教科で求められる力とその力をどうつけるかを意識する

前回の日記の続きです。

9年生の社会科の授業は、石油危機、バブル崩壊を経た、現在の日本の経済状況についての学習と、伊勢志摩サミットを話題にした活動でした。
授業者は表情よく子どもたちと接することができます。子どもたちともよい関係を築けていると思いました。

石油危機の時のトイレットペーパーの買い出しの写真を見せて、どんな場面かをたずねます。何人かの意見を聞きます。といっても正解は出てきません。トイレットペーパーの買い出し風景であること伝え、この出来事が何か知っている人と問いかけます。数人の手が挙がりますが、これは石油危機を知っていないと答えられません。指名した子どもが石油危機と答えた後、当時トイレットペーパーが無くなって困った話をします。話としては面白いので子どもたちは真剣に聞いていますが、この日の授業の内容には直接かかわりません。それよりも石油危機とトイレットペーパー不足の関係が子どもたちには腑に落ちていないのを何とかしたいところでした。

続いて本日のめあてが、石油危機とバブル経済についてとその後にご当地サミットを開くことだとを伝えます。
GDPの成長率の変化のグラフを使って、石油危機からバブル経済にいたる変化を考えさせます。以前にも使った資料ということでしたが、このグラフが何を示すものかの押さえがありません。授業者はタブレットとディスプレイを使って授業を進めますが、それらを交互に見て説明するので子どもたちの顔を見ることができません。まだ顔が上がっていない子どもの数がかなりあることに気づいていませんでした。グラフが右下がりであれば経済が悪くなったことを表わしていることを押さえます。これまでに説明したのかもしれませんが、経済が悪いとはどういうことか、それとGDPの成長率が下がることとの関係を子どもたちがしっかりと理解しているようには見えませんでした。

石油危機が何だったかを押さえずに、どうやって石油危機を乗り越えていったのかを調べさせます。子どもたちは、調べるというよりは教科書に書かれていることを写しています。教科書に線を引くかわりに、自分の手を動かしただけのように思えます。ペアで説明をし合うようにと指示しますが、子どもたちは互いに教科書から抜き出したことを読んでいるだけです。あまり有効な時間とは思えませんでした。

続いて授業者は、石油危機で経済成長が止まったことを説明します。子どもたちの活動は石油危機後の成長についてです。活動前に押さえることだと思います。子どもたちに「日本は何をしたのでしょうか?」と調べたことを発表させると、「輸出を増やした」「省エネ化」と答えていきます。輸出は増やしたいと言って増えるものではありません。輸出が増えれば経済がよくなることの理由もよくわかりません。省エネが経済によい影響を与えるというのはどう言うことなのでしょうか。ここを子どもたちに問いかけなければ学びは深まりません。授業者は、「省エネはどういうことか」と問い返します。「想像でいいですよ」と言葉を足しますが、子どもたちからは出てきません。結局授業者が省エネとはエネルギーを使うのを減らすことと説明します。子どもたちは授業者の問いかけをどのようなものととらえていたのでしょうか。単に省エネの言葉の意味を聞かれていたと理解していたのでしょうか。もしそうであれば、だれも答えなかったのはとても大きな問題です。全員がわからないということはあまり考えられないからです。子どもたちが発言することに対して非常に消極的だということです。また、「どういうことか」という問いかけを、「省エネ“化”するとは、社会がどのようになることなのか、経済が発展することにどうつながるのか」といった社会科的な視点での考えを求められたと思っていた可能性もあります。そうであれば、なかなか答えることができないのも当然です。子どもたちが調べていたのは単に答であり、それがどういうことだろうかと疑問を持ったり、どうしてこれで経済がよくなるのだろうと考えたりはしていなかったからです。

続いて「公共投資」が出てきます。授業者は「公共事業」という言葉を聞いたことがあるかを問いかけます。「投資」から「事業」に言葉が変わります。このつながりがよくわからないまま公共事業の説明に移ります。子どもたちに「聞いたことがある人」と問いかけますが、挙手は数人です。授業者はそのまま「公共事業はどういうことでしょうか?」と問いかけますが、当然数人しか手が挙がりません。その子どもを指名して進みます。一部の子どもだけで授業が進んでいきます。最後は授業者が説明をしますが、その間、自分で調べ続けている子どもがいました。こういう子どもを活かすことをしてほしいと思います。
子どもたちはこれまでの歴史の学習で、大恐慌の時の合衆国の政策で「公共投資」に関連したことを学習したことがあるはずです。経済状況が悪い時の公共投資の有効性がクローズアップされたのはこの時です。ここは意識的に過去の学習とつなげたいところでした。

続いて「企業の合理化」といった言葉が出てくるのですが、一問一答でそれを受けて、結局授業者が「生産性を高め利益を上げる」と説明していきます。この説明でわかれば、用語集を見れば社会科の学習は成立してしまいます。子どもが考える場面がありません。
最後はディスプレイにワークシートの解答を順番に表示しながらまとめていきます。子どもたちは、それ写しています。あらかじめ用意したものを映すということは、子どもたちが何を発言しても結論は変わらないということです。子どもたちは自分で一生懸命考える必要はないということになります。これでは意欲は高まりません。

「その後、1988年にある出来事が起こります」といって、ワークシートの穴埋めをさせます。子どもたちは事象として起きた結果を調べるだけです。1988年という年号がなぜ出てきたのかも疑問です。せっかくGDPの成長率のグラフがあったのですから、そのグラフに書かれている出来事は空欄にしておき、急激に変化している部分を指して「この年に一体何が起こったのか?」と問いかけたいところです。
バブルのころの給料袋が立ったといった話も織り交ぜるのですが、授業の本質とは関係ないところで時間を使っています。確かに惹きつけてはいるのですが、子どもたちが考えることにもう少し時間を割くべきでしょう。

授業の後半はサミットに題材をとって、環境問題を考えさせますが、授業の前半とつながりがありません。時間があまりない中での活動でしたので、ちょっと無理があったように思います。伊勢志摩サミットの参加国を子どもたちに問いかけますが、なかなか出てきません。手元の資料にはG7、G10、G20の国名と今回がG7であったことが書かれていますが、子どもたちは答えようとしません。他人事のような顔をしている子どもが目立ちます。発表することに消極的なことが気になります。
子どもたちにサミットに関して問いかけますが、知っている子どもと授業者だけで話が進んでいきます。知らない子どもが活躍できる場面がありません。「○○サミット」と題し、世界が抱える環境問題を考え対策を話し合うことが後半の課題ですが、子どもたちが話し合うための足場がありません。せめて世界が抱える環境問題を共有しておかないと、そこを調べるのに精一杯で、対策を考えることはできません。話し合いが浅いものなってしまいます。
森林問題を話しているグループで、「木を切らないわけにはいかない」というよい意見が出てきたのですが、取り上げられずに話が深まりません。木を切らないわけにはいかない現実に目が向かないのです。砂漠化を取り上げているグループでは砂漠化の原因がわからないので対策の話しようがありません。もっと考えるための資料やそれぞれの国の事情を考えるための情報が必要なのです。サミットと題するのですから、それぞれの国の立場があり、立場を超えようとしていることを意識させたいと思います。環境問題であれば、参加国、参加国以外の立場を意識した議論をさせたいところでした。

グループで話している時に、授業者が口をはさみますが、そうなると仲間ではなく授業者と話をしてしまいます。授業者が子どもたちの話し合いのじゃまになってしまうのです。話を黙って聞いているのはよいのですが、あまり口をはさまないようにすることが大切です。このことを意識してほしいと思います。

常に知識ばかりを問う授業になっていました。「資料から読み取ったことから疑問を持つ」「疑問を解決するために資料を調べる」「事実の間の因果関係を考える」といった社会的な活動がない授業です。社会で求められる力は何だろう、その力をつけるためにどのような課題や活動が必要になるのだろうかと自身に問いかけながら授業を考えてほしいと思います。

この続きは、明日の日記で。
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