授業は日ごろの積み重ねが大切だと実感する

昨日の日記の続きです。

2つ目の公開授業は、この学校の先生による中学校1年生の文字式の利用の授業でした。
この日の課題は、前時にやった3つの連続する整数の性質を拡張して、偶数個の連続する数の性質を考えるものでした。

授業の開始の挨拶はきちんとするのですが、子どもたちが授業者と目を合わせないのが気になりました。授業中に子どもたちの顔が上がらない場面で授業者が顔を上げるように指示をすることもあるのですが、なかなか全員の顔は上がりません。

前時の復習で、3つの連続する整数の和は真ん中の数の3倍になることを確認した後、「どこが変えられるか?」と問いかけます。問いかけはするのですが、授業者が連続する「3つの偶数」、「5つの整数」「7つの整数」「9つの整数」を調べることにします。なぜこれを選ぶのかの根拠が全くありません。普通、「奇数は?」「6や8は?」と疑問に思うはずだと思いますが、そのような声は出てきません。子どもたちは、教師が課題を提示して自分たちはそれに答えるという、教師主導の進め方に慣れているようでした。

答がどうなるか予想させたあと、説明をペアで「整数が偶数の時」「連続する奇数の個の時」と分担して確認します。分担するという発想は個人的にはどうも好きになりません。同じような説明になってよいので、互いに同じ課題について説明し合う方が、学び合えるように思うからです。
子どもたちが説明する性質が「3つの連続する偶数の和は、6の倍数になる」「5つの連続する整数の和は、真ん中の数の5倍になる」となっていて、その視点が数学的にそろっていないことが気になります。「3つの連続する偶数の和は、真ん中の数の半分の整数の6倍になる」とするのか、「5つの連続する整数の和は、5の倍数になる」とするのが、本来のように思います。「性質とは何を言うのか?」「どういった視点で見るのか?」といったことが意識されていないことが気になります。思考の連続性が感じられないのです。
授業者は「奇数個の時は……」とまとめますが、奇数個か偶数個かでセグメントを分ける理由が明確ではありません。最初に、偶数個も考えてみて、「奇数個なら今までの考えが使えそうだ」「偶数個は真ん中の数がないから、ちょっと違う」といったことを子どもたちから出させたうえで、奇数個と偶数個を区別する必要があったと思います。
この課題で大切にすべき数学的な予想や推論がなく、天下りで教師が課題を示すのはあまりにもったいないと思います。子どもたちが自ら課題を見つける絶好の機会を逃していると思います。

連続する整数が、4個、6個、8個の時、それらの和にどんな決まりがあるか考えることを次の課題にします。ここで言う「決まり」とは何かが気になります。「性質」と「決まり」の違いが明確になっていません。何らかの式を立てることなのか、必ず偶数になるといったことを言うのか、それとも出てきた式を解釈することなのかがはっきりしていないのです。数学は他と比べても特に言葉にこだわる教科だと思うのですが、曖昧なまま授業が進んでいることが残念です。

4個、6個、8個を考えた子ども同士集まって話し合います。何を話し合うのかが今一つよくわかりません。「決まり」という言葉がはっきりしていないので、目標が定まらないのです。数を文字に置いて式を立てた子がいます。どの数を基準にするかは子どもによって違います。真ん中の数の和の2倍といったことを言う子どもいます。これらの考えをどう子ども同士が深めていくのかがこの活動のポイントですが、あまりかかわれていませんでした。友だちの説明を顔を上げて聞かずに手元のワークシートを見ている子どもも目立ちます。互いに聞きあって考えを深めるということが普段からできていないようです。
日ごろの数学的な活動の中で、「帰納的に見つけたものがあれば、それがいつも言えることなのかを説明する」「演繹的に見つけたことに対して、どのように解釈するか、また他の場合に拡張できるのかを考える」といったことを常に求める必要があります。そういった視点が子どもの中に育っていれば、こういった場面で疑問をぶつけたり、相談したりできるようになっていると思います。

4個の場合に見つけた決まりを「真ん中の数の和の2倍」と子どもが発表しました。ここから考えを広めることのできる発言です。しかし、授業者はすぐにこの答を「真ん中の“2つ”の“整数”の2倍」と修正してしまいます。「それってどういうこと?」「真ん中の数って何?」「○○さんの言っていることわかる?納得する?」といったように問い返してほしいところです。子どもの板書を先生が解説します。どうやってこのように考えたのかを子どもに聞くこともしません。結局、子ども同士がかかわり合う場面はありませんでした。一人の子どもの発表をもとに先生が結論づけてしまいます。

「みんながみんなこうじゃないと思いますが……」と奇数個の時と何が違うかを授業者がまとめます。時間が気になるとは思いますが、そのように思うのであれば、他の考えを聞きたいところです。
「奇数個の時と同じ見方ができないか考えてみましょう」と言いますが、子どもたちから出てきた疑問ではありません。常に授業者が課題を提示しているのです。
x−1+x+x+1+x+2という式を発表した子どもがいます。真ん中の数をxとおきたいのにおけないという苦悩が式からにじみ出ています。この苦悩に焦点を当てることで考えを一気に深めることができます。「何をxとおいたの?」「どうしてそうしたの?」と聞くことで、「真ん中の数がない?」という言葉が出てきます。「なぜ、真ん中にこだわったの?」と聞くことで「奇数の時に真ん中の数×個数になったから」という考え出てくるでしょう。本人が上手く言えなければ、「だれか、○○さんの気持ちがわかる人?」と聞けばきっと答えてくれます。「真ん中の数って何だろう?」と切り返すことで、「平均」といった言葉が出てくるかもしれません。平均という言葉が出てくれば、奇数個も偶数個も関係なく、統一的に記述することにつなげることができます。しかし、授業者は式の流れを追うだけでした。授業者が数学的な価値をどのようなものととらえているのか疑問に思いました。
結局授業者は、自分の求める答「最初と最後の数を足して2で割って個数をかける」を書いた子どもを紹介してまとめてしました。これでは、奇数個の場合の「真ん中の数」との関係が見えてきません。ここは、最後まで真ん中の数にこだわりたいところでした。この説明ですべての連続する数の和について言えることとその意味についてはほとんど触れられることはありませんでした。

子どもたちは友だちが説明する場面では聞こうとはするのですが、板書を写すことがどうしても優先されているようです。顔を上げている子どもは半分以下です。また、一部の子どもは自分の世界に入って、ずっとワークシートを見て考え続けています。授業者はそんな子どもたちを見ていません。子どもの説明の後、「わかりましたかー?」と問いかけて、すぐに補足の説明を始めます。
授業全体として、子どもの考えや気づきを共有し、深めていく場面がありませんでした。一見、子どもたちの考えをもとに進めているように見えますが、説明はほとんどが授業者でした。子どもたちは、いろいろと思考はしているのですが、それを取り上げて評価される場面や価値付けされる場面がありません。子どもたちも、授業者の提示する課題を「解く」ことが学習だと思っているようでした。

この授業のねらいを実現するのであれば、例えば、「3つの連続する偶数の和」については、「偶数も整数だから、前にやったことがつかえ、真ん中の数の3倍になることが言える」「偶数という条件が加わることで、何が言えるかな?」と問いかけて、既存の知識を活かして、出てくる式を解釈することを価値付けしていくといったやり方がありそうです。個数を増やすという「拡張」をすると、「3つの時に言えた、『真ん中の数×個数』は成り立つのだろうか?」と問いかけて、「奇数なら言えそうだ」「真ん中の数がないから偶数では言えない」といった言葉を引き出し、「偶数の時は真ん中の数はないの?あるの?」と揺さぶったりしてから、「じゃあ、何が言えて何が言えないのか?ちょっと考えてみてくれる?」と課題を提示して活動させるといったやり方があります。「真ん中の数はある」という子どもが出てくれば、その子どもの考えを活かせばいいですし、出てこないのであれば、「2と3の真ん中の数はある?」と数直線を使って問いかけても面白いでしょう。真ん中の数を使って、(x−1.5)+(x−0.5)+(x+0.5)+(x+1.5)といった式がきっと出てくると思います。整数にならないからダメだという意見が出てくれば、数の拡張の意味について考える機会にもなると思います。

既存の知識を拡張するという発想は面白いと思いますが、だからこそ子どもたちの考えをどう活かし、深め、共有するかを考えて授業を構想する必要があります。教師主導で、教師の求める考えを無理やり引き出す、教える授業になってしまったように思います。また、子どもたちも、互いに考えを聞き合い深めることに慣れていないと感じました。授業は日ごろの積み重ねが大切であることを改めて実感させられました。

この続きは明日の日記で。
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