子どもの視点での疑問を大切にする

先日の日記「数学の教師は数学の勉強をしない?」を読まれた先生から、「どのように勉強したらよいでしょうか」というメールをいただきました。熱心に授業に取り組み、研修にも積極的に参加されている方です。私の書き方が悪かったせいもあるのでしょうが、勉強というと体系的に学ぶイメージが強く、どんな本を読めばいいのか、どんな分野から手をつけたらいいのかと悩まれたようです。そういう勉強も大切ですが、私がお願いしたかったのは、子どもの視点で疑問を持ち、その疑問を解決するために必要なことを調べたり、考えたりするということです。

たとえば、教科書に書かれている情報は無駄なものがないといっていいほど、よく練られています。子どもの視点で読んでみると、いろいろな「?」が浮かんできます。その「?」を追究していくことが教材研究につながります。教師がすぐに解決できないような疑問でも、これは追究に値する課題だと思えれば、子どもと一緒に考えることをしてもよいと思います。

先ほどの日記で書いた数学の例でいえば、「凹多角形(教科書にはこの言葉はありませんが)を考えない」と書いてあれば、「どうして」と思う子どももいるでしょう。中には、内角の和をいろいろと測って見て、凹多角形でもn角形の内角の和は(n−2)×180°と気づく子もいるかもしれません。そうなれば、きっとその理由が気になりだすはずです。こういう子どもがいるかもしれないと考えることが大切です。教師が教科書に凹多角形は扱わなくていいと書いてあるから、考えないという姿勢が問題なのです。
子どもがもし質問してきたらどのように対処するのでしょうか。「教科書に扱わないと書いてあるから考えなくてよい」と答えるのでしょうか、それとも「実は、・・・」と扱わない理由を説明するのでしょうか。教材研究の段階できちんとこういうことを想像し考えていれば、対応に困ることはありません。教師が証明も含めてしっかり理解していれば、「どうなるかな、調べてごらんよ」と余裕を持って子どもに追究をうながすこともできます。子どもがつまずいたり、新たな疑問が生まれたりしても問題なく対応できます。

こういうことは、何も数学だけに限ったことではありません。どの教科でも子どもが疑問を持つことはたくさんあります。

たとえば、ある小学6年生の社会科の教科書は、武家諸法度(部分要約)の資料の中に、徳川家光がつけ加えたこととして次のような一文を載せています。

・大名は、毎年4月に参勤交代すること。近ごろは、参勤交代の人数が多すぎるので、少なくすること。

本文には、

3代将軍となった徳川家光は、武家諸法度を改め、参勤交代を制度として定めました。

と書いてあります。

これを読んだ子どもは「???」となると思いませんか?
武家諸法度で参勤交代を定めたのなら、なぜ「近ごろは・・・」という文があるのでしょうか?
この「近ごろは・・・」の記述が資料にはない教科書もあります。ということは、「近ごろは・・・」を載せた教科書は子どもにこういう疑問を持ってほしいと考えたということでしょう。

インターネットなどで調べてみるとわかりますが、参勤というのは鎌倉時代からある言葉で、制度しては定められていなかったが秀吉のころにも諸大名は京都に屋敷を与えられ参勤していたようです。江戸時代になっても、家康の機嫌を取るために江戸に参勤していた大名もいたようで、家康も秀吉にならって屋敷を与えていたようです。この参勤を参勤交代制度として諸大名全部(水戸藩主は常に江戸詰め)に課したのが家光だったということのようです(だから、本文の記述は「制度として定めました」となっているようです)。
調べたから教えなければならないということではありません(教えたくなりますが・・・)。こういう疑問を持ち、解決しようという教師の姿勢が大切なのです。

大人だから持っている知識や常識にとらわれて読み飛ばすのではなく、子どもはどう読み取るだろうか、どう考えるだろうかという視点で教材研究をすれば、多くの「?」が見つかります。この「?」を追究していくことが教材研究となり、自然に勉強ができるのです。

メールをいただいた先生とのやり取りの中で、こういう素敵な言葉がありました。

なるほど、疑問を持てばそれを解決する為に調べる。学問の基本中の基本です。疑問に思わないと始まらないのですね。いつも「どうして?」としっかり考え、その1つ1つの問題を解決していきたいと思います。
生徒に「考える力をつけたい」と策を講じるより、このように教師がいつも疑問を持って生徒に対峙していれば、自然と一緒になって考えるようになるってことですね。

余計な思い込みを排し、子どもと同じように素直な気持ちで教材と接し、生まれた疑問を大切にする姿勢で教材研究に取り組んでほしいと思います。

担任が孤独にならない、孤独にさせない

学級経営は担任にとってとても大切な仕事です。特に小学校では授業もほとんどを担任が受け持つので、担任にかかる責任は大きくなります。そのせいか「学級王国」といった言葉に代表されるように、他の学級には口出ししないかわりに、自分の学級にも口出しされたくないという風潮もあります。
小学校に限らず、学級のことはどうしても担任が抱え込む傾向が大きくなります。気になる子どもにかかわりすぎて、学級全体に目が行き届かず、気づいたときは立て直すのも難しい状態だったというようなこともよく聞きます。学級のことを過度に自分の責任と考えずに、早め早めにまわりと相談することが大切になります。学級経営は担任が主となっておこなうものであっても、一人でおこなうものではないのです。担任が孤独にならないようにまわりも気遣うようにしてほしいと思います。

そのためにも、互いに他の学級を見あうことは、できれば日常的におこなってほしいと思います。よかった悪かったではなく、そこで気づいた事実(子どものようす)を互いに共有するようにしてください。指摘された事実に対して、どう対処すればよいかわからなければ、素直に聞くようにしましょう。きっとよいアドバイスがもらえると思います。
逆に、アドバイスを求められたときに、「自分ならこうする」という言い方はちょっと控え目にしてほしいと思います。特に経験の少ない者にとっては、ベテランにとっては当り前のことがなかなか理解できなかったり、実行することが難しかったりします。相手の立場に立ったアドバイスを心がける必要があります。どうすればよいか、どんなことならできそうか、相手と一緒に考える姿勢で接してほしいと思います。

学年のリーダーや管理職は、学級経営の悩みを互いに聞き合える関係、互いに自分の問題として考える雰囲気づくりを心掛けてください。個々の学級の問題は、担任だけの問題ではなく、学年全体の問題、学校全体の問題と捉えて、組織の力で解決することを考える必要があります。担任を個別に指導するだけでなく、まわりからどう支えたらよいか、その方策を具体的にしていくことが求められます。そのためにも、各学級の様子をよく把握する必要があります。できるだけ時間をつくって、各学級を観察するようにしてください。
学級経営も学校経営の一部分なのです。

担任が孤独にならない、担任を孤独にしない。このことを大切にしてほしいと思います。

子どもの自己有用感を大切にする

学級づくりということが昔以上に大切だと言われるようになってきています。学級崩壊という言葉も、当り前のように耳にします。学級担任の一番の仕事は、教室の安全、安心とも言われます。子どもたちが安全に、安心して暮らせるというのは最低限守られなければいけないことです。そのためには学級における規律が大切になります。とはいえ、教師は警察官ではありません。ルールを守れない子どもを叱ったり、罰したりすることが仕事ではありません。いかにして子どもたちが、規律を守ることを大切だと思うようにするかが大切です。
もちろん、学級規律を維持するだけが学級づくりではありません。子どもたちが集団生活の中で学ぶべきことはたくさんあります。昨今のいじめの問題もそうですが、他者を思いやる気持ちを育てることも強く求められます。

学級づくりで大切なことはたくさんあると思いますが、私が意識してほしいと思うことは、子どもたちに自己有用感(自尊感情)をどう持たせるかということです。自分の存在が集団の中で意味をもっていると実感できれば、その集団を壊すような動きはしません。これだけで、学級づくりがうまくいくとは言いませんが、基本となるものだと思います。

子どもが自己有用感を持つ基本は、認められる、ほめられることです。教師が一人ひとりのよいところを見つけ、ほめることから始めることです(一人ひとりのほめる観点を意識する参照)。教師に認められることで、教師の話に聞く耳を持ちます。子どもに「聞きなさい」といくら言っても、教師が自分を認めてくれている、自分の話を受け止めてくれると感じていないと、なかなか聞いてはくれません。学級の規律をつくるためにも大切なことなのです。

教師に認められること以上に大きいのが仲間に認められることです。子どもたちと関係ができてくれば、次は子ども同士が認め合うようにすることです。教師が子どものよいところをほめるだけでなく、「○○さんのやったこと、みんなどう思う?」と子どもたちに投げかけ、子どもから「すごい」「がんばってる」「りっぱ」といった称賛の言葉を引き出すのです。授業中だけでなく、給食、掃除など学校生活のあらゆる場面で子どもたちのよさを見つけるようにすれば、どの子どもにもほめるところが見つかるはずです。こうして、学級の中に一人ひとりの居場所(自分が自己有用感を持てる場所、場面)をつくっていくのです。自分の居場所がある子どもは精神的に安定します。自然に落ち着いた、安定した学級になっていきます。また、よいところを学級全体で共有し認め合うことで、教室によい行動が広がっていきます。

学級づくりに直接関係ないように思われますが、家庭との連携も大きな要素です。家庭に居場所がない子どもは、学校で荒れやすい傾向があります。子どもに対して要求、指示、注意ばかりで、認めることが少ないと家庭に居場所がなくなります。意図的に認める、ほめることが大切です。私は保護者に対して、子どもに「ありがとう」を言うようにお願いします。基本は「あなたがいてくれて、ありがとう」です。いい子だからうれしい、○○だからうれしい、だからありがとうではないのです。無条件に子どもの居場所をつくってほしいのです。その上で、子どものよいところを認め、ほめるのです。
そのためには、学校生活での子どものよいところをできるだけ親に伝えることが必要です。「学級通信」で、具体的に名前をあげてほめる(特定の子どもに偏らない、全員が登場するように配慮する)。一人ひとりのよいところを「通知表」や「いいとこ見つけ」(一人ひとりのよい行動を具体的に記録したもの)で伝える。こういうことも、子どもの自己有用感を高めるために大切なことなのです。

学級づくりを考えるとき、子どもたちに自己有用感を持たせるという視点を持ってほしいと思います。ここに挙げたこと以外にもいろいろな方法があると思います。子どもたち一人ひとりが自己有用感を持ち、自分の居場所を持てる学級を目指してください。

中村健一先生から学ぶ

本年度第3回の教師力アップセミナーは、山口県岩国市立平田小学校の中村健一先生の講演でした。「お笑い」「フォロー(対応の技術)」そして、「厳しく叱る」の学級づくりというタイトルで、学級づくりのための具体的なネタ(活動)を中心にお話いただきました。

今の子どもは教師が一方的しゃべっていると集中力がなくなる。細かく活動を入れなければならないという主張はよくわかります。テンポにこだわり、次々と繰り出されるネタに参加者は大いに笑い、またその解説の場面ではすぐに集中力を取り戻していました。中村先生のうまさと同時に、参加者の質の高さもうかがえます。しかし、実際の教室では子どもたちのテンションがこのように上がったとき、すぐに下がるのかちょっと気になりました。テンションを下げることは上げること以上に難しいように思います。若い先生方が実際にこのようなネタに挑戦する時に、テンションをどうコントロールするか忘れずに意識してほしいと思いました。
また、指相撲やハイタッチなど子ども同士の身体接触を伴う活動もいくつか紹介されました。子ども同士の人間関係ができていないとうまくいかないこともあります。これに限らず、子ども同士の人間関係との兼ね合いで使えるネタは制限されます。中村先生も注意されていましたが、子どもの状況をつかんでいないと、逆に学級が崩れるきっかけになることもあるように思います。

「お笑い」の構成の基本を、「フリ」「オチ」「フォロー」と定義し、その中でも特に「フォロー」(評価、ほめるなど)の大切さを強調されました。やりっぱなしにさせない、教師がまずほめることで子どもたちの中によい価値観を醸成するという考えは、その通りだと思います。子どもに活動させたときには、その結果をできるだけポジティブに評価する。失敗も明るい笑いに変えることで子どもたちの自尊感情を傷つけない。子どもの自己有用感を大切にする考えです。これらのことは教育活動の多くの場面で大切にししなければならないことです。

一つひとつのお話に納得しながら、若い先生方は今回のお話をどうとらえるのだろうと考えました。最近の若い先生は今回のような「ネタ」を欲しがる傾向にあるように思います。子どもの気持ちを早くつかみたい。あまり難しくない、簡単にできること、方法はないか。その答の一つが今回のような「ネタ」なのでしょう。子どもたちだけでなく、教師にも消費者的行動が浸透してきているように感じます。
「ネタ」を求めることを全面的に否定する気はありません。しかし、これだけで学級経営や授業が成り立つわけでもありません。子どもの実態をしっかり把握し、使いどころを考えて「ネタ」を活用する必要があります。
また、子どもが集中できる時間が短いからとテンポ上げて、目先を変えることばかりしていると、いつまでたっても集中力はつきません。子どもがつねにおもしろい「ネタ」を求めるようになってしまえば、地道な学習活動を嫌うようになる危険性もあります。
要は、「ネタ」だけに頼るのではなく、同時にベースとなる授業力をあげていくことを忘れてはいけないということです。

もちろん中村先生はこのことはよくおわかりだと思います。今回の講演が、「ネタ」に関して先生方とどのような話をすればよいのかをあらためて考える機会となりました。よい学びの機会をいただき、ありがとうございました。

管理職が教員とコミュニケーションをとる工夫

コミュニケーションの大切さがよく言われます。企業はもとより学校でも子どもたちのコミュニケーション能力が問われています。ところが、教師同士となると必要性はわかっていてなかなかその時間が取れないのが実情です。いわんや管理職と一般の教員とのコミュニケーションはもっと難しいのではないのでしょうか。愛知県でも評価制度の導入を機に校長と一般教員の面接が義務付けられていますが、夏休みが終わってもまだ実施できていない学校もかなりあるように聞きます。

私がかかわった中でよい方向に変化している学校は、個人プレーではなく、組織として方向性を持って動いていることが共通しています。目指す方向性が共有化され、その具体的な実践も互いに共有されているのです。
そのための方法として、校長や担当者がこまめに通信などを出して、具体的に伝えることをしていることが多いようです。なかなかまとまった時間が取れない中、口頭できちんと伝えるのは難しいことです。紙であれば、時間のある時にじっくり読んでもらうこともできますし、保存もききます。年度当初にぶちあげて終わりではなく、こまめにそのことを色々な形で伝え、共有していくことが大切です。一方的、間接的ではありますが、立派なコミュニケーションだと思います。

最近では、そのための方法として学校ホームページが注目されています。
保護者や地域の方たちに伝える道具としてだけではなく、教師同士のコミュニケーションツールとしても活用するのです。共有したい実践や、目指す姿の具体的な場面を見つけた時に、写真と簡単なコメントをつけてアップするだけです。その学校の教員であれば、その記事の持つ意味はわかると思います。「こういうことをすればいいのか」「こんなやり方もいいな」「詳しいことを聞いてみようか」と思ってくれればいいのです。
これだけでも有効なのですが、ここでもう一歩進めることが大切に思います。
だれが記事をアップするかにもよりますが、このような記事であれば管理職やそれなりの立場の方だと思います。この記事をきっかけに、ほんの少しでいいから当事者と会話をするのです。このとき、記事をアップした意図(よさ)を伝えるだけでなく、「このほかにもどんな工夫をしている」「どんなことを意識している」「困っていることはないか」とできるだけ相手に話をさせて聞くのです。発信をきっかけに、教師同士のコミュニケーションをつくりだすことはできますが、管理職とのコミュニケーションはまだ一方通行のままです。コミュニケーションの基本である「聞く」場面を意識してつくるのです。

私が注目している校長は、これに加えてリーダーと話し合う機会を頻繁に取っておられます。給食指導の無い教員(管理職、主任、・・・)が集まって、給食時間に気軽に話をする場を設けています。発信ばかりでなく、受信の機会を意図的につくっているのです。聞き合うことで、新しい視点が生まれますし、校長の考えもより深く伝わります。

コミュニケーション不足の原因を時間がないことを理由にしている方が多いように思います。以前よりも忙しくなったとよく言われますが、新しい道具もたくさん出てきています。学校ホームページを始め、校務支援システムもかなり普及してきています。こういうものをうまく活用し、工夫をすれば、本当に大切であるリアルなコミュニケーションをとる時間も生み出すことができると思います。

行事への取り組み方を考える

行事等の学級の取り組みは、学校の雰囲気や担任の個性によっても大きく異なることと思います。担任がリーダーとなって仕切っている学級もあれば、担任の存在が全く意識されないような学級もあります。行事を通じてどんな子どもを育てたいかによってもアプローチは違います。どれが正解というわけではありませんが、何を目指していけばよいのかを考えてみたいと思います。

成功した、優勝したといった結果がでれば学級の意気は上がります。このとき担任が強いリーダーシップを発揮していれば、その後の学級経営もスムーズにいきます。このことを知っている教師は、時として結果を求める指導をおこないます。どうしても担任の学級全体への指示が増えます。子どもたちは成功したい、勝ちたいと思っているので強い指導者の指示に従います。また、自分たちで考えなくても指示に従っていれば活動できるので、意外と満足するのです。こうして、結果が出ればよいのですが、出なかったときが問題です。「残念だった」で終わればまだよいのですが、原因を反省しだすとおかしなことになってしまいます。
指示は明確なのですから、それを忠実に実行したかどうかが問われます。一致団結して取り組めなかったといった表現になることもよくあります。言い換えれば、ちゃんとやらなかった者がいるということです。下手をすれば犯人探しです。これでは、行事を通じて子どもたちが成長することはありません。順位がつくようなものであれば、結果が出ない学級も必ず存在します。結果にかかわらず、子どもがきちんと成長できることを意識して取り組む必要があります。

また、経験の少ない若い先生が子どもたちを仕切ろうとする姿を見ることがよくあります。自分が生徒のときにリーダーとして仕切ってきた経験のある方が多いように思います。こうやるとうまくいくと知っているのでそれをやらせようとします。しかし、生徒のときにリーダー役だったということは、教師ではなかったわけです。立場が違っていることに気づいてほしいのです。自分がリーダーとして力をふるえていたのであれば、当時の教師は子どもに力をふるう機会を与えてくれていたということです。今度は自分がその立場になって、同じような成功体験を積ませるためにどうすればよいか考えてほしいのです。
逆に、教師に指示されて動いた経験しかないので、自分も同じようにしなければいけない。けれどリーダーとして動いた経験がないので、どう引っぱっていけばよいのかわからない。そう悩む方もいます。必ずしも教師がリーダーである必要はないのです。

ベテランの担任は、子どもの先頭に立って動くことは少ないように感じます。体力的な問題もあります。しかし、子どもたちが成長するためには、壁にぶつかり自分たちで乗り越えることも時として必要だと知っていることもその理由の一つです。リーダーがいないためなかなか進まない。ここで、我慢をしていると、「このままではダメだ。なんとかしなければ」と思う子どもが出てきます。こうしてリーダーが生まれ育ってくることもあります。どこまで我慢できるかは状況によっても違いますが、たとえ結果は出せなくても子どもたちがより大きく成長することもあります。
こういう教師は、前面にでないがじっと子どもたちの様子を観察しています。教師が直接見なくても、個別に子どもたちから情報を得ることで状況を把握することもできます。必要に応じて個別に指導することで、影響力を持つこともできます。
反省も行事を通じての成長を評価することで、次はもっと早くからこうすればよいと前向きなものに変わります。子どもたちの成長の機会をどう用意するか。子どもたちの成長の過程をどう評価するか。こういう視点で行事への取り組み、教師のかかわり方を考えるというアプローチもあります。

行事は教育活動の一環であり、子どもたちのふだんの授業とは違った成長の場です。子どもたちの成長という視点を大切にして取り組んでいただければと思います。

数学の教師は数学の勉強をしない?

中学校の数学の授業アドバイスをするときに感じるのは、数学的な背景やその意味をわかっていないまま授業をしている教師が多いことです。自分は問題が解けるから数学がわかっていると勘違いをしているようにも思えます。

自分の教科に対する自信が大きいのでしょうか、他の教科と比べて教科の内容を深く勉強している方が少ないように思います。社会科の教師は常に最新の情報(地理や政治経済だけでなく歴史も新事実が出てきて変わる)や資料を探していますし、理科なども実験の工夫(新しい機器や素材がどんどん出てくる)や、新しい事実(科学はどんどん進歩していますし、身近に新しい応用例もどんどん出てきます)に対応する必要があります。国語も扱う文章が時代とともに変わっていきます。
ところが数学だけは恐ろしく古い内容を扱っています。というか、現代的なものを扱うためにはその基礎となる知識が必要となるために、まずはそこからというわけなのですが・・・。最新の数学が教科書に登場することはまずありません。しかも、中学校(高等学校も一部)では厳密な証明は求められません。基本的なこと(基本的・シンプルなことほど難しい)に関しては、なんとなく納得、説明で済まされることが多いのです。定義も曖昧なままのものが多いようです。

関数って何?
1次関数のグラフはが直線になることはきちんと証明したの?
平行線と直線が交わってできる同意角が等しいことは、平行線の定義からきちんと証明している?
実数って何? 有理数とは? 循環小数と非循環小数の違いはどこからくるの?
2(x+1)=2x+2と2(x+1)=1の=は同じ?
確率って何?
なんで連立方程式には{ がつくの?
・・・

中学生への説明の前に、数学教師は数学的に正しく定義でき、証明できるのでしょうか?
教科書の説明はそのことがわかった上で中学生にどう説明すればよいかを考えて作られています。中学生と同じレベルで理解していては困るのです。記述の背景にあるものを教師がしっかり理解していてほしいのです。

このことは、社会科を例にして話をすればわかると思います。たとえば、第1次世界大戦について教科書の記述と同じレベルの知識しかなくて教壇に立つことは考えられませんね。教科書には書かれていない背景や事実を知っているからこそ、何が重要か何をそぎ落とすといった判断がどのようにされているか、作り手の思いもわかるのです。わかった上でどう授業を進めるかという自分の考えが持てるのです。

数学は問題を解ければいいのではありません。それは学習の一つの結果なのです。定義一つとっても、矛盾のないもの、扱いやすいものにするための試行錯誤があるのです。そういう思考を大切にしてほしいのです。
教科書では凹多角形をあつかわないことをいうのに、具体例を1つだして、「このような多角形」としています。なぜ凹多角形といわないのでしょうか。それは、中学生のレベルではきちんと凸、凹を定義するのは難しいからです。では、星型多角形は?
視覚的になんとなくわかることもきちんと定義しようとすると大変です。逆に定義を考えることでそのことの持つ本質が見えてきます。少なくとも、教師はそのことを理解してほしいのです。

私の専門が数学だから数学教師に厳しいのかもしれません。しかし、他の教科の教師と比べて、どうしても甘さを感じることが多いのです。問題の解き方を機械的に教えている、覚えさせていると感じる教師が多いのです。その延長では高等学校でつまずいてしまいます。数学の教師だからこそ数学とは何かについて深く考え、教科書の背後にある数学の世界をしっかりと理解して教壇に立ってほしいのです。

友だちの方を向いて話を聞く

子どもが友だちの発言を聞くときに、体を発言者の方へ向ける学級とそうでない学級があります。同じ学級でも場面によって変わるときもあります。子どもが発言者を見ずに聞いていても気にしない教師も多いように思います。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが友だちの発言を、友だちの方を向いてまで聞こうとしないのは、そこまでして聞きたいと思っていないからです。「友だちの考えはどうだろう」「自分と同じ考えなのだろうか」と思っていないのです。友だちの考えを知ることが自分に影響を与えないのです。友だちの発言が問いに対する単純な答であればその傾向は強くなります。たしかに「計算の答は10です」という発言にそこまでして聞く価値はないかもしれません。しかも、友だちの発言の後、教師が正解、不正解を判断して説明をはじめるのであれば、そちらの情報の方がはるかに価値があります。集中して授業に参加している子どもにとっても、教師の様子から情報を得る方が大切になります。

先日、「とてもよい発言があった」と評価された授業場面の写真を見ました。発言している子どもは堂々として、いかにもよい発言に見えます。しかし、その写真に写っている子どもは、だれも発言者を見ていませんでした。全員よい姿勢で前を向いています。よい発言だったかもしれませんが、他の子どもたちはその発言を本当に理解しようとしていたのでしょうか。そのあと、教師が発言を評価してはじめてよい発言だと思う、教師がその発言を受けて説明してその内容を理解する。そういう授業だったかもしれません。

いつも述べていることですが、子どもにとって友だちの発言を聞く価値がある授業にしていかなければなりません。「友だちの発言は、友だちを見て聞こう」というルールをつくり、形から入る方法もあります。しかし、話を聞いてよかったと子どもが思わなければそれは形で終わってしまいます。
発言の評価をいつも教師がする。発言を受けてすぐに教師が説明する。発言に対して教師主導で進んでいくのであれば、子どもたちは教師の反応をうかがいます。もっといえば、教師の求める発言(答)は何かを探る授業になっていきます。発言者も自然に教師を向いて話をします。
発言に対して、他の子どもの理解を確認する、評価を求める。それだけでも聞く姿勢は変わっていきます。そのためには、子どもに求める発言は、結果(答)だけでなく、その根拠や過程でなくてはなりません。
「言っていること伝わった」「説明に納得した人」と問いかけ、納得した人がいれば、そのこと自体が発言への評価になります。納得した人に、再度説明を求めるようにすれば、発言を聞く価値が増します。

先日、ある研修会で参加者に自分の考えを持っていただいた後、一人ひとりに発表をしてもらう場面がありました。発表者に、参加者を向いて発表するようにお願いしましたが、それだけでは、他の方の視線は私に向いたままでした。しかし、発表に対して、私が「なるほど、よいことに気づきましたね」と受容し、「納得した人」「参考になった人」、「これが正解というものがあるわけではない」と私が判断をしないことを伝えたところ、参加者の視線は自然に発表者に集中するようになりました。私の反応を知ることより発表者に集中することの方が、価値が高くなったのです。

こういった働きかけがなくても、自然に友だちの方へ体が向くこともよく目にします。ほとんどの場合、子どもたちが自分なりの考えを持ってはいるが、完全に解決できずに疑問や課題が残っているとき、自分はこう判断したがみんなはどうだろうと友だちの考えに興味を持っているときです。子どもの中に聞きたいという欲求がでてくるような課題ということです。子どもにとって自分の課題となっていて、かつ一人ではなかなか解決できない、結論が出ない、他者の考えや助けが必要となる。そういう条件を満たしている課題です。

子どもの姿勢には子どもの気持ちが表れます。子どもが友だちの話を聞きたいという気持ちは体の向きでわかります。子どもが自然に友だちの話を聞きたいと思うようになるには、授業者の働きかけと適切な課題が必要です。子どもの体の向きを意識し、子どもが友だちの話を聞きたいと思うような授業を心がけてほしいと思います。

10年続いた「算数・数学の授業力アップ研修会」から大いに学ぶ(長文)

先週末は、算数・数学の授業力アップの研修会に参加しました。毎年夏休みに先生方の自主運営でおこなわれています。私はスタッフではないのですが、オブザーバーとして毎年参加させていただいています。今年は第10回という節目で、初回から参加している者としては感慨深いものがありました。
中心となるスタッフも会とともに歳をとり立場的にもなかなか時間が取れなくっていく中、10回も続いているのは並大抵のことではありません。愛知県内で同時期に始まった同様の研修会で今も続いているのはこの研修会だけです。
若いスタッフを育ててきたこと、市の研究会のバックアップあることなど、要因はいろいろあると思いますが、この研修会を通じて自分たちも学べる、学ぼうという姿勢があることが何と言っても一番のような気がします。昨年と同じということがない、毎年違うことに挑戦していることからもそのことがわかります。

今回は記念大会ということもあるのでしょう、例年と違って大きなホールで全体会とグループ別の研修をおこないました。会場に余裕があるため、斜め前から研修の様子を見ることができました。参加者は一部を除いてほとんどが若手です。彼らがどのような反応をするかをじっくり観察することができました。話はちゃんと聞いているし、メモも取るのですが、意外に顔があがりません。ノートを取ることを大切にしている子どもたちとよく似た様子です。知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという雰囲気が薄いのです。講師も伝えたいことがあるので、どうしても情報量が多くなるのですが、参加者はその情報を消化しようというよりは、そのまま保存しようとしているように感じました。
講義の中でも一部実習があるのですが、実習をすると全体の雰囲気が和みます。ペアで役割を交代しながらおこなうのですが、交代する前に感想や気づきを聞くと緊張も緩みます。ところが、実習でできていなかったことや追加の解説が入ると会場全体に緊張が走ります。しっかりと聞くのですが、すぐにメモを取ります。実習で自分たちがこうすべきだったという「正解」を聞き洩らさないようしようとしているように見えます。自分たちも考えたはずなのですが、講師からの説明を正解として上書きされるようです。講師としては、一度にたくさん説明しても頭に入らないので、分割して説明しただけで、参加者の気づきを否定しているわけでもないのですが、「自分たちができていなかったことを説明される」=「自分たちのやったことは間違い」、「追加の説明」=「これが正解」というような変換が頭の中でなされているようです。
また、交代する前に気づいたことを発表させるだけで、講師が追加の説明をしなかったときは、和やかな雰囲気が持続し、実習後の解説を聞くときもその雰囲気が持続されています。
実習に対して解説をすることは、注意を要することに気づけました。参加者の気づきから課題を焦点化してからそのことについて話をする、参加者の気づきをすべて認めた上で「追加」であることを強調して話をするといった工夫が必要に思いました。自分が講師を務めた研修を振り返るよい機会になりました。

グループ別の実習では、若手の教師がインストラクターとなってとても頑張っていました。未熟な面もありますが、参加者と一緒に学ぼうという前向きな姿勢がグループ全体の一体感をつくっていました。講義のときと比べて参加者の積極的な態度が印象的でした。インストラクターが一人ひとりを受け止め、認めていることも大きな要因でしょう。
実習の後半は教科書のあるページを与え、その場で授業の流れをつくるという、かなりレベルの高い課題に挑戦しました。短い時間で教科書を理解し、めあて、ポイントを押さえて流れをつくることは大変ですが、グループで挑戦することで、一人で考えるとき以上に多くのことを学べたと思います。

中学校のグループだけ別の部屋でした。この種の研修ではどうも中学校の先生方が硬い傾向にあります。専門教科であるからきちんとわかっていなければいけない、正解できなければいけないというプレッシャーがあるように感じます。気軽に聞きあえればよいのですが、壁を感じることが多いです。
中学校はn角形の内角の和の公式をつくる場面です。教科書には既存の知識(3角形の内角の和)を使うという「見方・考え方」がちゃんと書かれています。実習で考えるのはこの後の部分が中心でしたが、そこでのやり取りは、この既存の知識を使うということを大切したやり取りが欲しいところです。3角形にこだわることで答が出せそうだ。どうすればうまくいくのだろう。そういう過程を大切にしてほしいのです。
教科書は1つの頂点から対角線を引いて3角形に分割し、表にして関係を見つけるとなっていますが、参加者は、1つの頂点で分割する必然性を子どもたちから引き出すことには消極的であると感じました。一番大切なのはその部分です。1つの頂点から対角線を引いた図から出発して説明しても、自分でその分割を見つけることができる子どもは育ちません。先生方にそのことに気づいてほしいのです。
子どもが自由に分割した図で、多角形の内角が過不足なく含まれているか調べれば、重複している、無駄な角が見つかるので、それを除外すれば答はちゃんと一致します。その上で、過不足ない図はどうすれば書けるのかを課題にするのです。
教科書にはありませんが、既存の知識を利用するという考えを使うという発想は帰納的な発想につなげることができます(本当はこのほうが将来的には大切になるのですが・・・)。たとえば5角形の内角の和を、小学校でやった3角形と4角形の内角の和を使って求められないかという問いから始めるという考えです。5角形の場合、1つ対角線を引くと、3角形と4角形に分かれます。じゃあ6角形は3角形と5角形、7角形は・・・、としていけば、n角形はn−1角形と3角形に分割できることに気づけます。既存のもの同士を組み合わせるという発想をすれば、対応の関係でなく隣同士の関係から表を埋めていくことができます。関数で大切になってくる見方です。証明としてもほぼ完璧なものに近づいていきます。また、将来数学的帰納法を学習するときの布石ともなります。もちろんこれがベストなものだという気はありません。そうではなく、選択肢としてあがってほしいのです。
教科書は、わざわざ多角形といったときに凹多角形は考えないと書いてあります。「なぜ?」とたずねたところ、明確な答えが返ってきません。凹多角形でも内角の和の公式は成り立ちます。ただ、証明(説明)が難しくなるからです。しかし、教科書のすぐ下にはn角形の内部に1点をとり、各頂点を結んで3角形をn個作る方法が示されています。この考えを使えばかなり複雑な凹多角形でも説明がつきます(すべての場合はちょっと難しいのですが・・・)。教科書の執筆者は、そんなことに気づいてくれる子どもがいることをきっと願っていると思います。

(ちなみに、先ほどの帰納的な発想を使うときちんと凹多角形でも説明ができます。もし1つ離れた頂点同士を結んだときに3角形が内側にできても、内角の和はn−1角形の内角の和+180°になることがすぐにいえるからです)

凹も含めて多角形の内角の和を考えることを課題にした授業をしろと言っているのではありません。そこまで教科書を読み込んだ上で、授業を考えてほしいのです。中学校の教師が中学校の問題を解けるのは当たり前です。その教材の持つ意味をわかって授業をつくるから教師なのです。そうでなければちょっと優秀な中学生でも教師になれてしまいます。教師の教師たる所以は何かを意識してほしいのです。

本来乱入してはいけない立場なのですが、つい余計なことで研修を止めてしまいました。申し訳ありませんでしたが、私が割って入った思いをわかっていただければ幸いです。

最後の講演(講義)は、予定を少し変えて参加者が実習で苦労したところ、疑問、課題をもとに模擬授業をおこなっていただけました。願ったりかなったりです。自分たちからでた課題に対する回答なので、参加者の集中度はとても高くなっていました。メモ取るのではなく、真剣に見て、聞いて何が起こっているのか、自分たちと何が違うのかを理解しようとしています。ここから学ぶことは大きいと思います。模擬授業後、授業者から突然解説をするように求められました。とっさにどうしようかと思いましたが、参加者の多くが見落としていると思われる部分を解説させていただきました。

授業者は○つけをして全員が正確になっているところで、挙手をさせました。そのとき、反応の悪い子どもに、反応を求めました。全員○をつけて正解であることを確認しているのですから、そこまでしなくてもよいようにも思います。しかし、わかっているのならわかっている、わからなければわからないと反応するように求めたのです。「全員にできるようになってほしいから」、教師が外化を求めることを伝えたのです。いきなりの模擬授業でなかなかできることではありません。授業者の子どもへの思いが現れた場面です。「先生はだれも見捨てない。全員できるようにしたい」、そういうメッセージを言葉だけでなく体全体で子どもに伝える必要があるのです。
聞いたところ、子ども役同士で理解の遅い子役を2人決めておいたそうです。もちろんそのことを授業者は知りません。その子ども役のしぐさをきちんと見て対応したのです。さすがです。細かい授業の進め方やスキルも大切ですが、その教師の根っこに子どもへの思いがしっかりとなければいけないことがよくわかります。その思いがあるからこそ、子どもの何を見るのかが明確になる、見る目を持つことができるのです。そんなことをあらためて確認することができました。

10年にわたりこの研修会からは本当に多くのことを学ばせていただきました。感謝の言葉以外ありません。来年以降どのような形となって進化していくのかとても楽しみです。また、きっとたくさんのことを学ばせていただけることと思います。ありがとうございました。

夏の研修を振り返って

多くの学校で、夏休みもいよいよ最終日になりました。今年もたくさんの研修を担当させていただき、多くのことを学ぶことができました。

その中でも印象的だったのが企業での研修です。昨日の日記にも書きましたが、参加者は相手の考えを聞いて自分の主張を変えることは負けだと考えているように見えました。対象だった方は就職で苦労した世代です。就職試験対策で集団面接などのノウハウを学んできたのでしょう。相手を否定はしない、しかし、自分の考えはしっかりと主張するように指導を受けてきたのかもしれません。他者より自分が優れているところを見せなければいけない。そういう脅迫観念があるのかもしれません。そのことが研修に影響していたように思いました。

先生方では見られない姿です。教師は他の先生と比較されることや、相対的に評価されることがあまりありません。他者の意見を素直に受け入れて考えを変えることが比較的素直にできるのかもしれません。しかし、競争意識があまり働かないのでぬるま湯になりやすいとも言えます。そこで、飴と鞭の教員評価制度が導入されつつあります。しかし、評価制度を変えることがよりよい方法なのでしょうか?
私の目から見ると評価制度を変えても、大きくは教師の意識は変わらないと思います。また、変わってほしくはありません。先生方が自分の業績を声高に主張する姿は想像したくありません。評価制度で解決する問題というよりもマネジメントの問題だと思います。
今までの制度化でも、教師集団のやる気を引き出し、成果を挙げている学校はたくさんあります。そのマネジメントの重要性とノウハウを管理職が共有することの方が大切なように思います。

企業の社員の特性と、教師の特性のどちらが好ましいかは一概に言えません。そのよさを活かしながら、よりよい方向に持っていくマネジメントをするだけです。
先ほどの企業の例であれば、チームや部門、最終的には会社全体で最適化される解答にたどり着くことが大切だ、それがだれの発案であるかといったことは大きな問題ではないという意識をもつことが重要です。一人ひとりがチームの中での自分の役割を意識して全体で最適化できるように行動することが大きなパワーを生むのです。

企業研修を見ていた上司の方から、「『提案力=聞く力』ということを再確認させていただくよい機会となりました」とメールをいただきました。この言葉の裏には、顧客の本当に願っていることを聞くことができれば、その情報をよい提案に変えていくことは社内のみんなの力を集めてできる自信があるということです。組織の力を信じているということです。この姿勢が全社に広がれば大きな力となるでしょう。
この発想は企業だけでなく、学校でも全く同様に成り立つことだと思います。
企業からも学ぶことはたくさんあることをあらためて実感しました。

企業での研修

昨日は東京で企業向けの研修を2つおこなってきました。

1つ目の研修はグループでの話し合いを中心にして進めました。メインのテーマとは別に他者とのかかわり合いの中で学ぶ、チームワークとはどういうことかを実感してもらうことも目指してのことです。おもしろかったことは、グループで結論をまとめることは必要ないと指示しても、まとめようと動くグループがあったり、だれも話の方向性を決めようとせずに、思いつくまま話しているグループがあったりといろいろだったことです。チームとして動く、グループで知恵を出し合う経験がまだ少ないのでしょう。グループでの役割意識を持つことや、具体的にどう行動すればよいかについても、はっきりと触れた方がよかったのかもしれません。
ある課題について、考えが2つに分かれました。そこで、互いに相手を説得することをお願いしました。双方とてもよい意見が出て、相手もその考えを受け入れる姿勢を見せるのですが、不思議なぐらい自分の考えを変える人は出ませんでした。これもとても面白い経験です。自分を主張すること、相手を認めることはできるのですが、そこからもう一つ新しい考えをつくりだすという発想はなかったようです。ここでその話をすべきだったのかもしれませんが、「正解はないので、それぞれの考えでいい」という形で決着させました。AかBかの対立関係があった時に、そこからCという新しいものを生みだすというのは大人でも難しいことだと知ることができました。
また、仕事における多忙感とストレス、時間と生み出す価値について少し話をしました。その中で、突発的なことに個人で対処するのはとてもストレスのかかること。そのストレスは組織で吸収しなければならないことを学校の生活指導を例に話しました。この会社でも突発的なことへの対応はよくあることです。自分の担当にこだわらず組織として、チームとして動けるようになってほしいことを伝えました。

2つ目の研修は3人一組のロールプレイを中心にしておこないました。1人は社員、もう1人は顧客、そして最後の1人は観察役です。1巡したところでよかったところ、参考になったところをグループで話し合っていただきました。ロールプレイそのものは、不慣れなせいもあり日ごろのよさを発揮できなかった方も多かったようですが、そこから気づいたことはとても大きかったようです。全員に発表してもらいました。

まず相手の言葉を受け止めること。
話をよく聞くこと。
顧客だって無理をいっていることはわかっている、でも聞いてもらいたいということ。
・・・

聞くことの大切さ、受容することの大切さにみな気づいてくれています。とてもよい気づきばかりで、私が解説しようとした基本的なことはほとんど網羅されていました。
また、皆さんの気づきは大きく2つに分かれていました。他者からの指摘や、他者のロールプレイから自分を振り返ってみてわかったこと。もう一つは顧客の役を演じて、顧客の気持ちになることでわかったことです。他者から学ぶこと、相手の気持ちになること、この2つを学んでほしかったので、とてもうれしく思いました。
研修のまとめ役の方と上司の方2人にもコメントをもらいました。
研修のまとめ役のコメントは、伝えたいことがあるとどうしてもしゃべりすぎるということです。説得しなければという気持ちがどうしても言葉を増やすことになるのです。これは教師の説明にもつながります。とても大切なことです。
上司の方のコメントは、とても素晴らしいものでした。顧客の要望や主張を単に聞くのではなく、「教えてください」とその背景にある事実、要因、顧客がどうなりたいのか、どうしたいのかという真に望むものを聞きだすことが大切であるということです。全くその通りです。これは、教師が子どもの悩みの相談に応じるときにもつながることです。
最後に、聞くことを大切にする姿勢が相手への提案力にもつながること、日ごろのコミュニケーションで大切にしたい言葉について話をして終わりました。

担当者や上司の方に助けられて無事に終わることができました。日ごろとは違う一般の会社での研修だったので少し緊張して疲れました。しかし、とても新鮮で楽しい経験でした。私が学ぶこともとても多かったと思います。参加された皆さんにとって少しでもお役に立つ研修になっていれば幸いです。

言葉にならないメッセージを受け止める

授業で子どもを見ることは大切です。子どもは言葉で「わかりません」「集中していません」と言ってくれません。子どもの様子からそのメッセージを読みとる必要があります(子どもの「何」を見る参照)。教師は子どもからの言葉にならないメッセージをどう受け止め、応えていけばよいのでしょうか。

わかりやすいのは、うなずく、首をかしげるでしょう。うなずいていれば、「わかっている」「納得している」、首をかしげていれば「わからない」「理解できない」という反応です。問題はその反応をどのようなメッセージと受け止め、どう対応するかです。うなずいていれば、安心して先に進めればよいのでしょうか。
多くの子どもが反応していないのに、数人の子どもがうなずいていれば、「先生、大丈夫。私たちはわかっているよ。助けてあげられるよ」というメッセージとも取れます。「○○さん、うなずいてくれたね。それってどういうこと」「納得した。どこで納得したか聞かせてくれる」と水を向け、その子どもの理解をみんなで共有するという対応もあります。
首をかしげるということは、「わからないとは声に出して言えない。でも、先生助けて」そういうメッセージとも取れます。「○○さん首をかしげてくれたね。いいよ、そうやって反応してくれるとうれしいな。何か困ったことがあるの? 聞かせてくれる」とその子どもの困り感に寄り添い、みんなで共有することで他のつまずいている子どもたちも巻き込んで解決していくこともできます。
このように子どもの反応をメッセージだと受け止めて取り上げていくと、次第に子どもは反応するようになっていきます。

教師が板書を始めるとすぐに鉛筆を取ってノートに写す。とてもよい姿にも見えますが、それまで真剣に話を聞いている様子がなければ、「ノートさえ取っておけば困らない」「先生の話はノートを取ることよりも価値がない」というメッセージとも取れます。
教師の話を聞くときに体が後ろに反っていれば、「先生の話はあまり聞きたくない」「とりあえず聞いているふりだけはしていよう」というメッセージかもしれません。

話は少しそれますが、教師が腕組んで、体を反らし気味に子どもの発言を聞いていれば、「私は君たちよりも偉い」「君の話を評価してやる」「間違いがどこか見つけよう」というメッセージと取られることもあります。体をかがめ、前向きな姿勢で聞けば、「どんななこと言ってくれるか、しっかり聞くよ」「どんな話か楽しみだ」、うなずけば、「なるほど」「いいね」というメッセージにもなります。教師も自分が発する言葉にならないメッセージに敏感になる必要があります。

また、グループ活動を取り入れている教室で、教師の説明が終わってグループ活動に移るとき、子どもが伸びをすることがあります。「やっと話が終わった」「退屈だった」というメッセージに思えます。

これらのメッセージに対してどう応えるのでしょうか? 話を短く切り上げるのも対応の一つです。教師の説明ではなく、できるだけ子どもの発言をつないで理解させようとすることもよいでしょう。
どのような対応をするにしても、教師がこのメッセージを受け止めることができなければ話になりません。話を聞かずに窓の外を見ている。「この子はやる気のない、反抗的な子どもだ」と思うのか、「授業がつまらない。わからない。そのことに先生気づいて」というメッセージと受け取るのかで大きく変わります。何も反応しない子どもがみんな、授業に集中して参加し、内容を理解しているわけでありません。一見ネガティブに見えても、反応をしてくれるということは教師に対してメッセージを送ってくれていることだと考え、そのメッセージを受け止めようとする姿勢が大切です。
子どもの言葉にならないメッセージを受け止められる教師を目指してほしいと思います。

研修を楽しむ

昨日は、市の研修会で講師を務めました。2日間の第2日目です。この日のテーマは話し合いでのつなぎ方の工夫でした。

最初に、私から話し合いをうまく進めるための教師に役割について少しお話をさせていただきました。
教師の役割として意識してほしいことは、まずは教室の人間関係づくりです。教師と子ども、子ども同士の関係をつくる必要があります。そのためには、話すことよりも聞くことを大切にします。教師が子どもの言葉をしっかり聞き、受容することで教室に安心感が生まれます。子どもたちが互いの言葉を聞き合うことを目指さなければなりません。
次に意識してほしいことは、「必然性のある課題、発問をどうつくるか?」「子どもの言葉、反応をどう活かすか?」「何をどうつなぐか?」といった、攻め、受けと切り返し、そしてつなぎです。教師から一方的に課題を与えるのではなく、子どもに疑問を持たせ、子どもが考えたいと思うような課題を工夫する必要があります。その上で、子どもの反応をしっかり受け止め、認め、そして一人ひとりの考えを全員で共有するための働きかけをすることが大切になります。
もう一つ大切になるのは、教師がすべて自分で説明し対応しようとしないことです。教師の役割は教えることばかりではありません。時には、思い切って子どもたちに委ねる勇気も必要です。問題を焦点化する、課題を子どもたちの共通のものにするといった働きかけを通じて子どもの学びを支えることで、教師が思った以上に子ども同士で課題を解決できるのです。

私の話の後、3つのグループでそれぞれの代表がおこなう模擬授業の検討をおこなってもらいました。どのグループもとてもよい雰囲気で進んでいます。内容は算数のグラフの読み取り、保健のお酒の問題、数学の連立方程式とバラエティに富んでいます。そのせいか、教師の問いかけや子どもの言葉のつなぎ方にこだわっているグループ、教科書を読みこみながら課題や発問にこだわっているグループ、授業の流れや構成にこだわっているグループと、それぞれ論点が異なっているのが印象的でした。グループでの様子を見て、模擬授業がどのようなものになるかとても楽しみになりました。

算数のグラフの読み取りの模擬授業は、グループ活動での子どものかかわりや子どもの言葉を引き出すことを意識したものになっていました。最初に私が話をしたことをぎこちないながらも早速取り入れようとしていました。素直な先生です。このような姿勢の方は必ず伸びていきます。
授業者は課題把握の場面で、子どもをうまく活かせませんでした。問題文を読んでどういうことかわかったかと問いかけたときに、多くの子ども役は反応できませんでした。そこで、課題の資料やグラフに関して子ども役にいろいろと問いかけながら説明をしました。しかし、最初の問いかけでうなずいていた子ども役がいたのです。その子ども役に説明させることで、違った展開になったはずです。
課題となる、「提示された円グラフがどの資料のものか」の理由を書く場面では、その後のグループ活動の展開を意識してできるだけたくさん見つけさせる必要があります。しかし、特に指示をしなかったため、1つ書いて終わっている子ども役もいました。
グループ活動の場面では、活動に必然性を持たせるために「友だちの考えを自分のものにしていい」という指示を出しました。内容的にはよいのですが、この表現では、意見を言った子どもは考えをとられるというネガティブな感覚になります。ここは、「いいなと思う意見があったら自分のにつけ加えてね」といった表現の方がよいでしょう。友だちがつけ加えるのは、「いいな」と思ったからで、これはポジティブな評価になります。
全体での追究で、子ども役の説明がうまく伝わらなかったときに、他の子どもにつないで説明させようとする場面がありました。とてもよいことです。残念だったのは子ども役が前で説明しているときに、もっぱら教師が聞き役になってしまい、発表者と教師の2人の世界に入ってしまったことです。子どもたちに向かって説明するように指示し、説明を聞いている子どもたちの反応を見ながら、発表者と他の子どもをつなぐことに徹する必要がありました。
授業者が子どものかかわりや言葉を活かすこと意識して模擬授業をしてくれたので、とても学びの多いものになりました。

2つ目の保健の模擬授業は、教科書の資料をどう活かすかについて考えさせてくれるものでした。小学校6年生でお酒の害について考えるものですが、この授業の課題を何にするかがポイントです。事前のグループでの検討会でも話題になっていました。教科書の資料から、授業者は「まわりの大人にお酒をすすめられたらどう断るか」を課題にしました。その前提となる知識は与えておいて、教科書の「一家団らん(お正月?)でおじいちゃんがお酒を子どもに勧めている」さし絵をもとに、どう断るかを考えさたのです。残念ながら子ども役の様子からは自分の課題になっていません。なぜなのでしょうか。それは、この状況が子どもにとって切実感がなかったことがあります。お酒の害についての知識を与えたことは、「子どもは、お酒は絶対に飲んではいけない」ことを明確にするためです。この部分は絶対に揺らいではいけません。その上で、教科書の「中学生がお酒を飲んだきっかけ」の資料をもとに考えさせなければいけなかったのです。授業者はこの資料を読みとらせようと少し時間をとっていましたが、時間をかけずにお祭りなどの行事や家族の団らんでまわりの大人から勧められた事がきっかけだったことを確認し、なぜ断れなかったかに焦点化すればよかったのです。「絶対飲んではいけないことがわかっているお酒を飲んでしまったのはなぜだろうか?」と焦点化することで、子どもから、よく知っている大人だから、楽しい雰囲気を壊したくなかったから、・・・「断り切れなかった」という言葉を引き出す必要があったのです。そうすることで、「どう断ればいいのか」が子どもたちの課題として認識されるのです。課題に入る前の段階で、子どもたちを揺さぶっておく必要があったのです。とはいえ、このグループは前回もそうでしたが、教科書を非常によく読み込んで課題を考えていました。教科書の飲酒のきっかけの資料がなぜここにあるのか、なぜ中学生の資料なのかと細かいところまで検討していました。こういうベースがあっての模擬授業の提案でしたので、私もこの教材の課題がどうあるべきかについて深く考えることができました。

最後の模擬授業は、連立方程式の応用で「さっさ立て」(30個の碁石を「さっ」と声をかけて1個または2個取り、それぞれを決められたところに置く。これをかけ声だけを聞いて何個ずつに分かれたかを当てるもの)を扱うものでした。
ホワイトボードでカラーマグネット(色つきの丸い磁石)を使って実際に操作することで視覚的に課題を理解させる。代表の子どもにやらせる。といった流れは、オーソドックスですが、指示が明確でなければなかなかスムーズにはいきません。その点授業者の指示は明確で、実に自然に進んでいきました。最初に指名した子ども役は、しばらく考えていましたが見事に正解しました。通常の授業では、いきなり正解しそうな子どもは指名しませんが、模擬授業ではこのようなことが起こってしまいます。授業者がどう進めるかとても興味がわくところです。授業者はその理由を代表の子ども役に確認します。その説明で納得できたかとつなぎ、他の子どもにもう1度説明させました。ここで、教師が説明したくなるところですが、そうはせずに、石の個数をかえて他の子どもに挑戦させました。教師が説明するより、子ども自身で納得する時間を大切にしたのです。
連立方程式で解く場面では、指名した子どもに未知数を決めさせます。ここで指名された子ども役はマグネットの数を未知数にしました。じつは、どちらに何回置いたかの方が式に分数がでなくて扱いやすいのですが、ここでも授業者はあえてそのままにしました。子どもの考えをできるだけ活かそうとする姿勢は立派です。授業者はつなぐことに徹し、模擬授業は子どもの言葉で進んでいきました。見事でした。この姿勢で授業を続けていけば大きく伸びていくことと思います。
授業者からは、個人追究をいつ止めたらよいかの判断に迷うという質問が模擬授業中に出てきました。なかなか途中で自らこのような質問はできません。このことにも感心しました。模擬授業で授業者がこのような質問ができると、互いの学びは大きくなります。

早くできる子どもに対するさらなる課題をあらかじめ準備しておくこと。
できていない子がいるからといたずらに時間を延長しても、手がついていない子どもができるようにはならないこと。
逆に、次へ進めると思っていた子どもが延長されてだれてしまうこと。
それよりも、手のつかない子どもを他の子どもにつないで、たとえまる写ししても活動させること。
まる写しで終わらせないために、発表の段階では常に根拠を問うこと。

こういうアドバイスをさせていただきました。

最後のまとめの時間にもとてもよい質問をいただけました。2日間の研修をとても楽しんで進めることができました。また、皆さんが準備してくれた模擬授業とその教材に触れ、私自身もその教材への理解が深まりました。参加された皆さんはどのようなことを学ばれたのでしょうか。終始笑顔があふれる研修でしたので、きっと多くのことを学んでいただけたのではないかと勝手に想像しています。とてもよい機会をいただけたことに感謝します。ありがとうございました。

参加者も講師も多くのことが学べた研修

先週末は、毎年1講座を任されている、市主催の研修会の講師を務めました。「子どもが授業で考えるための教師の役割」をテーマに、前半は最近めきめき力つけた中堅の先生に数学の模擬授業をお願いし、後半はそれを受けて私が話をしました。

模擬授業は、図に子ども役が引いた線分をもとに課題をつくり、考えを深めていくものでした。

導入の数分間でも学ぶべきことはたくさんありました。子ども役とのやり取りは「なるほど」と受け止め、必ず最後に「ありがとう」の言葉が添えられていました。子どもをまるごと受け止め、認めることが実に自然におこなわれていました。
まず線分を引くという課題の確認を全体でおこない、個人作業に入りました。そのとき、「できたら鉛筆を置いて、顔を上げてくれるとうれししいです」と指示をしました。ちゃんと「うれしい」とIメッセージで結んでいます。
また、個人作業では、早くできた子どもへの指示が大切ですが、作業の途中で指示をしても徹底しません。原則通り、最初に指示をしています。今回は短い作業時間でしたので、次の課題を与えるのではなく顔を上げさせることにしました。これにはもうひとつの意味があります。顔を上げさせることで、作業の進み具合がわかるのです。得てして、教師は短い時間でも机間指導をしたがる傾向にあります。今回はいくつも線分を引かせる課題だったので、だれがどのような図を書いているかあらかじめ把握してから指名したいところです。しかし、全員が取り組めていればだれを指名しても対応できるので、授業者は前で子どもたちの様子を観察していました。

5人の子ども役を指名して前で自分の図を書かせます。「順番に書いてね」「順番ということは前の人と違うのを書くということだよ」と指示をします。こういう指示をすることで、自然にバリエーションが広がります。机間指導で、「この図を書いてね」と指示しなくてもこんな方法もあるのです。お見事です。しかし、このやり方だと同時に書けないので時間が余分にかかります。指名されなかった子どもにとっては、待っている無駄な時間が長くなりそうです。ところがどの子ども役も真剣に前を見ています。その理由を聞いてみると、自分のものと同じかどうか気になるという答でした。子どもも同じです。自分が真剣に取り組んだことであれば、興味を持って参加するのです。そうであれば、この時間は無駄ではなく共有化のための時間として有効に機能しているのです。
子ども役が書いた図に書いた人の名前を書き込んでいきます。この図と言わずに「○○さんが書いてくれた図」と固有名詞を使って区別しています。自分の名前を言われることで、子どもたちは自己有用感を持つことができます。些細なことですが、一人ひとりを大切にしていることがよくわかります。

いよいよ本時の課題です。引いた線分が交点で何対何に分割されているかです。すぐにわかる図もあれば、ちょっと手がつきそうもないのもあります。全体ですぐにできそうなもの、何とかなりそうなもの、難しそうなものに分類します。大切なのは、子ども役が判断しているということです。積極的にかかわることで自然に自分たちの課題となっていくのです。

簡単な問題を指名された子ども役が前で説明します。数学的に十分ではない説明でしたが、そのことを指摘せずに、「納得した人」と全体に問いかけます。授業者はあえて「わかった人」と聞きません。「わかった人」と聞けば、それが正解だと暗に知らせることになり、わかりなさいという強制につながるからです。このとき、かなりの数の手が挙がりましたが、手を挙げなかった子ども役に問いかけることで、「ぼやっとしている」という言葉を拾い上げました。この「ぼやっ」を共有化していくことで、説明の不十分なところを明確にしました。その際も教師が説明していくのではなく、まわりと相談しながら、子ども自身に見つけさせる活動をたくさん取り入れていました。
指名された子ども役がうまく説明できなかったときも、まわりと相談する時間をとり、その子ども役に「できそう?」と声をかけとフォローしていました。子どもの困り感にしっかり寄り添っています。
子どものつまずき、困り感を共有し、また説明できなかった子どもに再挑戦させ、失敗で終わらせないようにする配慮など、たくさん学ぶべきことがありました。

子ども役から出てきた「チョウチョウ形」という言葉をうまく使いながら、この形ならわかることを共有化した上で、補助線を必要とする問題へと移りました。時間の都合であらかじめお願いしておいた方に正解を発表してもらいました。その説明に皆が納得したあとからが本当に考える場面でした。どうしてその補助線を引こうとしたのか? いつも「チョウチョウ形」をつくればいいのか? 線分の比を求める問題は何に注目すればいいのか? これを子どもたちに問うのです。この時間だけで力がつくわけではありません。毎日の授業でこのようなことを問い続けることで知識と知識がつながりメタな知識へと昇華され、再現性のある力がつくのです。
模擬授業で子ども役を経験することで、参加者の方にこのことが伝わったことと思います。

とても学びの多い模擬授業を受けて、後半は皆さんが学んだことや感想を聞くことから始めることにしました。今回の講座は、小学校の初任者が全員参加でしたので、彼らに聞くことにしました。十数人全員に起立してもらい、一人ひとりに問い返しながら内容を深めてみました。私と彼らとのやり取りが、子どもの考えを引き出したり、深めたりするときの参考になるように少し意識しました。どの先生も実に優秀で、素晴らしいことにたくさん気づいていました。誰ひとりとして同じことを言いません。それだけ、模擬授業の学びが多かったということです。これだけでもう十分と言いたいところですが、補足として私の方からも話をさせていただきました。

最近感じるのは、「勉強=覚えること」と錯覚し、とにかく答を早く欲しがり、勉強を量や時間で測る、機械的、訓練的な学習をする子どもたちが多いということです。そうではなく、しっかり考える子どもに育てるためには、子どもにとって必然性のある課題を準備し、結果でなく過程を大切にし、再現性のある思考を求めることが必要です。その前提として教室が安心して間違えることのできる場所でなければなりません。その基本となるのが、教師と子ども、子ども同士の人間関係です。教師が子どもを受容し、どんな発言でも必ずポジティブに評価すること、子どもの言葉を全体で共有し認め合うことが必要となります。その上で、答がわからなくても参加できる問いかけをし、たとえ間違えても必ず最後はできたとポジティブになって終わらせるようにするのです。
また、教師が子どもたちに委ねる勇気も必要です。すべて教えるのではなく、問題を焦点化し、課題を子どもたちの共通のものにすることで子どもの学びを支えることも教師の大切な役割なのです。
具体的な課題の考え方、考えを広げる問いかけ・焦点化していく問いかけなどお話したいことはたくさんあったのですが、省略させていただきました。このあたりのことは、模擬授業からきっとつかんでいただけていることと思います。

私の進め方が悪く、時間を延長してしまい申し訳ないことしてしまいました。それにもかかわらず、多くの質問もいただきました。その中で印象的だったのは、教育実習のときに、子どもに発言させた後「ありがとう」を言ってはいけない。教師は教える立場なのだからと指導された。「ありがとう」を大切にしようと講師は言われたがどうなのでしょうかというものです。実は、これはよく聞く話です。とくに中学校で多いようです。教師は子どもよりも上の立場でなければ子どもたちを指導しにくいという考え方です。しかし、いくら教師が上から目線で子どもに対しても、子どもが教師を尊敬し、自分より上の立場と認めなければ面従腹背されるのが落ちです。一人の人間として子どもを認める教師を子どもは尊敬します。形で上に立つのではなく、真に子どもに認められ、言うことをきちんと受け止めてもらえる教師になるように努めることが大切だと思います。それには、まず教師が子どもを認め、子どもの言うことをきちんと受け止めることです。その第一歩が「ありがとう」だと思います。

模擬授業だけでなく、参加者の発言からも多くのことが学べた研修でした。参加者も、講師である授業者と私も、互いに多くのことを学ぶことができました。このような機会を得られた幸運に感謝します。

現職教育で講演

昨日は中学校の現職教育で講演をおこなってきました。「授業で何が起こっているのか」と題して、先日見せていただいた授業の様子をもとに、お話させていただきました。

この市の先生方は講演等で雰囲気が硬い傾向があります。ちょっと構えてしまうのでしょうか。以前に私が住んでいた近くの学校なので、その頃に聞いた噂話も交えながら1時間の短い講演としてはまくらに多くの時間を使いました。先生方の緊張をほぐすと同時にどこにどう反応するかを見て、焦点化する内容を考えるためです。
準備していたのは、子どもたちの特徴や授業で気づいたこと、具体的にどのようなことをすれば子どもが変わっていくのかといった内容でしたが、子どもたちの特徴と授業で気づいたことを先生方と共有することに思い切って絞りました。

子どもたちは学力的には高いのですが、効率的に結果(正解)を得ようとする消費者的行動をとる傾向にあり、教師と距離を置いています。授業中に教師との人間関係を求めていないように見えます。また、子ども同士の関係も希薄に見えます。授業で友だちとかかわる必然性がないことが要因でしょうか。
教師が話をしても子どもの顔が上がらないが、板書は素早く写す。友だちの話は聞かないが、その後の教師の説明は確認する。自分にとって必要な情報を得ることのみを大切にしているように見えます。学力の高そうな子どもが授業に参加していないことが多いことも気になります。
その理由を子どもや家庭環境だけに求めるのではなく、教師の側にも原因はないのか見直してほしいのです。

バラバラな知識ではなく、問題解決の手段や知識と知識をつないで構造化するといったメタな知識、解き方を覚えて解けるのではない、知識をもとに見たことのない問題を解ける力といった、より高い学力を教師が子どもたちに求めているのか。

知識を(学校や塾で)与えられるのではなく、自ら獲得しようとすることを子どもたちに望んでいるのか。

子どもたちが互いにかかわり合うことで成長し、認められ、自己有用感を持ち、より高みに登ることを目指しているのか。

反応する子どもとその反応を全身で受け止める教師。他者の考えを聞きたいと思う子どもと、自分の考えを聞いてもらいと思う子ども。そんな姿を見たいと思わないのか。

結局は教師が求め、望み、目指さなければ子どもたちは変わりません。教師が見たい姿を思い描かなければ実現はしないのです。

このような話をさせていただきました。

最初は硬かった表情が柔らかくなり、次第にうなずくなどの反応をしてくださる方が増えてきました。先生方も子どもたちを変えたいと思っておられる。私はそう感じました。
今回は具体的にどのようにしていけばよいかは伝えられませんでした。また、一方的に話をされても理解できるものではないと思います。次回は実際の授業をもとに皆さんと一緒に考えるような研修にしたいことを担当の先生にお伝えしました。
少しずつでいいので、この学校の授業がよい方向に変わっていくためのお手伝いができればと思います。

板書を写すタイミングをコントロールする

教師が板書をしているときに、ある子どもはノートに写す、ある子どもはじっと板書を見ている。子どもたちの動きがばらばらで気になることがよくあります。板書を写すタイミングは教師がコントロールしないと、板書を使って説明しているのに写している子がいたり、「では、写して」と指示した時には写し終わっていてだれてしまう子どもが出たりします。以前にも書きましたがルール化しておくことが有効な方法の一つです(ルール化する参照)。

原則は「教師が指示しなければ板書は写さない」だと思います。そうしなければ、教師が板書を使って説明しているときに、まだノートを写していて聞けない子どもがでてきます。このルールを徹底するためには、教師は板書に専念してはいけません。ときどき子どもたちの様子を見なければ、どうしてもノートを開いてしまう子どもは出てきます。「ノートを写すのはいつだった」「先生が写してと言わないのに写してはダメだよ」とやさしく注意して徹底させることが大切です。そうならないためには、「静かに先生が書くことを読んでいてね」「教科書の○○ページを読んでいてね」というように教師が板書をしている間にするべきことを指示しておく必要もあります。「今から書くことで一番大事なことは何か見つけてね。後で聞くから」と課題を与えることも効果的です。

板書の量が多く、後で写す時間が取れないときには、「できるだけ速く写してね。鉛筆の先から煙が出るくらい(有名な指示ですね)」「先生と同じ速さで書こう」というように速く書くことを指示します。教師が書き終わった後、全員が書き終えていないのに待ち切れずに説明を始めることも避けられます。こういうときにICTはとても有効です。素早く見せることで無駄な時間をなくすことができます。また、子どもが写すことにあまり意味がないのであれば、あらかじめ印刷しておいて後から渡してもよいでしょう。

また、内容によって素早くノートに写すことをルール化することもあります。「今日の課題はこれです」と言って教師が板書を始めると、すぐに全員が鉛筆を持って素早く写し始める学級があります。これは、「今日の課題」はすぐに写すということがきちんとルール化されている例です。何を素早く写すのか教師が明確にしておいてルール化するのも有効な方法です。

板書を写すタイミングを教師がコントロールするということは、自分が板書をしているときに子どもたちにどのような行動をとってほしいか明確になっているということです。どんな時に写してほしいのか、写してほしくないのかがはっきりしていればルール化も簡単です。また、指示も板書を始める前にきちんとできます。教師が板書を始めてから子どもたちの様子に気づいて、「写して」「写してはダメ」と指示をしているようではいけないのです。子どもたちが板書を写すタイミングを意識して、きちんとコントロールすることを心掛けてください。

模擬授業で研修(長文)

昨日は市の研修で講師を務めました。3回構成の2回目で、11月におこなう授業研究での指導案の検討を、模擬授業を通じておこないました。授業者は経験7年目でこれからが期待される方です。小学校6年生の社会科の日露戦争の模擬授業でした。

授業者は冷房の利いた部屋ではなく、自分の教室で模擬授業をすることを選びました。ホームグラウンドでやりたいということは、ふだんの自分の授業を見せたいということでしょうか。教室は、きちんと整理されていて、授業規律が守れている子どもたちの姿が浮かんできます。授業者はキャラクターがとても親しみやすく、子どもたちとの人間関係もきっとよいと感じました。
導入はこの市に関するクイズを何問か出し、最後にこの市の名前と日露戦争の間に関係があることを伝えて本時の課題につなげていきました。多くの時間をかけない点はよかったのですが、子ども役の反応があまりよくありません。授業者も自分の学級の子どもならもっと盛り上がるはずなので、戸惑っていました。子ども役からすると、知識を問われているので知っている人にはそれだけのこと、知らない人は考えてもわからないのでとりあえず答を選んでいるだけです。また、このクイズが今日の授業とどのようにつながるもわからないので盛り上がらないのです。もちろん、子どもと大人では反応は違って当然なのですが、子どもが成長してくれば似たような反応が次第に出てくるはずです。考えても答がでない、言い換えれば考える必要のない知識を問う問題はできるだけテンポよく進め、早く本題につなげることが大切です。

続いて、当時の日本とロシアの軍事力の差を説明し、3枚の風刺画を印刷した資料を配り、教師の説明の裏付けとしました。授業者は、資料を見ながらどの人物が日本を表しているかといった説明をしていました。そのため子ども役を見ることができません。日本を見つけることができてうなずく子ども役、見つけることができなくて戸惑っている子ども役、彼らの様子を見落としていました。子ども役が資料をきちんと理解していたか確認することなく説明が続きました。
この後も、授業者の説明は続きます。この日の主となる課題、「日露戦争を点数で評価する」ために必要な知識をすべて与えたいのです。しかし、授業者の一方的な説明についていけない子ども役も出てきます。本当に社会が苦手だということで、わからないというメッセージを表情や態度で表してくれました。残念ながら授業者はそのことに気づくことができませんでした。ふだんの授業でもついてこられない子どもがいるはずですが、子どもたちはそれをなかなか外化することができません。授業者との関係がよいだけにかえって表さないのかもしれません。授業者は子どもの理解を確認するということを意識していませんでした。もちろん、途中で私が授業を止めるので平常心でなくなったということも理由の一つでしょうが・・・。
知識は教えるか調べるかしかありませんが、一方的に与え続けても、子どもは吸収しきれないのです。「与える」という発想から「獲得させる」へと変えていく必要があります。
資料の使い方も、教師の説明を裏付けるために使う(悪く言えば教師の正当性を主張する)のではなく、子どもが興味を持ち調べるきっかけとして資料を使ってほしいのです。資料を絞り、子どもが気づいたことの根拠を教科書や資料集から見つけさせ、その根拠を子ども同士で共有する。そういう進め方をすることで、子どもが自然に知識を獲得できることをアドバイスしました。

いったん休憩を入れて、子どもたちに考えさせる場面から再開しました。まず、一人ひとりがワークシートに日露戦争に点数をつけて、その理由を書きます。その後グループで自分の考えを出し合って、グループとして点数をつけました。個人作業のとき、評価は90点で、その理由は日本よりも軍事力のあるロシアに勝ったからと、すぐに書きあげて時間をもてあましている子ども役がいました。しかし、授業者はそのことに気づきませんでした。個人作業では、早く終わった子への指示、手のつかない子への支援が大切ですが、なかなか全体を見ることができません。90点をつけた子ども役には、満点に足りない10点は何かを問いかけるなどの働きかけがほしかったところです。
グループでの活動は、先ほどまでとは打って変わって、どの子ども役も明るい表情で体を寄せ合って話していました。各グループの発表はとても面白い結果になっていました。高い点数、低い点数、半分くらい、極めつけは一つに決められないと、実に大きく分かれました。ここからが楽しみです。各グループにその理由を聞いていきます。「不平等条約の是正につながった」という、授業者が説明しなかったことを理由に挙げるグループもあります。視点や立場によって変わるから一つに決められないという意見も出ました。授業者はそれぞれの考えを受容し認めたのですが、いろいろな考えがあっていいとつなぐことをしませんでした。日露戦争の前と後で世界の目に映る日本とロシアの大きさが逆転したという絵で外部からの評価を示し、最後に感想を書いて終わりました。

互いのつけた点数の理由を理解し合い、その上でもう一度つけ直すことでより考えが深まったはずです。
根拠とした理由を資料で全員が確認し、その上でそのことをどう評価するかをたずねることで子ども同士がつながっていくはずです。
また、グループで点数を決めるのではなく、話し合ったあとで個人の点数を決める。全体での場では、最初は何点をつけて、最後は何点にしたのか、どうして変わったのかを聞く。そのような進め方もあります。
点数のつけ方も、50点を基準に、理由ごとにプラス何点、マイナス何点とさせることで、同じ理由に対してその点数の違いを話題にすることもできます。
子どもの考えを活かし、深めるための手立てはたくさんあるはずです。このことを話させていただきました。

また、教科書は欄外に、与謝野晶子の君死にたもうことなかれと植民地の説明が載せられています。これは、日露戦争を内と外から見るという視点を与える意図があります。このことにも気づいていれば、点をつけるときの視点ももっと明確にすることができたと思います。

今回は時間がないため先生方にグループでこの模擬授業を振り返っていただく時間があまりとれませんでした。しかし、資料から出発して子どもに調べさせるとよい、社会科の難しさがわかったといったよい言葉をたくさん聞くことができました。グループでの話し合いの後、「どんなことを話し合ったか聞かせてください」とたずねたのですが、みなさん、「○○先生が言ったことですが、・・・」と自然にだれの発言だったかも伝えてくれました。教師の問いかけ方によって、子ども同士がつながっていくことにも気づいていただけたと思います。

終了後授業者と話をしました。子どもたちの関係がよく、学級経営がうまくいっているが故にかえって授業で気づけないことがあります。今回の研修を、授業で大切なことを何かもう一度考え直すきっかけにしてほしいことを伝えました。2学期から授業を変えていくことで当日までにきっと子どもも変化してくることと思います。どんな子どもたちの姿を見ることができるか楽しみです。明るく前向きな先生です。研修の世話役の先生が、あえて彼を指名した理由もよくわかりました。同じ教科であることもあり、自分の体験を例にアドバイスをする姿から、彼に大きく飛躍してほしいという思いがひしひしと伝わってきます。このような場面に立ち会えることは幸せなことです。
何人かの参加者から、「楽しかった」という言葉を聞くことができました。「勉強になった」ではなく「楽しかった」という言葉であったことを講師としてはうれしく思います。
次回に対する期待はいやがうえでも高まります。きっと素晴らしい研修になることと思います。

授業に「まくら」は必要か?

若い先生の授業を見ると、導入の場面で子どもの興味を引くためにおもしろい話をして教室のテンションを上げていることがよくあります。しかも、その話が学習内容と直接関係ないことも多いのです。根拠を求めないクイズなどもよく見かけます。落語でいうところの「まくら」のようなものです。授業に「まくら」は必要なのでしょうか? なぜ授業で「まくら」が必要だと思うのでしょうか。

一つは彼らの経験上、授業で印象に残っているのがそういう学習内容には直接関係ないがおもしろい話だったからではないでしょうか。先日かつての教え子と私の授業の話になったとき、彼女たちが一番覚えていたのは教科と関係ない無駄話のことでした。ひどい授業をしていたのだと思い知らされました。恥ずかしいことです。
楽しい授業にしたいと思った時に思い出すのがそのような場面のために、どうしてもそこに引っ張られてしまうのでしょう。学習内容で楽しいと思わせる授業を経験させていない私たちにも責任があるようです。

もう一つは、彼らが受け手になる、学ぶ立場になる講演や公開授業、飛び込み授業などでは必ずと言っていいほど「まくら」があることです。そのため、「まくら」は授業に必要なものだと思ってしまうのです。
講演などで「まくら」が必要なのはまず互いに初対面だからです。当然どうしても緊張関係にありますから、それをほぐすために笑いが必要になってくるのです。また、場を温めると同時にその反応から、失礼な言い方ですが聞き手のレベルを探ります。飛び込み授業であれば、子どもたちがどのくらい鍛えられているかをチェックします。ちょっとしたクイズで緊張をほぐし、その時の反応、挙手・発言の様子や内容などから日ごろどのように授業を受けているかを知り、必要に応じて自分の授業のルールを伝えたりもします。たとえ自分の学級であっても、大勢の参観者がいるときは子どもたちが緊張しますので、こういった「まくら」が必要になるのです。

新しい環境への導入、たとえば学級開きや4月の初めての教科の授業、こういう場面では「まくら」はとても大切です。最初の人間関係をつくるには、笑いなどで緊張をほぐし、互いを知ることはとても効果的です。しかし人間関係ができれば、授業の導入で無駄にテンションを上げる必要はありません(授業の導入を考える参照)。もちろん授業の内容につながることに興味関心を持たせる話や笑いを否定しているわけではありませんが・・・。

「協同の学びをつくる ‐幼児教育から大学まで‐」から学ぶ

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いつも多くのことを学ばせていただいている、愛知文教大学人文学部教授の副島孝先生(前小牧市教育長)が著者に名を連ねる「協同の学びをつくる ‐幼児教育から大学まで‐」を読ませていただきました。8人の方が著者に名を連ねていることからも想像がつきますが、幼児教育から大学までの広い範囲をそれぞれ異なった立場・視点で書かれたユニークな本です。

読者の立場で言えば、最初のうちはどこへ行くのかわからないままあちらこちらに振り回されている感じがして読み辛いのですが、何かまとまったメッセージを受け取ろうとするのではなく、それぞれの章から参考になるものを拾っていこうという気持ちで読むと学ぶことがたくさんあります。私にとっては、日ごろ接することの少ない幼児教育や大学での試みがとても勉強になりました。
幼児教育では環境(どんな道具や教具を用意するか、どこに置いておくか etc.)を工夫することで子どもたちの学びを生み出すということはよく聞いていましたが、それにプラスする教師のかかわり方が幼児教育以外でも十分通用するものだと思いました。たとえ言葉がまだ拙い幼児でも教師が予断を持たずにその声をしっかり聞いて対応を考えているということを知り、教師の基本は「聞くこと」だと再確認できました。
また、大学でも教師と学生、学生同士のかかわりを大切にした授業に挑戦されていて、制約のある中でも工夫することで、協同的な学びを生み出していることを知りました。その手法は、小中と比べて制約の多い高校でも使えるもので、なるほどと思わせるものです。

この本は手作り感が強く(悪く言えば、校正ミスや編集の未熟さが目立つ)、各章ごとのばらつきも大きいのですが、協同的な学び(協同の学び)に取り組むもうとしている方には、小さなヒントがたくさん手に入るのではないかと思います。日ごろ自分が目にしない世界にも学ぶことがたくさんあることに気づけるだけでも読む価値があると思います。

夏休みをいただきます

今週いっぱい夏休みをいただきます。
日記もお休みさせていただき、20日(月)より再開します。
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