子どもの発言を引き出すには

学年が上がるにつれ、「子どもが意見を言わない」、「挙手しない」という声をよく耳にします。本当にそうなのでしょうか。

子どもの発表に対して、教師は「正解」や「自分に都合のよい意見」を期待しています。そのため、そうでない意見は無視したり、自分に都合がよいように子どもの意見を勝手に変えたりします。
正解以外は評価されないのでは、正解であると自信があるとき以外は発言できません。また、何を言っても、最後は教師が自分で言いたいことをまとめると気づけば、あえて自分が間違いかもしれない意見を言う必要はないと思います。
負の経験を積んでいくことで、子どもは発言しなくなるのです。

では、どうすればよいのでしょう。まず、どのよう発言でも認めることです。正解でも、不正解でも「はい、正解」「違うよ」などと言わずに認めるのです。

「・・・だと思います」
「なるほど、・・・だと考えたんだ」

では、正解、不正解を教師が判断せずにどうやって子どもに判断させるのでしょうか。一問一答にせずに、何人にも聞けばよいのです。
教師が正解と言わなければ、何人にでも聞けます。最低3人に聞くようにしてほしいと思っています。3人とも正解であれば、「みんな同じようだけどいいかな」と確認して終わればよいのです。
もし、異なる答えが出たなら、

「Aさんと違う考えだね」
「Aさんはどう思う」

このように、子ども同士をつなげばよいのです。多くの場合、間違えた子は再度確認すると、自分で間違いを訂正します。

「あっ違っていた。・・・です」
「なるほど、・・・なんだ。自分の考えを訂正できるのはいいことだね」

このように、訂正できることをポジティブに評価します。
どうしても、異なった答えが収束しないときは、まわりと相談させたりしながら、できるだけ子どもたちの力で解決するようにします。

大切なことは、何を言っても受け止めてもらえる。例え間違いでも、意見を言うことに価値がある。自分の意見がみんなの役に立った。このように子どもが感じられるような対応を心掛けることです。

学校訪問参観

昨日は学校訪問の公開授業、授業研究を終日参観させていただきました。
この学校に関わらせていただいて1年が立ちます。自分の目で見た子どもたちの様子の変化を、訪問された指導主事の皆さんがどのように評価されるか大変楽しみでした。

昨年に引き続き訪問された指導主事の方は、気になっていた学年の子どもたちの雰囲気がとてもよくなっていると喜んでおられました。
また、教師のかかわり方はどうあるべきかを知り合いの指導主事と子どもたちの姿をもとにお話しする機会があり、大変勉強になりました。

授業研究は、子どもたちの授業に集中している姿、友だちとかかわり合いながら活動する姿などが随所に見られました。先生方の日ごろの子どもたちへの指導の素晴らしさを示すものです。

指導主事の講評でも先生方の頑張りと子どもたちの進歩を評価され、私もとても幸せな気持ちになれた1日でした。

まず全員を動かす

授業で「分からない人は手を挙げて」というように、子どもに何らかの動きをさせることで評価をする場面がよくあります。子どもが手を挙げないので大丈夫だと思ったら、かなりの数の子どもが理解できていなかったということはよくあります。分かっていない子はなかなか自分ができないこと表明しづらいものです。そのため、動かなかったり、動くまでに時間がかかったりします。何か行動を起こさせるにはかなりのエネルギーが必要なのです。

そこで、こういうときは、まず全員を一斉に動かします。そのあと、分かった人はもとの状態に戻るように指示します。

「全員手を挙げて。挙がったね」
「では、分かった人は手を下して」

「全員一度立ってみよう」
「分かった人は席に座って」

このやり方ですと、最初の行動は全員同じ行動なので、無理なく動かせます。次の行動は、明確に意思表示できる子以外はすぐには動きません。はっきりと分かっていると言えない子は、しばらくしてから動き出します。このときの子どもの反応速度や動き方を見ることで学級全体の理解の状態がよくわかります。

読売教師力アップセミナー打ち合わせ

昨晩は読売教師力アップセミナーの模擬授業予定者を交えての打ち合わせでした。
今回のテーマ「キャリア教育」をどう授業として実現するかについて、意見の交換を中心に話し合いました。

そもそもキャリア教育って子どもがどうなればいいの?
授業の最後に子どもが何と言えばいいのか?
・・・

まさに、授業がいかにしてつくられるかという上質のドキュメンタリーを見ているようでした。この部分を当日のパネルディスカッションで再現できるよう頑張りたいと思います。

さすがは授業名人

昨日は3名の授業名人の授業を参観させていただきました。そのうちお二方は、若手が作った指導案での授業という制約の中でのものでした。

内容的に盛りだくさんだった指導案に対しては、子どもとのやり取りと教えるところをきちんと整理されて時間内できちんと内容を押さえられていました。

子どもとのやり取りを大切にされた授業では、子どもからの発言をしっかり受け止め、必ずポジティブな評価を返されていました。印象的だったのは、演示を見るために生徒が集まったときのことです。前列の生徒が後ろに気遣って自主的にしゃがみました。そこですかさず「かしこいね」とほめられたのです。こういった他者への気配りに対してほめることは、生活指導面でとてもよい影響を及ぼします。授業で生活指導をするということをいたるところで具現化されていた授業でした。

最後に見せていただいた授業は、子どもに自己評価を意識させ、集中して取り組ませる素晴らしいものでした。技術系の授業で互いにかかわりながら学ぶとはどういうことかを学ばせていただきました。

このような機会を与えていただいた学校にも本当に感謝です。

知識から考えることへどうつなぐか

知識は教えるか、調べるしかありません。知識の確認は覚えているかいないかです。では、そこから考えることにつなげるにはどんな方法があるでしょうか?

「・・・はどういう意味ですか? わからない人は辞書で調べて」
「・・・という意味です」
「では、この言葉を使って短文を作ってみましょう」

「仕事の定義を言ってください」
「力×力の方向に動いた距離です」
「では、この場合の仕事はどうなるだろう」

このように、具体例作ったり、具体的に利用することで、知識をもとに考えることへとつながっていきます。知識を教えたり確認する場面では、具体化とペアにすることが大切です。

授業名人とお会いする

昨日は、理科と数学の授業を参観してきました。その授業のアドバイスにいらっしゃった理科、数学の授業名人とお話をする機会を得ました。
さすがと感じたのは、子どもの様子やつぶやきをきちんと聞きとり、どう生かせばよいかを素早く判断されていたことです。指導技術や教科知識も大切ですが、子どもを見る力が素晴らしいことが、授業名人の授業名人たるゆえんでしょう。
明日は、お二人が同じ指導案をもとに師範授業をされます。どのような授業を見せていただけるのかとても楽しみです。

切り返しの言葉

子どもの発言は言葉足らずだったり、根拠がはっきりしないことが多いと思います。発言内容を明確にしたり、考えを深めたりするためにはどのような言葉を選べばよいのでしょうか?

よく耳にするのは、「なぜ」(Why)という切り返しです。理想の授業は、教師が「なぜ」と聞き、子どもがそれに応えるものだと思います。しかし、大人でも正面切って「なぜ」と問われると言葉に詰まってしまいます。きちんとした根拠をもった発言を求められているように感じるからです。

言葉足らずの発言から言葉を引き出すには、明確な説明を求めるのではなく、緩やかな聞き方が有効です。

「それって、どういうこと」(What)

こういう聞き方をすれば、子どもとしては何を言ってもいいので、言葉を引き出しやすくなります。そのうえで、足された内容について、具体的に問い返してあげればよいのです。

「なるほど、それはどこで分かったの?」(Where)
「どうやって気づいたの?」(How)

例えば、国語で
「主人公は、・・・と考えたのだと思います」
「それは、本文のどこでわかったの?」

調べ学習で
「・・・ということが分かりました」
「どうやって分かったの?」

子どもの考えを明確にし、深めるためには根拠を問うことが大切です。「Where」や「How」で聞くことで、視点が明確になり、子どもの考えが整理されるのです。

「Why」ではなく、「What」「Where」「How」で聞くことを意識してみてください。

参加者が幸せな気持ちになる会

先週末は学校評議員をしてる学校区の青少年健全育成会議に参加しました。

地区の代表や関係者の大人が集まって情報交換の会議をするよくあるものから、体育館で子どもたちを交えたイベントに変わって2年目です。昨年は形式的な発表や表彰を来賓として眺めているだけで、子どもたちの健全育成にどうつながるか疑問を感じたまま時間が過ぎていきました。
今年は、子どもたち全員が参加した大人と触れ合うような企画があり、また、生徒会からの発表も、自分たちの足で役所や施設を訪問し、子どもたちの視線での健全育成像を示してくれるものでした。
触れ合いの時間では子どもも大人も本当によい笑顔を見せてくれました。会が終わった後の参加した大人たちの表情が温かいものに変わっていたことがとても印象的でした。きっと私もよい表情をしていたことでしょう。

今回の企画は健全育成に関わっている地域の方の提案が発端だったようです。参加者の目線で考えられた企画とその思いを学校がしっかりと受け止めたことが、参加者が幸せな気持ちになる会をつくりあげたのだと思います。

この地区での新しい健全育成のありかたを作っていく第一歩が踏み出された瞬間に立ち会えたのだと思います。

板書を写す意味

教師が黒板に何か書くと、一斉に子どもがノートに写しだすシーンによく出会います。教師の説明も聞かずにひたすらノートをとり続ける子どももいます。教師もたまらず「後で書く時間をあげるから、話を聞いて」と指示を出したりします。
でも、そもそも板書を写す意味は何でしょう?

「あとで授業を振りかえるため」といった記録面を重視する
「写すことで記憶に残る」といった写す作業に価値を求める

いろいろな考えがあると思いますが、この2つに集約されるのではないでしょうか?

もし板書がそのままノートに残るという「記録」を重視するのであれば、書かせずにあとでプリントにして配れば済むことです。その時間をもっと有効に使う工夫をすべきです。板書はメモにとどめて、まとめは子どもが書く。その書いたことを互いに発表させて、その意見も取り入れて最終的に自分のノートを完成させるなどしてもよいでしょう。
「せめてノートだけでもとらせないと遊んでしまう」とノートをとらせれば、「ノートをとればそれだけで授業に参加した」と思う子どもを育てることになります。ますます、授業中に考えなくなります。この悪循環を断つ勇気が必要です。

もし、「写す」という行為自体を大切にするのなら、本当に写すという作業が目指すものにつながっているかを考える必要があります。
何も考えずひたすら板書を写しても、単に目に映っているものを写しているだけで記憶には残りません。「黒板を見ないで写して」と記憶する必要性を作る。数学などは黒板の一部を隠して、自分で埋めさせるという手もあります。

ほとんどの授業で板書を写す場面がありますが、写す意味を意識して板書の使い方を工夫してほしいと思います。

書籍の打ち合わせ

昨日は東京に出かけていました。School55.netで連載中のコラムをブックレットとして出版するための打ち合わせです。
私の文章力のなさを素敵なイラストとレイアウトでカバーしてくれている編集担当の方とも久しぶりにお会いできて、楽しい時間を過ごせました。
多くの方の助けで1年間続けてこられましたが、ブックレットとしてまとまった形にできることなり改めて感謝しています。
詳細が決まりましたら報告させていただきます。

授業を語るということ

昨日は中学校での授業研究に参加していきました。

小グループに分かれての授業検討は初の試みということを聞き、どのような話し合いになるか大変興味深く見させていただきました。中学校では教科性が強いので、他の教科の方はなかなか意見が言いにくいのですが、みなさん積極的に気づいたことを話しておられました。「この場面は自分教科だったらどうすればよいのか」と他人事ではなく自分の問題として真剣に考える姿も見られ、よい学びにつながったと感じました。グループでの検討内容の発表では、みなさん本当に真剣に他のグループの発表を聞いていました。今後授業研究を通じて先生方の授業がどのように進化していくかとても楽しみです。

教師と子どもが接する時間の大半は授業です。また子どもにとっても友だちと共通の時間を最も過ごす場面です。その授業のことを語り合うということは、教師と子ども、子ども同士の接し方を考えることであり、学級経営や生徒指導にもつながることです。

先生方が雑務に追われることなく、授業について語り合う時間をたくさん共有できるようになって欲しいと思います。

指導案をみんなで考える

昨日は、授業参観と指導案の説明会に参加しました。
研究授業当日の授業を見る観点を参加者全員で事前に共有する会でしたが、指導案の原案作成にあたっては、授業者だけでなく教科全体で作った授業であるという意識が感じられ、教科全体で検討されていることが良くわかりました。
ベテランと若手が一つの授業について意見を出し合い作り上げることは、これから新人が増えてくる学校現場にとって、大切なことだと思います。
ベテランの持つ経験と若い人の感性が混ざり合い、よりよい学校文化を作りだしてくれることと思います。
本番の授業が楽しみです。

学校の伝統はだれがつくるのか

何年も同じ学校と関わっていると、いろいろな取り組みとその後どうなっていくかを見ることになります。
新しい校長になり、新しい取り組みがされる。それがうまくいっても、何年か経ち次の校長になり、それが何のために始まったのかも忘れ去られ、形骸化されて、やがて消えていく。そんな取り組みもあれば、何十年と続くものもあります。伝統と呼ばれるものです。

伝統となるものと消えていくものの違いは何でしょう。
たとえ校長や教員が言い出したものでも、伝統となるものは必ず教師以外の力がそこに介在しています。

一番は子どもたち自身が、次の世代に伝えていくことです。子どもたちがその価値を認め後輩につないでいくことが、伝統を作り出していると思います。単なる打ち上げ花火ではなく、子どもたちの中にまた来年も、自分たちが卒業していなくなっても続けたいと思うものである必要があります。

もう一つは地域の力です。学校で行われていることを地域が認め、ずっと続いてほしいと願えば、たとえ校長や教員がすっかり入れ替わっても伝統として残っていくと思います。その前提となるのは、地域の方が学校でなにが起こっているかを知ることです。学校広報が大切であるといわれる理由の一つです。

どの学校にも素晴らしい取り組みがたくさんありますが、伝統となって継続していくものはごくわずかです。
学校に関わらせていただく中で、新たな伝統が生まれる時間を共有できることを楽しみにしています。

研究会で学んだこと

昨日参加した研究会で、子どもたちが学校を愛するための非常に参考になる取り組みを教えていただきました。
「子どもが学校を愛する」ために何を仕掛けるか?
それぞれの学校で、いろいろな取り組みが考えられているのでしょう。こういった取り組みは大変意義のあることですが、だからこそ、忘れてはならないことは何かを強く考えさせられました。

学校を愛する原動力は何でしょう。
そこで過ごした時間が自分に何をもたらしたのかではないかと思います。
別の言葉でいえば、どのような成長があったかです。

いろいろな仕掛けが大切なことは間違いありません。
ですが、そういった仕掛けが活きるためにも、どの学校でも毎日おこなわれている授業や学級活動が充実し、子どもの成長をきちんと保障するものでなければなりません。
このことを改めて考えさせてもらえるよい機会でした。

子どもの事実を受け止めての指導

昨日訪問した学校では一番驚いたのは、3年生の表情が以前と比べてとてもよくなっていることでした。昨年が悪かったというわけではないのですが、少し気なる子どもがいたことも事実です。ところが、その子たちがどこにいるのか、教室を回ってもわかりませんでした。他の子と同じようによい表情で授業に参加していたのです。この2年間の先生方の子どもたちへのかかわりがよい結果を生みだしたのだと思います。先生方の子どもへの対応も子どもの進歩にともない、よい意味で変化しています。

毎年入学してくる子どもたちは違います。また、新学期に見せる姿も変わります。先生方とお話して感じるのは、その子どもたちの姿を見て、それに応じた対応をしようとしていることです。この場面はこうするものだという型にはまった発想ではなく、日々変化する子どもたちの事実を素直に受け止めて接しているのです。

次回訪問する時にも、子どもたちのよりよい姿が見られる事を確信して教室を後にしました。

コミュニケーションをとるべき相手

教室に問題行動を起こす子どもや気になる子どもがいる時に教師が気をつけることは、誰と関わるかということです。
教室にそういう子どもがいると、どうしてもその子どもと関わる時間が増えてしまいます。授業中に対応に追われて授業が進まなかったり、その子にかかりきりでほかの子どもとは関わる時間がなくなってしまうこともあります。
逆に、その子を見れば注意しなければいけないので授業中に子どもを見ないようにしてしまうこともあります。問題のある子どもにかかりきりにならないことは大切ですが、これでは、他の子どもたちとの関係もなくなってしまいます。
いずれにしても、数人の問題で、大多数の普通の子どもたちと教師のコミュニケーションまでもなくなってしまいます。こうなると、学級全体と教師の人間関係築けません。問題行動を起こす子どもが数人いても、他の子どもたちと教師の関係がしっかり築けていればすぐには学級崩壊にはつながりません。しかし、普通の子どもとの関係が壊れていると、何か起こった時一気に学級は崩れるのです。

問題を抱えている子どもとの関係作りは時間をかけてやるしかありません。また、そういう子どもとの関係作りには時間をかけます。目立たない普通の子どもはどうしても教師からほっておかれたり、後回しにされます。問題を抱えている子どもがいるとなおさらです。しかし、多数派であるごく普通の子どもとの関係を作ることの方が急務であり大切なのです。

私が、教室を見て「学級が危ない」と感じるのは、問題行動を起こす子どもがいるかどうかではなく、ごく普通の子どもと教師の関係が築けてないと感じる時です。特に新学期は普通の子どもとの関係作りが大切です。学級崩壊の芽は今育っているのです。

作業の指示をどう工夫するか

授業では子どもたちに作業をさせる場面がたくさんあります。

地図を見てワークシートに山や川の名前を書きこむ。
教科書の例文を写す。
板書を写す。

こういった作業を授業時間中におこなう理由は何でしょう?
写した結果は重要ではありません。教科書や地図帳を見ればのっていることであればそれを見ればいいのです。板書だって、あとから印刷して配れば十分です。貴重な時間の無駄です。とすれば、その狙いは作業させること自体にあるわけです。作業させることで「定着させたい」。だから貴重な授業時間を使ってやらせるのです。
では、実際はどうでしょうか?
写すことや書く作業では単純に見て写しても定着しません。また活動に対する評価が無いので漫然と作業します。女の子が美しいノートにこだわるのも、写すという単純作業に対して「美しい」という評価規準を与えることでモチベーションを保っているのです。
そこで、作業の指示をする時にちょっとした条件や評価を入れるのです。
例えば、

「黒板を見ないで写して」
「例文は、1文ずつ一気に写して」
「地図帳を閉じてからワークシートに写して」

と指示し、

「でも、わからなくなったら見ていいんだよ。できるだけ見る回数を減らそうね」

とつけ加えておきます。
こうすることで、単純作業にも目標と評価が定まり、モチベーションアップにつながります。作業後、隣同士のペアで確認をすれば子ども同士の関わり合いをつくることもできます。
作業の指示を工夫するだけで、子どもの意欲や集中度は驚くほど変わるものです。

新しい子どもたちと出会う

昨日は、今年度から授業研究のお手伝いすることになった学校で研修主任と丸一日学校を回って、子どもたちの様子をじっくり見ました。
ある意味幼く素直な子どもたちで、授業中に見せる行動や態度が、教師との関係を明確に反映していました。気になる点もたくさんあるのですが、逆にこの子どもたちであれば教師が接し方を少し変えるだけで、大きく進歩するだろうと感じさせてくれました。
最後に研修主任の授業を1時間じっくりと見せていただきました。中堅として実力も十分にある方ですが、自ら新しい授業スタイルにチャレンジし、授業改善に取り組んでいました。
この子どもたちと先生方なら1年後はきっと素敵な授業をたくさん見せてくれることと思います。

「わかる」と「できる」のギャップ

先週末は、「教師力アップセミナー」で上越教育大学の赤坂先生のお話を聞かせていただいた。今回は「勇気づけの学級づくり」というタイトルであった。

赤坂先生の表現とは異なるが、

不適切な行動を叱るのではなく、子どもの適切な行動を認め、励ますこと。
反省よりは次の行動を考えること。
行動の結果を想像させること。
明るいゴールを意識させること。

と理解した。

わかりやすい説明で、みなさん納得されたと思うが、講演を聞いてわかることとできることの差は非常に大きい。特に経験の少ない教師は、教わった通りにやっているつもりでも、前提となる関係が築けていなかったり、正しく理解できていなかったり、さまざまな要因できちんとできていないことが多い。これを自分で気づいて修正することは非常に難しい。授業を公開して、子どもの事実をもとに考え、改善することが大切になる。

私が学校からの研修依頼に対して、講演ではなく、授業を見せていただいてのアドバイスを主体にするようになった理由の一つである。
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