ネガティブをどう伝えるか
授業を見せていただいてアドバイスをするとき、問題点や欠点などのネガティブをどう伝えるかということはとても悩むことです。このことは、子どもとの面談や管理職やリーダーの方の若手への指導にも共通することです。私が基本としているのが、つぎのようなパターンです。
・ストレートに指摘する 相手と人間関係ができていれば、これが一番です。余計な気づかいをするより互いにストレートに言い合うことで、よい解決策に早く到達できます。しかし、人間関係ができていなければ、自分のことを認めてくれていないと感じて心を閉ざしてしまうこともあります。 ・まずほめてから指摘する 相手と人間関係ができていない、相手が自分に自信を持てていないような場合は、よい点を探しておいて、まずそのことを大いにほめます。認めてもらったと感じるとネガティブも聞きやすくなります。 ・まず、話を聞く たとえうまくいかなくても、どうしたいという明確な意図が見えるときは、話をしやすいのですが、それが見えないときは、うかつに話をしてもすれ違ってしまうことがよくあります。そのような危険性を感じるときは、まず何を目指していたのか、どんなことを考えてやったのか、意図を聞きます。よい方向性ならばそのことを大いにほめます。その上で、このことはどうであったのかと、ネガティブについて話をし始めます。逆に意図に問題があると感じたときは、ネガティブの話をせずに、何を目指すとよいのかについて、時間をかけて話をします。目指すべきものが共有できれば、じゃあどうしようと、相手に考えさせればいいのです。方向性が違えば答も違います。ネガティブのことはもう忘れていいのです。 蛇足ですが、指摘だけで改善されていくのは力のある方だけです。具体的なアドバイスがなければ、かえって相手を苦しめるだけです。意外とこのことを忘れている管理職の方もいらっしゃいます。具体的な改善策を提示できないようなことは、指摘しない方がよいのです。 改善のアドバイスの仕方にもいくつかのパターンがあります。 ・ストレートに伝える 何を言っても大丈夫という人間関係ができていれば、これが一番です。 ・選択肢の一つとして示す こうしなさいと押し付けるのではなく、「こういうやり方もあります、参考にしてください」と相手に決定権をゆだねます。強制されるわけではないので、聞きやすくなります。全体に対してアドバイスする時によく使います。「正解はありません。みなさんが工夫することが大切です」などといったまくらをつけることもよくあります。 ・相手に言わせる 人は、自分の口にした言葉に縛られます。1対1、少人数を相手にするときには、この方法が有効です。ネガティブを指摘しながら、どうすればいいか問いかけます。このときネガティブの原因をそれとなく伝えておくと、答えが出やすくなります。期待した方向の答えが出てきたら、「ああ、いいね、それ。今度やってみてよ。どうなるか楽しみだね。ぜひ、今度見せてね」と称賛と行動を期待する言葉を投げかけます。自分の口で言うことで、やってみよう、やらなければという気持ちになりますが、その上このように期待を伝えればまず行動に移してくれます。 ネガティブを受け入れることは誰にとっても難しいことです。それをどう伝え改善につなげていくかが大切です。相手に受け入れられる伝え方を工夫してほしいと思います。 研究に対するアドバイスを考える
昨日は、来年研究発表予定の小学校の公開授業を見学しました。
研究の目標に向かうにあたって、まずは基本である学習規律を確立させることに力を入れていました。前回訪問時と比べて、教科書、ノートをきちんと机に整理しておくといった目に見える部分は改善されているようでした。教師が意識して注意、指示をすればこういう表面的な規律はよくなります。しかし、このやり方で100%にすることはとても大変です。誰かができなければ注意をする。モグラたたきの状態からなかなか脱却できません。結果、教師が根負けして大体できていればよしとなり、ゆるくなってしまうのです。 また、話を聞くといった、顔を上げているという表面だけでは確認できないものは、注意をするだけでは本当にできるようにはなりません。教師が明確に求め、できていることをきちんと確認し、ほめることが大切です。そうすることで、はじめて子どもが自らそうしようと思うようになり、内面から変わるのです。 この学習規律を確立させる方法がこの学校では共有されていないように感じました。3校時7つの授業を見学しましたが、先生が子どもを評価(特にポジティブに)している場面をほとんど見ることがなかったからです。 挙手を求める場面でも「わかった人」としか問いかけないので、わからない子どもは手を挙げることができず、参加がすることできないまま進んでいきます。1問1答形式のわかっている子どもだけで進む授業になっていました。また、子どもと教師、子ども同士のあるべきコミュニケーションを見ることもできませんでした。基本となる「聞く」ということが意識されていないのです。 「自信を持って話す」「伝えたいことを理解する」「伝え合う中で考えを深める、伝え合う」といった言葉がこの学校の目指す子ども像の中に見られますが、子どもの具体的な姿、そのような子どもつくるための具体的な授業のイメージが全くないままに取り組んでいるように感じます。 また、今回は算数の授業が多かったのですが、算数は何が大切か、何が理解され、できるようになればよいのかを正しく理解していないと感じる場面がたくさんありました。手順を教え込むことに終始しています。算数の言語活動ですら、一つの正解を教え込む、記憶させるような活動が目立ちました。教科書の意図を理解できていない、読めていないと言わざるをえません。教科の中身についても学び合う必要性を感じました 指導されている大学の研究者がどのような助言をされるのか、この日の興味はここにつきます。 先生方に対しては、できるようになったことをほめ、努力を認める言葉が随所に散りばめられていました。その上で、改善の方向性を押しつけでなく、選択肢の一つとして提示されました。指摘された先生が聞く気になる伝え方です。 研究全体については、そんな簡単に達成できる目標ではないと、現実とのギャップ、その無謀さを上手に指摘します。その上で、現実的な目標に設定し直して前に進んでいる学校を紹介しました。管理職や中心となる先生に対して、もう1度目標を考えなおすという選択肢を上手に提示されたのです。 「うーん」と唸ってしまいました。さすがです。コメント力に定評のある先生ですが、あらためてその凄さを感じました。 一般の先生方は苦しい思いをして頑張っています。そのことを認め、苦しいのは目標が高いこと、具体的なゴールが見えないことであって、それは先生方の責任ではないと気持ちを楽にするメッセージを送っています。 その上で、管理職やリーダーに対しては、この状況から脱出するための鍵はあなたたちにあるのだと自覚を促し、また解決のための方法を示唆しています。 これを押しつけがましくなく、柔らかい雰囲気で伝えられたのです。 私はこのようにうまく伝えられるだろうかと大いに考えさせられました。本当によい勉強をさせていただきました。 さしでがましいとは思いましたが、私から管理職の方に少しだけアドバイスをさせていただきました。 「自身を持って話す」ということで伝え合うことを目指すのではなく、「自信がなくても話せる」を目指せば、伝え合うことのハードルはぐっと軽くなる。 「伝え合う中で考えを深める」というのは、スキルとしてどう教えるかではなく、「他者の意見を聞いてよかった」という経験積ませることで、自然と身につくものである。 今回の指導の先生のお話は、管理職やリーダーに厳しい現実を突きつけたものです。しかし、それは温かい励ましでもあるように思います。これを受けてどのような変化がこの学校に起こるのか、わたしも温かい目で見守りたいと思います。 学校のネガティブをオープンにする
先日中学校の学校評議員会に参加しました。
今年度の取り組みの結果報告と来年度へ向けての話し合いでした。地域の方の協力で子どもたちが育っていると感じさせる報告が学校からも地元の評議員の方からも上がってきました。地域の方々が子どもたちを温かい目で見守っている姿が浮かんできます。 この日メインとなったのは、来年度に向けての新しい取り組みについてでした。子どもたちの心を育てる事業を進めたいということです。外部の方に子どもの心が育つようなお話をうかがうなど、事業内容はとてもよいことで、学校側が簡単に説明すれば皆さんに賛同を得られることです。しかし、そうではなく、最近の不登校数が増加傾向にあること、アンケートの結果から友だちへのかかわりが希薄、無関心な生徒の割合が増えつつあること、教師の目から見て気になる行動やちょっとした事件が起こっていることなど、具体的な資料や事実をもとに細かく報告されました。 ショッキングな報告です。一つ間違えれば悪い噂も立つような内容です。それでも、学校はオープンにしました。 外部の方を呼ぶというのが対策のメインではなく、日々の取り組みが一番重要であるという考えを示したうえで、参加者の考えを聞かせてほしいという問いかけがされました。参加者は、ショックを感じながらも、自分たちの目で見た子どもたちの気になる面を報告したり、単純に学校が責められる問題ではなく、家庭や地域、社会全体の問題であるといった考えを伝えました。難しい問題ですので、特効薬がないのは皆わかっています。しかし、互いに子どもたちのためにどうすればよいか、何ができるのか、どうあればよいのかを真剣に考えた時間でした。参加された方が、学校の問題を自分たちの問題としてできることをしなければと考えられていることがよくわかりました。 学校のネガティブな部分をオープンにすることは勇気がいります。しかし、そうすることで、まわりの理解と協力が得られ、学校の応援団がつくられていくのです。応援団の存在が、苦しい状況に置かれた学校を救ってくれることもあります。 この学校の地域と協力して子どもを育てていこうという姿勢は必ず子どもたちのよい姿につながっていくと思います。私も自分の立場からできる応援を続けたいと思います。 とても素敵なハプニング
昨日は中学校で現職教育に参加してきました。今年度最後の訪問でした。
午前中は校内で授業を参観していたのですが、とても楽しい出来事がありました。社会科の為替の授業で、子どもたちがグループで円高、円安の影響を考えて発表しているときのことです。 あるグループが、車の値段がドル建ていくらになるかをもとに「円高は高く売ることができる」と発表しました。それに対して、女生徒が、「輸入すれば、円で同じじゃん」と意見を返しました。授業者は彼女が何かいいことを言っていると取り上げようとしたのですが、理解できずにちょっと困っている様子です。私は、これはキーとなる発言だと思い、うなずくことで、もう少し頑張ってごらんと彼女にメッセージを送りました。それを見ていた授業者が、突然「今からゲストティーチャーにお願いします」と私にバトンタッチしました。とっさのことに一瞬躊躇しましたが、せっかくの流れを切りたくないと思い、すぐに授業を続けました。 「輸入って言ったけど、どういうこと」 「うーん。戻ってくる時・・・」 もどかしそうです。ドルを円に換えれば一緒だと言いたいのでしょうが、うまく表現できません。 「円って言ってくれたけど、どういうこと」 「円だから同じ・・・」 「うん。いいよ、いいよ」 「じゃ、車を売ったもうけはどうなるのかな」 と全体に問いなおしてみました。 「もうからん」 「もうかる」 ・・・ 「なるほど、車は誰が買うのかな」 「アメリカ人」 「何で払うの、ドル」 「そうか、ドルで払うんだ。車を売ると何万ドルという金がもらえるんだ」 「そのお金はどうする」 ・・・ 「アメリカへ行った時、何で買い物する」 「ドル」 「余ったらどうする」 「持って帰る」 「換える」 「換えるんだ。何に換えるの」 「円」 「そうか、円にするんだ」 「じゃあ、車を売ったお金はどうするんだろう」 「円に換える」 「じゃあ、5万ドルのとき、3万2千ドルのときどちらがたくさんもらえるだろう」 「5万ドル」 「なるほど、5万ドルの時、いくらになるか計算してみて」 「えー」 「同じだ」 「どういうこと」 「どちらでも円に直したら同じになる」 「そうだね、円高でも円に直せば一緒だね」 最初に意見を言ってくれた子に、 「そういうことが言いたかったんだよね」 うなずく。 ここで授業者に返しました。授業者は「値段が上がると売れなくなるよね。円高は輸出する人にとってはよくないね」とまとめて授業は終わりました。 うまい対応ができたかはわかりませんが、子どもたちは突然現れた私に臆することなく、真剣に意見をつないでくれました。コの字形の机の配置だったこともよかったのでしょう、子どものつぶやきが拾いやすく、表情から意見があることがよくわかりました。 とてもよい雰囲気なのは、担任の学級経営がよい証拠です。わずか10分ほどのことでしたが、子どもたちの考えで問題を解決できて、とても楽しい時間を共有できました。子どもたちのもつポテンシャルの高さをあらためて肌で感じることができました。 現職教育は、エンカウンターの授業研究でした。この学級も雰囲気がよく、担任が子どもたちをしっかり受容していることが、雰囲気作りの原動力だと感じました。エンカウンターと学び合いの違いを意識して、このような活動をうまく活かすようにアドバイスをさせていただきました。 授業アドバイザーとしてこの学校の研究発表のお手伝いを1年半以上にわたりさせていただきました。子どもたちと先生方から本当にたくさんのことを学ばせていただきました。 最後に授業をさせていただくという素敵なハプニングもあり、とても幸せな気持ちで最終日を終えることができました。子どもたちと先生に感謝です。ありがとうございました。 挙手しないのも意思の表れ
今の意見・考えに賛成の人と問いかけて、ほとんどの子どもが手を挙げる、ハンドサインで賛成の意思を表示する。こういう場面によく出会います。
このとき、「みんな納得したね」「だいじょうぶだね」「そうだね。正解だね」と言って先に進むことが多いように感じます。しかし、よく見ると、全員が自信を持って手を挙げているのではなく、何人かの子が手を挙げた後、残りの子はその様子を見ながら手を挙げていることが多いことに気がつきます。後から手を挙げている子は確かにそうだと自信を持って手を挙げている訳ではないのです。 一方、最後まで手を挙げない子もいます。まわりのほとんどの子が手を挙げているのに手を挙げないというのは、これは挙手以上の明確なメッセージだと思います。 「わからないから、手を挙げない」 「判断がつかないが、安直に賛成する気はない」 「私は納得できない。そうは思わない」 「授業に参加する気はない。私は取り繕う気はない」 こういう意思の表れだと思います。 もちろん漠然と聞いていなかった、参加できていなかったという場合もあるでしょうが、それはまれだと思います。まわりに合わせて、手を挙げておけば大過なく過ぎていくからです。 教師はこの手を挙げないという明確な意思をしっかり受け止める必要があります。 「手を挙げていない人がいるね。○○さん、どういうこと」 と受け止めてほしいのです。 わからないから挙手しなかったのであれば、挙手した子どもに対して、その子がわかるような説明を求める必要があります。 意見や考えに反対で挙手しなかったのであれば、その理由をしっかり全員で聞く必要あります。 また、参加する気がなく答えてくれなければ、挙手した子どもにもう一度説明してもらい、「どう?」と問いかけて参加を促すといったことが必要になります。 挙手している子どもに説明を求めると、雰囲気に流されて手を挙げていた子は戸惑います。指名されても説明できないので困るからです。次第に、よくわかっていなければ安直に「賛成」と手を挙げないようになってきます。わかっていないということを、手を挙げないことで明確に表明してくれるようになるのです。 子どもたちがわかっていないということを表明すれば、当然教師はわかるような手立てを講ずる責任が生じます。これは教師にとって、とても厳しいことです。授業が予定通り進まないかもしれません。 だから、子どもの「わからない」「納得できない」を無視して進めるのか、そうではなく立ち止まって受け止めるのか、どちらを選ぶのかは大きな違いがあります。教師にとって厳しくともしっかり受け止め、全員がわかる授業を目指してほしいと思います。 算数・数学で大切にしたい問いかけ
算数・数学では数や図形のいろいろな性質を考え、見つけます。その時に大切にしてほしい問いかけが、「いつも」「どれでも」「たまたま」「・・・だけ」「他にはない」「これで全部」などです。
子どもが見つけた性質がたまたまなのか、常に成り立つことなのかは大きな違いがあります。いつも成り立つこと共通なことを見つけることが算数・数学では大切です。そのことを意識させる問いかけが、「いつも」「どれでも」「たまたま」です。 「平行四辺形でどんなことに気づいた」 「向かい合う角が等しい」 「それっていつも言える?」 ・・・ 「連続した数を2乗したとき、1つとばしの差はどうなる」 「8の倍数だ」 「どれでも成り立つ?」 「ダメだ」 「じゃあ、たまたま?」 ・・・ 「奇数のときは8の倍数になる」 「いつでも言える?」 ・・・ たまたま成り立つような時でも、そこからうまい条件を見つけることができれば、いつも成り立つ性質を見つけたことになります。 逆に同じことが他でも言えるのか、他に成り立つものがあるかも大切なことです。そのことを意識させる問いかけが、「・・・だけ」「他にはない」「これで全部」です。 「四角形をどうやって分けた」 「対角線の長さで分けた」 「それってどういうこと」 「対角線の長さが同じものは正方形と長方形で、他のは違う」 「なるほど、対角線の長さが同じもので分けたんだ。対角線の長さが同じものはこれで全部?」 ・・・ 「あっ、あった」 この例のような、対角線の長さに注目する視点はとてもよいものです。しかし、正方形や長方形、平行四辺形などの辺に注目した分類とは整合性が取れません。こういったことに気づかせる問いかけです。 数学的には「いつも」は十分条件を、「他にない」は必要条件を意識させる問いかけです。いつも成り立ち、その他に成り立つものがなければ、必要十分条件、同値であるということです。 ふだんの授業で常にこのような問いかけがされていることで、子どもたちは自分自身で問いかけるようになり、数学的な視点が身につきます。意識してこれらの問いかけをするようにしてほしいと思います。 国語の授業で大切にしたい問いかけ
国語の授業では明確な答えがないと言われることが多いようです。しかし、子どもたちが勝手に意見を言って、「どれもいいね」で終わっては学びになりません。だから難しいとも言われ、だから面白いとも言われます。国語での問いかけについて考えたいと思います。
国語の授業で考えるよりどころは素材となる本文です。本文に書かれていること正しく読み取り、それをもとに、小説や物語では「気持ち」や「心情」を、評論や説明文では筆者の「意見」や「主張」を考えます。したがって、子どもの考えに対して、常に根拠となる本文の記述を問いかけることが大切になります。「それはどこに書いてある」「本文のどこからそう考えた」と「どこ」で聞くのです。 本文を根拠にするという視点でよくつかわれる指示が、「・・・が書かれているところに線を引きなさい」です。線を引いたところを共有して、そこから、心情や主張を考えるのです。こうすることで、「どこ」の対象を明確にできます。 では、子どもの考えを聞き、どこを根拠にしたかを発表させたあと、どのようにすれば考えが深まり、答が明確になっていくのでしょうか。 根拠とした文が重要な文だと考えるのであれば、その文をもとに考えを深め、広げるとよいでしょう。「この文をもとに考えた人、意見を聞かせて」、「この文からどんなことがわかるか、他の人の考えを聞かせて」と文をもとにつなげます。 発表された考えがねらいにつながると思うのであれば、その考えをもとに、深め、広げるとよいでしょう。「同じように考えた人、どこでそう思ったか聞かせて」と考えをもとにつなげます。どの文が重要なのか、どのような子どもの言葉が出てくればねらいにつながっていくのか、教材研究をしっかりしておく必要があります。 こうしていくことで、本文を根拠に考えを深めていけるので、意見がかみ合い明確になっていきます。 しかし、本文に直接根拠となる記述がないことを問う場合は難しくなります。 たとえば、主人公の気持ちを考えさせたいが、本文に主人公のことが書かれていないような場合です。授業名人の野口芳宏先生は、「書いてあることから書かれていないことを合理的に推論する」とおっしゃっています。 「何があった」「だれがどんなことをした」と書かれている事実をとりあげ、そこを根拠に、「その行動はどういうことだろう」「じゃあ、どんな気持になるだろう」と迫っていくとよいと思います。 ときにあいまいな結論になりやすい国語の授業ですが、常に根拠を本文に求め、そこを起点して話し合い、聞き合うことを大切にして、子どもたちにとって、合理的で明解な結論に達することを目指してください。 理科(実験)で大切にしたい問いかけ
理科の実験の授業を見ていて、何のために実験をしているか子どもが意識せずに、ただ指示された通りに作業をしてワークシートの穴を埋めているように感じることがよくあります。
理科は疑問や仮説を実験によって解決、検証します。疑問や仮説がないまま指示されたとおりに実験をして、「気づいたことは何」「どんなことが言える」と問われても、明確な視点で答えることはなかなかできません。 まず、子どもに疑問や仮説を持たせる問いかけが必要です。 「どうなると思う」「どうしてそう思う」と予想をさせることから始めることが大切です。子どもの意見が分かれれば、それだけで実験に取り組む意欲が高まります。 その上で、どんな実験をすればいいか考えさせることで、科学的な思考が身についていきます。 また、一部の子どもだけが気づいたことがあれば、全員が追試できるような時間を取る、時間がないようであれば教師が見せることをしてほしいと思います。実際に体験する、見ることで初めて納得できるからです。 たとえば、空気鉄砲の実験であれば、 「押し棒を押すとどうなると思う」と問いかける。 子どもが「前玉が飛ぶ」と答えれば、「どうしてそう思う」と続けて聞く。 子どもが理由を答えたら、どうすれば確かめられるかを続けて問う。 答えられなければ、理由を考えながら実験するように指示する。 出てきた疑問や仮説を整理しておく。 途中で、実験を止め、飛んだかどうかなどの疑問や仮説がどうであったか確認する。 ここで、子どもから強く押すと勢いよく飛んだといった気づきが出れば、まわりに確認し、気づかなかった子どもには次の実験で確認しようという気持ちにさせる。 「強く押すと勢いよく飛ぶことを確かめたいけど、どうすればいい」と子ども問いかける。 また、理由についても子どもの考えを聞く。 いくつかの意見が出れば、どうすれば確かめられるか問いかける。 ここで出た新たな疑問や仮説を持って、再度実験をする。 ・・・ 時間の関係でいつもこのようにできるわけではありません。また、子どもたちの発達段階によって進め方を変える必要もあります。しかし、実験のたびにこのような問いかけをしていくことで、子どもたちの視点が育っていきます。それに伴い子どもたちからいろいろな気づきや考えが発表されるようになってきます。子どもの言葉をつなぎ、深めることでより科学的な視点で実験に取り組むようになっていきます。 疑問や仮説を持たせる問いかけによって意識的に実験に取り組ませることで、科学的な思考力を育ててほしいと思います。 授業者の意図とずれてしまった授業
昨日は中学校で数学の授業アドバイスをおこなってきました。
1年生のおおぎ形の弧の長さ、面積の学習でした。授業者が担任をしている学級だったこともあり、子どもたちとの関係はとてもよいと感じました。教師はノートを取らずに話を聞くように指示しましたが、どの子も集中して話を聞いていました。 おおぎ形が円の何分の1になっているか、おおぎ形に切った紙を使って説明していきます。生徒を意図的に指名し、「なるほどと思った人」と他の生徒に同意を求めます。なかなかよい進め方に見えるのですが、同意を求めたあと、「そうだね」とすぐに教師が説明をしてしまいます。本当に理解しているのか、挙手した子どもに確認することはしません。多くの子どもがなるほどと手を挙げてくれているのですが、手が挙がらない子もいます。彼らが納得できるだけの時間をとらずに進んでしまっているのです。 いくつかの例を用意して、中心角から円の何倍になるかを求めることを説明します。授業者は何倍になるかを考えることをポイントとして進めていったつもりなのですが、実際には120÷360=1/3といった計算ばかりが板書され、強調されていました。 半径r、中心角a°のおおぎ形の弧の長さl=2πr×a/360、面積S=πr2×a/360と公式を提示した後、中心角135°のおおぎ形を例題としました。授業者は円の何分の1と割り切れないものも公式に当てはめれば解けることを意識して出題したのでしょう。しかし、この間30分くらい経過しているのですが、子どもたちは教師の話を聞いて答えるだけで、1度も自分の手を動かして考えていません。今までの説明はすべて円を何等分かしたものばかりです。そこに、いきなり135÷360とうまく真分数にならないものがでてきたため、どうしていいか困惑する子どもが出てきました。 図で、円はおおぎ形の何枚分、おおぎ形は円の何分の1と考えたことを、有理数(分数)倍に拡張することは、たとえ式としては同じでも子どもにはギャップがあるのです。 この部分をもっと時間をかけて子どもたちとやり取りしながら、公式を作るべきだったのです。結局、公式に当てはめて答はこうなると計算を板書して、それをノートに写させました。公式を使えば答が出るというだけで、子どもが感じていたギャップを解消することはしませんでした。 授業者は最後に、この公式は覚えなくても何倍になるか考えれば作れると口頭で説明しました。しかし、板書をみてもおおぎ形が円の何倍になっているかを考えればいいとわかるような記述は何も残っていません。教師が押さえようと意識していた円の何倍になるかをもとに考えるのではなく、公式を使って答えを出せばよいという授業になってしまったのです。授業者の意図と実際の授業は大きくずれてしまいました。 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。子どもたちとやり取りし、活動をさせながら授業を進めれば時間がかる。問題を解けるようにしなければならないので、演習の時間を確保しなければならない。そんな気持ちが、子どもに活動させるのではなく、教師が説明する授業につながり、子どもが理解しづらい部分を公式に当てはめることで逃げてしまうことになったのです。 授業者は意識して逃げていたわけではないと思います。だからこそ、この事実に気づいてほしいと思いました。今回、授業者には厳しい指摘をたくさんしました。子どもを受容することができる、コミュニケーションの基本がきちんとできている先生だからこそ、正面から教材と向き合って授業をつくっていくことで大きく飛躍すると思います。どのような変化を見せてくれるか楽しみにしています。 社会(歴史分野)で大切にしたい問いかけ
社会科では資料をもとに気づいたことを問いかけることがよくあります。ただ、子どもたちの資料を見る視点、考える視点が育っていないと、「気づいたこと」と問うだけでは、どこを見ればよいか、どうすれば気づけるかわからなくて困ってしまうことが多いように思います。
歴史分野では、歴史的な事件や事実をつながりとしてとらえるために、ビフォアとアフターを比較するという視点を与えるとよいでしょう。ある事件、事実を境にして何が変わったのか、変わらなかったかを問うのです。原因と結果といいかえてもよいと思います。その事件、事実を挟んで比較できる資料をもとに考えさせる。原因となる事実を調べさせる。こうすることで歴史を線で結ぶことができます。 たとえば、「長篠の戦い」のようすを描いた屏風図を資料として考えさせるのであれば、これ以前の戦いと比べて、何が違う、気づいたことはないと問いかけると、視点が明確になります。それ以前の戦いのようすを描いた資料も準備しておけばよりたくさんのことに気づくことができるはずです。また、戦いの結果、何が変わったかを問いかけることで、武器の重要性、それに伴う資金の問題など戦いを左右する要素に気づくこともできるでしょう。 平安時代の「農民の逃亡」であれば、なぜ逃げた、逃げた人はどうなったと問うことで、租庸調という税の負担がどのようなものであったか、また、口分田に始まり、三世一身の法、墾田永年私財法を経て荘園の発達へ続く流れやそのつながりを整理することができます。 歴史分野の教材研究では、教科書の内容一つひとつをどう説明するかではなく、どこを中心に展開するかを考えてほしいと思います。どこを起点として歴史が大きく動いたか、変化したか、そういう視点で教材をとらえ、その前後を比較させることが、子どもたちが考える授業につながります。歴史の変化をとらえるという視点を育てることで、子どもたちは多くのことに気づけるようになると思います。 算数で大切にしたい問いかけ
どの教科にも単元にかかわらず、共通の大切にしたい視点があります。今回は算数について考えてみます。
算数ではいろいろな計算が出てきますが、共通して押さえておきたいのが、「何」が「いくつ」あるかという問いかけです。 たとえば、位取り記数法では、32は10が3つあり、(1が)2あると考えます。小数も0.4は0.1が4つあると考えます。 同様に分数も2/3は1/3が2つあると考えます。比も基準となるものがいくつあるかが基本です。 面積や体積も単位量がいくつあるかです。 このことから、かけ算を足し算の繰り返しではなく、「1つあたりのいくつ分」と定義するようになったのです。 このことを意識すると、子どもへの問いかけも非常に明解になります。 たとえば、0.3×4=0.12としてしまう子どもがいたとします。3×4を計算して、小数点をつけると考えたのです。意味を考えずに手順を覚えようとする子どもがよくやる間違いです。このとき、「0.3は何がいくつ」「3×4=12で何が12」と問いかけることで0.1が12と気づき、間違いが正されます。 この視点で教科書を眺めてみると、基本的な考え方がこの問いかけで明確になることに気づくと思います。算数の教材研究をするときに「何」が「いくつ」あるという問いかけを意識していただけたらと思います。 数学の授業の視点を考える
先日、来年行われる算数・数学のセミナーの運営委員会に参加しました。私は、中学校のグループで当日の実習で扱う題材について担当の先生方とお話をさせていただきました。担当の先生方はどなたも力のある方ばかりです。にもかかわらず、当日参加される先生方にとって少しでもよい内容の実習ができるように、勉強をしておこうと集まっているのです。手弁当の会にもかかわらずこの真摯な姿勢には本当に頭が下がります。
算数・数学の授業を見せていただいて最近強く感じるのが、問題を解くこと、解けるようにすることばかりが意識され、解き方の手順を教えることが授業の中心となっていることです。なぜこの手順で解けるのか、この手順が最良なのかといったことを考えることがされていません。特に中学校では、解き方を習っていない問題に出会ったときに解ける力をつけているのか疑問に思うことがよくあります。数学が知識だけを問う教科になってしまっているのです。 この日は、平方根の計算に関して、「√の中の数をできるだけ小さくなるように、有理数を外に出して積の形にして簡単にする」ことは、何の意味があるのかといったことを考えること。また、√×√の形の計算は、このことを使って有理数を外に出してから掛け算して、再度有理数を外に出すように教えますが、手順としては掛け算をしてから有理数を外に出す方が簡単です。なのに、先に有理数を外に出すのはなぜかと理由を考えること。こういうことが大切であることを話させていただきました。そうすることが数学的な考え方を身につけることにつながっていきます。 今回、簡単にするということが、数学のあらゆる場面で求められる考え方であり、その意味を各場面で意識することで問題解決の根本を支える力がつくことを、平方根から出発して、あらためて考えていただきました。教材を点で見るのではなく、数学という学問の底に共通して流れるものを意識して見ることの大切さを当日伝えていただければと思います。 |
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