★学校ICTはどこに向かうのか、そこにどう向かっていくべきなのか、研究者や学校経営、教育課程や情報教育担当者、更に学校の情報化を支えるサポート業者等のそれぞれの立場から、豊福先生、芳賀先生、水谷先生、川本先生、古田先生、EDUCOM社より情報発信して頂きます。考え方は一つでないところが本研究会のよさです。
【 第2回 】こだわるのは教員主導の教え方か? それとも、学習者中心の学び方か?
〜国際大学GLOCOM 豊福晋平〜
前回続き
4.学習者端末と一斉授業は相性が良くない
一斉授業は、かつて教育環境が貧しかった時代に情報を効率的に伝達する方法として編み出され、長らく継承されてきた手法です。電子黒板や実物投影機などの提示型機材は、板書や掛け図の延長ですから一斉授業の枠組みを何も変えることがありません。
しかし、ICTの学習者端末を使えば、教員の指示がなくても、ネットからいくらでも情報が引き出せますから、教員側と学習者側で展開されるはずの濃密な相互作用(あるいは一方的な情報伝達と受容)の関係を壊してしまいかねません。
教員の意図通り全ての学習者端末を制御しようとすれば教員の負荷が増え、学習者への介入が多くなり、授業展開はしんどくなります。学習者にしてみると、普段なら好き勝手使える端末に余計な制限がかかって、資料を一方的に見せられたり、子どもを馬鹿にしたような単純操作を強要されたり、といった事にがっかりするでしょう。
日本の国内では正当なスタイルのように流布されていますが、実際には学習者端末と一斉授業の相性は最悪で、こんな無理矢理の力技の授業スタイルが長続きするとはとても思えないのです。
5.一斉授業からICTによる学習の個別化と高度化へ
2016年5月10日付各新聞では文科大臣の「脱ゆとり宣言」がちょっとした話題になりました。「ゆとり」か「詰め込み」か、の二項対立的な議論ではなく、「知識量を削減せず、学習過程の質的改善(アクティブ・ラーニング)を行う」両方を求めることがポイントです。21世紀型スキルやキーコンピテンシー議論でも、基礎的な知識理解と応用的発展学習の双方が重視されているので、これは世界的なトレンドを踏まえたものだと言えます。
ただ、頭が痛いのは逼迫する授業時数です。これまでなら、基礎基本の徹底も応用的発展学習も(一斉)授業改善でなんとかしようとなるのですが、もっと大胆な取り組みで時間当たりの効率を上げないと、中途半端になってしまいます。一斉授業は工夫次第で理解度や達成度を上げることは可能ですが、本質的には落ちこぼれと吹きこぼれの課題から逃れられませんし、授業への参加(規律・態度)は学習者主体性の放棄と教員への依存を強化してしまいます。
実は、こうした状況で解決のカギを握っているのが、学習者中心型の学習者側端末の活用です。基礎基本の徹底で最も効果的なのは「学習の個別化」です。学習者1人1台でアダプティブ・ラーニングの枠組みを使えば、個人の理解度・達成度に合わせて学習のレベルや進捗を自在に調整して学習効率を向上させることが出来ます。一方で、応用的発展学習の「学習の個性化・協働化・社会化」には学習者側端末が文具として重用されるでしょう。クラウドサービスでグループワーク資料を共有したり、長文のレポートを提出・採点したり、サイトを作って成果を公表したり、といった活動を効率良く展開するには最適です。
6.教え方にこだわるか、それとも、豊かな学びを求めるか
したがって、学校ICTへの問いは、単に環境や物量の差をどう埋めるかという問題ではなく、むしろ、一斉授業を前提とした「日本型ICTモデル」で教え方にこだわるのか、それとも、「先進国型ICTモデル」の豊かな学びを求めるのか、の究極の選択を迫っているように見えます。日本型の教え方にこだわっている限り、ICTが学校の学びのなかで重要な役割を果たす事はなく、世界的なトレンドからも加速的に脱落するでしょう。
テクノロジーが教育に与えるインパクトは私達が想像する以上に大きいものですし、これまで大きな動きのなかった日本の教育界に大激震が起こるのは、そう遠い将来のことであるとは思えません。現に、これまでは情報化に対して極めて冷淡だった高偏差値中高一貫校の対応がここ数年で変わってきました。2020年を目処に予定されている大学入試改革(高大接続議論)は現中2学年から影響を受けるためです。これまでの学校ICT議論とは異なったレベルでICTを用いた高度な学習が模索され、教育関係者を驚かせるような事態が生じることを予感せずにはいられません。
ぜひ、学校ICTの未来を考えるうえで、こうした俯瞰的な視野で一度捉えていただきたいと思う次第です。
(2016年6月27日)