読み物資料を使った道徳授業の進め方を伝える授業

昨日の日記の中学校では校長自らが道徳の授業を公開しています。この授業を参観させていただきました。

読み物資料を使った道徳授業の基本的な進め方を自校の教師に伝えようという目的がよくわかる授業でした。指導案に代えて「道徳授業づくり 研究メモ」と題した2枚の印刷物が用意されていました。読み物資料を活用するポイントである主人公の心の変化を想像させることを意識して資料を選び発問を考えたこと。また授業の評価のための発問を準備していることがわかります。読み物資料を範読するポイントを意識した上で、考える時間を確保するために資料の一部をカットしています。そのカットの場所からも、読み物資料では主人公の気持ちを想像することに重点を置くというポイントが見えてきます。板書計画も主人公の気持ちの変化を明確にすることを意識したものになっています。このメモを見ることで読み物資料を使った道徳の授業の構成のポイントが見えてきます。

この日の資料は、看護師になって3年目の主人公が、母校の「卒業生に学ぶ会」で自分の仕事について話をしたあと、自分の仕事を美化しすぎたのではないか、これでよかったのかと思ったが、いろいろ振り回された気難しい患者が「あんたのような看護師でよかった」と言っていたことを知り、もう一度在校生に話をしたいと思うようになったという話です。
授業者は、この授業で主人公の気持ちを「思いっきり想像して」と前置きしてから、範読します。資料は渡しません。資料を渡すとざっと読んで内容をわかった気になることがよくあります。そうではなく、自分の話に集中させて、子どもたちの心に資料の内容を焼付けようというのです。
「次だよ」と次の文章が大切だということを示してから読んだり、途中で止めて主人公の気持ちを考えるポイントとなる、「優等生」や「美化」という言葉がどういうことかを何人にも確認したりします。途中まで下を向いていてあまり真剣に聞いていないように見えた子どもも、こういうやり取りの後、しっかり顔を上げて聞くようになりました。主人公の心が現れている「今日はこれでよかったのだろうか」という言葉が出た時に板書します。全部読み終ってから、子どもたちに内容の確認をする道徳の授業に出会いますが、時間がもったいないと思うことがよくあります。その場でポイントを板書することで、子どもたちは内容をしっかりと理解できます。国語では自分で本文から読み取る力をつけることが大切になりますが、道徳は国語ではありません。いかに早く資料の内容を理解させるかがポイントです。
手に余る患者さんとのやり取りの場面に入る前には、「ああ、何か起こるんだなあ」と予告します。大切な場面なので集中させようというのです。「あんたのような看護師でよかった」という言葉を聞く場面では、「受け入れられる」「明るくなった」というキーワードを強調します。
これらのことは簡単なことに思えますが、資料を読みこんで、どこがポイントか、どの言葉がキーワードかをしっかり教材研究していなければできないことです。
範読が終わった時点で、子どもたちの内容の理解はほぼ完璧です。ここまでの時間は授業開始から10分少々です。子どもたちが考える時間はたっぷりあります。

子どもたちに主人公の心の変化の理由を問いかけます。子どもたちはすぐに鉛筆を持ちますが、鉛筆の動きは速くありません。真剣に考えているから、すぐには動かないのでしょう。道徳では、鉛筆がなかなか動かなかったり、途中で止まったりする方がより深く考えているように思います。
「途中でもいいから」と止めてから、全体での話し合いに入ります。まだ書いている子どもがいるからとだらだら引き延ばすよりも、これから考えを深めたいので、そちらに時間を使うことを優先したのです。
8人の話を聞いてから話し合いに入ります。この学校の子どもたちはとてもよく育っています。自分の考えを発表することに慣れています。しっかり聞くこともできます。誰もメモを見ないで、自分の言葉で発表していることが印象的でした。中には、論点が少しずれている子どももいます。整理できずに長々としゃべる子どもがいます。授業者は無理やりまとめたり整理したりせずに、しっかり受け止めて次に進みます。ここは、考えるための呼び水なので、内容を整理したりまとめたりすることにこだわらなかったのでしょう。8人が発表し終わったところで、「違う、加えたい人いる?」と聞いて、「すごい視線で見ていた」と具体的にほめてから一人の子どもを指名しました。よく子どもを見ています。

この患者さんと出会って変わったという意見に対して、看護師を3年間やってきて変わらなかったのに、ドラマみたいにそんな短期間で変わるといったことは起こらないという意見が出てきました。授業者はこの意見の違いを論点とすることに決めたようです。このAさんの意見と他の子どもをつなぐことにしました。「Aさんの考えが理解できた人は○、そうではないという人は△を書きなさい」と指示して挙手させます。それぞれの立場を明確にすることで、全員参加させようというわけです。
「患者との人間関係について考えていないはずはない」「いや深く考えていないだけだ」といった意見のやり取りが続きます。授業者はこの患者さんとの「出会い」をキーワードとして「出会わなければ、もう一度在校生に話したいと思わなかったか」と発問し、まわりと意見交換させました。「一生懸命にしゃべっていた○○さん」とここでも子どものよさを具体的にほめて指名します。子どもたちを本当によく見ています。
「出会いによって変わっているけど、出会わなくても変わっているはず」という意見に対して、再び意見を交換します。「3年間そこに気づけなかったが、(母校の在校生に)話すことで振り返ったからきっと変わった」「その仕事場の経験で変わっていくもの」「好きな仕事だから嫌いな部分がある。そんな気持ちがかわるにはきっかけがいる」と意見がつながっていきます。子どもの話を聞く姿勢から、どんどん集中していくのがわかります。どうしても自分の意見を言いたくなって挙手した子どもは、この主人公のことを自分のこととして話していました。
「出会ったから変わる」「出会わなくても変わる」どちらかに結論づける必要はありません。当初授業者がねらっていた、働くことの意義とは違うところにいってしまいしたが、子どもたちの心は十分耕されたように思います。

授業の評価として、「次に在校生に話すとしたら、こんなことを話す」ということを書かせました。子どもたちは深く集中していました。
全員に一つずつ発表させます。ほとんどが、患者さんとの「出会い」に関することでした。この仕事をやっていてよかった、苦しいこともあるけれど人の役に立てているといった仕事の意義や自己有用感に関することはあまり出ませんでした。しかし、子どもたちの書いたものにはちゃんとそういうことが書かれていたようです。一つずつとしたので、出てこなかったようです。授業者は「前の人と違うことを言って」とすればよかったかもしれないと言っていました。この授業でねらったことは達成できていたようです。

子どもからたくさんの言葉を引き出し、その言葉を活かそうとする授業でした。思わぬ子どもの言葉を受けて発問や流れを変えていけるのは、授業者に力量があるからです。その部分をすぐにまねすることはできないかもしれませんが、読み物資料を使った道徳授業の流れやポイントは参観者に伝わったのではないかと思います。まさに、わかりやすく「伝える授業」でした。こういう授業を参観する機会を日常的に得ることができるこの学校の先生方はとても幸せだと思います。私が授業を見るプロなら、この校長は見せるプロです。とてもよい学びをさせていただいたことに感謝です。
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31