子どもたちだけを見る授業参観

昨日訪問した学校では、若い先生方と一緒に授業を参観しました。暑い一日でしたが、子どもたちはとてもよく集中していました。とくに、子ども同士が関わりあう場面では、とてもよい表情がたくさん見られました。

今回は、校内を回りながら、教師の行動は一切見ないで、子どもたちの様子を中心に見ることにしました。教師を見ない授業参観は新鮮だったようです。

どんな場面で子どもたちの集中力が落ちるか?
参加できいない子が復活するのはどのような時か?
わからない子は、どのような行動をとるのか?
指名された後、子どもの様子はどのように変わるか?
教師が机間指導している時に子どもはどのような態度をとるのか?
同じ学級で、同じような活動場面でも子どもの集中度が違うのはなぜか?

こんな疑問を先生方と話をしながらの参観はとてもよい勉強になりました。先生方も自分の授業での子どもの様子はどうなのか、とても気になるようでした。
授業中に子どもを見ているつもりでも、意外に見ていないものです。今回の授業参観が今まで以上に子どもをしっかりと見るきっかけになってくれればと思いました。

また、授業後若い実技教科の先生2名の質問を受けました。
1学期の授業を振りかえって、授業の進め方に関して悩んでいることを具体的に相談していただけました。子どもたちにただ作業をさせるのではなく、考えたり、工夫したりして実習に取り組ませたいという、目指す授業像はとてもよいものでした。それだけに実際の自分の授業とのギャップがとても気になり、またどうしてよいかわからず苦しんでいるようでした。子どもの視点に立って授業の組み立てを考えることで、少し見通しが持てたのでしょう。明るい顔で席を立たれました。

この学校には、2学期もたくさん訪問しますが、若い先生方の授業がどのように進歩しているかとても楽しみです。

うれしい悲鳴

昨日は若手の先生方の授業のアドバイスを行いました。研修主任のお声掛けもあり、15名ほどの希望者がありうれしい悲鳴状態でした。

前回訪問した時は、先生と子どもたちの関係があまり良好でない印象でしたが、今回は子どもたちのよい表情をいろいろな場面で見ることができました。わずか1月ほどしかたっていませんが、子どもの変化は本当に早いものです。特に子ども同士が関わる場面を意図的に作っている学級では、子どもの笑顔をたくさん見ることができました。

先生方と授業後たくさんお話をする機会をいただきましたが、どの先生にも共通しているのが、授業に対する真剣な姿勢とそれ故に生まれるいろいろな悩みです。そんなお話を聞くことで私も大変勉強になりました。先生同士がそれぞれの課題や悩みを共有して、互いに助け合って解決していく、そんな学校になってほしいと強く思いました。

また、子どもたちにわからせたい、理解させたいという思いが強いためか、全体的に先生がしゃべりすぎる傾向にありました。大切なのは、子どもが自分たちで考えることです。そのためには、子どもが自然に考えるような発問、考えるための時間・量を確保することが必要です。先生の一方的な説明と子どもたちの作業だけで終わらない授業を目指してくれることを願って、アドバイスをさせてもらいました。

来週から夏休みです。若い先生方です。部活指導や2学期に向けての準備等で忙しいでしょうが、リフレッシュして一段とパワーアップした姿を秋には見せてくれることでしょう。

間違いは本人に修正させる

子どもの発言が間違っているときやおかしなものであったときの教師の対応は難しいものがあります。対応によっては、子どもがやる気をなくしてしまいます。どのようにすればいのでしょう。

例え間違いでも、否定から入ってはいけません。「違います」の一言でせっかくやる気で発言した子どもの意欲は無くなってしまいます。
また、否定はしなくても「他にない」とすぐに他の子に聞けば、「ああ、やっぱりダメだった」と思ってしまいます。
まずどんな答えでも認めることです。そのうえで、考えをもう一度整理させたり、深めさせる必要があります。時には、子どもの答えをそのまま復唱するだけで間違いに気づくこともあります。

「○○○だと思います」
「なるほど、○○○と考えたんだ。それってどういうことかな」
「△△△だから・・・。あれ、へんだな」

このように教師が聞き返すことが、子どもの考えの修正につながります。

他の子の意見を聞かせて、考えを修正させることも有効です。

「○○○だと思います」
「なるほど、Aさんは○○○と考えたんだ。Bさんはどう考えた」
「◎◎◎です」
「なるほど、Bさんは◎◎◎と考えたんだ。Cさんは」
「私も□□□だから、◎◎◎だと思います。なるほど、◎◎◎が多いけど、Aさんどう?」
「違ってた。○○○だ」
「どこで気づいた」
「Cさんの説明でわかった」
「そうか、Cさんの説明がよかったんだ。Cさんすごいね。それをよく聞いてわかったAさんもいいね」

教師が正解を押し付けたり、否定したりして考えを修正するのではなく、できるだけ教師と子ども、子ども同士の肯定的、受容的な関わりの中で、間違えた本人自身で修正することが理想です。簡単なことではありませんが、子どもの意欲を高めるためにも挑戦してほしいと思います。

先輩が後輩を見守っている学校

昨日は、アドバイスを初めて足掛け3年になる学校を訪問しました。

ベテランの学年主任の授業は、子ども同士がしっかり学び合うとても素晴らしい授業でした。この先生が子ども同士の学び合いを意識した授業へとスタイルを変え始めてまだ2年目ですが、目を見張るほどの進歩が見られます。
よくベテランは変わらないと言われますが、ベテランが変わろうとした時は、蓄積したものがあるだけに、その進歩と変化のスピードは若い人以上です。自分に厳しい先生が、この日の授業に95点をつけられたことを、とてもうれしく思いました。
また、学年の運営の話で、子どもたちと先生の関係作りに力を入れている話になり、2年目、3年目の先生が安心して頼れる存在になっているとおっしゃっていました。この先生に若い先生のことをたずねると、しっかりと答えが返ってきます。日ごろから若い先生のことを気にかけているのでしょう。

7年目の先生の授業も、子どもたちが先生、友だちの言葉を本当に集中して聞く素晴らしいものでしたが、それ以上に、そんな子どもたちの姿に満足せず、ワークシートをどう使うかという次の課題を持って授業に臨んでいたことが立派だと思いました。
授業後、アドバイスをしている時に、サブとして入っている新任とのTTの授業についてのアドバイスを求められました。小規模の学校で、学ぶべき先輩がいない中で苦労をしてきたからでしょう。彼らの役に立ってあげたいという気持ちを感じました。

また、教頭先生が雑談の中で、「2年目の教師に私のネタが盗まれているんですよ」と嬉しそうに話していたのも印象的でした。

先輩が後輩をきちんと見守っている。後輩もそれに答えるように努力をしている。そんな雰囲気の中で、この学校の若い先生は急速に成長しています。この日授業を参観した新人の先生方も、来年にはきっと見違えるような授業を見せてくれることが期待できると思いました。

質問することの意味

昨日は研究会で、この秋の学会発表に関する検討を行いました。

私は授業評価に関する発表を行うのですが、その中で学び合いを意識した学校での授業評価項目の例を取り上げています。その項目に関して、熱心な校長先生から質問を受けました。
一つは「教師の声の大きさが適切か」という項目は保護者にとって評価しやすくまた大切なことであるから、入れてはどうかというものでした。

とてもよい質問です。実はこの項目は意図的に外しています。なぜなら、適切な声の大きさはとても判断が難しいからです。明るく、教室の端まで聞こえるような大きな声がよいと考える方が多いと思いますが、子どもに集中して聞かせるために、わざと声を低くして話す方法もあります。その学校が、その教師がどう考えるかで違ってくるのです。その項目がなくても声の大きさが適切でないと考える保護者がいれば、きっと自由記述欄に書いていただけると思います。それに答えることで、評価ができるのではないかと考えていると説明しました。

また、もう一つの質問が、「子ども同士の学び合いの場面があるか」に対して、自分の考えを持つことも大切なので、「一人で考える場面があるのか」も聞いてはどうかというものでした。これもよい質問です。一人で考える場面というのは大切ですが、考えられない子ども、見通しが持てない子どもにとってはすぐに集中力が切れてしまう場面です。そこで、あえて「一人で考えなさい」という時間をとらずに、最初からグループで活動する考え方もあります。だから、項目に入れていないと説明しました。

この校長先生は「自分が不勉強で」とおっしゃっていましたが、決して不勉強なわけではありません。評価項目を検討して自分ならどうするかを真剣に考えたから生まれた疑問です。質問は、前向きに学ぶ姿勢があるから起こるのです。しかもその質問は、私がこの評価項目に込めた思いに直結するものでした。まだ校長1年目の方ですが、この学校は間違いなくよい学校なっていくと思います。ぜひ一度訪問させてくださいとお願いしました。

学校間での学び合い

先週末は小学校で、熱心な若手3人の授業とベテランの授業研究を中心に参観しました。落ち着いた授業と明るい子どもたちの姿が印象的でした。

ベテランの授業研究には、この学校の先生が隣の学校に声をかけたところ2名の先生が参加されました。このことは特に若い先生にとっては大変意味のあることです。同じ市町の学校でも、子どもたちの気質は違いますし、学校の取り組みも異なっています。先日もある学校で若い先生に、このようにすれば子どもがしっかりと友だちの話を聞く姿が見られるようになると話をしたところ、そんな学校があるのですかと驚かれました。自分の学校だけ見ていてはわからないことがたくさんあるのです。

短い時間の検討会でしたが、子どもたちの様子をこの学校の先生とは違った視点で話してくれました。その観察報告をもとに、グループ活動において役割を決めるべきか、子どもの聞きあう姿勢をどのように作るかについて話をさせていただきました。
他の学校の先生も参加することで検討会の視野が広がり、授業からの学びの質は間違いなく向上します。

このように、授業研究に他校の先生が参加することが最近増えてきました。とてもよい傾向だと思います。しかし、残念ながら小中、中高の交流はまだまだ少ないようです。子どもたちがどのような授業を受けて入学してくるのか、卒業後どのような授業を受けるのか知ることは、今の授業を考えるよい機会を与えてくれます。学校間での学び合いが活発になるように願っています。

「盗む」という文化がなくなってきている?

若い先生の指導について話していると、管理職やベテランの先生からよくでてくる言葉が「盗む」です。

自分たちの若いころはこんなに研修もなかったし、指導してもらう機会もなかったので、先輩から盗むしかなった。最近の若い先生は与えられることに慣れてしまったのか、「盗む」ことをしない。

こんな話をよくされます。
確かに私たちの若いころは、先輩に聞いたり、こっそり授業を覗いたりして学んでいたように思います。新任1年目から先輩と同じ土俵で仕事をしなければならない学校では、「盗む」ということが重要な手段であり、一つの文化だったように思います。では、最近の若い先生は学ぶ意欲がなくなったのでしょうか?

若い先生に授業のアドバイスをしていて困っていることを聞くと、たくさん質問されます。悩んでもいるし、学ぶ意欲もあるのです。ところが、たまにしか会わない私に聞かなくても、身近な先輩に聞けばすぐに教えてくれそうな質問もたくさんあるのです。私が、「先輩に聞いたらいいよ」と言っても、なぜかしづらそうです。

そこで学校の様子を見てみると、職員室で授業や学級経営について話す雰囲気がなくなってきています。そもそも話をする余裕もないのです。
新任は授業もきちんとできない中で、毎週のように研修の課題に追われ、与えられたことをこなすので精一杯です。
若手も担任を持てば学級経営や校務、もちろん授業の準備など「やらねばならない」ことがもっと増えてきます。
また、ベテランと若手の間を埋める中堅の数が少ないことも、授業について話し合う雰囲気ができにくい理由の一つでしょう。
「他人の授業を覗くなんてとんでもない」という顔をされることもよくあります。こっそり授業を覗くにしても、人間関係ができていないと難しいのです。

若い人が先輩から「盗む」ことをしなくなったのは、学ぶ意欲がなくなったからでも、若い人だけの問題でもないのです。学校の中に、授業や学級経営、そして一番大切な子どものことを気軽におしゃべりする雰囲気や余裕がなくなったからなのです。
簡単に解決する問題ではないかもしれません。今の学校の置かれている状況から言えば仕方がないのかもしれません。しかし、行政、管理職、ベテラン、中堅、若手、それぞれの立場でできることはあるはずです。

まずは、隣に座っている先生と授業の話をしてみませんか?

「わかった」は禁句!?

授業中に教師がよく使う言葉に、「わかった」があります。

「この問題がわかった人?」
「わかったこと聞かせて」

このような使われ方をよく目にします。
私は、この「わかった」という言葉を「禁句」にしてくださいとお願いしています。
「わかった人」「わかったこと」と聞かれれば、わかった子しか挙手できません。常にわかっている子のペースで授業が進みます。手をかけなければいけない「わからない子」が参加できないまま進んでいきます。

「気づいたことや考えたことを聞かせて」
「わからないことを教えて」

と、できるだけどの子も参加しやすいように聞いてあげる必要があります。

また、説明の後に「わかった?」と聞かれると、子どもの立場では「わかりなさい」という強迫とも感じられます。

「Aさん答えて」
「わかりません」
「・・・だから、・・・だよね。だから答えはこうだね。Aさんわかった?」
「わかりました」

このように教師が一生懸命に説明してくれた後では、よくわからなくても「わかりません」となかなか言えないものです。子どもが立たされたままであれば、早く座って解放されたいのでなおさらです。

「わかりました」
「じゃあ、自分の言葉で説明してくれる」
「・・・」

このように、実際に確認するとわかっていないことがよくあります。しかし、教師の方も、ここで「わからない」と言われると授業が進まないのであえて確認をしないことも多いようです。その結果、教師の説明の後「わかった」と聞かれると、とりあえず子どもは「わかった」と答え、教師はそれ以上追及しないという、暗黙の不可侵条約が結ばれてしまうのです。

「わかった」結果ではなく、「わからない」こと「わかる」過程を大切にして、わからない子が参加できる授業にしていただきたいと思います。

授業後の質問は複数で

定期テスト前の中学・高校では、職員室前に質問に来る生徒の姿がたくさん見られます。こういった授業後の質問の場面も、子どもたちの人間関係を作り、学び合いをさせることに大いに役立ちます。

私は、授業に関する質問は、3〜4人の複数で来るように指導するとよいとお話しています。もちろん、一緒に質問する人が見つからなければ、1人でもよいとは伝えます。その理由には、

一緒に質問する友だちを探す時に、わかっている人に出会えばそこで教えてもらうことで子ども同士の学び合いで解決できる。

複数に対して説明すると、全員が理解できなくても、その中の一人でも理解できれば、その子に説明させることにより子ども同士で解決できる。

今、どの子とどの子の仲がよいといった、子ども同士の人間関係を知ることができる。また、どうしても一人でしか来られない子がいれば、その子は友だち関係がうまくいってない可能性があることを察知できる。

などがあります。

このようにすることで、子どもが友だちと聞きあったり、一緒に勉強したりする機会が増えていきます。
学び合いということがよく言われますが、授業時間内だけでなく、いろいろな場面で意識するとよいと思います。

廊下を歩くと授業がわかる?

学校を訪問した時に私がよくお話しするのが、「廊下を歩くと授業がわかる」です。
廊下を歩くと授業の何がわかるのでしょうか。

廊下を歩きながら教室をのぞくと、たいてい何人かの子どもがこちらに気づきます。この数が少ないほど子どもが授業に集中しているということです。
注意するのはそのあとです。ちらりとこちらを見てすぐに顔が前に向く時と、そのままきょろきょろし続ける時があります。
子どもの気持ちが授業に向かっていないとなかなか視線が戻りません。それどころか、こちらを振り向く子がどんどん増えてきます。多くの場合、最初の1人2人の段階で教師が気づいて、声には出さなくても目で子どもを制しますので、すぐに収まります。こちらを見る子どもの数が増えるということは、子どもが集中力をなくしているだけでなく、教師が子どもを見ていないということです。

子どもの授業に対する集中度と教師が子どもをちゃんと見ているかがわかるのです。

廊下を歩くだけで教師がざわつく学校もあれば、まるで自分が空気にでもなったように感じる学校もあります。授業改善が進んでいる学校は、訪問するたびに子どもの視線を感じなくなります。それだけ子どもが授業に集中しているのだと思います。

時間を与えることの意味

子どもに問題を解かせたりワークシートなどの作業をさせたりしている時に、「まだできていない人がいるから、あと○分あげるね」と作業時間を延長する場面によく出会います。また、発問して子どもの手が挙がらない時に、「もう少し考えて」と待つ場面もよくあります。このように子どもに時間を与えることについて少し考えてみたいと思います。

「全員ができてほしい」
「少しでも多くの子どもに考えてほしい」

教師であればだれでもが願うことです。しかし、子どもに時間を与えればできるようになるのでしょうか? 与えられた時間、考え続けることができるのでしょうか?

例えば、与えられたプリントが終わらない子どもの状況を考えてみましょう。
計算が遅い、調べるのが遅いなど作業スピードの問題で時間が足りないのであれば、作業が遅い子には与えられた時間は有効です。ただし、作業が速い子にはその時間が無駄にならないような工夫が必要です。(参考:作業スピードの差をどう埋めるか)
注意が必要なのは、単に作業スピードの問題でない場合です。子どもは「時間が足りない」以外の理由で行き詰っているのですから、単に時間を与えるのではなく、その原因を取り除く必要あります。そのための手立てをせずに時間を延長しても、「できる子は与えられた時間遊んでいるだけ」「できなかった子は最後までできずに終わる」ことになり、結局時間の無駄になってしまいます。

この場合、子どもができない理由をきちんと判断して、必要に応じて友だちに聞くことを促したり、教科書等のどこを見るか具体的に指示する。一旦作業を止めて、見通しを全体で確認するなどした上で、時間を与えるようにする必要があります。

時間を与えることは、その時間が子どもにとって有用な時間になって初めて意味を持ちます。単に遊ぶ時間を増やす、手がつかないで苦しむ時間を増やさないようにしてください。

ベテランが伝えること

昨日は、ベテラン2名と若手1名の授業研究に参加しました。
子どもたちは明るく、よい姿をたくさん見せてくれました。

授業後、先生方とお話しさせていただいて印象に残ったのが、ベテランの方の今回の授業に対する姿勢でした。ベテランですからいつも通りの授業を見せれば無難に過ぎていきます。しかし、ベテランだからこそ新しいことにチャレンジして若い人に見てもらいたいと、今までとは違った教材を用意して臨まれました。
ベテランが伝えるべきものは、授業技術だけでなく、常に授業改善に前向きに取り組む姿勢そのものであると教えられました。
もう一人のベテランも、以前と比べると確実にそのスタイルが進化しています。
若手の先生も前向きにアドバイスを受け止めることができていますし、確実に進歩しています。
ベテランが授業に取り組む姿勢を伝え、若手がそれを学ぶことで、学校全体の授業改善への取り組みが進んでいくのだと実感しました。

指示の後の子どもの動き

教師が課題や作業の指示を出した後の子どもの動きを見ていると、いろいろなことがわかります。

すぐに鉛筆を持って取り組もうとする時は、課題に対する意欲がある時、何をすればよいかというゴールが見えている時です。
実際の授業では、ここで子どもが止まってしまうことがあります。こういう時は、子どもが何をすればよいかよくわかっていないことが多いようです。周りの子に何をすればよいのかを聞く姿もよく見られます。

子どもがすぐに動き出さない時は、一旦作業を止めて、もう一度指示の内容をきちんと確認をする必要があります。

また、すぐに動き出しても、しばらくすると鉛筆を置いて動きが止まる時があります。これは、どうすればゴールにたどり着けるのか見通しが持てない時に多いようです。この状態がしばらく続くと、子どもは手遊びを始めたりして集中力を無くしてしまいます。
ここで注意しなければならないのは、単に集中するように個別に声をかけたり、できていないからといって作業時間を延長しないことです。見通しが持てないのですから、時間を与えてもなかなか解決できません。また、「わからない人はヒントを出すから聞いてね」と作業をさせたままで教師がヒントを出したりするのも、全体の集中を乱すのでよくありません。
ここは一旦作業を終了させて、全体で見通しの確認をする必要があります。
答えを発表するのではなく、最初の一手やヒントをできている子どもに発表させます。教師がヒントを出すと、できている子は分かっているので、聞く意欲を無くしてしまい、結果そのあと作業に戻っても、集中力を無くしたり、勝手に周りの子に教えてじゃまをしたりするようになるからです。

もう一つ注意して欲しいのが、できる子への指示です。できる子は早く終わるとすることが無いので、遊びだしたり、周りの子のじゃまをすることがあります。学級全体の集中力が落ちてきて、まだ途中の子も遊び始めてしまいます。手のつかない子は、できた子の存在がはっきりするので、プレッシャーを感じます。「できた人は、・・・をしましょう」と作業に入る前に指示をすることも忘れないようにしましょう。

指示の後の子どもの動きから、子どもの状況を把握して、「子どもに活動させているつもりが無駄な時間となってしまう」ことがないよう、素早く対処してください。

教師は子どもの発言を復唱しない方がいい?

「教師が子どもの発言を復唱するとよいですよ」というアドバイスをすると、「子どもが教師の発言を聞けばよいので、友だちの発言を聞かなくなるのでは」と質問されることあります。実際に「教師は子どもの発言を復唱しないように」と指導している地区もあります。本当のところはどうなのでしょうか?

まず大前提となるのが、教師が子どもの発言を復唱するときには、子どもの発言をできるだけそのまま復唱することです。例え間違いや不完全な答えでも、そのまま復唱することで、子どもは教師が自分を認めてくれたと感じるのです。復唱することの意味は教師が子どもを認めているという安心感を教室に作ることです。
ところが、教師は子どもが間違いのときには無視したり、逆に期待した答えに近いことを言ってくれると、今度はどんどん自分の言いたいことを足してしまいます。

「観察していてどんなことに気づいた。Aさん」
「泡が出た」
「他にはない」
「Bさん」
「白くなった」
「そうだよね。Bさんが言ってくれたように、石灰水の中に通すと白く濁ったよね」

これではAさんは「自分はダメだったんだ」と思いますし、Bさんも「あれ、自分の言ったことと違う。間違っていたのかな」と不安になります。自己有用感を持てませんし、教師との関係も作られません。
また、まわりの子は先生の言ったことが正しいと思うので、Bさんの発言を認めなくなります。

「観察していてどんなことに気づいた。Aさん」
「泡が出た」
「なるほど、泡が出たんだ」
「それってどこから出たの」
「ガラス管から」
「ガラス管からでたんだ。ガラス管から泡が出たときに気づいたことない」
「うーん」
「いいよ。じゃあ誰かAさんの代わりに答えてくれるかな。Bさん」
「白くなった」
「白くなったんだ。何が白くなった」
「石灰水」
「なるほど、石灰水が白くなったんだ」
「Aさん、どう」
「うん、思いだした。水が白くなった」
「そうだよね。水が・・・白くなった」
「石灰水が・・・」
「石灰水が白くなったんだ」
「じゃあ、AさんとBさんが言ってくれたことまとめてくれる人」

このように、子どもの言葉をそのまま復唱しながら、深めていくやり取りをすれば、子どもも達成感を持てますし、まわりの子も教師の言葉に反応しながら、友だちがどう答えるかを真剣に聞くようになります。

もちろん、いつも教師が復唱するのではなく、他の子に復唱させたり、評価させたりするなど、友だちの発言を聞く価値を持たせる工夫も必要になります。
教師と子どもの関係をつくるのに、子どもの発言を教師が「そのまま」復唱することは有効なことです。一律に「いい」「悪い」ではなく、学級の状況に応じて、教師が意図的に復唱を活用していただければと思います。

子どもが友だちの発言を聞かない理由

授業を参観していると、子どもが友だちの発言を聞いていないと感じることがよくあります。友だちの発言中も教師の方を向いていて、その内容に反応しない。教師が他の子どもの発言を求めると、ちゃんと反応する。授業には参加しているのに、友だちの発言は聞こうとしない。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。

このような授業に共通して感じるのは、子どもが友だちの発言を聞く必然性がないということです。

子どもの発言を受けて、「はい、正解」「いいですね」と言って、教師が一人で説明をする。
教師の求める答えでなければ「他には」とその発言は無視して次に行く。

このような進め方ですと、友だちの話を聞かなくても教師の発言を注意して聞いている方がよくわかるし効率的です。説明の後に要点を教師が板書してくれるのであれば、教師の話も聞く必要がありません。板書を写すことに専念すればよいのです。

では、聞く必然性はどうやって作ればよいのでしょうか。基本は子どもの発言できるだけ生かすことです。

「Aさんの説明を聞いて、なるほどと思った? 思った人、どこでなるほどと思ったか教えてくれる」

「Aさんの説明で納得した? よくわからない人もいるみたいだね。だれか、Aさんのかわりに、Aさんの考えを説明してくれる」

このように、子どもの発言を他の子どもにつないでいくようにするとよいでしょう。
また、友だちの発言を聞いていないと答えられない質問をすることも、聞く姿勢を作るためには有効です。

「今、Aさんがとてもいいこと言ってくれたけど、Bさんもう一度言ってくれる」
「わかりません」
「よく聞いてなかった? もったいなかったね。悪いけどAさんもう一度言ってくれる」
「・・・です」
「Aさんありがとう。Bさん言ってくれる」
「・・・です」
「Bさん、よく聞けたね」

このような場面では、友だちの発言を聞いていたことをきちんと評価することも忘れないようにしてください。

子どもが友だちの発言を聞かないのは、実は教師がそのことをちゃんと子どもに求めていないからなのです。

「みんな」という言葉は要注意

授業を参観していると、「みんなよく頑張ったね」「みんな分かった?」と、「みんな」を主語にした言葉をよく耳にします。この「みんな」という言葉にはちょっと注意が必要です。

「みんな」という言葉は、教師が子ども一人ひとりをきちんと見ていなくても使える言葉です。また、子ども一人ひとりの行動や理解は異なりますが、それらを「みんな」で代表させてしまうと、子どもがきちんと自分を評価できなくなったり、自分を主張できなくなったりします。

例えば、「みんな頑張ったね」と教師が言う時は、具体的に誰が何を頑張ったか、本当に一人残らず頑張っていたかを確認していないことがよくあります。子どももなんとなくほめられてうれしいのですが、きちんと自己評価できません。

「○○をやった人、手を挙げて」
「全員手が挙がったね。みんな頑張ったね」

このように、具体的に問いかけ、子どもが自己評価できることを大切にするとよいと思います。
ただ、全員の手が挙がらない時は、挙がらない子をきちんとケアする必要があります。

「A君は手が挙がらなかったけど、どういうことかな」
「あまり○○はちゃんとやらなかった」
「そうか、やらなかったか。でも、先生は、A君は△△をやって頑張ったと思うよ」
「みんな頑張ったね」

また、「みんな分かった」と聞いて、子どもが「はい」と元気よく返事を返してくれても、本当に全員分かったとは限りません。確かに大多数の子どもがわかっているのかもしれませんが、その陰には少数の分からない子がいることも多いのです。
「みんな」という言葉は、その中に入らない子どもを切り捨てる言葉にもなってしまいます。

教師が学級に語りかける時に便利な「みんな」という言葉ですが、その使い方には注意してほしいと思います。

ベテランのチャレンジ

昨日は、授業研究に参加してきました。ベテランの先生の音楽の授業でした。

新学習指導要領で「言語活動」がどの教科でも取り入れられていますが、そのことを強く意識されていました。

合唱でどのように表現したいかを子どもの言葉で発表させ、その言葉をキーワードに音楽表現を考えさせる。
そのことを意識して、ペアで練習する。音楽表現にこだわり、互いにアドバイスし合う。

子どもたちは、驚くほど一生懸命に取り組み、最後の合唱では、誰の目にも明らかにうまくなっていました。
ペアでは、声がしっかり出るように互いの距離を大きく取らせるなど、ベテランらしい細かい配慮も行き届いていました。

ベテランが新しいことにチャレンジした方が、もともと持っている引き出しが多いので、子どもの状況に細かく対応でき、よりよい授業となることが多いように思います。
授業研究の場で、ベテランが今まで培ったものをただ披露するのではなく、新しいことにチャレンジするということは、学校全体の活力アップにもつながります。

ベテランがチャレンジすることが、ベテランのよさを生かすことだと感じました。

授業後も先生の音楽の授業と子どもへの思い、次のチャレンジへの意欲たくさん聞かせていただきました。私自身がたくさんのことを学べた1日でした。

子どもを見ることから学ぶ

昨日は、市の中堅対象の研修会でコーディネーターを務めました。授業を参観してのグループでの検討を中心にしたものです。いろいろな市町や学校から研修をお願いされるのですが、講演は極力お断りして、授業を見ての勉強会を中心としたものを提案させていただいています。この市でもこういう形式で4年目となります。毎回新しいメンバーなのですが、私自身たくさんのことを学ばせていただいています。

学力も高く指示されたことをきちんとこなせる学級での授業でした。グループでの話し合いの後の発表の場面では、本当に多くの子どもが挙手をして発表してくれました。先生はどの子の発言にも否定的なことを言わず、受容的な姿勢で子どもと接していました。そのせいか、子どもたちのテンションも終始落ち着いていました。

授業後の参加者による検討会では、教師の発問や支援といったことよりも、子どもの事実をもとに話す姿たくさん見られました。

子どもたちは書く力はすごくある。けれど、グループの活動では、自分の書いたものを順番に発表するだけで、自分と反対の意見がでていてもそのまま互いに認めて議論にならない。なぜだろう?

非常にできる子が、客観的なことを書いていたが、グループの話し合いで他の子が主観的に書いているのを知って、書きなおしていた。グループにするとこんなことが起こるのだ。

個人の作業で手がつかなかった子が、グループになって友だちの発表を聞いてから、自分の考えを書き始めた。何を書いてよいのかよくわからなかったのが、友だちの発表で分かったのだろうか?

このような話がたくさんされていました。
発問や支援といった教師の行動に注目しても、この「教科」、この「単元」、この「学級」でしか通用しない話になってしまうことが多々あります。どの授業にでも通じることをそこから見つけて話し合うことはなかなか難しいものがあります。また、「自分はこのやり方をしない。自分ならこうする」と思った時点で学ぶことはなくなってしまいます。
それに対して、子どもの姿は、どの授業でも目にする可能性のあることがたくさんあります。その姿は明日の自分の授業でも起こりうることです。また、こういう話し合いをすると、自分の授業での子どもの様子が気になるようになります。そこから、授業の改善すべきところが見えてくるようになります。

授業を見る時は、教室の後ろから教師を見るのではなく、横や前に移動して子どもの姿もしっかり見てください。きっと多くのことを学べると思います。

テンションが上がる理由

教師が意図しないのに子どもたちのテンションが上がってしまう場面に出会うことがあります。その理由が分からないのでなかなかコントロールすることもできません。意図して子どもたちのテンションをよい状態に保つためにも、子どもたちのテンションが上がる理由を考えてみたいと思います。

子どもは友だちや教師に認められたいと思っています。教師と子どもの関係がよい学級では特に教師に認めてもらおうと積極的に挙手をして指名されたいと願います。その一方で、間違えたり、自分の考えを否定されたりすることには臆病で、自信がないとなかなか挙手もできません。したがって「分かる」「できる」こと、「自信を持つ」ことは子どものテンションを上げる要因の一つです。

また、間違いや自分の考えを否定される心配が無い状況であれば、安心して気軽に発表できるので、テンションが上がりやすくなります。教師と子ども、子ども同士が互いの考えを認めあえる学級であれば、どのような発言でも否定されることが無いので、当然テンションは上がります。このような学級では互いの発言を真剣に聞く姿勢ができているのでテンションが上がりすぎることもなく、程よいテンションが保たれます。

もう一つ気軽に発表できる要因があります。それは「無責任」です。根拠や理由を問われないのであれば、真剣に考える必要がありませんし、何を言っても言いっぱなしで済みます。「無責任」に発言できる状況であれば、簡単にテンションが上がります。クイズはその典型です。テンションを簡単に上げる手段としてよくつかわれますが、根拠や理由を問わずに続けているとテンションがどんどん上がっておさまりがつかなくなります。

テンションが上がりすぎていると感じる時は、「無責任」な発言や活動が許される状況になっていないかを意識してください。教師が根拠を必要としない問いかけをしていたり、子どもの発言や行動に対してその理由を問い返さなかったりしていることが原因であることがよくあります。テンションが上がる要因を意識して、適度なテンションを保てるよう工夫してください。

テンションを上げすぎない

教師の質問に子どもたちが次々に勢いよく挙手をし、指名された子どもが元気よく答える。
一見すると活発な授業場面ですが、往々にして子どもたちのテンションが上がりすぎていることあります。テンションが上がりすぎることの何が問題なのでしょうか?

まず、子どものテンションが上がると積極的になりますが、同時に受容的でなくなります。押しのけて発言しようとしたり、友だちの発言を聞かなくなったり、否定的になります。

指名されようと大きな声を出したり、目立つ動きをして教師の気を引こうとする。
友だちの発言が終わるとすぐに挙手をする。(相手の発言をきちんと受け止めていれば、その言葉を受け止めるための時間が必要です。挙手するまでに少し間が空くはずです)
友だちの発言を間違いだと判断した瞬間に、発言が終わらないうちに「はい」と挙手をしたり、「違ってる」と大きな声で指摘したりする。

こういう状態では、教室全体で共に学ぶ姿勢が崩れてしまいます。

そして、子どもたちのテンションが上がるとそれにつれて教師のテンションも上がってしまいます。子どもの大きな声を押さえようと教師の声が大きくなり、教師の注意がテンションの高い子どもにばかりにいってしまいます。テンションの高い子どもと教師だけで授業が進み、そのテンションについていけない子どもはどんどん冷めていき、授業に参加しなくなります。教師もそういう子どもたちを見逃しやすくなります。

子どもたちに活気のない授業では困りますが、子どもたちのテンションが上がりすぎることにも注意が必要です。
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