算数で計算の結果の解釈を考える

算数で現実に即した問題を解くときは、計算の結果をどう解釈するかが大切になります。

たとえば、「15個のリンゴを1人に2個ずつ配るとすると何人に配れるでしょうか」と「15個のリンゴを2人に同じ数だけ配るとすると1人何個になるでしょうか」を考えてみましょう。式としてはどちらも15÷2となります。答を7あまり1と計算すれば、「7人に配れて1個あまる」、「1人7個で1個あまる」となります。しかし、7.5と計算したらどうでしょう。7.5人には配れませんが、リンゴは7.5個と考えることもできます。1個を半分に割ればいいわけです。現実にはよくある対応です。子どもは小さいから半人前と考えて、大人7人と子ども1人といった答も考えられなくはありません。算数の答としては「?」ですが・・・。「15人が2人掛けの椅子に座ります。2人掛けの椅子は何脚必要ですか」という問題なら、7あまり1で、1人あまるからもう1脚必要で7+1=8で8脚が答です。7.5と計算して、0.5脚は1人掛けと考え、「2人掛けの椅子は7脚で1人用の椅子が1脚」というのも、算数の答としては正しくないかもしれませんが、現実問題としてはありかもしれません。
屁理屈に思えるかもしれませんが、計算の結果は、現実問題として考えるといろいろな解釈が存在するのです。

では、このような問題はどうでしょうか。「35人が椅子に座ります。3人掛けと2人掛けの椅子があります。それぞれ何脚必要でしょうか」。空きなく座るには、(3人掛け,2人掛け)=(1,16)、(3,13)、(5,10)、(7,7)、(9,4)、(11,1)の6組が答えですが、先ほどの2人掛けの椅子の問題の答からすれば、(2,15)、(4,12)、(6,9)、(8,6)、(10,3)、(12,0)も1人分空きますが正解と言えないこともありません。ですから教科書にはこのような問題は出てこないはずです。

今回の指導要領の改定で、算数・数学をリアリティのあるものにしようとする動きが出てきました。計算の結果出てきた答をどのように解釈するかはとても大切な問題です。中学校では方程式の解をどのように解釈するかはとても重要なことです。算数・数学は物事を抽象化していく教科です。それを逆に現実という具体に当てはめるとなると、その解釈がとても難しいのです。その高度な例は物理学における解の解釈ですが、簡単な算数でもわからなくなることがあります。たとえば、リンゴ2個とミカン2個、合わせて4個といったとき、この4個の解釈はとても難しいとは思いませんか。リンゴはリンゴ、ミカンはミカン、異なったものが4個というのは意味があるのでしょうか。もちろん教科書にはこんな問題は出てきませんが。

先ほど述べたようなことを授業で扱えと言っているのではありません。しかし、子どもたちからそのような考えが出てくるかもしれないのです。教師は子どもの考えにきちんと対応することが求められます。子どもの考えを否定するのではなく、できるだけ肯定的にとらえて、子どもが算数・数学への興味・関心を失くさないようにしてほしいのです。そのためには、計算の結果に対してどのような解釈ができるか子どもの視点でいろいろと予想し、その対応を考えておくことが必要になるのです。

懇親会で元気をいただく

先日、学校評議員をさせていただいている学校のおやじの会の懇親会に参加させていただきました。いつものように楽しい時間があっという間に過ぎ、気づけば3時間ほども話し込んでいました。

地域の住人として子どもたちに何ができるか、口先でなく実際に行動されている方々です。その言葉には重みと説得力があります。校区という狭い範囲を越えて、市全体での視点で考えられています。
子どもを取り巻く環境を考えるとき、物理的な環境と人的な環境があります。物理的な環境には、学校や保育園、児童館といった機関や施設、人的な環境には教師や保育士、保護者や友だち、それに地域の大人などがあります。これらの環境がうまく連携することで子どもたちが健全に育っていきます。そのための機関としてPTAや健全育成会などがありますが、いつも言うように、この会のメンバーのように草の根的に子どもたちを見守り、学校や地域との調整役も務めてくださる方はとても貴重です。時には辛口の意見を言われることもありますが、決して一方的に押し付けるようなことはしません。子どもたちだけでなく、学校や教師も育てようとしていることがよくわかります。視点が温かいのです。話を聞かせていただいてそのことがとてもよくわかります。

真剣に子どもたちの未来を考えながら、しかし決して肩ひじ張らずに等身大の自分でできる範囲で日常的に活動されています。10年にもわたっておつき合いさせていただいていますが、息の長い活動には感心するばかりです。
この日も楽しくお話させていただきながら、たくさんの元気をいただきました。お誘いいただきありがとうございました。

終業式前日の授業研究(長文)

先週、終業式の前日に小学校の授業研究に参加してきました。ICTの活用の研究発表を秋に控えている学校です。授業者は3年目の先生です。この時期に研究授業を引き受けることからもわかるように、とても意欲的な先生でした。

授業は6年生の、「順序よく調べ、ちょうどよい場合を見つけよう」でした。
導入にムダな時間を使わず、すぐにデジタル教科書をスクリーンに映しました。子どもたちには教科書を開かせないので、どの子どもも顔が上がっています。問題文を読ませて、問題把握に入ります。大福に2個入りと3個入りがあり、全部で35個買うときの買い方をすべて見つけるのが問題です。買えるかどうかを子どもたちに問いますが、すぐに反応できません。「予想をする」という言葉を授業者は使いました。1組でも条件を満たすものが見つかればそれは答です。「予想をする」という言葉には、1組だけでは正解ではなく、全部見つけて初めて正解だという授業者の意識が感じられます。しかし、この時点で答えが複数出ることはわかっていません。教科書も「それぞれ何個ずつ買えばいいですか」という問いかけで、答が複数あることには触れていません。違和感があります。
首を振っていた子どもがいたので、授業者は指名しました。子どもの反応をよい形でとらえています。後で聞いたところ、この子どもはなかなか発言ができない子どもなので、きっかけをつくりたいと思っていたようです。

3個入りを11個、2個入りを1個と答えた子どもに、どうやって考えたかを問い返します。「なんとなく」計算したという返事でした。この「なんとなく」をもう少し明らかにしたいところです。「35個を3個で割ってみた」「残りが2個だからちょうど買えた」といった言葉が出れば、あとで表をつくるときに活かすことができます。
足して考えて7個と7個という答も出てきました。授業者は「なるほど」と言って他の子どもを指名します。発表した子どもは「違うの」とちょっと心配そうでした。同じ答の人がいるかどうか確認するとよかったところです。7個と7個の説明に「足して割る」という発表もありましたが、授業者は「2つと3つをセットにして」という言葉を使って説明をしました。何を「足した」、何を「割った」と問い返せば、うまく子どもの言葉を活かすことができたと思います。

授業者からキーワード「もれなく、正確に」が出てきました。この言葉を出す前に、「11個と2個でも7個と7個でもいいね。これで全部かな、他にはないか」と「もれなく、正確に」を意識させるような問いかけの場面がほしかったところです。このキーワードはとてもよいと思ったのですが、ここで1度使われてそれで終わってしまいました。「もれなく、正確に」するために、「順序よく調べ、ちょうどよい場合を見つけよう」をねらいとしました。子どもにとっては唐突で、その関連がよくわかりません。「もれなく、正確に」を意識して取り組んだ結果、「順序よく調べる」とうまくいったという流れで授業をつくりたかったところです。よいキーワードを提示しただけに惜しいところでした。

「順序よく調べるために何を使うか?」ということを問いかけます。一部の子どもしか挙手をしませんでしたが、指名しました。「表」という答が出た後、「手は挙げなかったが心の中でそう思った人」と声をかけました。かなりの数の手が挙がります。なかなか面白い対応です。少しでも子どもたちの参加意識を上げようという方法です。しかし、できれば手を挙げなかった子どもが発言できるような機会を設けたいところです。たとえ答が発表された後からでもこれだけの手が挙がります。であれば、最初に挙手させた後、すぐに指名せずにまわりと確認させてもよかったでしょう。きっと自信を持って手を挙げる子どもが増えると思います。
今まで表を使って考えた問題をスクリーンに手際よく映します。この手法は以前この学校での国語の授業で使われたものです。ICTの活用方法としてこの学校で定着していることがわかります。ここでは表の例を見せて、「どんな表にする?」と問いかけたのですが、算数としては、どんな時に表を使うとよかったのかを確認したかったところです。「数がいろいろ変わるとき」「いくつかの値があるとき」「片方が変わるともう一方が変わるとき」といった、表のよさをまず全体で確認し共有したいところです。時間の問題もあるとは思いますが、スクリーンに映した問題を見て、なぜ表を使うとよかったのか、何を表にしたのかを確認できるとよかったでしょう。

どんな表にするかについては、予め授業者が用意した表を黒板に貼って進めていきました。3個入りの数を上の行、2個入りの数を下の行に書き込みます。3個入りが1個のときの2個入りの数を考えます。16という答が出てきます。その説明を子どもに発表させて、35−3=32 32÷2=16と板書しました。ここで、式の説明はしますが黒板には何も書きませんでした。それぞれの数が何を表わすか、ていねいに子どもに問いかけることが必要です。その上で、35に対して「(全部の)大福の数」、3に対して3個入りが1個で3×1として、「3個入りの大福の数」、32に対して「残りの大福の数=2個入りの大福の数」、2に対して「2個入りだから」、16に対して「2個入りの数」ときちんと黒板に残しておきたいところです。授業者は、すぐにそれぞれの箱の大福の数が必要だと、黒板に貼っておいた表を広げました。折りたたんであったところには、「箱の数」とは違った色で、それぞれの「箱の大福の数」の行が隠されていました。表の新しい項目を、式を確認しながら埋めました。
表の項目を何にするかは、とても大切です。3個入りが2個のときはどうなるか、先ほどの式に当てはめて考えさせてみるといいでしょう。「(全部の)大福の数」は35で変わらない。「3個入りの大福の数」は3×2で変わる、「残りの大福の数=2個入りの大福の数」も変わる。2は変わらないが、「2個入りの数」は変わる。3個入りの数が変わるとそれに伴って変わるものは、「3個入りの大福の数」と「2個入りの大福の数」、そして「2個入りの数」です。「変わるものを表にすると見やすい」ことを理由に項目を決めるという進め方もあったのです。この他にも式を確認しながら、「2個入りの数」を知るためには利用する値は、「3個入りの大福の数」と「2個入りの大福の数」であることを理由に項目を決めるという進め方もあります。いずれにしても、表の項目を決める考え方を子どもたちに明確にしておくことが、他の場面でも表がつくれるようになるためには重要です。

ワークシートを使って子どもたちが表を埋めます。一概にワークシートが悪いとは言いませんが、表の項目を自分でつくる、何列にするか自分で考えるといった、表の本質部分をワークシートで与えてしまっているので、子どもたちは表の穴を埋めるという計算をするだけになってしまいました。

子どもたちに表がどのようになったか確認します。3個入りが2個の場合の、他の値を確認します。2個入りの数が14と15に分かれました。その他にも14.5という答が出ます。残り29個で偶数にならないから買えないという声もありました。ここはそれぞれの理由をていねいに子どもたちに確認したいところでしたが、授業者が買えないと説明して終わりました。14の時には1個足りない。14余り1という割り算の余りの意味がよくわかります。15にすると1個余りますが35個は買うことができます。他に方法がなければこれが正解です。しかし、35個をピッタリ買う方法が少なくとも2つ確認できているのですから、これは答としてはふさわしくありません。14.5の0.5の意味を考えると1/2ということです。半分で売ってくれる、つまり1個をばら売りしてくれるのならこれも正解です。普通の和菓子屋さんでは、1個でも売ってくれそうです。しかし、教科書の絵は箱だけが並んでいてばら売りはできそうもないように描いてあります。ばら売りしてくれないようだからかダメだということなのです。せめて、このようなやり取りはしたいところです。

表を同じ項目ごとに横に埋めていた人がいたことを取り上げました。どうやって埋めたかを問います。指名した子どもは、「3個入りの大福の数」を埋めるのに、3と3倍という言葉が出てくるのですが、上手く説明できません。3ずつ増えることと3倍していることが混乱しているようです。授業者はその子ども考えがわかる人と問いかけました。なかなかよい対応です。実際には他の子どもを指名する前にその子どもが、「3倍ずつになっている」と整理しました。それを受けて授業者が、最初が3で次は6で次々3倍していると説明しました。ここは「何が3倍になっている」と確認して子どもに説明させたいところです。授業者は横にしか注目させませんでしたが、「3倍ずつ」ということは「3個入りの数」の「3倍」ということですから、上下に見ているのです。「3個入りの数」が1、2、3、・・・と1ずつ増えているので「3個入りの大福の数」が3、6、9、・・・と「3倍ずつ」となっているのです。先ほど述べたように式を見ながら変化する値は何かを押さえていれば、それを使って各項目を横に埋めていくことの説明がしやすかったと思います。時間のこともあって、3ずつ増えるという考えは取り上げずに終わりました。

表を埋めて、答の組み合わせは(1,16)、(3,13)、(5,10)、(7,7)、(9,4)、(11,1)の6組であることを確認しましたが、「もれなく、正確に」という「もれなく」の確認はしませんでした。「本当にこれだけ?」「他にない?」「絶対?」という押さえがなかったのです。3個入りの数が12以上は調べる必要がないことを確認していないのです。このことが次の展開にも影響しました。
授業者は最初の予想の時には2個入りを上に、3個入りを下にして、1と11、7と7を書きました。しかし、表は3個入りを上に、2個入りを下に書いていました。その理由を問うたのです。これはかなり無理のある展開です。表をどれだけ書けばいいかということをそれまで全く論じていないのに、「大きい数を上に書くと表が小さくなる」ということに気づくことは難しいからです。結局結論だけを言って、その理由はきちんと説明しませんでした。3個入りを元に考えれば、11≦35÷3<12だから11まで調べればいい。2個入りを元に考えれば、17≦35÷2<18だから17まで調べればいい。このことをきちんと押さえなかったのです。これでは、子どもたちは表を書くときは大きい数を上に書くと覚えてしまいます。全体的に、考えることではなく、解き方を覚える授業になっていたのが残念です。
授業者は、ここで3個入りを上に書いた(元にした)表と2個入りを上に書いた(元にした)表をスクリーンに同時に映しました。その大きさの違いは一目瞭然です。ICTの使い方としては有効なものですが、このことを実感させるのであれば、2種類の表を子どもたちにつくらせて実際に自分で確認した方がよかったように思います。

練習問題を始める前に、教科書を開かせました。その後スクリーンに教科書を映しました。問題の説明をしますが、最初と違って子どもたちの顔はあまり上がりません。手元に教科書があるからです。問題把握を全体でするのであれば、教科書を開かずに進めたほうがよかったように思います。
授業者はすぐに表を書くところから始めましたが、まず問題を解いてみることで表の必要性を確認することが必要です。今日は表を使って解いているから表をつくるでは、問題解決能力はつきません。まず、問題を解くにはどのような計算をすればよいかを確認し、変化させて考える必要がある要素を見つけて、表をつくる必然性を押さえる。その上で、表の項目を決めて、式を元にして効率的に表を埋める。そういう流れを大切にしてほしいと思いました。

算数的にはいろいろと注文もありましたが、子どもをとてもよく見て授業を進めていました。子どもの発言に対する対応もなかなかのものです。しっかりと聞き、子ども同士をつなぐことも意識しています。「○○さんの考え方、やり方」といった固有名詞を使った表現も意識して使っていました。子どもの考えを活かしたいという気持ちの現れです。残念なことは、挙手する子ども、発言する子どもだけで授業が進んでいく傾向が強いことです。また、友だちの考えを全体で共有できていないと感じる場面もありました。隣同士で確認したり相談したりする場面などをつくることで、どの子どもも参加できるようにして受け身の場面を減らしてほしいと思いました。

授業権検討会の前の時間に学校全体の様子を見せていただきました。
全体的にちょっとしたことで子どもたちのテンションが上がる傾向を感じました。一方では、読書をするといった場面では落ち着いています。注意をして規律を保とうとする先生が多いように感じました。
特にテンションが上がりやすそうに感じた学年の全体集会があったので、見学させてもらいました。学年主任が全体進行していきます。予想に反して子どもたちはとても落ち着いて話を聞いています。見事なものでした。柔らかい表情と子どもたちをほめることで、上手に規律を保っていました。こういった姿勢が学校全体に広がっていけばとてもよいと思います。

授業検討会では、授業者の子どもの発言に対する対応のよさやICTの活用が効率的でわかりやすかったことが話題になりました。
私からは、笑顔で子どもを受容することの大切さやポジティブに評価することの意味について。子どもの挙手が少ないときにはすぐに指名せずに、子ども同士のかかわり合いをうまく利用してほしいこと。ICTの活用に関しては、何をねらうかをはっきりさせて使うこと。算数の授業としては、どのようなときに表を活用するとよいのかといった、メタな知識を意識することなどを話させていただきました。どなたにもとても集中して話を聞いていただけました

検討会終了後に授業者と長時間にわたって話をすることができました。課題意識を持って授業に取り組んでいます。積極的に質問もたくさんしてくれました。前回私が見たときと自分の授業が変わっているかを訊かれました。もちろん、多くの進歩が見られました。だからこそ、指摘することがたくさんあったのです。ICTの活用についても積極的に取り組み、それが故に悩んでいることも多いようでした。ノートの一部分を実物投影機で見せて、友だちの考えを想像する、理解するといった使い方を紹介したところ、とても興味を示してくれました。これに限らず、話の中で挑戦したいこと、研究してみたいことがたくさん見つかったようです。夏休みの課題が見つかったと喜んでくれました。夏休み明けには、きっといろいろなことに挑戦してくれることでしょう。どのような変化を見せてくれるかとても楽しみです。授業者の前向きな姿勢に私もたくさんの元気をもらいました。ありがとうございました。

「楽しく授業研究しよう」第5回公開

「愛される学校づくり研究会」のWEBサイトで、教育コラム「楽しく授業研究をしよう」の第5回グループを活用した「3+1授業検討法」はどう活かすが公開されました。

ぜひご一読ください。

国語の授業撮影

10月12日におこなわれる教師力アップセミナーで野口芳宏先生にご指導いただく授業ビデオの撮影に出かけてきました。中学校2年の国語の授業です。

授業は主人公が発した言葉に注目して、なぜその言葉を言ったのかを本文を根拠に考えるというものでした。
子どもたちに授業の準備をするように指示をします。まだ何人もごそごそしているうちに授業者が話し始めます。時間がないので早く進めたい気持ちはわかりますが、もしそうなら素早い行動をうながし、全員準備ができてから話すべきでしょう。日ごろか意識してしつけるようにすれば、特に指示しなくても素早い行動ができるようになります。

授業は登場人物の確認から始まりました。生徒の挙手は6人ほどです。6人しか答えられないはずはありません。登場人物を一人答えるごとに相互指名させていきます。多くの子どもたちは、この間に集中力を失くしていきます。非常にムダな時間です。全体で教師が確認する。挙手に頼らず、列で次々に指名して答えさせるなどすれば、1分とかからないはずです。
隣同士で本文を「まる読み」させました。一文ずつを「。」で区切って交互に読むものです。この意図がわかりませんでした。授業者に聞いたところ、会話文が多いので誰の発言か意識しながら読めるようにということでした。しかし、その意図は子どもたちには伝わっていません。ただ自分のパートを読むことに意識が集中していました。相手の言葉を聞こうという意識があまり感じられません。向き合わずに体が前を向いたまま読み合っているペアがほとんどなのです。ペアやグループでの活動はその目標やゴールが子どもたちに十分理解できていることが大切です。授業者が全員の活動を評価することはできません。だからこそ、自己評価できることを常に意識してほしいのです。

「できた人、視線をください」と、終わった子どもたちの確認と集中をうながすことをしました。よい指示なのですが、これも全員が顔を上げないままに進んでいきました。ちょっとしたことですが、こういう指示の徹底は大切にしたいものです。
本時の課題、「『えんびフライ』と言った主人公の気持ちを、本文を根拠に考える」が提示されました。この場面に強い違和感を覚えました。なぜこの言葉から主人公の気持ちを考える必要があるのかその必然性が全く伝わらなかったからです。前時まででこの一文がクローズアップさせていたのかもしれません。そうであっても、再度確認する必要があるように思いました。
子どもたちはワークシートに向かって作業を始めました。子どもたちが作業している途中で授業者が終わった子どもへの次の指示をだします。当然、授業者を見て聞く子どもはいません。予測されることなら予め指示しておかなければいけません。追加の指示は黒板の決まったところに書くようにして、終わった子どもはそこを見ればいいようにしておくとよいでしょう。
子どもたちに対する助言で「文章の中に根拠が隠れている」という言葉がありました。これもとても気になりました。与えられた問題を解くときの発想です。つまり、問題として聞くからには文章の中に根拠があるはずだと言っているのです。文章を読み解く発想ではありません。「筆者の伝えたいことは必ず本文に書かれている」「筆者がこだわっている表現があるはずだ」といった、文章を間に挟んで筆者と向かい合う姿勢を求めてほしいのです。授業者には明確にその意思はないと思いますが、課題の提示も含めて、試験問題を解くことを目的としている塾的なものを感じずにはいられませんでした。

6人グループで、意見を交換して気持ちを画用紙に書くという課題が出されました。理由は書かなくていいので、出たものを列挙するようにという指示です。グループ内ではその根拠を含めて話し合うことを期待しているのですが、活動のゴールと根拠を元に話し合うということが乖離しているので子どもの活動は期待とずれてしまいました。
根拠を含めて話し合っているグループでは、どれが正しいのだろうと自分たちで整理してまとめようとしていたようです。いろいろな意見を出すことではなくまとめる方向に動いたのです。授業者が列挙してほしいといったのは、面白い意見がまとめる段階で消えてしまわないように考えてです。しかし、根拠を含めて考えが話し合われれば当然白黒をつけたくなるものです。全体での発表で、結論を聞くのではなくその過程を問うことをすれば、この問題は解決できるのではないかと思います。
一方、私の目の前のグループは、画用紙を回しだしました。列挙するならその方が効率的です。ある子が画用紙に書いている間、反対側の3人が何か話をしていました。6人でもうまくかかわり合っているグループもありましたが、人数が多いとこのようなことも起こりやすいものです。授業者に6人グループにした理由を訊ねたところ、グループ数が増えると各グループでの話し合いの内容を把握しきれないからということでした。授業者の気持ちはよくわかりますが、グループの話し合いの内容を把握しすぎることには弊害もあります。
たとえば、全体での進め方のシナリオをつくってしまい、その通りに勧めようとします。後で考えや意見が変わったりして、予定した言葉が子どもから出ないこともあります。無理に引き出そうとすると、子どもは教師が何を求めているのかを意識して発言するようになってしまいます。いわゆる、「教師の求める答探し」です。また、授業者は子どもの発言する内容を予め予想できているので、言葉足らずでも理解できます。他の子どもは初めて聞くのでよくわかりません。発言者に言葉を足すようにうながせばいいのですが、ともすると教師が代わりに説明してしまいます。それよりも全体を見ていて、「○○さんのグループは熱心に話していたけれど、どんなことを話していたのかみんなに聞かせてくれる」と、どんな話をしていたのか気になるグループに発表させて、他の子どもと一緒に聞けばよいと思います。

授業者はグループを回りながら、時々グループの一部の人とかなりの時間話をしていました。かかわりを否定するのではありませんが、アドバイスをした後は、すみやかに子ども同士の話し合いをうながして、その場を立ち去るほうがよいと思います。せっかくグループにしているのですから、子どもが教師を頼らずに自分たちで考えるようにさせたいのです。
作業が終わったグループから画用紙を黒板に貼りました。私の見ていたグループは、画用紙を貼り終わったあと、どのような内容かは別にして、話し合いを始めました。この課題がかえって子どもたちの自由な話し合いを妨げていた可能性もあります。

全体追求では、書かれた考えを見て、理由を聞きたいものを一つ選ぶように指示をしました。授業者は友だちの意見の理由を考えさせたいので、理由を書かせなかったようです。何人か指名するのですが、すぐに答えられない子どももいます。理由を知ることが子どもたちにとって必然性のある課題になっていないのです。ストレートに子どもに根拠を聞いていってもよかったように思います。その意見を聞いて納得したかどうかを聞きながら、子どもたちで結論を出していくのです。
聞きたいと言われた考えを書いた子どもに理由を聞きます。この時間のねらいである、「本文を根拠に」の本文がなかなか出てきません。時間のこともあったのでしょうが、子どもが発表した後、子ども同士をつながずに授業者が解説してしまいます。子どもの発言に対しての評価も少なく感じました。子どもの外化に対しては常にポジティブな評価をすること意識してほしいと思います。
子どもから「うっかり」「しゃくりあげそうになった」など、本文の言葉が出た時も、全員に本文を確認させ、自身で根拠として妥当かを考えさせることはしませんでした。すぐに授業者が説明します。これでは子どもが友だちの話を聞く必然性がありません。発言の後の教師の説明を待っていればいいのです。多くの子どもたちにとっては、説明を聞いて納得することがこの時間の活動になっています。大切なのは、根拠となる言葉にどのようにして注目するか、見つけるかというメタな知識です。この日の課題の答を理解しても、他の文章できちんと読み取る力がついたわけではありません。本文をどのように読むと、根拠となる文を見つけることができるのかが問題なのです。

授業者は主人公の「本当の気持ち」はなんだったか、もう一度個人でまとめさせました。突然「本当の気持ち」が出てきましたが、今までの意見と「本当の気持ち」の違いは何なのでしょうか。恣意的な言葉の使い方です。
最後の3人を指名して、前で発表させました。どのような気持ちかは語られますが、この時間のねらいだったはずの「本文を根拠に」した説明はありません。「なぜ先生がこの3人を選んだかわかる」とたずねます。共通のことが2つあるというのです。自分の考えを書いてくれればいいけれど、この2つを入れるようにというまとめでした。まるで試験の採点基準の提示です。結局、これでは教師の求める答探しです。子どもたちが話し合う中で、全員が納得する答を「本文を根拠に」つくり上げるべきです。そこを避けて、教師の都合のよい答を例示して、子どもの口を借りて教師の考える正解を伝えていたのです。

ちょっと厳しいことを書きましたが、終業式の前日にこのような授業を引き受けてくれる意欲的な先生です。落ち着いた雰囲気で授業が進んでいきました。基本的なことはできているのです。だからこそ、いろいろなことに気づけるのです。私自身も、この授業を通じてとても多くのことを学ぶことができました。
教師力アップセミナー当日、野口先生からどのようなお話が聞けるでしょうか。私が気づけなかったようなことをたくさん教えていただけることと思います。授業者にとっても参加者にとっても多くのことを学べる機会だと思います。
無理な願いを快く聞いて授業を公開してくれた授業者とこの授業をプロデュースしてくださった学校長に感謝です。

保護者会に「行けないのではなく、行きません」

先週、今週は保護者会を開いている学校が多いと思います。保護者会に関連して、こんな話を耳にしました。

この日保護者会(個人懇談)に母親が出席予定の生徒が、「母親が来ないかもしれない」と曖昧なことを言ったそうです。どういうことか尋ねても「いろいろあって」と言うだけで、なかなか答えようとしはしません。ようやく聞き出したところ、どうやら成績のことなどでけんかになったようです。勝手にしなさい。親は知らない。そういうことなのでしょう。しかし、本当に来ないのかどうかは生徒にもわからないようです。そうは言っても来てくれるかもしれないと思っていたのかもしれません。結果は、親からの連絡なしのドタキャンです。子どもを通じて連絡したから問題ないと思っているのかもしれません。担任が連絡を取ったところ、「行けないのではなく、行きません」という返事でした。
もう一人出席されない方がいるので、夏休みにでも都合のよい日を設定しようと電話したところ、「行けないのではなく、行きません」という全く同じ返事でした。子どもが勉強を頑張るという約束を破ったから、もう知らない。本人が好きにすればいいというわけです。よく似た話です。同じ言葉を1日に2度も聞くとはと、担任は苦笑していました。

これはいったいどういうことなのでしょうか。親の気持ちもわからなくはありませんが、それは家庭内のことです。子どものことなど知らないと言っても、保護者としての責任が無くなるわけではありません。また、社会人として、保護者会に出席すると担任と一度は約束したのですから、そんな簡単に反故にしてよいものとも思えません。何か変です。そもそも、親の思い通りにならないのが子育てです。だからこそ、子どもに寄り添い、見守ることが大切です。学校とも協力することが必要となるのです。それを、本人と学校に任せるというのは、自分勝手な責任放棄です。子どもは、喧嘩はしても、内心は自分のために保護者会に出席してくれることを願っているかもしれません。これも新手のネグレクトなのかもしれません。しかし、本人は自分の行動をいたって正当なものと思っているのです。子どもが家庭内で自分の居場所を失くしてしまわないか心配です。

モンスターペアレントが話題になりましたが、この種のネグレクトもこれから増えてくるのでしょうか。子どもたちを取り巻く環境は、以前とは変わってきているように感じます。本来家庭が担うべきことを果たせていないと思うことが増えてきています。解決策は簡単に思い浮かびませんが、学校が何らかの肩代わりを迫られるのは間違いないでしょう。学校と教師がその負担に耐えきれなくなることがないように祈るばかりです。

暑さに負けない子どもたちの集中力に驚く

先週末に中学校で授業アドバイスをしてきました。とても暑い日が続いていました。学期末の校務処理に追われ、部活動の地区大会直前であることも重なり先生方の疲労もピークに達していたのでしょう。何人もの先生が体調を崩されていました。もちろん子どもたちも同様でしょう。教室で熱中症になって保健室で休養を取る生徒もかなりいたようです。子どもたちの集中力もかなり落ちているのではないかと心配して教室に出かけました。

ところが予想に反して、どの学年も、どの教室もとても集中して授業に参加していました。6月の訪問時と比べても遜色ありません。いやそれ以上です。それだけではありません。子どもたちが集中力とともによい表情を見せてくれる授業が特に3年生に多く見られました。
ベテランの数学の授業では、問題を解いた後、子ども同士で確認し合うことをしていました。子どもを惹きつける授業展開、話術に優れた方ですが、最近は子ども同士のかかわりもうまく取り入れているようです。授業者は常に笑顔を絶やしませんが、子どもたちも集中して問題を解いた後、笑顔で友だちと確認し合っていました。授業者も子どもたちも楽しんで授業に参加しています。暑さを感じさせない授業でした。
社会の授業も授業者と子どもたちの笑顔が絶えない授業でした。授業者の柔らかい雰囲気から発せられる問いに子どもたちは真剣に考えているのがわかります。この状態であれば、どのような課題であっても子どもたちは真剣に取り組むはずです。教科力を磨いていくことで、素晴らしい授業を展開できるようになるはずです。
2年生もよい状態です。個人作業も集中しています。教師の話もよく聞いていますが、さすがに受け身の状態が長く続くと集中力が切れます。教師が話しながら机の間を歩いている授業では、子どもたちの姿勢はバラバラでした。授業者が子どもを見ていないからです。逆に教師がしっかり子どもを見ている授業では、子どもの集中力は切れません。
この傾向は1年生により顕著です。子どもが集中している授業は以前と比べて増えています。中には3年生に負けないほど集中している授業もあります。その一方で、子どもたちが集中していない授業との差がより目立ってきました。絶対的には多いわけではありません。よい場面が増えているために、余計に目立つのでしょう。
暑さのせいか、ちょっと無責任に活動できる場面ではテンションが上がってしまう姿も目にします。しかし、多くの場合子どもではなく、教師の側に問題があるように思いました。子どもを見ずに一方的にしゃべる授業では、他の時間では集中していた学級でも集中力がまったくありません。このような場面もありました。何人もの子どもが黙って手を挙げて教師が気づくのを待っています。作業中には他の子どもの集中を乱さないために黙って挙手をして、教師が来るのを待つというルールなのでしょうか。しかし、授業者は教室の前の隅で何か自分の作業をしていて、子どもをまったく見ようとしません。何分も子どもは待たされています。中には、あきらめて手をおろす子どももいます。黙って挙手をすることを子どもたちに強いるのであれば、教師はしっかりと子どもを見る義務があります。自ら子どもの信頼を失くすような行動を取っています。

1年生の学年集会での各学級の様子が印象的でした。個々に作業しているのですが、子どもたちの姿勢がそろっていると感じる学級とそうでない学級があります。たまたまなのかもしれませんが、そうでない学級はこの日担任が休んでいた学級でした。もちろん代わりの方がちゃんとついているのですが、担任の目とは違いがあるということなのでしょう。担任の力が大きい、担任がしっかりと学級経営できていることの証とも言えますが、相手を見透かして態度を変えている可能性もあります。3年生になった時には、どんな先生が来ても変わらない子どもに育っていてほしいと思います。

今回、何人かの先生の授業の変化が印象的でした。
子どもの意見を引き出そうとするのですが、最後は自分でまとめを説明していた数学の先生の授業です。この日は、柔らかい表情で子どもの意見をじっくりと聞いています。子どもも一生懸命に説明しようとしています。結論を出すことを焦らずに、さり気なくヒントを与えたり、わざとぼけてみせて焦点化したりしています。授業スタイルを変えようとしていることがわかります。子どもたちも友だちの発言を聞こうとする姿勢を見せています。今後大きく伸びることが期待できます。

理科の初任者の授業は、子どもたちがとても集中して話を聞いていました。本人とお話したところ、できるだけ笑顔をつくり、子どもたちを見るように意識しているとのことでした。それだけで子どもたちがこれだけ集中するのですから見事です。落ち着いて、間もしっかり取って話しているので、子どもたちが聞きやすいこともよく集中している理由でしょう。私が進歩をほめたところ、「これだけのことで子どもたちが集中できるのに、今までできていなかったことが申し訳ない」と答えてくれました。とても謙虚な姿勢に感心しました。次の課題として、たとえ説明の場面でも、子どもに問いかける、子どもが理解したり考えたりする場面を意識的に設けることを示しました。次回の訪問時には、きっと進歩した姿を見せてくれると思います。

国語の初任者の授業は、子どもたちへの指示が明確なことが印象に残りました。課題が明確なので、子どもたちが集中して取り組んでいます。参加度が高いので、全体で答を確認してもよく反応してくれます。子どもたちの活動量が増えてきています。ただ、全員が答えているわけではないので、何人かを指名して確認したり、まわりと確認したりする場面と組み合わせるとよいでしょう。
また、子どもたちが寝ている友だちを起こそうとする場面がありました。教師が起こすのではなく、子どもたちに声をかけてもらおうというわけです。ところがなかなか起きないために、多くの子どもが声をかけ始めました。あまりよい状態ではありません。案の定、一部の子どもから揶揄するような、ネガティブな言葉が出されました。授業者は、すかさずそれを優しくたしなめました。なかなか見事な対応でした。育てようという目で子どもを見ていることに感心しました。

数学の初任者は、以前より子どもをよく見るようになったと思います。話す場面、書く場面を意識して区別しているようです。表情もまだ硬いものの、以前よりは柔らかくなってきたように思います。先輩たちの授業にはまだかないませんが、それでも子どもたちはよく話を聞いていました。できることが着実に増えていると思います。

暑い日でしたが、それにも負けず集中する子どもたちの素晴らしい授業態度がまぶたに焼き付いています。子どもたちがこれだけの集中力を見せる学校にはなかなか出会えません。4月の段階で戸惑いを感じていた先生方のかなりの方が、よい状態で授業をされていることも印象的です。子どもも教師も成長していることを実感しました。夏休み明けに子どもたちがどのような姿を見せてくれるのか、次回の訪問が今から楽しみです。

学校が変化する兆しを感じる

中学校で授業参観と授業研究に参加しました。3年ほどおつきあいしている学校ですが、今年度初めての訪問でした。初任者、異動者を中心に授業を見せていただきました。

全体的に教師がしゃべりすぎる傾向が強くありました。一問一答で、子どもが答えるとすぐに説明を始めたり、板書したりする。そういう授業が多いのです。子どもたちはムダ話などしませんが、集中力は続きません。受け身の時間が長いと、みるみる集中力が落ちていくのがわかります。
指示をしても、徹底するまで待たずに進んでいきます。数人しか挙手をしないのにすぐ指名し、正解であれば説明をして次に進む場面にも多く出会います。一部の子どもだけで授業が進んでいき、傍観者になってしまう子どもが目立ちます。また、受け身の反動か、順番を決めるのにじゃんけんをするといった、考えなくてもいい場面で異様にテンションが上がったりもします。
たまたま異動者の授業を多く見たからかもしれませんが、全体として昨年度と比べて授業があまりよい方向に変化していないことが気になりました。

授業研究は1年生の数学の授業です。分配法則を使った文字式の計算の場面でした。指導案の単元についてには、子どもたちにどうなってほしいかが細かく書かれています。授業者の思いがよくわかります。実際に子どもたちの姿がどのようになっているか楽しみです。
授業は、音声計算練習を一つの柱にしていることがよくわかりました。4月から続けているのでしょう。子どもたちもスムーズにおこないます。通常、音声計算練習は、1枚の紙の上下に問題と答が印刷してあるのですが、この学級では1枚の裏表に印刷したものを使っていました。それを、チェックする側が手に持って、相手に見せて進めています。面白いやり方です。ペアでおこなう必然性があります。互いにかかわり合わなければ成り立たないように仕掛けられています。紙を持つ側が下から覗き込むようにしている姿もたくさん見られました。相手に見やすいように紙を傾けているからです。子ども同士がよい関係にあることがわかります。相手の読み上げる答をペアがしっかり確認している姿が見られました。目標達成したかどうかをペアの相手が挙手します。これもよい方法です。この学級の雰囲気がよい理由がわかった気がします。
3x×5を「どうやって計算しますか?」と前時までの復習をしました。「どうやって」は(3×5)xという計算の手順なのか、結合法則と交換法則を使うというその根拠なのか曖昧な問いかけです。ここでは計算の手順を求めていたようです。できるだけ、何を求められているか明確にした問いかけを心がけるとよいでしょう。
割り算での分配法則の例を説明する場面で、指名された子どもが上手く説明できませんでした。ここで他の子どもに説明させたのですが、全員が理解したかどうかよくわかりませんでした。子どもたちから拍手が起こったので次に進めていきましたが、これは危険です。全員が拍手したわけではないし、またまわりにつられて拍手しただけかもしれません。拍手した子どもを指名して、どこで納得したか説明させるべきです。
他の子どもが自分の考えを説明するのではなく、「○○さんの考えを代わりに説明できる人」と上手く説明できなかった子どもを助けるように働きかけ、「○○さん、今の説明であなたの考えにあっている?」と本人に確認するとよかったと思います。
この授業の主の活動は、自分たちで音声計算の問題をつくることでした。個人でつくった問題をグループで共有し、その問題を使ってで音声計算練習をするというものです。日ごろ自分たちが一生懸命取り組んでいる音声計算練習です。子どもたちはとても集中して取り組みました。答に自信のない子どもはペアだけで確認するように指示します。あえてペア「だけ」と限定したころに、授業者の思いを感じます。まわりの人とすると、どうしても話しやすい人に声をかけることになります。座席を変えて日が浅いこともあり、あえて限定することで人間関係をつくろうというのです。授業で人間関係をつくろうとしていることがよくわかります。
グループになって、互いの問題をまわしながら写していきます。グループの形に移動する動きが素早かったのが印象的です。子どもたちのやる気を感じました。時間を切って友だちの問題を写しますが、作業の時間に差があります。時間内で終われない子どもがいたので1分延長しました。これは、すでに終わっている子どもにとってはムダな時間です。1回りするまでは時間で区切って、最後に時間を与えればよかったと思います。子どもたちの関係はよいので、写せていない子どもは友だちに見せてもらえばいいのです。終わった子どもはその時間で完成した問題を練習すればムダな時間はありません。
自分たちの問題での音声計算練習は、とてもよく集中していました。中には、とんでもなく計算が面倒な問題をつくった子どももいたようです。子どもから不満の声が上がります。しかし、決して作者を非難するような声ではありませんでした。一度、グループで音声計算練習にふさわしいように修正する作業を入れてもよかったと思います。他のグループと問題を交換しての練習もとても集中していました。子どもたちが興味を持って、互いにかかわりながら集中して授業に参加していました。授業者の願った姿を見ることができました。
私には、1学期間続けた音声計算練習と、それを元に育てた子どもの姿を見てほしい。そういう授業に見えました。数学の授業として、この単元ではもっと別の活動もあったのではといった意見もあるかもしれません。しかし、子どもたちのこのような姿を学校全体で共有したことに大きな意味があるのだと思います。授業者は、昨年は小学校から異動されたばかりで、中学校での授業に戸惑いを見せていた方です。自分の目指す授業の方向性が明確になったのだと感じました。
今回の指導案は、潔いと言っていいほど余分なものが削ぎ落されていました。人に見せる授業であれば、もっといろいろな活動を入れたいと思うのが人情です。それをここまでシンプルにするには、かなりの時間を指導案の検討に割いたはずです。聞けば、数学の教科部会だけでなく、研修部会も一緒になって検討した結果だそうです。チームワークのよさが授業からも伝わりました。
授業の最後に校長が子どもたちに話をしました。この日は、この学級だけが残って1時間授業をしましたが、とても集中して頑張ってくれたので、次の定期試験の前に1時間早く帰れるようにするというのです。子どもたちはとても喜んでいましたが、それは早く帰れることよりも自分たちの頑張りが評価されたことに対してのように見えました。即時評価の大切さを知っている校長の粋な対応でした。

授業検討会では、若手・中堅を中心に、この授業のよさを子どもの姿を通じて具体的に指摘する声がたくさん上がりました。先生方の授業を見る視点が変わってきているのを感じました。子ども同士のかかわり合い大切にしようという姿勢を感じます。中身の濃い検討会だったと思います。
私からは、全体に対して、友だちの発言を聞くより先生の説明、先生の説明より板書を写すことの方に価値があると子どもが考えていること。指示に対して確認が甘くなっていること。わかった子どもだけで授業が進んでいること。何がゴールかという目的・目標が子どもたちにとって明確でないままグループ活動が進んでいること。子どものプライベートな発言を取り上げすぎることなどをお話ししました。

この日は、懇親会を催していただいたのですが、それまでの間に何人もの方がアドバイスを聞きに来てくれました。
初任者には今何を学ばなければいけないのかについて少し時間をかけて話させていただきました。夏休みは勉強のよい機会です。積極的に学ぶことをお願いしました。
初任者以外に来てくれた方は、みなさんアドバイスを求めるというよりも、現状の報告でした。昨年度に時間をかけてお話した方ばかりでしたが、皆さんその後自分の課題を意識して授業に取り組んでいただいたようでした。どなたも「授業が楽しい」ということを言ってくれました。子どもたちがよい方向へ変わってきている手ごたえを感じているからのようです。そのことをとてもうれしく思いました。それぞれにまだまだ課題がありますが、前向きに向かおうとしてくれています。この姿勢で授業に取り組んでいただければ、間違いなく授業力は高まっていきます。
授業参観では授業の変化があまり感じられませんでした。しかし、授業研究といい、この先生方の報告といい、この学校がよい方向へ変わっていく兆しを感じさせてくれました。

懇親会では、とても楽しい時間を過ごすことができました。
先ほどの数学の授業者からは、音声計算練習やフラッシュカードを使って授業を組み立ているが、どうしても教科書の問いや練習問題の時間が足りなくなってしまうという悩みを相談されました。せっかく音声計算練習をしているのですから、それを活かすことをアドバイスしました。具体的には、教科書の問題で授業中に取り上げるものを精選するのです。どの問題ができれば理解したといえるかを考えて選ぶのです。教科書をしっかりと読み込むことが求められます。その上で、授業中に扱わなかった問題を音声計算練習に入れるのです。そのことを伝えれば子どもたちは授業中にすべての問題を扱わなくても不安に感じませんし、より音声計算練習に力を入れると思います。
これ以外にも授業についてたくさんの方と話す機会を持つことができました。改めて授業に前向きに取り組んでいる先生が多いことを実感することができました。

校長は今年異動したばかりですが、学校の授業力向上にとても意欲的な方です。積極的に授業を見る姿勢からもそのことがよくわかります。また、教務主任は、昨年は新任ということでなかなか思うよう動けていないように見えたのですが、今年は自分のなすべきことが明確になっているように感じました。授業検討会などでも積極的にまわりをリードするような動きを見せてくれました。異動して来られた校務主任は、初任者の指導員も兼ねておられました。初任者と共に授業を参観している時に、初任者が悩んでいることを私への質問の形で上手に取り上げてくれました。育てようという意識を強く感じます。教頭は派手な動きではありませんが、しっかりと学校全体を支えています。今後、4役がよい形で連携していけるのではないかと感じました。

個人が頑張るのではなく、チームとして、組織としての動きが感じられるようになってきました。この学校が変わるための基礎ができつつあるように思います。これからどのように変わっていくのかとても楽しみです。先生方と充実した時間を過ごすことができたことを感謝します。

中学校区の研修の打ち合わせと授業参観

夏休みに中学校区の小中学校合同の研修の講師を引き受けるにあたり、事前に子どもたちのようすを見せていただきました。私の無理なお願いにもかかわらず小学校2校、中学校1校で授業を見せていただき、研修内容の打ち合わせをおこないました。

最初の小学校で感じたのは、先生方が子どもを見ていないことです。子どもが顔を上げていなくても話す。子どもが板書を写しても気にせずにしゃべり続けます。子どもの発言場面がとても少なかったのも気になります。たまたまかもしれませんが、子ども同士のかかわり合いもほとんど見ることがありませんでした。一部のわかった子ども、発言する子どもだけで授業が進んでいきます。子どもの発言をすぐに板書することも問題です。子どもが友だちの発言を聞かなくても困らないからです。
また、子どもの外化を評価する場面もほとんど見ることがありませんでした。発言した子どもの表情もあまりよくありません。教師も子どもも笑顔が少なかったことが気になります。このことを話したところ、教務主任からは学校訪問の資料の表紙を見せていただきました。そこには、友だちの発言をしっかり聞いている子どもの写真がありました。伝え合うことを大切にしているという説明でしたが、短い時間だったこともあり、残念ながらこの日はそのような場面も姿も見ることはできませんでした。先生方にとっては、伝え合う活動はまだ特別な場面でのことのようです。この学校の課題が見えたように思いました。
お一人、子どもたちを受容し、とてもよくほめる先生がいらっしゃいました。子どもたちは集中しているのですが、先生が黒板を向いて板書をするととたんに集中力が落ちるのです。しかし、当然先生はそのことに気づきません。意図的に力を抜かせているのかもしれませんが、ここはそのような場面ではないように思いました。

中学校は、子どもたちの状況と関係なしに、教師が一方的にしゃべっている授業が目立ちました。教師がしゃべれば、その内容を子どもが理解する。そのように信じているように見えます。試験が終わったあと、「あれだけ説明したのにできていなかった」と子どもを非難するのではないかと心配になりました。教師のいいわけ、アリバイ作りの授業のように見えました。
教師が教科書を見続けて、顔を上げない場面を何度も見ました。教師が自分の世界に入って授業を進めている。そこには子どもの存在がありません。
とても話し方が上手な数学の先生がいました。笑顔も素敵で子どもを惹きつけています。しかし、解き方のポイントを説明するだけで、そこには数学的なものの見方・考え方がありません。こうすれば問題が解ける、利益誘導型の授業です。早く、手間をかけずに、試験の点数という結果を得ようとする子どもの消費者的行動を教師がうながしています。数学ですら解き方を「覚えるもの」と子どもは思ってしまいます。塾と変わらないのです。
子どもに反応を求める教師もいるのですが、なかなか反応しません。最後には教師が負けて自分で説明しはじめます。子どもにとって、発言することに価値がないのです。うなずく、首をかしげる、そういった外化を求め、ポジティブに評価することから始める必要があります。

2つ目の小学校でも他の学校と似た傾向にありました。話し合い活動を大切にしようとしているとのことでしたが、その場面を実際にはなかなか見ることができませんでした。
子どもに注目させて教師がほめる場面がありました。よい場面です。続けて子どもに本読みをさせます。ところが、子どもが読んでいる間に教師は黒板を拭きはじめました。これでは、子どもたちは集中しません。自ら子どもたちの集中力を乱す残念な行為です。
子どもたちが勝手にしゃべっても、教師がそれに反応して話す場面を多く目にしました。きちんと全体に向けて話し直させるか、いったん口を閉じせなければ、学習規律が壊れていきます。多くの授業が、発言者と教師の1対1で授業が進みます。子どもたちは友だちの発言を聞こうとはしません。指名された者と教師だけの問題で自分には関係ないという態度です。発言が終わればすぐに教師が板書します。これでは聞く必要はありません。板書を見て、写せば済むからです。
授業の中で、拍手が時々起ります。一見よい場面に見えますが、形式的に流れています。一部の子どもはまわりにつられて拍手をしています。何を評価しての拍手なのでしょうか。私にはよくわかりませんでした。中には教師自ら拍手をしている学級もあります。具体的に何がよかったのかを伝えなければ、本当によい行動があったとしても広がりません。

参観後、教頭、現職教育担当者とまとまった時間を話すことができました。この学校の課題をよく認識されていますが、ではどのようにして解決していくかについてはいろいろと悩んでおられるようでした。夏休みの研修がよいきっかけになればと思います。

研修のテーマは、「学習規律を整え、子どもの力を引き出す授業づくり」となりました。全体では100名を超える参加者です。一方的な講演になりやすい人数ですが、グループでの活動を盛り込むことをお願いされました。せっかくですので、ただグループで話し合うだけなく、より先生方に積極的に参加していただけるような、今までやったことがない形式に挑戦してみたいと思います。よい機会をいただけたと思います。研修まで1月足らずですが、できるだけの準備をして臨みたいと思います。

教科で練り上げた授業から大いに学ぶ(長文)

前回の日記の続きです(小学校で授業アドバイス参照)。
中学校で授業参観をしていて感じたことは、指示がまだ徹底できていない場面が目についたことです。「手を止めて」「鉛筆を置いて」と区切りをつけることは意識しているのですが、全員ができるのを待てずに進んでしまいます。待たなければいけないことはわかっているのですが、時間のことを考えると待ちきれないのです。しかし、全員に徹底できないと指示が通らなくなっていきます。ただ待つのではなく、素早い行動をうながすことが必要になります。早くできた子どもをほめる、遅い子ども、気づいていない子どもにまわりが声をかけるようにうながすといったことです。子どもが声をかけてくれたときは、「気づいたね、ありがとう。声をかけてもらってよかったね」「声をかけてくれてありがとう」と双方をほめることを忘れないようにしてほしいと思います。子ども同士の人間関係をポジティブなものにしたいからです。

グループ活動で子どもたちがムダなおしゃべりをしている場面が目につきました。グループで活動する必要を感じていないからです。理由はいくつかあると思いますが、この課題を考えることが何につながるかという目的・ゴールが明確でないことがその一つです。指示されたことをやっているがどこに向かっているのかわからない、ミステリーツアーが多いのです。また、グループ活動が終わったあと、子どもたちに答や結果だけを聞いて、どのようなことを話した、聞いたというグループ活動の中身を問わないことも理由のように思います。答しか問われなければ、それを説明したり、理解したりといった活動は低調になってしまうからです。
グループ活動の目的やねらいを授業者が明確にして、グループ活動を子どもたちにとって必然性のあるものにする必要があります。
また、グループ活動の時に子どもたちの机が離れている学級がありました。どのグループにも1人か2人、机をぴったりくっつけない子どもがいるのです。子どもたちの人間関係に何か問題があることがうかがえます。授業者が机をくっつけるように指導するとともに、子ども同士のかかわりをうながすことが必要です。グループ活動にこだわらず、子どもたちが友だちとかかわってよかったと思うような場面をつくることを心がけてほしいと思います。

主となる課題に取り組までの時間が長い授業をいくつか目にしました。子どもの授業に対する意欲は授業が始まった直後が一番高いと言われます。その一番いい時間をムダに使わないためにも、課題に取り組むにあたって事前に押さえておかなければならないことを、授業者がきちんと整理しておくことが必要です。

子どもを受容しようとする姿勢を感じられる先生が増えてきました。子どもの発言を評価したり、うなずいたりする場面に出合います。しかし、まだ笑顔が少ないように感じました。教師の表情が柔らかくなると子どもの表情はもっとよくなると思います。
子どもの発言を受容するのですが、発言を受けてすぐに教師が説明して板書をしてしまう、一問一答が目立ちます。また、同じ考えの人とつなごうとしても、うまく発言がつながらないと我慢できずに教師がしゃべりだす場面にも出合いました。発言がつながらない理由の一つに、最初の発言を全員で共有できていないことがあります。聞く姿勢をつくる、時には丸ごと復唱するなどして、まず友だちの発言をしっかり理解させることが大切です。
挙手が少ないままに指名することも気になりました。数人しか挙手しないのであれば、ちょっと考える時間を与える、まわりと相談させる。挙手した子どもに「どこでわかった?」「どこに注目した?」といったヒントを出させるなどの対応が必要です。子どもたちが受け身で教師の発する正解を待っていることのないようにしたいものです。

個別にはよい授業、よい場面がたくさんあるのですが、それがまだ学校全体のものになっていないのが残念です。

面白い授業がありました。理科でメダカの血流を観察するための実験です。
実験はいくつかのステップに分かれています。わかりやすくするために、指示をステップごとに示して拡大コピーしたものを準備していました。それをもとに1つずつ説明したので、実験での子どもたちの動きがスムーズでした。一番肝心となる観察の視点を、「血液に関連することを3つ以上見つけなさい」と学習の目的と関連付けてきちんと与えていました。
実験が始まってしばらくして、授業者がメダカの動きを固定するために適度に水を抜くことを再度説明していました。もちろん事前に強調していましたし、黒板に貼ってあった拡大コピーにはそのことが書いてあるのですが、上手くできていないグループがあったようです。確認が甘かったようです。しかし、実験中に指示を再度出してもなかなか伝わりません。一旦作業を止めてから説明すべきですが、メダカを水の少ない状態で固定するので、観察は5分間が限度です。そのことを意識したために止めることができなかったのでしょう。コピーの該当部分を色で囲むなどして強調しておき、「おっ、このグループはうまく水を調整してメダカを固定している」と大きい声でほめるといったことをするとよかったでしょう。
授業の一部分しか見ることができなかったのですが、授業者がアドバイスを聞きに来てくれました。
実験の結果、子どもたちから出てきた主なものは、「血液が流れていること」と「血球が見つかった」だったようです。すこし、物足りません。とはいえ、メダカは5分しか観察できないので再度実験できません。ビデオを使って説明し補ったそうです。ビデオで補うのは悪いことではないのですが、せっかくですから自分たちで観察させたかったところです。
メダカは2人に1匹でしたが、4人で1匹にする方法もあったかもしれません。取り敢えず実験したあとで、子どもたちから出た「血液が流れている」を取り上げ、「流れているだけしか気づかなかった?川の観察で川が流れていると言っているようなものだね」と、もう一度挑戦させるのです。時にはこういう挑発も大切なことだと伝えました。

6時間目は、学年ごとの授業研究でした。私は3年生の理科の授業を参観しました。
遺伝のハイブリッド(優性と劣性それぞれの遺伝子を持っている物)の第2世代がどのようになるかの問題です。通常はえんどう豆を例に考えるのですが、この授業ではトウモロコシを扱っていました。トウモロコシは1つの実にたくさんの種があります。黄色と白の粒が並ぶことで形質が分離することが視覚的にわかりやすいのです。なかなか面白いアイデアです。理科の教科部会で指導案を何度も検討し練り上げたようです。
授業は粒の色が、黄色が優性、白が劣性というところの説明から始まりました。時間の問題もありますが、ここは復習を兼ねて、「全部黄色の種ができるトウモロコシと全部白の種ができるトウモロコシがある。それを交配させたら(どうやって交配させるかも話題にしても面白いかもしれない)、全部黄色の種のトウモロコシが採れた。どういうことか説明して」と問いかけても面白かったと思います。
遺伝子がAaで表せることを確認して、この種からどのようなトウモロコシが採れるかを問いかけました。「種が混じる」とつぶやいた子どもがいました。この種が混じるという子どもの発言を活かしたいところですが、授業者はそのことをあまり追求せずに「種がどのようになるかシミュレーションすること」を課題として提示しました。
同じ数の「A」と「a」のカードを混ぜたものがペアにつき2組用意されています。シミュレーションは、ペアでそれぞれ1組ずつのカードから1枚を選び同時に見せ合い、その組み合わせで色を決定し、その色のシールを用意した6×5のマスに貼ります。マスが埋まったら色別にシールの数を数えて終了です。子どもを1組選んで前で試させることで、シミュレーションのやり方はよく把握できたようです。どのペアもスムーズに進めていました。しかし、子どもたちにとっては単なるゲームであって、何をシミュレーションしているかがよくわかっていなかったように感じます。ミステリーツアーになっていたのです。できた黄色と白のモザイク模様を黒板に並べて貼っていきます。視覚的にトウモロコシの実をシミュレーションしたことを実感させたかったのでしょうが、無理があったようです。最初に、種が混じったトウモロコシの実物か、せめて写真を見せて、「黄色が多そう」「白が黄色の半分くらい」といった発言を引き出しておけば、このシミュレーションとモザイク模様にリアリティが出てきたと思います。
各ペアの黄色と白の数を順番にコンピュータに入力していきます。リアルタイムに変化する様子をグラフで表すようにしています。母数が多くなるに従って収束していきそうだと感じさせたかったのでしょう。しかし、統計の基礎的な知識がまだなかったこともあり、子どもたちにはこのグラフの変化が何を意味しているのかよくわかっていなかったようです。このソフトの説明がもう少し必要だったと思います。この学級の結果に、他の学級の結果を足します。これがまた、子どもたちの理解を妨げました。今までは30ずつ母数を増やしていたのに、いきなり全数を入れたのです。これでは、子どもたちから3:1になりそうといった言葉は生まれてきません。授業者は、「本当は3:1になる」と結論づけて、「その理由を考えて」と課題を提示しました。これでは、子どもたちがシミュレーションした意味はありません。理科としては、「本当」という言葉はとても危険な言葉です。理科に本当はないのではないでしょうか。モデルとしては、3:1になりますが、実際はそんな保証はありません。人間の男女比も1:1ではありません。「本当」ではなく、大体3:1になっている。または、実際に数を調べてみたら、3:1だったと事実がシミュレーションの答と近いことから、このシミュレーションが正しそうだと考えるのが理科的な思考です。であれば、シミュレーション(考え方)が正しいのなら、3:1になる説明を考えてというのが課題の提示として妥当だと思います。
子どもたちはグループで考えるのですが、今一つ盛り上がりません。ワークシートにはAとaを縦横に書いた表が用意されていて、1行目にAA、Aa、2行目にAa、aaを書き込んで黄色が3(純血とハイブリッドが1:2)、白が1(すべて純血)となることが説明できるようになっています。しかし、この表と自分たちがおこなったシミュレーションによる比率の関係がよくわからなかったのです。全体での発表で、ある子どもが表を使って説明しましたが、シミュレーショとの関係は語られません。この子どもも単に知識としてわかってはいますが、きちんとシミュレーションと連動して考えてはいなかったのです。子どもたちは表での説明は何とか理解しますが、それとシミュレーションの関係はよくわからないままでした。シミュレーションを使う時は、「事実と比較してその考えの妥当性を確認する」「妥当性が確認されていることをもとに予想する」のどちらかですが、今回はこの部分を押さえきれていなかったのです。シミュレーションを始める時に、何をシミュレーションしているのかをきちんと示しませんでした。「A」と「a」のカードが同じ数であることも確認していません。
まず、一人がおしべ、他方がめしべと役割をはっきりさせます。その上で、このおしべ、めしべの遺伝子「Aa」がくっついたカード(ミシン目が入っているのが理想です)を必要数用意し、それぞれをAとaの2つのカードに分ける作業をさせます。減数分裂でおしべとめしべの遺伝子がどうなるかをシミュレーションするのです(めしべに関しては正しいシミュレーションとは言えませんが、本質的な間違いではないので中学校ではよしとしましょう)。こうすることで、このゲームが何をしているのかがよくわかるはずです。表も、上の行におしべ(Aa)、左の列にめしべ(Aa)と書いて、遺伝子を分離した、Aとaを記入させれば、シミュレーションとの関係が明確になるはずです。
「妥当性が確認されていることをもとに予想する」という考え方の例として、ハイブリッドと白の純血を交配させることで黄色と白が1:1のトウモロコシができそうだと予測させ、その写真を見せるというのも面白いかもしれません。
課題にリアリティを与えるのであれば、「種苗会社が売る種はハイブリッドであるのはなぜか」(種をまた買ってもらうため)とするとよいかもしれません。理科に対する興味もわくのではないでしょうか。
理科の教科部会がいろいろと考えて挑戦した授業だったので、私にとってもとても学びの多いものでした。

授業検討会は、学年単位でおこなっているので話しやすい雰囲気を感じます。気になったのが、誰かが意見を発表しても、すぐに次の意見に移る場面を多く見たことです。じっくり話し合うべき話題かどうかを司会者(コーディネーター?)が判断して、焦点化したり、他の先生へつなげていったりすることが大切です。検討の深まりが少ないように感じました。

授業検討会終了後、たくさんの先生が話を聞きに来てくれました。時間の関係もあり十分なアドバイスができませんでした。申し訳ありませんでした。多少時間がかかるかもしれませんが、意欲的な先生が多いので学校がよい方向に確実に変化していくことと思います。何人かの先生の授業にその兆しを感じました。研究発表までにもう1度訪問する機会をいただきました。その時、どのような変化が見られるかとても楽しみです。

小学校で授業アドバイス

文部科学省の研究指定を連携して受けている中学校と小学校の授業アドバイスをおこなってきました。

小学校は5年生の社会と国語、2人の若手の授業を見ました。
社会の授業は、新潟県はなぜ米の生産量が日本一なのかを考えるものでした。前時に都道府県別の米の生産量を調べた時に、北海道ではなく新潟県が米の生産量日本一だったことが子どもたちには意外だったようです。そこで授業者は新潟県を扱うことにしたそうです。授業者は考えるための資料として、新潟県と東京都の月別平均気温、月別日照時間、月別降水量と新潟平野の写真を用意しました。資料を配ってから、黒板に拡大コピーを貼って、日照時間などの説明をしますが、子どもの視線は上がりません。手元に資料があるからです。せっかく拡大コピーを用意したのですから、配る前に説明をすれば子どもはしっかり前を向いて聞くことができたはずです。
子どもたちは資料から気づいたことをワークシートに書き込みます。気づいたことを1つ書いて満足している子どももいます。続いてグループで意見の共有を図りました。
資料を使った授業をする時には、必要な資料を見つける、資料を読み取る、読み取った内容をもとに考えるという3つのステップを考える必要があります。今回は2つの目の読み取るからのスタートですが、読み取ると考えるが一緒の課題になっていました。これはかなり高度なことです。子どもたちが鍛えられていないとなかなかできません。実際には資料で新潟と東京の違いを見つけただけの子どもがほとんどです。日照量が東京より多いからといって、米の生産量日本一になるというのは飛躍がありすぎます。
東京と比較する意味もよくわかりません。子どもたちは、北海道ではなく新潟県が日本一なのが疑問だったのですから、もし子どもたちが資料を探そうとすれば北海道との比較だったと思います。子どもたちは前時の学習で、米が北の方でよく作られていることを知っています。そこで、米作りにちょうどよい気温があると考えています。しかし、温かい方が本来よいとは知りません。間違った知識を元に考えています。米の生産限界は8月の平均気温が20度以上という知識を与えておかなければいけません(資料と知識の関係参照)。こういった、考えるために必要な知識が意識されていなかったのも問題です。
必要な知識を与えておき、全体で資料を読み取ることをした後で、新潟県が米の生産量日本一である理由を考えさせるというステップを踏んだ方が、子どもたちの現状にはふさわしいと思いました。
子どもたちの発表の後、授業者が結論をまとめていました。そのまとめが正しいかどうかはさておき、まとめは、授業者があらかじめ用意したカードを貼って整理しました。これでは子どもたちが教師の求める答探しをするようになってしまいます。せめて、板書した子どもたちの意見を丸で囲むなりして、子どもの言葉から結論を導き出すようにしてほしいと思います。
今回、教科書の例(秋田)を離れて、子どもたちの疑問から新潟を取り上げたのはとてもよい挑戦です。しかし、子どもの疑問を活かして授業を進めるためには、どんな資料が必要か、どんなステップで進めていくかといった教材研究が求められます。教師自身が、米作りについてもっと知識を持つことも求められます。資料を読み取ることについても、読み取り方というメタな知識が大切です。比較して違いを見るだけでなく、数や量が一番大きい(多い)、小さい(少ない)、変化が大きい、小さいところに注目するといった視点を身につけさせることが必要です。授業者がそのことに気づければ、今後の授業づくりが大きく変わると思います。
また、授業中に子どもを指導するのに、どちらかと言えば「叱る」ことが多かったように思いました。自身もそのことに気づいているようです。ほめて育てることも考えてほしいと思います。お話ししていてとても素直で、やる気のある方だと感じました。これからきっと大きく成長していくことと思います。

国語の授業は、夏の季語を意識して俳句をつくって発表する場面でした。
授業者は笑顔で子どもたちに接しています。子どもたちとの関係はよさそうですが、少し気になることがあります。俳句を書く用紙を配っている間に、子どもたちが緩みます。個人作業に移った途端、私語が増えるのです。子どもにとって個人作業はプライベートの感覚のようです。妙にリラックスして、授業者にちょっかいをかける子どもも目立ちます。たとえ注意をされたとしても教師に相手してもらえば、子どもとしては満足です。授業者が一々反応するのはよい対応ではありません。こういうけじめのない状況は、教師が授業のような公的な場と休憩時間のような私的な場をきちんと区別していないと起こることです。授業中に私的な場面を持ち込まないようにすることが必要です。極端に言えば、子どもの言葉が授業の内容に直接関係ないときは無視してもよいのです。無視をすると人間関係が崩れそうだというのなら、唇に指を当てて静かにするように伝え、口を閉じれば、うなずきながらOKとサインを送ればよいのです。
作業時間が残り2分だと授業者が伝えると、空気が変わりました。完成させようと集中しだします。やる気がないわけではないのです。最初からこの状態をつくることを意識してほしいと思います。
作業が終わったあと、子どもたちに前を向いて次の場面への準備をするように指示をします。こういう場面が変わるところでのけじめはきちんとつけようとしています。しかし、なかなか全員が準備できません。授業者は、すぐにできた子どもを数人ほめるのですが、あとはひたすら待っているだけです。待つことは大切なのですが、早くさせることを意識する必要があります。「何秒でできるかな」と意識させたり、「後何人だね、もう少しみんな待って」「みんな待ってくれてるよ」と遅い子どもに行動をうながしたり、「まわりの人教えてあげて」と子ども同士で声をかけあうようにしたりすることが必要です。全員できたら、「早くできたね」とそのことを確認し、「みんな待っててくれてありがとう。○○さん、待っててもらってよかったね」と子どもをほめてつなぎます。こういうことを地道にやり続けることが必要です。
子どもたちは自分の作品を全体に対して発表することにとても意欲的でした。友だちの発表も聞こうとする姿勢があります。しかし、無責任な感想を勝手にしゃべる子どもも目立ちます。授業者も個人的に受け答えしたり、容認したりしています。感想であれば、まず「みんなに聞かせてよ」と全体で共有し授業の舞台に乗せる必要があります。こういうことが起きやすい理由に、この俳句を聞くための共通の土台がないことがあります。誰が読み(聞き)手で、この俳句で何を伝えるのか、ちゃんと伝わったかといった、活動の目的・目標、評価の基準を明確にしておく必要があります。これは、先ほど述べた、作業の集中度にも影響することです。
まだまだ、経験の少ない授業者ですが、子どもを笑顔で受容する、指示を徹底するといったことを意識して授業に臨んでいます。もちろん、意識したからといって、すぐに完璧になるわけではありません。しかし、意識することが第一歩です。少しずつ精度を上げていけばよいのです。課題もたくさんありますが、素直に修正しようという意志を見せてくれます。この先生も確実に成長していくことと思います。

2人の授業には工夫したり、意識したりしていることが明確にあったため、課題がよく見えました。今回の気づきを自分たちだけでなく、他の先生にも伝えてほしいと思いました。
中学校での様子は、日を改めて(「教科で練り上げた授業から大いに学ぶ(長文)」参照)。

授業参観と現職教育の打ち合わせ

先週末は、中学校で授業参観と打ち合わせをおこなってきました。夏休みに依頼されている現職教育に向けて、子どもたちの様子を見せていただきました。

2時間かけて校長とともにほぼ全教室を回りました。子どもは落ち着いていました。作業などもしっかりこなしますが、子どもが活躍する場面が少ないように感じました。言い換えればほとんど教師がしゃべっているのです。私は日ごろ、教師は子どもが一言発言するとその3倍〜5倍しゃべると言っているのですが、10倍くらいしゃべっている教師も目にしました。子どもたちに「説明したでしょ」と言うためのアリバイ作りの授業のように感じます。説明したことを子どもたちが理解したかどうかを確認する場面も少ないように感じました。教師がしゃべって終わりの「(言い)ぱなし」の授業です。
全体的に子どもは積極的に挙手をしません。挙手をして発言することに価値を感じていないようです。友だちの発言を聞くことはもとより、教師の説明よりも板書を写すことを優先します。旧態依然とした、試験対策的な問題の解き方を教えている授業も目にします。結果を教えることはしますが、わかる、できるようになる過程が授業の中に組み込まれていません。わかった子ども、発言する子どもだけで進んでいく授業です。
とはいえ、教師と子どもの人間関係は決して悪くはありません。よいと言ってもいいでしょう。ただ、その関係は授業の中でつくられたものではなさそうです。行事や学級経営を通じてつくられたようなのです。授業中に教師が子どもの外化を受容することや評価する場面が少ないのです。そんな中で、印象的な場面がありました。子どもたちの姿勢がバラバラで集中力に欠けている授業が多い中、同じ姿勢でしっかりと教師の話を聞いているのです。授業者の話し方が上手いこともあるのですが、終始笑顔で子どもたちに接していることが影響しているようです。また、子どもたちの表情が非常によい授業が2つありました。共通していることは、授業者が子どもに対して「ありがとう」という言葉を使っていることです。とても面白いことです。
子どもたちがよい姿を見せる場面に出会えたということは、この学校の課題は、子どもたちの問題というより、教師の問題だと言えるでしょう。教師が子どもたちに求めているものが、落ち着いて席につき、板書を写し、指示された作業をこなすこと。そのように感じられることに原因があると思います。子どもたちは教師が求めれば応えてくれるはずです。学校としての目指す子ども像はあるのですが、それを個々の教師が具体化できていない、教師間で共有できていない。そこも問題と感じました。

授業参観の後お話をうかがったところ、最近までどちらかと言えば荒れた学校だったようです。子どもとの人間関係をつくりながらここまで落ち着いた学校にしていったようです。そういう意味では、先生方にとっては落ち着いて授業できれば、とりあえず合格点なのかもしれません。
校長はじめ、4役は授業の問題点を理解しているようでした。今後どのようにして授業を変えていくかという戦略を立てることが課題です。夏休みの現職教育は、授業を変えるためのきっかけにすぎません。どう活かすかを考えることが必要です。校長、教務主任とともに現職教育の持ち方を考えました。一般論になりやすい講演形式では、なかなか実感を持っていただけません。とはいえ、夏休みなので実際の授業を元にお話することもできません。そこで、代表者2名による模擬授業を実施し、それを元に具体的な場面で学び合おうということになりました。授業を見る視点は「聞く」を中心にします。「教師が子どもの発言を聞く」「子どもが教師の説明を聞く」「子どもが子どもの言葉を聞く」こういう視点です。

学校経営に対する明確な方向性と決定する意思を持った校長でした。参考になることをたくさん聞くことができました。いつも言っていることですが、私の話やアドバイスは単なるきっかけにすぎません。そこからどのように学校を変えていくかは、校長以下4役の仕事です。2学期以降、どのように進めていくか、しっかりと戦略を練られることと思います。私も当日、少しでも皆さんの意識が変わるような働きかけができればと思っています。どのような模擬授業と先生方の姿に出会えるのか、今からとても楽しみです。

子どもたちの活動量が多い英語授業から学ぶ(長文)

夏休みにある市で行われる研修会に毎年講師として呼んでいただいています。今年度は若手が伸びるために必要なことを、若手と管理職の両者の視点で考えるという企画で進めることになりました。若手の代表者に「子どもが活躍する」をテーマに模擬授業をしていただき、その授業を私が解説し、その後で、このような授業をできるようになった道のりを、本人と当時の管理職に私がインタビューするというものです。その若手として思い浮かんだのが、以前アドバイスをしていた学校の英語の先生です。すでに異動されていたのですが、お願いしたところ快く引き受けてくださいました。そして、うれしいことに研修会の前に、また私に授業を見てほしいと言ってくれたのです。たまたまその先生の勤務校の教頭が知り合いだったこともあり、他に2人の若手の授業も見せていただくことになりました。
学校におじゃまして、校長とお話をする時間をいただけました。学校をよくしたいというエネルギーを感じます。教頭だけでなく校長も一緒に授業を見ていただけました。初めて訪問した時に一緒に授業を見てくださる校長の学校は、よい方向へすぐに変わることが多いように思います。他者の授業に対するコメントを参考にしようという姿勢を持っている方です。そこで気づくことがあれば、すぐに行動に移されることが多いのです。この日お会いした校長にも、その姿勢を感じました。

1時間で社会と国語の若手の授業を見せていただきました。
共通するのは、教師の話が多く、子どもの活動時間が短いことです。子どもの態度から、板書を写しておけばそれでいいと思っていることがわかります。明らかに教師の話を聞くより、板書を写すことを優先しているのです。子どもの表情も乏しいのが気になります。子どもが発言しても評価がありません。それを受けてすぐに教師が説明を始めます。子どもにとって、発表することが目的となっています。子どもたちが積極的に挙手しない理由がわかる気がします。
また、指示に対して子どもの動きが遅いことも気になります。教師が子どもにどうなってほしいか意識していないからです。早く動いてほしいと思っていれば、そのための何らかの働きかけをするはずですが、ただ、待っているのです。ノートを開いて1行書くのに何分もかかります。「書けたね」と言ってすぐにしゃべり始めますが、まだ書いている子どもがいます。子どもを見ていないのか、それとも都合の悪いことは見ないようにしているのかどちらかです。
子どもたちの学習意欲が低いわけではありません。作業にはちゃんと取り組みます。ところが机間指導中に教師がいろいろとしゃべります。せっかく集中しているのに教師自らそれを乱します。教師の都合で授業が進んでいくのです。そこには子どもの視点が大きく欠けています。

授業後すぐに2人と話す時間をいただけました。まず、どのような子どもの姿を見たいか、目指しているかを2人に聞きました。2人とも「考える」がキーワードとして出てきました。ほっとしました。授業から伝わらなくても、できていなくても、目指すものがあれば必ず授業はよくなっていきます。
そこで、まずは学習規律をどう徹底するかについては、目指す姿をほめることで学級全体に広げること。指示は短く明確にし、必ず確認をすること。子どもが自分の考えを言えるためには、安心して自分の考えを言える、間違えても恥をかかない雰囲気をつくる必要があること。わかった子どもだけで進めずに、わからなかった子ども、聞いている子どもが参加できるようにすること。教師が子どもの発言を「正解」と判断すると、子どもたちは自分の考えでなく、教師の求める答を探そうとするようになること、などを話しました。一度にたくさんのことができるようになるわけはありません。しかし、彼らを今後フォローする機会が私にはないので、ある程度のことは伝えておこうと思いました。幸いにも教頭が同席して一緒に話を聞いてくださったので、私の伝えたことがわからなくなったり、上手くいかなかったりしてもフォローしていただけると思います。子どもが「考える」授業の具体的なイメージが少しでも伝わればと思います。

英語の授業は、1年生でした。何といっても子どもたちの表情が素晴らしいことが印象的です。全員が笑顔で参加しています。決まったパターンを言うだけの活動でも一生懸命に参加しています。授業者が常に笑顔で、どの子どもにもポジティブな評価していることがその原因でしょう。両端の列の子どもを立たせ、向かい合って会話する場面では真ん中の列の子どもの首が左右に動いていました。だれも傍観者になっていません。
スクリーンに一部だけ映っているものを英語で当てるクイズでは、子どもたちが見入っています。挙手して正解だと、教師がしっかりほめます。しかし、クイズに正解したことがほめられているのであって、英語の活動として評価されているのではありません。英語の授業としては、ここが気になります。また、授業者は、間違えた子どもにも決してネガティブにさせないようにとても気を使っています。子どもたちが一生懸命に参加する理由がわかります。
正解を確認した後、全員で答を練習します。英語を言う活動はしています。クイズの答を考える活動もしています。しかし、英語として考える活動にはなっていないのが残念です。クイズを続けているうちに子どもたちのテンションが上がり気味になってきました。根拠を持って考える活動ではないので、どうしてもそうなるのです。
“What’s this?”の練習で、シルエットクイズをおこないました。シルエットが牛だとはわかったのですが、英語で答えられなかった子どもがいました。授業者は「日本語でもいいよ」とフォローしました。「牛」と答えさせた後、英語で言える子どもに助けを求めました。”It’s a cow.”という答を、言えなかった子どもが笑顔で聞いていたのが印象的でした。子どもがネガティブになっていません。授業者の対応のよさがわかります。しかし、「牛」と答えたことは英語の授業の活動としては不十分です。ここは言えなかった子どもにも、”It’s a cow.”と言わせたかったところです。
いくつものシルエットで練習をした後、“What’s this?”を日本語に直させました。子どもたちに”situation”を理解させて、それを日本語に直すというのはよい活動です。面白かったのは、「あれは」と言った子どもがいたことです。授業者は訂正しましたが、なぜそのような間違いが出たのか興味のあるところでした。たまたま勘違いしただけかもしれませんが、私にはそうは思えませんでした。授業者は全員に対して、“What’s this?”と言ってリピートさせ、続いて”It’s ○○.”と正解をまたリピートさせていました。質問者と解答者の両方の立場で文を言わせていたのです。教師の手元にあるスクリーンに対して“What’s this?”と子どもはリピートしていたのです。その状況を日本語に直せば、「あれは」になってしまいます。“What’s this?”と授業者が質問し、それに対して子どもが、”It’s ○○.”と答える。”What’ that?”と子どもたちが質問して、”It’s ○○.”と教師が答える。こういう進め方を考えてもいいと思いました。
この“What’s this?”と”It’s ○○.”の練習問題をワークシートでおこないます。ワークシートのシルエットが何かを”It’s ○○.”の形で書くのです。答を子どもたちに聞きます。指名された子どもは”It’s a bird.”と答えますが、子どもたちは先ほどまでと違って発表者に注意が向きません。何が起こっているのでしょうか。答はすぐにわかりました。授業者が答を板書すると子どもの視線がそちらに集中したのです。多くの子どもは”It’s a bird.”という答はわかっていたのです。しかし、正しく書けているかどうかの方が問題だったのです。傘のシルエットに対しては、子どもはもう少し集中しました。”umbrella”がわからなかった子どもが多かったのでしょう。ここにはいくつかの問題があります。一つは、わからない子どもがわかるための手段が明確になっていないこと。もう一つは、この問題が、シルエットを表す英単語がわかることと、そのスペルがわかることとの2つのステップに分かれていることを、授業者が意識して授業を組み立てていなかったことです。単語がわからないときは、辞書を引けば一気に解決できますが、和英辞典をここで使わせるべきかは意見が分かれると思います。書く作業をする前に、口頭で答を言わせることも一つの方法です。ここで、”It’s a bird.”と答えた時に、”bird”は「どこ」で学習したか、教科書の「どこ」で習ったかという、わからない子どもが調べるためのヒントを問いかけるのです。また、隣同士で確認するといった方法もあります。わからない時は、ただ教えてもらうのではなく、「どこ」にあるかを教えてもらうことをルールにするとよいでしょう。
また、これは英語の問題というよりもワークシートの問題なのですが、穴があるとどうしても埋めることに意識がいってしまうということがあります。答を見つける過程より、穴に入る答を知ることが重視されるのです。授業者が「顔を上げて」と言っても、ワークシートに写すことを優先して、顔が上がらない子どももいました。前半とは違う姿です。ワークシートを使うときにはこのことを意識して授業を組み立てることが必要です。
傘の問題で、”It’s an umbrella.”と不定冠詞が”an”になることの説明は次回に回しました。この割り切りはなかなかです。時間の関係もありますし、この日の授業の目的を考えるとよい判断でした。
最後の活動は、子どもが自分でクイズの問題となるシルエットの絵を描いて、それを元に、“What’s this?”、”It’s ○○.”の練習をするというものです。今までの活動と違って、答が正解か不正解によって次の会話の内容が変わります。頭を使う活動になるはずです。各パターンを授業者が説明します。説明してリピートによる練習をしました。子どもたちは楽しそうに始めます。次第にテンションが上がっていくのです。相手の答によって話す内容が変わる場合はテンションが上がらないのが普通です。どういうことでしょうか。
友だちが書いたシルエットを当てることが子どもたちの目標になっていたのです。そのため、正解かどうかばかりに意識がいって、正解、不正解の後の会話をきちんとすることがおざなりになっていたのです。また、わからなくなった時に頼るものがありませんでした。黒板に残すか、プリントして渡すか。見てやらせてはいけませんが、いざというときに頼れるものが必要です。
今回の活動はペアを変えておこなっていたのですが、正しく会話ができているかを互いにチェックすることができていなかったことも問題です。それぞれが自分のことに精一杯で相手の間違いをチェックしたり修正したりする余裕もないのです。ペアの2人以外に、チェックしたり助けたりする人も必要です。子どもたちにバディを組ませ、2人対2人で交代しながら活動するという方法も視野に入れるといいでしょう。
子どもたちは2つのパターンが完全に頭に入っていなかったようです。授業者の後を追ってリピートして同じことは言えても、状況に応じて言うことを変えることはできません。子ども同士を前に出させて一緒に考えながら練習するといったことが必要だったと思います。
授業を見ている時に、表情の変化がやや乏しい子どもが気になりました。指名されて、授業者にほめられてもあまり表情が変わりません。どういう子か気になりました。教頭に聞いたところ不登校の傾向があるということです。しかし、時間が経つにつれて少しずつ笑顔が増えてきました。自作のシルエットでのクイズでは、わかれば笑顔に、わからない時には残念な表情をしながら、積極的に参加していました。この教室の雰囲気のよさがよい形に作用したように思います。

いろいろ課題を指摘しましたが、子どもたちの活動量についてはかなりのものです。授業の基本もできています。子どもたちとの人間関係も素晴らしいものです。一つひとつの活動の質を問うところまできているのです。多くの英語の授業はここまでの活動量はありません。内容以前に、子どもたちの口から英語がほとんど聞かれない授業にもたくさん出会います。

授業後、久しぶりに授業者とじっくり話すことができました。
子どもたちに、どうなればいいのかを意識して活動させる必要があることを話しました。子どもたち自身が英語の目標を意識して自己評価できるようにしないと、活動はしたが英語の力がつかないということにもなりかねません。また、子どもをとてもよくほめています。子どもを活性化させるレベルではもう十分です。次は、英語に関して何をほめるかです。発音をほめる、文章を理解できていることをほめる。子どもが英語活動の何をほめられたかを意識できるようにすることが求められます。
リピート中心のリーディングも気になりました。子どもたちが九官鳥になっては困ります。たとえば、単語ごとにその単語が表す”situation”をアイコン化しておきます。英語の語順でアイコンを貼り、それを見て子どもに英文を言わせ、テンポよくアイコンを入れ替えて練習をする。たとえば、「私」「好き」「テニス」のアイコンを順番に黒板に並べて、”I like tennis.”と全体で言わせる。「私」のアイコンを「彼」のアイコンに変えて、”He likes tennis.”と言わせる。次は「テニス」のアイコンを「野球」に変える。こういう活動も提案しました。
子どもが考えることも意識してほしいと思いました。たとえば、”a”と”an”の違いを教師が教えるのではなく、子どもたちに考えさせるのです。“What’s this?”で、いろいろなものを教師が”It’s ○○.”で答え、”a”と”an”がどのように使い分けられているか、子どもたちに気づかせるのです。ある程度教師が答えた後、子どもに答えさせます。間違えれば、正解になるまで言わせるといったことをしながら、子どもにルールを気づかせるのです。
以前と同じく前向きな姿勢で、しっかりと私の話を聞いてくれました。自分からも課題を質問してくれ、私も多くのこと考えるきっかけをもらいました。この授業者であれば、研修会は絶対によいものになると確信が持てました。当日までに、きっとまた進化した姿を見せてくれることと思います。今からとても楽しみです。

教頭とも久しぶりにゆっくり話すことができました。授業をとても大切にし、また楽しんでいる方です。この方の持っている授業技術や授業への思いがこの学校の先生方に伝われば、きっとこの学校の授業は大きく進化すると思います。この学校をまた訪問する機会が来ることを願っています。楽しく、かつ有意義な時間をありがとうございました。

算数数学研究会で大いに学ぶ(長文)

先日、市の算数数学研究会の授業研究で指導・助言をおこなってきました。授業者は今年5年目の先生です。初任のころから何度かアドバイスをしてきた先生です。どのような授業をしてくれるのかと楽しみな反面、多くの方にわざわざ出かけてきてもらっての授業研究に耐えうるものになってくれるかちょっと不安もありました。

授業は3年生の因数分解による2次方程式の解法の最初の時間でした。子どもたちは明るい表情で授業に参加しています。授業者との人間関係がよいことがわかります。
(x+2)(x-3)=0が何方程式か問います。1次方程式と答えた子どもがいます。理由を聞くと文字が1つだからと答えます。明らかに間違いですが「なるほど」と受けて次にいきます。3次方程式という子どももいます。「3次方程式?今までやってきたの?」と返します。こういうやり取りでも子どもの言葉をしっかり受け止め、たとえ間違いでも「いいね」と答えてくれることをポジティブに評価します。とてもよい雰囲気です。しかし、どうしても挙手をする子ども、発言する子どもとだけで授業が進んでいきます。この場面で使うべきかどうかは別にして、まわりと相談させるなどの方法で多くの子どもに積極的に参加させることが必要です。
2次方程式という言葉が出たところで、確かめさせます。ここで、方程式を展開させますが、展開という言葉を押さえませんでした。この日の課題は因数分解をして解くものです。対になる数学の用語「展開」は子どもたちからぜひ出させたいところでした。
展開してx2-x-6=0として、「x2があるから2次方程式だね」と確認しました。わかっていて言ったのならいいのですが、この言い方は正しくありません。式の次数の定義から言えば、「最高の次数の項がx2だから・・・」というべきです。数学の教師であれば、常に正しい定義を意識した上で、どう扱うかを決めてほしいと思います。続いて、「先生はすぐに解ける」と子どもたちに伝えます。x=-2,3と言った後、本当かどうかどうすればわかるかと迫ります。子どもから代入という言葉を引き出し、指名して展開した式に代入させます。それぞれ左辺が0になることを確認して解になっていることを確認しました。しかし、本当はそれで十分ではありません。解になることはわかりましたが、それ以外にあるかどうかはまだわかりません。方程式を解くこととはすべての解を示すことですから、必要条件が押さえられていないのです。もちろん、ここでそのことを取り上げるのは混乱する可能性があるのですが、この日の授業をきちんと進めていくとこのことを押さえることができます。そのことをわかった上でどう扱うかを決めることが大切です。
ここで、(x+a)(x+b)=0のa,bの値を子どもに決めさせて授業者が解きます。子どもは一生懸命に値を言います。授業者は意図的に整数以外を入れさせようとしました。もしそうなら、「どんな数でもすぐに解くよ」と言って、「ところで数にはどんな種類があった?」と復習してもよかったところです。「整数」「分数」「有理数」「無理数」「実数」などを出させて、「じゃあ言ってみて」とすると、いろいろな数を出すことができたと思います。この授業では整数しか出ませんでしたが、aとbに同じ数を入れる子どもがいました。さあどうするかと思いましたが、「すごいね、これは明日やる問題だ」とほめておいて「今日は扱わないでおこう」と対応しました。発言した子どもはニコニコして納得していました。なかなか見事な受け方でした。いくつか答を言っていくうちに、a,bの符号を変えたものが解になることに気づく子どもが出てきます。子どもに答を言わせたときに「+1」と前にプラスをつけた子どもがいました。こういう場面は大切です。プラスをつけたということは符号を反転することを意識したからです。ここでどうしてプラスをつけたかを聞くと解の見つけ方をわからせることができます。しかし、授業者はそれを後で課題にしたかったからでしょう、理由を問うことはせずに、「プラス1」を復唱しました。子どもたちに符号を意識させる上でもよい対応でした。「プラスはいらね」という声が聞こえてきます。授業者は再度確認して本人に訂正させました。これもよい対応です。他者に訂正されるのではなく、指摘を受けて自分で訂正することで最後まで自分で解いたという気持ちになります。指摘を受けることに対してポジティブになれます。人間関係もよくなります。授業でつくる人間関係です。この時、授業者は「数学はできるだけ簡単にするんだよね」と言葉を足していました。見過ごしがちですが、とても大切なことです。数学的にメタな考え、共通に使う考えを意識させています。数学的なものの見方・考え方を大切にしていることが伝わってきました。
授業者はていねいに時間をかけます。このことにできるだけ多くの子どもに自分で気づいてほしいという授業者の気持ちの現れでした。自分で気づけば定着度は明らかに上がります。
ここで、「どうしてすぐに(x+a)(x+b)=0の2次方程式を解くことができたか」を課題として子どもたちに書かせました。子どもたちはすぐに取りかかります。中にはすぐに書き終わる子どももいます。すると、問題集を取り出し問題を解き始めました。課題が終われば問題集をやることが学習規律として確立しています。誰一人ムダな時間を使う子どもはいませんでした。授業の基礎がきちんとできています。符号という言葉がわからなくて友だちに聞いている子どももいました。実に自然に相談している姿が見られます。日ごろどのような指導がされているかよくわかります。

全体での確認では、子どもの言葉をそのまま板書します。「符号を変えただけ」「( )の中が0になればいい」と続きます。授業者は一人ひとりの発言をしっかり復唱し受容していきます。ここで「かけ算だからどちらかの数が0」という子どもの発言を「どちらかの数が0」と板書しました。「かけ算だから」は根拠につながる言葉です。これが落ちると「結果だけ」になり、解き方になってしまいます。これが意図的かどうか気になるところでした。
ここでは「どうして」という言葉の使い方の意図が問題になります。子どもには求められているのが解き方なのか、その根拠なのか明確でありません。事実混在しています。そこを明確にせずに進めているので、子どもは数学的な根拠をあまり意識できていません。子どもたちから一通り発表されると、それを受けて結局授業者が説明を始めました。
授業者は根拠として先ほどの子どもの発言を使います。その際に、「かけ算だから」という言葉を復活させました。かけ算だから掛けて0だとどちらかが0になる。aが0だと何をかけても0だね、bが0でもと続けます。ここには先ほどの解の確認の場面と同じ問題があります。条件がひっくり返っているのです。a=0またはb=0のときab=0を説明しているのです。方程式を解くには問題ありませんが、こういう論理的におかしなことをしてしまうと、子どもが因果関係を正しく理解できなくなってしまいます。数学としては致命的なのです。今の高校生が単純な論理の問題や必要条件、十分条件にすら手こずると言われる理由がわかるような気がしました。
「ab=0ならばa=0またはb=0」はせめて、もしaが0でなかったら、b=0になる(1次方程式といっしょで、0でないからaで割ればいい)ことくらいは確認したいところです。
この間授業者の説明が続きました。もう少し子どもたちに確認をさせながら進めたいところです。しかし、子どもたちの姿は立派です。この学級の子どもたちは、授業者が何も言わなくても話を聞くときにはだれもノートに写しません。聞くべきときは聞くことに専念しています。一方子どもに写させるときは、授業者は何もしゃべりません。こういう基本もできています。
続けて因数分解されていない2次方程式に取り組みます。解けそうかどうかを子どもに聞きます。何人かの子どもが手を挙げます。指名した子どもが上手く答えられなかったときに、因数分解をかなり強引に引き出そうとしました。おそらく時間がないため、早く出したかったのでしょう。ここは、余裕を持って何人か指名して、解の公式で解く、因数分解で解く、それぞれのやり方で解いてその違いを考えてもよかったところです。
子どもたちは練習問題に挑戦します。因数分解でつまずく子どもがいますが、因数分解した後は正しくできていたようです。この場面でも、できた子どもへの指示が徹底していました。黒板の右上に問題集のどこをやればよいか指示が書いてあります。後からの指示でも子どもはそこを見て次の課題に取り組むのです。いつもそこに指示が書かれること知っているからです。
数学の授業としての課題はたくさんありますが、それがはっきりするのは基本がしっかりとできているからこそです。

検討会の授業者への質問では、ab=0ならa=0またはb=0の扱いが話題になりました。0をかければ0になることは既習事項だから、扱いは軽くていいのではないか。ab=0のときa=0,b=0の説明はあれでよかったのか。意見を持っている方もいらっしゃったのですが、ここでは発言を控えていただき、グループの検討会で話し合っていただきました。
私も1つのグループに入って話し合いに参加しました。このグループには先ほどの意見を持っている方も司会で入られました。この方はab=0のときa=0,b=0以外の答はないことをもっとしっかり押さえるべきだと言いたかったのです。その通りです。このグループでは予定されていた項目をすべて扱えませんでしたが、参加した先生方自身の課題も話題になりとても楽しいものでした。
各グループからの発表は、残念ながら最初の指摘も含め、この授業の数学的な課題があまり話題にならなかったようです。そこで私からは、数学的な課題を中心にお話しました。

まず、この授業の位置づけを考えることが必要です。教科書では解の公式を先に学習しています。その後で因数分解での解法を扱っている意味、教科書作成者の意図を理解してほしいのです。解の公式は平方完成して、(x+m)2=nの形に変形する方法で導き出しているはずです(2乗の差の公式を使って因数分解する方法もある)。でなければこの順番になっていないはずです。有理数から実数への拡張は、x2=aの解(平方根)を導入することでおこなっています。その考えの延長で公式をつくったのです。しかし、一般的に2次以上の方程式は因数分解の形で考えます。代数学の基本定理(n次の複素係数の方程式は必ず複素数の解を持つ)と因数定理(多項式f(x)でf(a)=0なら(x-a)を因数にもつ)からn次方程式は(x-a1)(x-a2)…(x-an)=0と変形できるからです(高々n個の解を持つ)。これからn次方程式を扱うときの基本的な考え方に初めて出会うときなのです。その考えのもとにあるのが、「ab=0ならa=0またはb=0」です。実数や複素数では成り立つことですが、数学の世界ではこれが成り立たないものもたくさんあることに注意が必要です(素数でない整数の剰余類など)。これから実数や複素数の係数のn次方程式を解くたびにこのことを使うことになるのです。こういったことを理解した上で、この日の授業は何をねらうのかを決めてほしいと思います。3次方程式と答えた子どもの発言を活かして(x+a)(x+b)(x+c)=0と因数を1つ増やして、これは何方程式と問いかけても面白かったかもしれません。この方程式は簡単に解けますから、n次方程式は因数分解して=0にできれば解けることに気づけると思います。
また、「ab=0ならa=0,b=0しかない?本当?絶対?」こういう問いかけも必要になります。「いつも」「絶対」「必ず」、これは算数・数学で常に問われることです。こういった算数・数学的なものの見方・考え方を意識することも大切です。もし、この「ab=0ならa=0またはb=0」を大切に扱い、子どもたちにこのことを考えさせたいのなら、まず「どうやって答を見つけているかわかる?」と解き方を問います。テンポよく進めて全員に解き方を完全に理解させた上で、「このやり方で本当にいいの?絶対?」と問いかけ、その理由を考えることを前半の主課題にするのです。こうすることで、「ab=0ならa=0またはb=0」のもつ数学的な意味に子どもたち自身で気づくことができると思います。

この授業でもう一つ数学的に意識してほしいことは、因数分解の公式の持つ意味です。x2+(a+b)x+ab=(x+a)(x+b)の因数分解の公式を使うということは、掛けてab、足してa+bとなる数を見つけているということです。この因数分解での解法から、2次方程式を解くことは、掛けてab、足して-(a+b)となる数を求めることと同じと気づけます。これはn次方程式を解くことが、n次の基本対称式を解くことと同値(方程式の解と係数の関係)というn次方程式の基本的な性質につながるところです(専門的にはガロア理論に関係する)。このことを意識するともう少し違った展開もあったでしょう。因数分解されていない2次方程式(簡単に因数分解可能なもの)の解法は、因数分解をする、( )の中が0になる値が解という2段階になっています。この因数分解の公式を確認し、公式のa,bを求めることがすなわち2次方程式の解を求めていることと同じだと押さえるのです。このことは、因数分解は解の公式を使ってもできるという発想にもつながります。2次方程式の解、因数分解、解の公式などを自由に行き来できるような子どもを育ててほしいと思います。

授業は布石の連続とよく言いますが、今回であれば最初の方程式の左辺を展開したところを一つの布石とできます。変形を矢印で結んで「展開」という言葉を書いておく。その上で、因数分解する例題は、先ほどの展開した方程式を扱うのです。同じ方程式と気づけば、元に戻せばいいことを押さえれば、「展開」の逆で「因数分解」が自然に出てくるはずです。授業者は、因数分解をする問題の前にこの展開した方程式を消してしまいました。ちょっと残念です。

このようなことを話しましたが、私の考え方が正しいとかその通りにやれと言っているのではありません。この程度の数学的な裏付けを持った上で授業の進め方やねらいを考えてほしいのです。今回の授業は、残念ながら数学的なねらいがどこにあったのかはよくわかりませんでした。しかし、できるだけ子どもが自分の言葉で考えることを大切にしていることはよく伝わりました。だからこそ、できていること、できていないことがはっきりしたのです。
授業者の成長をうれしく思うと同時に、今後ますます成長が期待できると感じました。研究会に参加した方にもよい刺激になったことと思います。今回、授業者は立派にその役目を果たしてくれました。私もなんだか誇らしい気持ちになりました。授業者とのよい出会いに感謝します。1時間の授業から私自身も大いに学ぶことができました。よい機会をいただきありがとうございました。

教師と子どもの関係がよくなった次の課題を考える

先日、市の算数数学研究会で指導させていただいたのですが、たまたま会場が5年間かかわらせていただいている中学校でしたので、早目に訪問して学校のようすを久しぶりに見せていただくことにしました。

教師と子どもの関係は初めて訪問したころと比べて格段によくなっています。先生方は子どもたちをしっかり受容しています。否定的な言葉は耳にしません。ほめる場面もたくさん見ることができました。
人間関係がよいので、子どもの中には先生とかかわりたいと思う子どもがたくさんいます。しかし、授業の中での問いになかなか挙手して答えられない子どももいます。おそらくそのような子どもが、先生に声をかけたり、つぶやいたりします。先生は子どものつぶやきもしっかり拾おうとしますが、その子とそのまわりの子どもたちだけとの会話になっている場面をよく目にしました。プライベートな状態になっているせいか、子どもの言葉づかいもちょっとフランクになりすぎているように感じました。全体の中で活かせるような発言であれば、「いいこと言ってくれたね。みんなに伝えてよ」「みんな、○○さんがいいこと言ってくれたから聞こう」と全体の問題として共有し、全員で考えればいいのです。この時、言葉づかいが悪ければ、「みんなに話すのだから、言い方を考えて」と野口芳宏先生の言うところの公的話法を意識させます。もし、全体で取り上げるようなことでなければ、「あとでね」と軽くうなずいて次に進む。授業に関係ないことであれば、話は聞いたよとうなずいて、手で軽く制止するような身振りをして、今はそのようなことを言うときではないこと伝えます。
授業中に一部の子どもとプライベートな状態をつくらないようにすることが大切です。

友だちの発言の時に子どもの視線がなかなか発言者に集まらない授業をいくつか目にしました。教師を見ているのです。子どもの発言を教師がしっかり受け止めるのですが、それに続いてすぐにその内容の説明を始めるので、子どもたちは友だちの発言を聞く必要がないのです。同じ考えの人をつなぐ場面もあるのですが、教師がいちいち子どもの発言内容をまとめたり、説明したりしているので、やはり友だちの発言をしっかり聞こうとはしません。また、結局教師がまとめるので、自分で考える必要性をあまり感じていません。
また、教師の説明を聞くのですが、板書が始まると今度は板書を写すことに専念します。子どもの価値基準が、友だちの説明より教師の説明、教師の説明よりも板書になっているのです。子どもの発言を教師がまとめたり説明したりせずに、直接他の子どもにつなぐ。「今まで出た考えを誰かまとめてくれるかな」と子どもにまとめさせてから、その内容を板書する。こういう工夫が必要になります

わかる子ども、発言する子どもだけで授業が進んでいくことも気になりました。挙手が少なくてもすぐに指名します。何人かの子どもが積極的に発言すると、子どもの発言で授業が進んでいるように感じますが、実は多くの子どもは傍観者になっているのです。
個人での作業終了後、発言を求めたら数人しか挙手しない場面がありました。そこで授業者は、「言える人」と再度問いかけたとこと、少し挙手が増えました。今度は、「書いた人」と問いかけたところ、ほとんどの子どもの手が挙がりました。そこで、書いてあるから発表できるねと「書いた人」を指名しました。面白い方法です。もちろん指名された子どもはちゃんと発表しますし、教師はしっかりと受け止めます。答を書いているのに、「書いた人」はなぜ「言える人」にならなかったのでしょうか。教師と子どもの関係がいいのに「言える人」にならなかったのはどういうことでしょうか。
一つは先ほども書いたように、あえて自分が発表しなくても困らない、発表する必要性を感じないからです。もう一つは子ども同士の関係がまだできていないからのように思いました。このように言うと、この学校の先生方は子どもたちの関係はいいはずだと思われるかもしれません。確かに子ども同士の関係は悪くないように見えます。しかし、その関係はどうも授業以外の場でつくられているように感じるのです。授業でお互いの発言を認めあう。友だちの考えを聞いて納得する。そういう授業中のかかわり合いでの人間関係ができていないのです。発表することが友だちに認めてもらえることにつながらないので、あえて発表したいと思わないのです。
わからない子ども、挙手しない子どもが参加する工夫が授業に求められます。先ほどの「書いた人」を指名するのもそうですが、「同じ考えの人」とつないだり、説明を聞いて「なるほどと思った人」にどこでわかったか発表してもらったりするのです。また、わからなかったことが発言することでわかるようになる経験を積ませることも必要です。「困ったことない」「どんなこと考えた」「同じところで困っている人いない」と子どものつまずきを全体で共有し、「みんなで解決しよう」と子ども同士が説明し合うことでわかっていく。こういう場面をつくることが大切です。

3年生は3年間の学校生活で教師との人間関係がよくできていると感じました。そのため、最初に書いたプライベートな場面も多く見られるように感じました。先生とかかわりたい子どもをいかにして授業に直接関係することで、友だちとかかわるようにするかが課題です。ちょっとしたことでも、教師が答えずに「みんなに聞いてごらん」と友だちにつなぎ、他の子どもに答えさせる。「聞けてよかった」と子どもが感じる場面をつくり、友だちと授業でかかわるよさを感じさせることが大切です。

1年生は子どもの表情がよいことが印象に残っています。笑顔をたくさん見ることができました。学年として意識して取り組んでいることがきっとあるのだと思います。自分たちの目指す子どもの姿が共有されているように感じました。

逆に2年生は、どのような子どもの姿を目指しているかがよくわかりませんでした。子どもの姿がバラバラな場面が目につきました。子どもが教師の方を見ていなくても気にせずにしゃべっています。ところが、教師の話が核心に近づくと集中度が上がります。しかしこれは教師がコントロールしているのではないのです。子どもが自分たちで判断しています。これはこれでよいように思えますが、そうではありません。教師が意図的につくっている状態ではないからです。教師がどこまで許すかといったラインを明確にして、子どもがそのラインの中で判断するのではなく、子どもが自分たちでそのラインをコントロールしているのです。教師が注意しようかなと思う手前、まあこのぐらいならいいかなと許すところを探って行動しているのです。ですから、そのラインは学級によっても、授業者によっても変わっていきます。教師が指示したり、注意したりすればその場は従いますが、すぐに緩みます。教師に明確な目指す姿がないので、なんとなく「問題ないか」で過ぎてしまっているのです。ちょっと危険な状態のように思いました。

面白い場面がいくつかありました。
道徳の授業で、ワークシートに書き終わった子どもがじっと作業時間が終わるのを待っています。することがないのですが、ごそごそしたりはしません。しかし、かえって気になります。授業者が口を開きました。やっと次に進むのかと思いきや、まだできていない人がいるからと、3分延長しました。これはきついと思いました。どうなるのかと思って見ていましたが、状況は変わりません。よく我慢しています。ところが、作業終了後次のグループでの活動に移った途端、先ほどと一変して、机に肘をつい体が傾きます。先ほどのよい姿はどこへ行ったのでしょう。みると、そのような子どもがたくさんいます。今まで我慢していた反動が出たのでしょう。私の想像ですが、作業が終わったあと緊張を緩めてごそごそすると授業者は注意するのだと思います。一方グループ活動での態度にはあまり頓着しないのでしょう。そのことを子どもは知っているので、このようなことになったのだと思います。できる子どもが無用な緊張や我慢を強いられています。このようことが続くと、どちらかと言えばできる子どもたちが反発する可能性があります。ちょっと心配です。

初任者の音楽の授業です。廊下から見た授業の様子が何か不自然でした。授業者の視線があまり動かないのに、子どもたちの集中度が高いのです。教室に入ってその理由がわかりました。教務主任がT2としてついていたのです。教務主任は授業者と子どもたちを優しく見ています。そのおかげで子どもたちは集中しているのです。聞くと教務主任はこの初任者の授業にほとんどT2としてついているようです。音楽の教師ではありませんが吹奏楽の指導もできる方です。T2としては申し分ありません。しかし、初任者を育てるためにこれだけのエネルギーを注がなければいけないのかとも思いました。難しいところです。
初任者は子どもたちが集中して授業が成り立っているのが、教務主任のおかげだと認識できているのでしょうか。そもそも子どもたちの状況を判断できているのでしょうか。笛を吹く準備が全員できていないのに始めてしまったりする場面が何度もありました。指の使い方を子どもがやってみても、自分が前で見せるだけでは全員ちゃんとできているか不安なはずです。隣同士で確認するなどの活動が必要です。しかし、そんなことは感じないのか、すぐに次に進みます。指使いをやったのですから次は吹いてみるはずだと思いきや、指使いに関する用語の説明を始め、ノートに書かせます。その後で、確認もなく先ほどの指使いで音を出させました。恣意的な活動でつながりがありません。それでも何とかなっているのは、教務主任がそこにいるおかげなのですが、気づいていそうもありません。
この授業の問題点については、この後教務主任が話すと思いますが、この初任者が成長するために必要なことは何なのか、いろいろと考えさせられるものがありました。

授業参観後、校長と教務主任らを交え意見交換しました。
学校の状況を皆さんよく把握しておられました。教務主任は、現状を自分の指導の問題だと認識されました。教師の動きや話し方など、教師の行動を中心に先生方にお願いをしてきたが、子ども同士をどうかかわらせるかといった子どもの活動についてはあまり指導してこなかったというのです。すぐに、自分が取るべき行動に気づけるというのは素晴らしいことです。今の授業における教師と子どもの関係がよい状態をつくるのでもかなり大変なことです。しかし、それに満足せずに次のステップを目指す姿勢だからこそ、ここまでの状態をつくれているのだと思います。
校長は、私の訪問の前に自分の感じている課題をまとめて伝えてくれていました。事前に情報があったのでより焦点化して参観することができました。私の訪問を少しでも有効に使いたいという姿勢はありがたいことです。
今回、教師と子どもの関係がよくなった学校の、次の課題について考えるきっかけをいただけました。とても充実した時間を過ごすことができました。次回の訪問ではどのように学校が変化しているか、どのように課題を解決しどのような課題が生まれているか、今からとても楽しみです。

予定外の形になったミニ講演(長文)

前回の日記の続きです(若手からもベテランからも刺激を受けた1日(長文)参照)。この日は授業参観の後、「授業力向上のために」と題したミニ講演をおこなう予定でした。しかし、終日授業参観に同行していただいた教務主任から、授業を見ていて課題だと感じたこと、私の話を聞いてもう少し聞きたいと思ったことについて、講演の代わりに質問に答えてほしいとのリクエストがありました。事前の予定を変えるように学校側から要請されることはめったにありません。自校の授業を見て教務主任に思うところがたくさんあったということです。これはとても素晴らしいことです。ともすると、講師に依頼した段階で自分の仕事は終わりという方もいらっしゃる中、自校の先生方の授業力向上を自分の役割として強く意識されていることがよくわかります。私としても、質問に答える形で進めることはとてもやりやすいので、喜んでお引き受けしました。せっかくなので、机の配置もコの字型にすることをお願いしました。

用意された質問は9つありました。それらに一つずつ答える形で話を進めました。

1.授業中に子どもたちを集中させるには?
先生方に、子どもが集中しているかはどこでわかるかをたずねました。別に正解を求めているわけではありませんし、またあるわけでもありません。先生方の発言から話を進めたかったのです。「子どもと目があった時」という答が返ってきました。確かにそうです。子どもと目があうためには、教師が子どもを見なければいけません。目をあわせようとしなければいけません。まずそこから始めることが大切だとお伝えしました。目の他にも子どもの姿勢からもわかります。体が前かがみになっている時が、集中力が高いときです。子どもが教師の話を聞いているが、体が後ろに反っていることがあります。これはどういうことかというと、聞き流している状態です。友だちの発言であればその後教師がまとめるからそれを聞けばいい。教師の説明であれば、その後必ず板書するからそれを写せばいい。そういうことなのです。子どもの発言を教師がまとめない。子どもの発言が終わるまでは、板書しない。子どもたちで、まとめさせる。板書したければ子どもにまとめを発表させて、それを書く。子どもたちが参加する必然性のある活動にすることが大切です。

2.手を挙げる子どもが増えるためには?
ノートを見るとちゃんと答が書いてあるのに、子どもが挙手しないことがたくさんあります。その理由を質問しました。「自信がない」「間違えたら恥ずかしい」という答が返ってきました。確かにその通りだと思います。では、どうすればいいのでしょうか。多くの場合、自信を持たせるという発想になります。そのために○をつけるというのもよい方法ですが、○をつけても挙手してくれないこともあります。隣同士で確認しあうことで、自信を持たせたり、答を修正する機会を与えたりすることができます。この後挙手させると明らかに挙手が増えます。しかし、発想を変えて、間違えても恥ずかしくない、安心して間違えることができる雰囲気を学級につくるという方法もあります。
そのためには、子どもが「否定されない保証が必要」です。正解、不正解を教師や友だちに判断されないようにする。自分で間違いに気づかせ、自分で修正して最後は正解を発表して終わるようにするのです。教師はどんな発言でも必ずポジティブに評価する姿勢を持たなければいけません。教師が子どもの悪いところを見つけようとするチェックする目ではなく、よいところを見つけて伸ばそうとする育てる目で見ることが大切です。また、わかった人と聞けば、わかった子どもしか参加できません。「困ったことない」「どんなことを試してみた」「今の説明聞いてどう、なるほどと思った?」というように、わからない子ども、聞いている子どもが参加できるような問いかけが必要です。

3.「発問」で一問一答を脱するには?
教師が「正解」と言えばそれで終わってしまいます。一問一答では、指名されなければ自分の活躍の機会はなくなります。これでは、ほとんどの子どもは傍観者になってしまいます。
まずは「なるほど」と受け止めて、何人も指名すればいいのです。子どもの答がぶれなければ最後に全員に確認して次に進めていきます。子どもの意見が分かれても、多くの場合正解に収束していきます。この時、間違えていた子どもに再度、「あなたと違う答の人がいるけど、どう?」と問いかけることで、修正する機会を与えることが大切です。修正すれば、「友だちの説明を聞いて、考えを修正したんだね、偉いね」そのことをほめることも忘れません。もし、意見が分かれて収束しなければ、一度まわりと相談して、再度仕切り直せばいいのです。
復習の場面であれば、必ず教科書やノートに正解があるはずです。もし、教科書やノートをめくっている子どもがあれば、「ノート見ている子どもがいるね」とほめて、他の子どもにも行動をうながします。「ノート見ていない人はばっちりわかっているんだね」と動かない子どもにはプレッシャーをかけます。すぐに答を聞くのではなく、教科書であれば「どこに書いてある?」、ノートであれば「いつ学習したっけ?」と問いかけることで、見つからない子どもも見つけられるようにします。最後の方に見つけた子どもを指名して、「なんて書いてあった」とたずねればいいのです。あきらめずに参加すれば評価されることで、低位の子どもにも参加意欲を与えます。ここで、何も見ずに最初に手を挙げた子どもに、「何も見ずにすぐに手を挙げてくれたけれど、さっきの答でいい?」と確認をします。最初に手を挙げた子どもの役割をつくることで、「せっかくすぐに手を挙げたのに」と彼らの意欲が低下しないようにしておくのです。

4.教材研究のポイントは?
小学校では、ほとんど全教科、毎日異なった教材を扱います。教材研究の負担はとても大きいと思います。できるだけ負担が少ない方法である必要があります。そのためには、まず教科書を活用することです。最近の教科書はとてもよく考えて作られています。指導書を頼るより、教科書を読み込むことの方が有効だと思います。たとえば算数でいえば、なぜこれを例にしているのか、なぜこの数値を使うのか、2つの問いの違いは何かといったことを考えるのです。教科書作成者の意図を理解しようとして読むことで、何を大切にすればいいかが見えてきます。
また、教科ごとにスタイルを持つことで、教材研究がスムーズに進みます。教材をスタイルにあてはめようとすることで、どういう流れにすればいいか、どういう発問をすればよいかが見えてきます。たとえば国語であれば、物語を読むときは主人公の気持ちが変わったのはどの場面かを問う、どのように変わったかを問う、どこに書いてあるかを問うといったものです。私がいろいろな教科の授業アドバイスをすることができるのも、教科ごとの基本のスタイルを持っているからです。

5.ペア学習・グループ学習のポイントは?
ペア学習は1対1の関係ですから、逃げられないものです。自我が芽生えてくる中・高学年では人間関係ができていない学級では苦しいことがあります。人間関係をつくることとあわせて考える必要があります。そのためには受け側の活動を意識することが大切です。たとえば、ペアで音読であれば、読み手が意識すべきことを明確にし、それを受け手がチェックする。行や段落単位で、できていればOKサインを出す。読めない文字があったり、詰まったりしたら助ける。また、活動終了後、上手く読めていれば、受け手の子どもが挙手をする。受け手が助けてくれたり、自分を評価したりしてくれるので、人間関係もよくなります。
一方グループ学習は、全員と関係がつくれなくても、かかわり合うことができます。直接関係をつくれない子ども同士を別の子どもが間にはいってつないでくれることもあります。グループ学習では話し合うように指示すると子どもは自分が話し終わると役割が終わったと集中力を失くしてしまうことがよくあります。「聞き合おう」と聞くことを意識させると、常に活動しなければいけないので集中力が持続します。また、一部の子どもがすぐにできるような課題でグループ活動をおこなうと、できた子どもが先生役となって一方的に説明してしまったりします。グループで活動する必然性のある課題であることが求められます。一人ではなかなか解決できないようなジャンプの課題。友だちの助けが必要になる、たくさん探すというような、数を問う課題。こういった課題を工夫する必要があります。
このような課題とは別に、作業のグループ化という発想もあります。グループの形になって、個人作業をおこない、もしわからなければ聞いてもいい、友だちの答を写してもいいとするのです。ただし、友だちに聞かれないのに教えない、聞かれたらわかるまで責任を持って教えることがルールです。手がつかないままで時間が経つのを待っているより、聞いたり写したりでも活動する方がよほどましです。個人で解くことにこだわりすぎないことが大切です。

6.道徳の授業の基本形は?
資料を使った道徳では、資料の読み取りに時間をかけるのはナンセンスです。できるだけ早く資料の世界に子どもが入れるように、時には教師が解説することも必要になります。大切なのは自分の問題としてとらえ、自分ならどうするか素直に言えるようにすることです。万引きを犯罪と知らない子どもはいません。問題は知っていてもやってしまうことです。ルールを教えることよりも、ルールを守れる子どもに育てることです。これは、いくら口で言っても仕方がありません。教師が建前を振りかざしても子どもの心には届きません。たとえモラル的に低い考えでも、教師がそれはよくないと判断したりせずに、受け止めることが大切です。多様な考えに触れ、子どもが自分自身としっかり対話することを積み重ねていって初めて、心は育っていくものだと思います。

7.算数の文章題の指導のポイントは?
教師が一方的に説明してもなかなか解けるようにはなりません。先ほどのグループ学習でも述べましたが、互いの考えを聞き合い、自分たちで解いていくことが大切です。教師の説明は無批判で受け入れなければいけません。友だちの説明は正しいかどうかわかりません。まずは自ら理解し、正しいかどうか判断しようとすることで、力がついてくるのです。わからなければ友だちに聞ける子どもに育てておくことが前提です。

8.子どもたちが授業に意欲的に取り組むためには?
「2.手を挙げることどもを増やす」と基本的には同じことです。子どもたちが安心して授業に参加できる雰囲気づくりが大切です。どんな発言でも、周りから否定されない。教師からポジティブな評価をされる。わからなくても参加できる。こういったことが大切です。

9.前にノートを持ってこさせて○をつけるな、のは?
○つけを教師が前でしている場面をかなり目にしました。前で○つけをしていると、教師は学級全体を把握でなくなります。順番を待っている子どもはすることがないのでまだできていない子どもに余計なちょっかいをかけたりします。学級がざわつく原因です。
また、できない子どもはいつまでもほったらかしのままです。同じ○をつけるのであれば、出前方式で子どもたちのところへ行って、全員にきちんと○をつけるようにしたいものです。

時間の関係もあり、詳しく答えられないものもありましたが、とても楽しく話をすることができました。多くの先生が質問に答えてくれたり、反応したりしてくださいました。予想以上によい雰囲気です。校長も授業にこだわる方で、その日見た授業について本音で話をすることができました。
あと1回訪問の予定があります。子どもたちと先生がどのような姿で私を迎えてくれるのかとても楽しみです。この日もたくさんのことが学べたことを感謝します。

若手からもベテランからも刺激を受けた1日(長文)

昨日は終日授業参観の後、ミニ講演をおこなってきました。これまでの2回の訪問は若手中心でしたが、今回はほぼ全員の先生の授業を見せていただきました。

全体的に子どもは落ち着いていましたが、子どもの集中力が持続しない学級が多いように感じました。当然のことですが、教師が話している時間が長くなるほど集中力が下がる傾向にあります。また1問1答形式の展開も多く目にしました。他の子どもの発言を聞く必然性がないので、聞くことができていない子どもが目立ちます。一方、個々にはとてもよい場面や興味深い場面がいくつもありました。

5年生の社会科で、子どもたちが商店街をつくるという課題に取り組んでいました。班ごとに「老人を大切にする」「エコな商店街」といったテーマを掲げ、模型を作っていました。この時間は子どもたちが互いに他の班の作品を見て気づいたことをメモして発表する場面でした。テーマを元に考えさせることに授業者がこだわって授業を進めたことがよくわかります。作品を見あう場面の指示でも、「テーマ」にそって工夫をしたことで気づいたことを書くように何度も強調します。
残念なことは授業者の思いが強いためか、多くの指示と注意点、ポイントが整理されないままに何度も繰り返されたことです。子どもたちは早く見に行きたいのですが、なかなか話が終わらないので集中力を失くしていきます。最後に今から始めるけど大丈夫かと確認します。質問はとたずねると、1人の子どもが手を挙げました。全体で取り上げる必要のないものだったようなので、授業者はその子どもに対して説明をします。全体の場で話をするのなら、まず全員に質問の内容を共有させてから、全体で説明するなり解決する必要があります。そうでなければ、後で個人的に説明すればいいことです。せっかくやる気を出していたのに、出鼻をくじかれました。そのあとすぐ始めるかと思ったのですが、もう一度いくつか確認をしました。不安であれば、説明した後に板書しておくといった工夫をして、話す量を減らせばよかったと思います。
子どもたちは模型作りに意欲的に取り組んだのでしょう、他の班の作品をだれもが真剣に見ています。テーマにこだわらせたことがよい方向に作用していると感じました。ただ、気づいたことを後で発表させることは伝えられていましたが、その発表の目的がはっきりしません。発表の前に示されるのかもしれませんが、子どもたちはこの時点では意識しないまま他の班の作品を見ています。発表の仕方も含めて明確にしておくべきでしょう。自分たちの発表が他者によい影響を与えるような目的・目標を設定することが大切です。このことを意識して活動を組み立てると素晴らしい取り組みになると思います。

6年生の2学級は算数の比の場面でした。たまたま同じ課題に取り組む場面だったので、その違いをとても興味深く見ることができました。
1つの学級は教科書にあるつばささん、みらいさんの2つの考え方の意味を友だちと協力して読み解くという課題でした。教師ができるだけ説明せずに、子どもたちの説明で進めようという試みです。子どもたちは友だちの説明を一所懸命聞いています。とても集中していました。教師も余計な説明は加えません。協力してということで、何人にも説明させます。ただ気になるのは、発言が必ずしも前の子どもの説明とつながっていないことです。教科書の解き方を理解することと友だちの説明を理解することは必ずしもイコールではありません。わからない子どもは、友だちの説明を理解しようとしているうちに、異なった説明に出会うのでかえって混乱する可能性があります。「○○さんの説明」を補足するのか、「異なった説明」なのか、明確にして指名する必要があります。1人の説明をできるだけ多くの子どもが理解することを目指し、確認をしたうえで、「じゃあ、他の説明できる人」と問い直す必要があると思います。
授業者は、子どもの説明に対してできるだけ介入しないようにしていました。とてもよい姿勢です。しかし、時には「ちょっと待ってね」と途中で止めて「ここまで納得できた」と確認したり、「この数は図のどこにあるの」と問いかけたりして子どもの考えを整理することも必要になります。ポイントはどこかを明確にし、そこを子どもたちの説明で理解させるためのかかわり方にどのようなものがあるかを考えておくことが求められます。これも大切な教材研究です。もちろんかかわる必要がなければそのまま子どもに任せておけばよいのです。
また、授業者は、友だちの説明に対してうなずいたり、首をかしげたりして反応するようにうながしています。子どもに外化をうながし、聞く姿勢を育てることはとても重要なことです。まだまだ子どもたちの反応は少ないのですが、だからこそ、反応した子どもを見つけて「今、うなずいてくれたね。ありがとう」とほめたり、「それって、どういうことか聞かせて」と活躍させたりする場面をつくって評価し、よい態度を強化することが必要です。
何人目かの説明で多くの子どもは納得したようです。自然に拍手が上がりました。とてもよい場面です。だからこそ、ここですぐに次に進むのではなく、「どこがよかった」「どこでわかった」と何人かの子どもに聞く必要があります。拍手という評価をより具体的な評価に置き換え、価値づけをすることが大切です。また、中にはまだわからなかった子どももいるかもしれません。理解できたかどうかを確認した上で、彼らがわかるための活動が必要なのです。授業者は、拍手のあと自分でまとめました。できれば子どもの説明だけで納得させて終わりたいものです。もし、まとめるのであれば、できるだけ、「○○さんが言ってくれた・・・」と子どもの言葉をそのまま使うことを意識してほしいと思いました。
今回は、教科書の子どもの考えを理解するという課題だったので、子どもたちの説明がそれでよいかどうか確認する相手がいないのが難しいところでした。学級の子どもの中から出てきた考えを他の子どもが理解する活動であれば、より子ども同士のかかわりが深くなったと思います。
とはいえ、このような授業に挑戦しているというのはとても素晴らしいことです。挑戦するからこそ、新しい課題が見つかっていくのです。この授業者の意欲と向上心にはいつも感心させられます。私にとっても学びの多い授業でした。

一方もう1つの学級は、2つの考えを別々に取り組んでいました。2つ目の比の値を使う考え方を扱う場面を参観しました。準備段階として、まず2:5=□:10、2:5=4:□といった問題(数字はうろ覚えですが)を教師の主導で解いていきます。比の値2/5を5の下に書き、2と5を線で結びます。2/5の左に×と書いて向きはどっちかと問いかけます。2に2/5をかけると5になるのか、5に2/5をかけると2になるのかを聞いているのです。比の値の基準になる5に2/5をかけると比の一方2が出てくることを意識させようというわけです。矢印を5から2に向かうように付け加えて、反対側の辺にも同じ矢印と×2/5を書きます。これを元に□を求めます。比の関係を表わすことができれば、「与えられた数×比の値=□」という形か、「□×比の値=与えられた数」か、どちらかのより簡単な問題に帰着できます。算数・数学的に汎用性のあるよい考え方です。
1つひとつのステップを授業者が子どもに確認してから、□を求める。続いて説明なしで、自力で解かせる。スモールステップを意識しています。自力で解かせる問題は2:5=□:15です。本時の中心となる課題は、砂糖と小麦粉が2:5で、小麦粉150グラムのときの砂糖の量を求めるものです。よく考えて数も決めています。教材研究をしっかりしていることがよくわかります。
ただ、「×比の値」のところを、もう少していねいに説明してほしいと思いました。比の値は後ろの数を基準に考えて、前の数を後ろの数で割ったものが定義です。そのことから「基準×比の値」で前の数が出ることを意識させたいのです。この後で学習する速さは、進んだ距離とかかった時間の比の問題と考えることができます。時間を基準にしたときの比の値が速さなので、比の応用的な問題と考えることができるのです。比の値の定義と基本的な式の関係を意識しておさえておくことで、うまく比と速さをつなぐことができると思います。
子どもの手があまり挙がらなかった場面がありました。一般的には、挙手の数が少なければ、まず相談させてから再び聞くことが多いと思います。しかし、授業者は1人を指名して答えさせた後、隣同士で相談させました。子どもたちは発言をよく聞いていたのでしょう。しっかりと話し合っていました。また、先に隣同士で相談させてから、挙手させる場面もありました。この時は、多くの手が挙がりました。授業者はそれぞれの場面でどのようなことを意図して進め方を選んだのでしょうか。直接聞くことはできませんでしたが、興味のあるところです。
先ほどの授業とはアプローチは全く違いますが、この授業もとてもよく考えられた、授業者の意気込みが感じられるものでした。
このような授業を比較して見られる機会はめったにありません。とても幸運でした。この2人は、きっと互いに高め合う関係になれると思います。今後の成長が楽しみです。

ベテランの1年生の担任の、国語の授業のことです。好きなものとその理由を話型に従って書くという場面でした。授業者は終始柔らかい表情で、子どもたちをとてもよく見ています。授業者がつくった例文を、はっきりした声でゆっくりと、文節と句点ではしっかり間を取って読みます。お手本のような読み方です。子どもたちが理解する時間をおいてからもう一度読みました。1年生ですのでこのぐらいていねいにする必要があるのでしょう。子どもたちがしっかり聞き取れていたことがこの後よくわかりました。授業の目当てを板書し、続いて話型を書いた紙を黒板に貼ったあと、先ほどの例文では空欄に何が入るか問いかけました。例文を聞いた後に、目当ての確認という別の活動が入ったため、子どもの記憶は薄れる可能性があります。こういう場合はもう一度例文を確認してから問いかけるのが普通です。しかし、子どもたちは、「先生」は「うさぎ」が好きです。「小さくて、かわいい」からです、と大きな声で言えました。授業者はよく覚えていたと子どもたちをほめました。授業者の例文の読み方がよかったから、しっかり理解されて子どもたちの記憶に残っていたのです。
この後続いて、子どもたちに好きなものとその理由を言わせます。発表を子どもたちは集中して聞いています。授業者は子どもの発言をしっかりと復唱します。子どもを受容すると同時に、学級全体に発言を共有させていました。ある子どもが、うさぎが好きだと答えました。その理由は小さくてふわふわしているからでした。授業者の例と同じうさぎであることを共感しながら、その理由の違い「ふわふわ」をしっかりと押さえました。とてもよい対応です。理由をうまく説明できない子どもに対しては、復唱しながら言葉を整理させていきました。さすがベテラン、見事なものでした。
たまたま同じうさぎが出てきた時に共感してみせましたが、「○○さんと同じ△△が好きな人はいる?」と意図的につないでもよかったでしょう。子どもの聞く姿勢もよかったので、そのことをほめたり、よく聞いている子を活躍させたりする場面をつくってもよかったでしょう。
面白かったのが、授業者が黒板の方を向いている時に子どもの集中力が明らかに落ちることです。1年生なので特にその傾向が強いのでしょう。教師が子どもをしっかり見ることが子どもの集中力に影響があることがよくわかります。

6年生の音楽の授業で、全体で次々に曲を変えながら歌うこととリコーダーの演奏とを切り替えていく場面がありました。子どもはよく鍛えられていて、テンポよく進んでいきます。必要に応じて的確な指示が具体的にされます。指導技術の高さがうかがえます。ただ、曲の変わり目や、歌うことからリコーダーの演奏に切り替わるときに、遅れてしまう子どもがいます。全員の準備が整うまで、間奏を続けることをしてもよいのではと思いました。この授業者ならできるはずです。
この場面の前に鑑賞の場面がありました。何人かの子どもに発表させて終わるのですが、発表者の気づいたことに気づけなかった子どももいるはずです。できれば、友だちの気づきを全員が共有できるように、もう一度聞く機会があってもよいと思いました。
残念だったのは、授業者の表情がかたかったことです。私たちが見ているので授業者も緊張していたのかもしれません。子どもたちが緊張気味だったことと授業者の表情との間に何らかの相関性があるように感じました。この授業者が笑顔で授業している場面を見たいと思いました。

ICTを活用している場面で、いくつかの面白い場面がありました。
1つは、副読本を子どもたちに広げさせた後、そのページを実物投影機で映している場面です。地図上の施設を探させるのですが、子どもは自分の手元を見ます。「ここにある」と授業者がスクリーンで示しますが、子どもの顔はあまりあがりません。授業者は見つけたら指で押さえるように指示しましたが、この活動のねらいが今一つよくわかりませんでした。自分で見つけることを大切にしたいのであれば、スクリーンに映して答を示すのではなく、指で押さえて隣同士で確認し合えばよいでしょう。見つけることよりも確認することが大切だと思うのであれば、副読本を開かずに全員に顔を上げてスクリーンを見させた方がより集中できたと思います。
一方、全員に教科書を閉じさせてから、スクリーンに映している授業もありました。子どもたちの集中度が一気に高まったのがわかります。ICTのよさがよくわかる場面でした。
もう1つは、実物投影機を使って作業の手順を説明する場面でした。見事だと思ったのは、手元をほとんど見ずに子どもの方をずっと見ながら、作業を進め、説明していたことです。実物投影機を使い慣れている方でも、なかなか手元を見ずに使うことはできません。そもそも子どもを見ることをよほど意識していないと、手元を見ずに使おうとは思わないものです。ベテランの方でしたが、授業に対する姿勢がそこに現れていると思いました。そのあとすぐに子どもたちは教室の外で活動しましたが、教室での授業場面をもっと見たいと思わせるものでした。

この日は、若手の頑張りとベテランの素晴らしさをたくさん見ることができました。とても刺激的で学びの多い1日でした。
ミニ講演については、日を改めて(「予定外の形になったミニ講演(長文)」)。

伸びる先生の条件(その3)

以前に伸びる先生の条件について書かせていただきました(伸びる先生の条件伸びる先生の条件(その2)参照)。「素直」「謙虚」「向上心」といった資質や「目指す教師像」を明確に持つことが大切であることをお伝えしました。私の授業アドバイスや授業研究をきっかけに伸びる先生は、先ほどの条件を満たしていることはもちろんですが、そのほかにも共通していることがあります。「非日常を日常に変える役割」でも書きましたが、私のアドバイスや授業研究は非日常です。それをきっかけに、指摘されたことを意識して毎日の授業をおこなっていることです。非日常を日常に変えているのです。

わずかな期間で授業がよい方向へ変わった先生に、どのようなことに気をつけたかを聞くと、多くの場合、ほんの1つか2つのことだけを意識したと返事が返ってきます。たとえ「子どもの言葉を否定しない」「いつも笑顔を忘れない」「指示は必ず確認する」といった基本的なことであっても、たくさんのものが上がってくることは稀です。今自分に必要なこと、やれそうなことを地道に毎日続けているのです。
複数の先生方に同時にアドバイスしても、何が残るかは人によって異なります。大切なことは何が残るのかではなく、続くかです。指摘されたことを全部「よし、明日からきちんとやるぞ」と意気込んでも3日坊主では何も変わりません。続けられそうなことに絞って、やり続けていくことが大切です。
意識しておこなっていることもやがては習慣となり、無意識におこなえるようになります。無意識にできるようになれば、次のことを意識しておこなう余力が生まれます。こうして少しずつ、しかし確実に進歩していくのです。

もう一つ共通していることは、子どもをよく見ているということです。意識しておこなっているからといって、実行することが目的ではありません。その先に必ず子どもの姿があります。彼らはどのような子どもの姿を見たいかも意識できています。人は、見たい、見ようと思っていないことには気づけません。漠然と子どもを眺めていても何も情報は入ってきません。意識して見ることが必要なのです。
最近よく例に出すのが信号の赤は右か左かです。これに即答できる人は意外と少ないのです。生まれて今まで何千回と見ているはずなのにです。しかし、意識して見れば誰でもすぐにわかります。子どもを見るということもこれと似ています。おこなっていることと見たい姿が対になって、子どもが見えるようになるのです。子どもを集中させたいと思って顔を上げるように指示したのなら、子どもが集中しているかどうか意識して見ます。集中していることがわかれば、自分の対応はよかったのだと自信がついてきます。集中していなければ、どこがいけなかったか、どうすればよいかを考えます。新たな工夫を自然にするようになります。子どもを見るというのはこういうことなのです。

授業では「一時に一事の原則」と言われるものがあります。指示はいくつかをまとめるのではなく、1つ1つに分けて、できたことを確認してから次の指示をするというものです。教師の成長もこれと似ているのかもしれません。自分にやれることを1つずつ地道に取り組み、確実にできるようにしていく。このことの積み重ねです。伸びる先生は、非日常で得たことを意識して日常に変え続けているのです。

力不足を感じた現職教育

昨日は中学校の現職教育に参加してきました。今回はグループでこの学校の子どもたちのよいところと、どうなってほしいかについて話し合ってもらいました。事前にアンケートを取っていただいたところ、よいところはほとんどの方が素直と回答されていました。子どもたちが素直であるからこそ、どんな姿を求めるかが問題です。グループでの話し合いの前に、「子どもたちは教師の望む姿にしかならない。先生方はどのような姿を求めるのか話し合ってください」とお願いしました。

最初はにこやかに話し合っていました。子どもたちが素直とはどういうことか、それぞれの考えを話し合います。しかし、しだいに話し合いは低調になっていきます。一部のグループでは活動がほとんど止まってしまいました。また、一部のグループでは、特定の方だけが発言している状態になっていきました。どうも子どもたちこうなってほしいという強い思いがないようです。別の言い方をすれば、現状にあまり問題を感じていないのです。中には私の言葉をとらえて、「子どもは教師が望む以上の姿になることもある」と例をあげて説明している方もいらっしゃいました。確かにそういうことはあります。しかし、それは意図して起こることではありません。それを期待するわけにはいかないのです。自ら学ぶ子どもになってほしいと思わなければ、自ら学ぶ子どもを育てることはできません。先生方に目指す子どもたちの姿を持ってほしいという思いだったのですが、上手く伝わりませんでした。

全体での発表は、子どもたちは話をよく聞く、指示に従う、積極的に手を挙げるといった子どもたちの姿が語られました。たまたまかもしれませんが、私が今までこの学校で見た子どもたちの姿と一致しません。先生方と私の見方が違うのでしょうか。子どもたちはおとなしく座っていますが、あまり集中しているとは感じません。手遊びも多いし、板書すれば写しだします。前かがみになっている姿を目にした記憶がありません。指示に従うというのは、先生の指示が多いことと裏表です。あるグループからは自分で考えることをしないという意見が出ましたが、考える必然性のある授業になっていないということです。教師がそのことを求めていないのです。積極的に手を挙げる場面もあまり見たことがありません。1問1答で簡単な問題の時に、テンションを上げている姿を見るだけです。先生方と子どもの姿を共有できません。
見たい子どもの姿もはっきりしません。素直で指示されたことはやるが、「生きる力がない」という言葉が出てきました。「生きる力」とは具体的何かをもう一度グループで話してもらおうとも思いましたが、この「生きる力」も先生方が共通に目指しているようには見えません。目指すものとして共有していなければ、具体的にそれが何かを話し合っても授業が変わっていくわけではありません。

私の方から少しお話をさせていただきました。
子どもが聞いていると言ってもいろいろなレベルがあること。子どもが大人しくしているので教師がしゃべりすぎていること。素直であれば、教師が求めることに応えようとしてくれるはずだが、求めなければそのままであること。このようなことをお話しました。この学校に訪問するようになって3年目ですが、同じような話しかできません。なかなか先生方に伝えたいことが届きません。
最後に、授業がよい方向へ変化する学校についてお話しました。先生方が授業で困っている、授業をよくしたい、子どもたちの姿を変えたい、そう願っている学校。学校が落ち着いているからこそ、授業の質を上げたいと校長が願い、方向性を示す学校。大体どちらかなのです。私は学校によって言うことが違ったりします。先生方が望むものが違えば、アドバイスも変わるからです。また、個人で私にアドバイスを求める方は進歩します。私のアドバイスがよいからではありません。誰かに聞こうとする姿勢を持った段階で実は進歩が保証されているのです。私でよければいつでも相談に乗ることを話して終わりました。
正直どれほど伝わったかはわかりません。数人の方はうなずいたりして反応してくださいますが、中には試験の採点をしている方もいました。力不足を感じます。

終了後、教務主任に正直に胸の内を話しました。先生方が授業を変えたい、子どもたちを変えたいと思っていません。また、校長は今年度新任の方ですが、2回の訪問とも一言あいさつしただけで、学校をどのようにしたいか、どのような課題を感じているのかを聞かせていただく機会はありませんでした。私を必要としていないようです。外部の者に自分の頭を超えて指導をされるのが嫌なのかもしれません。このような状況では、私にできることはほとんどありません。次回の訪問はキャンセルしたいと伝えました。
もし、一人でも授業を変えたいという方がいらっしゃればその方のために喜んでアドバイスをします。また、誰かの授業を全員で見て授業研究をするのであれば、お受けします。子どもたちの具体的な授業場面での姿を共有して話し合えば、伝わることがあるかもしれないからです。しかし、これまで何度もお願いしてきましたが、実現しなかったことです。あまり期待できません。この市では授業を公開することに抵抗が強いようです。

たくさんの学校に声をかけていただき、少しでもお役に立てばと思って時間を割いてきましたが、今回ほど自分の力不足を感じたことはありません。まだまだ、私自身を鍛えなければいけないと強く感じました。

文部科学省の内部勉強会に参加

先日、文部科学省の内部勉強会に参加してきました。「学校運営の改善に関する取組」委託事業の一環で、学校評価実施状況調査の分析をもとにした、学校評価を活かすための取り組みについての報告でした。
基礎資料は自治体単位で集計した資料なので、個々の学校の取り組みが具体的には見えてきません。しかし、自治体がどのような取り組みをしているか、その中で有効と思われることは何かを見ることで、浮かび上がってくるものがありました。

学校評価に対して効用感を持つ自治体では、学力調査、運動や体力調査などの客観的にとらえやすいものを指標にしている割合が高いようです。これは納得できます。指標を向上させるための手段も考えやすいので、効用感が高いのでしょう。
一方効用感の低い自治体では「結果の活用」を課題としている事例が多いようです。評価止まりになっていては効用感が低いのは当然です。評価指標は、その改善方法が見えるもの、また見つけるための方法があるものでなければいけません。たとえば「学校を信頼できる」といった項目を指標とした場合、何をすれば信頼度が上がるかをわかっていなければ、低い値が出ても改善のしようがありません。わからなければ、「学校を信頼できると思うのはどのような時か」といった改善のための方法につながる情報も集めておく必要があります。活用を意識したものにまだなっていないということでしょう。
また、効用感の高低は改善の手立てを話し合ったかどうかが一つの分かれ目ということも報告されました。当然と言えば当然ですが、改善点を学校全体の問題だととらえ共有することは学校評価を活かすための基本だと思います。逆に言えばこのことができていない学校があることの方が驚きです。言われたからやっている、そういう受け身の姿勢が透けて見えます。少なからぬエネルギーを使うのですから、活かすことを考えてほしいと思います。

学校関係者評価について効用感が高い自治体では、評価者が学校に行く回数が多く実際に現場を見ている事例が非常に多いようです。学校をしっかり見ているから信頼性の高い評価ができるし、信頼性が高いから参考にしようとする気持ちも生まれます。このことも大切なことです。

学校評価に関して効用感の高い自治体では、設置者自身で学校評価の分析や指導主事等による専門的な指導を実施している例が多いようです。パンフレットや手引書・ガイドラインなどの学校評価を進めるための取り組みと効用感の関係は薄く、結果を使っていかに学校を改善するかが問われてきているということでしょう。
いくつかの自治体の取り組みも紹介されました。指導主事や外部のアドバイザーが学校の改善について指導しているということを聞いたときに、やらなければいけないというプレッシャーをかけているようにも感じました。私のように学校のアドバイザーとして活動している者の視点では、学校が自主的にアドバイスを求めなければ効果は薄いのではないかと思います。自らの学校経営を考える中で自然に学校評価が意識され組み込まれていくことが理想でしょう。学校評価をうまく活かそうと考えれば、今の時代、情報はいくらでも手に入ります。その意識のある学校は外部から働きかけなくても、自ら情報を求めて学校評価をうまく活用しているのではないかと調査を担当された方が話されました。確かに私のまわりでは、積極的に情報交換する学校が多く、よい試みはすぐに広がっています。
具体的な取り組みの方法を紹介することよりも、学校経営において学校評価がいかに大きな武器になるのか、そのことを知らせることが大切なのかもしれません。愛される学校づくり研究会の過去のフォーラム(「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」、「ライブ感のあるパネルディスカッション(愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京 午前の部)」参照)もそのことを意識したものでした。

今回の報告は、しばらくすると文部科学省のWEBサイトにアップされると聞いています。興味のある方は是非そちらをご覧ください。
日ごろは学校現場で活動しているので、学校評価も個々の学校や自治体での取り組みを見ることが多く、点や線でしかとらえることができません。今回のように全国レベルでの自治体の取り組みという、面でとらえた分析を聞くことは大変参考になりました。このような機会をいただけたことを感謝します。
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