学級経営の進捗を意識する

授業の進度は意識することはあっても、学級経営の進捗を意識されている方は意外と少ないように思います。4月5月は学級づくりを意識するときですが、ここで成功すると、何か問題が起こったときや、あとは行事等で学級をうまく動かすといった特別なとき以外は、意識されなくなっていくのではないでしょうか。そうではなく、常にゴール(具体的には学年末)を思いえがき、今の学級の状況はどうであるかをチェックし、見通しを持って学級経営に取り組むことが大切です。

4月5月で教師と子ども、子ども同士の基本的な関係ができた段階で、子どもたちの状況を踏まえて学級の目指すところを再度明確にする必要があります。子どもの発達段階にもよりますが、教師の指示がなくても動ける学級、リーダーが引っ張る学級、子ども同士が支え合う学級、できるだけ具体的な学級の姿をイメージします(目指す学級の姿を具体的にする参照)。

その上で、大体でいいので、いつごろにどうなってほしいかという、学級づくりの行程をつくります。それをもとに、今月、今週は具体的に何を目標とするか、そのためにどのような働きかけをするのかを考えるのです。
今週の目標といった形で子どもと共有して進めていくやり方もあります。朝や帰りの時間に教師が話をすることもあります。ホームルームの時間や学級会などで議題にしたり、ワークショップに取り組んだりするのもいいでしょう。1年間を通じた学級の成長を意識して取り組んでほしいのです。

予定通りに行くとは限りません。進捗を意識するということは、うまくいってなければどう修正をするか、うまくいっていれば前倒しをする、さらなる高い目標に挑戦するといったことを考えることです。長期的な視点を持たないと、こういうチェックは働かないのです。

今は行事の時期です。行事が終わった時点で学級の状況をチェックしてみましょう。その上で、再度目指すゴールの姿を明確にして現状とのずれをどう修正していくかを考えてください。
いよいよ年度の後半にさしかかります。気をつけないと教師も子どもも惰性で進んで行くことになります。残り半年の学級経営を、見通しを持って進めてほしいと思います。

子どもの視点での疑問を大切にする

先日の日記「数学の教師は数学の勉強をしない?」を読まれた先生から、「どのように勉強したらよいでしょうか」というメールをいただきました。熱心に授業に取り組み、研修にも積極的に参加されている方です。私の書き方が悪かったせいもあるのでしょうが、勉強というと体系的に学ぶイメージが強く、どんな本を読めばいいのか、どんな分野から手をつけたらいいのかと悩まれたようです。そういう勉強も大切ですが、私がお願いしたかったのは、子どもの視点で疑問を持ち、その疑問を解決するために必要なことを調べたり、考えたりするということです。

たとえば、教科書に書かれている情報は無駄なものがないといっていいほど、よく練られています。子どもの視点で読んでみると、いろいろな「?」が浮かんできます。その「?」を追究していくことが教材研究につながります。教師がすぐに解決できないような疑問でも、これは追究に値する課題だと思えれば、子どもと一緒に考えることをしてもよいと思います。

先ほどの日記で書いた数学の例でいえば、「凹多角形(教科書にはこの言葉はありませんが)を考えない」と書いてあれば、「どうして」と思う子どももいるでしょう。中には、内角の和をいろいろと測って見て、凹多角形でもn角形の内角の和は(n−2)×180°と気づく子もいるかもしれません。そうなれば、きっとその理由が気になりだすはずです。こういう子どもがいるかもしれないと考えることが大切です。教師が教科書に凹多角形は扱わなくていいと書いてあるから、考えないという姿勢が問題なのです。
子どもがもし質問してきたらどのように対処するのでしょうか。「教科書に扱わないと書いてあるから考えなくてよい」と答えるのでしょうか、それとも「実は、・・・」と扱わない理由を説明するのでしょうか。教材研究の段階できちんとこういうことを想像し考えていれば、対応に困ることはありません。教師が証明も含めてしっかり理解していれば、「どうなるかな、調べてごらんよ」と余裕を持って子どもに追究をうながすこともできます。子どもがつまずいたり、新たな疑問が生まれたりしても問題なく対応できます。

こういうことは、何も数学だけに限ったことではありません。どの教科でも子どもが疑問を持つことはたくさんあります。

たとえば、ある小学6年生の社会科の教科書は、武家諸法度(部分要約)の資料の中に、徳川家光がつけ加えたこととして次のような一文を載せています。

・大名は、毎年4月に参勤交代すること。近ごろは、参勤交代の人数が多すぎるので、少なくすること。

本文には、

3代将軍となった徳川家光は、武家諸法度を改め、参勤交代を制度として定めました。

と書いてあります。

これを読んだ子どもは「???」となると思いませんか?
武家諸法度で参勤交代を定めたのなら、なぜ「近ごろは・・・」という文があるのでしょうか?
この「近ごろは・・・」の記述が資料にはない教科書もあります。ということは、「近ごろは・・・」を載せた教科書は子どもにこういう疑問を持ってほしいと考えたということでしょう。

インターネットなどで調べてみるとわかりますが、参勤というのは鎌倉時代からある言葉で、制度しては定められていなかったが秀吉のころにも諸大名は京都に屋敷を与えられ参勤していたようです。江戸時代になっても、家康の機嫌を取るために江戸に参勤していた大名もいたようで、家康も秀吉にならって屋敷を与えていたようです。この参勤を参勤交代制度として諸大名全部(水戸藩主は常に江戸詰め)に課したのが家光だったということのようです(だから、本文の記述は「制度として定めました」となっているようです)。
調べたから教えなければならないということではありません(教えたくなりますが・・・)。こういう疑問を持ち、解決しようという教師の姿勢が大切なのです。

大人だから持っている知識や常識にとらわれて読み飛ばすのではなく、子どもはどう読み取るだろうか、どう考えるだろうかという視点で教材研究をすれば、多くの「?」が見つかります。この「?」を追究していくことが教材研究となり、自然に勉強ができるのです。

メールをいただいた先生とのやり取りの中で、こういう素敵な言葉がありました。

なるほど、疑問を持てばそれを解決する為に調べる。学問の基本中の基本です。疑問に思わないと始まらないのですね。いつも「どうして?」としっかり考え、その1つ1つの問題を解決していきたいと思います。
生徒に「考える力をつけたい」と策を講じるより、このように教師がいつも疑問を持って生徒に対峙していれば、自然と一緒になって考えるようになるってことですね。

余計な思い込みを排し、子どもと同じように素直な気持ちで教材と接し、生まれた疑問を大切にする姿勢で教材研究に取り組んでほしいと思います。

担任が孤独にならない、孤独にさせない

学級経営は担任にとってとても大切な仕事です。特に小学校では授業もほとんどを担任が受け持つので、担任にかかる責任は大きくなります。そのせいか「学級王国」といった言葉に代表されるように、他の学級には口出ししないかわりに、自分の学級にも口出しされたくないという風潮もあります。
小学校に限らず、学級のことはどうしても担任が抱え込む傾向が大きくなります。気になる子どもにかかわりすぎて、学級全体に目が行き届かず、気づいたときは立て直すのも難しい状態だったというようなこともよく聞きます。学級のことを過度に自分の責任と考えずに、早め早めにまわりと相談することが大切になります。学級経営は担任が主となっておこなうものであっても、一人でおこなうものではないのです。担任が孤独にならないようにまわりも気遣うようにしてほしいと思います。

そのためにも、互いに他の学級を見あうことは、できれば日常的におこなってほしいと思います。よかった悪かったではなく、そこで気づいた事実(子どものようす)を互いに共有するようにしてください。指摘された事実に対して、どう対処すればよいかわからなければ、素直に聞くようにしましょう。きっとよいアドバイスがもらえると思います。
逆に、アドバイスを求められたときに、「自分ならこうする」という言い方はちょっと控え目にしてほしいと思います。特に経験の少ない者にとっては、ベテランにとっては当り前のことがなかなか理解できなかったり、実行することが難しかったりします。相手の立場に立ったアドバイスを心がける必要があります。どうすればよいか、どんなことならできそうか、相手と一緒に考える姿勢で接してほしいと思います。

学年のリーダーや管理職は、学級経営の悩みを互いに聞き合える関係、互いに自分の問題として考える雰囲気づくりを心掛けてください。個々の学級の問題は、担任だけの問題ではなく、学年全体の問題、学校全体の問題と捉えて、組織の力で解決することを考える必要があります。担任を個別に指導するだけでなく、まわりからどう支えたらよいか、その方策を具体的にしていくことが求められます。そのためにも、各学級の様子をよく把握する必要があります。できるだけ時間をつくって、各学級を観察するようにしてください。
学級経営も学校経営の一部分なのです。

担任が孤独にならない、担任を孤独にしない。このことを大切にしてほしいと思います。

子どもの自己有用感を大切にする

学級づくりということが昔以上に大切だと言われるようになってきています。学級崩壊という言葉も、当り前のように耳にします。学級担任の一番の仕事は、教室の安全、安心とも言われます。子どもたちが安全に、安心して暮らせるというのは最低限守られなければいけないことです。そのためには学級における規律が大切になります。とはいえ、教師は警察官ではありません。ルールを守れない子どもを叱ったり、罰したりすることが仕事ではありません。いかにして子どもたちが、規律を守ることを大切だと思うようにするかが大切です。
もちろん、学級規律を維持するだけが学級づくりではありません。子どもたちが集団生活の中で学ぶべきことはたくさんあります。昨今のいじめの問題もそうですが、他者を思いやる気持ちを育てることも強く求められます。

学級づくりで大切なことはたくさんあると思いますが、私が意識してほしいと思うことは、子どもたちに自己有用感(自尊感情)をどう持たせるかということです。自分の存在が集団の中で意味をもっていると実感できれば、その集団を壊すような動きはしません。これだけで、学級づくりがうまくいくとは言いませんが、基本となるものだと思います。

子どもが自己有用感を持つ基本は、認められる、ほめられることです。教師が一人ひとりのよいところを見つけ、ほめることから始めることです(一人ひとりのほめる観点を意識する参照)。教師に認められることで、教師の話に聞く耳を持ちます。子どもに「聞きなさい」といくら言っても、教師が自分を認めてくれている、自分の話を受け止めてくれると感じていないと、なかなか聞いてはくれません。学級の規律をつくるためにも大切なことなのです。

教師に認められること以上に大きいのが仲間に認められることです。子どもたちと関係ができてくれば、次は子ども同士が認め合うようにすることです。教師が子どものよいところをほめるだけでなく、「○○さんのやったこと、みんなどう思う?」と子どもたちに投げかけ、子どもから「すごい」「がんばってる」「りっぱ」といった称賛の言葉を引き出すのです。授業中だけでなく、給食、掃除など学校生活のあらゆる場面で子どもたちのよさを見つけるようにすれば、どの子どもにもほめるところが見つかるはずです。こうして、学級の中に一人ひとりの居場所(自分が自己有用感を持てる場所、場面)をつくっていくのです。自分の居場所がある子どもは精神的に安定します。自然に落ち着いた、安定した学級になっていきます。また、よいところを学級全体で共有し認め合うことで、教室によい行動が広がっていきます。

学級づくりに直接関係ないように思われますが、家庭との連携も大きな要素です。家庭に居場所がない子どもは、学校で荒れやすい傾向があります。子どもに対して要求、指示、注意ばかりで、認めることが少ないと家庭に居場所がなくなります。意図的に認める、ほめることが大切です。私は保護者に対して、子どもに「ありがとう」を言うようにお願いします。基本は「あなたがいてくれて、ありがとう」です。いい子だからうれしい、○○だからうれしい、だからありがとうではないのです。無条件に子どもの居場所をつくってほしいのです。その上で、子どものよいところを認め、ほめるのです。
そのためには、学校生活での子どものよいところをできるだけ親に伝えることが必要です。「学級通信」で、具体的に名前をあげてほめる(特定の子どもに偏らない、全員が登場するように配慮する)。一人ひとりのよいところを「通知表」や「いいとこ見つけ」(一人ひとりのよい行動を具体的に記録したもの)で伝える。こういうことも、子どもの自己有用感を高めるために大切なことなのです。

学級づくりを考えるとき、子どもたちに自己有用感を持たせるという視点を持ってほしいと思います。ここに挙げたこと以外にもいろいろな方法があると思います。子どもたち一人ひとりが自己有用感を持ち、自分の居場所を持てる学級を目指してください。

中村健一先生から学ぶ

本年度第3回の教師力アップセミナーは、山口県岩国市立平田小学校の中村健一先生の講演でした。「お笑い」「フォロー(対応の技術)」そして、「厳しく叱る」の学級づくりというタイトルで、学級づくりのための具体的なネタ(活動)を中心にお話いただきました。

今の子どもは教師が一方的しゃべっていると集中力がなくなる。細かく活動を入れなければならないという主張はよくわかります。テンポにこだわり、次々と繰り出されるネタに参加者は大いに笑い、またその解説の場面ではすぐに集中力を取り戻していました。中村先生のうまさと同時に、参加者の質の高さもうかがえます。しかし、実際の教室では子どもたちのテンションがこのように上がったとき、すぐに下がるのかちょっと気になりました。テンションを下げることは上げること以上に難しいように思います。若い先生方が実際にこのようなネタに挑戦する時に、テンションをどうコントロールするか忘れずに意識してほしいと思いました。
また、指相撲やハイタッチなど子ども同士の身体接触を伴う活動もいくつか紹介されました。子ども同士の人間関係ができていないとうまくいかないこともあります。これに限らず、子ども同士の人間関係との兼ね合いで使えるネタは制限されます。中村先生も注意されていましたが、子どもの状況をつかんでいないと、逆に学級が崩れるきっかけになることもあるように思います。

「お笑い」の構成の基本を、「フリ」「オチ」「フォロー」と定義し、その中でも特に「フォロー」(評価、ほめるなど)の大切さを強調されました。やりっぱなしにさせない、教師がまずほめることで子どもたちの中によい価値観を醸成するという考えは、その通りだと思います。子どもに活動させたときには、その結果をできるだけポジティブに評価する。失敗も明るい笑いに変えることで子どもたちの自尊感情を傷つけない。子どもの自己有用感を大切にする考えです。これらのことは教育活動の多くの場面で大切にししなければならないことです。

一つひとつのお話に納得しながら、若い先生方は今回のお話をどうとらえるのだろうと考えました。最近の若い先生は今回のような「ネタ」を欲しがる傾向にあるように思います。子どもの気持ちを早くつかみたい。あまり難しくない、簡単にできること、方法はないか。その答の一つが今回のような「ネタ」なのでしょう。子どもたちだけでなく、教師にも消費者的行動が浸透してきているように感じます。
「ネタ」を求めることを全面的に否定する気はありません。しかし、これだけで学級経営や授業が成り立つわけでもありません。子どもの実態をしっかり把握し、使いどころを考えて「ネタ」を活用する必要があります。
また、子どもが集中できる時間が短いからとテンポ上げて、目先を変えることばかりしていると、いつまでたっても集中力はつきません。子どもがつねにおもしろい「ネタ」を求めるようになってしまえば、地道な学習活動を嫌うようになる危険性もあります。
要は、「ネタ」だけに頼るのではなく、同時にベースとなる授業力をあげていくことを忘れてはいけないということです。

もちろん中村先生はこのことはよくおわかりだと思います。今回の講演が、「ネタ」に関して先生方とどのような話をすればよいのかをあらためて考える機会となりました。よい学びの機会をいただき、ありがとうございました。

管理職が教員とコミュニケーションをとる工夫

コミュニケーションの大切さがよく言われます。企業はもとより学校でも子どもたちのコミュニケーション能力が問われています。ところが、教師同士となると必要性はわかっていてなかなかその時間が取れないのが実情です。いわんや管理職と一般の教員とのコミュニケーションはもっと難しいのではないのでしょうか。愛知県でも評価制度の導入を機に校長と一般教員の面接が義務付けられていますが、夏休みが終わってもまだ実施できていない学校もかなりあるように聞きます。

私がかかわった中でよい方向に変化している学校は、個人プレーではなく、組織として方向性を持って動いていることが共通しています。目指す方向性が共有化され、その具体的な実践も互いに共有されているのです。
そのための方法として、校長や担当者がこまめに通信などを出して、具体的に伝えることをしていることが多いようです。なかなかまとまった時間が取れない中、口頭できちんと伝えるのは難しいことです。紙であれば、時間のある時にじっくり読んでもらうこともできますし、保存もききます。年度当初にぶちあげて終わりではなく、こまめにそのことを色々な形で伝え、共有していくことが大切です。一方的、間接的ではありますが、立派なコミュニケーションだと思います。

最近では、そのための方法として学校ホームページが注目されています。
保護者や地域の方たちに伝える道具としてだけではなく、教師同士のコミュニケーションツールとしても活用するのです。共有したい実践や、目指す姿の具体的な場面を見つけた時に、写真と簡単なコメントをつけてアップするだけです。その学校の教員であれば、その記事の持つ意味はわかると思います。「こういうことをすればいいのか」「こんなやり方もいいな」「詳しいことを聞いてみようか」と思ってくれればいいのです。
これだけでも有効なのですが、ここでもう一歩進めることが大切に思います。
だれが記事をアップするかにもよりますが、このような記事であれば管理職やそれなりの立場の方だと思います。この記事をきっかけに、ほんの少しでいいから当事者と会話をするのです。このとき、記事をアップした意図(よさ)を伝えるだけでなく、「このほかにもどんな工夫をしている」「どんなことを意識している」「困っていることはないか」とできるだけ相手に話をさせて聞くのです。発信をきっかけに、教師同士のコミュニケーションをつくりだすことはできますが、管理職とのコミュニケーションはまだ一方通行のままです。コミュニケーションの基本である「聞く」場面を意識してつくるのです。

私が注目している校長は、これに加えてリーダーと話し合う機会を頻繁に取っておられます。給食指導の無い教員(管理職、主任、・・・)が集まって、給食時間に気軽に話をする場を設けています。発信ばかりでなく、受信の機会を意図的につくっているのです。聞き合うことで、新しい視点が生まれますし、校長の考えもより深く伝わります。

コミュニケーション不足の原因を時間がないことを理由にしている方が多いように思います。以前よりも忙しくなったとよく言われますが、新しい道具もたくさん出てきています。学校ホームページを始め、校務支援システムもかなり普及してきています。こういうものをうまく活用し、工夫をすれば、本当に大切であるリアルなコミュニケーションをとる時間も生み出すことができると思います。

行事への取り組み方を考える

行事等の学級の取り組みは、学校の雰囲気や担任の個性によっても大きく異なることと思います。担任がリーダーとなって仕切っている学級もあれば、担任の存在が全く意識されないような学級もあります。行事を通じてどんな子どもを育てたいかによってもアプローチは違います。どれが正解というわけではありませんが、何を目指していけばよいのかを考えてみたいと思います。

成功した、優勝したといった結果がでれば学級の意気は上がります。このとき担任が強いリーダーシップを発揮していれば、その後の学級経営もスムーズにいきます。このことを知っている教師は、時として結果を求める指導をおこないます。どうしても担任の学級全体への指示が増えます。子どもたちは成功したい、勝ちたいと思っているので強い指導者の指示に従います。また、自分たちで考えなくても指示に従っていれば活動できるので、意外と満足するのです。こうして、結果が出ればよいのですが、出なかったときが問題です。「残念だった」で終わればまだよいのですが、原因を反省しだすとおかしなことになってしまいます。
指示は明確なのですから、それを忠実に実行したかどうかが問われます。一致団結して取り組めなかったといった表現になることもよくあります。言い換えれば、ちゃんとやらなかった者がいるということです。下手をすれば犯人探しです。これでは、行事を通じて子どもたちが成長することはありません。順位がつくようなものであれば、結果が出ない学級も必ず存在します。結果にかかわらず、子どもがきちんと成長できることを意識して取り組む必要があります。

また、経験の少ない若い先生が子どもたちを仕切ろうとする姿を見ることがよくあります。自分が生徒のときにリーダーとして仕切ってきた経験のある方が多いように思います。こうやるとうまくいくと知っているのでそれをやらせようとします。しかし、生徒のときにリーダー役だったということは、教師ではなかったわけです。立場が違っていることに気づいてほしいのです。自分がリーダーとして力をふるえていたのであれば、当時の教師は子どもに力をふるう機会を与えてくれていたということです。今度は自分がその立場になって、同じような成功体験を積ませるためにどうすればよいか考えてほしいのです。
逆に、教師に指示されて動いた経験しかないので、自分も同じようにしなければいけない。けれどリーダーとして動いた経験がないので、どう引っぱっていけばよいのかわからない。そう悩む方もいます。必ずしも教師がリーダーである必要はないのです。

ベテランの担任は、子どもの先頭に立って動くことは少ないように感じます。体力的な問題もあります。しかし、子どもたちが成長するためには、壁にぶつかり自分たちで乗り越えることも時として必要だと知っていることもその理由の一つです。リーダーがいないためなかなか進まない。ここで、我慢をしていると、「このままではダメだ。なんとかしなければ」と思う子どもが出てきます。こうしてリーダーが生まれ育ってくることもあります。どこまで我慢できるかは状況によっても違いますが、たとえ結果は出せなくても子どもたちがより大きく成長することもあります。
こういう教師は、前面にでないがじっと子どもたちの様子を観察しています。教師が直接見なくても、個別に子どもたちから情報を得ることで状況を把握することもできます。必要に応じて個別に指導することで、影響力を持つこともできます。
反省も行事を通じての成長を評価することで、次はもっと早くからこうすればよいと前向きなものに変わります。子どもたちの成長の機会をどう用意するか。子どもたちの成長の過程をどう評価するか。こういう視点で行事への取り組み、教師のかかわり方を考えるというアプローチもあります。

行事は教育活動の一環であり、子どもたちのふだんの授業とは違った成長の場です。子どもたちの成長という視点を大切にして取り組んでいただければと思います。

数学の教師は数学の勉強をしない?

中学校の数学の授業アドバイスをするときに感じるのは、数学的な背景やその意味をわかっていないまま授業をしている教師が多いことです。自分は問題が解けるから数学がわかっていると勘違いをしているようにも思えます。

自分の教科に対する自信が大きいのでしょうか、他の教科と比べて教科の内容を深く勉強している方が少ないように思います。社会科の教師は常に最新の情報(地理や政治経済だけでなく歴史も新事実が出てきて変わる)や資料を探していますし、理科なども実験の工夫(新しい機器や素材がどんどん出てくる)や、新しい事実(科学はどんどん進歩していますし、身近に新しい応用例もどんどん出てきます)に対応する必要があります。国語も扱う文章が時代とともに変わっていきます。
ところが数学だけは恐ろしく古い内容を扱っています。というか、現代的なものを扱うためにはその基礎となる知識が必要となるために、まずはそこからというわけなのですが・・・。最新の数学が教科書に登場することはまずありません。しかも、中学校(高等学校も一部)では厳密な証明は求められません。基本的なこと(基本的・シンプルなことほど難しい)に関しては、なんとなく納得、説明で済まされることが多いのです。定義も曖昧なままのものが多いようです。

関数って何?
1次関数のグラフはが直線になることはきちんと証明したの?
平行線と直線が交わってできる同意角が等しいことは、平行線の定義からきちんと証明している?
実数って何? 有理数とは? 循環小数と非循環小数の違いはどこからくるの?
2(x+1)=2x+2と2(x+1)=1の=は同じ?
確率って何?
なんで連立方程式には{ がつくの?
・・・

中学生への説明の前に、数学教師は数学的に正しく定義でき、証明できるのでしょうか?
教科書の説明はそのことがわかった上で中学生にどう説明すればよいかを考えて作られています。中学生と同じレベルで理解していては困るのです。記述の背景にあるものを教師がしっかり理解していてほしいのです。

このことは、社会科を例にして話をすればわかると思います。たとえば、第1次世界大戦について教科書の記述と同じレベルの知識しかなくて教壇に立つことは考えられませんね。教科書には書かれていない背景や事実を知っているからこそ、何が重要か何をそぎ落とすといった判断がどのようにされているか、作り手の思いもわかるのです。わかった上でどう授業を進めるかという自分の考えが持てるのです。

数学は問題を解ければいいのではありません。それは学習の一つの結果なのです。定義一つとっても、矛盾のないもの、扱いやすいものにするための試行錯誤があるのです。そういう思考を大切にしてほしいのです。
教科書では凹多角形をあつかわないことをいうのに、具体例を1つだして、「このような多角形」としています。なぜ凹多角形といわないのでしょうか。それは、中学生のレベルではきちんと凸、凹を定義するのは難しいからです。では、星型多角形は?
視覚的になんとなくわかることもきちんと定義しようとすると大変です。逆に定義を考えることでそのことの持つ本質が見えてきます。少なくとも、教師はそのことを理解してほしいのです。

私の専門が数学だから数学教師に厳しいのかもしれません。しかし、他の教科の教師と比べて、どうしても甘さを感じることが多いのです。問題の解き方を機械的に教えている、覚えさせていると感じる教師が多いのです。その延長では高等学校でつまずいてしまいます。数学の教師だからこそ数学とは何かについて深く考え、教科書の背後にある数学の世界をしっかりと理解して教壇に立ってほしいのです。

友だちの方を向いて話を聞く

子どもが友だちの発言を聞くときに、体を発言者の方へ向ける学級とそうでない学級があります。同じ学級でも場面によって変わるときもあります。子どもが発言者を見ずに聞いていても気にしない教師も多いように思います。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが友だちの発言を、友だちの方を向いてまで聞こうとしないのは、そこまでして聞きたいと思っていないからです。「友だちの考えはどうだろう」「自分と同じ考えなのだろうか」と思っていないのです。友だちの考えを知ることが自分に影響を与えないのです。友だちの発言が問いに対する単純な答であればその傾向は強くなります。たしかに「計算の答は10です」という発言にそこまでして聞く価値はないかもしれません。しかも、友だちの発言の後、教師が正解、不正解を判断して説明をはじめるのであれば、そちらの情報の方がはるかに価値があります。集中して授業に参加している子どもにとっても、教師の様子から情報を得る方が大切になります。

先日、「とてもよい発言があった」と評価された授業場面の写真を見ました。発言している子どもは堂々として、いかにもよい発言に見えます。しかし、その写真に写っている子どもは、だれも発言者を見ていませんでした。全員よい姿勢で前を向いています。よい発言だったかもしれませんが、他の子どもたちはその発言を本当に理解しようとしていたのでしょうか。そのあと、教師が発言を評価してはじめてよい発言だと思う、教師がその発言を受けて説明してその内容を理解する。そういう授業だったかもしれません。

いつも述べていることですが、子どもにとって友だちの発言を聞く価値がある授業にしていかなければなりません。「友だちの発言は、友だちを見て聞こう」というルールをつくり、形から入る方法もあります。しかし、話を聞いてよかったと子どもが思わなければそれは形で終わってしまいます。
発言の評価をいつも教師がする。発言を受けてすぐに教師が説明する。発言に対して教師主導で進んでいくのであれば、子どもたちは教師の反応をうかがいます。もっといえば、教師の求める発言(答)は何かを探る授業になっていきます。発言者も自然に教師を向いて話をします。
発言に対して、他の子どもの理解を確認する、評価を求める。それだけでも聞く姿勢は変わっていきます。そのためには、子どもに求める発言は、結果(答)だけでなく、その根拠や過程でなくてはなりません。
「言っていること伝わった」「説明に納得した人」と問いかけ、納得した人がいれば、そのこと自体が発言への評価になります。納得した人に、再度説明を求めるようにすれば、発言を聞く価値が増します。

先日、ある研修会で参加者に自分の考えを持っていただいた後、一人ひとりに発表をしてもらう場面がありました。発表者に、参加者を向いて発表するようにお願いしましたが、それだけでは、他の方の視線は私に向いたままでした。しかし、発表に対して、私が「なるほど、よいことに気づきましたね」と受容し、「納得した人」「参考になった人」、「これが正解というものがあるわけではない」と私が判断をしないことを伝えたところ、参加者の視線は自然に発表者に集中するようになりました。私の反応を知ることより発表者に集中することの方が、価値が高くなったのです。

こういった働きかけがなくても、自然に友だちの方へ体が向くこともよく目にします。ほとんどの場合、子どもたちが自分なりの考えを持ってはいるが、完全に解決できずに疑問や課題が残っているとき、自分はこう判断したがみんなはどうだろうと友だちの考えに興味を持っているときです。子どもの中に聞きたいという欲求がでてくるような課題ということです。子どもにとって自分の課題となっていて、かつ一人ではなかなか解決できない、結論が出ない、他者の考えや助けが必要となる。そういう条件を満たしている課題です。

子どもの姿勢には子どもの気持ちが表れます。子どもが友だちの話を聞きたいという気持ちは体の向きでわかります。子どもが自然に友だちの話を聞きたいと思うようになるには、授業者の働きかけと適切な課題が必要です。子どもの体の向きを意識し、子どもが友だちの話を聞きたいと思うような授業を心がけてほしいと思います。

10年続いた「算数・数学の授業力アップ研修会」から大いに学ぶ(長文)

先週末は、算数・数学の授業力アップの研修会に参加しました。毎年夏休みに先生方の自主運営でおこなわれています。私はスタッフではないのですが、オブザーバーとして毎年参加させていただいています。今年は第10回という節目で、初回から参加している者としては感慨深いものがありました。
中心となるスタッフも会とともに歳をとり立場的にもなかなか時間が取れなくっていく中、10回も続いているのは並大抵のことではありません。愛知県内で同時期に始まった同様の研修会で今も続いているのはこの研修会だけです。
若いスタッフを育ててきたこと、市の研究会のバックアップあることなど、要因はいろいろあると思いますが、この研修会を通じて自分たちも学べる、学ぼうという姿勢があることが何と言っても一番のような気がします。昨年と同じということがない、毎年違うことに挑戦していることからもそのことがわかります。

今回は記念大会ということもあるのでしょう、例年と違って大きなホールで全体会とグループ別の研修をおこないました。会場に余裕があるため、斜め前から研修の様子を見ることができました。参加者は一部を除いてほとんどが若手です。彼らがどのような反応をするかをじっくり観察することができました。話はちゃんと聞いているし、メモも取るのですが、意外に顔があがりません。ノートを取ることを大切にしている子どもたちとよく似た様子です。知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという雰囲気が薄いのです。講師も伝えたいことがあるので、どうしても情報量が多くなるのですが、参加者はその情報を消化しようというよりは、そのまま保存しようとしているように感じました。
講義の中でも一部実習があるのですが、実習をすると全体の雰囲気が和みます。ペアで役割を交代しながらおこなうのですが、交代する前に感想や気づきを聞くと緊張も緩みます。ところが、実習でできていなかったことや追加の解説が入ると会場全体に緊張が走ります。しっかりと聞くのですが、すぐにメモを取ります。実習で自分たちがこうすべきだったという「正解」を聞き洩らさないようしようとしているように見えます。自分たちも考えたはずなのですが、講師からの説明を正解として上書きされるようです。講師としては、一度にたくさん説明しても頭に入らないので、分割して説明しただけで、参加者の気づきを否定しているわけでもないのですが、「自分たちができていなかったことを説明される」=「自分たちのやったことは間違い」、「追加の説明」=「これが正解」というような変換が頭の中でなされているようです。
また、交代する前に気づいたことを発表させるだけで、講師が追加の説明をしなかったときは、和やかな雰囲気が持続し、実習後の解説を聞くときもその雰囲気が持続されています。
実習に対して解説をすることは、注意を要することに気づけました。参加者の気づきから課題を焦点化してからそのことについて話をする、参加者の気づきをすべて認めた上で「追加」であることを強調して話をするといった工夫が必要に思いました。自分が講師を務めた研修を振り返るよい機会になりました。

グループ別の実習では、若手の教師がインストラクターとなってとても頑張っていました。未熟な面もありますが、参加者と一緒に学ぼうという前向きな姿勢がグループ全体の一体感をつくっていました。講義のときと比べて参加者の積極的な態度が印象的でした。インストラクターが一人ひとりを受け止め、認めていることも大きな要因でしょう。
実習の後半は教科書のあるページを与え、その場で授業の流れをつくるという、かなりレベルの高い課題に挑戦しました。短い時間で教科書を理解し、めあて、ポイントを押さえて流れをつくることは大変ですが、グループで挑戦することで、一人で考えるとき以上に多くのことを学べたと思います。

中学校のグループだけ別の部屋でした。この種の研修ではどうも中学校の先生方が硬い傾向にあります。専門教科であるからきちんとわかっていなければいけない、正解できなければいけないというプレッシャーがあるように感じます。気軽に聞きあえればよいのですが、壁を感じることが多いです。
中学校はn角形の内角の和の公式をつくる場面です。教科書には既存の知識(3角形の内角の和)を使うという「見方・考え方」がちゃんと書かれています。実習で考えるのはこの後の部分が中心でしたが、そこでのやり取りは、この既存の知識を使うということを大切したやり取りが欲しいところです。3角形にこだわることで答が出せそうだ。どうすればうまくいくのだろう。そういう過程を大切にしてほしいのです。
教科書は1つの頂点から対角線を引いて3角形に分割し、表にして関係を見つけるとなっていますが、参加者は、1つの頂点で分割する必然性を子どもたちから引き出すことには消極的であると感じました。一番大切なのはその部分です。1つの頂点から対角線を引いた図から出発して説明しても、自分でその分割を見つけることができる子どもは育ちません。先生方にそのことに気づいてほしいのです。
子どもが自由に分割した図で、多角形の内角が過不足なく含まれているか調べれば、重複している、無駄な角が見つかるので、それを除外すれば答はちゃんと一致します。その上で、過不足ない図はどうすれば書けるのかを課題にするのです。
教科書にはありませんが、既存の知識を利用するという考えを使うという発想は帰納的な発想につなげることができます(本当はこのほうが将来的には大切になるのですが・・・)。たとえば5角形の内角の和を、小学校でやった3角形と4角形の内角の和を使って求められないかという問いから始めるという考えです。5角形の場合、1つ対角線を引くと、3角形と4角形に分かれます。じゃあ6角形は3角形と5角形、7角形は・・・、としていけば、n角形はn−1角形と3角形に分割できることに気づけます。既存のもの同士を組み合わせるという発想をすれば、対応の関係でなく隣同士の関係から表を埋めていくことができます。関数で大切になってくる見方です。証明としてもほぼ完璧なものに近づいていきます。また、将来数学的帰納法を学習するときの布石ともなります。もちろんこれがベストなものだという気はありません。そうではなく、選択肢としてあがってほしいのです。
教科書は、わざわざ多角形といったときに凹多角形は考えないと書いてあります。「なぜ?」とたずねたところ、明確な答えが返ってきません。凹多角形でも内角の和の公式は成り立ちます。ただ、証明(説明)が難しくなるからです。しかし、教科書のすぐ下にはn角形の内部に1点をとり、各頂点を結んで3角形をn個作る方法が示されています。この考えを使えばかなり複雑な凹多角形でも説明がつきます(すべての場合はちょっと難しいのですが・・・)。教科書の執筆者は、そんなことに気づいてくれる子どもがいることをきっと願っていると思います。

(ちなみに、先ほどの帰納的な発想を使うときちんと凹多角形でも説明ができます。もし1つ離れた頂点同士を結んだときに3角形が内側にできても、内角の和はn−1角形の内角の和+180°になることがすぐにいえるからです)

凹も含めて多角形の内角の和を考えることを課題にした授業をしろと言っているのではありません。そこまで教科書を読み込んだ上で、授業を考えてほしいのです。中学校の教師が中学校の問題を解けるのは当たり前です。その教材の持つ意味をわかって授業をつくるから教師なのです。そうでなければちょっと優秀な中学生でも教師になれてしまいます。教師の教師たる所以は何かを意識してほしいのです。

本来乱入してはいけない立場なのですが、つい余計なことで研修を止めてしまいました。申し訳ありませんでしたが、私が割って入った思いをわかっていただければ幸いです。

最後の講演(講義)は、予定を少し変えて参加者が実習で苦労したところ、疑問、課題をもとに模擬授業をおこなっていただけました。願ったりかなったりです。自分たちからでた課題に対する回答なので、参加者の集中度はとても高くなっていました。メモ取るのではなく、真剣に見て、聞いて何が起こっているのか、自分たちと何が違うのかを理解しようとしています。ここから学ぶことは大きいと思います。模擬授業後、授業者から突然解説をするように求められました。とっさにどうしようかと思いましたが、参加者の多くが見落としていると思われる部分を解説させていただきました。

授業者は○つけをして全員が正確になっているところで、挙手をさせました。そのとき、反応の悪い子どもに、反応を求めました。全員○をつけて正解であることを確認しているのですから、そこまでしなくてもよいようにも思います。しかし、わかっているのならわかっている、わからなければわからないと反応するように求めたのです。「全員にできるようになってほしいから」、教師が外化を求めることを伝えたのです。いきなりの模擬授業でなかなかできることではありません。授業者の子どもへの思いが現れた場面です。「先生はだれも見捨てない。全員できるようにしたい」、そういうメッセージを言葉だけでなく体全体で子どもに伝える必要があるのです。
聞いたところ、子ども役同士で理解の遅い子役を2人決めておいたそうです。もちろんそのことを授業者は知りません。その子ども役のしぐさをきちんと見て対応したのです。さすがです。細かい授業の進め方やスキルも大切ですが、その教師の根っこに子どもへの思いがしっかりとなければいけないことがよくわかります。その思いがあるからこそ、子どもの何を見るのかが明確になる、見る目を持つことができるのです。そんなことをあらためて確認することができました。

10年にわたりこの研修会からは本当に多くのことを学ばせていただきました。感謝の言葉以外ありません。来年以降どのような形となって進化していくのかとても楽しみです。また、きっとたくさんのことを学ばせていただけることと思います。ありがとうございました。
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