ICTの活用について考える

この1月ほど、ICTの活用について考える機会が増えています。授業での活用を考えるときに、自分がどんなことを意識しているのか少し整理してみたいと思います。

・子どものどんな姿が見たいのか?
見たい子どもの姿をつくりだすのに活用できないのかを考えます。
典型的なものが、子どもの顔を上げたい。スクリーンに映っているものを見ようとすれば、顔は上がります。これだって立派な活用です。
子ども同士が額を寄せて考えるのであれば、グループに1台タブレット用意して利用する。覗き込むことで自然に額が寄ってきます。

・何をねらっている場面なのか?
ねらいに迫るのに活用できないのかを考えます。
興味関心を持たせる場面であれば、動画やきれいなグラフィックは有効です。
情報をもとに考えさせたい場面であれば、コンピュータで情報を提示するというのもありです。

・問題点は何か?
問題を解決するのに活用できないかを考えます。
黒板に子どもが書くと時間がかかるのなら、ノートやワークシートを実物投影機で映せば解決です。
教科書の本文を板書するのが大変ならば、デジタル教科書は強い味方です。

・つなげるものが何か?
つなげることに活用できないかを考えます。
以前に学習したことを復習するのであれば、ノートを確認させるのもいいですが、記録しておいた板書を映すというのも有効です。
他の学級の発表や、先輩、自分たちの過去の記録を提示することで、より多くのものとつなげることもできます。

・これ以外の指導法はないのか?
今までの枠にとらわれずに、一から考え直すことも大切です。
比較するのに、コンピュータや実物投影機を使って重ねてみることで違いがはっきりすることもあります。
こうやって教えるという思い込みに縛られずに、こんなことができたらいいなと考えたとき、ICTは大きな可能性を秘めています。

他にも色々とあるのですが、すべてICTに限らず、授業を考えるときにチェックすることばかりです。当り前のことですが、ICTの活用を考える視点は、授業をつくる視点と同じなのです。ICTは、資料を拡大コピーして提示するのか印刷して配るのか、説明を板書するのかノートに書かせるのかといった、授業の組み立てを考えるときの選択肢の一つにすぎないのです。こう考えることで、ICTは教師にとって身近で有効な道具になっていくのだと思います。

実りある指導案検討会

昨日は、愛される学校づくり研究会が主催するフォーラムで発表する国語科の指導案検討会に参加しました。授業者の学校の若い先生もたくさん出席してくれて、とてもよい雰囲気で楽しく進めることができました。

授業名人野口芳宏先生の授業を追試するのですが、ICTを活用するというのがテーマです。どうしても、ICTに引きずられそうになるのですが、授業の芯がぶれては困ります。うれしかったのが、授業者が教材を選ぶにあたって、ICTの活用を意識するのではなく、自分の教室の子どもたちが教材に対してどんな反応をするだろうかという視点を大切にしたことです。したがって、ICTについては、イメージすらはっきりしていません。そこで、まず、子どものどんな姿が見たいのかということについて多くの時間をとることになりました。

求める子どもたちの姿は、詩の朗読の場面なのか、解釈なのか。両方なのか。いろいろな考え、意見が参加者から出されました。最終的には授業者の思いで決まります。授業者は詩の持つ言葉の面白さを子どもたちに気づかせ、詩の解釈をもとに意識して朗読をすることを選びました。2つの場面がありますが、それぞれの場面で子どもたちの活動の姿がだいぶ見えてきたようです。

ここまで、授業が見えてくると、ICTをどう活用するかという懸案が出てきます。ICTなんかなくてもこの流れなら授業はおもしろいものになりそうです。ICTの使いどころがない、という結論が出てもおかしくありません。ここで、フォーラムの教科責任者の提案が見事でした。この授業にある要素を加えることで、詩の解釈と朗読をうまくつなげるのです。このこと自体は、直接ICTとはつながりません。しかし、要素を加えることで、当然時間が苦しくなります。問題点が明らかになれば、それを解決する手段としてICTの出番が出てきます。ここからは、どんどんアイデアが広がり、国語における新しい活用の視点を提案できるという確信を持てるところまで詰めることができました。本番の授業、フォーラム当日がとても待ち遠しくなりました。

教科責任者の先生は、この日のために野口先生の授業、著作を再度見直し、参加者のためにわかりやすく整理した資料を準備し、その上で新しい視点のための下準備も入念におこっていました。授業者の思いがあり、それに対する教科責任者のフォローがあったおかげで充実した会になりました。

最後に、参加した若い先生の感想を聞きましたが、検討会の内容からたくさんのことを学ばれたことがよく伝わりました。素直に学ぶ姿勢は、彼らが今後大きく成長していくことを予感させてくれました。休息なしの3時間の長丁場が苦にならない、とても楽しい時間でした。

発問について考える

昨日は、中学校で社会科の授業研究に参加しました。2人の方が別々に授業しましたが、私ともう一人のアドバイザーの先生でそれぞれ見せていただきました。

私が参観したのは、裁判の3審制をきっかけに、人権がどのように守られているか考える授業でした。この日は教室ではなく丸テーブルを並べたラウンジでおこなわれました。足利事件などの再審請求が認められたことを伝える新聞記事などの資料のパネルや、インターネットがすぐに活用できる環境を準備しての授業です。授業者は「私たちの人権がどのように守られているのか考えよう」という課題を示し、子どもたちに調べるように促しました。一部の生徒はすぐにインターネットに飛びつきますが、その他の生徒はなかなか動きません。せっかくラウンジのまわりに掲示した資料を見ようとはせず、資料集をめくっています。グループでの発表の前に、何とか人権に関することをまとめてはしましたが、子ども同士の話し合いもほとんどおこなわれませんでした。

授業後の検討会では、発問についての意見が多く出ました。

子どもたちの活動が、資料集で「人権」という言葉を探してその部分を抜き出すか、意味はわからないままインターネットで「人権がどのように守られている」と検索して見つかったものを写すだけで終わっていた。課題が子どもたちにわかりにくかったからだ。
人権を守るとはどういうことか、何をどう調べればいいのか、自分たちでもよくわからなかった。
・・・

たしかに、「人権を守る」とはどういうことか考えるのがねらいですが、発問としては、適当ではなかったようです。

「なぜ、日本の裁判はこんなに時間がかかる」
「裁判がもっと早く終わるようにするべきでは」
「なぜ、大事件を起こした犯人のために、大金を使って裁判をおこなう」

このような、子どもたちにとって具体的で取り組みやすいもの、取り組むことで結果として人権について考えることにつながるものにする工夫が求められます。

一方では、教室でなく資料を準備したラウンジで授業をするというチャレンジを評価する声もあがりました。また、あるグループが発表したとき、教師が何も言わないのに何人もの生徒が資料集で確認をしていた。日ごろから資料をちゃんと確認するように指導しているからこそこのような姿が見られるのだという指摘もありました。
多くの先生がこの授業から学ぼうとする姿勢を見せてくれたことをとてもうれしく思いました。

授業後、課題と発問について社会科の先生方と一緒に、もう一人のアドバイザーの先生から遅くまでお話をうかがうことができ、充実した時間を過ごすことができました。よい機会をありがとうございました。

子どもに考えさせる発問

子どもたちに考えさせるような発問をどのようにつくればよいか相談されることがよくあります。考えを促すような発問について考えてみたいと思います。

「○○について考えよう」というような抽象的な発問で子どもたちがしっかり考えられるのは、子どもたちが育っていて、考えるとはどのような視点でものを見たり、どこに根拠を求めればよいかわかっているときです。この場合には、多様な考えを生み出すよい発問になります。しかし、子どもが育っていなければ何をすればよいかわからず、すぐに活動は止まってしまいます。結局後からヒントを出して教師が誘導したり、教師が解説することになってしまいます。
そうなるくらいならば、子どもたちが活動する方向性をあらかじめ含んだ発問をした方がよいのです。このとき、教師が子どもたちにどのような活動をして、どんなことを考えてほしいのか明確になっていなければ、具体的な発問にはつながりません。

具体的な発問で考えてみましょう。社会科である戦争についての授業での発問です。戦争を学習することで、その起こった原因から当時の社会のようすにまで考えを広げることをねらっています。

A「○○戦争について考えよう」
B「○○戦争当時のようすを考えよう」
C「○○戦争の原因について考えよう」
D「○○戦争の原因から当時のようすを考えよう」

Aの発問は、子どもが育っていれば、戦争の原因、結果、その背景すべてを調べて総合的にこの戦争をとらえて考えてくれる発問です。しかし、育っていなければ、教科書や資料集からその戦争に関する事柄を抜き出して終わってしまいます。考えるところまではいきません。これで教師がよしとすると、子どもは調べることが考えることだと思ってしまいます。
Bの発問は、ねらいである当時のようすとの関連に意識を向けさせる発問ですが、子どもが育っていなければ、調べるだけで戦争と結びつけて考えてはくれません。
Cの発問は、視点を限定しているだけで、Aの発問以上のものにはなりません。
Dの発問は教師のねらいそのものです。これは、子どもの活動を原因と当時の社会のようすに限定してしまいます。Aの発問のような広がりはありませんが、ねらいは一番達成しやすいものです。しかし、当時のようすを調べる、知るだけで戦争と社会の関係を深く考えることは難しいでしょう。また、こうしろという指示に近いものになっているので、子どもが受け身で教師の求める答探しをしているともいえます。

B、Cはねらいの一部分を具体化することをしていますが、中途半端なものになっています。結局、Dのような具体的な発問を重ねて、視点をたくさん子どもの中に育てて、Aのような発問で考えることができるようにすることがひとつの基本となると思います。

ここで、子どもに考えることを促すのに想像させる、答や判断を求めるという視点があります。
この例でいえば、

E「○○戦争が起こらなければ、どうなっていたか」

というような発問です。これは子どもに「どうなっていたか」という答を求めています。答を出すためには調べたことをもとに、自分で考えることが必要になります。社会がどうなっていたかを考えるということは、その当時の社会を知る必要がありますし、戦争が起こらなければと仮定することで、社会と戦争の関係を考えることになります。ねらいとなる活動を引き出すことができるはずです。答えそのものが問題ではなく、答を出そうとすることで、ねらった活動を引き出すのです。
少し難しいかもしれませんが、こういう視点をもつと発問の幅が広がります。

「主人公の成長を考えよう」→「主人公は成長したか」
「三角形をいろいろなグループに分けよう」→「三角形をグループに分けるやり方は何通りあるか」
「資本主義が発達と人々の生活について考えよう」→「資本主義の発達は人々の生活を豊かにしたか」
・・・

ねらいとする活動にもよりますが、このように発問を置き換えることで、ねらった活動を自然に引き出すことができます。

発問は子どもたちの成長によって変わっていくものだと思います。「考えよう」で考えられる子どもをつくるためには、まず具体的な指示に近い発問から出発することが必要だと思います。そのためには、子どもたちの活動を具体的にイメージすることが大切です。また、少し難しいかもしれませんが、その活動が自然に起こるような問い、言い換えればその活動から導き出され得る答を問うことで、考えること促すことができます。子どもたちの成長に応じて、発問を考えてほしいと思います。
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