解いた問題量と成績は比例する!?

「解いた問題量と成績は比例する」ということを言う教師がいます。私はこのようなことは絶対に言いません。逆にこのことを強く主張する教師を信用するなとも言っています。

解いた問題量が0に近い子どもが問題に挑戦すればまず間違いなく成績は上がると思います。しかし、あるところで頭打ちになってきます。理由はいくつかありますが、やみくもに問題を解いて身につく力は限られていること、学習時間に限界があるため1日あたりの解く量には限界があることが主なものです。

問題を解いて、知識や解き方のパターンを「覚える」という学習では、結局記憶量を増やすということです。覚えても忘れることは当然ありますが、単純にたくさん覚えればそれだけたくさん忘れるわけで、効率は漸減していきます。知識を有機的につなげ、より上位の概念で統合するといったことをしていかないと効率は上がりませんし、活用することもできません。ただ解けばいいというものではないのです。運動を例にすればわかると思いますが、練習量は大切な要素ですが、その内容も問われます。工夫はとても大切なことです。また、1日当たりに可能な練習量にも限界があります。そのため効率的な練習が求められるのです。

とはいえ、問題をたくさん解くことを否定しているわけではありません。ただそれだけでは到達できる場所は限られているのです。小中学校では求められる知識や力はそれほど高いものではありません。問題量だけでもクリアできることが多いのも事実です。しかし、高校ぐらいの内容になってくるとそうはいきません。高校になって勉強がやりきれない、時間が足りないと学習面の悩みを訴える子どもの多くは、覚える、問題を解くことのくり返しで学習していることが多いのです。
逆に中学校では求められる知識は相対的に少ないので、単に問題を解く、解ければよいという学習から、自分で知識を整理し、メタな考え方を身につけるような学習へと質を変えていくだけの余裕があるはずです。早い時期に質の転換をはかるべきなのです。
また効率的に問題を解くという視点では、すべての問題を解くのではなく、どの問題を解けばいいか考えることも大切です。数学などでは、たくさん解くのではなく、深く解くという考え方もあります。1つの問題を徹底して考えることで、何十問、何百問を解くこと以上に力がつくこともあります。

「たくさん問題を解きなさい」というのは教師にとって安直な指導です。教師は問題を準備するなどの環境面さえ整えれば、あとは勉強ができないのは、問題を解かなかった子どもが悪いという言い訳をしているようなものです。授業を通じて、どのように学習すればよいのか、また問題とどのように向かい、そのことをどうやって活かすかをきちんと指導しなければなりません。もちろん学習には個人の能力や特性によって適した学習方法は異なります。だからこそ、自分で見つけろではなく、それを見つけるための方法論やアプローチを示してほしいのです。

私は高校教師として中学時代トップクラスの学力だったはずの子どもたちが伸び悩む姿をたくさん見てきました。その多くが、解いた問題(勉強)量と成績が比例すると信じ、学習の質を変えることに気づけなかったことが原因のように思います。彼らの学習の質を変えることができなかったことが今でも悔やまれます。なまじ中学校で成功体験を積んでいたことが災いしたのかもしれません。

「解いた問題量と成績は比例する」というのは一面では正しいことです。しかし、安直にこのことだけを子どもに強いないようにしてほしいのです。「解いた問題量で成績を上げる」という成功体験から早く子どもを解放してほしいのです。

私が、「解いた問題量と成績は比例する」と決して言わないのはこういう理由からなのです。

個の問題か全体の問題か意識する

学級が落ち着かない、授業に集中しないと感じるときがあると思います。このように、うまくいっていないと感じることが学級にあるとき、どのように対応していけばよいのでしょうか。

まず、その理由を少し詳しく考えてみます。たとえば落ち着かない状態と感じる場合、どの子とどの子が落ち着いていないと具体的に特定できる状態なのか、それともかなりの数の子どもがそういう状態なのか。特定の場面なのか、いつもなのか。そういったことです。特に意識してほしいのが、特定なのか多数なのかです。個の問題か全体の問題といいかえてもよいでしょう。
一般的には個の問題が全体に広がっていくということが普通です。個の問題であるということは、早期にその兆候をつかんだともいえます。全体の問題であれば、個の問題が広がった状態なのか、行事の後などで一気になったのかどちらかの場合が多いでしょう。

では、その対応です。個の問題の場合、多くの子はきちんとしているわけです。それなのに全体を注意してばかりいては、彼らがいやになりますし、その原因となっている子どもに対しても悪感情を持ってしまいます。最悪の場合、教師に対する反発が、乱す子どもへの同調となって表れます。このようなことを避けるため、全体に対する注意をせずに、個の子どもに対して、「・・・しよう」とよい行動を促すようにします。もちろん、よい方向に変わればすぐにほめることも忘れてはいけません。
なかなかあらたまらない場合は強く叱ることも必要ですが、短く済ませて他の子どもの時間をとらないようにします。そのかわりに、放課後に時間をとってじっくり話をするなどの対応をすることになります。時間をかけて話を聞くことで思わぬことが原因として見つかることもあるのです。このように、個の問題は全体と切り離して対応することが大切です。一方で、個にかかわりすぎて他の子どものことが置き去りになってはいけません。きちんとできている多くの子をちゃんとほめることも忘れないようにしてください。

全体の問題の場合でも、きちんとしている子どももかなりいると思います。全体に対して注意することは有効ですが、自分のことではないと思う子どももいます。学級全体の問題として意識させることが大切になります。朝の時間や帰りの時間を使って、今の学級の状況をどう考えるか、それに対してどうするかを考えさせます。学級の目標にして、チェックする習慣をつける方法もあります。そのとき、「できなかった」を注意するのではなく、「できた」をほめるようにすることが大切です。進歩をみるようにすれば、たくさんほめることができるはずです。

学級に対して感じるマイナスな状態は、素早く対応していくことで問題が大きくなる前に解決できます。個の問題か全体の問題かを意識して、それに応じた対応を心掛けてほしいと思います。

保護者からの相談への対応

子どもについての相談で保護者と話をすることがあります。ときには、苦情を受けることもあります。ちょっとした言葉の行き違いがトラブルにつながることもあります。保護者とへの対応ではどのようなことに気をつければよいのでしょうか。

次の例を見てください。

「うちの子が、どうも学校がつまらないようなのですが」
「そうですか? 授業中もしっかり手を挙げていますし、友だちとも仲良くしていますが・・・」

「うちの子が、どうも学校がつまらないようなのですが」
「なるほど、学校がつまらないようなのですね。授業中もしっかり手を挙げていますし、友だちとも仲良くしているように感じますが・・・。もう少し詳しく聞かせていただけますか」

保護者から学校がつまらないようだと相談されています。教師から見ると全くそういうことはないので、安心してもらおうと学校での様子を伝えているのですが、最初の例では、「そうですか?」と疑問で受けています。保護者からすると自分の言葉を否定されているようにも感じます。一方後者の例では、「なるほど」と受容してから保護者の言葉をくり返しています。聞いてもらえたと感じます。また、「感じます」とやや曖昧に言うことで、否定のニュアンスを弱めています。
保護者は自分の言葉を教師に聞いてもらえるか不安に思っています。たとえ保護者の意見が受け入れがたいものでも、まずは、きちんと聞いていることを伝え、その上で、こちらの考えを伝えるという手順を踏まなければいけません。

先ほどの続きです。

「実は先日、食事の時に学校はどうと聞いたところ、つまらないと答えたので、詳しく聞こうとしたのですが、答えてくれなかったので気になっていたのですが」
「そうですか。わかりました。友だちとけんかでもしたのかもしれませんね。私の方でも注意して様子を見ておきます」

「実は先日、食事の時に学校はどうと聞いたところ、つまらないと答えたので、詳しく聞こうとしたのですが、答えてくれなかったので気になったのですが」
「なるほど、それでご心配だったのですね。ご相談いただき、ありがとうございます。どうでしょう。2・3日のうちに私の方で一度話を聞いてみて、その上でもう一度お話させていただきたいと思うのですがどうでしょうか」

保護者からの具体的な話に対して、最初の例では、友だちとけんかしたのかもしれないと言っています。保護者の心配を軽くしようとして言っているのでしょうが、聞き様によっては、これも保護者の考えを軽んじているようにもとれます。また、注意して見ておくといっても、フィードバックをどのようにするか伝えていないので、うやむやにされてしまうように感じられるかもしれません。一方後者では、「ありがとう」とお礼を言っています。保護者から相談を受けることを肯定的にとらえていることを伝えると同時に、子どもに関することは自分の問題でもあると伝えていることにもなります。また、時間を切って対応とフィードバックを示したうえで、「どうでしょうか」と保護者の同意を求めています。子どもをはさんで向かい合うのではなく、親と同じ側に立って寄り添っていると感じてもらえます。

時として、保護者と教師が子どもを間に挟んで対立的な立場にあるように感じられることがあります。教師は保護者と一緒に考える姿勢を見せて、子どもを育てる仲間であることを伝える必要があります。まずは、保護者の言葉を受け止めて、その上でこちらの考えを一方的にならないように伝えることが大切です。対応についても保護者の意向をきちんと確認することが必要です。
保護者は教師にとって子どもたちを育てるための大切なパートナーだということを意識して接してほしいと思います。

保護者の授業を見る目

学校公開日などで保護者へのアンケートをどのように実施するかということは、学校ごとに工夫がされています。先日の研究会でも話題になったのですが、特に授業についてのアンケートをどう考えるかは悩ましい問題です。

・そもそも保護者は自分の子どもしか見ていない、信頼に足る意見が得られるのか。
・アンケート(評価)項目を工夫することで、有意義な情報となる。
・アンケート(評価)項目を保護者と一緒につくることで、保護者の視点がわかるし、学校側の視点も伝えることができる。
・保護者のアンケート結果と、ふだん校長が授業を見て感じているものとのずれは少ない。保護者に授業を見る目はある。
・自由記述欄に書かれたことが、保護者の言いたいことだ。それをきちんと受け止め対応していくことで保護者の信頼や理解が得られる。
・・・

いろいろな考えがありますが、学校の一番の根っこである授業に関して、保護者とのコミュニケーションを否定的にとらえることは、マイナスのように思います。
確かに、保護者の興味は自分の子どもが中心でしょうが、少し意識を変えていただければ授業を見る目は十分に信頼できるものになると思います。

昨年度PTAで講演したときに世話役だった方から先日届いたメールに、授業参観の話がありました。
今までは授業参観は自分の子どもの授業態度ばかり見ていたが、今回は「どんな授業の進め方をしているのか?」「子どもたちはどんな反応をしているのか?」と自分の子ども以外の態度まで気にして、まるで先生を審査するように見たそうです。先生によって本当にいろいろで、ベテランだから授業の進め方が上手というわけでもないと思ったそうです。
実際にこの方の感想が的を射たものであるかどうかははっきりとは言えませんが、授業の進め方、他の子どもの態度に注目したという時点で、かなり信頼に足る、聞く価値のあるものだと思います。
この方は、私の講演後ときどきこの日記を見て、子育ての参考にしていただいているそうで、とてもうれしく思っています。この日記を通じて、授業を見る視点を意識されたことが授業参観の仕方を変えるきっかけになったのだと思います。

授業で何が大切なのか、何を大切にしているのか。どこを見るべきなのか、どこを見てほしいのか。このことがきちんと保護者に伝わっていれば、授業のアンケートはとても有効なものになると思います。学校が目指す授業をポジティブに評価していただけ、先生方が元気になるはずです。学校HP(ホームページ)で、授業のよい場面やその解説を毎日のように発信している学校があります。こういう学校は間違いなく保護者の授業評価を意識しているはずです。保護者の授業を見る目を肥やした上での授業アンケート(評価)がどのようになるのかとても楽しみです。

「愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の開催決定

愛される学校づくりフォーラム2013 in 東京」の開催が決定しました。
前回のフォーラムを受けて、再度名人にICTで挑戦ということで、今回はベテランの佐藤正寿先生(佐藤先生ブログ)が有田先生に社会科で挑戦します。申込み等については追ってお知らせしますが、是非予定を空けておいてください。今回も皆様に満足していただけるものになると確信しています。

期日 平成25年2月16日(土)

時間 第1部 午前10時〜正午
    第2部 午後1時〜午後4時

場所 東京ビックサイト
   
内容 第1部  愛される学校づくり研究会より提案
    第2部前半
       授業名人に再び!模擬授業(ICT活用)で挑戦その1(仮称)
       有田和正 vs 佐藤正寿(ICT活用)
       同テーマで有田先生、佐藤先生が模擬授業を行います。
    第2部後半 パネルディスカッション
    コーディネータ  堀田龍也
    パネラー     有田和正、佐藤正寿、副島孝、大西貞憲

愛される学校づくり研究会に参加

先週末は愛される学校づくり研究会に参加しました。今年度第1回ということで、新しい会員も増えて盛会でした。
来年度のフォーラムの概要も決定し、皆様にお知らせできるようになりました。この件に関しては別記事でお知らせします。

メインのテーマは「4月の学校づくり」ということで、今年度異動で新しい学校に赴任された校長のこの1月の学校経営についての報告をきっかけに話が広がっていきました。
お話をうかがっていて、どの校長も学校HP(ホームページ)をコミュニケーションツールとしてうまく活かしていることがよくわかりました。
新しい校長が赴任して学校が変わろうとしていると保護者が一番に感じるのが、学校HPのリニューアルです。年度変わりのこの時期、保護者や地域の方が学校HPにアクセスする機会が増えます。このときにHPがリニューアルされ、新しい発信があり、記事のカテゴリーが変化したり増えたりしていると、新校長の学校経営の姿勢が強く印象付けられます。どの校長もそのことを意識して、素早くリニューアルしていました。
学校HPのシステムは更新が簡単にできるものが普及してきましたが、全体のリニューアルが学校で簡単にできるということも大切な要素だと強く感じました。何日もかかったり、業者にお願いしなければならなかったりするようでは大切な時期を逃してしまいます。今回の新校長の動きは、簡単にリニューアルできるシステムの普及と無縁ではないと思いました。

HPの学校経営への活かし方という視点でみると、とりあえず学校で起こっていることを毎日記事にして発信するというものから、ずいぶん進化してきていると感じました。HPでの発信が、保護者や地域だけでなく、教員や児童生徒も意識した戦略的なものになってきているのです。
そのことを少し説明しましょう。

・校長が目指す学校の姿を切り取ったものになっている。
たとえば子どもたちが落ち着いて学び合っている学校を目指すのであれば、子どもたちが柔らかい表情で友だちの考えを聞いている姿を写真に撮る。そして、その場面のどこが素晴らしいかを具体的に解説します。
これは、保護者や地域の方に学校のよい姿を伝えて安心してもらうだけでなく、教師にとっても強いメッセージとなります。今学校で目指しているものは、こういう姿となって表れると伝えることで、個々の教師の授業での目標が明確になります。記事に取り上げられた教師には励みになります。こういう記事が積み重なっていくことで目指す姿に近づいていくのです。
そうはいってもなかなかそういう場面に出会えないとおっしゃる方があるかもしれません。たとえ一瞬でもそのような状態があればその瞬間を切り取ることで伝えることができます。いいとこを見つける視点で校内をまわることがとても大切です。

・子どもに提示した行動目標が達成できている場面を記事にしている。
4月の式等で、子どもたちに行動目標を提示している校長は多いと思います。たとえば「凡事徹底」という目標を提示したとします。校長が何度も話をすればその言葉と意味はわかるかもしれません。しかし、それが具体的にどのような行動かを伝えるのはなかなか簡単ではありません。それをHP利用しておこなうのです。お昼休みにトイレのスリッパがきちんと整頓されていればそれを「凡事徹底」というカテゴリーの記事にする。学級全員が名札を忘れずにつけていれば、そのことを記事にする。その上で、職員に「今日はこのようなことを記事にしました。子どもたちをほめてください」と伝えるのです。こうすることで職員も「凡事徹底」を意識しますし、子どもたちをほめることで教師と子どもの人間関係をよくするきっかけになります。こういうことを積み重ねることで、子どもたちもどのような行動をすればよいのかわかってきます。もちろん、地域や保護者の方にも子どもたちのよさを伝えることができます。学校を見る目がポジティブに変わり、教師や子どもが自信を持つようにもなっていきます。

今年度このような戦略的なHPが私の周りで増えたのは、間違いなくこの研究会が影響しています。今回よくわかったことは、皆さんが互いの学校HPを見合ってしっかり研究していることです。研究会の場だけでなく、日ごろから互いの学校経営を学び合っているのです。そのことが、学校HPにも強く表れたのです。今回も多くのことを学べた研究会でした。皆さんに感謝です。

若者から教えられる

昨日、仕事を手伝っていだくことになったアルバイトの学生さんと打合せをおこないました。今年大学に進学されたばかりの方で、大学受験のことについて少し雑談をしました。
非常に優秀な方ですが、ほんのわずかな差で第1希望の大学は不合格でした。その話を聞いて私は来年もう一度挑戦すればいいのにと思ったのですが、話を聞いてなるほどと納得しました。そして同時にとても感心したのです。

彼は、「浪人してもすることがないように勉強した」のだそうです。あとから、あれをやっておけばよかったと後悔することがないように、できることとはすべてやったのです。その上での結果なので、悔いはないというのです。とてもすがすがしい気持ちになりました。どれだけの人がこのようなことを言えるのでしょうか。

私が教員時代に同僚が受験勉強について生徒を叱咤する次のような言葉を思い出しました。私が大嫌いな考え方です。

「自分はもう少し勉強していればもっといい大学に入れていた。後悔している。だから、君たちは後悔しないようにもっと勉強しなさい」

彼らは、世間的にはよいといわれる大学を卒業しています。その彼らがもっといいという学校は、本当にもう少し勉強していればいけたのでしょうか。「もう少し勉強してれば」などという言葉は自分の能力や才能という問題から目をそむけた、自分に都合のいい言い訳です。努力できるのも立派な才能です。「もう少し勉強できなかった」のは、それだけのものだったのです。また、勉強時間に比例して伸びるというのはあるレベルまでです。才能の問題だけではなく、勉強の仕方の工夫など多くの壁があります。そのことを考えさせずに、ただ勉強しろというのは、誰にでも言える無責任なアドバイスなのです。

それと比べて彼の言葉の何と立派なことか。また、彼は「もし浪人するなら、勉強のやり方そのものを変えなければいけない」とも言っていました。やりきってダメだったのだからやり方を変えなければいけないと冷静に自分の学習を分析しています。やりきったからこそ言える言葉でもあります。

私自身、彼のようにやりきったと言えるだけのことをしてきたのかと聞かれると、とても自信を持って答えられそうもありません。まだ若い彼から大切なことを教えられた気分です。
これからしばらく仕事でかかわれることをとてもうれしく思います。若い彼からたくさんのことを学べそうな予感があります。彼との出会いに感謝です。反対に私が彼に何か少しでも与えることができればよいのですが・・・。

地域と学校の連携に関する講座の打合せ

昨日は、生涯学習センター主催の講座の打ち合わせに出かけてきました。中学校区の保護者を対象にした学校・家庭・地域の連携に関する講座です。通常、生涯学習センターは学校、PTAと保護者との橋渡しが中心で、細かい打ち合わせにはかかわらないのですが、今回の講座は特別なもので、区内の中学校をモデル的に1校選んで、5回の講座を総合的にプロデュースするそうです。

講座の内容は、情報モラル、思春期の子どもとの接し方、コミュニケーションスキル、防災など多岐にわたっています。私はその第1回ということで、ガイダンス的に学校、保護者、地域が連携して子どもを育てることの意味をお話します。とはいえ、あまり抽象論になってもいけないので、できるだけ具体例をあげながら、自分の子どものことだけでなく、地域の子どもを自分たちで育てるという意識を持っていただけるような話をしたいとお伝えしました。
やらされている感の強い活動ではなく、自分たちが充実感、有用感をもてるような活動にするためのヒントとなるような話しができればと思っています。
幸いにも、私がかかわっている学校の中には、地域と学校が一体となって積極的に子どもを育てているところがあります。この学校で起こってきたことを伝えることで、地域と学校の連携のポイントを理解していただけると思います。

今回の講座のように、行政が地域と学校の連携に対して積極的な支援活動をおこなうようになってきました。子育てを学校や保護者だけの問題でなく、地域社会の問題としてとらえるようになってきた証拠だと思います。とはいえ、現実はそれほど簡単なことではないでしょう。各地で試みられている色々な取り組みを通じて、試行錯誤を繰り返しながら少しずつ前進していくものだと思います。
私にできることはごく限られたことでしかありませんが、与えられた機会を少しでも意味のあるものにしたいと思っています。

うれしいメール

昨日私がアドバイザーをしている学校の前教頭を通じてある学校から授業アドバイスの依頼がありました。喜んでお引き受けしましたが、その夜に1通のメールが来ました。私がアドバイザーをしている学校から昨年その学校へ異動になった先生からでした。メールでこの先生が今年度から現職教育の担当となって私を推薦してくださったのだと知りました。

初めてこの先生の授業を見せていただいたときに、授業規律とそれをつくる指導力に感心したことをよく覚えています。このようなベテランに私が直接アドバイスする機会はほとんどなかったのですが、数年の間にその授業は笑顔が増え、子どもを受容する場面が多くみられるようになりました。まわりから吸収して、コミュニケーションのあり方を意識的に変えようとしていることがよくわかります。自分のスタイルを持っているベテランはなかなか変わろうとしないものですが、授業にこだわり、進歩しようとしている姿勢をとても素晴らしいものだと思いました。
このような方に推薦いただけたことを本当にうれしく思いました。

メールの中で次のようなことが書かれていました。

授業で生徒を変える、授業で学校を変える、こういう意識が先生方に芽生えれば学校は良くなると思っています。意識して授業力をアップしていくことが生徒の信頼と信用を得ることにもつながります。

全く同感です。こういう視点で現職教育が組まれていけば、学校はきっとよい方向へ変わっていくと思います。どのような形でかかわっていくかはこれからですが、私にとってもよい学びの機会なると確信しています。

授業を大切にしたい、授業を通じて子どもを育てる、そういう学校が増えてきているように感じます。とてもうれしいことです。また、授業を大切にしようとしている学校のお手伝いができることに感謝しています。5月の連休が明ければ、学校への訪問も本格化していきます。どのような出会いがあり、どのような学びがあるのか、今からとても楽しみです。

用語の説明を考える

新しい用語を説明する時に注意してほしいのが、ゆるぎない定義と感覚的な理解です。用語は概念や事象を互いに共有するための大切な言葉です。人によってその意味するところがずれてしまっては困ってしまいます。ずれた時のよりどころになる、ゆるぎない定義が求められます。一方、ゆるぎない定義は、論理的ではありますが、感覚的にはわかりにくいことがあります。定義をまる覚えしても、その用語を理解したわけでも使いこなせるようになったわけでもありません。感覚的に理解できることが大切なのです。
したがって、用語を扱う時には、まず教師がその用語の正しい定義を理解しておく必要があります。その上で、子どもたちの成長に応じた定義や感覚的に理解するための説明や活動を考えることになります。

たとえば、社会科の緯度・緯線、経度・経線を考えてみましょう。正しい定義はどのようなものでしょう。

ある地点の緯度とは、その地点における天頂と赤道面のなす角の大きさで表され、赤道面より北を北緯、南を南緯という。
ある地点の経度とは、その地点と北極・南極を通る円(大円となる)(この線を経線と定義してもいい)と基準となるグリニッジ天文台と北極・南極を通る円のなす角(それぞれの円を含む平面同士のなす角)の大きさ(180°以内)で表され、基準より東を東経、西を西経という。
同じ緯度の点をつないだものを緯線、同じ経度の点をつないだものを経線という。

このようなものになるでしょう。小学生には、このような定義では理解できません。そこである教科書では、地球儀の横の線を経線、縦の線を緯線として感覚的に定義しています。その上で、経線は北極と南極を結ぶ線と説明をつけ加えています。これが、本来の定義に近いものですが感覚的なものを優先しています。角度も180°ずつに分ける、90°に分けるといった感覚的な説明です。
しかし、これだけではまだまだ理解できるわけではないので、都市の緯度や経度調べたり、その逆に緯度や経度から都市を見つけたりする活動が必要になります。方位と東経西経の違いを理解するために、テープで日本の東や西にある場所を見つけるような活動も必要でしょう。

これが中学生になると定義はより正確になってきます。縦の線、横の線といった表現は感覚的に理解するためには使ってもよいでしょうが、北極と南極を結ぶ線、南北の線といった表現、赤道面と平行な平面で切った線といったより正しい表現を使うようにすることが必要です。
緯度や経度の大きさがどこをはかっているのかも明確にします。
こうすることで、ゆるぎない定義に近づけていきます。
その一方で、緯度や経度を使って位置を示すようにしたのかを考えるような活動をすればより論理的な思考ができるようになります。
地球における絶対的な基準が地軸であること、なぜ、距離ではなく角度を使うのかといったことにも気づけると思います。

教材研究では、まず用語の正しい定義をしっかり調べて理解した上で、教科書の定義や説明と比べることをします。あえて教科書が感覚的している部分があればその意味を考える、感覚的に理解するためには、どのような言葉に置き換えたらよいのだろうか。どのような活動が必要だろうかを考えます。そのとき正しい定義に含まれている内容を教師がしっかり理解していれば、どこをポイントとすればよいかすぐにわかると思います。
教科書に出てくる用語については、教科書の定義を鵜呑みにして授業を組み立てるのではなく、必ず一度は自分で調べてきちんと理解してから、どう理解させるか考えてほしいと思います。

ベテランと若手のずれ

あるベテランからこんな話を聞きました。今年度その先生の副担任になったのは新卒の常勤講師でした。「朝と帰りのS.T.(短学活)の時間、教室を見に来ていいよ」と伝えたのですが、その先生は学級開き直後のL.T.(学級活動)の時間を1度参観しただけで、その後1度も担任の学級経営を見にこようとはしませんでした。1年間で1番大切な時期の学級経営を見ることは勉強になるのに、盗む気がないのか。出張の時には代わりにS.T.に行ってもらうことになるのに、その時困ると思わないのか。と若手の行動が理解できないようでした。これ以上言っても強制になるし、それも嫌だからもう自分からは積極的にかかわらないと決めたそうです。

若手からは直接話を聞いていないので、想像でしかありえませんが、初めての授業で手いっぱいで、精神的に余裕がなかったのかもしれません。そもそもS.T.は自分の生徒としての経験から単なる連絡であって大切なものとは思っていなかったのかもしれません。いずれにしても、ベテランから学べる貴重なチャンスを失くしてしまったようです。
自分のことを振り返ってみると、新任のとき、副担任をしている学級のS.T.を私から見せていただくようにお願いし、また年度の途中からは半分任せていただけました。後の私の学級経営の基本となることを学ぶことのできた1年間でした。当時は私のように、みな自分から盗みにいっていたように思います。最近の傾向でしょうか、若手が盗もうとしないという話をベテランからよく聞きます(「盗む」という文化がなくなってきている?参照)。また、S.T.が学級経営にとってとても大切であることを知らないのは仕方ないにしても、ベテランがわざわざ水を向けたことには意味があるはずだと思う想像力のなさも、問題かもしれません。

では、若手だけの問題でしょうか。勉強しに来なさいというのおこがましい気がして言いにくいかもしれませんが、ベテランも4月のS.T.はとても大切な時期だから、観にきたらと、誘う理由を明確にしてより強く言えば事態は変わったかもしれません。もっと強く働きかけることが必要になっていると思います。

このようなずれを、個人レベルで修正するのは人間関係のこともあり、なかなか難しいように思います。大切なのは、学年主任や教務主任、管理職が意識して対応することです。今回のようなS.T.の参観に限らず、若手にはベテランから具体的にどのようなことを学ぶとよいかを伝え、ベテランにはあなたのここが素晴らしいから若手に学ぶように言ったと伝え、気持ちよく対応してもらう。学年や職員の打ち合わせの場で、たとえば今回の例であれば、「この時期のS.T.はとても大切です。担任の経験のない方は是非ベテランの学級経営を学ぶようにしてください。ベテランの方も出し惜しみせずに若手に学ぶ機会を与えてください」とベテランと若手の交流を促し、互いに学び合う雰囲気を学校につくる。このようなことが大切になります。

ベテランは「若手が盗みにこない」、若手は「先輩が教えてくれない」。互いにこんな言葉を発しています。このようなずれを少しでも減らすために、管理職やリーダーの方が意識して働きかけ、先生同士が学び合う雰囲気をつくってほしいと思います。

学習と部活動の両立

新年度が始まり、授業が本格的にスタートして1週間ほどでしょうか、学校ではまだまだ落ち着かない日が続いていることと思います。ゴールデンウィークが過ぎれば部活動も新入生を迎えて本格化していきます。特に新入生にとっては新しい環境でよいスタートを切れるかどうかとても大切な時期になります。
中学校や高等学校では、学習と部活動の両立ということが大切にされています。両輪という言葉もよくつかわれます。この2つをともに充実したものにすることはとても大切であり、また難しいことだと思います。

とかく教師は安直に両方とも頑張れという言葉を使います。また学級担任によっては、部活動は顧問の問題と考え、あまり意識をしない方もいらっしゃいます。その逆に顧問が部の子どもたちの学習状況に頓着しないこともあります。そうではなく、双方が互いに意識して子どもたちに接する必要があります。一方からは学習を頑張れ、もう一方からは部活動を頑張れといわれても、子どもの体は一つです。どちらかに偏ってしまったり、時として共倒れになってしまったりすることもあります。バランスをどのように取るかが問題です。子どもたちが、部活動が負担になって、学習時間を確保できなくなっていないか、学習面でつまずいて部活動を止めたいと思っていないかなど、互いに意識し合い連携をとる必要があります。

学習と部活動を両輪にたとえて、一方だけしか回さないとその場でぐるぐる回って前へ進まないとよく言われます。とはいえ両方を同時にバランスよく回すのはとても難しいことです。私は、同時は無理でも交互になら回せると思っています。右だけ回すと左に向きます、次に左を回せば右に向きます。蛇行はしますが結果的に前へ進みます。どちらが先かは別にして、今は学習にエネルギーを多く使う、今は部活動にエネルギーを多く使う。そんなリズムを持つことです。子どもたちが自分でコントロールできればいいのですが、最初のうちは、教師が意図的にコントロールすることが大切です。学級担任、部活動の顧問が共通の認識を持って、「今は学習のリズムをつかむときだ、部活動が終わって疲れているかもしれないがすぐに宿題だけでも片づけるくせをつけよう」「もうすぐ部活動が本格化するから今のうちに予習に力をいれて少しでも貯金をしておこう」といったことを伝えるのです。学級担任と部活動の顧問の連携は個々にやっていると無駄が多くなります。できれば、学校全体または学年全体で歩調を合わせると効果も高いと思います。

また、部活動の個別の事情や学年によっても状況は変わってきます。部活動の先輩が後輩に両立のコツを伝えたり、悩みの相談を受けたりする。学級で互いに悩みや工夫を聞き合う。こういうことも必要になります。もちろん個別に教師が相談の受け皿になることも必要です。いずれにしても頑張れと励ますことよりも、具体的にどうすればよいか明らかにすることが大切です。

学習と部活動の両立は、教師がどう関わるかがとても重要です。学級経営、部活動の経営の柱として意識してほしいと思います。

道徳で大切にしたい問いかけ

新学習指導要領でも道徳の充実が言われています。今まで特別活動の時間などに奪われがちだった道徳の時間が重視されてくることと思います。
道徳の授業で大切にしたいことの一つに自分に引き付けて考えるということがあります。資料の登場人物の行動について、どうしてと理由を聞いたり、その是非をたずねたりする授業に出会うことがあります。しかし、登場人物について離れた立場から考えても、それはあくまでも他人事です。自分と違う考えに出会っても、「そういう風にも考えられる」となってしまいます。そこで、「あなたならどうする」と、自分に置き換えて考えさせることが大切になります。互いに「私」が考える行動を聞き合うことで、違った考えは「私」に対する問いかけになります。同じような考えは「私」に対する承認になります。こうしてより広い視野で、より深く考えるようになります。こうしたことの積み重ねで心が育っていくのです。

そのためには、自分の問題として考える前に、資料の状況等をきちんと理解しておくことが必要になります。国語の授業と違って、教師が資料を読みながら「○○したら・・・、××したら・・・、どうしたらいいか困ってしまったんだね」といった解説を入れるなどして、できるだけ早く正確に状況を理解させるようにします。その上で、「あなたならどうする」と問いかけるのです。

道徳の授業では、正解求めたり、こうしろと強要したりしても意味はありません。極端な例ですが、万引きをする人は、万引きは犯罪であることは知っています。万引きは悪いことだ、万引きをしてはいけないと言ったところで意味はあまりありません。自分がしてはいけない思うことが大切なのです。それは、外部からではなく、自分の内側からしか変われないことです。
ですから、子どもの考えに対して、よい悪いといった視点でのコメントは必要ありません。それぞれの考えに接して、自分の考えをもう一度問い直せばいいのです。

「○○さん、・・・すると言ったけど、それってどういうことかもう少し詳しく聞かせてくれる」
・・・
「なるほど、同じようにするという人いる。じゃあ△△さん」
・・・
「私は違うようにするという人いる。××さん」
・・・
「色々な考えが出てきたね。最後にもう一度、自分の考えを書いてみてくれるかな。最初と変わってもいいよ」
・・・

こうすべきだ、こちらが正しいといった議論ではなく、人の考えを聞き、自分の考えと比べ、もう一度考え直す。このことを繰り返すことで、次第に深く考えて行動できるようになっていきます。子どもたちが色々なことを「私」の問題として考える時間の一つとして道徳を活かしてほしいと思います。

学校の役割を考える

「学校の役割は、 子どもたちが、大人になったときに、生涯ちゃんとお金を稼げる人 に育てあげることです。その為には、社会で必要とされる 資格や 技術をしっかり身に付けることです」。この言葉がある校長のブログで書かれていました。もちろんこれが学校の役割のすべてということではなく、たまたま全国学力・学習状況調査の実施に関連して書かれていたことです。今、大阪では学校改革のキーワードとして、「ユーザー視点」という言葉が使われていますが、それに通じるものがあります。学校現場をまわっていると、自分の子どもの視点からだけで、全体のことを考えない意見を言われる保護者に出会うこともあります。「ユーザー視点」ということでいえば、これも認めるべきことなのでしょうか。

これからの日本の社会構造を考えれば、「生涯ちゃんとお金を稼げる」というのは、教育だけで何とかなる問題だけではありません。お金を稼ぐためには「資格や技術を身につける」という発想もちょっと単純すぎるような気がします。経済の発展が減速している状況では、なかなか職に就けない人も出てきます。構造的な問題です。パイの数より人の数の方が多いのです。資格や技術を身につけることは、ひところはやった言葉の勝ち組になる手段であり、その影には必ず負け組ができてしまいます。確かにユーザーという視点では勝ち組になることが大事に思えるのも理解できますが、校長という立場では、勝ち組になるというような発想ではなく、もう少し広い視点で学校の役割を語ってほしいと思いました。

少なくとも税金を投じておこなわれている公的な義務教育では、社会のためという視点が大切だと思います。私たちの社会をより良い形で持続していくための大切な担い手を育てるという役割が、常に第一であってほしいと思うのです。稼ぐことが一番の目的である企業も、社会に貢献する対価として利益を得ています。そうでなければ、暴力団との区別がなくなってしまいます。私は子どもたちに「社会の役に立つことで稼ぐ」という意識を持った人間になってほしいと思います。そのために、「役に立つ」「認められる」という経験がとても大切になります。自己有用感をもつことは子どもの学習や働くことへの原動力にもつながります。人の役に立つ、人から認められる経験を積むことを学校の役割として意識してほしいと思います。

正論しか言えない学級にしない

子どもたちは、ルールを破ったり、人の気持ちを傷つけたり、よくない行動をとることがあります。学級の中でそのような行為がおきたとき、教師はよい方向に向かうような対応を求められます。そのとき注意してほしいことがあります。それは、正論しか言えない学級にしないことです。

子どもがよくない行動をとったとき、自分ですぐにその間違いに気づいてそのことを認められれば問題はありません。しかし、間違っているにせよ、子どもなりの理屈を言ったり、本音の部分で話したりすることがあります。そのときに、教師が正論で子どもの発言を頭から否定しないようにすることが大切です。

「ゲームカードを学校に持ってくるのは禁止だったはずなのになぜ持ってきたのかな」
「ぼくはカード使って遊んではいません。レアカードを持っていると言ったら、本当かどうか疑われたので、証拠に持ってきただけです」
「みんなどう思う」
「ちょっと見せただけで、遊んでいるわけでもないから、いいと思います」
「でも、ルールは持ってきていけないとなっているから、ルール違反だね。見せるだけから、ちょっとくらい遊んでもいいだろうとなってしまうこともあるよ。みんなはどう思う」
「私は、持ってきてはいけないのがルールだから、やはりいけないことだと思います」
「そうだね、持ってきてはいけないルールを破ったから、いけないね。カードは先生が預かります。帰るとき返すからね」

子どもの考えに対して、教師が正論で反論しています。「持ってくるくらいならいい」と思っている子どもも、これでは自分の意見を言えません。教師の考えに近い子どもの意見だけを認めていると、教室の中に自分の考えは先生に認められそうもないから言わないでおこう、先生はきっとこう言ってほしいのだろうと教師の顔色をうかがう雰囲気ができてしまいます。教師が確固たる姿勢で臨むことは大切ですが、頭から否定するのではなく、子ども自身が本当にいけなかった思うことで間違いを正す必要があります。

「なるほど、遊んでなければいいという意見だね。同じような考えの人はいるかな」
「何人かいるね。もう少し聞いてみようか」
・・・
「それでは、他の考えはないかな。みんな、同じ考えかな。じゃあ、持ってくるのを禁止じゃなくて、遊ぶのを禁止にすればいいのかな。どう思う。ルールを変えたらどうなるかな」
「カードを持ってきたら、つい遊んじゃうと思います。遊ばない自信はないです」
「なるほど、遊んじゃいそうか。同じよう思う人はいるかな。あっ、結構いるね。どうすればいいのかな」
・・・

できるだけ、子どもが自由に意見を言えるように、たとえ認めがたい意見でもまず認めて、子ども同士で考える中で修正されるようにします。
間違った意見を教師がすぐに否定すると、正論しか言えない雰囲気が教室に広がります。子どもたちの本音の部分は陰に隠れて、見えないところでよくない行動をとるようになってしまうこともあります。そうではなく、本音の部分を出しあったうえで、本当にどうあるべきか判断できるような子どもを育てることが大切です。教師は権力者です。教師の考えに反対できる子どもはなかなかいません。教師が正論を押し付けて、正論しか言えない学級にしないことが大切です。

なくてはならない人から、いなくてもよい人になる

「なくてはならない人から、いなくてもよい人になる」。これは、私が大切にしている考えです。学級を運営する上で学級担任は絶対的な統率者でなければいけません。子どもたちは未熟です。指導することが必要です。子どもたちが安心して学校生活を送れる環境をつくるために教師はなくてはならない存在なのです。新年度が始まった4月は全力で学級のルール作り、組織化を進めます。この時期にきちんと学級のルールを子どもたちに浸透させなければ、1年間苦労をすることになってしまいます。この1月を乗り切るとその後の学級経営はとても楽になります。教師の指示がきちんと通る。係活動が円滑に進み、子どもたちが落ち着いて学校生活を送れるようになります。

しかし、子どもたちを育てるという視点で見ればここからが勝負になると思っています。どういうことかと言うと、子どもが教師を信頼し、教師の指示に素直に従うということは、受け身であるとも言えるからです。また、子どもが自分の指示に従うようになると、思うように子どもを動かすことができるので、学級の支配者となってなんでも細かく自分が決めて指示してしまうようになってしまう方もいらっしゃいます。学級の規律を保てばそれでよいのではありません。子どもたちが自ら考えて正しい行動ができるように育てることもとても大切なことなのです。「なくてはならない人」になるまでも大変なことですが、そこから一歩進んで「いなくてもよい人」になることが求められるのです。

学級が安定して動きだしたら、少しずつ教師が子どもたちにどうすればよいか考え、判断させるようにします。いきなり子どもに任せるのではなく、事前に学級委員や係の子どもと相談し、何が問題か整理し、どのように進めたらよいかを考えさせます。学級への提案は彼らからするようにします。行事なども、担任が先頭を走ってリーダーとして引っ張って行くのではなく、子どもたちのリーダーに任せて一歩引いて見守るようにします。行事は学級担任の力が大きいと言われます。中には子ども以上に熱くなる教師もいます。確かに教師が先頭切って指導し、行事で優勝することで学級が盛り上がるかもしれません。子どもたちではうまくまとまらずによい結果が出ないかもしれません。しかし、問題はどれだけ子どもが成長したかです。子どもたちの成長のためには教師が少しずつ下がっていくことも大切なのです。教師がいなくてもまわっていく学級をつくることが理想だと思っています。

最初から「いなくてはいい人」では困ります。この時期、まずは子どもたちにとって「なくてはならない人」になることに全力をあげてください。それができた段階で、今度はどうやったら「いなくてもいい人」になれるか考えてほしいと思います。

つまずきを明確にする

算数や数学のように積み重ねが大切な教科は、単元を進める前提となる部分ですでにつまずいてしまっていると授業についていくのが難しくなります。とはいえ、授業でもう一度やり直してから新しい単元に入るのも時間的に難しくなります。どのようにすればよいのでしょうか。

まず教師が、新しい学習内容を理解するために必要となる知識や考え方をきちんと整理しておく必要があります。たとえば、連立方程式の学習であれば、1元1次方程式を解くことができなければ、文字を消去できても正解にはいたりません。1元1次方程式であれば、正負の数の四則演算や文字式の計算がきちんとできていなければ、式の変形はできても正解にはいたりません。これから学習する内容を支えるものはどんなものか、細かく意識しておくのです。
その上で、事前にその内容の確認のテストをおこなったり、授業の最初の数分間に復習をするなどしたり、子どもにその内容を意識させます。大切なのはこの内容が身についていないと新しい単元で困ることを子どもが理解し、身につけようと思うことです。身についていないと気づいた子どもに対して、具体的に何を勉強すればいいか指示を出す、復習のための説明の書かれたプリントを用意して課題とする、放課後に個別に指導するといった対応が求められます。負担だとは思いますが、必要なことなのです。ポイントは多くを求めるのではなく、新しい単元に必要な最低限のことに絞ることです。こうすることで、教師の負担も子どもの負担も減ることになります。

授業中も、新しく学習したことと既習事項とを明確に区別しながら進めます。連立方程式であれば、文字の消去が終われば、ここからは1元1次方程式の問題であることを伝えます。ここまでできて、その先で間違えたのであれば、1元1次方程式の復習が必要であることを意識させるのです。問題演習も○か×かではなく、文字の消去まで、消去した後と分けてチェックします。教師が正解を解説するのであれば、文字の消去ができたかどうかで一旦確認することが大切です。ここまでできた人は2年生の内容を理解できていると評価するのです。その上でここからは1年生の内容だねと明確に既習事項と分けます。教師が○つけするときも、消去までできていればまず、そこに○をつけることが必要です。答が違っていても文字の消去ができていれば、「ちゃんとわかっているね」とほめて、「なんだあとはここができればいいだけじゃない」と1年生のことができるようになればOKだと前向きに捉えて励まします。こうすることで、子どもに前に戻って勉強をやり直す気持ちにさせるのです。

積み重ねが必要なものは、つまずいたところまで戻ることが必要です。そのためには、どこでつまずいているかを子どもがはっきりと理解し、ここができるようになれば自分できるようになるのだと、前向きにとらえることが大切です。
チェックのためにテストをステップに分けてきめ細かにつくる。授業中の机間指導でここを勉強すればいいと具体的なアドバイスをする(既習事項を授業時間内でできるようにしようと無理をしない)。本当につまずいているところ見つけ、そこまで戻ってやり直そうと前向きな気持ちにして、何をすればよいか具体的に示す。教師の負担も大きいですが、つまずいている子どもに寄り添って、やり直そうという気持ちを支えてほしいと思います。

定点観測の勧め

学校・学級経営において子どもの変化をきちんと捉えることがとても大切です。その方法の1つに定点観測があります。同じものを継続的にみることで変化がよくわかるのです。何を定点観測すればよいのでしょうか。

子どもの変化がよくわかるものには、

・朝の登校風景
子どもが自分から挨拶できるか。
服装がきちんとしているか。
登校時間に余裕があるか。
誰と一緒に登校するか。

・下駄箱
きちんと整理されているか。
かかとが踏まれていないか。
泥がぬぐわれているか。

・掃除道具入れ
道具が整理されているか。
道具が壊れていないか。
雑巾がきちんと絞られているか。

・トイレ
スリッパ・下駄が整理されているか。
きれいに使われているぁ。
入り口付近でたむろしていないか。

・廊下
ゴミが落ちていないか。
どんなグループが話しているか。

・掲示物
取れかかっていないか。
落書きがないか。

・・・

などがあります。もちろん、遅刻や欠席の数などの出席状況は必ずチェックします。子どもたちの学校生活のようすは、大きく変化する前にこういったところに予兆が現れます。好ましくない方向への変化には、あわてて注意するのではなく、その原因を考えることが必要です。その上で、叱るのではなく子どもたちが自ら気づいて改めるように仕向けることが大切です。よい方向への変化は、すばやくほめることで確かなものにします。「えらいね」とほめるよりはIメッセージで「うれしい」「きもちがいい」「すてき」といった言葉を使うとよいと思います。
学校や学級の状況でも定点観測すべきものは違ってくると思いますが、学校・学級経営の視点から定点観測すべきものを考えて、子どもの変化への感度を高めてください。

「わからないところ」から始める

問題演習では、解いた後、子どもや教師が正解を説明するという進め方が多いように思います。問題を解いた後、いつもすぐに正解が説明されると、解けなかった子どもはどのように考えるでしょうか。正解の説明から自分がつまずいていたところが理解できれば、ここに気づけばよかった、ここが大切だと学べます。しかし、問題が複雑になってくると、正解の説明を聞くだけではつまずきの原因をなかなか見つけることはできません。結局正解を写して、やり方を覚えようとします。このようなことが続くと、だんだん自分で考えようとしなくなり、早く正解を示してほしいと考えるようになります。これでは力はつきません。どのようにすればいいのでしょうか。

以前にも書きましたが(「わかった」は禁句!?参照)、「わかった」から出発すると、わからなかった子どもは参加できなくなります。子どものつまずきから出発する必要があります。
解答をするときに、「わかった人」ではなく、まず「困った人」と聞きます。

「問題を解いていて困ったことなかった。○○さん」
「・・・がよくわかりません」
「なるほど、・・・がよくわからなかったんだ。同じところがわからなかった人いる」
「いるね。○○さんが言ってくれてよかったね。じゃあ、みんなでわかるようにしよう」

子どもがつまずいているところが明らかになれば、みんなでわかるように助ければいいのです。ヒントをいう、何をしたか、何を考えたか発表し合う。このような活動をすることで、つまずいた子どもも何をすればよかったかを気づくことができます。こういう経験を積むことで、自分の力で解けるようになっていきます。このようにすることで、正解を発表する時も、答そのものではなくどう考えたか課程を言えるようになっていきます。

また、問題を解いているとき、子どもの手が止まっている、見通しが持てていない状態であることに気づけば、一旦作業を止めて、困っていることを聞くようにするとよいでしょう。

いつも正解からではなく、わからないところから始めることを意識してほしいと思います。

練習を意味のあるものに

学習には訓練的な要素があります。できるようになるためには練習も必要です。漢字の練習、計算練習などは学習として必要なものだと思います。練習で気になるのはできるようになるという本来の目的に対して、やったかどうかを問う傾向にあることです。たとえば、宿題であればやってきたどうかをチェックしますが、なかなかその質を問うことはしません。なかには適当に穴を埋めて終わってしまう子もいます。
よくおこなわれるのが、小テストと組み合わせることです。練習したことが評価につながるので、一生懸命にやる可能性があります。しかし、よい結果がでれば練習したことが報われますが、しっかりやったのに結果が出なければ自分はダメだとやる気を失うことにもつながります。結果が出ない努力は次第に苦行と化していきます。やってもダメなら手を抜くようにもなります。報われない努力はどうしても続きません。練習を意味のあるものにするにはどうすればいいのでしょうか。

練習の評価をやったかどうかだけでなく質や量も評価し、その積み重ねを評価することが大切になります。
漢字の練習であれば、字の丁寧さ、何回練習したか。計算練習であれば、正解率、何問解いたか。こういうことを評価します。授業中の練習であれば、教師がその場できれいに書けている字や正解に○をつけてあげるとよいでしょう。宿題であれば、チェックを教師がすべてするのではなく、子ども自身にどれだけやったか、正答率はどうであったかと表やグラフにさせるとよいでしょう。努力の結果を見えるようにすることでテストとは違った達成感を持たせることができます。教師は、子どもが自分で評価できないことをチェックするようにします。もちろん、評価はできるだけポジティブにします。小テストなどで結果がすぐに出なくても、練習そのものがほめられる、評価されることにつながれば、楽しいものに変わりやる気も出ます。

もちろん小テストなど練習の成果を評価することでやる気を出させることも大切です。本来練習は結果を出すためのものなのですから。このとき、1回ずつできたできなかったかだけでなく、前回と比べてどうだったかという進歩も評価することが必要です。前回と比べて正答率が上がったか、週単位、月単位ではどうか。子どもたちの進歩を見える形にする方法はいくらでもあります。自分が進歩している実感を持てれば、練習をすることは苦になりません。毎回違った子どもがほめられるような小テストでありたいものです。

練習はただやればいいものではありません。意欲的に取り組むかどうかでその効果は大きく違ってきます。練習することがポジティブな評価につながるような工夫してほしいと思います。
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