意欲・関心を練習量で評価する?

相対評価から絶対評価に移行したころから、子どもの意欲・関心を練習量で評価することが増えてきたように聞きます。たとえば、漢字の練習を何回やったか、算数の計算ドリルを何回やったか、その量で評価をするのです。確かにたくさん練習をする子どもは意欲があると言えるのですが、本当にそれでよいのでしょうか?

練習は何のためにするのでしょうか。もちろん、定着のためです。その目的を忘れて手段のみに目をうばわれてしまうと本末転倒です。往々にして、すでに定着している子どもほどたくさん練習をするというおかしなことになってしまいます。漢字をしっかり覚えた子どもがその漢字を何回も練習することや、計算ができる子どもが同じ計算を何回もやるのは無駄な努力です。そんなことより、新しい漢字を覚えたり、新しい問題に挑戦したりする方が意味があります。一方、定着していない子どもは、練習量だけを評価すると何回書いたから、やったから勉強したと考えるようになってしまいます。結果を問わない姿勢では学力はつきません。練習量はあくまでも手段の評価でしかないことを忘れてはいけません。

目標へ向かっての結果と到達するための手段を明確にし、個人の進歩を意識する必要があります。たとえば、漢字は今まで学習したことで試験をしなければいけないということはありません。ちょっと手間かもしれませんが、あらかじめ漢字の出題範囲をいくつかに分け、範囲ごとに小テストをつくっておき、合格すれば次のテストに挑戦するという方法もあります。小テストに合格していくことが目標になります。そして、そのためにどれだけ練習したか残させるのです。意欲・関心はどの漢字を練習したかにかかわらず、練習量で評価することができます。また、合格した絶対数は少なくても、2学期は1学期よりたくさん合格したのであれば、個人内の進歩は評価できます。このことを意欲・関心として評価してもよいのです。個人内相対評価は絶対評価と違うと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、伸びたということは意欲・関心があると考えてよいはずです。
算数であれば、たとえば一定時間にどれだけできたかの数を目標にすることと、ドリルの練習量を連動させることで同じように評価できると思います。

教科にかかわらず、子どもたちが進歩を実感できるような目標とその達成のための手段・方法を明確にして子どもたち提示することが大切です。結果につながる努力は子どもたちの意欲を高めることにつながります。結果と手段の双方を常に評価することが大切です。評価のための評価でなく、子どもたちが成長するための評価を意識し、工夫してほしいと思います。

野口芳宏先生から学ぶ

本年度第4回の教師力アップセミナーは、野口芳宏先生の講演でした。11年連続のご登壇です。一本筋の通ったぶれないお話の中に、毎年新しい気づき、学びがあります。

午前の講演は具体的な教材をもとに、教材内容と教科内容、子どもの向上的変容、学力形成の判定などについてお話しされました。聴衆に若い先生が増えたことをお伝えしたせいでしょうか、いつも以上にわかりやすい例をもとにお話しいただけました。

国語の授業では教材文を通じてどんな国語の力をつけるのかが問われますが、そのことを算数の足し算の例をもとに、教材内容、教科内容という言葉を使って説明されました。野口先生は短い言葉(用語)で端的に表すことで、考え方や概念をとてもすっきりと明確にされます。算数・数学で、用語を定義し概念を明確にしていくことと同じです。国語の授業は算数・数学と同様に論理的でなければいけないという私の思いを見事に具現化していただけるのが野口先生です。

学力形成の判定を次のように整理されました。

1 入手・獲得
2 訂正・修正
3 深化・統合
4 上達・進歩
5 反復・定着
6 活用・応用

教師がこの言葉を意識し、授業の各場面を評価することで、間違いなく子どもたちに力がつくと思います。

かな表記を漢字に変え読字力をつける。「姿を変える」を「変身」と言い換えることにより抽象度を高め、思考力のもととなる語彙を増やす。ともすれば、できるだけやさしく言い換えよう、わかりやすく説明しようとしがちな私たちに対して、学力形成のためにはチャンスを活かして子どもを鍛えるという姿勢とその具体的な方法にはとても説得力があります。子どもたちを「鍛える」者としての教師のありようを常に具体的に示していただけます。

午後の最初は、2年目の教師の道徳の授業ビデオをもとに会場の方と学び合おうというものでした。授業のハイライトシーンを視聴後まわりと話し合っていただき、その意見を全体で共有しました。指名された方はどなたも授業をポジティブに評価され、その上で自分なりの考えや改善案を具体的に話されました。参加者のレベルの高さがうかがえます。
最後に野口先生にコメントをいただきました。まず、ビデオで省略されていた最後の説話を聞かせてくれというリクエストです。授業者の学生時代の体験の話でした。そのあと、参加者に授業ビデオと今の説話のどちらがよかったかを問いました。圧倒的に説話です。それを受けて、授業ビデオの部分は職業的に話していた。一方説話は私的な話だ。表情も違う。教育には2つの側面がある。伝達と感化だ。伝達は忘れさられ剥がれていくが、感化は内面化され消えていかない。こう話されました。
まいりました。いかに伝えるか、理解させるか、そのためのスキルをどうするか。私のアドバイスも、まず目先の授業を改善するためにこういった話になりがちです。感化するとは、そういった技術の問題ではなく教師自身の在り方、内面の問題です。ここに踏み込むことは、相手に迫ることであり、それと同時に自分自身もどうであるか問われることです。それを臆することなく言う、求めることができる野口先生のすごさに圧倒されます。私のしているアドバイスが野口先生の前では薄っぺらなものに思えてきます。もちろん、私とて教師の根本部分を問うことをしないわけではありません。しかし、野口先生のように自らのありようを持って示せているかというと、とても比らぶべくもありません。またひとつ大切なことを教わった気がします。

最後の講演は、皇室についての考えをお話しされました。色々と異論のある微妙な問題ですが、臆することなく自らの考えを伝える姿勢には背筋が伸びます。講演後、先生のお話の中で私の知識とずれていたことに関してお話しさせていただきましたが、しっかりと聞く耳を持っていただけました。謙虚な姿勢には頭が下がります。

この日、一聴衆として野口先生の話に引き込まれていたのですが、その理由を考えてみました。たとえば、私が講演をするときは自分のリズムやテンポに聴衆を合わせようと意図的に声の大きさや間をコントロールします。動的です。それに対して野口先生にはそういう意図的な動きは全く感じられません。実に自然に話されるのですが、いつの間にか引き込まれているのです。目の動きは自然に聴衆のようすを追っています。聞き手が話を飲み込めた、どういうことだろうと興味・関心を持った、その瞬間に次の言葉が発せられるのです。野口先生にこのことをお聞きしても、意識はされていないそうです。当り前のように相手に合わすことができているのです。名人の名人たる所以です。

今回も野口先生から多くのことを学ぶことができました。そばにいて同じ空気を吸っているだけでも何か学べる気がします。感化力のある方とはこういうものなのでしょう。ありがたいことに、来年のお約束もいただけました。次回お会いする時が今から楽しみです。

中学校の授業研究でアドバイス

昨日は中学校で、数学の授業研究のアドバイスをしてきました。今回は、若手の先生3人に子どもたちのようすから何がわかるかを解説しながら授業を見学しました。

TTでおこなわれた、1年生の1元1次方程式の活用の最初の時間でした。T1は以前と比べてずいぶん柔らかい雰囲気をつくることができるようになっていました。そのせいか、子どもたちは授業者ととてもよい関係で、実に素直に自分たちの気持ちを態度で表現していました。おかげで、子どもたちの動きから授業の課題が明確になってきます。学ぶことの多い授業でした。

最初に小テストで方程式の解き方を確認します。すぐに全員が集中していたのですが、できた子どもたちは、何もすることがないので集中を切らしていました。落ち着いていてじっと待っていますが、何かを考えているわけではありません。手遊びを始めている子もいます。テスト形式にこだわると、このような弊害があります。そのデメリットを越えるメリットがないのであれば、テスト形式にこだわらず、まわりと相談したり確認し合ったりを許す、練習問題形式の方がよいように思います。
答え合わせは、式の変形の1行ごとを子どもに言わせるのですが、残念ながら子どもたちは発表者の方を見ません。子どもたちの関係はできているのですが、発表をすぐに授業者が板書するので、そちらの方がわかりやすいからです。また、変形の結果だけを問われているので、友だちの言葉を聞く必然性もあまりありません。子どもたちは自分にとって聞く価値のあるものしか聞かないのです。なぜ先にカッコを外すのか、なぜ同類項をまとめるかといった、一つひとつの手順の意味、価値を問うといったことをしなければ、教師の板書を写せば済むのです。逆に手順の確認だけであれば。早いテンポで進めないと、考える必要の無いところで無意味に時間が消費されます。

最初の課題は、3か所穴のあいたレシートから、買った商品の単価を求めるというものでした。教科書の例題は同様のレシートから、問題を文章化してそれを解くというものです。この例題の前にまずこの課題に挑戦するという流れです。
子どもたちは、黒板に貼られたレシートを見て大いに興味を持ちます。集中力が上がりました。授業者が黒板にリンゴ1個の値段を求めようと書くと、全員が集中して写していました。課題は写すというルールがある意味徹底しているのでしょう。

「こういう問題を解くときに最初に何をする」という問いかけで「図を書く」を子どもから引き出しました。先ず図を書いて問題把握をするということです。ここで図を授業者が書きました。今度は子どもたちの動きはバラバラでした。授業者が書くリンゴの絵を1つずつ写す生徒、じっと図を見ながら切りのいいところで写す生徒、写さずにじっと図を見ている生徒、実に様々です。
この場面は図を写すことにはあまり意味はありません。そもそも図を書くことが最初の一手であれば、自分で書けなければ問題を解くことができないわけです。であれば、自分で図が書けることの方が大切になります。この場面の扱いはもう少し変わったものになるはずです。
教科書の例題がレシートと文章から構成されていることの意味をもう少し考えるべきだったのかもしれません。レシートは実は表構造になっています。教科書は文章と表を行き来することで問題を把握したり、その構造を理解させたりすることを意識しています。この文章題を解くには図よりもレシートの方が整理されていてわかりやすかったはずです。レシートだけで問題を考えるのであれば、あえて図に頼らない方がよかったのです。また、穴が3つあるのに単価をだけを問うことは唐突です。「3つの穴をどうやって埋めよう」とレシートから何がわかるかを考えさせた方が課題としては自然だったように思います。

子どもたちに、ペアで解き方を考えさせたとき、うまくかかわれているペアと2人ともお手上げで話し合えないペアに分かれました。さっさと解決したペアは手持ちぶさたです。ペア活動は逃げられない関係です。ペアにこだわる必然がないのであれば、まわりと相談させた方が、活動が停滞しにくくなります。

子どもたちの考えを発表させていく中で突然xを使った方程式が出てきました。塾等で予習している子どもは、前の発言と関係なしにいきなり本命の方程式を発表してしまう可能性があります。授業者としては前の発言につないでくれると思っていたのですが予想外だったようです。ここで、方程式の「6xがわかる人」と聞いてしまいました。ここで「わかる」と聞いてしまったので、「わからなければいけない」「わからないとダメ」という負の感情が起きてしまいます。突然で理解出なかった子どもは、ここから心理的についていけなくなります。一方、わかっている子にとってはもう聞く必要のないことです。うまく子ども同士をつなぐことができなくなって、テンポが悪くなってしまいました。「わかった人」ではなく「困っている人」と問いかけ、「困っている人」を「わかった人」が助けるようにして進めていくとつながっていったと思います。

授業者は予定した次の例題にいくことをあきらめ、立式の説明が終わった後、少し時間をかけて方程式を解かせました。今回の授業は立式できることがねらいなので、方程式を解くことはいったん止めるか、全体ですぐに解いて、次の例題に移るという判断もあったと思います。

授業検討会は、司会者がどうすればより学びの多いものになるか色々と試行錯誤していることがよくわかりました。各グループの発表をつなげる工夫から、ふだんの授業でもうまく子どもをつないでいることが伝わってきます。
今回、授業が予定した流れの通りに進まなかったこともあり、先生方の話し合いは、教材部分にかなり深入りしていました。そんな中でも、子どもたちが集中した場面とその理由は何か、子どもたちに聞くのか板書を写すのかどちらを求めるのか、ペア活動でかかわれなかった子どもたちにどういう支援をすればよかったのか、全体での場では自分たちの言葉ではなく、教科書の記述のようなかたい言葉で話そうとするためなかなか気軽に話せないといった、子どもの動きに関することがたくさんでてきたことは、日ごろの授業で子どもを大切にしていることの現れです。先生方のレベルの高さがうかがえます。

子どもたちに「わかった」と聞かないこと、「困ったこと」を聞いて困り感を共有することが安心して話せる授業につながるなど、時間の中でできるだけアドバイスさせていただきました。

授業後、授業者2人と話をさせていただきました。私が指摘するまでもなくT1の授業者はこの授業の課題に気づいていました。しっかり成長しています。ただ、うまく対応できずに修正できなかったのです。これからは受けの技術を磨いていく必要があります。そのためには、子どもの視点で教材や発問を見るということが大切です。子どもはどこでつまずくだろうか、何が壁になるだろうか、発問に対してどのようなことを考えるだろうか。こういったことを事前にしっかり考えることが教師の引き出しを増やし、受けの技術につながっていくのです。また、教科書の記述の意味をしっかりと考えておくことも大切です。もう一度教科の内容をしっかり勉強し直す時であることも伝えました。
もう一つ伝えたのが、できる子どもが退屈しだしていることの危険性です。学級を崩すのは、大抵はこういう子どもたちです。今は人間関係がよいので大きな心配はありませんが、一つ崩れだすと一気に崩壊する危険性もあります。より高い課題に挑戦し、できる子どもと困っている子どもをつなぎながら、一人ひとりが進歩していくような授業を目指してほしいとお話しました。
何年にもわたってつきあってきた先生です。着実に進歩していることをとてもうれしく思いました。これからの課題は、時間をかけてクリアしていくものです。休まずに一歩ずつ前進してほしいと思います。

研修を担当している教務主任が、先生方のよりよい学びを常に目指していることが色々な場面で伝わってきます。自分のなすべきことを常に意識しているその姿は、他の先生方にきっとよい影響を与えてくれることと思います。この日も本当に学びの多い1日でした。先生方に感謝です。

グループ活動の後の発表

グループでの活動は集中していたのに、全体での発表になると子どもたちの集中力が切れることがあります。最初はしっかり聞いていたのに、次第に集中力がなくなる。自分たちのグループの発表が終わると、集中力が途切れてしまう。こんな場面にもよく出会います。グループ活動の後の発表はどのようにすればよいのかを考えてみたいと思います。

多くの方が、グループの代表を事前に決め(させ)て順番に発表させているようです。このとき、発表の準備をグループ全体で手伝っているところはよいのですが、発表者が一人で準備していることがよくあります。次の発表予定のグループが準備に追われ、発表を聞いていないこともあります。また、次々発表させるだけで、発表に対する子どもたちの考えを聞くこともなく、最後に教師がまとめて終わっていることもよくあります。似たような発表が続き、聞く側の集中力がなくなってしまう場面に当り前のように出会います。

私は、グループ活動では、結論を無理にグループでまとめない方がよいと思っています。みんなの助けを借りて「自分の答」を見つけることが大切だからです。また、修学旅行のグループ行動を決めるといった場合であれば、自分が行きたくないからといって拒否できませんが、課題の答であれば自分の考えを曲げてみんなに従う必要はないからです。
たとえグループで考えをまとめる必要があっても、発表者をあらかじめ指定する必要はありません。「自分たちの考えをだれかに発表してもらうからね」と、誰もが発表者となる可能性を与えた方がよいのです。グループとして発表の準備が必要であれば、だれが指名されても困らないようにみんなですればいいのです。

基本的に発表は個人への指名でおこないます。結論やその課程を聞くことになりますが、発表が終わってすぐ次の発表に移るのではなく、学級全体でその考えを共有し、評価し深めることが必要です。

「同じような答になった人(グループ)はいる」
「いるね、じゃあ○○さんの(グループの)考え聞かせてくれる」
・・・
「今のみんなの考えを聞いて納得した人(考えが変わった人)いる?」
「いるね、どこでそう考えたか聞かせてくれる」
・・・
「じゃあ、自分(たち)はちょっと違うという人(グループ)はいるかな?」
・・・・

このように、同じ考え、違った考えをつなぎながら、それぞれの考えやグループでの話し合いを共有して考えを深めていくのです。
こうすれば、各グループを順番に発表させる必要はありません。他のグループの人の発表を聞いて、「あっ、自分たちと違う。自分たちの考えを言いたい」と思った子どもも、順番を待ってイライラしなくなります。また、順番に発表するうちに前の発表が記憶から薄れ、関連する意見が出てもつながらないといったこともおこりません。
意見がつながらなくなったら、まだ発表していないグループの子どもに、「あなたたちはどんなことを話した(考えた)のか聞かせて」とたずねればいいのです。そこからまたつなぎ始めます。こうして、全部のグループの考えを引き出すのです。

また、子どもが発表するたびにその意見を板書する方もいますが、子ども同士がつながっているうちは、できれば板書を我慢して聞くことに集中させてほしいと思います。子どもたちの発表がひと段落してから板書しても遅くありません。

あらかじめ発表者を決めておかないと、指名しても答えられないと心配をする方もいますが、そんなときは、「ちょっと、グループの人、助けてあげて」と仲間に助けさせればよいのです。また、なかなか自分の意見が持てない子どもには、「みんなでどんなことを話したか聞かせてくれる」と問いかけ、「じゃあ、その中で一番納得した(なるほどと思った)意見はどれ?」と聞くことで、自分の考えを持たせるのです。そして、「なるほど、・・・が○○さんの意見(考え)だね。ちゃんと(よく)考えたね」と評価するのです。

集中してグループ活動に取り組んだあとの子どもたちは、友だちの考えを聞くことに意欲的です。その意欲を活かすためにも、順番に発表することにこだわらず、発言をつなぎながら、全体で共有し、より深く考えさせるような工夫をしてほしいと思います。

グループ活動の人数

授業にグループ活動を取り入れる先生が増えています。そのときの人数や配置について質問されることもよくあります。これが絶対に正解というものはないと思いますが、私の考えを少し述べたいと思います。

適正な人数を考えるときに、グループ活動で何をねらっているのかが問題だと思います。早く正解を見つけさせるのであれば、各グループに優秀な子どもを分散してその子の意見を聞くのに適切な人数を考えればいいわけです。子どもたちがまわりの助けを借りながら自分の答えを見つけることをねらうのであれば、話はまた変わります。
私は後者の考え方です。そして、グループの子どもたち全員が互いにかかわり合うことを大切にしたいと思います。

「自分の答えを見つける」という視点であれば、発言する、教えることよりも聞くことが大切になります。相手を説得するのではなく、相手の意見を理解し自分の考えを深めることが主となります。説得しようとするとどうしても声が大きくなります。大きな声は全体のテンションを上げることにつながり、落ち着いて話を聞く雰囲気がなくなっていきます。聞くことを大切にするのであれば、子どもたちのテンションが上がらないように注意するべきです。そのためには子ども同士の距離は近い方がよいのです。距離があると、どうしても声が大きくなります。額を寄せ合って、落ち着いて聞き合うためには机が近い方がよいのです。また、困った時に「助けて」「教えて」と聞けることを大切にし、グループの全員がかかわり合えることを意識すると、一人ひとりが他のメンバーと接していることも重要になります。だれにでも、すぐに聞くことができるからです。人数はあまり多くない方がよいのです。
それだけではありません。人数が多くなるとどうしてもグループの中にまた小グループができます。こうなるとグループの全員がかかわり合うことがどんどん難しくなります。子ども同士の人間関係をつくる視点からも、グループ内の誰とでもかかわり合うことは大切にしなければなりません。特定の子どもとだけの関係になることは避けたいところです。小グループになるのなら、最初からそのグループで活動すればいいのです。
実際、6人のグループでの活動を見ると、端の2人と他の4人または両端の3人ずつに分かれて話している場面によく出会います。5人のグループでも端の1人が孤立していることがよくあります。7人以上であれば、3つの小グループに分かれることもあります。
これらのことを考えると人数は4人以下がよいということになります。4人以下であれば、互いの距離が近く、誰もが必ず他の子どもと接しているからです。

もちろん4人でも1人と3人、2人と2人に分かれることはよくあります。1人と3人に分かれている場合、自分1人で考えたいために他の3人とかかわろうとしていない子でも、すぐそばで話し合われているので、その内容は耳に入ってきます。必要があれば、かかわりやすい状態です。また、うまくかかわれなくて1人が孤立しているときでも、話し合っている子どもとの距離が近いので、教師が互いにかかわるように働きかけることがしやすいように思います。
では、2人と2人に分かれる場合はどうでしょう。2人のかかわり合いはつながりが強いので、これを崩して4人のかかわりにするのは難しいものがあります。そこで、あえて男子2人、女子2人で構成して、男子同士、女子同士に分かれやすくするという考えがあります。ここで、男女を市松模様にすると、斜めでつながるので、2人ずつの話が交差してかかわりやすくなります。また、男子同士、女子同士どちらかしかつながっていなくても、目の前を言葉がいきかうので、残りの2人もかかわりやすくなります。また、男女で話し合う機会が増えるので、男子と女子の関係がよくなるというメリットもあります。これは思春期を迎えた中学生や小学校の高学年ではとてもありがたいことです。
一方、3人のグループは1人と2人に分かれた場合、1人がかかわろうとするときに2人の間に割って入ることになります。2人のかかわりは強いものなので、うまくその中に入っていけないことが多いようです。その点4人のグループの場合は、他は3人なので、その中の1人が孤立している子どもとかかわり合い、残りの2人とつないでくれることがよくあります。

色々な意見や考え方があると思いますが、私は以上のような理由で、グループは4人の市松模様での活動を基本とするのがよいと考えています。もちろん、これが絶対的な正解だと主張する気は毛頭ありません。グループ活動で何をねらうかを明確にし、子どもたちのようすをよく観察して、皆さんの学校、授業に最適な人数を見つけていただけたらと思います。

素直な先生方から元気をいただく

昨日は、小規模な小学校の現職教育に参加しました。学校全体を1時間参観し、その後6年生の研究授業を参観しました。

全体を通して感じたことは、教師の指示が多いことです。子どもたちは教師の指示によく従います。少人数なので指示や注意が届きやすいこと、また教師が個別に子どもと接触する時間が多く取れるため教師と子どもの人間関係がよいことがその要因でしょう。ところが、意外と集中力が続きません。理解できない子どもがいても個別に何度も説明できるので、教師の説明が中心となる授業スタイルになっているため、受け身の時間が多くなるからです。教師は目が届くので、集中力を失くした子どもに気づきます。ここで声をかければ集中力は一時的に戻るので、授業は崩れません。ますます教師の指示や注意が増えてしまい、結果として子どもの受け身の時間が増えるという悪循環になってしまいます。
子どもに発言を求め他の子どもにつなぐことや、子どもが活動する時間を増やすことが求められます。しかし、子どもの数が少ないため挙手して答えてくれる子どもは限られてきます。このことも教師の説明が増える要因になっています。正解しか認められないのではなく、安心して間違えられる雰囲気をつくることで発言しやすくすることが大切になります。教師が笑顔で、子どもの考えや困ったことを聞く。考えを学級で共有し、困ったことをみんなで解決する。そういうことを心がけるとよいと思います。

全体を参観する中で、素敵な場面に出会いました。4人しかいない学級で算数のグループ活動をしているときのことです。行き詰っている子どもがいるのですが、授業者はじっと子どもたちのようすを見ています。なかなか動きださないので授業者が子どもたちのところへ行きました。ここで個別に説明を始めるかと思ったのですが、わからない子ども他の子どもをつなぐように働きかけました。わずか4人の学級です。個別指導をしたくなる場面です。ここをぐっとこらえて子ども同士に任せたのです。
後でお聞きしたところ、前回訪問時に私が子ども同士のかかわりが少ないことを指摘したことをきっかけに、子ども同士で聞き合い、教え合うことを大切にしようと意識するようになったということです。とてもうれしいことです。

参観後、一人ひとりとお話する機会をいただいたのですが、先ほどの先生に限らず、どなたも素直に他者の言葉を受け入れる姿勢をお持ちでした。ベテランの方々は自分のスタイルをきちんと持っておられ、学級もきちんと経営できています。それでも話をしていく中で、自らの授業の改善点を見つけられ、こうしていきたいと自分の言葉で語られました。とても前向きです。若手も素直に自分に欠けている点を理解してくれたようです。

授業研究は、資料をもとに意見を書く単元で、学級の友だちが書いた文章のよいところ、改善点をみんなで共有する場面でした。
子どもたちが根拠を持ってグループで話し合えることを目指していることがとてもよくわかる授業構成でした。「資料の使い方のよいところ、改善点を見つける」という課題を提示した後、よいところは「資料を効果的に活用している」と規定しました。この「効果的に活用している」とはどういうことかを全体で共有して、話し合いに移ろうというわけです。ところが子どもたちに問いかけても、一部の子どもが意見を出したあとは深まりません。また、教科書に載っている「活用のしかたについてのまとめ」を以前学習していたため、発表内容は「活用のしかた」に偏っています。時間をかけているうちに、一部の子どもは集中力を失くしていきました。授業者としては、意図的に使った「効果的」に注目させて、そこを深めたかったのですが、子どもたちは気がつきませんでした。
各自が見つけたよいところ、改善点に線を引かせた後でグループでの話し合いをしたのですが、「数字を使っているからよい」「資料を見て感想をいっているからよい」といった根拠を示すにとどまり、深まりません。最後に各グループの代表が発表するのですが、同じような発表が続き、よく聞いてはいましたが、互いの考えがつながるような場面はありませんでした。

子どもたちから出た意見で授業を進めようとする姿勢はとてもよいのですが、教師が意図的にかかわることも大切です。子どもたちから出てきた活用についての意見は、「いつ」勉強した、「どこに」書いてあったかを確認しあって共有化してから打ち切り、「活用についてはわかったけれど、効果的ってどういうこと」と焦点化することで、「効果的」に注目させることができます。ここで、「よくわかる」「使わないときよりも伝わる」といった言葉を引き出せば、「何が」よくわかるから効果的に活用されている、資料を活用することで「何が」よく伝わるかという、根拠の示し方を見つけることにつながっていきます。
また、発表も同じところに注目するグループが多いはずです。代表に順番に発表させるのではなく、まずだれかに発表させ「同じ場所をいいと思った人いる」と問いかけ、他のグループの人にもその理由を聞きます。「他にもいいと思った理由が言える人」「そこに線を引かなかった人は、今の理由を聞いて納得した」とつないでいけば、グループで順番に発表するよりも子どもたちのかかわり合いをつくれます。こうしてすべての意見が出るまで全体で話し合えば、資料のよい活用のしかたを全員で共有できます。こうすれば、次の時間に各自が文章を見直す時の視点をしっかりと持たせることができるはずです。

授業者が授業の目指すところを明確にして取り組んでくれたことで、課題もはっきりしました。参観した先生方にとっても学びの多い授業になりました。
検討会もとても前向きで、この授業のよいところをたくさん見つけ合うことができました。今回は途中から私が口を出してしまいましたが、次回の検討会では互いの意見を自分たちで焦点化できることを目指してほしいと思います。

素直で前向きな先生方からたくさんの元気をいただきました。次回の訪問時にはまた違った子どもの姿、先生の姿を見ることができることと思います。この学校からますます多くのことが学べることと期待しています。次回の訪問もとても楽しみです。

中学校で子どものメッセージを感じる

先週末は、中学校で授業アドバイスをおこなってきました。今回は、先生方に授業で子どもたちに何が起こっているかを私の解説とともに見ていただくことが主でした。

この学校の子どもたちは授業に落ち着いて参加し、授業規律もよく守っています。しかし、よく見てみると、黙って授業に集中しているように見えても、ちょっとしたしぐさや態度で色々なメッセージを発しています。そのことをわかってもらうと同時に、この学校の目指す子どもの姿を知ってもらうことを意識しました。

3年生はよい状態でした。1学期と比べて授業に対する集中力が違います。体育大会が終わったあとでも浮つかず、進路実現に向けてのやる気が感じられます。教師による態度の差が少なかったのが印象的でした。

2年生は、授業中に笑顔が多いのが印象的でした。このこと自体はとてもよいのですが、その笑顔の質、現れるタイミングがさまざまでした。多くは教師がしゃべっている時ではなく、ペアやグループで活動しているときでした。子どもたちの関係がよいということです。1学期よりもよいように思えます。しかし、総じて教師の話を聞いているときの集中力が低いのです。また、テンションが高いことも気になります。子ども同士がかかわりあっている場面でも、注意して観察すると授業内容に関係ないことをしゃべっていたりします。どうやら今回の子どもたちの関係は、授業でつくられてきたものではなく、体育大会のような行事でつくられたもののようです(行事でつくる人間関係と授業でつくる人間関係参照)。
そんな中、ある学級の子どもたちの表情がとてもよいことに気づきました。非常に柔らかな表情で授業者の話を聞いています。安心して教室にいられる。授業大好き、先生大好きというメッセージを子どもから感じます。他の時間に見せた姿とは違っています。授業者はその学級の担任だったのですが、子どもたちをしっかりと受け止めているように見えました。学級経営もうまくいっているのでしょう。この学校が目指す子どもの姿の一端を見せていただきました。

1年生のようすには、少々戸惑ってしまいました。小学校でもこの学校の目指す授業と同じ方向性できちんと指導がされてきた子どもたちです。1学期にはうまく中学校生活になじんだと感じていました。ところが、授業中の集中力がおかしいのです。一見話を聞いているように見えるが、姿勢が立ち気味で教師や友だちの話に集中せず、板書を写すことを優先する。教師が立ち位置を移動しても視線が動かない。気になる態度です。ある学級では、子どもたちが集中せずにごそごそしていました。授業者が黒板に向いて板書をしながらしゃべっていたのです。ところが、急に背筋が伸び前を向きました。教師が振り返ったのです。しかし、よいのは姿勢だけで、集中して話を聞いてはいませんでした。このことを他の先生方に話したところ、「自分の授業ではとてもよい子たちだ。指示への対応も素早い」「説明もきちんと聞いていて、作業にもすぐに集中する」と私の見た姿とかなり異なります。子どもたちが教師によって露骨に態度を変えているのかもしれません。話をうかがったのが技能系の教科だったからかもしれません。次回の訪問時には、もう少し細かく見てみたいと思います。

この日、唯一授業アドバイスしたのが初任者の社会科の授業でした。グループ活動とその発表の場面しか見ませんでしたが、とても気になるものでした。「国の成長に何が必要か」ということについてのグループ活動です。子どもたちはグループに1つ用意されたホワイトボードに要素を書き込んでいくのですが、各自が勝手に書きこんでいる姿が目立つのです。友だちの考えを聞いたり、これでよいか吟味をしたりしません。3グループほどが発表したのですが、ただ一方的に要素をあげていくだけです。一人の生徒が、「○○だから△△になって、これとこれが関係するから・・・」とたくさんの要素が必要なことをやや早口で芋づる式に次々説明していきます。発表が終わると自然に拍手が出ました。よい発表だと授業者も評価します。しかし、その内容は一度聞いただけで理解できるようなものではありません。子どもたちは、たくさんのことを一気に発表したことに圧倒されましたが、その内容を理解したわけではないのです。これで次に進んではいけません。どこがすごいか、発表から何がわかったのかを聞いている子どもに問うことが必要です。雰囲気に流されてしまっているのです。
授業者に、「この活動で何を考えてもらいたかったのか」と聞いても、「国の成長に何が必要か」以外に何も出てきません。「人、物、金」といった要素に分かれるとか、上げた要素をもとに考えることはまったく意識にはなかったようです。また、「子どもたちが考えるための材料や根拠は何」と聞いても、「今まで持っている知識」としか答えられません。視点を与える、気づかせるといったことも、全く考えられていませんでした。
子どもたちに授業を通じてどのような向上的変容を期待しているのか、そのために何を必要と考えているのか。このことが意識されていないので、アドバイスもなかなかシャープになりません。何を聞いても抽象的な言葉しか出てきません。表面的にしかとらえてないことがよくわかります。先輩教師は他の学校と比較してもとてもよく面倒を見ています。しかし、なかなか変化は見えてこないようです。彼らと協力しながら、長期的な視点で授業観をどう育てていくかを考えてみようと思います。

授業後、一緒に授業を参観した先生方と懇談しました。この日はベテランが多かったのですが、「自分の授業でも同じことが起こっているのではないかと気になった。次の時間は子どもを意識して見た」「次の時間、笑顔を意識したら教室の雰囲気が柔らかくなった」「学級全体が見える位置から子どもを見ると、背中の傾き具合から集中度がよくわかった。集中度が落ちてきたら作業を止めるように心がけた」とすぐにこの日気づいたこと、学んだことを自分の授業に活かそうとされていました。若い先生よりも素直なぐらいです。ベテランは意識をすれば若い方よりも早く変化していきます。もともと持っているものが多いからです。次回の訪問時に、ベテランの方がどのような授業をされているかとても楽しみです。

この日もたくさんのことに気づき、学ぶことができました。充実した1日をありがとうございました。

子どもたちの変化に驚く(長文)

昨日は中学校の現職教育に参加しました。1年ぶりの訪問です。3人の若手の授業とその授業についての研究協議を分科会に分かれておこない、そのあと全体で私がお話しました。

1つ目の授業は英語の授業でした。授業の最初はペアでの単語の練習・確認です。驚いたのが子どもたちの表情でした。昨年の訪問時と比べて圧倒的に笑顔が増えていました。とても柔らかい雰囲気です。わからなかったときに聞き合うこともできてきています。個人で課題に取り組むときも、自然にまわりと相談しています。この雰囲気は一人の教師の力でできるものではありません。学校全体がこの1年で大きく変わっていることを感じました。たくさんの参観者に授業者は緊張しているようでしたが、笑顔を絶やさないようにしていたのが印象的でした。
復習の場面で、子どもたちに確認するのですが、なかなか反応してくれません。助けてくれそうな子どもを指名すると答えてくれるのですが、すぐに正解といって説明してしまいます。こうなると、よほど自信がないと挙手はできません。それでいいか子どもたちに確認をしたり、正解と言わずに何人かを指名したりして、子どもの活動や活躍の場面を増やすことが必要です。
Mr. Suzuki must help his wife.という英作文ではhisが必要か迷っていたり、忘れたりしている子どもがいたようです。授業者はそのことに触れ自分で説明したのですが、このような場面ではhisをつけた子ども、つけなかった子どもにその理由を聞く、互いの説明で納得したか確認するような活動を入れると子どもたちが受け身にならなくてすみます。
後で本人に聞いたところ、大切なことは伝わっているか不安なのでどうしても何度も繰り返し説明してしゃべりすぎる。子どもに確認すればよいとはわかっているがうまく子どもとキャッチボールできるか自信がない、ぎこちなくなりそうだと一歩踏み出す勇気がないということでした。これだけ自分でわかっていれば大丈夫です。あとはやってみるだけです。たとえぎこちないと本人や周りの同僚が思っても、子どもたちは聞いてもらえれば喜んでそれに応えてくれます。そのことを伝えました。
受け身の時間が続いた後、全員で文型の練習をするのですが、声がなかなか出ません。動詞をつぎつぎ変えて練習するのですが、声は大きくなっていきませんでした。どの学校でもそうなのですが、子どもが友だちとかかわることのよさを実感してくると、教師の一方的な説明が続くとそれに耐えられなくなってきます。受け身が続いて子どもたちのテンションがきり変わらなかったのです。声の大きさが満足いくものでなかったのに、次の動詞に進むと、子どもたちはそれでよいと思ってしまいます。ここは、もっと大きな声を出すように指示をし、求める声の大きさになるまで繰り返させる必要があったのです。求める姿を子どもたちに要求することも大切なのです。
グループ活動は、男女2人ずつのグループが基本でしたが、中には5人のところもありました。どうしても5人のところは余った一人が仲間と距離があるので話し合いに参加しづらそうでした。男子同士、女子同士がならぶ座席の組み合わせでしたので、うまく4人がかかわれるかと心配しましたが、しっかりとかかわれていました。学級経営のよさが感じられました。

2つ目の授業は数学の2次関数の授業でした。前時に振り子の実験をしてその結果をもとに、周期とひもの長さの間の規則性を見つけるというものでした。実際に自分たちが調べたことを題材にして考えるとことに挑戦していることはとても好感が持てます。最初に復習の代わりに、前時に撮影しておいた子どもたちの様子を見せました。もともと教師との関係がよいのでしょう。子どもたちは楽しそうに反応します。続いて、この日の課題「アルプス少女ハイジのオープニングのブランコの長さはどれだけか」を、実際にアニメを見せながら提示しました。子どもたちのテンションが上がりすぎ、中にはそれについていけない子もいてどうなるか心配だったのですが、授業者が説明を始めるとすぐに落ち着いてどの子も集中しました。きちんと子どもたちをコントロールすることができています。立派です。しかし、残念ながらこの導入部分でかなりの時間を使ってしまいました。この子どもたちと授業者であれば、ビデオに頼らず、いきなり課題を提示してブランコの周期を確認するところから始めても十分うまくいくと思いました。
ひもの長さと周期の表をもとに規則性を考える場面では、最初個人で考えさせ、それから隣同士、グループと進めました。「関係を見つける」という課題が子どもたちには何を答えていいかわからなったようです。しかし、子どもたちは頑張って考えようとしています。ここでは、せっかくわかりやすい「ハイジのブランコの長さ」が課題なので、いきなりそれを求めさせればよかったのです。求めるためには関係を知ることが必要です。どうやって求めたかを聞けば、授業者のねらいに迫れるのです。
グループ活動は、男子同士、女子同士で相談する姿が目立ちました。座席の配置は工夫する必要がありそうです。関係を見つけたグループもあったのですが、全体的に手詰まりになって動きが止まってきました。前のめりだった姿勢がだんだん立ってきます。そこでグループ活動を止めて、発表に入りました。「前に出てグループ全員で結果を発表してもらいます」と授業者が言うと子どもたちに動揺が走りました。答(正解)を求められたがまだできていない、発表の準備もしていなかったからです。最初のグループが、周期が2倍になるとひもの長さが4倍になることを発表しても、他のグループはそれどころではありません。誰が、どう発表するのか相談しています。授業者は発表を再度説明しています。時間がなかったとは思いますが、ここでは子どもたちに確認すべきだったと思います。
この場面では、「グループ」で「答」を発表させるのではなく、「個人」に「どのようなことを話したか、やったか」を聞けばよかったのです。これであれば、一人で振り返れば発表できます。また答がわからなくても大丈夫です。自分が指名されるかもしれないので、友だちの発表を聞いて参考にしようとも思います。
時間がなかったので、関係の式をつくったグループに発表をさせました。2次関数の授業なので2次関数になるはずだ。そう推理して式をつくったという発表です。これをどう評価するか、ちょっと授業者は悩んだようですが、式のよさを説明することを選びました。今日のゴールは式をつくることだったのと、時間がなかったことで子どもの結果をそのまま認めたのです。数学の授業としては、「本当にこの式で関係はあらわせる」「大丈夫、絶対」と迫る必要があったと思います。また、最初のグループの発表は全く使われないので死んでしまいます。これでは子どもたちは、結局教師の求める答えを探さなければいけないと感じます。最初のグループの考え方を使ってもハイジのブランコの長さはわかることを次の時間に確認して、評価してあげてほしいと思います。
時間のなさが授業者を苦しめました。導入部の長さの問題だけでなく、グループ活動を結論が出るまで待とうとしたことも大きな要素です。グループの活動が停滞したらすぐに止めて、どこで困っている、どんなことをやっていると課程を発表させるのです。他のグループと過程を共有することで、見通しが出てきます。再びグループに戻せば、活動し始めます。グループの利用の仕方の基本を再確認する必要がありそうです。

3つ目の授業は道徳でした。友情がテーマです。長めの資料なので時間配分がちょっと心配でした。最初に「親友とは」というアンケートの結果を電子黒板で見せたのですが、機器がうまく動かず時間を取られてしまいました。
資料を授業者が範読します。感情を込め、子どもが理解する時間を与えるためにゆっくり読もうとしているのがよくわかります。しかし、授業者は資料をずっと見ているので子どものようすがわかりません。子どもたちがちゃんと読みとれているのかの確認ができていないのです。最後まで読み終わった段階でかなりの時間が過ぎていました。残り時間は30分を切っています。授業者が焦っているのがわかりますが、落ち着いて笑顔で対処しようとしています。ちょっとしたやり取りからも子どもをしっかり受容しようとしていることが伝わります。子どもの反応からも人間関係がとてもよいことがわかります。
ここで、主人公の気持ちを場面ごとに捉えさせようとしました。まず前半の気持ちをたずねるのですが、反応が思わしくありません。子どもたちは最後の部分に気持ちが入っているので、すぐには戻れないのです。気持ちを込めた範読で子どもたちが資料に入り込んでいるのですが、授業者の発問で引き離されたのです。国語の読み取りではないので、こういう時はできるだけ早く内容を把握させる必要があります。区切りや、ポイントとなる場面でちょっと止まって、「主人公はどんな気持だったんだろうね。どう思う」「○○なんだよね。それってどうことだと思う」と問いかけたり、説明したりするのです。道徳で大切な、自分に引き寄せて考える時間を確保するためです。ポイントとなる出来事と心情を板書してあとで振り返られるようにしてもよいと思います。読み終わった後、不安であれば再度ポイントとなる心情を簡単に押さえて、課題を提示すればよいのです。
今回は読み取り部分が中心となったので、グループ活動も資料を根拠にして話し合っています。国語の時間にしっかり指導されていることがわかりますが、道徳ではマイナスです。主人公を客観的に見ていて、自分に引き付けられていません。全体の発表でも子どもたちの多くは教師を見ています。教師の求める正解は何かを知ろうとしているのです。一人の女生徒が自分に引き付けて主人公の心情を語っているのですが、なかなか他の子どもとかみ合いません。この女生徒は何度も発言するのですが、最後までうまくつながりませんでした。出てきた意見を授業者がメモ代わりに板書するのですが、かなりの子どもが写しています。当然その間、友だちの言葉には集中できません。ワークシートに時間がなくて使わなかった欄、「友だちの考え」があったのでそれを埋めようとしていたようです。
最後に「親友とは」の答を各自が考えて発表したのですが、このときも子どもたちの視線は発表者に向かいません。自分の課題として真剣に考えたときは、友だちの考えを知りたいと思うものです。子どもたちは教師の求める答を探していたのです。

3人の授業者に共通していたのが、子どもをとてもよく受容していたことです。そのことが、子どもたちが安心して授業に参加できる雰囲気をつくっています。残念だったのが、受容はあるのですが、評価や称賛が少なかったことです。評価することでよい行動が広がり、次の活動への意欲が高まります。また、意図的に子ども同士をつなぐこともできていませんでした。おそらく学校全体の課題だと思います。

協議会はよい雰囲気で進みましたが、この日の授業者が来週の学校訪問での代表授業をおこなうので、教師側の視点からの改善点の発言が多かったのが残念です。子どもの表情や声などを話題にしていたグループもあったので、学校訪問をあまり意識せずに進めることができればもっと子どものことが話題になったと思いました。

3つの授業について共通の話題が、導入とその時間、グループ活動の在り方でしたので、この2点についてお話をしました。
導入は何をするのかについて皆さんに聞いたところ、前時の復習、本時の課題や目標の提示とそれに向かう意欲づけということが出てきました。それをもとに落語の「まくら」と授業の「導入」の違い、子どものやる気はいつが高いかということから、導入はできるだけ時間をかけずに早く本題に入ることをお話しました。
グループ活動については、個人が自分の考えを深めるためにグループを活用すること、リーダーやまとめ役は必要ないこと、グループで話し合っても結論をまとめる必要はなく、個人の考えを持つこと、課題が子どもたちのものとなることが大切なこと、座席の配置や人数はどうするとよいのか、子どもたちの姿勢から活動のようすがわかること、グループ活動の間の教師のかかわり方、役目、動きが止まった時の対応、つなぎ方などの基本となることをお話しました。
このような話をしたからといって、この学校が先生方の基本ができていないということではないのです。逆に授業でよい場面が増えたことで子どもたちが確実によい方向へ変化したこと、そのために次のステップへの課題が明確になってきたことの現れです。子どもがいつも同じ状態なら、何が課題かはよくわかりません。子どものよい姿が見られるからこそ、そうでない状態の場面に課題があることがわかるのです。
1年前のことを思い出すと、今回このような具体的な話ができるとは想像できませんでした。教務主任、研修主任が日々発信し続けていることが大きな力となってきていることがわかります。ある授業の場面で「子どもたちが・・・」と私が言いかけた時に、素早く「発表者を見ていませんね」と教務主任がつなぎました。ホームページに載せる授業風景を撮るために、毎日子どもたちを見続けているからこそ、たくさんのことが見えるようになっているのです。

最後に校長室で3人の授業者とお話をしました。他者の授業の話題でも真剣に耳を傾け、少しでも吸収しようとする姿勢、指摘を受け入れようとする素直な態度、疑問を臆せず聞こうとする貪欲さ。彼らの今後の進歩がとても楽しみです。

教師以上に子どもたちは素早く変化していきます。そのよい変化が教師の変容へのエネルギーとなります。次にこの学校に訪問する機会があれば、また大きく変化した子どもたちと先生方の姿が見られることと思います。子どもたちの素敵な笑顔と前向きな先生方にたくさんの元気をいただきました。ありがとうございました。

企業研修で学ぶ

昨日は企業研修を2つおこなってきました。

最初はロールプレイを中心としたコミュニケーションスキルを高める研修でした。今回は参加者が4人と少なく、実際のロールプレイのようすもしっかりと見ることができました。顧客のトラブル対応で場面設定をしたのですが、問題を「解決」するという視点よりも責任を「回避」する意識の方が強いように感じました。そのため、相手の話を聞くことよりもどうしてもこちらが話すことが多くなってしまいます。こちらの立場や都合を主張していると相手が感じることになります。
ロールプレイの後に話し合ってもらいましたが、ちゃんと自分たちで気づくことができました。互いに見合うことで、他者のロールプレイで気づいたことを自分はどうであったかと振り返ることができたようです。自分も含めた問題点として気づいたことを指摘できていました。自分を客観視するよいきっかけになったようです。
どうすればよいのかと話し合う中で、聞くことの大切さ、問題解決には相手に寄り添って一緒に解決しようとする姿勢が必要なことを理解してくれました。
最後に再度ロールプレイをしてもらいました。気づいたことを意識していることはよくわかるのですが、すぐにはできるようになりません。当り前のことですが、気づいたからといってすぐに実行できるものではないのです。参加者も、意識しているのにできていないことを自分で気づいていました。これが、まず第一歩です。自分を客観視できるようになれば、日々の業務を通じて自分で修正をすることができます。1日の研修で劇的に変わることはありませんが、そのきっかけになってくれたのではないかと思います。

2つ目はグループの話し合いで考えを深めるものでしたが、こちらも参加者は6人と少なく、2グループでの研修となりました。経験の多い男性2人と比較的経験の少ない女性4人という構成です。男性1人と女性2人の3人グループとなりました。
予想したことでしたが、最初のうちは男性対女性という構図になりがちでした。男性の表情は少し硬く感じました。しかし、女性陣が相手を理解しようという姿勢でしっかり聞いてくれるので、次第に男性の表情も柔らかくなり、とても素敵な笑顔があふれる研修となりました。
男性がよい気づきをして説明するのですが、理解できない女性がいました。その女性が質問をしたり、復唱したりして理解しようとする姿勢を見せてくれるので、男性の方も熱が入ります。わかったといってもらえた時、男性がとてもうれしそうな表情をしたのが印象的でした。
違った視点や考え方に触れることで、自分たちの考え深まることを実感していただけたようです。普通ではなかなか出てこない、とてもよい視点の意見がたくさん出たのが今回の研修の特徴でした。よい聞き手がいることが、話が深まるためには大切であることを再認識できました。

今回は参加者が少なかったので、グループでの一人ひとりの発言もしっかり聞くことができました。そこで起こっていることを意識し次の展開を考えることで、参加者の言葉を活かすことができたように思います。このように、参加者の活動を中心にした研修は講義形式のものより事前に準備するスライド等も少なく、一見楽に思えるのですが、実際にはかなりハードなものになります。一方的に話すのと違い、相手の言葉をしっかり聞いて理解し、その場で次へのつなぎを考えるのは、かなりの負担なのです。聞くことを大切にしている先生の授業にかけるエネルギーのすごさを私も少し実感できました。

とても素晴らしい参加者のおかけで、聞くことの持つ意味やそのためのエネルギーの大きさなどたくさんのことに気づけた、私にとっても学びの多い研修でした。参加された皆さんにとっても学びが多かったのであれば幸いです。

力のある教師が尊敬されてほしい

日ごろおつきあいのある同世代の方は校長や教頭が多いのですが、一般の教諭の方も少なくありません。管理職になるより少しでも授業がしたい、子どもにより近いところにいたいという方が多いように思います。管理職になられても立派にこなすことができる力があるのに、あえて管理職の道を進まなかった方が何人もいます。

組織にとって管理職は責任の思い重要な仕事です。当然尊敬に値する方々ですが、管理職でなくても、素晴らしい授業、素晴らしい学級経営、学年経営で尊敬に値する方がたくさんいます。ところが、自分たちと同じ教諭の中に高い技術を持った方がいることに気づかずに、せっかくの学ぶ機会を見逃している方もいます。

以前ある教育長がおっしゃった言葉が思い出されます。

「管理職にはならなかったが、素晴らしい授業をする教師がたくさんいる。ところが、管理職でないということで、同僚からは軽く見られてしまうことがある。管理職でなくても素晴らしい教師がまわりから尊敬されるようにしたい」

なるほどと納得させられる考えです。私たちは、校長、教頭といったわかりやすい記号で判断してしまうことがあります。名刺の肩書で相手の対応が変わることもよくあります。企業では、営業職はたとえ経験の浅いものでも必ず何らかの肩書をつけます。そうしないと、私の担当は下っ端なのか、もっと上の人をよこせと言われたりするからです。一方、素晴らしい技術・技能を持った方をマイスター・名工として後進にその技を伝承する役目を与え、彼らが尊敬されるような仕組みつくっているところもあります。
学校という組織にとっても、管理職と同じく皆の手本となる教師の存在はとても大切です。肩書はなくても、そういう教師が同僚や保護者・地域の方から尊敬されるようであってほしいと思います。
彼らにスポットを当て、まわりから尊敬されるようにすることも、管理職の立派な仕事だと思います。

先日、子どもたちのようすを見て、担任の指導力がすごいと感心したところ、そばにいた地域の方が、「そりゃあ、○○先生だもの」と誇らしげにおっしゃいました。地域の方からも尊敬を集めているベテランの存在を感じることができました。校長も、若い人もその先生から盗んでいると思うよと話されていました。きっと意図的にその先生の素晴らしさを伝えているのでしょう。
また、ある校長は、授業の素晴らしさで定評のある「○○先生から学ぶ会」という立派な会を準備しているそうです。

組織にはいろいろな役割があります。それぞれが機能して初めて全体がうまくいきます。目立たないが素晴らしい仕事をしている人が評価され尊敬されることは、他の方のやる気にもつながります。組織としての力はそういうところから生まれてくると思います。

失敗から学ぶためには

失敗から学ぶということはよく言われます。しかし、子どもたちは失敗するとがっかりしてやる気をなくします。そのため教師は子どもたちが失敗しないように先手を取って指示や指導をする傾向にあります。極端な場合、いざとなったら先生が助けてくれる、誰かが何とかしてくれると考えるようになってしまいます。

子どもがやる気をなくすのは失敗して、ネガティブな気持ちになって終わるからです。たとえば総合的な学習の時間のように調べて発表するような長期の取り組みは、最後に発表して終わるか、または発表を受けての反省で終わることがほとんどです。失敗して反省してもその反省を活かす機会はなかなかやって来ません。失敗から学ぶためには、失敗を活かす機会が必要になるのです。
総合的な学習の例であれば、中間発表を設けるとよいでしょう。中間発表では、欠けているところ、不十分なところを少々厳しく指摘しても大丈夫です。それを受けてどうすればよいかを考え、修正する時間を与えるのです。本番の発表では、中間発表から進歩したところを大いにほめます。たとえ絶対的には評価できなくても、中間発表と比べれば評価できるはずです。できれば中間発表で指摘されたことから何を学んだか、どういうことに気をつけたかも合わせて発表するとよいでしょう。こうすることで、失敗から学ぶことを意識できますし、その結果をポジティブに評価されますので、達成感も味わえます。

ふだんの授業でも似たようなことはたくさんあります。失敗しても必ずチャンスを与え、ほめて終わるようにすることが大切です。

「○○さん、△△さんの言ったことをもう一度説明してくれるかな」
「聞いていませんでした」
「もったいないことしたね。とてもいい説明だったんだけどな。△△さん、もう一度聞かせてくれるかな」
「はい、・・・です」
「△△さんさん、ありがとう。○○さん、どう」
「・・・です」
「よく聞けたね。△△さんと○○さんの説明でなるほどと思った人」
・・・

聞いていなかったことをしかると、失敗したことで気持ちはネガティブになります。しかし、失敗してもそのあとしっかり聞いてうまく説明できると、成功したとポジティブになります。このような経験を積んでいけば、失敗を恐れるのではなく、失敗した後どうすればよいのかを考えるようになります。

失敗から学ぶと簡単に言いますが、失敗をきっかけに成功する経験を積まないと、失敗ばかり続くことになり、気持ちが折れてしまいます。子どもは長い時間を待つことはできませんし、時間がたてば反省したことも忘れてしまいます。失敗した後、できるだけ早いタイミングでリカバーする場面を設けてあげることで失敗から学べるようになります。失敗を避けるのではなく、失敗から学ぶ子どもに育ててほしいと思います。

体育大会を観戦

昨日は、中学校の体育大会を観戦しました。昨日の日記(体育大会の何を見る)に書いたように、子どもたちの応援風景を中心に観察していました。

最初の集合、開会式の時から1年生の4学級のうち2学級が気になりました。集中力のない子どもが目立ち、そのようすが他の子どもに伝染していきます。発達障害の傾向のある子どもがいることは間違いないようです。他の学級にもそれらしい子どもはいるのですが、これほどには広がっていません。
一方2年生、3年生はさすがです。集中力を保ち、とてもよい姿を見せています。観戦のようすも、他学年の競技であっても熱心に応援していることが遠目でもよくわかります。特に2年生はどの学級を見ても頭の向きでどこに選手がいるかわかるくらいです。
1年生は、楽しそうではあるのですが、友だちと雑談したり、体がおかしな方向に向いていたりが目立ちます。その中でも1学級だけは2、3年生と比べても差がないほど落ち着いて観戦していました。いろいろな要素があるので何ともいえませんが、学級担任の指導にも差がありそうです。後でうかがったところ、この学級はベテランの先生が担任をされているそうです。なるほどと納得です。最初に気になった2学級は若手の先生が担任のようです。日ごろ自分の学級と他の学級を比較する機会はそれほど多くはありません。彼らもその差にきっと気づいたことだと思います。ベテランとの違いから多くを学べるとてもよい機会になったことと思います。

競技審判も多くは子どもたちです。競技と競技の合間や、進行の関係で空白の時間ができることがあります。そんな時でも、リラックスはしていますが、顔をしっかり上げてきちんとした姿勢を崩さない子がいました。なかなかできることではありません。もちろん競技中も審判に集中していました。うっかりしてこのことを先生に伝え忘れたのですが、こういう子どもをしっかり評価してあげたいものです。

時間の関係で、1年生と2年生のクラスマス(ゲーム)を最後に席を立ったのですが、ここでも子どもたちの成長と教師の指導について考えさせられました。マスゲームをうまく見せるポイントは比較的はっきりしています。手や体の向きをそろえる、指先に力を入れる、止める瞬間に力を入れる、動き始めだけでなく、止めるタイミングをそろえるなどですが、これがどのくらい徹底できているかで大きく違ってきます。
1年生は経験が少ないためか、学級間の差が出ました。直接指導したのか、子どもたちに気づくように仕向けたのか、その指導法はわかりませんが、ベテランの学級はポイントがきちんと押さえられていて、なかなか見ごたえがありました。
一方2年生は、1年生と比べて差が少なくなっています。1年生で学んだことを元に自分たちでポイントを押さえているのでしょう。担任が意識して指導した部分は見えるのですが、大きな差とはなりません。見ることはできませんでしたが、おそらく3年生はこの傾向がもっと強くなっていると思います。

全学年が一堂に会することで、子どもたちの成長の過程がとてもよく見えてきます。頼もしい姿を見せてくれる3年生も、2年前には今の1年生のように幼く、頼りないようすだったはずです。子どもたちの成長と担任の指導の影響力について考えるきっかけになりました。楽しい時間をありがとうございました。

体育大会の何を見る

今週末、来週末は体育大会の学校が多いと思います。私も明日は招待されている体育大会におじゃまする予定です。保護者と違って、自分の子どもが参加するわけではないのでつまらないだろうと思われるかもしれませんが、子どもたちのようすを見ることでいろいろなことがわかり、とても興味深いのです。

子どもたちが、競技に真剣に取り組んでいる姿はとても気持ちのよいものですが、私は多くの時間を応援席の子どものようすを見ることに費やします。自分の学級の友だちが競技をしているときは、ほとんどの子どもが真剣に応援します。ところが、他学年の競技のときはまわりとおしゃべりしたり、席を立って遊んでいたりする子がいます。おもしろいことに、このような子どもが多い学級が、ある学年に集中していいたり、まったく不規則に見えたりします。不規則に見えるようでも、後で聞いてみると担任経験の浅い教師の学級だったりして、妙に納得することもあります。大会当日は教師も役割を持って動いているので、常に子どもたちのそばにいて指導できるわけではありません。当日までの指導やふだんの学級経営がそこに現れるのです。

小学校では、担任が一緒になって応援している学級は、担任につられて自分たちに直接関係のない競技でも真剣に応援する傾向にあります。
中学校では、3年生の応援態度が影響を与える傾向があります。子どもたちが成長するに従って教師よりも子ども同士の影響力が大きくなるのでしょう。3年生が学年を問わずに真剣に応援している学校は、それに影響されて他の学年の観戦姿勢が確実に変わっていきます。1日の中でも子どもたちのようすは変化します。行事の影響力はあなどれないものがあります。

競技の補助をしている子どもたちの姿も気になります。自分の役割をきちんと果たそうとしているのか、割り当てられた仕事だから仕方なくやっているのか、はたから見ていると意外とよくわかるものです。常に教師の指示に従って動いているか、それとも自分の判断で動いているか、中学校では子どもたちが育っているかはこういうところにも現れます。

また、進行に遅れがあるとかないとかに関係なく、せわしなく落ち着きがないと感じるときとゆったりと進んでいると感じるときがあります。どうやら、教師の指示の声がよく聞こえる、教師が忙しそうに動いているときにせわしなく感じるようです。教師が落ち着いている、子どもたちが整然と動いていると、たとえプログラムを早めに消化していてもゆったりと感じるのです。
ある中学校では、体育大会のアンケートから「職員の動きはいかがだったでしょうか」という項目を外したそうです。先生方は、「体育大会前日までにすべての指導をやり終えて臨みたいと考えてしっかり指導してきた。当日、職員は暇であることほどいいことなのだ。 当日、職員が動き回ってやっと計画通り進行するような体育大会はいかがなものだろうか」と考えられたということです。先生方が望む回答は、「職員の動きはほとんど見られなかった」ということになります。なるほどと納得させられる話です。

私のように自分の子どもが参加してない者でも、体育大会はとても楽しみな行事です。週末がよい天気になることを祈っています。

学生の会話から考える

昨日は東京へ出張していました。昼に外で食事をしたのですが、隣の席にいた学生たちの会話がとぎれとぎれに耳に入ってきます。

「カンニングが見つかって・・・」
「えっ、全科目0点じゃないの・・・」
「それが、教授が公にせずに済ませてくれて、1科目だけで済んだ・・・」

どうやらその中の一人が試験でカンニングをしたところ、教授が公にすると全科目0点になるので、その教科を0点にするだけにとどめ、内々で済ませてくれたということのようです。
驚いたのは話の内容よりも、話している学生の姿でした。悪びれるようすもなく、ごく普通に話しています。何という学生だろうとちょっと怒っていたのですが、少し落ち着いてみると、学生を怒ってばかりはいられないと思うようになりました。

堂々と話ができるということは、「恥」ではないということです。カンニングがばれると全教科0点になるというリスクを負って挑戦して失敗した。単に取りえる行動の一つとして選択した結果でしかないということです。
「カンニングをする」ということは、試験の「結果」が問題であって、その「過程」はどうでもよいと考えているということです。

人に迷惑をかけたわけではない。社会で求められているのは結果であり、その手段は問われていない。そう思っているのでしょう。今の社会の風潮だと言ってしまえばそれまでですが、彼の受けた教育にも問題があったはずです。

一番に思い浮かぶのは、道徳です。どのような道徳教育であればよかったのでしょうか。「悪いことをしてはいけません」「ルールは守りましょう」というだけでは意味がありません。悪いことをする、ルールを破る子どものほとんどは、それが悪いこと、ルール違反だと知っています。「何が悪い」という子どもでも、それが世の中では悪いこととされていることは知っています。正当化しようとしているだけです。
「道徳」で育てなければならないことは、「正しく判断」できる力です。ルールを破りたいと思った時に踏みとどまれる子どもです。
とはいえ、具体的にどのようにすればいいのでしょうか。自分の行為が他者とつながっている、他者に影響を与えるということを実感させることが大切だと思います。自分がルールを破ることで他者に迷惑をかける、不快な気持ちにさせる。こういうことを経験させ、相手の気持ちになって考えることができるようになれば、自己中心的な考えで行動することは減ってくるはずです。
ある状況に対して自分ならどうする、他者はどう考えて行動するか考える。一つの行動に対して、友だちの考えや思いを聞き合う。ふだんの学校生活でも、自分の行動が他者にどういう影響を与え、どういう感情を引き起こすのかを意識できるような場面をたくさんつくる。「自分はこうしたい、しかしまわりはそれを許さない」といった葛藤場面でどう行動すればよいかを身につけさせるのです。
では、先ほどの学生はどうなのでしょうか。悪いことではあるけれど、リスクは自分が負うだけで他人には迷惑をかけない。そう答えそうな気がします。アンフェアな行為をするということは、他者に対してどういうことを意味するのかを意識できていないように思います。他者と深くかかわり合う経験が少なかったのかもしれません。

もう一つの思い浮かぶのは、子どもたちの消費者的行動です。できるだけコスト(労力)をかけずに、早く結果を得たい。そういう風潮が広がっているように感じます。教師が答や結果だけを評価し、課程や方法をきちんと評価することをしていないこともその傾向に拍車をかけているように思います。注意してほしいのは、やったこと、努力したことをただほめるというのは評価ではないということです。認めることは大前提として、その上でどうすればよりよいのかを考えるために評価があります。結果がともなう努力をすることが大切なのであって、いくら努力しても結果が出なければ嫌になって安直な方法に走ってしまいます。
また、子どもたちが過程を楽しむ、楽しめるような工夫も必要だと思います。学ぶことは楽しい。そう思えることが一番ですから。
先ほどの学生は、学ぶことは楽しいという経験をしてこなかったのでしょうか。もしそうであれば、それは保護者を含め、彼の教育にかかわった者の責任だと思います。

歳をとってくると、「最近の若者は・・・」と批判をしがちになりますが、彼らをそのようにした責任の一端は私たちにもあることを忘れてはいけません。そのような若者をつくらないためにどうしなければいけないのかを真剣に考えることが、歳をとった者の責務だと思います。
学生の会話からこんなことを考えた昼時でした。

企業研修で失敗

昨日は企業で研修を2つおこなってきました。

1つ目の研修はグループでの話し合い中心にして進めましたが、グループ分けは日ごろの業務グループがもとになっていました。おもしろいほどにグループごとに状況が分かれました。リーダーが仕切るグループ、仲良く話し合っているが、なかなか話が進んでいかないグループ、互いにけん制し合っているように感じるグループ、といろいろです。この部門全体を統括している管理職の方にうかがったところ、日ごろのグループの特性が研修でもそのまま現れているとのことでした。
気軽に意見交換できる場面では動きは活発でしたが、意図的に「これは大切なことです」「これはきちんと答えられないといけないことです」とプレッシャーをかけて課題に取り組んでいただくと、急に発言は慎重になりました。たとえ同じグループの仲間であっても正解を発言しなければならない、間違えた発言は否定される、そういう雰囲気があるのだろうと推測しました。子どもたちの世界と同じですね。互いに発言を重ねながら考えを深めていくという経験が少ないのでしょう。また、どこかに正解がある。誰かが正解を持っている。その正解を探す、探るというようにも見えます。日ごろ頼れるリーダーが引っぱっているということの裏返しなのかもしれません。自分たちの正解をつくりだすという意識を持っていただく必要性を感じました。

2つ目の研修は、グループでのロールプレイを中心におこない、そこからコミュニケーションに関する気づきを引き出していこうというものでした。ここでも業務グループをもとにグループ分けをしたのですが、日ごろの人間関係のよさが災いしました。シチュエーションは緊張感が漂う場面のはずなのですが、笑い声が絶えません。ちょっとゆるい状態です。役割の交代場面でも動きが鈍いのです。こういうときは、どうしても気づきは浅いものになりがちです。
ロールプレイ終了後、気づいたことを聞き合う場面では、「聞き」を言葉として強調しておいたのですが、今度は一転してリーダーが話を主導したり、一方的にしゃべったりが目立ちました。中には明らかに距離を置こうとしているメンバーもいました。
全体で気づきを共有する場面では、コミュニケーションに関する気づきではなく各自が設定したシチュエーションに関するものが多く出てきました。リーダーがミスリードしてしまったグループが多かったようです。なんとかそこからコミュニケーションに関する気づきにつなげようとしたのですが、シチュエーションごとのコミュニケーションの難しさを共有するにとどまり、個々の気づきをもとにどうすればよいのかを導き出すことができませんでした。

ここで判断ミスをしてしまいました。最初は、共有した難しさを課題としてグループにもどし、どうすればよいかを話し合っていただこうと思いました。しかし、時間内に全体で気づきを共有し結論まで持っていくことは無理と思い、私がコミュニケーションの基本について説明することにしました。
課題は自分たちのものになっていたので、だれもが真剣に話を聞いていました。理解をしてくれていることはよく伝わります。全員が納得できた、よい形で終われたと思ったのですが、最後に書いていただいた振り返りを見て愕然としました。全員が私の話のポイントのまとめとそれについてのコメントなのです。課題意識を持って講師の話を聞けば、それが研修の目指すものだ、これが正解だ、これを身につけなければと思って当然です。教え込む研修を意図していたのなら、大正解です。しかし、今回は互いに学び合い、自分たちの気づきを大切にし合うことでより高いところにいける、そのことに気づいてもらうことをねらっていたのです。せっかくグループで活動していただいたのにこれでは意味がありません。上手に課題意識を持たせて、私が講演した方がよほどたくさんのことを伝えられます。私のミスのせいで、せっかくの皆さんの貴重な活動を無駄にしてしまいました。

部門の統括の方に、ここからは私の仕事ですとフォローしていただけたのが救いです。この方とは新入社員のころからのおき合いですが、とても頼もしく成長されていました。言葉の端々から彼らをどう育てていくか真剣に考えていることがよく伝わります。今回の研修も最初から最後まで、メンバーの様子を本当によく見ておられました。私のミスを気にせず、「この研修をどう活かすか楽しみ」と言っていただけました。頼もしい限りです。
参加された皆さんには申し訳ないことをしてしまいましたが、失敗も含め多くのことを学ぶことができました。よい機会をありがとうございました。

アンケートの結果を予想する

行事や授業などについてアンケートを採る機会が増えてきていると思います。最近のアンケートは無難な回答を避けるため、「普通」「どちらでもない」といった真ん中の選択肢をなくすようになってきました。よいことだと思います。そういった質問紙の作成に知恵を絞ると同時にお願いしたいことがあります。それは、アンケートの結果を予想することです。

何かを意識して取り組んでいるから、その評価が知りたいわけです。問題点を見つけるためにもアンケートをおこなうのです。評価者と実施者の現状認識の違いを明確にするために、項目ごとにどのくらいのポイントになるかを予想するのです。年に何回か実施しているものであれば、どの項目が上昇するかを予想することは、実態をどれだけ把握できているかのチェックにもなります。
また、これから実施される行事のようなものであれば、何を大切にしようか、どこに重点を置こうかといったことを意識することになります。明確な目的意識をもって取り組むことにつながります。そのためにも、アンケートは早めにつくっておくとよいでしょう。

一般的に、アンケートの結果を予想すると低めの評価を予想します。予想を下回るのが嫌だからです。単に予想より高いからよかったと考えるのではなく、総合的に見ることが必要です。
たとえば、項目Aと項目Bをそれぞれ、3.5と4.0と予想したところ、実際には4.5と4.0だったとします。予想よりもよいか予想通りの評価だったのでよしとするのではなく、項目Bの方が高いと予想したのに、項目Aの方が高かったということに注目してほしいと思います。項目Bに力を入れたのに、結果としてはあまり効果がなかったのかもしれません。それとも、項目Aに関して何かよい力が働いたのかも知れません。その原因を考え次の行動にどう反映させるのかが大切です。
年に1度の行事のアンケートなどは、目標(予想)とアンケートの結果を比較することで、取り組みの評価が明確になり、次年度への取り組みに活かすことができます。

アンケートの結果を予想することは、結果をより真剣に分析することにもつながります。結果を事実として公表するだけでなく、その結果をどう分析し、どのように受け止め、どう対応していくのかを明確にし、評価者に伝えることが、評価者からの信頼につながります。

話は少しそれますが、アンケートの結果を数値化して棒グラフにしたもので、ときどきグラフの基準がおかしなものを目にします。たとえば「悪い」「やや悪い」「ややよい」「よい」の4段階をそれぞれ1から4に数値化した場合で考えてみましょう。グラフの基準が0になっているのです。基準を0にすると、真ん中は2になります。しかし、最低が1なのですから、実際には真ん中は2.5です。グラフは視覚的にはよい方にずれて見えます。よく見せようという意図がないのであれば、基準を1にしないと邪推されます。こういうことを避けるためにも、また分布をはっきりさせるためにも平均を棒グラフにするのではなく帯グラフで各評価の割合を見せるのがよいと思います。

アンケートを作成するときにその結果も合わせて予想することは、アンケートをより効果的に活用する事につながります。作成者だけでなく多くの方が予想することで、より多くのことが見えてくるはずです。ぜひ試してほしいと思います。

学級経営の進捗を意識する

授業の進度は意識することはあっても、学級経営の進捗を意識されている方は意外と少ないように思います。4月5月は学級づくりを意識するときですが、ここで成功すると、何か問題が起こったときや、あとは行事等で学級をうまく動かすといった特別なとき以外は、意識されなくなっていくのではないでしょうか。そうではなく、常にゴール(具体的には学年末)を思いえがき、今の学級の状況はどうであるかをチェックし、見通しを持って学級経営に取り組むことが大切です。

4月5月で教師と子ども、子ども同士の基本的な関係ができた段階で、子どもたちの状況を踏まえて学級の目指すところを再度明確にする必要があります。子どもの発達段階にもよりますが、教師の指示がなくても動ける学級、リーダーが引っ張る学級、子ども同士が支え合う学級、できるだけ具体的な学級の姿をイメージします(目指す学級の姿を具体的にする参照)。

その上で、大体でいいので、いつごろにどうなってほしいかという、学級づくりの行程をつくります。それをもとに、今月、今週は具体的に何を目標とするか、そのためにどのような働きかけをするのかを考えるのです。
今週の目標といった形で子どもと共有して進めていくやり方もあります。朝や帰りの時間に教師が話をすることもあります。ホームルームの時間や学級会などで議題にしたり、ワークショップに取り組んだりするのもいいでしょう。1年間を通じた学級の成長を意識して取り組んでほしいのです。

予定通りに行くとは限りません。進捗を意識するということは、うまくいってなければどう修正をするか、うまくいっていれば前倒しをする、さらなる高い目標に挑戦するといったことを考えることです。長期的な視点を持たないと、こういうチェックは働かないのです。

今は行事の時期です。行事が終わった時点で学級の状況をチェックしてみましょう。その上で、再度目指すゴールの姿を明確にして現状とのずれをどう修正していくかを考えてください。
いよいよ年度の後半にさしかかります。気をつけないと教師も子どもも惰性で進んで行くことになります。残り半年の学級経営を、見通しを持って進めてほしいと思います。

子どもの視点での疑問を大切にする

先日の日記「数学の教師は数学の勉強をしない?」を読まれた先生から、「どのように勉強したらよいでしょうか」というメールをいただきました。熱心に授業に取り組み、研修にも積極的に参加されている方です。私の書き方が悪かったせいもあるのでしょうが、勉強というと体系的に学ぶイメージが強く、どんな本を読めばいいのか、どんな分野から手をつけたらいいのかと悩まれたようです。そういう勉強も大切ですが、私がお願いしたかったのは、子どもの視点で疑問を持ち、その疑問を解決するために必要なことを調べたり、考えたりするということです。

たとえば、教科書に書かれている情報は無駄なものがないといっていいほど、よく練られています。子どもの視点で読んでみると、いろいろな「?」が浮かんできます。その「?」を追究していくことが教材研究につながります。教師がすぐに解決できないような疑問でも、これは追究に値する課題だと思えれば、子どもと一緒に考えることをしてもよいと思います。

先ほどの日記で書いた数学の例でいえば、「凹多角形(教科書にはこの言葉はありませんが)を考えない」と書いてあれば、「どうして」と思う子どももいるでしょう。中には、内角の和をいろいろと測って見て、凹多角形でもn角形の内角の和は(n−2)×180°と気づく子もいるかもしれません。そうなれば、きっとその理由が気になりだすはずです。こういう子どもがいるかもしれないと考えることが大切です。教師が教科書に凹多角形は扱わなくていいと書いてあるから、考えないという姿勢が問題なのです。
子どもがもし質問してきたらどのように対処するのでしょうか。「教科書に扱わないと書いてあるから考えなくてよい」と答えるのでしょうか、それとも「実は、・・・」と扱わない理由を説明するのでしょうか。教材研究の段階できちんとこういうことを想像し考えていれば、対応に困ることはありません。教師が証明も含めてしっかり理解していれば、「どうなるかな、調べてごらんよ」と余裕を持って子どもに追究をうながすこともできます。子どもがつまずいたり、新たな疑問が生まれたりしても問題なく対応できます。

こういうことは、何も数学だけに限ったことではありません。どの教科でも子どもが疑問を持つことはたくさんあります。

たとえば、ある小学6年生の社会科の教科書は、武家諸法度(部分要約)の資料の中に、徳川家光がつけ加えたこととして次のような一文を載せています。

・大名は、毎年4月に参勤交代すること。近ごろは、参勤交代の人数が多すぎるので、少なくすること。

本文には、

3代将軍となった徳川家光は、武家諸法度を改め、参勤交代を制度として定めました。

と書いてあります。

これを読んだ子どもは「???」となると思いませんか?
武家諸法度で参勤交代を定めたのなら、なぜ「近ごろは・・・」という文があるのでしょうか?
この「近ごろは・・・」の記述が資料にはない教科書もあります。ということは、「近ごろは・・・」を載せた教科書は子どもにこういう疑問を持ってほしいと考えたということでしょう。

インターネットなどで調べてみるとわかりますが、参勤というのは鎌倉時代からある言葉で、制度しては定められていなかったが秀吉のころにも諸大名は京都に屋敷を与えられ参勤していたようです。江戸時代になっても、家康の機嫌を取るために江戸に参勤していた大名もいたようで、家康も秀吉にならって屋敷を与えていたようです。この参勤を参勤交代制度として諸大名全部(水戸藩主は常に江戸詰め)に課したのが家光だったということのようです(だから、本文の記述は「制度として定めました」となっているようです)。
調べたから教えなければならないということではありません(教えたくなりますが・・・)。こういう疑問を持ち、解決しようという教師の姿勢が大切なのです。

大人だから持っている知識や常識にとらわれて読み飛ばすのではなく、子どもはどう読み取るだろうか、どう考えるだろうかという視点で教材研究をすれば、多くの「?」が見つかります。この「?」を追究していくことが教材研究となり、自然に勉強ができるのです。

メールをいただいた先生とのやり取りの中で、こういう素敵な言葉がありました。

なるほど、疑問を持てばそれを解決する為に調べる。学問の基本中の基本です。疑問に思わないと始まらないのですね。いつも「どうして?」としっかり考え、その1つ1つの問題を解決していきたいと思います。
生徒に「考える力をつけたい」と策を講じるより、このように教師がいつも疑問を持って生徒に対峙していれば、自然と一緒になって考えるようになるってことですね。

余計な思い込みを排し、子どもと同じように素直な気持ちで教材と接し、生まれた疑問を大切にする姿勢で教材研究に取り組んでほしいと思います。

担任が孤独にならない、孤独にさせない

学級経営は担任にとってとても大切な仕事です。特に小学校では授業もほとんどを担任が受け持つので、担任にかかる責任は大きくなります。そのせいか「学級王国」といった言葉に代表されるように、他の学級には口出ししないかわりに、自分の学級にも口出しされたくないという風潮もあります。
小学校に限らず、学級のことはどうしても担任が抱え込む傾向が大きくなります。気になる子どもにかかわりすぎて、学級全体に目が行き届かず、気づいたときは立て直すのも難しい状態だったというようなこともよく聞きます。学級のことを過度に自分の責任と考えずに、早め早めにまわりと相談することが大切になります。学級経営は担任が主となっておこなうものであっても、一人でおこなうものではないのです。担任が孤独にならないようにまわりも気遣うようにしてほしいと思います。

そのためにも、互いに他の学級を見あうことは、できれば日常的におこなってほしいと思います。よかった悪かったではなく、そこで気づいた事実(子どものようす)を互いに共有するようにしてください。指摘された事実に対して、どう対処すればよいかわからなければ、素直に聞くようにしましょう。きっとよいアドバイスがもらえると思います。
逆に、アドバイスを求められたときに、「自分ならこうする」という言い方はちょっと控え目にしてほしいと思います。特に経験の少ない者にとっては、ベテランにとっては当り前のことがなかなか理解できなかったり、実行することが難しかったりします。相手の立場に立ったアドバイスを心がける必要があります。どうすればよいか、どんなことならできそうか、相手と一緒に考える姿勢で接してほしいと思います。

学年のリーダーや管理職は、学級経営の悩みを互いに聞き合える関係、互いに自分の問題として考える雰囲気づくりを心掛けてください。個々の学級の問題は、担任だけの問題ではなく、学年全体の問題、学校全体の問題と捉えて、組織の力で解決することを考える必要があります。担任を個別に指導するだけでなく、まわりからどう支えたらよいか、その方策を具体的にしていくことが求められます。そのためにも、各学級の様子をよく把握する必要があります。できるだけ時間をつくって、各学級を観察するようにしてください。
学級経営も学校経営の一部分なのです。

担任が孤独にならない、担任を孤独にしない。このことを大切にしてほしいと思います。

子どもの自己有用感を大切にする

学級づくりということが昔以上に大切だと言われるようになってきています。学級崩壊という言葉も、当り前のように耳にします。学級担任の一番の仕事は、教室の安全、安心とも言われます。子どもたちが安全に、安心して暮らせるというのは最低限守られなければいけないことです。そのためには学級における規律が大切になります。とはいえ、教師は警察官ではありません。ルールを守れない子どもを叱ったり、罰したりすることが仕事ではありません。いかにして子どもたちが、規律を守ることを大切だと思うようにするかが大切です。
もちろん、学級規律を維持するだけが学級づくりではありません。子どもたちが集団生活の中で学ぶべきことはたくさんあります。昨今のいじめの問題もそうですが、他者を思いやる気持ちを育てることも強く求められます。

学級づくりで大切なことはたくさんあると思いますが、私が意識してほしいと思うことは、子どもたちに自己有用感(自尊感情)をどう持たせるかということです。自分の存在が集団の中で意味をもっていると実感できれば、その集団を壊すような動きはしません。これだけで、学級づくりがうまくいくとは言いませんが、基本となるものだと思います。

子どもが自己有用感を持つ基本は、認められる、ほめられることです。教師が一人ひとりのよいところを見つけ、ほめることから始めることです(一人ひとりのほめる観点を意識する参照)。教師に認められることで、教師の話に聞く耳を持ちます。子どもに「聞きなさい」といくら言っても、教師が自分を認めてくれている、自分の話を受け止めてくれると感じていないと、なかなか聞いてはくれません。学級の規律をつくるためにも大切なことなのです。

教師に認められること以上に大きいのが仲間に認められることです。子どもたちと関係ができてくれば、次は子ども同士が認め合うようにすることです。教師が子どものよいところをほめるだけでなく、「○○さんのやったこと、みんなどう思う?」と子どもたちに投げかけ、子どもから「すごい」「がんばってる」「りっぱ」といった称賛の言葉を引き出すのです。授業中だけでなく、給食、掃除など学校生活のあらゆる場面で子どもたちのよさを見つけるようにすれば、どの子どもにもほめるところが見つかるはずです。こうして、学級の中に一人ひとりの居場所(自分が自己有用感を持てる場所、場面)をつくっていくのです。自分の居場所がある子どもは精神的に安定します。自然に落ち着いた、安定した学級になっていきます。また、よいところを学級全体で共有し認め合うことで、教室によい行動が広がっていきます。

学級づくりに直接関係ないように思われますが、家庭との連携も大きな要素です。家庭に居場所がない子どもは、学校で荒れやすい傾向があります。子どもに対して要求、指示、注意ばかりで、認めることが少ないと家庭に居場所がなくなります。意図的に認める、ほめることが大切です。私は保護者に対して、子どもに「ありがとう」を言うようにお願いします。基本は「あなたがいてくれて、ありがとう」です。いい子だからうれしい、○○だからうれしい、だからありがとうではないのです。無条件に子どもの居場所をつくってほしいのです。その上で、子どものよいところを認め、ほめるのです。
そのためには、学校生活での子どものよいところをできるだけ親に伝えることが必要です。「学級通信」で、具体的に名前をあげてほめる(特定の子どもに偏らない、全員が登場するように配慮する)。一人ひとりのよいところを「通知表」や「いいとこ見つけ」(一人ひとりのよい行動を具体的に記録したもの)で伝える。こういうことも、子どもの自己有用感を高めるために大切なことなのです。

学級づくりを考えるとき、子どもたちに自己有用感を持たせるという視点を持ってほしいと思います。ここに挙げたこと以外にもいろいろな方法があると思います。子どもたち一人ひとりが自己有用感を持ち、自分の居場所を持てる学級を目指してください。
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