1.31 「できた!楽しい!」(校長より)先生がやって見せると、拍手喝さい! 台上前転は、けっこう怖く感じるものですが、子どもたちは何度も何度も楽しそうに練習していました。 「できたー!」 「できるとめっちゃ楽しい!」 目をキラキラさせて教えてくれた子がいました。 「担任の先生にも言っておいで」 と言うと、うれしそうに報告に行きました。 「できた!」と言ったその子と同じくらい担任もうれしそうで・・わたしもうれしくなりました。 明日から今年度最後の学校公開です。 残念ながら1年1組、1年2組、6年1組は学級閉鎖中なので、授業公開はできませんが・・できたら、オンラインの授業を少しのぞいてみてください。 「できた!楽しい!」「わかった!楽しい!」 そんなふうに子どもたちががんばっている姿を見ていただけるといいなと思っています。 寒い中になりますが、よろしくお願いいたします。 1.30 150周年記念行事を終えて(校長より)地域づくり協議会の平林哲也さん(元 本校校長)に「黒田小の歴史について」、高知犬(元 高知ファインティングドッグス)取締役の梶田 宙さんに「夢をかなえる」という記念講演を行っていただきました。 その後記念動画(本校の保護者に作っていただきました)を視聴して、校歌を歌いました。 あいさつの中で、この150年もの伝統ある本校に赴任できたこと、そしてかわいい子どもたちに出会えたことのうれしさを冒頭で伝えました。 この式典を通して、子どもたちには「この歴史のある黒田小学校に通っていることをしあわせに感じてほしい」ということ、先生方には「この学校は、平林さんをはじめ地域の方が本当にあたたかく支えてくださっていること」「『先生』を続けていると、教え子がこんなふうに立派になって助けてくれるようなうれしいことがあること」を感じてもらいたいと話しました。 本来なら、地域の方も大勢来ていただいて、いっしょに150年をお祝いするべきなのですが、このような縮小した形でしか行えず残念です。 黒田小学校の歴史の重みを感じながら・・「夢」を大事にする子どもたちがのびのびと育っていけるようにがんばります。 1.27 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「75歳」の方の思い出です。 「昭和天皇お召し列車の思い出」 黒田小学校前の東海道線は、昭和31年に電化されるまでは蒸気機関車、今でいうSLが走っていました。自分は確か3年生の時であったと思います。 電化される事は以前から話題になっていたので電化当日、今は学区変更で閉じられている東門(当時の正門)前で級友たちと、どんな列車が来るのか待っていると、煙の出ない電気機関車が客車を牽引して来たのを見て、皆で列車に手を振ったのが昨今のように思い出されます。 黒田小学校は東海道線の沿線にあるので、年に1〜2回、国体や植樹祭で昭和天皇のお召し列車が通ります。それをお迎えするため、全校生徒が線路沿いに整列し、お召し列車の通過時、校長先生の合図で万歳三唱をしたものでした。 東京方面から来るお召し列車は、普段見ている真っ黒なSLではなく、ピカピカに磨き上げられた赤銅色で、前部の日の丸が今でも強く印象に残っています。 お召し列車は一瞬の通過ですが、天皇陛下は車窓より毎回手を振ってくださっていたのが見えました。 当時は現在の少子高齢化社会とは逆で、1クラス約50名の定員で、6年生の時は6クラスあり、校歌も「1,500の我々は〜」でした。 昭和34年9月、6年生の時です。伊勢湾台風が東海地方を通過し、木曽川町も甚大な被害を受けました。台風の通過時が真夜中の事で、大きく家が揺れ、朝まで生きた心地がしなかったと当時の仲間とこの話題はつきません。 当時、各先生が「このような大災害は生涯で一度あるかどうかなので、あなたたちが大人になったとき、語り継いでいきなさい。」と言われた事が記憶に残っています。 【写真1:お召し列車 2:昭和61年、愛知県での鉄道開通100年のイベントで名古屋〜木曽川間にSLが走った 3:昭和31年ごろの黒田小学校 写真下に東海道線の線路が見える】 ※伊勢湾台風の話は、わたしも亡くなった母からよく聞きました。台風の怖さを知らない頃でしたが「そんな怖い思いはしたくないな」と思ったことを覚えています。 月曜日は、いよいよ記念行事があります。地域の方や保護者のみなさまに来ていただけないことは残念ですが、ICCの取材が入りますので、少しはご覧いただけるかなと思います。 思い出を寄せていただき、ありがとうございました。今後ももしありましたら、いつでも学校へ知らせてください。紹介させていただきます。 1.26 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「68歳」の方の思い出です。 「国鉄『踏切番』の思い出」 黒田小学校の南東には、銀座通りとJR(昔は国鉄)東海道本線が交わる踏切があります。 現在の学区制度では、この踏切を渡る黒田小学校の子はいません。 私の小学生の頃は、現在の木曽川東小学校の校区も黒田小学校の校区でした(のちに、黒田小学校から分離したのが木曽川東小学校です)ので、南黒田地区の子どもたちの多くは通学路としてこの踏切を利用していました。 現在の踏切は、通過する列車が近づくと自動で鳴る警報機、自動で開閉する遮断機が設置されているのが当たり前ですが、当時はそうではありませんでした。 ここは、木曽川町の中でも交通量が多い踏切の一つであることは、今も昔も変わりません。 ではどのようにして、頻繁に通る列車と自動車や歩行者の安全を確保していたのでしょうか? この踏切には、常時、「踏切番」と言われる人がいたのです。 そして、踏切の北東脇には、「踏切番小屋」が建っていました。 列車が近づくと、「踏切番小屋」に合図が来ます。 今となっては記憶が曖昧ですが、確かブザーが鳴り、ランプが点るようになっていたと思います。 「踏切番」の人は、その合図に従って大きなハンドルを操作し、手動で遮断機を下ろします。 今のような道幅半分の長さの棒ではなく、線路と並行に張った道幅いっぱいの長さの吊り下げ式遮断機を上下するのです。 踏切を渡る人や自動車の動きを見定めながら、遮断機を上下するのです。 時には、線路に取り残されそうな人もいました。 この「踏切番」の人の仕事は、子どもながらに「たいへんだなあ〜」と思って見ていました。 私は、登下校時や学校に遊びに行く際は、必ずこの踏切を通らなくてはなりませんでした。 しかし、この踏切で止められることは嫌いではありませんでした。 この「踏切番」の人が、てきぱきとハンドル操作をしている姿が格好よく感じていたからです。 学校の放課時間にも、運動場からその仕事ぶりをよく眺めていました。 時々、蒸気機関車も煙を吐きながら通る時代でした。 また、何十両もの長い貨物列車が通るたびに、何両連結しているのかみんなで声を上げて数えていました。 今でも、この踏切を渡る機会がよくあります。 そのたびに、当時の「踏切番」の人が格好よく働く姿が懐かしく目に浮かびます。 2枚目の写真の赤い〇のところに、いちばん下の写真のような「踏切番小屋」がありました。 ※この学校へ赴任した時に「電車が好きな子たちは、毎日うれしいだろうな」と思いました。(けっこう電車が好きな小学生は多いので・・) 予想通り、「校長先生、もうすぐ新しくなった『しらさぎ』が通るよ!」とか、「貨物列車って全部荷物が積んであるわけじゃないんだよ」とかうれしそうに教えてくれた子たちがいます。 電車がとおるたびに、遮断機を上げ下げする「踏切番」・・そんなお仕事をする方がみえたのですね。知りませんでした。うっかり踏切番小屋で居眠りでもしたら、たいへんなことになってしまうな・・と、そんな心配をしてしまいました。 1.25 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「62歳」の方の思い出です。 「私の思い出」 私が黒田小学校に在籍していた当時は、北側に低学年教室用の平屋の木造校舎があり、これぞ昭和という風情で読み書きを習っていました。 また、JR(当時は国鉄)の踏切近くに歩道橋が設置され、通学路が大きく変更されました。 安全ですが遠回りの通学路となり、たくさん歩いた思い出があります。 3年生のとき、私のクラス3年5組では、帰りの会のときに、「今日のがんばったさん」というメニューがあり、毎日一人ずつがんばった人が選ばれ、教室にあった木製の馬にまたがり、みんなから拍手してもらえる時間がありました。 1年間あればクラスメートの全員が一度はまたがることができるように担任の先生は配慮していたのですが、なぜか自分は一度も選ばれませんでした。 たぶん先生は自分がとっくに選ばれていることだろうと思い込んでいたのではないでしょうか。 「馬に乗れなかった」ということをみんなに知られるのが恥ずかしくて最終日まで言えず、さみしい思い出となりました。 4年生のとき、私のクラス4年5組では、授業時間に余裕があると、担任の先生はよく「みんなで地図上の地名を探そう!」と言って、みんなの知らない本当に無名の場所を、地図上で場所を探し当てることをしました。 級友と競争し合いながら地名を探し、大いに盛り上がった思い出があります。 そのおかげで社会科の学習が好きになりました。 ※こういう思い出を読ませていただきながら、自分の教え子たちはどんなことを覚えていてくれるのかなと考えます。教え子の中に「先生が『踊りがすごい上手!』ってほめてくれたから、劇団に入りました!」という子がいます。自分のひとことがそんなふうに子どもたちに影響を与えてしまうんだなと驚き・・どの子にも必ずある「キラッとひかるいいところ」を伝えるようにしようと今でも思っています。 1.24 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「48歳」の方の思い出です。 「なつかしい数々の思い出」 私は昭和49年生まれ、木曽川町出身で黒田小の卒業生です。 私が小学生だった頃の黒田小学校は児童数が千人を超えていて、朝の登校では、学校までの通学路には小学生の長い列ができていました。 私の通学路は、国鉄(今のJR)の踏切を渡って学校の北門へ向かうルートでした。 登校時で一番印象に残っていることは、当時の冬は今よりも気温が低く、凍結する日が多いため、踏切近くの坂では滑って転倒する恐れがあったので、みんな慎重に歩いていたことです。 集合場所近くの田んぼの日陰には、乗っても割れないほどの氷が張り、みんなが集合するまで滑って遊んでいました。 自宅周辺には、いろいろなお店がありました。 八百屋、仕出し屋、駄菓子屋、文具屋、本・レコード屋、靴屋、ふとん屋、化粧品店、薬局、銭湯、ラーメン店…、思い出してみると多くの商店があったのだと驚きます。 住宅は現在に比べて少なく、小さな公園が所々にあり、田畑や空き地が多かったため、遊ぶ場所には困りませんでした。 小学3年生になると、自転車の試験がありました。試験に合格できないと、公道を自転車で走ることができない校則(ルール)でした。 当時はまだテレビゲームがなく、自転車が流行りだったので、友達と頑張って練習したことを覚えています。 自転車の試験は、北舎の屋上でできるようになっていて、横断歩道や交差点などが本物の道路のようにペイントしてありました。 夏休みの思い出では、朝早く起きて友達と現在の138タワーが建っている辺りへカブトムシやクワガタを採りに行き、ラジオ体操が始まるまでには自宅へ戻り、ラジオ体操が終わると子ども会のキャンプでの出し物練習、その後は学校のプールへ行ったり友達と野球をしたりして遊んだりと、忙しく毎日宿題が終らない子どもでした。 現在はJRの駅がリニューアルされたこともあり、自宅周辺の様子はずいぶんと変わりました。 しかし、母校の黒田小学校の外観は当時と変わりなく、大人になった今、朝の見守りや学校運営協議会などで学校に関わらせていただいておりますので、学校に足を運ぶ際には毎回懐かしい気持ちになり、自分が小学生だった頃の記憶がよみがえります。 今後も地元の伝統ある母校・黒田小学校が、これまで通り子どもたちや地元の人々にとって親しみのある大切な場所であり続けることを願っております。 【当時の思い出の写真も送っていただきました】 ※読ませていただきながら、自分の子ども時代もそうだったなぁと思いました。(私の方がもちろんけっこう年齢は上なのですが・・)本校の卒業生であり、その後ずっと本校に関わっていただけていることを、本当にありがたいなと思います。ずっとずっとよろしくお願いいたします。 150周年記念行事に向けて(校長より)今日は「43歳」の方の思い出です。 「私の思い出」 ♪負けない事 投げ出さない事 逃げ出さない事 信じ抜く事 駄目になりそうな時 それが一番大事♪ 1991年のヒット曲「それが大事」の歌詞が学年集会の教室の黒板に書かれていた。何割かの同級生はそれに気づいていた様子だったが、音楽を聴く習慣のなかった当時の私にとっては初めて目にする言葉だった。 時は小学6年の3学期。まもなく巣立ちを迎える私たちに、先生はこの曲の歌詞を通して"この先の人生にとって大事なことは何か”を伝えようとしたのだろう。流行歌の歌詞を題材にするという斬新な発想に私は大きなインパクトを受け、30年以上経った今も鮮明に覚えている。見事に先生の術中にはまったのが嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。 今では自分が小学生の子を持つ親となり“大事なことをきちんと伝える“ということが如何に難しいかが分かるにつれ、先生たちが真剣にそして一生懸命に私たちのことを想ってあの学年集会を考え、開催してくれたのだと思うようになった。 今でも“懐かしのヒット曲特集”などで「それが大事」が流れる度にこの学年集会のことを思い出す。「大事なことを忘れていないか?」と先生たちが語りかけてくれる気がするのだ。 わたしもこの歌が大好きで、子どもたちと歌いました。記念行事で講師として来てくれる教え子が、ちょうどこの方と同じくらいの年齢です。 朝の会や帰りの会で毎月いろんな歌を歌っていたので、今でもそのころの曲を聞くと、そのころの教え子を思い出します。きっとこの方の恩師も覚えていると思います。 150周年記念行事に向けて(校長より)1つずつ紹介していこうと思います。 まず、今日は「24歳」の方の思い出です。 「さまざまな挑戦をした小学校生活」 私は黒田小学校で六年間を過ごし、さまざまなことに挑戦させていただきました。 特に、初代児童会役員として、学校全体や地域に関する活動に主体性をもって取り組ませていただいたことが印象深く、その経験が私を大きく成長させてくれたと感じています。 児童集会にて校長先生へのあいさつの言葉掛けを毎週考えたり、COP10について紹介する劇を作って発表したりしました。 半年間のどの活動においても「自分たちで」やったという成功体験を通し、やりがいや達成感を味わうことができました。 これは、先生方の支えのもと、いろいろなことに挑戦する機会を与えてもらったからだと感じており、とても感謝しています。 その経験が自信となり、その後の学生生活でも、人前に立って何かを伝えたり、仲間と協力して何かを作ったりする取り組みに進んで参加できました。 また、小学校生活では、先生方の関わりや言葉掛けに心を大きく動かされました。 私は小学校四年生のとき、その後の人生を変えてくれた恩師に出会いました。 私は当時、人前で話をするのがとても苦手でした。 しかし、恩師はそんな私に対し、 「あなたは周りをよく見ているから、ぜひリーダーに挑戦してほしい」 と声を掛けてくださいました。 私は勇気を出して学級委員に立候補しました。 集団の中で、自分から何かをやりたいと手を挙げるのは初めてでした。 それがきっかけで、私はクラスのため、誰かのためになることをしたいと思い、行動できるようになりました。 私は自分が経験したように、多くの子どもたちにも自分のまだ知らない力を知り、発揮してほしいと思うようになりました。 そして、子どもたちと関わり、その子の可能性を引き出せるような仕事がしたいと考え、今はそれを叶えています。 このように、小学校生活における経験は、今の私を作っています。 私が変わるきっかけを与え、いろいろな挑戦をさせてくれた黒田小学校は、自慢の母校です。 ※思い出を寄せてくださった方の中でいちばん若い方です。 「自慢の母校」と思えるような学校に自分が校長としていられることが、本当にうれしくて、またその重みを感じています。ありがとうございました。 1.18 阪神大震災の記事を読んで(校長より)阪神大震災についてのものです。 毎年、この時期にはこのような記事が出るのですが、読んでいると涙が出てしまいます。 「今、生きていたら・・」と考えても、思い浮かぶのは亡くなったときの姿のまま・・。 亡くなった方はもちろん気の毒ですが、残された方もまた気の毒です。 「災害は忘れたころにやってくる」と言われます。幸い、この地域はまだ阪神大震災や東日本大震災のような震災が起こっていませんが・・わたし自身は備えが万全とは言えない状態です。 なかなか日ごろは考えられないことですが、こういう機会には「もし大地震が起こったら・・」と考えて、家族で話し合い、いざという時のことを考えて備えることも必要だなと思います。 1.17 黒田小サロンで♪(校長より)「蓄音機」です。昔は、お金持ちしか持っていなかったものだそうです。 今日の黒田小サロンは、資料館の川井さんに「蓄音機コンサート」を開催していただきました。 昭和初期のころの音楽をたくさん聴かせていただきました。 わたしが知っていた(というか・・聞いたことがある)曲はたった2曲でした。すべて生まれる前の曲なので・・。 「高校生だった!」 「あー、なつかしい!だれが歌っていたっけ?」 サロンは大盛り上がりでした。 歌っていいな・・と改めて思いました。 わたし自身も10代や20代のころの歌は、カラオケに行っても歌詞を見ずに歌えます。「聖子ちゃん・明菜ちゃん」の世代です。なんなら、中森明菜はふりつきで歌えます(笑) 今の歌も覚えて歌うのですが、すぐに忘れます。 サロンで目をキラキラさせて口ずさんだり、リズムを取ったりしている方たちを拝見しながら、しあわせな気分になりました。 今週末は、カラオケに行こう!と決意しました。 1.16 3年生のクラブ見学(校長より)今日は、3年生がうれしそうに見学をしていました。 「何クラブに入るか決めてる?」 と尋ねると 「ぼくは、バスケ!」 「手芸がいいな」 「ドッジボールやりたい!」 「どれも楽しそうで迷っちゃう・・来年決めよっと!」 などなど・・いろんな答えが返ってきました。 この見学を通して「4年生になるのが楽しみだな」と思ってくれるとうれしいです。 1.13 授業を観ていただきました(校長より)今年度のまとめの現職教育でした。 「子どもたちの学び合っている姿が、とてもよかったです」 「こういう姿がいいですね」 など・・本年度本校が取り組んできたことを認めていただけて、ホッとしました。 学校でいちばん多いのが「授業」の時間です。 だから、子どもたちが「学校は楽しい」と感じるには、その授業の時間を楽しくしないといけないと思っています。 今年度の残り・・そして、来年度も引き続き授業力向上のための研修を大事にしていきたいと思っています。 写真は、5時間目の様子と現職教育の時の様子です。 さて、週末です。 今週は4日でしたが、学期はじめで子どもたちも疲れているかなと思います。 土日ゆっくり過ごして、月曜日にはまた元気な姿を見せてくれるのを楽しみにしています。 1.12 6年生の様子(校長より)3クラスとも落ち着いて学習したり、朝の会を始めたりしていました。目が合うと静かに会釈してくれる子もいて、うれしいです。 6年生の小学校での授業日は、あと46日になりました。 わたしは、6学年の中で6年生の担任がいちばん多かったのですが、何度やってもこの6年生の3学期は、毎日毎日子どもたちに会える日が減っていくさみしさと、卒業までにやっておかないといけないことに対するあせりと・・なんだか複雑な気持ちで過ごしていました。 子どもたちも、中学生になるうれしさと不安の両方を感じるようになります。お兄さん、お姉さんがいる子でも、やっぱり不安になるそうです。 不安になりすぎないように・・でも、安心しすぎないように・・と思っています。 年末に会った教え子が「6年生のとき、先生が『いちばん苦しかったのも楽しかったのも中学校だったよ』って言ってくれたのを自分の子どもにも話したよ」と教えてくれました。(自分はすっかり忘れていましたが) ご家庭で、お父さんやお母さんの中学校のときの思い出を話してあげると、きっとお子さんも喜ぶし、中学校生活が楽しみになると思います。 残り少ない小学校生活を大切に過ごしてもらいたいなと思います。 1.11 授業が始まりました(校長より)午前も午後も・・どの学年も落ち着いて楽しそうに勉強していました。 校内にはお正月らしい飾りがありました。 3年生の子たちは 「これは、絵馬なんだよ!」 と教えてくれました。 短い3学期ですが、次の学年につながる大事な学期です。 子どもたちにとって楽しい思い出がさらに増えていくような毎日になるといいなと思っています。 1.10 始業式(校長より)初めて全学年そろって体育館で行いました。高学年はもちろん、低学年も、姿勢正しく静かに話を聞くことができました。とてもよいスタートだなと感じました。 以下、式の中のわたしの話です。 みなさん、明けましておめでとうございます。 2023年、令和5年が、そして3学期が始まりました。 みなさんはどのような冬休みを過ごしましたか? 校長先生の冬休みは…(このあと、わたしの冬休みについて話しました。どこへ行ったか、年末年始はどう過ごしたか、初詣やおみくじのことなど…) さて、3学期を迎えて、いちばんうれしいことは、こうして体育館で始業式をやることができたということです。1年生から6年生までの全学年がそろって式を行えるのは、今回が最初で最後です。なぜだかわかりますか?3月の修了式のときには、もう6年生はいません。卒業していってしまいます。だから、今日が最初で最後です。 さあ、今日から3学期がスタートしました。 1・2学期、みなさんはがんばったことがたくさんあって、いろいろなことができるようになりましたね。そこで、3学期は、みなさん一人一人がもっと大きく成長するために1つだけお話します。 「3学期は次の学年の0学期」です。1年生は2年生になる、2年生は3年生になる、3年生は4年生になる、4年生は5年生になる、5年生は6年生になる、そして、6年生は中学生になる準備をしていきましょう。だから、少しだけ自分をランクアップさせましょう。 みなさんの心の中に「天使と悪魔」はいませんか?校長先生の心の中にはいます。たとえば、目の前にごみが落ちている時・・「天使」は「拾ってきれいにしよう」と言います。「悪魔」は「自分が捨てたごみではないのだから、そのまま知らんぷりしよう」と言います。そういうことってありませんか?もちろん「天使」の言うことを聞く方がいいのはわかりますね?でも、人間っていつもいつも「天使」の言うことを聞くことは難しいものです。だから、何かあって、自分の心の中の「天使」と「悪魔」が出現したときに、できるだけ「天使」の言うことが聞けるようになるといいなと思います。 それでは、3学期も引き続き感染症対策を行いながら、みんなで元気に楽しく学校生活を送りましょう。 以上です。 子どもたちの表情を見ながら話せることが、しあわせだなと思いました。 「式を体育館で行う」のようなあたり前だったことも、なかなか全部を以前のようには行えないし、オンラインのよいところもありますが・・状況を見ながら「前のようにもどすもの」「もどさずに今のままにしておくもの」の判断をして進めていきたいと思っています。 3学期もどうぞよろしくお願いいたします。 |
新トップページ「こちらからどうぞ」をクリックしていただき、お気に入り・ブックマーク等をお願いします。
一宮市立黒田小学校
〒493-0001 愛知県一宮市木曽川町黒田字古城26番地2 TEL:0586-28-8740 FAX:0586-87-3249 校長 柴田 泰子 ★他サイト及び紙・電子問わずあらゆる媒体への無断転載を禁じます★
|