子どもたちに何を考えさせるのかを意識してほしい

前回の日記の続きです。

1年生の家庭科の授業は幼児の生活を考える場面でした。
授業者はノートを出して、出した人から前を向くように指示します。子どもたちは素早く指示に従います。子どもが全員前を向くまであまり時間はかかりません。
子どもたちに乳児期、幼児期などの発達段階と年齢の関係をまとめるので、まず表を書くように指示をします。授業者が板書したものを写しますが、結構時間がかかります。頭を全く使わないことに時間を使うのはちょっともったいないと思います。自分の手で書くことさせたいのであれば、表そのものは印刷して配ってノートに貼らせればよいと思います。活動をさせたいのであれば、教科書などを調べさせて自分で書きこませればよいでしょう。
子どもたちは自分のペースで書きますが、早くするように軽いプレッシャーをかけることも必要かもしれません。故有田和正先生が「鉛筆の先から煙が出るスピードで書きなさい」とおっしゃっていたことが思い出されます。

穴埋めの形の表を子どもたちが写し終ると、これから埋めていくので覚えてくださいと伝えます。「出生から1歳になるまでを乳児と言います」と言って板書しながら説明します。重要なことかもしれませんが、ただの知識です。乳児期、幼児期と順番に教えて書かせますが、これでは全く頭を使わない活動です。
子どもたちが根拠を持って活動できないのであまり時間をかけてはいけませんが、乳児期、幼児期、学童期、青年期などをあらかじめ与えておいて、「何歳くらいの時だろう?」と問いかけてまわりと話をさせてもよかったかもしれません。

子どもたちに、生まれた時の身長と体重を聞いてくることを宿題にしてあったようです。みんなの前で教えてくれる人とたずねます。数人の男子が挙手をします。何人か指名しますが、子どもたちはあまり興味を示しません。このことが何につながるのか見通しがないからです。子どもたちを少しでも参加させたいのであれば、「同じくらいの人いる?」「もっと小さかった人いる?」「もっと大きかった人は?」と子ども同士をつなぐとよいでしょう。
平均身長と体重を表に書きこんでいくのですが、なぜそういった情報が必要なのかがわかりません。発達段階で時期を分けるのですから、その時期に大きな変化や特徴があります。子どもたちに「乳児と幼児の違いは何だろう?」「幼児期と学童期の違いは?」といったこと問いかけると発達段階の意味が見えてきます。「立って歩けるかどうか?」という体の発達に気づけるかもしれません。乳児期と幼児期の子どもの写真を用意して、違いや特徴を比べさせるといった活動も面白いかもしれません。
子どもが一方的に教師からの説明を受けて板書を写すのではなく、子どもに考えさせてそこからまとめていくような授業を目指してほしいと思います。

1年生の新任の理科の授業は、植物の呼吸と光合成の実験結果の考察の場面でした。
子どもたちはグループで活動していますが、男子同士女子同士で並んでいるので、男女で相談する姿があまり見られません。話に参加していない子ども、かかわれていない子どもも目立ちます。子どもから質問の手が挙がると、個別に対応しますが他の子どもは我関せずなのが気になります。

グループ活動を終えて発表に移る時に、子どもたち全員の顔が上がるまで待つことができます。挙手で発表させますが、手の挙がる子どもが全くいないグループがいくつかあることが気になります。
発言者に対して視線が集まりません。授業者か自分の手元を見ています。同じグループの子どもが無視をしていることもあります。子どもの言葉を受けてすぐに授業者が板書し、次の子どもを指名します。子どもの発言をつなぎません。また、子どもの発表がどのような事実を元に考察しているのかがはっきりしないことが気になります。長い発表をした子どもがいます。授業者がわかったと言って、代わりに簡単にまとめます。これでは、子どもたちが友だちの発言を聞かないのは当然です。
3人目の子どもの発表が終わると、「いいかな?」と一言だけで、実際には確認もせずに説明に入ります。「植物も呼吸をしていることがわかった。特に二酸化炭素を出している」とまとめます。呼吸の定義はいったい何のでしょうか?酸素が減って二酸化炭素が増えているので、呼吸をしていると考えられるのであって、因果が逆転しています。これでは、理科になりません。
結局3人に発言させた後、授業者が自分の言葉で黒板にまとめ、子どもたちはそれを赤字で写します。授業者のまとめを際立たせたいから赤字なのでしょうか?子どもたちにその意図も告げずに指示を出しました。こういうことをみんなが言ってくれたと言葉を足しますが、たった3人に聞いただけで「みんな」と言われても、子どもたちは、言いたいことを授業者が自分でまとめているとしか思わないでしょう。

夜、植物は二酸化炭素を出しているが、昼間、明るいところはどうだろうかと問いかけます。何人かの子どもが挙手をします。指名した子どもが、「出してない」と答えます。授業者は「出してない、出してないんだよね」と復唱した後、「出してないかのように見える」と続けます。完全に誘導する発言です。子どもたちは自分で考えるのではなく、授業者の求める答探しをするようになっていきます。ここから授業者が「みんなは暗いところしか呼吸をしない?……」と説明しますが、植物について言えば何の根拠もない想像です。どのようにして植物が昼も呼吸していることを示すのでしょうか?中学生では実験はできませんが、そのことを確かめるためにはきちんとした実験を行うことが必要です。せめてそのような実験の結果分かったということは伝えるべきでしょう。
理科の教師なのですから、光照射化での呼吸量の見積もりのために酸素の同位体を使った実験を行ったことや、その結果光呼吸(光照射化で通常と異なる方法で酸素を消費し二酸化炭素を放出する)が行われていることがわかったといったことは知っているとは思います。それを踏まえた上で、子どもたちにどのように伝えるかを考えてほしいと思います。少なくとも、実験を行い、その結果確かめられたこととして説明することが必要でしょう。

実際に植物はいつ呼吸しているか、班で話し合うように指示します。1分間自分で予想し、班で順番に発表させます。自分の予想とそう考えた理由を30秒ほど発表するのですが、実験の結果や根拠がないのですから、こんなことを話し合っても意味がありません。単なる妄想です。このことを授業者は理解しているのでしょうか?授業者は明確な根拠も持っているのでしょうか?

子どもたちは思ったほどテンションが上がりませんでした。納得できる明確な理由が言えないからなのでしょう。かなり時間を使った後、発表させますが、挙手はほとんどありません。間違っていてもいいからと声をかけると、少し手が挙がりました。最初に指名した子どもは、実験結果から、暗いところにある時に呼吸していると答えました。授業者は同じように考えた人とつなぎました。これはよい対応ですが、既に実験結果から暗いところでは呼吸していると確認されているはずです。「光の当たっている時は呼吸していないということ?」と確認するべきです。そもそも、最初の「いつ呼吸しているか?」という発問がよくなかったのです。「光の当たっている時も呼吸しているかどうか?」が問題だったからです。
授業者は「実験結果から」と板書をします。すぐに他の意見を聞きます。せっかく同じ考えの人を挙手させたのですから、彼らの理由も聞きたいところです。
「明るいところでも暗いところでも呼吸している」という発言を、「常に呼吸している」と授業者は言い換えます。授業者が子どもの言葉を自分の都合のいいように言い換えることが子どもたちの発言意欲を失わせる原因だということを知ってほしいと思います。
「呼吸しないと死んでしまうから」というのが理由ですが、植物が呼吸しなければ死んでしまうというのは、どうして言えるのでしょうか?そもそも呼吸が何のために必要なのかを子どもたちは理解しているのでしょうか?
2人指名しただけで、「どうなんでしょうか?」と言って、教科書を開かせます。教科書の記述に正誤を求めるのであれば、これまでの時間はすべてムダです。たまたま結論を知っている子どもだけが活躍する授業です。最後は授業者のまとめを写して終わりです。子どもたちが妄想をして結論を写して終わるだけの授業になってしまいました。

理科の教師なのですから、理科はどういう教科なのかを理解する必要があります。事実を元に論理的に考えることを忘れないでほしいと思います。例え結果を一方的に与える時でも、どのような事実からわかったことかは押さえておいてほしいと思います。

グループの活動中に下を向いて仲間とかかわろうとしない子どもがいたことが気になりました。授業者はその子どものグループに行った時も、その子どもとかかわろうとしません。このことについて授業者と話をしました。実はその子どもは、授業中に漫画をノートに描いてばかりいたので、前日に注意をしたばかりだというのです。授業者が、グループで活動するのに漫画ばかり描いていては他の人が困ると注意をしたところ、今日の姿になったということです。経験も浅い先生が子どもの指導をするのであれば、先輩と相談してからにすべきだったと思います。「あなたのために迷惑する」という他者の論理を押し付けるというのは指導として下です。まず、その子どもがなぜ漫画ばかり描いていたのかを考える必要があります。授業がよくわからないので参加できないのかもしれません。漫画が好きで漫画家になりたいと思っているのかもしれません。授業がよくわからないのであれば、その子どもだけの責任ではありません。先生方の責任もあるのです。そうであれば、「それはつらいね。上手く教えられなくてごめんね」と辛さを共有して、自分の責任をまず認めることから始めるべきです。漫画が好きなのなら、そのことを認めた上で、どうすべきか本人に考えさせることが必要です。漫画を描き続けている事実の裏に何があるのかを知ることをせずに、一方的に指導しても子どもは離れていくだけです。漫画を描くのを止めただけで下を向いていたというのは、指導に対するささやかな抵抗だったのかもしれません。
賢しらに上から目線で指導することは、厳に避けなければいけません。子どもに寄り添って考えることを常に忘れないようにしてほしいと思います。

この続きは次回の日記で。
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