管理職が教員とコミュニケーションをとる工夫

コミュニケーションの大切さがよく言われます。企業はもとより学校でも子どもたちのコミュニケーション能力が問われています。ところが、教師同士となると必要性はわかっていてなかなかその時間が取れないのが実情です。いわんや管理職と一般の教員とのコミュニケーションはもっと難しいのではないのでしょうか。愛知県でも評価制度の導入を機に校長と一般教員の面接が義務付けられていますが、夏休みが終わってもまだ実施できていない学校もかなりあるように聞きます。

私がかかわった中でよい方向に変化している学校は、個人プレーではなく、組織として方向性を持って動いていることが共通しています。目指す方向性が共有化され、その具体的な実践も互いに共有されているのです。
そのための方法として、校長や担当者がこまめに通信などを出して、具体的に伝えることをしていることが多いようです。なかなかまとまった時間が取れない中、口頭できちんと伝えるのは難しいことです。紙であれば、時間のある時にじっくり読んでもらうこともできますし、保存もききます。年度当初にぶちあげて終わりではなく、こまめにそのことを色々な形で伝え、共有していくことが大切です。一方的、間接的ではありますが、立派なコミュニケーションだと思います。

最近では、そのための方法として学校ホームページが注目されています。
保護者や地域の方たちに伝える道具としてだけではなく、教師同士のコミュニケーションツールとしても活用するのです。共有したい実践や、目指す姿の具体的な場面を見つけた時に、写真と簡単なコメントをつけてアップするだけです。その学校の教員であれば、その記事の持つ意味はわかると思います。「こういうことをすればいいのか」「こんなやり方もいいな」「詳しいことを聞いてみようか」と思ってくれればいいのです。
これだけでも有効なのですが、ここでもう一歩進めることが大切に思います。
だれが記事をアップするかにもよりますが、このような記事であれば管理職やそれなりの立場の方だと思います。この記事をきっかけに、ほんの少しでいいから当事者と会話をするのです。このとき、記事をアップした意図(よさ)を伝えるだけでなく、「このほかにもどんな工夫をしている」「どんなことを意識している」「困っていることはないか」とできるだけ相手に話をさせて聞くのです。発信をきっかけに、教師同士のコミュニケーションをつくりだすことはできますが、管理職とのコミュニケーションはまだ一方通行のままです。コミュニケーションの基本である「聞く」場面を意識してつくるのです。

私が注目している校長は、これに加えてリーダーと話し合う機会を頻繁に取っておられます。給食指導の無い教員(管理職、主任、・・・)が集まって、給食時間に気軽に話をする場を設けています。発信ばかりでなく、受信の機会を意図的につくっているのです。聞き合うことで、新しい視点が生まれますし、校長の考えもより深く伝わります。

コミュニケーション不足の原因を時間がないことを理由にしている方が多いように思います。以前よりも忙しくなったとよく言われますが、新しい道具もたくさん出てきています。学校ホームページを始め、校務支援システムもかなり普及してきています。こういうものをうまく活用し、工夫をすれば、本当に大切であるリアルなコミュニケーションをとる時間も生み出すことができると思います。

行事への取り組み方を考える

行事等の学級の取り組みは、学校の雰囲気や担任の個性によっても大きく異なることと思います。担任がリーダーとなって仕切っている学級もあれば、担任の存在が全く意識されないような学級もあります。行事を通じてどんな子どもを育てたいかによってもアプローチは違います。どれが正解というわけではありませんが、何を目指していけばよいのかを考えてみたいと思います。

成功した、優勝したといった結果がでれば学級の意気は上がります。このとき担任が強いリーダーシップを発揮していれば、その後の学級経営もスムーズにいきます。このことを知っている教師は、時として結果を求める指導をおこないます。どうしても担任の学級全体への指示が増えます。子どもたちは成功したい、勝ちたいと思っているので強い指導者の指示に従います。また、自分たちで考えなくても指示に従っていれば活動できるので、意外と満足するのです。こうして、結果が出ればよいのですが、出なかったときが問題です。「残念だった」で終わればまだよいのですが、原因を反省しだすとおかしなことになってしまいます。
指示は明確なのですから、それを忠実に実行したかどうかが問われます。一致団結して取り組めなかったといった表現になることもよくあります。言い換えれば、ちゃんとやらなかった者がいるということです。下手をすれば犯人探しです。これでは、行事を通じて子どもたちが成長することはありません。順位がつくようなものであれば、結果が出ない学級も必ず存在します。結果にかかわらず、子どもがきちんと成長できることを意識して取り組む必要があります。

また、経験の少ない若い先生が子どもたちを仕切ろうとする姿を見ることがよくあります。自分が生徒のときにリーダーとして仕切ってきた経験のある方が多いように思います。こうやるとうまくいくと知っているのでそれをやらせようとします。しかし、生徒のときにリーダー役だったということは、教師ではなかったわけです。立場が違っていることに気づいてほしいのです。自分がリーダーとして力をふるえていたのであれば、当時の教師は子どもに力をふるう機会を与えてくれていたということです。今度は自分がその立場になって、同じような成功体験を積ませるためにどうすればよいか考えてほしいのです。
逆に、教師に指示されて動いた経験しかないので、自分も同じようにしなければいけない。けれどリーダーとして動いた経験がないので、どう引っぱっていけばよいのかわからない。そう悩む方もいます。必ずしも教師がリーダーである必要はないのです。

ベテランの担任は、子どもの先頭に立って動くことは少ないように感じます。体力的な問題もあります。しかし、子どもたちが成長するためには、壁にぶつかり自分たちで乗り越えることも時として必要だと知っていることもその理由の一つです。リーダーがいないためなかなか進まない。ここで、我慢をしていると、「このままではダメだ。なんとかしなければ」と思う子どもが出てきます。こうしてリーダーが生まれ育ってくることもあります。どこまで我慢できるかは状況によっても違いますが、たとえ結果は出せなくても子どもたちがより大きく成長することもあります。
こういう教師は、前面にでないがじっと子どもたちの様子を観察しています。教師が直接見なくても、個別に子どもたちから情報を得ることで状況を把握することもできます。必要に応じて個別に指導することで、影響力を持つこともできます。
反省も行事を通じての成長を評価することで、次はもっと早くからこうすればよいと前向きなものに変わります。子どもたちの成長の機会をどう用意するか。子どもたちの成長の過程をどう評価するか。こういう視点で行事への取り組み、教師のかかわり方を考えるというアプローチもあります。

行事は教育活動の一環であり、子どもたちのふだんの授業とは違った成長の場です。子どもたちの成長という視点を大切にして取り組んでいただければと思います。

数学の教師は数学の勉強をしない?

中学校の数学の授業アドバイスをするときに感じるのは、数学的な背景やその意味をわかっていないまま授業をしている教師が多いことです。自分は問題が解けるから数学がわかっていると勘違いをしているようにも思えます。

自分の教科に対する自信が大きいのでしょうか、他の教科と比べて教科の内容を深く勉強している方が少ないように思います。社会科の教師は常に最新の情報(地理や政治経済だけでなく歴史も新事実が出てきて変わる)や資料を探していますし、理科なども実験の工夫(新しい機器や素材がどんどん出てくる)や、新しい事実(科学はどんどん進歩していますし、身近に新しい応用例もどんどん出てきます)に対応する必要があります。国語も扱う文章が時代とともに変わっていきます。
ところが数学だけは恐ろしく古い内容を扱っています。というか、現代的なものを扱うためにはその基礎となる知識が必要となるために、まずはそこからというわけなのですが・・・。最新の数学が教科書に登場することはまずありません。しかも、中学校(高等学校も一部)では厳密な証明は求められません。基本的なこと(基本的・シンプルなことほど難しい)に関しては、なんとなく納得、説明で済まされることが多いのです。定義も曖昧なままのものが多いようです。

関数って何?
1次関数のグラフはが直線になることはきちんと証明したの?
平行線と直線が交わってできる同意角が等しいことは、平行線の定義からきちんと証明している?
実数って何? 有理数とは? 循環小数と非循環小数の違いはどこからくるの?
2(x+1)=2x+2と2(x+1)=1の=は同じ?
確率って何?
なんで連立方程式には{ がつくの?
・・・

中学生への説明の前に、数学教師は数学的に正しく定義でき、証明できるのでしょうか?
教科書の説明はそのことがわかった上で中学生にどう説明すればよいかを考えて作られています。中学生と同じレベルで理解していては困るのです。記述の背景にあるものを教師がしっかり理解していてほしいのです。

このことは、社会科を例にして話をすればわかると思います。たとえば、第1次世界大戦について教科書の記述と同じレベルの知識しかなくて教壇に立つことは考えられませんね。教科書には書かれていない背景や事実を知っているからこそ、何が重要か何をそぎ落とすといった判断がどのようにされているか、作り手の思いもわかるのです。わかった上でどう授業を進めるかという自分の考えが持てるのです。

数学は問題を解ければいいのではありません。それは学習の一つの結果なのです。定義一つとっても、矛盾のないもの、扱いやすいものにするための試行錯誤があるのです。そういう思考を大切にしてほしいのです。
教科書では凹多角形をあつかわないことをいうのに、具体例を1つだして、「このような多角形」としています。なぜ凹多角形といわないのでしょうか。それは、中学生のレベルではきちんと凸、凹を定義するのは難しいからです。では、星型多角形は?
視覚的になんとなくわかることもきちんと定義しようとすると大変です。逆に定義を考えることでそのことの持つ本質が見えてきます。少なくとも、教師はそのことを理解してほしいのです。

私の専門が数学だから数学教師に厳しいのかもしれません。しかし、他の教科の教師と比べて、どうしても甘さを感じることが多いのです。問題の解き方を機械的に教えている、覚えさせていると感じる教師が多いのです。その延長では高等学校でつまずいてしまいます。数学の教師だからこそ数学とは何かについて深く考え、教科書の背後にある数学の世界をしっかりと理解して教壇に立ってほしいのです。

友だちの方を向いて話を聞く

子どもが友だちの発言を聞くときに、体を発言者の方へ向ける学級とそうでない学級があります。同じ学級でも場面によって変わるときもあります。子どもが発言者を見ずに聞いていても気にしない教師も多いように思います。このことについて少し考えてみたいと思います。

子どもが友だちの発言を、友だちの方を向いてまで聞こうとしないのは、そこまでして聞きたいと思っていないからです。「友だちの考えはどうだろう」「自分と同じ考えなのだろうか」と思っていないのです。友だちの考えを知ることが自分に影響を与えないのです。友だちの発言が問いに対する単純な答であればその傾向は強くなります。たしかに「計算の答は10です」という発言にそこまでして聞く価値はないかもしれません。しかも、友だちの発言の後、教師が正解、不正解を判断して説明をはじめるのであれば、そちらの情報の方がはるかに価値があります。集中して授業に参加している子どもにとっても、教師の様子から情報を得る方が大切になります。

先日、「とてもよい発言があった」と評価された授業場面の写真を見ました。発言している子どもは堂々として、いかにもよい発言に見えます。しかし、その写真に写っている子どもは、だれも発言者を見ていませんでした。全員よい姿勢で前を向いています。よい発言だったかもしれませんが、他の子どもたちはその発言を本当に理解しようとしていたのでしょうか。そのあと、教師が発言を評価してはじめてよい発言だと思う、教師がその発言を受けて説明してその内容を理解する。そういう授業だったかもしれません。

いつも述べていることですが、子どもにとって友だちの発言を聞く価値がある授業にしていかなければなりません。「友だちの発言は、友だちを見て聞こう」というルールをつくり、形から入る方法もあります。しかし、話を聞いてよかったと子どもが思わなければそれは形で終わってしまいます。
発言の評価をいつも教師がする。発言を受けてすぐに教師が説明する。発言に対して教師主導で進んでいくのであれば、子どもたちは教師の反応をうかがいます。もっといえば、教師の求める発言(答)は何かを探る授業になっていきます。発言者も自然に教師を向いて話をします。
発言に対して、他の子どもの理解を確認する、評価を求める。それだけでも聞く姿勢は変わっていきます。そのためには、子どもに求める発言は、結果(答)だけでなく、その根拠や過程でなくてはなりません。
「言っていること伝わった」「説明に納得した人」と問いかけ、納得した人がいれば、そのこと自体が発言への評価になります。納得した人に、再度説明を求めるようにすれば、発言を聞く価値が増します。

先日、ある研修会で参加者に自分の考えを持っていただいた後、一人ひとりに発表をしてもらう場面がありました。発表者に、参加者を向いて発表するようにお願いしましたが、それだけでは、他の方の視線は私に向いたままでした。しかし、発表に対して、私が「なるほど、よいことに気づきましたね」と受容し、「納得した人」「参考になった人」、「これが正解というものがあるわけではない」と私が判断をしないことを伝えたところ、参加者の視線は自然に発表者に集中するようになりました。私の反応を知ることより発表者に集中することの方が、価値が高くなったのです。

こういった働きかけがなくても、自然に友だちの方へ体が向くこともよく目にします。ほとんどの場合、子どもたちが自分なりの考えを持ってはいるが、完全に解決できずに疑問や課題が残っているとき、自分はこう判断したがみんなはどうだろうと友だちの考えに興味を持っているときです。子どもの中に聞きたいという欲求がでてくるような課題ということです。子どもにとって自分の課題となっていて、かつ一人ではなかなか解決できない、結論が出ない、他者の考えや助けが必要となる。そういう条件を満たしている課題です。

子どもの姿勢には子どもの気持ちが表れます。子どもが友だちの話を聞きたいという気持ちは体の向きでわかります。子どもが自然に友だちの話を聞きたいと思うようになるには、授業者の働きかけと適切な課題が必要です。子どもの体の向きを意識し、子どもが友だちの話を聞きたいと思うような授業を心がけてほしいと思います。

10年続いた「算数・数学の授業力アップ研修会」から大いに学ぶ(長文)

先週末は、算数・数学の授業力アップの研修会に参加しました。毎年夏休みに先生方の自主運営でおこなわれています。私はスタッフではないのですが、オブザーバーとして毎年参加させていただいています。今年は第10回という節目で、初回から参加している者としては感慨深いものがありました。
中心となるスタッフも会とともに歳をとり立場的にもなかなか時間が取れなくっていく中、10回も続いているのは並大抵のことではありません。愛知県内で同時期に始まった同様の研修会で今も続いているのはこの研修会だけです。
若いスタッフを育ててきたこと、市の研究会のバックアップあることなど、要因はいろいろあると思いますが、この研修会を通じて自分たちも学べる、学ぼうという姿勢があることが何と言っても一番のような気がします。昨年と同じということがない、毎年違うことに挑戦していることからもそのことがわかります。

今回は記念大会ということもあるのでしょう、例年と違って大きなホールで全体会とグループ別の研修をおこないました。会場に余裕があるため、斜め前から研修の様子を見ることができました。参加者は一部を除いてほとんどが若手です。彼らがどのような反応をするかをじっくり観察することができました。話はちゃんと聞いているし、メモも取るのですが、意外に顔があがりません。ノートを取ることを大切にしている子どもたちとよく似た様子です。知ろうとする姿勢は感じるのですが、考えようという雰囲気が薄いのです。講師も伝えたいことがあるので、どうしても情報量が多くなるのですが、参加者はその情報を消化しようというよりは、そのまま保存しようとしているように感じました。
講義の中でも一部実習があるのですが、実習をすると全体の雰囲気が和みます。ペアで役割を交代しながらおこなうのですが、交代する前に感想や気づきを聞くと緊張も緩みます。ところが、実習でできていなかったことや追加の解説が入ると会場全体に緊張が走ります。しっかりと聞くのですが、すぐにメモを取ります。実習で自分たちがこうすべきだったという「正解」を聞き洩らさないようしようとしているように見えます。自分たちも考えたはずなのですが、講師からの説明を正解として上書きされるようです。講師としては、一度にたくさん説明しても頭に入らないので、分割して説明しただけで、参加者の気づきを否定しているわけでもないのですが、「自分たちができていなかったことを説明される」=「自分たちのやったことは間違い」、「追加の説明」=「これが正解」というような変換が頭の中でなされているようです。
また、交代する前に気づいたことを発表させるだけで、講師が追加の説明をしなかったときは、和やかな雰囲気が持続し、実習後の解説を聞くときもその雰囲気が持続されています。
実習に対して解説をすることは、注意を要することに気づけました。参加者の気づきから課題を焦点化してからそのことについて話をする、参加者の気づきをすべて認めた上で「追加」であることを強調して話をするといった工夫が必要に思いました。自分が講師を務めた研修を振り返るよい機会になりました。

グループ別の実習では、若手の教師がインストラクターとなってとても頑張っていました。未熟な面もありますが、参加者と一緒に学ぼうという前向きな姿勢がグループ全体の一体感をつくっていました。講義のときと比べて参加者の積極的な態度が印象的でした。インストラクターが一人ひとりを受け止め、認めていることも大きな要因でしょう。
実習の後半は教科書のあるページを与え、その場で授業の流れをつくるという、かなりレベルの高い課題に挑戦しました。短い時間で教科書を理解し、めあて、ポイントを押さえて流れをつくることは大変ですが、グループで挑戦することで、一人で考えるとき以上に多くのことを学べたと思います。

中学校のグループだけ別の部屋でした。この種の研修ではどうも中学校の先生方が硬い傾向にあります。専門教科であるからきちんとわかっていなければいけない、正解できなければいけないというプレッシャーがあるように感じます。気軽に聞きあえればよいのですが、壁を感じることが多いです。
中学校はn角形の内角の和の公式をつくる場面です。教科書には既存の知識(3角形の内角の和)を使うという「見方・考え方」がちゃんと書かれています。実習で考えるのはこの後の部分が中心でしたが、そこでのやり取りは、この既存の知識を使うということを大切したやり取りが欲しいところです。3角形にこだわることで答が出せそうだ。どうすればうまくいくのだろう。そういう過程を大切にしてほしいのです。
教科書は1つの頂点から対角線を引いて3角形に分割し、表にして関係を見つけるとなっていますが、参加者は、1つの頂点で分割する必然性を子どもたちから引き出すことには消極的であると感じました。一番大切なのはその部分です。1つの頂点から対角線を引いた図から出発して説明しても、自分でその分割を見つけることができる子どもは育ちません。先生方にそのことに気づいてほしいのです。
子どもが自由に分割した図で、多角形の内角が過不足なく含まれているか調べれば、重複している、無駄な角が見つかるので、それを除外すれば答はちゃんと一致します。その上で、過不足ない図はどうすれば書けるのかを課題にするのです。
教科書にはありませんが、既存の知識を利用するという考えを使うという発想は帰納的な発想につなげることができます(本当はこのほうが将来的には大切になるのですが・・・)。たとえば5角形の内角の和を、小学校でやった3角形と4角形の内角の和を使って求められないかという問いから始めるという考えです。5角形の場合、1つ対角線を引くと、3角形と4角形に分かれます。じゃあ6角形は3角形と5角形、7角形は・・・、としていけば、n角形はn−1角形と3角形に分割できることに気づけます。既存のもの同士を組み合わせるという発想をすれば、対応の関係でなく隣同士の関係から表を埋めていくことができます。関数で大切になってくる見方です。証明としてもほぼ完璧なものに近づいていきます。また、将来数学的帰納法を学習するときの布石ともなります。もちろんこれがベストなものだという気はありません。そうではなく、選択肢としてあがってほしいのです。
教科書は、わざわざ多角形といったときに凹多角形は考えないと書いてあります。「なぜ?」とたずねたところ、明確な答えが返ってきません。凹多角形でも内角の和の公式は成り立ちます。ただ、証明(説明)が難しくなるからです。しかし、教科書のすぐ下にはn角形の内部に1点をとり、各頂点を結んで3角形をn個作る方法が示されています。この考えを使えばかなり複雑な凹多角形でも説明がつきます(すべての場合はちょっと難しいのですが・・・)。教科書の執筆者は、そんなことに気づいてくれる子どもがいることをきっと願っていると思います。

(ちなみに、先ほどの帰納的な発想を使うときちんと凹多角形でも説明ができます。もし1つ離れた頂点同士を結んだときに3角形が内側にできても、内角の和はn−1角形の内角の和+180°になることがすぐにいえるからです)

凹も含めて多角形の内角の和を考えることを課題にした授業をしろと言っているのではありません。そこまで教科書を読み込んだ上で、授業を考えてほしいのです。中学校の教師が中学校の問題を解けるのは当たり前です。その教材の持つ意味をわかって授業をつくるから教師なのです。そうでなければちょっと優秀な中学生でも教師になれてしまいます。教師の教師たる所以は何かを意識してほしいのです。

本来乱入してはいけない立場なのですが、つい余計なことで研修を止めてしまいました。申し訳ありませんでしたが、私が割って入った思いをわかっていただければ幸いです。

最後の講演(講義)は、予定を少し変えて参加者が実習で苦労したところ、疑問、課題をもとに模擬授業をおこなっていただけました。願ったりかなったりです。自分たちからでた課題に対する回答なので、参加者の集中度はとても高くなっていました。メモ取るのではなく、真剣に見て、聞いて何が起こっているのか、自分たちと何が違うのかを理解しようとしています。ここから学ぶことは大きいと思います。模擬授業後、授業者から突然解説をするように求められました。とっさにどうしようかと思いましたが、参加者の多くが見落としていると思われる部分を解説させていただきました。

授業者は○つけをして全員が正確になっているところで、挙手をさせました。そのとき、反応の悪い子どもに、反応を求めました。全員○をつけて正解であることを確認しているのですから、そこまでしなくてもよいようにも思います。しかし、わかっているのならわかっている、わからなければわからないと反応するように求めたのです。「全員にできるようになってほしいから」、教師が外化を求めることを伝えたのです。いきなりの模擬授業でなかなかできることではありません。授業者の子どもへの思いが現れた場面です。「先生はだれも見捨てない。全員できるようにしたい」、そういうメッセージを言葉だけでなく体全体で子どもに伝える必要があるのです。
聞いたところ、子ども役同士で理解の遅い子役を2人決めておいたそうです。もちろんそのことを授業者は知りません。その子ども役のしぐさをきちんと見て対応したのです。さすがです。細かい授業の進め方やスキルも大切ですが、その教師の根っこに子どもへの思いがしっかりとなければいけないことがよくわかります。その思いがあるからこそ、子どもの何を見るのかが明確になる、見る目を持つことができるのです。そんなことをあらためて確認することができました。

10年にわたりこの研修会からは本当に多くのことを学ばせていただきました。感謝の言葉以外ありません。来年以降どのような形となって進化していくのかとても楽しみです。また、きっとたくさんのことを学ばせていただけることと思います。ありがとうございました。
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