中学校の古文の授業で考える

昨日の日記の続きです。

2年目の先生の国語の授業のアドバイスを行いました。徒然草の仁和寺の法師の段の2時間目です。

復習で徒然草の序段の音読をします。暗唱できる子は暗唱をします。授業者は、「せえの」と予備動作を入れますが、子どもは反応してくれません。出だしがそろわないのです。2回読みましたが、2回ともです。音読はそろって読むことが目標だったのでしょうか、それともすらすら読むことでしょうか。暗唱できる子ども、できない子ども、それぞれ目標は同じなのでしょうか。活動の目標が明確になっていないことが原因のように思います。
中学生にとって古文を読むことは、英語を初めて耳にする小学生と同じ状態です。わからない言葉が混じっているので、音節を正しく認識できないのです。英文は単語に分かれていますが、教科書で目にする古文は、句読点こそありますが文節までは区切ってはありません。きちんと文節に分けられることが、古文理解の第一歩です。ですから、音読もきちんと文節で区切って読めることが大切なのです。すらすら読めるということも、文節を分けることができてこそのことなのです。このことを意識した上で、目標を明確にしてほしいと思います。
音読の間、授業者は机間指導をしていますが、その理由がわかりません。なんとなく歩いているだけです。何を指導するのか意識されていたのでしょうか。それよりも、子どもたち全体をしっかり見て、全員参加できているか、声が出ているかなどに気を配ることの方が大切です。

法師の失敗についてワークシートの空欄を埋めます。作業終了後、挙手で進めます。ほとんどの子どもが書けているのに挙手しません。4人ほどしか挙手しないのに授業者は指名し、それでいいかと全体に確認します。すると、ほとんどの子どもが挙手をします。最初挙手をしなかったのは、自信がないからか、指名されるのが嫌だったのかはわかりません。しかし、子どもたちが積極的に発言しようとしていないことは事実です。挙手指名に頼らず、全員が参加できる授業にすることを考えてほしいと思いました。

法師が失敗した理由を本文から抜き出し、その現代語訳を書くのが次の作業です。ワークシートを埋めてグループで話し合うように指示をします。子どもたちがグループの形になると、すぐに話し声が聞こえます。これはどういうことでしょうか。授業者はまず自分でワークシートを埋めるように指示をしています。それなのにかなりのグループで声がするのです。子どもたちが、自然に相談しながら作業をするようになっていたのでしょうか。それならば、互いにかかわっているよい場面とも考えられるのですが、どうもそうではありません。子どもの体は前に傾いていません。テンションも高いのです。どうやら受け身の状態から解放されて、気を抜いているのです。しばらくすると、全体が落ち着き、個人での作業が始まります。今度はなかなか子ども同士が相談する姿が見られません。グループ活動の前に、わからなかったら助けてもらうように授業者が言ったので、自力でできた子どもはかかわる必要を感じなかったのかもしれません。また、グループの机が離れているのも目立ちます。男子同士、女子同士が隣り合っているので男女で溝ができているグループもあります。子どもたちの人間関係がまだできていないのかもしれません。
課題について話し合っているグループはあまり多くはありません。授業者は話し合いが成立しているグループのところにいって、アドバイスをしたり話を聞いたりしています。それよりも、子ども同士に話し合うようにうながすことが大切です。

グループ活動終了後、グループごとに発表させます。最初に発表させたのは、授業者が長い時間かかわっていたグループでした。無意識の行為かもしれませんが、授業者が一番状況をわかっているグループです。全体を観察していて、結論が出ているのか、まだ出ていないのか、グループごとの状況が把握できていれば、また進め方は変わったかもしれません。例えば、結論が出ていないグループに対して「どんなことを話していたか聞かせて」と状況を聞けば、いくつかの考えが出てきます。それに対して、「同じように悩んでいるグループ」「悩んだけれど結論が出たグループ」というようにつなぐことで、考えを深めていけます。

授業者が予想しなかった意見がでてきます。授業者は、それぞれを認めて板書していきますが、どれが正しいかを議論させません。正解が発表された後、それを引き取って結論をつけました。結局子どもはその答を写すだけで、何を間違えていたのか、どうすれば正解が導けるのかはわからないままです。自分の考えを修正することはできていません。自分の結論が正解だった、不正解だったということを知っただけで、何も学習していないのです。授業者は、いろいろな考えが出た時、どのように働きかければ子どもたち自身で正解を導き出せるかを考えていなかったのです。
それ以前に、そもそもこの課題自体が国語として意味があったのかも問われます。仁和寺の法師が失敗したのは単に石清水八幡宮を知らなかった、勘違いをしたということです。背景をいえば、当時の石清水八幡宮がとても立派で、山下にあった極楽寺・高良社も相当立派なものだったので間違えたということです。
授業者は「神へ参るこそ本意なれと思ひて」を理由の正解としていますが、これはそう思わなければ石清水八幡宮を参拝することできたかもしれないというだけのことです。正解とは言えないように思います。「法師が石清水八幡宮を知らなかったことが本文のどこでわかるか」という問いの答であればまだ納得できますが、もしそうであれば、まず失敗の理由をきちんと共有してから問うことが必要です。いずれにしても、現代語訳を読んだ後で考えるのであれば、あまりに稚拙な問いです。
内容を読み取るのであれば、当時の石清水八幡宮に対する常識を伝えたうえで、この話は当時の人にとって何がおかしいのかを問うべきでしょう。時を超えて当時の人たちと交流することが古文を学習することの目的の一つです。古文の解釈を通じて当時の人の考え方や暮らし、文化などを理解することが大切です。
古文の授業でどのような学力をつけるのをもう一度考え直してほしいと思います。

いろいろと書きましたが、授業者は子どもを受容し、認めようとしています。正解という言葉を使わずに、子どもたちで判断させようとしています。授業で大切なことを意識し実行しようとしていることはよくわかります。だからこそ、全員を参加させ、正解にいたる道筋や学力をつける過程を明確にしていかなければ、一部の子どもが活動しているだけで、すべての子どもに学力をつける授業にならないのです。
よりよい授業をつくることに向かって大事な一歩を踏み出しています。新たな課題をしっかり受け止めることで、さらに次の一歩を踏み出すことができると思います。これからの成長が楽しみです。

授業研究については、次回の日記で。
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