道徳の授業撮影

教師力アップセミナーで野口芳宏先生に指導していただく授業の撮影を行いました。小学校6年生の道徳の授業です。授業者は学期末の忙しい時期に積極的に授業を公開してくれました。その影には校長の若手を育てたいという思いがあります。校長も自ら参加して、若手を中心とした勉強会を定期的に開いています。そこで、今回の授業の指導案も検討したそうです。強制参加ではないのですが、若手を中心に先生方がたくさん参観していたのは、学校の中に授業を大切にしようという空気ができている証拠でしょう。校長の働きかけの大切さ感じます。

授業は「寛容」をテーマにしたものでした。資料はレ・ミゼラブルの銀の燭台のエピソードです。
授業者は資料を配って範読します。子どもたちの視線はどうしても下に向きます。授業者は歩きながら読みますが、子どもたちの様子を見てはいません。途中で神父とはどういう人か子どもに聞きます。これは単なる知識です。道徳では資料の内容を早く子どもたちに理解させることが大切です。その点であまり意味のある活動とは思えません。授業者が説明すればいいのです。この後、子どもたちの集中力が落ちました。姿勢も悪くなっていきます。物語の前半部分を読み終わった後、資料を机の中にしまわせました。資料を配った理由がよくわかりません。
ここでジャン=バルジャンの生い立ちや資料の内容について子どもに確認をします。答えられない子どもは、手元に資料がないので参加できません。挙手した子どもだけで進んでいきます。あまり意味のある時間だとは思えません。また、挙手しない子どもが発言に対して「いいです」と言うのも気になります。子どもは背筋を伸ばしているのですが、形だけのように見えます。視線が動かないのです。
ジャン=バルジャンを泊めようとした時の神父の気持ちを子どもたちにたずねます。「神父だから罪人でも大丈夫だと思った」という発言に「いい意見だね」と返しました。「いい」という価値判断はこの場面ではあまり相応しくないように思います。もし「いい意見」というのなら、どの子どもの意見も同じように受け止める必要があります。しかし、他の場面では「いい意見」とは言いませんでした。恣意的ではいけないのです。
ジャン=バルジャンが銀の皿を盗もうとした気持ちを10秒で考えさせます。挙手は4人だけです。その子どもを指名して進みます。ここでジャン=バルジャンの気持ちを考えることが大切であれば、もっと時間を与える必要があったと思います。一部の子どもの意見で進みます。
ここで続きを範読します。神父が捕まったジャン=バルジャンをかばったことについて「神父は許すべきだったか?」と発問します。「べき」という言葉を使うと客観的に正しい答を要求することになります。建前の答が出やすくなります。子どもたち全員に「許す」「許さない」「わからない」のどれかを選ばせ、黒板に自分の名前を貼らせました。子どもたちの考えは「許さない」「わからない」に集中します。これは予想外だったようです。事前にやった他の学級では「許す」に偏ったようです。銀の皿を盗むことはたいしたことではないと思ったからのようです。そこで今回は、内容の確認の場面で、校長がわざわざ手袋をはめてそれらしい皿を捧げ持って見せることで、高価なものであることを印象付ける演出をしたのです。そのことが影響したようです。子どもたちは、教師のちょっとした働きかけで大きく動くことがよくわかりました。
全員に自分の考えを述べさせます。授業者は子どもの発言をすぐに板書をします。似た意見であれば、子どもの名前をそこに貼ります。子どもの考えを認め、見える化するよい方法だと思います。しかし、授業者は子どもを見ません。ずっと板書をしている時もあります。子どもたちも、発言者ではなく黒板を見ています。指名した子どもが返事をしない時に黒板を見ながら「返事!」と注意する場面もありました。残念ながら子どもが返事をしても何もコメントしません。学級の人間関係が心配になります。
子どもたちからは、「罪を犯したから罰を受けるべきだ」「また、同じことを繰り返す」といった意見が続きます。神父の思いやジャン=バルジャンの気持ちに寄り添うような意見はありません。また、わからないといった子どもの意見には、「自分はどうこう言える立場でない」というものもありました。他人事です。
ここに多くの時間を割きましたが、子ども同士がかかわり合うことはありません。友だちの考えを聞いて深まることはないようでした。
ジャン=バルジャンの気持ちに寄り添わせようと、投獄されたのが家族のためにわずかなパンを盗んだだけという話をします。後から付け加えても意味がありません。いまさら言われても困ってしまいます。子どもの反応が予定と違ったので、対応できなくなってしまったのだと思いますが、ここは単純に「なるほど、ジャン=バルジャンを許すべきでないという意見が多かったけれど、じゃあどうして神父は許したんだろう」と神父の気持ちに寄り添って考えさせれば子どもたちを揺さぶることができたと思います。「もし、神父が許さなかったらこの後、ジャン=バルジャンはどんな人生を送ったと思う?」と子どもたちの考えを実行したら何が起こるのかを考えさせても、神父の寛容さの持つ意味に気づけたかもしれません。
神父が燭台まで与えてジャン=バルジャンを諭す残りの部分を範読して、10年後のジャン=バルジャンになった気持ちになって手紙を書かせました。
どうでもいいことですが、神父がジャン=バルジャンを兄弟と呼ぶところで「兄弟のように思っている」という説明をしました。カトリックではすべての人は神の子どもですから互いが兄弟姉妹ということになります。神父ですのでそういう呼びかけをしたのです。ちょっと気になりました。
子どもたちの鉛筆がスラスラ動くことが気になります。あまり深く考えていないのでしょう。子どもの手紙は神父への感謝の言葉が綴られていますが、表面的なものでした。
最後に授業者が自分の経験を話しますが、自分が友だちを許した話でした。適当な話がないのかもしれませんが、許された側の気持ちで話をした方がよかったと思います。「寛容」の価値は許された者の立場で初めて理解できると思います。授業を通じて焦点を当てるべきところがずれていたように思います。

この授業は全員の意見を言わせた場面以外は、数人の挙手で進んでいきました。全員参加の感覚がありません。授業者は何を話すか、どう進めるかにばかり意識がいっています。子どもたち一人ひとりの様子を見て授業をつくっていくという感覚もありません。子どもたちを受容すること、子ども同士をつなぐこともよくわかっていないように思いました。
では、この授業者がダメなのかというとそんなことはありません。事前に大変な準備をしてまで、やらなくてもいい舞台に上がるということは、とても向上心があるということです。ただ、授業に関する大切な感覚のいくつかが育っていないのです。6年目の方です。ここからが踏ん張りどころです。自分に欠けているものを意識して、その部分を埋めることに力を注いでほしいと思います。教師力アップセミナーでは野口先生が、温かいご指導をしてくださるでしょう。そういったことも励みにして、精進してほしいと思います。数年後には大きく変化していることを期待しています。

校長室で、一緒に参観した教師力アップセミナーの関係者も交えていろいろとお話をする機会がありました。若者を育てることの大変さをあらためて感じました。授業も含め、私にとってとても学びの多い時間でした。このような機会を得られたことに感謝です。
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