うれしいメール

昨日私がアドバイザーをしている学校の前教頭を通じてある学校から授業アドバイスの依頼がありました。喜んでお引き受けしましたが、その夜に1通のメールが来ました。私がアドバイザーをしている学校から昨年その学校へ異動になった先生からでした。メールでこの先生が今年度から現職教育の担当となって私を推薦してくださったのだと知りました。

初めてこの先生の授業を見せていただいたときに、授業規律とそれをつくる指導力に感心したことをよく覚えています。このようなベテランに私が直接アドバイスする機会はほとんどなかったのですが、数年の間にその授業は笑顔が増え、子どもを受容する場面が多くみられるようになりました。まわりから吸収して、コミュニケーションのあり方を意識的に変えようとしていることがよくわかります。自分のスタイルを持っているベテランはなかなか変わろうとしないものですが、授業にこだわり、進歩しようとしている姿勢をとても素晴らしいものだと思いました。
このような方に推薦いただけたことを本当にうれしく思いました。

メールの中で次のようなことが書かれていました。

授業で生徒を変える、授業で学校を変える、こういう意識が先生方に芽生えれば学校は良くなると思っています。意識して授業力をアップしていくことが生徒の信頼と信用を得ることにもつながります。

全く同感です。こういう視点で現職教育が組まれていけば、学校はきっとよい方向へ変わっていくと思います。どのような形でかかわっていくかはこれからですが、私にとってもよい学びの機会なると確信しています。

授業を大切にしたい、授業を通じて子どもを育てる、そういう学校が増えてきているように感じます。とてもうれしいことです。また、授業を大切にしようとしている学校のお手伝いができることに感謝しています。5月の連休が明ければ、学校への訪問も本格化していきます。どのような出会いがあり、どのような学びがあるのか、今からとても楽しみです。

用語の説明を考える

新しい用語を説明する時に注意してほしいのが、ゆるぎない定義と感覚的な理解です。用語は概念や事象を互いに共有するための大切な言葉です。人によってその意味するところがずれてしまっては困ってしまいます。ずれた時のよりどころになる、ゆるぎない定義が求められます。一方、ゆるぎない定義は、論理的ではありますが、感覚的にはわかりにくいことがあります。定義をまる覚えしても、その用語を理解したわけでも使いこなせるようになったわけでもありません。感覚的に理解できることが大切なのです。
したがって、用語を扱う時には、まず教師がその用語の正しい定義を理解しておく必要があります。その上で、子どもたちの成長に応じた定義や感覚的に理解するための説明や活動を考えることになります。

たとえば、社会科の緯度・緯線、経度・経線を考えてみましょう。正しい定義はどのようなものでしょう。

ある地点の緯度とは、その地点における天頂と赤道面のなす角の大きさで表され、赤道面より北を北緯、南を南緯という。
ある地点の経度とは、その地点と北極・南極を通る円(大円となる)(この線を経線と定義してもいい)と基準となるグリニッジ天文台と北極・南極を通る円のなす角(それぞれの円を含む平面同士のなす角)の大きさ(180°以内)で表され、基準より東を東経、西を西経という。
同じ緯度の点をつないだものを緯線、同じ経度の点をつないだものを経線という。

このようなものになるでしょう。小学生には、このような定義では理解できません。そこである教科書では、地球儀の横の線を経線、縦の線を緯線として感覚的に定義しています。その上で、経線は北極と南極を結ぶ線と説明をつけ加えています。これが、本来の定義に近いものですが感覚的なものを優先しています。角度も180°ずつに分ける、90°に分けるといった感覚的な説明です。
しかし、これだけではまだまだ理解できるわけではないので、都市の緯度や経度調べたり、その逆に緯度や経度から都市を見つけたりする活動が必要になります。方位と東経西経の違いを理解するために、テープで日本の東や西にある場所を見つけるような活動も必要でしょう。

これが中学生になると定義はより正確になってきます。縦の線、横の線といった表現は感覚的に理解するためには使ってもよいでしょうが、北極と南極を結ぶ線、南北の線といった表現、赤道面と平行な平面で切った線といったより正しい表現を使うようにすることが必要です。
緯度や経度の大きさがどこをはかっているのかも明確にします。
こうすることで、ゆるぎない定義に近づけていきます。
その一方で、緯度や経度を使って位置を示すようにしたのかを考えるような活動をすればより論理的な思考ができるようになります。
地球における絶対的な基準が地軸であること、なぜ、距離ではなく角度を使うのかといったことにも気づけると思います。

教材研究では、まず用語の正しい定義をしっかり調べて理解した上で、教科書の定義や説明と比べることをします。あえて教科書が感覚的している部分があればその意味を考える、感覚的に理解するためには、どのような言葉に置き換えたらよいのだろうか。どのような活動が必要だろうかを考えます。そのとき正しい定義に含まれている内容を教師がしっかり理解していれば、どこをポイントとすればよいかすぐにわかると思います。
教科書に出てくる用語については、教科書の定義を鵜呑みにして授業を組み立てるのではなく、必ず一度は自分で調べてきちんと理解してから、どう理解させるか考えてほしいと思います。

ベテランと若手のずれ

あるベテランからこんな話を聞きました。今年度その先生の副担任になったのは新卒の常勤講師でした。「朝と帰りのS.T.(短学活)の時間、教室を見に来ていいよ」と伝えたのですが、その先生は学級開き直後のL.T.(学級活動)の時間を1度参観しただけで、その後1度も担任の学級経営を見にこようとはしませんでした。1年間で1番大切な時期の学級経営を見ることは勉強になるのに、盗む気がないのか。出張の時には代わりにS.T.に行ってもらうことになるのに、その時困ると思わないのか。と若手の行動が理解できないようでした。これ以上言っても強制になるし、それも嫌だからもう自分からは積極的にかかわらないと決めたそうです。

若手からは直接話を聞いていないので、想像でしかありえませんが、初めての授業で手いっぱいで、精神的に余裕がなかったのかもしれません。そもそもS.T.は自分の生徒としての経験から単なる連絡であって大切なものとは思っていなかったのかもしれません。いずれにしても、ベテランから学べる貴重なチャンスを失くしてしまったようです。
自分のことを振り返ってみると、新任のとき、副担任をしている学級のS.T.を私から見せていただくようにお願いし、また年度の途中からは半分任せていただけました。後の私の学級経営の基本となることを学ぶことのできた1年間でした。当時は私のように、みな自分から盗みにいっていたように思います。最近の傾向でしょうか、若手が盗もうとしないという話をベテランからよく聞きます(「盗む」という文化がなくなってきている?参照)。また、S.T.が学級経営にとってとても大切であることを知らないのは仕方ないにしても、ベテランがわざわざ水を向けたことには意味があるはずだと思う想像力のなさも、問題かもしれません。

では、若手だけの問題でしょうか。勉強しに来なさいというのおこがましい気がして言いにくいかもしれませんが、ベテランも4月のS.T.はとても大切な時期だから、観にきたらと、誘う理由を明確にしてより強く言えば事態は変わったかもしれません。もっと強く働きかけることが必要になっていると思います。

このようなずれを、個人レベルで修正するのは人間関係のこともあり、なかなか難しいように思います。大切なのは、学年主任や教務主任、管理職が意識して対応することです。今回のようなS.T.の参観に限らず、若手にはベテランから具体的にどのようなことを学ぶとよいかを伝え、ベテランにはあなたのここが素晴らしいから若手に学ぶように言ったと伝え、気持ちよく対応してもらう。学年や職員の打ち合わせの場で、たとえば今回の例であれば、「この時期のS.T.はとても大切です。担任の経験のない方は是非ベテランの学級経営を学ぶようにしてください。ベテランの方も出し惜しみせずに若手に学ぶ機会を与えてください」とベテランと若手の交流を促し、互いに学び合う雰囲気を学校につくる。このようなことが大切になります。

ベテランは「若手が盗みにこない」、若手は「先輩が教えてくれない」。互いにこんな言葉を発しています。このようなずれを少しでも減らすために、管理職やリーダーの方が意識して働きかけ、先生同士が学び合う雰囲気をつくってほしいと思います。

学習と部活動の両立

新年度が始まり、授業が本格的にスタートして1週間ほどでしょうか、学校ではまだまだ落ち着かない日が続いていることと思います。ゴールデンウィークが過ぎれば部活動も新入生を迎えて本格化していきます。特に新入生にとっては新しい環境でよいスタートを切れるかどうかとても大切な時期になります。
中学校や高等学校では、学習と部活動の両立ということが大切にされています。両輪という言葉もよくつかわれます。この2つをともに充実したものにすることはとても大切であり、また難しいことだと思います。

とかく教師は安直に両方とも頑張れという言葉を使います。また学級担任によっては、部活動は顧問の問題と考え、あまり意識をしない方もいらっしゃいます。その逆に顧問が部の子どもたちの学習状況に頓着しないこともあります。そうではなく、双方が互いに意識して子どもたちに接する必要があります。一方からは学習を頑張れ、もう一方からは部活動を頑張れといわれても、子どもの体は一つです。どちらかに偏ってしまったり、時として共倒れになってしまったりすることもあります。バランスをどのように取るかが問題です。子どもたちが、部活動が負担になって、学習時間を確保できなくなっていないか、学習面でつまずいて部活動を止めたいと思っていないかなど、互いに意識し合い連携をとる必要があります。

学習と部活動を両輪にたとえて、一方だけしか回さないとその場でぐるぐる回って前へ進まないとよく言われます。とはいえ両方を同時にバランスよく回すのはとても難しいことです。私は、同時は無理でも交互になら回せると思っています。右だけ回すと左に向きます、次に左を回せば右に向きます。蛇行はしますが結果的に前へ進みます。どちらが先かは別にして、今は学習にエネルギーを多く使う、今は部活動にエネルギーを多く使う。そんなリズムを持つことです。子どもたちが自分でコントロールできればいいのですが、最初のうちは、教師が意図的にコントロールすることが大切です。学級担任、部活動の顧問が共通の認識を持って、「今は学習のリズムをつかむときだ、部活動が終わって疲れているかもしれないがすぐに宿題だけでも片づけるくせをつけよう」「もうすぐ部活動が本格化するから今のうちに予習に力をいれて少しでも貯金をしておこう」といったことを伝えるのです。学級担任と部活動の顧問の連携は個々にやっていると無駄が多くなります。できれば、学校全体または学年全体で歩調を合わせると効果も高いと思います。

また、部活動の個別の事情や学年によっても状況は変わってきます。部活動の先輩が後輩に両立のコツを伝えたり、悩みの相談を受けたりする。学級で互いに悩みや工夫を聞き合う。こういうことも必要になります。もちろん個別に教師が相談の受け皿になることも必要です。いずれにしても頑張れと励ますことよりも、具体的にどうすればよいか明らかにすることが大切です。

学習と部活動の両立は、教師がどう関わるかがとても重要です。学級経営、部活動の経営の柱として意識してほしいと思います。

道徳で大切にしたい問いかけ

新学習指導要領でも道徳の充実が言われています。今まで特別活動の時間などに奪われがちだった道徳の時間が重視されてくることと思います。
道徳の授業で大切にしたいことの一つに自分に引き付けて考えるということがあります。資料の登場人物の行動について、どうしてと理由を聞いたり、その是非をたずねたりする授業に出会うことがあります。しかし、登場人物について離れた立場から考えても、それはあくまでも他人事です。自分と違う考えに出会っても、「そういう風にも考えられる」となってしまいます。そこで、「あなたならどうする」と、自分に置き換えて考えさせることが大切になります。互いに「私」が考える行動を聞き合うことで、違った考えは「私」に対する問いかけになります。同じような考えは「私」に対する承認になります。こうしてより広い視野で、より深く考えるようになります。こうしたことの積み重ねで心が育っていくのです。

そのためには、自分の問題として考える前に、資料の状況等をきちんと理解しておくことが必要になります。国語の授業と違って、教師が資料を読みながら「○○したら・・・、××したら・・・、どうしたらいいか困ってしまったんだね」といった解説を入れるなどして、できるだけ早く正確に状況を理解させるようにします。その上で、「あなたならどうする」と問いかけるのです。

道徳の授業では、正解求めたり、こうしろと強要したりしても意味はありません。極端な例ですが、万引きをする人は、万引きは犯罪であることは知っています。万引きは悪いことだ、万引きをしてはいけないと言ったところで意味はあまりありません。自分がしてはいけない思うことが大切なのです。それは、外部からではなく、自分の内側からしか変われないことです。
ですから、子どもの考えに対して、よい悪いといった視点でのコメントは必要ありません。それぞれの考えに接して、自分の考えをもう一度問い直せばいいのです。

「○○さん、・・・すると言ったけど、それってどういうことかもう少し詳しく聞かせてくれる」
・・・
「なるほど、同じようにするという人いる。じゃあ△△さん」
・・・
「私は違うようにするという人いる。××さん」
・・・
「色々な考えが出てきたね。最後にもう一度、自分の考えを書いてみてくれるかな。最初と変わってもいいよ」
・・・

こうすべきだ、こちらが正しいといった議論ではなく、人の考えを聞き、自分の考えと比べ、もう一度考え直す。このことを繰り返すことで、次第に深く考えて行動できるようになっていきます。子どもたちが色々なことを「私」の問題として考える時間の一つとして道徳を活かしてほしいと思います。

学校の役割を考える

「学校の役割は、 子どもたちが、大人になったときに、生涯ちゃんとお金を稼げる人 に育てあげることです。その為には、社会で必要とされる 資格や 技術をしっかり身に付けることです」。この言葉がある校長のブログで書かれていました。もちろんこれが学校の役割のすべてということではなく、たまたま全国学力・学習状況調査の実施に関連して書かれていたことです。今、大阪では学校改革のキーワードとして、「ユーザー視点」という言葉が使われていますが、それに通じるものがあります。学校現場をまわっていると、自分の子どもの視点からだけで、全体のことを考えない意見を言われる保護者に出会うこともあります。「ユーザー視点」ということでいえば、これも認めるべきことなのでしょうか。

これからの日本の社会構造を考えれば、「生涯ちゃんとお金を稼げる」というのは、教育だけで何とかなる問題だけではありません。お金を稼ぐためには「資格や技術を身につける」という発想もちょっと単純すぎるような気がします。経済の発展が減速している状況では、なかなか職に就けない人も出てきます。構造的な問題です。パイの数より人の数の方が多いのです。資格や技術を身につけることは、ひところはやった言葉の勝ち組になる手段であり、その影には必ず負け組ができてしまいます。確かにユーザーという視点では勝ち組になることが大事に思えるのも理解できますが、校長という立場では、勝ち組になるというような発想ではなく、もう少し広い視点で学校の役割を語ってほしいと思いました。

少なくとも税金を投じておこなわれている公的な義務教育では、社会のためという視点が大切だと思います。私たちの社会をより良い形で持続していくための大切な担い手を育てるという役割が、常に第一であってほしいと思うのです。稼ぐことが一番の目的である企業も、社会に貢献する対価として利益を得ています。そうでなければ、暴力団との区別がなくなってしまいます。私は子どもたちに「社会の役に立つことで稼ぐ」という意識を持った人間になってほしいと思います。そのために、「役に立つ」「認められる」という経験がとても大切になります。自己有用感をもつことは子どもの学習や働くことへの原動力にもつながります。人の役に立つ、人から認められる経験を積むことを学校の役割として意識してほしいと思います。

正論しか言えない学級にしない

子どもたちは、ルールを破ったり、人の気持ちを傷つけたり、よくない行動をとることがあります。学級の中でそのような行為がおきたとき、教師はよい方向に向かうような対応を求められます。そのとき注意してほしいことがあります。それは、正論しか言えない学級にしないことです。

子どもがよくない行動をとったとき、自分ですぐにその間違いに気づいてそのことを認められれば問題はありません。しかし、間違っているにせよ、子どもなりの理屈を言ったり、本音の部分で話したりすることがあります。そのときに、教師が正論で子どもの発言を頭から否定しないようにすることが大切です。

「ゲームカードを学校に持ってくるのは禁止だったはずなのになぜ持ってきたのかな」
「ぼくはカード使って遊んではいません。レアカードを持っていると言ったら、本当かどうか疑われたので、証拠に持ってきただけです」
「みんなどう思う」
「ちょっと見せただけで、遊んでいるわけでもないから、いいと思います」
「でも、ルールは持ってきていけないとなっているから、ルール違反だね。見せるだけから、ちょっとくらい遊んでもいいだろうとなってしまうこともあるよ。みんなはどう思う」
「私は、持ってきてはいけないのがルールだから、やはりいけないことだと思います」
「そうだね、持ってきてはいけないルールを破ったから、いけないね。カードは先生が預かります。帰るとき返すからね」

子どもの考えに対して、教師が正論で反論しています。「持ってくるくらいならいい」と思っている子どもも、これでは自分の意見を言えません。教師の考えに近い子どもの意見だけを認めていると、教室の中に自分の考えは先生に認められそうもないから言わないでおこう、先生はきっとこう言ってほしいのだろうと教師の顔色をうかがう雰囲気ができてしまいます。教師が確固たる姿勢で臨むことは大切ですが、頭から否定するのではなく、子ども自身が本当にいけなかった思うことで間違いを正す必要があります。

「なるほど、遊んでなければいいという意見だね。同じような考えの人はいるかな」
「何人かいるね。もう少し聞いてみようか」
・・・
「それでは、他の考えはないかな。みんな、同じ考えかな。じゃあ、持ってくるのを禁止じゃなくて、遊ぶのを禁止にすればいいのかな。どう思う。ルールを変えたらどうなるかな」
「カードを持ってきたら、つい遊んじゃうと思います。遊ばない自信はないです」
「なるほど、遊んじゃいそうか。同じよう思う人はいるかな。あっ、結構いるね。どうすればいいのかな」
・・・

できるだけ、子どもが自由に意見を言えるように、たとえ認めがたい意見でもまず認めて、子ども同士で考える中で修正されるようにします。
間違った意見を教師がすぐに否定すると、正論しか言えない雰囲気が教室に広がります。子どもたちの本音の部分は陰に隠れて、見えないところでよくない行動をとるようになってしまうこともあります。そうではなく、本音の部分を出しあったうえで、本当にどうあるべきか判断できるような子どもを育てることが大切です。教師は権力者です。教師の考えに反対できる子どもはなかなかいません。教師が正論を押し付けて、正論しか言えない学級にしないことが大切です。

なくてはならない人から、いなくてもよい人になる

「なくてはならない人から、いなくてもよい人になる」。これは、私が大切にしている考えです。学級を運営する上で学級担任は絶対的な統率者でなければいけません。子どもたちは未熟です。指導することが必要です。子どもたちが安心して学校生活を送れる環境をつくるために教師はなくてはならない存在なのです。新年度が始まった4月は全力で学級のルール作り、組織化を進めます。この時期にきちんと学級のルールを子どもたちに浸透させなければ、1年間苦労をすることになってしまいます。この1月を乗り切るとその後の学級経営はとても楽になります。教師の指示がきちんと通る。係活動が円滑に進み、子どもたちが落ち着いて学校生活を送れるようになります。

しかし、子どもたちを育てるという視点で見ればここからが勝負になると思っています。どういうことかと言うと、子どもが教師を信頼し、教師の指示に素直に従うということは、受け身であるとも言えるからです。また、子どもが自分の指示に従うようになると、思うように子どもを動かすことができるので、学級の支配者となってなんでも細かく自分が決めて指示してしまうようになってしまう方もいらっしゃいます。学級の規律を保てばそれでよいのではありません。子どもたちが自ら考えて正しい行動ができるように育てることもとても大切なことなのです。「なくてはならない人」になるまでも大変なことですが、そこから一歩進んで「いなくてもよい人」になることが求められるのです。

学級が安定して動きだしたら、少しずつ教師が子どもたちにどうすればよいか考え、判断させるようにします。いきなり子どもに任せるのではなく、事前に学級委員や係の子どもと相談し、何が問題か整理し、どのように進めたらよいかを考えさせます。学級への提案は彼らからするようにします。行事なども、担任が先頭を走ってリーダーとして引っ張って行くのではなく、子どもたちのリーダーに任せて一歩引いて見守るようにします。行事は学級担任の力が大きいと言われます。中には子ども以上に熱くなる教師もいます。確かに教師が先頭切って指導し、行事で優勝することで学級が盛り上がるかもしれません。子どもたちではうまくまとまらずによい結果が出ないかもしれません。しかし、問題はどれだけ子どもが成長したかです。子どもたちの成長のためには教師が少しずつ下がっていくことも大切なのです。教師がいなくてもまわっていく学級をつくることが理想だと思っています。

最初から「いなくてはいい人」では困ります。この時期、まずは子どもたちにとって「なくてはならない人」になることに全力をあげてください。それができた段階で、今度はどうやったら「いなくてもいい人」になれるか考えてほしいと思います。

つまずきを明確にする

算数や数学のように積み重ねが大切な教科は、単元を進める前提となる部分ですでにつまずいてしまっていると授業についていくのが難しくなります。とはいえ、授業でもう一度やり直してから新しい単元に入るのも時間的に難しくなります。どのようにすればよいのでしょうか。

まず教師が、新しい学習内容を理解するために必要となる知識や考え方をきちんと整理しておく必要があります。たとえば、連立方程式の学習であれば、1元1次方程式を解くことができなければ、文字を消去できても正解にはいたりません。1元1次方程式であれば、正負の数の四則演算や文字式の計算がきちんとできていなければ、式の変形はできても正解にはいたりません。これから学習する内容を支えるものはどんなものか、細かく意識しておくのです。
その上で、事前にその内容の確認のテストをおこなったり、授業の最初の数分間に復習をするなどしたり、子どもにその内容を意識させます。大切なのはこの内容が身についていないと新しい単元で困ることを子どもが理解し、身につけようと思うことです。身についていないと気づいた子どもに対して、具体的に何を勉強すればいいか指示を出す、復習のための説明の書かれたプリントを用意して課題とする、放課後に個別に指導するといった対応が求められます。負担だとは思いますが、必要なことなのです。ポイントは多くを求めるのではなく、新しい単元に必要な最低限のことに絞ることです。こうすることで、教師の負担も子どもの負担も減ることになります。

授業中も、新しく学習したことと既習事項とを明確に区別しながら進めます。連立方程式であれば、文字の消去が終われば、ここからは1元1次方程式の問題であることを伝えます。ここまでできて、その先で間違えたのであれば、1元1次方程式の復習が必要であることを意識させるのです。問題演習も○か×かではなく、文字の消去まで、消去した後と分けてチェックします。教師が正解を解説するのであれば、文字の消去ができたかどうかで一旦確認することが大切です。ここまでできた人は2年生の内容を理解できていると評価するのです。その上でここからは1年生の内容だねと明確に既習事項と分けます。教師が○つけするときも、消去までできていればまず、そこに○をつけることが必要です。答が違っていても文字の消去ができていれば、「ちゃんとわかっているね」とほめて、「なんだあとはここができればいいだけじゃない」と1年生のことができるようになればOKだと前向きに捉えて励まします。こうすることで、子どもに前に戻って勉強をやり直す気持ちにさせるのです。

積み重ねが必要なものは、つまずいたところまで戻ることが必要です。そのためには、どこでつまずいているかを子どもがはっきりと理解し、ここができるようになれば自分できるようになるのだと、前向きにとらえることが大切です。
チェックのためにテストをステップに分けてきめ細かにつくる。授業中の机間指導でここを勉強すればいいと具体的なアドバイスをする(既習事項を授業時間内でできるようにしようと無理をしない)。本当につまずいているところ見つけ、そこまで戻ってやり直そうと前向きな気持ちにして、何をすればよいか具体的に示す。教師の負担も大きいですが、つまずいている子どもに寄り添って、やり直そうという気持ちを支えてほしいと思います。

定点観測の勧め

学校・学級経営において子どもの変化をきちんと捉えることがとても大切です。その方法の1つに定点観測があります。同じものを継続的にみることで変化がよくわかるのです。何を定点観測すればよいのでしょうか。

子どもの変化がよくわかるものには、

・朝の登校風景
子どもが自分から挨拶できるか。
服装がきちんとしているか。
登校時間に余裕があるか。
誰と一緒に登校するか。

・下駄箱
きちんと整理されているか。
かかとが踏まれていないか。
泥がぬぐわれているか。

・掃除道具入れ
道具が整理されているか。
道具が壊れていないか。
雑巾がきちんと絞られているか。

・トイレ
スリッパ・下駄が整理されているか。
きれいに使われているぁ。
入り口付近でたむろしていないか。

・廊下
ゴミが落ちていないか。
どんなグループが話しているか。

・掲示物
取れかかっていないか。
落書きがないか。

・・・

などがあります。もちろん、遅刻や欠席の数などの出席状況は必ずチェックします。子どもたちの学校生活のようすは、大きく変化する前にこういったところに予兆が現れます。好ましくない方向への変化には、あわてて注意するのではなく、その原因を考えることが必要です。その上で、叱るのではなく子どもたちが自ら気づいて改めるように仕向けることが大切です。よい方向への変化は、すばやくほめることで確かなものにします。「えらいね」とほめるよりはIメッセージで「うれしい」「きもちがいい」「すてき」といった言葉を使うとよいと思います。
学校や学級の状況でも定点観測すべきものは違ってくると思いますが、学校・学級経営の視点から定点観測すべきものを考えて、子どもの変化への感度を高めてください。

「わからないところ」から始める

問題演習では、解いた後、子どもや教師が正解を説明するという進め方が多いように思います。問題を解いた後、いつもすぐに正解が説明されると、解けなかった子どもはどのように考えるでしょうか。正解の説明から自分がつまずいていたところが理解できれば、ここに気づけばよかった、ここが大切だと学べます。しかし、問題が複雑になってくると、正解の説明を聞くだけではつまずきの原因をなかなか見つけることはできません。結局正解を写して、やり方を覚えようとします。このようなことが続くと、だんだん自分で考えようとしなくなり、早く正解を示してほしいと考えるようになります。これでは力はつきません。どのようにすればいいのでしょうか。

以前にも書きましたが(「わかった」は禁句!?参照)、「わかった」から出発すると、わからなかった子どもは参加できなくなります。子どものつまずきから出発する必要があります。
解答をするときに、「わかった人」ではなく、まず「困った人」と聞きます。

「問題を解いていて困ったことなかった。○○さん」
「・・・がよくわかりません」
「なるほど、・・・がよくわからなかったんだ。同じところがわからなかった人いる」
「いるね。○○さんが言ってくれてよかったね。じゃあ、みんなでわかるようにしよう」

子どもがつまずいているところが明らかになれば、みんなでわかるように助ければいいのです。ヒントをいう、何をしたか、何を考えたか発表し合う。このような活動をすることで、つまずいた子どもも何をすればよかったかを気づくことができます。こういう経験を積むことで、自分の力で解けるようになっていきます。このようにすることで、正解を発表する時も、答そのものではなくどう考えたか課程を言えるようになっていきます。

また、問題を解いているとき、子どもの手が止まっている、見通しが持てていない状態であることに気づけば、一旦作業を止めて、困っていることを聞くようにするとよいでしょう。

いつも正解からではなく、わからないところから始めることを意識してほしいと思います。

練習を意味のあるものに

学習には訓練的な要素があります。できるようになるためには練習も必要です。漢字の練習、計算練習などは学習として必要なものだと思います。練習で気になるのはできるようになるという本来の目的に対して、やったかどうかを問う傾向にあることです。たとえば、宿題であればやってきたどうかをチェックしますが、なかなかその質を問うことはしません。なかには適当に穴を埋めて終わってしまう子もいます。
よくおこなわれるのが、小テストと組み合わせることです。練習したことが評価につながるので、一生懸命にやる可能性があります。しかし、よい結果がでれば練習したことが報われますが、しっかりやったのに結果が出なければ自分はダメだとやる気を失うことにもつながります。結果が出ない努力は次第に苦行と化していきます。やってもダメなら手を抜くようにもなります。報われない努力はどうしても続きません。練習を意味のあるものにするにはどうすればいいのでしょうか。

練習の評価をやったかどうかだけでなく質や量も評価し、その積み重ねを評価することが大切になります。
漢字の練習であれば、字の丁寧さ、何回練習したか。計算練習であれば、正解率、何問解いたか。こういうことを評価します。授業中の練習であれば、教師がその場できれいに書けている字や正解に○をつけてあげるとよいでしょう。宿題であれば、チェックを教師がすべてするのではなく、子ども自身にどれだけやったか、正答率はどうであったかと表やグラフにさせるとよいでしょう。努力の結果を見えるようにすることでテストとは違った達成感を持たせることができます。教師は、子どもが自分で評価できないことをチェックするようにします。もちろん、評価はできるだけポジティブにします。小テストなどで結果がすぐに出なくても、練習そのものがほめられる、評価されることにつながれば、楽しいものに変わりやる気も出ます。

もちろん小テストなど練習の成果を評価することでやる気を出させることも大切です。本来練習は結果を出すためのものなのですから。このとき、1回ずつできたできなかったかだけでなく、前回と比べてどうだったかという進歩も評価することが必要です。前回と比べて正答率が上がったか、週単位、月単位ではどうか。子どもたちの進歩を見える形にする方法はいくらでもあります。自分が進歩している実感を持てれば、練習をすることは苦になりません。毎回違った子どもがほめられるような小テストでありたいものです。

練習はただやればいいものではありません。意欲的に取り組むかどうかでその効果は大きく違ってきます。練習することがポジティブな評価につながるような工夫してほしいと思います。

学校HPの変化

学校HP(ホームページ)の発信を見ていると、この何年間でいくつかの変化があったように思います。
以前は、入学式や卒業式、体育大会などの行事や特別なことだけが記事になっていました。それも行事が終わってから何日か経ってやっと更新されるという状態です。しかし、学校用のHPシステムやブログの普及で簡単に記事が更新できるようになってから、学校HPもほぼ毎日更新することが当り前になってきました。それに伴い、記事の内容も、特別なことでなく毎日の子どもたちや学校のようすが中心になってきました。
そして、最近になって、ただ日常の姿を記事にしているのではなく、学校が伝えたいものを意識して記事にしていると感じることが増えてきました。HPが学校公報として機能し始めたということでしょう。

この視点でHPを考えると、学校が伝えたいことが明確であることが大切になってきます。明確であれば、記事もシャープになります。
子どもが真剣に学んでいることを伝えたいのであれば、必然的に授業中の記事が増えます。子ども同士のかかわり合いを大切にしているのであれば、子ども同士が話し合っている場面が記事になるでしょう。HPの記事から自然に学校が目標としているものが伝わるようになってきます。
また、もう一歩進んで、子どもや学校のようすから伝わればいいというだけでなく、積極的に学校が目指すものはこういうものです、この活動にはこういうねらいがあるのですと、明確な記事として載せる学校も出てきました。これは、学校にとってはとても厳しいことです。なぜなら、目指すものを明確にしている以上、本当に実現できているかという目で見られることになるからです。「学校はこのように、子ども同士が互いにかかわりながら学ぶことを目指しています」と記事にすれば、学校公開日のときには、子どもがそうなっているのかを参観者はチェックします。できていなければ、当然厳しい評価となって返ってきます。それでも記事にするということは、必ず実現するという強い意志の表れでもあります。このことは、外部だけでなく内部にとっても意味があります。職員がこの記事を読めば、自分が実現できていなければ外部から厳しい評価をされるというプレッシャーがかかります。逆に、達成できている具体例として記事に取り上げられれば、やる気につながります。校長が職員会議で経営目標について語るよりよほど効果があります。
こういう記事が多い学校は、HPを学校経営の道具として意識しているということです。

先週、何校かで靴がきちんと下駄箱に入れられている写真が紹介されていました。「本校は子どもたちが落ち着いています」と言うよりも、よほど雄弁に語ってくれます。子どもや学校のようすで伝えるということがよくわかっている学校だと思います。記事にしたいがとても記事にできない状態の学校もあるかもしれません。「今はこの状態ですが、1年後にはキチンとなるようにします」と宣言できれば素晴らしいと思います。
また、年度初めの学力テストについてもその意味をきちんと説明している学校がいくつかありました。この時期におこなう意味、何を調べる、何に活かすのかが書かれていました。この記事を読めば、なるほどそういうことかと納得し、きちんとそいうことを伝える学校の姿勢に信頼を寄せると思います。当然読んだ方は、テストの結果はどうだったのか、結果を受けて具体的にどのような対応をするのか興味を持たれるはずです。ただテストをおこないましたという記事との違いです。読まれた方の疑問や関心にきちんと応えるという意志があってはじめて載せられる記事だと思います。

HPが学校に根付き、進化してきています。HPを学校経営の道具としてうまく使う学校が増えてきました。HPがまさに学校の顔となりつつあります。学校の顔としてどうあるべきか意識することで、学校経営もシャープになるはずです。こんな視点で学校HPを見るのも楽しいものです。

入学式で式辞を考える

昨日は、中学校の入学式に来賓として参加しました。

着なれない制服姿が初々しい子どもたちの姿と先日の卒業式の子どもたちの姿が重なります。3年後にはあのような立派な姿に成長するのだと思うと、子どもたちの3年間がいかに大切なものかよくわかります。子どもたちの成長にわずかでもかかわれることの幸せを感じました。

新任校長の式辞も、子どもたちと同じく初々しいものがありました。日ごろとはちょっと違う緊張した姿に、校長としての意気込みを感じました。失礼ながら、式辞のときは子どもたちの話を聞く姿を観察することが常で、その内容や言葉が強く記憶に残ることは少ないのですが、今年は「涙をたくさん流せるような生活をしてください」という言葉がしっかりと残りました。「うれし涙」「感動の涙」「悔し涙」をたくさん流せるように、一生懸命中学生活を送ってほしいとの願いです。私の耳にも残ったのですから、きっと子どもの心にも残っているはずです。教室で新しい担任はこの言葉を子どもたちにもう一度問いかけてくれたでしょうか。子どもたちに、たくさんの「心の涙」を流して成長してほしいと思いました。

自宅に戻って、何人かの校長の式辞を読ませていただきました。HPに式辞を載せる学校が増えたので、こういったこともできるようになりました。原稿にすると短い式辞でも、伝えたいことがシャープであると、きっと子どもたちの心に残ると感じました。校長として言いたいこと、伝えたいことがたくさんあります。しかし、伝わらなくては意味がありません。話が終わった後に何が子どもたちに残っているかです。短い式辞の校長は、きっとそのことを意識されたのでしょう。

式辞のメインは子どもたちに向けての話ですが、担任はそれをどのように聞いているのでしょうか。式典をただの通過儀礼にしてしまうと、静かにしていればよいという表面を取り繕う子どもになってしまいます。式後の学級で、子どもに「校長先生の話はどうだった」「どんな言葉が残っている」と問いかけてほしいのです。人の話から何を学んだか、何を学べたのか、子どもに意識させてほしいと思います。担任がこのようにすることで、校長の式辞もより洗練されていくと思います。式辞を形式的なものではなく、子どもたちの成長につながるものにするのは、式辞を述べる校長だけでなく、担任の働きも大切なのです。

新年度の学校HPは要注目

新年度になっての楽しみに学校のHPがどのように変わるかということがあります。校長や担当が変わった学校でなくても、新年度から新しい企画が始まる学校もあります。デザインが変わる場合もあれば、記事の視点が変わる場合もあります。

私が注目するのは校長のメッセージです。なぜなら、そこには校長が何を大切にしたいのか、この記事を通じて誰がどうなることをねらっているのか、といった校長の経営姿勢がはっきりと表れるからです。学校のHPを武器にしようとしているのか、それともお荷物と感じているのかも校長のメッセージを見ればすぐにわかります。

また、日々更新をしている学校などは、誰が記事を書いているのかも注目します。校長がほとんど一人で記事を書いている、HP担当が中心となって書いている、学年やグループの担当が分担して書いている、全員が当番で書いている、すぐにはわからない学校もありますがこの違いも学校の状況やHPに対する考え方が表れていておもしろいものです。

記事の内容も、学校ごとに個性があります。行事が中心の学校、授業のようすが多い学校、部活動や授業以外での子どものようすが多い学校、それに対するコメントも事実を中心にする学校、行事や授業への思いや内容、解説といったメッセージ性の強い学校。どれが正解というわけではなく、HPをどのような道具としてとらえているかの違いでしょう。

今までは、学校の変化は外部からはなかなか気づくことはできませんでしたが、最近は変化の兆しをHPから知ることができます。学校が変わるときは、まずHPの内容が変わるのです。だから私は新年度の学校のHPに注目するのです。
校長が変わっても今までと同じように更新されるのだろうか、新しく赴任した校長はどのような方針でHPを利用しようとするのだろうか・・・。この時期の学校のHPを見る楽しみは尽きません。

生徒指導面で学校がよくなるためのポイント

いわゆる生徒指導面で困難校と呼ばれる学校とかかわらせていただくことが過去何度かありました。こういった学校がよい方向に変わっていく姿からたくさんのことを学ばせていただきました。私が学んだ、学校がよくなっていくためのポイントを少し書かせていただきたいと思います。

・校長のリーダーシップ
教師集団がやろうと思ったことを思い切ってやれるようにする。責任は私が取るから信じたことをやってくださいという姿勢をはっきり示す。

校長がこうしろとトップダウンで指示をして徹底させるというやり方もありますが、教師集団が納得していなければ意味がありません。苦しい時ほど受け身では何ともなりません。校長の思いをきちんと伝えた上で、教師集団がどうしていくか自分たちで考えることが大切になります。そのためには、教師同士が互いの考えを伝え合う、聞き合う必要があります。また、校長が責任を取るためには、きちんと相談や報告をしてもらう必要があります。校内での情報の共有化と切り離せません。

・チームワーク
学校内で起きる問題を個人の問題とせずに、チームで解決にあたる。

学級内で起こった問題を学級担任や教科担任の問題として個人で解決しようとすることがよくあります。また、まわりが教師個人の問題だと批判することもあります。そうではなく学年の、学校の問題として互いに協力し合わなければ決して解決はしません。日ごろから、相談できる、助け合える関係を作ることが大切です。問題に対しては、常に複数で解決にあたる体制が求められます。

・目標とする子どもの姿の具体化
目標を具体的な子ども姿で表すことで、教師が取るべき行動を明確にする。

抽象的な目標では、そのためのアプローチが明確になりません。具体的な目標に向かうことでなすべきことが見えてきます。ある学校では、「授業中に生徒が一人も寝ない」という目標を掲げていました。レベルが低いと思われますか? この目標を達成するには、授業の内容を変えたり、子どもとの人間関係をつくったりとたくさんのことが必要になります。一つひとつのことをきちんやりきることで、はじめて達成されます。このように具体的な目標を達成するためになすべきことをやりきれば、他の面でも間違いなく学校はよくなっているはずです。

・普通の生徒との関係づくり
まず、普通の生徒たちとよい関係をつくり、安心して生活が送れる教室をつくる。

教師が問題生徒に関わってばかりいては、それ以外の大多数の生徒がほったらかしにされます。教師に対する信頼も薄れますし、その原因となる問題生徒に対してもネガティブな感情を持ちます。子どもたちを認め受容することを通じて、きちんと授業規律をつくり上げていくことが大切になります。授業規律を乱す行為に関しては毅然とした態度も必要です。しかし、決して子どもの人格を否定することがないようにしなければなりません。

・授業重視
子どもたちの学校生活のほとんどを占める授業を、子どもたちにとって楽しく充実したものにする。

生徒指導上問題を起こす生徒は学校や学級の中に居場所がないことが多くあります。どんな子どもも参加できる授業を目指すことは生徒指導上もとても大切なことです。人は周りから認められると「自分はここにいていいのだ」と思えるようになります。そのためには、まず、一人ひとりを受容し、認める授業にする必要があります。その延長上に、「わからない」「できない」という子どもが、「わかりたい」「できるようになりたい」、「わかった」「できた」となる授業があります。これが、楽しく充実した授業の基本です。

・保護者、地域との連携
保護者や地域に学校のことをしっかりと伝え理解してもらう。その上で協力しあう関係をつくる。

学校だけでは子どもを育てることはできません。とはいえ、一方的に協力をお願いしても聞いてもらえるわけではありません。学校の目指すところ、子どもたちの姿を伝えるだけでなく、困っていることも素直に伝えて、初めて学校のことを理解してもらえます。その上で、一緒に考える姿勢で相談し、協力を願えば、必ず保護者や地域は応えてくれます。子どもを育てる仲間、応援団になってもらえば、子どもたちを第三者の視点で批判的に見るのではなく、どう育てるかという当事者の視点で見てもらえるようにもなります。

今年度、たまたま知り合いの校長が生徒指導面で困難な学校に赴任されました。この方が赴任先で最初に職員に伝えたことを知る機会がありました。私がここに書いた内容とほとんどずれがありません。私が学んだことが間違いなかったと意を強くすると同時にこの学校がきっとよい方向に変わっていくと確信しました。この後、学校がどのように変わったか、お話を聞かせてもらうことがとても楽しみです。

子どもの学力を上げるには

子どもの学力を上げるにはどうしたらよいのかと質問される機会がありました。どの立場で考えるかによっても答は違うと思いますが、このことについて少し考えてみたいと思います。

「子どもが自分で学びたい、力をつけたいと思って勉強する」ことが基本になることは間違いないと思います。問題はどうすればそうなるかということです。

学びたいと思うためには、学ぶことが楽しいと思うことが大切です。興味・関心を持たせるような題材を準備するなどの工夫が求められます。

力をつけたいと思うためには、力をつけることが自分にとってどのようなメリットがあるかが明確になることが大切です。しかし、このことは一つ間違えると学習の本質を誤ってしまうことにもなりかねません。学年が進むにつれて、いい学校に入りたい、将来就職に有利になるといった発想も目にするようになります。このような感覚を決して否定はしませんが、このことは、効率的に結果を求める姿勢につながる恐れがあります。試験に出るから覚える、出ないから覚えない、途中の課程はいいから早く答が知りたいといった誤った効率主義に陥ってしまえば、本当の力はつきません。また、効率を求めるようになると、結果がでないとすぐにやる気を失います。
では、どんなメリットが明確になればいいのでしょうか。自分が進歩した、進化したと感じること、「自己有用感」だと私は考えます。そのためには、子ども自身が進歩したと実感できるような評価の仕組みが必要になります。努力の結果が目に見えやすいように、できるだけ細かく目標を設定し、スモールステップで評価することが有効です。評価のサイクルを小刻みにすることで、進歩を早く実感できるようにもなります。

一方、子どもが学びたい、力をつけたいと思っても、どうすれば力がつくのかその方法がわからなければ何ともなりません。どのように勉強すればよいのか、何を頑張ればよいのか具体的にすることが大切です。単にこの問題をやりなさいという指示ではなく、いくつかの選択肢を与えるなど、自分で何をするか考えさせるような工夫も必要になります。このとき、何ができるようになる、何を目標にするかが明確になっていると、自分のやったことと成果の関係をきちんと評価できるので、学習意欲を高めることができます。先ほど述べたようにスモールステップで評価すれば、何ができて何ができていないのかを細かくチェックできるので、努力するべきことを明確にすることができます。

今まで述べたことは、子どもの学習意欲、目標・評価、学習方法の問題といってもよいと思います。意欲があるから結果が出ることもあれば、結果が出たから、興味・関心をもち意欲につながることもあります。単独の問題ではなく、互いに影響しあう問題です。どこかに偏るのではなく、バランスよくそれぞれを意識した取り組みをすることで子どもの学力は上がっていくと思います。

若手が育つということ

先週末、昨年度アドバイスをさせていただいた小学校の校長と若手6人の先生と食事をする機会をいただきました。初めて会ったときは、自信の無さや迷いがいろいろな面で感じられましたが、1年経ってそういったものがずいぶん影を潜め、かわりに言葉や表情から自信が感じられるようになりました。この1年間をやりきった充実感と自分が成長したという手ごたえがその自信の裏付けになっているようです。新年度もこのままやればうまくやっていけるというのではなく、失敗があっても前向きに取り組むことできっとなんとかできるという自信なのでしょう。そこには、子どもからも同僚からも学ぼうとする謙虚さが感じられます。まさに伸び盛りの若者らしい姿です。

会話の端々から、彼らがこの1年を振り返り、新年度のスタートをどのようにしようかいろいろと考えていることが伝わります。互いに気軽にそのことを話し合っていました。いろいろな学校で若手を見ていますが、意外と孤独で同僚に相談することもできなかったりします。この学校では、一緒に教材研究をしたり、アドバイスもみんなで聞き合うようにしたりしましたが、そのことが、彼らが気軽に相談できる雰囲気作りに役立ったのかもしれません。

彼らがこの1年間で大きな成長をした背景には校長の存在があります。今年度は学校の研修を若手中心のものとすることで、若手が互いに学び合い成長することをまず目標としました。そして、その結果ベテランにもよい影響がでることをねらいました。若手を同じフォーラムに参加させることで話をするきっかけとしたり、今回のような機会を設けたりして、互いの人間関係をつくることも意識されていました。彼らが学校の変革への基点となるようにこの1年間育てようとしたのです。
新年度も新人が何名か配属されるようですが、何かあったら彼らに相談するようにと校長は話をされたようです。新人の悩みを自分の経験をもとにきっとうまく受け止めてくれることと思います。

校長の期待に応えてみな大きな成長を遂げてくれました。人事異動で校長は新年度から現場を離れることになりましたが、彼らがきっと学校をよい方向へと進める原動力になってくれると信じておられました。まだまだやり残したこと、やりたかったことがあるとは思いますが、思いを託すに足る若手を育てたことには満足されているようでした。この校長の姿から管理職のあり方を学ばせていただきました。
1年間、彼らの成長に立ち会えたことと彼らを支えた校長の姿を見せていただけたことは私にとっても大きな学びにつながりました。ありがとうございました。

新年度になりました

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今年度も日々の仕事から学んだことを発信し続けてきます。よろしくお願いします。

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