結果の板書で何が起こるのか

前回のワンポイントアドバイス(何を板書するか)に関連して、結果だけを板書することについてもう少し考えてみたいと思います。

例えば、ワークシートの正解や数学の答えを板書した時、正解者にとっては答えの確認にしかなりません。すぐに○をつけて終わりです。一方手がつかなかった、不正解だった子どもは、黒板に結果しかないのでそれを見ても何故そうなったかはわかりません。この板書の内容を必要とする子どもが教室にいないのです。しかし、わからなかった子どもは不安なのでとりあえず板書を写します。写してもわからないのに。
そこで、このことに気づいている教師は説明を始めます。

正解を板書して、
「はい、こっちを見て」
「ノート取るのはやめて、あとで書く時間あげるから」
「説明するよ」
・・・
「はい、写していいよ」

結局、最後には板書を写す時間を確保しなければなりません。ところが正解だった子にとってはこの時間は写す必要がないので無駄になります。先生の話をちゃんと聞かずにノートを取った子どももすぐに終わります。多くの子どもが手持ちぶさたな状態にすぐになってしまいます。そこで教師は子どもをせかしたり、また写し終わっていない子どもがいても先に進んでしまったりします。写せなかった子は、次回からは説明中でも写すようになってしまいます。本当に説明を聞かなければいけない子が聞かない授業になっていきます。

板書と子どもの活動はうまく連動する必要があります。正解や結論、まとめが書かれた時点で子どもの思考は止まり作業に移ってしまいます。子どもの思考を促すような板書にしたいものです。

研究発表会

昨日は、昨年より授業のアドバイスをしている中学校の研究発表会が開催されました。私も分科会の助言者とパネルディスカッションのコーディネーターをさせていただきました。

公開授業は、大勢の方に参観されるといういつもとは違う状況のため、先生も子どもたちも緊張していることがよくわかります。最初のうちは子どもたちの表情が硬くて心配していましたが、すぐにいつもの姿を見せてくれるようになりました。何人もの参加者の方から「どの学級も子どもたちが柔らかい表情をしていた」というお声をいただけたことを、関わってきた者としてとてもうれしく思いました。

パネルディスカッションでは、パネラーの方から子どもたちが主体の学びについて実践に基づいたお話を聞くことができ、私にとってもよい学びになりました。
途中で2人の若手に発言してもらいました。自分の授業が変わったきっかけ、今どんなことを意識して授業をしているかをしっかりと話してくれました。この2人に限らず、若手が本当に成長してくれたことをとてもうれしく思っています。
実践についてのパネラーの方とのお話を通じて、私自身がこの学校に関わらせていただいて成長できたことをあらためて実感させていただきました。

また、研究主任が今まで先生方に発信してきた研究通信が一冊にまとめられていました。読ませていただいて、私がお話ししたことを本当に大切にしてくださっていたことにあらためて感謝しました。

今回の発表はあくまでも通過点です。先生方の授業を通じて子どもたちの見せてくれた姿を見て、今後の子どもたちの成長がますます楽しみになりました。

何を板書するか

若い先生から板書についての質問を受けることがよくあります。何を書くべきか。どういうこと気をつけたらいいのか。自分の中で板書をどう生かしていくのか明確になっていないようです。

板書を写すことが目的になってはいけないことは、以前にも書きました。(板書を写す意味
では、何をねらうとよいのでしょうか。大切なことは考えをまとめたり、整理することにつながることを板書で共有化することです。言いかえれば、結果ではなく考えるため起点を書くことです。こうすることで、板書を見て子どもたちが考えることができます。

「筆者はどう感じたのでしょうか。Aさん」
「さびしかったんだと思います」
「なるほど、それはどこでわかる」
「本文に○○○と書いてあります」
「なるほどね。みんな確認できたかな」
○○○を板書して、
「Aさんは、この文から筆者はさびしかったんだと思ったんだけど、この部分から筆者の気持ちを考えた人いるかな。今考えたことでもいいよ」
「つらい」
「のけ者にされている」
・・・
Aさんの意見を書かないことで、Aさんの考えに縛られずに他の子どもたちも考えることができます。子どもたちが考えたことを残したければ、後で板書すればよいのです。

「どうやって解いた。Bさん」
「点の座標を代入しました」
「なるほど。点の値を代入するってどういうこと」
「このグラフが点を通るから」
ここで、「点を通る」を板書して、
「ありがとう。みんな点を通るってどういうこと」
「入れたら成り立つ」
「式を満たす」
・・・
「そうか、だからBさんは点の座標の値を代入したんだ」

ここでは、代入という解くための手順をすぐに板書するのではなく、その根拠となった「点を通る」をまず板書することで、根拠となる知識の整理をしたのです。

結果や手順を見れば答えはわかります。しかし、どうやったらそこにたどり着くかはわかりません。考えるための起点やその過程を板書することで、考えるための糸口が見えてきます。子どもたちが考えることにつながる板書を目指してほしいと思います。

子育てについて考える

先週は久しぶりに、一般の方対象の子育て講座の講師を務めました。
小学生から高校生ぐらいまでの子どものいる方々でしたが、大変熱心に参加していただけました。

親や周りが子どもに期待することがプレッシャーとなってしまうことなどを、具体例を交えながらお話ししました。小グループでの話し合いも取り入れたのですが、私の話と似たような例が参加者からたくさん出てきたのには驚きました。不登校や問題行動など、私の体験を含め、見聞きしてきたことは決してレアケースではないことがよくわかりました。言いかえれば、何の苦労もなく子育てが終わることはないということです。しかし、多くの親はこういったことを我が家だけの問題のように感じ、抱え込んでいるように思います。子育ての悩みを気楽に相談できる相手が減ってきているのもその要因の一つでしょう。

学校生活以外のことに関しても学校が受け皿として機能することがこれからは求められるようになっていくのかもしれません。子どもを育てるということに関して参加者から新たな課題をいただきました。講師の私も学ぶことの多い講座でした。

ねらいの達成を意識する

先週末は、中学校で採用3年目の英語の先生の授業アドバイスを行いました。

落ち着いた和やかな雰囲気で授業が進んでいます。指示も明確で、新任のころと比べて表情にも余裕が出ていました。あとから授業場面に関して質問しても、明確に自分の行動を振り返ることができます。なんとなくではなく、きちんと意図した行動である証拠です。しかし気になる点もあります。

子どもたちに自然な速さの英語で問いかけるのですが、そのあとすぐに日本語で同じことを説明します。理解できていない子どもがいるためです。しかし、いつも先生がすぐに日本語で話してくれるのであれば、わからない子どもは頑張ってわかろうとはしません。英語をきちんと聞きとって理解させたいのであれば、ゆっくりと何度も繰り返したり、シチュエーションを明確にしたりする工夫が必要です。

また、テキストを写す場面で多くの子どもが、単語単位で書き写しています。このことを指摘したところ、1年生のころから1文単位で、もし無理なら句単位で写すように指示しているとのことでした。指示をしていたとしても子どもたちの実態はそうなっていません。ならば、1文を何回見て写したか数えさせるよう指示するなどの工夫をしてきちんとできるようにすることが大切です。

明確な意図を持って行動していても、そのねらいが達成できているか確認して徹底しなければ、単にやっただけということになってしまいます。できる子、わかる子だけしかねらいを達成できません。授業のねらいや視点は非常によいものを持っている先生なので、達成をきちんと意識するようになれば、大きな進歩を遂げると思います。

子どもたちが育つ理由

昨日は、中学校で授業研究に参加しました。

子どもたちは互いに相談しながら一生懸命に課題に取り組んでいました。とてもよく育っている学級です。
グループで課題を考えるように指示をした時です。子どもたちは課題がよく理解できなかったため、何をやればいいかよくわからず、しばらく動き出せないでいました。しかし、しばらくすると額を寄せ合って相談を始め、課題に取り組み出しました。
課題がわかりにくかったことは反省しなければなりませんが、それよりも子どもたちの動きです。課題がよくわからないときは、教師を呼んで聞くことが普通です。しかし、どのグループも教師に頼らず、自分たちで何とかしようとしました。
授業後、先生に確認したところ、4月、5月の頃はわからないことがあれば、すぐに質問していたが、その都度「自分たちで考えてごらん」と子どもたちに返すようにしていたそうです。その結果、まず自分たちで考える姿勢が育ってきたのです。

また、次のような場面がありました。
A君が気づいたことを発表したところ、なかなか全員が理解できませんでした。「A君の考えを説明してくれる人」と聞いたところ、B君が挙手をして発表してくれました。説明が終わった後すぐに「A君これでいい」とA君の方に向いて確認しました。A君は「うん、いい。ありがとう」とうれしそうに答えました。
日ごろ友だちの考えを説明する場合は、必ず本人に確認をすることを授業者がきちんとしつけていることの現れです。

子どもたちが育つのには理由があります。日ごろの教師の働きかけが必ずあるのです。この時期の授業研究に参加すると、「子どもたちがいいからうまくいく。うちの学級では・・・」といった感想がよく聞かれます。育った子どもは結果です。そこに至る過程にきちんと思い至らなければ、授業を見たことにならないのです。先生方の日ごろの地道な働きかけが目の前に浮かんでくるような授業でした。この先、子どもたちがどんなふうに育っていくのか、次回の訪問がとても楽しみです。

自分たちの授業として見る

一昨日は、終日中学校で授業参観と授業研究に参加しました。

授業では子どもたちの「つながり」を大切にしています。先生同士のつながりを密にしようと、授業検討会をグループで行うようになって半年余りがたちました。授業に対して真剣にかつ楽しく話し合っています。内容も教師の動きだけでなく、子どもたちの動きについて語られるようになってきました。とてもよい雰囲気です。しかし、個々の授業に関してのよいところや気づきは話されるのですが、どこか他人事のようなとらえ方をしているように見えました。そのためか、検討会で話されたよい気づきが他の授業になかなか活かされず、学校に広がっていかないと感じていました。

今回、いくつかのグループで、この授業に限らず、自分の授業や他の教科ではどうなのだろうという視点で話し合われていました。

「自分の授業でも、うまく他の子どもと関わって意見を言えない」
「子どもたちがつながるためには、どの教科にも共通して子どもたちに示すべきことがあるのでは?」

こんな意見が聞かれるようになりました。
先生方が変わり始めたのです。授業を他者のものではなく、自分たちのものとして見るようになってきたのです。このようになってくると、一つひとつの授業から得た学びが学校全体に広がるようになります。互いに学びあえるようになっていくのです。

今回の授業検討会をきっかけに、この学校が大きく進化していくのでないかと楽しみにしています。

授業技術に縛られない

先週末は、中学校の特別支援学級での和太鼓の授業のアドバイスを行いました。採用2年目ですが、講師時代を含めるとこの学校の特別支援に関わって8年目の先生でした。

2日後が発表ということで最後の仕上げの段階です。20人ほどの生徒が一生懸命集中して練習していました。子どもへの指示ははっきりとしていて、実技の見本もポイントがわかりやすいように大きな動作で見せています。和太鼓の授業の押さえどころをつかんでいるようでした。
最後に子どもの集中力を高めるために、声が出ていないことを指摘して再度挑戦させました。授業者の思惑通り、子どもたちは大きな声で演技をし、最後に子どもたちを大いにほめて授業は終わりました。

見事な授業でした。授業者はこういう場面ではこうすればよい、このような対応をすれば子どもたちはこうなるという授業技術をいくつも持っています。が、逆にその授業技術に縛れているように見えました。
例えば、教師と子どものコミュニケーションを図ることはできているのですが、子ども同士の関わりが少ないのです。他者とのコミュニケーションが苦手な子が多いようですが、子ども同士をつなぐことで関われそうな子もたくさんいます。そこまで目指せると思いました。しかし、授業者は子ども同士の関わりを意識していなかったし、そのような授業技術も持っていなかったのです。自分の持っている授業技術の範囲でできることが目指す子どもの姿になっていたのです。

特別支援に限らず、経験を積めば、このように指示すれば子どもはこう動くという授業技術はいくつも身に着きます。しかし、大切なのは目の前にいる子どもたちをどこまで伸ばせるかです。子どもたちの状況をしっかり把握して、ここまでいけるという目指す姿をきちんと描き、そのためにどのような活動をすればよいのかを考えることです。そうすると今まで身につけた授業技術だけではうまくいかないことに気づきます。だからこそ、新しい工夫が必要になり、その結果教師も成長するのです。

まだ若い先生です。今まで身につけた授業を技術だけに頼らずに、子どもたちをより伸ばすにはどうすればよいか、新しいことにどんどんチャレンジしてほしいと思います。

学校と地域の関係を考える

昨日は、私が関わっている中学校で行われた地域ふれあい学びフェスティバルを見学してきました。地域の方と学校が一体となって、イベントや体験講座、模擬店を運営し、多くの方に楽しんで参加しながら、学んでいただきたいというものです。
私が見学するようになって、今年で7年目です。当初は地域の方と有志の生徒が中心となって企画運営してきましたが、昨年からは生徒主体の学校行事へと変わりました。
変更になった時は、地域の方も、生徒も先生も自分の役割が明確でないまま形だけが先にあるような状態でした。今年は、生徒の動きが昨年よりも格段によくなり、自分たちが中心となる意識が芽生えてきました。生徒だけで新聞社に取材を求めたり、地域を回って広報活動をしたようで、参加される方の数が飛躍的に増えていました。先生も自分の担当に応じて生徒たちを如何に活躍させるかに心を砕いておられました。

地域の中心となっている方々のお話を聞くこともできました。この学校を支える地域の人間としての思いを持って企画してきたのですが、昨年は生徒主体ということで、積極的に企画もできず、仕事をお願いされるばかりでどう関わっていいのか戸惑ったようです。その経験を生かし、今年は学校側とも連絡を密にとり、まず子どもたちにどのように育ってほしいのかを共有化したようです。そして、そのために自分たちがどうすればよいか考え、生徒自身が自分たちのフェスティバルとして責任を持って行動するように働きかけてくださったのです。子どもたちの成長のために、生徒主体で運営したいという学校の思いを受け止め、主体から生徒のサポート役へと自分たちの関わり方を変えてくださったのです。

これからは、学校と地域の協力が今まで以上に求められてくると思います。しかし、学校と地域とが同じ思いで動くことは簡単ではありません。子どもの成長のために互いに協力し合う。その点でまず一致することから始めなくてはなりません。その上で、自分に何ができるかを考え、そのことを伝えあうのです。決して相手に何をしてもらいたいかではないのです。
この地域では、今までとは違った学校と地域の関わり方が生まれました。これが正解でこのやり方を続けていけばよいということではありません。今までのやり方にこだわるのではなく、子どもたちの成長のために互いが変化できる柔軟性を持ち続けることが大切だと思いました。

子どもを認める難しさ

昨日は中学校で採用2年目の先生の、数学の授業アドバイスを行いました。

2年目ですが落ち着いた口調でわかりやすく話すことができます。子どもたちも落ち着いて先生の話を聞いています。なかなかよい雰囲気です。子どもの発言を認めることを意識して「なるほどね」「いいね」と受容する言葉をよく使っています。授業アドバイスをより効果的にするために、事前に教頭先生から指導をされていたようです。ところが、発言した子どもたちの表情はさえません。

グラフにする式を3つの中から選ばせた後の場面です。

「A君、どうしてこの式を選んだの?」
「簡単そうだから」
「簡単な問題を選んだということは悪いことではないよ。簡単な問題から始めて性質を見つけていくことは数学ではよくあることだ。いいよ。では、次の式を選んだ人・・・」

この後、A君の顔はしばらく沈んだままでした。

授業後この場面について聞いたところ、A君の顔が沈んでいたことにちゃんと気づいていました。しかし、A君の発言をフォローしたのにうまくいかなかったのはなぜだかよくわからないようでした。A君から見るとフォローされたということは、自分の発言が期待されたものではなかったということです。「悪くない」という言葉は全面的な肯定ではないのです。

「なるほど、簡単だから選んだんだ。いいよね。同じ理由の人いる」
「いるね。簡単な問題から始めて性質を見つけていくことは数学では大切なことだよね。」

このような対応をすればよかったのです。教師が子どもを認めているつもりでも、期待した答えと違った時には、その気持ちが表現に表れてしまいます。また、期待した答えに近づけようといろいろと説明したりします。この先生の場合、子どもの発言に対して、コメントしてから、「なるほどね」「いいね」と言っていたのです。まず受容する言葉を言って認めないと、条件付きで認められた、フォローされたという気持ちになってしまいます。

授業者自身、子どもたちを認めているつもりなのに表情が暗いことに気づいていました。これは意識して行動しているからです。だからこそ、次の課題が見えてきたのです。意識すればうまくいくわけではありません。しかし、アドバイスを素直に実行する姿勢があれば確実に進歩していきます。次に私が授業を見るときには大きな進歩をしていることと思います。

セミナーのご案内

(株)プラネクサス主催の学校経営セミナーで講師を務めます。

「授業評価で終わっていませんか? ―学校を変える授業評価とは―」
日 時:2010年11月26日(金)13:30〜15:30
場 所:大阪・阪急ターミナルスクエア・17

前回東京で開催したものと同じ内容です。
授業評価を授業改善に生かすためのポイントをお話しします。
興味のある方は是非参加ください。
詳しくは(株)プラネクサスのホームページの「セミナーのご案内」をご覧ください。

授業の進行を乱す子どもにどう対応する

授業中に教師や周りの気を引こうと声を出したり、ごそごそしたりする子どもがいます。無視をするとエスカレートするのでついつい教師はその子どもに関わってしまい、授業の流れが途切れたりします。このように授業の進行を乱す子どもにどのように対応すればよいのでしょうか。

子どもは教師の気を引きたいので、例え注意されても教師が関わってくれれば目的は達成されます。目的が達成されるので行動が強化されてしまいます。よい行動を取らないと目的が達成されないことを子どもに知らせることが大切です。

例えば、本人にわかるように指を口に当てて見せて静かにするように促します。それに気づいて子どもが口を閉じた瞬間に「あっ、静かにした。えらいね」とほめます。このようにして、子どもが静かにすればほめてくれることに気づけば、口に出してほめなくても目を合わせて笑顔で軽くうなずくだけで認めてもらえたとわかります。こうなれば授業の進行が乱されることはなくなります。子どもが静かにできるようになっても、ときどきはこの対応をして、静かにしていてもちゃんと見ているとメッセージを伝えるようにしておくことも大切です。

また、授業の内容にかかわることを言っているのであれば、

「いいこと言ったね。手を挙げてから言ってくれるかな」
「はい」
「じゃあ○○君、聞かせてくれる」
「・・・です」
「なるほど、いいこと言ってくれたね。ありがとう」

というように、正しい行動に矯正してからそれを認めるのです。

行動には目的があります。例え注意されても結果として目的が達成すれば子どもとしてはその行動は正しいのです。行動を変えるために注意をするのではなく、行動をよい方向に変化させて、その瞬間をとらえてほめるのです。ほめることでよい行動が強化されます。

授業の進行を乱す子どもは教師にとって悩みの種です。注意して行動を変えるのではなく、行動がよい方向に変わった瞬間にほめるという発想を持ってください。

指示を徹底させる

授業中に作業を始めると指示がわかっていない子どもがたくさんいて、教師が右往左往している場面がよくあります。こういうことが何回か起こると教師は、テンションを上げて説明をくどく行うようになります。受け身でいる時間が長いため、子どもたちのやる気がだんだん冷めていき、集中力も落ちて活動が停滞します。こういう悪い循環に入ると教師の指示は増えるが子どもは聞いていないという状態が慢性化します。子どもに指示を徹底させるにはどうすればよいのでしょうか。

一つは簡潔な指示で子どもが動けるように説明を工夫すること。(参照:ルール化する
もう一つは、指示の確認をきちんとすることです。この時、子どもの自主申告である挙手に頼っていては、きちんと確認はできません。

「・・・するんだよ。わかったかな。わかった人は手を挙げて」
「はーい」
「みんなわかったようだね。じゃあ始めてください」
・・・
「あれ、わかってない人が多いみたいだね。作業をやめて。もう一度説明するよ・・・」

子どもがわかっていると思っていても、実際に作業に入るとわかっていないことはよくあります。そこで、教師が再度丁寧に説明しても同じことの繰り返しです。余計にだれてしまうこともあります。確認とその徹底は子どもたちに活躍させることが大切です。

「・・・するんだよ。わかったかな。聞いてみようかな」
「Aさん。最初に何をすればいいのかな?」
「なんだっけ」
「困ったね。誰か助けてあげて。Bさん」
「・・・をします。なるほど。Cさんは」
「Bさんと同じです」
「Cさんの言葉で言ってくれる」
「・・・です」
「わかったかな。Aさん、言ってくれる」
「・・・です」
「いいね。じゃあ、次は・・・」
・・・
「それでは始めようか。わからなかったら周りの人に聞いてね」

子どもたちに指示内容を言わせることで受け身でなくなります。子どもの言葉で確認させることで指示がよく伝わります。また、わからない子も周りに聞きながら作業することできちんと参加できます。

指示を聞いていないな、伝わらないなと感じたら、声を大きくしたり、何度も説明するといった教師のテンションをあげることよりも、子どもたちを使って確認をするように意識してほしいと思います。

みんなで授業を作る

昨日は、終日中学校の学校訪問に参加しました。事前の指導案作成で難航した数学の文章題の授業がどのようになったのかが、私の一番の関心事でした。

授業研究の一環として数学以外の先生も交えた指導案検討会を持ったのですが、なかなか授業イメージが伝わりませんでした。そこで模擬授業をやってみることになりました。先生方は子どもの気持ちになって授業を受けてくれました。子どもの視点で見てみると、問題の意味がよくわからない、何を求められているかわからないという課題が明確になってきました。その後の検討の場面では、この図ではわからない、こう言ってもらえばわかると子どもの視点での意見がたくさん交換されました。その場では結論は出ませんでしたが、授業者はその後、みんなからもらった意見やアイデアをもとに、教科の先生と相談しながら授業を練り上げて当日に臨みました。

授業を参観しているメンバーは事前の検討会と同じメンバーです。あの授業がどのように変わったのか、子どもたちはどんな反応をするのか、誰もが真剣に見ていました。
課題であった問題把握は、寸劇を入れて具体的にイメージできるように、図の提示の仕方も工夫がされていました。子どもたちは全員集中して参加し、問題をきちんと理解できていました。

授業検討会も充実したものになりました。先生方も子どもをとてもよく見ていて、子どもの具体的な活動がたくさん語られました。どの先生も授業者の工夫や頑張りを評価していました。この授業の進歩に自分たちが貢献したという実感も多くの先生が持っていました。みんなで作った授業という気持ちになったのです。模擬授業をきっかけに、先生方が授業を通じてつながりました。

このよい経験が学校全体に広がっていくことで、学校全体が活性化していくことと期待しています。

読売教師力セミナー

先週末に開催された、読売教師力セミナーでコーディネーターを務めました。

素晴らしい模擬授業があったため、パネルディスカッションも具体的な話をすることができました。パネラーの先生方のおかげで私自身もたくさんのことを学べた楽しい時間でした。今回は子ども役を大人がするのではなく、児童生徒に登場してもらったので、彼らの発言がまたとても勉強になりました。授業者の先生方が子どもたちの発言や反応にどう対応するか、参加者の皆さんも目を皿のようにしておられました。

このセミナーを通じて、特別なキャリア教育の授業をするのではなく、普段の授業の中で「伝えるべきこと」「考えさせるべきこと」「身につけさせるべきこと」をきちんと意識すればよいということを伝えたかったのですが、無事に伝わったでしょうか?

模擬授業では具体的に、

小学生に、
働くということを考えさせる。働くということは自分や家族のためだけでなく、他者の役に立つということを伝える(気づかせる)。

中学生に、
目先の進学ではなく、その先にあるものを考えさせる。今ある中学校生活を大切にすることが働くことにつながることを伝える。情報収集、情報選択、コミュニケーション、意思決定といった能力を身につけさせる。

が示されました。

参加者の皆さんがこのようなメッセージを感じ取っていただけたれば、コーディネーターとしては大成功なのですが、どうだったのでしょうか。いつものことですが、事前の仕込みもなくその場その場で対応するために、あそこはこのように対応すればよかったという反省ばかりです。しかし、だからこそライブ特有の緊張感のある楽しめるものになっているのだと思います。会場の参加者とともに作り上げた楽しいセミナーになったと思います。

小中学校の連携

昨日は中学校の授業研究に参加しました。規模の小さい中学校で全員が同じ小学校の出身です。この日は小学校の先生がたくさん参観してくれました。一部の先生は残って授業検討会にも参加していただけました。

小学校の先生が中学校の授業を参観することで、自分の教え子たちが卒業後どのように成長しているのかを授業を通して見ることができます。その子どもたちの姿から自分たちの授業や指導を再評価し、指導の改善へとつなげることができます。
中学校の先生にとっては、子どもたちの小学校での様子を知ることができます。特に子どもたちの具体的な名前が上がってくるような授業研究では貴重な情報が得られます。

そして、このような試みを通じて小中9年間を一貫したものとして、そのつながりをしっかり意識して子どもたちに接してもらえることがポイントです。小学校から中学校への移行時期は、思春期と重なります。この難しい時期を乗り切るためには小中が手を取り合って子どもを育てていける体制が求められます。授業を互いに見合うだけでなく、中学校の教師が小学生を教える、小学校の行事を中学生が手伝う、小学生が中学校の行事に参加する。つながりを意識することでいろいろな連携が生まれてくることと思います。

行事でつくる人間関係と授業でつくる人間関係

2学期になって子どもたちの表情がよくなってきた、自然に友だちと相談できるようになった。ところが、授業に関係ない無駄話が増えた、また、孤立する子どもが出てきた。こんな光景を目にすることがあります。なぜこのようなことが起こるのでしょう。

1学期は子どもたちの人間関係がまだうまくできていない、子ども同士の関わり合いが少ないと感じていたのに2学期になって雰囲気が変わってきた学校がいくつかありました。子どもの表情が柔らかくなって、関わり合いも増えているのです。先生の質問に対してまわりと相談する姿もよく見られます。先生方の授業スタイルが変わってきた成果が出てきたのかと思いました。ところが、何か違うのです。子どもたちは、友だちに答えを聞いたり写すだけで解き方や理由を聞こうとしません。自分でもう一度考えようともしません。そのかかわり、そのまま授業に関係ないことを話し出すのです。ニコニコと楽しそうにしていますが、これでは困ります。
何回か訪問していると、このような関わり方が増えているだけでなく、まったく友だちと関わらずに孤立している子が目立ってきたことに気づきました。学級の中に大きな集団がつくられ、それに入れない子どもができているのです。2学期は行事がたくさんあります。どうやらこの状況は行事を通じて作られたものだったのです。

行事は集団で一つのことを成し遂げていく活動です。人と関わりながら、自分の役割をはたし、時には自分を押さえて集団の決めたことに従います。行事がうまくいくとその達成感とともに子どもたちに集団へのよい帰属意識が生まれ、友だちとも仲良くなれます。ところが、その延長上に生まれるかかわりには友だちとの世間話や無駄話などもあります。これがそのまま授業に持ち込まれてしまっているのです。また、一つの方向に向かっていくときに、うまくその流れに入れない子どもは集団から離れやすくなります。強力に一つの方向に持っていこうとするときほど、入れない子どもが増える傾向があるのです。

一方授業では、課題を解決するために互いの考えを聞きあったり、認めあったりします。ここでは、無駄話の入る余地はないはずです。また、無理に友だちの考えに従う必要はありません。グループでの話し合いは互いの考え深めるため行うのであって、答えを一つに決める必要はないのです。大切なのは互いに相手の考えを受容し認め合うことです。

どちらの人間関係もとても大切なことです。注意しなければならないのはどちらか一方でよいと思ってしまうことです。行事でできた人間関係をうまく生かして子ども同士が学び合う雰囲気を作る。行事でうまく集団には入れなかった子どもも授業では周りと関われる。こういったことが大切なのです。そのためにも、行事でつくる人間関係と授業でつくる人間関係の違いを意識してほしいと思います。

ちょっとした働きかけで授業は変わる

昨日は講談と社会科のコラボ授業を別の学校で参観しました。

授業者は書くことを大切にしているとのことで、子どもたちは南海師匠の講談を聞きながら、しっかりとメモを取っていました。

最初の授業では、聞き終わった後メモを整理する時間を少し取りました。その後グループでの話し合いになりましたが、子どもたちのテンションは少し落ちてしまいました。どこに間違いがあるのか自分の見つけたことを話すのですが、曖昧な知識で話すために聞いている方はすっきりと納得しません。結論が出ないまま、漫然とした話し合いが続きます。そこで、教科書や資料集にあたって根拠を明確にするように指示したところ、動きに変化が起きました。教科書や資料集を調べ出して、根拠を示して話し合うようになったのです。しかし、時間が足りずに十分な活動ができずに発表となりました。発表内容は、実際にはこうだから、この部分が間違っていると明確に指摘しているものはやや少なく、ここがおかしいという指摘にとどまっているものも目立ちました。また、資料のどこでわかったかを発表させても、その資料を実際に確認する子どもがあまりいませんでした。

そこで次の授業では、講談の最後に南海師匠が、「私の嘘は、全部教科書や資料集に載っていることばかりです」と付け加えました。授業者も作業の簡単な指示だけをして、すぐにグループ活動を始めました。子どもたちは、待ってましたとばかり自分の考えを話し始めます。しかし、そのあとすぐに教科書や資料集で確認を始めました。資料で確認がおわると、見つかった間違いをつぎつぎにまとめていきます。発表も最初の授業と比較して根拠が明確に示されています。資料のどこでわかったかを発表に対して、ほとんどの子が実際にページをめくって確認していました。自分たちも資料を調べていたので、ちゃんと確認したくなるようです。

どちらの学級でも、子ども同士の関係や話し合いでの聞く姿勢はきちんとできています。学校全体で学び合いに取り組んでいる成果が出ています。しかし、基本となる部分ができていても、教師のちょっとした働きかけ、指示の仕方など、授業の進め方で子どもたちの学びの姿は大きく変わるのです。
子どもたちの様子から、すぐ次の授業を修正した南海師匠と授業者の対応力は素晴らしいものがあります。そのおかげで私も多くのことを学ばせていただきました。

講談と社会科のコラボ授業

毎年この時期に行われる、講談と社会科のコラボ授業を参観してきました。当初は中学校1校での試みでしたが、近隣の学校も巻き込み、昨年からは1週間かけて3校での実施となりました。この授業のために大阪から毎年旭堂南海師匠においで願っています。

この授業のベーシックな形は、南海師匠が歴史に関する話をして子どもたちがその嘘を見つけて発表するというものです。日ごろ触れることのない講談という大衆芸能に触れ、そこから歴史の面白さを再発見してもらおうというのがねらいです。この授業の成否は子どもたちが話にどれだけ引き込まれるかにかかっているのですが、そこは師匠、毎回子どもたちの反応に合わせて話のテンポや語り口を変え見事に引きつけます。
今回は幕末をテーマに3つの事件や人物についての話でしたが、子どもたちが引き込まれるからこそ、日ごろの授業の課題が浮き彫りになってきました。

授業は単にグループで間違いを指摘するのではなく、その根拠を教科書や資料集に求めるという形で進みます。最初の授業では固有名詞や事実の単純な間違いを中心にしたのですが、子どもたちは資料に基づく話し合いになれているので特に混乱はありません。スムーズに進んでいきます。ところが子どもたちのグループ活動は活発になりません。各自が資料で間違いを確認してそれを互いに発表し合えばそれで終わってしまうからです。

そこで、次は関税自主権や治外法権といった用語の説明、事件が及ぼした影響を間違いに加えました。今度は、教科書の説明と南海さんの話の説明とは逆だときちんと友だちに説明しています。説明が必要になるため、話し合いは最初の授業よりも明らかに活発になりました。子どもたちは単に用語を覚えているだけでなく、きちんとその内容も理解しているようです。
ところが事件の影響の誤りはどのグループもキチンと指摘することができませんでした。「大塩平八郎の乱は1日で鎮圧され、幕府の力を恐れて以後逆らうものが出なくなった」という話の間違いに気づかないのです。教科書には「幕府を驚かせた」という程度の記述なのですが、そこからこの事件の影響を想像できていないのでしょう。
用語や事件の内容は理解できているのですが、点でとらえているため、事件の関連や互いの影響を意識できていないのです。

一連のコラボ授業の結果、子どもたちに歴史の関連性をきちんと考えさせることができていないことが明らかになりました。子どもたちが話に引き込まれ真剣に取り組むからこそ課題が明確になったのです。先生方はこの課題解決のためにこれから授業を工夫していくことと思います。それに伴いこの講談と社会科のコラボ授業もまた進化していくことでしょう。今から来年が楽しみです。

教科を好きになる

若い先生に、「どんな授業をしたい」「子どもたちにどうなってほしい」という質問をよくします。最近よく聞く答えが、その教科を「子どもが好きになる」です。

まず、興味関心を持ってもらうことが第一歩。
好きになれば勉強をするから力も付く。

このように答える先生の授業を見て気になることがあります。
それは、どうもその「教科を好きになる」ではなく、その先生のその「教科の授業を好きになる」を目指しているように見えることです。

雑談やクイズで盛り上げる。
物を作ったり、作業が多い。
子どものテンションが上がる場面が多い。
考える場面が少ない。
説明は先生が面白おかしくする。

こんな特徴があります。

誰でも参加できること、誰でもできることを中心にすることで子どもは活動します。先生の話が面白ければ、確かに子どもは楽しそうです。しかし、これだけで本当にその教科を好きになるのかよくわかりません。おもしろいショーに参加して楽しんでいるとしか見えません。子どもが自分たちで考えて問題を解決する姿が見られないからです。自分で考え、「わかった」「できた」「そういうことか」と教科内容を理解して、またこんな課題を「考えたい」と思って初めてその教科を好きになったといえるのではないでしょうか。

好きなることで考えるという発想だけでは、子どもは考えません。考える場面が授業になければ、考える必要がないからです。自分で考える、自分で解決するという経験を積んで初めてその教科が好きになるのだと思います。

教科を好きになることと先生を好きになることは違います。楽しい、おもしろい先生になって好かれることは教師の目的でありません。その先生がいなくなっても、その教科を好きであり続けるような授業を目指したいものです。
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