★学校に直接携わっている立場と、一歩、学校を離れた立場から観る学校現場は、ひと味違った受け止め方があるはずです。長きにわたり、教員・校長として学校に携わられた中林先生、平林先生、神戸先生、小西先生、和田先生、山田先生それぞれの視点から、現在の学校、教育について、率直な意見を示して頂きます。
【 第11回 】授業の筋肉
〜授業と学び研究所 神戸和敏〜
1.心おぼえ
私が自転車に乗れるようになったのはかなり幼いころだったと思います。自転車に乗る練習をしていたときに、大きな犬に追いかけられ、自転車に乗れるようになったと記憶しています。
中学校1年生のとき、科学部に入部しました。理科室で行う部活動に、何か物足りなさを感じていたある日、理科室の窓から外を眺めていると、テニス部の活動が目に入りました。テニスがどんなものかはまったく知りませんでしたがやってみたくなり、テニス部に転部しました。中学・高校は部活動として日が暮れるまで練習していました。大学時代は、近隣のコートを借りて仲間とゲームを楽しんでいました。教員になってからもテニス部の顧問をやらせていただきました。
2.授業に挑戦して
今年、ある学校で授業をやるチャンスを与えていただきました。市教委、校長、そして退職と約10年以上授業を行うことは、ほとんどありませんでした。不安と楽しみな気持ちを抱きながら授業計画を考え、指導案らしきものを何度も何度も書き直し、本番の日をむかえました。授業が始まる前までは、頭の中にしっかりとしたイメージがあり、授業が気持ちよく流れていきました。しかし、本番はまったく違ったものでした。なんとなくちぐはぐ。
自転車は、一度乗れるようになると、いつ乗っても、さほど不自由なく乗れるものですが、テニスなどのスポーツはそうではありません。頭の中では理解して、頭の中ではプレーしていても、長い時間が過ぎると、思ったようなプレーはできません。校長時代、6年生の小学生とお別れサッカーをやっていて、ボールについて行けず、転んでしまったことがありました。頭の中では、ちゃんとボールに追いつき、格好良くキックをし「さすが、校長先生」と言われているのですが・・・。どうやら、体は動き方を覚えているが(実際には脳で記憶しているのですが)体がついてこない。筋肉が衰え、思うようなプレーができないのではないでしょうか。そんなことを考えると、授業は、自転車に乗るのとは違って、テニスをするようなものなのかもしれません。しばらくやってなかったり、手抜きのトレーニングだったりすると、自分のイメージ通りのプレーはできず、ちぐはぐな授業となってしまうことが多くなるのでしょう。授業には、鍛えられた「授業の筋肉」が必要なのかもしれないと、考えさせられた授業でした。
「授業の筋肉」を鍛えるために、毎日の授業に対して、手抜きをすることなく子供とのかかわりや間を大切にするとともに、教材研究をしっかりと行っていかなければならないということに、退職してから気づかされました。(少々、手遅れでしょうか)
教育公務員特例法第二十一条に「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」としっかり書かれています。つまり、「授業の筋肉」を鍛えなさいということでしょう。
3.授業参観に臨み
学校を訪問し、授業研究に参加させていただく機会があります。授業と同じように、授業参観にも何か筋肉のようなものがあるように思えます。毎時間のように授業を観ていると、ポイントが明確になり、授業者への支援も充実したものとなることが多くあります。しかし、一か月くらい授業参観する機会がないと、なんとなくペースがつかめず、明確さに欠け、スッキリしない支援になることがあります。
授業を観るという力を身につけていくために、「授業を観る筋肉」を鍛える必要があると思います。10回より100回、100回より1000回と授業を観る回数を増やすことが第一歩かもしれません。
次期学習指導要領の改訂のポイントともなっている「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」を実現していくためにも、教務主任や教頭・校長の授業参観による支援が不可欠になるのではないでしょうか。
授業を行っている先生方は、「授業の筋肉」を鍛え、教務主任や教頭・校長は、「授業を観る筋肉」を鍛えていただきたいと思います。
学校を離れてからでは、これらの筋肉は鍛えることは難しいと思います。
日々衰えていく筋肉を、何とか維持できるようトレーニングをしていこうと思っています。
(2017年11月13日)