読売教師力セミナー

先週末に開催された、読売教師力セミナーでコーディネーターを務めました。

素晴らしい模擬授業があったため、パネルディスカッションも具体的な話をすることができました。パネラーの先生方のおかげで私自身もたくさんのことを学べた楽しい時間でした。今回は子ども役を大人がするのではなく、児童生徒に登場してもらったので、彼らの発言がまたとても勉強になりました。授業者の先生方が子どもたちの発言や反応にどう対応するか、参加者の皆さんも目を皿のようにしておられました。

このセミナーを通じて、特別なキャリア教育の授業をするのではなく、普段の授業の中で「伝えるべきこと」「考えさせるべきこと」「身につけさせるべきこと」をきちんと意識すればよいということを伝えたかったのですが、無事に伝わったでしょうか?

模擬授業では具体的に、

小学生に、
働くということを考えさせる。働くということは自分や家族のためだけでなく、他者の役に立つということを伝える(気づかせる)。

中学生に、
目先の進学ではなく、その先にあるものを考えさせる。今ある中学校生活を大切にすることが働くことにつながることを伝える。情報収集、情報選択、コミュニケーション、意思決定といった能力を身につけさせる。

が示されました。

参加者の皆さんがこのようなメッセージを感じ取っていただけたれば、コーディネーターとしては大成功なのですが、どうだったのでしょうか。いつものことですが、事前の仕込みもなくその場その場で対応するために、あそこはこのように対応すればよかったという反省ばかりです。しかし、だからこそライブ特有の緊張感のある楽しめるものになっているのだと思います。会場の参加者とともに作り上げた楽しいセミナーになったと思います。

小中学校の連携

昨日は中学校の授業研究に参加しました。規模の小さい中学校で全員が同じ小学校の出身です。この日は小学校の先生がたくさん参観してくれました。一部の先生は残って授業検討会にも参加していただけました。

小学校の先生が中学校の授業を参観することで、自分の教え子たちが卒業後どのように成長しているのかを授業を通して見ることができます。その子どもたちの姿から自分たちの授業や指導を再評価し、指導の改善へとつなげることができます。
中学校の先生にとっては、子どもたちの小学校での様子を知ることができます。特に子どもたちの具体的な名前が上がってくるような授業研究では貴重な情報が得られます。

そして、このような試みを通じて小中9年間を一貫したものとして、そのつながりをしっかり意識して子どもたちに接してもらえることがポイントです。小学校から中学校への移行時期は、思春期と重なります。この難しい時期を乗り切るためには小中が手を取り合って子どもを育てていける体制が求められます。授業を互いに見合うだけでなく、中学校の教師が小学生を教える、小学校の行事を中学生が手伝う、小学生が中学校の行事に参加する。つながりを意識することでいろいろな連携が生まれてくることと思います。

行事でつくる人間関係と授業でつくる人間関係

2学期になって子どもたちの表情がよくなってきた、自然に友だちと相談できるようになった。ところが、授業に関係ない無駄話が増えた、また、孤立する子どもが出てきた。こんな光景を目にすることがあります。なぜこのようなことが起こるのでしょう。

1学期は子どもたちの人間関係がまだうまくできていない、子ども同士の関わり合いが少ないと感じていたのに2学期になって雰囲気が変わってきた学校がいくつかありました。子どもの表情が柔らかくなって、関わり合いも増えているのです。先生の質問に対してまわりと相談する姿もよく見られます。先生方の授業スタイルが変わってきた成果が出てきたのかと思いました。ところが、何か違うのです。子どもたちは、友だちに答えを聞いたり写すだけで解き方や理由を聞こうとしません。自分でもう一度考えようともしません。そのかかわり、そのまま授業に関係ないことを話し出すのです。ニコニコと楽しそうにしていますが、これでは困ります。
何回か訪問していると、このような関わり方が増えているだけでなく、まったく友だちと関わらずに孤立している子が目立ってきたことに気づきました。学級の中に大きな集団がつくられ、それに入れない子どもができているのです。2学期は行事がたくさんあります。どうやらこの状況は行事を通じて作られたものだったのです。

行事は集団で一つのことを成し遂げていく活動です。人と関わりながら、自分の役割をはたし、時には自分を押さえて集団の決めたことに従います。行事がうまくいくとその達成感とともに子どもたちに集団へのよい帰属意識が生まれ、友だちとも仲良くなれます。ところが、その延長上に生まれるかかわりには友だちとの世間話や無駄話などもあります。これがそのまま授業に持ち込まれてしまっているのです。また、一つの方向に向かっていくときに、うまくその流れに入れない子どもは集団から離れやすくなります。強力に一つの方向に持っていこうとするときほど、入れない子どもが増える傾向があるのです。

一方授業では、課題を解決するために互いの考えを聞きあったり、認めあったりします。ここでは、無駄話の入る余地はないはずです。また、無理に友だちの考えに従う必要はありません。グループでの話し合いは互いの考え深めるため行うのであって、答えを一つに決める必要はないのです。大切なのは互いに相手の考えを受容し認め合うことです。

どちらの人間関係もとても大切なことです。注意しなければならないのはどちらか一方でよいと思ってしまうことです。行事でできた人間関係をうまく生かして子ども同士が学び合う雰囲気を作る。行事でうまく集団には入れなかった子どもも授業では周りと関われる。こういったことが大切なのです。そのためにも、行事でつくる人間関係と授業でつくる人間関係の違いを意識してほしいと思います。

ちょっとした働きかけで授業は変わる

昨日は講談と社会科のコラボ授業を別の学校で参観しました。

授業者は書くことを大切にしているとのことで、子どもたちは南海師匠の講談を聞きながら、しっかりとメモを取っていました。

最初の授業では、聞き終わった後メモを整理する時間を少し取りました。その後グループでの話し合いになりましたが、子どもたちのテンションは少し落ちてしまいました。どこに間違いがあるのか自分の見つけたことを話すのですが、曖昧な知識で話すために聞いている方はすっきりと納得しません。結論が出ないまま、漫然とした話し合いが続きます。そこで、教科書や資料集にあたって根拠を明確にするように指示したところ、動きに変化が起きました。教科書や資料集を調べ出して、根拠を示して話し合うようになったのです。しかし、時間が足りずに十分な活動ができずに発表となりました。発表内容は、実際にはこうだから、この部分が間違っていると明確に指摘しているものはやや少なく、ここがおかしいという指摘にとどまっているものも目立ちました。また、資料のどこでわかったかを発表させても、その資料を実際に確認する子どもがあまりいませんでした。

そこで次の授業では、講談の最後に南海師匠が、「私の嘘は、全部教科書や資料集に載っていることばかりです」と付け加えました。授業者も作業の簡単な指示だけをして、すぐにグループ活動を始めました。子どもたちは、待ってましたとばかり自分の考えを話し始めます。しかし、そのあとすぐに教科書や資料集で確認を始めました。資料で確認がおわると、見つかった間違いをつぎつぎにまとめていきます。発表も最初の授業と比較して根拠が明確に示されています。資料のどこでわかったかを発表に対して、ほとんどの子が実際にページをめくって確認していました。自分たちも資料を調べていたので、ちゃんと確認したくなるようです。

どちらの学級でも、子ども同士の関係や話し合いでの聞く姿勢はきちんとできています。学校全体で学び合いに取り組んでいる成果が出ています。しかし、基本となる部分ができていても、教師のちょっとした働きかけ、指示の仕方など、授業の進め方で子どもたちの学びの姿は大きく変わるのです。
子どもたちの様子から、すぐ次の授業を修正した南海師匠と授業者の対応力は素晴らしいものがあります。そのおかげで私も多くのことを学ばせていただきました。

講談と社会科のコラボ授業

毎年この時期に行われる、講談と社会科のコラボ授業を参観してきました。当初は中学校1校での試みでしたが、近隣の学校も巻き込み、昨年からは1週間かけて3校での実施となりました。この授業のために大阪から毎年旭堂南海師匠においで願っています。

この授業のベーシックな形は、南海師匠が歴史に関する話をして子どもたちがその嘘を見つけて発表するというものです。日ごろ触れることのない講談という大衆芸能に触れ、そこから歴史の面白さを再発見してもらおうというのがねらいです。この授業の成否は子どもたちが話にどれだけ引き込まれるかにかかっているのですが、そこは師匠、毎回子どもたちの反応に合わせて話のテンポや語り口を変え見事に引きつけます。
今回は幕末をテーマに3つの事件や人物についての話でしたが、子どもたちが引き込まれるからこそ、日ごろの授業の課題が浮き彫りになってきました。

授業は単にグループで間違いを指摘するのではなく、その根拠を教科書や資料集に求めるという形で進みます。最初の授業では固有名詞や事実の単純な間違いを中心にしたのですが、子どもたちは資料に基づく話し合いになれているので特に混乱はありません。スムーズに進んでいきます。ところが子どもたちのグループ活動は活発になりません。各自が資料で間違いを確認してそれを互いに発表し合えばそれで終わってしまうからです。

そこで、次は関税自主権や治外法権といった用語の説明、事件が及ぼした影響を間違いに加えました。今度は、教科書の説明と南海さんの話の説明とは逆だときちんと友だちに説明しています。説明が必要になるため、話し合いは最初の授業よりも明らかに活発になりました。子どもたちは単に用語を覚えているだけでなく、きちんとその内容も理解しているようです。
ところが事件の影響の誤りはどのグループもキチンと指摘することができませんでした。「大塩平八郎の乱は1日で鎮圧され、幕府の力を恐れて以後逆らうものが出なくなった」という話の間違いに気づかないのです。教科書には「幕府を驚かせた」という程度の記述なのですが、そこからこの事件の影響を想像できていないのでしょう。
用語や事件の内容は理解できているのですが、点でとらえているため、事件の関連や互いの影響を意識できていないのです。

一連のコラボ授業の結果、子どもたちに歴史の関連性をきちんと考えさせることができていないことが明らかになりました。子どもたちが話に引き込まれ真剣に取り組むからこそ課題が明確になったのです。先生方はこの課題解決のためにこれから授業を工夫していくことと思います。それに伴いこの講談と社会科のコラボ授業もまた進化していくことでしょう。今から来年が楽しみです。

教科を好きになる

若い先生に、「どんな授業をしたい」「子どもたちにどうなってほしい」という質問をよくします。最近よく聞く答えが、その教科を「子どもが好きになる」です。

まず、興味関心を持ってもらうことが第一歩。
好きになれば勉強をするから力も付く。

このように答える先生の授業を見て気になることがあります。
それは、どうもその「教科を好きになる」ではなく、その先生のその「教科の授業を好きになる」を目指しているように見えることです。

雑談やクイズで盛り上げる。
物を作ったり、作業が多い。
子どものテンションが上がる場面が多い。
考える場面が少ない。
説明は先生が面白おかしくする。

こんな特徴があります。

誰でも参加できること、誰でもできることを中心にすることで子どもは活動します。先生の話が面白ければ、確かに子どもは楽しそうです。しかし、これだけで本当にその教科を好きになるのかよくわかりません。おもしろいショーに参加して楽しんでいるとしか見えません。子どもが自分たちで考えて問題を解決する姿が見られないからです。自分で考え、「わかった」「できた」「そういうことか」と教科内容を理解して、またこんな課題を「考えたい」と思って初めてその教科を好きになったといえるのではないでしょうか。

好きなることで考えるという発想だけでは、子どもは考えません。考える場面が授業になければ、考える必要がないからです。自分で考える、自分で解決するという経験を積んで初めてその教科が好きになるのだと思います。

教科を好きになることと先生を好きになることは違います。楽しい、おもしろい先生になって好かれることは教師の目的でありません。その先生がいなくなっても、その教科を好きであり続けるような授業を目指したいものです。

子どもたちと向き合うことで課題は見つかる

昨日は終日、中学校で若手の授業参観とアドバイスを行ってきました。
2年目の英語の教員は、去年と比べると子どもたちときちんと向き合えるようになっていました。

フラッシュカードを利用した単語の発音練習の場面です。先生の発音に続いて全員で発音することを繰り返し練習した後、個別に指名して確認をしました。先生が黙ってフラッシュカードを見せて発音させたところ、きちんと発音できません。2人目がダメだった後、すぐに全体での練習をやりなおしました。よい判断です。
授業後、全体ではあれだけ大きな声で発音できていたのに、なぜ個別には発音できなかったのかを話し合いました。子どもが彼の授業の課題を教えてくれたのです。耳で聞いて発音する、目で見て発音することとの違い。それを同時にすることの難しさを彼は気づいてくれたようです。これからはこのことを意識して授業を工夫してくれると思います。
その後、授業で困っていることを聞いたところ、指名の仕方、板書の使い方など具体的な質問がたくさん出てきました。これは大変な進歩です。漫然と授業をしている先生からはほとんど質問は出てきません。毎日の授業で子どもたちが見せる姿から、自分の課題を見つけているのです。子どもたちと真剣に向き合っている証拠です。

子どもたちを見る力がつけばつくほど、課題もたくさん見つかります。その課題を解決するためにいろいろと工夫をすることで力がつきます。子どもたちの事実から目をそむけず、しっかりと向き合うことが授業力向上には欠かせないのです。

2つの私学から元気をいただく

先週末と今週は2つの私学を訪問しました。両校とも学校改革に積極的に取り組んでいる元気な学校です。コラム記事のための取材でしたが、大変よい勉強をさせていただきました。

学校のタイプも校長のキャラクターもずいぶん違うのですが、共通点がたくさんありました。校長のマネジメント力があることはもちろんなのですが、校長と教頭のコミュニケーションのよさと互いの役割分担が明確なことです。

力のある校長は自分でどんどん企画して指示をすることが多いのですが、それでは教職員はやらされている感が強くなってモチベーションが上がりません。考え方や方向性は具体的にはっきりと示すが、個々の企画については担当者に考えさせることが大切です。両校とも教員のモチベーションをうまく引き出すマネジメントをされていました。
その際に鍵となるのが教頭の役割です。ただ校長の考えを他の教職員に伝えるだけではダメです。その指示を具体化するにあたって担当の考えをまとめる手伝いをしたりアドバイスをしたりする人間が必要です。両校ともこの役割を教頭がきちんとこなしていると感じました。これは校長では難しいのです。なぜなら、校長は決定者なので、本人にそのつもりがなくてもアドバイスが指示に取られてしまうからです。だから教頭なのです。

元気な学校を訪問すると必ず元気な管理職に出会うことができます。元気な学校は管理職に負うところが多いのです。2つの学校から私も元気と知恵をたくさんいただくことができました。

野口芳宏先生から学ぶ

教師力アップセミナーで、野口芳宏先生のお話しを1年ぶりに聞かせていただいた。今回の目玉は、若手の授業実践のビデオを見ての先生の解説であった。

授業を見る視点の鋭さ、明快な解説には学ぶことが多い。今回の授業をもとに、ワークシートのあり方、動作化についてお話しをされたが、特に教材内容と教科内容という視点で動作化をとらえたのは私にとっては新鮮で、自分の視野の狭さを反省させられた。

しかし、それ以上に学んだのは、授業の切り取り方であった。授業者のよいところをきちんと評価されていたのはもちろん、問題点を取り上げるにも、この授業の問題としてではなく、手法そのものの問題としてより一般化してお話しされた。こうすることでこの授業に対して参加者は否定的な気持ちにならずに話を聞くことができる。授業者も素直に受け入れることができる。私は授業を解説したり、アドバイスをする場面にこういった配慮がきちんとできているのか、授業者や参加者にネガティブな気持ちを持たせていたのではないか。反省させられることばかりである。

野口先生の厳しいが温かい語りは、私のようなひねくれ者にも素直な気持ちを思い出させてくれる。私自身、人をこのような気持ちにさせることができるようになるのは一体いつのことなのだろうか。遠い道のりだが、一歩ずつ前進しようと思いを新たにさせていただいたセミナーだった。

パネリストで反省しきり

先日、シンポジュウムでパネリストを務めました。コーディネーターをすることが多く、いつもと逆の立場での参加は新鮮で、学ぶことが多くありました。

私に与えられたテーマは「授業づくりについての実践的、現代的な観点からのコメント」でした。

授業の主役は教師ではない。子どもの学びを大切にする。そのためには、結果よりも過程を重視したい。
また、教師がおいしいところを持っていく例として、子どもたちに一番よい資料を与えずに考えさせて、最後に教師がその資料をもとに解説するというよくある場面をあげました。

ところが、休憩時間に集めた質問には、

なぜ結果より過程が大事なのかわからない?
今の子どもはすぐに答えを求めたがるので、じっくり考えさせるためには正解はすぐに出さない方がよいのではないか?

といったものが、複数ありました。

今回会場には、「学びの共同体」の実践校の先生、そうでない先生、大学の教職員、学生、一般の方、多数の方が参加されていました。いろいろなバックボーンを持った方全員にきちんと伝わるように話ができていなかったことを強く反省しました。

後半の討論では、できるだけ他者の意見に関わるように、また違った視点で話すことで、内容が広がるようにと考えていたのですが、空回りすることが多かったように思います。私自身がライブ感を大切にしようとして、事前に今回のテーマについての自分の考えをきちんと整理できていなかったことがその原因の一つです。また、他のパネリストの方がよく知っている方ばかりだったので、甘えがあったのかもしれません。
他のパネリストの方、参加された方には申し訳なく思います。

反省事項はたくさんありましたが、だからこそ次のチャンスにはそれを生かしていきたいと思います。さしあたって、2週間後に迫った読売教師力セミナーでは、コーディネーターとしてこの経験を生かしておもしろいものにしたいと思います。

チャレンジするからこそ悩む

昨日は終日授業参観と検討会に参加をしてきました。4月から見続けている子どもたちですが、2学期になって表情のよい子どもたちが増えてきたように感じます。先生方のいろいろな場面での指導の成果が表れてきているのでしょう。

授業後若手の先生何人かとお話しをしました。今日の授業を通じて困っていること悩んでいることを尋ねたところ、非常に明確に話してもらえました。質問も実に具体的です。以前は抽象的な質問が多かったのですが大きな違いです。例えば、

子どもが関わりあう時間を増やすことを意識して課題や活動を考えてやってみたが、思ったように活動してくれなかった。

下位の子どもが本時の課題に関連して次の時間の課題を質問してきた。彼の意欲をなくさないため取り上げて授業の順番を入れ替えたのだが、時間が足りなくて途中で保留にして先に進んでしまった。

彼らが明確な意図を持って授業に取り組んでいることがよくわかります。新しいことにチャレンジすると最初はうまくいきません。またうまくいくようになればなったで、新たな課題がたくさん見つかります。同じ悩んでいるといっても、ただ漫然と授業がうまくいかないと言っている状態とは全く違うのです。

うまくいかなかった授業のあと、工夫をしたら子どもたちの活動が変わった。友だちの意見に関わった発言が出てきて楽しく授業ができた。

まだまだうまくいかないが、下位の子どもたちが参加できるように意識して授業を続けたら、試験でいつもは白紙に近い子どもが答えを少し書いてくれるようになった。それも記号ではなく記述問題で。授業中にその子が参加できたところの内容だった。

このような言葉を笑顔とともに聞くことができました。授業をよくしようとすることは一朝一夕でできることではありません。その過程では苦しむことあります。けれど子どもたちが必ず先生にご褒美をくれます。それが励みとなって前へ進めるのです。

どの先生とも笑顔で別れることができました。次に会うときはまた成長した姿を見せてくれると思います。

大きな声がでればいいのか

教師の言葉や発音を子どもたちに繰り返し練習させる場面があります。全員がしっかり声を出している姿は気持ちのいいものです。単語の発音練習のように覚えたことを定着させるための訓練だけでなく、動詞や主語を変えて文をつくる練習のように考える場面でもよく見かける場面です。考える要素が強い一斉練習のときに注意してほしいことがあります。

「be going to を使う練習をしましょう。I play the piano.」
「I am going to play the piano.」
「声が小さいね。I am going to play the piano.」
「I am going to play the piano.」
「声がしっかり出てきたね。はいもう一度。I am going to play the piano.」

子どもたちが大きな声を出せるのは自信があるときです。ですから、教師が正解を言ってくれたあとでは、しっかり声が出ます。しかし、きちんと理解できているかどうかは疑問があります。耳から聞いた教師の言葉をそのまま言っているだけの子もいるからです。教師が正解を言わなくて全員が一斉に大きな声で正しく言えるときは定着できているときですが、意外と難しいものです。そこで、すぐに答えを言って全員に大きな声を出させて練習させようとするのです。

ポイントの一つは、子どもが考える時間を少し取ることです。フラッシュカードを使った単語練習のように、すぐに反応を求めるとまだ考えているのに答えを言わなくてはなりません。力のある子だけで進んでしまいます。質問の後に少し間を取り、それから答えを言うように合図をします。子どもの理解が進めば間を短くしていけばよいのです。そこで大きな声が出ないようであれば、オープンカンニングを使えばよいのです。
また、何人かを指名してそれから全員に答えさせる方法もあります。教師の正解と違って、子どもは参考にしながら考え続けます。
最後に全員が大きな声で言えるようになるまで繰り返してください。そして、何人かを指名してきちんと理解できているか確認してください。

子どもが一斉に大きな声で答えているから理解できている、定着しているとは限りません。子どもが考え、理解し、定着していくための過程を意識した活動をしてほしいと思います。

セミナー会場下見

昨日はセミナー会場設営のための下見に行ってきました。

機材の調査とテスト中に突然マイクから音が出なくなり、対応に追われました。原因はデジタルの放送機器の内部データが何らかのはずみでおかしくなったためでしたが、私たちでは対応できず、急遽業者の方に来ていただくことになりました。結局復帰まで2時間以上かかってしまいました。緊急に対応してくれた業者の方に感謝です。
また、その間担当の職員の方もずっと付き合っていただき本当にありがたく思いました。

業者の方の作業中、今年度就任された広報部長の先生といろいろなお話しを伺うことができました。
大学をよくしようとする思いとなかなかそこに至らないご苦労、教育機関としての大学のあるべき姿など、いろいろと勉強させていただきました。先生の目指すところが実現していくことで、より素晴らしい学校になっていくと思います。

突然のアクシデントでしたが、貴重なお話しを伺うことができてとても有意義な時間を過ごすことができました。

若い先生のチャレンジ

昨日は英語の授業研究に参加しました。

若手の先生ですが、子どもたちが考えたり集中するような工夫がたくさんありました。どのような子どもたちに育ってほしいかがよく伝わります。目指す授業に近づくために、いろいろとチャレンジしているのです。

導入場面では、絵を使いながら簡単な笑い話を英語で話しました。子どもたちにとってはそんなに簡単なものではありませんが、だからこそ理解しようと集中して聞いていました。
ペアでの新しい語句の活用練習では、単にプリントの文章をそのまま読み合うのではなく、プリントに書かれた情報をもとに文をつくって言い合います。単純なパターンプラクティスと違い、頭を使って文をつくる必要があるので一見すると活発には見えません。しかし、子どもたちは集中して取り組んでいます。言葉がぽつぽつとしか出ない子もいますが、一生懸命考えています。互いに相談して助け合っているペアもたくさんありました。

検討会でも、具体的な場面に沿ってここがよかった、ここは別の工夫があるかもしれないと活発な意見交換がされました。参観者も授業者と子どもたちの姿からたくさんのことを学べたと思います。

工夫したことがいつもうまくいくわけではありません。むしろ失敗することの方が多いと思います。大切なのはそこから学んでいくことなのです。今回の授業も思ったようにいかないところがあったかもしれません。しかし、そこから目をそむけずその原因を考え、工夫をしていけばいいのです。次の授業ではまた新しいチャレンジを見せてくれるものと期待しています。

大学の講義の様子に思う

たまたま大学の講義を見る機会がありました。建物を見るのが目的だったのですが、時間の都合で授業中に教室に入ることになってしまい、失礼ながら講義の様子が目に入ったのです。

講義の中ごろだと思いますが、すでに半分くらいの学生は机に倒れていました。後ろの方では、背中を向けて友だちと雑談をしている者もいます。起きている学生も話を聞いているものはほとんどいません。講師の先生は学生の様子に頓着せず、淡々と話を続けています。ちょっと悲しくなりました。
学生にとっても講師にとっても不幸な時間です。今の学生は、大学の先生の授業技術はと非難する気はありません。この講義が大学の講義を代表するものだとも思いません。ただ、この状態を改善するにはどのようなことが必要なのかを考えさせられました。

もう何年も前のことになりますが、私が関わらせていただいていた中学校で、授業を改善しようという動きが起こりました。そのころ教室にはやる気のない生徒、寝ている生徒の姿が目についていました。何とかしたい、せめて寝ている子をなくそうと先生方は授業改善に取り組みました。数年後には寝ている生徒の姿を見ることはなくなりました。これは一部の先生の頑張りで達成できたのではありません。「私の授業は大丈夫」「あの先生の授業はちょっと」と個人の問題とせず、共通の理解のもとに全体で取り組み、授業を工夫し、互いに公開し、学び合って達成できたのです。

いま大学では学生による授業評価が進んでいます。しかし、授業改善を先生個人にゆだねていてはなかなかよい方向には向かわないと思います。授業を先生方の共通の問題とすることが改善への第一歩だと思います。

学びの多い授業検討

昨日は中学校の授業研究に参加しました。授業検討は大変内容の濃いものでした。

はじめに授業を撮影した2名の先生がそれぞれ授業の場面を紹介するのですが、明確な視点で子どもの様子や変化を伝えてくれました。

グループ討議は固有名詞でたくさんの子どもの事実が語られていました。子ども同士のかかわりとそれによる変化、資料(DVD)を見た後の子どもの変化なども丁寧に語られ、子どもの事実から学ぼうとする姿勢がしっかりと見られました。

その後の全体討議は、従来行っていたグループの代表が話し合いの内容を紹介するものではなく、話し合いを通じて自分が気づいたこと、感じたことが発言されていました。一人ひとりの発言もしっかりつながることで、議論の視点が広がり、内容が深まっていきました。互いに学びあえるものになっていました。

先生方が今までの授業研究を通じて成長されたこともありますが、担当の教務主任の先生が進め方をいろいろ工夫されたことがよい結果につながっていると思いました。
授業と授業検討会の両方からたくさんのことを学ばせていただきました。

子どもの発言量を増やす

教師が質問するとなかなか口を開いてくれない子どもも、友だちから聞かれると一生懸命答えようとします。このことから子どもの発言量を増やすことを考えてみたいと思います。

基本的に教師は答えを知っている人です。ある意味教室では絶対者です。その教師に答えを問われるということは、自分の発言を間違っているかどうか高いところか判定されることになります。間違いと言われたくないので、どうしても発言しづらくなります。よほど答えに自信がない限りプレッシャーがかかってくるのです。
一方友だちは、対等な関係なので意見が言いやすいのです。ですからペアやグループで相談することは子どもの発言を増やすための確実な方法なのです。

このとき注意しなければいけないのは、友だちの発言に否定的なことを言わない雰囲気をつくることです。互いに認め合える状態は子どもたちだけではつくれません。教師が子どもとの日ごろのやり取りの中で受容的な態度を取っていることが大切です。子どもは教師の鏡なのです。
また、できる子がグループ全体を仕切ってしまわないような注意も必要です。できる子が絶対者になってしまうと、他の子は引いてしまいます。できる子ほど待てる、聞ける力をつけてほしいのです。
司会などの役割は決めずに、話すことより聞くことが大切であると常に伝え、相手の顔を見て、うなずきながら聞くことなどを指導することが大切です。

では、全体指導の場で発言を増やすにはどうすればよいのでしょうか。
子どもの発言を引き出すにはで述べたことのほか、正解、不正解を判断しない問いかけが有効です。

「考えたことを教えて」
「○○と思った」
「なるほど、同じように考えた人いるかな。ああ何人かいるね」
「それで、そのあとどうなった」
・・・

「どんなことをやってみた」
「△△をやってみた」
「なるほど、それでどんなことがわかった」
・・・

子どもの発言量を増やすためには、安心して話せる状況が必要です。教師と子ども、子ども同士、いずれの場合も否定的な言葉がでない、互いの発言を聞き合える受容的な雰囲気作りを心掛けてほしいと思います。

答え合わせをどうする

問題を解いた後は答え合わせをするのが普通ですが、漫然と正解の確認をしているだけのこともよくあります。答え合わせは何を意識すべきなのかを考えてみたいと思います。

まず一番に意識してほしいのは、どのようにすればできなかった子どもができるようになるのかということです。

知識の確認や復習の問題は覚えているかどうかの問題なので、正解を示せばよいように思います。しかし、単に正解を示してそれを写させてもその知識は定着しません。既習事項であれば教科書やノートに答えがあるはずですから、自分で調べればよいのです。もし答え確認したければ、まずどこで習ったか、どこに書いてあるかを発表させて自分で確認させるのです。こうすることで、より定着を図ることができます。

「今から復習をしよう。どうしてもわからなかったら教科書やノートを見ていいからね」
・・・
「これはどこでやったか教えてくれる」
「○○です」
「わからなかった人、見つかったかな」

教科書や資料を調べるような問題も同様に、答えでなくどこで見つけたかを発表させればよいのです。

では、知識ではなく、考え方や途中が大切な問題の場合はどうでしょう。
子どもに正解を言わせて教師、または子どもが説明するパターンが多いと思います。答えや説明を板書することも多いはずです。このとき、これが正解ということを先に示すと、正解した子どもは安心して集中力をなくします。一方間違っていた子どもは、きちんと正解をノートに写したいので、説明を聞くよりは板書を写すことの方に意識がいってしまいます。正解した子もできなかった子もきちんと参加して学びあえるようにする必要があります。

「Aさん、考えを教えて」
「・・・」
「なるほどね。Aさんと考えが似ているという人いる? じゃあBさんの考えを聞かせて」
「・・・」
「なるほど。二人の考えを聞いて納得した人」
「じゃあCさん黒板に書いてくれるかな。みんなは自分でノートに書いてね」
・・・

このように、正解した子どもの活躍の場を増やすと同時に、できなかった子が友だちの考えを聞いて再度挑戦できるような時間を確保することがポイントです。できていない子どもが多いようであれば、いきなり答え合わせをせず、途中で一旦作業を止めて、ヒントになることを子どもから引き出しておくことも有効です。また、板書は答えだけでなく、答えを導くための過程や視点が残されていることが大切です。正解だけが書かれたノートを見てもできるようにはならないからです。

正解を示して説明すればできるようになるわけではありません。答え合わせは、できた子どもを活躍させながら、どういう活動を加えればできなかった子ができるようになるかを工夫してほしいと思います。

学校が動き出す

昨日は、中学校で授業アドバイスと指導案の検討を行ってきました。

4月5月と比べて子どもたちの表情が柔らかくなってきました。どちらが先かわかりませんが、先生方の表情も柔らかくなってきました。子ども同士が関わり合う場面が確実に増えています。参観した先生方の授業は以前と比べて工夫や変化が見られました。

どなたもよい授業をしたいという思いは持っています。しかし、思いだけでは授業は変わりません。うまくいくかどうか別として、机の向きを変える、課題を変える、発問を変える、指名方法を変えるといった何らかの工夫が必要です。よい授業をしたいという思いを、授業の変化という形にすることが第一歩なのです。

この学校では、その変化が起こりだしたのです。一部の先生だけなのかもしれません。すぐによい結果が表れないかもしれません。しかし、間違いなくこの動きが、学校をよくするきっかけになると思います。大きな変化も最初は目に見えないような小さな変化から始まるものだからです。

指導案について思う

先週末は中学校で授業参観と研究発表当日の指導案のアドバイスを行ってきました。

A4で2枚の指導案なのですが、授業の細部まで伝わってくるものと、なかなか見えないものがあります。その差はどこから来るのでしょうか。
ここでの説明は具体的にこうしよう、わからないようだったらこうしよう、ここでの活動はここを中心に見ようと授業者が具体的な授業イメージ(子どもの姿、それに対する自分の対応)を持っているかいないかの違いが大きいのです。
授業イメージが固まっていない指導案は、流れは書いてあるのですが、具体的な記述が少ないのです。

「説明する」
「指示する」
「できていない子を個別に支援する」

こういう言葉は書かれているのですが、具体的に「・・・」と説明する、指示する、「・・・」ができていない子には「・・・」という支援を行う、といった記述が少ないのです。どのように説明するのか、支援するのかを直接聞いても明確に答えられなかったりします。

指導案は事前に授業を検討するために作るものだと思います(授業を参観する方のためという視点もありますが、それは二義的なものでしょう)。事前に授業のイメージを明確にするための作業の結果と言ってもいいかもしれません。そこがはっきりすれば、どう改善すればよいかを事前に考えることもできます。
指導案を通じて事前に授業を検討することはよいことですが、授業が始まってしまえば、もう指導案にこだわる必要はありません。実際の子ども状況で授業はどんどん変わるものだからです。

授業をよくしていくために必要なのは、事前にどんな子どもの姿を見たいかを明確にし、そのために何をするかを具体的にし、実際の子どもの姿から学ぶことだと思います。指導案という形式にこだわらず、授業のイメージを明確にすることを毎日の授業で心掛けて、子どもの姿から学んでほしいと思います。
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