教科書を理解することの大切さを感じた授業(長文)
先週末は、算数の授業アドバイスをおこなってきました。5年生、4年生それぞれ2学級と、6年生の研究授業です。
5年生は2学級とも音声計算練習(ペアで一方が声に出した答えを他方が確認し、決められた時間で何問できるか評価する)をしていました。おもしろかったのは、子どもたちの取り組み意欲に少し差があったことです。一つの学級は子どもたちが向き合っています。相手の答えにうなずいている姿も見えます。終わった後、前回よりも進歩したかどうか聞いたりして、子どもたちをしっかりとほめています。子どもたちはとても意欲的な姿を見せてくれました。一方、もう一つの学級は、互いに正面を向いたまま取り組んでいます。向かい合っている学級では子どもの体は前のめりですが、この学級では体がやや反り気味の子どもが目立ちました。また、何問できたかを聞くのですが、ほめる言葉が少ないせいか子どもの反応はやや薄いようでした。子ども同士のかかわりをつくることと、少々オーバーでもいいので、子どもをしっかりほめることを意識するとよさそうです。 とはいえ、どちらの授業者も子どもを受け止めることは意識されていました。あとは、具体的にどうすればいいかを経験していくことで進歩していくと思います。 授業は2つの学級とも、0を含む標本の平均の場面でした。教科書の前時は、グラフから平均を「均(なら)す」イメージで理解させるようになっています。本時は、月曜日から金曜日の図書館の本の貸し出し数の平均を考えるようになっています。ここで本という具体的に操作しやすい物にしていることに注意をしてほしいところです。本を積んで、実際に均す操作をさせると、0も平均に加えるべきだと気づきます。この問題で平均は5.2冊ですが、0冊以外の日はすべて5冊より多くなっています。均す操作をするときに移動させるのが0冊の場所だけになるようにしているわけです。このことからも、操作をさせたいという教科書の意図が見えてきます。5冊で均すと1冊余ります。この1冊をどう考えるかも大切なところです。前時では、小数が出てきません。初めて平均が小数になります。本が5.2冊はおかしいという子どもがいるはずです。四捨五入して5だという子どももいるはずです。子どもたちからこういう言葉を引き出して考える必要があります。そのため教科書では、平均を使って予測をする問題とペアになっています。予測することを通じて平均の意味を考え、小数の必然性に気づかせるのです。平均は期待値とも言われます。その意味がよくわかる課題です。授業者は、残念ながら押さえるべきポイントを外していました。子どもがしっかりと授業に参加しようとしていても、ポイント外してしまえば学びは少ないものになってしまいます。 4年生は四角形の性質の授業でした。1つの授業は平行四辺形の復習から対角線の導入、もう1つは対角線の性質の導入でした。平行四辺形の復習場面ではICTをうまく使っていました。スクリーンに平行四辺形を映しだし、平行四辺形になる条件を全員に言わせます。いわゆるフラッシュカードとしての使い方です。子どもたちは元気よく答えます。授業者から子どもたちをほめる言葉がどんどん出てきます。子どもたちはとても意欲的に取り組みました。この場面だけでなく授業者が子どもをポジティブに評価する場面がとても増えていました。ただ、テンションが上がりすぎる子がいたり、逆に自信を持って言えていない子がいたりしたときに、まだ対応ができていませんでした。子どもの状況に応じてリズムを変える、列でいわせる、個別に指名するなどの対応を身につけてほしいと思いました。 授業規律も以前よりもずいぶんしっかりしてきました。その秘密はすぐにわかりました。子どもへの指示が明確になったこと。できるまでしっかり待てるようになったこと。できない子どもを注意するのではなく、できた子どもをほめるようにしていること。こういうことができるようになったのです。残念だったのは、ノートに写し終わった子どもに、静かに顔を上げて待つように指示した場面でのことです。写し終わった子どもは次々とよい姿勢で待っています。最後の一人が少し遅かったのですが、どの子も落ち着いて待っていました。このあと授業者はすぐに進めてしまいました。待っていた子どもたちをほめる、待ってもらっていた子どもに「待ってもらえてよかったね」と声をかけるなどしてほしいところでした。ともすると、待っていた子どもは、「あの子が遅いせいで待たされている」と遅い子どもに対してネガティブな感情をもつことがあります。「みんな待っていてくれてありがとう」とほめることでネガティブな感情を消すことができます。遅い子どももみんなが待っていてくれたことを意識することで、友だちに受容されていると感じると同時に次からは早くしようという気持ちになります。 また、定義と性質の違いがあいまいな表現をしていたことも気になりました。「向かい合う2組の辺が互いに平行な四角形」を平行四辺形といいます。これが定義です。「向かい合う1組の辺が平行で長さが等しい四角形」は平行四辺形になります。これは性質です。この区別をつけずにすべて「なります」でした。間違いではないのですが、この違いはどこかで押さえるべきだと思いました。 対角線の導入の授業は、同じ形の2つの三角形を組み合わせて四角形をつくり、その中で平行四辺形となるものを選ぶ課題でした。授業者はグループで平行四辺形となるものをつくらせ、それが平行四辺形になることを説明するように指示しました。発表場面では指名された班長が定規を使って辺と辺が平行になることを説明しようとするのですが、定規が大きいこともありなかなかうまく扱えません。そこでグループの子どもに助けるように声をかけました。よい対応です。子どもたちは苦労しながら挑戦します。他の子どもも真剣に見ています。しかし、なかなか進まないので見守っている授業者も余裕がなくなります。よい笑顔がいつの間にか消えてしまいました。ちょっと残念です。結局授業者は各自で平行の示し方を考えるように指示しました。発表者とつながっていた子どもたちでしたが、この指示で関係が切れてしまいました。発表者を見ることを止め自分でやり始めます。代わりにやってくれる人と言ったところ、勢いよく何にもの手が挙がりました。発表者のグループに授業者は声をかけましたが、彼らはダメだったとがっかりしているようでした。せっかく子ども同士がつながっていたので、「だれか助けてくれる人」と呼びかければうまく進んだように思います。 根本的な問題は、この場面は何を押さえるべきだったのかです。四角形を作るには、「同じ」長さの辺同士をくっつけないといけない。この同じ辺が、四角形の対角線になっている。「同じ」形の三角形だから同じ長さの辺は3組ある。でも、ひっくり返してもいいから、全部で6個できる。「同じ」を押さえて四角形を作ることが大切です。その上で平行四辺形になるものを選ぶときに、前時までに学習した平行四辺形の性質を使うことを意識させる必要があります。定規を使って平行を示すこともよいのですが、それがこの時間の中心の活動でありません。失敗で終わらせないようにしようというのとてもよいことですが、そこに時間を取られすぎてしまい、ねらいとする活動ができなくなってしまいました。 子どもを受容する姿勢はできてきているのはとてもよいことです。ただ、子どもが思ったように動かないとどうしても余裕を失くしてしまい、表情も硬くなってしまいます。教材研究の裏付けが必要になるのです。 6年生の研究授業は、表を使って問題を解くことの2時間目でした。表を利用して、俗にいう、つるかめ算を解くことが課題です。 表つくりは、前時は0から埋めるものだったのが、本時は真ん中の値から始めます。この扱いが検討会でも話題になりました。事前の検討では、どこからスタートしても、きまりを見つければできるということがポイントだという結論だったようです。授業者は天下り的に真ん中の値から表を埋めるように指示したのですが、そのポイントを整理することはしませんでした。真ん中の値から表を作ったので、子どもたちはその値を増やすか減らすか迷っていました。とても面白い場面です。授業者はここで作業を止めて、このことを問いかけました。よい進め方です。説明できる子を指名して、子どもから言葉を引き出そうとします。子どもの言葉を受容し、問い返し、丁寧に対応していたのはとてもよいことです。しかし、子どもから言葉を引き出した後は、安心して自分が話し始めてしまいました。引き出した子どもの言葉を他の子どもが理解したか確認することや、その言葉を聞いてどう考えたか聞くといった、つなぐということをしませんでした。結局多くの子どもは、友だちの説明の根拠を理解せずに、最終的に教師が認めた「値を増やしていく」という結論を受け入れるだけでした。 グループでの活動も、式と答が書けて止まっているグループと、行き詰まっているグループとに分かれました。発表も式を書かせ、その意味を言葉で説明させるだけで表と式を結びつけることはしませんでした。子どもたちのノートには、式と表が別々に書かれているだけです。表のどの部分がいくつになればよいのか。この式は表のどの部分を求めているのか。どこにも残っていませんでした。 問題点は、前時の学習と本時の学習が全くつながっていないことでした。前時では、変化するものをみつけ、それを表にして、求める値になるときを表から見つければ問題が解けること。表を全部埋めなくても、表のきまりを見つければ求める値が見つかること。表のきまりは、値を増やしたり減らしたりして、それに伴って何がどのように変わるかに注目すると見つけやすいこと。これらのことが押さえられていることが必要です。この単元のねらいを明確にしていないために、前時と本時が表を作るという共通点だけで、何もつながっていなかったのです。 ベテランの方が何名か意見を交換しながら見ていました。私もつられてその輪の中に入ってしまいました。ベテランがこういう場面で積極的になるのはとてもよいことです。若手の方もそばにいたのですが、余り声をかけることができませんでした。失礼なことをしてしまいました。次回は若手の方ともっとお話するようにしたいと思います。 検討会では、真ん中の値から表を埋めること、グループ活動の課題や進め方が話題になりました。 ここでは、どこから表を埋めてもきまりを見つければよいということを意識させればよいのですから、あまり最初の値にこだわらない方がよいように思います。それよりも、大きな表を書いて、「どこから埋めよう?」と問いかけて、それぞれに挑戦させた方がおもしろいように思いました。これならば、値を増やしても減らしても困りません。大切なことは変化を意識してきまりを見つけることだと気づけます。 また、課題解決は表を作ることで何がわかるか、どこの値がわかればいいかを意識させることと、表のきまりを見つけることでその値が見つかるという2つのステップを意識するとよいと伝えました。最初から2ステップに分ける必要はありませんが、子どもたちが行き詰っているようであれば一旦止めて、どこで困っているかを共有して、他のグループが何を考えたか、何をやろうとしているかを聞くことで見通しを持たせてから再びグループにもどすとよいでしょう。 このようなことをお話しました。 検討会終了後、研究授業の授業者とお話をしました。教師とグループとのかかわり方も大切なのですが、教材研究をしっかりしないとかかわる必然性のない課題となってしまいます。教師のかかわり方といったスキルと課題をどうするかといった教材研究は両輪です。一方だけではその場をぐるぐる回って前へ進みません。一方を回せば、次はもう一方を回す。こうして少しずつ前進できます。バランスよく学んでほしいと思います。 4人の授業者とは一緒にお話をしました。自分の授業についてのコメントを他の先生に聞かれることを嫌がらない人間関係はとても素晴らしいと思います。互いのコメントから学びあう姿はとても気持ちのよいものでした。4人とも前回の訪問時から何かしら意識して授業をしていました。このように素直に変わろうとする姿勢が学校全体に広がっていくことを期待します。 算数は教科書を読み込んでいるかどうかが顕著に表れます。その点、今回はどの授業もまだまだでした。前向きな先生方ばかりなので、あえて厳しくお話しました。意識して教科書を読めば必ずその意味は理解できると思います。教科書を大切にした教材研究に励んでほしいと思います(鈴木明裕先生から学ぶ参照)。次回の訪問時にどのような変化が見られるか、今からとても楽しみです。 研究発表会で学校の変化から学ぶ
昨日は、小学校の研究発表に参加しました。1年ぶりの訪問です。
まず驚いたのは、子どもたちの雰囲気が大きく変わっていました。落ち着いていて、笑顔もたくさん見ることができました。教室が子どもたちにとって安心できる場所になっています。先生方が目指す授業規律も徹底されてきています。簡単なことのようですが、学校全体となるとそれほど簡単なことではありません。先生方が互いに学び合った時間の積み重ねを感じます。以前は多かった、否定的な言葉や「正解」といった言葉が聞かれません。そのかわり、「なるほど」といった受容的な言葉が増えています。このあたりにも雰囲気がよくなった秘密がありそうです。こういう基本ができてくると、課題もたくさん見えてきます。ここで満足せずに次の課題を意識しないとせっかくの取り組みが活かされません。幸い、ここで研究を終わらずに来年度以降も継続されるようなので、今後の変化がますます楽しみになってきます。私の目に映った課題を少し挙げておきたいと思います。 授業規律は、顔を上げて教師の話を聞く、作業が終わったら静かに待つ、音読では教科書はきちんと立てて持つ、ノートは決められた形式で書くなど、形はかなりできています。授業者によってまだ差はありますが、発表の時に友だちの方を向いている学級もかなりあります。しかし、残念ながらまだ形だけなのです。友だちの方を向いていても、ちゃんと聞けていない子が目立ちます。形ができていることで先生が満足しているからです。指示もよく通るようになっていますが、確認が弱いように感じます。聞いているか、理解しているかを問わないからです。 子どもは教師が求める姿にしかなりません。形から中身へと、先生方の意識を変えることが必要になります。 習得では、フラッシュカードなどを使って全員で大きな声を出させる場面が多いようです。先生は声の大きさで子どもたちの取り組みを評価しています。自信と声の大きさはある程度比例するからです。しかし、注意して見るとテンションを上げて学級を引っぱっている子どもの陰で、口がしっかり開いていない子どももいます。まだ、スクリーンに目がいっている先生もいます。子どもを見ている先生でも、子どもの何を見るかが明確になっていないようです。子どもの状態でリズムを変えたり、一人ひとり指名して確認したりといったことはできていませんでした。子どもを一人ひとり見ることは大きな課題になってくると思います。 また、全員で練習することが多いのですが、活動によってその目標を明確にする必要があります。問題を全員で音読する。国語の教科書を音読する。子どもたちは大きな声を出すことを目標としているのですが、場面によってはもっと大切な目標があるはずです。残念ながら子どもたちのようすからは、それが何かは明確なっていないようでした。一つひとつの活動の意味を問い直すことも課題です。 基本となる知識を早く教えて、定着させて活用する。この方針で取り組んでいます。この考え方は決して間違いではありません。特に算数では問題が解けるという結果に直結させやすいので有効に見えます。そのせいか、公開授業も算数が多いように感じました。しかし、ここでは解き方などの結果だけでなく、考え方も教師が教えています。考え方は教師が説明し、話形で説明練習しただけでは身に着くものではありません。話形で言えれば考え方がわかっているわけではないからです。そのための活動が必要です。残念ながらそれが何かはまだ先生方は意識できていません。板書も結論や結果が中心で、そこに至る過程が残ってはいませんでした。 考え方にも基礎・基本があります。まだまだ結果の定着が中心で、考え方、考える課程を定着させることはこれからの課題でしょう。そのためには、教科の内容をしっかり理解することが必要です。教科書を大切にして取り組んでいますが、教材研究の必要性はますます高くなっています。 活用場面で顕著なのは、習得や定着の場面と違って子どもの挙手が少ないことです。このこと自体は決して悪いことではありませんが、問題はそこですぐに指名して進めてしまうことです。教師は指名した子どもを受け止めることはできていますが、他の子どもが理解したかはきちんと確認できていません。全体に問いかけることはしても、個に確かめることはしていないからです。わかった子ども中心の授業となっています。そして、子どもの発言を受け止めたあとは、知識を教えるときと同じく、ここでも教師が説明を始めてしまいます。このことは、復習の場面でも起こっています。復習ですから、子どもが説明できるはずです。なのに、結果を子どもに言わせたあと、最初に教えたときと同じように教師がまた説明を始めるのです。 しゃべらなくてもよい時にもしゃべりすぎてしまい、結果として子どもの活躍の場を教師が奪ってしまっていることも課題です。 子どもがノートを実物投影機で発表する場面もあるのですが、まだまだ発表の形だけで、本当に伝わったかどうかは確認されていません。教師も発表者に注意がいって、他の子どもたちが理解しているかに意識があまり向いていません。自分の考えではなく友だちの考えを発表するような、「つなぐ」ということが、この学校が次の段階へ進むための大きな壁になるかもしれません。 まだまだ、課題はたくさんあります。わずか1時間の公開授業でたくさんのことが見えてきます。これはこの学校がダメだということではありません。むしろ、素晴らしい進歩をしているということなのです。一度にすべてがよくなるわけではありません。いつも述べているように、できたことがたくさんあるからこそ、できていないことがたくさん見えてくるのです。 こうなると、わずか1年半でこの学校をこのように進歩させた講師の講演が楽しみです。全部で9回訪問されたということです。学校を変えるのにこの回数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。私はこの回数で変わったことはすごいことだと思います。その秘密の一端が講演から伝わってきました。 講演は、この学校の実践を通して参加者に伝えられることを実にコンパクトにまとめていました。その見せ方には何か法則がありそうです。 全員がどの教室でもできていることは、そのことを指摘しそのよさを語ります。つぎに、一部の教師しかできていないことは、一部であることにはあまり触れずに、その場面を映像で示し、具体的かつ丁寧に説明されます。講師が教えるという形でなく、仲間のよさという形で伝えます(裏ではその教師を個別に指導していたのかもしれませんが?)。できていない教師にとっては、「おまえはダメだ」と指摘されるとネガティブな気持ちになりますが、このやり方であれば「こうすればいのか」「私もまねしよう」とポジティブになります。こうして、この学校のよいところだけを伝えます。しかし、「課題も明確にして指摘しなければ進歩しないだろう」「こんなレベルで満足していいの」「講師は課題がわかっていないんじゃないの」、そんな風に思われる方もいるかもしれません。そんなことはありません。この学校の課題は、とてもよく理解されています。意識して聞くと、一部の方ができていることを強調することで、その裏にある「できていないこと」が実に見事に浮き上がってきます。講演を聞きながら、私も再度この学校の課題を整理することができました。講師の話したことではなく、話さなかったことがたくさんメモできました。こういうことは非常に稀です。高次元の伝え方を知らされました。 もちろん、表面だけ聞いていれば課題は見えてきません。しかし、そこはぬかりありません。今までどのようなことを指導したという話の中で、さりげなく課題を再度明確に伝えます。できていないことを「課題」と言わずに「指導したこと」と一般論としてさらりと言うところがさすがです。たくさんの指導の中で、活用場面の練り上げを取り上げたところも見事です。そこには、私が気づいたような課題がコンパクトに凝縮されていました。そして、より高みを目指してほしいという気持ちを、他校の例を示すことで伝えました。 上から目線で指導するのではなく、先生方ができたという実感を持ちやすい「形」から入り、できたこと共有化し、根気よく自信を持たせながらここまで来たのだとよくわかります。私も学ばなければいけないことがたくさんありました。いつお会いしても、たくさんのことを学ばせていただけます。感謝です。 この学校がここまで来たのは、外部の指導者や先生方の頑張りだけではありません。管理職の方もここに至るまで意識を変革し、日々先生方の頑張りを支えるように動かれたことと思います。この地区はいくつかの事情もあり、今まで授業研究や研究発表といったことがあまり盛んでありませんでした。その雰囲気を変え、市全体の底上げをしようと教育長、指導主事を始め多くの方が陰になり日向になり研究を支えてこられました。この学校全体でできたことを今度は市全体に広げるのが次のステップです。困難はあるかもしれませんが、きっとよい方向に変わっていくと思います。 もちろん、この学校はこれからも市全体のよいモデルとして進歩してくれることと思います。こまでは比較的早く結果が出せる取り組みが多かったのですが、これからはそうはいきません。今まで以上に地道な努力が求められます。あせらずに、一歩ずつ進み続けてほしいと思います。多くのことを学び、元気をいただいた発表会でした。 中学校で講演
昨日は中学校で講演をおこなってきました。今年度の努力目標(「基礎・基本の定着、分かる授業への挑戦」‐言語活動の充実を通して‐)達成への各教科の中間報告と質問を読ませていただき、それに対するアドバイスの形を取らせていただきました。
各教科の取り組みはそれぞれに工夫があってよいのですが、学校全体としてこの努力目標をどう達成するかという方向性がはっきり見えませんでした。中学校に多いことですが、教科で視点がばらばらなのです。基礎・基本の充実、わかる授業の実現のために、子どもたちの現状と照らし合わせてどのような言語活動の充実が必要なのかを、学校として明確にしていないのです。 今回は時間も短かったため、皆さんからいただいた質問をもとに、トピック的にお話をさせていただきました。 ・言語活動の必然性 教師の求める答えを言うことを求めるのであれば、子どもは発言する必要はありません。だまって、教師の説明を待てばいいのです。子どもにとって言語活動をする意味がありません。子どもの発言が活かされる授業が求められるのです。 教師は結果ではなく、その根拠を問う。 発言者は、相手意識を持ち、教師ではなく友だちに納得してもらえるように根拠を持って話す。 聞く側は、発言者の考えをわかろうとする姿勢を持つ。 子どもが友だちの発言を聞いてわかったことを教師が評価する。 このようなことが大切になります。 ・言葉を豊かに 言語活動を豊かにするには、語彙が必要です。言葉を単に覚えるのではなく、活きた場面で使うことが大切です。また、教科用語と日常用語を自由に行き来できることも大切になります。 学んだ言葉を使う場面をつくる。 他者の表現から学ぶ。 日常用語の表現を教科用語で言い直す。 教科用語を自分の言葉で説明する。 このような活動が必要になります。 ・イメージ・具体物の言語化 抽象的なことを具体的にするためには言葉で表現することが有効です。また、具体物をどう言語化して伝えるか意識することで、よりよく深く見ることができます。 イメージを言葉で説明する。 視点を明確にして観察し伝える。 作品のよさを言葉で伝える。 こういう活動で、抽象を具体に変える力、具体物を明確に伝える力がついていきます。 ・子どもがかかわり合うことが大切 異なる個性、力を持った子どもが一緒に学ぶことに学校のよさがあります。たとえ少人数、習熟度別にしても、教師が授業の中で、わからない子ども全員をわからせるのは難しいものがあります。個別に対応するにも限りがあります。子ども同士がかかわり合うことでわからない子どもがわかるようになり、わかる子どもも教えることでより深く理解するようになります。また、基本となる子ども同士の人間関係をよくすることにも力を入れる必要があります。 ペアでの活動は双方の役割(特に、受け手)を明確にし、相手がいることのよさを実感させる。 「わからないから教えて」と言える子ども、「聞かれたからわかるまで教えよう」とする子どもを育てる。 このようなことが大切になります。 ・具体例 皆さんからいただいた質問に対して、できるだけ具体的な場面でお伝えするようにしました。 限られた時間だったこともあり、説明や質問へのお答えが不十分だったことと思います。疑問な点を、先生方自身でどうすればいいのか考え直していただけることを願います。私の話が先生方の取り組みを、よりよいものへと変えるきっかけになれば幸いです。先生方の努力を個人的なもので終わらせずに、互いの成果を全体で共有することで、学校の方向性が収束していくことを期待しています。 明確な視点を持って指示をする
先日知り合いのデザイナーから、こんな話を聞きました。
ある町の古い櫓を取り壊すことになったそうです。そこで、取り壊される前に櫓を見学して絵を描こうということになりました。しっかり観察するように指示しても、教室に戻っていざ描こうとなるとなかなか再現できません。ところが、「櫓のてっぺんの形」「櫓の色」「櫓の高さ」の3つだけ見てくるように指示したところ、どの子も櫓全体をしっかり把握し、驚くほど上手に描けたそうです。3つだけ意識することで、全体像をつかむことができるというのは、とてもおもしろい話です。「形」「色」「高さ」と異なる視点であることが全体を把握するのによかったのかもしれません。 「ていねに」「しっかり」「よく」「がんばる」・・・。教育の現場ではこういう言葉が飛び交いますが、具体的ではありません。 「ていねい」に色を塗るとはどういうことか。境界線をはみ出さないようにまわりを塗ってから、中を塗る。 「しっかり」観察するとはどういうことか。葉の形、縁、色、表面の状態、葉脈がどうなっているかを観察する。 具体的な指示をしなければ、きちんとできるようにはなりません。教師側がねらいを持って明確な視点で指示しなければ、子どもたちは「なんとなく」自分の考える「ていねい」「しっかり」で行動するのです。 ちなみに、櫓の絵の取り組みは評判になり、町の他の学校にも広がった結果、櫓は取り壊されずに別の場所に移転することになったそうです。 「授業名人が語るICT活用 」発刊これは今年の2月に開かれた、「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」での「授業名人がICT活用について語る!」の内容を書籍としたものです。 単にフォーラムでの発言や内容をまとめた記録ではありません。 このフォーラムに向けて若手とベテランが授業名人に近づこうとどのような努力をしてきたか、その挑戦と成長の姿が書かれています。授業力をつけるとはどのようなことなのかを考える参考になるはずです。 名人はICT活用を否定していません、しかし、手放しで認めているわけでもありません。ICT活用を一つの切り口として、名人が語ったことから、私たちがどのようなことを考え学んだかということが書かれています。それはICT活用を越えて、授業とはどうあるべきだという本質につながることです。 ICT活用を越えて、授業力とは何か、よい授業をつくるとはどういうことかを考える参考になると思います。 ご一読をお勧めします。(購入はこちらから) 中学校で授業アドバイス(長文)
先週末は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。1年生を中心とした子どもたちのようすの観察と、2つの数学の授業アドバイスでした。
1年生は、全体的に授業規律が緩くなっていると感じました。子どもたちは、友だちや教師の話を聞くことよりもノートに写すことを大切にしています。教師が話を聞かせるために板書をやめても、写すものがないと不安なため、友だちの話をメモし始めるようになった学級もあるそうです。子どもたちの話を聞く姿勢を意識している先生の授業でも、以前より子どもたちの集中が落ちている場面に出会います。小学校でよくしつけられていたのでしょう、1学期は子どもたちの授業規律はとてもよかったという記憶があります。2学期になってそれが緩んできているということは、学年全体で授業規律を維持すること、特に話を聞くことを意識して指導・強化してこなかったということだと思います。 そのことを感じたのが、総合的な学習の時間での職業調べの発表場面でした。グループ内で発表した後、グループの代表が全体で発表します。このとき、聞く側の子どもたちの課題は、発表をメモして、話の内容や感想をワークシートにまとめるというものです。そのため、どの子も書くのに忙しく発表者を見ていません。メモしながら顔が上がればよいのですが、メモとは何かもよくわかっていません。ほとんどの子どもがワークシートに文章で書いています。発表者がつくった資料が手元にあるのですが、それを見ながらまとめている子もたくさんいます。これでは、子どもたちの顔が上がらないのも当然です。一方、発表者も原稿を見ながら話すので、友だちと目が合いません。こういう活動を続けていれば、子どもたちが聞くことより書くことを優先するようになるのは仕方のないことです。 授業アドバイスの1つ目は、授業がうまくいかないということで自ら授業アドバイスを求められた方です。とても素晴らしい姿勢です。 子どもたちにわかってほしい、理解させたいという授業者の思いがあふれている授業です。しかし、子どもたちの反応は今一歩です。決してわかろうとしていないのではありません。むしろわかりたいという思いは強いのです。そのことは、友だちが前に出て説明する時に、全員が体を乗り出して理解しようと集中して聞いていた姿勢に表れています。では、なぜ授業者の言葉には反応しないのでしょうか。 1つは、授業者がしゃべりすぎることです。子どもの反応がないと何とかしようとすぐに次の言葉を発します。情報が次々にでてくるので、子どもは消化しきれません。考えが追いつかないので、整理された板書を頼ることになるのです。子どものわからない、困った感に寄り添うことが大切です。どこでつまずくか、わかるためには何が必要か、そのことを整理しておき、子どもと一緒に考えることが大切です。「最初に何を考えた」「どうすればできそう」「何がわかれば解けそう」。こういう言葉を大切にする必要があります。 次に、子どもの発言を正解かどうかだけで評価していることです。子どもは自信がないと発言できません。発言できない子どもにヒントを与えて何とか答えさせようとするのですが、子どもからすれば、自分の考えを聞かれているのではなく、教師の求める答えを強要されているように感じるのです。教師がヒントを言うのではなく、まわりの子どもに助けを求めるなど、子どもたちで解決できるように働きかけます。指名されれば、最初は答えられなくても、最後は必ずポジティブに評価されて終わるようにすることが大切です。 そしてもう1つ、数学としてとても気になる発言がありました。「知っている人はわかるけど、・・・」「定番の解き方以外の解き方を考えて・・・」といった発言です。これでは、数学の問題解決は解き方を知っているかいないかの問題になります。確かに塾で解き方を習っている子は多いのでしょう。しかし、これでは子どもは「知らないから解けない」と思うようになります。考えるのではなく、答を知ろうとする姿勢になってしまいます。見たことがない問題を解決する力をつけることが数学では大切です。「どこから手をつけたらよいかわからないね」「こういうときはどうすればよいのだろう」と、わからないから出発し、「解き方を知る」ことではなく、自分たちで「考える」ことで解決する喜びを味わわせてほしいのです。 少々厳しいコメントになりましたが、自らの授業を変えようという意思のある方です。これを機にきっとよい方向に変わっていくことと信じています。授業がよくなる第1歩は、変わろうとすることだからです。 もう1つの授業アドバイスは、2年目の先生の数学の授業です。次週にひかえた要請訪問での代表授業の先行授業です。 兄と妹が同時に家を出て学校に向かうときの時間と位置の関係のグラフの読み取りが課題です。課題の提示の仕方に工夫が見られます。情報不足のまま取り組むように指示します。子どもはすぐに取りかかりますが、困惑が広がります。子どもの「情報が少なくない?」という言葉をひろって、「いいこと言ってくれている」と発表させます。「おっ、いいじゃない」と思わずつぶやきました。子どもの言葉を活かしたり、認めたりすることができています。教室の雰囲気がいいのも、授業者が笑顔で子どもを受容し認めているからでしょう。また、この指導案の展開は経験の浅い授業者だけではつくられるとは思えません。教科の主任を始め教科部会でしっかりアドバイスをしたのでしょう。授業者を支える教科のチームワークを感じました。まだ若い教科主任がこの授業をしっかり参観している姿にもそのことを感じます。 残念だったのは、この後授業者がすぐに「そうだね」と説明し次に進んでいったことです。ここは大切な場面ですから、全員が「情報が少ないこと」を共有する必要があります。「情報が少ないってどういうこと?」「○○さんの言っていることどういうことかわかる?」と子どもの言葉を他の子どもにつないでいくことが大切です。全員が「情報が少ない」ことを理解した上で、次の「何がわかればいい?」という発問につなげるのです。おそらく授業者は意識していなかったと思いますが、「何がわかればいい?」という発想は数学的にはとても大切な考えです。結論が言えるためには「何がわかればいい?」、「何がわかれば」この問題は解けそう。このことの数学的な価値を意識させることができるようになってほしいとも思いました。 情報を付加していよいよ課題追求に向かいます。まず兄と妹の家からの位置と時間の関係をグラフに表すのですが、いきなり「変わっていく数量って何がある」と聞いてしまいました。ちょっともったいないです。ここは新しく中学校で習った「関数」の復習をした上で、そのつながりで、「変わっていくものに何があるか」聞きたいところです(関数の本来の定義は対応で考えるので、扱うものは「数量」と限らないことからすると、「数量」という言葉にこだわるかどうかは微妙なところです。中学校では大きな問題にはならないとは思いますが・・・)。その上で、互いに「かかわりあって変化する」ものを見つけるという流れにするとよいと思いました。もちろん、かかわりあって変化するものを見つけた段階で「関数」との関連を押さえてもよいと思います。また、兄と妹がどれだけ離れているかと時間の関係も当然関数として扱えますが、これも関数として授業のどこかで触れたいところでした。 家を出発してからの時間と、家からの距離の関係を兄、妹それぞれグラフに表した後、できるだけたくさん「グラフから読み取る」ことを課題にして活動を始めました。最初子どもたちは何を書いていいかよくわからないようすでした。数学で「グラフから読み取る」というはどういうことか、まだよくわかっていないのです。この時間までに子どもたちはグラフを読み取る経験をしていなかったようです。となれば、最初に全体で少し読み取ることを経験させる。または、この時間のまとめの段階で「読み取る」とはどういうことか整理するといった工夫が必要になります。残念ながらこのことは意識されていませんでした。とはいえ、とまどいながらも子どもたちはワークシートを埋めていきます。個人活動の後、グループでの活動です。子どもたちは積極的に取り組みますが、グループでホワイトボードにまとめるように指示されているので、どうしてもホワイトボードに書く子どもが中心となってしまい、他の子どもは傍観者になっていきます。友だちの意見を聞いて考える、納得するという活動ではなく、意見を出してそれを書くことが中心となってしまいました。そのため、最初は自分の意見を言うことが中心でテンションが上がり、後半は代表一人が書く作業が中心となって活動が停滞したのです。 発表は、グループごとに次々おこなうのですが、発表されたことを板書する、教師がそれを評価するだけになっています。最初子どもたちは集中していたのに、同じ意見が続いているうちに次第に集中を失くしていました。順番にこだわらず、同じ考えをつなぐなどしていく工夫が必要です(グループ活動の後の発表参照)。 途中、兄と妹の距離の差が一定の割合で増えていくという、とてもよい視点での気づきがありました。しかし、その数値が違っていたので、間違っているという指摘を教師がして終わってしまいました。子どもたちに広げながら、正しいものにしていけばとても面白い場面だったのに残念です。 結局、気づいたことの結果だけの発表で、グラフのどこを見て、どのようにして考えたといった課程を子どもたちに聞きませんでした。「なるほど」「そうなっている」と教師が物わかりよく納得するのではなく、グラフを使って子どもたちに、「ここを見ると・・・」「ここでも、ここでも・・・」「こことこことを比べると・・・」「ここからここの間で・・・」といった言葉で説明させることが、「グラフを読み取る」ことを学ぶ上では大切です。この課題で気づいた結果はこの課題でしか言えないことですが、グラフを読み取る「視点」はこれからもずっと役に立つことです。このことを意識してほしいと思いました。 授業後、研修担当の先生と、教科主任、授業者とお話をしました。1対1で子どもを受容できるようになって、落ち着いて取り組める教室になっていたことは立派です。指導案もチームでよく練られたものでした。次は、すぐに教師が正誤を判断せずに、子どもに考える時間を与え、子ども同士をつなぐことを意識すること。指導案の流れにそって進めることばかり意識せずに、一つひとつの場面で何が大切なのか、そこで見たい子どもの姿は何かを意識して、子どもたちの実際の姿に応じて対応することを考えてほしいことを伝えました。1つの授業のために研修担当、教科主任(その後ろには教科の先生方)がこれだけのバックアップをしてくれる学校はそれほど多くはありません。授業者もそれに応えて本番では、また一つ進歩した姿を見せてくれると思います。教師を育てる環境があることは本当に素晴らしいことです。このような学校が増えることを願います。 中学校の授業研究でアドバイス
昨日は中学校で授業研究のアドバイスをおこなってきました。中学校3年生の理科の授業です。
金星の見え方について、テニスボールの金星とピンポン球の太陽・地球を使ってグループで実験しながら、気づいたことをまとめるものでした。金星のテニスボールは黄色と黒、地球のピンポン球は白と黒に塗り分け、太陽のピンポン球は黄色のものを用意してありました。 授業は、「気づいたこと」をまとめるという課題を「他のクラスは4つあるうちの2つ見つけた」とコメントしてから活動させました。「気づいたこと」という問いかけは、子どもたちに視点が育っていないとなかなかうまく活動できません。まだ持てていないのであれば、事前に与える、または以前におこなった似た活動での視点を思い起こさせるなどをする必要があります。もしくは、この活動を通じて「結果」を共有することだけでなく、「気づくための視点」を共有することをねらっているということです。子どもたちが育っているのか、それともこの活動で育てるのか、子どもたちのようすがとても気になります。 「4つあるうちの・・・」という言い方は、ちょっと疑問です。教師の側にあらかじめ想定した答えがあるということです。子どもが教師の求める答え探しをしてしまう可能性があるのです。「これでいいの?」と教師に確認を求めることになります。授業者は、どんな気づきでもいい、もちろん4つでなくてもいい、自分たちで何度も実験し繰り返し見ることで何かに気づいてほしいと思っていたようです。子どもに聞かれても正解・不正解は判断せずに自分で自信を持って説明できるように促しているようでした。4つというのは1つ見つけて終わりにならないための、目標のつもりだったのでしょう。それならば、「できるだけたくさん見つけて」「他のクラスは2つだったけど、君たちはいくつ見つけられるかな」「以前は4つ見つけたクラスがあったよ」といった提示の方がよかったように思います。 子どもたちは、太陽に近いときには金星は見えない(昼だから)ということに気づかずに満ち欠けだけをワークシートに書いていきます。グループを回りながら「嘘を書いてはいけない」と挑発していきます。子どもたちの中には自分のワークシートに書いたものを消す子もいます。どこが間違いかわからずに動きが止まってしまうグループもありました。検討会でもこの対応が話題になりました。 後で授業者に聞いたところ、以前の学年では「嘘じゃない、ちゃんとこう見える」と反論したりする生徒がいて、一方的に指摘を受け入れなかったそうです。子どもたちの反応の違いは予想外だったようです。教師が絶対者になっていたのでしょうか。最初の問いかけ(4つ云々)の影響かもしれません。また、この挑発の仕方は授業者のキャラクターによるものです。他の人が真似をしたり、どうこうしたりというものではありません。授業者と子どもたちの関係で語られるべきもののように思います。意図とその実現の方法は別に考えるべきものです。この意図を達成するのであれば、「あれ、本当にこう見えるかな」「あれ、よそとは違う見え方だね」といった言い方もあります。太陽の近くでは見えないと気づいたグループがあれば、一旦活動を止めて、金星の満ち欠けの図だけ発表させて、「あれ、違っている人がいるね」とその違いだけをクローズアップし、「どうなんだろうね」と戻す方法もあります。そこに気づかず活動を続けさせたくないという授業者の意図はよくわかりますが、今回は意図どおりにいかなかったグループがあったようです。 授業者はこの1時間の中でまとめることはせずに、最後までグループで活動させました。煮詰りながらもなんと見つけようとするグループ、お手上げで活動が止まっているグループいろいろでした。この流れで以前の学年はうまくいったようでしたが、今回は授業者の思ったようには動かなかったようです。子どもたちを見る限りは、まだ天体を考えるときの視点は育っていないようでした。ということは、今回の活動で視点を育てたかったということのようです。 検討会は、グループで協議をした後、司会者が指名をしながら意見をつないでいきます。グループでの話を予定した発表者がするとすらすらと言葉が出てきますが、今回は個別に指名して意見をつないでいくので、言葉はとつとつとします。しかし、だからこそじっくり考えながら聞くことができます。しだいに、いくつかの大切なことに焦点化されていきました。 ・視点を持たせずに活動していたため、動きが止まってしまうグループがあった。視点を持たせるべきではなかったか。 ・授業者は「嘘」という言葉でグループごとにかかわったが、それでよかったのか。また、他のかかわりも必要だったのではなかった。 問題を共有化することができたのはとてもよかったのですが、ではこうすればいいということはなかなか出てきませんでした。これはなかなか難しいことです。一旦話し合いを打ち切って、授業者に感想や考えを求めました。授業者はこの授業では子どもにすべて気づいてほしかったのではない。結果を求めているのではない。何度も何度も繰り返し実験をすることを通じて初めて気づくことがある。たとえ見つからなくてもいい、集中して取り組むことがねらいだ。こう自分の思いを伝えました。また、以前の学年で同様に取り組んだときとの違いも話しました。 このあと私の話が予定されていたのですが、司会者は予定を変えてこの授業者の考えに対しての意見を皆さんに求めました。とてもよい判断です。ここから話が深まるところです。しかし、今回のような展開がこの学校では初めてだったこともあり、残念ながらなかなかつながる意見が出てきませんでした。授業者の思いにどう反応していいか戸惑いがあったのかもしれません。後から思えば、「今の授業者の話を聞いてなるほどと思った人」といった聞き方をした方がよかったのかもしれません。時間がなかったこともあり、私から少しお話させていただきました。 ・「気づく」という問いかけで見つけることは難しいこと。視点を育てていかなければいけないこと。視点は、教える方法もあれば、子どもたちの視点を共有化していく方法もある。活動の前に、以前の経験を思い出させるやり方もある。 ・今回の授業は、その視点を子どもたちで見つけていくのがねらいの授業であること。であれば、次時では気づいた結果ではなく(もちろんこれも大切)、その視点を共有化することをより大切にすること。 ・とはいえ、今回の授業では活動が止まっているグループがあったのにそのまま続けたのは問題であること。一旦活動を止めて、結果を発表するのではなく、どんなことをしたか、どこを見たかといった、実験、活動を共有化して、止まっているグループに動くきっかけを与えて再びグループにもどすことが必要だったこと。 ・子どもは毎年、毎年違う。学級によっても違う。たとえうまくいった流れであっても、目の前の子どもの実態によって修正することが必要であること。 このような内容です。 検討会の後、授業者ともう一人の理科の先生と一緒にお話しました。 理科は現実と仮説の間を行ったり来たりする教科です。このことを授業者もよく理解していました。今回の授業でも現実とこのモデルの結果をきちんと比べる場面が必要だと思います(理科(モデル)で大切にしたい問いかけ参照)。星は授業の中ではなかなか見ることができません。しかし、シミュレーションのソフトや写真など、確認できる材料は今の時代は豊富にあります。こういうものを利用することも考えてほしいと伝えました。 金星の見え方のあとに月の見え方を学習するそうです。ならば、月では視点を持って実験できるはずです。子どもたちがどう育っているかが勝負です。また、今回の授業の前に星座を扱ったそうです。当然、オリオン座はなぜ冬にしか見えないかというような課題を扱っています。となると、星が見える見えないことと太陽の関係(昼か夜か)の視点はあったはずです。「いつ」「どこで」「どのように」見えるという視点の内、「いつ」「どこで」という視点はすでに持っていなければいけないということです。今回、金星でそのことになかなか気づけなかったということは、星座での押さえが弱かったということです。子どもたちの実態がそのことを物語っていることに気づいてほしいとも伝えました。 また、地球を表すピンポン球を白黒に塗り分けていることの意味を伝えていません。太陽・金星・地球の位置関係だけではなく、モデルには昼と夜という要素も入っています。また黄色い太陽は、光っているということも表しています。そのことを理解し意識しないと、金星の見え方に気づけません。今回の課題は、モデルを理解するということと、その上でどう見えるか考えるという2ステップあるのです。それを1度にやっているので、最初のステップをクリアしていないグループは先に進めなかったのです。どこかで、最初のステップ、モデルの理解を全員で共有する必要があったと伝えました。授業者は他の学級ではやっていたようです。ということは、その必要性には気づいていたのですが、明確に授業の構成要素として意識はしていなかったということです。このことを意識できるようなればぐっと伸びると思いました。 授業者は、自分の授業の目指す方向をしっかり持っています。とても頼もしく感じました。ただ、経験が少ないこともあり、まだ大きく広げた網の目が粗いのです。目指す姿と現実の子どもの姿の違いをしっかり受け止めて授業を修正していくことで、その網の目が緻密なものになっていくと思います。これからに期待をしたいと思います。 もう一人の先生もこの機会にたくさん質問をしてくれました。考えながら授業に臨んでいるということです。とてもよいことだと思いました。 授業者の思いが強い授業だったおかげで、子どもを育てることについて深く考えるきっかけになったと思います。司会者も、先生方をつなぐことで課題を明確にすることに挑戦してくれました。このこともとてもうれしかったことです。このような授業研究を積み重ねることで、この学校は次のステージに立つことができると期待します。私にとっても子どもの視点を育てることについて深く考えることのできた時間でした。ありがとうございました。 2番手、3番手を評価する
子どもたちを指名するとき、1人を指名して終わりにしないよういつもお願いしています。以前にも何度かここでとりあげましたが(子どもの発言を引き出すには、子どもの発言つなぐことを考える参照)、少し違った視点でこのことについて考えてみたいと思います。
答がわかっていても自信のない子どもは挙手しません。最初に手の挙がった子どもが指名されて評価されることが続けば、最初でなければ評価されないと子どもは考えるようになります。1人の子どもが評価される一方で、多くの子どもが評価される機会を逃しています。数人しか手が挙がらなかったのに、発表後、「同じ考えの人」と聞くとほとんどの子どもの手が挙がることがあります。最初からわかっていたのに手が挙がっていなかった子どもがかなりいたはずです。おかしなことだと思わなければいけません。子どもたちが積極的に参加しているとは言い難い状況です。もちろん、本当に数人しかわからない場合もあるでしょう。その場合でも、指名して正解がでれば教師が説明を始めてしまうのであれば、他の子どもの出番はなくなります。やはり最初であることが価値のあることだと思うようになります。 大切なことは、友だちの考えを聞いてわかることであり、説明を聞いて理解することです。最初であることは重要なことではないのです。ですから、2番手、3番手を評価することを意識しなければいけません。 「今の○○さんの意見を聞いてなるほどと思った人? ○○さんの意見になるほどと思って人がたくさんいるね。いいね」 「△△さん、あなたの言葉でもう一度言ってくれる?」 「・・・」 「なるほど、△△さんもしっかり説明してくれたね。○○さんと△△さんの説明になるほどと思った人? 増えたね。じゃあもう1人聞こうか」 ・・・ 最初はわからなくても、友だちの意見を聞いてわかったら評価されることを知れば、一生懸命聞いて理解しようと思います。わかっていたのに最初に挙手できなかった人も、友だちの意見を聞いてから再度挙手を求めれば、自信を持って答えます。積極的に参加するようになります。 最初だけでなく、2番手、3番手の子どもを大切にする、評価することを常に意識して授業に臨んでほしいと思います。 青山新吾先生から学ぶ
本年度第5回の教師力アップセミナーは、ノートルダム清心女子大学の青山新吾先生の講演でした。特別支援教育に現場の教師としてかかわってこられたのち、大学に移られた方です。
特別支援教育に関してチームワークという言葉がよく言われます。実際にそのありようはどうあるべきか、具体的な事例をもとに考える材料を与えてくださいました。 直接指導する担任の思い、それを実現させるために他の教師がどう支えるか。たとえ、子どもが飛び出すことがわかっていても、叱るべきときは叱らねばならない。叱らなければ、まわりの子どもが嫌になる。それは、飛び出した子どもをフォローしてくれる教師がいることを信じられるからできること。特別な子もそこまでやれば叱られる、その事実が他の子どもの安心感につながり、だからこそ、その子にやさしくなれる。 チームワークとはどうあるべきか、考えるきっかけをいただきました。 支援を要する子どもが落ち着いてくると、それで安心してしまうこともよくあります。そうではなく、その子どもの将来を見据えて、どうあればよいかというゴールを考えることが大切になります。このお話は、荒れた学校が落ち着いたときとよく似ています。そこからどこへ向かうのか、次に何をするのかが大切になるのです。 学級経営でも同じです。「この子にこうなってほしい」「こんな学級にしていきたい」。そういう目指すゴールを持つことが必要です。一気にゴールに到達するのは難しいことです。だからこそ、できるようになるといいね、ここまでできたねとゴールまでのステップを意識しフォローしていくことが大切になります。 特別支援も通常の学級経営も大きな違いはありません。特別支援の考え方を通常の学級経営に活かすと言われます。逆に、通常の学級経営で大切なことが特別支援教育でも大切になるといってもよいと思います。学級経営がしっかりできる教師は支援を要する子どもがいてもうまく対応できることがその証拠でしょう。 基本となることは、まずコミュニケーションをしっかりとることです。子どもたちに「あなたはここにいていいんだよ」と居場所を持たせる。「みんな、あなたのことを大切に思っているよ」と自分が見捨てられていないことを伝える。こういうことが大切になります。 その上で、一人ひとりのゴールを意識し、できたことをほめ、次のステップに向かう意欲を高めることが大切になります。できた、できなかったというデジタルではなく、できるようになる途中であると認識し、そこで必要な言葉、メッセージをどう与えるかを考えることが大切なのです。 また、支援を要する子どもとのコミュニケーションで心理的距離を意識してうまくいった例もお聞きすることができました。直接話すと反発する子に、誰に言うともなくつぶやくことで聞かせる。心理的距離を少し調整することで、子どもの姿勢が変わることもあると教えていただけました。 特別支援に関しては、多くの方がピンポイントの「正解」を求めます。青山先生はやさしい口調で、この事例はたまたまであることを伝え、いかかでしょうかと私たちに考えることを促します。どんな子にも通用する魔法のような方法はありません。個の抱えている問題やその背景は異なっています。一人ひとりと向き合って、手探りで対応を見つけていくしかないことがたくさんあるのです。 その子に応じた対応が必要だから「特別」支援教育なのです。そうやさしく諌められているようにも感じました。 豊富な具体例をもとにしたお話と特別支援教育への青山先生の思いを感じることで、特別支援だけでなく子どもたちを育てるということはどういうことなのか、じっくり考えるきっかけをいただきました。ただ、知識や経験を伝えるのではなく、一緒に考えていきましょうという青山先生の講演姿勢も素晴らしいものでした。多くの学びと考えるきっかけをいただけた素敵な講演でした。ありがとうございました。 中学校の授業研究でアドバイス
昨日は、中学校で授業研究のアドバイスをおこなってきました。それに先立ち、何人かの先生方と一緒に校内の授業のようすを参観させていただきました。
1学期に訪問したときと比べて子どもたちの集中力が落ちているように感じました。2年生、3年生では教師によって態度が違ったり、教師の目が向いていないときに緩んだりする場面を目にしました。1年生では、授業規律がまだしっかりと確立していないようです。どちらが先かわかりませんが、教師の笑顔も子どもたちの笑顔も少なく感じました。 子どもたちが受け身となる場面が多く、挙手も少ない傾向にありました。わかった子ども、積極的に挙手する子どもが発言し、その言葉を受けて教師が一方的に説明する授業が目立ちました。子どもたちは静かにはしているのですが、自分たちで考えているようには見えません。教師の説明を無批判で受け入れ、板書を写すことが中心でした。子ども同士の関係も決して悪くはないのですが、ペアやグループ活動でテンションが上がる傾向がありました。あまり深く考えていない発言、課題と直接関係のない話題が気になります。 授業研究は、2年目の教師による1年生の英語の授業でした。 授業の最初に、曜日や天候、時間などを次々に全体に聞きます。子どもたちは、大きな声でしっかり答えることができていました。続いて、英語で好きな教科や運動に関して個人に質問します。その友だちの答えに対して、他の子どもにたずねます。子どもは一生懸命考えながら、たどたどしくても自力で答えます。とても集中していました。このとき、指名されていない子どもも顔を向けて真剣に聞いています。とてもよい姿でした。友だちの発言内容に関する質問を1人の子どもが答えるのではなく、全体で答えさせることで、より多くの子どもたちを活躍させることができます。このあたりのことを意識するとぐっとよくなると思います。 コーラスリーディングは、授業者が読んだ後それに続いて子どもが教科書を読みます。子どもたちはしっかりと声を出すことができています。その後1分間の音読の練習をしました。ここでも子どもたちはしっかりと練習をしていました。しかし、この練習は文章を覚えるためのものか、滑らかに読む練習なのか、子どもたちを見ていてもよくわかりません。1分間にどれだけ多く言えるかを競っているようにも見えました。練習終了後は、何も評価をせずに次に進みました。この一連の音読で教師の見たい子どもの姿は大きな声を出すことで、それ以外の目的はなかったようでした。目的を明確にすることで、子どもたちが自己評価することもできます。滑らかに読めるようにしたければ、教師が最初の単語を読むだけにして、後は子どもたちだけで読ませる方法もあります。覚えさせたければ、教科書を閉じてコーラスリーディングをする方法もあります。目的が明確になれば、それに応じて練習方法も変わっていきます。次は、こういうことに挑戦してほしいと思いました。 本時の主たる課題は、英語で自分たちのグループの紹介をすることでした。英文の基本形として、be動詞の用法と一般動詞の用法を復習して、まず個人で文をつくりました。ワークシートにはbutを使う、グループのメンバー1人を紹介する、we our group以外の主語を使うといった文も課題としてあげてあります。子どもたちは一生懸命に取り組んでいましたが、なかなか文がつくれない子どももいました。 個人作業が終わった後、「こういう文をつくってくれた人がいました」といくつか授業者が紹介しました。せっかく子どもが書いたのですから、ここは子どもに発表させたいところでした。 この後グルーループで紹介文をたくさんつくる作業に移りました。5人のグループでした。班長がいるのでしょうか、仕切っている子どもがいます。グループで発表するので、みんなの意見でどれを採用するか決めることになります。こうなると、どうしても自信のない子は発言できません。また5人という人数で、男子同士、女子同士が隣り合っていることともあり、全員がうまくかかわり合えていませんでした(グループ活動の人数参照)。用意された紙にグループの紹介文を書き、グループごとに発表しました。文をつくることが目的だったので、子どもたちは何を意識して発表するのか、どこを注意して聞くのか明確になっていません。文を見せずに発表して、内容が伝わることを発表の課題とする、といった工夫が必要です。発表の後、紙を黒板に貼って子どもたちの文の間違いを授業者が指摘して修正します。この場面も子どもたちを中心にして進めたいところでした。 この一連の活動では、子どもたちが文をつくるために必要なことが授業者に意識されていませんでした。紹介文の内容とそれを英文にするという2段階です。授業のねらいにつながるのは明らかに後者です。であれば、最初の段階をできるだけクリアしやすいようにする必要があります。作業に入る前に、「どんなことを紹介するといだろうね?」と子どもたち投げかけ、材料を集めておく。その上で英文をつくるための方法をある程度与えておくとよいでしょう。「今まで習った文で、どんなのが使えそう?」「どこを見るといい?」と問いかけたり、辞書を用意して「必要なら使っていいよ」と置いたりする工夫がほしいところでした。 最後に振り返りを書かせましたが、「○○できたか」という行動面、「○○がよかった」という情意面での振り返りが中心でした。ここは、何ができるようになった、何がわかったといった学習面での振り返りを大切にしてほしいところです。 検討会では、グループでの活動が話題になりました。5人組でよかったのか、うまく参加できない子どもがいた、個人で文を書けなかった子どもがいたので個人作業の時間はもっと必要だったのではないかなど、子どもの事実をもとにした意見がでてきました。また、若い先生が、最初の場面での子どもたちの聞く姿勢のよさと、課題のグループの紹介は日本語であっても何を書いてよいかわからないので、何か文の内容を考えるための手立てが必要だったのではないかという意見を発表してくれました。とても素晴らしい発表でした。 私からは、子どもが集中して聞こうとしていたことや、子どもの声がよく出ていたことなどのよかったところと、話題になったグループ活動について、そして学校全体の授業を見ての感想などを話しました。 グループ活動では、自分の考えを持つためにグループを利用するという原則、つまりグループで一つにまとめないということ、班活動と違ってリーダーは必要のないこと、個人作業で時間を与えたからといってできない子はできないままであるので、時間を延ばすよりもわからない、困った時に友だちに聞くことができるようにすること(一人で考えることにこだわりすぎない、個人作業にこだわりすぎない参照)などを伝えました。また、全体に関しては、子どもたちが受け身であること、教師がしゃべりすぎていること、笑顔が少ないこと、ポジティブな評価が少ないこと、教師が正確を求めていること、わかった子どもしか活躍していないこと(「わからないところ」から始める参照)、子どもが友だちの発言を聞くことに価値がないと考えていること(子どもが友だちの発言を聞かない理由、友だちの方を向いて話を聞く参照)などを伝えました。 検討会終了後、希望者と面談の時間をとりました。たくさんの方が希望してくださいました。授業をよくしたいという意欲の現れです。授業研究での授業者は、こんなことを話してくれました。 前回、子どもたちの見たい姿を意識するようにアドバイスされて、そのことを意識して授業をしてきたら子どもたちが変わってきた。子どもたちとの距離も少し縮まったように思う。 そのことは授業からも伝わってきました。素直にアドバイスを実行する姿勢が素晴らしいです。だからこそ、次の課題が見えてきます。次回、授業を見るのがとても楽しみになりました。 他の先生方も本当に真摯に自分の授業について考えていました。時間の関係で多くをアドバイスできなかったのが申し訳なく、とても残念でした。 3学期にまた訪問することができそうです。次回はその日だけでなく、事前に授業をつくりの段階からかかわらせていただければと思っています。たくさんの授業を見て、たくさんの先生と話ができた、充実した1日でした。ありがとうございました。 子ども主体のフェスティバル
昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。このフェスティバルを見学するのも今年で9年目です。そのあり方は色々と変化してきましたが、現在は地域の方のバックアップのもと、子どもたちがイベントや模擬店を運営し地域の方に楽しんでもらう場となっています。
今年は、会場に入ってすぐに雰囲気の変化に気づきました。目立つ人が減っているのです。中心となって動く地域の支援者、PTAの方、先生方、そして頑張っている子どもたち、彼らの姿が見えないのです。だからといって、活気がないわけではありません。表に大人が出ていない分、活動している子どもの姿はいつもに増して多いのです。目にする生徒たちは、何かしらの役割を果たしています。昨年とは漂っている空気が違います(イベントの目指すべき姿参照)。一部の子どもが頑張っているのではなく、どの子も自分のこととして参加しているのです。 子どもたちが、地域の方に喜んでもらう、そのために自分のできることをする。参加された地域の方、特に小学生と接している生徒たちの姿にその意識を感じました。 いつもは忙しくブースの運営をしていた方々と初めてゆっくりとお話をうかがう機会を持てました。 今年は、子どもたちが中心となって運営をすることを大切にされたようです。総合的な学習の時間に地域の方と一緒に活動する経験もしている子どもたちです。今度は、「自分たちが主体となって地域に何ができるか」を考える場としてこのフェスティバルを位置づけたのです。そのために、大人の手がどうしてもたくさん必要なブースは廃止にしたようです。とはいえ、子どもたちだけですべてを運営はできません。地域の支援者が裏方に徹し、下支えをしているのです。子どもたちが自分たちで運営するということは、失敗したりトラブルが起きたりする可能性が高くなります。それを恐れるのではなく、失敗も含めて子どもたちによい経験をさせようというのです。 おもしろいエピソードを聞くことができました。喫茶室ではとても安い値段でコーヒーやホットケーキが提供されています。しかし、最初提案された値段はもっと高かったようです。仕入れ値から計算するとこのくらいになるという説明だったようです。しかし、喫茶室をひらく目的は、お金儲けではありません。少しでも多くの方にくつろいでもらうことが目的です。そのために、どんな努力や工夫をしたのか。仕入れ先を色々探してみたり、つくり方を工夫したりしたのか。そう子どもたちに問いかけたそうです。子どもたちがそれに応えてこの値段になったそうです。 大人の役目は、物理的に助けることだけではありません。子どもたちに考える視点を与え、時には厳しい課題を課すことで鍛え育てるのです。日ごろの授業だけでは学べないことをこのような場を借りて学ばせるのです。 この地区では地域と学校が一体となって子どもを育てていることを強く感じました。 目立たないところで動いている大人と黙々と働いている子どもたちの姿が印象的でした。最後まで見ることはできませんでしたが、終わった時には子どもたちの表情はきっと達成感、充実感で満たされていたことと思います。その子どもたちの姿が、大人たちの笑顔につながったことでしょう。 生徒全員参加の形になって4年目、いよいよ子どもたちが主体となって運営するフェスティバルとなってきたようです。こうなると今から来年が楽しみです。多くの子どもたちが主体的に参加するようになった半面、一人ひとりの絶対的なエネルギーはまだまだ高まる余力を感じました。きっと来年は、どの子も今年以上の力を発揮してくれることと思います。 理科(モデル)で大切にしたい問いかけ
理科では目に見えないもの、実際に確かめにくいものを、モデルを使って説明します。たとえば原子は目で見ることはできません。分子と原子の違いも目で確認にすることはできません。そこでモデルを使って説明しようとするわけです。
ここで注意してほしいのは、モデルは実際に起こっていることを説明する仮説だということです。モデルが先にあるのではなく、実際の現象が先にあるのです。原子の例でいえば、水素と酸素から水をつくる(水を水素と酸素に分解する)と気体比では常に水素:酸素:水=2:1:2になります。この事実を原子モデルでうまく説明できるかどうかが問われるわけです。世の中に認められるモデルを正しいものとして子どもに理解させようとするのではなく、現実に起こっていることを、モデルを使って(考えて)説明しようとする姿勢を持たせてほしいのです。これが理科と数学の違いなのです。常に現実の現象から出発するのが理科なのです。 水素と酸素を混ぜれば気体の体積はそれぞれの和になります。なのに反応して水になると、水蒸気に変化させて測っても異なる体積になります。しかし、質量の合計は反応の前と後で変化しません。これをどう説明すればよいのか? 2種類の元素A、Bから異なる物質がつくられることがあります。原料となる元素の質量の比の値A/Bをそれぞれ求め、その値を比べてみると、簡単な整数比になります。これを、原子モデルで説明できるのか? さきほどの、水素と水と酸素の比の関係は、同種の原子がくっつかないという原子モデルでは説明できるのか? 科学史をそのまま追体験させろと言いませんが、こういう問いかけを大切にしてほしいのです。そうでなければ、モデルを知識として理解し覚えることが理科になってしまいます。現象をどうとらえ説明するかという科学的なものの見方・考え方が身につかないのです。この見方・考え方は社会に出てからもとても大切になるものです。 天体の動きなども神の視点で描かれた図と動き(モデル)で考えますが、私たちはそれを直接見ることはできません。間接的にしか見られないのです。ですから、月の満ち欠けであれば、私たちが月に関して観察できる事実(30日周期で満ち欠けする、三日月は西の空に現れすぐに沈む、・・・)をまず押さえてほしいのです。その上で、これらのことが「このモデルで説明できるのか?」と問いかけるのです。 もう一歩踏み込んで、「このモデルで説明するならば月はどちら向きにまわっていなければならない?」と問いかけたり、「このモデルで考えれば南半球に住んでいる人は、月の見え方は北半球の人と何が同じで何が違う?」と問いかけたりしてもよいでしょう。実際にオーストリアでの月の見え方を映像で見せれば、モデルで考えることの意味を実感できるでしょう。 理科でモデルを扱うときは、モデルの説明から出発するのではなく、そのモデルが何を説明しようとしているのかをしっかり意識して、その妥当性を問うことを大切にしてほしいと思います。 子ども同士の関係がよいことで満足しない
以前に「子どもとの関係がよいことで満足しない」と書きましたが、では「子ども同士の関係」がよくなればそれでよいのでしょうか。子ども同士の関係がよくなってくると、学習への参加意識は高くなり、互いに聞き合いながら学ぶようになります。では、それに比例して子どもたちの学力は高くなるのでしょうか?
一般的には、下位の子どもたちが授業に参加できるようになるので、彼らの学力は確実に高まります。上位の子どもたちも、友だちに教えることでより深く理解できるようになります。当然全体で学力は向上していきます。子ども同士の関係がよくなり、互いに聞き合う関係ができるようになれば平均的な学力は向上するはずです。私の知る限り、学力テストなどでも検証できているように思います。しかし、ある程度の効果がでたあとは、そう簡単には伸びてはいきません。壁にぶつかるのです。 子ども同士の関係がよくなってきたからといって、それだけで学力がつくわけではありません。「わからないから教えて」と聞けるという関係は大切です。しかし、誰かが必ず答を持っているわけではありません。解決のための方法を知らなければ解決できない問題はたくさんあります。子どもたちが問題解決の方法を学んでいくことが必要です。 たとえば、歴史を学ぶことを考えましょう。教科書や資料集を調べて、書かれていることを抜き出せば学力がつくわけではありません。書かれていることを覚えれば知識はつくかもしれませんが、それだけで学力がついたとはいえません。調べたことをもとに、原因や結果などの関係を整理したり、それぞれの立場で考えたりといったことが必要です。こういう学び方をして初めて本当に学力がついてきます。教師が意図的に、問題解決の方法や学び方を身につけるような働きかけをする必要があるのです。 課題を解決する過程で子どもたちが気づいた方法を共有化する方法もあります。課題をスモールステップで解決することで、解決の手段を意図的に経験させ、次第にステップを大きくする方法もあります。もちろん、解決方法そのものを教師が整理して教える方法もあります。 いずれの方法をとるにしても、子どもたちが自分で解決する経験を積むことが大切になります。そのためには、子どもたちが孤立していては一部の子どもしかその過程は経験できません。多くの子どもは誰かが解決した後、その結論を受け身で聞かされるだけになります。そうではなく、たがいに過程を共有化しながら学び合うことで、どの子どもも自分の経験として身につけることができるようになるのです。これは、子ども同士の関係がよく、学び合いが成立していないと難しいことです。 もう一つ大切なのは、課題そのものの質です。子どもたちに学び合う土台ができていれば、どんな課題でも子どもたちは互いに相談しながら集中して課題に取り組みます。教師はその姿を見てよく学んでいると満足します。しかしその課題に取り組んだ結果、最終的に子どもたちに何の力がついたのかわからない。残念ながら、そのような授業に少なからず出会います。子どもたちに学力をつけるためには、目指す力がつくような質の高い課題を提示する必要があります。 教師と子どもとの関係がよくなり、子ども同士の関係がよくなることはよい授業をつくるためのインフラです。そこからが本当の勝負になります。子どもが自分たちで学べるようになるためにはどのような力(メタな力)が必要なのか、学力をつけるためにはどのような課題であるべきなのか。学びの本質を問い、教材研究をすることが必要です。教師自身の学ぶ力が求められるのです。 充実した研修会(長文)
昨日は、市主催の研修会の講師を務めました。3回構成の最後の会です。夏休みの模擬授業での検討(模擬授業で研修参照)を踏まえた上での授業研究です。どのように変化しているかとても楽しみです。他の参加者も私と同じ気持ちだったと思います。
小学校6年生の社会科の日露戦争の授業です。 最初に「この市の名前ができたのはいつか」を3択のクイズでたずねました。子どもたちは盛り上がります。ここで、すかさず本題の資料を黒板に貼りました。子どもたちはすぐに集中します。ムダにテンションを上げ続けない、よい展開です。準備した資料は、大きな目が縦に2つ描かれ、日露戦争の前後を表す1904と1905の数字がそれぞれに書かれています。その瞳には、ロシア人と日本人が、日露戦争の前はロシア人が大きく、後では日本人が大きく描かれています。残念ながら元の資料が小さいため、拡大コピーした図は瞳の中がよくわかりません。しかし、よくわからないからこそ子どもたちは真剣に見ようとしていました。授業者は、子どもたちに気づいたことを発表させます。しかし、肝心のロシア人と日本人については、図からわからないので自分で説明し、日露戦争の前と後では世界の両国を見る目が変わったと説明しました。資料がもう少し鮮明であれば子どもたちから引き出すことができたのに残念です。ここは逆手にとって、「この数字は何だろう?」「この瞳には人が映っているが、どんな人だろう?」と考えさせる展開もあったと思います。 ここで本時の課題が示されました。「日露戦争について知り、考えを深めよう」です。すぐに子どもたちは作業に移りました。与えられたワークシートには「調べてわかったこと」と書いた大きな枠があるだけです。このようなねらいで、何をすればいいのか子どもはわかるのでしょうか。このようなワークシートで子どもたちは作業できるのでしょうか。何を書くのでしょうか。どの参加者も子どもたちの手元を真剣に覗き込んでいました。 子どもたちは、どんどん書き込んでいます。教科書や資料集から箇条書きに抜き出していきます。どの子どももなすべき作業を心得ているようです。こういうあいまいな指示をした時ほど、今までどのような学習をしていたかがよくわかります。「知る」ということは、教科書や資料集から関連することを抜き出す作業と捉えられているということです。中には、関連を矢印で書いている子どももいましたが、ほとんどの子どもは、見つけた順番に抜き出しています。戦争の「背景」「原因」「直接のきっかけ」「戦いの推移」「最終的な結果」「その影響」などの視点が明確にはなっていません。とりあえず、抜き出しているのです。 続いて、「50点を基準にして点数をつける」ことを指示しました。同じ作業を日清戦争でもしていたのでしょう。子どもたちはよどみなく点数化に取り組みます。点数化はもっと色々な場面でおこなっていたのかもしれません。子どもたちは抜き出した項目ごとに+何点、−何点と次々に点数をつけていきます。子どもたちが箇条書きをしていた理由がよくわかります。こうすることで、得点化がしやすいのです。50点を基準にすることで、自然にプラスとマイナスで評価するようになります。絶対的な点数よりもプラスかマイナスかがポイントとなり、項目ごとプラス・マイナスを判断するので根拠を持って話し合うことができます。なかなか面白いやり方です。 このやり方を前提とするのであれば、ワークシートを2つに区切って、プラスとマイナスに分けて抜き出すようにした方が、より考えながら作業をするかもしれません。 個人作業のあとはグループでの話し合いです。ここでグループとしての得点を決めます。子どもたちは、根拠となる項目をもとに話し合うことができています。ただ、決められた班長が発表することになっているので、班長が仕切ったり、逆に班長が点数を決めることにこだわって根拠については深く考えていなかったりしました。 黒板に各グループがつけた得点が小型のボードに書かれて貼られます。その理由を班長が発表します。授業者は、子どもの言葉を受容し、さらに聞き返しながら子どもの考えを引き出そうとします。ところが、多くの子どもは発表者の方を向きません。先ほどの話し合いの姿勢とはだいぶ違います。といって授業者の方を注目しているわけでもありません。このやりとりは自分には直接関係ないと、傍観者となっているのです。 これは子どもからの言葉を引き出した後、授業者がもう一度その内容を説明し、そのあとで「どう思う」と聞いていることが原因の一つです。授業者はつなごうとしているのですが、教師が説明した後では子どもはあえて考えようとはしません。同じ考えであっても「もう一度聞かせてくれる」というように、他の子どもにたずねることが必要です。子どもが参加することに価値を見出すためには、教師が子どもを受容するだけでなく、外化したことをポジティブに評価することが大切です。子どもたちの発言や反応を評価しないために、子どもは積極的に参加してくれないのです。 発表者が班長ということも問題です。班長に任せておけばよいとう無責任な雰囲気が出てしまいます。基本は、班長を設けず、グループで話し合っても個人で結論をだすことです。グループのことを聞きたければ、「どんなことを話した?」と個に聞く、うまく言えなければ、「グループの人助けてあげて」とつなげばよいのです。子どもたちにどう当事者意識を持たせるかが大きな課題でした。 子どもたちが発表をする中でおもしろい場面がいくつかありました。 日本が戦争の結果領土を得たことを、プラスに評価するグループとマイナスに評価するグループがありました。授業者は焦点化しその理由を確認するのですが、それ以上うまく切り込めません。なぜなら子どもたちは今の自分の感覚・視点で点数をつけているからです。点数化の問題は子どもの感覚でつけていたところにあったのです。ここは、「じゃあ、当時の人はどう思っていたのだろう」と切り返し、もう1度考えさせれば、歴史を考える視点に気づかせるよい機会になったように思います。 「アジアの人に勇気を与えた」からプラスという意見も出されました。子どもたちは、「勇気を与えた」とポジティブな表現で書かれていたから、そのまま深く考えずにプラスと判断しただけです。授業者はその内容の詳しい確認はしませんでした。「それってどういうこと」と聞き返すことで、当時の欧米の植民地政策や、そのためにアジアがどういう状況であったか考えるきっかけとできます。めあての「考えを深める」ことにつながるところでした。 子どもたちの集中力が一時的に増した場面もありました。 「一番点数の少なかった」グループに発表してもらおうと授業者が言ったときです。「一番点数の少なかった」という評価があったので、どうしてだろうと子どもの関心が高まったのです。 また、「原爆と同じくらいの死者が出たのはマイナス」という意見が出ましたが、原爆で何人くらい死んだがという数字は具体的にされませんでした。授業者もよくわからないと言ってそのまま進んだのですが、かなりの数の子どもが資料から調べていました。授業の流れからは問題ですが、「本当に同じくらいなのだろうか?」と自分が持った疑問なので集中して調べたのです。子どもが「???」と思うことがいかに学習の原動力になるかがわかります。 最後に、この市の名前ができた年が日露線戦争の直後で、その時活躍した巡洋艦の名前と同じであることを話して終わりました。このとき、子どもたちは、最初強い興味を示したのですが、途中からは体を反らせながらゆるい態度で聞いていました。この内容が試験に出るような内容でないとわかったからかもしれません。都会の子どもに多い功利的な態度にも見えました。おもしろい場面でした。 授業を全体として評価すると、日露戦争に関する事柄を子どもが抜き出して「知る」ことはできたのですが、その事柄を子どもの視点で評価しただけで、もう一つのめあての「考えを深める」には至りませんでした。 どの先生も子どもたちのようすをしっかり観察していました。そこからどんなことに気づいてくれるか、検討会がとても楽しみでした。 どのグループも大きく3つのことを話題にしていました。 ・資料も精選し、導入の時間を短くして子どもの活動時間を確保したことはとてもよかったが、資料の細部がはっきりしないことが残念だった。 ・どの子どもも、ワークシートにぎっしり書くことができていたことは素晴らしいが、主観的な点数評価であったことが残念だった。 ・子どもを受容し、子どもの考えを引き出すところはよかったが、発表者とのやり取りで終わってしまった。つなごうとはしていたのだが、うまくつながらなかった。 よく見ています。最初のグループの発表がよくまとまっていたこと、どのグループも同じようなことに気づいていたことから、順番に発表することを止めて、最初のグループの発表をつなぐことにしました。まず、同じことに気づいたかを他のグループに確認します。その上で、どのようなことを話したかを聞くことで考えが足されていきます。最初のグループの発表をもとにして一通り聞いた後、今度は、今まで話題に出なかったことを他のグループに聞かせてもらいました。こうすることで話がつながりますし、同じことを何度も発表したり、聞かされたりするムダな時間を減らすことができます。こういう進め方もあることを体験してもらいました。 とてもレベルの高い参加者のおかげで、充実した検討会になりました。 では、この日の授業は課題の多い、あまり評価できないものだったのでしょうか? 決してそうではありません、前回の模擬授業と比べて多くのことが進歩しています。 ・導入を短くし、子どもたちの活動時間を多くした。 ・子どもたちがたくさんのことを書き出せるように鍛えていた。 ・自分のしゃべりを少なくして子ども同士をつなごうと意識していた。 ・・・ だからこそ、とても多くのことを学べたのです。いつも言っていることですが、授業がよくなればなるほど課題が見えてくるのです。子どもが活動するからその中身が問われるのです。 今回、この学校の教務主任が、授業から検討会、その後の授業者との懇談にずっと付き合ってくれました。どのような授業になるか、本人以上に緊張して参観しているようにも見えました。当事者意識を持った、共に学び合おうとする素晴らしい姿勢です。このような教務主任のもと、授業者はさらに伸びていくことと思います。 今年度も、無事3回の研修会が終了しました。年々レベルアップしていることを感じます。各学校のレベルがアップしているから参加者のレベルがアップしているのです。過去の参加者は言うに及ばず、研修担当の先生方が色々な面で学校によい影響を与えているからこそ、市全体がレベルアップするのです。手ごたえのある研修にかかわらせていただくことは、本当に幸せです。今年も充実した時間をありがとうございました。 美術で大切にしたい活動
言語活動が重視されてきた影響か、作品つくりが終わったあとに発表時間を持つことが増えているように思います。このとき、作品について本人が発表し、感想を他の子どもが伝える形式が多いようです。自分の作品のよさは本人には語りにくいものなので、工夫を発表する・させることが多くなります。感想は作品のよいところを伝えるのですが、本人が工夫を発表するので、どうしてもそれに関連したコメントになりがちです。視点が広がりにくく、盛り上がりに欠けたものになってしまいます。
そこで発想を変えて、友だちの作品に対するレポートを発表するという活動を取り入れてみてはどうでしょう。 たとえばグループのメンバーがそれぞれ別のグループの作品を取材に行きます。その取材結果をグループで発表し、そのレポートを聞いて興味を持った作品を各自が見に行くといった活動です。 作品のよさ(具体的にどこが)、参考になる工夫、ここがお勧めといったものをレポートすべき項目としてあらかじめ指定しておくと、作品を見る視点を与えることができます。あらかじめ作品に対して見る人にどのように思ってもらいたい、どのようなことを工夫したという制作ノート(メモ)をつくっておいて、それに対応する項目をレポートの項目にしてもよいでしょう。友だちのレポートと比較することで、自分の作品の意図や工夫がどのように伝わったかを知ることができます。 全体で、誰のどの作品に対するレポートがよかったかを共有することで、よい作品を作った子どもだけでなく、友だちの作品のよさを伝えることができた子どもも評価することができます。 また、言語活動をより重視するのであれば、ペアで互いの作品のレポートをつくるといった方法もあります。作品を間に挟んで、自分の感想を伝えながら、思いや、工夫を相手にインタビューするのです。子ども同士の関係がよくないと難しいところもありますが、コミュニケーションスキルを身につけるのにも有効だと思われます。 もちろん、ペアにこだわらずにグループでのレポートづくりや、他のグループへの取材にインタビューを取り入れてもよいと思います。 技能系の教科では、作品に語らせる、作品から感じとる・読みとるといった、作品を通じてのコミュニケーションを大切にしてほしいと思います。こうすることで、制作の得意な子どもだけでなく、鑑賞する力、伝える力のある子ども評価することができます。是非このことを意識してほしいと思います。 目的と手段の関係を明確にする
子どもたちが課題解決をするためには手段が必要です(課題解決の手段を考える参照)。このとき、つねに教師がその手段を与えていると、子どもは受け身で指示されたことをこなすことが学習だと思うようになってしまいます。また、一つひとつ作業をこなすだけでは、その作業の持つ意味が理解されません。これでは、自ら課題を解決する力は身につきません。
たとえば、課題を解決する手段として、解決にいたるステップを穴埋めにしたワークシートを準備したとしましょう。子どもたちは穴埋めをしていくと学習した気持ちになりますが、ワークシートの穴を埋める行為が何の意味があるかは深く考えません。 歴史を例にして考えてみましょう。ある人物が目指した政治を考えるときに、「どんなことをしたか?」、「その内容は?」、「それは何のため?」、「その結果は?」を調べ、最後にそこから「目指した政治はどのようなものか?」「それは結局成功したのか?」を導くのが作業の流れです。しかし、このような流れのワークシートで作業をさせても、何のための作業かが不明確なままなので、子どもにとってはミステリーツアーです。「目指した政治はどのようなものか?」を課題として明確にし、それを考えるための手段として個々の作業を意識させる必要があります。課題を解決するという目的のために、どのような手段が必要かを明確にするのです。 しかし、「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、「どんなことをしたか?」を調べましょうとその手段を教師が与えてしまえば、目的と手段の関係を明確にしても受け身であることには変わりありません。「目指した政治はどのようなものか?」を考えるために、どのようなことを調べるとよいかを考えさせることで、初めて、子どもたちが課題解決の手段を意識するのです。 国語であれば、指示語の内容を考えるときには、「文章を正しく読みとるためにはどんなことに注意すればよかった?」というように、登場人物の気持ちを考えるときには「文章のどんなところに注目する?」というように問いかけます。 算数・数学であれば、「○○を求める(証明する)」ことが目的であることを確認した後、「最初に何をやってみようと思う?」、「何がわかれば解けそう?」といったことを問いかけます。 課題解決を意識して作業をする。作業がどのような課題解決に役立ったかを振り返る。いきなりは無理かもしれませんが、このような経験を通じて、自分でその手段を見つけることができるようにすることが大切です。 課題解決のためには色々な手段があります。目的を達成するためにどのような手段を選ぶか。逆に一つひとつの手段がどのような課題解決に有効であるか。このことを意識し、目的と手段の関係を明確にすることで、子どもたちの課題解決能力を高めてほしいと思います。 授業アドバイスが活かされる学校
多くの学校で授業アドバイスをしていて感じるのが、アドバイスがすぐに活かされる学校となかなか変化しない学校があるということです。個別アドバイスであれば基本的に個人の資質の問題のはずなのですが、それでも学校としての差を感じるのです。
効果のでる学校は、教務主任や研修担当者が積極的に先生方とかかわっています。授業研究のときであれば、授業構想や指導案の検討など、授業づくりに関して最初の段階から相談に乗っています。事前の検証授業なども必ず参観してアドバイスをしています。また、同じ教科や学年でバックアップする体制をつくったり、研究授業を教科や学年の提案としてチームでおこなったりするように働きかけています。 全体研修ではなく個人への授業アドバイスのときでも、アドバイスの場面に立ち会うことや、その後の授業の変化を見てよくなった点をほめるといったフォローを欠かしません。また、個人の授業へのアドバイスだからといって一人にせずに、教科や学年全員で聞くように仕向けたりします。ペア、グループ、チームといった小集団でのかかわりを大切にしているということです。 授業を変えるということは、新しいことに挑戦するということです。それには勇気がいります。一人ではなかなか変える勇気は持てません。大丈夫と励ましてくれる人、一緒に挑戦してくれる人、そういう人がまわりにいなければなかなか一歩は踏み出せません。また、挑戦してもそのことを評価してくれる人がいなければ、続くものではありません。 授業で困っている先生には寄り添う人が必要です。先生同士が互いに支え合う関係が大切です。ですから、うまくいく学校は同時に複数の先生方の力量が向上します。互いによい影響を与え合っているからです。 こういう、うまくいっている学校は「雰囲気」がよいと評されることが多いようです。「雰囲気」という言葉は自然発生的な感じがします。しかし、そうではないのです。「雰囲気」は、それをつくりだすムードメーカーが必ずいるのです。うまくいっている学校は、教務主任や研修担当者が意図的にムードメーカーとして先生方に働きかけているのです。こういう動きを大切にしてほしいと思います。 研究授業10番勝負!(長文)
昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。「研究授業10番勝負!」と題して、2時間目から6時間目を使って若手10人が研究授業をおこなってくれました。刺激的なタイトルですね。授業にかける意気込みが伝わります。このような企画ができること自体この学校の勢いを感じます。そのことはどの授業にも空き時間を使って授業参観している先生がたくさんいたことからもわかります。私も彼らの気合に負けないように5時間真剣勝負でした。
どの授業も教師の子どもに考えさせたい、発言させたいという思いがあふれていました。正解といった言葉も聞かれなくなっていました。しかし、残念ながらまだ1問1答が多く、教師の求める答に近い発言があるとそれを受けて教師がつい説明しすぎる場面がありました。また、子どもの発言を認めて板書するのですが、教師の言葉に置き換わってしまったり、すべての発言ではなく教師が選択したりしている場面もありました。言葉を置き換えると、子どもは自分の言葉と違うと感じます。自分の言葉だけが書かれなければ、不正解と言われたように感じます。教師の求める答を言わなければいけないと思うようになり、答え探しをし始めたり、ネガティブな評価をされないために発表をひかえたりするようになっていきます。 できるだけ子どもの言葉を忠実に再現する。もし、言葉が足りないようであれば、「それってどういうこと?」と聞き返したり、「今の意見と同じ人いるかな。○○さん聞かせて」と他の子どもにつないだりして、子どもたちが言葉を足していくようにする。 板書するなら全員必ず書く。「今の意見に納得した人」「たくさんいるね。じゃあメモしておこうか」というように、子どもたちの判断をもとに板書するかどうかを決める。 こういった工夫が必要になります。 協働学習ということで、グループ活動を積極的に取り入れている授業が多かったのですが、課題が子どもたちにしっかりと理解されていなかったり、子どもたちにとって必然性のないものであったりしたため、今ひとつ深まっていかない場面が目につきました。また、男子同士、女子同士が隣り合っていたり、6人構成のグループがあったりしましたが、やはり話し合いがグループ全体に広がっていないようでした。4人構成で市松模様の座席がよいように思います(グループ活動の人数参照)。 授業後、教科ごとに話をさせていただきました。 国語科は、参観した2人とも子どもの発言に対してきちんと根拠を求めていました。教科としてこのこと大事にしていることがわかります。ただ、子どもから出された根拠を全員が共有したり、その根拠もとにもう一度考え直したりといった、根拠をつなぐことがまだできていませんでした。つなぎ方についてアドバイスをさせてもらいました(子どもの発言つなぐことを考える参照)。 社会科は、課題の持ち方について話をしました。 まず、この授業で大切なことがらを挙げていく。その中で一番大切なことは何か、子どもたち本当に考えさせたいことは何かをしぼる。子どもたちが考えるためにはどのような課題とするとよいかを子どもの視点で考える。子どもにとって求められていることが明確で、何をすればよいかがわかりやすい課題を目指し、必要な予備知識や資料を整理する。 このようなことを意識してほしいことを伝えました。 また、教科書の記述や資料は本当によく考えられていること。なぜこのような記述があるのか、なぜこの資料なのかといったことを真剣に考えると実に多くのことが見えてくることを話しました。教材研究の一環として教科書を読みこむことを大切にしてほしいとお願いしました。 理科は、参観した2人とも3年生の仕事の定義の場面でした。 実際に物を動かして見せたりして、子どもが課題を把握しやすいように工夫をしていました。子どもたちもわかりたいという意欲をしっかり見せてくれていました。 残念なことに、教師が理科の用語を曖昧なまま使っていたために、子どもたちが定義をしっかり理解できていませんでした。具体的には、「仕事=力×移動距離」と定義し、移動距離については力の方向であることを強調していたのですが、力の大きさはただ力とだけしか言いませんでした。また、何がした仕事かという主語を一度も明確にしませんでした。どの力の仕事かが明確になっていなかったため、荷物を地面と平行に移動したときの仕事が0ということがうまく理解できずに混乱してしまいました。「力のした仕事=その力の大きさ×その力の方向に移動した距離」と定義するべきだったと伝えました。 美術は、指示と確認、鑑賞の時間の持ち方について話しました。 明るくにこやかに子どもたちと接しています。言葉もとても聞きやすく、指示も明確です。しかし、次々と一方的に指示をしたため、いざ活動となるとわからなくなった者が続出しました。活動前に大丈夫かとはたずねたのですが、だれもわからないとは言いませんでした。指示の徹底方法について説明しました(指示を徹底させる参照)。 「日本らしいデザインの扇子をつくる」という活動の最後の鑑賞の場面でした。自分の作品について「日本らしいデザインについての工夫」をグループで発表し、発表を聞いた人はそこから学ぶという流れでした。ワークシートに工夫をまとめる時間を事前に取っていましたが、これはあまり意味のない時間です。制作に入る前にきちんと具体的にしてあれば、それをもとに話をすればよいからです。また、原稿を書いたため、結局それを読むことが発表になってしまいました。小グループでの活動です。全体での発表と違い、作品をはさんでもっと自由に話し合えるようにした方がよかったでしょう。 また、鑑賞は作品から読み取ることが大切です。本人が語るのではなく作品に語らせるのが本来だと思います。言語活動を意識するのであれば、友だちの作品を見てどんなところがよかったか、それはどんな工夫があったからかといったことを発表する。他のグループの作品を見て、自分のグループに紹介するといった活動もあることを伝えました。 英語は、子どもが考える授業について話しました。 授業者は授業規律をしっかり守らせることのできる方です。子どもはとてもよい姿勢で授業者を見ています。しかし、子どもたちは残念なことに、形は守るのですが積極的に授業には参加はしていませんでした。復習の場面では、数名しか手が挙がりません。その内容が書いてある教科書のページは開いているのですが、そこを見て確認しようともしません。受け身なのです。一方、ペアやグループでの活動は実に楽しそうで、笑い声も聞こえてきます。しかし、ちょっとテンションが高すぎます。子ども同士の人間関係はよいのですが、授業の内容と関係ない言葉も聞こえてきます。子どもたちが授業の内容に集中して積極的にかかわるようにする工夫が求められます。 英文をただ覚えてしゃべるという活動では、子どもたちは考えることをしません。英語の勉強はただ英文を覚えればよいと考えてしまえば、必要な英文と情報が手元に残っていることで授業に参加する目的は達成されます。その内容を試験前に覚えれば十分だからです。そうではなく、英語を考えて使うことを通じて、実際の場面で使えるようにすることが求められます。 常に教師の発声を繰り返す、覚えた英文をただしゃべる。こういう活動ではなく、考えなければしゃべれない活動に変えます。たとえば簡単なQ&Aをペアでおこなうときでも、いくつかの例文からどれかを選んで質問するようにすれば、その質問をしっかり聞いていなければ答えられません。また、相手の返答によって質問側も返す言葉が変わるようにすれば、互いにしっかり聞き合わなければなりません。相手の言葉をきちんと聞かなければ対応できない活動にすることで、話し手は伝わるように話さなければいけないし、聞き手は相手の言うことをしっかり聞いて理解しなければいけません。これが成立するためには双方が努力することが必要です。自分だけ頑張ってもうまくいきませんが、互いがかみ合ってうまくできれば、達成感はとても大きなものになります。人間関係もよくなります。まさに、これがコミュニケーションの本質です。このような英語活動の例(英語で大切にしたい活動参照)をいくつか提示しましたが、これにこだわらず先生方で色々工夫をするようにお願いしました。 数学科の2人は、前回と比べて格段の成長をしていました。先輩教師がいかに彼らにかかわりあってよい影響を与えているかよくわかります。 教師の説明を減らし、子どもの言葉を何とか引き出そうとしています。子どもからうまく言葉がでなくても、待つことができるようになっていました。 残念だったのが、子どものちょっとした言葉をうまく活かせなかった場面があったことです。作図ツールを使って代表の子どもが図形を動かした時に、「えー」と声を発しました。子どもが想像したのと違った動きだったからです。ここで、「どうしたの?」と問いかけることで、あとで、教師がそのことを説明しなくても、この図形の動きが与えられた条件に縛られていることを気づかせることができたはずです。あえてこの図形が条件に縛られていることを事前に言わなかったのは、子どもたちに気づかせたかったからのはずです。その意図を活かすチャンスにもかかわらず拾うことができなかったのは、こういう言葉はうっかり拾うとうまく対応できないことがあるからです。授業者はそのことを恐れて拾わなかったのです。同じような場面がもう一人の授業でもありました。やはり同じように思ったようです。 「子どもの反応や発する言葉はきっと活かせるはずだ」。そう確信することが大切です。問題は自分がうまく活かせそうもなかったときの対処方法を知っているかどうかなのです。一つは、他の子どもにつなぐことです。「今の言葉、なるほどと思った人」「○○さんの言いたいことがわかった人いる?」というように他の子どもにつなぐことで、子どもが助けてくれることがよくあります。それでも活かせそうもなければ、「なるほど、そんなことを考えていたんだ。教えてくれてありがとう」というように、しっかり認めたうえで捨ててしまえばいいのです。こういったやり方がわかっていれば、とりあえず子どもが反応したら気軽に聞いてみようと思えるようになるのです。 とはいえ、2人の授業は若手としてはレベルの高いものです。だからこそ、課題が見えてくるのです。これからは、今まで以上に教材研究が必要になってきます。子どもが深く考えるためには課題や発問が大切になります。子どもの言葉を活かすためには教科内容の背景も深く理解していなければなりません。とても意欲の高い2人です。これからもきっと大きな成長を見せてくれると思います。 研修担当の先生は、授業アドバイスの間ずっと私たちの話をパソコンでメモしていました。また、どの授業も指導案作成段階から相談に乗り、アドバイスされていたようです。こういう表には出ないバックアップが先生方のやる気を引き出すことにつながっていると思います。そうでなければ10人もの先生が研究授業に手を挙げるようなことは起こり得ません。もちろん、それだけではありません。どの先生もとても前向きで授業をよくしたいという思いにあふれていたからこそです。熱心な先生方とのお話はとても楽しく、ついつい長話になってしまい、勤務時間を大幅に超過させてしまいました。申し訳ありませんでした。10人の授業者、研修担当の先生、アドバイスに同席いただいた先生、一緒に授業参観された先生、みなさんから本当にたくさんのことを学べた1日でした。心から感謝です。 子どもの発言つなぐことを考える
子どもの発言をつなぐことがよくわからない、うまくできないということを聞きます。子どもの発言をつなぐことの意味と、その方法について少し考えてみたいと思います。
「他の考えはない?」と子どもの考えを次々に発表させてもつながりません。指名された子どもは自分の考えを発表して満足します。友だちの考えが自分と同じ考えだと、「言われた」と残念がります。「他の考えはない?」と聞かれるのでもう発表できないからです。友だちと自分の考えが違えば発表するチャンスがあります。そうとわかれば、友だちの話を聞くことよりも、自分の考えを発表することに気がいってしまいます。友だちの発表が終わるや否やすぐに挙手します。一方、自分の考えが持てない、よくわかっていない子どもはどうでしょう。友だちの考えを何とか理解しようとしても、理解する前に次々に違う意見が出てくるのでついていけなくなります。一見活発に見えても、子どもたちが互いの考えを理解し、深めてはいないのです。 では、どのようにすればいいのでしょうか。基本は同じ考えを大切にすることです(同じ考えを大切にする参照)。このとき、結論と根拠を意識するとつなぎやすくなります。 「○○だと思います」 「なるほど。どこでそう思ったの?」 「△△と書いてあるからです」 「なるほど。同じように○○だと思った人いる?」 「私も、○○だと思います」 「あなたは、どこでそう思ったの?」 「□□と書いてあるからです」 「なるほど。違うところをあげてくれたね」 ・・・ 同じ結論の子どもをつないで、その根拠を問うています。複数の根拠を挙げることで考えを深めていきます。 また、 「○○だと思います」 「なるほど。どこでそう思ったの?」 「△△と書いてあるからです」 「なるほど、△△と書いてあるから○○と思ったんだ。どう、△△からどんなことが言えそう?」 「私は、△△から◎◎だと考えました」 「なるほど、△△から◎◎とも考えられるんだ。みんなどう思う」 ・・・ 根拠となるものをつないでいます。同じことを根拠にしても違う見方をすることで考えを広げることができます このようにつないでいくことで、考えを持てていなかった子どもも、「一つの結論についてその根拠を何度も提示される」「ある根拠となるものにこだわって話が進んでいく」ので、じっくり考えることができ理解しやすくなります。 「同じ」を意識してつないだ後に、「違い」を意識して他の考えを聞いていきます。先ほどの考えと「どこが違う」「なぜ違う」ということを意識して発表させます。 「じゃあ、○○とはちょっと違う考えだという人いる?」 「私は▽▽だと思います」 「なるほど、▽▽なんだ。それって○○とどこが違うの」 ・・・ 「私は▽▽だと思います」 「なるほど、▽▽なんだ。どこでそう考えたの?」 「◇◇と書いてあるからです」 「なるほど。さっきは、△△だから○○と考えたんだよね。じゃあ、△△と▽▽を比べてみようか」 ・・・ 「違い」を意識することで対立点が明確になり、話し合いが深まります。 このように、結論や根拠をつなぐことで、友だちの考えや意見に対してその根拠を意識し、自分の考えと比較するようになっていきます。友だちの考えや意見とかかわり合った発言を求められるので、自然と友だちの発言をしっかり聞くようになっていきます。自分の考えを持てなかった子どもも、発言と発言に関連があるのでじっくりと考えることができます。同じ考えの子ども、違う考えの子ども、自分の考えを持てない子ども、それぞれが互いの考えを共有していくことができます。子どもの発言をつなげるとはこういうことなのです。つなげることで、子ども同士が互いに影響し合い、考えを広げ深めることができるのです。 教師の説明は「無批判」で受け入れられる
友だちがせっかくよい意見を発表しているのに、教師の方を向いたままの子どもの姿をよく見かけます。こういう学級の多くは、子どもの発言の後、教師が正解・不正解を判断したり、子どもの発表をわかりやすく説明し直したりしています。子どもからすれば、不正解であれば聞いても無駄です。正解であれば教師が必ずもう一度わかりやすく説明するのですから、不十分な友だちの発言はやはり聞く必要はありません。教師がどのように判断するか、どういう説明をするか、それをしっかり見定めることの方が大切になります。自分が発表して教師に評価してもらうことに意味があって、友だちの発言を聞く意味はないのです。とはいえ、教師の話をきちんと聞くのであれば正しい知識は身につくからよいのでは、という考えもあります。どのように考えればよいのでしょうか。
教師の説明を中心に授業を進めることの問題は、教師の説明は「無批判」で受け入れられことです。子どもたちは、「教師は正しことを言う、だから教師の説明を理解すればいい」、そう考えているからです。同じことを話しても、友だちの言葉は正しいかどうかわかりません。無批判では受け入れません。ここが大切なのです。正しいかどうかの判断を教師がすれば、子どもたちはその判断を放棄してしまいす。考えなくなってしまうのです。このことが、将来にわたってどれほどマイナスになるか容易に想像がつくと思います。情報からその内容が正しいかどうか、自分にとってプラスになるのかといったことを判断する力がなければ社会に出た時に困ってしまいます。考える力、判断力をつけるために、教師ができるだけ説明しない、正解・不正解を判断しないことが大切になるのです。子どもの言葉で授業をつくることが大切である理由の一つです。 子どもが友だちの話を聞く必然をつくる(友だちの発言を聞く意欲を高める参照)。わからない子どもに寄り添って授業を進める(子どもの言葉で授業をつくるときに注意したいこと参照)。こういうことを大切にする必要があります。また、わざと間違えたりして、「教師が必ずしも正しいことを言うとは限らない」と子どもを揺さぶることも有効です。大切なこと、押さえたいことは、教師ではなく子どもが言う授業が理想です。子どもたちが結論や正解を効率よく学習しようとするのではなく、自分たちで間違いを修正し、足りないところを補いながら結論にたどり着く。そんな、過程を大切にした、子どもたちが考える授業を目指してほしいと思います。 |
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