽象的な言葉が続き明確に答えられない方がいます。自分の目指す授業が明確になっていないことがわかります。一方、「子どもが自分で考える授業」といった短い言葉で答えてくれる方もいます。とても明確です。明確になっていれば、「それは具体的に子どものどんな姿でわかるのか」「この授業では具体的にはどの場面で、どうなっていればいいのか」と問いかければいいのです。このことを毎時間繰り返して自分に問いかければ、間違いなく授業力は向上するはずです。
また、「○○先生のような授業」という答もあります。先日お会いした若い先生は、セミナーで出会った講師の先生の模擬授業を見て、こんな授業がしたいと憧れて、以来その先生の著書を読み、講演を聞く機会があれば参加しているそうです。「憧れる」ことは、目指す姿が明確になることでもあります。自分の中に「基準となる教師像」があるということはとても素晴らしいことです。若い方には、名人や達人と呼ばれる方の(模擬)授業を見る機会をたくさん持ってほしいと思います。「憧れる」ことが授業力向上への近道だからです。

若い先生でも、ぜひ多くの先生方にも見てもらいたいという授業をされる方もあります。出会った時から、そのような授業をしていたわけではありません。会うたびに少しずつ成長していて、気づけばそのような素晴らしい授業になっていたのです。目指す姿が明確だからこそです。毎日ほんのわずかでも成長していれば、1年間で驚くほどの成長も可能なのが、教師の世界です。
毎年多くの先生方と出会います。どの先生も名人や達人と呼ばれるようになる可能性を秘めています。そこにたどり着くかどうかは、そこを目指すかどうかです。名人や達人を目指すというと大げさかもしれませんが、目指す授業や子どもの姿を明確にしてほしいのです。そのことが授業力向上への第一歩だからです。

11年続いた研修会で考える

先週末は授業力アップの研修会に、オブザーバーとして参加させていただきました。市の有志の先生方が主催するものです。10年続いた研修会をリニューアルして、「わかる・できる」授業づくり学習会として再出発しました。以前の授業技術を中心としたものから、より授業の根本から学び合っていくものへ進化させようという思いが伝わります。また、一回の研修で終わりではなく、秋にもフォローの研修会が用意されています。学んだことを実践すれば必ず疑問点が出てきます。それを解消するとともに継続的に学んでいくことを大切にしようということだと思います。今回の参加者は3年目から5年目が中心です。日々の授業での課題が見えてくる時期です。その課題を解決するきっかけになることも願っての、「わかる・できる」授業づくりだと理解しました。

プログラムの最初は講演です。授業中への子どもへの対応(キャッチ・アンド・レスポンス)についてのお話が中心でした。参加者の聞く姿勢が気になります。聞いてはいるのですが、どうも受け身です。体が前のめりになっている方が少ないのです。昨年の研修会でも感じたのですが、知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという空気が薄いのです。参加者はその情報を理解し消化しようというよりは、講義をノートに写しておく学生のような態度です。そのことに気づいた講師は、この日使ったスライドはホームページにアップすることを伝えました。それでも、講師の先生が考えることを投げかけている場面でも、スライドをメモしている姿が見られました。投げかけられた課題が、切実なものとして感じられていないのかもしれません。考えること、外化することをうながすために、ペアやグループワークを講演の中に組み込まれます。活動をすることで明らかに表情に変化が見られますが、全体での共有場面ではやはり重たくなるのです。自分の考えを言えばいいのですが、どうも正解を言わなければと思っているように感じられます。彼らの授業が、日ごろ子どもに正解を求めているものである裏返しのように感じます。
子どもの言葉をどのように受け止め、どのように切り返すか。このことが「わかる・できる」授業づくりにどうつながるかを理解できていないことが、会場の雰囲気を重たくしている原因であるように感じました。
また、わからない子どもや間違えた子どもへの対応を考える場面でとても気になることがありました。どうやって子どもに正解させるか、考えを修正するかに意識が集中して、その子どもをポジティブに評価するような働きかけが出てこないのです。わからない、できない子どもに対して寄り添う視点が感じられないのです。講師の先生は「愛ある授業」ということを提唱されている方ですが、その部分が参加者と共有されていないようです。講演終了後、講師の先生とそのようなことをお話ししました。

続いては、授業技術についての2つの講座です。昨年までは、かなりの時間を割いていたものですが、今回は非常にコンパクトにまとめられていました。まずは、入り口を経験してもらい、実際に使ってみることで、そのよさと難しさを知ってもらうことにねらいを絞っているのでしょう。よさを知れば、もっとうまくなりたいと思いますし、難しさを知れば課題意識を持ちます。そこでフォロー研修を行うことで、よりよく学べるようにしようということでしょう。
そうなると、短い時間で何を伝えるかです。時間がないので、どうしてもすぐにできるようになるための How to に時間を割いてしまいます。しかし、だからこそ、この授業技術が「わかる・できる」授業にどうつながるかを実感してもらう必要があります。こういう講座は授業と同じです。このことを学習することにどんな意味があるかがわからなければ(必然性)、意欲は高まりません。指示に従って活動するだけでは学びは多くはないのです。
1つ目の講座は、この授業技術についてある程度知っていることが前提で組み立てられていました。たった一人ですが、この授業技術を聞いたことがない方も参加されていました。この方を起立させました。また、この授業技術を知っているが使ったことがない方も続いて起立させました。かなりの数になります。このことを確認した後、着席させました。ここで、この授業技術のポイントについて、復習という意味でワークシートの空欄を埋めさせる作業をさせました。参加者からすればアンフェアな進め方です。知識は知らなければ答えることはできません。知らない人にとっては気持ちがネガティブになる進め方です。もし参加者から出力させたいのなら、余計なことは聞かずにいきなり作業に入ればいいのです。ただし、「わからなければまわりの人に聞いてください」とするのです。まわりとかかわりながら、全員が正解となることを目指すのです。知らない人が、ただ答を聞くだけでなくその意味もたずねれば、より意味のある活動になります。ポジティブになることを意識した組み立てが大切です。
2つの講座に共通して感じたことは、2つの授業技術のよさを伝えることも技術を伝えることも中途半端に終わったことです。フォロー研修があるのであれば、よりこの授業技術のよさを伝えることを重視し、技術に関しては一番基本的なことだけに絞って、残りは自ら学んでもらうことを意識した方がよいように思いました。
とはいえ、参加者はグループでの活動もあったので、雰囲気が柔らかくなり表情もよくなってきました。午後からの研修が楽しみです。

午後は3つの講座から2つを選択するものです。「全員参加させるためのアイデア」という講座が目新しいものとして私の気を引きました。授業に全員参加させ、全員を評価するアイデアの紹介です。評価について参加者に問いかけます。評価と評定が混乱しているような回答が多いようです。評価は子どもたちの現状を正しく理解し次の指導を考えるためのものです。その視点をまず押さえたことはとてもよいと思いました。
参加者を子ども役として具体的な場面で評価方法を紹介していきます。とてもわかりやすいと思いました。
今回の例は「知識が身についているのか」の確認や「全員を参加させる」ための活動が中心でした。だれでも使いやすい、わかりやすいものに絞っています。すぐにやってみようと思えることは大切です。ここで気をつけてほしいことが、評価してできていないことがわかっても、その時にどういう指導をするのかが明確になっていないと困ってしまうということです。常に評価と指導は一緒に考えておく必要があることをもう少し伝えておきたいところでした。
参加者に、全員を評価する方法を具体的に考えてもらう場面がありました。その様子を見ていたのですが、なかなか意見が出てきません。フラッシュカードを使って、列指名するという意見があるグループで話されました。そこで、「その列以外の子どもはどうでしょうか」と投げかけてみました。すぐに答えが出てきません。日ごろ全員を参加させることをあまり意識していないことがわかります。もちろん、いい意見を出してくださる方もいますが、残念ながら少数でした。
この講座でも、具体例の紹介だけでなく、当たり前のことですが、「全員を評価する」「全員を参加させる」ことの意味を再確認する必要があったように思います。日ごろ意識されていないということは、まず強く意識させる動機づけが必要なのです。
他の講座でも、同様の傾向を感じました。この1日の研修が「わかる・できる」授業にどうつながるかを最初に明確にする必要があったように思います。

私が日ごろから実践を通じて学ばせていただいている中学校の先生も、オブザーバーとして参加していました。講座の実習場面を通じて、フラッシュカードの使い方に関してとてもよいことを学ばせていただきました。単に定着だけでなく、そこから考えることにつなげる方法です。デジタルではない紙のよさを改めて確認することをできました。ありがとうございました。

最後に午前に引き続いて、同じ講師の先生の講演がありました。さすがだと感じたのは、午前の参加者の様子から、講演内容を修正されたことです。教師のありよう、教師は何を目指すのかといった根本的な部分について、自身のライフヒストリーを通じて熱く語られました。午前中とはトーンもテンションも違います。実習を通じて雰囲気が変わってきたこともあってか、聞く姿勢が違います。体が前に傾いている方が一気に増えました。この先生からはめったに聞くことがない厳しい口調での言葉もありました。これは、参加者の様子からこのような言い方をした方が伝わるのだろうという判断があってのことでしょう。みなさんがその言葉をしっかり受け止めていることがよくわかります。子どもに学ぶことを求める教師だからこそ、自身も学ばなければならない。積極的に学ぶ姿勢があって初めて子どもの前に教師として立てることを強く訴えられました。めったに見られない姿だからこそ、その思いの強さを感じることができました。参加者にもきっと伝わったことを思います。

今回は10年続いた研修会の11年目として、新しい一歩を踏み出したものでした。授業技術中心から、もっと広く授業の根本的なあり方まで考えるものへと進化しようとしていることがよくわかります。今回は多くの生みの苦しみを味わったことと思います。だからこそ、次のステージへとステップアップできるのです。中心メンバーも10年経てばそれだけ歳を取ります。若いスタッフがどんどん増えて、この研修会がさらに10年、20年と続いてほしいと思います。私自身、毎回多くのことを学ぶ機会を得ています。スッタフや参加者の皆さんに感謝です。
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