2年目の教師の今後に期待

昨日は、中学校で授業アドバイスをおこなってきました。2年目の社会科の先生です。昨年も授業アドバイスをした方なので、その成長が楽しみです。この日は3年生の金融の授業でした。

教室に入って一番に感じたのは子どもたちの笑顔が多いことです。和やかな雰囲気で授業が始まります。導入として銀行のロゴマークを見せて、銀行名を答えさせます。子どもたちは意外と銀行の名前を知りません。授業者は子どもの言葉をしっかりと受容して進めますが、知らないのですから答えは出てはきません。授業者はヒントを出しながらなんとか子どもから答えを引き出しました。

続いて、ワークシートを配って、銀行に関する○×クイズを5問考えさせました。

・われわれの預けたお金は、銀行の金庫にしまってある。
・銀行が火事で焼けてしまったら、預けたお金は返ってこない。
・銀行がつぶれたら、お金は返ってこない。
・預金を全部おろせば銀行はつぶれる。
・銀行は、だれにでもお金を貸してくれる。

子どもが興味を持つようなクイズです。「金庫にしまってなければどうするんだろう?」と銀行がお金を貸してどう儲けるのか、「銀行は誰にだったらお金を貸してくれるのだろうか?」と銀行が融資をする条件は何かといった、次の発問につながるように工夫されています。
日ごろから子どもたちの関係がいいのでしょう。まわりと相談するように指示する前から互いに見せ合っています。相談するように指示をした後は、どの子もかかわりあっていました。子どもたちのテンションは上がり気味です。授業者は根拠を持って考えさせたいと思っていたようですが、根拠もって考えるには前提となる知識が少なかったようです。テンションが上がっていたのは、あまり深く考えて話をしていなかったからでしょう。
授業者はそれぞれが自分の答えを決めて、テンションが落ち着くまで待っていました。その後、何人か指名してその理由を聞きますが、明確な根拠を示されません。教師が答を言って次に進みました。

ここまでで10分以上の時間が使われました。導入として、子どもたちの興味を引き、メインとなる活動へのつなぎです。時間を使いすぎてしまいました。
最初の活動で、銀行名がわからなくてもこの先の展開には影響ありません。とはいえ、教師が正解を言うと子どもが受け身になってしまうことを心配する気持ちもわかります。こういう時は、「じゃあこのロゴマークの銀行を探してごらん。この近所にきっとあるから」といって子どもにあずけてしまえばいいのです。
クイズも、子どものテンションが落ち着くのを待つ必要はありません。深く考えているわけではないので、テンションが上がれば活動をやめてすぐに次に進めばよかったのです。

クイズで銀行が儲ける仕組みについて明確にならなかったので、教科書や資料集をもとに考えるように指示しました。子どもたちは集中して取り組みます。まわりの子どもとも自然にかかわりあっていました。全体で銀行が設ける仕組みを発表させますが、子どもは見つけたことを読み上げるだけです。そこで、どこに書いてあるかを共有して確認します。金利、利息、預金といった大切な言葉が出てくるので、これらの用語について問い返しましたが、すぐに教師が口頭で説明して先に進んでしまいました。銀行と預金者、借り手の3者間のお金の動きを子どもたちに確認して、利息の差が銀行の儲けになっていることをまとめました。
ここは教科書や資料集で見つけたことをもとに「考える」場面ではありません。教科書や資料で見つけることを指示し、見つけた時点ですぐに活動をやめて、その内容を全体で共有することをすればよかったのです。そのかわり、大切にしたい用語については、子どもたちを何人も指名して外化させ、定着させることが必要です。儲ける仕組みについて、子どもたちの言葉で言わせるだけでなく、今おさえた用語が使われていなければ、それを使って表現し直させるようにすることで、より明確にさせることができます。知る、理解させる場面であることを意識した活動にすべきでしょう。

本時のメインとなる活動は、4人の人物に融資するかどうかをグループで判断するものです。

・友人のコンビニ開業資金
・まだ売れる前の芸能人の生活費
・フリーターだが社長の息子のマイホーム資金
・授業者の結婚資金

グループ活動を指示したとき、子どもたちは素早くグループをつくります。中でも、ちょっとやんちゃな子どもが真っ先に机を動かしたのが印象的でした。友だちとかかわりあうのがとても楽しそうです。子どもたちは、先ほどのクイズのときと違って、集中はしていますがテンションはそれほど上がりません。根拠を持って考えようとしているのがよくわかります。各グループの結論が出た時点で、黒板に結果を貼りだしました。
時間はあまり残っていません。どのように進めるのか興味を持ってみていました。授業者は、グループごとではなく、人物や理由に着目して考えを確認していきます。グループごとに発表させると、同じことを何度も聞かされることになります。よい進め方です。子どもたちの理由から「信用」という言葉が共通の言葉として浮かび上がってきました。授業者は「信用」がお金を貸すキーワードとして出てきたとまとめて、この時間を終わりました。ここで「信用」という言葉は子どもにとっては日常用語です。社会科の用語としての「信用」とはずれがあります。時間がなかったため致し方ない面もあるのですが、ここは「信用」の意味をしっかり押さえておく必要があります。「信用ってどういうこと?」と問い返したり、「○○さんは、約束を守る人で信用できるけど、お金を貸せる?」とゆさぶったりして、「信用」という言葉を明確にしていかなければなりません。
また、ここでは「信用」ということも大切なのですが、銀行の役割を考えるうえでは「将来性」といったことも大切です。実はあるグループが「成功するかもしれない」を貸す理由としてあげていました。残念ながら授業者は、このことに気づきませんでした。ここに注目して、このグループの考えを共有化したうえで、たとえば、「売れるかどうかわからない」といって貸してもらえなかった芸能人に貸すかどうかもう一度考えさせると、銀行の社会手的な役割に迫ることができたはずです。

課題をいろいろ述べましたが、子どもを受容すること、子どもの言葉で授業を進めようとする姿勢、子どもが興味を持って取り組みしかも授業のねらいつながるような課題、子ども同士のかかわり合いを意識した授業構成、どれをとっても素晴らしいものがあります。長足の進歩です。
授業者は自分の授業を振り返って、導入で時間を使いすぎたこと、ねらいであった銀行の社会的な役割について時間内に触れられずに次の時間に持ち越したことなどを反省点として挙げていました。これ以外にも私が気づいた課題についてはほとんど自分で気づけていました。これはとても素晴らしいことです。この授業で目指すべきことをきちんと意識して授業をし、子どもをしっかり見ていたということです。うまくいくかどうかは別として、ここが明確になっていれば自分の授業をきちんと評価することができます。うまくいかなければまた工夫をしていけばよいのです。日々の授業から学べる教師となっていました。授業者が1年前と比べて大きく進歩していたのも当然です。また、使っている授業技術からも、昨年私に指摘されたことを素直に受け止めて、日々努力してきたことがわかります。
あとは、ねらいとするところと個々の活動の関係を意識することです。この日の授業でいえば、ねらいとしたいのは銀行の社会的な役割を考えさせることです。課題は問題ありません。考えるための時間を確保すること。特に全員が気づくためには一度焦点化した後、もう一度考える活動が必要であること。そのためには、導入部分をいかに簡潔にするか。また、金利、利息、預金といった用語を定着させるのは、資料から見つける、理解する活動が中心であって資料を基に考える活動ではないこと。必要となる基礎的な授業力はついてきているので、このようなことを意識するだけで、授業が見違えるようになると思います。

話を聞く態度から、私の指摘したことについて自分でもう一度考えようとしているのがよくわかります。このような姿勢であれば、一つひとつの経験から多くのことを学ぶことができるはずです。今後の進歩がとても楽しみです。私自身もこの授業から多くのことを学ぶことができました。とても充実した時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

小規模校のよさを知る

昨日は小規模小学校で授業アドバイスをおこなってきました。全学級の授業を見て個別にアドバイスした後、全体でお話させていただきました。

驚いたのが教室や廊下で出会う子どもたちの雰囲気が柔らかくなっていたことです。うれしい変化に驚きながら、授業を見せていただきました。
以前と比べて先生方が子どもたちを待てるようになっていました。すぐに注意をしたり指示をしたりする場面が減っていました。子どもを受容する場面も増えています。先生に注意されて、緊張する場面も減っていました。緊張すると、先生が黒板を向いたときなど視線が外れると弛緩します。そういう場面が減って、ほどよい集中力を保てる時間が増えていたのです。
子ども同士の活動でも、しっかりとかかわり合っている場面が増えていました。友だちの発言を聞く姿勢もよくなっていました。体を向けて友だちの発表を聞いている子どもや友だちの説明を真剣に聞いている子どもの姿がたくさん見られました。

いつも述べているように、よいところが見られれば課題も見えてきます。子どもの発言を受容はできるのですが、まだポジティブに評価することができていません。発表を「よかった」と拍手をしても、どこがよかったかを具体的にはしていません。価値づけができていないと言い換えてもいいでしょう。また、子どもをつなごうとする姿勢は感じるのですが、先生からの「どう?」「わかった?」といった言葉だけで、実際に子どもに発言を求めたり、「納得した?」「なるほどと思った?」と、聞いていた子どもに発言をうながしたりする場面が少ないこともこれからの課題です。少ない人数だからこそ、わかった子どもの発言だけでなく、聞いてわかった子どもの活躍の場面をつくってほしいと思います。わかった子どもの考えから始めるのではなく、わからない子どもの困った感から出発することも意識してほしいところです。
教材研究の面では、発問や課題を子どもの視点でつくってほしいと思いました。教師の発した問いや提示した課題が子どもにどう理解されるかを考えてほしいのです。教師はどうしても抽象的な言葉を使ってしまいます。「考えよう」だけでは具体的に何をしていいのかわかりません。ノートに「まとめる」と言ってもそこに書く内容は、教科や場面で違います。「考える」「まとめる」経験をたくさん積むことで、「考える」「まとめる」ことができるようになります。それまでは、その内容を具体的に指示して何をすればよいのか明確にして活動させる必要があります。このことを意識すると、実は教師自身がその内容を具体的にイメージできていなかったことに気づきます。教師が教材をより深く理解するきっかけにもなります。
また、考えるための足場となるものを意識してほしいと思いました。考えるためには何が必要かを明確にして、活動に入る前に全員に確認しておくことが必要です(考えるための足場をつくる参照)。
ミステリーツアーになっている授業も見受けられました。指示を受けて子どもたちはしっかり活動できるのですが、活動するだけで考えていない場面が目につきます。活動は手段です。その活動を通じて何を考える、何ができるようになる。そのねらいが子どもに対して明確にされていないのです。たとえば、活動をしてからその結果を使った課題を示すより、活動の結果を使って何をするかを明確にしてから取り組む方が、子どもの活動意欲は高まります。目的が明確になれば、活動で何を大切にするかを意識できます。
また、「予想」をさせる活動がいくつかありました。「予想」を考えるきっかけにするのはよいことです。しかし、その根拠を問うことができなければ単なるクイズになります。またその予想が正しいかどうかを調べる活動がなければただ言っただけになってしまいます。活動とねらいが子どもにとってしっかりつながることを意識してほしいと思いました。

個別のアドバイスでは、先生方の向上意欲を強く感じました。こういう先生方とお話させていただくと私も元気が出ます。
ある先生は、子どものグループ活動をじっと見守っていました。1人の子どもがなかなか参加できません。友だちの話を聞いて考えようとしているのですがうまくかかわれません。そこで、先生は、子ども同士をつなげようと他の子どもに積極的にその子どもにかかわるように働きかけました。それでよかったのか、どうすればよいのかと質問をいただきました。とてもよい質問です。とはいえ、絶対的な正解があるわけではありません。ただ、まわりの子どもからかかわらせるよりも、その子からかかわるような働きかけをしてもよいのではとお話させていただきました。「どう、困っていることはない」と聞き、「誰か助けて」とつなぎ、友だちの答えに「どう、納得した?」と確認する。「助けてもらおうよ。自分から言える?」と自ら動くように促し、「言えたね。えらいね」とほめ、助けを求められた子どもには、「しっかり頼むね」と声をかける。こういった働きかけです。
また、ある学級では、困っていた子どもをわかった子どもに教えてもらいに行かせたそうです。ちょうど教えてもらった子どもが発表する場面から授業を見ました。以前はわからない子どもに対して冷淡な態度を取ることもあったできる子が、最後までその説明を真剣に聞いていたのが印象的でした。自分は教えた側なので聞かなくてもよさそうなのですが、そうではありません。自分が教えたからこそ、ちゃんと伝わったか、どう発表するのか気になるのです。その子がなぜ真剣に聞いていたのか、その場ではわかりませんでしたが、先生の話を聞いて納得しました。子ども同士のかかわり方で、子どもが変わっていくよい例です。
これらに限らず、先生方からよい話をたくさん聞かせていただきました。とても勉強になりました。

全体で、よくなった点とだからこそ見えてくる課題についてお話させていただきました。
最後に、ちょうど学芸会の準備期間でしたので、劇とふだんの授業をどう結び付けるかについて少し話させていただきました。
脚本を読むときに、その時の登場人物の気持ちを考えさせます。これは、国語の授業と同じことです。その上で、日ごろの音読指導と結びつけます。その気持ちを表現するにはどのような読み方をすればいいのだろうか。「強く・弱く読む?」「速く・遅く読む?」「だんだん強く・弱く読む?」「滑らかに・ごつごつと読む?」といったことをみんなで考えます。意見が分かれればあえて結論は出さずに、役者本人に決めさせます。その判断を演技からわかろうとする姿勢を持たせるのです。これはコミュニケーションでもあります。動作についても同様です。
コミュニケーションということでは、観客を意識させることも大切です。舞台と観客席にペアがそれぞれ分かれて立って、互いの声を確認し合う、演技を確認し合うのです。実際に観客の立場で見ることで、伝える相手を意識させるのです。

先生方からの質問のなかで、「学校全体に対して具体的に共通で取り組むべきことを示してほしい」との発言がありました。学校全体で同じことに取り組むことは、とてもよい考えだと思います。しかし、この取り組むべきことを私が指示することはしないと答えました。それは、私が指示することではなく、皆さんで決めることだと思うからです。この発言をきっかけに、学校全体でこのことを話し合っていただけることを期待します。

わずかな期間で子どもたちが変わるのは小規模校のよさだと思いました。教師が変化すればすぐに子どもの変化となって表れます。しかし、これは諸刃の剣でもあります。教師が悪い方向に変化すれば、子どももすぐに悪い方向へ変化するからです。だからこそ、この学校のように先生方が謙虚に向上意欲を持ち続けることが大切です。このことを教えていただきました。ありがとうございます。次回訪問時に子どもたちにどんな変化があるか今からとても楽しみです。

中学校で初任者の授業アドバイス

昨日は中学校で授業アドバイスをしてきました。初任者の数学の授業でした。

教室は子どもたちの笑顔にあふれていました。その理由はすぐにわかりました。授業者が子どもに対して受容的な態度を取っているからです。授業者の素敵な笑顔も時々見られます。友だちの発表に対して、「わかった人」とつなぐ姿勢もあります。「何を言ってもいいよ」「反応して」と子どもの外化を求めます。子どものつぶやきにも反応します。
しかし、つぶやきはその子どもとのやり取りだけで、きちんと全体の舞台にはのせません。子どもの発言の数学的な価値やよさについては、評価しません。否定をせずに受け止めるだけです。子どもの発言が価値づけされ、それを受けて子どもがより深く「考える」場面はありませんでした。授業者にとって都合のよい言葉だけを使って、結局は自分が説明をします。しかし、子どもたちは、自分たちの言葉を教師が受け止めてくれるので、気軽に言葉を発します。これが時として授業規律を乱してしまう危険性があります。
授業の進め方も、指示が多く、作業の意味を考える、考えさせることはできていません。子どもたちは、なぜこの作業をしているかわからずに活動しています。ミステリーツアーです。子どもたちをつなごうと「わかった人」と聞いても、全体に確認するだけで「わかった」を具体的にしません。意見の発表も、1人指名した後、「大体同じ」であれば、あらためて発表させません。互いの考えをわかり合う場面はありませんでした。
結局授業の流れは、教師が指示して、子どもが作業をする。その結果を聞いて教師がまとめるだけで、子どもが考える場面が非常に少ないのです。教師はまとめの中で、自分が思う「考えること」を話すのですが、子ども自身で考えていないので残りません。そのことが如実に表れたのが、その日の最後の発問でした、子どもたちに「なぜこのような定義をしたか」自分の言葉で書くように指示しました。日本語がおかしかったこともあるのですが、ほとんどの子どもが固まっていました。一部の子どもが「何を書けばいいかわからない」と友だちと話しているのですが、それは拾いませんでした。

受容ができることに対して、その他の授業技術の拙さが印象的です。ずばり、「アンバランス」なのです。
おそらく、受容できることは教壇に立つ以前に身に着けていたものだと思います。教師としてトータルに考えて意識していることではなさそうです。これはとても危険です。受容することで子どもたちとの関係はつくれますが、それで良しとしてしまうと他の多くのことがおざなりになってしまうからです。欠けている部分があることを謙虚に認めて、意識して補うことをしてほしいと思います。とはいえ、アンバランスは、中途半端にバランスがとれているよりは、はるかにましです。高い方にそろえていけば、素晴らしいものになるからです。そうなることを期待しています。

数学の授業としては、残念ながら授業内容を云々する以前の問題でした。
線、直線、線分といった用語が適当に使われています。正しい用語を使って話せません。当然子どものあいまいな表現を聞き返して正しく修正させることもしません。数学では、∠AOD=90°と∠AODが直角というように、角の大きさと角を同じ記号∠で表します。このことを意識する場面でも曖昧なまま進めていきます。点と直線の距離にいたっては、距離を線分と間違って定義してしまいます。

教科書を閉じて授業を進めているのですが、それは授業者が教科書の内容を正しく理解しているという前提で初めて許されることだと思います。定義すら間違えるのですから、まだ閉じたまま進めるのは危険です。
また、垂直の導入を教科書は紙を斜めに折り、折り目の直線を重ねるように折ることで垂直な線をつくっておこないます。しかし、授業者はひし形を対角線で折ることで垂直な線をつくって導入としました。教科書の意図がわかった上で、ひし形を導入に使うのであれば問題はありません。教科書は、垂直を「つくるよう」に折ることで垂直の特徴(平面を等しい角で4等分する)や対称への布石を意識したり、斜めに折ることで鉛直との違いを意識したりできるように考えています。ひし形の対角線は、折るという行為でつくられた垂直ではありません。対角線は折らなくても互いに垂直に交わります。折ることで、目に見えるようにしただけです。その違いは意識されていませんでした。残念ながら教科書の意図はわかっていなかったのです。ひし形を活かすのなら、たとえば「このひし形を折って、垂直な線をつくって」と問いかけることです。「あれ、1組しかできない?」と揺さぶることで、教科書のねらいと同じことが達成できます。わからなければ、わかろうとしなければいけません。また、わからないのに勝手に変えることは危険です。先ずその通りにやってみて、子どもたちの反応から学ぶことも必要です。

授業後のアドバイスの時に、数学的な間違いについて聞いてみました。ほとんどが「わかっている」という答でした。指摘されたことの内容は「わかっている」ということかもしれません。そうでなく間違えたことを言ったことに「気づいている」だとすれば、これは深刻な問題です。修正していないからです。そのことの大切さが意識されていないのです。数学の教師としては致命傷です。次の時間にきちんと修正しないようであれば、残念ながら教壇に立つ資格はないでしょう。そうでないことを信じています。
よいところもたくさんある先生です。大きく伸びる可能性を持っています。そうなるかどうかは今後の授業に対する姿勢にかかっています。1年後に大きく成長した姿を見せてくることを期待します。

フォーラムの打ち合わせで考える

3連休の最終日に、「愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の「午前の部」の内容について打ち合わせをおこなってきました。

「午前の部」は「劇で語る! 校務の情報化」と題して、校務の情報化とはどういうことか、学校にとって何がメリットなのか、どこがポイントなのか、こういったことを研究会のメンバーによる劇仕立てで伝えようというものです。
この日は各グループのリーダーと司会者、事務局+おまけで私が参加しました。グループの劇の方向性を決め、次回までに作る脚本のイメージをリーダー間で共有するものです。

こういう会議を進めるときには、何かたたき台があるのとないのでは全然違います。今回は事前に1本脚本を準備してくれたリーダーがいたので、まずはそれをもとにイメージを共有化しました。
その上で、グループごとの内容を決めていくのですが、何が決まれば脚本が書けるか、その項目が見えてくるまではしばらく時間がかかります。みんなでいろいろと話をしているうちに、だんだんと明確になります。この時間がとても大切です。最初から項目を決めて提示した方が早く思えますが、その過程を共有することで自分の胸に落ちるのです。
長くかかりそうに思えた会議も、その後は順調に進んでいき、予定よりも早く終わりました。

このことは、授業にも共通することです。

・具体的な例で、何をつくりだすのかを課題や方向性を共有する。
・結果ではなく、過程を共有することで自分のものになっていく。
・過程(方法論)が身につくと、再現性が高くなる(別の問題でも解決できる力がつく)。

逆に、こうした授業を受けることで、子どもたちは社会で役に立つ力をつけていくのだということも言えそうです。
単なる知識だけでなく、学びの過程そのものがとても大切な学習なのです。
このことをあらためて、今回の会議から学びました。

「肝心の内容はどうなったか?」ですって。それは、当日(2013年2月16日)のお楽しみ。きっと皆さまの目から何枚かの鱗が落ちることと思います。もちろん、勉強になるだけでなく、おもしろい会になることは請け合いです。関係者の私が今から楽しみなのですから。
申込みは今しばらくお待ちください。開始になり次第、この日記で紹介します。

教科書を理解することの大切さを感じた授業(長文)

先週末は、算数の授業アドバイスをおこなってきました。5年生、4年生それぞれ2学級と、6年生の研究授業です。

5年生は2学級とも音声計算練習(ペアで一方が声に出した答えを他方が確認し、決められた時間で何問できるか評価する)をしていました。おもしろかったのは、子どもたちの取り組み意欲に少し差があったことです。一つの学級は子どもたちが向き合っています。相手の答えにうなずいている姿も見えます。終わった後、前回よりも進歩したかどうか聞いたりして、子どもたちをしっかりとほめています。子どもたちはとても意欲的な姿を見せてくれました。一方、もう一つの学級は、互いに正面を向いたまま取り組んでいます。向かい合っている学級では子どもの体は前のめりですが、この学級では体がやや反り気味の子どもが目立ちました。また、何問できたかを聞くのですが、ほめる言葉が少ないせいか子どもの反応はやや薄いようでした。子ども同士のかかわりをつくることと、少々オーバーでもいいので、子どもをしっかりほめることを意識するとよさそうです。
とはいえ、どちらの授業者も子どもを受け止めることは意識されていました。あとは、具体的にどうすればいいかを経験していくことで進歩していくと思います。

授業は2つの学級とも、0を含む標本の平均の場面でした。教科書の前時は、グラフから平均を「均(なら)す」イメージで理解させるようになっています。本時は、月曜日から金曜日の図書館の本の貸し出し数の平均を考えるようになっています。ここで本という具体的に操作しやすい物にしていることに注意をしてほしいところです。本を積んで、実際に均す操作をさせると、0も平均に加えるべきだと気づきます。この問題で平均は5.2冊ですが、0冊以外の日はすべて5冊より多くなっています。均す操作をするときに移動させるのが0冊の場所だけになるようにしているわけです。このことからも、操作をさせたいという教科書の意図が見えてきます。5冊で均すと1冊余ります。この1冊をどう考えるかも大切なところです。前時では、小数が出てきません。初めて平均が小数になります。本が5.2冊はおかしいという子どもがいるはずです。四捨五入して5だという子どももいるはずです。子どもたちからこういう言葉を引き出して考える必要があります。そのため教科書では、平均を使って予測をする問題とペアになっています。予測することを通じて平均の意味を考え、小数の必然性に気づかせるのです。平均は期待値とも言われます。その意味がよくわかる課題です。授業者は、残念ながら押さえるべきポイントを外していました。子どもがしっかりと授業に参加しようとしていても、ポイント外してしまえば学びは少ないものになってしまいます。

4年生は四角形の性質の授業でした。1つの授業は平行四辺形の復習から対角線の導入、もう1つは対角線の性質の導入でした。平行四辺形の復習場面ではICTをうまく使っていました。スクリーンに平行四辺形を映しだし、平行四辺形になる条件を全員に言わせます。いわゆるフラッシュカードとしての使い方です。子どもたちは元気よく答えます。授業者から子どもたちをほめる言葉がどんどん出てきます。子どもたちはとても意欲的に取り組みました。この場面だけでなく授業者が子どもをポジティブに評価する場面がとても増えていました。ただ、テンションが上がりすぎる子がいたり、逆に自信を持って言えていない子がいたりしたときに、まだ対応ができていませんでした。子どもの状況に応じてリズムを変える、列でいわせる、個別に指名するなどの対応を身につけてほしいと思いました。
授業規律も以前よりもずいぶんしっかりしてきました。その秘密はすぐにわかりました。子どもへの指示が明確になったこと。できるまでしっかり待てるようになったこと。できない子どもを注意するのではなく、できた子どもをほめるようにしていること。こういうことができるようになったのです。残念だったのは、ノートに写し終わった子どもに、静かに顔を上げて待つように指示した場面でのことです。写し終わった子どもは次々とよい姿勢で待っています。最後の一人が少し遅かったのですが、どの子も落ち着いて待っていました。このあと授業者はすぐに進めてしまいました。待っていた子どもたちをほめる、待ってもらっていた子どもに「待ってもらえてよかったね」と声をかけるなどしてほしいところでした。ともすると、待っていた子どもは、「あの子が遅いせいで待たされている」と遅い子どもに対してネガティブな感情をもつことがあります。「みんな待っていてくれてありがとう」とほめることでネガティブな感情を消すことができます。遅い子どももみんなが待っていてくれたことを意識することで、友だちに受容されていると感じると同時に次からは早くしようという気持ちになります。
また、定義と性質の違いがあいまいな表現をしていたことも気になりました。「向かい合う2組の辺が互いに平行な四角形」を平行四辺形といいます。これが定義です。「向かい合う1組の辺が平行で長さが等しい四角形」は平行四辺形になります。これは性質です。この区別をつけずにすべて「なります」でした。間違いではないのですが、この違いはどこかで押さえるべきだと思いました。

対角線の導入の授業は、同じ形の2つの三角形を組み合わせて四角形をつくり、その中で平行四辺形となるものを選ぶ課題でした。授業者はグループで平行四辺形となるものをつくらせ、それが平行四辺形になることを説明するように指示しました。発表場面では指名された班長が定規を使って辺と辺が平行になることを説明しようとするのですが、定規が大きいこともありなかなかうまく扱えません。そこでグループの子どもに助けるように声をかけました。よい対応です。子どもたちは苦労しながら挑戦します。他の子どもも真剣に見ています。しかし、なかなか進まないので見守っている授業者も余裕がなくなります。よい笑顔がいつの間にか消えてしまいました。ちょっと残念です。結局授業者は各自で平行の示し方を考えるように指示しました。発表者とつながっていた子どもたちでしたが、この指示で関係が切れてしまいました。発表者を見ることを止め自分でやり始めます。代わりにやってくれる人と言ったところ、勢いよく何にもの手が挙がりました。発表者のグループに授業者は声をかけましたが、彼らはダメだったとがっかりしているようでした。せっかく子ども同士がつながっていたので、「だれか助けてくれる人」と呼びかければうまく進んだように思います。
根本的な問題は、この場面は何を押さえるべきだったのかです。四角形を作るには、「同じ」長さの辺同士をくっつけないといけない。この同じ辺が、四角形の対角線になっている。「同じ」形の三角形だから同じ長さの辺は3組ある。でも、ひっくり返してもいいから、全部で6個できる。「同じ」を押さえて四角形を作ることが大切です。その上で平行四辺形になるものを選ぶときに、前時までに学習した平行四辺形の性質を使うことを意識させる必要があります。定規を使って平行を示すこともよいのですが、それがこの時間の中心の活動でありません。失敗で終わらせないようにしようというのとてもよいことですが、そこに時間を取られすぎてしまい、ねらいとする活動ができなくなってしまいました。
子どもを受容する姿勢はできてきているのはとてもよいことです。ただ、子どもが思ったように動かないとどうしても余裕を失くしてしまい、表情も硬くなってしまいます。教材研究の裏付けが必要になるのです。

6年生の研究授業は、表を使って問題を解くことの2時間目でした。表を利用して、俗にいう、つるかめ算を解くことが課題です。
表つくりは、前時は0から埋めるものだったのが、本時は真ん中の値から始めます。この扱いが検討会でも話題になりました。事前の検討では、どこからスタートしても、きまりを見つければできるということがポイントだという結論だったようです。授業者は天下り的に真ん中の値から表を埋めるように指示したのですが、そのポイントを整理することはしませんでした。真ん中の値から表を作ったので、子どもたちはその値を増やすか減らすか迷っていました。とても面白い場面です。授業者はここで作業を止めて、このことを問いかけました。よい進め方です。説明できる子を指名して、子どもから言葉を引き出そうとします。子どもの言葉を受容し、問い返し、丁寧に対応していたのはとてもよいことです。しかし、子どもから言葉を引き出した後は、安心して自分が話し始めてしまいました。引き出した子どもの言葉を他の子どもが理解したか確認することや、その言葉を聞いてどう考えたか聞くといった、つなぐということをしませんでした。結局多くの子どもは、友だちの説明の根拠を理解せずに、最終的に教師が認めた「値を増やしていく」という結論を受け入れるだけでした。
グループでの活動も、式と答が書けて止まっているグループと、行き詰まっているグループとに分かれました。発表も式を書かせ、その意味を言葉で説明させるだけで表と式を結びつけることはしませんでした。子どもたちのノートには、式と表が別々に書かれているだけです。表のどの部分がいくつになればよいのか。この式は表のどの部分を求めているのか。どこにも残っていませんでした。

問題点は、前時の学習と本時の学習が全くつながっていないことでした。前時では、変化するものをみつけ、それを表にして、求める値になるときを表から見つければ問題が解けること。表を全部埋めなくても、表のきまりを見つければ求める値が見つかること。表のきまりは、値を増やしたり減らしたりして、それに伴って何がどのように変わるかに注目すると見つけやすいこと。これらのことが押さえられていることが必要です。この単元のねらいを明確にしていないために、前時と本時が表を作るという共通点だけで、何もつながっていなかったのです。
ベテランの方が何名か意見を交換しながら見ていました。私もつられてその輪の中に入ってしまいました。ベテランがこういう場面で積極的になるのはとてもよいことです。若手の方もそばにいたのですが、余り声をかけることができませんでした。失礼なことをしてしまいました。次回は若手の方ともっとお話するようにしたいと思います。

検討会では、真ん中の値から表を埋めること、グループ活動の課題や進め方が話題になりました。
ここでは、どこから表を埋めてもきまりを見つければよいということを意識させればよいのですから、あまり最初の値にこだわらない方がよいように思います。それよりも、大きな表を書いて、「どこから埋めよう?」と問いかけて、それぞれに挑戦させた方がおもしろいように思いました。これならば、値を増やしても減らしても困りません。大切なことは変化を意識してきまりを見つけることだと気づけます。
また、課題解決は表を作ることで何がわかるか、どこの値がわかればいいかを意識させることと、表のきまりを見つけることでその値が見つかるという2つのステップを意識するとよいと伝えました。最初から2ステップに分ける必要はありませんが、子どもたちが行き詰っているようであれば一旦止めて、どこで困っているかを共有して、他のグループが何を考えたか、何をやろうとしているかを聞くことで見通しを持たせてから再びグループにもどすとよいでしょう。
このようなことをお話しました。

検討会終了後、研究授業の授業者とお話をしました。教師とグループとのかかわり方も大切なのですが、教材研究をしっかりしないとかかわる必然性のない課題となってしまいます。教師のかかわり方といったスキルと課題をどうするかといった教材研究は両輪です。一方だけではその場をぐるぐる回って前へ進みません。一方を回せば、次はもう一方を回す。こうして少しずつ前進できます。バランスよく学んでほしいと思います。

4人の授業者とは一緒にお話をしました。自分の授業についてのコメントを他の先生に聞かれることを嫌がらない人間関係はとても素晴らしいと思います。互いのコメントから学びあう姿はとても気持ちのよいものでした。4人とも前回の訪問時から何かしら意識して授業をしていました。このように素直に変わろうとする姿勢が学校全体に広がっていくことを期待します。

算数は教科書を読み込んでいるかどうかが顕著に表れます。その点、今回はどの授業もまだまだでした。前向きな先生方ばかりなので、あえて厳しくお話しました。意識して教科書を読めば必ずその意味は理解できると思います。教科書を大切にした教材研究に励んでほしいと思います(鈴木明裕先生から学ぶ参照)。次回の訪問時にどのような変化が見られるか、今からとても楽しみです。

研究発表会で学校の変化から学ぶ

昨日は、小学校の研究発表に参加しました。1年ぶりの訪問です。
まず驚いたのは、子どもたちの雰囲気が大きく変わっていました。落ち着いていて、笑顔もたくさん見ることができました。教室が子どもたちにとって安心できる場所になっています。先生方が目指す授業規律も徹底されてきています。簡単なことのようですが、学校全体となるとそれほど簡単なことではありません。先生方が互いに学び合った時間の積み重ねを感じます。以前は多かった、否定的な言葉や「正解」といった言葉が聞かれません。そのかわり、「なるほど」といった受容的な言葉が増えています。このあたりにも雰囲気がよくなった秘密がありそうです。こういう基本ができてくると、課題もたくさん見えてきます。ここで満足せずに次の課題を意識しないとせっかくの取り組みが活かされません。幸い、ここで研究を終わらずに来年度以降も継続されるようなので、今後の変化がますます楽しみになってきます。私の目に映った課題を少し挙げておきたいと思います。

授業規律は、顔を上げて教師の話を聞く、作業が終わったら静かに待つ、音読では教科書はきちんと立てて持つ、ノートは決められた形式で書くなど、形はかなりできています。授業者によってまだ差はありますが、発表の時に友だちの方を向いている学級もかなりあります。しかし、残念ながらまだ形だけなのです。友だちの方を向いていても、ちゃんと聞けていない子が目立ちます。形ができていることで先生が満足しているからです。指示もよく通るようになっていますが、確認が弱いように感じます。聞いているか、理解しているかを問わないからです。
子どもは教師が求める姿にしかなりません。形から中身へと、先生方の意識を変えることが必要になります。

習得では、フラッシュカードなどを使って全員で大きな声を出させる場面が多いようです。先生は声の大きさで子どもたちの取り組みを評価しています。自信と声の大きさはある程度比例するからです。しかし、注意して見るとテンションを上げて学級を引っぱっている子どもの陰で、口がしっかり開いていない子どももいます。まだ、スクリーンに目がいっている先生もいます。子どもを見ている先生でも、子どもの何を見るかが明確になっていないようです。子どもの状態でリズムを変えたり、一人ひとり指名して確認したりといったことはできていませんでした。子どもを一人ひとり見ることは大きな課題になってくると思います。
また、全員で練習することが多いのですが、活動によってその目標を明確にする必要があります。問題を全員で音読する。国語の教科書を音読する。子どもたちは大きな声を出すことを目標としているのですが、場面によってはもっと大切な目標があるはずです。残念ながら子どもたちのようすからは、それが何かは明確なっていないようでした。一つひとつの活動の意味を問い直すことも課題です。

基本となる知識を早く教えて、定着させて活用する。この方針で取り組んでいます。この考え方は決して間違いではありません。特に算数では問題が解けるという結果に直結させやすいので有効に見えます。そのせいか、公開授業も算数が多いように感じました。しかし、ここでは解き方などの結果だけでなく、考え方も教師が教えています。考え方は教師が説明し、話形で説明練習しただけでは身に着くものではありません。話形で言えれば考え方がわかっているわけではないからです。そのための活動が必要です。残念ながらそれが何かはまだ先生方は意識できていません。板書も結論や結果が中心で、そこに至る過程が残ってはいませんでした。
考え方にも基礎・基本があります。まだまだ結果の定着が中心で、考え方、考える課程を定着させることはこれからの課題でしょう。そのためには、教科の内容をしっかり理解することが必要です。教科書を大切にして取り組んでいますが、教材研究の必要性はますます高くなっています。

活用場面で顕著なのは、習得や定着の場面と違って子どもの挙手が少ないことです。このこと自体は決して悪いことではありませんが、問題はそこですぐに指名して進めてしまうことです。教師は指名した子どもを受け止めることはできていますが、他の子どもが理解したかはきちんと確認できていません。全体に問いかけることはしても、個に確かめることはしていないからです。わかった子ども中心の授業となっています。そして、子どもの発言を受け止めたあとは、知識を教えるときと同じく、ここでも教師が説明を始めてしまいます。このことは、復習の場面でも起こっています。復習ですから、子どもが説明できるはずです。なのに、結果を子どもに言わせたあと、最初に教えたときと同じように教師がまた説明を始めるのです。
しゃべらなくてもよい時にもしゃべりすぎてしまい、結果として子どもの活躍の場を教師が奪ってしまっていることも課題です。

子どもがノートを実物投影機で発表する場面もあるのですが、まだまだ発表の形だけで、本当に伝わったかどうかは確認されていません。教師も発表者に注意がいって、他の子どもたちが理解しているかに意識があまり向いていません。自分の考えではなく友だちの考えを発表するような、「つなぐ」ということが、この学校が次の段階へ進むための大きな壁になるかもしれません。

まだまだ、課題はたくさんあります。わずか1時間の公開授業でたくさんのことが見えてきます。これはこの学校がダメだということではありません。むしろ、素晴らしい進歩をしているということなのです。一度にすべてがよくなるわけではありません。いつも述べているように、できたことがたくさんあるからこそ、できていないことがたくさん見えてくるのです。

こうなると、わずか1年半でこの学校をこのように進歩させた講師の講演が楽しみです。全部で9回訪問されたということです。学校を変えるのにこの回数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。私はこの回数で変わったことはすごいことだと思います。その秘密の一端が講演から伝わってきました。

講演は、この学校の実践を通して参加者に伝えられることを実にコンパクトにまとめていました。その見せ方には何か法則がありそうです。
全員がどの教室でもできていることは、そのことを指摘しそのよさを語ります。つぎに、一部の教師しかできていないことは、一部であることにはあまり触れずに、その場面を映像で示し、具体的かつ丁寧に説明されます。講師が教えるという形でなく、仲間のよさという形で伝えます(裏ではその教師を個別に指導していたのかもしれませんが?)。できていない教師にとっては、「おまえはダメだ」と指摘されるとネガティブな気持ちになりますが、このやり方であれば「こうすればいのか」「私もまねしよう」とポジティブになります。こうして、この学校のよいところだけを伝えます。しかし、「課題も明確にして指摘しなければ進歩しないだろう」「こんなレベルで満足していいの」「講師は課題がわかっていないんじゃないの」、そんな風に思われる方もいるかもしれません。そんなことはありません。この学校の課題は、とてもよく理解されています。意識して聞くと、一部の方ができていることを強調することで、その裏にある「できていないこと」が実に見事に浮き上がってきます。講演を聞きながら、私も再度この学校の課題を整理することができました。講師の話したことではなく、話さなかったことがたくさんメモできました。こういうことは非常に稀です。高次元の伝え方を知らされました。
もちろん、表面だけ聞いていれば課題は見えてきません。しかし、そこはぬかりありません。今までどのようなことを指導したという話の中で、さりげなく課題を再度明確に伝えます。できていないことを「課題」と言わずに「指導したこと」と一般論としてさらりと言うところがさすがです。たくさんの指導の中で、活用場面の練り上げを取り上げたところも見事です。そこには、私が気づいたような課題がコンパクトに凝縮されていました。そして、より高みを目指してほしいという気持ちを、他校の例を示すことで伝えました。
上から目線で指導するのではなく、先生方ができたという実感を持ちやすい「形」から入り、できたこと共有化し、根気よく自信を持たせながらここまで来たのだとよくわかります。私も学ばなければいけないことがたくさんありました。いつお会いしても、たくさんのことを学ばせていただけます。感謝です。

この学校がここまで来たのは、外部の指導者や先生方の頑張りだけではありません。管理職の方もここに至るまで意識を変革し、日々先生方の頑張りを支えるように動かれたことと思います。この地区はいくつかの事情もあり、今まで授業研究や研究発表といったことがあまり盛んでありませんでした。その雰囲気を変え、市全体の底上げをしようと教育長、指導主事を始め多くの方が陰になり日向になり研究を支えてこられました。この学校全体でできたことを今度は市全体に広げるのが次のステップです。困難はあるかもしれませんが、きっとよい方向に変わっていくと思います。
もちろん、この学校はこれからも市全体のよいモデルとして進歩してくれることと思います。こまでは比較的早く結果が出せる取り組みが多かったのですが、これからはそうはいきません。今まで以上に地道な努力が求められます。あせらずに、一歩ずつ進み続けてほしいと思います。多くのことを学び、元気をいただいた発表会でした。

中学校で講演

昨日は中学校で講演をおこなってきました。今年度の努力目標(「基礎・基本の定着、分かる授業への挑戦」‐言語活動の充実を通して‐)達成への各教科の中間報告と質問を読ませていただき、それに対するアドバイスの形を取らせていただきました。

各教科の取り組みはそれぞれに工夫があってよいのですが、学校全体としてこの努力目標をどう達成するかという方向性がはっきり見えませんでした。中学校に多いことですが、教科で視点がばらばらなのです。基礎・基本の充実、わかる授業の実現のために、子どもたちの現状と照らし合わせてどのような言語活動の充実が必要なのかを、学校として明確にしていないのです。
今回は時間も短かったため、皆さんからいただいた質問をもとに、トピック的にお話をさせていただきました。

・言語活動の必然性
教師の求める答えを言うことを求めるのであれば、子どもは発言する必要はありません。だまって、教師の説明を待てばいいのです。子どもにとって言語活動をする意味がありません。子どもの発言が活かされる授業が求められるのです。
教師は結果ではなく、その根拠を問う。
発言者は、相手意識を持ち、教師ではなく友だちに納得してもらえるように根拠を持って話す。
聞く側は、発言者の考えをわかろうとする姿勢を持つ。
子どもが友だちの発言を聞いてわかったことを教師が評価する。
このようなことが大切になります。

・言葉を豊かに
言語活動を豊かにするには、語彙が必要です。言葉を単に覚えるのではなく、活きた場面で使うことが大切です。また、教科用語と日常用語を自由に行き来できることも大切になります。
学んだ言葉を使う場面をつくる。
他者の表現から学ぶ。
日常用語の表現を教科用語で言い直す。
教科用語を自分の言葉で説明する。
このような活動が必要になります。

・イメージ・具体物の言語化
抽象的なことを具体的にするためには言葉で表現することが有効です。また、具体物をどう言語化して伝えるか意識することで、よりよく深く見ることができます。
イメージを言葉で説明する。
視点を明確にして観察し伝える。
作品のよさを言葉で伝える。
こういう活動で、抽象を具体に変える力、具体物を明確に伝える力がついていきます。

・子どもがかかわり合うことが大切
異なる個性、力を持った子どもが一緒に学ぶことに学校のよさがあります。たとえ少人数、習熟度別にしても、教師が授業の中で、わからない子ども全員をわからせるのは難しいものがあります。個別に対応するにも限りがあります。子ども同士がかかわり合うことでわからない子どもがわかるようになり、わかる子どもも教えることでより深く理解するようになります。また、基本となる子ども同士の人間関係をよくすることにも力を入れる必要があります。
ペアでの活動は双方の役割(特に、受け手)を明確にし、相手がいることのよさを実感させる。
「わからないから教えて」と言える子ども、「聞かれたからわかるまで教えよう」とする子どもを育てる。
このようなことが大切になります。

・具体例
皆さんからいただいた質問に対して、できるだけ具体的な場面でお伝えするようにしました。

限られた時間だったこともあり、説明や質問へのお答えが不十分だったことと思います。疑問な点を、先生方自身でどうすればいいのか考え直していただけることを願います。私の話が先生方の取り組みを、よりよいものへと変えるきっかけになれば幸いです。先生方の努力を個人的なもので終わらせずに、互いの成果を全体で共有することで、学校の方向性が収束していくことを期待しています。

明確な視点を持って指示をする

先日知り合いのデザイナーから、こんな話を聞きました。
ある町の古い櫓を取り壊すことになったそうです。そこで、取り壊される前に櫓を見学して絵を描こうということになりました。しっかり観察するように指示しても、教室に戻っていざ描こうとなるとなかなか再現できません。ところが、「櫓のてっぺんの形」「櫓の色」「櫓の高さ」の3つだけ見てくるように指示したところ、どの子も櫓全体をしっかり把握し、驚くほど上手に描けたそうです。3つだけ意識することで、全体像をつかむことができるというのは、とてもおもしろい話です。「形」「色」「高さ」と異なる視点であることが全体を把握するのによかったのかもしれません。

「ていねに」「しっかり」「よく」「がんばる」・・・。教育の現場ではこういう言葉が飛び交いますが、具体的ではありません。

「ていねい」に色を塗るとはどういうことか。境界線をはみ出さないようにまわりを塗ってから、中を塗る。
「しっかり」観察するとはどういうことか。葉の形、縁、色、表面の状態、葉脈がどうなっているかを観察する。

具体的な指示をしなければ、きちんとできるようにはなりません。教師側がねらいを持って明確な視点で指示しなければ、子どもたちは「なんとなく」自分の考える「ていねい」「しっかり」で行動するのです。

ちなみに、櫓の絵の取り組みは評判になり、町の他の学校にも広がった結果、櫓は取り壊されずに別の場所に移転することになったそうです。

「授業名人が語るICT活用 」発刊

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野口芳宏・有田和正・志水廣 授業名人が語るICT活用 −愛される学校づくりフォーラムでの記録」が(株)プラネクサスから発刊されました。

これは今年の2月に開かれた、「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」での「授業名人がICT活用について語る!」の内容を書籍としたものです。

単にフォーラムでの発言や内容をまとめた記録ではありません。
このフォーラムに向けて若手とベテランが授業名人に近づこうとどのような努力をしてきたか、その挑戦と成長の姿が書かれています。授業力をつけるとはどのようなことなのかを考える参考になるはずです。

名人はICT活用を否定していません、しかし、手放しで認めているわけでもありません。ICT活用を一つの切り口として、名人が語ったことから、私たちがどのようなことを考え学んだかということが書かれています。それはICT活用を越えて、授業とはどうあるべきだという本質につながることです。

ICT活用を越えて、授業力とは何か、よい授業をつくるとはどういうことかを考える参考になると思います。
ご一読をお勧めします。(購入はこちらから)

中学校で授業アドバイス(長文)

先週末は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。1年生を中心とした子どもたちのようすの観察と、2つの数学の授業アドバイスでした。

1年生は、全体的に授業規律が緩くなっていると感じました。子どもたちは、友だちや教師の話を聞くことよりもノートに写すことを大切にしています。教師が話を聞かせるために板書をやめても、写すものがないと不安なため、友だちの話をメモし始めるようになった学級もあるそうです。子どもたちの話を聞く姿勢を意識している先生の授業でも、以前より子どもたちの集中が落ちている場面に出会います。小学校でよくしつけられていたのでしょう、1学期は子どもたちの授業規律はとてもよかったという記憶があります。2学期になってそれが緩んできているということは、学年全体で授業規律を維持すること、特に話を聞くことを意識して指導・強化してこなかったということだと思います。
そのことを感じたのが、総合的な学習の時間での職業調べの発表場面でした。グループ内で発表した後、グループの代表が全体で発表します。このとき、聞く側の子どもたちの課題は、発表をメモして、話の内容や感想をワークシートにまとめるというものです。そのため、どの子も書くのに忙しく発表者を見ていません。メモしながら顔が上がればよいのですが、メモとは何かもよくわかっていません。ほとんどの子どもがワークシートに文章で書いています。発表者がつくった資料が手元にあるのですが、それを見ながらまとめている子もたくさんいます。これでは、子どもたちの顔が上がらないのも当然です。一方、発表者も原稿を見ながら話すので、友だちと目が合いません。こういう活動を続けていれば、子どもたちが聞くことより書くことを優先するようになるのは仕方のないことです。

授業アドバイスの1つ目は、授業がうまくいかないということで自ら授業アドバイスを求められた方です。とても素晴らしい姿勢です。
子どもたちにわかってほしい、理解させたいという授業者の思いがあふれている授業です。しかし、子どもたちの反応は今一歩です。決してわかろうとしていないのではありません。むしろわかりたいという思いは強いのです。そのことは、友だちが前に出て説明する時に、全員が体を乗り出して理解しようと集中して聞いていた姿勢に表れています。では、なぜ授業者の言葉には反応しないのでしょうか。

1つは、授業者がしゃべりすぎることです。子どもの反応がないと何とかしようとすぐに次の言葉を発します。情報が次々にでてくるので、子どもは消化しきれません。考えが追いつかないので、整理された板書を頼ることになるのです。子どものわからない、困った感に寄り添うことが大切です。どこでつまずくか、わかるためには何が必要か、そのことを整理しておき、子どもと一緒に考えることが大切です。「最初に何を考えた」「どうすればできそう」「何がわかれば解けそう」。こういう言葉を大切にする必要があります。

次に、子どもの発言を正解かどうかだけで評価していることです。子どもは自信がないと発言できません。発言できない子どもにヒントを与えて何とか答えさせようとするのですが、子どもからすれば、自分の考えを聞かれているのではなく、教師の求める答えを強要されているように感じるのです。教師がヒントを言うのではなく、まわりの子どもに助けを求めるなど、子どもたちで解決できるように働きかけます。指名されれば、最初は答えられなくても、最後は必ずポジティブに評価されて終わるようにすることが大切です。

そしてもう1つ、数学としてとても気になる発言がありました。「知っている人はわかるけど、・・・」「定番の解き方以外の解き方を考えて・・・」といった発言です。これでは、数学の問題解決は解き方を知っているかいないかの問題になります。確かに塾で解き方を習っている子は多いのでしょう。しかし、これでは子どもは「知らないから解けない」と思うようになります。考えるのではなく、答を知ろうとする姿勢になってしまいます。見たことがない問題を解決する力をつけることが数学では大切です。「どこから手をつけたらよいかわからないね」「こういうときはどうすればよいのだろう」と、わからないから出発し、「解き方を知る」ことではなく、自分たちで「考える」ことで解決する喜びを味わわせてほしいのです。

少々厳しいコメントになりましたが、自らの授業を変えようという意思のある方です。これを機にきっとよい方向に変わっていくことと信じています。授業がよくなる第1歩は、変わろうとすることだからです。

もう1つの授業アドバイスは、2年目の先生の数学の授業です。次週にひかえた要請訪問での代表授業の先行授業です。
兄と妹が同時に家を出て学校に向かうときの時間と位置の関係のグラフの読み取りが課題です。課題の提示の仕方に工夫が見られます。情報不足のまま取り組むように指示します。子どもはすぐに取りかかりますが、困惑が広がります。子どもの「情報が少なくない?」という言葉をひろって、「いいこと言ってくれている」と発表させます。「おっ、いいじゃない」と思わずつぶやきました。子どもの言葉を活かしたり、認めたりすることができています。教室の雰囲気がいいのも、授業者が笑顔で子どもを受容し認めているからでしょう。また、この指導案の展開は経験の浅い授業者だけではつくられるとは思えません。教科の主任を始め教科部会でしっかりアドバイスをしたのでしょう。授業者を支える教科のチームワークを感じました。まだ若い教科主任がこの授業をしっかり参観している姿にもそのことを感じます。
残念だったのは、この後授業者がすぐに「そうだね」と説明し次に進んでいったことです。ここは大切な場面ですから、全員が「情報が少ないこと」を共有する必要があります。「情報が少ないってどういうこと?」「○○さんの言っていることどういうことかわかる?」と子どもの言葉を他の子どもにつないでいくことが大切です。全員が「情報が少ない」ことを理解した上で、次の「何がわかればいい?」という発問につなげるのです。おそらく授業者は意識していなかったと思いますが、「何がわかればいい?」という発想は数学的にはとても大切な考えです。結論が言えるためには「何がわかればいい?」、「何がわかれば」この問題は解けそう。このことの数学的な価値を意識させることができるようになってほしいとも思いました。

情報を付加していよいよ課題追求に向かいます。まず兄と妹の家からの位置と時間の関係をグラフに表すのですが、いきなり「変わっていく数量って何がある」と聞いてしまいました。ちょっともったいないです。ここは新しく中学校で習った「関数」の復習をした上で、そのつながりで、「変わっていくものに何があるか」聞きたいところです(関数の本来の定義は対応で考えるので、扱うものは「数量」と限らないことからすると、「数量」という言葉にこだわるかどうかは微妙なところです。中学校では大きな問題にはならないとは思いますが・・・)。その上で、互いに「かかわりあって変化する」ものを見つけるという流れにするとよいと思いました。もちろん、かかわりあって変化するものを見つけた段階で「関数」との関連を押さえてもよいと思います。また、兄と妹がどれだけ離れているかと時間の関係も当然関数として扱えますが、これも関数として授業のどこかで触れたいところでした。

家を出発してからの時間と、家からの距離の関係を兄、妹それぞれグラフに表した後、できるだけたくさん「グラフから読み取る」ことを課題にして活動を始めました。最初子どもたちは何を書いていいかよくわからないようすでした。数学で「グラフから読み取る」というはどういうことか、まだよくわかっていないのです。この時間までに子どもたちはグラフを読み取る経験をしていなかったようです。となれば、最初に全体で少し読み取ることを経験させる。または、この時間のまとめの段階で「読み取る」とはどういうことか整理するといった工夫が必要になります。残念ながらこのことは意識されていませんでした。とはいえ、とまどいながらも子どもたちはワークシートを埋めていきます。個人活動の後、グループでの活動です。子どもたちは積極的に取り組みますが、グループでホワイトボードにまとめるように指示されているので、どうしてもホワイトボードに書く子どもが中心となってしまい、他の子どもは傍観者になっていきます。友だちの意見を聞いて考える、納得するという活動ではなく、意見を出してそれを書くことが中心となってしまいました。そのため、最初は自分の意見を言うことが中心でテンションが上がり、後半は代表一人が書く作業が中心となって活動が停滞したのです。

発表は、グループごとに次々おこなうのですが、発表されたことを板書する、教師がそれを評価するだけになっています。最初子どもたちは集中していたのに、同じ意見が続いているうちに次第に集中を失くしていました。順番にこだわらず、同じ考えをつなぐなどしていく工夫が必要です(グループ活動の後の発表参照)。
途中、兄と妹の距離の差が一定の割合で増えていくという、とてもよい視点での気づきがありました。しかし、その数値が違っていたので、間違っているという指摘を教師がして終わってしまいました。子どもたちに広げながら、正しいものにしていけばとても面白い場面だったのに残念です。
結局、気づいたことの結果だけの発表で、グラフのどこを見て、どのようにして考えたといった課程を子どもたちに聞きませんでした。「なるほど」「そうなっている」と教師が物わかりよく納得するのではなく、グラフを使って子どもたちに、「ここを見ると・・・」「ここでも、ここでも・・・」「こことこことを比べると・・・」「ここからここの間で・・・」といった言葉で説明させることが、「グラフを読み取る」ことを学ぶ上では大切です。この課題で気づいた結果はこの課題でしか言えないことですが、グラフを読み取る「視点」はこれからもずっと役に立つことです。このことを意識してほしいと思いました。

授業後、研修担当の先生と、教科主任、授業者とお話をしました。1対1で子どもを受容できるようになって、落ち着いて取り組める教室になっていたことは立派です。指導案もチームでよく練られたものでした。次は、すぐに教師が正誤を判断せずに、子どもに考える時間を与え、子ども同士をつなぐことを意識すること。指導案の流れにそって進めることばかり意識せずに、一つひとつの場面で何が大切なのか、そこで見たい子どもの姿は何かを意識して、子どもたちの実際の姿に応じて対応することを考えてほしいことを伝えました。1つの授業のために研修担当、教科主任(その後ろには教科の先生方)がこれだけのバックアップをしてくれる学校はそれほど多くはありません。授業者もそれに応えて本番では、また一つ進歩した姿を見せてくれると思います。教師を育てる環境があることは本当に素晴らしいことです。このような学校が増えることを願います。

中学校の授業研究でアドバイス

昨日は中学校で授業研究のアドバイスをおこなってきました。中学校3年生の理科の授業です。

金星の見え方について、テニスボールの金星とピンポン球の太陽・地球を使ってグループで実験しながら、気づいたことをまとめるものでした。金星のテニスボールは黄色と黒、地球のピンポン球は白と黒に塗り分け、太陽のピンポン球は黄色のものを用意してありました。
授業は、「気づいたこと」をまとめるという課題を「他のクラスは4つあるうちの2つ見つけた」とコメントしてから活動させました。「気づいたこと」という問いかけは、子どもたちに視点が育っていないとなかなかうまく活動できません。まだ持てていないのであれば、事前に与える、または以前におこなった似た活動での視点を思い起こさせるなどをする必要があります。もしくは、この活動を通じて「結果」を共有することだけでなく、「気づくための視点」を共有することをねらっているということです。子どもたちが育っているのか、それともこの活動で育てるのか、子どもたちのようすがとても気になります。
「4つあるうちの・・・」という言い方は、ちょっと疑問です。教師の側にあらかじめ想定した答えがあるということです。子どもが教師の求める答え探しをしてしまう可能性があるのです。「これでいいの?」と教師に確認を求めることになります。授業者は、どんな気づきでもいい、もちろん4つでなくてもいい、自分たちで何度も実験し繰り返し見ることで何かに気づいてほしいと思っていたようです。子どもに聞かれても正解・不正解は判断せずに自分で自信を持って説明できるように促しているようでした。4つというのは1つ見つけて終わりにならないための、目標のつもりだったのでしょう。それならば、「できるだけたくさん見つけて」「他のクラスは2つだったけど、君たちはいくつ見つけられるかな」「以前は4つ見つけたクラスがあったよ」といった提示の方がよかったように思います。

子どもたちは、太陽に近いときには金星は見えない(昼だから)ということに気づかずに満ち欠けだけをワークシートに書いていきます。グループを回りながら「嘘を書いてはいけない」と挑発していきます。子どもたちの中には自分のワークシートに書いたものを消す子もいます。どこが間違いかわからずに動きが止まってしまうグループもありました。検討会でもこの対応が話題になりました。
後で授業者に聞いたところ、以前の学年では「嘘じゃない、ちゃんとこう見える」と反論したりする生徒がいて、一方的に指摘を受け入れなかったそうです。子どもたちの反応の違いは予想外だったようです。教師が絶対者になっていたのでしょうか。最初の問いかけ(4つ云々)の影響かもしれません。また、この挑発の仕方は授業者のキャラクターによるものです。他の人が真似をしたり、どうこうしたりというものではありません。授業者と子どもたちの関係で語られるべきもののように思います。意図とその実現の方法は別に考えるべきものです。この意図を達成するのであれば、「あれ、本当にこう見えるかな」「あれ、よそとは違う見え方だね」といった言い方もあります。太陽の近くでは見えないと気づいたグループがあれば、一旦活動を止めて、金星の満ち欠けの図だけ発表させて、「あれ、違っている人がいるね」とその違いだけをクローズアップし、「どうなんだろうね」と戻す方法もあります。そこに気づかず活動を続けさせたくないという授業者の意図はよくわかりますが、今回は意図どおりにいかなかったグループがあったようです。

授業者はこの1時間の中でまとめることはせずに、最後までグループで活動させました。煮詰りながらもなんと見つけようとするグループ、お手上げで活動が止まっているグループいろいろでした。この流れで以前の学年はうまくいったようでしたが、今回は授業者の思ったようには動かなかったようです。子どもたちを見る限りは、まだ天体を考えるときの視点は育っていないようでした。ということは、今回の活動で視点を育てたかったということのようです。

検討会は、グループで協議をした後、司会者が指名をしながら意見をつないでいきます。グループでの話を予定した発表者がするとすらすらと言葉が出てきますが、今回は個別に指名して意見をつないでいくので、言葉はとつとつとします。しかし、だからこそじっくり考えながら聞くことができます。しだいに、いくつかの大切なことに焦点化されていきました。

・視点を持たせずに活動していたため、動きが止まってしまうグループがあった。視点を持たせるべきではなかったか。
・授業者は「嘘」という言葉でグループごとにかかわったが、それでよかったのか。また、他のかかわりも必要だったのではなかった。

問題を共有化することができたのはとてもよかったのですが、ではこうすればいいということはなかなか出てきませんでした。これはなかなか難しいことです。一旦話し合いを打ち切って、授業者に感想や考えを求めました。授業者はこの授業では子どもにすべて気づいてほしかったのではない。結果を求めているのではない。何度も何度も繰り返し実験をすることを通じて初めて気づくことがある。たとえ見つからなくてもいい、集中して取り組むことがねらいだ。こう自分の思いを伝えました。また、以前の学年で同様に取り組んだときとの違いも話しました。
このあと私の話が予定されていたのですが、司会者は予定を変えてこの授業者の考えに対しての意見を皆さんに求めました。とてもよい判断です。ここから話が深まるところです。しかし、今回のような展開がこの学校では初めてだったこともあり、残念ながらなかなかつながる意見が出てきませんでした。授業者の思いにどう反応していいか戸惑いがあったのかもしれません。後から思えば、「今の授業者の話を聞いてなるほどと思った人」といった聞き方をした方がよかったのかもしれません。時間がなかったこともあり、私から少しお話させていただきました。

・「気づく」という問いかけで見つけることは難しいこと。視点を育てていかなければいけないこと。視点は、教える方法もあれば、子どもたちの視点を共有化していく方法もある。活動の前に、以前の経験を思い出させるやり方もある。
・今回の授業は、その視点を子どもたちで見つけていくのがねらいの授業であること。であれば、次時では気づいた結果ではなく(もちろんこれも大切)、その視点を共有化することをより大切にすること。
・とはいえ、今回の授業では活動が止まっているグループがあったのにそのまま続けたのは問題であること。一旦活動を止めて、結果を発表するのではなく、どんなことをしたか、どこを見たかといった、実験、活動を共有化して、止まっているグループに動くきっかけを与えて再びグループにもどすことが必要だったこと。
・子どもは毎年、毎年違う。学級によっても違う。たとえうまくいった流れであっても、目の前の子どもの実態によって修正することが必要であること。

このような内容です。

検討会の後、授業者ともう一人の理科の先生と一緒にお話しました。
理科は現実と仮説の間を行ったり来たりする教科です。このことを授業者もよく理解していました。今回の授業でも現実とこのモデルの結果をきちんと比べる場面が必要だと思います(理科(モデル)で大切にしたい問いかけ参照)。星は授業の中ではなかなか見ることができません。しかし、シミュレーションのソフトや写真など、確認できる材料は今の時代は豊富にあります。こういうものを利用することも考えてほしいと伝えました。
金星の見え方のあとに月の見え方を学習するそうです。ならば、月では視点を持って実験できるはずです。子どもたちがどう育っているかが勝負です。また、今回の授業の前に星座を扱ったそうです。当然、オリオン座はなぜ冬にしか見えないかというような課題を扱っています。となると、星が見える見えないことと太陽の関係(昼か夜か)の視点はあったはずです。「いつ」「どこで」「どのように」見えるという視点の内、「いつ」「どこで」という視点はすでに持っていなければいけないということです。今回、金星でそのことになかなか気づけなかったということは、星座での押さえが弱かったということです。子どもたちの実態がそのことを物語っていることに気づいてほしいとも伝えました。
また、地球を表すピンポン球を白黒に塗り分けていることの意味を伝えていません。太陽・金星・地球の位置関係だけではなく、モデルには昼と夜という要素も入っています。また黄色い太陽は、光っているということも表しています。そのことを理解し意識しないと、金星の見え方に気づけません。今回の課題は、モデルを理解するということと、その上でどう見えるか考えるという2ステップあるのです。それを1度にやっているので、最初のステップをクリアしていないグループは先に進めなかったのです。どこかで、最初のステップ、モデルの理解を全員で共有する必要があったと伝えました。授業者は他の学級ではやっていたようです。ということは、その必要性には気づいていたのですが、明確に授業の構成要素として意識はしていなかったということです。このことを意識できるようなればぐっと伸びると思いました。
授業者は、自分の授業の目指す方向をしっかり持っています。とても頼もしく感じました。ただ、経験が少ないこともあり、まだ大きく広げた網の目が粗いのです。目指す姿と現実の子どもの姿の違いをしっかり受け止めて授業を修正していくことで、その網の目が緻密なものになっていくと思います。これからに期待をしたいと思います。

もう一人の先生もこの機会にたくさん質問をしてくれました。考えながら授業に臨んでいるということです。とてもよいことだと思いました。

授業者の思いが強い授業だったおかげで、子どもを育てることについて深く考えるきっかけになったと思います。司会者も、先生方をつなぐことで課題を明確にすることに挑戦してくれました。このこともとてもうれしかったことです。このような授業研究を積み重ねることで、この学校は次のステージに立つことができると期待します。私にとっても子どもの視点を育てることについて深く考えることのできた時間でした。ありがとうございました。

2番手、3番手を評価する

子どもたちを指名するとき、1人を指名して終わりにしないよういつもお願いしています。以前にも何度かここでとりあげましたが(子どもの発言を引き出すには子どもの発言つなぐことを考える参照)、少し違った視点でこのことについて考えてみたいと思います。

答がわかっていても自信のない子どもは挙手しません。最初に手の挙がった子どもが指名されて評価されることが続けば、最初でなければ評価されないと子どもは考えるようになります。1人の子どもが評価される一方で、多くの子どもが評価される機会を逃しています。数人しか手が挙がらなかったのに、発表後、「同じ考えの人」と聞くとほとんどの子どもの手が挙がることがあります。最初からわかっていたのに手が挙がっていなかった子どもがかなりいたはずです。おかしなことだと思わなければいけません。子どもたちが積極的に参加しているとは言い難い状況です。もちろん、本当に数人しかわからない場合もあるでしょう。その場合でも、指名して正解がでれば教師が説明を始めてしまうのであれば、他の子どもの出番はなくなります。やはり最初であることが価値のあることだと思うようになります。

大切なことは、友だちの考えを聞いてわかることであり、説明を聞いて理解することです。最初であることは重要なことではないのです。ですから、2番手、3番手を評価することを意識しなければいけません。

「今の○○さんの意見を聞いてなるほどと思った人? ○○さんの意見になるほどと思って人がたくさんいるね。いいね」
「△△さん、あなたの言葉でもう一度言ってくれる?」
「・・・」
「なるほど、△△さんもしっかり説明してくれたね。○○さんと△△さんの説明になるほどと思った人? 増えたね。じゃあもう1人聞こうか」
・・・

最初はわからなくても、友だちの意見を聞いてわかったら評価されることを知れば、一生懸命聞いて理解しようと思います。わかっていたのに最初に挙手できなかった人も、友だちの意見を聞いてから再度挙手を求めれば、自信を持って答えます。積極的に参加するようになります。
最初だけでなく、2番手、3番手の子どもを大切にする、評価することを常に意識して授業に臨んでほしいと思います。

青山新吾先生から学ぶ

本年度第5回の教師力アップセミナーは、ノートルダム清心女子大学の青山新吾先生の講演でした。特別支援教育に現場の教師としてかかわってこられたのち、大学に移られた方です。

特別支援教育に関してチームワークという言葉がよく言われます。実際にそのありようはどうあるべきか、具体的な事例をもとに考える材料を与えてくださいました。

直接指導する担任の思い、それを実現させるために他の教師がどう支えるか。たとえ、子どもが飛び出すことがわかっていても、叱るべきときは叱らねばならない。叱らなければ、まわりの子どもが嫌になる。それは、飛び出した子どもをフォローしてくれる教師がいることを信じられるからできること。特別な子もそこまでやれば叱られる、その事実が他の子どもの安心感につながり、だからこそ、その子にやさしくなれる。

チームワークとはどうあるべきか、考えるきっかけをいただきました。

支援を要する子どもが落ち着いてくると、それで安心してしまうこともよくあります。そうではなく、その子どもの将来を見据えて、どうあればよいかというゴールを考えることが大切になります。このお話は、荒れた学校が落ち着いたときとよく似ています。そこからどこへ向かうのか、次に何をするのかが大切になるのです。
学級経営でも同じです。「この子にこうなってほしい」「こんな学級にしていきたい」。そういう目指すゴールを持つことが必要です。一気にゴールに到達するのは難しいことです。だからこそ、できるようになるといいね、ここまでできたねとゴールまでのステップを意識しフォローしていくことが大切になります。
特別支援も通常の学級経営も大きな違いはありません。特別支援の考え方を通常の学級経営に活かすと言われます。逆に、通常の学級経営で大切なことが特別支援教育でも大切になるといってもよいと思います。学級経営がしっかりできる教師は支援を要する子どもがいてもうまく対応できることがその証拠でしょう。
基本となることは、まずコミュニケーションをしっかりとることです。子どもたちに「あなたはここにいていいんだよ」と居場所を持たせる。「みんな、あなたのことを大切に思っているよ」と自分が見捨てられていないことを伝える。こういうことが大切になります。
その上で、一人ひとりのゴールを意識し、できたことをほめ、次のステップに向かう意欲を高めることが大切になります。できた、できなかったというデジタルではなく、できるようになる途中であると認識し、そこで必要な言葉、メッセージをどう与えるかを考えることが大切なのです。

また、支援を要する子どもとのコミュニケーションで心理的距離を意識してうまくいった例もお聞きすることができました。直接話すと反発する子に、誰に言うともなくつぶやくことで聞かせる。心理的距離を少し調整することで、子どもの姿勢が変わることもあると教えていただけました。

特別支援に関しては、多くの方がピンポイントの「正解」を求めます。青山先生はやさしい口調で、この事例はたまたまであることを伝え、いかかでしょうかと私たちに考えることを促します。どんな子にも通用する魔法のような方法はありません。個の抱えている問題やその背景は異なっています。一人ひとりと向き合って、手探りで対応を見つけていくしかないことがたくさんあるのです。
その子に応じた対応が必要だから「特別」支援教育なのです。そうやさしく諌められているようにも感じました。

豊富な具体例をもとにしたお話と特別支援教育への青山先生の思いを感じることで、特別支援だけでなく子どもたちを育てるということはどういうことなのか、じっくり考えるきっかけをいただきました。ただ、知識や経験を伝えるのではなく、一緒に考えていきましょうという青山先生の講演姿勢も素晴らしいものでした。多くの学びと考えるきっかけをいただけた素敵な講演でした。ありがとうございました。

中学校の授業研究でアドバイス

昨日は、中学校で授業研究のアドバイスをおこなってきました。それに先立ち、何人かの先生方と一緒に校内の授業のようすを参観させていただきました。

1学期に訪問したときと比べて子どもたちの集中力が落ちているように感じました。2年生、3年生では教師によって態度が違ったり、教師の目が向いていないときに緩んだりする場面を目にしました。1年生では、授業規律がまだしっかりと確立していないようです。どちらが先かわかりませんが、教師の笑顔も子どもたちの笑顔も少なく感じました。
子どもたちが受け身となる場面が多く、挙手も少ない傾向にありました。わかった子ども、積極的に挙手する子どもが発言し、その言葉を受けて教師が一方的に説明する授業が目立ちました。子どもたちは静かにはしているのですが、自分たちで考えているようには見えません。教師の説明を無批判で受け入れ、板書を写すことが中心でした。子ども同士の関係も決して悪くはないのですが、ペアやグループ活動でテンションが上がる傾向がありました。あまり深く考えていない発言、課題と直接関係のない話題が気になります。

授業研究は、2年目の教師による1年生の英語の授業でした。
授業の最初に、曜日や天候、時間などを次々に全体に聞きます。子どもたちは、大きな声でしっかり答えることができていました。続いて、英語で好きな教科や運動に関して個人に質問します。その友だちの答えに対して、他の子どもにたずねます。子どもは一生懸命考えながら、たどたどしくても自力で答えます。とても集中していました。このとき、指名されていない子どもも顔を向けて真剣に聞いています。とてもよい姿でした。友だちの発言内容に関する質問を1人の子どもが答えるのではなく、全体で答えさせることで、より多くの子どもたちを活躍させることができます。このあたりのことを意識するとぐっとよくなると思います。

コーラスリーディングは、授業者が読んだ後それに続いて子どもが教科書を読みます。子どもたちはしっかりと声を出すことができています。その後1分間の音読の練習をしました。ここでも子どもたちはしっかりと練習をしていました。しかし、この練習は文章を覚えるためのものか、滑らかに読む練習なのか、子どもたちを見ていてもよくわかりません。1分間にどれだけ多く言えるかを競っているようにも見えました。練習終了後は、何も評価をせずに次に進みました。この一連の音読で教師の見たい子どもの姿は大きな声を出すことで、それ以外の目的はなかったようでした。目的を明確にすることで、子どもたちが自己評価することもできます。滑らかに読めるようにしたければ、教師が最初の単語を読むだけにして、後は子どもたちだけで読ませる方法もあります。覚えさせたければ、教科書を閉じてコーラスリーディングをする方法もあります。目的が明確になれば、それに応じて練習方法も変わっていきます。次は、こういうことに挑戦してほしいと思いました。

本時の主たる課題は、英語で自分たちのグループの紹介をすることでした。英文の基本形として、be動詞の用法と一般動詞の用法を復習して、まず個人で文をつくりました。ワークシートにはbutを使う、グループのメンバー1人を紹介する、we our group以外の主語を使うといった文も課題としてあげてあります。子どもたちは一生懸命に取り組んでいましたが、なかなか文がつくれない子どももいました。
個人作業が終わった後、「こういう文をつくってくれた人がいました」といくつか授業者が紹介しました。せっかく子どもが書いたのですから、ここは子どもに発表させたいところでした。
この後グルーループで紹介文をたくさんつくる作業に移りました。5人のグループでした。班長がいるのでしょうか、仕切っている子どもがいます。グループで発表するので、みんなの意見でどれを採用するか決めることになります。こうなると、どうしても自信のない子は発言できません。また5人という人数で、男子同士、女子同士が隣り合っていることともあり、全員がうまくかかわり合えていませんでした(グループ活動の人数参照)。用意された紙にグループの紹介文を書き、グループごとに発表しました。文をつくることが目的だったので、子どもたちは何を意識して発表するのか、どこを注意して聞くのか明確になっていません。文を見せずに発表して、内容が伝わることを発表の課題とする、といった工夫が必要です。発表の後、紙を黒板に貼って子どもたちの文の間違いを授業者が指摘して修正します。この場面も子どもたちを中心にして進めたいところでした。

この一連の活動では、子どもたちが文をつくるために必要なことが授業者に意識されていませんでした。紹介文の内容とそれを英文にするという2段階です。授業のねらいにつながるのは明らかに後者です。であれば、最初の段階をできるだけクリアしやすいようにする必要があります。作業に入る前に、「どんなことを紹介するといだろうね?」と子どもたち投げかけ、材料を集めておく。その上で英文をつくるための方法をある程度与えておくとよいでしょう。「今まで習った文で、どんなのが使えそう?」「どこを見るといい?」と問いかけたり、辞書を用意して「必要なら使っていいよ」と置いたりする工夫がほしいところでした。

最後に振り返りを書かせましたが、「○○できたか」という行動面、「○○がよかった」という情意面での振り返りが中心でした。ここは、何ができるようになった、何がわかったといった学習面での振り返りを大切にしてほしいところです。

検討会では、グループでの活動が話題になりました。5人組でよかったのか、うまく参加できない子どもがいた、個人で文を書けなかった子どもがいたので個人作業の時間はもっと必要だったのではないかなど、子どもの事実をもとにした意見がでてきました。また、若い先生が、最初の場面での子どもたちの聞く姿勢のよさと、課題のグループの紹介は日本語であっても何を書いてよいかわからないので、何か文の内容を考えるための手立てが必要だったのではないかという意見を発表してくれました。とても素晴らしい発表でした。
私からは、子どもが集中して聞こうとしていたことや、子どもの声がよく出ていたことなどのよかったところと、話題になったグループ活動について、そして学校全体の授業を見ての感想などを話しました。
グループ活動では、自分の考えを持つためにグループを利用するという原則、つまりグループで一つにまとめないということ、班活動と違ってリーダーは必要のないこと、個人作業で時間を与えたからといってできない子はできないままであるので、時間を延ばすよりもわからない、困った時に友だちに聞くことができるようにすること(一人で考えることにこだわりすぎない個人作業にこだわりすぎない参照)などを伝えました。また、全体に関しては、子どもたちが受け身であること、教師がしゃべりすぎていること、笑顔が少ないこと、ポジティブな評価が少ないこと、教師が正確を求めていること、わかった子どもしか活躍していないこと(「わからないところ」から始める参照)、子どもが友だちの発言を聞くことに価値がないと考えていること(子どもが友だちの発言を聞かない理由友だちの方を向いて話を聞く参照)などを伝えました。

検討会終了後、希望者と面談の時間をとりました。たくさんの方が希望してくださいました。授業をよくしたいという意欲の現れです。授業研究での授業者は、こんなことを話してくれました。

前回、子どもたちの見たい姿を意識するようにアドバイスされて、そのことを意識して授業をしてきたら子どもたちが変わってきた。子どもたちとの距離も少し縮まったように思う。

そのことは授業からも伝わってきました。素直にアドバイスを実行する姿勢が素晴らしいです。だからこそ、次の課題が見えてきます。次回、授業を見るのがとても楽しみになりました。
他の先生方も本当に真摯に自分の授業について考えていました。時間の関係で多くをアドバイスできなかったのが申し訳なく、とても残念でした。
3学期にまた訪問することができそうです。次回はその日だけでなく、事前に授業をつくりの段階からかかわらせていただければと思っています。たくさんの授業を見て、たくさんの先生と話ができた、充実した1日でした。ありがとうございました。

子ども主体のフェスティバル

昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。このフェスティバルを見学するのも今年で9年目です。そのあり方は色々と変化してきましたが、現在は地域の方のバックアップのもと、子どもたちがイベントや模擬店を運営し地域の方に楽しんでもらう場となっています。

今年は、会場に入ってすぐに雰囲気の変化に気づきました。目立つ人が減っているのです。中心となって動く地域の支援者、PTAの方、先生方、そして頑張っている子どもたち、彼らの姿が見えないのです。だからといって、活気がないわけではありません。表に大人が出ていない分、活動している子どもの姿はいつもに増して多いのです。目にする生徒たちは、何かしらの役割を果たしています。昨年とは漂っている空気が違います(イベントの目指すべき姿参照)。一部の子どもが頑張っているのではなく、どの子も自分のこととして参加しているのです。
子どもたちが、地域の方に喜んでもらう、そのために自分のできることをする。参加された地域の方、特に小学生と接している生徒たちの姿にその意識を感じました。

いつもは忙しくブースの運営をしていた方々と初めてゆっくりとお話をうかがう機会を持てました。
今年は、子どもたちが中心となって運営をすることを大切にされたようです。総合的な学習の時間に地域の方と一緒に活動する経験もしている子どもたちです。今度は、「自分たちが主体となって地域に何ができるか」を考える場としてこのフェスティバルを位置づけたのです。そのために、大人の手がどうしてもたくさん必要なブースは廃止にしたようです。とはいえ、子どもたちだけですべてを運営はできません。地域の支援者が裏方に徹し、下支えをしているのです。子どもたちが自分たちで運営するということは、失敗したりトラブルが起きたりする可能性が高くなります。それを恐れるのではなく、失敗も含めて子どもたちによい経験をさせようというのです。

おもしろいエピソードを聞くことができました。喫茶室ではとても安い値段でコーヒーやホットケーキが提供されています。しかし、最初提案された値段はもっと高かったようです。仕入れ値から計算するとこのくらいになるという説明だったようです。しかし、喫茶室をひらく目的は、お金儲けではありません。少しでも多くの方にくつろいでもらうことが目的です。そのために、どんな努力や工夫をしたのか。仕入れ先を色々探してみたり、つくり方を工夫したりしたのか。そう子どもたちに問いかけたそうです。子どもたちがそれに応えてこの値段になったそうです。
大人の役目は、物理的に助けることだけではありません。子どもたちに考える視点を与え、時には厳しい課題を課すことで鍛え育てるのです。日ごろの授業だけでは学べないことをこのような場を借りて学ばせるのです。
この地区では地域と学校が一体となって子どもを育てていることを強く感じました。

目立たないところで動いている大人と黙々と働いている子どもたちの姿が印象的でした。最後まで見ることはできませんでしたが、終わった時には子どもたちの表情はきっと達成感、充実感で満たされていたことと思います。その子どもたちの姿が、大人たちの笑顔につながったことでしょう。

生徒全員参加の形になって4年目、いよいよ子どもたちが主体となって運営するフェスティバルとなってきたようです。こうなると今から来年が楽しみです。多くの子どもたちが主体的に参加するようになった半面、一人ひとりの絶対的なエネルギーはまだまだ高まる余力を感じました。きっと来年は、どの子も今年以上の力を発揮してくれることと思います。

理科(モデル)で大切にしたい問いかけ

理科では目に見えないもの、実際に確かめにくいものを、モデルを使って説明します。たとえば原子は目で見ることはできません。分子と原子の違いも目で確認にすることはできません。そこでモデルを使って説明しようとするわけです。

ここで注意してほしいのは、モデルは実際に起こっていることを説明する仮説だということです。モデルが先にあるのではなく、実際の現象が先にあるのです。原子の例でいえば、水素と酸素から水をつくる(水を水素と酸素に分解する)と気体比では常に水素:酸素:水=2:1:2になります。この事実を原子モデルでうまく説明できるかどうかが問われるわけです。世の中に認められるモデルを正しいものとして子どもに理解させようとするのではなく、現実に起こっていることを、モデルを使って(考えて)説明しようとする姿勢を持たせてほしいのです。これが理科と数学の違いなのです。常に現実の現象から出発するのが理科なのです。

水素と酸素を混ぜれば気体の体積はそれぞれの和になります。なのに反応して水になると、水蒸気に変化させて測っても異なる体積になります。しかし、質量の合計は反応の前と後で変化しません。これをどう説明すればよいのか?
2種類の元素A、Bから異なる物質がつくられることがあります。原料となる元素の質量の比の値A/Bをそれぞれ求め、その値を比べてみると、簡単な整数比になります。これを、原子モデルで説明できるのか?
さきほどの、水素と水と酸素の比の関係は、同種の原子がくっつかないという原子モデルでは説明できるのか?
科学史をそのまま追体験させろと言いませんが、こういう問いかけを大切にしてほしいのです。そうでなければ、モデルを知識として理解し覚えることが理科になってしまいます。現象をどうとらえ説明するかという科学的なものの見方・考え方が身につかないのです。この見方・考え方は社会に出てからもとても大切になるものです。

天体の動きなども神の視点で描かれた図と動き(モデル)で考えますが、私たちはそれを直接見ることはできません。間接的にしか見られないのです。ですから、月の満ち欠けであれば、私たちが月に関して観察できる事実(30日周期で満ち欠けする、三日月は西の空に現れすぐに沈む、・・・)をまず押さえてほしいのです。その上で、これらのことが「このモデルで説明できるのか?」と問いかけるのです。
もう一歩踏み込んで、「このモデルで説明するならば月はどちら向きにまわっていなければならない?」と問いかけたり、「このモデルで考えれば南半球に住んでいる人は、月の見え方は北半球の人と何が同じで何が違う?」と問いかけたりしてもよいでしょう。実際にオーストリアでの月の見え方を映像で見せれば、モデルで考えることの意味を実感できるでしょう。

理科でモデルを扱うときは、モデルの説明から出発するのではなく、そのモデルが何を説明しようとしているのかをしっかり意識して、その妥当性を問うことを大切にしてほしいと思います。

子ども同士の関係がよいことで満足しない

以前に「子どもとの関係がよいことで満足しない」と書きましたが、では「子ども同士の関係」がよくなればそれでよいのでしょうか。子ども同士の関係がよくなってくると、学習への参加意識は高くなり、互いに聞き合いながら学ぶようになります。では、それに比例して子どもたちの学力は高くなるのでしょうか?
一般的には、下位の子どもたちが授業に参加できるようになるので、彼らの学力は確実に高まります。上位の子どもたちも、友だちに教えることでより深く理解できるようになります。当然全体で学力は向上していきます。子ども同士の関係がよくなり、互いに聞き合う関係ができるようになれば平均的な学力は向上するはずです。私の知る限り、学力テストなどでも検証できているように思います。しかし、ある程度の効果がでたあとは、そう簡単には伸びてはいきません。壁にぶつかるのです。

子ども同士の関係がよくなってきたからといって、それだけで学力がつくわけではありません。「わからないから教えて」と聞けるという関係は大切です。しかし、誰かが必ず答を持っているわけではありません。解決のための方法を知らなければ解決できない問題はたくさんあります。子どもたちが問題解決の方法を学んでいくことが必要です。
たとえば、歴史を学ぶことを考えましょう。教科書や資料集を調べて、書かれていることを抜き出せば学力がつくわけではありません。書かれていることを覚えれば知識はつくかもしれませんが、それだけで学力がついたとはいえません。調べたことをもとに、原因や結果などの関係を整理したり、それぞれの立場で考えたりといったことが必要です。こういう学び方をして初めて本当に学力がついてきます。教師が意図的に、問題解決の方法や学び方を身につけるような働きかけをする必要があるのです。

課題を解決する過程で子どもたちが気づいた方法を共有化する方法もあります。課題をスモールステップで解決することで、解決の手段を意図的に経験させ、次第にステップを大きくする方法もあります。もちろん、解決方法そのものを教師が整理して教える方法もあります。
いずれの方法をとるにしても、子どもたちが自分で解決する経験を積むことが大切になります。そのためには、子どもたちが孤立していては一部の子どもしかその過程は経験できません。多くの子どもは誰かが解決した後、その結論を受け身で聞かされるだけになります。そうではなく、たがいに過程を共有化しながら学び合うことで、どの子どもも自分の経験として身につけることができるようになるのです。これは、子ども同士の関係がよく、学び合いが成立していないと難しいことです。

もう一つ大切なのは、課題そのものの質です。子どもたちに学び合う土台ができていれば、どんな課題でも子どもたちは互いに相談しながら集中して課題に取り組みます。教師はその姿を見てよく学んでいると満足します。しかしその課題に取り組んだ結果、最終的に子どもたちに何の力がついたのかわからない。残念ながら、そのような授業に少なからず出会います。子どもたちに学力をつけるためには、目指す力がつくような質の高い課題を提示する必要があります。

教師と子どもとの関係がよくなり、子ども同士の関係がよくなることはよい授業をつくるためのインフラです。そこからが本当の勝負になります。子どもが自分たちで学べるようになるためにはどのような力(メタな力)が必要なのか、学力をつけるためにはどのような課題であるべきなのか。学びの本質を問い、教材研究をすることが必要です。教師自身の学ぶ力が求められるのです。

充実した研修会(長文)

昨日は、市主催の研修会の講師を務めました。3回構成の最後の会です。夏休みの模擬授業での検討(模擬授業で研修参照)を踏まえた上での授業研究です。どのように変化しているかとても楽しみです。他の参加者も私と同じ気持ちだったと思います。

小学校6年生の社会科の日露戦争の授業です。
最初に「この市の名前ができたのはいつか」を3択のクイズでたずねました。子どもたちは盛り上がります。ここで、すかさず本題の資料を黒板に貼りました。子どもたちはすぐに集中します。ムダにテンションを上げ続けない、よい展開です。準備した資料は、大きな目が縦に2つ描かれ、日露戦争の前後を表す1904と1905の数字がそれぞれに書かれています。その瞳には、ロシア人と日本人が、日露戦争の前はロシア人が大きく、後では日本人が大きく描かれています。残念ながら元の資料が小さいため、拡大コピーした図は瞳の中がよくわかりません。しかし、よくわからないからこそ子どもたちは真剣に見ようとしていました。授業者は、子どもたちに気づいたことを発表させます。しかし、肝心のロシア人と日本人については、図からわからないので自分で説明し、日露戦争の前と後では世界の両国を見る目が変わったと説明しました。資料がもう少し鮮明であれば子どもたちから引き出すことができたのに残念です。ここは逆手にとって、「この数字は何だろう?」「この瞳には人が映っているが、どんな人だろう?」と考えさせる展開もあったと思います。

ここで本時の課題が示されました。「日露戦争について知り、考えを深めよう」です。すぐに子どもたちは作業に移りました。与えられたワークシートには「調べてわかったこと」と書いた大きな枠があるだけです。このようなねらいで、何をすればいいのか子どもはわかるのでしょうか。このようなワークシートで子どもたちは作業できるのでしょうか。何を書くのでしょうか。どの参加者も子どもたちの手元を真剣に覗き込んでいました。
子どもたちは、どんどん書き込んでいます。教科書や資料集から箇条書きに抜き出していきます。どの子どももなすべき作業を心得ているようです。こういうあいまいな指示をした時ほど、今までどのような学習をしていたかがよくわかります。「知る」ということは、教科書や資料集から関連することを抜き出す作業と捉えられているということです。中には、関連を矢印で書いている子どももいましたが、ほとんどの子どもは、見つけた順番に抜き出しています。戦争の「背景」「原因」「直接のきっかけ」「戦いの推移」「最終的な結果」「その影響」などの視点が明確にはなっていません。とりあえず、抜き出しているのです。

続いて、「50点を基準にして点数をつける」ことを指示しました。同じ作業を日清戦争でもしていたのでしょう。子どもたちはよどみなく点数化に取り組みます。点数化はもっと色々な場面でおこなっていたのかもしれません。子どもたちは抜き出した項目ごとに+何点、−何点と次々に点数をつけていきます。子どもたちが箇条書きをしていた理由がよくわかります。こうすることで、得点化がしやすいのです。50点を基準にすることで、自然にプラスとマイナスで評価するようになります。絶対的な点数よりもプラスかマイナスかがポイントとなり、項目ごとプラス・マイナスを判断するので根拠を持って話し合うことができます。なかなか面白いやり方です。
このやり方を前提とするのであれば、ワークシートを2つに区切って、プラスとマイナスに分けて抜き出すようにした方が、より考えながら作業をするかもしれません。

個人作業のあとはグループでの話し合いです。ここでグループとしての得点を決めます。子どもたちは、根拠となる項目をもとに話し合うことができています。ただ、決められた班長が発表することになっているので、班長が仕切ったり、逆に班長が点数を決めることにこだわって根拠については深く考えていなかったりしました。

黒板に各グループがつけた得点が小型のボードに書かれて貼られます。その理由を班長が発表します。授業者は、子どもの言葉を受容し、さらに聞き返しながら子どもの考えを引き出そうとします。ところが、多くの子どもは発表者の方を向きません。先ほどの話し合いの姿勢とはだいぶ違います。といって授業者の方を注目しているわけでもありません。このやりとりは自分には直接関係ないと、傍観者となっているのです。
これは子どもからの言葉を引き出した後、授業者がもう一度その内容を説明し、そのあとで「どう思う」と聞いていることが原因の一つです。授業者はつなごうとしているのですが、教師が説明した後では子どもはあえて考えようとはしません。同じ考えであっても「もう一度聞かせてくれる」というように、他の子どもにたずねることが必要です。子どもが参加することに価値を見出すためには、教師が子どもを受容するだけでなく、外化したことをポジティブに評価することが大切です。子どもたちの発言や反応を評価しないために、子どもは積極的に参加してくれないのです。
発表者が班長ということも問題です。班長に任せておけばよいとう無責任な雰囲気が出てしまいます。基本は、班長を設けず、グループで話し合っても個人で結論をだすことです。グループのことを聞きたければ、「どんなことを話した?」と個に聞く、うまく言えなければ、「グループの人助けてあげて」とつなげばよいのです。子どもたちにどう当事者意識を持たせるかが大きな課題でした。

子どもたちが発表をする中でおもしろい場面がいくつかありました。
日本が戦争の結果領土を得たことを、プラスに評価するグループとマイナスに評価するグループがありました。授業者は焦点化しその理由を確認するのですが、それ以上うまく切り込めません。なぜなら子どもたちは今の自分の感覚・視点で点数をつけているからです。点数化の問題は子どもの感覚でつけていたところにあったのです。ここは、「じゃあ、当時の人はどう思っていたのだろう」と切り返し、もう1度考えさせれば、歴史を考える視点に気づかせるよい機会になったように思います。

「アジアの人に勇気を与えた」からプラスという意見も出されました。子どもたちは、「勇気を与えた」とポジティブな表現で書かれていたから、そのまま深く考えずにプラスと判断しただけです。授業者はその内容の詳しい確認はしませんでした。「それってどういうこと」と聞き返すことで、当時の欧米の植民地政策や、そのためにアジアがどういう状況であったか考えるきっかけとできます。めあての「考えを深める」ことにつながるところでした。

子どもたちの集中力が一時的に増した場面もありました。
「一番点数の少なかった」グループに発表してもらおうと授業者が言ったときです。「一番点数の少なかった」という評価があったので、どうしてだろうと子どもの関心が高まったのです。
また、「原爆と同じくらいの死者が出たのはマイナス」という意見が出ましたが、原爆で何人くらい死んだがという数字は具体的にされませんでした。授業者もよくわからないと言ってそのまま進んだのですが、かなりの数の子どもが資料から調べていました。授業の流れからは問題ですが、「本当に同じくらいなのだろうか?」と自分が持った疑問なので集中して調べたのです。子どもが「???」と思うことがいかに学習の原動力になるかがわかります。

最後に、この市の名前ができた年が日露線戦争の直後で、その時活躍した巡洋艦の名前と同じであることを話して終わりました。このとき、子どもたちは、最初強い興味を示したのですが、途中からは体を反らせながらゆるい態度で聞いていました。この内容が試験に出るような内容でないとわかったからかもしれません。都会の子どもに多い功利的な態度にも見えました。おもしろい場面でした。

授業を全体として評価すると、日露戦争に関する事柄を子どもが抜き出して「知る」ことはできたのですが、その事柄を子どもの視点で評価しただけで、もう一つのめあての「考えを深める」には至りませんでした。

どの先生も子どもたちのようすをしっかり観察していました。そこからどんなことに気づいてくれるか、検討会がとても楽しみでした。
どのグループも大きく3つのことを話題にしていました。

・資料も精選し、導入の時間を短くして子どもの活動時間を確保したことはとてもよかったが、資料の細部がはっきりしないことが残念だった。
・どの子どもも、ワークシートにぎっしり書くことができていたことは素晴らしいが、主観的な点数評価であったことが残念だった。
・子どもを受容し、子どもの考えを引き出すところはよかったが、発表者とのやり取りで終わってしまった。つなごうとはしていたのだが、うまくつながらなかった。

よく見ています。最初のグループの発表がよくまとまっていたこと、どのグループも同じようなことに気づいていたことから、順番に発表することを止めて、最初のグループの発表をつなぐことにしました。まず、同じことに気づいたかを他のグループに確認します。その上で、どのようなことを話したかを聞くことで考えが足されていきます。最初のグループの発表をもとにして一通り聞いた後、今度は、今まで話題に出なかったことを他のグループに聞かせてもらいました。こうすることで話がつながりますし、同じことを何度も発表したり、聞かされたりするムダな時間を減らすことができます。こういう進め方もあることを体験してもらいました。

とてもレベルの高い参加者のおかげで、充実した検討会になりました。
では、この日の授業は課題の多い、あまり評価できないものだったのでしょうか?
決してそうではありません、前回の模擬授業と比べて多くのことが進歩しています。

・導入を短くし、子どもたちの活動時間を多くした。
・子どもたちがたくさんのことを書き出せるように鍛えていた。
・自分のしゃべりを少なくして子ども同士をつなごうと意識していた。
・・・

だからこそ、とても多くのことを学べたのです。いつも言っていることですが、授業がよくなればなるほど課題が見えてくるのです。子どもが活動するからその中身が問われるのです。
今回、この学校の教務主任が、授業から検討会、その後の授業者との懇談にずっと付き合ってくれました。どのような授業になるか、本人以上に緊張して参観しているようにも見えました。当事者意識を持った、共に学び合おうとする素晴らしい姿勢です。このような教務主任のもと、授業者はさらに伸びていくことと思います。

今年度も、無事3回の研修会が終了しました。年々レベルアップしていることを感じます。各学校のレベルがアップしているから参加者のレベルがアップしているのです。過去の参加者は言うに及ばず、研修担当の先生方が色々な面で学校によい影響を与えているからこそ、市全体がレベルアップするのです。手ごたえのある研修にかかわらせていただくことは、本当に幸せです。今年も充実した時間をありがとうございました。

美術で大切にしたい活動

言語活動が重視されてきた影響か、作品つくりが終わったあとに発表時間を持つことが増えているように思います。このとき、作品について本人が発表し、感想を他の子どもが伝える形式が多いようです。自分の作品のよさは本人には語りにくいものなので、工夫を発表する・させることが多くなります。感想は作品のよいところを伝えるのですが、本人が工夫を発表するので、どうしてもそれに関連したコメントになりがちです。視点が広がりにくく、盛り上がりに欠けたものになってしまいます。

そこで発想を変えて、友だちの作品に対するレポートを発表するという活動を取り入れてみてはどうでしょう。
たとえばグループのメンバーがそれぞれ別のグループの作品を取材に行きます。その取材結果をグループで発表し、そのレポートを聞いて興味を持った作品を各自が見に行くといった活動です。
作品のよさ(具体的にどこが)、参考になる工夫、ここがお勧めといったものをレポートすべき項目としてあらかじめ指定しておくと、作品を見る視点を与えることができます。あらかじめ作品に対して見る人にどのように思ってもらいたい、どのようなことを工夫したという制作ノート(メモ)をつくっておいて、それに対応する項目をレポートの項目にしてもよいでしょう。友だちのレポートと比較することで、自分の作品の意図や工夫がどのように伝わったかを知ることができます。
全体で、誰のどの作品に対するレポートがよかったかを共有することで、よい作品を作った子どもだけでなく、友だちの作品のよさを伝えることができた子どもも評価することができます。

また、言語活動をより重視するのであれば、ペアで互いの作品のレポートをつくるといった方法もあります。作品を間に挟んで、自分の感想を伝えながら、思いや、工夫を相手にインタビューするのです。子ども同士の関係がよくないと難しいところもありますが、コミュニケーションスキルを身につけるのにも有効だと思われます。
もちろん、ペアにこだわらずにグループでのレポートづくりや、他のグループへの取材にインタビューを取り入れてもよいと思います。

技能系の教科では、作品に語らせる、作品から感じとる・読みとるといった、作品を通じてのコミュニケーションを大切にしてほしいと思います。こうすることで、制作の得意な子どもだけでなく、鑑賞する力、伝える力のある子ども評価することができます。是非このことを意識してほしいと思います。

目的と手段の関係を明確にする

子どもたちが課題解決をするためには手段が必要です(課題解決の手段を考える参照)。このとき、つねに教師がその手段を与えていると、子どもは受け身で指示されたことをこなすことが学習だと思うようになってしまいます。また、一つひとつ作業をこなすだけでは、その作業の持つ意味が理解されません。これでは、自ら課題を解決する力は身につきません。

たとえば、課題を解決する手段として、解決にいたるステップを穴埋めにしたワークシートを準備したとしましょう。子どもたちは穴埋めをしていくと学習した気持ちになりますが、ワークシートの穴を埋める行為が何の意味があるかは深く考えません。

歴史を例にして考えてみましょう。ある人物が目指した政治を考えるときに、「どんなことをしたか?」、「その内容は?」、「それは何のため?」、「その結果は?」を調べ、最後にそこから「目指した政治はどのようなものか?」「それは結局成功したのか?」を導くのが作業の流れです。しかし、このような流れのワークシートで作業をさせても、何のための作業かが不明確なままなので、子どもにとってはミステリーツアーです。「目指した政治はどのようなものか?」を課題として明確にし、それを考えるための手段として個々の作業を意識させる必要があります。課題を解決するという目的のために、どのような手段が必要かを明確にするのです。
しかし、「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、「どんなことをしたか?」を調べましょうとその手段を教師が与えてしまえば、目的と手段の関係を明確にしても受け身であることには変わりありません。「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、どのようなことを調べるとよいかを考えさせることで、初めて、子どもたちが課題解決の手段を意識するのです。

国語であれば、指示語の内容を考えるときには、「文章を正しく読みとるためにはどんなことに注意すればよかった?」というように、登場人物の気持ちを考えるときには「文章のどんなところに注目する?」というように問いかけます。

算数・数学であれば、「○○を求める(証明する)」ことが目的であることを確認した後、「最初に何をやってみようと思う?」、「何がわかれば解けそう?」といったことを問いかけます。

課題解決を意識して作業をする。作業がどのような課題解決に役立ったかを振り返る。いきなりは無理かもしれませんが、このような経験を通じて、自分でその手段を見つけることができるようにすることが大切です。

課題解決のためには色々な手段があります。目的を達成するためにどのような手段を選ぶか。逆に一つひとつの手段がどのような課題解決に有効であるか。このことを意識し、目的と手段の関係を明確にすることで、子どもたちの課題解決能力を高めてほしいと思います。
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