授業に浸った1日
昨日は中学校で授業アドバイスをおこなってきました。若手中心に授業を見せていただいたあと、道徳の授業研究でした。
昨年おじゃましたときと比べて、若い先生、少経験者が増えています。授業を見せていただいて感じたことは、余裕がないということでした。みなさん授業の準備をしっかりされているのですが、かえって、これをやろう、話そうと準備したことをやりきるので手一杯となっているのです。そのため、子どもが考える・活動する場面が少なく、受け身の時間が長くなっています。そんな中で子どもは板書を写すことに意識が集中して、教師の説明よりノートを取ることを優先しています。教師も時間に追われ、子どもが顔を上げて話を聞いていなくても、そのまま話し続けたり、子どもが作業に集中しかけた時に追加の指示を出したり、説明を付け加えたりしています。子どもを見る余裕、子どもに任せておく余裕を失くしているのです。子どもの活動ではなく、教師の活動に意識が強く向いているということです。 子どもは教師の見たい姿にしかなりません。子どもが教師の話を集中して聞く。友だちの考えを真剣に聞く。集中して問題に取り組む。どんな子どもの姿が見たいのかを意識することが大切です。同じ学級でも、ベテランの授業では、子どもたちは説明を聞くべき場面では指示しなくてもしっかり顔が上がっています。日ごろの授業の中で自然にできるようになっています。子どもがノートに向かっているときには教師は何もしゃべりません。教師がじっと待っている間、子どもは集中して作業しています。子どもの問題ではなく、教師の問題であることがよくわかります。 しかし、ベテランの授業でも子どもが友だちの話を真剣に聞く姿はあまり見ることができませんでした。指名した子どもが発表するとそれ引き取ってすぐに教師の説明が始まります。子どもの言葉を活かし、子どもの考えで授業を進めることは意識されていませんでした。おいしいところを教師が持っていってしまうのです。教師が子ども同士かかわり合う姿を見たいと意識すれば、そのような姿を見せてくれる子どもたちだと思います。とてももったいないと感じました。 道徳の授業は、授業者の子どもたちにこうなってほしいという気持ちが強く現れたものでした。子どもたちと授業者の関係もよく、多くの参観者がいる中、子どもたちが授業者の期待に応えようとしていることがよく伝わりました。子どもとのやり取りの場面で、発言に対する教師の受けの言葉が「なるほど」「そうだよね」の2つの場合があることに気づきました。後者の場合には、教師が復唱して強調することもあります。授業者に確認したところ意識はしていなかったということですが、思いが強いため、無意識のうちに自分の望む発言を評価し、誘導していたのかもしれません。また、資料の「わたしの気持ち」を考えるという発問と、「意見」を書くという指示の仕方もあって、子どもたちは資料から少し離れて、やや客観的に考えていたように感じました。あまり心が揺さぶられておらず、変容があったのかよくわかりません。友だちの意見を聞きあって最後に各自がまとめた文も、出てきた意見から正解(≒教師の求めるもの)を見つけようとしているもので、本音の部分はあまり感じられませんでした。 授業検討会では、子どもたちに求めたものは資料の読み取りなのか、自分の考えなのかといった、国語と道徳の違いに関することと、子どもたちが自信を持って考えを発表するための指導法として机間指導時にワークシートに線を引いたり、○をつけたりしてほめることの2つが特に話題となりました。 前者については、子どもの心の変容を求めることから考えれば、資料の中に入って自分の問題として考えることが大切だと伝えました。そのために資料を正しく読みとることが大切ですが、その部分に時間をかけると考える時間が少なくなってしまいます。できるだけ早く読みとるためには、教師が資料を読みながら状況を説明したり、登場人物の心情について子どもに気づかせたりするなどの働きかけも必要なことです。 後者については、特に数学などの正解不正解がはっきりしている教科の場合には有効な方法ですが、道徳の場合、線を引いたり○をつけたりすることが、時として教師の価値観の押し付けになってしまう危険性があります。教師が○をつけてくれることを書こうとしてしまうのです。自信を持たせることで発言させるという発想だけでなく、自信がなくても発言できる雰囲気、環境をつくることも大切であることを伝えました。何を発言しても受容される、友だちに認められる、そのような学級づくりを意識してほしいとお願いしました。 この日は、皆さんと食事をする場を設けていただいたのですが、会場の移動前や食事会の最中に多くの先生が話を聞きに来てくださいました。どなたも授業にとても前向きで、質問や悩みの中に私自身が気づかされることがたくさんありました。どれだけ効果的なアドバイスができたかわかりませんが、きっと毎日の授業の中で着実に力をつけていかれると思います。 話に聞きに来ようとしてくださったのに、時間がなくてお相手できなかった方がいらっしゃいました。一生懸命授業に取り組んでおられたのですが、子どもとのコミュニケーションに苦しんでおられたように見受けられます。きっとアドバイスを求めていらしたのだと思いますが、それに応えられなかったことを本当に申し訳なく思っています。次の機会には、ぜひじっくりとお話を聞きたいと思います。 終日、授業と授業に関連する話にどっぷり漬かり、充実した楽しい1日を過ごすことができました。このような機会をいただけたことを心から感謝します。2学期にもう一度授業を見せていただく機会をいただけるようです。先生方がどのような進化を見せてくださるのか、今からとても楽しみです。 算数・数学におけるジャンプの課題を考える
子どもたちの学び合いでは、課題が大切だとよく言われます。特に子どもたちが大きくジャンプするような課題が求められますが、このような課題を考えることはなかなか難しいと感じています。いつも学ばせていただいている先生から、数学におけるジャンプの課題について、考えていることをメールで教えていただきました。その一部を引用します(順序等も変えていることをお許しください)。
授業ではともすると、解答とそれが正しい理由が扱われて進んでいくのですが、その解答を導き出すための思考過程を言語化させていることが少ない、これこそジャンプの課題となるのではないかと考えたのです。 例えば、なぜそこに補助線を引くことになったのか、 引けばよいのか、 引かざるをえなくなったのかを考えさせることです。 なるほど、これは大切なことです。私なりに勝手に解釈すれば、問題を解く、解決するメタな考えを問うことです。 図形の問題であれば、知っていること(平行線に関する知識、三角形や平行四辺形に関する知識、合同や相似)、わかっていること(仮定、仮定からすぐにいえること)、いえればいいこと(結論、結論つながりそうなこと、結論の一つ手前、中間の結論)を整理する。その上で、もし手掛かりが見つからなければ、補助線を引くことで知っていることが使えないか、知っている図形をつくることができないか考える。 こういうことを子どもたちに問題を通じて具体化させることだと思います。 しかし、これは数学の授業であれば本来、常に問い続けなければいけない課題のようにも思います。とはいえ、若い教師では、教師自身がこうやって解くものだと信じ、なぜここに補助線を引くのだと聞いても、こうやると解けるとしか答えられないこともよくあります。こうなると、教師にとってもジャンプの課題になってしまいますね。 このメールをきっかけに、私なりのジャンプの課題の考え方について少し書いてみたいと思います。まだきちんと整理できていないので、うまく切り分けられていないことをあらかじめお詫びします。 ・多様なアプローチがあり、そのアプローチに汎用性があるもの たとえば、中学受験などでよく見る、階段のあがり方の場合の数。階段を1度に1段か2段あがるとき、n段あがる場合の数を求める(もちろんn段でなく、10段などとしてもよいのですが)。 答はよく知られているようにフィボナッチ数列(前の2つの場合を足した合計になる)です。アプローチとしては、表を使って性質を見つける。しかし、これでは絶対的に正しいとは言えません。そうなる理由を考えなければいけません。数学における帰納的な考え方(漸化式)、具体的にはn段にたどり着くには、その前はどうなっているのか(先ほどの図形の例における結論の一つ手前と重複しますが)という汎用的な考え方を使うことになります(n段にたどり着くには、その一つ手前はn−1段かn−2段)。 ・知識を現実の問題に応用するもの 現実の問題ですから、絶対的な答えがないものもあります。それも含め、現実的な答を考えることで、学ぶ意味を知るというのは大切なことと思っています。 たとえば、過去のイベントの来場者数のデータから景品の数をいくつ準備するか考え、その根拠を数学的な用語を使って説明する。 平均でよいのか。平均より多かったら足りなくなる。最大値でよいのか。超えるかもしれない。大量に余るかもしれない。平均値にどのくらい足そうか。最頻値を基準に考えた方がよいのではないか。正解はありませんが、平均・最頻値などの統計指標や統計そのものの意味などを考えることにつながります。 ・いつでも成り立つか、逆は成り立つかを問うもの 小中学校では(高等学校でもよくありますが)、具体例で確かめただけできちんといつも成り立つか確認していないものや、逆は成り立つのかを考えていないことがよくあります。 たとえば、比例や1次関数の性質には、変化率が一定であることや1増えれば同じ数だけ増えるということがあります。これは、本当にいつもいえるのか。逆に、変化率が一定である、1増えれば同じ数だけ増える関数は比例になるのか、1次関数になるのか。ならなければどういう条件があればいいのか。 いつも成り立つのかは、文字をうまく使うなどしなければきちんといえません。逆の問題であれば、変化率が一定のときでも、原点を通るといった条件がなければ、比例にはなりません。また、1増えれば同じ数だけ増えるという条件では、(定義域を)整数に限定するなどしなければ1次関数にはなりません。教科書の問題でほとんどの場合、1次関数でと条件に1次関数であることを入れている理由の一つです。 ・定義の理由を考える こう決めるということには、何らかの合理性があります。その意味を考えることで本質に気づくことができます。 たとえば、君たちなら、角度をどう定義するか。 定義そのものでもよいですが、1周を何度にするかでもよいかもしれません。360°にした意味を考えるだけでも色々なことに気づけると思います(理科の問題かもしれませんが・・・)。このことを考えることで、扇形の周や面積の問題は、定義から自明となります。 ・教育課程の範囲を超えている、一般的な理論があることを、限定された条件や具体例で考えさせる。 これは、今までの例をほとんどカバーしていることかもしれません。誰も思いつかないような素晴らしい課題をそう簡単に思いつくわけがありません。先ほどまでの視点で、小学校であれば中学校の、中学校であれば高等学校の内容と、この先学習することから課題のネタを拾ってくるのです。フィボナッチ数列の例は言わずもがな、統計の例は、現実には分布がどのようなものになるか、標準偏差や危険率などの問題から考えることを、できる範囲で考えさせているわけですし、比例や1次関数の例は、関数の連続性や微分、関数方程式やカントール集合の問題などにもつながっています。角度の問題だって、孤度法にもつながります。(数学の先生でない方はこのあたりは読み飛ばしてくださいね) たとえば、2の平方根は、循環小数にはなりそうもないと確かめていますが、有理数(分数)で表せないことは、きちんと平方根の意味を教えていれば、中学生にもチャレンジできる問題となります(背理法といった難しい言葉を使はなくてもいいのですから)。 ここであげた例が、現実にすぐに子どもがチャレンジできる課題かどうかはわかりません。それまで子どもたちがどのような課題に取り組んでいたかにもよるでしょう。最初にちょっと揶揄した書き方をしましたが、子どもにとってジャンプの課題は、教師にとってもジャンプの課題です。教師が積極的にチャレンジしていかなければ、子どものジャンプは期待できないと思います。皆さんがチャレンジしておもしろかったジャンプの課題があれば、ぜひ教えてください。また機会があれば、他の教科のジャンプの教材についても紹介したいと思います。 いつも同じことを言う教師
子どもの教師への評価に「先生はいつも同じことを言う」があります。これはよい意味でも悪い意味でも使われます。悪い場合は「くどい」「しつこい」に近い使われ方です。教師が求めるものが高く、それに子どもが応えられないとき、どうしても同じことを何度も言うことになり、子どもはまた言っている、また怒られたと感じるのです。一方よい場合は、教師が大切にしていることは結局このことだ、このことを意識していればいいのだと納得できているときです。教師がいつも言うべきこととは何なのでしょうか。
それは、目指す子どもの姿、行動を考えるときに、常にそこに立ち返るべき原点です。 たとえば、最近「当り前のことがちゃんとできる」ということを大切にしている学校によく出会います。この言葉の優れているところは、子どもたちの取るべき行動の原則として非常に広い範囲を含んでいることです。「時間を守る」「ルールを守る」「約束を守る」「整理整頓をする」・・・。どれも「当り前のことがちゃんとできる」に含まれています。「時間を守る」には、「学校に遅刻をしない」「チャイムが鳴る前に席につく」「体育館への移動に遅れない」などが含まれます。だんだん細かくなっていきますね。 一方子どもたちへの指示や指導はできるだけ具体的であることが大切です。「当り前のことがちゃんとできる」と言っても、「チャイムが鳴る前に席に着く」が「当り前のこと」として意識はされません。そのことを意識させる必要があります。だからといって、できるようになるまで「チャイムが鳴る前に席に着く」と言い続けることはネガティブを言われ続けるので、悪い意味で「いつも同じことを言う」と感じることになります。 「今日も遅刻がいなかったね。当り前のことがきちんとできているね。えらいね。ところで、さっきチャイムが鳴る前に全員席に着いていたかな。どう?」 「着いていなかった」 「チャイムが鳴る前に席に着くのは、当り前のことかな?」 「当り前のこと」 「じゃ、これもきちんとできるようになろうね」 指導する時には必ず、原点となる言葉に立ちかえるようにします。広い範囲を含むので、できていることもたくさんあるはずです。そのことをきちんとほめ、だからこれもできるようになろうと前向きに伝えるのです。原点に立ち返ることが意識されてくれば、どのような場面でも、自分で正しい行動を判断できるようになっていきます。 いつも言うことを「当り前のことがちゃんとできる」レベルにするのか、「時間を守る」レベルにするのかは子どもたちの状況によって異なります。年間と月単位でレベルを分ける方法もあります。校長と担任で分けるという考え方もあります。いずれにしても、示すときにはそこに含まれる具体的なことを子どもに考えさせる。できていないと指導するときは必ずそこまで戻り、できていることをほめることも忘れない。このことを意識して、よい意味で「先生はいつも同じことを言う」と言われる教師になってください。 学校訪問で気づく(長文)
昨日は中学校の学校訪問に参加させていただきました。午前中は公開授業、午後は2つの研究授業でした。
午前中の公開授業を通じて前回訪問時に感じた子どもたちの変化(子どもたちの変化を感じた訪問参照)の正体が見えてきたように思いました。今回は公開授業ということもあってか、前回の訪問と比べて多くの授業でグループ活動やペア活動の場面が見られました。子ども同士がかかわり合う場面では、表情もよく、子どもたちのやる気が感じられました。集中力の差はやテンションは、根拠を持って話し合える内容か、子ども自身の課題となっているかによって違っていましたが、総じてとてもよい雰囲気です。子どもたちの人間関係も崩れてはいません。ところがその同じ授業でも全体での追究場面となると大きく変わってくるのです。友だちの発言を聞かない、教師が話しているのに子どもが板書を写している。そんな授業が増えているのです。子どもの活動の結果はとりあえず発表して終わる、一問一答で進むなど、発言をもとに子ども同士がかかわりながら互いの考えが全体に広がっていくような活動がないのです。また、前回の比較から考えると、ふだんの授業でもペアやグループでの活動場面が減る傾向にあるのではないかと想像します。それで、子どもが変化したように感じたのです。しかし実際には子どもが変化したというよりも教師が変化したということなのです。今までと変わらない授業スタイルの先生の教室では、以前と同じかそれ以上によい姿を見せてくれています。こういう先生方は子どもが変わったとは感じないでしょう。自分たちの発言が活かされない、友だちの発言を聞いても意味がない、だからかかわらない、聞かない。子どもたちは単に授業に対して素直に対応しているだけだったのです。 午後の授業研究は、道徳と国語でした。 道徳は、介護の問題から同居するようになった祖父母との軋轢から、主人公の中学生が祖父母に出ていってもらいたいと考えるという資料をもとに、家族について考える2時間授業の後半でした。主人公に賛成か反対かと立場を明確にさせて意見を聞きあい、考えを深める場面の前半を見せていただきました。教師と子どもたち、子ども同士の人間関係がよいことが印象的でした。コの字型の机の配置もあってか、友だちの顔を見て話を聞ける子どもがほとんどです。友だちの意見を聞きながら考えを深めていっていることが感じられました。少し気になったのが、「賛成、反対」という問いのためか、私が見ていたときは客観的、評論家的で、建前で話していたことです。このような問いかけ方では、本音が出にくい傾向があります。「あなたならどうする」と迫る質問の方が、本音が出やすくなるようです。しかし、後半では実際に介護の問題を抱えている子どもの意見をとりあげたりしながら、子どもたちの本音をうまくひきだしたようです。協議会では、子どもに対する接し方、特に介護の問題を抱えている子どもへの気遣いの細やかさが、指摘されました。このあたりも子どもとの人間関係のよさの秘密があるように思いました。 「あなたならどうする」と考えさせ、「そのとき、父母や、祖父母はどう感じ、どうするだろうか」と意見を述べ合う展開だとどのようになっただろうかと、道徳の授業の進め方についていろいろと考えるきっかけをいただきました。 国語の授業は、説明文の構成を考える授業でした。教科書の文章を形式段落でバラバラにして順番を変えた資料から、本論と思われる文を抜き出す。はっきりしない文が本論に入るかどうかを考えるのに、正しい順序に並べ替える。こういう展開でした。私は後半を見たのですが、黒板には本論とは何かは書かれてはいませんでした。以前にやった授業をもとに進めているようなので、そのときには整理されたのでしょう。しかし、この授業ではそのことが根拠となるのですから、明確にしておく必要があります。言葉のはしばしに具体という単語が出てくるので、具体的なことが書かれているというのが定義の一部なのでしょうが、それではわからない文が出た時点で、再度本論とは何かが明確されなければなりません。残念ながら、そこは明確にせずに、正しい順番に並べれば、どこにあるかで(本論の文の間にあれば)わかると一言言っただけで、グループで並べ替える作業に移りました。並べ替えるにしても明確な視点、根拠を子どもたちは持っていません。逆にどの文が序論、本論、結論かグルーピングすることも並べ替えるための一つの方法です。これが明確でないのですから難航するはずです。子どもたちは試行錯誤しながら終始高めのテンションで作業をしていますが、根拠がないので話し合いは成立していませんでした。 このことが、発表の場面に現れました。理由も言ってと発表を促したところ、どのグループも挙手しません。そこで、理由はいいからとすると、ほとんどのグループの手が挙がりました。2グループ発表しましたが、その違いについて全体で考えることはできません。根拠がないのですから。結局、事前に回収してあった教科書で答を確認して、問題の文が本論になると結論づけてこの時間は終わりました。実はこの教科書は紙にくるんで一人ひとりの椅子の裏に貼り付けてありました。このサプライズに子どもたちは大いにわきました。結局、理由については次の時間で扱うようですが、子どもはサプライズと並べ替えが正解かどうかに気をとられ、そのことを意識している様子はありませんでした。 授業検討会では、グループ活動のときの子どもたちのようすが細かく報告されていました。先生方が子どもを見る視点がしっかりしていることを感じました。私がいなかったときに若手の先生から教科書のサプライズを評価する発言があったようです。若手はどうしてもこの種のパフォーマンスにひかれる傾向があります。授業の本質には関係ないそれどころか最後のまとめでなぜこの順番かじっくり考えなければいけないときに、無駄にテンションを上げてしまうマイナスなものです。このために時間を使うのであれば、もっともっと教材研究に力を入れてほしい、そのことをわかってほしいと思いました。 学校訪問終了後、学校の現状について教務主任、校務主任、研修担当と話をさせていただきました。どなたも現状をしっかり認識しておられました。授業を大切にする意識が、研究発表後時間が経って薄れてきているのではないかという危機感を共有することができましたが、問題は今後どうしていくかです。すぐによい答えが見つかるとは思いませんが、知恵を出し合うことで、きっとよい方向にもっていけるでしょう。ここを乗り切ることで、この学校の授業力が継続的に向上する仕組みが見えてくることと思います。私も新たな挑戦として、前向きに取り組んでいきたいと思います。 鈴木明裕先生から学ぶ
本年度第2回目の教師力アップセミナーは、岐阜聖徳学園大学准教授の鈴木明裕先生の講演でした。算数・数学で教科書を理解できていない、うまく使いこなせていない若い先生が多いということで、「算数・数学での教科書の使い方と役割」というタイトルでお話いただきました。
・教科書に書かれた考え方以外に子どもはどんな考えを出すだろう。その考えが出てきたときどのように活かすことができるのだろうか。 ・教科書では子どもがつまずきそうなこと、疑問に対する答(結論)が書かれている。子どもに聞かれたときにどのように対応すれば(過程を示せば)よいのだろうか。 ・具体物を操作する。情報を整理して見やすくする。式で表現してみる。これらを行き来することで数学的な表現力は高まる。教科書の課題を解決するのに、どのようにアプローチすればよいのだろうか。 鈴木先生の教科書の具体的な場面での説明から、教科書を活かすためには、このような視点で考えることが大切だとあらためて整理できました。教科書の問題の数値一つとっても、教師に指導してほしいことへの思いが込められています。教科書に直接書かれてはいませんが、そのことに気づくヒントはあちらこちらにちりばめられています。宝探しのようなつもりで教科書を読んで見ると、多くのことに気づけると思います。 私は小学生を指導した経験はほとんどありません。数学以外の教科を教えた経験もわずかです。しかし、たとえ経験のない教科の内容についてもアドバイスをさせていただいています。それができるのは、教科書のおかげです。算数に限らず、教科書を読み解くことで、指導すべき内容やその方法が浮かび上がってくるのです。 教科書を執筆される方たちは、「てにをは」にもこだわって書かれています。そのこだわりから指導に関する多くのことを学べるのです。 教科書を見ていて「なぜ?」と疑問に思うことがあります。その疑問を追究することから、書かれていない多くの大切なことに気づけるのです。 教科書をしっかり読みこみ、そこを出発点として授業を組み立てていってほしいと思います。 鈴木先生のお話をきっかけに、色々なことを整理することができました。ありがとうございました。 学校の成長とこれからの課題について講演
昨日は中学校で講演をおこないました。4年間訪問している学校です。当初は授業規律もままならない状態でしたが、3年ほどですっかり見違えるような学校に変わりました。異動等でこれまでの経緯を知らない先生も増えました。ここで一度この4年間を振り返り、次へのステップアップのためのお話をさせていただくことになりました。
この4年間で、教師が子どもを受容する雰囲気がずいぶん学校に広まりました。その結果、子どもと教師の人間関係が良好なものになり、教師の話をしっかり聞こうとする姿勢ができました。実は、次のステップに進めるかどうかはここがポイントとなります。どういうことかというと、子どもたちが集中して聞いてくれるようになると、教師はついついしゃべりすぎてしまうのです。そうではなく、教師が聞く時間を増やすこと。つまり子どもの発言を増やすことが求められます。子どもに外化を求め、子どもの活動量を増やすのです。そのためには、一問一答形式の答え探しの授業からの脱却、子どもたちが考えざる得ない課題設定などの工夫が必要です。知識は知っていれば答えられますし、知らなければ答えられません。知識を問うても、考えることにはつながりません。先に答えを与えて、「どうやって求めたかわかる?」と聞いたり、「何がわかれば、答えが出せる?」と必要な条件をたずねたりするといった工夫が求められるのです。 うれしいことに、過去に私が個別のアドバイスをした先生方がとても集中して話を聞いてくださいました。彼らにとっては、アドバイスのときに聞いたことがある話がほとんどなのにもかかわらずです。アドバイスされたことを自分の中で確かなものにしようという意欲が感じられました。後ほど校長、教務主任から彼らの授業がとてもよくなってきていると聞きました。前向きな姿勢が進歩につながっているのだと思います。また何人かのベテランの方もとてもよく反応してくださいました。自身の経験と照らし合わせながら聞いていただけていることがよくわかります。自分の持っているものを今回の話をきっかけに整理していただけたのだと思います。こういう方は、若手にもきっとよいアドバイスをしてくださるでしょう。こういったベテランの存在が若手の成長を支えてくれるのです。 今年度も2学期以降、個別の授業アドバイスが予定されています。昨年に引き続き今年も希望してくださる方が何人もいらっしゃるそうです。きっと大きな進歩を見せていただけることと思います。この学校がこれからどのように進化していくのかとても楽しみです。 「効率的な学習方法」という質問から見えること
昨日仕事でおじゃました会社の方からおもしろい話を聞かせていただきました。今は新卒の採用時期で、適性検査の質問項目の中に「あなたにとっての効率的な学習方法」があるのだそうです。その回答がいくつかのグループに分かれるというのです。
A.「あなたにとって」のという文脈が正しく読みとれずに、ICT機器を活用した授業など、自分の体験とは関係のないもの B.自宅では集中できないので図書館で勉強するなど、学習方法そのものというよりも、その前の段階である、集中するための条件整備 C.重要な事項にしぼって覚える、できなかった問題を何度も解くといった、訓練的な方法 D.友だちに教えさせてと頼み、わかりやすく教えようとすることで内容が理解できるといった、学習内容を関連づけて高いレベルで身につけるための工夫 これらの回答と適性検査の成績、面接での受け答えには相関関係が感じられるそうです。 なかなか興味深いものがあります。 Aのグループには、理解力、コミュニケーション能力の欠如が感じられます。 Bのグループには、意識しないと集中して学習に取り組めない、学習習慣や学習への姿勢の問題が感じられます。 Cのグループには、ある程度の成績はとるでしょうが、学習を覚えること、訓練すること考えているため、未知の問題に対する解決能力や問題を総合的にとらえる力が不足していることが感じられます。 Dのグループは、学習を前向きにとらえ、高いレベルを求める意欲と思考力の高さが感じられます。 教育にかかわるものとしては、傍観者としておもしろがっていられる話ではないと思います。それぞれのグループに対して、どのような働きかけがあったのか、なかったのかを想像してみてください。 皆さんの目の前の子どもは将来どのグループに属することになるのでしょうか。今の時期に、どのような課題を与え、どのようにかかわり、どのような指導をおこなう必要があるのか、具体的に考えてみてほしいと思います。 子どもたちの成績がよいからと安易に妥協しない
子どもたちの成績がよく、通塾率も高い、いわゆる文教地区の学校を訪問してよく感じるのはが、授業における子どもと教師の関係の希薄さです。教師は淡々と説明をしている、子どもはとりあえず大人しく聞いている姿勢をとる。教師の質問に対して、わかっていても挙手しない。教師も質問しても反応がないので、ますます一人でしゃべっている。このような状態でも、子どもたちの成績はよいので、問題と思わなくなる。成績がよいことで、安易に妥協してしまっているのです。
ちょっと荒れた地区であれば、あっという間に学級が崩壊するような状況です。子どもたちのどこに原因があり、教師は何を変えていけばよいのでしょうか。 子どもたちがこのような状態になるのは、学習に対する価値観が試験の成績に偏っていることが大きな原因だと思います。こうなると、効率的に試験の点が取れるように子どもたちは行動します。試験に出題されることには敏感ですが、それ以外のことには興味をなかなか示しません。教師が、板書したことから出題するのであれば、板書だけは必ずきちんと写します。教師が話していても、写すことを優先します。こうなると教師も子どもの関心を引くために、「試験に出す」といった利益誘導の言葉を使うようなり、悪循環に陥ってしまいます。彼らは、勉強はおもしろいものだとは思いません。試験に出ることを覚える、点を取れるように訓練する作業に近いものなのです。また、教師も勉強とはそういうものだと思っていれば、この状態はまず変わることはありません。 では、試験でよい成績をとることの価値を否定すればよいのでしょうか。この価値を否定すれば、試験そのものの意味が大きく揺らいできます。ふだんの試験はまだしも、入学試験がある現実を考えればナンセンスです。 大切なのは、結果を覚えることではなく、その過程、学ぶことに価値を見出させることです。知識そのものではなく、知識を組み合わせて問題を解決することを大切にするのです。一人ではすぐに答が出せないことを、みんなでかかわりながら考え解決することの楽しさを経験させるのです。そして、試験でも単に知識を覚えれば解ける問題ではなく、授業で経験したような考える問題を出すのです。 たとえば歴史で、「ペリーが日本に来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれ鎖国が終わった」。これは大切で試験にもよく出ます。しかし、ペリーが来たのは、なぜこの時期だったのか。日米和親条約の結果、世の中の何が変わることになるのかなどを問うのです。事実をもとに考え、それに関する他の事実を調べ、点の知識を線でつないでいく。このような課題を子どもたちに課すのです。正解は一つとは限りません。一問一答で知識を確認するのではなく、教師が言葉をつなぎながら、友だちのいろいろな考えを聞くことで自分の答えを見つけていく。そして、この課程で子どもたちの活動をポジティブに評価するのです。正解が評価されるのではなく、たとえ不正解やずれた発言でもその価値を認めるのです。 試験でよい点を取るのと同じかそれ以上の価値を、授業に参加することに見出す。そして、そのことを価値づけてくれるのが教師や友だちであれば、授業の雰囲気は間違いなく変わっていきます。 教師が子どもと同じように、試験の結果だけを評価するのではなく、より高いものを子どもに求めるのです。その価値を子どもと共有することで、子どもと教師、子ども同士がかかわりあう関係が育っていくのです。子どもに安易に妥協するのではなく、高いものを子どもに求めてほしいと思います。 研修の打ち合わせ
昨日は中学校で、子どもたちのようすを見せていただいた後、研修の打ち合わせをおこなってきました。夏休みと秋の2回研修をおこなうのですが、1回目の夏休みでは、子どもたちの授業中のようすを見ることができません、そこで、この時期におじゃますることになりました。
子どもたちは優秀なのですが、教師とは距離を置いています。教師とだけでなく、学級全体として見ると、友だち同士の関係も希薄のように感じました。 ・一部の授業を除いて、教師の話を聞くときに顔が上がらない、反応しない、話を聞くよりも板書を写すことを優先する。 ・教師が子どもを見ずに説明したり、指示したりする。 ・スクリーンに写して説明しても、子どもたちは手元を見ていてスクリーンを見ない。 ・1問1答で進行し、子どもの言葉にかかわらず教師が予定している説明をするため、子どもは友だちの発言を聞く必要を感じていない、自分が挙手して発言することに価値を見出していない。 ・子どもの発言に対して、評価がない。 ・教師の説明の時間が長く、集中して聞いてはいないが、騒いだり場を乱したりする行動はとらない。 ・子どもが受け身の時間が多く、知識を問うことはあるが、思考する時間がほとんどない。 ・指示の後の動きが鈍いが、作業には集中して取り組む。 ・子どもの活動量が少なく、友だちとかかわる場面はほとんどない。 このような状況から、授業でのコミュニケーションが不足していると感じました。不登校の子どもが多い、多くなるのでは気になるところです。 研修をどのようなやり方で進めるかを考えるにあたって、担当の先生が感じる問題点を聞かせていただきました。もっと子どもを活躍させたい、発言させたい。自分の考えを書く力をつけさせたい。大きくはこの2点でした。私が見た授業中の子どものようすからも納得のいくものです。とはいえ、この部分にきりこむ前に、そもそも教師集団が子どもたちそうなってほしいと思っているのかという意識の問題、子どもたちを変えるための前提となる子どもとの人間関係の問題の2つをクリアする必要があるように思いました。前者については一方的に話をしても簡単に変わる問題ではありません。後者についてもその必要性を感じていなければ、なかなか言葉は届きません。子どもたちが優秀で、学習成績も高いため、先生方は現状に問題を感じないのです。 相談した結果、一気に変わることを期待するのではなく、自分の授業を振り返ってもらうところから始めることにしました。まず、1回目は私が見た具体的な授業の場面から何が起こっているのか、何が問題か、どうしていけばいいのかを話し、2回目は、この学校の授業を自分たちの目で見ていただき、それをもとにどんな授業を目指していくべきなのかを話し合うことになりました。 この地区では、授業を見せていただくことはなかなか難しいのですが、快く見せていただき、私自身、たくさんのことに気づき、学ばせていただくことができました。感謝です。皆さんのお役に立てる研修をすることで、少しでもお返しできたらと思います。 中学校と高等学校の情報交換を考える
小中連携が強く言われるようになり、小学校と中学校の情報交換も盛んになっています。また、中学校と高等学校でも連絡会議を持つことは珍しくなくなってきています。ところが、中学校と高等学校の情報交換にはまだまだ壁があるように思います。どういうことかというと、受験があるため、本人にとって不利になる情報はなかなか高等学校側に明らかにされないということです。
たとえば、対人関係に不安があったり、神経症などが原因で集団の中で学習ができない子どもがいます。通常の入学試験では、中学校からの情報がなければそのことには気づくことはできません。学力的に問題がなければまず合格するはずです。しかし、その情報が高等学校側に伝わらないため、進学してからの対応が後手に回ってしまうことがよくあるのです。問題が発生してからあらためて中学校に問い合わせ、はじめて中学校時代の情報が手に入ることが普通です。高等学校では、授業に出席できなければ単位を認められないことが一般的です。中学校とはかなり事情は違います。せっかく入学したのに、結局進路変更を余儀なくさせられることがよくあるのです。 入学試験に不利になる情報を伝えることは、本人の利益を損なうからできないということはよくわかります。また、環境が変わることによって、中学校ではうまく適応できなかった子どもが、問題なく過ごせることもよくあります。しかし、それと同じくらい高等学校でも不適応を起こすことがあります。そのリスクをきちんと本人・保護者と確認し、その上で進路を決定する必要があります。そして、合格したら、本人・保護者に納得してもらった上で、中学校での状況を高等学校に正しく伝えることが大切です。高等学校も引き受けた子どもを大切にすることは中学校と変わりません。互いに信頼し合い情報を交換することが子どものためにも必要なことなのです。 また、これは私の経験ですが、地元の中学校との連絡会で、気になる何人かの子どもの情報を中学校側にうかがったところ、「別に変わったところがない」の一言で終わったことがあります。残念ながら、その内の何人かは後に問題行動がありました。中学校時には本当に何もなかったのかもしれませんが、もう少し情報がもらえれば対処があったかと思わないでもありません。私たちが信頼していただいてなかったのかもしれませんが・・・。 子どもの個人情報の交換は微妙な問題がありますが、正しく伝えあうことが子どもにとってもよい結果をもたらすものだと思います。子どもを大切に思う気持ちに変わりはないはずです。この点で一致している限り信頼関係を築きあえると思います。子どものためにも、中学校と高等学校の壁を失くして、スムーズな情報交換ができるようになってほしいと思います。 授業者では見られない子どもの姿を見る
授業者の立場で子どもを見るときは、全体を見ることが大切になります、しかし、授業研究などで、第三者の立場で授業を見るときは、ふだんと違った見方ができます。それは、授業者では見られない子どもの姿を見ることです。
たとえば、特定の子どもの変化を追い続けることは授業者には難しいことです。そこで、授業に集中していない子どもを見つけるとその子どものようすをしばらく追い続けます。1時間中集中できない子どもはまれです。たいていはどこかの場面で授業に参加します。そのきっかけが何かを見るのです。多くの場合は、教師の説明から子どもの活動に移るときなど、場面が変わるときです。同じ状況が続くと集中力が切れやすくなり、状況を変えると集中力が戻るということに気づかされます。集中できない子どもを見つけたら注意するのではなく、場面に変化をつければよいことを学べるのです。教師の話は集中しなくても、友だちとの相談は積極的にする。問題を解いているときは、途中で投げ出していても解説になると聞く、解答だけは一生懸命写す。こういう集中がもどるときを見ることで、子どもについて多くのことが学べます。 また、授業中は次々指名していったり、発言を受けて説明したりするため、発言した子どものその後の状態を見続けることはなかなかできません。これを見ることからも、多くのことを学べます。たとえば、私がよく目にする発言後のようすには、大体次のようなパターンがあります。 発言後、次の発言者の話を真剣に聞いている。 これは、子どもの発言を「○○さんの考えと・・・」と教師がつないでいるときによく見ます。 うれしそうな表情、満足そうな表情をしている。 これは、教師が発言をポジティブに評価した時によく見られます。また、多くの挙手があったときに指名してもらえたときも満足した表情になります。しかし、このあと挙手、指名が続くときに、自分の出番は終わったと興味を失くしていることもよくあります。 発言後、あまり変化がない。 これは、比較的だれでも答えられるような質問に対して正解した場合によくあります。挙手ではなく順番に次々に指名しているときや、教師が「正解」としか評価せずにそのまますぐ説明を始めるときにこの傾向が強いようです。 発言後、顔が上がらない、意欲を失くしてしまう。 これは、不正解だったり、教師に評価してもらえなかったり、ネガティブな評価をされたりしたときによく見られます。多くの場合、次の場面に移るまでこの状態が続きます。ひどい時には、その後ずっとこの状態が続くこともあります。 このようなことから、教師が子どもの発言をポジティブに評価する、つなぐといったことの大切さに気づけます。 授業を見学するチャンスがあったときは、漫然と教室全体を眺めるのではなく、授業者では見ない、見られない子どもを意識して見てほしいと思います。そうすることで、より多くのことを学べるはずです。次に授業を見る機会には、ぜひこのことを意識してください。 |
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