学校全体の授業力の高まりを感じた検討会

昨日は中学校で授業研究に参加してきました。学び合いを大切にしている学校です。

1年生の理科、水に溶けた物質はどうなるかを考える時間でした。
最初に前回に行った各グループの実験結果を発表させます。子どもの表情が少しかたいことが気になります。授業者の緊張が伝わっているのかもしれません。子どもの発表に対して、足りないことを「どちらが濃かった」と直接聞き返します。同じという答に対しては、聞き返しません。これでは子どもは教師の求めることを言わなければと思ってしまいます。足りないことがあれば、「もう少し詳しく聞かせてくれる」「グループの人、足すことはない?」と教師の質問に答えるのではなく、自分で気づいたことを発表させるようにしたいところです。「同じ」ということを許せば、「同じ」で思考停止してしまいます。「あなたの言葉でもう一度聞かせてくれる」と必ず自分の言葉で言わせることが大切です。全く同じことを言うことは稀です。違いがあれば、「言葉を足してくれた」「違う言い方をしてくれたね。それってどういうこと?」とそのことを評価し、深めていくことが大切です。
子どもたちの一部は教師が板書する各グループの結果を写します。それが大切だからというよりも、することがないからのように見えます。そもそも、なぜこの実験をしたのか、実験から何を知ろうとしたのかという実験の目的を確認しないままに進んでいきます。実験結果をどう活かすのかもはっきりしません。グループに間の結果の違いも取り上げることはしません。何のための発表かわからないのです。
また、机をコの字の形にしているのですが、授業者が話していても子どもの体は横を向いたままで視線はそちらに向かいません。しかし、授業者は気にする様子がありません。顔を上げて自分を見てくれることを望んでいないのです。指名して返事がない子どもに対して、しばらく厳しい表情で黙ることで返事をするようプレッシャーをかけます。子どもが気づいて返事をしても、それに対して反応しません。子どもに無用の緊張を強いるだけです。しかも、最初の2人くらいには返事を求めましたが、後の子どもには求めませんでした。子どもたちは授業者が恣意的にしか注意をしないのを知っているのでしょう。だれも指名されても自ら「はい」と返事をしません。普通は2人注意をされればその後の子どもは気をつけるようになるものです。そうならないことが気になります。子どもが授業者を見ないことと関係があるように思えます。他の場面ではどうかはわかりませんが、少なくとも授業場面では子どもとの人間関係ができていないようです。笑顔でうながし、返事をしてくれれば「ありがとう」と一言そえるだけで、子どもたちの態度は変わっていきます。子どもをチェックする目ではなく育てる目で見てほしいと思います。

「溶けた物質はどのようになるのか」推測するのが課題です。まず個人でワークシートに書かせます。根拠も書くように指示しますが、「溶けること」と「どのようになるのか」ということの論理的な関係が曖昧です。溶けるということをどう定義するのか、予め定義されている溶けた状態の時に物質はどうなっているか、どちらを聞いているのかよくわかりませんでした。後で確認したところ、溶けているとは透明になる状態と定義していたようです。そうであるのなら、「溶けている時は透明になっているんだったね。その時溶けた物質はどこにあるの。どんな状態なの」ともう少し具体的に問いかけた方が、子どもが考えを整理しやすかったと思います。推測したこととその根拠となる実験結果を、必ず対にして書くように指示をすれば、実験との関係も明確になったと思います。
子どもたちは自分の推測を書くのですが、根拠を明確には書くことはしません。感覚的にわかっているのでしょうか。子どもたちが書き終った後、グループでの話し合いです。ここでの指示の言葉が気にかかりました。友だちの話を聞いて「まとめる」というのです。これはこの場面で使うべき言葉ではありません。というより、活動の目的がずれてしまっているのです。みんなの意見をまとめるのではなく、「物質が溶けている状態」を科学的に推測するのが目的です。友だちの考えも参考にして、「確かにそう思える」とみんなが納得する根拠の基づく推測にするのです。
グループになった時に、子どもの表情が大きく変わりました。笑顔がたくさん生まれます。今までの受け身の緊張状態から解放されたという感じです。子どもたちの素晴らしいところは、伸びをしたり、ムダ話をしたりせずに、すぐに話し合いに入っていったところです。弛緩してしまわないのは、グループ活動に対して気持ちが積極的になっているということです。この学校での日ごろのグループ活動がよいものである証です。
子どもたちはしっかり話を聞き合っています。しかし、中には友だちの話を聞いていない子どもがいます。ところが、自分が話す順番になるとしっかりと話しています。きっと優秀な子どもなのでしょう。答えを知っているので友だちの意見を聞く価値がないと考えているようです。一通り意見が出た後は、にこやかに雑談しています。その姿が印象的でした。授業者はグループの間を回りながら、個別に話をしています。全体の様子をきちんと把握していません。あと5分と言った時点でかなりのグループが話し合うことがなくなっていました。意見を聞いてまとめるのという課題なので、友だちの話を聞けばそれでまとめの作業に入れます。議論する必要はないのです。ここで時間を与える意味はあまりありません。子どもたちはひたすら書き始めていたのです。時間が来てもまだ書いている子どもがたくさんいます。授業者は時間がほしいか聞き2分延長しました。これもムダな時間です。グループ活動の時間ではなく単なる作業時間なのです。
各グループの発表者を決めるように指示してすぐに発表に入ります。これもムダなことです。発表のために予め準備をする必要があってその時間を与えるのならいざ知らず、すぐに発表するのであれば、発表者以外の子どもが気を抜いてしまいます。教師がその場で指名して答えさせればいいのです。もし、うまく答えられなくてもグループの友だちに助けてもらえば問題はありません。

最初の発表は、子どもたちがしっかりと発表者を見て聞こうとしていました。ところが、途中で授業者が発表の内容を板書し始めました。折角友だちを見ていたのに、子どもたちは黒板を写しだします。授業者も子どもたちを見ていません。板書の内容も、子どもの言葉を教師がほしいところだけつまみ食いをしたものです。子どもの発表の微妙な違いが、教師のフィルターにかけられほとんど同じになってしまっています。これでは、すべてのグループで発表する意味がありません。最後の指示は、全部のグループの発表を「まとめる」でした。みんなから出た考えを評価し、より科学的な推測に高めることが全体での発表のねらいであるべきです。子どもたちから出た、「均一」といった言葉が何を表わしているのか深めることもありません。「均一」という言葉が理科の言葉に高まっていません。また、何を根拠として「均一」なのかも明確にされません。そのことを確かめるのにどのような実験をすればよいかを考える場面もありませんでした。
子どもたちも自分たちの活動が何だったのかわからないままの1時間でした。最後まで、理科として何を学んだのか明確にされないままでした

検討会では、理科として何を目指しているのかを知りたいという質問が出てきます。若手からは発表を板書したために子どもを見ていなかったことがもったいないといった指摘があります。ベテランからは、子どもの発表を順番にするのではなく、同じ考えや同じ根拠、また違う考えをつないでいくとよいと、具体的な場面を例にアドバイスがされます。みなさんの意見から学校全体としての授業レベルが上がっているのを感じます。この授業で私が感じたことは、ほとんど皆さんから出てきました。私からは、理科に限らず日常用語をどう教科の用語に高めていくかを意識してほしいことをお話ししました。今回の授業でいえば「溶ける」という日常用語を理科の用語として、どう子どもたちの共通の言葉にするかを意識してほしかったのです。
そして、これだけ皆さんの授業の質、授業を見る目が高まっているのですから、それをいかに共有するかを意識してほしいとお願いしました。日ごろから互いに授業を見あって、よいところを学び合ってほしいのです。きっとみなさんの授業がもう1段レベルアップすると思います。

検討会終了後、授業者と話す時間をいただけました。
子どものできないところを見るのではなく、できていることを見る。できないことを減らすのではなく、できることを増やす。そういう視点で、子どもとの関係づくりを授業で進めてほしいこと。
自分の教えたい知識を結論として与えるのではなく、子どもが科学的なものの見方・考え方を身につけることで、自分たちで気づくような授業を組み立ててほしいこと。
教科書をもっと読み込むことで、理科としてどのような力を子どもたちにつけるのかを明確にしてほしいこと。
このようなことをお願いしました。

まだまだこれからの若い先生です。まわりに手本となるよい先輩たちがたくさんいる、授業力をつけるためにとてもよい環境の学校です。今後どのような成長をしてくれるか楽しみにしたいと思います。
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31