授業参観と現職教育の打ち合わせ
先週末は、中学校で授業参観と打ち合わせをおこなってきました。夏休みに依頼されている現職教育に向けて、子どもたちの様子を見せていただきました。
2時間かけて校長とともにほぼ全教室を回りました。子どもは落ち着いていました。作業などもしっかりこなしますが、子どもが活躍する場面が少ないように感じました。言い換えればほとんど教師がしゃべっているのです。私は日ごろ、教師は子どもが一言発言するとその3倍〜5倍しゃべると言っているのですが、10倍くらいしゃべっている教師も目にしました。子どもたちに「説明したでしょ」と言うためのアリバイ作りの授業のように感じます。説明したことを子どもたちが理解したかどうかを確認する場面も少ないように感じました。教師がしゃべって終わりの「(言い)ぱなし」の授業です。 全体的に子どもは積極的に挙手をしません。挙手をして発言することに価値を感じていないようです。友だちの発言を聞くことはもとより、教師の説明よりも板書を写すことを優先します。旧態依然とした、試験対策的な問題の解き方を教えている授業も目にします。結果を教えることはしますが、わかる、できるようになる過程が授業の中に組み込まれていません。わかった子ども、発言する子どもだけで進んでいく授業です。 とはいえ、教師と子どもの人間関係は決して悪くはありません。よいと言ってもいいでしょう。ただ、その関係は授業の中でつくられたものではなさそうです。行事や学級経営を通じてつくられたようなのです。授業中に教師が子どもの外化を受容することや評価する場面が少ないのです。そんな中で、印象的な場面がありました。子どもたちの姿勢がバラバラで集中力に欠けている授業が多い中、同じ姿勢でしっかりと教師の話を聞いているのです。授業者の話し方が上手いこともあるのですが、終始笑顔で子どもたちに接していることが影響しているようです。また、子どもたちの表情が非常によい授業が2つありました。共通していることは、授業者が子どもに対して「ありがとう」という言葉を使っていることです。とても面白いことです。 子どもたちがよい姿を見せる場面に出会えたということは、この学校の課題は、子どもたちの問題というより、教師の問題だと言えるでしょう。教師が子どもたちに求めているものが、落ち着いて席につき、板書を写し、指示された作業をこなすこと。そのように感じられることに原因があると思います。子どもたちは教師が求めれば応えてくれるはずです。学校としての目指す子ども像はあるのですが、それを個々の教師が具体化できていない、教師間で共有できていない。そこも問題と感じました。 授業参観の後お話をうかがったところ、最近までどちらかと言えば荒れた学校だったようです。子どもとの人間関係をつくりながらここまで落ち着いた学校にしていったようです。そういう意味では、先生方にとっては落ち着いて授業できれば、とりあえず合格点なのかもしれません。 校長はじめ、4役は授業の問題点を理解しているようでした。今後どのようにして授業を変えていくかという戦略を立てることが課題です。夏休みの現職教育は、授業を変えるためのきっかけにすぎません。どう活かすかを考えることが必要です。校長、教務主任とともに現職教育の持ち方を考えました。一般論になりやすい講演形式では、なかなか実感を持っていただけません。とはいえ、夏休みなので実際の授業を元にお話することもできません。そこで、代表者2名による模擬授業を実施し、それを元に具体的な場面で学び合おうということになりました。授業を見る視点は「聞く」を中心にします。「教師が子どもの発言を聞く」「子どもが教師の説明を聞く」「子どもが子どもの言葉を聞く」こういう視点です。 学校経営に対する明確な方向性と決定する意思を持った校長でした。参考になることをたくさん聞くことができました。いつも言っていることですが、私の話やアドバイスは単なるきっかけにすぎません。そこからどのように学校を変えていくかは、校長以下4役の仕事です。2学期以降、どのように進めていくか、しっかりと戦略を練られることと思います。私も当日、少しでも皆さんの意識が変わるような働きかけができればと思っています。どのような模擬授業と先生方の姿に出会えるのか、今からとても楽しみです。 子どもたちの活動量が多い英語授業から学ぶ(長文)
夏休みにある市で行われる研修会に毎年講師として呼んでいただいています。今年度は若手が伸びるために必要なことを、若手と管理職の両者の視点で考えるという企画で進めることになりました。若手の代表者に「子どもが活躍する」をテーマに模擬授業をしていただき、その授業を私が解説し、その後で、このような授業をできるようになった道のりを、本人と当時の管理職に私がインタビューするというものです。その若手として思い浮かんだのが、以前アドバイスをしていた学校の英語の先生です。すでに異動されていたのですが、お願いしたところ快く引き受けてくださいました。そして、うれしいことに研修会の前に、また私に授業を見てほしいと言ってくれたのです。たまたまその先生の勤務校の教頭が知り合いだったこともあり、他に2人の若手の授業も見せていただくことになりました。
学校におじゃまして、校長とお話をする時間をいただけました。学校をよくしたいというエネルギーを感じます。教頭だけでなく校長も一緒に授業を見ていただけました。初めて訪問した時に一緒に授業を見てくださる校長の学校は、よい方向へすぐに変わることが多いように思います。他者の授業に対するコメントを参考にしようという姿勢を持っている方です。そこで気づくことがあれば、すぐに行動に移されることが多いのです。この日お会いした校長にも、その姿勢を感じました。 1時間で社会と国語の若手の授業を見せていただきました。 共通するのは、教師の話が多く、子どもの活動時間が短いことです。子どもの態度から、板書を写しておけばそれでいいと思っていることがわかります。明らかに教師の話を聞くより、板書を写すことを優先しているのです。子どもの表情も乏しいのが気になります。子どもが発言しても評価がありません。それを受けてすぐに教師が説明を始めます。子どもにとって、発表することが目的となっています。子どもたちが積極的に挙手しない理由がわかる気がします。 また、指示に対して子どもの動きが遅いことも気になります。教師が子どもにどうなってほしいか意識していないからです。早く動いてほしいと思っていれば、そのための何らかの働きかけをするはずですが、ただ、待っているのです。ノートを開いて1行書くのに何分もかかります。「書けたね」と言ってすぐにしゃべり始めますが、まだ書いている子どもがいます。子どもを見ていないのか、それとも都合の悪いことは見ないようにしているのかどちらかです。 子どもたちの学習意欲が低いわけではありません。作業にはちゃんと取り組みます。ところが机間指導中に教師がいろいろとしゃべります。せっかく集中しているのに教師自らそれを乱します。教師の都合で授業が進んでいくのです。そこには子どもの視点が大きく欠けています。 授業後すぐに2人と話す時間をいただけました。まず、どのような子どもの姿を見たいか、目指しているかを2人に聞きました。2人とも「考える」がキーワードとして出てきました。ほっとしました。授業から伝わらなくても、できていなくても、目指すものがあれば必ず授業はよくなっていきます。 そこで、まずは学習規律をどう徹底するかについては、目指す姿をほめることで学級全体に広げること。指示は短く明確にし、必ず確認をすること。子どもが自分の考えを言えるためには、安心して自分の考えを言える、間違えても恥をかかない雰囲気をつくる必要があること。わかった子どもだけで進めずに、わからなかった子ども、聞いている子どもが参加できるようにすること。教師が子どもの発言を「正解」と判断すると、子どもたちは自分の考えでなく、教師の求める答を探そうとするようになること、などを話しました。一度にたくさんのことができるようになるわけはありません。しかし、彼らを今後フォローする機会が私にはないので、ある程度のことは伝えておこうと思いました。幸いにも教頭が同席して一緒に話を聞いてくださったので、私の伝えたことがわからなくなったり、上手くいかなかったりしてもフォローしていただけると思います。子どもが「考える」授業の具体的なイメージが少しでも伝わればと思います。 英語の授業は、1年生でした。何といっても子どもたちの表情が素晴らしいことが印象的です。全員が笑顔で参加しています。決まったパターンを言うだけの活動でも一生懸命に参加しています。授業者が常に笑顔で、どの子どもにもポジティブな評価していることがその原因でしょう。両端の列の子どもを立たせ、向かい合って会話する場面では真ん中の列の子どもの首が左右に動いていました。だれも傍観者になっていません。 スクリーンに一部だけ映っているものを英語で当てるクイズでは、子どもたちが見入っています。挙手して正解だと、教師がしっかりほめます。しかし、クイズに正解したことがほめられているのであって、英語の活動として評価されているのではありません。英語の授業としては、ここが気になります。また、授業者は、間違えた子どもにも決してネガティブにさせないようにとても気を使っています。子どもたちが一生懸命に参加する理由がわかります。 正解を確認した後、全員で答を練習します。英語を言う活動はしています。クイズの答を考える活動もしています。しかし、英語として考える活動にはなっていないのが残念です。クイズを続けているうちに子どもたちのテンションが上がり気味になってきました。根拠を持って考える活動ではないので、どうしてもそうなるのです。 “What’s this?”の練習で、シルエットクイズをおこないました。シルエットが牛だとはわかったのですが、英語で答えられなかった子どもがいました。授業者は「日本語でもいいよ」とフォローしました。「牛」と答えさせた後、英語で言える子どもに助けを求めました。”It’s a cow.”という答を、言えなかった子どもが笑顔で聞いていたのが印象的でした。子どもがネガティブになっていません。授業者の対応のよさがわかります。しかし、「牛」と答えたことは英語の授業の活動としては不十分です。ここは言えなかった子どもにも、”It’s a cow.”と言わせたかったところです。 いくつものシルエットで練習をした後、“What’s this?”を日本語に直させました。子どもたちに”situation”を理解させて、それを日本語に直すというのはよい活動です。面白かったのは、「あれは」と言った子どもがいたことです。授業者は訂正しましたが、なぜそのような間違いが出たのか興味のあるところでした。たまたま勘違いしただけかもしれませんが、私にはそうは思えませんでした。授業者は全員に対して、“What’s this?”と言ってリピートさせ、続いて”It’s ○○.”と正解をまたリピートさせていました。質問者と解答者の両方の立場で文を言わせていたのです。教師の手元にあるスクリーンに対して“What’s this?”と子どもはリピートしていたのです。その状況を日本語に直せば、「あれは」になってしまいます。“What’s this?”と授業者が質問し、それに対して子どもが、”It’s ○○.”と答える。”What’ that?”と子どもたちが質問して、”It’s ○○.”と教師が答える。こういう進め方を考えてもいいと思いました。 この“What’s this?”と”It’s ○○.”の練習問題をワークシートでおこないます。ワークシートのシルエットが何かを”It’s ○○.”の形で書くのです。答を子どもたちに聞きます。指名された子どもは”It’s a bird.”と答えますが、子どもたちは先ほどまでと違って発表者に注意が向きません。何が起こっているのでしょうか。答はすぐにわかりました。授業者が答を板書すると子どもの視線がそちらに集中したのです。多くの子どもは”It’s a bird.”という答はわかっていたのです。しかし、正しく書けているかどうかの方が問題だったのです。傘のシルエットに対しては、子どもはもう少し集中しました。”umbrella”がわからなかった子どもが多かったのでしょう。ここにはいくつかの問題があります。一つは、わからない子どもがわかるための手段が明確になっていないこと。もう一つは、この問題が、シルエットを表す英単語がわかることと、そのスペルがわかることとの2つのステップに分かれていることを、授業者が意識して授業を組み立てていなかったことです。単語がわからないときは、辞書を引けば一気に解決できますが、和英辞典をここで使わせるべきかは意見が分かれると思います。書く作業をする前に、口頭で答を言わせることも一つの方法です。ここで、”It’s a bird.”と答えた時に、”bird”は「どこ」で学習したか、教科書の「どこ」で習ったかという、わからない子どもが調べるためのヒントを問いかけるのです。また、隣同士で確認するといった方法もあります。わからない時は、ただ教えてもらうのではなく、「どこ」にあるかを教えてもらうことをルールにするとよいでしょう。 また、これは英語の問題というよりもワークシートの問題なのですが、穴があるとどうしても埋めることに意識がいってしまうということがあります。答を見つける過程より、穴に入る答を知ることが重視されるのです。授業者が「顔を上げて」と言っても、ワークシートに写すことを優先して、顔が上がらない子どももいました。前半とは違う姿です。ワークシートを使うときにはこのことを意識して授業を組み立てることが必要です。 傘の問題で、”It’s an umbrella.”と不定冠詞が”an”になることの説明は次回に回しました。この割り切りはなかなかです。時間の関係もありますし、この日の授業の目的を考えるとよい判断でした。 最後の活動は、子どもが自分でクイズの問題となるシルエットの絵を描いて、それを元に、“What’s this?”、”It’s ○○.”の練習をするというものです。今までの活動と違って、答が正解か不正解によって次の会話の内容が変わります。頭を使う活動になるはずです。各パターンを授業者が説明します。説明してリピートによる練習をしました。子どもたちは楽しそうに始めます。次第にテンションが上がっていくのです。相手の答によって話す内容が変わる場合はテンションが上がらないのが普通です。どういうことでしょうか。 友だちが書いたシルエットを当てることが子どもたちの目標になっていたのです。そのため、正解かどうかばかりに意識がいって、正解、不正解の後の会話をきちんとすることがおざなりになっていたのです。また、わからなくなった時に頼るものがありませんでした。黒板に残すか、プリントして渡すか。見てやらせてはいけませんが、いざというときに頼れるものが必要です。 今回の活動はペアを変えておこなっていたのですが、正しく会話ができているかを互いにチェックすることができていなかったことも問題です。それぞれが自分のことに精一杯で相手の間違いをチェックしたり修正したりする余裕もないのです。ペアの2人以外に、チェックしたり助けたりする人も必要です。子どもたちにバディを組ませ、2人対2人で交代しながら活動するという方法も視野に入れるといいでしょう。 子どもたちは2つのパターンが完全に頭に入っていなかったようです。授業者の後を追ってリピートして同じことは言えても、状況に応じて言うことを変えることはできません。子ども同士を前に出させて一緒に考えながら練習するといったことが必要だったと思います。 授業を見ている時に、表情の変化がやや乏しい子どもが気になりました。指名されて、授業者にほめられてもあまり表情が変わりません。どういう子か気になりました。教頭に聞いたところ不登校の傾向があるということです。しかし、時間が経つにつれて少しずつ笑顔が増えてきました。自作のシルエットでのクイズでは、わかれば笑顔に、わからない時には残念な表情をしながら、積極的に参加していました。この教室の雰囲気のよさがよい形に作用したように思います。 いろいろ課題を指摘しましたが、子どもたちの活動量についてはかなりのものです。授業の基本もできています。子どもたちとの人間関係も素晴らしいものです。一つひとつの活動の質を問うところまできているのです。多くの英語の授業はここまでの活動量はありません。内容以前に、子どもたちの口から英語がほとんど聞かれない授業にもたくさん出会います。 授業後、久しぶりに授業者とじっくり話すことができました。 子どもたちに、どうなればいいのかを意識して活動させる必要があることを話しました。子どもたち自身が英語の目標を意識して自己評価できるようにしないと、活動はしたが英語の力がつかないということにもなりかねません。また、子どもをとてもよくほめています。子どもを活性化させるレベルではもう十分です。次は、英語に関して何をほめるかです。発音をほめる、文章を理解できていることをほめる。子どもが英語活動の何をほめられたかを意識できるようにすることが求められます。 リピート中心のリーディングも気になりました。子どもたちが九官鳥になっては困ります。たとえば、単語ごとにその単語が表す”situation”をアイコン化しておきます。英語の語順でアイコンを貼り、それを見て子どもに英文を言わせ、テンポよくアイコンを入れ替えて練習をする。たとえば、「私」「好き」「テニス」のアイコンを順番に黒板に並べて、”I like tennis.”と全体で言わせる。「私」のアイコンを「彼」のアイコンに変えて、”He likes tennis.”と言わせる。次は「テニス」のアイコンを「野球」に変える。こういう活動も提案しました。 子どもが考えることも意識してほしいと思いました。たとえば、”a”と”an”の違いを教師が教えるのではなく、子どもたちに考えさせるのです。“What’s this?”で、いろいろなものを教師が”It’s ○○.”で答え、”a”と”an”がどのように使い分けられているか、子どもたちに気づかせるのです。ある程度教師が答えた後、子どもに答えさせます。間違えれば、正解になるまで言わせるといったことをしながら、子どもにルールを気づかせるのです。 以前と同じく前向きな姿勢で、しっかりと私の話を聞いてくれました。自分からも課題を質問してくれ、私も多くのこと考えるきっかけをもらいました。この授業者であれば、研修会は絶対によいものになると確信が持てました。当日までに、きっとまた進化した姿を見せてくれることと思います。今からとても楽しみです。 教頭とも久しぶりにゆっくり話すことができました。授業をとても大切にし、また楽しんでいる方です。この方の持っている授業技術や授業への思いがこの学校の先生方に伝われば、きっとこの学校の授業は大きく進化すると思います。この学校をまた訪問する機会が来ることを願っています。楽しく、かつ有意義な時間をありがとうございました。 算数数学研究会で大いに学ぶ(長文)
先日、市の算数数学研究会の授業研究で指導・助言をおこなってきました。授業者は今年5年目の先生です。初任のころから何度かアドバイスをしてきた先生です。どのような授業をしてくれるのかと楽しみな反面、多くの方にわざわざ出かけてきてもらっての授業研究に耐えうるものになってくれるかちょっと不安もありました。
授業は3年生の因数分解による2次方程式の解法の最初の時間でした。子どもたちは明るい表情で授業に参加しています。授業者との人間関係がよいことがわかります。 (x+2)(x-3)=0が何方程式か問います。1次方程式と答えた子どもがいます。理由を聞くと文字が1つだからと答えます。明らかに間違いですが「なるほど」と受けて次にいきます。3次方程式という子どももいます。「3次方程式?今までやってきたの?」と返します。こういうやり取りでも子どもの言葉をしっかり受け止め、たとえ間違いでも「いいね」と答えてくれることをポジティブに評価します。とてもよい雰囲気です。しかし、どうしても挙手をする子ども、発言する子どもとだけで授業が進んでいきます。この場面で使うべきかどうかは別にして、まわりと相談させるなどの方法で多くの子どもに積極的に参加させることが必要です。 2次方程式という言葉が出たところで、確かめさせます。ここで、方程式を展開させますが、展開という言葉を押さえませんでした。この日の課題は因数分解をして解くものです。対になる数学の用語「展開」は子どもたちからぜひ出させたいところでした。 展開してx2-x-6=0として、「x2があるから2次方程式だね」と確認しました。わかっていて言ったのならいいのですが、この言い方は正しくありません。式の次数の定義から言えば、「最高の次数の項がx2だから・・・」というべきです。数学の教師であれば、常に正しい定義を意識した上で、どう扱うかを決めてほしいと思います。続いて、「先生はすぐに解ける」と子どもたちに伝えます。x=-2,3と言った後、本当かどうかどうすればわかるかと迫ります。子どもから代入という言葉を引き出し、指名して展開した式に代入させます。それぞれ左辺が0になることを確認して解になっていることを確認しました。しかし、本当はそれで十分ではありません。解になることはわかりましたが、それ以外にあるかどうかはまだわかりません。方程式を解くこととはすべての解を示すことですから、必要条件が押さえられていないのです。もちろん、ここでそのことを取り上げるのは混乱する可能性があるのですが、この日の授業をきちんと進めていくとこのことを押さえることができます。そのことをわかった上でどう扱うかを決めることが大切です。 ここで、(x+a)(x+b)=0のa,bの値を子どもに決めさせて授業者が解きます。子どもは一生懸命に値を言います。授業者は意図的に整数以外を入れさせようとしました。もしそうなら、「どんな数でもすぐに解くよ」と言って、「ところで数にはどんな種類があった?」と復習してもよかったところです。「整数」「分数」「有理数」「無理数」「実数」などを出させて、「じゃあ言ってみて」とすると、いろいろな数を出すことができたと思います。この授業では整数しか出ませんでしたが、aとbに同じ数を入れる子どもがいました。さあどうするかと思いましたが、「すごいね、これは明日やる問題だ」とほめておいて「今日は扱わないでおこう」と対応しました。発言した子どもはニコニコして納得していました。なかなか見事な受け方でした。いくつか答を言っていくうちに、a,bの符号を変えたものが解になることに気づく子どもが出てきます。子どもに答を言わせたときに「+1」と前にプラスをつけた子どもがいました。こういう場面は大切です。プラスをつけたということは符号を反転することを意識したからです。ここでどうしてプラスをつけたかを聞くと解の見つけ方をわからせることができます。しかし、授業者はそれを後で課題にしたかったからでしょう、理由を問うことはせずに、「プラス1」を復唱しました。子どもたちに符号を意識させる上でもよい対応でした。「プラスはいらね」という声が聞こえてきます。授業者は再度確認して本人に訂正させました。これもよい対応です。他者に訂正されるのではなく、指摘を受けて自分で訂正することで最後まで自分で解いたという気持ちになります。指摘を受けることに対してポジティブになれます。人間関係もよくなります。授業でつくる人間関係です。この時、授業者は「数学はできるだけ簡単にするんだよね」と言葉を足していました。見過ごしがちですが、とても大切なことです。数学的にメタな考え、共通に使う考えを意識させています。数学的なものの見方・考え方を大切にしていることが伝わってきました。 授業者はていねいに時間をかけます。このことにできるだけ多くの子どもに自分で気づいてほしいという授業者の気持ちの現れでした。自分で気づけば定着度は明らかに上がります。 ここで、「どうしてすぐに(x+a)(x+b)=0の2次方程式を解くことができたか」を課題として子どもたちに書かせました。子どもたちはすぐに取りかかります。中にはすぐに書き終わる子どももいます。すると、問題集を取り出し問題を解き始めました。課題が終われば問題集をやることが学習規律として確立しています。誰一人ムダな時間を使う子どもはいませんでした。授業の基礎がきちんとできています。符号という言葉がわからなくて友だちに聞いている子どももいました。実に自然に相談している姿が見られます。日ごろどのような指導がされているかよくわかります。 全体での確認では、子どもの言葉をそのまま板書します。「符号を変えただけ」「( )の中が0になればいい」と続きます。授業者は一人ひとりの発言をしっかり復唱し受容していきます。ここで「かけ算だからどちらかの数が0」という子どもの発言を「どちらかの数が0」と板書しました。「かけ算だから」は根拠につながる言葉です。これが落ちると「結果だけ」になり、解き方になってしまいます。これが意図的かどうか気になるところでした。 ここでは「どうして」という言葉の使い方の意図が問題になります。子どもには求められているのが解き方なのか、その根拠なのか明確でありません。事実混在しています。そこを明確にせずに進めているので、子どもは数学的な根拠をあまり意識できていません。子どもたちから一通り発表されると、それを受けて結局授業者が説明を始めました。 授業者は根拠として先ほどの子どもの発言を使います。その際に、「かけ算だから」という言葉を復活させました。かけ算だから掛けて0だとどちらかが0になる。aが0だと何をかけても0だね、bが0でもと続けます。ここには先ほどの解の確認の場面と同じ問題があります。条件がひっくり返っているのです。a=0またはb=0のときab=0を説明しているのです。方程式を解くには問題ありませんが、こういう論理的におかしなことをしてしまうと、子どもが因果関係を正しく理解できなくなってしまいます。数学としては致命的なのです。今の高校生が単純な論理の問題や必要条件、十分条件にすら手こずると言われる理由がわかるような気がしました。 「ab=0ならばa=0またはb=0」はせめて、もしaが0でなかったら、b=0になる(1次方程式といっしょで、0でないからaで割ればいい)ことくらいは確認したいところです。 この間授業者の説明が続きました。もう少し子どもたちに確認をさせながら進めたいところです。しかし、子どもたちの姿は立派です。この学級の子どもたちは、授業者が何も言わなくても話を聞くときにはだれもノートに写しません。聞くべきときは聞くことに専念しています。一方子どもに写させるときは、授業者は何もしゃべりません。こういう基本もできています。 続けて因数分解されていない2次方程式に取り組みます。解けそうかどうかを子どもに聞きます。何人かの子どもが手を挙げます。指名した子どもが上手く答えられなかったときに、因数分解をかなり強引に引き出そうとしました。おそらく時間がないため、早く出したかったのでしょう。ここは、余裕を持って何人か指名して、解の公式で解く、因数分解で解く、それぞれのやり方で解いてその違いを考えてもよかったところです。 子どもたちは練習問題に挑戦します。因数分解でつまずく子どもがいますが、因数分解した後は正しくできていたようです。この場面でも、できた子どもへの指示が徹底していました。黒板の右上に問題集のどこをやればよいか指示が書いてあります。後からの指示でも子どもはそこを見て次の課題に取り組むのです。いつもそこに指示が書かれること知っているからです。 数学の授業としての課題はたくさんありますが、それがはっきりするのは基本がしっかりとできているからこそです。 検討会の授業者への質問では、ab=0ならa=0またはb=0の扱いが話題になりました。0をかければ0になることは既習事項だから、扱いは軽くていいのではないか。ab=0のときa=0,b=0の説明はあれでよかったのか。意見を持っている方もいらっしゃったのですが、ここでは発言を控えていただき、グループの検討会で話し合っていただきました。 私も1つのグループに入って話し合いに参加しました。このグループには先ほどの意見を持っている方も司会で入られました。この方はab=0のときa=0,b=0以外の答はないことをもっとしっかり押さえるべきだと言いたかったのです。その通りです。このグループでは予定されていた項目をすべて扱えませんでしたが、参加した先生方自身の課題も話題になりとても楽しいものでした。 各グループからの発表は、残念ながら最初の指摘も含め、この授業の数学的な課題があまり話題にならなかったようです。そこで私からは、数学的な課題を中心にお話しました。 まず、この授業の位置づけを考えることが必要です。教科書では解の公式を先に学習しています。その後で因数分解での解法を扱っている意味、教科書作成者の意図を理解してほしいのです。解の公式は平方完成して、(x+m)2=nの形に変形する方法で導き出しているはずです(2乗の差の公式を使って因数分解する方法もある)。でなければこの順番になっていないはずです。有理数から実数への拡張は、x2=aの解(平方根)を導入することでおこなっています。その考えの延長で公式をつくったのです。しかし、一般的に2次以上の方程式は因数分解の形で考えます。代数学の基本定理(n次の複素係数の方程式は必ず複素数の解を持つ)と因数定理(多項式f(x)でf(a)=0なら(x-a)を因数にもつ)からn次方程式は(x-a1)(x-a2)…(x-an)=0と変形できるからです(高々n個の解を持つ)。これからn次方程式を扱うときの基本的な考え方に初めて出会うときなのです。その考えのもとにあるのが、「ab=0ならa=0またはb=0」です。実数や複素数では成り立つことですが、数学の世界ではこれが成り立たないものもたくさんあることに注意が必要です(素数でない整数の剰余類など)。これから実数や複素数の係数のn次方程式を解くたびにこのことを使うことになるのです。こういったことを理解した上で、この日の授業は何をねらうのかを決めてほしいと思います。3次方程式と答えた子どもの発言を活かして(x+a)(x+b)(x+c)=0と因数を1つ増やして、これは何方程式と問いかけても面白かったかもしれません。この方程式は簡単に解けますから、n次方程式は因数分解して=0にできれば解けることに気づけると思います。 また、「ab=0ならa=0,b=0しかない?本当?絶対?」こういう問いかけも必要になります。「いつも」「絶対」「必ず」、これは算数・数学で常に問われることです。こういった算数・数学的なものの見方・考え方を意識することも大切です。もし、この「ab=0ならa=0またはb=0」を大切に扱い、子どもたちにこのことを考えさせたいのなら、まず「どうやって答を見つけているかわかる?」と解き方を問います。テンポよく進めて全員に解き方を完全に理解させた上で、「このやり方で本当にいいの?絶対?」と問いかけ、その理由を考えることを前半の主課題にするのです。こうすることで、「ab=0ならa=0またはb=0」のもつ数学的な意味に子どもたち自身で気づくことができると思います。 この授業でもう一つ数学的に意識してほしいことは、因数分解の公式の持つ意味です。x2+(a+b)x+ab=(x+a)(x+b)の因数分解の公式を使うということは、掛けてab、足してa+bとなる数を見つけているということです。この因数分解での解法から、2次方程式を解くことは、掛けてab、足して-(a+b)となる数を求めることと同じと気づけます。これはn次方程式を解くことが、n次の基本対称式を解くことと同値(方程式の解と係数の関係)というn次方程式の基本的な性質につながるところです(専門的にはガロア理論に関係する)。このことを意識するともう少し違った展開もあったでしょう。因数分解されていない2次方程式(簡単に因数分解可能なもの)の解法は、因数分解をする、( )の中が0になる値が解という2段階になっています。この因数分解の公式を確認し、公式のa,bを求めることがすなわち2次方程式の解を求めていることと同じだと押さえるのです。このことは、因数分解は解の公式を使ってもできるという発想にもつながります。2次方程式の解、因数分解、解の公式などを自由に行き来できるような子どもを育ててほしいと思います。 授業は布石の連続とよく言いますが、今回であれば最初の方程式の左辺を展開したところを一つの布石とできます。変形を矢印で結んで「展開」という言葉を書いておく。その上で、因数分解する例題は、先ほどの展開した方程式を扱うのです。同じ方程式と気づけば、元に戻せばいいことを押さえれば、「展開」の逆で「因数分解」が自然に出てくるはずです。授業者は、因数分解をする問題の前にこの展開した方程式を消してしまいました。ちょっと残念です。 このようなことを話しましたが、私の考え方が正しいとかその通りにやれと言っているのではありません。この程度の数学的な裏付けを持った上で授業の進め方やねらいを考えてほしいのです。今回の授業は、残念ながら数学的なねらいがどこにあったのかはよくわかりませんでした。しかし、できるだけ子どもが自分の言葉で考えることを大切にしていることはよく伝わりました。だからこそ、できていること、できていないことがはっきりしたのです。 授業者の成長をうれしく思うと同時に、今後ますます成長が期待できると感じました。研究会に参加した方にもよい刺激になったことと思います。今回、授業者は立派にその役目を果たしてくれました。私もなんだか誇らしい気持ちになりました。授業者とのよい出会いに感謝します。1時間の授業から私自身も大いに学ぶことができました。よい機会をいただきありがとうございました。 教師と子どもの関係がよくなった次の課題を考える
先日、市の算数数学研究会で指導させていただいたのですが、たまたま会場が5年間かかわらせていただいている中学校でしたので、早目に訪問して学校のようすを久しぶりに見せていただくことにしました。
教師と子どもの関係は初めて訪問したころと比べて格段によくなっています。先生方は子どもたちをしっかり受容しています。否定的な言葉は耳にしません。ほめる場面もたくさん見ることができました。 人間関係がよいので、子どもの中には先生とかかわりたいと思う子どもがたくさんいます。しかし、授業の中での問いになかなか挙手して答えられない子どももいます。おそらくそのような子どもが、先生に声をかけたり、つぶやいたりします。先生は子どものつぶやきもしっかり拾おうとしますが、その子とそのまわりの子どもたちだけとの会話になっている場面をよく目にしました。プライベートな状態になっているせいか、子どもの言葉づかいもちょっとフランクになりすぎているように感じました。全体の中で活かせるような発言であれば、「いいこと言ってくれたね。みんなに伝えてよ」「みんな、○○さんがいいこと言ってくれたから聞こう」と全体の問題として共有し、全員で考えればいいのです。この時、言葉づかいが悪ければ、「みんなに話すのだから、言い方を考えて」と野口芳宏先生の言うところの公的話法を意識させます。もし、全体で取り上げるようなことでなければ、「あとでね」と軽くうなずいて次に進む。授業に関係ないことであれば、話は聞いたよとうなずいて、手で軽く制止するような身振りをして、今はそのようなことを言うときではないこと伝えます。 授業中に一部の子どもとプライベートな状態をつくらないようにすることが大切です。 友だちの発言の時に子どもの視線がなかなか発言者に集まらない授業をいくつか目にしました。教師を見ているのです。子どもの発言を教師がしっかり受け止めるのですが、それに続いてすぐにその内容の説明を始めるので、子どもたちは友だちの発言を聞く必要がないのです。同じ考えの人をつなぐ場面もあるのですが、教師がいちいち子どもの発言内容をまとめたり、説明したりしているので、やはり友だちの発言をしっかり聞こうとはしません。また、結局教師がまとめるので、自分で考える必要性をあまり感じていません。 また、教師の説明を聞くのですが、板書が始まると今度は板書を写すことに専念します。子どもの価値基準が、友だちの説明より教師の説明、教師の説明よりも板書になっているのです。子どもの発言を教師がまとめたり説明したりせずに、直接他の子どもにつなぐ。「今まで出た考えを誰かまとめてくれるかな」と子どもにまとめさせてから、その内容を板書する。こういう工夫が必要になります わかる子ども、発言する子どもだけで授業が進んでいくことも気になりました。挙手が少なくてもすぐに指名します。何人かの子どもが積極的に発言すると、子どもの発言で授業が進んでいるように感じますが、実は多くの子どもは傍観者になっているのです。 個人での作業終了後、発言を求めたら数人しか挙手しない場面がありました。そこで授業者は、「言える人」と再度問いかけたとこと、少し挙手が増えました。今度は、「書いた人」と問いかけたところ、ほとんどの子どもの手が挙がりました。そこで、書いてあるから発表できるねと「書いた人」を指名しました。面白い方法です。もちろん指名された子どもはちゃんと発表しますし、教師はしっかりと受け止めます。答を書いているのに、「書いた人」はなぜ「言える人」にならなかったのでしょうか。教師と子どもの関係がいいのに「言える人」にならなかったのはどういうことでしょうか。 一つは先ほども書いたように、あえて自分が発表しなくても困らない、発表する必要性を感じないからです。もう一つは子ども同士の関係がまだできていないからのように思いました。このように言うと、この学校の先生方は子どもたちの関係はいいはずだと思われるかもしれません。確かに子ども同士の関係は悪くないように見えます。しかし、その関係はどうも授業以外の場でつくられているように感じるのです。授業でお互いの発言を認めあう。友だちの考えを聞いて納得する。そういう授業中のかかわり合いでの人間関係ができていないのです。発表することが友だちに認めてもらえることにつながらないので、あえて発表したいと思わないのです。 わからない子ども、挙手しない子どもが参加する工夫が授業に求められます。先ほどの「書いた人」を指名するのもそうですが、「同じ考えの人」とつないだり、説明を聞いて「なるほどと思った人」にどこでわかったか発表してもらったりするのです。また、わからなかったことが発言することでわかるようになる経験を積ませることも必要です。「困ったことない」「どんなこと考えた」「同じところで困っている人いない」と子どものつまずきを全体で共有し、「みんなで解決しよう」と子ども同士が説明し合うことでわかっていく。こういう場面をつくることが大切です。 3年生は3年間の学校生活で教師との人間関係がよくできていると感じました。そのため、最初に書いたプライベートな場面も多く見られるように感じました。先生とかかわりたい子どもをいかにして授業に直接関係することで、友だちとかかわるようにするかが課題です。ちょっとしたことでも、教師が答えずに「みんなに聞いてごらん」と友だちにつなぎ、他の子どもに答えさせる。「聞けてよかった」と子どもが感じる場面をつくり、友だちと授業でかかわるよさを感じさせることが大切です。 1年生は子どもの表情がよいことが印象に残っています。笑顔をたくさん見ることができました。学年として意識して取り組んでいることがきっとあるのだと思います。自分たちの目指す子どもの姿が共有されているように感じました。 逆に2年生は、どのような子どもの姿を目指しているかがよくわかりませんでした。子どもの姿がバラバラな場面が目につきました。子どもが教師の方を見ていなくても気にせずにしゃべっています。ところが、教師の話が核心に近づくと集中度が上がります。しかしこれは教師がコントロールしているのではないのです。子どもが自分たちで判断しています。これはこれでよいように思えますが、そうではありません。教師が意図的につくっている状態ではないからです。教師がどこまで許すかといったラインを明確にして、子どもがそのラインの中で判断するのではなく、子どもが自分たちでそのラインをコントロールしているのです。教師が注意しようかなと思う手前、まあこのぐらいならいいかなと許すところを探って行動しているのです。ですから、そのラインは学級によっても、授業者によっても変わっていきます。教師が指示したり、注意したりすればその場は従いますが、すぐに緩みます。教師に明確な目指す姿がないので、なんとなく「問題ないか」で過ぎてしまっているのです。ちょっと危険な状態のように思いました。 面白い場面がいくつかありました。 道徳の授業で、ワークシートに書き終わった子どもがじっと作業時間が終わるのを待っています。することがないのですが、ごそごそしたりはしません。しかし、かえって気になります。授業者が口を開きました。やっと次に進むのかと思いきや、まだできていない人がいるからと、3分延長しました。これはきついと思いました。どうなるのかと思って見ていましたが、状況は変わりません。よく我慢しています。ところが、作業終了後次のグループでの活動に移った途端、先ほどと一変して、机に肘をつい体が傾きます。先ほどのよい姿はどこへ行ったのでしょう。みると、そのような子どもがたくさんいます。今まで我慢していた反動が出たのでしょう。私の想像ですが、作業が終わったあと緊張を緩めてごそごそすると授業者は注意するのだと思います。一方グループ活動での態度にはあまり頓着しないのでしょう。そのことを子どもは知っているので、このようなことになったのだと思います。できる子どもが無用な緊張や我慢を強いられています。このようことが続くと、どちらかと言えばできる子どもたちが反発する可能性があります。ちょっと心配です。 初任者の音楽の授業です。廊下から見た授業の様子が何か不自然でした。授業者の視線があまり動かないのに、子どもたちの集中度が高いのです。教室に入ってその理由がわかりました。教務主任がT2としてついていたのです。教務主任は授業者と子どもたちを優しく見ています。そのおかげで子どもたちは集中しているのです。聞くと教務主任はこの初任者の授業にほとんどT2としてついているようです。音楽の教師ではありませんが吹奏楽の指導もできる方です。T2としては申し分ありません。しかし、初任者を育てるためにこれだけのエネルギーを注がなければいけないのかとも思いました。難しいところです。 初任者は子どもたちが集中して授業が成り立っているのが、教務主任のおかげだと認識できているのでしょうか。そもそも子どもたちの状況を判断できているのでしょうか。笛を吹く準備が全員できていないのに始めてしまったりする場面が何度もありました。指の使い方を子どもがやってみても、自分が前で見せるだけでは全員ちゃんとできているか不安なはずです。隣同士で確認するなどの活動が必要です。しかし、そんなことは感じないのか、すぐに次に進みます。指使いをやったのですから次は吹いてみるはずだと思いきや、指使いに関する用語の説明を始め、ノートに書かせます。その後で、確認もなく先ほどの指使いで音を出させました。恣意的な活動でつながりがありません。それでも何とかなっているのは、教務主任がそこにいるおかげなのですが、気づいていそうもありません。 この授業の問題点については、この後教務主任が話すと思いますが、この初任者が成長するために必要なことは何なのか、いろいろと考えさせられるものがありました。 授業参観後、校長と教務主任らを交え意見交換しました。 学校の状況を皆さんよく把握しておられました。教務主任は、現状を自分の指導の問題だと認識されました。教師の動きや話し方など、教師の行動を中心に先生方にお願いをしてきたが、子ども同士をどうかかわらせるかといった子どもの活動についてはあまり指導してこなかったというのです。すぐに、自分が取るべき行動に気づけるというのは素晴らしいことです。今の授業における教師と子どもの関係がよい状態をつくるのでもかなり大変なことです。しかし、それに満足せずに次のステップを目指す姿勢だからこそ、ここまでの状態をつくれているのだと思います。 校長は、私の訪問の前に自分の感じている課題をまとめて伝えてくれていました。事前に情報があったのでより焦点化して参観することができました。私の訪問を少しでも有効に使いたいという姿勢はありがたいことです。 今回、教師と子どもの関係がよくなった学校の、次の課題について考えるきっかけをいただけました。とても充実した時間を過ごすことができました。次回の訪問ではどのように学校が変化しているか、どのように課題を解決しどのような課題が生まれているか、今からとても楽しみです。 予定外の形になったミニ講演(長文)
前回の日記の続きです(若手からもベテランからも刺激を受けた1日(長文)参照)。この日は授業参観の後、「授業力向上のために」と題したミニ講演をおこなう予定でした。しかし、終日授業参観に同行していただいた教務主任から、授業を見ていて課題だと感じたこと、私の話を聞いてもう少し聞きたいと思ったことについて、講演の代わりに質問に答えてほしいとのリクエストがありました。事前の予定を変えるように学校側から要請されることはめったにありません。自校の授業を見て教務主任に思うところがたくさんあったということです。これはとても素晴らしいことです。ともすると、講師に依頼した段階で自分の仕事は終わりという方もいらっしゃる中、自校の先生方の授業力向上を自分の役割として強く意識されていることがよくわかります。私としても、質問に答える形で進めることはとてもやりやすいので、喜んでお引き受けしました。せっかくなので、机の配置もコの字型にすることをお願いしました。
用意された質問は9つありました。それらに一つずつ答える形で話を進めました。 1.授業中に子どもたちを集中させるには? 先生方に、子どもが集中しているかはどこでわかるかをたずねました。別に正解を求めているわけではありませんし、またあるわけでもありません。先生方の発言から話を進めたかったのです。「子どもと目があった時」という答が返ってきました。確かにそうです。子どもと目があうためには、教師が子どもを見なければいけません。目をあわせようとしなければいけません。まずそこから始めることが大切だとお伝えしました。目の他にも子どもの姿勢からもわかります。体が前かがみになっている時が、集中力が高いときです。子どもが教師の話を聞いているが、体が後ろに反っていることがあります。これはどういうことかというと、聞き流している状態です。友だちの発言であればその後教師がまとめるからそれを聞けばいい。教師の説明であれば、その後必ず板書するからそれを写せばいい。そういうことなのです。子どもの発言を教師がまとめない。子どもの発言が終わるまでは、板書しない。子どもたちで、まとめさせる。板書したければ子どもにまとめを発表させて、それを書く。子どもたちが参加する必然性のある活動にすることが大切です。 2.手を挙げる子どもが増えるためには? ノートを見るとちゃんと答が書いてあるのに、子どもが挙手しないことがたくさんあります。その理由を質問しました。「自信がない」「間違えたら恥ずかしい」という答が返ってきました。確かにその通りだと思います。では、どうすればいいのでしょうか。多くの場合、自信を持たせるという発想になります。そのために○をつけるというのもよい方法ですが、○をつけても挙手してくれないこともあります。隣同士で確認しあうことで、自信を持たせたり、答を修正する機会を与えたりすることができます。この後挙手させると明らかに挙手が増えます。しかし、発想を変えて、間違えても恥ずかしくない、安心して間違えることができる雰囲気を学級につくるという方法もあります。 そのためには、子どもが「否定されない保証が必要」です。正解、不正解を教師や友だちに判断されないようにする。自分で間違いに気づかせ、自分で修正して最後は正解を発表して終わるようにするのです。教師はどんな発言でも必ずポジティブに評価する姿勢を持たなければいけません。教師が子どもの悪いところを見つけようとするチェックする目ではなく、よいところを見つけて伸ばそうとする育てる目で見ることが大切です。また、わかった人と聞けば、わかった子どもしか参加できません。「困ったことない」「どんなことを試してみた」「今の説明聞いてどう、なるほどと思った?」というように、わからない子ども、聞いている子どもが参加できるような問いかけが必要です。 3.「発問」で一問一答を脱するには? 教師が「正解」と言えばそれで終わってしまいます。一問一答では、指名されなければ自分の活躍の機会はなくなります。これでは、ほとんどの子どもは傍観者になってしまいます。 まずは「なるほど」と受け止めて、何人も指名すればいいのです。子どもの答がぶれなければ最後に全員に確認して次に進めていきます。子どもの意見が分かれても、多くの場合正解に収束していきます。この時、間違えていた子どもに再度、「あなたと違う答の人がいるけど、どう?」と問いかけることで、修正する機会を与えることが大切です。修正すれば、「友だちの説明を聞いて、考えを修正したんだね、偉いね」そのことをほめることも忘れません。もし、意見が分かれて収束しなければ、一度まわりと相談して、再度仕切り直せばいいのです。 復習の場面であれば、必ず教科書やノートに正解があるはずです。もし、教科書やノートをめくっている子どもがあれば、「ノート見ている子どもがいるね」とほめて、他の子どもにも行動をうながします。「ノート見ていない人はばっちりわかっているんだね」と動かない子どもにはプレッシャーをかけます。すぐに答を聞くのではなく、教科書であれば「どこに書いてある?」、ノートであれば「いつ学習したっけ?」と問いかけることで、見つからない子どもも見つけられるようにします。最後の方に見つけた子どもを指名して、「なんて書いてあった」とたずねればいいのです。あきらめずに参加すれば評価されることで、低位の子どもにも参加意欲を与えます。ここで、何も見ずに最初に手を挙げた子どもに、「何も見ずにすぐに手を挙げてくれたけれど、さっきの答でいい?」と確認をします。最初に手を挙げた子どもの役割をつくることで、「せっかくすぐに手を挙げたのに」と彼らの意欲が低下しないようにしておくのです。 4.教材研究のポイントは? 小学校では、ほとんど全教科、毎日異なった教材を扱います。教材研究の負担はとても大きいと思います。できるだけ負担が少ない方法である必要があります。そのためには、まず教科書を活用することです。最近の教科書はとてもよく考えて作られています。指導書を頼るより、教科書を読み込むことの方が有効だと思います。たとえば算数でいえば、なぜこれを例にしているのか、なぜこの数値を使うのか、2つの問いの違いは何かといったことを考えるのです。教科書作成者の意図を理解しようとして読むことで、何を大切にすればいいかが見えてきます。 また、教科ごとにスタイルを持つことで、教材研究がスムーズに進みます。教材をスタイルにあてはめようとすることで、どういう流れにすればいいか、どういう発問をすればよいかが見えてきます。たとえば国語であれば、物語を読むときは主人公の気持ちが変わったのはどの場面かを問う、どのように変わったかを問う、どこに書いてあるかを問うといったものです。私がいろいろな教科の授業アドバイスをすることができるのも、教科ごとの基本のスタイルを持っているからです。 5.ペア学習・グループ学習のポイントは? ペア学習は1対1の関係ですから、逃げられないものです。自我が芽生えてくる中・高学年では人間関係ができていない学級では苦しいことがあります。人間関係をつくることとあわせて考える必要があります。そのためには受け側の活動を意識することが大切です。たとえば、ペアで音読であれば、読み手が意識すべきことを明確にし、それを受け手がチェックする。行や段落単位で、できていればOKサインを出す。読めない文字があったり、詰まったりしたら助ける。また、活動終了後、上手く読めていれば、受け手の子どもが挙手をする。受け手が助けてくれたり、自分を評価したりしてくれるので、人間関係もよくなります。 一方グループ学習は、全員と関係がつくれなくても、かかわり合うことができます。直接関係をつくれない子ども同士を別の子どもが間にはいってつないでくれることもあります。グループ学習では話し合うように指示すると子どもは自分が話し終わると役割が終わったと集中力を失くしてしまうことがよくあります。「聞き合おう」と聞くことを意識させると、常に活動しなければいけないので集中力が持続します。また、一部の子どもがすぐにできるような課題でグループ活動をおこなうと、できた子どもが先生役となって一方的に説明してしまったりします。グループで活動する必然性のある課題であることが求められます。一人ではなかなか解決できないようなジャンプの課題。友だちの助けが必要になる、たくさん探すというような、数を問う課題。こういった課題を工夫する必要があります。 このような課題とは別に、作業のグループ化という発想もあります。グループの形になって、個人作業をおこない、もしわからなければ聞いてもいい、友だちの答を写してもいいとするのです。ただし、友だちに聞かれないのに教えない、聞かれたらわかるまで責任を持って教えることがルールです。手がつかないままで時間が経つのを待っているより、聞いたり写したりでも活動する方がよほどましです。個人で解くことにこだわりすぎないことが大切です。 6.道徳の授業の基本形は? 資料を使った道徳では、資料の読み取りに時間をかけるのはナンセンスです。できるだけ早く資料の世界に子どもが入れるように、時には教師が解説することも必要になります。大切なのは自分の問題としてとらえ、自分ならどうするか素直に言えるようにすることです。万引きを犯罪と知らない子どもはいません。問題は知っていてもやってしまうことです。ルールを教えることよりも、ルールを守れる子どもに育てることです。これは、いくら口で言っても仕方がありません。教師が建前を振りかざしても子どもの心には届きません。たとえモラル的に低い考えでも、教師がそれはよくないと判断したりせずに、受け止めることが大切です。多様な考えに触れ、子どもが自分自身としっかり対話することを積み重ねていって初めて、心は育っていくものだと思います。 7.算数の文章題の指導のポイントは? 教師が一方的に説明してもなかなか解けるようにはなりません。先ほどのグループ学習でも述べましたが、互いの考えを聞き合い、自分たちで解いていくことが大切です。教師の説明は無批判で受け入れなければいけません。友だちの説明は正しいかどうかわかりません。まずは自ら理解し、正しいかどうか判断しようとすることで、力がついてくるのです。わからなければ友だちに聞ける子どもに育てておくことが前提です。 8.子どもたちが授業に意欲的に取り組むためには? 「2.手を挙げることどもを増やす」と基本的には同じことです。子どもたちが安心して授業に参加できる雰囲気づくりが大切です。どんな発言でも、周りから否定されない。教師からポジティブな評価をされる。わからなくても参加できる。こういったことが大切です。 9.前にノートを持ってこさせて○をつけるな、のは? ○つけを教師が前でしている場面をかなり目にしました。前で○つけをしていると、教師は学級全体を把握でなくなります。順番を待っている子どもはすることがないのでまだできていない子どもに余計なちょっかいをかけたりします。学級がざわつく原因です。 また、できない子どもはいつまでもほったらかしのままです。同じ○をつけるのであれば、出前方式で子どもたちのところへ行って、全員にきちんと○をつけるようにしたいものです。 時間の関係もあり、詳しく答えられないものもありましたが、とても楽しく話をすることができました。多くの先生が質問に答えてくれたり、反応したりしてくださいました。予想以上によい雰囲気です。校長も授業にこだわる方で、その日見た授業について本音で話をすることができました。 あと1回訪問の予定があります。子どもたちと先生がどのような姿で私を迎えてくれるのかとても楽しみです。この日もたくさんのことが学べたことを感謝します。 若手からもベテランからも刺激を受けた1日(長文)
昨日は終日授業参観の後、ミニ講演をおこなってきました。これまでの2回の訪問は若手中心でしたが、今回はほぼ全員の先生の授業を見せていただきました。
全体的に子どもは落ち着いていましたが、子どもの集中力が持続しない学級が多いように感じました。当然のことですが、教師が話している時間が長くなるほど集中力が下がる傾向にあります。また1問1答形式の展開も多く目にしました。他の子どもの発言を聞く必然性がないので、聞くことができていない子どもが目立ちます。一方、個々にはとてもよい場面や興味深い場面がいくつもありました。 5年生の社会科で、子どもたちが商店街をつくるという課題に取り組んでいました。班ごとに「老人を大切にする」「エコな商店街」といったテーマを掲げ、模型を作っていました。この時間は子どもたちが互いに他の班の作品を見て気づいたことをメモして発表する場面でした。テーマを元に考えさせることに授業者がこだわって授業を進めたことがよくわかります。作品を見あう場面の指示でも、「テーマ」にそって工夫をしたことで気づいたことを書くように何度も強調します。 残念なことは授業者の思いが強いためか、多くの指示と注意点、ポイントが整理されないままに何度も繰り返されたことです。子どもたちは早く見に行きたいのですが、なかなか話が終わらないので集中力を失くしていきます。最後に今から始めるけど大丈夫かと確認します。質問はとたずねると、1人の子どもが手を挙げました。全体で取り上げる必要のないものだったようなので、授業者はその子どもに対して説明をします。全体の場で話をするのなら、まず全員に質問の内容を共有させてから、全体で説明するなり解決する必要があります。そうでなければ、後で個人的に説明すればいいことです。せっかくやる気を出していたのに、出鼻をくじかれました。そのあとすぐ始めるかと思ったのですが、もう一度いくつか確認をしました。不安であれば、説明した後に板書しておくといった工夫をして、話す量を減らせばよかったと思います。 子どもたちは模型作りに意欲的に取り組んだのでしょう、他の班の作品をだれもが真剣に見ています。テーマにこだわらせたことがよい方向に作用していると感じました。ただ、気づいたことを後で発表させることは伝えられていましたが、その発表の目的がはっきりしません。発表の前に示されるのかもしれませんが、子どもたちはこの時点では意識しないまま他の班の作品を見ています。発表の仕方も含めて明確にしておくべきでしょう。自分たちの発表が他者によい影響を与えるような目的・目標を設定することが大切です。このことを意識して活動を組み立てると素晴らしい取り組みになると思います。 6年生の2学級は算数の比の場面でした。たまたま同じ課題に取り組む場面だったので、その違いをとても興味深く見ることができました。 1つの学級は教科書にあるつばささん、みらいさんの2つの考え方の意味を友だちと協力して読み解くという課題でした。教師ができるだけ説明せずに、子どもたちの説明で進めようという試みです。子どもたちは友だちの説明を一所懸命聞いています。とても集中していました。教師も余計な説明は加えません。協力してということで、何人にも説明させます。ただ気になるのは、発言が必ずしも前の子どもの説明とつながっていないことです。教科書の解き方を理解することと友だちの説明を理解することは必ずしもイコールではありません。わからない子どもは、友だちの説明を理解しようとしているうちに、異なった説明に出会うのでかえって混乱する可能性があります。「○○さんの説明」を補足するのか、「異なった説明」なのか、明確にして指名する必要があります。1人の説明をできるだけ多くの子どもが理解することを目指し、確認をしたうえで、「じゃあ、他の説明できる人」と問い直す必要があると思います。 授業者は、子どもの説明に対してできるだけ介入しないようにしていました。とてもよい姿勢です。しかし、時には「ちょっと待ってね」と途中で止めて「ここまで納得できた」と確認したり、「この数は図のどこにあるの」と問いかけたりして子どもの考えを整理することも必要になります。ポイントはどこかを明確にし、そこを子どもたちの説明で理解させるためのかかわり方にどのようなものがあるかを考えておくことが求められます。これも大切な教材研究です。もちろんかかわる必要がなければそのまま子どもに任せておけばよいのです。 また、授業者は、友だちの説明に対してうなずいたり、首をかしげたりして反応するようにうながしています。子どもに外化をうながし、聞く姿勢を育てることはとても重要なことです。まだまだ子どもたちの反応は少ないのですが、だからこそ、反応した子どもを見つけて「今、うなずいてくれたね。ありがとう」とほめたり、「それって、どういうことか聞かせて」と活躍させたりする場面をつくって評価し、よい態度を強化することが必要です。 何人目かの説明で多くの子どもは納得したようです。自然に拍手が上がりました。とてもよい場面です。だからこそ、ここですぐに次に進むのではなく、「どこがよかった」「どこでわかった」と何人かの子どもに聞く必要があります。拍手という評価をより具体的な評価に置き換え、価値づけをすることが大切です。また、中にはまだわからなかった子どももいるかもしれません。理解できたかどうかを確認した上で、彼らがわかるための活動が必要なのです。授業者は、拍手のあと自分でまとめました。できれば子どもの説明だけで納得させて終わりたいものです。もし、まとめるのであれば、できるだけ、「○○さんが言ってくれた・・・」と子どもの言葉をそのまま使うことを意識してほしいと思いました。 今回は、教科書の子どもの考えを理解するという課題だったので、子どもたちの説明がそれでよいかどうか確認する相手がいないのが難しいところでした。学級の子どもの中から出てきた考えを他の子どもが理解する活動であれば、より子ども同士のかかわりが深くなったと思います。 とはいえ、このような授業に挑戦しているというのはとても素晴らしいことです。挑戦するからこそ、新しい課題が見つかっていくのです。この授業者の意欲と向上心にはいつも感心させられます。私にとっても学びの多い授業でした。 一方もう1つの学級は、2つの考えを別々に取り組んでいました。2つ目の比の値を使う考え方を扱う場面を参観しました。準備段階として、まず2:5=□:10、2:5=4:□といった問題(数字はうろ覚えですが)を教師の主導で解いていきます。比の値2/5を5の下に書き、2と5を線で結びます。2/5の左に×と書いて向きはどっちかと問いかけます。2に2/5をかけると5になるのか、5に2/5をかけると2になるのかを聞いているのです。比の値の基準になる5に2/5をかけると比の一方2が出てくることを意識させようというわけです。矢印を5から2に向かうように付け加えて、反対側の辺にも同じ矢印と×2/5を書きます。これを元に□を求めます。比の関係を表わすことができれば、「与えられた数×比の値=□」という形か、「□×比の値=与えられた数」か、どちらかのより簡単な問題に帰着できます。算数・数学的に汎用性のあるよい考え方です。 1つひとつのステップを授業者が子どもに確認してから、□を求める。続いて説明なしで、自力で解かせる。スモールステップを意識しています。自力で解かせる問題は2:5=□:15です。本時の中心となる課題は、砂糖と小麦粉が2:5で、小麦粉150グラムのときの砂糖の量を求めるものです。よく考えて数も決めています。教材研究をしっかりしていることがよくわかります。 ただ、「×比の値」のところを、もう少していねいに説明してほしいと思いました。比の値は後ろの数を基準に考えて、前の数を後ろの数で割ったものが定義です。そのことから「基準×比の値」で前の数が出ることを意識させたいのです。この後で学習する速さは、進んだ距離とかかった時間の比の問題と考えることができます。時間を基準にしたときの比の値が速さなので、比の応用的な問題と考えることができるのです。比の値の定義と基本的な式の関係を意識しておさえておくことで、うまく比と速さをつなぐことができると思います。 子どもの手があまり挙がらなかった場面がありました。一般的には、挙手の数が少なければ、まず相談させてから再び聞くことが多いと思います。しかし、授業者は1人を指名して答えさせた後、隣同士で相談させました。子どもたちは発言をよく聞いていたのでしょう。しっかりと話し合っていました。また、先に隣同士で相談させてから、挙手させる場面もありました。この時は、多くの手が挙がりました。授業者はそれぞれの場面でどのようなことを意図して進め方を選んだのでしょうか。直接聞くことはできませんでしたが、興味のあるところです。 先ほどの授業とはアプローチは全く違いますが、この授業もとてもよく考えられた、授業者の意気込みが感じられるものでした。 このような授業を比較して見られる機会はめったにありません。とても幸運でした。この2人は、きっと互いに高め合う関係になれると思います。今後の成長が楽しみです。 ベテランの1年生の担任の、国語の授業のことです。好きなものとその理由を話型に従って書くという場面でした。授業者は終始柔らかい表情で、子どもたちをとてもよく見ています。授業者がつくった例文を、はっきりした声でゆっくりと、文節と句点ではしっかり間を取って読みます。お手本のような読み方です。子どもたちが理解する時間をおいてからもう一度読みました。1年生ですのでこのぐらいていねいにする必要があるのでしょう。子どもたちがしっかり聞き取れていたことがこの後よくわかりました。授業の目当てを板書し、続いて話型を書いた紙を黒板に貼ったあと、先ほどの例文では空欄に何が入るか問いかけました。例文を聞いた後に、目当ての確認という別の活動が入ったため、子どもの記憶は薄れる可能性があります。こういう場合はもう一度例文を確認してから問いかけるのが普通です。しかし、子どもたちは、「先生」は「うさぎ」が好きです。「小さくて、かわいい」からです、と大きな声で言えました。授業者はよく覚えていたと子どもたちをほめました。授業者の例文の読み方がよかったから、しっかり理解されて子どもたちの記憶に残っていたのです。 この後続いて、子どもたちに好きなものとその理由を言わせます。発表を子どもたちは集中して聞いています。授業者は子どもの発言をしっかりと復唱します。子どもを受容すると同時に、学級全体に発言を共有させていました。ある子どもが、うさぎが好きだと答えました。その理由は小さくてふわふわしているからでした。授業者の例と同じうさぎであることを共感しながら、その理由の違い「ふわふわ」をしっかりと押さえました。とてもよい対応です。理由をうまく説明できない子どもに対しては、復唱しながら言葉を整理させていきました。さすがベテラン、見事なものでした。 たまたま同じうさぎが出てきた時に共感してみせましたが、「○○さんと同じ△△が好きな人はいる?」と意図的につないでもよかったでしょう。子どもの聞く姿勢もよかったので、そのことをほめたり、よく聞いている子を活躍させたりする場面をつくってもよかったでしょう。 面白かったのが、授業者が黒板の方を向いている時に子どもの集中力が明らかに落ちることです。1年生なので特にその傾向が強いのでしょう。教師が子どもをしっかり見ることが子どもの集中力に影響があることがよくわかります。 6年生の音楽の授業で、全体で次々に曲を変えながら歌うこととリコーダーの演奏とを切り替えていく場面がありました。子どもはよく鍛えられていて、テンポよく進んでいきます。必要に応じて的確な指示が具体的にされます。指導技術の高さがうかがえます。ただ、曲の変わり目や、歌うことからリコーダーの演奏に切り替わるときに、遅れてしまう子どもがいます。全員の準備が整うまで、間奏を続けることをしてもよいのではと思いました。この授業者ならできるはずです。 この場面の前に鑑賞の場面がありました。何人かの子どもに発表させて終わるのですが、発表者の気づいたことに気づけなかった子どももいるはずです。できれば、友だちの気づきを全員が共有できるように、もう一度聞く機会があってもよいと思いました。 残念だったのは、授業者の表情がかたかったことです。私たちが見ているので授業者も緊張していたのかもしれません。子どもたちが緊張気味だったことと授業者の表情との間に何らかの相関性があるように感じました。この授業者が笑顔で授業している場面を見たいと思いました。 ICTを活用している場面で、いくつかの面白い場面がありました。 1つは、副読本を子どもたちに広げさせた後、そのページを実物投影機で映している場面です。地図上の施設を探させるのですが、子どもは自分の手元を見ます。「ここにある」と授業者がスクリーンで示しますが、子どもの顔はあまりあがりません。授業者は見つけたら指で押さえるように指示しましたが、この活動のねらいが今一つよくわかりませんでした。自分で見つけることを大切にしたいのであれば、スクリーンに映して答を示すのではなく、指で押さえて隣同士で確認し合えばよいでしょう。見つけることよりも確認することが大切だと思うのであれば、副読本を開かずに全員に顔を上げてスクリーンを見させた方がより集中できたと思います。 一方、全員に教科書を閉じさせてから、スクリーンに映している授業もありました。子どもたちの集中度が一気に高まったのがわかります。ICTのよさがよくわかる場面でした。 もう1つは、実物投影機を使って作業の手順を説明する場面でした。見事だと思ったのは、手元をほとんど見ずに子どもの方をずっと見ながら、作業を進め、説明していたことです。実物投影機を使い慣れている方でも、なかなか手元を見ずに使うことはできません。そもそも子どもを見ることをよほど意識していないと、手元を見ずに使おうとは思わないものです。ベテランの方でしたが、授業に対する姿勢がそこに現れていると思いました。そのあとすぐに子どもたちは教室の外で活動しましたが、教室での授業場面をもっと見たいと思わせるものでした。 この日は、若手の頑張りとベテランの素晴らしさをたくさん見ることができました。とても刺激的で学びの多い1日でした。 ミニ講演については、日を改めて(「予定外の形になったミニ講演(長文)」)。 伸びる先生の条件(その3)
以前に伸びる先生の条件について書かせていただきました(伸びる先生の条件、伸びる先生の条件(その2)参照)。「素直」「謙虚」「向上心」といった資質や「目指す教師像」を明確に持つことが大切であることをお伝えしました。私の授業アドバイスや授業研究をきっかけに伸びる先生は、先ほどの条件を満たしていることはもちろんですが、そのほかにも共通していることがあります。「非日常を日常に変える役割」でも書きましたが、私のアドバイスや授業研究は非日常です。それをきっかけに、指摘されたことを意識して毎日の授業をおこなっていることです。非日常を日常に変えているのです。
わずかな期間で授業がよい方向へ変わった先生に、どのようなことに気をつけたかを聞くと、多くの場合、ほんの1つか2つのことだけを意識したと返事が返ってきます。たとえ「子どもの言葉を否定しない」「いつも笑顔を忘れない」「指示は必ず確認する」といった基本的なことであっても、たくさんのものが上がってくることは稀です。今自分に必要なこと、やれそうなことを地道に毎日続けているのです。 複数の先生方に同時にアドバイスしても、何が残るかは人によって異なります。大切なことは何が残るのかではなく、続くかです。指摘されたことを全部「よし、明日からきちんとやるぞ」と意気込んでも3日坊主では何も変わりません。続けられそうなことに絞って、やり続けていくことが大切です。 意識しておこなっていることもやがては習慣となり、無意識におこなえるようになります。無意識にできるようになれば、次のことを意識しておこなう余力が生まれます。こうして少しずつ、しかし確実に進歩していくのです。 もう一つ共通していることは、子どもをよく見ているということです。意識しておこなっているからといって、実行することが目的ではありません。その先に必ず子どもの姿があります。彼らはどのような子どもの姿を見たいかも意識できています。人は、見たい、見ようと思っていないことには気づけません。漠然と子どもを眺めていても何も情報は入ってきません。意識して見ることが必要なのです。 最近よく例に出すのが信号の赤は右か左かです。これに即答できる人は意外と少ないのです。生まれて今まで何千回と見ているはずなのにです。しかし、意識して見れば誰でもすぐにわかります。子どもを見るということもこれと似ています。おこなっていることと見たい姿が対になって、子どもが見えるようになるのです。子どもを集中させたいと思って顔を上げるように指示したのなら、子どもが集中しているかどうか意識して見ます。集中していることがわかれば、自分の対応はよかったのだと自信がついてきます。集中していなければ、どこがいけなかったか、どうすればよいかを考えます。新たな工夫を自然にするようになります。子どもを見るというのはこういうことなのです。 授業では「一時に一事の原則」と言われるものがあります。指示はいくつかをまとめるのではなく、1つ1つに分けて、できたことを確認してから次の指示をするというものです。教師の成長もこれと似ているのかもしれません。自分にやれることを1つずつ地道に取り組み、確実にできるようにしていく。このことの積み重ねです。伸びる先生は、非日常で得たことを意識して日常に変え続けているのです。 |
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