宿題について考える

先日の学校評議員会で宿題のことが話題になりました。一部の子どもたちが家庭で宿題をしないというアンケート結果に対して、先生は提出を厳しく求めていないのかという質問があったのです。実は、先生方も提出をきちんとチェックしているのですが、そういう子たちは、学校で友だちから写しているということです。残念ながらこれでは宿題の意味はあまりありません。また、子どもたちの宿題のやりようを見ていると、ただやればいいという作業になっているという意見もありました。宿題はどのようなものにしていけばいいのでしょうか。

家庭での学習習慣をつけるという意味が宿題にはあります。出しっぱなしではいけないので当然チェックもします。そのチェックはどうしても書かれたものでする傾向が強くなります。そのため、宿題で力をつけるというのではなく、やればいいという発想になりがちです。単に作業にしないためには、結果を求める宿題にする必要があります。
たとえば「本読みを3回する」といった宿題から「すらすら読めるようにする」にし、何回読んだかを報告するようにします。全体の場で読ませて、「すらすら読めたね。何回読んだ」と聞くことで、努力と結果を両方評価します。全員読ませることができなければ、ペアで読んで互いに評価し合うことも一つのやり方です。一律に何回ではなく、結果を問うことで、自分で考えて学習する習慣をつけるようにします。
「○○を完璧にする」ために「問題集の何ページをやる」という形にして、できるまで何回やったかを問う。目的・目標を達成するために、何をするかを自分が考えるようにする。結果を問い、結果と課程を評価することで、宿題が単なる作業から学習に変わっていくのです。

一律にやればよいというものから、目的を明確にして結果を問う宿題に変えることが大切です。自分で結果を出すためにどうするかを考えることで、本当の学習習慣がついていきます。宿題のありかたをすこし見直してみることも必要だと思います。

外部の視点で学校評価を考える

昨日は中学校の学校評議員会に参加しました。今回は学校評価と来年度の教育目標が主な話題でした。

学校からは、子ども、保護者、教員へのアンケートの集計資料をもとに丁寧な現状の説明がありました。データからは学校がよい状態であることがわかります。この数年でよい方向になっていることも口頭で伝えられました。
残念だったのは、提示されたデータがそれぞれ単独で示されていたことです。
似た内容の質問に対して、子どもと保護者の傾向が近いものとずれているものがあります。保護者と教員の意識のずれが見られるものもあります。先生方はきちんと分析されているのかもしれませんが、その場で見て考える私たちには、データを並べて表示して比較しやすいものがあればずいぶん違ったと思います。また、過去のデータも同時に提示していただけば、説明していただかなくても示された数値が高いか低いか、よい方向に向かっているのかどうかがすぐにわかります。
データの提示について、このようなことをお伝えしました。

多くの学校では、評価をアンケートに頼っていますが、学校の教育活動における具体的な場面や事実も評価の指標になります。下駄箱やロッカー、トイレや廊下などを定点観測することも評価になります。保健室の利用数も大事な要素です。こういうものも可能な限り資料として提示していただけると学校のことがよくわかると思います。

評価に対してどう対応してどう変わったがわかるようにすることも外部の立場からは是非お願いしたいところです。年1回の評価だけでなく、小刻みな評価も交えることも有効だと思います。個々の評価をすぐに次の活動に反映させる。その結果をまたすぐに評価する。このようにすることで学校の対応スピードがアップします。

また、教育目標はその達成のための具体的な動きがわかること、その結果をどのような指標で評価するかが明確になることが大切です。目標として書かれていることはどれもその通りで大切なことなのですが、具体的でないため評価が難しいのです。確かにこれは大切な目標であるが、どうやったら達成できるのか、本当に可能なのか疑問を持つものもあります。教育目標を見て教員が明日からこういうことをしようと行動が具体的になるものにする、教育目標をより具体的にするために学年や教科で話し合って、具体的な行動計画をつくる、といったことが求められます。

外部の視点で見ることは、時として学校にとっては厳しいものになります。今回は辛口の意見が多くなってしまいましたが、この学校が次のステップに上がっていく時期だと感じたからです。学校のマイナス面もきちんと伝えてくれる学校です。何事も前向きに受け止めてくれる学校です。そんな学校ですから、きっと来年度は新しい姿を見せてくれることと期待しています。

「儲けなければいけない」意味

愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」が終了して2週間が過ぎました。パネルディスカッションの写真愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」が終了して2週間が過ぎました。パネルディスカッションの写真と<swa:ContentLink type="doc" item="46952">記録</swa:ContentLink>がアップされましたので、是非ご覧ください。

先週末このフォーラムをバックアップしていただいた企業の社長と久しぶりに2人で話す機会がありました。当日のパネルディスカッションに登壇いただきましたが、その際の言葉がとても印象に残っています。

学校関連のソフトウエアやサービスに関して、司会から「儲かっていますか?」という質問がされました。それに対して、「まだ儲かっていない。儲けたい。儲けなければいけないと思っている」と答えられました。また、関連して、学校と一緒に商品を開発することに対して色眼鏡で見られることも語られました。会場の先生方はこの言葉をどうとらえたのでしょうか。

教員は「儲ける」という言葉に対してネガティブな感情を持つことが多いように感じます。公立校は税金で運営されているので教員は儲けを考えることなく教育に携わっています。このことを偉いことのように考える方もいます。自分たちが直接お金を稼がないのでコスト意識を持つことが少ないようですが、教育にはお金がかかります。教職員の給料を含めて小さな学校でも1校あたり億単位の金が必要になります。企業ではそれに見合う金額を稼がなくてはなりません。それに見合うだけの価値を生み出さなければいけません。その厳しさを先生方には理解してほしいと思います。

この社長は学校や先生のお役に立ちたいという思いがとても強い方です。本当に役立つものやサービスを提供したい。そのためには現場の声を聞くことが大切だと考え、学校や先生方との共同開発に積極的に取り組んでいます。先生方を儲けに利用するのではなく、先生方の役に立ちたいとの思いからです。
では、「儲けたい。儲けなければいけない」というのは、どういうことなのでしょうか。役立つものを提供することは、儲からなければ続きません。せっかく先生方と一緒につくったよいものを、多くの現場で活かしてもらうために「儲けたい」のです。一緒につくってきた先生方の努力を無駄にしないためにも「儲けなければいけない」のです。その思いがあの言葉になったのです。

今回のフォーラムは企業のバックアップなしではとても経済的にも物理的にも実現できませんでした。このフォーラムが皆様のお役に立てたのなら、それは企業の社会貢献の一つの形なのです。これも、儲けなければできないのです。

私がいうべきことではありませんが、当日スタッフとしてお手伝いいただいたこの企業の方には、社長の言葉は届いたでしょうか。まだ儲かっていないといいながら、このようなフォーラムのバックアップをする意味、会社が儲けなければいけないことの意味が伝わったでしょうか。当日参加されなかった方やスタッフの仕事が忙しくて聞くことができなかった方は、一度この言葉をじっくり考えてみてほしいと思います。

久しぶりにお話して、「儲けなければいけない」という言葉に込められた社長の思いをあらためて強く感じました。
学校と企業がよい形で連携することで、子どもたちに今以上によい教育を提供できると思います。互いの垣根が低くなることを願っています。

卒業式に思う

昨日は中学校の卒業式に来賓として出席しました。学校にとって最大の行事である卒業式ですが、近年は来賓のあいさつ等は極力減らし、生徒主体のもの変わっていく傾向にあるようです。とてもよいことだと思います。地区や学校ごとに特色がありますが、卒業生による合唱は選曲も、時代を映した曲であったり、オーソドックスなものであったりとさまざまです。今年はどんな曲を歌うのかと密かに楽しみにしています。

卒業式は3年間の集大成と言われますが、まさにその通りです。式の最中に見せる姿からどのように育ってきたかがよくわかります。
入場の歩き方一つとっても、その子どもの3年間がわかります。式の最中の姿勢や表情からも、どのような思いを持って過ごしたのかが伝わってきます。合唱も、姿勢や口の開け方、声量にその学年がどのように指導をされて成長してきたのかがよくわかります。
特に、答辞のときの代表以外の子どもの視線、姿勢、表情からは、どのような集団生活を送ってきたのか、どのように友だちとかかわってきたのかがよくわかります。答辞の言葉を自分のことのように感じられている子どもは、感情を押さえていても言葉に反応します。卒業生の思いが一つになっていると感じる卒業式は、はたで見ている私たちの胸にも迫るものがあります。

今回の卒業式で一番印象に残ったのは、出発(たびだち)の歌ではなく校歌でした。自分たちが3年間を過ごした学校を誇りに思う気持ちと別れるさびしさが伝わるものでした。彼らは、この学校ですばらしい3年間を過ごしたのだと思いました。

年ごとに見せる姿に違いはありますが、いつの年も純粋で、さわやかで、未来への希望と困難に立ち向かう力強さを感じさせてくれます。まぶしいような若さをちょっぴりうらやみながら、この先待ちうけているだろう困難を乗り越えて素晴らしい人生を送ってくれることを祈るのが常です。この日卒業した皆さんも力強く明日へと歩を進めてくれることと思います。
卒業おめでとう!!

伸びる教師は頼まれたら断らない

昨日は、親しい先生方と私で、新聞社から紙面企画に関する相談を受けました。教育現場や教育関係者に取材して作っていく、4月からスタートする企画です。楽しく話をするなかで、私たちの知っている愛知県のおもしろい取り組みを紹介しました。

その第1段の候補はこれからの教育をイメージした授業にしようということになりましたが、実際に授業を見て記事を書かなければなりません。3月中に授業をしなければ間に合いませんが、3年生はもう卒業ですし、そんなにチャンスはありません。思い立ったが吉日、是非この先生にと、夜でしたがその場で電話をしました。その先生は3年生担当だったので、自分が受け持つ学級での授業はもうないかもしれません。彼と親しい先生に説得してもらおうと電話を渡しました。はたで聞いていると、ちょっと考えている様子が感じられます。これは即断してもらえないかなと思っていたのですが、どうやら結論が出たようです。OKです。聞いてみると、「おもしろそう」と言って受けてくれたそうです。誰かの授業をもらったり、短い期間で教材を準備したり、管理職へ確認をとったりといろいろと面倒なことがあります。そんなことはわかっていても、すぐに「おもしろそう」と引き受けたことに、この先生が積極的に授業に挑戦しようとしていることがよくわかります。

私の周りで伸びている、伸びたという先生方の共通の特徴の一つに、「頼まれたら断らない」ということがあります。特別な授業や講師役で模擬授業をお願いしても、自分が伸びるチャンスととらえて前向きに取り組んでくださいます。少々プレッシャーがかかっても、チャレンジすることで必ず自分に得る物があることを知っているのです。
今回お願いした先生も、この数年、誰からも伸びていると言われています。そのことがよくわかるやり取りでした。この先生の授業を新聞記者がどのようにとらえて記事にするか今からとても楽しみです。

相手意識を大切にする

授業で子どもたちが発言をする時、友だちに対してではなく教師に向かって話をしていることがよくあります。誰に対して話すかという相手意識をしっかり持てていなかったり、相手意識が教師に向いてしまったりしているのでしょう。
相手意識を持てないのは、なんとなく発言すれば、教師がそれを受けて補足したり、友だち向けて伝え直してくれたりすることが一つの理由です。
教室のみんなに伝えるという意識を持てない原因には、挙手に対して指名を教師がすることがあります。教師に指名してもらおうと子どもの意識が教師に向かうため、教師が特に意識していないと子どもは教師に向かって話そうとするのです。では、どのようにすればよいのでしょうか。

たとえば、子どもたちに相互指名させることで友だちの意見を聞く、友だちに意見を言うことを意識させる方法があります。この方法の場合は、同じような意見を聞くのか、異なった意見を聞くのかといった判断を子どもがすることは難しいことに注意する必要があります。挙手していない子に意図的に指名することも子どもにはできません。子どもに任せ切るのではなく、「同じような意見が多いけど、他の意見はないかな」と方向性を変えたり、「手を挙げていない人の考えも聞きたいな」と意図的に指名したりするなど、教師がうまく介入することが前提になります。

座席の配置で工夫する方法もあります。学び合いを意識している教室でよくみられるコの字型の机配置は、友だちを意識するにはよい方法です。前を向いて自然に話すだけで友だちの顔を見ることになります。友だちの反応もよく見えます。友だちに対して話すという意識が強くなります。この配置を有効にするためには、相手をしっかり見る、話に反応してうなずくといった、聞く側の姿勢を育てることも大切になります。また、慣れないうちは教師が黒板の前で立っていると、どうしてもそちらに目がいきます。教師が、コの字の中に入って話を聞いたり、しゃがんで発言者の視点から離れたりすることも必要です。あえて、椅子に座って子どもたちと同じ目線で授業を進めることもあります。

このような特別なことをしなくても、教師が意識してかかわることで相手意識を持たせることもできます。「○○さん、考えを言って」ではなく、「○○さん、みんなに考えを聞かせてくれるかな。みんな、○○さんの考えを聞こう」と聞き手を明確にする。「みんなによくわかるように話してね」と指示して、「今の○○さんの話を聞いて、よくわかったという人」と確認をする。教師が意図的に発言者と他の子どもをつなげて、相手を意識させるようにするのです。

友だちに自分の考えをわかってもらえる、認めてもらえることは子どもたちの学びの大きな要素です。教師が子どもを認めることは大切ですが、ともすると教師と子どもの関係が主になって、子ども同士のかかわりが薄くなってしまいます。子どもに相手意識を持たせること、相手意識を教師から友だちに変えることを意識して授業をつくってほしいと思います。

美術で大切にしたい問いかけ

美術で作品をつくるとき、個性を大切にします。しかし、好き勝手に作業をしてもよい作品とはなりません。どのように指導すればいいのでしょうか。

まずは、作品をつくるときに、参考となるものを必ず準備することです。過去の先輩の作品はとても参考になります。どのようなものをつくるかイメージすることはとても大切です。問題はただ漫然と見ても、実際の作品作りにはなかなか活かされないということです。

「この作品を見てどんな印象をもった」「どんな感じがする」と感覚的に答えさせたうえで、「どこが好き」「どこで、そのように感じたのだろうか」「どんな工夫をしているのだろう」と深めていきます。大切なのは具体的にどのような工夫がされているか、その工夫に気づき、自分のものとして利用することです。このとき、「ていねいに色を塗る」といった言葉に対して「どうすればいいの」と問いかけて「先に、下絵の輪郭にそってきちんと縁を塗り、それから中を塗る」と具体的にする。「明るい色で塗る」であれば、「明るい色ってどんな色、どうすれば作れる」というように問い返してより明確にしていくことが必要です。誰でも実現できるレベルまで工夫を具体化するのです。

作品つくりにとりかかる前に、どんな工夫をするかあらかじめ書かせることも大切です。完成後に互いに作品を見あう時にもどんな工夫をしたか伝えたり、作品から見つけたりすることも技術を身につけるために必要なことです。
また、作品つくりの段階ごと一旦作業を止めることも大切です。たとえば下絵を描き終わったら続けて色塗りに入るのではなく、一旦止めて、参考となる作品をじっくり見させます。これから色を塗ろうとするときだからこそ、塗り方の工夫をしっかり見つけようとしますし、集中力もアップします。

作品つくりを感覚的にとらえずに、技術や工夫を具体的なものとして意識し共有化することを大切にしてほしいと思います。

送辞・答辞の指導

先週末は2つの中学校で、送辞・答辞の指導をおこなってきました。プロのアナウンサーの方に来ていただいての読み方の指導です。

最初の中学校は、もう何年もアナウンサーの方に指導をお願いしている学校です。毎年担当の先生だけでなく、国語科の先生方がたくさん参加しています。その積み重ねのおかげでしょう、私たちが指導する時点ですでにかなりのレベルに達しています。

送辞・答辞の内容は伝えたいものがはっきりしている、とてもよいものでした。ただ、心配になったのは、答辞の内容が昨年の東日本大震災のことから始まっており、本来一番伝えたい自分たちの3年間と同じくらいの思いがあふれている事でした。下手をすれば竜頭蛇尾になってしまいます。どうなるかと思いながら聞きました。思いを込めて読んでいきます。特に思い入れのある単語を強調して読むのですが、思いが多すぎて全文同じように力が入った読みになってしまい、聞いている方は疲れてしまいます。
本当に伝えたいところを確認した上で、最初の東日本大震災に関するくだりは、できるだけ感情を押さえて読むように話しました。東日本大震災については、だれしもが感じることがあります。あえて強く訴えなくても、淡々と読むことで一人ひとりの心に中に思いが生まれてくるはずです。こんなことも説明しました。
単語を強く読む以外にも、少し読む速さに変化をつける、文全体を強く読むなどの工夫をするとよいことも伝えました。
どのくらい、変わるかアドバイスをした私たちも半信半疑でしたが、もう全く別物と言ってよいほど素晴らしいものに変わりました。感情を押さえた読み方は、かえって聞く者の胸に響きます。微妙に速さや間を調節し、強く読まなくても強調したいことがよくわかります。男の子らしい、骨太の答辞になりました。

最初は緊張していたのか、送辞の女子は滑舌がよくなく聞きとりにくいところもありました。アナウンサーの方が口の開き方を丁寧に指導します。表情が硬いことも気になったので、笑顔を意識するように話しました。2回目は少しリラックスしたこともあり、本人の人柄が感じられるような読み方に変わってきました。

3回目は、体育館に移動してマイクを使っての練習です。答辞は、押さえた中に強い思いがこもる素晴らしいもので、BGMがじゃまになるくらいでした。
送辞は、原稿を手前に持っていたため、視線を移動すると口の位置が変わってしまい、声が急に大きくなったり、小さくなったりしました。原稿の持ち方を指導することで、とても聞きやすいものに変わりました。
2人ともたった3回の練習で見違えるほどの進歩を見せてくれました。それまでに基本となることをしっかりと押さえていたからでしょう。また、答辞の担当の先生は、読み方で気になることがあっても、私たちの指導があるので、あえて何も言わずにいたということです。複数の人間の指導で混乱しないようにという配慮です。このおかげで、私たちの指導を素直に受け止められたことが、わずかな時間で進歩した理由だと思います。子どもたちのもつポテンシャルの高さと先生方の日ごろの指導が、素晴らしい送辞・答辞につながったのだと思います。

2つ目の学校は、このような形での指導は初めてでした。1つ目の学校と違って、個人的なエピソードが内容の多くを占めています。情緒的な文章だと言ってもよいでしょう。このような文章では読み方が難しくなります。どうしても、個人的なエピソードに感情が入ってしまい、本当に伝えるべきメッセージが弱くなってしまうのです。
また、体言止めが多いことも気になりました。詩などではよく使う技法ですが、読むのはとても難しくなります。特に強調したいところでもないのに使うと、意味なく強調されてしまうので、読みにくいのです。とはいえ、文章をいじっている時間はありません。まずは読みながら対応を考えることにしました。

送辞の男子は、ゆっくり読むことに意識がいってしまい、抑揚のないものになっていました。まずは、自分のふだんの姿をだすように、いつものように読むことを指導しました。2回目はリズムや間が出てきて、とてめ聞きやすいものになりました。問題は伝えたいところはどこかです。一つひとつのエピソードの中で本来言いたいことと直接関係ない説明的な文が入っているため、スーと盛り上げていきたいのに、余計なところで回り道をすることになり、うまくテンションが続きません。しりすぼみになってしまいます。思い切って余分なところをカットすることをお願いしました。

答辞の女子は、感情をこめて読むのですが、感情ばかりが表に出てきて、代表として伝えるべきメッセージがはっきりしません。うまく読もうとして、本来の彼女の姿が見えません。普通に話しているときと声の感じも違います。運動部で元気に声を出している彼女とは別人が読み上げているのです。「泣きそうな」といった言葉に引きずられ、前へ進んでいくというメッセージより過去を懐かしんでいるという感傷的なものに聞こえてしまうのです。感情を込めるのではなく、伝えたいことを伝えるということを意識して読むように指導しました。

体育館でマイクを使っての練習では、ずいぶんよくなってきました。
送辞は、文をカットしてもらったこともあり、かなり自然に伝えたい文を強調できるようになってきました。ずいぶん進歩しました。
答辞は、マイクとの位置を調節して、大きな声で読むようにしたところずいぶん力強いものに変わってきました。アナウンサーの方に姿勢や原稿の持ち方も指導していただいた結果、よそいきの読み方ではなく、本来の彼女のよさが伝わるものに変わってきました。このことを意識して練習をすればきっと素晴らしいものになると思いました。

ある意味対称的な2つの学校の答辞・送辞でした。今回はそれぞれの学校で指導をしましたが、来年は合同でおこなうことになりそうです。子どもも教師も互いに見合うことでより多くのことを学び合えるからです。

アナウンサーの方はプロですから、上手な読み方の見本を見せることはたやすいことです。でも、彼女は決してそのようなことはしません。大切なことは、一人ひとりの個性、よさを出すことだからです。そのためのアドバイスに徹しているのです。彼女の指導のおかげで、毎年、その子だからこそできる答辞・送辞になっています。今年も4人が誰とも似ていない自分のものを見せてくれるようになりました。育てるということはどういうことかを、また教えていただきました。
子どもたち、先生方、アナウンサーの方、皆さんから多くのことを学ぶことができた1日でした。ありがとうございます。

体育で大切にしたい問いかけ

体育のような実技教科では他の教科では活躍できなかった子どもが活躍できるチャンスです。「見本を見せて」「コツを教えて」といったことで、指名されることも多いと思います。一方、できるできないがはっきりするため、苦手な子は活躍するチャンスが少なくなり、自己有用感を持ちにくくなります。もちろん悪い見本にするわけにもいきません。

そこで、大切にしたいのは、できない子どもができるようになった過程です。
たとえば跳び箱を互いにアドバイスしながら跳べるようにする場面であれば、跳べるようになった子どもに、「だれのアドバイスが役に立った」「どんなアドバイスで跳べるようになった」と聞くのです。こうすることで、他のできない子どもとコツを共有化できますし、アドバイスした子もほめることで自己有用感を与えることができます。
もちろん、自力でできるようになった子どもに、そのコツを聞くこともよいことです。

授業の途中や最後に、

「できるようになった人手を挙げて? たくさんいるね」
「○○さん、どんなことに気をつけたらできるようになった」
「・・・」
「同じようなことを気をつけた人いる。△△さん」
「・・・」
「なるほど、・・・に気をつけるとよさそうだね。よいヒントがもらえたね。他にもこんなコツもあるという人いるかな」
・・・

このような問いかけをすることで、あまり得意でない子どもも活躍できますし、できる子もコツや工夫を伝えることを意識するようになります。できるようになった過程を問いかけながら、できる子どもを増やし、その子にまた問いかける。全員ができるようになれば、全員が活躍できます。過程を意識した問いかけを大切にしてください。

簡単な指導案から多くのことを学ぶ

幾何ツールを利用した授業の指導案がメーリングリストで流れました。指導案といっても課題と子どもとの簡単なやり取りを想定しただけの2時間分で2枚のものですが、とても興味を引きました。

三角形の内部に3点をとり、その3点を結んだ三角形の3辺の長さの和が最小となる三角形を求める2時間完了の問題です。

授業の流れは、1点を固定して考える。次のその1点を動かして求める三角形を見つけるというものです。
最初に、「幾何ツールを使わずにわかるかな」と問いかける場面があります。ここがとてもいい。いきなり幾何ツールを使うのではなく、図を描いてみたり、ちょっと考えたりすることで自分の中の疑問、何がわかると糸口が見つかりそうといった視点が明確になります。そこで、幾何ツールを使うことで漫然と点を動かすのではなく、意図を持った活動に変わります。

指導案には、子どもたちがどんなようすになるだろうか。どんなつぶやきが出るだろうか。そんな思いが書かれています。

生徒 何となく対称図形を利用しようとすると思うが、四苦八苦するはず。
   この時、どんな話し合いを班でするかが楽しみ。

生徒 AI、AJを結んでみたよ
教師 なんで?
生徒 図形の性質を説明するためには、今まで学習した図形を図の中に見つけ出して使うとよかったから。
  (3年生のこの時期にこんなこと言ってくれたら、泣けてくる)

グループ活動に返す
生徒 いっつも二等辺三角形だけど、相似だよ。
生徒 AE=AIじゃない
生徒 あ!!!
(なんて話し合いがあったりしたら
 3人寄れば文殊の知恵!
 iPadで図が動くからの気づきがつながっていけばおもしろい!)

課題のおもしろさにひかれて、私も取り組んでみました。
あえて幾何ツールを使わずにやってみます。当然解は見つかるのですが、別のことが気になりだします。私の考えは正しいと思うのですが、すぐに証明が見えません。フリーハンドの作図では、このことが正しいか今一つ自信が持てません。そこで、私も幾何ツールを利用しました。実際にいろいろと図を動かして自分の考えを確かめることで、思考が深まります。幾何ツールだけで証明が完了するわけではありませんが、具体と抽象を行き来することで思考は深まるはずです。幾何ツールというICTのよさと可能性をあらためて実感しました。

ICTを思考のツールとするためにはどのような課題を設定し、どのような活動を子どもたちにさせるのか。子どもたちの思考と幾何ツールをつなぐ言葉をどうかけるのか。こういったことをしっかり考える必要があります。教材研究だけでなく子どもとのかかわり方などの授業技術の裏付けも大切です。

その点、指導案はとてもシンプルですが、子どもたちにどうなってほしいかという教師の思いが明確です。細かいことは書いていません。方向性だけが示されています。それは、実際の子どもたちのようすによって、自在に対応しようという意志の表れだと感じました。その裏には、実際には使われないかもしれないたくさんの手立てや切り返しの言葉が準備されていることと思います。子どもたちがどのような活動や思考をするかはわかりませんが、きっとそのことを活かした授業になると思います。

授業者とは何年もお付き合いがありますが、この数年の進歩は素晴らしいものがあります。簡単な指導案だからこそ、そのことがよくわかります。授業者が目指すもの、子どもに対する思い。ふだんの授業までが見えてくるものでした。シンプルだからこそ伝わるものがあるのです。久々に指導案から勉強させていただきました。

授業名人を前に力不足を感じる(愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京 午後の部)(長文)

大盛況に終わった「愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」ですが、午後の部は私にとって伝えるべきことをきちんと伝えられたか自信の持てない状態です。授業名人のメッセージが強すぎて、それをちゃんと受け止めきれていなかった、それに対してICTのよさをちゃんと伝えられなかったと感じているからです。

午後の部は、「若手がICTを活用して名人に挑戦」という企画を中心としたものです。堀田龍也先生のアイデアをきっかけとして、1年間かけて3つの地区で取り組みました。そこであらためてわかったことは、授業名人の授業をつくり上げている大きな要素は子どもたちとのやり取りの技術であるということです。たとえ同じ指導案で実践しても、子どもの反応をどう引き出すか、どう受けるかといった力がなければあの授業は再現できないのです。この事実を前にした時、授業づくりの多くの時間は、ICTをどう活用するという部分より、子どもたちを活かす授業の進め方、技術を身につけてもらうことにシフトしていったのです。

では、ICTは何だったのでしょうか。

算数では、子どもたちが作った三角形と同じものを写真に撮って、仲間分けの整理をする場面で活用しました。全体追究で、よりスムーズにわかりやすく考えを整理するための道具でした。算数の授業名人志水廣先生からの指摘の一つに、「紙でもできるのでは」ということがありました。名人の授業の追試ですから、もともと紙でやっていたものです。その部分をICTに置き換えることで変わるものは何かを明確にできませんでした。このソフトのよさを志水先生は認めてくださいました。が、コメントの多くは授業における子どもとのやり取りにかかわるものでした。非常に単純なソフトでしたが、回転させるといった簡単な機能を使うにしても、立ち止まって子どもに問いかけることが必要だとの指摘もありました。逆に言えば、こういうソフトの使い方を意識すれば、授業における大切なポイントが意識されると言ってもいいと思います。「ICTそのものではなく、その活用の仕方を意識することで、名人の授業に近づける」ことを最後のパネルディスカッションで整理してぶつけるべきでした。

社会科では、コンビニのようすを店員の目線で360°撮影した画像を使って、子どもたちの興味を引き付けるものを利用しました。社会科の授業名人有田和正先生の「バスの運転手はどこを見ているか」の授業に対して、この学級の子どもたちはバスを使わないので「コンビニの店員はどこを見ているか」と置き換えた授業です。子どもたちにコンビニのことを質問し興味を持たせ、そこからコンビニの店員がどこを見ているか、視点を働く人に変える場面での利用です。映像を見ながら、落ちている商品に気づいた子どもは、商品の整理に気づきます。棚に隙間があれば商品の補充に気づきます。子どもたちの視点を広げるために利用しました。授業はそこから、みんなの言ったことは本当だろうか、どうすれば本当のことがわかるだろうか、という流れで、調べる、コンビニに聞きに行くといったところへつなげていきました。
社会科のコーディネーターであった私は、有田先生が目指した子どもの姿と今回の子どもの姿は同じだったのかをたずねました。先生の答えは「似ているようで違う。違うようで似ている」という答えでした。知りたい、追究したいという点では同じだが、なぜだろう、とじっくり立ち止まって考え、子どもたちが「?」を持つ姿がなかったということだと思います。それを踏まえて、資料は見せすぎてはいけない、何枚もあってもただ見て終わってしまう。1枚か2枚でじっくり考えさせるべきである。コンビニであれば、マグネットと呼ばれる4隅の商品、カレンダーと呼ばれる棚の横に掛けてある商品が子どもの視点を変え、「?」を持たせるポイントであると、有田ワールド全開でした。有田先生の教材研究、教科知識は半端でありません。その点では若手だけではなくベテランでも歯が立ちません。そこをICTはカバーできるわけはないのです。野中信行先生ではありませんが、「ごちそう授業」ではなく、「味噌汁ご飯」にもう1品つけたレベルで授業名人に近づけないかということを目指していたのです。今回の授業であれば、単に調べに行こうでは子どもたちはただ見るだけで終わってしまう可能性があります。事前にこのソフトを使って自分たちの仮説を持ち、それをもとに実際に自分の目と耳で確かめる。その集めた情報から、なぜ、どうしてと考えていく。有田先生の大切にしている「?」をあとにまわしたのです。そのために、あえてコンビニ全体のようすをソフトにすることで、子どもたちの視野を広げようとしたのです。
壇上では、中立であろうとして私がこのことを説明せずに、授業者とアドバイザーの先生に無責任にふってしまいました。が、なかなかうまく説明しきれませんでした。いや、中立であろうとしては言い訳ですね。有田先生の強烈なメッセージに、真っ向からぶつかることを避けたのです。授業者とアドバイザーの先生に申し訳がありません。

また、あるブログで、子どもたちが挙手もせずに勝手に発言してテンションを上げている。授業規律のない授業とのコメントがありました。この授業では、あえて挙手させずにとにかく自由に言わせることでたくさんの意見を出させる。そうすることで、子どもの視点を広げることねらっていました。「今日は挙手しなくていい」とう授業者の言葉を編集で残し、あれだけテンションが上がっていた子どもが、授業者の言葉ですぐに静かになって集中する場面を見せたのですが、伝わっていなかったようです。やはり、授業の場面の解説を入れるべきだったのか。私の準備不足、力不足を感じました。

国語では、子どもたちが知らない鵜という鳥を見せる。学習用語の定着を過去に学習した教材を見せてその学習場面を想起することを図るという使い方でした。
授業は有名な「うとてとこと」の追試です。詩の音読にスポットを当て、昇調・降調、強弱などの学習用語とリンクした授業を目指しました。鵜を見せるなら写真でもいいのですが、大きく映せるメリットがICTにはあります。この点に関しては、写真だけではなく、鵜がどういう鳥か、大きい、獰猛であるといったことも大切であると国語の授業名人野口芳宏先生は指摘します。何をどれだけ示すかは大切なことです。この授業で扱っている詩は、言葉の遊びなので、鵜という鳥がいることを知れば十分ということで、簡単に扱いました。説明文であればまた扱いは違ったでしょう。このあたりのことをきちんと会場と共有するのは難しいことです。
学習用語の説明で、学習した時の本文を提示することは評価していただけましたが、逆にICTとして評価できるのはそれだけというコメントでした。これをポジティブと捉えるかネガティブと捉えるかは難しいところです。今までの学習を蓄積して、必要な時に利用するという発想は紙ベースよりもはるかにICTが向いています。その可能性を伝えきれたかどうか、提案授業に深くかかわった者としては悩ましいところです。

最後の授業名人とのパネルディスカッションは、堀田先生の見事な取り回しで進みました。授業名人のコメントを受けてICTの道具としてのよさを活かすための発想・視点を整理したつもりでしたが、名人の発言とうまくかみ合っていたか自信がもてません。3人とも、自分の授業観・世界観がはっきりあり、そこはICTが関わろうが関わるまいが揺るぎません。私のように、学校の目指す姿を実現するという視点に立って、その姿によってコメントが変わる者とは違います。だからこそ名人なのです。会場の方々にICTの持つよさ、可能性を伝えることができたかどうか自分としては心もとない状態です。

フォーラム終了後の懇親会では、今回の授業者がそれぞれ名人から直接指導を受けている姿が見られました。名人のファンが見たらうらやむような話です。彼らは、直接指導を受けたことをとても喜んでくれました。私ができなかったフォローは授業名人にやっていただけました。私自身まだ整理できないほどたくさんのことを学んだ1日でした。授業名人に近づくための道具の一つとしてICTは有効ではあると思いますが、授業の本質はICTにあるのではなく、その活用にあることをあらためて教えられた気がします。
「よかった」「おもしろかった」「勉強になった」との声をいただけたことを糧として、自分の足りないところを自覚して、前へ向かっていきたいと思います。

田尻悟郎先生から大いに学ぶ

先週末は中学校の授業研究に参加しました。田尻悟郎先生を特別講師にむかえての英語の研究です。「教科書を活かす」をテーマに4人の先生のふだんの授業を参観して、検討をおこないました。

TTの英語でのやり取りを聞きその内容を理解する場面でのことです。子どもたちは集中して聞いていましたが、内容に関する質問にはあまり手が挙がりません。正解に対して教師が説明しますが、子どもたちが本当に理解できているか確認されませんでした。そこで、田尻先生がとび込みで授業を始められました。師範授業はしないがとび込み授業はするという噂どおりです。
まず英文のsituationを絵で表現させます。その後ペアで互いの絵をもとに元の英文を言わせます。主語などの代名詞が指示するものを明確にしておかないと、きちんと再現できません。situationが理解できているかがよくわかります。
次のステップは、漫才の相方のように相手の言ったことをそのまま繰り返します。当然 "I went to …." であれば "You went to …." と言い換えなければなりません。単なる復唱ではなく、言葉を再構成しなければなりません。
これができれば今度は第三者に向かって繰り返します。"Mr.○○ went to …."と言い換えるわけです。子どもたちは一生懸命取り組んでいました。単に「耳から口」ではなく、頭をきちんと使うやり方です。私が、GDMなどの実践から学んだやり方と本質的には似ていると思いました。

田尻先生の素晴らしさは、この日のテーマである教科書を活かして子どもが考えることを実現していることでした。
英語は技能教科であるとよく言われます。トレーニング・活動量が大切であると言われる所以です。しかし、技能教科だからこそ、考えることが必要なのです。体育で考えればよくわかると思います。ただ「走れ」だけでは速く走れるようにはなりません。いろいろなことを意識して走らなければ上達はしないのです。

授業検討会では、田尻先生の考える授業の作り方・見方のポイントを、資料をもとにお教えいただきました。
授業が終わった時に子どもに何ができるようになってほしいか、生徒が主体となる授業づくり、知的なおもしろさを求めるなど、私が日ごろ伝えたいと思っていることと共通のことがたくさんあり、意を強くしました。
授業を見る観点を教科指導・全教科共通の授業技術・生徒指導の3つに分け、具体的項目をあげた資料は大変参考になるものでした。

全体の場でほめるときの注意点として、ほめられなかった子のことを考えるという指摘には考えさせられました。例として、ある子の発音を全体の場でほめると、同じような場面でほめられなかった子はつらい。だから、そういうことは全体の場ではなく個別の場でほめるというわけです。裏を返せば、何か出力すれば必ずポジティブな評価をしなければいけないということだと思います。

文法事項は、まず日ごろから感覚的に覚えさせ、たくさん練習させて身につけてから教えるということもなるほどと納得させられました。日本語の文法は言葉を知っているからできる。キーセンテンスをまず使えるようにすることが先であるという言葉も説得力があります。
質問の答えは省略しない。"Which question do you want to try?" に対して、"No.1." ではなく、"I want to try the question No.1."と答える。
"want" の意味を "want to" で「したい」と教えるのではなく、root sense を大切にして「ほしい」と教え、そこからsituationを考えさせる。
たとえば、何か頼むシーンを最初は "May I …?"、慣れてくれば、"Will you …?" "Would you …?"のように変えていくことで、多様な表現に親しませる。
ジェスチャをつけて会話することで、situation の理解につなげる。
こういったことを通じて英文が感覚的になったところで文法的な説明を入れていくということです。

教科書の題材ごとの利用方法もたくさん教えていただきました。
モノローグや手紙は、勝手に会話文にする。とび込み授業での漫才の相方のようなやり方です。
ダイアログでは、その言葉が出た時の気持ち・原因となる「心のつぶやき」を考えさせる。たとえば "Do you often listen to music?" であればなぜoftenといったのかその理由を考える。教科書の絵は、携帯プレーヤーで音楽を聴いている。だから、「携帯プレーヤーで音楽を聴いている。いつも聴いているのかな」と考えた。という具合です。このつぶやきを聞いて会話文を言う。こうすることで、単なる暗唱ではなく、situationベースの英語の授業に変わるわけです。
説明文には、疑問文をはさむ。説明文に対して、「それってどこにあるの」といった疑問文をはさんでいくことで、新しい文が生まれてくるということです。

この他にも書ききれないほどのことを学ばせていただきました。一部を以下にあげておきます。

子どもの活動に、時間的・数的目標を入れることは活動の活性化につながる。
プレッシャーをかけることになるが、かけるからこそ達成したいと思う。そこで上手に途中でヒントを入れると自力での解決につながる。時間が来てもすぐに解答をせず、少し余韻を持たせると、子どもがまわりの友だちの答えを知ろうとする。そこで話し合いが始まる。

わからない子とわかる子をつなげる方法に、わからない子たちを優位にする方法がある。
わからない子を明確にして、そうでない子(わかっている子)に絶対に大丈夫だな、だったら絶対納得させられるなとプレッシャーをかける。そうすればわからない子はよし自分たちを納得させろとわかった子に聞きに行く。わかっている子も必死にわからせようとする。

子どもがまとめた気づきを黙って見合う。
そうすれば、自然に子ども同士の話し合いが起こる。

家でできることは授業でしない。学校の授業でしかできないことを大切にする。
発音練習は家でもできる。学校でしかできないのは間違いの修正だ。

全員起立させて、できた子から座らせるのは意味があるのか。
いい加減にやって座る子がでる。できない子がさらしものになる。

ALTをCDの代わりに使わない。
彼らは人間だ。彼らの自己有用感も大切だ。彼らを中心にした授業を組み立てる。

・・・

田尻先生にこの学校の子どもたちを大変ほめていただけました。研究指定をきっかけにこの学校が取り組んできたことの成果だと思います。かかわってきた私にとっても、とてもうれしいことでした。今回の田尻先生のご指導が、この学校の英語の授業を大きくステップアップするきっかけになることと思います。今後の変化がとても楽しみです。田尻先生ありがとうございました。

ライブ感のあるパネルディスカッション(愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京 午前の部)

愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」が大盛況のうちに終了しました。300名を超す方に参加いただけたことを大変うれしく思っています。大きなトラブルもなくこれだけの会を運営できたのも企業スタッフのおかげです。心から感謝します。参加していただいた方々はどのような感想を持たれたでしょうか。知り合いの方からの「よかった」「おもしろかった」との言葉にホッとすると同時に、私はきちんと役割を果たせたか自信を持てない状態が続いています。

午前のパネルディスカッションは、「愛される学校づくり研究会」の気の置けない仲間たちと「学校のお荷物と言われるHPと学校評価をいかに切り札にしていくか」について話し合うものでした。当日は早くに目が覚めてそれから眠れなかったという司会者。その間ずっと一人でシミュレーションを続けていたそうです。そのかいあってか、スタートこそ事前に知らされていた質問で予定通り「学校評価や学校広報の法的根拠」でしたが、その後いきなり「今の発言者の説明で十分か?」と他のパネラーに問いかけます。発言者は思いもよらない展開に一瞬凍ります。用意されたパネル(スタッフが100円ショップのバドミントンのラケットで自作してくれたもの。無理な注文に答えてくれて感謝!)でパネラーは○か×かの意思表示をします。私はこの後の展開を想像して、とりあえず○をだしました。なぜでしょう。当然この後の展開が読めるからです。×を出したパネラーは次々その理由を聞かれます。あいまいな返答では許してもらえません。いきなりヒートアップしていきます。
その後も司会者は絶好調。壇上を動きながらパネラーに厳しく突っ込んでいきます。パネラーのよさを引き出しながら、いろいろな視点から学校ホームページや学校評価について迫っていきます。パネラーはある程度資料等を準備はしてきていますが、これが罠になっています。こちらの手の内が司会者に見えているので、変化球で質問されます。パネラーに緊張が走ります。これがライブのおもしろいところです。時として自分がパネラーであることを忘れて観客と同じ目線で楽しんでいました。
とはいえ、おもしろがってばかりはいられません。私にふってくる質問は事前に想定されているものは一つもありませんでした。途中まではなんとか無難に切り抜けたのですが、最後が難関でした。というより、「それはないでしょう」と言いたいものでした。2時間近く意見を交えたあとの「総括的な意見」です。日ごろ笑顔を意識していますが、さすがにその瞬間は消えたのではないかと思います。

「地域で学校をつくる」「学校が地域と一体化する」と言われるが、その動きの中心となるべきは学校だ。学校が自分たちはどうありたいか、どんな姿目指すのか明確にすることがその第一歩だ。その上で、それをどう伝える、どう理解してもらうかの手段を考えてほしい。直接話す、紙で伝えるなどいくつか方法はあるが、強力な武器の一つがHPだ。しかし、発信して理解してもらうというだけでは不足だ。聞く耳を持つことがより大切になる。評価してもらい、それに対して次の動きをする。これを小刻みに繰り返すことで、地域と学校に共通のものとして明確になってくる。
このことは、管理職だけでなく先生一人ひとりが意識してほしい。学級で、授業で日々発信することが集まって、学校の発信となっているからだ。

このようなことを伝えようと思いましたが、なにせライブです。言葉足らず、表現力不足でうまく伝わらなかったかもしれません。正面でチェックしているN先生から、発言の後半にダメのサインがだされました。冗長になりすぎたということでしょう。それを見て、話を切り上げました。

午前の部終了後、パネラーの皆さんは緊張したけれど、楽しかったと感想を口々に言っています。私は充実感を味わう間もなく、午後へと気持ちを切り替えます。そのときは、これだけ緊張感のあるパネルディスカッションを切り抜けたのだから、午後もなんとかいけると思っていたのですが・・・。

午後の部については、まだ頭の中が空っぽでもう少し時間がたってからお話したいと思っています。

ICT情報教育推進の会議で大いに学ぶ

昨日は、ある市のICT情報教育推進の会議に委員として参加しました。

この市では、国の仕分け会議にならった外部評価フォーラムが昨年開かれました。そこで、学校のIT整備関連事業が5人中4人から改善が必要、1人から廃止と評価されました。この結果を受けての話し合いが最初に持たれました。
他の市町と比べてもよく活用されている市ですが、なぜこのような結果になったのかは、当日の議事録を読むと納得できます。はっきり言って宣伝不足です。評価された方は、今は学校でICTを導入するべきかどうかというフェイズではなく、あるのが大前提であることをご存じないようです。また、そのことを説明側もきちんと伝えていません。対費用効果と言った言葉も出ますが、学校で日常的に効果的に使われている姿を見せていれば、このような言葉も出てこないように思います。
当然のように、この市の取り組みが伝わっていないことを残念に思う意見ばかりです。学校にとっては、あって当たり前、使うのが自然という状態になってきているので、あえて広報することを意識していないのかもしれません。

・学校ホームページでふだんの授業風景を伝えるときに、ICTの活用にも触れる。
・市の公報に積極的に載せる。
・学校評価の項目の中にICTを入れることで、活用されていることを伝える。

このような意見が出されました。

学校ホームページでの公報について、すぐに思い浮かんだのが、親しくさせていただいている校長の学校のホームページです。同じことを思われたT委員がそのことを伝えました。単にICTを活用している場面を紹介するだけでなく、誰にでもわかりやすい言葉で、使わなかった場合と比較してそのよさを解説しています。伝えることを意識した記事が、広報のあり方を教えてくれます。

他の市町の方がこの市を参考にしているほどICTの活用で有名なのに、足元の市民にはそのことが伝わっていない。皮肉なことです。しかし、このことはICTにかかわらず起こりうることです。学校現場でのよい取り組みを積極的に地域に発信することの大切さをあらためて感じました。

この市では、学び合いを大切にした授業にどの学校も取り組んでいますが、そこにどうICTを活かすかという提案が次の話題です。実際におこなわれている授業をもとにどう組み合わせると有効かという視点で書かれています。ICT機器の優位性が声高に主張されているものではなく、地味かもしれませんがなるほどと納得できるものばかりです。提案されたのは学び合いを活かした授業づくりでとても有名な指導主事です。本人は、ICTは得意ではないと言っていますが、授業がきちんとできる方の視点で書かれたものは説得力があります。よい資料をいただけました。
先日見た授業を例に(幾何ツールを使った授業研究会で大いに学ぶ参照)、ICTは有効であるがその特性を理解した使い方を教師も学んでいく必要があることを強調しました。委員長の大学教授からは、最近の学生の抽象化する力が落ちてきたことと、デジタル化が進んでいることには関係があるのではないかとの意見が出されました。なるほどと思いました。
子どもたちが学び合う姿とICTはとても自然に結びつく気がします。国から出ているICT活用における「協働」というキーワードは、実際に学び合う子どもの姿が見えていないと感じます。この市から、次のステップにつながる素晴らしい発信がされていくのではないかと期待させる話し合いでした。

最後は、2年後に建替えが予定されている学校のPC教室をどうしていくかをきっかけとした、これからのPC教室像についての話でした。
無線やバッテリー技術の進歩で、LANケーブルや電源から解放されたPC教室は、学び合いを進めるための工夫がみられる、PC抜きにでも授業してみたいと思うような教室でした。大型のディスプレイを4隅に置いて、ポスターセッションのようなものを意識したりと、どのような授業をそこで行なおうとしているのが浮かんでくるような素敵なものです。機械が前面に出てくるようなものではなく、そこで活動する子どもの姿を第一に考えていることがよくわかります。これからはPC教室といった特別なものではなく、すべての教室で自由にICT機器が使えるようになっていくはずです。PC教室はなくなるかもしれません。その流れの中でのこの提案は、ICT機器にこだわらない学び合いの空間と逆に普通教室ではできない活用の姿を示してくれました。おそらくこの先には、メディアセンターとのシームレスなつながりがあるのだろうと思いました。この市の先生方がこれまで着実に実践を積み上げてきたからこその提案です。予算の裏付けが取れて、この提案が実現することを期待します。

ICTを先進的に取り組んできた、全校が学び合いを積極的に進めてきたこの市だからこその提案をたくさん聞きことができました。委員として意見を求められる立場ですが、逆にたくさんのことを学ばせていただきました。よい機会をありがとうございました。

「出たとこ勝負」とは

グループなどを活用した時に「子どもから出てきたことをもとに進める」とよく言われます。誤解を招くかもしれませんが、「出たとこ勝負」と言ってもいいと思います。子どもたちからどんな考えが出てくるかわからないので、あらかじめ細かいことは決めておかずに、子どもの考えを活かし、子どもの考えに沿ってその場で判断して進めていくということです。しかし、「出たとこ勝負」といっても何も準備しないということではありません。何を準備し、どんなことを大切にすればいいのでしょうか。

授業の準備で大切なことは、教師がどのような説明をするかではなく、この課題や問いかけに対して子どもはどのような活動や反応をするだろうと考えることです。若手とベテランの経験の差が最も顕著に出るところです。

・多くの子が戸惑うかもしれない。そのときどう働きかけようか。
・はやばやと解き方に気づく子がいるかもしれない。その子にはどんな指示をしようか。
・グループで動きに差ができるかもしれない。その時はいったん活動を止めるのか続けるのか。
・すぐにほかの子が理解できない意見が出るかもしれない。どう切り返そうか。
・・・

予想される子どもの様子に対して、どのように対処するかいくつもシミュレーションをするのです。「出たとこ勝負」でその場で判断すると言っても、子どもから出てきたものへの対応をあらかじめしっかり考えていなければうまく対応できません。この準備が不十分であれば、子どもの考えを活かすことなどできないのです。実際に予想したことすべてが起こるわけではありません。ときには、事前に考えておいたことがほとんど無駄になるかもしれません。しかし、それだけの準備が必要なのです。
とはいえ、子どもの活動や反応が事前に予想した範囲にすべて収まるということもあり得ません。思いもよらない考えが出てきて、とっさにどう対応していいかわからないことがあります。このとき、頼りになるのが他の子どもたちです。

「今の考え、わかる人いる」
「代わりに説明してくれる人いる」

と教師が無理して処理しようとせずに子どもにつなぎます。その考えがうまく他の考えとつながって想定内におさまってくれればそこから進めていけばいいのです。うまくつながっていかなければ、そこで教師も他の子ども一緒に考えればいいのです。場合によっては、「今のことについて、グループで(まわりの子と)相談して」と子どもたちの戻すのも1つの方法です。

いい加減に聞こえる「出たとこ勝負」ですが、あらかじめ進め方を決めるよりもはるかに多くのことを準備しているのです。

2日後に迫った、「愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」ですが、ライブ感を大切にするため、基本的には「出たとこ勝負」です。発表者の中には細かい進め方がわからない、何を質問されるかわからないと不安に思っている方もいると思います。しかし、「出たとこ勝負」だからこそ、互いにどんな質問や意見が出るだろう、どう切り返そうかとシミュレーションしていることと思います。そのことが、メーリングリストに流れる情報からよくわかります。特に午前のパネルディスカッションの司会者は、必死に作戦を練っていることと思います。だれとだれをどう絡ませるか。うまく絡まなかったらどう挑発するか。「出たとこ勝負」だからこその緊張感、ライブ感を楽しんでいただけたらと思います。

幾何ツールを使った授業研究会で大いに学ぶ

昨日は幾何ツールを使った中学校の授業研究会に参加しました。

昨年に続いてiPadを利用しての授業です。今回は2時間連続ということで子どもたちの追究のようすがどう変わってくるかが興味の一つでした。
実際の授業では、子どもたちのグループ活動は大きく2つに分かれ、やや短めの1時間と長めの1時間といった構成でした。とはいえ、子どもたちにとっては長丁場です。集中力は持つかと心配しましたが、グループでの活動は最後まで頑張っていました。

・幾何ツールのよさを活かすための視点
・グループ活動と教師の支援、全体追求での教師のあり方

大きくこの2点について検討会は話し合われました。
幾何ツールのよさには、直感的に図形をとらえること、点や線を動かすことで条件に合う図を帰納的にも、演繹的にも求められることなどがあげられます。数学としての抽象と具体をつなぐ道具といってもいいかもしれません。そのよさと、それゆえの難しさが指摘されました。
課題の条件を幾何ツールの図で具体的に見ていたため、条件が変えられた時(今回は三角形の辺上を動いていた点を自由に動かせるようにした)、子どもがとっさに図がどのように変わるか理解できない場面がありました。授業者はすぐに子どもたちに幾何ツールを触らせたので、子どもたちは理解しましたが、目の前に具体的なものがないと想像できないというのも問題です。参加者からは、最初は幾何ツールを使わず、条件から自分の手で図を描くことから始めるといった方法も提案されました。
グループ活動では、幾何ツールで確かめていくことで、条件に合う点は円上にありそうだと気づいたものの、多くが行き詰ってしまう場面がありました。幾何ツールからは答の予想は得られても、その証明を考えるにはまた別の要素が必要となります。自分たちが見つけた図を印刷して配り、幾何ツールを使わず考えさせるといった案が出てきました。
このように幾何ツールのよさを活かしながら、よりよい学びにつなげるための方法について多くのことを話し合いました

子どもたちのグループの活動に関しては、男女4人グループを基本としていたのですが、男子だけで話している、他とかかわらず1人で追究し続けている子がいるといったことが目立ちました。男女を市松模様に配置する、教師が子どもを意図的につなぐことが有効だろうとの意見が出ました。
また、教師がグループにかかわっているうち、ミニ授業になった場面がいくつかありました。子どもが動き始めたらその場を離れる。全体で深めるべきことであれば、一旦活動を止めて、全体にそのグループで話し合っていることを発表させ、共有化させてふたたびグループに戻す。このような対応がよいのではとの意見が出ました。
全体追求の場面では、一部の子どもが友だちの発表を聞かない、教師が説明を始めると集中力が落ちるということが指摘されました。子ども同士のかかわり合いができてくるとよく起こることです。子どもが教師を説得しようとして話していることも気になりました。友だちにわかってもらおうとする姿勢、教師ではなく友だちが判断することを大切にすることが必要です。子どもの説明を教師が再度解説するのではなく、他の子どもが説明する。グループで確認しあう。子どもに戻していくことの重要性が話題になりました。

このほかにも、数学的な価値づけをどうしていくか、課題の「どういう点か」という言葉が数学的に明確になっていないことが、子どもの説明を混乱させたなど、いろいろな視点での意見が交わされました。

最後に参加してくれた学生に感想を聞きましたが、彼らもこの授業と検討会から多くのことを学んでくれたことがわかりました。「キーとなる角度を子どもから出させるためにどうすればいいか」「わからないと自分から言うのはむずかしい。どうすれば子どもがわからないと言えるようにできるか」とこの会を通じて浮かんできた疑問も発表してくれました。これについては、参加した何人かの先生がしっかりと答えてくれました。こういうつながりがあることはとてもうれしいことです。

2時間続きで幾何ツールを使うという挑戦をしてくれた授業者、参加された先生、学生、院生の皆さんのおかげでとてもよい学びができました。ありがとうございました。

自分の問題と自覚することから成長が始まる

学校で授業アドバイスをさせていただくようになって10年以上になります。その間学んだことの一つが、指摘すれば直る、教えればできるようになる訳ではないということです。お恥ずかしい話ですが、最初のうちはこのことをちゃんと意識できていなかったように思います。指摘しても直らないのは本人の資質の問題だと思っていたのです。しかし、授業に置き換えて考えてみれば、「ちゃんと説明しているのにできないのは子どもが悪い」と言っているようなものです。どんなによい指摘やアドバイスでも、相手が聞こう、わかろうとしなければ意味をなしません。

この当り前のことに気づいてから、短い時間で話を聞いてもらえる関係をどうつくるか意識するようになりました。一番効果的だと思ったのが「笑顔」でした。教師時代には子どもに対しては笑顔を大切にしていましたが、大人に対しては特に意識はしていませんでした。笑顔で、相手の言葉を受け止める。よいところを見つけて認める、ほめる。このことを大切にするようにしてから、よい方向に変わってくれる先生方が増えたように思います。私のストレートな指摘も受け止めてくれるようになりました。

また、アドバイスの視点も変わってきました。まず、子どもと教師の人間関係をつくることからアドバイスするようにしたのです。どんなに教材研究をしてよい発問を考えても、子どもが先生の話を聞こうとしなければ話になりません。特に、若い先生にはこのことを伝えなければ、おもしろいネタ集めに走るなど、違った方向にエネルギーを使ってしまうことになってしまいます。もちろんネタも大切です。教材研究なしではよい授業はできません。しかし、まず人間関係をつくれなければ、他の努力も意味をなさないのです。
伝えることは、私自身がアドバイスをするときに意識していることと同じです。「笑顔」で「うなずき」、「なるほど」と「認め」、できないことを叱るのではなく、「できたことをほめる」。このことができるようになれば、教材研究したことがどんどん活きてきます。ここからが、教師としての力量アップの本番です。うれしいことにたくさんの先生がこの場所に到達してくれました。

先生方が私のアドバイスを聞いてくれなかったことは、私の伝え方が悪いという無言の抗議だったのです。そのおかけで私も成長することができました。教師と子どもの関係も同じです。子どもが話を聞かない、授業に参加しないのは、教師への無言のメッセージです。それを自分の問題だと自覚することから教師の成長が始まるのです。

「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」の準備で当事者意識を考える

愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」まで、あと1週間を切りました(申込み受付は終了しています)。おかげさまで定員を上回る申込みをいただいて、うれしく思うと同時にこれだけの皆様の期待を裏切るわけにはいかないというプレッシャーも高まっています。そんな中、先週末は最終確認や補足の連絡がたくさんありました。

こういった確認や連絡はほとんどメーリングリストだけでおこなわれています。忙しいメンバーなので直接会って話し合う時間を取ることはとても難しいため、この方法はとても有効です。当日皆様にお配りする資料は60ページもあるとても内容の濃いものですが、この冊子の最終チェックの依頼がメーリングリストに流れました。どうでしょう、「チェックしてください」という依頼があった時、自分の原稿をチェックして、あとはざっと全体を見て気になることがないかを見るのがせいぜいではないでしょうか。メンバーがたくさんいるのですから、自分の仕事(領分だけ)をすればいいという感覚になるのが普通です。また、原稿を書いていない者は直接顔を合わせての会議でもないのですから、見もしないかもしれません。「みんなの仕事≠自分の仕事」になるのです。しかし、愛される学校づくり研究会のメンバーには自分の原稿以外も細かいところまで読んで指摘してくださる方がいます。今回は原稿を書いていない方もしっかりと読み込んでチェックをしてくれます。これは自分の仕事だという、当事者意識があるのです。とても大切なことです。
これは学校でも同じことです。うまく回っている学校ではこの当事者意識が教員全体に必ずあるのです。それぞれが自分の役割をきちんとこなす。組織としてそれは大事なことです。しかし、それだけでは足りないのです。行事でも自分の係だけこなせばいいという人ばかりで、違った視点からのフォローがなければ思わぬところでほころびが出てきます。

では、当事者意識のあるなしは個人の資質の問題なのでしょうか。もちろんその要素は否定しません。しかし、それだけではないと思います。今回の冊子の例であれば、フォーラムの成功が研究会のメンバー個人にとってのよろこび、達成感に直結しているからです。たとえば、パネルディスカッションの事前検討(「愛される学校づくりフォーラム2012 in東京」の事前検討会参照)では、登壇しないメンバーも聴衆役を通じて意見を述べる機会があります。自分たちがフォーラムづくりにかかわっているという意識を持っていただけます。参加された方に満足してもらうことが自分たちの満足につながる、その手ごたえを自分のものとして感じられる、そういう仕組みが会の中にあるのです。
これを学校に置き換えてみましょう。たとえば行事であれば、成功することが教員一人ひとりの満足・達成感にどうつながるかが問題なのです。それは、行事を学級経営にどう活かすか、成功することが学級にどのようなよい変化をもたらすのか、といったことが明確になっていると言ってもよいでしょう。このことを具体的に伝え合う、共有化していることが教員一人ひとりの当事者意識につながるのだと思います。

フォーラムに向けて研究会のメーリングリストに様々な情報が流れています。みんなで少しでもよいフォーラムにしようと頑張っています。当日壇上に立つ以外のメンバーもフォーラムづくりに積極的に参加しています。スタッフとしてお手伝いいただいている企業の方も損得抜きで取り組んでいただいています。当事者意識のある多くの人の力でつくられているフォーラムです。当日の参加者にとって満足いただけるものになると信じています。

教科書の課題を楽しむことも教材研究

教科書を読み込むと言う話を最近よくします。自分自身、仕事の関係で教科書をよく読むのですが、楽しいと思うこともよくあります。

たとえば、小学校6年生の国語のある教科書では、似た意味を持つ言葉を調べたり考えたりする課題で、その例として、「余る・残る」「ねじる・ひねる」「うれしい・楽しい」などがあげられています。どうでしょう、すぐに違いを明確にできますか。もちろん調べるのは子どもですから、教師が答える必要はないかもしれません。しかし、子どもが行き詰ったとき、どんな働きかけをすればよいかすぐに思いつきますか。調べる辞書によっては、ほとんど違いがわからないこともあります。最近は「語感の辞典」がありますが、ご存知ですか。子どもと同じ視点に立って、どれか一つの例を調べてみてください。そうすることで初めて見えることがあります。実際に調べてみて、難しいものもたくさんありましたが、無意識に自分が使い分けていた部分が「なるほど」と明確になったときなど、とてもおもしろいと感じました。きっと子どもたちも同じ感覚を味わうのだろうと思いました。教科書を表面的に見ていては決してわからなかったことです。

私が調べてみて、なかなかおもしろかったものに「にげる(逃げる)・のがれる(逃れる)」があります。どうです、この2つの違いが明確になる文をつくれますか。教えるということを少し離れて、教科書の課題を純粋に楽しむこともよいことです。きっと、授業のヒントになるものが見つかると思います。これも、また一つの教材研究だと思います。

若手教師がチームで伸びる

昨日は小学校で若手6人の授業アドバイスをおこなってきました。今年度7回目で最後になります。この日は時間割を工夫して互いに授業を見合うこと中心にしました。

授業がうまくなっていたのももちろんですが、授業を見る力が育っていることに驚きました。完全な授業などありません。どの授業にも課題はたくさんあります。しかし、そんな課題を指摘するのではなく、それぞれのよいところを見つけて、自分に取り入れようとする姿勢で全員が授業を見ていたのです。
子どもたちの関係がうまくいかず苦しんでいる先生もいます。そんな状態の学級を見られたくはありません。しかし、それでも公開してくれました。授業を参観する先生も、この状態ではダメと批判的に見るのではなく、もし自分の学級で子どもたちがこういう状態になったらどうすればいいのだろうと、自分のこととして考えてくれました。彼らがチームとして機能し始めているのです。

彼らと一緒に見た授業で気づきの多かった場面を書き出してみます。

3年生の算数で、問題が解けた子どもに前で○つけをする場面がありました。(前で○つけをするのはあまりよいことではないのですが、)できた子どもたちはうれしそうに先生のところへ向かいます。○をもらった子はうれしそうにしています。間違えた子どもは急いで席に戻りやり直します。中には立ったまま直している子もいます。並んでいる子どもたちもごそごそせずに静かに待っています。学級規律がよく保たれています。授業者は気になる間違いが何人かにあったので、○つけを一旦止めました。次の順番の子どもは○をつけてもらえずにとてもがっかりしていました。説明が終わって再び○つけが始まると一番に○をもらい、今度はにこにこしていました。子どもにとって○をもらうのはとてもうれしいということがよくわかります。前での○つけが続く中、子どもたちに変化が起こり始めました。あちこちで、子ども同士が聞き合っているのです。授業者が何か言ったわけではありません。実に自然な姿です。子どもたちの人間関係がよい証拠です。列が途切れた後、授業者は「まだ○をもらっていない人」と、全員に○をつける姿勢を見せました。これもとてもよいことです。そして、できていない子に個別指導を始めました。その間、○をもらっていなかった子が一生懸命手を挙げて、○をもらえるのを待っています。結局最後まで授業者は気づかずに、時間が来てしまいました。その子はとてもがっかりしていました。
一緒に見ていた先生は、○つけの効果と○をもらえなかったときの子どものがっかりした様子を見て、「○つけをいかす」「必ず全員に○をつける」ことの大切さをあらためて感じたようでした。

4年生の理科の対流の実験で、温めると水の動きはどうなるかを予想する場面のことです。おがくずの代わりに味噌を使うのですが、「温めると味噌が上にいく」、それにつけ足して「味噌がどんどん上にたまっていく」という意見が出ました。もちろん間違いではありますがよい意見です。先生はきちんと取り上げ、「味噌が上がって下がる」という意見ときちん比較しました。もう少し根拠を話し合うとよかったのですが、どんな意見もきちんと受け止めようとする姿勢は立派です。

3年生の音楽の時間の活動量の多さはとても素晴らしいものでした。私が見ていた間、休む間もなく子どもは歌い、リコーダーを吹いていました。すごい密度です。日ごろから活動量が多いのでしょう。子どもたちの演奏も4年生としてはなかなかのものでした。これだけの活動量なので、具体的な目標を明確にして即時評価を意識するともっとよくなると思いました。

6年生の国語の時間では、特に印象深い場面がありました。朗読を聞いた後、各自で読みの練習をするのですが、一人みんなからかなり遅れて読み終わった子がいました。早く読み終わった子は、彼が遅いので少しいらいらしていました。全員が読み終わった後、「さっき朗読聞いたけど、早かった、遅かった?」と聞きました。「遅かった」「そうだったよね。早く読むより、ゆっくり読んだ方がよかったのかもしれないね」と笑顔で語りかけました。最後だった子は、とてもうれしそうにしました。ちょっと集中力に欠けていると感じた子どもだったのですが、私が見ている間ずっと笑顔で集中を切らしませんでした。
また、ペアで音読した時、ペアの相手の読み方をほめる場面がありました。このペアは女の子がちょっと嫌そうにしていたのですが、隣の男の子がほめた時、とてもうれしそうな表情を見せました。こういう場面があることで子ども同士の人間関係がよくなっていくのです。
授業者はとにかくネガティブではなくポジティブにとらえる、ポジティブな言葉に言い換えることを念頭にいつも授業をしているようでした。随所にそのことを感じさせる言葉が出てきます。居心地がよくて、いつまでも居たくなるような学級をつくっています。

1年生の図工の時間です。グループで、友だちの作品のよいところをワークシートに書く作業をしている場面です。なかなか鉛筆が動かない子どもがいました。授業者も気づいたようです。その子のそばに近寄っていきました。どのように注意をするのだろうと見ていたのですが、その子を注意せずに、その場所からグループの他の子に対して支援を始めました。手のついていない子どもも友だちと先生の会話を聞き、鉛筆を動かし始めました。まだ2年目とは思えないとてもよい対応でした。

授業後、全員でこの1年を振り返りました。前向きな言葉がたくさん出てきます。
今までの指摘をきちんとノートに整理し、できたこと、まだできていないことチェックしている先生もいます。教材研究の大切さ、難しさを感じて、しっかり教科書を読み込もうとしている先生もいます。今年はうまくいかなったけれど、その経験を活かして4月に何をしなければいけないのか一生懸命に考えている先生もいます。こういったことを仲間の前でしっかりと言えるのです。
彼らが伸びている理由がよくわかります。チームの形になってきました。校長のフォローもうまくいっている大きな要素です。これからも互いに授業を見せ合い、一緒に教材研究をすることで、もう一段高いレベルに到達してくれると思います。

この1年、私も本当によい学びの機会をいただき、彼らの姿にたくさんの元気をもらいました。ありがたいことです。このような出会いをもたらしてくださった校長にあらためて感謝します。1年間本当にありがとうございました。
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