理科の授業で考える(長文)

先週末は中学校で理科の授業アドバイスを行いました。

授業者は今年この学校に異動して来た教職7年目の先生です。2年生の動物の分類の導入の授業でした。
授業者は笑顔をつくり、言葉も明瞭です。子どもたちにプリント配ったりするときには、「ありがとう」の言葉も出ます。子どもの発言をよく受容しようとしています。この学校で取り組んでいることを意識しています。しかし、子どもたちはあまり集中しているようには見えません。決して授業者の話を聞いていないわけではないのですが、このことが気になります。

子どもたちの興味づけのために動物の名前あてクイズを行います。電子黒板に動物の写真を写し、名前を答えさせます。電子黒板に子どもが集中します。しかし、動物の名前をあてることは、単なる知識です。そこに理科として何があるのかがよくわかりません。最初は「ハシブトガラス」です。子どもたちは何を答えていいのか少し戸惑っているようでしたが、さすがに「カラス」としか答えは出てきません。「ナメクジ」の次の「アマガエル」の時です。子どもたちの戸惑いが大きくなりました。「アマガエル」「カエル」、どちらを答えていいのかわからないからです。授業者は、「気にしなくていい」と「カエル」で答えてくれればいいと言います。この言葉でこのクイズは何のためのものかわからなくなってしまいました。「アマガエル」と「カエル」で悩ませることから分類の意味を考えるのかと思ったのですが、どうやら違ったようです。「カエル」と言った時に思い浮かべるのはどんな「カエル」と問い返すことで、カエルを分類する必然性を意識させることができたはずです。分類しなければ、「ヒキガエル」も「アマガエル」も同じものです。ちなみに英語では、”toad”と”flog”と区別されています。「カエル」の違いは誰にでもわかりますが、「カラス」は「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」という分類を知らなければ、両者とも同じ「カラス」としか認識されません。こういうことを考えることで、分類の意味が分かってくるはずです。
授業者は、先ほどのカラスは「ハシブトガラス」だと説明します。「気にしなくていい」と言いながら、薀蓄を語ることはかえって子どもたちを混乱させます。「アゲハチョウ」「マンボウ」と続き、この日の課題、「この5種類の動物を2つに仲間分けする」が提示されました。ここまでにかなりの時間を使っていますが、分類のための材料提示の意味しかないのならもっとテンポよく進めるべきだったでしょう。

ワークシートを配った後、理科的でなくていいので、自由な発想で仲間分けをするように指示します。この活動の意味が分かりません。目標と評価基準がないため、ただ作業するだけになってしまうからです。条件がないため、かえってどこから手をつけるか、取っ掛かりがありません。分類後の話し合いは根拠のない空中戦になることが必至です。
仲間分けの作業の指示を電子黒板で行いますが、子どもたちの視線は電子黒板と手元のワークシートとばらばらです。作業の結果を書くのはワークシートなのですが、ワークシートの使い方の説明はありません。子どもたちが戸惑うことが想像できます。
個人作業に入った途端、かなりの子どもが鉛筆を持てずにいました。男女で隣り合っているのですが、何をするのか、どこに何を書けばよいのか聞き合っています。子ども同士の関係がよいことは見て取れます。授業者は、指示が不明確だったことに気づいて、ワークシートに何を書くか黒板に黙って書きはじめました。指示が通ってないと判断したのなら、いったん作業を止めて説明し直さなくてはいけません。今回の課題であれば、まず仲間分けの指示をし、電子黒板を使ってワークシートの説明をするべきだったでしょう。説明が終わったあとにワークシートを配り、すぐに作業に入るのです。
なんとなく子どもが授業者の話を集中して聞かない理由がわかったような気がします。授業者の指示が不明確だったり、説明を聞いてもよくわからなかったりすることがあるので、集中して聞かなくなったのではないでしょうか。聞いていなくても、今回のようにわからなければ追加で指示があるので困らないのです。また、わかっていれば、追加の説明を聞く必要がないので、聞く聞かないを自分の判断で勝手に行うようにもなっていくのです。

取り敢えず分類ができた子どもは、することがなくなっています。しかし、思いつかない子どもは、なかなか手がつきません。授業者は机間指導しながら、具体的なヒントを言ってまわりますが、全体はよく見えていないようです。終わっている子どももたくさんいるのに時間を延長しました。子どもたちがだれてしまいます。できない子どもができるようになる手立てを明確にしないまま延長することはナンセンスです。課題の方向性がはっきりしていないことが、手がつきにくい原因ですが、早めにいくつかの具体例を子どもに発表させ、それを共有してから再度取り組めば、また違ったと思います。

作業を止めるように指示しますが、まだ手が動いている子どもがいるのに話し始めます。こんなところにも、子どもたちが集中しない理由があるようです。
グループでの活動で、画用紙に動物の写真のカードを貼ることを説明します。面白かったのが、画用紙とカードという具体物を提示しとたんに子どもたちの集中力が上がったことです。具体物を見せることの効果もありますが、使い方がわからないと活動できないので聞く必然性があることも大きな要素だと思います。
授業者の説明の声ははっきりしていますが、単調です。大切なことを話す前に間をあける、大切なことはちょっとトーンを落として、ゆっくり話すといった工夫がないのです。情報に軽重がなく、また余分な情報、ノイズが多いようにも思います。しゃべりすぎなのです。その理由の一つが、自分の中で課題の目的や目標が明確になっていないことが挙げられます。整理できていないと、簡潔に説明できないのです。

グループで2種類の分類をつくることが課題です。男子、女子同士が隣同士で並んでいます。当然のように同性同士で話しはじめます。2つなので、お互いの意見を聞き合う必然性もありません。自分の思ったことを言うだけで根拠は必要ないのですから、テンションは上がります。意見を言って、どちらかに決めてしまえばもうすることはありません。今度はスーッとテンションが下がります。しばらくするとまたテンションが上がってきます。することがなくなったので、雑談が始まったのです。

各グループで1つずつ、分類した画用紙を貼りだしますが、子どもたちはその間雑談をしています。評価する基準がないので、見る意味があまりないからです。各グループの発表に対して、「同意できるか」で拍手をさせます。評価基準がないので恣意的です。もちろん拍手した理由を問うこともしませんし、問うこともできません。この活動が何の意味があるか子どもたちにはわからないままです。「飛ぶ」かどうかと「羽があるか」で分類すると同じように分かれます。「分け方が違う」と教師が解説をします。「分け方が同じ、違う?」と問いかけません。子どもが考える場面がないのです。
発表の後、昔からみんなと同じようにして分類が考えられてきたとまとめますが、分類が満たすべき要件は押さえていません。
せめて、「客観的に判断できる(だれがやっても同じ仲間になる)基準」であることを条件にし、その確認として授業者が別に用意した動物をその基準で分類する、といった課題であるべきでしょう。

教科書を読ませて、理科では「進化」をもとに分類することを伝えます。しかし、子どもたちは「進化」で分類するとはどういうことかはわかりません。自分たちの分類方法と何が違うのかもわかりません。その必然性も。
子どもたちに生物の設計図は何かを問います。これは知識です。「骨」という答が出て扱いに困ります。結局「DNA」だと授業者が答を言います。授業者は質問が悪かったと一生懸命フォローします。知識を問うことをするとこういうことになるのです。質問に対して子どもたちがじっとしていることから、日ごろ知識を問うても、調べさせることをしていないことがわかります。せめて教科書や資料集を調べさせることを日常的にするべきでしょう。

「スズメバチ」のような虫(「トラフカミキリ」)を見せて、「ハチ」かどうかを問います。考えても答えはわかりません。「カミキリムシ」と言われても、確認のしようがありません。クイズとしては面白いのですが、学習にはなりません。子どもたちに考えさせるのであれば、「スズメバチ」と、「カミキリムシ」の両者と比べてどちらの仲間かと問えばいいのです。色(や動き)は「スズメバチ」に似ているが、翅や体の形は「カミキリムシ」です。体の構造はカミキリムシに近いのです。こういった観察がなければ、理科ではないのです。

理科では、脊椎があるかどうかで分類をすることを言います。脊椎を背骨と言い換えます。骨があるかどうかという表現もしました。理科の用語としては、「脊椎」を明確に定義する必要があります。もっというと進化と言う点では、神経系に注目しているのですから、脊椎の中には神経が通っていることは押さえておきたいところです。
動物に脊椎があるかを知るためにはどうすればよいかを問います。レントゲンという言葉を子どもから何とか引き出しますが、レントゲンに気づくことにあまり意味はありません。理科として何を問い、考えさせるのが大切か不明確なのです。
最後にまた、クイズです。「イグアナ」や「カエル」「ヒトデ」「ミミズ」「ヘビ」などに背骨があるかどうか、写真を見せながら問います。背骨があるとどのような特徴がみられるかといった考えるための根拠がないので、なんとなく想像で答えるしかありません。
答え合わせはレントゲン写真を一つひとつ見ながら、(背)骨あるかどうかを全員で確認します。「ミミズ」などは、「一生懸命探したけれど、なかなかいい写真が見つからなくてごめん」と言い訳しながら提示します。しかし、聞きようによっては頑張ったことを伝えたいようにもとれます。授業の内容に直接関係ない情報が多すぎる、しゃべりすぎているように感じます。皮肉なことに、子どもたちが一番真剣に見ていたのが、わかりにくい写真の「ミミズ」でした。わかりにくいから真剣に見るのです。わかりやすいことが決してよいことではないということです。
脊椎動物かどうかの分類を考えるのであれば、最初からレントゲン写真を見せて、脊椎動物と非脊椎動物に分類する作業をすればよかったのではないかと思います。その写真がどの動物の物かは、最後に簡単に確認すればいいのです。
結局最後まで、理科として何を学んだのかわからない授業になってしましました。

授業後、空き時間で簡単な検討会を行いました。授業者は、「ある程度経験を積んだので、今までなんとなくこなすことはできるようになっていた」と振り返ります。しかし、不十分であったことをわかってくれたようです。「このような授業研究は経験がなかった。授業をもっと改善しなければいけない」と、素直で前向きな言葉が出てきます。残念ながら、授業をしっかりと見合い、学び合うことができていない学校もたくさんあります。その必要性を実感してくれただけでも大きな進歩だと思います。きっと自分の授業をしっかりと振り返り、新たな一歩を踏み出してくれることと思います。今年度はもうこの先生の授業を見る予定はないのですが、何とか時間をやりくりして時間を取りたいと思います。きっと、進化した姿を見せてくれることと期待しています。
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