学校のネガティブをオープンにする

先日中学校の学校評議員会に参加しました。

今年度の取り組みの結果報告と来年度へ向けての話し合いでした。地域の方の協力で子どもたちが育っていると感じさせる報告が学校からも地元の評議員の方からも上がってきました。地域の方々が子どもたちを温かい目で見守っている姿が浮かんできます。

この日メインとなったのは、来年度に向けての新しい取り組みについてでした。子どもたちの心を育てる事業を進めたいということです。外部の方に子どもの心が育つようなお話をうかがうなど、事業内容はとてもよいことで、学校側が簡単に説明すれば皆さんに賛同を得られることです。しかし、そうではなく、最近の不登校数が増加傾向にあること、アンケートの結果から友だちへのかかわりが希薄、無関心な生徒の割合が増えつつあること、教師の目から見て気になる行動やちょっとした事件が起こっていることなど、具体的な資料や事実をもとに細かく報告されました。
ショッキングな報告です。一つ間違えれば悪い噂も立つような内容です。それでも、学校はオープンにしました。

外部の方を呼ぶというのが対策のメインではなく、日々の取り組みが一番重要であるという考えを示したうえで、参加者の考えを聞かせてほしいという問いかけがされました。参加者は、ショックを感じながらも、自分たちの目で見た子どもたちの気になる面を報告したり、単純に学校が責められる問題ではなく、家庭や地域、社会全体の問題であるといった考えを伝えました。難しい問題ですので、特効薬がないのは皆わかっています。しかし、互いに子どもたちのためにどうすればよいか、何ができるのか、どうあればよいのかを真剣に考えた時間でした。参加された方が、学校の問題を自分たちの問題としてできることをしなければと考えられていることがよくわかりました。

学校のネガティブな部分をオープンにすることは勇気がいります。しかし、そうすることで、まわりの理解と協力が得られ、学校の応援団がつくられていくのです。応援団の存在が、苦しい状況に置かれた学校を救ってくれることもあります。
この学校の地域と協力して子どもを育てていこうという姿勢は必ず子どもたちのよい姿につながっていくと思います。私も自分の立場からできる応援を続けたいと思います。

とても素敵なハプニング

昨日は中学校で現職教育に参加してきました。今年度最後の訪問でした。

午前中は校内で授業を参観していたのですが、とても楽しい出来事がありました。社会科の為替の授業で、子どもたちがグループで円高、円安の影響を考えて発表しているときのことです。
あるグループが、車の値段がドル建ていくらになるかをもとに「円高は高く売ることができる」と発表しました。それに対して、女生徒が、「輸入すれば、円で同じじゃん」と意見を返しました。授業者は彼女が何かいいことを言っていると取り上げようとしたのですが、理解できずにちょっと困っている様子です。私は、これはキーとなる発言だと思い、うなずくことで、もう少し頑張ってごらんと彼女にメッセージを送りました。それを見ていた授業者が、突然「今からゲストティーチャーにお願いします」と私にバトンタッチしました。とっさのことに一瞬躊躇しましたが、せっかくの流れを切りたくないと思い、すぐに授業を続けました。

「輸入って言ったけど、どういうこと」
「うーん。戻ってくる時・・・」

もどかしそうです。ドルを円に換えれば一緒だと言いたいのでしょうが、うまく表現できません。

「円って言ってくれたけど、どういうこと」
「円だから同じ・・・」
「うん。いいよ、いいよ」

「じゃ、車を売ったもうけはどうなるのかな」
と全体に問いなおしてみました。
「もうからん」
「もうかる」
・・・
「なるほど、車は誰が買うのかな」
「アメリカ人」
「何で払うの、ドル」
「そうか、ドルで払うんだ。車を売ると何万ドルという金がもらえるんだ」
「そのお金はどうする」
・・・
「アメリカへ行った時、何で買い物する」
「ドル」
「余ったらどうする」
「持って帰る」
「換える」
「換えるんだ。何に換えるの」
「円」
「そうか、円にするんだ」
「じゃあ、車を売ったお金はどうするんだろう」
「円に換える」
「じゃあ、5万ドルのとき、3万2千ドルのときどちらがたくさんもらえるだろう」
「5万ドル」
「なるほど、5万ドルの時、いくらになるか計算してみて」
「えー」
「同じだ」
「どういうこと」
「どちらでも円に直したら同じになる」
「そうだね、円高でも円に直せば一緒だね」
最初に意見を言ってくれた子に、
「そういうことが言いたかったんだよね」
うなずく。

ここで授業者に返しました。授業者は「値段が上がると売れなくなるよね。円高は輸出する人にとってはよくないね」とまとめて授業は終わりました。

うまい対応ができたかはわかりませんが、子どもたちは突然現れた私に臆することなく、真剣に意見をつないでくれました。コの字形の机の配置だったこともよかったのでしょう、子どものつぶやきが拾いやすく、表情から意見があることがよくわかりました。
とてもよい雰囲気なのは、担任の学級経営がよい証拠です。わずか10分ほどのことでしたが、子どもたちの考えで問題を解決できて、とても楽しい時間を共有できました。子どもたちのもつポテンシャルの高さをあらためて肌で感じることができました。

現職教育は、エンカウンターの授業研究でした。この学級も雰囲気がよく、担任が子どもたちをしっかり受容していることが、雰囲気作りの原動力だと感じました。エンカウンターと学び合いの違いを意識して、このような活動をうまく活かすようにアドバイスをさせていただきました。

授業アドバイザーとしてこの学校の研究発表のお手伝いを1年半以上にわたりさせていただきました。子どもたちと先生方から本当にたくさんのことを学ばせていただきました。
最後に授業をさせていただくという素敵なハプニングもあり、とても幸せな気持ちで最終日を終えることができました。子どもたちと先生に感謝です。ありがとうございました。

挙手しないのも意思の表れ

今の意見・考えに賛成の人と問いかけて、ほとんどの子どもが手を挙げる、ハンドサインで賛成の意思を表示する。こういう場面によく出会います。
このとき、「みんな納得したね」「だいじょうぶだね」「そうだね。正解だね」と言って先に進むことが多いように感じます。しかし、よく見ると、全員が自信を持って手を挙げているのではなく、何人かの子が手を挙げた後、残りの子はその様子を見ながら手を挙げていることが多いことに気がつきます。後から手を挙げている子は確かにそうだと自信を持って手を挙げている訳ではないのです。
一方、最後まで手を挙げない子もいます。まわりのほとんどの子が手を挙げているのに手を挙げないというのは、これは挙手以上の明確なメッセージだと思います。

「わからないから、手を挙げない」
「判断がつかないが、安直に賛成する気はない」
「私は納得できない。そうは思わない」
「授業に参加する気はない。私は取り繕う気はない」

こういう意思の表れだと思います。

もちろん漠然と聞いていなかった、参加できていなかったという場合もあるでしょうが、それはまれだと思います。まわりに合わせて、手を挙げておけば大過なく過ぎていくからです。

教師はこの手を挙げないという明確な意思をしっかり受け止める必要があります。

「手を挙げていない人がいるね。○○さん、どういうこと」

と受け止めてほしいのです。

わからないから挙手しなかったのであれば、挙手した子どもに対して、その子がわかるような説明を求める必要があります。
意見や考えに反対で挙手しなかったのであれば、その理由をしっかり全員で聞く必要あります。
また、参加する気がなく答えてくれなければ、挙手した子どもにもう一度説明してもらい、「どう?」と問いかけて参加を促すといったことが必要になります。

挙手している子どもに説明を求めると、雰囲気に流されて手を挙げていた子は戸惑います。指名されても説明できないので困るからです。次第に、よくわかっていなければ安直に「賛成」と手を挙げないようになってきます。わかっていないということを、手を挙げないことで明確に表明してくれるようになるのです。

子どもたちがわかっていないということを表明すれば、当然教師はわかるような手立てを講ずる責任が生じます。これは教師にとって、とても厳しいことです。授業が予定通り進まないかもしれません。
だから、子どもの「わからない」「納得できない」を無視して進めるのか、そうではなく立ち止まって受け止めるのか、どちらを選ぶのかは大きな違いがあります。教師にとって厳しくともしっかり受け止め、全員がわかる授業を目指してほしいと思います。

算数・数学で大切にしたい問いかけ

算数・数学では数や図形のいろいろな性質を考え、見つけます。その時に大切にしてほしい問いかけが、「いつも」「どれでも」「たまたま」「・・・だけ」「他にはない」「これで全部」などです。

子どもが見つけた性質がたまたまなのか、常に成り立つことなのかは大きな違いがあります。いつも成り立つこと共通なことを見つけることが算数・数学では大切です。そのことを意識させる問いかけが、「いつも」「どれでも」「たまたま」です。

「平行四辺形でどんなことに気づいた」
「向かい合う角が等しい」
「それっていつも言える?」
・・・

「連続した数を2乗したとき、1つとばしの差はどうなる」
「8の倍数だ」
「どれでも成り立つ?」
「ダメだ」
「じゃあ、たまたま?」
・・・
「奇数のときは8の倍数になる」
「いつでも言える?」
・・・

たまたま成り立つような時でも、そこからうまい条件を見つけることができれば、いつも成り立つ性質を見つけたことになります。

逆に同じことが他でも言えるのか、他に成り立つものがあるかも大切なことです。そのことを意識させる問いかけが、「・・・だけ」「他にはない」「これで全部」です。

「四角形をどうやって分けた」
「対角線の長さで分けた」
「それってどういうこと」
「対角線の長さが同じものは正方形と長方形で、他のは違う」
「なるほど、対角線の長さが同じもので分けたんだ。対角線の長さが同じものはこれで全部?」
・・・
「あっ、あった」

この例のような、対角線の長さに注目する視点はとてもよいものです。しかし、正方形や長方形、平行四辺形などの辺に注目した分類とは整合性が取れません。こういったことに気づかせる問いかけです。

数学的には「いつも」は十分条件を、「他にない」は必要条件を意識させる問いかけです。いつも成り立ち、その他に成り立つものがなければ、必要十分条件、同値であるということです。

ふだんの授業で常にこのような問いかけがされていることで、子どもたちは自分自身で問いかけるようになり、数学的な視点が身につきます。意識してこれらの問いかけをするようにしてほしいと思います。

国語の授業で大切にしたい問いかけ

国語の授業では明確な答えがないと言われることが多いようです。しかし、子どもたちが勝手に意見を言って、「どれもいいね」で終わっては学びになりません。だから難しいとも言われ、だから面白いとも言われます。国語での問いかけについて考えたいと思います。

国語の授業で考えるよりどころは素材となる本文です。本文に書かれていること正しく読み取り、それをもとに、小説や物語では「気持ち」や「心情」を、評論や説明文では筆者の「意見」や「主張」を考えます。したがって、子どもの考えに対して、常に根拠となる本文の記述を問いかけることが大切になります。「それはどこに書いてある」「本文のどこからそう考えた」と「どこ」で聞くのです。

本文を根拠にするという視点でよくつかわれる指示が、「・・・が書かれているところに線を引きなさい」です。線を引いたところを共有して、そこから、心情や主張を考えるのです。こうすることで、「どこ」の対象を明確にできます。

では、子どもの考えを聞き、どこを根拠にしたかを発表させたあと、どのようにすれば考えが深まり、答が明確になっていくのでしょうか。
根拠とした文が重要な文だと考えるのであれば、その文をもとに考えを深め、広げるとよいでしょう。「この文をもとに考えた人、意見を聞かせて」、「この文からどんなことがわかるか、他の人の考えを聞かせて」と文をもとにつなげます。
発表された考えがねらいにつながると思うのであれば、その考えをもとに、深め、広げるとよいでしょう。「同じように考えた人、どこでそう思ったか聞かせて」と考えをもとにつなげます。どの文が重要なのか、どのような子どもの言葉が出てくればねらいにつながっていくのか、教材研究をしっかりしておく必要があります。
こうしていくことで、本文を根拠に考えを深めていけるので、意見がかみ合い明確になっていきます。

しかし、本文に直接根拠となる記述がないことを問う場合は難しくなります。
たとえば、主人公の気持ちを考えさせたいが、本文に主人公のことが書かれていないような場合です。授業名人の野口芳宏先生は、「書いてあることから書かれていないことを合理的に推論する」とおっしゃっています。
「何があった」「だれがどんなことをした」と書かれている事実をとりあげ、そこを根拠に、「その行動はどういうことだろう」「じゃあ、どんな気持になるだろう」と迫っていくとよいと思います。

ときにあいまいな結論になりやすい国語の授業ですが、常に根拠を本文に求め、そこを起点して話し合い、聞き合うことを大切にして、子どもたちにとって、合理的で明解な結論に達することを目指してください。

理科(実験)で大切にしたい問いかけ

理科の実験の授業を見ていて、何のために実験をしているか子どもが意識せずに、ただ指示された通りに作業をしてワークシートの穴を埋めているように感じることがよくあります。

理科は疑問や仮説を実験によって解決、検証します。疑問や仮説がないまま指示されたとおりに実験をして、「気づいたことは何」「どんなことが言える」と問われても、明確な視点で答えることはなかなかできません。
まず、子どもに疑問や仮説を持たせる問いかけが必要です。
「どうなると思う」「どうしてそう思う」と予想をさせることから始めることが大切です。子どもの意見が分かれれば、それだけで実験に取り組む意欲が高まります。
その上で、どんな実験をすればいいか考えさせることで、科学的な思考が身についていきます。
また、一部の子どもだけが気づいたことがあれば、全員が追試できるような時間を取る、時間がないようであれば教師が見せることをしてほしいと思います。実際に体験する、見ることで初めて納得できるからです。

たとえば、空気鉄砲の実験であれば、
「押し棒を押すとどうなると思う」と問いかける。
子どもが「前玉が飛ぶ」と答えれば、「どうしてそう思う」と続けて聞く。
子どもが理由を答えたら、どうすれば確かめられるかを続けて問う。
答えられなければ、理由を考えながら実験するように指示する。
出てきた疑問や仮説を整理しておく。
途中で、実験を止め、飛んだかどうかなどの疑問や仮説がどうであったか確認する。
ここで、子どもから強く押すと勢いよく飛んだといった気づきが出れば、まわりに確認し、気づかなかった子どもには次の実験で確認しようという気持ちにさせる。
「強く押すと勢いよく飛ぶことを確かめたいけど、どうすればいい」と子ども問いかける。
また、理由についても子どもの考えを聞く。
いくつかの意見が出れば、どうすれば確かめられるか問いかける。
ここで出た新たな疑問や仮説を持って、再度実験をする。
・・・

時間の関係でいつもこのようにできるわけではありません。また、子どもたちの発達段階によって進め方を変える必要もあります。しかし、実験のたびにこのような問いかけをしていくことで、子どもたちの視点が育っていきます。それに伴い子どもたちからいろいろな気づきや考えが発表されるようになってきます。子どもの言葉をつなぎ、深めることでより科学的な視点で実験に取り組むようになっていきます。
疑問や仮説を持たせる問いかけによって意識的に実験に取り組ませることで、科学的な思考力を育ててほしいと思います。

授業者の意図とずれてしまった授業

昨日は中学校で数学の授業アドバイスをおこなってきました。

1年生のおおぎ形の弧の長さ、面積の学習でした。授業者が担任をしている学級だったこともあり、子どもたちとの関係はとてもよいと感じました。教師はノートを取らずに話を聞くように指示しましたが、どの子も集中して話を聞いていました。

おおぎ形が円の何分の1になっているか、おおぎ形に切った紙を使って説明していきます。生徒を意図的に指名し、「なるほどと思った人」と他の生徒に同意を求めます。なかなかよい進め方に見えるのですが、同意を求めたあと、「そうだね」とすぐに教師が説明をしてしまいます。本当に理解しているのか、挙手した子どもに確認することはしません。多くの子どもがなるほどと手を挙げてくれているのですが、手が挙がらない子もいます。彼らが納得できるだけの時間をとらずに進んでしまっているのです。
いくつかの例を用意して、中心角から円の何倍になるかを求めることを説明します。授業者は何倍になるかを考えることをポイントとして進めていったつもりなのですが、実際には120÷360=1/3といった計算ばかりが板書され、強調されていました。
半径r、中心角a°のおおぎ形の弧の長さl=2πr×a/360、面積S=πr2×a/360と公式を提示した後、中心角135°のおおぎ形を例題としました。授業者は円の何分の1と割り切れないものも公式に当てはめれば解けることを意識して出題したのでしょう。しかし、この間30分くらい経過しているのですが、子どもたちは教師の話を聞いて答えるだけで、1度も自分の手を動かして考えていません。今までの説明はすべて円を何等分かしたものばかりです。そこに、いきなり135÷360とうまく真分数にならないものがでてきたため、どうしていいか困惑する子どもが出てきました。
図で、円はおおぎ形の何枚分、おおぎ形は円の何分の1と考えたことを、有理数(分数)倍に拡張することは、たとえ式としては同じでも子どもにはギャップがあるのです。
この部分をもっと時間をかけて子どもたちとやり取りしながら、公式を作るべきだったのです。結局、公式に当てはめて答はこうなると計算を板書して、それをノートに写させました。公式を使えば答が出るというだけで、子どもが感じていたギャップを解消することはしませんでした。

授業者は最後に、この公式は覚えなくても何倍になるか考えれば作れると口頭で説明しました。しかし、板書をみてもおおぎ形が円の何倍になっているかを考えればいいとわかるような記述は何も残っていません。教師が押さえようと意識していた円の何倍になるかをもとに考えるのではなく、公式を使って答えを出せばよいという授業になってしまったのです。授業者の意図と実際の授業は大きくずれてしまいました。

なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。子どもたちとやり取りし、活動をさせながら授業を進めれば時間がかる。問題を解けるようにしなければならないので、演習の時間を確保しなければならない。そんな気持ちが、子どもに活動させるのではなく、教師が説明する授業につながり、子どもが理解しづらい部分を公式に当てはめることで逃げてしまうことになったのです。
授業者は意識して逃げていたわけではないと思います。だからこそ、この事実に気づいてほしいと思いました。今回、授業者には厳しい指摘をたくさんしました。子どもを受容することができる、コミュニケーションの基本がきちんとできている先生だからこそ、正面から教材と向き合って授業をつくっていくことで大きく飛躍すると思います。どのような変化を見せてくれるか楽しみにしています。

社会(歴史分野)で大切にしたい問いかけ

社会科では資料をもとに気づいたことを問いかけることがよくあります。ただ、子どもたちの資料を見る視点、考える視点が育っていないと、「気づいたこと」と問うだけでは、どこを見ればよいか、どうすれば気づけるかわからなくて困ってしまうことが多いように思います。

歴史分野では、歴史的な事件や事実をつながりとしてとらえるために、ビフォアとアフターを比較するという視点を与えるとよいでしょう。ある事件、事実を境にして何が変わったのか、変わらなかったかを問うのです。原因と結果といいかえてもよいと思います。その事件、事実を挟んで比較できる資料をもとに考えさせる。原因となる事実を調べさせる。こうすることで歴史を線で結ぶことができます。

たとえば、「長篠の戦い」のようすを描いた屏風図を資料として考えさせるのであれば、これ以前の戦いと比べて、何が違う、気づいたことはないと問いかけると、視点が明確になります。それ以前の戦いのようすを描いた資料も準備しておけばよりたくさんのことに気づくことができるはずです。また、戦いの結果、何が変わったかを問いかけることで、武器の重要性、それに伴う資金の問題など戦いを左右する要素に気づくこともできるでしょう。

平安時代の「農民の逃亡」であれば、なぜ逃げた、逃げた人はどうなったと問うことで、租庸調という税の負担がどのようなものであったか、また、口分田に始まり、三世一身の法、墾田永年私財法を経て荘園の発達へ続く流れやそのつながりを整理することができます。

歴史分野の教材研究では、教科書の内容一つひとつをどう説明するかではなく、どこを中心に展開するかを考えてほしいと思います。どこを起点として歴史が大きく動いたか、変化したか、そういう視点で教材をとらえ、その前後を比較させることが、子どもたちが考える授業につながります。歴史の変化をとらえるという視点を育てることで、子どもたちは多くのことに気づけるようになると思います。

算数で大切にしたい問いかけ

どの教科にも単元にかかわらず、共通の大切にしたい視点があります。今回は算数について考えてみます。

算数ではいろいろな計算が出てきますが、共通して押さえておきたいのが、「何」が「いくつ」あるかという問いかけです。
たとえば、位取り記数法では、32は10が3つあり、(1が)2あると考えます。小数も0.4は0.1が4つあると考えます。
同様に分数も2/3は1/3が2つあると考えます。比も基準となるものがいくつあるかが基本です。
面積や体積も単位量がいくつあるかです。
このことから、かけ算を足し算の繰り返しではなく、「1つあたりのいくつ分」と定義するようになったのです。

このことを意識すると、子どもへの問いかけも非常に明解になります。
たとえば、0.3×4=0.12としてしまう子どもがいたとします。3×4を計算して、小数点をつけると考えたのです。意味を考えずに手順を覚えようとする子どもがよくやる間違いです。このとき、「0.3は何がいくつ」「3×4=12で何が12」と問いかけることで0.1が12と気づき、間違いが正されます。

この視点で教科書を眺めてみると、基本的な考え方がこの問いかけで明確になることに気づくと思います。算数の教材研究をするときに「何」が「いくつ」あるという問いかけを意識していただけたらと思います。

数学の授業の視点を考える

先日、来年行われる算数・数学のセミナーの運営委員会に参加しました。私は、中学校のグループで当日の実習で扱う題材について担当の先生方とお話をさせていただきました。担当の先生方はどなたも力のある方ばかりです。にもかかわらず、当日参加される先生方にとって少しでもよい内容の実習ができるように、勉強をしておこうと集まっているのです。手弁当の会にもかかわらずこの真摯な姿勢には本当に頭が下がります。

算数・数学の授業を見せていただいて最近強く感じるのが、問題を解くこと、解けるようにすることばかりが意識され、解き方の手順を教えることが授業の中心となっていることです。なぜこの手順で解けるのか、この手順が最良なのかといったことを考えることがされていません。特に中学校では、解き方を習っていない問題に出会ったときに解ける力をつけているのか疑問に思うことがよくあります。数学が知識だけを問う教科になってしまっているのです。

この日は、平方根の計算に関して、「√の中の数をできるだけ小さくなるように、有理数を外に出して積の形にして簡単にする」ことは、何の意味があるのかといったことを考えること。また、√×√の形の計算は、このことを使って有理数を外に出してから掛け算して、再度有理数を外に出すように教えますが、手順としては掛け算をしてから有理数を外に出す方が簡単です。なのに、先に有理数を外に出すのはなぜかと理由を考えること。こういうことが大切であることを話させていただきました。そうすることが数学的な考え方を身につけることにつながっていきます。

今回、簡単にするということが、数学のあらゆる場面で求められる考え方であり、その意味を各場面で意識することで問題解決の根本を支える力がつくことを、平方根から出発して、あらためて考えていただきました。教材を点で見るのではなく、数学という学問の底に共通して流れるものを意識して見ることの大切さを当日伝えていただければと思います。

新任の授業アドバイス

昨日は中学校で社会科の新任の授業アドバイスをおこなってきました。

日本の農業の特色を考える授業でした。
「三大穀物はどこで作られる」という発問で子どもにワークシートを埋めさせましたが、「どこ」は何を意味しているのか明確にはされていません。意図的なのかどうかが興味のあるところでした。ワークシートの資料の国別のシェアを見て、上位の国名を書く子と教科書を見てアジアなどの地域名を書く子に分かれました。資料集を見ている子はほとんどいませんでした。子どもの発表は当然その2つに分かれます。授業者は出てきた地域名と国名を板書します。「米」に対するアジアという発言に対しては「もう少し詳しく」とすぐに問いかけますが、国名で書いた子どもは板書を写すことに専念し、この発問に対しては反応しません。子どもは単に作業をするだけで深く考えようとしていません。それより、板書をもとにワークシートの穴を埋めることに専念していたのでした。
結局、資料や教科書から抜き出した答を発表し、その確認をするだけで終わってしまいました。「どこ」に対しては「暑いところ」や「米を食べるところ」といった答だってあるはずですが、そういう広がりは一切ありませんでした。資料から読み取ったことを元に考えるということがないのです。とりあえず答を見つければそれでよいという姿勢です。
ここでは世界の農業の特色を押さえることで、日本の農業の特色を比較して考えさせることにつなげることがねらいですが、結局、規模や消費地と産地の関係といったことは全く何も押さえられていませんでした。この後の発問も互いにつながらない、細切れの知識を与える授業になっていました。

授業後、どんな社会科の授業を目指しているのかとたずねたところ、「社会生活のために必要なことを考え身につける」といった答が返ってきました。なかなかよい視点です。しかし、実際の授業は、教科書や指導書に書かれたこと、試験に出すことを提示、説明するだけに追われています。子どもに話し合いをさせても、その考えを聞いたり、互いにかかわり高めあうための時間をとったり働きかけはせずに、教師が答えを言って終わっています。考えることはほとんどない授業になっているのです。自分の授業が目指しているものと程遠いことは本人も感じています。しかし、そのギャップの大きさにどうすればいいかがわからず、流されている状態でした。
一度の授業で急に考えることができるようになるわけではありません。子どもたちをどのように育てていくのか、目指すところと現実の間のステップを細かく意識することが大切です。資料の探し方や見方を身につける、資料をもとに考えを深める、・・・。一つひとつ時間をかけて育てていくのです。そのためには授業と授業がつながっていく必要があります。今日学んだことを次の授業に活かす。こういう育てるという発想がないことが問題だったのです。
また、発問も教師が求める答えが出やすいように考えています。そうではなく、子どもが考えるにはどう問いかければいいのか考えることが大切です。
たとえば「レタスの産地ごとの出荷時期の違い」を問うのではなく、「君たちがレタス農家だったらいつ出荷できるようにつくる?」とするのです。
最終的に同じところにたどり着くかもしれませんが、子どもたちが考える内容は明らかに違います。自分で考えたことが正しいかどうかを資料で確認しようとすれば、その見方はただ答を探すのとは明らかに違います。こういう経験を積むことで考える力がついてくるのです。

まだ、教壇に立って1年にも満たない若者です。これを機会に自分が目指している授業を思い出し、少しずつそのギャップを埋めようしてくれればと思います。経験が少ないからこそ変わることも容易なはずです。これからの成長がとても楽しみです。

多忙感の解消について講演

校長会で教師の多忙感の解消について講演する機会をいただきました。私自身このテーマでまとまったお話をしたことがなかったので、講演に向けていろいろと考え整理することで大変勉強になりました。

多忙ではなく、多忙感がポイントです。多忙自体が単純に問題ではないのです。過度の多忙は問題ですが、なすべき仕事で忙しいということは充実した時間です。しかし、意味がないと感じる仕事で忙しければ、それは多忙感につながっていきます。問題は、やっている仕事に価値を見いだせるかどうかなのです。したがって、多忙感の解消には一つひとつの仕事の価値を明確にし、仕事の結果がきちんと評価されることがとても大切になります。自分の仕事に意味を見いだせれば、多忙感は充実感に変わっていくのです。

気をつけなければならないのは、仕事を命じた側が考える価値と命じられた側が感じる価値がずれることです。命じた側は価値があると思っている仕事でも命じられた側がこんなことをやっても意味がないと考えれば、徒労感、多忙感につながっていきます。仕事の意味、価値をきちんと共有しておくことが大切です。
また、仕事の評価を具体的にすることも大切です。「ありがとう」「お疲れさま」とただ言うだけでなく、具体的にどこがどのようによかったと評価することで、仕事を与えられた側は自己有用感を持てます。

もう一つ気をつけたいのが、突発事項に対応する組織の体制や雰囲気です。予定外の仕事が入ってきたとき担当者に対するサポートがあるかどうかが多忙感に大きく影響します。
たとえば、生活指導の問題が発生した時、担当者はその対応に追われます。このとき、直接の担当者でない人も一緒に事にあたったり、サポートしたりする雰囲気や体制があれば、担当者は多忙ではあるが精神的には救われます。逆に、これは自分の仕事ではないとまわりが知らん顔をすれば、自分ばかりがなぜと多忙感が増します。組織として助け合えるような仕組みを作る、お互いが助け合う雰囲気を作る、やり方はいろいろあると思いますが、担当者を孤独にしないことが大切です。

私自身、こうすれば多忙感を解消できるという明確な答を持っている訳ではありません。校長のお役に立てる話ができたかどうかはわかりませんが、学校経営を考える何かのヒントになれば幸いです。私自身が勉強するよい機会をいただけたことに感謝です。

研究会で刺激を受ける

愛される学校づくり研究会に参加しました。今回は、後藤教育研究所の後藤真一さんの教師の気づきと共有のキーワードについての話と会員による学校の見える化についての提案と討議でした。

後藤さんは教師へのビアリングや評価の記述などの言葉を統計的に分析することで、教師の教育活動に関する知見を得ようと活動されています。今回は子どもたちのようすをどのようにして気づいているかとその共有について、2つの中学校の教師へのヒアリングの分析をもとに話していただきました。
客観的なデータをもとに考えるというのは学問の基本です。教育の分野ではそれがなかなか難しく、どうしても主観的、感覚的な話になりがちです。私に欠けているところでもあります。教師の発する言葉を分析して考えるということは参加した先生方にもとても新鮮なものであったと思います。
2校のデータには明らかに異なった傾向がありました。その理由は学校の置かれている状況にあるように思われます。よく言われる、学校が苦しいときほど共有しようとする意識が高まることがデータにも現れているように感じました。ふだん持っていない視点に出会い、とてもよい刺激をいただきました。

この研究会のテーマでもある学校の見える化についての皆さんの多彩なレポートを見て、実にいろいろなアプローチがあることにあらためて気づかされました。グループで討議したあとは、会長からの提案で急遽パネルディスカッションをおこなうことになりました。役者ぞろいの会ですのでとても楽しいものになりました。
そこでは、学校の見える化をどう捉えるかが話題になりました。ただ何かを可視化するというのではなく、見える化することで学校がよくなることにつながることが大切だと私は思います。学校の何が改善されるかということを念頭に置き、そのことをチェックして初めて見えるかが意味を持つのだと思います。
また、見える化にかかるコストのことも話題になりました。コストに関連してコストの負担者と受益者の一致、不一致も問題であると考えました。見える化の担当者がその価値をきちんと理解していなかったり、また担当者として評価されなかったりすると見える化へのエネルギーは下がってしまうと思います。見える化を継続的に進めるための大切な要素ではないでしょうか。

この日も、たくさんの刺激を受け、今まで気づかなかったことについて考えるきっかけをいただきました。後藤さん、研究会の会員のみなさんありがとうございました。

研修での個の学びが学校に広がる

中堅の先生を対象にした、市の授業力アップの研修会でコーディネータを務めました。年3回の最終回です。夏におこなった模擬授業による小学校2年生国語の指導案の検討(模擬授業から学ぶ参照)を受けての授業研究です。

模擬授業のあと授業者はずいぶん悩んだようでしたが、ふだんやっている授業の流れで進めることにしたようでした。子どもたちはとても落ち着いていて、友だちの言葉を聞こうとする姿勢ができていました。ほとんどの子どもが発表者の方に体を向けて聞いています。
教科書の本文が抜き出されたワークシートに、わかったこと、疑問、思ったこと、登場人物の気持ちをその箇所に線を引いて書きだす作業をしましたが、素早く鉛筆を持って真剣に取り組んでいました。日ごろから鍛えられているのでしょう、どの子もしっかりと書いていました。授業者が、今日はみんなが書いてくれた疑問をもとに話し合うことを告げた時、子どもたちはとても面白い反応をしてくれました。「えー」「書いてない」と何人もの子どもがつぶやいたのです。この場面に限らずこの学級の子どもたちは、「ああ」「そういうこと」といった同意や「えー」「違う」といった否定やブーイングといろいろな反応をしてくれます。否定も相手を攻撃するようなものではないので、それほど気にはなりません。なにより安心して反応できるという雰囲気が学級にあります。それは授業者が基本的に子どもたちのつぶやきをよく拾っていること、肯定的にとらえていることの表れだと思います。話し合いの進め方にブーイングが出たのは、実は子どもたちが積極的に授業に参加している証です。挙手して発言したいからこそ、疑問を書いていない子どもは参加できないと訴えたのです。
授業は子どもたちの疑問が教師のねらっているところとずれていたためなかなか焦点化できませんでした。子どもたちの言葉を活かそうとしていたのですが、最後は「先生の疑問」を出して、焦点化することになってしまいました。その前後から挙手・発言する子どもが固定されてきて、多くの子どもたちの集中力が落ちてしまいました。
子どもたちのブーイングもそうですが、どうも意見のある子どもだけが活躍する傾向があることに原因がありそうです。友だちの発言を聞いてそれをもとに考えたことを発表させようとはするのですが、すぐに挙手させればその時点で考えを持っていた子どもしか参加できません。考える時間を少し与えるだけで大きく変わっていくはずです。「ちょっと考えてみて」「まわりの子と話してみて」といった時間をつくるとよいでしょう。
また、今回の授業では「疑問」とすぐに発言を制限するのではなく、どこに線を引いたかまず挙手で確認して、それから進め方を決めるという考え方もあります。たくさん線を引かれた部分について意見を聞く、逆にほとんど線を引いていないところをとりあげる。子どもたちの実態をある程度把握することで流れをコントロールできます。
間違った読み取りをした子どもに対して、修正する意見を発表させる場面がありました。そのとき、ほとんどの子どもがハンドサインで賛成を表明しました。間違った子どもはしばらく手が挙がりませんでしが、大勢が決した後、ようやく賛成のサインを弱々しく挙げました。その後しばらくは、その子どもの顔は上がりませんでした。こういった場面では、ハンドサインは圧力につながることがあります。すぐにハンドサインを使うのではなく、間違えた子どもに今の意見を聞いてどう思うかたずねてあげることが必要です。本人が納得すれば、人の意見を聞いて考えを変えたことをほめる、いい意見だと修正した子どもをほめる。こうすることで間違えることへの抵抗感も薄くなり、子どもたちの人間関係もよくなります。
子どもたちが真剣に授業に取り組んでくれるので、たくさんのことに気づくことができました。

検討会では、参加者のレベルの高さが印象に残りました。どのグループでの話し合いも授業のポイントがよく押さえられていました。この研修は何年も続いています。今まで参加された先生方がきちんと学校に戻って研修で学んだことを伝え合っているのでしょう。授業を見る視点や検討会での発言が年々レベルアップしているように感じます。研修が個人にとどまらず学校や市で共有されていることに感心させられます。この日の学びも参加された先生方の学校にきっと広がっていくことと思います。
個の学びが全体に広がり、それがまた個に還元されていく。市としての研修の一つのあり方として参考になるのではないでしょうか。手ごたえのある研修で、とても充実した時間を過ごすことができました。先生方ありがとうございました。

若手の急激な成長に驚く

昨日は小学校で、若手への授業アドバイスと授業研究のコーディネートをしてきました。

1年生の音楽の授業では、子どもたちが指示に対して素早く動けるようになっていることを感じました。後で聞いてみると、前回のアドバイスをもとに後片付けなどを指示した時に、ストップウォッチで時間を測り、子どもたちの進歩をほめるようにしたようです。素直に挑戦する姿勢はとても素晴らしいと思います。子どもたちの動きがよくなることで、先生にも余裕も出てきたようで、授業中の笑顔もずいぶん増えてきたようです。教師がよい笑顔を見せていると子どももよい表情を見せてくれます。先生と一緒に全員でリズムを取る場面では、みんなとてもよい表情で参加していました。

3年生の担任の授業では、教室で子どもたちの姿を見た瞬間に、以前との雰囲気の違いを強く感じました。もともと子どもたちとの関係はよかったのですが、集中度が違うのです。指示に対する動きもよくなっています。一つひとつの場面での精度があがっている感じです。何が違うのかを観察してみると、指示を出した後や子どもの活動場面などで、先生が一人ひとりをきちんと見ているのです。そのため、全員がそろうまで待てたり、できていない子どもへの指導が行き届いているのです。
また、黒板に答を書いた子どもが後から気づいて直そうとした時に、他の子どもがいまさら直すのはダメだと非難しました。先生は、非難した子を叱ったり、直していいよと言ったりせずに、間違いに気づいて直すのはとてもいいことですと評価しました。このように、よい行動を価値づけすることで、子どもたちの中によい価値観が育っていきます。
この先生の急激な成長に驚きました。聞けば、TTで入っている教頭が、子どもたち一人ひとりを見ることの大切さを言い続けていたそうです。こうした働きかけがとても大切であることを実感しました。

4年生の算数の授業では、子どもたちの素直な反応が印象的でした。わかるときは元気に手を挙げてくれますし、わからないときは手が挙がりません。当り前のことかもしれませんが、子どもたちが素直に反応できるのは、教師との人間関係ができている証拠です。手が挙がらないことで、説明がきちんとわかっていない、混乱しているといったことがよくわかります。そのことが結果として全員がわかる授業へとつながっていきます。
授業者は教科書をしっかり読みこんでのぞんでいたのですが、もう1歩及ばなかったようです。小数×整数の筆算の手順で、最後に「小数点をうつ」という記述があります。授業者はこの説明で、小数点を下におろすと言いました。確かにそれでよさそうなのですが、このあと習う小数×小数では、これは通用しません。そのことを考えると、ここは「小数点はどこにうてばいい」とその理由を考えさせることが大切になります。別の考え方が教科書に載っているのも、そのためです。過去の学習内容と、この後の学習内容とを合わせて考えることで、教科書はよりよく理解できるのです。このことを伝えました。

5年生の担任の先生は、中学校から小学校に異動して、その差をうまく自分の中で解消できずに悩んでいました。小学校から中学校への異動でも似たようなことがよくありますが、ここを乗り切ることが大きな成長につながります。産みの苦しみのようなものです。
この先生とはじっくり話を聞きながら、自分のスタイルを捨てるのではなく、欠けているものを足すことをヒントとして示しました。うまくいかないと余裕がなくなり笑顔も減っていきます。一度にいろいろなことをしようとせずに、気がついたときに「笑顔をつくる」ことを意識するくらいでよいとアドバイスをしました。

6年生の国語の授業は、以前と比べて子どもの集中度がずいぶん上がっていました。先生の指示も明確で、子どもたちを受容することもできています。若干集中力がとぎれてしまう子に対して、どのように接していくかが今後の課題です。子どもの状態がよくなったとき、この程度でよいと思うのか、何とか全員と思うのかが分かれ道です。ここでもうひと踏ん張りできれば、全員が集中した授業ができるようになります。ここまで頑張ってきてくれたので、きっと100%を目指して工夫をしてくれることと思います。

授業研究は3年生の理科の実験でした。この授業者も若い先生ですが、子どもたちの聞く姿勢がとてもよいのが印象的でした。
実験の予想を発表する場面で、友だちの意見に対してほとんどの子どもが賛成のハンドサインを出します。しかし授業者はそこで、先ほどの意見の内容を確認しました。挙手したのは一人だけでした。挙手した子にもう一度発表させることで、こんどは本当に集中して聞いていました。ハンドサインを形式的にせずに、きちんと聞くことを求め、聞いていたことを評価することで、聞く姿勢がつくられてきているのだと感じました。
また、理科の実験では、実験方法の説明が一方的でくどくなり、時間が取られてしまうことがよくあります。授業者は実物による簡単な説明の後、「練習しよう」と実験ができる状態に机を動かし、子どもを活動させることで受け身の時間を減らしました。そのあと、全体でポイントを確認しました。先生がくどく説明するのではなく、子どもに言わせることで、きちんと覚えていなかった子どもも再確認できます。実験はどの班も戸惑うことなくとてもスムーズに進みました。

検討会では、担任を縦割りにして日ごろ関係が薄い先生同士がグループになって話し合えるようにお願いしました。ベテランと若手が顔を寄せ合い、とてもよい雰囲気で進みました。やはり、多くのグループで子どもたちの聞く姿勢のよさや、指示がきちんと通っていることが話題となったようです。そこで、子どもたちのようすと教師のかかわりについて、私の方から少しまとめてお話をさせていただきました。

この学校への訪問は5回目で、授業を見るのは4回目です。正直、急激に授業が変わることは期待していませんでした。しかし、この1月で若い先生方の授業と子どもたちのようすが本当によい方向に変わっていました。一人ひとりが授業に真剣に向き合い、できることを一つひとつ積み重ねてきたのでしょう。校長をはじめとする管理職や主任のバックアップもあったに違いありません。若い教師が伸びる雰囲気ができつつあります。若い教師が伸びてくることはベテランや中堅の先生方にとってもよい刺激です。授業研究を通じてこのよい流れが広がっていくことを期待しています。
3学期に後2回訪問する予定です。若手だけでなく、ベテランや中堅にどんな変化が起きるのか楽しみです。
若い教師の成長にたくさんの元気をいただいた1日でした。

若い先生が自分のスタイルを見失わないために

授業アドバイスをしていて、自分のスタイルがわからなくなっている若い先生に出会うことがあります。
学級経営がうまくいかない、子どもたちが言うことを聞いてくれない・・・。悩んで、先輩や他の先生のやり方をまねしているのですが、自分がやってもうまくいかない、しっくりこない。なんか違うと思いながらもそのやり方を続けているのです。

子どもと笑顔で接したい、でもなかなか指示が通らない。先輩のように厳しい表情で指示をしても、なかなかうまくいかない。

やさしく話をしても、なかなかきちんと聞いてくれない。仕方がないのでちゃんと聞くように注意をして、聞いていない子は叱るのだが、なかなか改善されない。

こんな話をよく聞きます。
教師にも一人ひとり個性があります。自分の個性に合わないやり方をしてもうまくはいきません。無理して自分に合わないやり方をしているうちに、自分のよさやスタイルがわからなくなってしまっているのです。
こんなとき、私は、その先生のよさを活かした指導は何かを一緒に考えるようにしています。たとえば、笑顔が素敵な先生ならば、厳しい表情をつくるのではなく、その笑顔を活かすことを考えます。
できなかったことを叱るのではなく、できたときに最高の笑顔でほめる。できない子どもを叱るのではなく、できている子をほめて、できていない子も素敵な笑顔でほめられたいと思わせる。そんな発想です。

うまくいかないときは自分自身を否定的にとらえてしまい、自分のスタイルと真逆のことに走りがちです。そうではなく自分のスタイルに欠けていること、活かす方法を見つけることが大切です。これは自分一人ではなかなかできないことです。ところが、管理職や先輩が、授業や学級経営のうまくいっていないことを指摘するだけだったり、こうすればいいと自分のやり方を押し付けてしまったりして、悩んでいる先生を追い詰め、苦しめていることがあります。そうではなく、相手に寄り添い、自分の成功体験はいったん封印して、その先生にあったやり方を一緒に考えることが大切です。

若い先生が自分のスタイルを確立するのには時間がかかります。一人ひとりのよいところを見つけて、それを伸ばすようにまわりが支えてあげてほしいと思います。特に管理職や主任の方にはそのことをお願いしたいと思います。

指示の内容を形に変える

今から説明しようとしているのに、子どもの落ち着きがない、集中力をなくしている。このようなとき、「話を聞いて」「注目して」といった指示がよく出されます。ところが子どもたちは、口は閉じて静かにはなるのですが、下を向いたりして教師に注目しない。それなのに、教師は静かになったことで指示が通ったような気がして、話し始める。こんな場面によく出会います。このようなことが続くと、「話を聞く」「注目する」といったことが「口を閉じればいい」にすり替わってしまいます。教師が指示したことと子どもの姿がずれているのにそのままにしておけば、指示の意味が変わってしまいます。これでは、指示が通らなくなります。どのようにすればいいのでしょうか。

指示の内容を、具体的な子どもたちの姿という形に変えることが大切です。
たとえば、「話を聞いて」といっても、教師から見れば本当に聞いているのかは外からはわかりません。話を聞いているとは、外から見て具体的にどういう姿かを教師が意識する必要があります。

「口を閉じて、姿勢を正そう」
「話を聞くときは、話している人の顔を見よう」
「聞く姿勢ができたね」

このように指示すれば、「話を聞いて」に対してどうすればいいか子どもにわかりますし、教師も子どもの様子から指示が通っていることがわかります。学級全体の姿勢がそろうことで、聞いていない、集中力をなくしている子どもは目立つので、本当に聞いているかどうかもよくわかるようになります。
もちろん、形だけでちゃんと聞いていないこともありますから、話した内容の確認をすることも必要です。

友だちの音読を聞くときであれば、読んでいるところを指でなぞる、考えながら黙読するのではあれば、鉛筆を持って大切だと思ったところに線を引くなど、指示が通っているかどうかが外からはわかりにくいことは、それを形に変えることを意識してほしいと思います。

「愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」の打ち合わせ

昨日は、来年2月25日(土)に東京品川で開催予定の「愛される学校づくりフォーラム2012 in 東京」の打合せをおこないました。

プログラムの詳細も決まり、年内には申込みも始まる予定です。

午前中は「学校のお荷物を切り札に」と題して、学校ホームページと学校評価について、何と10人のパネラーが意見をたたかわせます。ここで重要になるのは、パネラーの座席です。会場に2段並ぶどこにだれを置くかでおもしろさは変わってきます。どんな進め方をするか司会者の思惑も影響します。誰と誰が対立するかなどと予想しながら司会者、スタッフと相談しました。完成した原案を見ているだけで、私は「おもしろそう」とワクワクしますが、司会者はどう取りまわすか、プレッシャーがかかっていることと思います。スクリーンに何を写すかなど仕込みについてもかなり詰めることができました。

午後は「授業名人(野口芳宏、有田和正、志水廣)が語る!斬る!ICT活用」と題して、ベテラン・中堅のアドバイザーのバックアップのもと、若手がICTを活用して挑戦した名人の授業実践の追試を本人に評価してもらいます。この日記でも取り上げていますが、算数、社会の授業は終わり、国語も着々と準備が進行中です。若手がどれだけ名人に近づけるか、ICTはその武器となるのか、名人はICTをどう評価するのか。見どころはたくさんあります。
そして、最後に名人とこの企画の仕掛け人たちとのパネルディスカッションです。コーディネータは玉川大学教職大学院教授の堀田龍也先生。このセッションは、スタッフは余計なことを考えず堀田先生に完全にお任せ。どう料理されるかを楽しみにしましょう。

パンフレットの企画もほぼ固まり、あとはいつも素敵なレイアウト見せてくれるYさんにバトンタッチ。年内には愛される学校づくり研究会のホームページで詳細をお知らせできると思います。

興味のある方はちゃんと予定を入れておいてくださいね。

岩下修先生から学ぶ

教師力アップセミナーで立命館小学校の岩下修先生から学ばせていただきました。

岩下先生の模擬授業を通して、音読、合唱、詩の具体的な指導について参加者と一緒に考えることができました。指導方法の独自性よりも、子どものどんな意見でも認め活かそうとする姿勢が岩下先生の授業を支えていると感じました。みんなの意見を聞けて先生もうれしいというメッセージを体全体から発されていました。指導方法以前のこのことが教師にとって大切であるとあらためて実感しました。

また、セミナー終了後、岩下先生から「AさせたいならBと言え」執筆当時のお話をうかがうことができました。自分が学んだこと、気づいたことを書くことで整理し、自分のものにしていったというエピソードに、大いに納得させられました。

明るく、楽しげにお話しする岩下先生からたくさんの元気をいただきました。ありがとうございました。

子どもたちの姿の変化に戸惑う

昨日は中学校で道徳の授業研究への参加と授業アドバイスをおこないました。

午前中は主に若手の先生と一緒に子どもたちの様子を観察しました。定期試験が近いせいか、先生主導で説明をしている授業が目立ちました。その時の子どもたちの様子が、ちょっと気になりました。
友だちの発言を聞かずに板書を写しているが、教師が解説し始めると聞く。それでもまだ写している生徒もいます。また、話を聞いていた生徒も、教師が板書を始めると話を聞かずに写し始めます。話をしながら板書することも問題ですが、それよりも子どもたちが、効率よく結果だけ求めようとする消費者的な行動をとっていることの方が問題です。この学校では、このような傾向はずいぶん減っていたと感じていましたが、今回はかなり目立ったのです。これが試験前の一過性のことなのか、恒常的になってきているのか今後しっかり見ていく必要がありそうです。

一緒に回った先生方からいくつか悩みの相談を受けました。その中に、行事等で一部の生徒が協力しないのだが、なかなかうまく指導できないというものがありました。
話を聞いてみると、ほとんどの子どもは協力的で一生懸命やっています。しかし、教師は100%を望むあまり、できていない子を何とかしようとして、ついつい叱ってしまったり、彼らに訴えかけようとします。どうやらこの先生もそのような対応をしていたようです。ところが、そうすると「悪いのは彼らだ」と他の子どもたちも彼らに悪感情を持ってきます。かえって子ども同士の関係を悪くすることにもなりかねません。子どもたちは教師の難しい顔や怒った顔を見たいとは思いません。できるだけ笑顔で指導できる方法を考えることが大切です。まずは、しっかりできている子どもをほめ、その上でこうなるともっとよくなるという次の目標を与えていきます。その目標達成のためには、一人ひとりがどうすればよいかを考えさせます。子どもには波があります。非協力的な子どもも、時には積極的な姿勢を見せます。その瞬間をとらえ、ほめることで少しずつ変わっていきます。このようなことをアドバイスさせていただきました。

道徳の授業研究は、学級の雰囲気のよさが伝わるものでした。子どもたちは真剣に授業に参加してくれているので、教師側の問題が非常によく見えてきます。この授業では教師が自分の価値観に誘導しようとしすぎてしまい、多くの子どもたちが建前で話をして、自分の問題としてとらえることができませんでした。
検討会では、道徳の授業としてどうあるべきかについて、よい意見が先生方からたくさん出てきました。また、この学校の道徳の指導をされている外部の先生からは、この授業もとに、道徳の授業のポイントを明確にお話しいただけました。多くの学びのあった授業研究でした。
しかし、一点気になることがありました。この学校の最近の授業検討会で子どもの固有名詞が聞かれなくなったことです。一人まったく自分の考えを書いていない子がいました。気づかれている先生もたくさんいたはずです。しかし、検討会では話題になりませんでした。校内をまわっていて、学級の雰囲気は悪くないのですが、今までほとんど目にしなかった授業に参加できない子どもが1人2人と増えてきています。このことと無関係ではないような気がします。
学級の雰囲気がよくても、全員が授業に参加できないことはあります。ここで一人くらいは仕方がないと思うのか、この一人を大切にするのかは大きな分かれ目です。

この学校にかかわって2年半が過ぎきました。これまで来るたびに子どものよい姿をたくさん見せてもらいましたが、転機が来ようとしているのかもしれません。次回訪問時は心して子どもたちの姿を見ようと思います。
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