教師のねらいに近い考えをどう深めるか

子どもが発表した考えが不完全ではあるが教師のねらいに近いものだったとき、どう対応しますか。気をつけてほしいのは、教師が足りないことをつけ足しながら自分で説明しないことです。たとえその子どもの考えをほめても、子どもはそれが教師の求める答に近いからほめられたのであって、発言は教師の求める答かどうかをチェックされる場だと感じてしまいます。自分の考えを発言することに価値を見出さなくなり、教師の求める答探しを始めるようになってしまいます。
大切なことは、子どもたちでその考えを深めさせていくことです。そうすることで、子どもたちの自己有用感が高まり、授業への参加意識も高まります。そのためには子どもの言葉で考えを発表させていくことが必要になります。では具体的にどのようにしていけばよいのでしょうか。

大きくは2つの方法があります。本人に返すか、他の子どもにつなぐかです。いずれにしても、まず子どもの発言をしっかりと受容する必要があります。その上で、発言をどう判断するかです。本人の言葉や考えがまだ明確になっていない、整理できていないと感じたときは、その点について「○○ってどういうことかな。もう少し聞かせてくれる」と問い返します。本人の言葉で考えが明確になれば、「なるほど。みんな今の考えどう思った。納得した」と全体につないでいきます。注意してほしいのが、考えが整理できなくて教師のねらう考えに近づかなくても執拗に問い返し続けないことです。子どもは教師の期待する答があるのだと感じ、自分の言葉がそれとずれていると気づきます。結果、教師の求める答えを探すようになり、自分の考えを言わなくなってしまいます。無理をしないことが大切です。

発表者の考えが明確になっている時や、これ以上問い返しても追いつめるだけだと判断した時は、他の子どもにつなぐことになります。最初の発言者の考えを深める方向の意見が出るように意識することが必要です。この時、「他の人はどう」というような聞き方は、注意が必要です。子どもたちが育っていなければ、違う考えを言わなければいけないと思うからです。もとの意見を深めるためには、「同じように考えた人いる」と近い考えの人に意見を求めるのが基本となります。ここで「○○さんはどう」と指名した時に、子どもが「同じです」と答えるときがあります。「同じです」という答えは原則として許さないことが大切で。「同じです」を許すと漠然と同じだなと思うだけで、自分の考えはどうであるか整理されないままになってしまいます。その時は、「もう一度言ってくれる」と自分の言葉で言い直すよう求めます。全く同じことを言うことはまずありません。少し違った表現や、言葉が足されることが起こります。そこをとらえて、「○○さんは、・・・と言ってくれたね」「・・・と付け加えてくれたね」と教師が評価したり、「○○さんは少し付け加えてくれたと思うんだけど、どう」と他の子どもに異なっているところや付け加えたことを発表させたりします。
ここで、発表者の考えを明確にさせるために、「同じです」に対して、「どこが同じか教えてくれる」と問い返してもよいでしょう。その上で「違うところはある」と違いを意識させるのです。こうすることで、たとえ同じようでも、自分の考えと友だちの考えをきちんと比較して整理するようになります。
こういった方法の問題は、「同じように考えた人」しか発言できないことです。近い考えを出させたいときは「今の考えなるほどと思った人」と問いかける。反対意見が出ることも視野に入れた上で「今の考えどう思ったか聞かせてくれる」と広く意見を求める。このような問いかけを使うことも必要になります。
また挙手だけに頼らず、子どもの表情や反応を見て指名することも大切です。うなずく子どもがいれば、「今うなずいていたよね。どういうことか教えてくれる」と問いかければ、間違いなく関連した何かを話してくれます。指名された子どもは教師が自分を見てくれていることを知り、安心して授業に参加するようにもなります。
意見をつなげていくことで、全体が考えを深めてきたと感じる時は、周りで意見を聞き合うことや、グループにすることも有効です。自分の考えが深まってくると発言したくなるものです。挙手や指名では一部の子どもしか発言できないので、どの子どもも発言できる機会をつくるのです。

いずれの方法にしても、子どもの発言のよい部分や足りないところを焦点化しながら、子どもたちの言葉で整理し深めていくことが必要になります。

教師のねらいに近い考えだからこそ、子どもたちに自身で深めさせたいものです。どの方法が正解というわけではありません。発言の内容や子どもの状況によって選択することが大切です。そのためには、教師が対応の方法をいくつか持っていることが求められます。日ごろから子どもの考えを深める方法を意識して授業にのぞんでいただきたいと思います。

子どもは教師を見透かしている

昨日仕事でお会いした方から面白い話をお聞きしました。
その方は小学校の早い段階で、授業でほとんど発言しなくなったそうです。その理由を聞くと次のようなものでした。

授業で先生の質問に対して、先生の求める答を言わなければならないというプレッシャーがある。たとえ先生が間違いと言わなくても、表情から「ああ、先生のほしい答じゃなかったんだ」とわかる。その表情を見ると何も言えなくなってしまう。

先生は間違いと否定せず、子どもが安心して発言できるようにしているつもりなのでしょうが、子どもには見抜かれているようです。どんな発言に対しても、いつも笑顔でうなずくことの大切さがわかります。子どもの間違いを含む多様な発言を楽しむ、喜ぶ姿勢が求められるということです。

また、このようなことも話されました。

授業参観や他の先生が見に来るようなときは、いつもは指名しない子どもにも発言の機会を与える。ああ、今日は特別なんだなと思う。いろいろな子どもの意見を聞くことはいいことだけど、普段はめんどくさい、進むのにじゃまだと先生が思っていることがよくわかる。そんな特別なときでも、いつも何を言っているのかよくわからなくなる子はやっぱり指名しない。先生は、その子が授業のじゃまになると思っていると感じた。

どうでしょう。何も反論できません。こうして子どもは教師を信頼しなくなっていくのです。学校の勉強は嫌いだったと言われる理由がよくわかります。この方が特別なのではありません。どの子も同じように感じていたようです。
教師は子どもには自分の思惑はわからないと高を括っているのかもしれませんが、子どもは教師のことを見透かしているのです。あたりまえのことですが、子どもだからと見くびらず誠実に対応することがとても大切なのです。子どもにとって保護者以外に接する大人は教師以外ほとんどいません。その大人の代表が子どもに見透かされるような態度をとっていては、大人全体や社会が子どもの信頼を失くしてしまいます。
子どもは私たちが思う以上にちゃんと教師を見ている、気持ちを見抜いていることを忘れてはいけません。このあたりまえのことを改めて気づかせていただきました。

最近の授業アドバイスへの思い

子どもが全員聞く体制になってから話をしましょう。
友だちが発言しているのに板書を写している子どもには、書くのをやめてしっかり聞くように指導しましょう。
黒板を見て話をしない。子どもを見て話をしましょう。
子どもが作業しているときは、しっかりその様子を見ましょう。
子どもの発言はきちんと評価しましょう。
子どもの発言は、笑顔で受容しましょう。

これはこの1月あまりの授業アドバイスの内容です。新人か若手へのアドバイスに思えますが、実はそうでもないのです。ベテランでもこのようなことがきちんとできない人が目立つのです。これはどういうことなのでしょうか。基本的なことができていないままに経験年数だけが増えたのでしょうか。これは私の想像ですが、経験の中で話術といった授業技術をそれなりに身につけてきたので、こういった基本をきちんとしなくても、とりあえず子どもが席についておとなしく授業を受けてくれるようになったからではないでしょうか。指示一つとっても、きちんと確認するには少し待つ必要があります。限られた時間の中できるだけ早く授業を進めたい。そういう気持ちが、その少しを待てなくしているのです。4月5月の時期は基本的な学習規律を確立する時です。ここを雑にすると、今はよくてもちょっとしたことですぐほころびが出ます。ベテランでも例外ではありません。たまたま今まではうまくいっていたとしても、今年は崩れるかもしれないのです。
この傾向は、学校がそれなりに落ち着いているところで目立ちます。子どもたちに手がかかる学校では、こういった基本をおろそかにするとすぐに授業は成立しなくなります。手は抜けません。時間をかけて立て直した学校でも、喉元過ぎて熱さを忘れてしまっていることもあります。
基本的なことをきちんとしておかないと、教室の雰囲気はじわじわと緩んできます。学校全体が落ち着かなくなるのは突然ではありません。その前兆として、あたりまえのようにできていた基本的なことができなくなってきます。子どもがあたりまえのことができなくなるその裏には、教師が基本的なことに手を抜いているという事実があるのです。

私のアドバイスは先生方の耳に届いたでしょうか。そんなこと気にしなくても、ここの子どもたちは大丈夫。いざとなればちょっと締めればなんとかなる。そんなことを思われていないことを祈るばかりです。

家庭での子どもの居場所づくりを考える

「子どもの居場所をつくる」ということがよく言われます。安心して過ごせる場所があることは、子どもが安定した精神状態で暮らすためにはとても大切なことです。当然のことながら、学校にも家庭にも居場所があることが望まれます。学校では、不登校対策という側面も含めて子どもの人間関係をつくることや子どもの自己有用感を高めることを意識するようになってきました。授業で子どもの発言や反応を受容し、たとえ不正解でもポジティブに評価して子どもが安心して参加できることを目指す教師も増えてきました。一方家庭ではどうでしょうか?

私が思春期の子育てについて講演をするとき必ずお願いするのが、家庭での居場所をつくるために子どもの自己有用感を高めることです。
子どもがよい成績を取ると「よい成績でうれしい」とほめる。成績が悪かったり、失敗したりした時に、「あなたはダメだ」と叱る。一つ間違えると、親の期待に応えることが愛情を得られる手段だと考え、子どもはプレッシャーを感じます。自己実現が親の期待に応えることになってしまうと、期待に応えられない自分を否定的にとらえてしまいます。「頑張れ」という励ましもかえって子どもを苦しめることにつながります。大切なのは、「何があっても、あなたを大切に思っている、愛している」と伝えることです。間違いや失敗を指摘し、叱ることはとても重要です。しかし、子どもの人格そのものを否定してはいけません。何があってもその子どもの味方であるというメッセージを送ってほしいのです。

子どもに家族の一員であること実感させることも大切です。そのためには家族の中で自分の役割があることが大切です。最近ではあまり聞かなくなりましたが、「あなたの仕事は勉強だよ」というのは、勉強でしか評価しないというプレッシャーにしかなりません。風呂掃除1回につきいくらというのも、間違っています。自分の行為がお金という価値に置き換わってしまうからです。家族のために役立っているという自己有用感にはつながりません。サボっても家族が困るとは考えません。お金がもらえないだけなのです。
食べ終わったあとの食器を流しまで持っていくことでもいいのです。それに対して、「助かるわ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることが大切なのです。家族の一員として自分が役に立っているという自己有用感が必要なのです。

また、保護者に求められるのは子どものよき聞き手になることです。もうそろそろ大人に近づいたのだから「自分で考えなさい」と突き放すのも、まだまだ子どもだから「こうしなさい」と指示するのもちょっと違います。子どもの言葉をしっかり受け止め、「どうしようかな」と一緒に考える姿勢が必要です。叱るときも「あなたの・・・がいけない」とYOUメッセージではなく、「あなたのしたこと残念、悲しい」とIメッセージで伝えるようにすることを意識することが大切です。

こういったことをお話しするのですが、ありがたいことにとてもよい反応・評価をいただけます。しかし、これは私が伝えるまで保護者の方が意識してこなかったことなのでしょうか。もしそうだとすればこれは問題です。学校は家庭に子どもの居場所があることを願っているはずです。であれば、そのための働きかけをするべきではないでしょうか。家庭の問題だから学校がかかわることではないと考えているのでしょうか。「子どもの居場所をつくってあげてください」とただお願いすれば、それでよいと思っているのでしょうか。
私は、子どもの居場所をつくるための具体的な方法を伝えることの大切さを先輩から学びました。まだ子どももいない私でしたが、担任として保護者の方にここで述べたようなことを、失礼を承知でお願いしてきました。

家庭と連携して子どもを育てるとよく言います。であれば、学校として子育てを応援するためのことをもっと意識してもよいのではないでしょか。子どもとの会話のきっかけになる話題の提供。親が子どもを認め、ほめるために、一人ひとりのよいところを通知表や通信で伝える。こういうことが求められると思います。
ホームページで子どもたちの頑張りやよさを発信する。校長通信や学級通信を使って、固有名詞で子どものよいところを紹介する。学級担任だけでなく教科担任や部活動の顧問が、子どもたち一人ひとりの「いいとこ見つけ」をして、それを一人ひとりに印刷して配る。保護者面談で、子どものよいところをたくさん伝える。具体的な方法はたくさんあると思います。
学校での居場所だけでなく、子どもたちの家庭での居場所づくりを学校にもっと意識してほしいと思います。

文部科学省で審査員を務める

昨日は文部科学省に「学校の総合マネジメントの強化に関する調査研究」の審査員としておじゃましました。応募者の説明を聞き、質疑応答を終日おこなったのですが、とてもよい経験をさせていただきました。

感心したのが審査員に対する準備です。筆記用具や付箋、メモ用紙も机上に用意されています。付箋はサイズの違うものが、筆記用具も色違いのボールペン、鉛筆に消しゴムもあります。こういったことは当たり前のことで特筆すべきことではないのかもしれませんが、相手意識を持った対応だと思いました。見習いたいことです。

審査の内容については詳しく書けませんが、学校マネジメントといっても、本当にいろいろな視点、切り口があるのだと思いました。また、応募者の属性によっても受ける印象が異なることも面白く感じました。大学の研究者はその調査研究に対しての思い入れが強く感じられます。シンクタンク系はクールで、その必要性を論理的に伝えようとします。企画書としては後者の方がわかりやすいのですが、前者も訴えるものがあり、どちらがよい、悪いというものではありません。研究者の世界にもいろいろなスタイルがあるということです。
他の審査員の方の質問やコメントも私にはない視点がたくさん含まれていて、とても勉強になりました。

この審査を通じて感じたのは、文部科学省の思いです。この調査研究が現場の学校マネジメントの強化に役立つかどうかを一番に考えています。そこには自分たちが指導して学校を変えてやるといった上から目線ではなく、現場の役に立つという支援の姿勢が感じられました。担当者の方も、学校現場の大変さを知っている、知ろうとしていることが言動の端々から伝わります。私が現場の教員であったときに感じた文部省のイメージとは全く異なる姿です。組織として感じることと個人の印象の違いなのかもしれませんが、実際に私がお会いする文部科学省の方々に共通する印象です。現場の先生方の文部科学省に対するイメージは、今でも私が感じていたような「上から押しつけてくる」といったものだと思います。このギャップが埋まってほしいと思いました。

この日1日、いろいろなことを考え学ばせていただくことができました。このような機会を得られたことに感謝です。

読み物資料を活かした道徳授業を考える

先週末、本年度第1回の教師力アップセミナーに参加してきました。貝塚市立木島小学校長川崎雅也先生の「共感・感動で心をはぐくむ」というタイトルの読み物資料を活かした道徳授業のお話でした。

川崎先生の、「心は具体的な行動によって見える」という考え方は大いに納得できるものでした。登場人物の行動からその心に迫るという手法は、読み物資料を活かすための大切な視点だと思います。
 川崎先生の考える道徳授業の流れは、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」「道徳的問題点とその変化を考える」、最後に「生き方を考えることにつなげる」というものです。読み物資料を活用する基本は、主人公(登場人物)があることをきっかけに生き方(ありよう)が変わる場面を中心にその心の変化を深く掘り下げることにあります。そのためには、「ストーリーの把握」「登場人物の心を考える」といった資料の読み取りの部分はできるだけ時間をかけず、主人公の変化を考えることに時間を使うということを強く主張されました。しかし実際には、まるで国語の授業のように読み取りに時間をかけ、肝心の主人公の変化を深く考える時間がほんのわずかしかない授業に多く出会います。深読みすれば、子どもたちに深く考えさせることができないので、そこに時間をかけてもすぐに終わってしまうからなのかもしれません。

川崎先生は、この主人公の気持ちが変化する場面でかかわる登場人物を助言者と呼んでおられました。この助言者とのかかわりを通じて、主人公の気持ちを問いかけ、子どもの考えを深めていきます。この時、子どもの考えは、大きく3つに分類できます。
1つは、自分の行動の反省(過去)、次に他者(助言者)への気持ち(現在)、3つ目が次の行動(未来)です。特に最後の「次の行動を考える」ことが、子どもたちに自分がどう生きるかを考えさせることにつながる一番大切な部分です。子どもたちにそこまで考えさせなければ、道徳の授業としては薄いものになってしまいます。
また、子どもたちに深く考えさせるためには、映像でなく読み物であることが大切だと言われます。読み物は書かれていないことを想像するよさがあります。登場人物の表情が書かれていないからこそ、子どもたちはその時どんな表情をしていたのか考えます。これが絵やビデオであれば、顔が見えてしまえば終わりです。子どもによって異なる考えも生まれません。リアルなだけにかえって表面的になってしまうのです。読み物資料の「書かれていない姿が見える」よさを活かそうと意識して授業をつくることが大切であると感じました。

川崎先生は読み物資料のよさを活かしながら、子どもたちの考えを深める場面を見事に模擬授業で示してくださいました。どんな意見も「いいですね」とほめしっかり受容します。順番に指名しながら時には、「えー、○○じゃないの」と突っ込んで、より多くのものを引き出します。受けと切り返しの技術の素晴らしさに感心しました。ほめることで、どの子も安心して発言できる雰囲気がつくられます。順番に指名することで次は自分の番だとプレッシャーをかけ子どもたちに考えざるを得ない状況をつくります。たくさんの考えを聞かせることで、一人ひとりの考えを深めていきます。ここぞというところでは、教師が説明するのではなく切り返すことで、子どもたちの言葉で考えを深めていきます。教師が迫ることで、まさに「主人公の着ぐるみを着て」考えさせる授業になっていました。

川崎先生の見事な模擬授業に、この授業を実践したいと思う若手の教師も数多くいると思います。しかし、ほとんどは子どもたちの考えをこれほど深めることはできないのではないかと思います。この授業を成立させている要因は、授業者の資料に対する深い読みとその上での子どもへの切り返しの技術です。子どもの発言を受け止めて次の子どもを指名するのか、切り返すのか。切り返すのなら何を問いかけるのか。その判断と返しの言葉は、はたで見ているよりもはるかに高度なものだからです。
川崎先生は、教師と子どもとの1対1のやり取りをもとに授業を進めていきます。そのため、教師の力量が大きく問われます。経験の浅い教師にはハードルが高いのではないでしょうか。こういう場合は、子ども同士をつなぐことを意識するとよいと思います。「同じように思った人いる?」とつなげば、子どもが考えを足してくれます。「今の考えを聞いてあなたはどう思った」と問いかければ考えが深まっていきます。教師がうまく切り返せなくても、つなぐこと意識すれば子どもたちで深めていくことは可能だと思います。こんなことを考えました。

また、「主人公の気持ちを深く考えることで子どもたち自身の生き方を考えさせる」というのが道徳としてのねらいなのですが、時として、他人事になってしまい自分に引き寄せられない子どももいるかもしれないと思いました。このことをたまたま参加していた知り合いの校長に話したところ、資料を使う前にそのテーマに関したことを子どもに問いかけておき、最後にもう一度同じことを問いかけることで自分に引き寄せることができるのではないかと教えていただけました。なるほどと思いました。こういう進め方もよいかもしれません。

川崎先生が提案された道徳の授業のあり方が非常にレベルの高いものだっただけに、講演の間、ずっといろいろなことを考え続けました。読み物資料を使った道徳の授業に私が長い間感じていた疑問の多くを解決していただけました。本当に有意義な時間でした。川崎先生、ありがとうございました。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこなってきました。学級経営を中心にこの時期チェックすべきことをお話しする予定でした。講演に先立ち学校全体の授業の様子を1時間参観させていただきました。

全体の印象は目指すべき授業規律を教師が具体的に意識できていないということでした。教師が黒板に向かって話す。子どもが板書を写しているのに話していたり、教科書を開くように指示しても全員がまだ開いていないのに指名したりといった場面を目にしました。子どもの話を聞く姿勢も気になりました。教師の方をしっかり見ている生徒が少なく、体が反っている子ども、取り敢えず体は起きているが教師の方を向いていない子どもが目立ちます。いわんや友だちの方を向いて話を聞いている姿はほぼ皆無です。子どもたちが話を聞くことに価値を見出していないことがよくわかります。一問一答形式で授業が進み、子どもが答えた後、すぐに教師が説明し、続いて板書します。最終的に板書を写せば困らないのですから、聞くことに意味がないのです。
先生方にやる気がない、いい加減というのではありません。どなたも一生懸命に授業に臨んでいることは伝わります。しかし、目指す子どもの姿が曖昧なまま授業を進めてしまっているのです。漠然と子どもが話を聞いてくれることを意識はしているのですが、子どもがどのような姿になっていればよいのかが明確になっていないのです。

今年度「生徒が主体的に活躍できる場を保障し、存在感や自己肯定感を育てる」ことを目標とされたそうですが、目標を達成する手立てもまだ共有化できていないと感じました。
そこで、講演は当初予定していた「この時期にチェックすべきこと」についての話を減らして、子どもが活躍できる場をどうつくるか、自己肯定感をどう育てるかについての基本的な部分をより多く話させていただきました。

まず第一歩は、安心して暮らせる学級をつくることです。その基本は学習・生活規律が守られていることです。そして、子どもが教師からも仲間からも認められことです。ここで気をつけなければいけないのは、教師が話して聞かせば規律が確立する、注意をすれば守られるようになるわけではないことです。ほんの少しでもできたことを認め、一人でもできればそれをチャンスととらえ広げる。足りないところを指摘するのではなく、進歩をほめる。こういう姿勢で臨むことが必要になります。また、教師だけでなく、友だちに認められる場面をつくることも大切です。
認められる場面をつくるには、子どもが外化してくれなければ話になりません。そのためには外化をうながすと同時に、外化したことに対してポジティブに評価することが必要です。常に、「わかった人」と問いかけられれば、わかった子どもしか答えられません。わからない子どもが発言できるような工夫が必要です。「困った人いない?」とわからない子どもに寄り添うことや、「今の○○さんの意見を聞いて、なるほどと思った人」と、わからなくてもちゃんと聞いていれば参加できるような問いかけが大切です。また、子どもが意を決して発言しても、誰も聞いていない、評価されなければ否定されたと感じます。まずは、子どもの発言をしっかり受け止めて、受容する雰囲気を学級全体につくる必要があります。子どもの発言に、教師が笑顔で「なるほど」とうなずく。指名する時も、「○○さん答えて」ではなく、「○○さんの考えをみんなで聞こう」と友だちの考えを聞くことをうながし、仲間が聞いてくれる環境をつくる。こういうことが大切になります。

時間の関係もあり、基本となることだけに絞りましたが、こういったことを意識するだけで子どもたちの表情は変わっていくはずです。まずは教室に安心感が生まれることを期待しています。

講演終了後、教頭と懇談する時間をいただけました。授業参観の時に同行いただいたのですが、その際に私が指摘したことに関することや講演の内容を具体化するための視点などをたくさん質問いただきました。また、担当教科が国語ということで、国語の授業の進め方についてもお話することができました。いろいろな研究会や研修に積極的に参加されている方です。私にとっても参考となる話をたくさん聞かせていただきました。今年度の異動で赴任されたのですが、この学校に新しい刺激を与えてくださることと思います。

次回訪問時に、学校にどのような変化が起こっているかとても楽しみです。学校の中に教師の笑顔も子どもの笑顔も増えていることを願っています。

用語や抽象的な概念を理解するための活動

子どもたちにとって、用語や抽象的な概念を言葉の定義だけから理解することはとても難しいことです。試験のために定義をそのまま覚える子どももいますが、それでは身についたとは言えません。本当に理解し活用できるようになるためにはどのような活動が必要なのでしょうか。

1つは具体例からその用語や概念の必要性に迫ることです。
たとえば、正三角形や二等辺三角形といった用語を教えるとき、いきなり定義から始めるのではなく、仲間分けから始めます。活動を通じて、いくつかのグループに分かれることに気づき、それぞれに特徴があることがわかります。これらを区別する必然性ができるので、用語を定義することが自然な流れとなります。子どもの視点で仲間分けの規則も見えているので、それを整理して用語を定義します。

ある学校で、野外活動にむけて、TPOを踏まえた行動をとることを考えさせる場面に出会いました。この時、TPOとは何かから始まっていたのですが、「時(Time)、場所(Place)、場合(Occasion)に応じたふさわしい服装(行動)を選ぶこと」といってもなかなかピンときません。「電車の中で友だちとおしゃべりするときはどんなことに気をつける?」「じゃあ、休み時間の教室では?」「何が違うのかな?」といった具体的な場面での行動を問いかけ、子どもたちが何を意識して行動を変えているかを取り上げます。自分たちが意識していることを整理していくことで「TPO」という考え方にたどり着けます。このようにすることで、自然に用語や考え方を理解することができるのです。

もう1つの方法は、逆に定義を具体的な場面に適用することです。
先ほどの三角形の例であれば、いろいろな三角形を提示してその名前を問います。ここで、大切なのは、ただ名前を言うだけでなくその根拠を示させることです。

「この三角形は何三角形? ○○さん」
「二等辺三角形です」
「理由は?」
「この辺とこの辺が同じだからです」
「何が同じなの?」
「長さ」
「もう一度言ってくれる」
「この辺とこの辺の長さが同じだから」
「同じだから?」
「二等辺三角形です」
「なるほど。だから二等辺三角形になるんだ」
「二等辺三角形ってどんな三角形のことだった? △△さん」
「2つの辺の長さが等しい三角形」
「なるほど、だからこの三角形は二等辺三角形になるんだ」
・・・

中学校の社会科で「ファシズム」の説明を求められた子どもが教科書をそのまま読んでいる場面に出合いました。「反民主主義、反自由主義を掲げる全体主義の政治」といった教科書の言葉を読むだけでは本当にわかっているかどうかは疑問です。こういう場合も、具体的にナチスやファシスト党のおこなったことを取り上げ、どれがファシズムと言えるものなのか、それはこの定義のどこがあてはまるかを考えさせることで、より理解が進みます。その上で、もう一度子どもの言葉で定義し直すと自分のものとなっていきます。抽象化された概念を具体に当てはめることで理解させ、自分の言葉で再構成するのです。

いずれにしても抽象と具体に関連をつけて行き来することがポイントとなります。具体例をもとに抽象化する、抽象的な概念を具体的な場面で活用する。このような活動を大切にしてほしいと思います。

授業参観での保護者の様子を考える

中学校での授業参観での保護者の様子がいくつかの学校のホームページで話題になっていました。廊下でおしゃべりをしてうるさいというのです。保護者に訴えるだけでなく、何らかの手立てが必要だとの意見も多くあります。先日訪問した学校でも、先生方の話題になっていました。どこの学校でも問題となっているようです。このことについて少し考えてみたいと思います。

小学校ではこのようなことはあまり話題になりません。子どもは自分の保護者に来てほしい、見てほしいと思っています。子どもの期待に応えるためにも保護者は教室に入って授業をしっかり見ようとします。また、子どもが活躍する場面が小学校は多いので、自分の子どもの活躍場面を見ようと集中して参観します。授業の内容も保護者に十分わかるものなので、余裕を持って参加することができます。
裏を返せば、中学校はこの条件を満たしていないということです。
思春期の子どもたちは保護者が来ると恥ずかしいから来ないでと言います。
一方通行の講義形式の授業では、保護者にとって興味のない、よくわからない教科の話を聞かされる時間がほとんどです。子どもたちも、一部の子どもが発言するだけで、あとは受け身で板書を写しているだけです。保護者が見たいと願う、子どもの活躍の場面はほとんどないのです。
教室に入らずに廊下でつい世間話をしてしまうのもむべなるかなという気がします。

では、どうすればいいのでしょうか。
子どもが来ないでと言うのを変えるのはなかなか難しいことです。教師が「君たちの授業での姿は素晴らしい。この素晴らしさを知ってもらおう」とできるだけ具体的に子どもたちのよい姿をほめ、その姿を見てもらいたいことを伝える。一方、保護者も「みんなの・・・している姿がすてきだったね。あなたも・・・を頑張っていたね」と、参観後できるだけ具体的にほめる。このとき、自分の子どもだけでなく、学級全体もほめるとよいでしょう。友だちと比較して悪い点を指摘するのではなく、両方をほめるようにします。この時期の子どもは友だちとの関係がとても大切です。共にほめられることで見られることに肯定的な気持ちになれるのです。こういうことを地道に続けていく以外によい方法はなかなか思いつきません。もちろん、子どもたちのよい姿が授業中に見られることが前提ですが・・・。

2つ目の問題はどうでしょうか。授業の内容がわからないという点については、簡単な授業紹介や、授業の見どころを印刷して配るという対応をしているところもあります。教師が工夫しているところ、授業の内容をわかりやすく解説するなどしているのですが、はたから見ているとどうも効果はあまり感じられません。保護者は授業を受けに来ているわけでも、授業そのものを見に来ているわけでもありません。学校評価の一環で授業評価をするのならともかく、日ごろの授業参観では子どもたちの姿を見に来ているのです。保護者に伝えるべきなのは、授業のどの場面で、どのような子どもたちの素敵な姿が見られるのかではないでしょうか。授業参観で問われるのは、毎日の授業で、子どもたちのどのような姿が見られること目指しているのかだと思います。
しかし、学校として授業で目指している子どもの姿が、保護者の受けてきた授業と異なっている場合などは、外から見ただけではなかなか理解することができません。なぜこのような姿を目指しているか理解されないこともあるでしょう。日ごろから学校が目指す子どもの姿をホームページなどで発信して理解してもらうことが大切です。授業参観の時に、目指している子どもの姿と、そのために学校としてどのような工夫をしているのかについてミニ講演をしてもいいかもしれません。学校で取り組んでいる授業のよさを伝える一番簡単な方法は、保護者に生徒役になってもらい模擬授業をすることかもしれません。
実際に保護者対象に授業をした学校もあります。総合的な学習が導入された時に、その目指すものがどういうものかミニ講演をした例もあります。学校と保護者の見たい子どもの姿を共有する方法はたくさんあるのではないでしょうか。

授業参観で大切なことは、子どもの姿を通じて保護者と学校が理解し合うことだと思います。保護者と学校の見たい子どもの姿が一致すれば、その姿を見ようと積極的に参加してくれるのではないでしょうか。私はそのように考えています。

授業参観と現職教育

先週末、中学校で授業参観と現職教育でお話をさせていただきました。その前の週にも訪問した学校です(子どもたちの姿から多くのことに気づく参照)。

前回と大きく印象が変わることはありませんでしたが、授業者による子どもの姿の差がより大きくなっていたように感じました。この時期は、子どもたちは新鮮な気持ちで授業にのぞんでいるため、教師が身につけてほしい授業規律を意識して指導すると定着しやすい時です。そのため、わずか1週間あまりでも教師の意識の違いが子どもの姿の差となってあらわれていました。

若手の1年生の英語の授業です。子どもたちが素晴らしい姿勢で教科書を読んでいました。教科書の角度までそろっています。このことにこだわっているのがよくわかります。子どもたち全員にきちんと口を開けて読んでほしいという授業者の気持ちがうかがえます。授業者は自分の教科書を見てはいますが、必ず目を上げて子どものようすを見ています。子どもたちをしっかり見ているからこそ、徹底できているのです。

社会科の授業で机をコの字にして子ども同士に意見を言わせていました。授業者が子ども同士が互いを見ながら聞き合ってほしいと考えていることがよく伝わりました。この教室ではコの字にすると真ん中の間隔が狭く、教師が中に入ることができません。そこで授業者は自分の目線を下げて子どもの視線から外れるようにしていました。その上で、友だちを見ていない子どもには友だちを見るように、目線や手で指示をしています。子どもたちは互いを意識して聞きあえるようになりつつあります。意見に賛成の人は拍手するように指導していました。このとき、拍手しない子どもがいました。その中の一人を指名して、その理由を聞きました。友だちの説明の中の「ファシズム」という言葉がわからないということです。そこで授業者は、「説明できる人」と問いかけ、挙手した子どもに説明をさせました。わからない子どもとわかっている子どもをつなげようとするよい場面でした。
ここで、「ファシズムがわからない人、ほかにもいる?」とわからない子ども同士をつなぐことで、より多くの子どもが授業に参加しやすくなります。その上で「助けてくれる人」とつなぎたかったところです。また、ファシズムの説明をした子どもは、教科書(資料集?)を読み上げました。そうであるならば、「どこに書いてある」と聞き、わからない子ども自身に読んで理解させるようにするとよいでしょう。こうすることで、どうやって知識を得ればよいかがわかりますし、受け身で聞くより理解しやすくなります。その上で、「どう、ファシズムがわかった?」と確認し、まだわからないようであればどこがわからないかをたずね、また子ども同士で解決させるのです。
とはいえ、わからない子どもを大切にしよう、子ども同士をつなげようという意識があるので、授業は確実によくなっていくと思います。

学級活動の時間でも、授業者の差はあらわれます。子どもたちに任せていても、教師が子どもを見ているかどうかは大きな影響があります。教師が何も言わなくても、子どもたちを笑顔で見ているだけで集中力が違います。この時期、子どもが育つまでの間は教師が見守ることがとても大切なことがよくわります。
1年生全体の部活動の人数調整の場面で、直接指導をしていないときもずっと笑顔の若手の教師がいました。簡単なようでなかなかできることではありません。目に入る姿がいつも笑顔であれば、子どもたちはその教師が自分たちを笑顔で受け止めていると感じます。教師が自分たちを受容していると感じ、安心と信頼感を持ちます。実はその教師は学年の生活指導担当です。若い生活指導の教師は、力で押さえようとする傾向が強いのですが、それでは反発を生んでしまいます。まず笑顔で受容しているからこそ、いざというときの指導に従ってくれるのです。このことをわかっているからこそ、意識して笑顔でいたのだと思います。

現職教育は、校務主任の道徳の模擬授業を研修主任がコーディネートして、この学校で大切にしているものを伝える試みでした。授業者は意図的によくない場面もつくり、コーディネータは参加者の気づきを拾い上げていきます。息の合った展開でした。道徳の教科内容ではなく、子どもを見ることにスポットを当てた研修となりました。生徒役の先生も、最初はぎこちなかったのですが、次第に集中しなかったり、おしゃべりをしたりして生徒の気持ちになって参加してくれました。答えられない生徒役に対して、授業者は否定せずにしっかりと受け止めてくれます。感想を聞いたところ、「受容してもらえると安心する」と答えてくれました。この学校で目指していることを肌で感じていただけたのではないでしょうか。おしゃべりをしていた生徒に対しての指導も、一律に注意するのではなく、状況をまず見極めたうえで対応することなども示していただけました。

最後に私の方から、この学校が目指しているものとそのために今の時期に大切にすべきことをお話させていただきました。
この学校で見られる「子どもが笑顔で集中する姿」というのは、なかなか他の学校では見られないものです。そのためには、子どもをしっかりと受容し、子どものよい姿を認めること。できないことを指摘するのではなくできたことをほめること。ほめるためには、そのような姿が見られるような活動をする必要があることなどを、前回と今回見たよい場面を例にして伝えました。具体的な例をこの学校の先生方の授業場面で伝えることができるのはとても素晴らしいことです。研究指定を受けたときに校長がおっしゃっていた「新しい伝統をつくる」ことができつつあるのだと思います。
今年この学校に赴任した方にとっては、この学校が目指すものを言葉で聞くだけでなく模擬授業でも見ることができて、とてもわかりやすかったのではないかと思います。皆さんがとても真剣に参加されているのがよくわかりました。この時期にこのような現職教育を企画した教務主任は立派だと思います。新しく異動して来た方が戸惑うことが多いことを予想した上で予定に組み込んでいたのです。その細かい内容は前回私が訪問した時の学校全体の様子をもとに企画されました。急なお願いにもかかわらず快く模擬授業を引き受け見事にこなした校務主任とそのよさを引き出した研修主任。ベテランだからこその力を見せてくれました。
人事的に厳しい状況ですが、新しい力を加えてよりよい伝統をつくり続けくれるものと期待しています。次回訪問時に子どもたちがどのような姿を見せてくれるのか、とても楽しみです。

寝ている子どもへの対応を考える

授業中に子どもが机にふせって寝ていることがあります。中学校では時々目にする光景です。その時の教師の対応はまちまちです。みんなの前で注意して起こす。その時、「朝ですよ〜」などと笑いを取って、あまり気まずい思いをさせないように気を使う方もいます。机間指導の時にそっと肩をたたいて起こす。その時、「体調が悪いの?」と優しく聞く方もいます。中には、何も声をかけずに無視をする方もいます。
起こされた子どもは、ほとんどの場合そのまま授業に参加し続けます。しかし、中にはまたすぐに寝てしまう子どももいます。そのような場合、単に眠たくて寝ていたのではないでしょう。授業がわからない、やる気がないといった別の要因があるはずです。起こせばよいわけではありません。教師が声をかけないのは、その子には声をかけても無駄だと思っているのかもしれません。どうするのがよいのでしょうか。

教師ではなくまわりの子どもに声をかけてもらうのが一つの方法です。「起こしてあげて」と優しく頼み、子どもが起きれば「顔上げてくれて、ありがとう」「起こしてもらえてよかったね」と笑顔で声をかけ、起こしてくれた子どもにも「ありがとう」と一声かけておきます。叱ることなく、子ども同士の関係をつくることにもつながりますので、どの子どもに対しても有効な方法です。友だちがかかわることで、やる気のない子どもも参加しようという気持ちになってくれます。とはいえ、またすぐに寝てしまうこともよくあります。そういう子どもの場合、その時間だけで解決することはできません。時間をかけて、他の子どもとかかわりながらわかる経験を積むことや、自分の居場所があることに気づかせることが大切です。
子ども同士のかかわりをつくるのにはグループ活動が有効です。グループの形をつくるためには机の移動が必要です。机の移動は参加につながります。友だちから、「○○さんはどう思う」と聞かれることで、たとえわからなくても友だちとのかかわりが生まれます。誰でも意見が言えるような課題であれば、答えてくれるかもしれません。「○○さんはそう考えたんだ」と受け止めてもらえれば、自分の居場所ができたように感じます。聞き合うといった、どの子どもにも声がかけられるような活動が子どもの関係をつくり、発言を認めてもらうことが居場所をつくることにつながります。

ある学校では、「授業中に寝ている子どもをなくす」を目標にしていました。レベルの低い目標ですが」と謙遜されていましたが、決してそうではありません。先生方はただ起こすだけではダメなことをよく知っていました。子どもたちの関係をつくり、居場所をつくることに学校全体で取り組まれました。もちろん今では、そんなことがあったことに誰も気づかないような学校になっています。
寝ている子どもへの対応とその反応から、教師と子どもの関係、子ども同士の関係といった学校の現実が見えてきます。子どもたちが「寝てるなんてもったいない」と思うような教室であってほしいと思います。

作業中に集中力を切らさないために

学級によって、子どもたちに作業をさせているときの集中力の違いがあります。課題の内容や学級の特性だけでなく、教師がその時どのようにしているかが大きく影響しています。

子どもが課題に取り組めていることを確認した後、教師が教卓で次の準備をしていたりするとどうでしょう。子どもの集中力が一時的に切れることはよくあります。顔を上げてまわりを見たときに、教師が他のことをしていて自分を見ていないことに気づくと、この状況を追認されたように感じ、しばらく集中力は戻りません。次に集中力を切らした子どもは、他の子どもも集中力を失くしていることに気づき、安心して息を抜きます。集中力を切らす子どもが次第に増え、学級全体の集中力が落ちてくるのです。

では、机間指導をしている場合はどうでしょうか。子どもたちのそばにて、よい意味でプレッシャーをかけているのですから集中力は持続されるように思います。しかし、机間指導のやり方が問題です。子どもたちの手元を見ながら漫然と移動しているのでは(俗にいう「机間散歩」)、先ほどの例と状況はあまり変わりません。教師のいる位置から離れている子どもには、プレッシャーはかかりません。集中力が切れたとき、子どもが顔を上げても教師の姿は目に入りませんし、その子どもに教師も気づきません。
集中力が切れている子ども、困っている子どもに対してその場で指導すればよいのでしょうか。教師が1か所に留まってミニ授業を始めてしまえば、どうしてもその子どもに集中してしまいます。他の子どもは目に入りません。また、わからなくて集中力を失くしている子どもは、教師が他の子どもを教えているのを見ると、自分も教えてもらうことを期待して自分のところに来るのを待ってしまいます。すぐに教師が気づいてくれればいいのですが、そうでないとおとなしく待っていることができなくなり、ごそごそしてしまいます。
机間指導は教師の死角を増やします。意識しないと全体の様子を把握することはできません。

大切なのは、机間指導をする、しないにかかわらず、全員をしっかりと見守ることです。集中力を切らした子どもがいれば、目で問いかけます。教師が見守ってくれることがわかれば、また課題に取り組みます。もし困っているようであれば、その子どもに対して友だちに聞くように指導したりします。この時、指導にあまり時間をかけないようにします。常に子どもたち全員を見守ることを意識します。このことを意識している教師は、机間指導で子どもの手元を見ていても、次の子どもへ移動する際に必ず死角をつくらないように全体を見回しています。個別に指導していても時々顔を上げて全体を見ています。

子どもたちは、自分が教師に見守られていることを感じることで安心して過ごすことができます。このことが子どもたちの集中力を持続させるのに大切です。子どもが作業に集中しているように見えても、気を許さず、全員を見守ることを意識してほしいと思います。

「いいです」は慎重に使う!?

授業中に聞いていて、違和感がある言葉あります。「いいです」という言葉です。子どもの答が正解の時に教師が発する「いいです」。子どもの答に対する教師の「どうですか?」という問いかけに対して子どもたちが発する「いいです」。共に、誰かが答えを知っていて、発言が正解かどうかを上から目線で判定している。そのように聞こえるからです。皆さんはどうでしょうか。

発言者の立場で考えれば、誰かに判定されるために発言している。教師の求める正解を要求されている。そう感じるのではないでしょうか。たとえ子どもたちに「どうですか?」と聞いていても、ある程度の数「いいです」と言う子どもがいれば、教師が「いいですね」と追認して先に進むことがほとんどです。そこでは教師の求める答であるかどうかが問われているのです。公開で試験を受けて、その場で判定されているように感じるのではないでしょうか。子どもが積極的に発言しなくなっていくと思います。

すべての場面での「いいです」を否定しているわけではありませんが、あまり使ってほしくない言葉です。同じ目線の高さで、判定するのではなく共感する視点で言葉を選び、授業を進めていってほしいと思います(子どもの発言を引き出すには参照)。子どもがその言葉をどう感じるかにこだわってほしいのです。「いいです」に限らず、「正解」「惜しい」といった子どもに対して上から目線の言葉や、教師の求める答かどうかを判定するような言葉を使うことに少し慎重になっていただけたらと思います。

研究指定校で授業参観と打ち合わせ

昨日は市の研究指定校になっている中学校で授業参観と打ち合わせをおこなってきました。3年間の研究の2年目です。今年からかかわらせていただくことになり、今回初めての訪問となりました。

研修主任は30代で、とても素直な方でした。自分たちの授業は教師の都合で一方的に教えているだけではないのかと考え、子ども同士が伝え合うような授業を目指したいと考えている方です。
教頭、教務主任、研修主任と一緒に2時間ほど授業のようすを見せていただきました。男子女子がとなり合っていますが、前後は同性です。子どもが相談しようとするとほとんどの場合となり同士ではなく、前後の同性で話し合います。グループもそのまま4人になるので、同性がとなり合います。せっかく4人のグループにしても同性で話してばかりで男女がかかわり合いません。しかし、3年生の家庭科では、4人グループで向き合った男女が話し合っている姿を見ることができました。話し合う必然性のある課題だったとも言えますが、男女が話し合うことを授業者が今まで求めてきた結果なのではないかと思いました。その前の場面からそう考えたのです。グループ活動に入る前に子どものころどんな遊びをしていたか質問しました。授業者は子どもの発言を明るい表情でしっかり受容していたのです。そのため子どもたちがどんどん挙手し積極的に発言していました。この授業者であれば、きっとグループでの話し合いでも男女が話し合うことを求めていたと思えたのです。
また、小学校でそうしてきたのでしょうか、1年生では教師が指導していないのに男女がとなり同士で相談している姿を見ることができました。

学校全体を通じて感じたのは、教師が子どもを見ていない、見守っていないということです。子どもたちのどんな姿を見たいと思っているのかが伝わってきません。子ども一人ひとりが集中しているかどうかといったかとも、気にならないようです。基本的にわかった子どもを指名し、子どもが答えて正解だったら教師が説明する。一方通行の授業です。校内を参観して、子どもの声が聞こえてこないことが印象的でした。

できなかった子どもができるようになるための活動がないことも気になりました。このことが一番よくわかるのは体育の授業です。体育はできる、できないがはっきり見える教科です。ですから体育の教師は子どもができるようになる手段をたくさん持っています。しかし、この日見たバスケットボールの授業は、教師が見本を見せてやってごらんという、ただ活動するだけのものでした。しかも活動している時間よりも待機している時間の方がはるかに長いものでした。どうすればうまくできるのか子どもも教師も意識していない活動です。
体育に限らず、教師が指示をして作業をさせる、形式的に指名し発言させるが子どもの発言にかかわらず教師が一方的に説明して終わる。そのような授業ばかりです。教師が説明すればできるようになるわけではありません。できるようになる過程を意識している教師はほとんどいませんでした。

教科書に載っている用語を子どもに説明させる場面で、友だちの説明を聞いてわからない子どもを助けてあげてという発問ありました。子ども同士をつなぐ発問です。その後の展開が楽しみになってしばらくその教室にとどまりました。しかし、多くの子どもは反応しません、まるで他人事なのです。子どもの関係があまりよくないと感じました。指名された子どもが発表します。続いて今の内容を言うように他の子どもを指名します。つなげようとするものではなく、聞いていなかったお仕置きのようでした。子どもは困りましたが、なんとか自分の言葉で説明をしました。それを受けて教師が「教科書にも載っているが・・・」と説明を始めてしまいました。子どもが他人事だった理由がよくわかりました。助けようとしても、最後は教師が説明するのですから、意味はありません。一生懸命説明した子どもは何だったのでしょうか。よくわからない子に「わかった?」と確認をなぜしないのでしょうか。「助けてくれる?」というのは教師の建前だと子どもは感じてしまいます。
このことに象徴されますが、この学校では子どもの外化に教師が反応しません。ほめる言葉や受容の言葉、うなずくといったしぐさや笑顔がほとんど見られないのが特徴です。一言でいうと「冷たい」授業なのです。子どもは決して悪くはないのです。先ほどの家庭科の授業や1年生の子どもが男女で相談している姿がとてもよいものだったのがその証拠です。素敵な笑顔もありました。しかし、ほとんどの授業でそのよさを顕在化させていないのです。

この日は生徒集会がありました。せっかくの機会なので参加させていただきました。子どもたちのようすはとても面白いものでした。
1年生は集中力があまりありません。頭が揺れる子どもが目立ちます。しかし、うなずいたり、顔をしっかりあげたりと反応があるのも1年生です。この反応が、学年が上がることでなくなってしまっているようです。
2年生は、ただ聞いている形をとっているという印象でした。前で人が話しているときも、交代の間でも姿勢は変わりません。ただ、絶対的に時間が経つことで集中力が落ちて頭が下がる子どもが増えてきました。教師から形を強制されてきたのではないかと感じました。
3年生は、上手に緩むことができていました。前で人が話をしているときとそうでないときで姿勢や集中力にメリハリがあります。いい悪いは別にして、さすがに3年生といったところでしょう。
この生徒集会で1番驚いたことは、生徒会や委員会の代表が壇上で礼をしても、だれ一人礼を返さないことでした。友だちの話にほとんど反応しませんし、終わっても誰も拍手をしません。信じられませんでした。しかも、どうもそのことを先生方はおかしいと思っていないのです。「冷たい」授業と共通するものを感じました。
ちなみに、校長や教務主任が礼をすれば全員ちゃんと礼をします。上下関係の中で強制的にしつけられているということなのでしょう。
各学年で指示をしている先生の言葉づかいも気になります。明らかに上から目線です。こういったことがこの学校の何とも言えない重い雰囲気をつくっているように感じました。

今回は私が感じたことを同行いただいた先生方に率直にお伝えしました。どう感じられたかはわかりませんが、子どもは落ち着いて見えるが決してよい状態ではないことをわかってほしいと思ったからです。

授業後、研修主任と中堅の先生2人で打合せをさせていただきました。この方たちは、この学校の授業を変えたいと思っている方たちです。非常に素直に学ぼうとする姿勢を感じます。私の指摘を、自分のこととして受け止めてくれていることがよくわかります。この学校の授業を変えていく第1歩をどうするかが問題です。研修主任は、まず「子どもを見る」ことから始めたいと考えてくれました。しかし、ただ「見よう」では見ることはできません。見たいものを明確にしなければ、目に入っても認識されないからです。見たい子どもの姿を明確にすることが必要になります。問題はその姿を言葉で伝えても見たことがなければなかなか理解してもらえないことです。実際にこの学校の子どもたちでその姿を見せることが1番の近道です。
次回6月の訪問時には、研修主任自ら授業を見せて検討会をおこなうことになりました。ここで、目指す姿を具体的に提案することで研究を1歩前に進めようというわけです。そのためには、たとえ一瞬でもその目指す姿が現れることが求められます。これから2月足らずの間に子どもたちを変えていかなければなりません。しかし、私は楽観的です。研修主任はとても素直で、今日の授業でも子どもをつなごうと意識して進めていました。打ち合わせに参加してくださった先生方もやる気十分です。彼らが協力して互いに助け合いながら挑戦すれば、子どもたちはきっと応えてくれると思います。何度も言いますが、今までそのように働きかけていないだけで子どもは決して悪くないのです。
この状態から先生と子どもたちがどのように変わっていくのでしょうか。次回からの訪問がとても楽しみです。

子どもたちの姿から多くのことに気づく

一昨日は、中学校で授業参観をおこないました。この学校のお手伝いをするようになって5年目です。今年は新しい先生が18人異動されてきました。教室がどのようになっているかとても興味深く観察させていただきました。

3年生はさすがに落ち着いて、どの授業でも子どもたちはよい姿を見せていました。しかし、集中力は授業者によって少し差がありました。
数学は展開公式の授業でした。子どもとやり取りをしながら公式が成り立つ理由を考えさせている授業と教師が説明する授業では、明らかに前者の方が子どもの集中度が高いのです。
英語はALTの授業でした。子どもは積極的に参加しているのですが、やはりその集中度には微妙に差があります。それは、どうやらALTではなく英語の教師の立ち位置の違いにありそうです。ある先生は、教室の前方の入口のところで子どもから表情がよく見える位置で、私が見ている間ずっと笑顔を維持していました。もう1人の先生は、教室の廊下側の窓際やや前方でじっと子どもたちを見ていました。集中度が高いのは前者です。上手に授業を進めるALTですが、すべて英語なので子どもたちはわからなくなったり不安になったりすることもあります。そのとき子どもたちの目にいつもの先生の笑顔が入れば安心します。直接何もしなくても笑顔で見守っているだけでも子どもたちにとっては大きな支えなのです。見守ることの大切さはこの日いろいろな場面で感じることができました。

2年生の姿はとても印象的でした。昨年度に感じた授業によって見せる姿の差が感じられません。その姿は2年生というより1年生でした。目が期待でキラキラと輝き、とても集中しているのです。思わず教室の配置を変えたのかと学級のプレートを確認したほどです。
3年生、2年生はこの学校に残った先生が中心で担当していますが、この学年は今年が初めての方も多いようです。新年度で気持ちがリセットされることもあり、相乗効果でこのような意欲的な状態になったようです。2年生の担任団の中心になっている先生の言葉を借りれば、学級編成が変わり子どもたちがシャッフルされたが、よい子どもたちに全体がそろっている状態のようです。人事的に厳しいことがかえってよい方向に作用したようです。もちろんその根底に先生方の子どもへの働きかけが影響していることは間違いありません。このことは1年生の姿からも感じます。

一方1年生は11学級もあり、1年生であることからも新しく異動された先生方が多くを占めています。教室を見ていてこの時期にもかかわらず集中力のない子どもがたくさん目につくのです。今年の1年生は問題があるのかと心配になったのですが、いくつかの学級はとてもよい表情で集中しています。新任から5年目の先生の学級活動では、穏やかな笑顔で子どもを見つめている姿が印象的でした。余裕も出てきたのでしょう、子どもたちは先生に見守られている安心感で伸び伸びしています。男女の関係もよく、小学校でとてもよく育ってきていることが感じられました。この学校で2年ほど講師を務めている方も担任として入っています。この方の授業もとても子どもたちが意欲的に参加していました。しっかりと子どもたちを受け止めていることがよくわかります。
しかし、同じ教科のまったく同じ場面でも子どもの集中力は違っています。個人で作業をしているときの集中力も違うのです。その原因はどうやら先生が子どもを見ているかどうかにありそうです。集中している学級では、教師はしっかりと全体を見ています。集中していない子どもがいないか、手が止まっている子がいないか見守っているのです。集中を切らす子どもがいても、先生の見守る視線に触れて集中を取り戻します。一方集中が切れている学級は、教師が教科書を見たり、次の場面のための準備をしたりしています。机間指導をしていても漫然と子どもの手元見るだけだったり、ミニ授業を始めたりで全体を見ることをしていません。集中力切らしている子どもがいてもそのことに気づけない状態です。
音読などでも、教科書をずっと見ているだけの教師とチラチラと子どもたちを見ている教師との差は歴然です。5年目の教師の英語の授業では、1人なかなか集中できない子どもがいました。指でアルファベットを書く練習をする場面で、1人だけ動作が遅れます。前列の廊下側の端の席です。教師の死角になりやすい席です。しかし、この子どもの指が上がると同時に声がかけられます。たまたまかと思いましたが、そうではありません。必ず全員の準備ができるまで待っているのです。子どもたちが集中しているわけです。
一方、子どもに書けたら待つように指示しておいて、さあ始まるかと思うとまだ書けていない子がいるのでもう少し待たせる。このような学級もありました。その子ができたときには緊張が弛んでいます。遅れている子に早くするように指示をし、待っている子どもたちをほめるといったことをしないと子どもの集中力は持ちません。せめて待っている子どもたちを笑顔で見守っていないと子どもはやる気がなくなります。しかし、その間先生は次の準備をしていました。
子どもの発言を板書する場面でも違いがありました。子どもに近づいて意見を聞き発言が終わってから移動して板書をする先生と、子どもの発言途中で黒板の前に立ち板書を始める先生がいました。この差も明らかでした。
授業が始まって1週間経つか経たないうちに、1年生でもこのような違いが出てしまうことに驚きました。教師の働きかけ、かかわり方の差がこのような結果につながっているようです。2年生では、この差が少なかったのでしょう。
このことをわかってもらおうと1年生の学年主任に一緒に教室を回ってもらいました。まず2年生の1年生のような姿を見てもらい、その後1年生の教室を見てもらいました。まだまだ学年主任には若すぎると思われる歳の方ですが、子どもを見る力、授業力は確かな方です。力を見込んでの抜擢です。さすがに子どもの集中力の違いにすぐに気づきます。授業に入っている学級の子どもたちの姿の違いはショックだったのではないでしょうか。学年運営ではどう対処していいかわからないこともたくさんあると思います。しかし、彼の力を買っているからこそ助けてくれる方がたくさんいます。ドンドン頼っていいことを伝えました。

3年目の教師の数学の授業でとても素晴らしい場面を見ることができました。負の数の足し算でわからないことをつぶやいている子どもがいました。子ども同士で勝手に話し出していたのですが、注意する代わりにその子に何がわからないか聞きました。授業者は言っていることがよくわからないので子どもたちに「だれか助けてくれる」とつなぎました。本当にわからなかったのかどうかはわかりませんが、とっさになかなかできることではありません。日ごろから意識して子どもに聞くようにしているに違いありません。1人の生徒が発言し、それを受けてもう1人が「○○さんにつけ足して、・・・」と説明を加えてくれました。授業者は大きくうなずいて、「そういうことか、わかった。ありがとう」と笑顔で答えました。そして、本人やみんなに確認をしました。最後に発言した生徒だけでなく、最初に発言した生徒、わからなかった生徒、そして他の生徒も、みんな笑顔になりました。その瞬間教室が明るくなったように感じました。
昨年度に続いて今年も1年生の担任です。本人はそのことに不満だったようです。しかし、人事的に厳しい中、この学校での担任経験者として学年主任を支えてほしいという願いが込められた人事です。それに応えられだけに成長していることがこの場面でよくわかりました。正直、これまで彼にアドバイスしていて理解してもらえているのか不安な時もありました。しかし、ちゃんと素直に実践を積み重ねていたのです。学んだことが彼のものになるのに時間がかかっていただけなのです。子どもの成長を焦らず待つように言っている私が、実は若手教師の成長を焦っていたということです。このことに気づかせてもらいました。とても貴重な学びでした。
この日見た若手の先生方は、みなこの学校でしっかり成長していました。こんなにうれしいことはありません。

初任者の先生と一緒に教室を回りました。子どもたちの姿を見ながら少し話をしたところ、質問を受けました。その質問は、「子どもに考えさせたいのですが」から始まるものでした。この先生の目指す子どもの姿はとても明確です。1つ質問に答えると、それに付随して次々に具体的な場面についての質問が出てきます。たとえば、「子どもがずれた答を言って、次に指名した子どもが正しい答を言ったとき、正解と言ってしまうと最初の子どもが自分はダメだったんだとネガティブな気持ちになる。でも正解も教えなければいけない。どうすればいいのでしょうか?」といった質問です。1つ1つの場面で目指すものがはっきりしているので、現実とのギャップに悩んでいるのです。これは素晴らしいことです。私も具体的に答えることができます。とはいえ、目指す姿はベテランだってそう簡単に実現できるものではありません。焦らず少しずつ成長してほしいと思いました。
あとで聞いたところ、3年生の時に考える授業に出合い、それがとても楽しかったのだそうです。とてもよい授業との出会いがあったようです。教育実習の時は毎時間指導を受けることができたけれど、それがないためとても苦しいようでした。自分で勉強することも大切です。また、自分から教えてもらうように動くことも必要です。このことも伝えました。

子どもたちの姿、若手の成長から、教師が子どもの姿にどれほどの影響を与えるのか。子どもたちの環境がリセットされることで、どんなことが起こるのか。この日は本当に多くのことを学びました。また、新たな課題も多くいただきました。この1年間かけてこの課題を先生方と共にクリアしていきたいと思います。次回の訪問が今から楽しみです。

授業研究で考える

昨日の日記の続きです(授業参観で学年の状況の違いを考える参照)。
研究授業は、3年生のTTでの英語でした。子どもたちと教師の人間関係のよさが随所に感じられました。この学年に至るまでに培ったものが大きいように感じました。

この日の課題は2年生の復習で、ゲームを通じて疑問文とその応答を練習するものでした。質問文は誕生日、好きな教科、好きな歌手、好きな季節、次の日曜買い物に出かけるか、昨日TVを見たか、・・・など、10文が用意されていました。「5W1H」「過去・現在・未来・進行形」「比較」などを含む文で、何を復習させたいかが明確になっているよいものでした。また、この時期ですので、エンカウンターを意識したものにもなっています。授業者の思いが感じられるものでした。
授業の展開は、ウォームアップで英語の歌を歌い、英語の係が音頭をとって全体で英文の音読練習をします。
この日の課題に入り、まず疑問文を全体で音読し、その意味を簡単に説明して個人で答を考えます。
その後、グループで変形のじゃんけんを使って問題文を選びます。1人が質問をして隣が答え、今度は答えた人が同じ質問を次の人にします。1周してまた初めから繰り返します。たくさんの質問に挑戦できることが目標でした。
その後、全体で今度はT2との1問1答です。誰が答えるかはゲームで決めます。音楽を鳴らし、人形を順番に手渡しでまわして、音楽が止まったときに人形を持っていた人が当たりです。 
確認として、全体に対してT1が質問し各自が自分の答を言い、最後に授業の振り返りを書いて終わりでした。

英語の係による音読の場面です。私の近くにいた生徒は授業で使うプリントを持っていませんでした。自分からは隣の生徒に見せてくれるようには頼みません。隣の生徒も自分からは見せようとしませんでした。そのことに気づいた授業者が2人をつなぎ、忘れた生徒は見せてもらいながら参加しました。プリントを音読するのですが、見せてもらっている生徒は途中で集中力を失くしました。見せている子はそれでもプリントを2人の真ん中に保持していましたが、それ以上の働きかけはできませんでした。
英語の質問に対する答えを書く場面では、先ほどのプリントを忘れた子どもはワークシートも持っていないので作業できません。授業者は机間指導をしていてそのことに気づくのに少し遅れました。しかし、気づくとすぐにその子どもところにとんでいき、ワークシートを渡しました。その生徒はやる気がないのかなかなか手がつきません。しばらくじっとしていました。それに気づいた授業者は、ワークシートの反対側にあるヒントを示しながら具体的にアドバイスをします。すると、その生徒の手が動き始めました。やる気がなかったのではないのです。手がかりがなくて手が止まっていたのです。いくつか答を埋めた後、また手が止まりました。今度も授業者が気づいてアドバイスをすると、また手が動き出します。結局最後まで、自分からまわりの子どもに聞くことはできませんでした。
ワークシートは手がつかない子どものためにヒントも用意してあります。自分で考えてほしいという思いが伝わります。友だちに聞いてもいいとすると、写すだけで考えない子どもが出てくると思ってのことでしょう。しかし、教師が用意したヒントを見てもわからない子どもは、結局教師が個別に対応することになります。たとえ2人いても活動が止まってしまう子どもが出てきます。それよりは、まず写すことでもいいから活動をさせることが大切です。その上で、友だちの答をただ写すのではなく、ヒントを友だちからもらおうとする、写してもどうしてそうなるのと聞ける関係をつくることです。そのためには自分から友だちに聞ける子どもにすることから始める必要があります。
グループでのゲームの場面は面白いことが起こりました。先ほどの生徒は自信がないのか、今一歩積極的に動こうとはしていなかったのですが、班長の子どもに声をかけられることで参加できたのです。その後だんだん表情もよくなり、満足した顔で活動を終えました。授業者が生活班の班長をグループ活動で活かそうとした理由がよくわかります。問題はこの授業が英語の授業なのか、学級活動のエンカウンターなのか位置づけがはっきりしないことです。後者であれば、これはとてもよい場面です。しかし、前者とすると疑問が起こるのです。先ほどの生徒は自分からかかわることができません。まわりの子どももその様子を見てかかわろうとはしていないのです。働きかけるのは班長というリーダーの仕事になっているのです。リーダーがいるために多くの子どもが自らかかわり合えなくなっているともいえるのです。自らかかわり、学び合おうとする子どもをつくるのであればこれはマイナスです。このことに注意しなければなりません。

授業は全体としてそのねらいがよくわからないものになってしまいました。グループ活動は英語と関係ないじゃんけんの場面でテンションが上がります。最初のうち、英語の場面になればテンションが落ちていたのですが、グループ間で進行がずれてくると英語の場面とじゃんけんの場面が重なります。こうなると高いテンションに引っ張られて全体のテンションも上がり、聞くことへの集中力が下がってしまいます。
また、全体でのT2との1問1答もゲーム的な要素でテンションが上がってしまいます。友だちの答を真剣に聞いている子どももいるのですが、自分には関係ないとそこでは集中力が落ちている子どもも目立ちました。質問と答の文をマスターさせるのがねらいなら、もっと英語に関する活動を増やす必要があります。友だちの答が何だったかを英語でたずねる、友だちと同じ答えの人はいないかたずねるといった、聞く必然性のある活動を加えていくことも必要です。ほとんどの子どもたちは最後まで、ワークシートを見ながら答えていました。英語でのコミュニケーションを目的とするならば、達成できていないということです。
全体での授業者の質問に答える場面で1人の生徒が、ワークシート見ないで答えていました。この生徒をほめることで、ワークシートに頼らず自分の耳で聞き、頭で考えて答えることを促したかったところです。

子どもたちの感想は、楽しかったが多かったのですが、学級活動的な楽しさを追求してしまい、学習としての楽しさはそこにはありませんでした。

授業検討会では、ベテランからはこの日のゴールとなる子どもの姿が不明確であることが指摘されました。若手からはワークシートを見ないで質問し答えられることを目標とすればよかったのではないかとの意見が出てきました。よい考えだと思いました。
T2の方からは、まだ子どもたち一人ひとりの力がわからないので、その子に応じた質問を選べなかった。どうすればいいのかということを話されました。その場ではお答えしなかったのですが、基本的にあまり気にしなくてもよいと思います。もし質問に答えられなかったとしても、まわりの子どもに「助けてくれる」とつなげば解決するからです。

私からは、友だちの発言を聞く必然性のある活動、課題を心がける必要があることや振り返りシートは感想を書くのではなく、この1時間で学んだこと、できるようになったこと、わかったことなど自身の変容を書かせるようにすることなどをお話しました。
その上で、別の学校でお話した資料をもとに、特にこの時期に心がけてほしいことを伝えました。

会の終了後、希望者と懇談しいくつかの質問にお答えしました。
その中に暴言を吐く子どもたちにどのように対処すればいいのかという質問がありました。これは、その子どもが家庭などで暴言を浴びて育っているため、その言葉がどれだけ人を傷つけるか理解できていないことが大きな要因だと思います。いじめ対応などでも使われる方法ですが、暴言そのものでなくてもいいので、言葉が人を傷つける場面を設定して、どう思うか、どう対応するかを聞き合うといいでしょう。そのとき、どんな考えが出ても一切評価してはいけません。何らかのコメントが入ると本音が出にくくなるからです。最後に、みんなの言葉を聞いてどんなことを考えたかを書かせて終わります。人によって感じ方が違うことに気づき、自分の言葉が人を傷つけているかもしれないことを知ることでその子どもたちが変わっていくことを期待するのです。また、このことに関連して、傷つけることがわかっていて敢えてそういう行動をとる子どもへの対処も聞かれました。こういう子どもたちは自分が愛されていないと感じているように思います。悪い行動は悪いとはっきり否定するとともに、「あなたのことを好きだよ」というメッセージをしっかり発することが大切です。指導した後に、「話を聞かせてくれてありがとう」「話ができてうれしかった」とIメッセージを送ってほしいのです。ある生活指導の先生の場合、問題行動を起こした子どもに対しての最初の一言は「気づけなくて、ごめん」だそうです。なるほどと思います。こういう姿勢を大切にしてほしいものです。

今年から担任になった先生からの質問は、できるだけほめて学級を育てていきたいと思うが、そうすると気になる子どもはほめられないのでひがむのではないか。そう考えると他の子どもへのほめ言葉も少なくなってしまい、困っているというものです。
まずは、普通の子どもをしっかりほめて人間関係をつくることから始めるべきです。気になる子どもへの対応はその後でよいのです。この回答に対して、よくない状態で夏休みを迎えることがこわいので気になる子どもたちとの関係を1学期中につくっておきたいということでした。厳しいようですが、それは「驕り」だと答えました。まだ経験の浅い教師が学級全体も気になる子どもも同時に対応できるわけがありません。気になる子どもに対しては、他の先生方の助けを借り、相談しながら対応することが大切です。担任が話しできなくても、部活動の顧問が対応できる場合もあります。その子どもと関係を持てている子どもとよい関係がつくれればそこからつながることもできます。自分一人で何とかしよう、解決しようと力まないでほしいことを伝えました。

私が余計な経験を話したので、時間が遅くなり質問を受けられなかった先生もいました。申し訳ないことです。次回訪問時には、もう少し多くの質問を受けられるようにしたいと思います。
昨年度に訪問したときと比べて、子どものよい姿が多く見られたと思います。この状態を起点として、うまく子どもとの人間関係、子ども同士の人間関係をつくることができれば、とてもよくなっていくことと思います。教科の内容面については、次回以降にどのような方向性を持てばよいか一緒に考えたいと思います。この日も多くのことを学ぶことができました。このような学びの機会をいただけていることに感謝です。

授業参観で学年の状況の違いを考える

昨日は中学校の授業参観と授業研究に参加してきました。4月のこの時期、子どもたちのようすがとても楽しみでしたが、学年ごとの状況の違いがとても印象的でした。

3年生は、さすがによい姿をたくさん見ることができました。友だちの発言を聞こうとする姿勢ができています。発表者の方を向くことも自然にできます。また笑顔はどの学年よりもたくさん見ることができました。総じて教師と子どもの人間関係がよいことがうかがえます。国語の授業ではこの作品のジャンルは何かという問いをまわりと相談する場面がありました。子どもたちは、「詩だったら○○だから・・・」というように根拠を明らかにして話しています。根拠をもって話していますのでテンションは上がりません。とてもよい雰囲気です。この時期にこういう状態であるということは、根拠を持って話すことを1年や2年の時からきちんと指導してきているということです。きちんと育ててきていることがよくわかりました。
理科のグループでの発表も、子どもたちの聞く姿勢はとてもよいものでした。発表がよく見えない子どもが、何も言われなくても席を移動し体を伸ばすようにして聞いていました。発表後にはどのグループに対しても自然に拍手も起こります。授業者は異動したばかりの方です。この先生のよさもあるのですが、子どもが育っていることがここでもよくわかりました。ただ、どのグループにも拍手をすることでもわかりますが、形式的になっていることも否めません。礼儀として拍手をしているのでは、ちゃんと聞いて理解していなくても拍手をすればなんとなくそれでよいということにもなってしまいます。拍手をするのなら、その理由、何が素晴らしかったのかをきちんと問うことが大切です。また、1つのグループが、考えがまとまらずに発表することができませんでした。そのグループは他のグループの発表時にもまだ相談していました。わかりたい、自分たちの結論を出したいという思いの強さを感じます。このグループを活かすことを授業者には考えてほしいと思いました。答や結論を発表するものだという考え方がこの学校では強い傾向があります。そうなると答がわかった子どもたちしか発表はできません。そうではなく、困ったことから出発するという考え方も必要なのです。結論が出ていなければ、「どんなことを話したか、みんなに聞かせてくれる」「困ったことを教えてくれる」とたずね、「みんなで助けてあげて」「困ったことをみんなで解決しよう」とつないでいくのです(「わからないところ」から始める参照)。
グループの発表を順番におこなっているのも時間のムダに感じました。同じような発表が続くと集中力が切れてきます。1つの発表の後、「同じように考えたグループはある」「私たちは違うよというグループは?」とつなぎながら、同じところ、違うところを明確にして焦点化することを考えてもよいでしょう(グループ活動の後の発表参照)。
3年生に特に目立ったのですが、友だちとかかわれる子どもがいる反面、かかわろうとせずに1人で取り組む子どもがいることです。子どもが席を自由に立って教え合う場面で特に多く見られました。1人でやれるからかかわりたくない子ども、人間関係ができていない、自分から聞くことができないからかかわれない子ども、どちらもいるでしょう。後者の子どもをつくっている原因の1つは、わからない子どもに対してすぐに教師がミニ授業をしていることです。自分から友だちに聞かなくても、待っていれば教師の方から教えてくれるのですから、友だちとかかわる必要性はありません。教師は教えるのではなく、「友だちに聞いてごらん」とつなぎ役に徹することが大切です。わかるから、できるから1人でやりたいという子どもには、「助けてくれる?」と友だちの役に立つことに価値を見出すように働きかけることが大切です。「助けてくれてありがとう」、教師や友だちにそう言われることで自己有用感を持たせるのです。こういう子どもには、全体の場でも答を発表させるのではなく、考え方を説明させ、みんなが納得したかどうかで評価することや、友だちの考えを代わりに説明させたりすることが大切です。自分が正解できればいいという価値観を覆すことが求められるのです。

1年生は、指示を1つ1つ明確にし、全員ができるまでしっかりと待っている先生が多く見られました。この時期きちんと指示を通すことはとても大切です。「速いね」「○○してくれてありがとう」という子どものよい行動をうながし、ほめる・認める言葉をたくさん聞くことができました。子どもたちはやや緊張気味でしたが、集中して授業に参加していました。緊張気味なのは、教師の側にも理由があります。しつけようとする気持ちが強くなっているためか表情が硬いように感じました。この時期は特に笑顔が大切です。固有名詞でできるだけたくさんの子どもを笑顔でほめることで、子どもたちに認められている安心感が生まれ、緊張感も薄れるのです。また、今の時期はこれでよいのですが、5月に入れば指示を減らすことを意識してほしいと思います。言わずに行動できている子どもを見つけ、「○○さん、言われなくてもやっているね。うれしいな」とそのことをほめるのです。「こういう時はどうするんだっけ?」と具体的な指示をせずに、子どもたち自身で考えて行動するように促すのです。学年全体で取り組んでいけばきっと子どもたちが立派に育っていくと思います。

2年生は1学級40人構成で、教室は1年生時と比べて環境的にとても厳しい状況でした。子ども同士の距離が非常に短く、他の子どもの動きが気になるようでした。そのためか、教師の話を聞いているときの集中力が他の学年と比べて落ちるように感じました。授業規律等は1度リセットして作り直すチャンスなのですが、その意識は先生方からはあまり感じられませんでした。1年生の延長で授業を進めることを優先しているように感じました。昨年の悪い傾向が継続しています。指示が徹底していないのに次の場面に移っていく。子どもたちが聞く姿勢にまだなっていないのに話す。板書しながらしゃべるので、子どもたちが写すことを優先して話を聞かない。この学年だけというわけではないのですが、やや目立ちました。受け身の時間が長いので、グループ活動になると解放されてテンションが上がるか、集中力が切れてしまうことが多く見られました。ワークシートの穴うめをグループでおこなっていることも多く、考えることよりも答を出す、見つけることが優先されていました。
また、答を聞く場面では、ほとんどの子どもが書けているのにかかわらず、ほんの数人しか挙手しないことが気になりました。それでも教師は指名します。子どもに形式的に確認すると、「いいです」と返ってきます。このことをおかしい、まずいと思わないといけません。これは、子どもたちが発言することに価値を感じていないという状況です。間違えれば恥をかきます。正解でも、最終的には教師が言い直し、説明をするので自分が答えることには意味を感じません。これでは、あえて挙手して発言しようとしないのは当然です。子どもが安心して間違えられる教室、子どもの発言をもとにみんなが考える教室にする必要があります。たとえどんな内容であっても、子どもが発言してよかったと思えるようにすることが求められます。この学年に限ったことではありません。このことを大切にしてほしいと思いました。

学年ごとに異なる課題が見えてきました。今後どのようにこの課題を解決していくか、先生方の動きに期待したいと思います。

授業研究とその後の先生方との懇談については日を改めたいと思います(授業研究で考える)。

「楽しい授業研究」の研究が始まる

昨日は、愛される学校づくり研究会に参加してきました。今年度の第1回ということで、まずこの1年の活動予定についての説明がおこなわれました。今年度は楽しい授業研究をテーマに、授業研究の方法について研究していきます。具体的には、会員の代表がおこなう模擬授業に対して、毎回異なる方法で授業研究をおこない、その方法についてよさや課題を検討し合います。その成果を2月に開催するフォーラムで発表する予定です。

今回は、「3シーン授業検討法」で道徳の授業研究をおこないました。ここは参考にしたい、面白い、よくわからない、疑問だと参加者の心が動いた場面をその時間帯とともにメモします。どこで心が動いたかを挙手で確認し、多い順に3つを選び、その場面をビデオで確認しながら検討をします(「楽しく授業研究をしよう【第2回】3シーン授業検討法」参照)。
授業者はテンションを抑え気味にし、子どもの発言をしっかり受け止めています。子どもとのやり取りの基本がしっかりできています。そのためか取り上げられた3つのシーンはいずれも発問と焦点化にかかわることで授業技術に関することは話題になりませんでした。授業者の力量が安定していたことと、参加者の多くがそういった授業技術に関してよく理解していること。逆に、企業の方など授業技術に詳しくない方から見れば自然すぎて意識されなかったことが理由だと思います。
まず、挙手した方に理由を発表してもらい、その意見をもとに授業者、子ども役にも考えを聞きながら話し合いを深めていきます。3つの別々のシーンなのですが、論点は子どもがどのような立場で考えるか、いろいろな視点をどう焦点化していくのかという共通のものに向かっていきました。最後にどのように授業を変えればよりよくなるのかについて、それぞれまわりで話し合い、何人かが発表して終わりました。1時間の授業検討でしたが中身の濃いものになったと思います。しかし、ここまでの検討会になるには授業の質、コーディネータの取り回しの力や参加者の質の高さも大きく影響していることも否定できません。この授業でこのメンバーであればどんなやり方でもよい検討会になると言われれば、確かにその通りです。

「3シーン授業検討法」の検討は私がコーディネートさせていただきました。
今回の授業検討で出された意見は授業者にとっては納得できるものでした。参加者の多くは自分の学校でもやってみたいと思ってくれました。しかし、そうではないという方ももちろんいます。その方たちの意見はとても貴重なものでした。教師集団の質によっては授業者として名乗り出る人が出てこないのではないか。わざわざ挙手で進めなくても検討会の前に一部の人間でどの場面を話し合うか決めてもいいのではないか。なるほどと思います。この点について話し合うことで、授業を見る力もつけることができるというこの授業検討法の価値がより明確になったように思います。

模擬授業を含め、2時間余りの授業検討会とその検討でしたが、頭が休む暇がありませんでした。充実していただけでなく、もちろん楽しい時間であったことをお伝えします。この「3シーン授業検討法」に関する詳細は、5月27日(月)公開予定の、「楽しく授業研究をしよう【第3回】3シーン授業検討法は使えるのか?!」で。

「楽しく授業研究をしよう」第2回公開

「愛される学校づくり研究会」のWEBサイトで、教育コラム「楽しく授業研究をしよう」の第2回「3シーン授業検討法」が公開されました。
ぜひご一読ください。

「フォロー」という言葉を使わない理由

発言や行動など、子どもが外化した時には必ずポジティブに評価することをお願いしています。たとえ、間違えた発言であっても、「なるほど、そう考えたんだ」と受容し、認めることが大切です。よい行動をほめて強化することや、子どもの失敗をポジティブにとらえて認めるといったことを、「フォロー」という言葉で表現される方がいらっしゃいます。耳にする機会も増えてきたように思います。しかし、私はこの「フォロー」という言葉を使わないようにしています。それに代わる言葉を持っていませんので、子どもの発言や行動を「受容する」「認める」というように具体的に伝えています。特に「受容する」「受け止める」という表現をよく使うようにしています。教師の行動としては同じなのですから、どんな言葉でもよいように思われるかもしれませんが、あえてそうしています。このことについて少し述べたいと思います。

一番気になるのが「フォロー」という言葉が、私にはやや上から目線のように感じることです。「フォローした」という言い方には「してあげた」という気持ちが付随しているように思うのです。間違えた発言に「なるほど、そう考えたんだ。○○さんの考えが聞けてうれしいな」といった言葉を返すことを「フォロー」と表現すると、間違えた発言だけれど子どもが傷つかないように気を使ってあげた。そのように感じるのです。一方、同じ対応でも、子どもを「受容した」「認めた」と表現すると同じ目線で子どもの存在を抱きかかえるように受け止めているように感じるのです。
教師はいつも目下の子どもを相手にしているため、無意識のうちに上から目線で接してしまうことがあるように思います。同じ対応に見えても、目線の高さは微妙な言葉の調子や表情の違いなどで伝わるように感じます。

どのような気持ちで接するかは子どもとの関係においてとても大切だと思います。「フォロー」という言葉を用語として正しくない、「フォロー」という言葉を使われる方が上から目線だと言っているわけではありません。「フォロー」という言葉に感じるニュアンスも人によって違うと思います。ただ、先生方に自然に子どもと同じ目線の高さを意識してもらいたい、子どもを受け止めるという姿勢を持ってもらいたい。そんな私の思いを「受容する」という表現に込めているのです。そして、いや何よりも自分自身が受容する気持ちを忘れないように、自戒の気持ちを込めて使っているのです。私が「フォロー」という言葉を使わない理由です。
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