1年間の成長を感じた授業
先週末は、中学校の理科の授業アドバイスをさせていただきました。昨年度もアドバイスをさせていただいた方です。昨年度は小学校から中学校へ異動されたばかりで、戸惑うことが多かったように見受けられました。1年たってもう一度授業を観てもらいと手を挙げてくれたそうです。こういうチャレンジ精神はとてもうれしいことです。授業を見せていただくのがとても楽しみでした。
この日は、2年生の静電気の実験の場面でした。 最初の復習場面での子どもたちとのやり取りから、一人ひとりの発言をしっかりと受け止めようとしていることがよくわかります。発言をポジティブに評価しようとする姿勢も見られます。子どもたちとの関係もよいことが、子どもたちの表情からうかがえます。次の課題は、受け止めた発言を他の子どもにつなぐことです。「今の意見はどう?」「なっとくした」といったつなぐ言葉を意識するとよいでしょう。 面白い場面がありました、指名された男子が答えられなかったところ、隣の座席の女子が自分のノート見せて助けてあげたのです。男子は、最初はちょっと拒絶するような姿勢を見せていましたが、そのノートを読み上げて答えてくれました。男女の関係もよいことがわかります。よい場面です。ここで授業者は助けた女子をほめたのですが、答えた男子は評価しませんでした。確かに友だちのノートを読んだだけなのですから、評価に値しないようにも思います。しかし、友だちの助けを借りても答えようとした姿勢はほめるべきことです。「助けてもらってよかったね。答えてくれてありがとう」といった言葉をかけてほしかったところです。 実験の説明は教師が話すことが多かったのですが、子どもたちはしっかりと集中して聞いていました。ここでも子どもとの関係のよさが見られます。 子どもたちは笑顔で実験に取り組んでいました。男女も額を寄せ合いながらよく話し合っています。授業者は机間指導の間ずっと笑顔を絶やさずにいました。質問に対してそこでミニ授業を始めたりすることもなく、子ども同士で解決させるように働きかけたりもしています。子どもたちの様子からは、安心して授業に参加していることがよく伝わります。授業者の姿勢がこの雰囲気を作り出していることは間違いありません。昨年度は指示がなかなか徹底しなかった場面がありましたが、今年は違います。実験を終了してワークシートに考察を書く場面への切り替えの指示も実にスムーズでした。たまたまではありません。子どもたちが楽しく取り組んでいるときはなかなかやめようとはしないので、次への指示は徹底しないものです。これが徹底できるということは日ごろから指示が通るように指導している証拠です。昨年度の課題をクリアしようと意識していることがよくわかります。 考察を互いに発表して参考にするように促しますが、一部のグループを除いて中々発表し合えません。個人で一生懸命に考えているのですが、書けない子どももたくさんいます。行き詰って集中力が切れかけている子どもでてきました。書けていない子どもは発表できません。書けている子どもも、他の子どもがまだ考えている様子であれば、それを中断して自分の考えを発表はしません。ここは、「困ったら、聞き合って」とわからない子どもが自ら他者に働きかけるように指導していかなければならない場面です。 ここでも面白い場面がありました。考察が白紙のままの子どもに、「教えてもらったら」と授業者がつなぐ働きかけをしました。その子どもは、友だちに声をかけ書いている内容を読もうとしました。それを見届けて授業者は移動したのですが、友だちのワークシートを見ようとする行動を中断させる、ちょっとしたことが起こりました。子どもは気をそがれてしまい、また声をかけられた子どもも自分の作業に集中していたので自分からは働きかけようとせず、そこでつながりは切れてしまいました。声をかけた子どもは、またじっと自分のワークシート見たまま動きが止まってしまいました。アクシデントが原因ではあったのですが、授業者は声をかけられた子どもにも働きかけておくべきだったのです。「○○君聞けたね。いいよ」「○○君が聞いているよ。しっかり教えてあげてね」と2人をしっかりつなぐことが必要なのです。 実験は静電気を使って蛍光灯を光らせるというものだったのですが、教師が目的を明確にしなかったため、いろいろな方法で作った静電気で蛍光灯が光ることを確認することが目的となってしまいました。前回学習したいろいろな静電気の作り方を活用するということはわかるのですが、その結果から何を知ろうとするのかが明確でないため、子どもたちは考察に何を書いていいのかわからなくなっていました。 電極に火花が飛んでいたことに気づいた子どももいます。 反対側の電極を持っていた子どもで、手がビリッとした子どももいます。 蛍光灯が電極の周りだけでなく、全体が光ったことに気づいた子どももいるかもしれません。 静電気をたくさん蓄えようとしているグループは、明るさの違いに気づいたかもしれません。 教師が事前に目的を明確にしなくても、子どもから出てきたことから課題を見つけさせることもできます。この実験のように簡単に中断させることができるものであれば、考察までずっと実験を続けるのではなく、いったん止めて、気づいたことを発表させるとよいでしょう。先程の気づきを共有することで、子どもたちの視点を増やすことができます。 「火花はなんだったんだろう」「どうして、ビリッとしたのだろう。そのことから何が言えるのだろうか」「全体が光ったのはなぜだろう」・・・ こういう疑問もって再度実験することで、この実験のねらいに自然に近づくことができます。 静電気(電子)が流れることで電気を流すのと同じことが起こる。 ビリッとしたのは、手に電気が流れたからだ。 ・・・ 考察もしやすくなったはずです。 また用語についても少し気になりました。「電気」という言葉が理科の用語として明確になっていないことです。「電気」は私たちが日ごろ使っている日常用語です。そのため定義を明確にし、意識して使うことが求められます。子どもたちは「電気」と「電子」の2つの言葉を使っていました。教科書は「電気」を使っています。「電気」の実体は「電子」で同じだからいいと言ってもいいのかもしれませんが、少なくとも教師は「現象面」とその「実体」といった違いや教科書が「電気」を使っている意図を理解しておく必要があります。 授業後にアドバイスをさせていただきました。授業の基盤である人間関係がよくなってくると課題が明確になります。私の提示する課題を素直にかつ前向きに聞いてくれました。この姿勢がこの1年間の成長の原動力だと思います。 子ども同士をつなぐという課題は、何とかクリアしていけそうだが、理科の実験の扱いといった教材研究の面に関してはうまくできるか自信がないと、気持ちを素直に話してくれました。その通りだと思います。教科面に関しては、長い積み重ねが必要になります。日々、意識して教材研究をし続ける以外に特効薬のようなものはありません。もしあるとすれば、同じ教科の先生方同士で教科内容について話し合い、学び合うことを日常的にすることでしょうか。授業について互いに学び合う雰囲気が学校の中に広がっていくことを期待します。 参考までに、観察のような場面では、どのような「視点」で何と「比較」したかを意識させること。実験では、「何を知ろうとする」実験か、このことが言えるためには「どのような」実験が必要かを意識させること(「理科(実験)で大切にしたい問いかけ」参照)。モデルについては、モデルを前提として考えるのでなく、実験の「結果」、「事実」をモデルで説明できるかという視点を持たせること(「理科(モデル)で大切にしたい問いかけ」参照)。このようなことを伝えました。 この学校での授業アドバイスもこれで今年度最後となりました。先生方の授業からとても多くのことを学ぶことができました。最後に若い先生の成長した姿を見ることができたことをとてもうれしく思います。よい機会をいただけたことに感謝です。 ある校長の退職に思う
昨日はお世話になっている校長先生とお話をする機会がありました。今年度で定年退職されるのですが、勤務校やこの町の教育への思いをいろいろと聞かせていただきました。
町として新しいことに挑戦した学校でした。新しいことは最初からうまくいくわけではありません。理想と現実の間で、手探りでの試行が続きました。取り組みの成果が見えず、混乱した状態が批判を受けることになり、学校のことが選挙の争点となるなど、政治が絡んできました。そういった批判に対して、学校の考えを理解いただき、職員が自分たちの信じる教育をおこなえるように多くの力を割いてこられたことと思います。学校の中のことに力を注ぐべき時に、余計なことに力を割かれ悔しい思いもされたことでしょう。言いたいこともたくさんあると思います。その努力が正しく評価され報われたのかはわかりません。 地元の方なのでいろいろなしがらみもあったようです。次の校長にはそういったしがらみのない方がなって、学校運営に専念してほしいとおっしゃっていました。退職後は学校現場からは完全に離れられるようです。その方がこの学校にとっても良いことだと考えられてのことでしょう。一方、町としてすべての小中学校で最低限の授業規律や授業の進め方の共通化を図るよう取り組むべきだと、その実現に向けて働きかけてもおられます。学校への強い思いを感じました。 退職後はどのような形で学校教育とかかわられるのかお聞きすることを楽しみにしていたのですが、とても残念です。長い間お疲れさまでした。 今、学校現場への政治の介入が話題となっています。安易に是非を語ることはできませんが、そのために現場の教師が教育と関係ないところに力を割かなくてはいけない、よりよい学校をつくろうとする意欲がそがれる、少なくともそんなことだけは無いようにしてほしいと思います。政治には子どもたちのために先生方がその力を存分にふるえる環境をつくることを期待します。 教師を映し出す鏡を見る
この日記でもいつも書いていますが、先生の笑顔が子どもたちの笑顔を引き出します。明るい学級は間違いなく先生も明るいのです。教室の子どもたちは教師を映し出す鏡です。3学期ともなると子どもたちの所作も担任と似てきます。考え方までも似てくるのです。
私は明るい性格でないから無理だなどと思う必要はありません。教師がいつも笑顔で子どもたちに接すればいいのです。笑顔は訓練でつくることができます(笑顔は訓練でつくる参照)。最初はぎこちなくても、続けていれば自然なものになっていきます。教師が笑顔で接してくれれば子どもたちも安心して学級で暮らすことができます。子どもたちは教師の笑顔が大好きなのです。 子どもたちの心を育てることはとても難しいことです。しかし、印刷物を配る、宿題を集めてもらう、子どもに何かしてもらうたびに教師が「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えていれば、子どもたちは自然に「ありがとう」を口にするようになります。教室に「ありがとう」があふれるようになってきます。道徳の時間に感謝を取り上げるよりもよほど効果があります。 多くの先生が明るい学級、楽しい授業ということを口にします。子どもの心を育てたい。誰しもがそう思います。それを実現するのは、日頃の教師の子どもへの接し方だと思っています。今年度も残りわずかです。今一度、子どもという教師を映し出す鏡をじっくりと見てください。そこにはどんな姿が写っていますか。年度末には素敵な姿が映っているようにしたいものです。 話型を考える
グループでの話し合いやペアでの対話で、話型を使って指導しているのをよく目にします。コミュニケーションの基本を形で身につけさせようとしているのでしょう。しかし、子どもたちがその話型どおりに話すことを意識過ぎて形式的になってしまい、本当にコミュニケーションが取れているのか疑問に思うこともあります。話型について考えてみたいと思います。
よく目にするのが、相手の意見に賛成か反対かを冒頭に述べてから自分の意見を述べるというものです。あらかじめ相手の意見の方向性がわかるので、相手に伝わりやすくなります。しかし、それだけではありません。こういう話型を使うことを意識することは、友だちの発言をしっかり聞くことにつながります。自分の考えと相手の考えを比較するためには、まず相手の意見をちゃんと聞いて理解しなければいけないからです。相手の言葉を聞き、自分の考えを伝えるために話型を使っているのです。話型を使うことができたことで満足するのではなく、友だちの話を本当に聞けているのか、自分の考えをちゃんと伝えることができたかどうかを評価し、より高いところを目指していくことが必要です。 「○○さんの意見と同じで、・・・だと思います」 「どこが同じかみんなわかった?」 「○○さんも△△さんも・・・と言っています」 「二人の意見がちゃんと伝わっているね。□□さんも、よく聞けていたね」 「△△さん、同じ理由をもう少し詳しく聞かせてくれる?」 「○○さんの意見と違って、・・・だと思います」 「どこが違うかみんなわかった」、 「△△さん、違う理由をもう少し聞かせてくれる?」 意見を発表させたらすぐに次の意見を求めるのではなく、その発表が子どもたちに理解されているかを評価し、必要に応じて意見の同じところ、違うところを再度問い返すことも必要です。問い返すことで、「同じようだな」「違うな」と漠然と聞いている姿勢をより深く理解しようとするものに変えることができます。 ペアでの対話でも、うなずきながら聞く、相手の言ったことを復唱してから自分の意見を言うといったパターンを指導していたりします。子どもは一生懸命に相手の言ったことを聞くのですが、復唱しなければならないので覚えることに意識がいってしまい、その内容を本当に理解しているかどうかは心もとないことがよくあります。覚えたことを忘れないように、相手が話終わるとすかさず「○○さんの意見は・・・ですね」と復唱して、すぐに「私の意見は・・・」と続けていたりします。形の上ではスムーズに対話が進んでいるのですが、本当にコミュニケーションがとれているといえるのか甚だ疑問です。相手の言葉を理解するのには少し時間がかかります。また、相手の意見を復唱したのなら、確認をするためのやり取りをする間があるはずです。 単に復唱するのではなく、意見についてのコメントを付加する、コメントに対して聞き返す。そういう活動も組み込む必要があります。こういったことは、ペア活動の場面だけで指導はできません。全体の場での子どもとのやり取りで教師がお手本を示すことが必要です。子どもたちの目指す姿を、まず教師が実際に見せることを意識してほしいと思います。 話型を使った指導をするときには、話型を使うことの目指すところを明確にする。達成できているかどうかを評価して、達成するために必要な働きかけを教師がおこなう。このことを意識しなければ形だけのものになってしまいます。話型を使うことが目的化していないか、常に注意してほしいと思います。 白石範孝先生から学ぶ
本年度第6回の教師力アップセミナーは筑波大学附属小学校の白石範孝先生の「『この時の主人公の気持ちは?』これでいいのか、国語の授業〜論理的思考ができる子どもを育てる〜」と題した講演でした。
多くの国語の授業は思いついたことを子どもが発表するだけで、子どもが真に考えるものになっていないという白石先生の問題提起はとても賛同できるものでした。国語も算数も論理的な教科であるという言葉はまさに我が意を得たりでした。 論理的に考えるためには、 たとえば「要点」(形式段落レベルのまとめ)「要約」(文全体のまとめ)「要旨」(筆者の主張)といった国語の「用語」の違いを明確にして習得し、活用すること。 たとえば形式段落に分ける「方法」を習得しその方法を活用すること。 たとえば、漢字の書き順を上から下、左から右の順に書くといった「原理原則」を習得することで、1字1字覚えずに例外だけを覚えるようにすること。 といった、「用語」「方法」「原理原則」を習得しそれを活用することが必要と主張されました。 これらは、メタな知識、他の場面でも活用できる再現性のある技術と言い換えてもいいかもしれません。これはどの教科でも大切にしてほしい観点です。得た知識や技術は他の場面で活用できてこそ意味があります。このことを意識せずに学習を続けた結果、勉強とは単に記憶することと思っている子どもがいることはとても残念なことです。 詩、文学作品、説明文それぞれについて授業の作り方を具体的に教えていただけました。 詩では、リズムを大切にしたい。リズムは音数(字数ではない)できまる。したがって、音数、字数という用語を押さえておくことが必要であること。また、五七調は重い、暗い、七五調は軽い、明るいといった原理原則を押さえておくこと。使われる技法を見つけて終わるのではなく、その技法はどんな効果があるのか、その効果をどう活かしているのかといったことを問うことが必要である。 文学作品や説明文では、全体をとらえて考えることを大切にする。そのためには、題名をそのまま使って問いをつくることが有効である。題名は、文学作品であれば「中心事物・登場人物」「山場」「主題」、説明文であれば「題材・話題」「事例」「主張・要旨」であることが多い。たとえば「タンポポの秘密」であれば、「タンポポの秘密」はどんなもの、いくつある、・・・。こうすることで、文の構成を意識でき、読む視点も明確になる。 文学作品は、中心人物の変容をとらえることが中心となる。中心人物が事件・出来事によってどう変容するか。事件・出来事と変容の因果関係を問うことを大切にする。低学年の内に、登場人物(人に限らず、意思を持って動いたり話をしたりするもの)、中心人物(物語を通じて変容していくもの)といった用語もしっかり押さえておく。 説明文は、問いと答えに注目し、用語を積み上げていくことで指導していくとよい。 低学年では、形式段落、主語、文といった用語をまず押さえておく。問いの文は「・・・でしょうか」、答えの文は「・・・です」と文末に注目することを指導する。問いの文はどの段落にあるか、段落は何文あるか、どの文が問いの文か、何について聞いているかと問うことで、文意識や主語意識を持たせることが大切である。 中学年では、意味段落、要点、要約といった用語指導し、これらを使って文章構成図をつくっていく。 問いと答えの間にある事例・実験・調査・観察に焦点を当て、何が・いくつ・何のため・結果はといったことを問い、筆者の言いたいことにつなげていく。 高学年では、中学年にプラスして要旨を問う。具体を読み取り抽象化することが要旨をまとめることになる。 また、文の構成の基本パターンを指導しておくことも大切になる。 結論が先頭にくる頭括型、結論が最後にくる尾括型、結論が最初と最後にある双括型があるが、双括型は、途中で最初の結論をまとめて、それに自分の本当に言いたいことを+αして結論とすることが多い。 この基本パターンは文全体だけでなく、形式段落の構成など部分にも当てはまる。文章を書く時にも応用ができる。 要点は、文章構成、意味段落、要約、要旨を理解するための手段である。要点は、いくつの文からなるかという文意識と大切な一文を抜き出し短くまとめることが必要となる。このとき、何についてという主語を意識することが大切となる。主語を文末にした体言止めの形で要点を書くことが、主語意識を持たせるのに有効である。同じ主語のグループをまとめれば意味段落になっていく。 私がすぐに思い出せることでも、これだけのことがあります。非常に論理的かつ具体的で、参加された誰もが納得させられるお話でした。まさに国語の授業の原理原則を教えていただけたと思います。とはいえ、これで教材を目の前にしてすぐに授業が作れるかと言えばそういうわけにはいきません。白石先生からいただいた視点を参考に何度も文章を読み、教材研究することが必要です。私も白石先生から学んだことを、時間をかけて消化していきたいと思います。とてもよい学びをできたことを感謝します。 給食での死亡事故に思う
先日小学5年生の女児が給食のチヂミをおかわりして、アナフィラキシーショックで亡くなるという痛ましい事件が起きました。たまたま私の知り合いにその学校の保護者がいて、学校から保護者への説明の内容をかいつまんで教えていただけました。感じたことを少し述べたいと思います。
報道では3時間後に死亡となっていますが、実際はお子さんが不調を訴えたのが13時24分、校長がエピペン(アナフィラキシーに対する緊急補助治療に使用される医薬品で、使用者は患者本人か患者が未成年の場合は説明済みの保護者であるが、必要に応じて救命士、保育士、教師も使用可能)を注射したのが13時35分、13時40分の救急車到着後すぐに心肺停止が確認されているので、あっという間のことだったようです。 マスコミの論調は担任がチェックを怠ったことが原因ということでしたが、実際には不幸な偶然が重なったようです。 「これおかわりして大丈夫な食べ物か?」と担任は女児に聞き、女児といっしょに「親の作った献立表」でアレルギー物質の含まれている食事か確認したそうです(このとき、栄養士の作った献立表の確認はしなかった)。 女児は「お母さんの作ったリストに、マーカーが引いてないから大丈夫」と言ったそうです。急変後に担任はエピペンを打とうとしたのに、女児自身が「違う、打たないで」と言ったとも。 だから母親の責任だというつもりはありません。そんなことを言われなくても、母親は自分を責め続けるでしょう。担任もあのとき栄養士の作った献立表を再度確認しておけば、女児の訴えを聞かずにエピペンを打っておればと悔やんでいるはずです。除去食の受け渡しの担当者は、チヂミにはチーズが入っていて、除去食はチーズを抜いてあることを説明しておけばと・・・。多くの関係者がそれぞれに苦しんでいることでしょう。そして、目の前で友だちが死んでいくのを見ることになった子どもたちの心の傷はどれほどでしょうか。誰が悪いとかいう問題ではなく、事故は多くの人を不幸にします。 たまたまが重なって事故は起こるものです。ミスを起こさないようにすることも大切ですが、ミスは起こるものだという前提で最悪の事態を回避できるような体制をつくることが大切です。ミスは起きない「だろう」ではなく、起きる「かもしれない」と考えなければなりません。 事故が起きるたびに責任の所在が追及されます。誰かを悪者にしなければ悲しみや怒りの行き場がなくなることもわかります。法的な問題もあるでしょう。しかし、責任ではなく原因を追究することにより多くのエネルギーを割いてほしいと思います。そして、このような悲しい事故が2度と起きないような対策を取ることを最優先することを願います。もちろん子どもたちの心のケアはそれ以上に大切ですが。 女児の冥福と、保護者、子どもたち、担任をはじめ関係者の方々の心の傷が一刻も早く癒えることを心からお祈りします。 「愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の映像関係の打ち合わせ
昨日は「愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の映像関係の打ち合わせを、愛される学校づくり研究会の会員で、フォーラムに協力いただいているEDUCOM社でおこないました。今回のフォーラムは寸劇や模擬授業という今まで以上にライブ感のあふれるものとなっています。しかし、舞台でのようすがよく見えなければその良さは半減してしまいます。300人以上集まる会場ですので、後ろの席の方はかなり舞台と離れてしまいます。そこで、プロのカメラマンに舞台を撮影していただき、その映像を正面のスクリーンにリアルタイムに映し出すことになりました。
撮影をお願いしたメディアワークスさんは、このようなフォーラムでの模擬授業のライブ映像や授業の撮影を得意分野としている会社です。指導案を見るだけで撮影のポイントを理解し、先生方でも見落とすような子どもたちの表情や動きなどもきちんとカメラにとらえることができる方たちです。模擬授業とはどんなもので、何をねらっているといったムダな説明も必要なく、打合せはとてもスムーズに進みました。当日の寸劇や模擬授業がライブ映像を通じてよりリアルに伝わることと思います。 打合せ終了後、EDUCOM社の社長さんに撮影スタッフを外部に頼ることについて考えを聞かせていただきました。 もし、外部を使わなければ内輪でスタッフを選んで撮影することになる。クオリティのことを考えなければこの方がコストを低くできるように見えるが、決してそうではない。そのための準備や打ち合わせのための時間は、プロを使うよりもはるかに多くなる。結局トータルコストは高くなってしまう。 学校では、時間にコストがかかるという発想はあまりありません。外部のプロに頼んで浮かせた時間をより意味のあること、生産性の高いことに使う。企業では当然の発想なのです。もちろん外部に頼むための絶対的な予算が学校にないことも原因なのですが、あらためて、時間をコストとして意識することの大切さを教えていただきました。また同時に費目の縛りのない、学校の自由裁量で使える予算の必要性も強く思いました。 フォーラムまであと1月あまり、素晴らしいものにすべく多くの方が精力的に動いてくださっています。申し込みも順調で、残席はあと100ほどです。参加を検討されている方は、お早目に申し込みください。 試験後の学習を考える
冬休みが明けて課題試験を実施している中学校も多いと思います。子どもたちが休み期間中に学習をするための動機づけとしているように思います。しかし、試験が終わってその結果を見て、よくできた、ダメだった次は頑張ろうといった思いを持つだけで、その結果が学習に反映されていないように感じます。私は、試験が終わったあとこそ学習をすべき時だと思っています。
試験は評価のためにおこなうものでもあります。評価ですから、何が目標に到達できていないかがわかるはずです。目標が達成できていなければ、達成させなければならないはずです。ところがせいぜい試験の直しをさせるくらいで、本当に目標を達成させるまでは学習をさせることはなかなかできていません。授業は先に進んでいかなければいけないので授業中にやり直しをしている時間はありません。結局、子どもたちは試験が終わって結果に一喜一憂して終わってしまうのです。 試験の結果をもとに子どもたちが学習をし直すための仕掛けをつくる必要があると思います。 私は、絶対的な目標を設定して試験をおこないました。その目標に達しなければ再度類題で試験をおこないます。担任にも協力いただき全員が合格できるまで週に一度くらいの頻度で授業後に試験をおこない続けました。子どもたちには負担だったと思います。時には次の試験までに全員が合格しないこともありました。しかし、特に積み重ねの必要な教科では、基本となることが定着していなければいくらその次に頑張ろうとしてもできるようにはなりません。連続性のある単元であれば、この試験に合格しようと学習を続けたことが、今授業で学習していることの理解を助けてくれることもあります。先に進むことよりも立ち止まって定着させることのほうが大切なこともあるのです。同じことを単元でこれだけは絶対定着させなければいけない基本事項に絞って小テストでもおこなってきました。 全教科で同じことをすれば子どもたちの負担は大きくなりすぎますし、教科特性もありますからどの教科でも有効だとは思いません。しかし、学校全体で目標達成を意識して試験後に子どもたちにどう学習させるかを考えることは必要だと思います。 学校での試験は、入学試験のような子どもたちを選別するものではないはずです。試験をして単元の学習が完結するのではなく、試験から再度学習が始まるという発想も大切にしてほしいと思います。 3学期の学級経営を考える
3学期は1年の総仕上げの時とよく言われます。しかし、卒業式以外に大きな行事もなく、具体的に何を大切にすればいいのかよく見えない時でもあります。ともすると惰性で過ぎていってしまうこともよくあります。3学期の学級経営を考えてみたいと思います。
総仕上げの時として、まず何ができていて何ができていないのかを明確にすることが必要です。学級経営がうまくいっているときは、年度当初に考えた目指す姿に子どもたちが近づいていると思います。安定した学級の居心地の良さに安住するのでなく、新年度に子どもたちが更なる成長をするために必要なことを意識する必要があります。もし、この子どもたちを新年度に続けて受け持つとすればどのようなことを目標にするでしょうか。今年うまくいったからそれで完成というわけではありません。短い3学期の間に次の目標を達成することは難しいかもしれませんが、新年度に子どもたちが飛躍するための助走をする時期と位置付けて新たな目標を設定してほしいと思います。 また、よい学級の雰囲気に支えられている子どもの中には、新年度の新しい学級での人間関係でつまずく子どもも出てきます。学級がよい状態で担任に余裕があるからこそ、そういった子どものソーシャルスキルを高めるといった、個への働きかけも視野に入れてください。 年度当初に思い描いた姿と今の姿に少しギャップがある場合はどうでしょうか。この場合、担任がチェックすることはもちろんですが、子どもたち自身に振り返らせることが大切です。できていることを担任は大いに喜びほめてください。そして、できていないことを再度目標として、これを3学期に達成することを総仕上げとしてください。できていることをしっかり評価することで自己有用感が高まり、できていないことを達成しようとする意欲につながります。残りの時間が少ないからこそ最後の目標を達成しようというエネルギーが高まり、集中して取り組むことで期待以上の成果をあげてくれるものです。 残念ながら学級経営がうまくいっていない場合はどうでしょうか。この場合は、子どもとの人間関係がうまくいっていないことがほとんどです。やり直そうにも残された時間はあまりありません。3学期を何とかしのいで、新年度にリセットしてやり直そう。そう考えるのではないでしょうか。実は子どもたちも同じことを考えます。これでは3学期は互いに耐える時となって学級のエネルギーは上がりません。現状維持どころかますます難しい状況になってしまう可能性も高くなります。うまくいっていないからこそ前向きに取り組むことが大切です。新年度から変わろうとしてもなかなかうまくいくものではありません。新年度に変わるためにも今変えることが大切です。項目を絞って何を徹底させたいかをきちんと決めます。そして、子どもたちに教師自身も変わろうとしていることを伝えてください。その上で、再度設定した最後の目標を一緒に達成したいと話すのです。今までうまくいっていなかったのですから、すぐに結果がでることはありません。しかし、変わろうとする姿勢を見せることが子どもたちとの関係を修復することにつながります。教師が変わろうとしていることを子どもたちが感じてくれれば、新年度に同じ学年を持つことになったときに、大きな力となります。そうでなくても、子どもたちがよい方向に少しでも変わればそれはとても効果があることだったといえます。同じことをリセットされる新年度のスタートから意識しておこなえば、効果ははるかに大きくなります。自信を持って同じことをすればいいのです。 3学期はあっという間に過ぎてしまいます。仕上げの時であることを意識すると同時に新年度へどうつなげるかを意識した学級経営をおこなってほしいと思います。 待つことを考える
知識を問う発問であれば知っている子どもの手がすぐに挙がります。しかし、考えることを求める発問であれば考える時間を待つ必要があります。待ち続けても子どもから反応がなくて、つい教師が説明を始めることもあります。どこまで待てばよいのかは難しい問題です。待つことについて少し考えてみたいと思います。
発問したあとは、まず子どもが考えているのかいないのかチェックすることが必要です。その差は外見からはわかりにくいのですが、多くの場合、考えているときは発問が終わったあと、頭が下を向いたり教科書やノートなどの手掛かりを探したりします。友だちと相談することが普通の学級であれば、まわりの子と相談を始めます。しばらくすると早い子どもの手が挙がりますが、ここですぐに指名をすると他の子どもは考えるのをやめてしまいます。あわてて指名せずに他の子どもの考えがまとまるまで待つことが必要です。手を挙げた子どもには、うまく説明できるように準備することや、まわりと確認することを指示しておきます。できるだけ多くの子どもが自分の考えを持てるまで待つことが必要です。 ここで気をつけなければならないのは、子どもたちが行き詰まっているかどうかの判断です。考えて続けているのであれば待つことに意味がありますが、一人で考えても手掛かりがない状態であれば集中力が切れてきます。この状態で待ち続けていれば授業がだれてしまいます。まわりと相談させたり、全体で話し合ったりする場面に移行する必要があります。 では、発問のあと子どもたちが考えようとしていない場合はどうでしょうか。この場合に注意してほしいのは、何が問われているか発問そのものが理解されていない可能性があることです。課題を理解しているかどうかの確認場面をつくる必要があります。課題を理解しているにもかかわらず考えようとしないのであれば、待つことはムダです。考えるための前提となる知識が子どもたちにない可能性があります(考えるための足場をつくる参照)。 また、子どもたちに問いかけても十分に考える時間を取らずに教師が説明して終わる授業を続けていると、子どもたちは自分で考えようとしなくなってしまいます。考えなくても、待っていれば答がわかるからです。考えたということが評価され、自分たちが考えなければ答が手に入らない。そういう授業であることが求められます。子どもの言葉をひろい、つなげながら子どもの言葉で答をつくっていく姿勢が大切です。 子どもが考える時間を教師が待てないと、子どもたちは考えることをせずに誰かから答えが出てくることを待つようになります。かといって、集中力が切れているのに待ち続けていても時間のムダです。授業で待つことは大切ですが、ただ待てばよいわけではないのです。待ち続けるのか待つのをやめて次の場面に移るのか、子どもたちの状況を常に把握し判断することを意識してほしいと思います。 今年のアドバイスの方針
管理職の方から年賀状でいただいたメッセージに、若手の育成に関するコメントが多く見られました。現場に共通する課題です。私にとっても大きな課題ですが、即効性のあるうまい方法がないというのが実情です。今年は再度原点に立ち返って、次のようなことをていねいにおこなっていきたいと考えています。
・目指す子どもの姿を共有する 研究指定校などでは、管理職や研究のリーダとは子どもの姿について共有をするように努めています。そこで共有できると、学校全体と共有できたような気がして、個々の先生としっかり確認しないままアドバイスをしてしまうことがあります。一人ひとりの見たい子どもの姿をできるだけ具体的かつ詳細に聞き、しっかりと共有することから始めることを徹底したいと思います。 ・人間関係をつくることを意識してもらう 授業が成立する基本は内容以前に子どもとの人間関係です。子どもの言葉をうなずきながらしっかり聞く、子どもをポジティブに評価する、こういう姿勢の大切さや子どもの言葉を活かすことをしっかりと伝えたいと思います。教師がしゃべりすぎないように気をつけ、子どもの言葉をつなぐことで、友だちの話をしっかり聞く姿勢をつくることが、子ども同士の人間関係をつくることにつながっていきます。ここまで意識してもらうことを目指したいと思います。 ・子どもを見ることを具体化する 子どもを見るということはどの先生も大切にしていますが、何を見るか・見ているかは実は一人ひとり大きく異なっています。一緒に授業を見ながら子どもの姿から何がわかるかを伝える。授業の具体的な場面での子どもの姿がどうであったかを伝えて、それはどういうことか一緒に考える。このような機会をたくさん設けて、子どもを見る視点を増やし、自分の授業での子どもの姿をより意識して見るようになってもらえるようにしたいと思います。 ・教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらう 経験が少ない先生へのアドバイスは、教科内容以前の授業技術や子どもとのかかわり方で終わってしまうことが多くなります。しかし、もう一つの軸となる教科内容を後回しにしていると、子どもはとてもよい状態で授業を受けているのに学力がつかないということになってしまいます。教科書は授業で押さえるべきこと、子どもたちに考えさせたいことを意識してつくられています。表面的に理解するのではなく、なぜこのような例や素材を用いているのか、なぜこのような課題になっているのか、なぜあえてこのような表現をしているのかといった、教科書の記述や内容にこだわることが大切です。教科書の内容・意図を読み取ることを常に意識することで、自然に授業のポイントが押さえられるようになります。教科内容についてのアドバイスは、授業の具体的な場面で教科書の記述をもとに一緒に考えることで、教科書の内容・意図を読み取ることを意識してもらえるようにしたいと思います。 教師が育つためにはたくさんのことが必要です。今年もたくさんの方へアドバイスする機会をいただけそうですが、まずはこの4つのことを大切にしたいと思っています。 年末年始のお休み
12月29日から1月3日までお休みをいただきます。
日記もお休みをいただき、1月4日より再開します。 小学校でICT活用研究の打ち合わせ
昨日は、ICTを活用の研究発表を来年度予定している小学校で打合せをおこなってきました。
ICTが前面に出るのではなく、積極的に学ぶ子の育成をねらいとして、その上でICTを効果的な場面で利用するという方向で考えたい。そのためには、授業の流し、指名の仕方、ことばかけといった授業の基本的な考え方をまずはしっかり押さえたいということでした。この研究を機会に先生方の授業力の底上げをはかりたいという思いがよく伝わりました。 来年4月からよいスタートを切るためにも3学期中に動き始めることが必要です。先生方が学びあえる環境をつくること、特に研究を通じて一人ひとりが成長できる実感をもてるような仕組みをつくることが大切です。実はこの学校は今年の2月の愛される学校づくりフォーラムで国語の提案授業をおこなった授業者の学校です。事前の模擬授業での先生方の熱心な姿を思い出しました(授業づくりへの思いにあふれた模擬授業参照)。この先生方なら、研究授業をただおこなうのではなく、事前の指導案検討や模擬授業を通じてみんなで授業をつくることができるはずです。先生方が学び合う姿を想像して、わくわくしてきました。 この学校が目指す子どもの姿を抽象的な言葉で終わらせずに、具体的な姿で共有するためにどのような方法があるかについてもお話しました。授業で見られた目指す子どもたちの姿を写真に撮って、それをホームページや印刷物で共有する。授業研究では、互いに見つけた目指す子どもの姿を伝え合う。いろいろと工夫をして挑戦してほしいと思います。 どれほどのお手伝いができるかわかりませんが、この学校の先生方の持つよい資質を活かせればと思っています。 今年度異動になったあの提案授業の授業者が、この日の午後にこの学校で開かれる研究会の発表者になっていました。提案授業を通じて学んだことを参加者に伝えるということです。フォーラムでの取り組みをきっかけにこのように活躍してくれていることは、かかわった私にとっても誇らしいことです。 うれしいことに、私がこの日訪問することを聞いてその先生が早目にやってきてくれました。校長と3人で昼食をいただきました。あれからもたゆまずよい授業をしようと頑張っていることが言葉の端々から伝わります。授業で課題としていることが自然と会話の中にでてくるのです。私のちょっとしたアドバイスに対して、すぐに「やってみます」と前向きに受け止めてくれます。この先生がめきめき力をつけている理由がよくわかります。 とても楽しい時間を過ごすことができました。ぜひまたどこかで授業を見せていただきたいとお願いをしました。 お二人の先生から、たくさんの元気をいただけた1日でした。ありがとうございました。 この時期に人間関係を考える
子どもと教師の人間関係が大切であることをこの日記でもたびたび述べています。人間関係がうまくいっている学級は、2学期の行事等もよい方向に作用して、安定した学級経営ができていることと思います。ここで、今一度人間関係について考えてみたいと思います。
学級の人間関係をつくる要素はいろいろあると思いますが、その中でも基本となることは相手を認めるということです。自分が相手に認めてもらえると感じれば、自己有用感も持てます。自分の存在を意味のあるものと感じさせてくれる相手とは、よい人間関係をつくることができるからです。 相手によかれと思って話した言葉も、自分を否定していると取られてしまえば届きません。私はあなたを認めていますということが伝わっていて、初めて言葉も届きます。子どもを指導するときなどは、特にこのことを意識する必要があります。とはいえ、ことはそれほど簡単ではありません。相手にとって厳しいこと言うときに、同時に認める言葉を発することはとても難しいからです。ですから、それ以前から人間関係をつくっておくことが大切になります。子どもたちとの人間関係ができていないうちから、あれこれと厳しく指導してしまうと、良好な人間関係はつくることはできません。まずは、子どもたちを認める場面をたくさんつくることです。 常に笑顔で接する。 子どもたちの言葉をうなずきながら、しっかりと聞く。 子どもたちのよい行動を見つけて、「えらいね」「すばらしい」とほめるだけでなく「うれしい」「ありがとう」とIメッセージを送る。 4月の教室では、特にこういうことが大切になります。面白いのが、2学期の後半くらいになると、人間関係のよい学級でもほめる言葉やIメッセージがあまり聞かれなくなる傾向があることです。人間関係ができているので、いちいち言葉にしなくても、笑顔でうなずくだけで認められていると感じるからです。こういう学級は独特の温かい雰囲気があります。その教室のそばに立っているだけ気持ちが和んできます。 では、この時期になっても人間関係がうまくいってなければどうすればよいのでしょうか。今から作り直そうとしても、おそらく3学期いっぱいかかってしまいます。4月になってリセットされたら、もう一度やり直そう。そう考える方も多いと思います。しかし、4月になっていきなり、笑顔をつくれたり、子どもの言葉をうなずきながら聞けるようになれたりするわけではありません。3学期から意識して行動して、ある意味練習することで、新しい年度のスタートがうまくいくのです。3学期は仕上げの時期と言われます。しかし、新学期へ向けての準備の時期でもあるのです。お正月をはさむ冬休みは、落ち着いて一年を振り返ることができる時です。仕上げだけでなく、4月に向かって何を意識すべきか考えてみてはどうでしょうか。 授業力をどうやって高めようとしたのか思い出す
学期末から冬休みに入り、学校で授業を観ることのない日が続いています。先生方も少し息をついているところだと思います。しかし、このような時期だからこそいろいろなグループや団体の研修もおこなわれていることと思います。自主的に学んでいる先生方には頭が下がります。
自分の教員時代を振り返ると、長期休業中は部活動ばかりでこういった研修にもあまり参加した記憶がありません。もっとも、当時は今ほど機会がなかったようにも思います。ただ私が不勉強で知らなかっただけかもしれませんが・・・。では、私自身どのようにして授業の力を高めようとしていたのでしょうか。先輩の授業をこっそりのぞいたり、授業を終わって職員室に戻るときに先輩の板書を盗みしたり、印刷室や教室で先輩のプリントを拾ったりと、基本は盗むという発想でした。その一方で先輩に負けたくないというライバル心も旺盛でした。恥ずかしい話ですが、自分が担当している学級の平均点を競うようなこともしていました。子どもたちの成績を上げるためにはどうすればよいのか、とにかく思いつくことは何でも挑戦してみました。そのやり方がよいかどうかは、試験の結果が教えてくれます。とても単純な考え方ですから、一定の法則が生まれてきます。簡単なことです、教師が頑張った量ではなく、子どもが頑張った量で成績は決まるのです。ここに、大きな落とし穴があるのにも気づかずに、演習量(課題や宿題も含む)をいかに増やすかにエネルギーを注いだ時期がありました。自分が担当している学級の成績がよいと自分の手柄のように思い満足していました。担当している学級で私の教科の成績が他の教科と比べて相対的によいと、他の教科の先生の教え方が悪いのではないかとさえ思うようになっていました。当たり前のことに気づくまでは。そうです、私が子どもたちの演習量を増やしたために、他の教科にまで手が回らなくなっていたのです。子どもの時間を奪い合っていただけなのです。 このことに気づいてから、演習量を確保するのなら、他の教科の時間を奪わない方法を考えようとしました。その答えの一つは、子どもがやる気を出せばトータルの学習時間が増えるということです。やらされているという気持ちでは、時間の奪い合いになります。もっと勉強したいという気持ちにさせることが大切なのです。とはいってもそれは簡単なことではありません。自分が頑張ってわかった、できるようになったという自己有用感を持たせることが大切です。そのためには、日頃の授業も課題もすべてに工夫が求められます。同じように授業をしているのにこの学級の子どもは出来が悪いと子どものせいにして終わってしまっていてはどうにもなりません。そこから出発して、どうすれば彼らがやる気をだし、力を伸ばす授業になるのかを考えることが本当に必要なことです。学級ごとに、もっと言えば一人ひとりの子どもにどう対応して授業をつくっていくのかが問われているのです。課題を全員添削して、どこでつまずくのか、何がわかっていないのかを把握する。担当している子どもたちの学級や部活動でのようすを担任や顧問に聞く。他の教科の成績も教えてもらう。そういう情報を参考にしながら授業を組み立てようとしました。授業がうまくいっているかどうかは、子どもたちが教えてくれます。子どもたちの表情、集中の度合い、家庭での学習量、試験の結果、・・・。謙虚に子どもたちの発信を受け止めることで、課題は見えてきます。昨年うまくいったから、昨日うまくいったからと安易に同じように進めるのではなく、子どもたちが発するものを精一杯受け止め、毎日子どもたちと新しい授業をつくっていく。そういう気持ちで臨みました。 とはいっても、研修にもろくに参加しないような私です。知らない授業技術もたくさんありました。そんな簡単によい授業ができるわけはありません。今振り返ってみれば、とても人様に誇れるような授業ではありませんでした。ただ、子どもたちが教えてくれる課題を解決しようと考えることで、多少なりとも授業を改善することはできたように思います。 授業力をつけるのに、研修はとても有効なものだと思います。しかし、課題を持たずに研修に参加しても、自分は勉強した、前向きなよい教師だという自己満足で終わってしまう危険性があります。目の前の子どもの課題に気づき、その課題を解決しようと考える。その延長上にあってこそ、研修は大いに意味を持つのではないか。昔の自分の姿を思い出しながら、こんなことを考えました。 説明するとき意識してほしいこと
教師が説明をしたり、知識を伝えたりする場面で、教師の言葉が子どもたちに届いていないと感じるときがあります。「わかりましたか?」」と聞きますが、子どもたちに求めるのは「わかりました」という返事です。これでは、何がわかって何がわかっていないのかもはっきりしないままに進んでしまいます。教師が子どもに説明したり、伝えたりするときには、2つのことを意識してほしいと思います。
一つは子どもの視点で説明することです。教師にとって当たり前のことは説明せずについつい軽く流してしまうことがあります。用語や言葉もしっかり押さえずに使うこともよくあります。 たとえば、対角線は「頂点を結んだのが対角線だね」と簡単に確認することができます。しかし、「頂点」がしっかりと理解できていない子どもにとっては、この説明でははっきりしません。「結ぶ」のは直線(線分)で結ぶに決まっている、対角「線」というのだから線に決まっていると、教師にとっては当たり前のこととしてちゃんと押さえなければ、なんとなく「わかった」気になっただけで終わってしまいます。 「頂点てなんだっけ? この図形でいうとどこのこと? いくつある?」 「頂点と頂点を直線で結べる? 他にはない? 隣同士結んだのは何?」 「頂点と頂点を直線で結ぶと辺ができるね。辺しかできない?」 「隣り合わない頂点を結んだ直線(線分)を対角線というんだね」 「四角形には2本あるけど、五角形にもあるかな? じゃあ三角形はどうかな?」 子どもは一気に理解はできません。用語や言葉を一つひとつ具体的に押さえ、子どもの理解を確認しながら、段階を追って説明していくことが必要です。 もう一つは、わかったかどうかを確認する方法を意識して説明することです。この説明がわかったということは、何が言える、できることなのかを明確にしておくことです。先程の例でも、確認がいくつか含まれています。「頂点」がわかっているかどうかの確認を具体的な図形で指摘させる、いくつあるか答えさせることでおこなっています。対角線を理解したかどうかについても、他の図形で見つけさせる、実際に描かせる、図で指摘させるというようにいくつも考えることができます。確認の内容を意識すると、目標が明確になるため説明のポイントもはっきりします。教科書を読み解くにあたっても、教科書の確認場面を意識することで、そこに至る説明の意図が明確になってきます。 教師が説明をすれば子どもが理解できるわけではありません。子どもに理解させるためには、ちょっとした言葉もわからない子どもがいるかもしれないと意識して、子どもの視点に立って一つひとつ段階的に丁寧な説明を心掛ける必要があります。また、予め確認方法を具体的にし、そのことを意識して説明することが大切です。説明して終わりではなく、常に理解されたか、伝わったかを問いかけながら授業を進めてほしいと思います。 集中と緊張
子どもたちが姿勢を正して授業を受けている姿を目にします。しかし、必ずしも集中しているとは感じないことがあります。一方、背筋は伸びていませんが全員が集中している授業にも出会います。この違いについて考えてみたいと思います。
姿勢がよくても集中していないと感じる子どもたちは、身体や視線があまり動きません。友だちが発言したり教師が移動しながら説明したりしても話し手の方を向かないのです。次の課題や個人作業、グループ活動に移るときに、伸びをしたり体を揺らしたりする場面もよく目にします。身体が動かないということは緊張状態にあるのです。よい姿勢を維持するために緊張を続けているので、場面が変わると緩むのです。 話を聞こうとすると身体が話し手の方を向きますし、前傾姿勢になります。グループ活動でも話し合いが成立しているときは額を寄せ合うように前に傾きます。また、背筋を伸ばした状態で考えることはあまりありません。考えるときはリラックスしようと身体も動くものです。集中しているときはごそごそとは違う、自然な動きがあるものです。課題に集中していれば、次の活動に移るときでもムダな動きがなく素早く取り掛かります。 教師が子どもによい姿勢を求めすぎると、それが目的化して子どもを緊張状態にします。子どもがよい姿勢で聞いているので、ついついしゃべりすぎることもよくあります。子どもを受け身にしてしまい、ますます緊張を強いることになってしまいます。子どもの姿勢がよいからこそ、子どもに反応を求め、その反応をもとに次の活動をつくることが必要です。子どもを能動的に参加させることを意識しないと集中してはくれません。教師の説明を一方的に受けるのではなく、説明や友だちの発言を聞いて、考え・外化する場面をつくり、聞く必然性をもたせることが大切です。 子どもが集中しているのか緊張しているのかの判断をして、緊張を和らげ集中させることを意識してほしいと思います。 教師力アップセミナーの講師選定会議
先日、来年度の教師力アップセミナーの講師選定会議をおこないました。先生方に多くを学んでいただけるような講師陣を目指して、現在講演依頼を進めています。2月には詳細をお知らせできる予定です。
講師選定に当たって話題となったのが、教材研究において先生方が教科書をしっかり理解していないということでした。極端に言うと教科で子どもたちに学ばせることは何かわかっていないのです。具体的な授業場面で、教科書の意図や単元のポイントを伝えれば理解してはもらえるのですが、新たな単元になればまた同じことの繰り返しとなってしまいます。根本的な解決が難しいのです。このことを意識して、今年度鈴木明裕先生に「算数・数学での教科書の使い方と役割」についてお話をいただきました(鈴木明裕先生から学ぶ参照)。お話の中の具体例はよくわかっていただけたようですが、では他の単元・教材ではどうかというと、これがなかなか広がってはいかないようです。教科の基本となる力をつけるということは、講演を聞いてすぐにとはいかないということです。とはいえ、何とかしていかなければならないことには違いありません。日々教師としてどのように教科書や教材と向かい合うか、どのような視点で授業を組み立てるか。こういったことも重要になってきます。授業づくりで大切にすべき視点を意識していくと、教科書の内容や教科の目指すところも意識せざるを得ないからです。 来年度はここにスポットを当て、授業づくり、教材研究のポイント、授業への心構えについてお話しいただける講師をお呼びする予定です。どなたかは詳細発表までお待ちください。決して期待を裏切らないはずです。 2月には充実した講師陣を発表できることと思います。ご期待ください。 教師が育つ環境づくりについて講演
先日、校長会の研修会で「教師が育つ環境づくり」について講演をおこないました。今年の1月に続いてこの地区では2回目となります。リピートしていただけることはとてもうれしいことです。
学校において校長の発信はとても大切です。外向きと見えるような学校ホームページなどの発信も、内向きを意識することで先生方に対して大きな影響を与えることができます。授業の具体的な場面を取り上げて、よかったところをコメントする。目指す姿が具体的に現れている場面を取り上げてその意図を説明する。このようにすることで、先生方にも目指すところがよくわかりますし、外部の方も学校でこのような場面を目にすることを期待するようになります。外部の目が先生方にとってよいプレッシャーとなります。 そのためには、校長が目指す姿を具体的にしていなければなりません。漫然と授業を見て、その光景を発信していても何も伝わりません。学校の風景から目指す姿、目指す姿につながる場面を切り取る力が求められます。また、時間があれば校内のようすを観察し、校長が授業をのぞいても誰も気にしない。そういう雰囲気をつくる必要もあります。常によいところを見つけて発信することで、先生方の見られることへの抵抗感を減らすことも大切です。 教師が育つには、当たり前のことですが、指導と評価が大切になります。子どもと同じです。若手教師は積極的な指導がなければなかなか育ちません。ここで大切になるのは、目指す授業の姿や学級像がどのようなものかがしっかりと共有されていなければならないことです。ここがずれていれば話の根本が崩れてしまいます。まずはどのような子どもの姿を目指しているのか問いかけることから始める必要があります。その上で具体的な子どもの姿をもとに、何をすればよいのかをしっかり伝えることが必要です。指導した後に変化したかどうかの評価も大切です。変化することで結果出ればもちろんですが、すぐによい結果が出るとは限りません。意欲をなくさせないためにも、変化したということ、時には変化しようと意識をしただけでもほめることが必要です。ほめる方法も、直接ほめるだけでなく、教務主任等を通じて間接的にほめる、ホームページ等を使って発信するなどの使い分けが重要です。間接的にほめることは間に入った方との人間関係をつくることにもつながります。発信することは他から認められることにつながります。また、授業者との人間関係ができてくることで、校長が直接介入して授業を修正することができるようになった例もお話しました。 互いに学びあう風土づくりも大切になります。授業を見ない、見せないという相互不可侵の関係をつくっている学校を数多く見ます。その壁を打壊すことが大切になります。授業検討会を一部の人の意見や形式的な賛辞で終わるものから、全員が参加できる、何よりも授業者がやってよかったと思えるものに変え、学び合うことのよさを実感させる必要があります。 そのために教務主任が果たす役割はとても大きいものです。共に考え、時には自らがやって見せ、うまくできれば一緒になって喜ぶ、同じ仲間として寄りそう同僚性。つねによいところを見つけようとし、ポジティブに評価する機会をつくる姿勢。よいところをみんなに伝え、一緒に考える仲間をつくるという教師同士をつなぐ姿勢。教務主任の姿勢が先生同士の関係をよくすることにつながり、学びあう風土をつくりあげていきます。 このような教務主任を育てることも校長の仕事です。校長が指導する姿を見せて背中で教えたり、活躍させてみんなに認められる場面をつくったりすることが大切です。教務主任にも成功体験が必要です。機会を与え指導し、そしてほめる。この当たり前のことがやはり大切なのです。 この他にも、最近の若い教師の傾向やベテランが変わるきっかけについて具体例をもとに話させていただきました。 皆さん非常に熱心で、うなずいたりメモを取ったりととてもよく反応していただけました。先生方のようすから、どの学校もそれぞれの課題を持っておられることが伝わってきます。私の話が学校経営に少しでもお役に立てば幸いです。 学校評議員会で考える
昨日は中学校の学校評議員会に参加しました。
今年度の状況と次年度への取り組みについて、学校公開時の保護者アンケート、学習状況調査結果についての報告を学校から受け、それをもとに話し合いました。学校が劇的に変わっているわけではありませんが、いろいろなデータや皆さんの感想から少しずつですが学校の取り組みが前へ進んでいることがよくわかります。毎年取り組みがコロコロ変わるのではなく、目指すところをぶれささずに時間をかけて達成へ向かって努力することは大切です。しかし、毎年うかがう課題が大きく変わっていないことは少し気になります。今までの取り組みの延長線上では課題を解決することが簡単ではないということです。コツコツ続けて成果を出していることは評価できますが、新しい仕掛け、仕組みを考えなければいけない時が来ているようにも思います。 保護者へのアンケートは2回の学校公開日にとったものを提示していただきました。子どものようすや教師の授業への取り組みが質問項目となっていましたが、このデータの変化だけではコメントがしづらいものでした。同じ項目を子どもから見たアンケートと比較しないと、子どものようすや教師の取り組みが変化したのか、保護者の見方が変化したのかといったことがよくわからないからです。この点については検討をお願いしました。 また豊かな心を育てる教育の一環として外部の講演やいろいろな行事が検討されています。日々の実践の充実も示されていました。ただ、学校全体、学年、学級担任、教科担任、それぞれの取り組みをどうつなげていくのかがあまり明確ではありませんでした。もちろん個々に意識はされているのでしょうが、全体計画の中でしっかり明文化して位置づけて置くことが必要だと思います。時間をかけ、いろいろな視点や立場から子どもの心を耕し続けてほしいと思います。 全国学習状況調査の質問は、経年変化を見るためにほぼ固定されています。しかし、学校独自の課題や時代の変化に対応して調査内容を追加することも考える必要が出てきていると思います。携帯電話に関する項目も今後子どもたちへのスマホの普及に伴いLINEのような新しいツールに対応する必要があります。 また、読書について面白い結果が出ていました。読書の好きな生徒は70%ですが、60%近くの生徒が全く読書しないというのです。これは矛盾しています。読書より楽しいものに時間を奪われているのか、そもそも子どもたちは時間がないのか。きちんと調べずに読書指導の在り方を考えてもあまり意味がありません。 何を知るのか、次の取り組みにどう活かすのか学校としてのねらいを意識して、独自の調査を追加することを考えてほしいと思います。 校長が変わり、学校の目標もよりシャープになってきたと感じます。であれば、その目標がどう達成されているかを知る指標もより明確にできるはずです。目標達成の指標を具体的にして共有していくことが、個々の先生方の取り組みをよりよいものに変えていくきっかけになると思います。 最後に不登校について、ひとしきり話題になりました。この学校でもそうですが、一度不登校になると再び学校に出てこられるようになることは難しい傾向にあります。そのため、不登校の初期に学校に出てこられるように強く働きかける傾向にあります。しかし、根本的な原因を見つけ解決するための動きも合わせておこなわなければ、結局いつかは破たんしてしまいます。その原因は多様で、学校で解決できることは稀です。だからこそ、子どもたちを支える多様な人、場所、機関が必要だと思います。孤立して苦しんでいる保護者の実態が評議委員からも報告されました。地域の施設が保護者の悩みの受け皿になっていることも聞かせていただきました。不登校といった切り出しにくい問題も学校がオープンにしてくれることで、互いに実態を共有し考えを深めることができたように思います。すぐに解決できる問題ではありませんが、子どもたちを支えるよりよい環境づくりにつながることだと思います。 この日も学校からのごまかしのない情報提供のおかげで、多くのことを考えるきっかけをいただけました。いつものように学校をよくしたい、子どもたちによりよい成長の場を提供したいという地域の方々の思いが伝わってくる会でした。このような学校にかかわらせていただけることに感謝するとともに、少しでもお役に立てればと思いをあらたにしました。 |
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