国語の授業とは何かを問い直したい授業

教師力アップセミナーで野口芳宏先生にご指導いただくための授業撮影を中学校で行いました。一人の若手教師が同じ国語の授業を2つの学級で行いました。

市全体で学び合いを進めています。子どもたちは人の話を集中して聞くことができます。どんな先生でも落ち着いた授業が成立します。それだけに子どもたちにどれだけの力をつけたかが問われます。
授業者は「言葉の力」と板書して、言葉の力とはどんなことか「予想」させます。予想ですので根拠のあることを話すわけではありません。筆者の言う「言葉の力」とはどういうことかを課題として読み進めるのであるなら別ですが、興味を持たせるためだけのものであるならば、テンポよく進めたいところです。しかし、他の場面とまったく同じように時間をかけます。
本時の学習のめあて「1段落の要点をまとめよう」を板書しながら、顔上げ1回で書くように指示します。板書の間、子どもたちを見ていません。指示する前に写している子どもがほとんどです。何のための指示なのかよくわかりません。また、このめあてを強く意識させたいということなら、これに続く活動もそのことを意識したものになってしかるべきですが、どうもそういうわけでもなさそうです。

全文を教師が範読します。途中、ページをめくらないように指示します。桜から桜色の染料取り出したという記述まで読んだところで、色をどのようにして取り出したかを「予想」させます。そのために答えが書かれているページを読まないように指示したのです。わざわざめくらないようにと注意をしたので、一生懸命読んでいる子どもがいたのはご愛嬌です。ここでも予想です。予想することで答の意外さを感じさせたいのでしょうが、国語の力とは何の関係もありません。それとも、文章を読みながら次はどう展開するか予想しながら読む力をつけたいのでしょうか。こういう力も必要なことはわかりますが、それにしても根拠なく予想させてもあまり意味がありません。想像しているだけです。わざわざ取り上げるのだから意外なことが答のはずだと樹皮を予想させようというのでしょうか。国語という教科は、数学と同じように論理的な教科だと思っています。読書とは違うのです。授業者は想像を根拠に基づいて考えることと勘違いしているのでしょうか。国語という教科をどうとらえているのか聞きたいところです。
子どもたちは何を意識して授業者の範読を聞けばよかったのでしょうか。この活動が「1段落の要点をまとめる」ということとどうつながるのかよくわかりません。本来要約や要点は該当箇所だけから読み取るべきものです。他の部分を受けたり、つなげたりすることもありますが、1段落では受けることはありません。1段落の内容を理解するのに後から出てくる具体例を使おうという展開もありえるのですが、そうではありませんでした。

読み終わったところで、この文のジャンルを問います。「説明文」という答に「ちょっと違う」と返します。なぜ説明文と考えたのか、なぜ違うのか根拠がまったく問われません。随筆という答が出たころで、正解となります。なぜ随筆なのかという根拠は説明されませんでした。別の学級では、数人指名して「説明文」という答が続いた後、「他にはどんなものがあったか」と問い返し、「随筆」という答が何人かでたところで、授業者が随筆だと断定しました。これでは、子どもは教師の求める答探しをしているだけです。わかる、できるようになる手立てがありません。愕然としました。

続いて、形式段落の数を問いかけます。形式段落の定義がわかっていれば小学生でもすぐにできることです。しかし、このことにも時間をかけます。ここまで、子どもたちは、国語の力をつけるための活動を何一つしていません。
1段落の内容を読み取るために、各自で音読させます。子どもたちは恐るべき速さで読みます。私でもこの速さで音読して内容を理解できるとは思えません。授業者は日ごろから早く読むことを求めているのでしょうか?活動の目的がわかりません。
読み終わった後で、1段落で言っていることがわかるかどうか問いかけます。めあてと微妙に異なっています。野口先生方式で、わかる人は○、わからない人は×を書かせ確認します。わからない人がほとんどです。そもそも、筆者が言っていることがわかるとはどういうことなのでしょうか。説明文であれば要旨を正しくまとめることができることと言えますが、この文章の場合はどうとらえればいいのでしょうか。わかっているかをどう確認するのでしょうか。それとめあてとの関係はどうなのでしょうか。そんな私の疑問をよそに、唐突に「1段落に表現技法が使われている。気づいた人」と問いかけます。わかることと何の関係があるのかわかりません。せめてどんな表現技法があるか、それはどういうものかを整理してから問いかければ、少しは意味のある活動になったのですが、それも無しに、ただまわりと相談させます。挙手させますが数人です。結局、気づいた子どもが答を伝えて終わりです。そのあと、擬人法について説明します。擬人法とめあてにどういう関係があるか最後までわかりませんでした

1段落でどの文が一番大切かを問いかけ、擬人法が使われている第4文であることを確認して、1段落を「要約」させます。「要点をまとめる」ということは要約のことだったようです。国語の教師は言葉を大切にすることが求められますが、非常に雑に言葉を使います。要約にするにあたって、「ムダなものを省いて、膨らませる」といったとんでもないことを言います。筆者の書いていることを簡単にまとめるのであって、勝手に言葉を足すというのはあってはならないことです。読書ではないのです。感想でもないのです。読解です。こういう授業を日ごろからしているのでしょう。子どもたちは本文とは直接関係のない言葉を勝手に足します。世に言う空中戦です。子どもたちの勝手な解釈で話は進みますが、授業者は「意味がわかってきた」と評価します。意味がわかるとはどういうことなのか授業を止めて聞きたいと思いました。最後に、子どもたちにもう一度言っていることがわかったか確認します。ほとんどの子どもがわかったと手を挙げます。本当にわかっているのでしょうか。そう思っているのなら恐ろしいことです。高校では、根拠なく文章を自分勝手に解釈する子どもたちに閉口するということをよく聞きますが、こうやって作られているのかもしれません。もし、わかっていないのにわかったと言っているのなら、授業者への気遣い、礼儀なのかもしれません。いずれにしても、活動あって学びなしという授業でした。国語という教科はどういう教科か問い直してほしいと思いました。

子どもたちがとてもよい状態なだけに、「もったいない」という言葉が頭から離れません。この学校の校長が「鍛える」ということを意識するのは当然です。しかし、その思いはなかなか伝わらないようです。校長の苦しみが伝わってくるような授業でした。
後日聞いたところ、授業者も自分の授業を変えなければと反省しているようです。まだ若い先生なので、これからいくらでも変わっていけると思います。成長を待ちたいと思います。
また、私がこの授業者を直接指導するとすれば、どうアドバイスすればいいのだろうかと、とても悩みます。不謹慎なことですが、野口先生がどのような指導をされるかとても楽しみです。今年も野口先生のセミナーからたくさんのことが学べることと期待しています。
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