公開授業と青少年健全育成会議

先週末は、学校評議員をしている中学校で、公開授業の見学と青少年健全育成会議への参加をしました。

公開授業での子どもたちのようすを見て、全体的に話を聞くことに集中できていないことが気になりました。一問一答形式での子どもとのやり取り、子どもが聞く体制ができていないのに教師が説明をする。このようなことがその原因にあるように感じました。また、前時の復習の場面で、手が挙がらないのにノートや教科書を調べようとしない子どもや、わかっているのに挙手をしない子どもが目立ちました。数人しか手が挙がらないのに教師が指名して進めてしまうなど、積極的に参加することを求めていないので、子どもたちは受け身で板書を写すことに終始していました。
グループでの活動も、課題が明確でなかったり、根拠を明確にすることを求めていなかったりするため、友だちの意見を聞く必然性がなくて話し合いが止まっていたり、逆に無責任な発言が多くテンションが高くなっていたりしていました。

もちろんすべての授業がそうではなく、同じ学級でも教師によっては違った姿を見せてくれていました。子どもたちの問題というより、教師の側の問題でしょう。授業の形にとらわれて、子どもたちのどのような姿が見たいかが明確に意識されていないことにその原因があるように感じました。

青少年健全育成会議は、通常の会議の他に数年前から地域の大人と子どもたちが一緒になって考える会が設けられています。その中で、大人と子どもの触れ合いの時間が設けられていますが、そこにも少し変化が見られました。
地域の大人1人に対して子どもたち10人ぐらいのグループをつくるのですが、今回は子どもたちがなかなかグループをつくれないのです。仲のよい子が5、6人のグループをつくるのですが、そこから他のグループと合流して大きなグループをつくれません。私が入ったグループも、すぐそばにちょうど一緒になるのに適当な人数のグループがいるのに互いに声をかけ合って合流しようとしないのです。人とかかわる力が落ちてきているように思いました。
大人と一緒に考える場面でも、なかなかうまく話し合いができません。たまたま私が入ったグループは1年生だったせいもあるのでしょうか、ぽつぽつと意見を言うのですが、そこから考えが広がりませんでした。まわりを見ても、似たような状況でした。しかし、このグループの1人は全体の場で2回も自分の意見を発表していました。このことは自分の考えは持っていても、かかわり合って高めるという経験が少ないことを意味しているように思いました。同じようなことを、この日参加された地域の方も感じておられるようでした。毎年参加されてきちんと子どもを見られていることがよくわかります。地域の方がこのような目線で学校を支えてくださっていることは、とても素晴らしいことだと思いました。

今回の話し合いは、自分たちの地域にゴミが捨てられている状況を写真で見て、それについて考えることがテーマでしたが、子どもたちはこのことを、ゴミを捨てる人の問題、環境の問題としかとらえられずに、自分の問題としてはとらえることができませんでした。ゴミを捨てる側の問題ばかりがでてきて、それを見た側の問題、それを放置するのか、拾うのか、どういう行動をとるのかということには考えが至りませんでした。このことは、この日見た授業ともつながるように感じます。自分がわかっていればいい、友だちがわからないのは自分とは関係ない。そのような空気が感じられたからです。教師が意図的に子ども同士のかかわり合いをつくり、人とかかわることのよさを経験させ、他者の役に立つことで自己有用感を持たせることが大切です。学級経営でも、たとえば、遅刻した子どもだけを責めるのではなく、そのことに気づいて声をかけられなかったこと、気づいてあげられなかったことを問題にするなど、他者とのかかわりの中で自分にできることを意識させることが必要になってきます。

ずいぶんネガティブなことを書きましたが、この日少しお話する機会のあった校長も教務主任もこのことはちゃんと気づかれているようでした。次回訪問した時にはきっと違った姿を見ることができると思います。そのことを楽しみにしたいと思いました。

授業に浸った1日

昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。若手中心に授業を見せていただいたあと、道徳の授業研究でした。

昨年おじゃましたときと比べて、若い先生、少経験者が増えています。授業を見せていただいて感じたことは、余裕がないということでした。みなさん授業の準備をしっかりされているのですが、かえって、これをやろう、話そうと準備したことをやりきるので手一杯となっているのです。そのため、子どもが考える・活動する場面が少なく、受け身の時間が長くなっています。そんな中で子どもは板書を写すことに意識が集中して、教師の説明よりノートを取ることを優先しています。教師も時間に追われ、子どもが顔を上げて話を聞いていなくても、そのまま話し続けたり、子どもが作業に集中しかけた時に追加の指示を出したり、説明を付け加えたりしています。子どもを見る余裕、子どもに任せておく余裕を失くしているのです。子どもの活動ではなく、教師の活動に意識が強く向いているということです。

子どもは教師の見たい姿にしかなりません。子どもが教師の話を集中して聞く。友だちの考えを真剣に聞く。集中して問題に取り組む。どんな子どもの姿が見たいのかを意識することが大切です。同じ学級でも、ベテランの授業では、子どもたちは説明を聞くべき場面では指示しなくてもしっかり顔が上がっています。日ごろの授業の中で自然にできるようになっています。子どもがノートに向かっているときには教師は何もしゃべりません。教師がじっと待っている間、子どもは集中して作業しています。子どもの問題ではなく、教師の問題であることがよくわかります。

しかし、ベテランの授業でも子どもが友だちの話を真剣に聞く姿はあまり見ることができませんでした。指名した子どもが発表するとそれ引き取ってすぐに教師の説明が始まります。子どもの言葉を活かし、子どもの考えで授業を進めることは意識されていませんでした。おいしいところを教師が持っていってしまうのです。教師が子ども同士かかわり合う姿を見たいと意識すれば、そのような姿を見せてくれる子どもたちだと思います。とてももったいないと感じました。

道徳の授業は、授業者の子どもたちにこうなってほしいという気持ちが強く現れたものでした。子どもたちと授業者の関係もよく、多くの参観者がいる中、子どもたちが授業者の期待に応えようとしていることがよく伝わりました。子どもとのやり取りの場面で、発言に対する教師の受けの言葉が「なるほど」「そうだよね」の2つの場合があることに気づきました。後者の場合には、教師が復唱して強調することもあります。授業者に確認したところ意識はしていなかったということですが、思いが強いため、無意識のうちに自分の望む発言を評価し、誘導していたのかもしれません。また、資料の「わたしの気持ち」を考えるという発問と、「意見」を書くという指示の仕方もあって、子どもたちは資料から少し離れて、やや客観的に考えていたように感じました。あまり心が揺さぶられておらず、変容があったのかよくわかりません。友だちの意見を聞きあって最後に各自がまとめた文も、出てきた意見から正解(≒教師の求めるもの)を見つけようとしているもので、本音の部分はあまり感じられませんでした。

授業検討会では、子どもたちに求めたものは資料の読み取りなのか、自分の考えなのかといった、国語と道徳の違いに関することと、子どもたちが自信を持って考えを発表するための指導法として机間指導時にワークシートに線を引いたり、○をつけたりしてほめることの2つが特に話題となりました。
前者については、子どもの心の変容を求めることから考えれば、資料の中に入って自分の問題として考えることが大切だと伝えました。そのために資料を正しく読みとることが大切ですが、その部分に時間をかけると考える時間が少なくなってしまいます。できるだけ早く読みとるためには、教師が資料を読みながら状況を説明したり、登場人物の心情について子どもに気づかせたりするなどの働きかけも必要なことです。
後者については、特に数学などの正解不正解がはっきりしている教科の場合には有効な方法ですが、道徳の場合、線を引いたり○をつけたりすることが、時として教師の価値観の押し付けになってしまう危険性があります。教師が○をつけてくれることを書こうとしてしまうのです。自信を持たせることで発言させるという発想だけでなく、自信がなくても発言できる雰囲気、環境をつくることも大切であることを伝えました。何を発言しても受容される、友だちに認められる、そのような学級づくりを意識してほしいとお願いしました。

この日は、皆さんと食事をする場を設けていただいたのですが、会場の移動前や食事会の最中に多くの先生が話を聞きに来てくださいました。どなたも授業にとても前向きで、質問や悩みの中に私自身が気づかされることがたくさんありました。どれだけ効果的なアドバイスができたかわかりませんが、きっと毎日の授業の中で着実に力をつけていかれると思います。
話に聞きに来ようとしてくださったのに、時間がなくてお相手できなかった方がいらっしゃいました。一生懸命授業に取り組んでおられたのですが、子どもとのコミュニケーションに苦しんでおられたように見受けられます。きっとアドバイスを求めていらしたのだと思いますが、それに応えられなかったことを本当に申し訳なく思っています。次の機会には、ぜひじっくりとお話を聞きたいと思います。

終日、授業と授業に関連する話にどっぷり漬かり、充実した楽しい1日を過ごすことができました。このような機会をいただけたことを心から感謝します。2学期にもう一度授業を見せていただく機会をいただけるようです。先生方がどのような進化を見せてくださるのか、今からとても楽しみです。

算数・数学におけるジャンプの課題を考える

子どもたちの学び合いでは、課題が大切だとよく言われます。特に子どもたちが大きくジャンプするような課題が求められますが、このような課題を考えることはなかなか難しいと感じています。いつも学ばせていただいている先生から、数学におけるジャンプの課題について、考えていることをメールで教えていただきました。その一部を引用します(順序等も変えていることをお許しください)。

授業ではともすると、解答とそれが正しい理由が扱われて進んでいくのですが、その解答を導き出すための思考過程を言語化させていることが少ない、これこそジャンプの課題となるのではないかと考えたのです。

例えば、なぜそこに補助線を引くことになったのか、
引けばよいのか、
引かざるをえなくなったのかを考えさせることです。

なるほど、これは大切なことです。私なりに勝手に解釈すれば、問題を解く、解決するメタな考えを問うことです。
図形の問題であれば、知っていること(平行線に関する知識、三角形や平行四辺形に関する知識、合同や相似)、わかっていること(仮定、仮定からすぐにいえること)、いえればいいこと(結論、結論つながりそうなこと、結論の一つ手前、中間の結論)を整理する。その上で、もし手掛かりが見つからなければ、補助線を引くことで知っていることが使えないか、知っている図形をつくることができないか考える。
こういうことを子どもたちに問題を通じて具体化させることだと思います。
しかし、これは数学の授業であれば本来、常に問い続けなければいけない課題のようにも思います。とはいえ、若い教師では、教師自身がこうやって解くものだと信じ、なぜここに補助線を引くのだと聞いても、こうやると解けるとしか答えられないこともよくあります。こうなると、教師にとってもジャンプの課題になってしまいますね。

このメールをきっかけに、私なりのジャンプの課題の考え方について少し書いてみたいと思います。まだきちんと整理できていないので、うまく切り分けられていないことをあらかじめお詫びします。

・多様なアプローチがあり、そのアプローチに汎用性があるもの
たとえば、中学受験などでよく見る、階段のあがり方の場合の数。階段を1度に1段か2段あがるとき、n段あがる場合の数を求める(もちろんn段でなく、10段などとしてもよいのですが)。
答はよく知られているようにフィボナッチ数列(前の2つの場合を足した合計になる)です。アプローチとしては、表を使って性質を見つける。しかし、これでは絶対的に正しいとは言えません。そうなる理由を考えなければいけません。数学における帰納的な考え方(漸化式)、具体的にはn段にたどり着くには、その前はどうなっているのか(先ほどの図形の例における結論の一つ手前と重複しますが)という汎用的な考え方を使うことになります(n段にたどり着くには、その一つ手前はn−1段かn−2段)。

・知識を現実の問題に応用するもの
現実の問題ですから、絶対的な答えがないものもあります。それも含め、現実的な答を考えることで、学ぶ意味を知るというのは大切なことと思っています。
たとえば、過去のイベントの来場者数のデータから景品の数をいくつ準備するか考え、その根拠を数学的な用語を使って説明する。
平均でよいのか。平均より多かったら足りなくなる。最大値でよいのか。超えるかもしれない。大量に余るかもしれない。平均値にどのくらい足そうか。最頻値を基準に考えた方がよいのではないか。正解はありませんが、平均・最頻値などの統計指標や統計そのものの意味などを考えることにつながります。

・いつでも成り立つか、逆は成り立つかを問うもの
小中学校では(高等学校でもよくありますが)、具体例で確かめただけできちんといつも成り立つか確認していないものや、逆は成り立つのかを考えていないことがよくあります。
たとえば、比例や1次関数の性質には、変化率が一定であることや1増えれば同じ数だけ増えるということがあります。これは、本当にいつもいえるのか。逆に、変化率が一定である、1増えれば同じ数だけ増える関数は比例になるのか、1次関数になるのか。ならなければどういう条件があればいいのか。
いつも成り立つのかは、文字をうまく使うなどしなければきちんといえません。逆の問題であれば、変化率が一定のときでも、原点を通るといった条件がなければ、比例にはなりません。また、1増えれば同じ数だけ増えるという条件では、(定義域を)整数に限定するなどしなければ1次関数にはなりません。教科書の問題でほとんどの場合、1次関数でと条件に1次関数であることを入れている理由の一つです。

・定義の理由を考える
こう決めるということには、何らかの合理性があります。その意味を考えることで本質に気づくことができます。
たとえば、君たちなら、角度をどう定義するか。
定義そのものでもよいですが、1周を何度にするかでもよいかもしれません。360°にした意味を考えるだけでも色々なことに気づけると思います(理科の問題かもしれませんが・・・)。このことを考えることで、扇形の周や面積の問題は、定義から自明となります。

・教育課程の範囲を超えている、一般的な理論があることを、限定された条件や具体例で考えさせる。
これは、今までの例をほとんどカバーしていることかもしれません。誰も思いつかないような素晴らしい課題をそう簡単に思いつくわけがありません。先ほどまでの視点で、小学校であれば中学校の、中学校であれば高等学校の内容と、この先学習することから課題のネタを拾ってくるのです。フィボナッチ数列の例は言わずもがな、統計の例は、現実には分布がどのようなものになるか、標準偏差や危険率などの問題から考えることを、できる範囲で考えさせているわけですし、比例や1次関数の例は、関数の連続性や微分、関数方程式やカントール集合の問題などにもつながっています。角度の問題だって、孤度法にもつながります。(数学の先生でない方はこのあたりは読み飛ばしてくださいね)
たとえば、2の平方根は、循環小数にはなりそうもないと確かめていますが、有理数(分数)で表せないことは、きちんと平方根の意味を教えていれば、中学生にもチャレンジできる問題となります(背理法といった難しい言葉を使はなくてもいいのですから)。

ここであげた例が、現実にすぐに子どもがチャレンジできる課題かどうかはわかりません。それまで子どもたちがどのような課題に取り組んでいたかにもよるでしょう。最初にちょっと揶揄した書き方をしましたが、子どもにとってジャンプの課題は、教師にとってもジャンプの課題です。教師が積極的にチャレンジしていかなければ、子どものジャンプは期待できないと思います。皆さんがチャレンジしておもしろかったジャンプの課題があれば、ぜひ教えてください。また機会があれば、他の教科のジャンプの教材についても紹介したいと思います。

いつも同じことを言う教師

子どもの教師への評価に「先生はいつも同じことを言う」があります。これはよい意味でも悪い意味でも使われます。悪い場合は「くどい」「しつこい」に近い使われ方です。教師が求めるものが高く、それに子どもが応えられないとき、どうしても同じことを何度も言うことになり、子どもはまた言っている、また怒られたと感じるのです。一方よい場合は、教師が大切にしていることは結局このことだ、このことを意識していればいいのだと納得できているときです。教師がいつも言うべきこととは何なのでしょうか。

それは、目指す子どもの姿、行動を考えるときに、常にそこに立ち返るべき原点です。
たとえば、最近「当り前のことがちゃんとできる」ということを大切にしている学校によく出会います。この言葉の優れているところは、子どもたちの取るべき行動の原則として非常に広い範囲を含んでいることです。「時間を守る」「ルールを守る」「約束を守る」「整理整頓をする」・・・。どれも「当り前のことがちゃんとできる」に含まれています。「時間を守る」には、「学校に遅刻をしない」「チャイムが鳴る前に席につく」「体育館への移動に遅れない」などが含まれます。だんだん細かくなっていきますね。
一方子どもたちへの指示や指導はできるだけ具体的であることが大切です。「当り前のことがちゃんとできる」と言っても、「チャイムが鳴る前に席に着く」が「当り前のこと」として意識はされません。そのことを意識させる必要があります。だからといって、できるようになるまで「チャイムが鳴る前に席に着く」と言い続けることはネガティブを言われ続けるので、悪い意味で「いつも同じことを言う」と感じることになります。

「今日も遅刻がいなかったね。当り前のことがきちんとできているね。えらいね。ところで、さっきチャイムが鳴る前に全員席に着いていたかな。どう?」
「着いていなかった」
「チャイムが鳴る前に席に着くのは、当り前のことかな?」
「当り前のこと」
「じゃ、これもきちんとできるようになろうね」

指導する時には必ず、原点となる言葉に立ちかえるようにします。広い範囲を含むので、できていることもたくさんあるはずです。そのことをきちんとほめ、だからこれもできるようになろうと前向きに伝えるのです。原点に立ち返ることが意識されてくれば、どのような場面でも、自分で正しい行動を判断できるようになっていきます。

いつも言うことを「当り前のことがちゃんとできる」レベルにするのか、「時間を守る」レベルにするのかは子どもたちの状況によって異なります。年間と月単位でレベルを分ける方法もあります。校長と担任で分けるという考え方もあります。いずれにしても、示すときにはそこに含まれる具体的なことを子どもに考えさせる。できていないと指導するときは必ずそこまで戻り、できていることをほめることも忘れない。このことを意識して、よい意味で「先生はいつも同じことを言う」と言われる教師になってください。

学校訪問で気づく(長文)

昨日は中学校の学校訪問に参加させていただきました。午前中は公開授業、午後は2つの研究授業でした。

午前中の公開授業を通じて前回訪問時に感じた子どもたちの変化(子どもたちの変化を感じた訪問参照)の正体が見えてきたように思いました。今回は公開授業ということもあってか、前回の訪問と比べて多くの授業でグループ活動やペア活動の場面が見られました。子ども同士がかかわり合う場面では、表情もよく、子どもたちのやる気が感じられました。集中力の差はやテンションは、根拠を持って話し合える内容か、子ども自身の課題となっているかによって違っていましたが、総じてとてもよい雰囲気です。子どもたちの人間関係も崩れてはいません。ところがその同じ授業でも全体での追究場面となると大きく変わってくるのです。友だちの発言を聞かない、教師が話しているのに子どもが板書を写している。そんな授業が増えているのです。子どもの活動の結果はとりあえず発表して終わる、一問一答で進むなど、発言をもとに子ども同士がかかわりながら互いの考えが全体に広がっていくような活動がないのです。また、前回の比較から考えると、ふだんの授業でもペアやグループでの活動場面が減る傾向にあるのではないかと想像します。それで、子どもが変化したように感じたのです。しかし実際には子どもが変化したというよりも教師が変化したということなのです。今までと変わらない授業スタイルの先生の教室では、以前と同じかそれ以上によい姿を見せてくれています。こういう先生方は子どもが変わったとは感じないでしょう。自分たちの発言が活かされない、友だちの発言を聞いても意味がない、だからかかわらない、聞かない。子どもたちは単に授業に対して素直に対応しているだけだったのです。

午後の授業研究は、道徳と国語でした。
道徳は、介護の問題から同居するようになった祖父母との軋轢から、主人公の中学生が祖父母に出ていってもらいたいと考えるという資料をもとに、家族について考える2時間授業の後半でした。主人公に賛成か反対かと立場を明確にさせて意見を聞きあい、考えを深める場面の前半を見せていただきました。教師と子どもたち、子ども同士の人間関係がよいことが印象的でした。コの字型の机の配置もあってか、友だちの顔を見て話を聞ける子どもがほとんどです。友だちの意見を聞きながら考えを深めていっていることが感じられました。少し気になったのが、「賛成、反対」という問いのためか、私が見ていたときは客観的、評論家的で、建前で話していたことです。このような問いかけ方では、本音が出にくい傾向があります。「あなたならどうする」と迫る質問の方が、本音が出やすくなるようです。しかし、後半では実際に介護の問題を抱えている子どもの意見をとりあげたりしながら、子どもたちの本音をうまくひきだしたようです。協議会では、子どもに対する接し方、特に介護の問題を抱えている子どもへの気遣いの細やかさが、指摘されました。このあたりも子どもとの人間関係のよさの秘密があるように思いました。
「あなたならどうする」と考えさせ、「そのとき、父母や、祖父母はどう感じ、どうするだろうか」と意見を述べ合う展開だとどのようになっただろうかと、道徳の授業の進め方についていろいろと考えるきっかけをいただきました。

国語の授業は、説明文の構成を考える授業でした。教科書の文章を形式段落でバラバラにして順番を変えた資料から、本論と思われる文を抜き出す。はっきりしない文が本論に入るかどうかを考えるのに、正しい順序に並べ替える。こういう展開でした。私は後半を見たのですが、黒板には本論とは何かは書かれてはいませんでした。以前にやった授業をもとに進めているようなので、そのときには整理されたのでしょう。しかし、この授業ではそのことが根拠となるのですから、明確にしておく必要があります。言葉のはしばしに具体という単語が出てくるので、具体的なことが書かれているというのが定義の一部なのでしょうが、それではわからない文が出た時点で、再度本論とは何かが明確されなければなりません。残念ながら、そこは明確にせずに、正しい順番に並べれば、どこにあるかで(本論の文の間にあれば)わかると一言言っただけで、グループで並べ替える作業に移りました。並べ替えるにしても明確な視点、根拠を子どもたちは持っていません。逆にどの文が序論、本論、結論かグルーピングすることも並べ替えるための一つの方法です。これが明確でないのですから難航するはずです。子どもたちは試行錯誤しながら終始高めのテンションで作業をしていますが、根拠がないので話し合いは成立していませんでした。
このことが、発表の場面に現れました。理由も言ってと発表を促したところ、どのグループも挙手しません。そこで、理由はいいからとすると、ほとんどのグループの手が挙がりました。2グループ発表しましたが、その違いについて全体で考えることはできません。根拠がないのですから。結局、事前に回収してあった教科書で答を確認して、問題の文が本論になると結論づけてこの時間は終わりました。実はこの教科書は紙にくるんで一人ひとりの椅子の裏に貼り付けてありました。このサプライズに子どもたちは大いにわきました。結局、理由については次の時間で扱うようですが、子どもはサプライズと並べ替えが正解かどうかに気をとられ、そのことを意識している様子はありませんでした。
授業検討会では、グループ活動のときの子どもたちのようすが細かく報告されていました。先生方が子どもを見る視点がしっかりしていることを感じました。私がいなかったときに若手の先生から教科書のサプライズを評価する発言があったようです。若手はどうしてもこの種のパフォーマンスにひかれる傾向があります。授業の本質には関係ないそれどころか最後のまとめでなぜこの順番かじっくり考えなければいけないときに、無駄にテンションを上げてしまうマイナスなものです。このために時間を使うのであれば、もっともっと教材研究に力を入れてほしい、そのことをわかってほしいと思いました。

学校訪問終了後、学校の現状について教務主任、校務主任、研修担当と話をさせていただきました。どなたも現状をしっかり認識しておられました。授業を大切にする意識が、研究発表後時間が経って薄れてきているのではないかという危機感を共有することができましたが、問題は今後どうしていくかです。すぐによい答えが見つかるとは思いませんが、知恵を出し合うことで、きっとよい方向にもっていけるでしょう。ここを乗り切ることで、この学校の授業力が継続的に向上する仕組みが見えてくることと思います。私も新たな挑戦として、前向きに取り組んでいきたいと思います。

鈴木明裕先生から学ぶ

本年度第2回目の教師力アップセミナーは、岐阜聖徳学園大学准教授の鈴木明裕先生の講演でした。算数・数学で教科書を理解できていない、うまく使いこなせていない若い先生が多いということで、「算数・数学での教科書の使い方と役割」というタイトルでお話いただきました。

・教科書に書かれた考え方以外に子どもはどんな考えを出すだろう。その考えが出てきたときどのように活かすことができるのだろうか。
・教科書では子どもがつまずきそうなこと、疑問に対する答(結論)が書かれている。子どもに聞かれたときにどのように対応すれば(過程を示せば)よいのだろうか。
・具体物を操作する。情報を整理して見やすくする。式で表現してみる。これらを行き来することで数学的な表現力は高まる。教科書の課題を解決するのに、どのようにアプローチすればよいのだろうか。

鈴木先生の教科書の具体的な場面での説明から、教科書を活かすためには、このような視点で考えることが大切だとあらためて整理できました。教科書の問題の数値一つとっても、教師に指導してほしいことへの思いが込められています。教科書に直接書かれてはいませんが、そのことに気づくヒントはあちらこちらにちりばめられています。宝探しのようなつもりで教科書を読んで見ると、多くのことに気づけると思います。

私は小学生を指導した経験はほとんどありません。数学以外の教科を教えた経験もわずかです。しかし、たとえ経験のない教科の内容についてもアドバイスをさせていただいています。それができるのは、教科書のおかげです。算数に限らず、教科書を読み解くことで、指導すべき内容やその方法が浮かび上がってくるのです。
教科書を執筆される方たちは、「てにをは」にもこだわって書かれています。そのこだわりから指導に関する多くのことを学べるのです。
教科書を見ていて「なぜ?」と疑問に思うことがあります。その疑問を追究することから、書かれていない多くの大切なことに気づけるのです。
教科書をしっかり読みこみ、そこを出発点として授業を組み立てていってほしいと思います。

鈴木先生のお話をきっかけに、色々なことを整理することができました。ありがとうございました。

学校の成長とこれからの課題について講演

昨日は中学校で講演をおこないました。4年間訪問している学校です。当初は授業規律もままならない状態でしたが、3年ほどですっかり見違えるような学校に変わりました。異動等でこれまでの経緯を知らない先生も増えました。ここで一度この4年間を振り返り、次へのステップアップのためのお話をさせていただくことになりました。

この4年間で、教師が子どもを受容する雰囲気がずいぶん学校に広まりました。その結果、子どもと教師の人間関係が良好なものになり、教師の話をしっかり聞こうとする姿勢ができました。実は、次のステップに進めるかどうかはここがポイントとなります。どういうことかというと、子どもたちが集中して聞いてくれるようになると、教師はついついしゃべりすぎてしまうのです。そうではなく、教師が聞く時間を増やすこと。つまり子どもの発言を増やすことが求められます。子どもに外化を求め、子どもの活動量を増やすのです。そのためには、一問一答形式の答え探しの授業からの脱却、子どもたちが考えざる得ない課題設定などの工夫が必要です。知識は知っていれば答えられますし、知らなければ答えられません。知識を問うても、考えることにはつながりません。先に答えを与えて、「どうやって求めたかわかる?」と聞いたり、「何がわかれば、答えが出せる?」と必要な条件をたずねたりするといった工夫が求められるのです。

うれしいことに、過去に私が個別のアドバイスをした先生方がとても集中して話を聞いてくださいました。彼らにとっては、アドバイスのときに聞いたことがある話がほとんどなのにもかかわらずです。アドバイスされたことを自分の中で確かなものにしようという意欲が感じられました。後ほど校長、教務主任から彼らの授業がとてもよくなってきていると聞きました。前向きな姿勢が進歩につながっているのだと思います。また何人かのベテランの方もとてもよく反応してくださいました。自身の経験と照らし合わせながら聞いていただけていることがよくわかります。自分の持っているものを今回の話をきっかけに整理していただけたのだと思います。こういう方は、若手にもきっとよいアドバイスをしてくださるでしょう。こういったベテランの存在が若手の成長を支えてくれるのです。

今年度も2学期以降、個別の授業アドバイスが予定されています。昨年に引き続き今年も希望してくださる方が何人もいらっしゃるそうです。きっと大きな進歩を見せていただけることと思います。この学校がこれからどのように進化していくのかとても楽しみです。

「効率的な学習方法」という質問から見えること

昨日仕事でおじゃました会社の方からおもしろい話を聞かせていただきました。今は新卒の採用時期で、適性検査の質問項目の中に「あなたにとっての効率的な学習方法」があるのだそうです。その回答がいくつかのグループに分かれるというのです。

A.「あなたにとって」のという文脈が正しく読みとれずに、ICT機器を活用した授業など、自分の体験とは関係のないもの
B.自宅では集中できないので図書館で勉強するなど、学習方法そのものというよりも、その前の段階である、集中するための条件整備
C.重要な事項にしぼって覚える、できなかった問題を何度も解くといった、訓練的な方法
D.友だちに教えさせてと頼み、わかりやすく教えようとすることで内容が理解できるといった、学習内容を関連づけて高いレベルで身につけるための工夫

これらの回答と適性検査の成績、面接での受け答えには相関関係が感じられるそうです。
なかなか興味深いものがあります。

Aのグループには、理解力、コミュニケーション能力の欠如が感じられます。
Bのグループには、意識しないと集中して学習に取り組めない、学習習慣や学習への姿勢の問題が感じられます。
Cのグループには、ある程度の成績はとるでしょうが、学習を覚えること、訓練すること考えているため、未知の問題に対する解決能力や問題を総合的にとらえる力が不足していることが感じられます。
Dのグループは、学習を前向きにとらえ、高いレベルを求める意欲と思考力の高さが感じられます。

教育にかかわるものとしては、傍観者としておもしろがっていられる話ではないと思います。それぞれのグループに対して、どのような働きかけがあったのか、なかったのかを想像してみてください。
皆さんの目の前の子どもは将来どのグループに属することになるのでしょうか。今の時期に、どのような課題を与え、どのようにかかわり、どのような指導をおこなう必要があるのか、具体的に考えてみてほしいと思います。

子どもたちの成績がよいからと安易に妥協しない

子どもたちの成績がよく、通塾率も高い、いわゆる文教地区の学校を訪問してよく感じるのはが、授業における子どもと教師の関係の希薄さです。教師は淡々と説明をしている、子どもはとりあえず大人しく聞いている姿勢をとる。教師の質問に対して、わかっていても挙手しない。教師も質問しても反応がないので、ますます一人でしゃべっている。このような状態でも、子どもたちの成績はよいので、問題と思わなくなる。成績がよいことで、安易に妥協してしまっているのです。
ちょっと荒れた地区であれば、あっという間に学級が崩壊するような状況です。子どもたちのどこに原因があり、教師は何を変えていけばよいのでしょうか。

子どもたちがこのような状態になるのは、学習に対する価値観が試験の成績に偏っていることが大きな原因だと思います。こうなると、効率的に試験の点が取れるように子どもたちは行動します。試験に出題されることには敏感ですが、それ以外のことには興味をなかなか示しません。教師が、板書したことから出題するのであれば、板書だけは必ずきちんと写します。教師が話していても、写すことを優先します。こうなると教師も子どもの関心を引くために、「試験に出す」といった利益誘導の言葉を使うようなり、悪循環に陥ってしまいます。彼らは、勉強はおもしろいものだとは思いません。試験に出ることを覚える、点を取れるように訓練する作業に近いものなのです。また、教師も勉強とはそういうものだと思っていれば、この状態はまず変わることはありません。

では、試験でよい成績をとることの価値を否定すればよいのでしょうか。この価値を否定すれば、試験そのものの意味が大きく揺らいできます。ふだんの試験はまだしも、入学試験がある現実を考えればナンセンスです。
大切なのは、結果を覚えることではなく、その過程、学ぶことに価値を見出させることです。知識そのものではなく、知識を組み合わせて問題を解決することを大切にするのです。一人ではすぐに答が出せないことを、みんなでかかわりながら考え解決することの楽しさを経験させるのです。そして、試験でも単に知識を覚えれば解ける問題ではなく、授業で経験したような考える問題を出すのです。

たとえば歴史で、「ペリーが日本に来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれ鎖国が終わった」。これは大切で試験にもよく出ます。しかし、ペリーが来たのは、なぜこの時期だったのか。日米和親条約の結果、世の中の何が変わることになるのかなどを問うのです。事実をもとに考え、それに関する他の事実を調べ、点の知識を線でつないでいく。このような課題を子どもたちに課すのです。正解は一つとは限りません。一問一答で知識を確認するのではなく、教師が言葉をつなぎながら、友だちのいろいろな考えを聞くことで自分の答えを見つけていく。そして、この課程で子どもたちの活動をポジティブに評価するのです。正解が評価されるのではなく、たとえ不正解やずれた発言でもその価値を認めるのです。

試験でよい点を取るのと同じかそれ以上の価値を、授業に参加することに見出す。そして、そのことを価値づけてくれるのが教師や友だちであれば、授業の雰囲気は間違いなく変わっていきます。
教師が子どもと同じように、試験の結果だけを評価するのではなく、より高いものを子どもに求めるのです。その価値を子どもと共有することで、子どもと教師、子ども同士がかかわりあう関係が育っていくのです。子どもに安易に妥協するのではなく、高いものを子どもに求めてほしいと思います。

研修の打ち合わせ

昨日は中学校で、子どもたちのようすを見せていただいた後、研修の打ち合わせをおこなってきました。夏休みと秋の2回研修をおこなうのですが、1回目の夏休みでは、子どもたちの授業中のようすを見ることができません、そこで、この時期におじゃますることになりました。

子どもたちは優秀なのですが、教師とは距離を置いています。教師とだけでなく、学級全体として見ると、友だち同士の関係も希薄のように感じました。

・一部の授業を除いて、教師の話を聞くときに顔が上がらない、反応しない、話を聞くよりも板書を写すことを優先する。
・教師が子どもを見ずに説明したり、指示したりする。
・スクリーンに写して説明しても、子どもたちは手元を見ていてスクリーンを見ない。
・1問1答で進行し、子どもの言葉にかかわらず教師が予定している説明をするため、子どもは友だちの発言を聞く必要を感じていない、自分が挙手して発言することに価値を見出していない。
・子どもの発言に対して、評価がない。
・教師の説明の時間が長く、集中して聞いてはいないが、騒いだり場を乱したりする行動はとらない。
・子どもが受け身の時間が多く、知識を問うことはあるが、思考する時間がほとんどない。
・指示の後の動きが鈍いが、作業には集中して取り組む。
・子どもの活動量が少なく、友だちとかかわる場面はほとんどない。

このような状況から、授業でのコミュニケーションが不足していると感じました。不登校の子どもが多い、多くなるのでは気になるところです。

研修をどのようなやり方で進めるかを考えるにあたって、担当の先生が感じる問題点を聞かせていただきました。もっと子どもを活躍させたい、発言させたい。自分の考えを書く力をつけさせたい。大きくはこの2点でした。私が見た授業中の子どものようすからも納得のいくものです。とはいえ、この部分にきりこむ前に、そもそも教師集団が子どもたちそうなってほしいと思っているのかという意識の問題、子どもたちを変えるための前提となる子どもとの人間関係の問題の2つをクリアする必要があるように思いました。前者については一方的に話をしても簡単に変わる問題ではありません。後者についてもその必要性を感じていなければ、なかなか言葉は届きません。子どもたちが優秀で、学習成績も高いため、先生方は現状に問題を感じないのです。

相談した結果、一気に変わることを期待するのではなく、自分の授業を振り返ってもらうところから始めることにしました。まず、1回目は私が見た具体的な授業の場面から何が起こっているのか、何が問題か、どうしていけばいいのかを話し、2回目は、この学校の授業を自分たちの目で見ていただき、それをもとにどんな授業を目指していくべきなのかを話し合うことになりました。

この地区では、授業を見せていただくことはなかなか難しいのですが、快く見せていただき、私自身、たくさんのことに気づき、学ばせていただくことができました。感謝です。皆さんのお役に立てる研修をすることで、少しでもお返しできたらと思います。

中学校と高等学校の情報交換を考える

小中連携が強く言われるようになり、小学校と中学校の情報交換も盛んになっています。また、中学校と高等学校でも連絡会議を持つことは珍しくなくなってきています。ところが、中学校と高等学校の情報交換にはまだまだ壁があるように思います。どういうことかというと、受験があるため、本人にとって不利になる情報はなかなか高等学校側に明らかにされないということです。

たとえば、対人関係に不安があったり、神経症などが原因で集団の中で学習ができない子どもがいます。通常の入学試験では、中学校からの情報がなければそのことには気づくことはできません。学力的に問題がなければまず合格するはずです。しかし、その情報が高等学校側に伝わらないため、進学してからの対応が後手に回ってしまうことがよくあるのです。問題が発生してからあらためて中学校に問い合わせ、はじめて中学校時代の情報が手に入ることが普通です。高等学校では、授業に出席できなければ単位を認められないことが一般的です。中学校とはかなり事情は違います。せっかく入学したのに、結局進路変更を余儀なくさせられることがよくあるのです。

入学試験に不利になる情報を伝えることは、本人の利益を損なうからできないということはよくわかります。また、環境が変わることによって、中学校ではうまく適応できなかった子どもが、問題なく過ごせることもよくあります。しかし、それと同じくらい高等学校でも不適応を起こすことがあります。そのリスクをきちんと本人・保護者と確認し、その上で進路を決定する必要があります。そして、合格したら、本人・保護者に納得してもらった上で、中学校での状況を高等学校に正しく伝えることが大切です。高等学校も引き受けた子どもを大切にすることは中学校と変わりません。互いに信頼し合い情報を交換することが子どものためにも必要なことなのです。

また、これは私の経験ですが、地元の中学校との連絡会で、気になる何人かの子どもの情報を中学校側にうかがったところ、「別に変わったところがない」の一言で終わったことがあります。残念ながら、その内の何人かは後に問題行動がありました。中学校時には本当に何もなかったのかもしれませんが、もう少し情報がもらえれば対処があったかと思わないでもありません。私たちが信頼していただいてなかったのかもしれませんが・・・。

子どもの個人情報の交換は微妙な問題がありますが、正しく伝えあうことが子どもにとってもよい結果をもたらすものだと思います。子どもを大切に思う気持ちに変わりはないはずです。この点で一致している限り信頼関係を築きあえると思います。子どものためにも、中学校と高等学校の壁を失くして、スムーズな情報交換ができるようになってほしいと思います。

授業者では見られない子どもの姿を見る

授業者の立場で子どもを見るときは、全体を見ることが大切になります、しかし、授業研究などで、第三者の立場で授業を見るときは、ふだんと違った見方ができます。それは、授業者では見られない子どもの姿を見ることです。

たとえば、特定の子どもの変化を追い続けることは授業者には難しいことです。そこで、授業に集中していない子どもを見つけるとその子どものようすをしばらく追い続けます。1時間中集中できない子どもはまれです。たいていはどこかの場面で授業に参加します。そのきっかけが何かを見るのです。多くの場合は、教師の説明から子どもの活動に移るときなど、場面が変わるときです。同じ状況が続くと集中力が切れやすくなり、状況を変えると集中力が戻るということに気づかされます。集中できない子どもを見つけたら注意するのではなく、場面に変化をつければよいことを学べるのです。教師の話は集中しなくても、友だちとの相談は積極的にする。問題を解いているときは、途中で投げ出していても解説になると聞く、解答だけは一生懸命写す。こういう集中がもどるときを見ることで、子どもについて多くのことが学べます。

また、授業中は次々指名していったり、発言を受けて説明したりするため、発言した子どものその後の状態を見続けることはなかなかできません。これを見ることからも、多くのことを学べます。たとえば、私がよく目にする発言後のようすには、大体次のようなパターンがあります。

発言後、次の発言者の話を真剣に聞いている。
これは、子どもの発言を「○○さんの考えと・・・」と教師がつないでいるときによく見ます。

うれしそうな表情、満足そうな表情をしている。
これは、教師が発言をポジティブに評価した時によく見られます。また、多くの挙手があったときに指名してもらえたときも満足した表情になります。しかし、このあと挙手、指名が続くときに、自分の出番は終わったと興味を失くしていることもよくあります。

発言後、あまり変化がない。
これは、比較的だれでも答えられるような質問に対して正解した場合によくあります。挙手ではなく順番に次々に指名しているときや、教師が「正解」としか評価せずにそのまますぐ説明を始めるときにこの傾向が強いようです。

発言後、顔が上がらない、意欲を失くしてしまう。
これは、不正解だったり、教師に評価してもらえなかったり、ネガティブな評価をされたりしたときによく見られます。多くの場合、次の場面に移るまでこの状態が続きます。ひどい時には、その後ずっとこの状態が続くこともあります。

このようなことから、教師が子どもの発言をポジティブに評価する、つなぐといったことの大切さに気づけます。

授業を見学するチャンスがあったときは、漫然と教室全体を眺めるのではなく、授業者では見ない、見られない子どもを意識して見てほしいと思います。そうすることで、より多くのことを学べるはずです。次に授業を見る機会には、ぜひこのことを意識してください。

子どもの「何」を見る

「子どもを見る」ということは教師の基本です。若手に対するアドバイスで最も多いのは「子どもを見なさい」かもしれません。私も子どもを見ることを大切にしていますが、ただ「子どもを見なさい」では、アドバイスにはならないと思っています。「子どもを見る」とは子どもの「何」を見ることかを明確にしなければならないのです。

先生方と一緒に授業を参観すると、同じ教室を見ていても入ってくる情報が人によって違います。たとえば、友だちの発言を集中して聞いていない子どもがいても、そのことに気づかない方がいます。教師と発言している子どものやり取りに注意がいって、他の子どもが目に入らないのです。また、子どもが顔を上げて聞いてはいるが、理解できていないなと感じる状態でも、「子どもたちは理解していると思いますか」と聞いてあげないと、そのことに気づかない方も多いようです。
当り前のことですが、見ようと意識しないものは視野に入っていても見えないのです。リラックスして見ることができる他の人の授業でこれですから、自分の授業ではなおさらでしょう。

授業中に友だちの発言を聞かない子どもが多いときは、友だちの発言を聞いているかどうかを教師が意識していないことが一つの原因です。子どもが理解していないのに先に進んでしまうのは、子どもが理解しているかどうか見ようとしていないため、その事実に気がついていないからです。
子どものどんな姿が見たいか意識していなければ、その姿を見ることはできません。見ていても気づかないのです。ですから、先生方と一緒に授業を参観して、具体的に「何」を見る、子どものようすから「何」が見えるかをお伝えするのです。

また、見ようとしているがよくわからないというのであれば、見えるようにすればいいのです。聞いているかどうかわからなければ、「○○さんの言ったこと、もう一度聞かせてくれるかな」とたずねればいいのです。理解できているかどうかわからなければ、「今言ったこと、もう一度説明してくれるかな」と確認すればいいのです。

反対に見たくないものからは目をそむけます。話すときに教科書やノートに視線を落として、子どもを見ない方にたまに出会います。こういう方に「子どもを見ましょう」と言ってもなかなか改善されません。多くの場合、授業中に子どもを見ると見たくないもの見てしまうからです。聞いていない子ども、音読していない子ども・・・。教室を見ると、きっとそういう子どもがいるはずです。教師が見ないからそうなったのか、そのような子どもがいるから見なくなったのかはわかりませんが、その状況に対応する方法を明確にしなければ、子どもを見ることができるようにはなりません。ですから、この場合は「子どもを見ましょう」ではなく、「このような子どもにはどう対応しましょう」と考えることが大切になります。

目指す子どもの姿を具体的に意識して、その姿を見よう、見たいと思わなければ決してその姿は見えません、見えるようにはなりません。子どもの「何」を見たいか、一度リストアップしてみることをお勧めします。

子どもたちの変化を感じた訪問

昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。初任者の社会科と若手(2年目)の数学のTTでの授業、全体のようすを見てきました。

この学校にかかわらせていただいて4年目ですが、昨年度の終わりと比べて子どものようすにいくつかの変化が見られました。

3年生は、1年生のときにベテランの担任と若手がうまくかみ合い、子ども同士がかかわりあえる落ち着いた学年でした。2年生になって中心となる先生が異動になった後も若手が頑張ってとてもよい状態でした。今回感じたのは、子どもたちの緊張感が緩んでいるということです。明るくよい表情なのですが、行動が緩慢であったり、すぐに集中しない場面があったりと、3年生のこの時期としては少し気になる状態です。進路意識を高めるなどして、今は何に集中すべき時期なのか考えさせることが必要なのかもしれません。

2年生も昨年は落ち着いて学習に集中していましたが、授業によって学習態度の違いが目につくようになりました。子どもの活動が少なく、教師がしゃべる時間が長い授業ほどにその傾向が強くなっています。研究指定の2年間を含む3年間でこの学校に定着してきた、子どもの活動を大切にする授業スタイルが崩れかけているように感じます。人事異動や講師の増加で今までつくり上げてきたことの継承が難しくなっているのでしょう。

このことは1年生の状況にも現れていると思います。子どもたちはとてもよいのですが、授業規律を含め、話し合ったり、かかわり合ったりという基本が、この時期になってもまだうまくできていないのです。先生方の授業スタイルのばらつきの大きさがその一因であるようです。学年として、押さえるべきことをきちんと共有することが求められているように思います。

初任者の社会科の授業は、子どもたちとの関係もよく、明るく進んでいました。しかし、どうしてもテンションが高くなる傾向がありました。他の先生の授業を一緒に見ることで、子どもたちが考えている、集中しているときはテンションが低めであることを伝えました。また、子どもたちへの指示が徹底できないていないので、まず、指示の内容をきちんと整理することを話しました。特に、求めるものは何か、子ども自身ができたと自己評価できる基準は何かを明確にしておかないと、話し合っても共通の評価基準や根拠がないため言いっぱなしで終わってしまうことを強調しました。それに足して、指示をしただけでは伝わったかどうかはわからないので、確認の必要性も伝えました。具体的には、例を1つ全体でやってみる、子どもに指示の内容を復唱させるなどです。復唱させて言えなかったときは、教師がもう1度言うのではなく、他の子どもに言わせるようにすることも注意しました。そうしないと、聞いていなくても教師がまた言ってくれると思ったり、聞いていた子どもは聞いていた意味がなくなって逆に聞かなくなってしまったりするからです。
もう一つ強調したのが子どもの目線で言葉を選ぶことです。教師は無意識のうちに自分の言葉でしゃべります。たとえばこの授業では、「気候」という言葉を教師が使いましたが、この言葉の意味を確認したり、説明したりする場面はありませんでした。教師にとっては当たり前の社会科用語ですが、子どもにとってはきちんと理解している言葉ではないのです。子どもの発する日常の用語を大切にしながら、教科の言葉に高めていくことが大切です。そのためには、教師は自分の発する言葉が子どもにはどう理解されるのかを常に意識して、日常用語や教科の用語を使い分けることが必要なのです。

数学の授業は、笑顔で子どもをほめることができ、教室の雰囲気も明るいものでした。しかし、常にわかった人に聞く、正解だけを黒板に書いていくため、つまずいている子どもが置いていかれる危険性のあるものでした。たとえば、入れ子になったカッコを使った式の計算の説明では、「最初に計算するのはどこ」という発問に対し、子どもが正解を言ったあと、そのまま計算して答をだしました。その後に「カッコを先に計算する」というルールを確認してすぐに問題演習に入りました。カッコを先に計算するというルールを知っていても、実際にどのカッコが先なのかわからない子どもは、説明がないためわからないままです。過程がすっぽり抜け落ちているのです。教師にとってその過程が当たり前すぎたのです。中学時代にわからない経験をほとんどしていないために、子どものつまずきが見えないのです。正解で授業を進めるのではなく、子どものつまずきから進めることの大切さを話しました。
あと、TTを活かすために、授業の中に○つけの時間を入れることを提案しました。2人であれば○つけの時間を短縮できるのでとても有効です。志水廣先生の提案する○つけ法について簡単に説明しました。自分たちでより深く勉強してくれることを期待しています。

この日うれしいことが2つありました。1つはこの学校で3年講師を務めている先生の授業がずいぶんと進化していたことです。少しの時間しか見ることができませんでしたが、努力の跡がよくわかります。子どもが集中して友だちの発言を聞いていますし、まわりと相談するときの姿勢や表情もとてもよいのです。
もう1つは、教育実習生が数学の授業についての先生方との検討の場面に自主的に参加してくれたことです。教育実習生が自分から参加させてほしいと申し出ることはなかなか勇気のいることです。その積極性に感心しました。また実習生と話をしていて、以前私が司会をした研究会に参加していたことがわかり、その偶然もうれしい驚きでした。

今回、忙しい中、教務主任、研修担当者がそれぞれ1時間ずつ一緒に校内をまわってくださいました。学校の現状について意見を交換することで、現状の認識を共有化でき考えを深めることができました。彼らが中心となってこの学校をよりよい方向に持っていってくださることと思います。今後の学校の変化が楽しみです。

授業アドバイスと講演

昨日は、中学校で授業アドバイスと講演をおこないました。授業アドバイスに手を挙げる先生が7人もいて、とても充実した時間を過ごせました。

この学校は文部科学省の研究指定を受け、その軸足を授業に置き、協働学習を進めようとしています。グループやペア活動を取り入れ始めていますが、そのポイントがまだつかめていないようでした。
何人かの先生と授業を見ながら、その場で子どものようすを解説しましたが、授業のスタイルの基本が、まだ教えること中心から脱却していないようでした。子どもの活動が止まると、すぐに先生がアドバイスしたり、ヒントを説明したりしてしまいます。どうしても教師がしゃべりすぎるのです。また、課題のありようにも苦しんでいるようです。グループ活動に入っても、子どもたちが何をしてよいかわからない状態をよく目にしました。課題が自分たち共通のものになっていない、課題を解決するための見通しを持てていないのです。課題を共通のものにするためには、子どもたちが疑問を持つところから出発し、その疑問を全体で確認することが必要です。そのことが意識されず、教師が一方的に課題を提示してしまうので、何をすればいいのかわからなくなってしまうのです。課題解決の見通しに関しては、グループ活動の経験がまだ少ないので、グループ活動を始める前に全体で話し合うことや、グループ活動が止まっている状態で一度止めて、結論ではなく、何をやったか、どのようにアプローチしているかを発表させるなどの手立てが必要になります。課題を解決するために必要な知識や資料も教師自身が明確にしていないように感じました。知識を教えるか資料を与えるかとは別に、これらを意識できていないと子どもの状況に応じて適切な対応ができないのです。

講演前に1時間、数学の公開授業がおこなわれました。学区の小学校の先生もお呼びして、この中学校が目指す授業を伝えるものです。
ポイントを絞った導入。明確な課題提示。子どもが安心して話をできる柔らかい雰囲気。子どもの言葉をつなぎ、子ども自身で問題解決していく展開。子どもの発表の時の立ち位置、ちょっとしたつぶやきなど、ぼんやり見ていると気づかないような、細かところにも工夫が感じられるものでした。講演をやめて、解説したくなるような授業でした。以前からよく授業を見る機会のあった方ですが、この数年の進歩は素晴らしいものがあります。
授業の終盤で指名した子どもがずれた発言をしました。このとき、その発言を子どもたちで修正させました。そのため、本時のゴールである、文字を使って式をたてるところにたどり着きませんでした。この判断には賛否両論があると思います。そのことがわかっていて、あえて子どもに返すというところに、授業者の強い思いを感じました。こうして鍛えていくことで、より高い課題に挑戦できる子どもたちに育っていくと思います。次の機会にどのような子どもの姿を見せてくれるか楽しみです。

私の講演は、協働学習を支えるものとして、子どもの受容の仕方、教師の聞く姿勢、子どもへの外化の働きかけなどを中心に、公開授業の場面とできるだけ関連づけて話させていただきました。限られた時間の中でどれほどのことを伝えられたかわかりませんが、参加された方の授業を見直す機会になれば幸いです。

先ほどの授業者は、若手を中心に多くの先生方を巻き込んで、互いに授業を見せ合い、授業について話し合う機会をつくろうとしています。先輩としてよきアドバイザーになろうとしています。授業見せていただいた2人の若手の数学の授業はこの先生のよい影響を受けていることがよくわかります。公開授業はその前に見た若手と同じところでしたが、そのとき気になった場面を意識して見せていたように感じました。またその若手も、そのことにちゃんと気づいて、自分の授業に生かそうとしていました。よき先輩と後輩です。

この日授業を見せていただいた先生方に共通していたのは、子どもたちを受容しようとする姿勢と授業をうまくなりたいという向上心、アドバイスを受け入れる素直な態度でした。これだけで間違いなく授業はよくなっていきます。その上に一緒に学ぼうとしてくれる素敵な先輩がいるのです。彼らの今後の成長がとても楽しみです。私もとてもよい刺激を受けました。ありがとうございました。

「協働」という言葉を考える

「協働学習」や「地域との協働」のように、「協働」という言葉がよく使われるようになりました。しかし、ただ共同で何かをしているだけ、一方的にお願いをする、されているだけのようにしか見えないことがよくあります。「協働」という言葉に出会うたびに、どのような思いを込めて使わるているのか考えずにはいられません。

学習の場面で使われるのであれば、かかわり合うことにより一人ではできないことができる。一人では気づけないことに気づく。一人で学べなかったことが学べる。このような視点があるのかどうかです。課題や活動が一人ひとりに何をもたらすかを意識して「協働」という言葉が使われているかが気になるのです。このことを明確に意識せずに、ただグループ活動をさせている。まわりと相談させている。このような、ただ一緒に何かをしているだけのことを「協働」という言葉でくくってほしくないのです。

地域との「協働」のように、立場が違うものが一つのことを協力して成し遂げようとするのであれば、互いに対等の立場で話ができる関係である。互いに目的・目標を共有している。互いに知恵を持ちより、自分ができること、自分にしかできないことをやろうとしている。このようなものになっているかどうかです。「協働」とは名ばかりで、こちらが助けてほしいことを一方的にお願いするだけ、ひどいときは、「子どものため」という一言でその目的や趣旨を詳しく説明もせずに、協力しないのは子どものことを考えていないことだと脅迫しているようにしか見えないこともあります。お願いされる方からすれば、ただで使える労働力としか見られてないのかと言いたくなります。「協働」という言葉を使うのであれば、少なくとも何をするか具体的に計画する段階から一緒に考えるべきです。

とりあえず「協働」という耳当たりのよい言葉を使っておけばいいという発想ではなく、「協働」という言葉にどのような思いを込めるのか、意識をして使ってほしいと思います。

授業の導入を考える

授業の導入で大切なことは何でしょうか。前時の復習でしょうか。落語のまくらのように子どもたちのテンションをあげることでしょうか。子どもたちが興味・関心を持つようなものを見せることでしょうか。

国語で目の錯覚について書かれた教材を扱う授業でのことでした。教科書には有名なルビンの壺(壺にも、2人の人の顔にも見える絵)が載せられていました。授業者は子どもに興味を持たそうとネットから見つけてきた、いろいろなトリックアートを子どもたちに見せていました。子どもたちもよく反応しています。授業者が準備したものを見せ終わったのは授業が始まって10分以上過ぎたときでした。その後、教科書の文章を読むのですが、子どもたちは集中して取り組んだでしょうか。実はすぐには集中しませんでした。トリックアートに夢中になっても、教科書の文章を読みたい、理解したいとはならなかったのです。また、トリックアートに興味をもつことはこの文章を理解することとにはほとんど役立ちません。10分以上もかける価値はあまりなかったのです。

導入で大切なことは、できるだけ早くその時間の中心となる課題につなげることです。授業時間は内容に対して決して多くはありません。子どもが集中できる時間は限られています。導入はその目的を達成できるなら、できるだけ短い方がよいのです。復習であれば、その時間で使うもの、必要なものに絞ることが大切です。興味・関心を持たせるのなら、できるだけインパクトの強いものを与えて、すぐに本題に入るべきなのです。先ほどのトリックアートであれば、子どもたちが「えっ!」と思う、これぞというものを見せて、すぐに本文に入るべきだったのです。

導入を考えるときは、その時間の中心となる課題、活動をまずしっかりと組み立て、そのために必要なことは何かを明確にしなければなりません。子どもたちにとって必然性のない課題であれば、必然性を持たせる。前提となる知識が必要であれば、その知識を復習する。求められるものによって導入の形も異なるのです。中心となる課題、活動に限られた時間、エネルギーを集中させるためにも、導入は効率よく、できるだけ短くするのがポイントです。漫談のような授業の内容と関係のない話をするのは論外です。このようなことを意識してほしいと思います。

昔の同僚と会う

先日、高校教員時代の同僚と食事をする機会がありました。今は管理職となっていますが、当時と変わらず授業のことを楽しそうに話す姿に、彼の教師としての原点を感じました。

管理職ですので、保護者からの苦情やトラブル対応も結構大変なようです。その話しぶりからすると、どちらかというと保護者より教師の方に苦労しているようでした。教師が保護者とコミュニケーションをうまく取れないことが原因のようですが、管理職が注意をすれば改善されるというわけでもないので、ストレスがたまるようです。本人が自分でそのことに気づくことが一番よいのですが、これはなかなか難しいことです。自分と保護者とのやり取りを第三者の視点で観察するのが近道ですが、ビデオに撮っておくというわけにもなかなかいきません。ロールプレーイングによる研修が増えてきているのもうなづけます。

自分の授業を生徒に評価させるなど、授業をよくすることにこだわりを持っている教師ですから、他の教師の授業のことも気なるようです。しかし、根本的に授業感が違うとなかなか話もかみ合わないということです。高校ではよくあることなのですが、学校が目指す子どもの姿が不明確で共有されていないことがその原因の一つのようです。進学率を上げるといった表面的なものを価値基準の中心に置くことが多い、高校の問題点だと思います。

初任を対象の研修会の授業検討会で、初任者たちが抽象的にほめ合うばかりで、授業者の解釈間違いや正しい解釈につながる子どもの発言をとりあげなかったことがとても気になったようです。水を向けても食いついてこず、日ごろは温厚な彼もさすがに厳しい言葉になったようです。互いにほめ合うだけで、深く議論しないのは最近の若者の特徴だと感じているようでした。たしかに、私もそのように感じる場面があります。これは、日ごろの授業検討会でも言えることのように思います。互いによいところを指摘し合うのはいいのですが、それで終わっては深まりません。たとえば、「子どもが活発に発言してよかったと思います」に対して、「それは具体的にどのような場面ですか」「他の先生はその場面をどのように感じましたか」「子どもが活発に発言した理由は何でしょう」・・・と、切り返していくことが大切です。授業と同じですね。

3時間あまり楽しく話をさせていただきましたが、高校の管理職の抱えている課題も色々と見えました。一番感じたのは、このような話を気軽する相手が管理職にはいないということです。彼のストレスが私と話したことで少しでも軽くなってくれればよいのですが。

研修の事前打ち合わせ

昨日は、夏休みにおこなう市の研修の打合せをおこないました。受講者の模擬授業を中心に2回おこなうもので、今年で3年目となります。3年目ともなると、昨年と同様でと依頼されることも多いのですが、担当者からいくつか提案がありました。

一つは、模擬授業のポイントを「導入の工夫」と「子どもの考えを活かす話し合い」の2点に絞ることです。担当者が先生方の授業を見ていて弱いと感じられているところです。
もう一つは、代表の数人がおこなっていた模擬授業をグループ内で全員がおこなうというものです。一人あたりの時間はあまり多くはとれませんが、参加者に少しでも多く学んでもらうためにです。また、受け身の時間を減らしたいということもあります。実習がグループ単位で個別にコメントできないので、打合せの結果、教材を絞ることにしました。共通の教材で模擬授業をおこなうことで、互いの授業からより深く学べると考えたからです。

この提案を受けて、私も講義の形を少し変えようと思いました。最初の講義は互いの授業をより深く見るために、導入の視点を中心に話し、次にグループでの模擬授業を具体例として、どのようにすればよりよくなるのかを話すことにしました。こうすることで、私も皆さんの模擬授業からより多くのことを学べると思います。

市町の研修は、内容にあまり注文をつけずに講師にお任せしますということがよくあります。また、何年も続く研修となると、その企画はマンネリになりやすいものです。今回のように、担当者の視点でよりよい研修にするための改善点を提案いただけることはとてもうれしく、ありがたいことです。担当者の提案によい刺激を受けることができ、今後他の研修にも役立つようなものが生まれてくる予感がします。本番が今から楽しみです。

子どもへの呼びかけを考える

「掃除をしっかりしよう」「身の回りの整理整頓をしよう」というように、子どもたちに呼びかけることがたくさんあると思います。4月当初はきちんとできていても、そろそろ中だるみをしてくるかもしれません。きちんとできるようにするためにはどのようにすればよいのでしょうか。

まず、子どもたちへの呼びかけが、具体的にどのような行動をすればよいのか明確になっている必要があります。「掃除をしっかり」とは、具体的にどのようなことか客観化しておく必要があります。子どもによって「しっかり」の内容は大きく違います。教師が考える「しっかり」と子どもの考える「しっかり」のずれを埋めておくのです。(目指す学級の姿を具体的にする参照)
また、「しないさい」と命令するのではなく、「しよう」と促すことも大切です。命令形に慣れていくと、命令されなければ動かない受け身な子どもになっていきます。
そして、呼びかけるときに大切になるのがそのタイミングです。できるだけ、その行動と近いタイミングで話すのです。給食後に掃除をするのであれば、その直前、給食が終わった後に呼びかけるのです。朝に話をしておいて、もう1度軽く念を押すというのもいいでしょう。こうすることで、よい行動を引き出しやすくなります。その上で、きちんとできたことをほめるのです。初めのうちは「うれしい」「ありがとう」といったIメッセージを多用します。できなかったことを叱るのではなく、できたことをほめることが大切です。ほめることでよい行動を強化するのです。

往々にして、掃除がきちんとできていないことに気づくと、できるだけ早く修正しようと、その日の帰りの会で掃除の悪かった点を指摘し、明日はしっかりやろうと呼びかけてしまいがちです。大切なのは次の行動です。言われたことは時間がたてばどうしても意識から薄れ、そのときはちゃんとしようと思っていても、次の日には呼びかけられたことを忘れて行動してしまいます。その結果、怒られたりすれば嫌な気持ちになります。こういうことが何度かあると、教師からの呼びかけが負の気持ちに連動するものになってしまい、教師の呼びかけを嫌だなと感じ、逆の方向に行動してしまいます。

また、整理整頓のように、そのための特別な時間が取られていないことであれば、気をつけようと言って終わりにするのではなく、できるだけすぐに実行させます。その場で、机やいすを整頓したり、まわりのゴミを拾ったりさせるのです。言いっぱなしで行動の確認を取らないと、教師の言葉が実効のないものになり、「聞き流しておけばよい」と思うようになっていきます。できていなかったことに気づかせ、行動させ、できた(やった)ことを評価することでよいサイクルができていきます。

4月当初と比べて、掃除が雑になってきた、教室が乱れている。そのようなことを感じるようでしたら、ここで述べたようなことを確認して、修正を心がけてください。
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