白黒をつける
授業名人の野口芳宏先生は、「白黒をつける」ということを言われます。「それもいいね」「いろいろな考えがあるね」と曖昧に終わらせるのではなく、「これは間違い。これは正解」とはっきりさせるということです。このことについて考えてみたいと思います。
私は、教師は子どもの発言に対して、「はい、正解」とその場で判断しない方がいいと考えています。それは「正解」をはっきりさせないということではありません。合理的に根拠を持って子ども自身で「白黒をつける」ことが大切だと考えるからです。ですから、子どもたちが間違った結論に達したときは、修正することをしなければなりません。また、正解とすべきことについては、全員が納得しなければいけません。 たとえば国語の授業で、「○○について述べているところに線を引こう」という発問を考えてみましょう。 「・・・です」 「なるほど、同じところに線を引いた人いるかな」 「いるね。引かなかったけど、なるほどこれは○○について述べていると納得した人は線を引いて」 「では、ここに線を引いた人は手を挙げて」 このように展開したとしましょう。ここで、全員が挙手をしたなら問題はありませんが、挙手しない子がいれば対応が必要です。「白黒をはっきりつける」ことが求められます。野口先生であれば、「今の意見に賛成の人は○、反対の人は×をノートに書きなさい」とするところでしょう。反対の子どもに意見を求め、結論を出す必要があります。 「線を引かない人がいるね。どういうことか聞かせてくれる」 と、意見を聞きます。どれくらい時間をかけるかは重要度にもよりますが、かかりすぎるようであれば、教師が根拠を示したうえで正解であることを知らせることも大切です。 「・・・だから、ここは○○について述べている。線を引こう」 「先生は・・・だから、ここは○○について述べていると考えます。どうですか? 反対がないね。ではここに線を引こう」 子どもたちが根拠を持って自分たちで「白黒をつける」ことは大切なことです。しかし、つねに自分たちで「白黒をつける」ことができるわけではありません。うやむやで終わらさずに教師が結論を示すことが時には必要になります。「白黒をつける」べきものは、きちんとつけなければいけません。 問題から授業を考える
全国学力調査の問題が公表されました。問題制作者の意図が非常に明確で、これならば子どものいろいろな学力を知ることができる良問ぞろいと思いました。このような問題からはたくさんのことを学ぶことができます。どのようなことを考えればよいのでしょうか。
一つは、問題でどんな力を確認しようとしているかです。教師であれば解けるのは当たり前です。この問題を解くためにはどのような知識や力が必要かしっかりと見極める必要があります。そして、自分の教え子たちが、どのような解答をするか予想します。どのような誤答が出て、それはどうして出てくるのかを意識しなければなりません。こうした上で結果を見ることで教え子の実態、すなわち自分の授業が見えてきます。試験をすることの意味がここにあります。 もう一つ、授業という視点で見るともっと大切なことが、問題を解くための知識や力はどのようにすれば身につくのかを具体的にすることです。子どもたちがどのような活動をする必要があるのかしっかり見極めるのです。 たとえば、今回の全国学力調査の数学の問題に関数の定義がわかっているかどうかを確かめるものがありました。関数の定義を教師が1度説明しただけではまず解けないでしょう。いわんや、xとyの関係を式で示して、これが関数などといった間違えた説明で教えていれば話になりません。最低限、定義域から値域(数学用語にこだわる必要はないですが)という方向性、定義域の要素が一つ決まれば他方が決まるということを子どもたちの感覚で押さえておく。、その上で、どのようなものが関数であるのか、ないのかを具体的な例で判断して理解するような活動をしていないとなかなか正解は導き出せないと思います。問題を真剣に分析することでどのような授業が求められているのかを考えることができるのです。 これはどの教科でも同じことだと思います。 全国学力調査の問題だけでなく、良問はたくさんあります。問題を分析し、どのような授業が求められているのかを考えることも教材研究の大切な視点です。 落ち着いた学校から学ぶ
昨日は中学校で講演をおこなってきました。
最近は、学校から講演を引き受けるときに、合わせて授業を参観させていただくようにお願いしています。なかなか公開していただけないこともあるのですが、この学校は何と全員の先生の授業を公開していただけました。負担なく授業見合うことができるように、公開授業でも細かい指導案は作成せず、この授業で何をこだわるか、どんな工夫をするかなどを簡単に書いたものだけですませています。簡単なものですが、授業を見る上で大いに参考になりました。とてもよい工夫だと思いました。 3校時参観させていただきましたが、大規模校なので一つひとつの授業は数分しか見られません。しかし、どの学級でも子どもたちが落ち着いて学習に取り組む姿が見られました。とても素直な子どもたちです。この日見た子どもたちの姿をもとに、「子どもが考える・活躍する授業づくり」について講演をさせていただきました。 最初に、この学校の子どもたちについて少し話をさせていただきました。 ・子どもたちは良くも悪くも素直 子どもたちは素直に反応を示します。しかし、教師の求める姿以上の姿は見せてくれません。たとえば教師が話を聞いてほしいと強く意識ない場面では、集中して聞こうとはしません。逆に、教師がそう願えば、それに応えてくれます。教師が明るい笑顔で授業をすれば、子どもたちも笑顔で応えます。教師の授業に対する思いを鏡のように映し出す子どもたちでした。教師が高いことを要求すればそれに応えて伸びてく子どもたちです。 ・子ども同士の人間関係は良好 実技教科のグループや班活動ではとてもよい表情を見せます。わからないことをまわりの友だちに聞く姿も見られました。このような子どもたちですので、グループやペアを上手に使えば、非常に効果的だと思います。 ・消費者的な行動が気になる これは最近の中学生に共通することかもしれませんが、効率的に結果を得ようとする傾向があるようです。友だちや教師の話を聞いていなくても、板書はきちんと写します。まず、ワークシートの穴を埋めることが優先されます。子どもたちは板書を写してワークシート完成しておけば試験では困らないということでしょう。 このことをもとに、どのようなことを意識して授業をすればいいかお話をしました。 直接は伝えませんでしたが、この学校が次のステップに進むために必要なことは子どもたちの現状を変えたいと先生方が思うことです。授業を妨害する子どもはいない。試験の成績もよい。「何か問題があるのか?」と先生が思っていては前に進みません。 素直な子どもたちです。逆につまらない授業、価値を感じない授業に対しては、集中しない、聞かない、手遊びするといった形で明確にメッセージを発信しています。先生方がそのメッセージをきちんと受信しないと、ちょっとしたほころびがやがて大きな問題を引き起こしかねません。 このことを伝えようとしましたが、うまく伝わったか自信がありません。力不足を感じました。 講演の後たくさんの若い先生が質問に来てくれました。彼らの授業について具体的な話ができたことはとてもうれしいことです。前向きな若い先生に元気をいただきました。 子どもたちが落ち着いていて、特に問題を教師が感じない学校を、より高いところに持っていくことはとても難しいことです。そこに挑戦しようとしている校長先生はじめ教務主任や中堅の先生方の姿勢は素晴らしいものです。この姿から学んだことをぜひ他の学校でも活かしたいと思います。とてもよい勉強ができた1日でした。ありがとうございました。 楽しく、有意義な研究会
愛される学校づくり研究会に参加しました。今回は、困難校を立て直した校長先生のお話しと、来年のフォーラムの内容検討、学校の見える化についての話し合いと盛りだくさんでした。
私は、困難校の立て直しの方策は、大きく2つの方法があると思っています。1つは行事やイベントを通じて子どもたちや教師の活躍の場をつくること。もう1つは授業の改革です。この校長先生がとったのは前者の方策でした。借り物ではない学校独自の新たな取り組みを通じて子どもたち、教師集団を変えていかれたのですが、何がすごいといってそのスピードです。赴任してすぐに企画がはじまり、夏にはすでに子どもたちが動き始めています。学校の様子を見ながら考えるという発想ではこうはいきません。穏やかな表情で静かに語るその内に、確固たる意志が存在していることが伝わってきます。 教師集団に自分の思いを伝え(校長からのWebを活用した発信)、子どもたちに活躍の場を与え(新たなイベント、子どもたちの発表の場の確保)、外部から「君たちはすごい」と子どもたちが評価される仕掛けをし(保護者を巻き込む、新聞などのマスコミで取り上げてもらう)、子どもたちが評価されることで学校も教師も評価されて教師のエネルギーが上がっていく(取り組みを書籍として発行)、というよいサイクルがつくりだされていました。学校が元気になっていくための必要条件を見事にクリアしています。緻密に考え、大胆に行動する。リーダーに求められる事は何かをあらためて教えていただきました。 新しいことに取り組むにはエネルギーがいりますが、うまくベクトルがそろえば大きな力が生まれます。しかしながら、新たなものを生み続けるには限界があります。軌道に乗った後が実は大変なのです。校長先生の言葉の中に、トップダウンからボトムアップということが出てきました。次のステップをちゃんと理解していて、そのために動かれていることがよくわかります。だからこそ、この学校の真価が問われるのは、この校長先生が去られたときです。それがいつかはわかりませんが、きっとそれに間に合うように教師集団を育てていかれることと思います。 学校改革を成功させた話は必ず似たようなステップをたどっています。そして、時間がかかり、最後まで残るのが授業の改革です。学校において一番基本である授業を変えていくことがいかに難しいかを象徴しています。この校長先生がどのように授業に手を入れていくのだろうかと考えたときに、某市の前教育長とその取り組みを思い出しました。市として取り組む事を考えるとイベントで押していくことはできません。授業を変えることで学校を変えるという正攻法に正面から取り組み、見事な戦略で市全体の不登校の減少という結果を残されました。どのアプローチが正解というわけではありません。しかし、学校である以上、授業は避けては通れないものです。私が、アドバイスをしている学校の多くが、子どもたちが落ち着いてきた、子どもたちが落ち着いている、だから今こそ授業を改善するチャンスだと考えられていることにもそのことが表れています。1時間半ほどの短い時間でしたが、実にたくさんのことを考えさせられるお話でした。 フォーラムの内容検討はスムーズに進み(要は役者がそろっているので、その場の流れで出たとこ勝負?!)、研究テーマの「学校の見える化」についての話し合いに入りました。 参加した以上何か喋らせるというのが司会者である会長の方針です。全員「何を見える化すればいいのか」について発表しました。人の発表を聞きながら自分の考えをまとめるというのは、結構きびしいことです。「同じです」が許されない全員指名が、いかに子どもを鍛える(!?)ことになるのか実感できます。運悪くなのか、意図的なのか、最後の発言者となってしまい、当然のようにまとめろとのご指示。司会者がまとめるのではと反論の言葉をぐっとこらえ、皆さんの話をもとに「見える化する視点」を私なりに整理してみました。 ・個で見えないものを見える化する ・個によって異なって見えるものを見える化する ・見たものに行動を促すようなものを見える化する ・ポジティブに評価されるものを見える化する ・(定期的に発生するイベントなどで)変化を見ることでアラートとなるものを見える化する こうして外化することで整理するきっかけをいただきました。この視点で見ると結構見つかるような気がします。そして、その場では言いませんでしたが、見える化にかかわるコストが大切になります。「見える化のために時間がかかり、改善する時間がなくなった」では、笑い話です。このコストを下げるのに有効なのがICTだと思います。このあたりのことを考えることが「学校の見える化」とは切り離せないと思います。 いつもながら実に学ぶことの多い、有意義な時間を過ごさせていただきました。ああ、楽しかった。 多くの人と共有したい授業
愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムでの算数の提案授業の撮影にでかけました。前回(提案授業から大いに学ぶ参照)の続き、2時間完了の2時間目の授業でした。
先行授業から細かいところをよく修正していました。辺の色と長さを対応付けている教材ですが、子どもたちの意識を色から長さへと向けるための細かい仕掛けがされていました。また、仲間分けのルールも明確であったため、その点で子どもたちが混乱することはありませんでした。仲間外れがいないなど、分け方のルールは守れているのですが、長さを意識したため、先行授業と比べて時間がかかる子どもが多く見受けられました。色で分けるのとは難易度が違うことがよくわかります。抽象度が上がるのです。しかし、分け方の説明は長さを意識したものになっていたので、焦点化しやすくなっていました。 ICTの活用場面も、前回から細かくブラッシュアップしていて、提案としては文句のないものになっていました。 わずかな時間で、指導案、ソフトともに大きく進歩していたことには感激しました。少しでもよい授業をしたいという算数チームの熱意を感じました。 今回の授業で考えさせられたのは、「子どもの言葉にどのようにこだわるか」です。 子どもの発言は色から長さへと抽象度が上がっているので、表現がどうしてもうまくできません。これをどう算数の言葉として無駄なく整理されたものにし、全員に共有化させるかが課題として浮かび上がりました。授業者は発言者に整理させることこだわりすぎたため、共有化に時間がかかりました。他の子につないでいくという選択肢もあったと思います。 また、子どもの言葉にこだわって、その説明をもとに三角形を1つずつ仲間かそうでないか分類して、考えを共有化する方法もあったかもしれません。 辺の長さが違うという理由で仲間分けしたのに、分け方を間違えた子どもがいました。授業者は仲間分けが正しくないという視点で修正しようとしましたが、結局間違いということで終わってしまいました。「辺の長さが違う」という子どもの言葉を認めて、「こうやって仲間分けしたんだね。同じ理由で分けた人いる」と結果でなく、理由に焦点を当ててつなぎ、分けた結果を修正していく展開もあったかもしれません。もし時間があれば、全員で「辺の長さが違う」三角形を仲間分けすることで共有化する方法もあります。 子どもの言葉をいかし、つなぎ、深める。子どもの言葉を手掛かりにして活動し、共有化する。口で言うのは簡単ですが、これはとても難しいことです。この授業では、まず子どもの言葉を引き出せたことを評価すべきでしょう。前回より進歩したことで、新たな課題が見つかったのです。こうしたことの繰り返しで授業力はついていきます。 この日は検討会を開く時間はありませんでしたが、フォーラムとは別に多くの人に集まってもらって、ビデオ検討会を開きたいと思います。それだけの価値のある、多くのことが学べる授業でした。 授業者とそれを支えるチームの力が合わさって、とても素晴らしい授業がつくられていきました。このような場面に立ち会うことができたことに感謝します。 授業者の成長が見えた提案授業
愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムでの社会の提案授業の撮影にでかけました。教室に向かう廊下で子どもたちとすれ違うたびに、とても気持ちのよい挨拶を受けました。どの子も笑顔で、挨拶することが楽しくてしょうがないという感じでした。このような小学校に出会うのは久しぶりです。授業での子どもたちの活躍が期待されます。
授業開始前の子どもたちは、本格的な撮影機材を前に興奮気味です。このままの状態が続いたらどうなるのかと心配しましたが、起立の号令とともにざわつきはぴたりと止み、ほどよい緊張感となりました。きちんと学級規律が保たれていることを感じました。これなら大丈夫です。 前回の模擬授業(模擬授業は楽しい参照)の後、指導案をじっくり見なおしたのでしょう。無駄な部分が削られ、導入部分は実にスムーズに進みました。ここまで見ていて、気づいたことがありました。授業者の子どもの発言に対する受けが大きく変わっていたのです。 模擬授業の時点では、いろいろな発言を受容することができずに、否定的な返しをしたり、流れが止まってしまうことがありました。ところが、この日はどの子どもの発言もしっかりと受容的に受け止めていたのです。口で言うのは簡単ですが、指摘されてすぐにできるものではありません。この2週間、ずっと意識して授業をし続けたのだと思います。それにしても、大きな変貌でした。 授業者の受容的な態度に、子どもたちの意欲はどんどん高まります。授業前には眠そうにしていた子ども張り切って、先頭を切って手を挙げます。事前に予想していた以上に子どもたちは積極的に意見を発表し、ICTは必要ないのではと思うほどでした。しかし、ICTを使うことで、子どもたちの気づきが広がり、深まったのも事実です。子どもたちが興味関心を持って積極的に参加してくれたことで、より多くのことが学べたように思います。フォーラム当日に、この点を深める話を展開できればと思っています。 授業後、検討会を持つことができました。司会者の見事な取り回しで、すぐに授業の核心に話題が焦点化しました。子どもたちから想像以上のものがでてきたので、切り返し方によってもっと高いところに到達できるのでは、という視点での検討です。ベテランでも、とっさにそこまで対応するのは難しいことです。反省・課題というよりは、この授業の可能性を話し合ったというべきでしょう。もう1度チャレンジする機会があれば、もっともっと素晴らしいものになることでしょう。 校長や同僚から、授業者の進歩について温かい言葉が伝えられました。このような環境が授業者を大きく成長させてくれたのだと思います。わずか1時間足らずの検討会でしたが、実に中身の濃いものでした。 授業者のやりきったという笑顔と、二人三脚でこの授業を終始一緒に考えサポートしてくださったまとめ役の先生の、よくやったといううれしそうな表情がとても印象的でした。私も、若い先生の成長の瞬間に立ち会えた喜びを感じながら学校を後にしました。 提案授業から大いに学ぶ
愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムでの算数の提案授業の撮影にでかけました。2時間完了の1時間目と、2時間目の先行授業でした。
撮影前の授業での子どもたちのようすを見てちょっと落ち着きがないことを心配していたのですが、実際にはしっかりと集中した姿を見せてくれました。子どもたちが真剣に黒板のスクリーンを見ている姿に、ICTの威力を感じました。決して凝ったものではないのですが、だからこそ気軽に使える、子どもにもわかりやすいものになっていました。これならば、自信を持ってフォーラムで紹介できます。今から会場の反応が楽しみです。 しっかり練られた指導案で、機器の利用の工夫もされている授業なので、多くの気づきがありました。子どもが興味を持って取り組んでいるので、子どもの集中力が下がる場面に、教師の働きかけの大切さが浮かび上がってきます。今回印象に残ったのは次のようなことでした。 一つは、挙手に頼るかどうかです。 子どもが作った三角形を発表させる場面で、授業者は挙手をさせました。今回は最大で19種類の三角形が出てくるはずです。最初のうちは元気よく手が挙がっていたのですが、残った数が減ってくるころには、挙手も減り、指名との間に時間もかかるようになってきました。挙手できない子は集中力をなくしてきました。だれてきたのです。 全員5種類の三角形を作っているのですから、挙手に頼らずどんどん進めればいいのです。日ごろ発言できない子を中心に指名する、列で指名する。いずれにしても、単調になりやすい場面ですので、テンポよく素早く進めることが大切です。 もう一つは、違った考えの子どもをどう取り込むかです。 三角形を分類する場面です。子どもの発表に対して授業者は同じ分け方の子どもに挙手させました。同じ考えをつなぐよい指示です。その後、その理由を説明するように求めました。ここから、挙手できなかった子どもの集中力が落ちてきました。自分は違う考えだから参加できないと感じたのです。授業者は、違う考えの子どもに友だちの考えを理解させ説明させようと考えたそうですが、手が挙がらなかった子どもを見るとボーとしてよく理解できていないようだったので断念したそうです。 では、どうすればよかったのでしょうか。 「違う分け方の人にもわかるように説明してね。違う人もどうやって分けたのかよく聞いてね。あとで、説明してもらうからね」 と違う考えの子どもに課題を与える。こうすることで、彼らも参加することができます。 「どうやって分けたのか説明できるかな。違う分け方の人も、よく見て考えてね。まわりの人と相談してもいいよ」 と考える時間を与える。違う考えに接していきなり理解するには時間がかかります。いわんや説明はもっと大変です。また、まわりと相談するということは、そのわけ方をした子どもともかかわる機会をつくれます。全体で発表するより多くの子どもが活躍できます。 どちらかが正解というわけではありませんが、違う考えの子どもを参加させるような働きかけが必要だということです。 授業者にとっても、参観者にとっても刺激と学びの多い授業でした。 授業検討を受けて、明日、2時間目の授業に再挑戦です。授業者はきっといろいろと考え工夫をしてくれると思います。私もどのような変化を見せてくれるのかとても楽しみです。 野口芳宏先生から学ぶ
教師力アップセミナーで授業名人野口芳宏先生からたくさんのことを学ばせていただきました。
この日のセミナーは3部構成で、第1部は野口先生による道徳の模擬授業「なぜ学校に来るのか」でした。「学校に来るのは自分のためということばかりが強調されて立派な社会の一員となるためということが忘れられている」という野口先生の主張には大賛成。最後に、社会性を身につけることが自分の幸せにつながるということで締めくくられました。その通りなのですが、中学生ぐらいになるとこのことを素直に受け止めてくれない子どももいたりします。この部分については課題をいただいたような気がしました。ここに焦点を当てた授業を考えてみたいと思います。野口先生のこの授業を、学校公開日に全員で実施して、どの保護者にも子どもが学校に通う意味を考えてもらうという校長が出てくることを期待してしまいました。 第2部は先日撮影した、若手の国語の授業について、野口先生に公開でアドバイスをいただくものでした。さすがは野口先生、授業者が苦しんでいた部分に対して、ズバリと明快な答えを出していただきました。この会のためにわざわざ授業をおこなってくれた先生にはその苦労も吹き飛ぶくらいの大きな学びがあったと思います。教師の指導のあり方、課題のあり方について、私もたくさんのヒントをいただきました。 第3部は「体験的実践論」と題した講演です。野口先生の今までの教育に対する主張が整理されより明確になったように感じました。いつ話をうかがってもぶれのない1本筋の通った主張に、野口先生のすごさを感じました。自分の幹は何だろうかとあらためて問いなおす機会となりました。また、自分と主張の違う方に対しても、堂々と主張はされますが、悪く言われることはありません。人間としての器の大きさを感じます。野口先生とお会いすると自分の至らなさを思い知らされます。 夜は野口先生を囲んでの懇親会が催されました。お酒が入るとますますパワーアップして、ここには書けないような話もたくさん聞かせていただきました。後期高齢者になったことを笑いのネタにしながら、私たちではとてもこなしきれないほどの仕事に精力的に取り組まれている姿にはただただ脱帽。こんな歳の取り方をしたいと思える方の一人が野口先生です。野口先生からたくさんの元気をいただいた1日でした。 充実した学校訪問
昨日は中学校で、1日日程の学校訪問に参加しました。気ままな立場なので、指導主事の先生方とは全く別に、自由に授業を参観しました。
午前中は若手の先生を中心に見ました。中には1年前と比べて目を見張るほどに進歩している方もいました。教科の先輩からよい刺激を受けていることがよくわかります。この日も先輩が授業を外から見ていました。こういう雰囲気が教師を育てていくのだと思います。 教師経験がほとんどない先生も、工夫をしながら少しずつですが進歩しています。特に講師の先生は研修の機会も少ない中、空いた時間に他の先生の授業を見に行くなどして必死に自分の授業の質を高めようとしています。学ぼうとする空気があることがこの学校の強みでしょう。 気になったのは、子どもが活発に活動することと、授業のねらいがずれている場面がいくつかあったことでした。子ども同士が英語でクイズを出し合う場面では、問題づくりを頑張ってやってきた子どもは、クイズそのものが目的になっていました。中には英語がまだるっこしくなって、日本語でヒントやコメントを言っている子もいます。はた目には活発な授業ですが、英語の授業としては?でした。最後の評価も、「何問正解できた?」では、子どもも学習のねらいを誤ってしまいます。いろいろ工夫をしていただけに残念でした。 授業のねらいと活動をリンクすることがいかに難しいことかあらためて知らされました。 午後の授業研究は数学に参加しました。 印象的だったのは、「姉が弟に追いつくか」という問題で、何をxとおくか子どもに問いかけた場面でした。「弟が進んだ時間をx分とする」という子どもの言葉をいかそうとそのまま板書しました。ここで、この意味をしっかりと確認せずにグループで線分図を書かせましたが、ほとんど動けません。ヒントとして、追いついたとき弟と姉の位置が一緒だということを押さえましたが、それでもなかなかうまくいきませんでした。 授業者は、自分が想定している「弟が出発してから何分後に姉が弟に追いついたのかをxとする」と、子どもの言葉が同じことを意味していると考えていたのです。しかし、想起されるものは明らかに違います。子どもの言葉は、進むという言葉のイメージから、xは変化するものと関数的にとらえていると思われます。「進んだ時間がx分」と追いついたときが結びつかないのです。そのため、線分図に弟と姉の位置を書けなかったのです。 子どもの言葉を問い返して、「x分後に追いついた」という言葉を引き出し、全体で共有する。 まず「x分後の姉と弟の位置を線分図に書いて」といった発問に変え、弟と姉の位置を線分に図に書かせる。すると弟と姉の位置が違った線分図がでてくるはずです。そこで、「追いつくときは?」と問い返す。 教師は無意識に子どもの言葉を置き換えたり、自分に都合のいいように解釈します。子どもの側に立って、一言一言にこだわりながらしっかり聴くことが大切です。 授業そのものは、線分図が書けた後は活発になり、解の吟味でグループ活動が盛り上がっているところで、残念ながら時間となりました。しかし、子どもたちが集中して授業に参加している姿に、授業者が子どもたちをしっかり育てていることがよくわかるよい授業でした。 検討会では、先生方から子どもの詳しい様子をたくさん聞くことができました。普段から子どもをよく見て授業をしていることが伝わる検討会でした。研究発表が終わって1年がたちましたが、学校としては決して歩みを止めていなかったことがよくわかるものでした。 この日は遠く山口県からも視察の先生がいらっしゃいました。非常に勉強熱心な方で、授業や自身の研究のテーマについていろいろと質問をしていただきました。質問に答えようとすることで、私自身もより深く考え、とてもよい勉強になりました。また、子どもたちの考えを深めるような切り返しを研究したいとのことで、そのテーマのよさにも感心しました。授業での子どもたちのようすや検討会での先生方のようすがともに柔らかい雰囲気であったことをほめていただけました。この学校が目指しているところに気づき、ほめていただけたことをとてもうれしく思いました。ありがとうございました。 秋のさわやかな1日、私もとてもさわやかな気持ちで学校を後にすることができました。 ICTの活用について考える
この1月ほど、ICTの活用について考える機会が増えています。授業での活用を考えるときに、自分がどんなことを意識しているのか少し整理してみたいと思います。
・子どものどんな姿が見たいのか? 見たい子どもの姿をつくりだすのに活用できないのかを考えます。 典型的なものが、子どもの顔を上げたい。スクリーンに映っているものを見ようとすれば、顔は上がります。これだって立派な活用です。 子ども同士が額を寄せて考えるのであれば、グループに1台タブレット用意して利用する。覗き込むことで自然に額が寄ってきます。 ・何をねらっている場面なのか? ねらいに迫るのに活用できないのかを考えます。 興味関心を持たせる場面であれば、動画やきれいなグラフィックは有効です。 情報をもとに考えさせたい場面であれば、コンピュータで情報を提示するというのもありです。 ・問題点は何か? 問題を解決するのに活用できないかを考えます。 黒板に子どもが書くと時間がかかるのなら、ノートやワークシートを実物投影機で映せば解決です。 教科書の本文を板書するのが大変ならば、デジタル教科書は強い味方です。 ・つなげるものが何か? つなげることに活用できないかを考えます。 以前に学習したことを復習するのであれば、ノートを確認させるのもいいですが、記録しておいた板書を映すというのも有効です。 他の学級の発表や、先輩、自分たちの過去の記録を提示することで、より多くのものとつなげることもできます。 ・これ以外の指導法はないのか? 今までの枠にとらわれずに、一から考え直すことも大切です。 比較するのに、コンピュータや実物投影機を使って重ねてみることで違いがはっきりすることもあります。 こうやって教えるという思い込みに縛られずに、こんなことができたらいいなと考えたとき、ICTは大きな可能性を秘めています。 他にも色々とあるのですが、すべてICTに限らず、授業を考えるときにチェックすることばかりです。当り前のことですが、ICTの活用を考える視点は、授業をつくる視点と同じなのです。ICTは、資料を拡大コピーして提示するのか印刷して配るのか、説明を板書するのかノートに書かせるのかといった、授業の組み立てを考えるときの選択肢の一つにすぎないのです。こう考えることで、ICTは教師にとって身近で有効な道具になっていくのだと思います。 実りある指導案検討会
昨日は、愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムで発表する国語科の指導案検討会に参加しました。授業者の学校の若い先生もたくさん出席してくれて、とてもよい雰囲気で楽しく進めることができました。
授業名人野口芳宏先生の授業を追試するのですが、ICTを活用するというのがテーマです。どうしても、ICTに引きずられそうになるのですが、授業の芯がぶれては困ります。うれしかったのが、授業者が教材を選ぶにあたって、ICTの活用を意識するのではなく、自分の教室の子どもたちが教材に対してどんな反応をするだろうかという視点を大切にしたことです。したがって、ICTについては、イメージすらはっきりしていません。そこで、まず、子どものどんな姿が見たいのかということについて多くの時間をとることになりました。 求める子どもたちの姿は、詩の朗読の場面なのか、解釈なのか。両方なのか。いろいろな考え、意見が参加者から出されました。最終的には授業者の思いで決まります。授業者は詩の持つ言葉の面白さを子どもたちに気づかせ、詩の解釈をもとに意識して朗読をすることを選びました。2つの場面がありますが、それぞれの場面で子どもたちの活動の姿がだいぶ見えてきたようです。 ここまで、授業が見えてくると、ICTをどう活用するかという懸案が出てきます。ICTなんかなくてもこの流れなら授業はおもしろいものになりそうです。ICTの使いどころがない、という結論が出てもおかしくありません。ここで、フォーラムの教科責任者の提案が見事でした。この授業にある要素を加えることで、詩の解釈と朗読をうまくつなげるのです。このこと自体は、直接ICTとはつながりません。しかし、要素を加えることで、当然時間が苦しくなります。問題点が明らかになれば、それを解決する手段としてICTの出番が出てきます。ここからは、どんどんアイデアが広がり、国語における新しい活用の視点を提案できるという確信を持てるところまで詰めることができました。本番の授業、フォーラム当日がとても待ち遠しくなりました。 教科責任者の先生は、この日のために野口先生の授業、著作を再度見直し、参加者のためにわかりやすく整理した資料を準備し、その上で新しい視点のための下準備も入念におこっていました。授業者の思いがあり、それに対する教科責任者のフォローがあったおかげで充実した会になりました。 最後に、参加した若い先生の感想を聞きましたが、検討会の内容からたくさんのことを学ばれたことがよく伝わりました。素直に学ぶ姿勢は、彼らが今後大きく成長していくことを予感させてくれました。休息なしの3時間の長丁場が苦にならない、とても楽しい時間でした。 発問について考える
昨日は、中学校で社会科の授業研究に参加しました。2人の方が別々に授業しましたが、私ともう一人のアドバイザーの先生でそれぞれ見せていただきました。
私が参観したのは、裁判の3審制をきっかけに、人権がどのように守られているか考える授業でした。この日は教室ではなく丸テーブルを並べたラウンジでおこなわれました。足利事件などの再審請求が認められたことを伝える新聞記事などの資料のパネルや、インターネットがすぐに活用できる環境を準備しての授業です。授業者は「私たちの人権がどのように守られているのか考えよう」という課題を示し、子どもたちに調べるように促しました。一部の生徒はすぐにインターネットに飛びつきますが、その他の生徒はなかなか動きません。せっかくラウンジのまわりに掲示した資料を見ようとはせず、資料集をめくっています。グループでの発表の前に、何とか人権に関することをまとめてはしましたが、子ども同士の話し合いもほとんどおこなわれませんでした。 授業後の検討会では、発問についての意見が多く出ました。 子どもたちの活動が、資料集で「人権」という言葉を探してその部分を抜き出すか、意味はわからないままインターネットで「人権がどのように守られている」と検索して見つかったものを写すだけで終わっていた。課題が子どもたちにわかりにくかったからだ。 人権を守るとはどういうことか、何をどう調べればいいのか、自分たちでもよくわからなかった。 ・・・ たしかに、「人権を守る」とはどういうことか考えるのがねらいですが、発問としては、適当ではなかったようです。 「なぜ、日本の裁判はこんなに時間がかかる」 「裁判がもっと早く終わるようにするべきでは」 「なぜ、大事件を起こした犯人のために、大金を使って裁判をおこなう」 このような、子どもたちにとって具体的で取り組みやすいもの、取り組むことで結果として人権について考えることにつながるものにする工夫が求められます。 一方では、教室でなく資料を準備したラウンジで授業をするというチャレンジを評価する声もあがりました。また、あるグループが発表したとき、教師が何も言わないのに何人もの生徒が資料集で確認をしていた。日ごろから資料をちゃんと確認するように指導しているからこそこのような姿が見られるのだという指摘もありました。 多くの先生がこの授業から学ぼうとする姿勢を見せてくれたことをとてもうれしく思いました。 授業後、課題と発問について社会科の先生方と一緒に、もう一人のアドバイザーの先生から遅くまでお話をうかがうことができ、充実した時間を過ごすことができました。よい機会をありがとうございました。 子どもに考えさせる発問
子どもたちに考えさせるような発問をどのようにつくればよいか相談されることがよくあります。考えを促すような発問について考えてみたいと思います。
「○○について考えよう」というような抽象的な発問で子どもたちがしっかり考えられるのは、子どもたちが育っていて、考えるとはどのような視点でものを見たり、どこに根拠を求めればよいかわかっているときです。この場合には、多様な考えを生み出すよい発問になります。しかし、子どもが育っていなければ何をすればよいかわからず、すぐに活動は止まってしまいます。結局後からヒントを出して教師が誘導したり、教師が解説することになってしまいます。 そうなるくらいならば、子どもたちが活動する方向性をあらかじめ含んだ発問をした方がよいのです。このとき、教師が子どもたちにどのような活動をして、どんなことを考えてほしいのか明確になっていなければ、具体的な発問にはつながりません。 具体的な発問で考えてみましょう。社会科である戦争についての授業での発問です。戦争を学習することで、その起こった原因から当時の社会のようすにまで考えを広げることをねらっています。 A「○○戦争について考えよう」 B「○○戦争当時のようすを考えよう」 C「○○戦争の原因について考えよう」 D「○○戦争の原因から当時のようすを考えよう」 Aの発問は、子どもが育っていれば、戦争の原因、結果、その背景すべてを調べて総合的にこの戦争をとらえて考えてくれる発問です。しかし、育っていなければ、教科書や資料集からその戦争に関する事柄を抜き出して終わってしまいます。考えるところまではいきません。これで教師がよしとすると、子どもは調べることが考えることだと思ってしまいます。 Bの発問は、ねらいである当時のようすとの関連に意識を向けさせる発問ですが、子どもが育っていなければ、調べるだけで戦争と結びつけて考えてはくれません。 Cの発問は、視点を限定しているだけで、Aの発問以上のものにはなりません。 Dの発問は教師のねらいそのものです。これは、子どもの活動を原因と当時の社会のようすに限定してしまいます。Aの発問のような広がりはありませんが、ねらいは一番達成しやすいものです。しかし、当時のようすを調べる、知るだけで戦争と社会の関係を深く考えることは難しいでしょう。また、こうしろという指示に近いものになっているので、子どもが受け身で教師の求める答探しをしているともいえます。 B、Cはねらいの一部分を具体化することをしていますが、中途半端なものになっています。結局、Dのような具体的な発問を重ねて、視点をたくさん子どもの中に育てて、Aのような発問で考えることができるようにすることがひとつの基本となると思います。 ここで、子どもに考えることを促すのに想像させる、答や判断を求めるという視点があります。 この例でいえば、 E「○○戦争が起こらなければ、どうなっていたか」 というような発問です。これは子どもに「どうなっていたか」という答を求めています。答を出すためには調べたことをもとに、自分で考えることが必要になります。社会がどうなっていたかを考えるということは、その当時の社会を知る必要がありますし、戦争が起こらなければと仮定することで、社会と戦争の関係を考えることになります。ねらいとなる活動を引き出すことができるはずです。答えそのものが問題ではなく、答を出そうとすることで、ねらった活動を引き出すのです。 少し難しいかもしれませんが、こういう視点をもつと発問の幅が広がります。 「主人公の成長を考えよう」→「主人公は成長したか」 「三角形をいろいろなグループに分けよう」→「三角形をグループに分けるやり方は何通りあるか」 「資本主義が発達と人々の生活について考えよう」→「資本主義の発達は人々の生活を豊かにしたか」 ・・・ ねらいとする活動にもよりますが、このように発問を置き換えることで、ねらった活動を自然に引き出すことができます。 発問は子どもたちの成長によって変わっていくものだと思います。「考えよう」で考えられる子どもをつくるためには、まず具体的な指示に近い発問から出発することが必要だと思います。そのためには、子どもたちの活動を具体的にイメージすることが大切です。また、少し難しいかもしれませんが、その活動が自然に起こるような問い、言い換えればその活動から導き出され得る答を問うことで、考えること促すことができます。子どもたちの成長に応じて、発問を考えてほしいと思います。 |
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