★ありがたいことに再び「愛される学校づくり研究会」のコラムに連載させていただく機会を得た。教育学部の教員となったこともあって、36年間の公立校教諭と管理職の経験を踏まえて、自分なりの「教師論」を書かせていただくことにした。話題があちこちに飛ぶコラムとなるが、月1回おつきあいをいただければ幸いである。
【 第12回 】発言者以外を見ることで授業は変わる
いくつかの学校から講師要請を受け、たくさんの授業を参観している。どの授業からも学ぶことは多く、よい機会をいただいていることに感謝するばかりだ。
授業を見た後は、一言コメントとなる場合が多いが、その中で、ベテラン教師にも若手教師にも、確認してもらうことがある。それは「授業とは何か」ということだ。
このことから、玉置が見ている授業が相当悪いのだと勘違いされては困る。どの授業もよく考えられており、感心する授業が多い。その上で、このことを改めて確認している。
それはなぜか。
極端な表現をすると、教師が「正誤判定者」になってしまい、正解が出れば、教師は授業を次に進めるし、そうでなければ、他の子どもに問うということが見られるからだ。授業を進めるには、原則子どもたちの合意が必要であって、一人の子どもが正解を発表しただけで、授業を進めてしまってはいけない。正誤判定するのは教師ではなく、あくまでも子どもでありたい。教師が正誤判定する場面は、往々にして、子どもにしっかり話し合わせるべき場面で起こりがちだ。教師が求める考えを子どもが出したら、すぐに飛びついてしまう気持ちは分かるが、戒めておきたい。
では、そうならないために教師はどのようなことを心掛けたらよいか。それは「発言者だけではなく、それ以外の子どもを見ること」だ。
このことを意識すると、発言者以外の子どもがいかに多くの情報を表情や動きで発信しているかをよくつかめるようになる。
級友の発言を聞きながら、頷いている子ども、首をかしげている子ども、自分が書いたものを見直している子ども、メモをしている子ども、教科書を見直している子ども、友達に話しかけている子どもなど、子どもたちは様々な動きをしているはずだ。表情を変えず、身動きもせずという子どもは皆無だ。この情報を授業で生かさない手はない。
「途中で、あれっ?という感じで首をかしげたのを見たのだけど、何か思ったでしょう。それを話してほしいな」
「教科書を見直したね。どこを見ようとしたの」
「友達に話したくてしかたがなかったようだね。何を話していたかを教えて」
など、意図的指名ができる情報が、教室にはいっぱいあふれているはずだ。授業の核心となるところについては、ぜひ、多くの子どもに考えを聞くなり、発言させるなりして、学級全体の合意形成を図った上で、授業を次に進めたい。
「どうですか?」
「いいで〜す」
というような形式的な正誤判定で授業を進めることだけは止めるべきだ。
(2017年10月10日)