道徳の模擬授業から多くを学ぶ

先週末は、愛される学校づくり研究会に参加しました。来年2月開催の「愛される学校づくりフォーラム2015 in大阪」のプログラムの検討と改良された授業検討ツールを使った授業検討会でした。

来年度のフォーラムの第1部は、研究会の原点に戻って、私たちが考える「愛される学校のつくり方」について提案することになりました。詳細については、徐々に明らかにすることになると思いますが、私たち会員にとっても刺激的なものになりそうです。
第2部ですが、このフォーラムの目玉でもある模擬授業は外すことができません。昨年は授業の時間が短かったという反省から2本に絞ります。たっぷりと授業を見て、参加者の皆さんと一緒に検討したいと思います。

授業検討は、研究会の会員の中では若手の先生が、道徳の模擬授業を行なってくれました。教材は「ロレンゾの友達」です。
3人の男たちに共通の古い友だちから一緒に会おうという手紙が届きます。ところが、その男が犯罪を犯して逃げているという噂を聞いて3人は動揺します。約束の場所に現れなかったのですが、3人はもし自分のところを頼ってきたらどうしようか考えます。「お金を渡して逃がす」「自首を説得するが、本人が納得しなければ逃がす」「自首を説得するが、本人が納得しなければ警察に通報する」と三者三様です。結局、冤罪だとわかり、4人は楽しく旧交を温めるのですが、それぞれが考えたことを話すことはありませんでした。

授業者は最初にこの時間でいろいろな考えに出会って、自分の考えが変わるとよいということを伝えました。そこをねらいとしているようです。
最初に友情について全員に思い浮かぶ言葉を発表させます。この時間は友情がテーマだと気づかせます。資料の読み取りは、授業者が範読しながら進めます。重要でないところは簡単に説明し、重要なところは準備しておいたまとめをホワイトボードに貼ります。読み取りに時間をかけすぎないよう工夫しています。限られた時間を子どもたちが考えることに使いたいので、このことはとても大切です。授業者は余計な言葉をほとんどはさみませんが、3人の考えの違いを強調してもよかったかもしれません。3人がそれぞれの対応を考えたところでいったん話を終えました。全員起立させて、3人のうち自分の考えが誰に近いか理由も含めて考えさせます。ここで、一人だけ、決めることができない子ども役がいました。どこの国かわからない、警察が信頼できるかわからないといった背景にこだわって、決めることができないというのです。授業者は話をじっくり聞いて、それ以外という選択肢を認めました。検討会ではこの対応が話題になりました。子どもに寄り添って決められないことを受容したよい対応という意見と、客観的な根拠がないのだから無理やり決めさせればいいという意見がありました。どちらの意見にも納得できるものがありますが、そもそもこの一連の場面で、友情ではなく規範意識に問題がすり替わったという意見が出ました。迷っているのは友だちとしての葛藤ではなく、どのようにするのが正しい行動か判断するための材料が足りないためだからです。

この後、選んだ人物ごとに子ども役を立たせて理由を述べさせましたが、友情ゆえの葛藤というものは感じられませんでした。同じ理由の人は着席するように指示をしましたが、だれも着席しません。それだけ自分の考えにこだわりがあるということです。先ほど、選べなかった子ども役にも確認して、誰の考えに近いかを決めさせました。きめ細かい対応です。
授業者は発表させるだけで、互いの意見に対してどう考えるかといったことは聞きませんでした。考えをゆさぶったり、深めたりはせずに、「みんなの意見に共通なことは何か」と質問します。
ここで、授業者は軽く聞いたので、すぐに答が出てくるものだと考えていたように見えました。しかし、子ども役からはなかなか答えが出ません。授業者はじっと待ちます。やっと一人が発言してくれました。「友だちに対する思いやり」という答です。授業者はこの答にすぐに飛びつかずに、もうしばらく待ちます、今度は友だちが犯罪を犯したかどうかわかっていないのに、(来なかったというだけで)犯罪者という前提で考えている。友だちならまず本当かどうかを確認するのではないかという意見です。友だちを信じないで犯罪者と決めつけていることが共通というわけです。授業者の表情を見ると戸惑いが感じられます。予期しない答だったようです。不信感という言葉でまとめましたが、自分でも無理やりだと思ったのでしょう。この言葉でまとめたけれどもそれでよかったか発言者に確認しました。よい対応だと思いました。
この一連の場面についても、授業検討で話題になりました。授業者は、すぐに意見は出ないと考えていたようですが、そうであれば、質問をした後「考えてくれる?」といった言葉で、時間を明確に与えるべきだったという意見が出ました。そもそも、子ども役は質問を理解して考えていたのだろうかという疑問もあります。子ども役に確認したところ、「何を答えていいかわからなかった」「選んだ人物に自分が入り込んで考えていたので、いきなり共通と言われても困ってしまった」といった意見が出ました。子ども役にとってはこの発問はそれまでの活動とつながらないものだったのです。

2つの意見についてはそれ以上触れずに、資料の残りを読みました。ここで、3人が自分の考えたことを言わなかったのはなぜかという発問をしました。30分しか模擬授業にあてる時間がなかったので、ここで終わりとなりました。授業者に確認したところ、本命の課題は最後のものだったということです。しかし、3人のどの考えに近いかを問う場面、共通なことを問う場面、最後の発問がつながりません。友情なのか規範意識なのか、視点が揺れています。これでは自分たちが何を考えているかよくわかりません。考えがゆさぶられ、変わるといった場面もありませんでした。友情を軸とするのなら、「友だちならどうするべき」と自分の考えを発表させて、理由を聞き合い深めることに時間をかけた方がよかったでしょう。最後の発問を中心とするなら、3人の考えは軽く扱い、じっくりと考える時間を取るべきだったと思います。

授業検討では、新しい授業検討ツールのおかげで話し合う場面を焦点化することができました。授業技術がしっかりしていたので、発問や発言の処理の仕方など、道徳の授業をどう進めるかについて、とてもよい意見交換ができました。授業検討ツールについてだけでなく、道徳についても大いに学ぶことができました。授業者と子ども役、参観者すべてのレベルが高い素晴らしい研究会であることを改めて実感しました。
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