地域の方と教師のかかわり方を考える

先日、私が学校評議員を務めている中学校のおやじの会の忘年会に呼んでいただけました。校長、元校長と同じように声をかけていただけることを大変うれしく思います。

おやじの会の方々と出会ってもう9年になります。皆さんの活動から地域と学校がどうかかわっていけばよいのかを日々学ばせていただいています。子どもたちのために多くの時間を割いている方々です。地域の子どもたちの成長を願っているからこそ、学校に対して温かい目と厳しい目を持っておられます。同じ子どもたちの姿を見ても教師とは異なったことを感じられます。その感じたことをまっすぐに伝えてくれる方々です。自分の子どもが学校にお世話になっている保護者は、なかなか本音のところを表に出すことができません。また、子どもが卒業してしまえば学校とはかかわりを持たなくなる方がほとんどです。自分の子どもが卒業しても地域として学校とかかわり続けることは、なかなかできることではありません。だからこそ、先生方には厳しい意見でもまずは受け止めてほしいのです。お二人の校長はその大切さをわかっておられるからこそ、こうして参加されるのです。

しかし、一般の先生方が地域の方の視点を受け入れることはそれほど簡単ではないようです。教師は教室では自分のやり方で動けます。自分の考え方と違うものを受け入れる風土があまりないのです。自分たちの価値観とずれることに対して、なかなか素直に受け止めることができません。そのため、子どもの引率の手伝いなど、自分たちがイニシアティブをとれる活動に地域が協力する形であればそれほど抵抗感がないのですが、同等の立場で協働するとなると抵抗感が増すのです。特に子どもと直接かかわることに対しては、自分たちがプロであるというプライドが邪魔をして、地域の方の子どもへのかかわり方を批判的に見てしまうのです。

教師は全員ができることを強く意識します。地域との行事で積極的に参加しない子ども、まじめに取り組まない子どもがいると、そのことがとても気になります。一部の子どもしか活躍しないものに対して否定的です。一方地域の方は、自分たちとかかわりあう子どもたちの成長に大きな喜びを感じます。たとえ数が少なくても、子どもの成長に役立てたということはとても素晴らしいことなのです。
同じ行事での子どもの姿を見ても、一方は子どもたちがきちんと参加できていないと否定的にとらえ、他方は子どもたちが頑張ったと肯定的にとらえることになります。そのため、互いの意見を受け入れがたく感じるのです。

地域の人とかかわることでしかできない子どもたちの成長があるはずです。たとえ全員でなくても、教師だけでは生み出せない新たな学び・成長をする子どもがいることを、教師が素直に認めることが必要だと思います。その上で、その数を増やすためにどうかかわるかが、教育のプロとして問われるのです。地域の方も、子どもたちがどのような成長をしてくれたのかを自分の言葉で伝え、成長の輪をどのようにして広げればよいのかを教師とともに考える姿勢を見せてほしいと思います。
互いの視点の違いを否定的とらえるのではなく、謙虚にその視点も取り入れることでよりよいものにしていく姿勢が大切なのです。

子どもたちの成長を心から喜び、その輪をどのように広げようか熱く語ってくれるおやじの会の方々です。この日も楽しくお話ししながら、地域と学校・教師のかかわり方についてたくさんのことを学ばせていただきました。このような方々と出会え、楽しい時間を過ごせる機会を得ている幸せを感じた日でした。

中学校で授業アドバイス

昨日は中学校で数学の授業アドバイスをおこなってきました。2年生の外角の和です。

授業者は子どもをつなごうとはしていますが、つながったかどうかは意識していませんでした。子どもに説明させた後、正解かどうかを言わずに「これでいい?」「納得した人?」と問い返します。よい対応ですが、「いい」という声や子どもたちの挙手が有れば、それで次に進めてしまいます。これでは1問1答と同じことです。問い返すだけでは子どもがつながってはいきません。他の子どもを何人か指名して確認する。手が挙がらなかった子どもに納得できないことや困っていることをたずね、困っていることを共有して解決する。つながっているかを確認し、つなげるための次の手立てが必要になります。
友だちの説明に納得した子どもを指名して、もう一度説明させる場面がありました。指名された子どもは怪訝な表情で「同じことだけど・・・」ともう一度説明することに納得できないようすでした。「自分はわかったからいい」「わからないからダメだ」。そんな価値観が教室の中にあるように感じます。自分の説明で友だちに納得してもらう。友だちの発言を聞いてわかる。授業の中でこういう経験を積み重ね、一人ひとりが自己有用感を持つことが大切です。何を評価するかを意識して、子どもたちの価値観を変えていくことが求められます。「○○さんの説明でわかった人がこんなに増えたね」と正解したことではなく、友だちにわかってもらえたことを評価する。「○○さんの説明で納得したんだ。いいね。じゃあ、あなたの言葉でもういちど説明してくれるかな」と友だちの説明を聞いてわかったことを評価し活躍の場面を与える。こういう働きかけが必要になるのです。

三角形の外角の和が180°になることの説明を少し考えさせた後、「ひらめいた人いる?」とたずねました。パラパラと手が挙がりました。そこで授業者は「ひらめかなった人にはヒントをあげる」と説明を始めました。どうでしょう。数学はひらめかなければ解けない教科なのでしょうか。中学や高校の数学でひらめかなければ解けないような問題はまずありません。解くための考え方をきちんと身につければ、解けるようになるはずです。この場面であれば、「外角ってなんだっけ?」「今、外角についてわかっていることは何?」「三角形ついてどんなことを知っている?」「何が言えればいいんだっけ?」と子どもたち問いかけることで、既習の知識を整理し、それをもとに演繹的に考え、結論にたどりつくような活動が求められます。この他にも、帰納的に考えることや今までに使った考え方をもとに解いていくなど場面に応じた経験を積んでいくことが必要になります。解くための方法、アプローチを意識して課題に取り組ませることで数学的な思考力を身につけさせることが大切です。子どもたちに、「ひらめかなければ解けない」と感じさせるのではなく、「考え方を身につければ解けるのだ」と実感させるようにしてほしいと思います。
そのためには、ノートや板書に思考の過程が残るようにすることも大切です。なぜ最初にこのような式が出てきたのか、なぜ内角の和をここで考えるのかといったことが書かれていなければ、後から思考をたどることができません。残念ながら板書にも子どもたちのノートにも結論・結果だけで思考の過程は残っていませんでした。これも課題です。

ほとんどの子どもがわかったと手を挙げた後、「だいたい大丈夫そうだね」と練習問題に取り組む場面がありました。授業者は手の挙がらなかった子どもは机間指導でフォローするつもりだったそうですが、そのことを子どもには伝えていません。これでは、手の挙がらなかった子どもは、自分は見捨てられたと思ってしまいます。
最後の確認場面で、低位の子どもを指名しました。何人か同じような問題を答えた後なのできっと大丈夫と思ってのことです。ところが、答えることができません。そこで、「助けてくれる」と他の子どもとつなごうとしました。ところが、代わりの子どもが答えを言って終わってしまったのです。これでは助けたことになりません。肝心の応えられなかった子どもの状況は何も変わっていないのです。本人が自分で答えることが大切です。そうすることで初めて助けてもらったといえるのです。「ちゃんと聞いて答えてくれたね。ありがとう。助けてもらってよかったね」「助けてくれてありがとう」と2人をほめることもできるのです。
次の手立てがなかったり、おかしかったりしたため、結果として授業者の意図は達成できなかったのです。

子ども同士をつなごう、多くの子どもを活躍させたい。目指すところは決して間違っていません。しかし、そのための技術を断片的にしか理解していないために、結果はおかしなことになってしまっています。
授業後、一つひとつの場面を例に、できるだけ具体的に説明しました。真剣にかつ素直に聞いてくれました。とてもよい姿勢でした。一度に大きく変わることは難しいことです。時間はかかるかもしれませんが、どこか一つの場面でも変えることができれば、それをきっかけに変化していくことと思います。この日の授業がきっかけとなってよい方向へ変化してくれることを期待します。

数学(統計)で大切にしたい活動

新しい指導要領では、資料の活用の領域で統計に関することが増えています。大切にしてほしいのが、できるだけ具体的な例で、統計の持つ意味を考えるような活動です。

離散量のデータから度数分布を作る活動を考えてみましょう。階級の幅を変えるだけで見え方が変わります。意図的に幅を操作することで、資料から受ける印象を変えることができます。もちろん度数分布表やグラフにすることで気づくこともたくさんあります。表・グラフを作る作業や計算だけでなく、その結果から何を読み取るかという活動を大切にしてほしいと思います。

代表値では、一般的に平均が重要視されています。しかし、平均はデータの一面しか表しません。平均の近くにはデータが存在しなかったり、ほとんどのデータが平均以下だったりすることはよくあります。同じ値を平均に持つ資料でも、その分布の様子が驚くほど異なることも珍しくありません。最頻値(モード)や中央値(メディアン)といった他の代表値でも同様です。それぞれが持つ意味や特徴を理解するような活動が必要になります。いくつかの代表値から他の代表値(たとえば平均と中央値から最頻値)を予想する。代表値がどの度数分布のものか考える。度数分布をもとに代表値を予想する。代表値を使って資料の特徴を説明する。このような活動が求められます。

標本調査で大切なことは、母集団の傾向を知るためには、母集団の数に対してそれほど多くの標本数が必要ないこと、無作為抽出であることです。前者の論理的な裏付けは中学では難しいので、疑似的に標本調査をすることで実感してもらうしかありません。そこで威力を発揮するのがコンピュータです。膨大な数のデータを扱うことができるので、標本数をいろいろ変えて疑似的に調査をすることができます。その結果から、標本数とその精度の関係に気づくことができるはずです。
無作為抽出に関していえば、無作為であることの大切さを実感させる必要があるでしょう。最近ではインターネットでの標本調査が増えています。その場合、インターネットを使った調査であることを明記するのが常識化しています。インターネットの利用は世代差が大きいからです。選挙や政治関する調査は電話を利用したものが多いのですが、これも「電話を利用した」無作為抽出であることをことわっています。調査の電話に出ることのできる人は、ある傾向を持っている可能性があるからです。身近なところでは、子どもの言う「みんな」です。「みんな○○している」といっても、「だれが」と聞けば自分に都合のいい友だちの名前しかあがりません。これなどは無作為でない典型ですね。標本調査では、その調査方法を必ず明確にする必要性があることを実感させてほしいと思います。

統計は数学の中でも特に身近に感じることできる領域です。できるだけ、現実感のある、実生活と結びつくような活動を意識してほしいと思います。

伸びる先生の条件(その2)

以前に伸びる先生の条件として、「素直」「謙虚」「向上心」が大切だと書きました。どうもそれとはすこし違う要素もありそうです。このことについて少し書きたいと思います。

人の話を素直に聞くのですが、その割には全く変わらない若い先生が増えてきたように感じます。話をメモし、内容をきちんとまとめてもくれます。次はどのように変わっているのか期待するのですが、ほとんど変化がありません。もちろん、指摘されたことをしっかり意識して取り組み、急速の成長を遂げる方もいます。一見して両者の違いが判らないのです。

どうも、前者の方は、

・指摘されたことが理解・納得できないが、取り敢えず聞いておく。
・そもそも、自分の授業に問題を感じていない。

ということではないかと想像しています。というのも、あとから思うと、伸びる方は私の指摘に対してより具体的な質問をしたり、自分の困っていることに関して相談をしてくれたりします。「そうか、そういうやり方があるのか」といった言葉が聞かれます。話の中から自分の課題の答を見つけようとしているのです。それに比べて、変わらない方は、黙って素直に話を聞いているのですが、反応が薄いように感じます。「向上心」がないのとは違うように思います。目指す授業の姿がはっきりしていないというか、授業はこんなものだと勝手に思っているような風があるのです。自分の授業に問題を感じていないのですから、これは変わるはずがありません。彼らがよい授業を受けてこなかったことが一つの原因かもしれません。そうであればよい授業を見せるのが一つの答えになります。私ができるだけたくさん授業を見せようとする理由の一つがこれです。あこがれるような名人に出会ったり、理想とする授業をイメージできるようになったりすれば変わるはずです。

とはいえ、私が魅力的に思える授業を見せても、これまた反応が薄い方もいます。こうなると実はお手上げです。目指す授業というものが根本的に違っているのかもしれません。悪い言い方ですが、授業で自分が必要と思うことを話せば責任は果たした。そう考えているようにも見えます。あまりしたくないことですが、彼らの授業がなぜいけないのかを厳しく話すことがあります。中には、口には出さないけれど、なぜそこまで言われなければならないのかと思っている方もいます。ほかの先生だって似たようなものだと思っている節もあります。見る目がまだないので、子どものようすや授業の違いもよくわかっていないのです。
厳しく言うことも、嫌われても困らない外部の人間である私の仕事だと思っています。しかし、効果がなければ何の意味もありません。内部の方のフォローがあって、初めて効果も期待できます。フォローを信じているかこそできることです。

どういう教師を目指すか、何も求めて教師になったのか。原点というべきものがしっかりしていなければ、何も始まりません。ここがしっかりしていれば、必ず成長していきます。逆にここを育てることが一番難しいことなのかもしれません。彼らを囲む先生方が、それぞれの目指す教師像や授業像を伝え続けるしか方法はないようにも思います。私自身、まだまだ手探りの状態が続いています。

活動の目指すものを意識して時間を使う

授業を見ていて、なぜ今この活動をしているのか、この活動に時間をかける意味はあるのだろうかと疑問に感じることがあります。限られた授業時間です。その授業で最も大切だと考えることに時間を使ってほしいと思います。そのためには、一つひとつの活動の目指すところを意識して、適切な時間の使い方をする必要があります。このことについて少し考えてみたいと思います。

たとえば、復習で子どもたちに確認する場面を考えましょう。すぐに手が挙がらないときは、思い出したり考えたりする時間をとるべきなのでしょうか。時間をとれば思い出せるとは限りません。考えるわけでもありません。教師や友だちから答がでるのを待っているだけなのかもしれません。答がわかっているが手を挙げないだけかもしれません。子どもが教科書やノートを調べようとしないのなら、待つ必要はありません。挙手していない子どもを指名するか、教科書やノートを調べるように促すかして、早く子どもを動かします。まわりと相談させてもいいでしょう。復習場面で考えさせることが必要であることはあまりありません。であれば、待つことにあまり意味はないのです(授業の導入を考える参照)。

資料や教科書の記述を探すことを考えましょう。見つける過程が大切な活動であれば、時間をかける必要があります。できるだけじっくり探させ、見つけた内容を問うことより、どのようにして見つけたかを聞くことも必要になります。早く見つけてその内容をもとに考えることが大切であれば、見つけることに時間をかける必要はありません。見つけたらまわりと確認するように指示したりして、早く全員がその記述に出会えるようにします(資料集をどう活用する参照)。

友だち同士が相談する場面でも注意が必要です。根拠をもとに話しているのであればいいのですが、単に答を見せ合ったり、確認したりするだけの場面であれば時間を多くかける必要はありません。テンションが上がっているようであれば、無責任な会話になっている証拠です。話が終わっていなくても問題はありません。すぐに活動を止めて先に進めばいいのです。逆に、子ども同士がかかわりながら考えを深めているような場面であれば、できるだけ時間をとりたいものです。たとえかかわりあっていないように見えても、個人が深く考えているような場面はとても大切な時間です。しかし、行き詰って手がつかなくなっているのなら無駄な時間です。いったん活動を止めて、全体で見通しを持つ時間をつくる必要があります。
これは、問題を解いているときも同様です。できていないからと余分に時間を与えても、見通しがなければ思考は止まったままです。時間を与えれば解けるわけではありません。次の指示を出していなければ、できた子どもにとってもムダな時間です(時間を与えることの意味参照)。
グループ活動後の発表でも、形式的に全部のグループに順番に発表させるのではなく、考えを共有したり、異なる考えに出会って考えを深めたりすることを優先してほしいと思います(グループ活動の後の発表参照)。

友だちと相談させるにはこのくらいの時間を与えよう。グループ活動はこのくらい、発表はこれくらいとあらかじめ決めておくことは大切です。しかし、それぞれの活動で目指すものを意識していなければ、漫然と活動するだけでムダな時間となってしまうことも多くあります。子どもの実態を把握し、目指す姿とのずれを修正し、ムダな時間を削り、大切な活動により多くの時間を使うよう意識して授業に臨んでほしいと思います。
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31